山崎 光男
6月25日(土)夕刻、東京からAさん(88歳)一行6名がウランバートル空港に到着した。Aさんは65年前、ノモンハンで多くの戦友を失った。他のメンバーも60歳を越えた年配の方々で共にノモンハン慰霊の旅を志してきた。
私は予てから、この旅を企画したETT社のアンハー専務から「山崎さん、一緒に行きませんか?」と度々誘われていた。
「それはよいですね。絶好の機会です」と気軽に返事をしておいた。私自身は目的地まで片道千キロと知ってはいたが、舗装道路を高速で走りぬけ、途中のホテルで熱いシャワーや食事をいただきながら快適な旅ができるものと思い込んでいた。
わたしの返事があまりに軽く感じられたのであろう。アンハーは本気にはしていなかった。
当初、この旅は全区間を車で往復する予定であったが、ウランバートルからチョイバルサン(3分の2行程ほど)まで往復国内便が出ることになった。当然、参加者は喜んだ。
ところが途中で往路だけしか便が出ないということになった。そして、出発の間際になって、さらに往路も便が欠航となった。普段は温厚なアンハーも激怒してしまった。航空会社は何の謝罪もしなかったらしい。日本ならば補償問題になっただろう。
最初の計画に戻すしかない。アンハーの決断は早かった。あいかわらず私は、起伏に富んだ草原の道・2千キロを走行するということが、どういうことか全く理解していなかった。
出発を目前に控えて「山崎さん、明日出発です。本当に行くんですね?」とアンハーが念を押した。「あー、行きますよ。何時に出発ですか?」「11時ごろになるでしょう」と彼が応じた。
翌朝8時に起床して朝食を準備し始めたとき、彼から携帯電話に連絡が入った。
「今から出発です。山崎さんのアパートに来ています。」
私はあわてて洗面具と着替えをバックに突っ込み、アパートを飛び出した。「これもモンゴル式なのだろう」と自問しつつ。
日本からの一行はフラワーホテルに昨夜到着していた。Aさんの他に男性が一人、残り4人は女性であった。新彊ウイグル自治区のウルムチやタクラマカン砂漠に行ったことのある女性もいた。それなりに旅慣れした方々なのであろう。
私は急いでホテルのトイレに駆け込み朝の用便を済ました。目の前にトイレットペーパーが1巻あった。私はそれをバックに入れた。草原で済ますときには必需品とな