* 異体字


[16] 
「[V[广永]]」表記の[[板碑]]が[[本州]]や[[北海道]]で発見されています。
[SRC[>>2]]


- [144] [[網走板碑]]: 广永 ([[応永]])



[143] 
[[東京教育大図書館]]本
[CITE[散歩漫録]]
の[[板碑]]を写した絵
「[V[[YOKO[[LINES[一][厂]]]]永八年]]」
「[V[__&&swc83(正)&&__月__&&swc163(卄)&&__五日]]」
(かなり崩れた[[字形]])
[SRC[>>142 p.一五]]

応永か? (実物にこうあったのか摩耗して読めなかったのか不明)




[REFS[

- [2] [CITE[[V[北海道北見国網走発見の板碑についての私見]]]],
[CITE[[[続仏教考古学研究]]]], pp.[V[一一三]]-[V[一二六]]
- [142] [CITE[板碑の名称]],
[CITE[[[続仏教考古学研究]]]]

]REFS]





[307] 
[CITE@ja[拾萬字鏡さんはTwitterを使っています 「年号の応永は35年まであったが、その長い応永の歴史の中では「广永」と略して書く例も見られる。現在のような「応」の略字はこの頃には確認できず、「應」かそれを崩して書いたようで、画数が複雑だった。」 / Twitter]], [TIME[2022-01-07T01:24:17.000Z]], [TIME[2022-01-07T01:30:37.911Z]] <https://twitter.com/JUMANJIKYO/status/1479073162705125380>

[583] 
[CITE@ja[拾萬字鏡🐦さんはTwitterを使っています: 「まだ用例採取未完の下書きで恐縮だが「廃」も「广」で略した例があると又さっき教えていただいたのでまだまだあるんじゃない?確認次第追記。 https://t.co/0CWnqHqaGz」 / X]], [TIME[午後9:10 · 2023年8月8日][2023-08-08T12:10:37.000Z]], [TIME[2023-08-09T01:48:33.000Z]] <https://twitter.com/JUMANJIKYO/status/1688885421089120257/photo/1>


[537] 
[TIME[2022-12-25T09:36:57.400Z]]
<https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/29/29528/21407_1_%E7%9F%B3%E5%B7%BB%E5%B8%82%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A.pdf>


#page=32 #page=33 广永 (応永)


[1] 他の广、厂の事例について、[[元号名]]参照。

-*-*-

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [3] 
[DATA(.label)[永井・岩の沢 [[板碑]]]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]__&&swc575(广永)&&__廿五年二月日]]]]」 ([[明朝体]])
-- [4] 「[V[「__&&swc575(广永)&&__」は「广永 (応永)」の省略]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>637]]

]ITEMS]


[5] >>637 は[[翻刻]] (>>3) および説明文 (>>4) で「广永」を[[合字]]で1文字扱いにした[[明朝体]]字形を
(おそらく[[作字]]して) 示しています。

[6] >>637 掲載の拓影はやや不鮮明で細部はわかりにくいですが、
より原形を尊重して[[翻刻]]するなら
「__&&swc576(广永)&&__」
が近いかもしれません。


[7] 
「__&&swc575(广永)&&__」
より
「__&&swc576(广永)&&__」
の方が若干[[アドホック]]感はありますが、
前後の文字の配置を見ると各文字のそれぞれはまとまって独立していますから、
それと比較すると、
「广永」の2文字がたまたま勢いでくっついてしまったというよりは、
もはや1文字と化していたとみなしたいところです。

[8] 
>>637 #page=81 の[[板碑]]にも
「[V[年号不確「__&&swc575(广永)&&__」か。]]」 ([[明朝体]])
と注釈があります。翻刻では「[V[[ASIS[応永][四角囲み]]]]」 ([[明朝体]]) となっています。
拓影は不鮮明で判読困難。

[12] 
>>637 #page=88 の[[板碑]]も[[翻刻]]は「[V[応永]]」ですが、
拓影は「__&&swc575(广永)&&__」のようにも見えます。

[13] 
>>637 #page=87 の[[板碑]]は拓影だと字形の読取りが難しいですが、
文字の配置的に合字に近い状態になっていそうに見えます。

[REFS[

- [637] 
[CITE[[V[桃生•山内首藤氏と板碑]]]],
[[桃生町教育委員会]],
[V[平成十一年三月十一日発行]],
<https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/29/29561/21436_1_%E6%A1%83%E7%94%9F%E3%83%BB%E5%B1%B1%E5%86%85%E6%B0%8F%E3%81%A8%E6%9D%BF%E7%A2%91.pdf#page=68>

]REFS]

[FIG(data)[ [575] [[glyph]]

:see:[[Wiki//外字]]
:id:[CODE[swc575]]
:downgrade:⿸广永
:ids:⿸广永
:demo:__&&swc575&&__

]FIG]

[FIG(data)[ [576] [[glyph]]

:see:[[Wiki//外字]]
:id:[CODE[swc576]]
:downgrade:⿸广永
:ids:⿸广永
:demo:__&&swc576&&__

]FIG]

-*-*-

[17] 
[CITE@ja-JP[甲斐の石造美術]], [[植松又次]], [TIME[1978.12][1978]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-23T06:18:18.472Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12423973/1/94> (要登録)


[566] 
[TIME[2025-11-19T10:07:15.000Z]]
<https://tsuru.repo.nii.ac.jp/record/2000111/files/%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%96%87%E6%9B%B8%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%E3%80%80%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E4%BF%9D%E5%AD%98%E3%81%AB%E5%90%91%E3%81%91%E3%81%9F%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E7%9A%84%E7%A0%94%E7%A9%B6%20.pdf>
#page=18

おうゑい


[30] 
[CITE@ja-JP[多摩ニュータウン遺跡 昭和58年度 /第6分冊]], [[東京都埋蔵文化財センター]], [TIME[1984.3][1984]], [TIME[2026-01-20T01:30:11.000Z]], [TIME[2026-02-06T14:42:18.509Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12255776/1/93> (要登録)


* 改元伝達

[SEE[ [[改元伝達]] ]]

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [9] 
[DATA(.label)[樫崎・内舘 [[板碑]]]]
「[DATA(.text)[[V[応永元年八月十七日]]]]」
[SRC[>>637 #page=85]]

]ITEMS]

[10] >>9 [[応永]]は[TIME[明徳5(1394)年7月5日][kyuureki:1394-07-05]]に[[改元]]。
仮に[[日付]]が建立日近くだとすると[[改元]]の約1ヶ月半ということに。

[11] ただ >>9 の拓影は細かいところまでよく読み取れないものの、「応 (應)」
よりも「康」のようにも見える。
[[康永]]は[TIME[北朝暦応5(1342)年4月27日][kyuureki:1342-04-27]]の[[改元]]。

* 干支不一致

[14] 
[[日本国]][[東京都]][[府中市]]宮町旧在 板碑 ([[府中市郷土の森博物館]]所蔵)
應永[LINES(smaller)[二][二]]年[LINES(smaller)[丁][亥]]正月十一日
[SRC[>>390 p.[L[8]]]]

[15] 丁亥は丁丑の誤り。 [SRC[>>390 p.[L[8]]]]

[REFS[

- [390] [CITE[[[中世東国と年号]]]]

]REFS]

* 応永三八年銘

- [19] [CITE@ja-JP[研究紀要 (8)]], [[埼玉県立歴史資料館]], [TIME[1986-05]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-16T09:03:01.505Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7952165/1/66?keyword=%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E4%B8%89%E5%85%AB> (要登録)
-- [20] 拓影 白黒写真 低解像度
- [21] 
[CITE@ja-JP[武蔵国宝積院と修験道]], [[根岸芳太郎]], [TIME[1987.8][1987]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-16T09:03:43.155Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13227622/1/30?keyword=%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E4%B8%89%E5%85%AB> (要登録)
- [22] 
[CITE@ja-JP[新編埼玉県史 資料編 9 (中世 5 金石文・奥書) 本編]], [[埼玉県]], [TIME[1989]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-16T09:04:33.229Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9644386/1/117?keyword=%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E4%B8%89%E5%85%AB> (要登録)
- [18] [CITE@ja-JP[研究紀要 (16)]], [[埼玉県立歴史資料館]], [TIME[1994-03]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-16T09:02:51.191Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7952173/1/80?keyword=%E5%BF%9C%E6%B0%B8%E4%B8%89%E5%85%AB> (要登録)

[23] 
「[V[応永三八[LINES(smaller)[丁][酉]]六月廿九日]]」とあることについて、
「丁酉」と銘文の他の部分は[[江戸時代]]の改竄と専門家は判断しています。 [SRC[>>18]]
[CH[永]]の[[字形]]が[[元号名]]は[[中世]]、銘文の他の部分が[[近世]]の[[字形]]で、
改竄の確証とされます。 [SRC[>>19]]

[24] 
応永 3 × 8 = 24 年が丁酉で、改竄後は応永24年丁酉を意味したものです。
[SRC[>>18, >>21, >>22]]

[25] 
[[埼玉県立博物館]]の館長の鑑定書によると、
二四は昔からいんぎにしてきらっているので三八と書いているのだとのことです。
[SRC[>>21]]

[26] 
[[埼玉県立歴史資料館]]の論文によると、
改竄者が応永38年は[[延長年号]]となることから 3 × 8 = 24 
にこじつけて応永24年だということにしたのだとのことです。
[SRC[>>18]]


[27] 
ところで[[漢数字]]の[[位取り記数法]]が出現するのは[[近世]]の途中からであり、
[[中世]]だとすると38は「三十八」と書かれなければなりません。

[28] 
改竄の意図と範囲はともかくとして、[[中世]]に遡る銘文であればもともと[[乗法紀年法]]だったと解釈するほかありません。


;; [29] 他には応永三年八月の省略形の可能性もありますが、ここでは[[月日]]が後に出てくるので否定されます。




* メモ