[40] 
[DFN[[CITE[勝山記]]]]と[DFN[[CITE[妙法寺記]]]]は、
[[中世]]の[[日本]][[甲斐国]]の歴史記録です。

[41] 
[[戦国時代]]の[[甲斐国]]の社会の様子を伝える貴重な史料として歴史研究に活用されています。

* 諸本


[56] 
[CITE[勝山記]]・[CITE[妙法寺記]]の諸本の系統関係は、
平成14年の[[論文]]
[CITE[「勝山記」・「妙法寺記」の諸本について]]
で詳細に調査されています。
[SRC[>>55]]

[57] 
それ以前は[CITE[勝山記]]系と[CITE[妙法寺記]]系の2大系統 (とその混合も含めた3系統)
に分類されていましたが、
[CITE[勝山記]]と同じ系統で[CITE[妙法寺記]]と題した本があったり、
[CITE[勝山記]]と題する本が2系統に分かれるなど、
混乱の元となることから、
[CITE[「勝山記」・「妙法寺記」の諸本について]]
では
a系統、
b系統、
c系統、
d (その他)
に区分しています。
[SRC[>>55]]

[77] 
>>55 は良好な本文を得る方法を次のように述べています。 
[SRC[>>55]]

- [78] [[a-1]] を底本とする。
- [79] 巻頭の欠損を [[a-2]] で補う。
- [80] 巻末の欠損を b系統で補う。
-- [81] [[d-1]] で校合する。
- [82] 永禄4年の途中まで: a-2, c系統と校合する
- [83] 暦応元年以降: b系統を参照する
- [84] 文正元年以降: c系統とも校合する
- [85] d諸本も参照する
- [87] b系統: [[b-1]] を[[底本]]に [[b-3]], [[b-5]] を校合する
- [86] c系統: [[c-1]] を[[底本]]に [[c-2]], [[c-3]] を校合する

** a系統

[74] 写本 [[a-1]] が最善本と考えられています。 [SRC[>>55]]

[75] 
[CITE[[[山梨県史]] 資料編六 中世三上 県内記録]]
に、
[[a-1]]
の全文と、
巻頭の欠損を [[a-2]] で補い、
巻末の欠損を [[b-3]] で補ったもの
[SRC[>>99]]
があります。
[SRC[>>55]]

[REFS[

- [97] [CITE[[[山梨県史]] 資料編六 中世三上 県内記録]]
-- [99] [CITE[[V[勝山記]]]], pp.[L[[I[195]]]]-[L[[I[245]]]]

]REFS]



- [59] (a-2)
[CITE@jp[小佐野正秀覚書]], [[独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN]], [TIME[2024-01-29T13:41:17.000Z]] <https://www.digital.archives.go.jp/img.pdf/1233578>

** b系統

[70] 
b系統は[CITE[甲斐国志]]編纂時にa-1の書写で成立した可能性が高いと考えられています。
ただしb系統の諸本はその祖本から派生したものと考えられています。
[SRC[>>55]]

[66] 
[DFN[b-3]]: [V[堀内氏所蔵「勝山古記」]] [SRC[>>55]]。

[65] 
[[b-3]] は
27.5 × 190.0 cm、
表紙・本文60丁・裏表紙、
「清水氏蔵書」朱印、
題箋「勝山古記  全」
とされています。
[SRC[>>55]]

[67] 
現在[[日本国]]の[[山梨県立博物館]]の所蔵品に[[堀内亨]]収集資料としてそれらしきものがあり、
「堀内氏」とは[[堀内亨]]のことと考えられます。博物館収納前には[[堀内亨]]の個人所有だったのでしょう。

[68] 
「清水氏」は未詳とされます。 [SRC[>>55]]

[69] 
>>63 では59帖、 >>65 では60丁と表紙裏表紙とされていて、微妙に合わないのですが、
数え方の違いでしょうか。


[71] 
[CITE[甲斐国志]]の成立は[TIME[文化11(1814)年][1814]]11月です。
その[CITE[勝山記]]への言及は[TIME[文化3(1806)年][1806]]の稿本まで遡れるとされます。
[SRC[>>24]]
編纂事業は[TIME[享和3(1803)年][1803]]に開始されていました。
[SRC[>>72]]
b系統の祖本が編纂作業のどのタイミングで作られ、
どのような役割を果たしたのか明らかではありませんが、
[[文化]]年間初期なのでしょう。

[73] 
[[b-3]] から [[b-4]] が派生したとされます。
[[b-4]] ([[静嘉堂文庫]]所蔵[CITE[勝山記]]) は[RUBYB[[[色川三中]]][[TME[1801]]-[TIME[1855]]]]の旧蔵品です。
[SRC[>>55]]



[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[63] 
[CITE@ja[山梨県立博物館:収蔵資料検索]], [TIME[2024-01-29T14:17:41.000Z]] <http://wwws.museum.pref.yamanashi.jp/Art/detail/1547>
]FIGCAPTION]

>
,*法量(縦:mm),    275
,*法量(横:mm),    190

>
,*備考,    ・頁数59帖 ・題箋「勝山古記 全」 ・「清水氏蔵」朱印。 ・前書に、「源朝臣定能」(「甲斐国志」を編纂した松平定能)が、「都留郡勝山記」を書写したことが記されている。

>
,*資料群名,    堀内亨氏収集資料 
]FIG]

- [72] 
[CITE@ja[[[甲斐国志]] - Wikipedia]], [TIME[2024-01-16T06:24:47.000Z]], [TIME[2024-01-30T06:41:53.881Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E6%96%90%E5%9B%BD%E5%BF%97>



]REFS]

** c系統

[76] 
[CITE[[[山梨県史]] 資料編六 中世三下 県外記録]] 
に、
[[c-1]] の全文に [[c-3]] 校合の結果を注記したもの [SRC[>>100]] があります。
[SRC[>>55]]

[REFS[

-
[98] 
[CITE[[[山梨県史]] 資料編六 中世三下 県外記録]]
-- [100] 
[CITE[[V[妙法寺記]]]], pp.[L[[I[256]]]]-[L[[I[280]]]]

]REFS]

** その他、系統不明


*** [CITE[勝山記]]

[21] 
[CITE@ja-JP[勝山記と原本の考証]], [[流石奉]], [TIME[1985.6][1985]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-29T10:52:33.006Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9539750/1/14> (要登録)

- [94] 
[CITE@ja-JP[都留市史 資料編 '''['''4''']''' (古代・中世・近世Ⅰ)]], [[都留市史編纂委員会]], [TIME[1992.3][1992]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-01T15:08:50.661Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9540892/1/103> (要登録)
-
[89] 
[CITE@ja[b025_1.pdf]], [TIME[2003-02-04T07:25:30.000Z]], [TIME[2024-01-31T07:52:18.043Z]] <https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/tyusei/pdf_b/b025_1.pdf>
-- [CITE[勝山記]]と[CIT[妙法寺記]]の対照


[337] 
[CITE@ja-JP[甲斐叢書 第8巻]], [[甲斐叢書刊行会]], [TIME[昭和10][1935]], [TIME[2024-11-28T09:48:19.000Z]], [TIME[2024-12-15T01:55:35.389Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1209134/1/155>

[338] >>337 
昭和10年4月[[赤岡重樹]]校本[CITE[妙法寺年録]]。
勝山浅間神社本を旧山梨県志編纂会本謄写と続史籍集覧本を校号。

[339] >>8 : 諸本を校合したもの


*** [CITE[妙法寺記]]

[1] [CITE@ja[[[続群書類従]]. 第30輯ノ上 雑部 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[塙保己一]], [TIME[大正12-14][year:1925]], [TIME[2021-02-28T04:44:45.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936497/145>

[16] [CITE@ja-JP[史籍集覧 〔7〕 相京職鈔,妙法寺記]], [[近藤瓶城]], [TIME[明26-31][1898]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-29T10:38:55.543Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/769648/1/48>

[17] [CITE@ja-JP[信濃史料叢書 下巻]], [[信濃史料編纂会]], [TIME[1969]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-29T10:42:17.486Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537179/1/343> (要登録)


[9] [CITE@ja-JP[新編信濃史料叢書 第8巻]], [[信濃史料刊行会]], [TIME[1974]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-29T05:53:20.608Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537187/1/13> (要登録)




[18] 
[CITE@ja-JP[歴代残闕日記 第13巻(巻58-60)]], [[黒川春村]], [TIME[1970]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-29T10:45:31.142Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12208288/1/122> (要登録)

嘉永の序文あり


[22] 
[CITE@ja-JP[鶯宿雑記 巻362-363]], [['''['''駒井乗邨''']''']], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-29T10:49:31.500Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/10300928/1/55>

[23] 
[CITE@ja-JP[甲斐志料集成 第7]], [[甲斐志料刊行会]], [TIME[昭和8][1933]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-29T10:50:23.113Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1913095/1/12> (要登録)

[377] 
[CITE@ja[NAJDA-174-0228_妙法寺記2.pdf]], [TIME[2020-09-30T01:25:26.000Z]], [TIME[2026-04-10T10:17:43.742Z]] <https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/08/NAJDA-174-0228_%E5%A6%99%E6%B3%95%E5%AF%BA%E8%A8%982.pdf>


*** d類

- [343] 
'''d-2''' [CITE[[DFN[年代古事記]] 全]]
-- [344] 
[[明朝体]]翻刻:
[CITE@ja-JP[山北町所在史料目録 第3集]], [[山北町地方史研究会]], [TIME[1976]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-07T12:27:16.454Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12163221/1/50> (要登録)

[345] >>55 は原本未調査であることから d に分類しています。
'''d-2''' と '''d-3''' 
は同系統かと推測されています。



* 成立

[26] 
[CITE[妙法寺記]]系統と[CITE[勝山記]]系統の存在は[[江戸時代]]から知られてきましたが、
[[昭和時代]]中期頃に両系統の関係が積極的に研究されるようになり、
[[平成時代]]半ば頃まで論争が続きました。

[27] 
[[平成時代]]初頭の[[末柄豊]]の研究でおおよその成立過程が解明され [SRC[>>14]]、
その推測に基づく現地調査で原資料が発見されました [SRC[>>15]]。

;; [28] 成立過程の概略は示されたとはいえ、細部に未だ不明な点が残っています。
しかしそれ以後大きな進展はなさそうなのが残念です。

[30] 
[[末柄豊]]によれば、
[CITE[勝山記]]と[CITE[妙法寺記]]の共通の祖本は、
[[常在寺]]の[[衆中]]によって書き続けられた年録でした。
[[明応]]、[[永正]]の頃の記録者は、
[[妙法寺]]の[[住持職]]を努めた後に[[常在寺]]に移った[[日国]]でした。
[[天文]]の頃の記録者は、
[[吉田]]の寺にいた[[日将]]でした。
その他の時代も含めて[[常在寺]]を拠点とする[[日国]]の法脈の[[衆中]]の記録と考えられ、
[CITE[常在寺衆中記]]
と呼ぶべきものでした。
[SRC[>>14]]

[32] 
平成6年、
[[常在寺]]所蔵の[[聖教]][CITE[教機時国教法流布五段鈔]]写本の末尾に、
福徳2年辛亥と延徳4年壬子の2年分のメモ書きがあることがわかりました。
これは[DFN[[CITE[日国覚書]]]]と通称されています。
[SRC[>>15]]

[33] 
[CITE[日国覚書]]は、[CITE[勝山記]]の該当年の一部分と対応関係があり、
[CITE[日国覚書]]を約[FRAC[1][3]]に要約したものが[CITE[勝山記]]の該当部分となります。
つまり[CITE[勝山記]]の祖本は[CITE[日国覚書]]や同様の他の1年もしくは数年の断片的な記録を編集したものだったと判明しました。
[SRC[>>15]]

[34] 
この[[聖教]]の表紙には「日国之筆」と題䇳が付されています。
しかし[[堀内亨]]は、
[CITE[日国覚書]]の辛亥年と壬子年は異筆ながらも同一人物によると推測し、
内容から[[日国]]によって記されたとしつつも、
[[聖教]]本文、奥書、[CITE[日国覚書]]を同一筆跡とし[[日国]]によると断定することは、
更に検討が必要だとしています (肯定も否定もしていません)。
[SRC[>>15]]

[35] 
日本語版[CITE[ウィキペディア]]は、[[聖教]]と[CITE[日国覚書]]は[[同筆]]と鑑定されていると書いています。
[SRC[>>3]] 出典は不明です。また、
[[柴辻俊六]]が[CITE[日国覚書]]を[[日国]]の筆と断定するのは慎重にするべきと述べているとも書いています
[SRC[>>3]]。

[370] 
>>368 は[CITE[日国覚書]]に[[日国]]に関する記事が散見されることから、
[[日国]]本人が書いたものでないことは明らかで[CITE[日国覚書]]は写本であって原本ではないと断定しています。


[39] 
[CITE[日国覚書]]や同様の年録も、日々の記録をもとにして書かれたものと推測できます。
[SRC[>>15]]


[REFS[

- [12] 
[CITE[[[山梨県史研究]]]]
-- [7] [CITE[県史研究]]
([TIME[2007-04-13 02:43:29 +09:00]])
<https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/asukabekkann/kensi/kenkyu.html>
--- [10] 消滅確認 [TIME[2024-01-29T10:30:08.100Z]]
-- [11] 
[CITE[県史研究]], [TIME[2024-01-29T10:29:49.000Z]], [TIME[2018-11-07T00:46:25.959Z]] <https://web.archive.org/web/20181107004614/http://www.geocities.jp/asukabekkann/kensi/kenkyu.html>
--
[13] 
[CITE[[[山梨県史研究]] -第3号-]],
平成7年3月発刊 	 
---
[14] 
[DFN[[CITE[[V[『勝山記』あるいは『妙法寺記』の成立]]]]]],
[[[V[末柄豊]]]],
pp.[L[1]]-[L[19]]
---- 
[NOTE[

[31] 末尾の[CSECTION[[V[付記]]]]によると、
この論文は[V[一九九一年度]] (平成3年度) の[[勝俣鎮夫]]の演習での発表をまとめたもの。
その後 ([TIME[平成6(1994)年11月][1994-11]] [SRC[>>15]])
の[[常在寺]]の調査を踏まえて訂正が必要な箇所があるもの、
改めずにそのまま公開されたとのこと。

]NOTE]
---
[15] 
[DFN[[CITE[[V[[WEAK(quarter)[史料紹介]] 河口湖町常在寺所蔵史料]]]]]],
[[[V[堀内亨]]]],
pp.[L[20]]-[L[29]]
---- [37] 
[[聖書]]の[[奥書]]と[CITE[日国覚書]]の全文の[[翻刻]]あり。
---- [38] 
それに相当する部分の白黒写真あり。小さな文字の字形細部まで完全には読み取れないものの、
小さな文字も含め文字を読み取れる程度の大きさ。
--
[54] 
[CITE[[[山梨県史研究]] -第10号-]],
平成14年3月発刊 	 
---
[55] 
[DFN[[CITE[[V[「勝山記」・「妙法寺記」の諸本について]]]]]],
[[[V[渡邉正男]]]],
pp.[L[31]]-[L[55]]
-
[259] 
[CITE@ja-JP[[[信濃]] '''['''第3次''']''' 49(12)(575)]], [[信濃史学会]], [TIME[1997-12]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T04:25:20.525Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/6070057/1/19> (要登録)
-- [492] 
[CITE[[[[V[戦国期の私年号について[BR[]][WEAK(smaller)[―「福徳」「弥勒」「命禄」を中心として―]]]]]]]],
[[[V[渡部恵美子]]]],
pp.[L[889]]-[L[906]]
--- [221] [[聖書]]の[[奥書]]と[CITE[日国覚書]]の全文の[[翻刻]]あり。
実見して >>15 を参照しつつ作成したとのこと。
- [324] >>258 にも[CITE[日国覚書]]の翻刻あり。 (奥書は無し)
- [368] [CITE@ja-JP[都留市史 通史編]], [[都留市史編纂委員会]], [TIME[1996.3][1996]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-15T15:07:04.657Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9541073/1/87> (要登録)
-- [369] 低画質の白黒写真ながら
[CITE[日国覚書]]
の一部の掲載あり


]REFS]

* 研究史

[2] [DFN[[CITE@ja[勝山日記と妙法寺記]]]], [[丸子亘]], [TIME[2021-10-20T09:17:51.000Z]] <https://rissho.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2248&item_no=1&page_id=13&block_id=21>

[92] 
[CITE@ja-JP[戦国史料叢書 第2期 第13]], [[人物往来社]], [TIME[1967]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-01T15:05:45.388Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2973949/1/6> (要登録)


- [24] [CITE@ja-JP[勝山記と原本の考証]], [[流石奉]], [TIME[1985.6][1985]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-29T10:51:11.307Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9539750/1/8> (要登録)
- [5] [CITE@ja-jp[勝山記と原本の考証 | 流石奉 |本 | 通販 | [[Amazon]]]], [TIME[2021-12-22T03:34:15.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4336006849/wakaba1-22/>


[8] [CITE@ja-JP[妙法寺記の研究 : 富士山麓をめぐる戦国時代の古記録]], [[萱沼英雄]], [TIME[1962]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T04:48:32.254Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2981315/1/1> (要登録)

-
[4] [CITE[b018_2.pdf]], [TIME[2003-02-04T07:25:24.000Z]], [TIME[2021-12-22T03:33:52.903Z]] <https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/tyusei/pdf_b/b018_2.pdf>
-
[6] ([TIME[2003-02-04 16:25:02 +09:00]])
<https://www.lib.city.tsuru.yamanashi.jp/contents/history/another/tyusei/pdf_b/b014_4.pdf>
- >>89


[88] 
[CITE@ja-JP[信濃 '''['''第3次''']''' 44(6)(510)]], [[信濃史学会]], [TIME[1992-06]], [TIME[2024-01-30T01:46:57.000Z]], [TIME[2024-01-30T07:54:54.643Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/6069992/1/2> (要登録)

[90] 
[CITE@ja-JP[信濃 '''['''第3次''']''' 49(12)(575)]], [[信濃史学会]], [TIME[1997-12]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-01T12:48:38.402Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/6070057/1/19> (要登録)

[3] [CITE@ja[勝山記 - Wikipedia]]
([TIME[2021-10-06T04:13:06.000Z]], [TIME[2021-10-20T09:19:58.146Z]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B1%B1%E8%A8%98>


* 暦

[96] 
[CITE[勝山記]]諸本は[[編年体]]形式で、各[[年]]に対して記事が書かれています。
[[年]]は[[元号年]]で表され、[[干支年]]が併記されることもあります。

[101] 
現状[CITE[勝山記]]祖本に最も近いとされる >>99 本によると、
前半[[年代記]]部分と後半年記録部分で形式的にも内容的にも違いがあります。

- [102] 前半は[[日本]]全国の出来事が低濃度で書かれています。
後半は[[甲斐国]]の出来事を中心に高濃度で書かれています。
- [108] [TIME[文和2(1353)年][1353]]を最後に[[天皇]]の[[即位年]]の記載がなくなります。
- [109] [TIME[応永27(1420)年][1420]]を最後に「年号始」紀年の記載 (100年単位)
が終わります。
- [104] [TIME[永享7(1435)年][1435]]を境に、それ未満は[[干支年]]の記載がありませんが、
それ以後は[[干支年]]の記載のある年が多いです。
- [105] [TIME[文正元(1466)年][1466]]の前の年を境に、それ未満は[[干支年]]の記載があっても断続的で、
それ以後は原則的に[[干支年]]の記載があります。
- [107] c系統諸本 (例えば >>100 本) 
には前半がなく、
[TIME[文正元(1466)年][1466]]から始まります。
- [103] [TIME[文明3(1471)年][1471]]を境に、それ未満は記事のない年が多く、
それ以後は記事がある年が多いです。
- [122] 
[TIME[長享3(1489)年][1489]]を境に、
それ以前は[[元号]]第2年以降は[[元号年]]だけが書かれていますが、
それより後はどの年にも[[元号名]]と[[元号年]]の両方が書かれています。
- [106] [[延徳]] ([TIME[西暦1490年][1490]]頃) を境に、
それ未満は[[年]]の下に記事が続きますが、
それ以後は[[年]]の後で行を改めて次の行から記事があります。
- [148] [TIME[延徳4(1492)年][1492]]を境に、
それ未満は[[年数の「年」][年の字]]を省略した表記が多いですが、
それ以後は「年」を明記している[[年]]がほとんどです。


[110] 
前半、後半含めて全体的に、細かな体裁は不統一です。例えば[[干支年]]は[[縦書き]]だったり[[横書き]]
([[割書]])
だったりします。
また、[[干支年]]は[[漢字]]が多いですが、たまに[[片仮名]]表記も法則性なく混じっています。
[[改元]]は「開元」と表記されることが多いですが、
たまに「開ケン」や「カイケン」とも表記されます。
「年号を[RUBY[賛][(替)]]る」という表現もたまに出現します。
[SRC[>>99]]

[328] 
>>99 本と >>24 本はどちらも [[a-1]] 本を底本とした[[明朝体]]の[[翻刻]]ですが、
>>24 本は >>99 本と違って[[干支斜め書き]]が混在しています。
原本のニュアンスをどれだけ再現するかの違いなのでしょう。

;; [329] この違いも分析には有用でしょうが、
いったいどこまでが祖本に忠実なのかも加味して検討する必要があります。


[118] 
[TIME[嘉元元(1302)年][1302]]条に「今上院後二条」
とあります。
[SRC[>>99]]
前半[[年代記]]部分の元になったある段階の本は、
この頃に成立したということなのでしょう。

[119] 
[TIME[文和2(1353)年][1353]]条に「新院」
とあります。
そして[[天皇]]の記事はこれが最後です。
[SRC[>>99]]
前半[[年代記]]部分の元になったある段階の本は、
この時代に書き足されたものだったのでしょう。


[111] 
全体的に紀年の乱れが多いです。前半には欠落している[[年]]も多いです。

[162] 
[[年の字]]は、[[年数]]につくものも、「[[年号]]」という語に現れるものも、
>>99 本の[[翻刻]]では[[年]]と[[秊]]の2種類に書き分けられています。
原資料の成立過程の何らかの違いを反映している可能性はありますが、
一見してわかる法則性はありません。



** 「年号始」紀年と仏暦

[112] 前半には「年号始」紀年が100年ごとにあります。
[TIME[和宣縄 (景縄) 4(621)年][621]]条に年号始から100年とあります [SRC[>>99]]。
逆算すると[TIME[善記元(522)年][522]]が年号始になります。
>>99 本の先頭は[TIME[__&&[&&__明要]8(547)年][547]]で、
それ以前は欠損して現存しませんが、その前に少なくても25年分は存在したと推測できます。

;; [340] 
>>337 本, >>339 本の先頭は[TIME[__&&[&&__蔵和__&&]&&__5(563)年][563]]。

[113] 
この「年号始」紀年は[TIME[延寿 (正しくは延暦) 21(921)年][921]]が400年となるところまでは、
(欠落している[[年]]を補えば) 計算が合っていますが、その後ずれが生じてきます。
[TIME[応永27(1420)年庚子][1420]] (正しくは899年) 条に900年辛丑とあるのが最後です。
[SRC[>>99]]
後半部分に当たる[TIME[永正17(1520)年][1520]]のあたりに1000年が本来ならあるべきです。


[114] 
[TIME[天喜元(1053)年][1053]]条に如来御入滅2000年で[[末法]]に入るとあります。
[SRC[>>99]]
第2000年に[[末法]]に入るのか第2001年に[[末法]]に入るのかよくわからないところがありますが、
それはともかくこの年が第2000年だとすると、[[仏暦]]γ2年ずれ型に当たります。
当時の[[日本]]の[[デファクト標準]]だった[[仏暦]]γ型と[[2年ずれ]]ています。

[115] 
[TIME[文永3(1266)年][1266]]条に如来滅後2340年とあります。 
[SRC[>>99]]
[[仏暦]]γ2年ずれ型だとこの年は2213年のはずで、ずいぶんとズレています。

[116] 
[TIME[天元4(981)年][981]]条に[[像法]]1000年が終わったとあります。
[SRC[>>99]]
[[仏暦]]γ2年ずれ型だとこの年は1928年のはずで、
[[像法]]の終わりが仏滅1500年だとしても仏滅2000年だとしてもずれています。

[117] 
>>114 は[[仏暦]]γから変化したものなのでしょうが、 >>115 と >>116 
は[[仏暦]]の諸説とも一致せず何から算出したのかよくわかりません。
>>114 と >>116 は定義上同じ年になるはずで、2説が同時に書かれているのはおかしいのですが、
別々の情報源から入り込んだのでしょうか。

[120] 
こうした前半[[年代記]]部分の年紀の不審点やその他の記事内容を分析すれば、
数多ある[[年代記類]]のうちどの系統のものから派生したのか、
ある程度の推測はできるかもしれません。

[121] 
[CITE[勝山記]]祖本は、
おそらくある時代の[[甲斐国]]で入手できた何らかの[[年代記類]]に、
末尾の方に書き足し、書き入れのような形で地元の出来事を追補していき、
現在の前半と後半のような形になったものだったのでしょう。
後半をいつ誰が書いたのか (何度にわたって書かれたのか)、
後半がまったく独自に作られたのか、
それとも後半も元となる[[年代記]]があったところに[[常在寺]]関連の記事が増補されたのか、
といった事項は検討が必要でしょう。

** 年号表記

[123] 
前半は、[[元号]]ごとに[[元年]]には[[元号名]]だけを書き、
[[元号]]の2年からは[[元号年]]だけを書いています。
そして旧元号の最終年 ([[改元]]のある[[年]]) は旧元号側で省かれて、
新元号側扱いになっています。
ただ途中から徐々に崩れていき、
たまに[[元年]]に「元」や「初」と[[元号年]]が明記されることがあります。
[SRC[>>99]]

[124] 
後半はかなり乱れています。

- [126] 新元号「元」のみ:
-- [128] (文安6 =) 宝徳1 = [TIME[1449]]
-- [129] (宝徳4 =) 享徳1 = [TIME[1452]]
-- [127] 享徳3年が欠落, (享徳4 =) 康正1 = [TIME[1455]]
-- [132] 長禄3年のあと、長禄4 = 寛正1、寛正2、寛正3が欠落、
寛正4、寛正5、寛正6があり、
(寛正7 =) 文正1 = [TIME[1466]]
-- [133] (文正2 =) 応仁1 = [TIME[1467]]
-- [134] (応仁3 =) 文明1 = [TIME[1469]]
-- [145] (弘治4 =) 永禄1 = [TIME[1558]]
- [141] 新元号「元」なし:
-- [142] 永正18 (= 大永1) = [TIME[1521]]
-- [144] 享禄5 (= 天文1) = [TIME[1532]]
-- [156] 天文24 (= 弘治1) = [TIME[1555]]
--- [157] 弘治2に天文25と書いて消した跡あり
-- [137] 延徳
--- [146] 長享3 = 延徳1 = [TIME[1489]] = 己酉,
延徳2 = [TIME[1490]] = 康戌のはずが、
[長享]「三[LINES(smaller)[己][トリ]]」と
「延徳[LINES(smaller)[元][二]]開元[LINES(smaller)[康][戌]]」
-- [138] 明応
--- [147] 
延徳3 = [TIME[1491]],
延徳4 = 明応1 = [TIME[1492]]
のはずが、
「明応元」と「延徳四年」
-- [143] 本来の新元号「元」がなく、新元号2年が新元号「元」:
--- [154] 大永8 (= 享禄1) = [TIME[1528]]
---- [155] 享禄2年が「享禄[RUBY[元][二]]年」
- [125] 旧元号末年と新元号「元」が別項目:
-- [130] 嘉吉4 = 文安1 = [TIME[1444]]
-- [131] 康正3 = 長禄1 = [TIME[1457]]
-- [136] 旧元号末年と新元号「元」が別項目、「元」に本来2年の[[干支年]]を併記し、
「二」に[[干支年]]欠落:
--- [135] 文明19 = 長享1 = [TIME[1487]]
-- [139] 旧元号末年と新元号「元」が別項目、「元」に本来2年の[[干支年]]を併記し、
以後末年まで[[干支年]]が[[1つずれ][1年ずれ]]る:
--- [149] 明応10 = 文亀1 = [TIME[1501]]
-- [140] 旧元号末年と新元号「元」が別項目、新元号「二」が欠落:
--- [150] 文亀4 = 永正1 = [TIME[1504]]
---- [151] 「文亀四年」には[[干支]]があるが、 >>139 のため本来永正2年の[[干支]]
---- [152] 「永正元年」には[[干支]]なし
---- [153] 永正2年欠落のため、「永正三年」から本来の[[干支]]と一致

[158] 
多くの研究者はこれらの年表記の混乱を編集上の誤りとみて、
適切な年次になおして解釈しようとしています。

[159] 
また、[CITE[山梨県史]]所収[CITE[勝山記]]は永正年間と天文年間にそれぞれ1件ずつ、
実際は1年後にあるべき記事の錯簡を注釈しています。 [SRC[>>99]]
この[[翻刻]]は記載内容についての注釈をほとんど入れていないにも関わらずなので、
両者はそれだけ自明な誤りと見なし得るのでしょう。
どちらも[[元号年]]と[[干支年]]とのずれは生じていない時期なので、
編集時点で誤りが発生したということでしょうか。
また、この部分の編集が行われたのはそれなりの時間の経過後 (当該記述の翌年など、
誤りに簡単に気づける時期ではない) ということでしょうか。

;; [247] [[天文]]の[[1年ずれ]]は他にも用例が見つかっていますが、
関連性は見えず、偶然でしょう。
[SEE[ [[天文]] ]]


[160] 
後半部分には「当年」という表現が頻出して、その掲載年のことを表しています。
他の年を参照する表現はほとんどありませんが、
わずかに出現する参照は、
[[元号年]]ではなく、
[[干支年]]や[[十二支年]]によっています。
後半部分の編集に使われたであろう原資料も、[[干支年]]や[[十二支年]]が使われていたのでしょうか。
(c.f. >>50)

-*-*-

[163] 
一般に歴史書では[[改元]]年を

- [164] 新元号元年と表記する
- [165] 旧元号末年と表記する
- [166] [[改元日]]で旧元号末年、新元号元年と書き分ける

の3つの書法があります。 [SEE[ [[改元日]] ]]
>>99 本の場合、前半は主に >>164、
後半は多く >>165、
中盤から後半にかけてしばしば >>166 
が混じっている、ということになります。

[167] 
新旧両方が書かれる場合、どちらも本来同じ年なので、[[干支年]]は同じになるはずです。
ところが[[干支]]が併記された長享、文亀、永正の3つとも、
この扱いを誤ったために[[干支]]のずれが生じています。
しかし3つとも違う誤り方をしているのが興味深いです。

[168] 
特に長禄は、元年に本来2年の干支を書き、2年に干支を書かず、
3年は本来の干支を書いています。
なお長禄元年には記事本文がなく、直後が2年になります。
[SRC[>>99]]

>
[VRLBOX[
十九[LINES(smaller)[丁][未]] [SNIP[]]、開元、

長享元[SUP(smaller)[戊申]]

二 [SNIP[]]

三[LINES(smaller)[己][トリ]] [SNP[]]、三年テ開元、

]VRLBOX]

[174] 
文亀のように2年にも[[干支]]を書いてそのまま3年以後も[[干支]]がずれてしまうケースもあれば、
長享のように2年を意識的に(?)飛ばして[[干支]]を書いているケースもある、
というのは[[干支]]が成立過程のどのタイミングでどのように書かれたか考えるヒントになりそうです。
長享前後で[[干支]]はみな[[横書き]]されているにも関わらず、長享元年だけ[[縦書き]]なのも、
何かしらそうなってしまった理由がありそうです。

[173] 
中盤から後半における3つの書法の混在と、
新旧年両方があるときの[[干支]]の扱いの違いは、
統一性、規則性の感じられない無秩序で、
意図的にこのように編集された可能性よりも、
偶発的な誤りの累積という説明に納得感があります。

** 古代年号


@@

[326] 
>>24 /90 は c 本から >>99 本より更に古い時期を補っています。

[341] 
>>8 /76 /125

[342] [[[CITE[二中歴]][CSECTION[年代歴]]]]

[350] 
'''d-1''' 本の表紙見返に
「上冊云、持統大化元年、富士山湧出、[SNIP[]]」
とあります。
[SRC[>>55]]


-*-*-

[347] 
'''d-2''' 本 [SRC[>>344]]
は本文が
「喜楽元年四五六七八九十十一[BR[]]法清元善光寺如来自百済国渡る大唐より僧来る此時見僧聞法治る也と書此年号より永禄四年迄今書記候」
から始まり、応永元年から記事が始まります。

[348] 
[[貴楽]]は通常は2年までとするにも関わらず、元年の後4年から11年までの記述があります。
1つ前の[[明要]]に属するべきものを誤写したのではないかと推測されています。
[SRC[>>55]]

[349] 
現存諸本で[[明要]]やそれ以前が完備しているものはなく、
(明要)
八
九
十
十一
貴楽元
二
法清元
と続くような本があります。
同じ様に[[明要]]の途中の4年から11年までが最初にある本から写したときに[[貴楽]]に4年から11年が混入したものでしょうか。


** 誤った元号名

@@

** [CITE[日国覚書]]の日付


[ITEMS[ [[日時事例]]

- [42] 
[DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[山梨県]][[南都留郡]][[河口湖町]][[小立]]]] [[常在寺]]所蔵 [CITE[教機時国教法流布五段鈔]] 写本]]
-- [43] 
[DATA(.label)[奥書]]
「[DATA(.text)[[V[于時福徳二秊[LINES(smaller)[辛][亥]]五月十六日書畢]]]]」 ([[草書]])
[SRC[>>15]]
-- [44] 
[DATA(.label)[[CITE[日国覚書]]]]
--- [45] 
「[DATA(.text)[[V[福徳二[LINES(smaller)[辛][亥]]年]]]]」 ([[草書]])
--- [48] 
「[V[[SNIP[]]去秊[DATA(.text)[庚戌年]][SUP(quarter)[ト]][BR[]]当年[DATA(.text)[辛亥秊]][SUP(quarter)[ノ]]春[SUP(quarter)[ル]]也、[SNIP[]]]]」
([[草書]])
[SRC[>>15]]
--- [49] 
「[V[[SNIP[]]此[SUP(quarter)[ノ]][DATA(.text)[亥[SUP(quarter)[ノ]]年[SUP(quarter)[ノ]]二月[SUP(quarter)[ノ]]彼岸]]也[SNIP[]]]]」
([[草書]])
[SRC[>>15]]
--- [46] 
「[V[又云明[SUP(quarter)[ル]]年[DATA(.text)[延徳四秊壬子ノ[BR[]]年]]也此年[SUP(quarter)[ハ]]六月十一日[SNIP[]]]]」
([[草書]])
[SRC[>>15]]

]ITEMS]

[178] 
「[V[福徳二[LINES(smaller)[辛][亥]]年]]」
は直前の[[奥書]]や直後の記事本文より1字分上に上がって[[見出し]]のようになっています。


[50] [CITE[日国覚書]]は見出し、書き出しに当たる部分で[[元号]]と[[干支年]]を併記していますが、
文中では[[干支年]]、[[十二支年]]を使っています。
[[元号]]が信用ならないこの時代、もしかすると原資料も本文は[[干支年]]を使っていたのかもしれません。

;; [161] ちなみに[CITE[勝山記]]にはこの[[干支年]]部分は残っていません。

[51] 
この資料や[[甲斐国]]の他の資料から、辛亥年に[[甲斐国]]では
「福徳二年」
と[[福徳]]の[[私年号]]が使われていたことがわかります。
[SRC[>>15]]
[SEE[ [[福徳]] ]]

[179] 
[CITE[日国覚書]]は現存[CITE[勝山記]]の元になった資料、ないしはそれに近い位置にあるものと考えられています
(>>33 >>34 >>35)。


[180] 
「[V[福徳二[LINES(smaller)[辛][亥]]年]]」
の見出しの存在は、
何らかの年代記的なものから福徳2年条を抜き出してここに転載したようにも感じられます。
(がそうでなければならない強い根拠があるわけではありません。)


[36] 
[[奥書]]には福徳2年辛亥5月16日の日付があります。
ところが[CITE[日国覚書]]には辛亥年と壬子年の記事があります。
辛亥年記事中には6月2日の日付があります。
壬子年記事中には夏、秋が云々とあります。
[SRC[>>15]]
同筆かどうか、[[日国]]が筆者かどうかはともかくとして、
[CITE[日国覚書]]の各年の記事が書かれたのは[[奥書]]よりも後、
場合によっては壬子年より後ということになります。


[47] 壬子年が「又云」から始まるのもちょっと気になりますね。ただの接続詞に過ぎないのかもしれませんが...

[181] 
福徳2年条を書いた後に、時間を置いてから、やはり
「延徳四秊壬子」
条の一部も書き足すことにした、ということになりますが、
前条とは違う体裁で書いたことにはどのような意味があるのでしょう。
福徳2年条はそのまま年代記の一部分になりそうな表記なのに、
延徳4年条は「又云明年・・・也。」とわざわざ文章形式にしてつなげています。
「年」の位置と[[干支]]の書き方も違います。
これは気分でなんとなく変わったのでしょうか。
それとも何らかの原資料の表記の違いが残ったのでしょうか。


** 延徳条前後


[169] 
[[延徳]]の最初は[CITE[勝山記]]中でも最も奇抜な表記です。

>
[VRL[
三[LINES(smaller)[己][トリ]] [SNIP[]]、三年テ開元、

延徳[LINES(smaller)[元][二]]開元[LINES(smaller)[庚][戌]]

[BOX(indent)[
京[SUP(smaller inline)[ニハ]]正京二年ト延徳[SUP(smaller inline)[ヲ]]カヱ玉フナリ、[SNIP[]]
]BOX]

]VRL]

「元」「二」の2つの[[元号年]]がなぜか併記されています。
そして[[元号年]]と[[干支年]]の間に謎の
「開元」が入り込んでいます。
「開元」は通常は旧元号末年の記事の末尾にあり、
この付近では延徳元年の前項 (本来は同年) の長享3年で実際末尾に置かれています。
年号途中にある意味の通らない謎の「開元」は延徳の1箇所だけです。
なお、長享3年まで年の下に記事本文があったのが、
延徳からは年の次の行に記事本文が置かれるように変わります。
[SRC[>>99]]

[170] 
長享やそれ以前の表記を参考にすると、本来

>
[VRL[
延徳元

[BOX(indent)[
二  開元、
]BOX]

]VRL]

とあったものが、「開元」の下に記事が書き足され、
2行が近接していたため合体し、
「開元」とその下の記事本文の間に空白があったため誤って「開元」
の下に[[干支年]]が書き入れられた、
という過程が想定できます (が、この想像に強い根拠があるわけではありません)。

-*-*-

[171] 
続く[[明応]]への[[改元]]も酷く錯綜しています。
延徳元二年の次が明応元年、その次が延徳4年に一旦戻って、
その次が明応2年になります。
[SRC[>>99]]

>
[VRLBOX[

延徳[LINES(smaller)[元][二]]開元[LINES(smaller)[庚][戌]]

[BOX(indent)[
京[SUP(smaller inline)[ニハ]][SNIP[]]
]BOX]

明応元[LINES(smaller)[辛][亥]]  此年[SUP[モ]][SNIP[]]

延徳四秊[LINES(smaller)[壬][子]]

[BOX(indent)[
此年[SNIP[]]
]BOX]

明応二年[LINES(smaller)[癸][丑]]

[BOX(indent)[
此年[SNIP[]]
]BOX]

]VRLBOX]

延徳以後、年の後改行されて記事本文に続く形式になりますが、
明応元年だけ年の下に記事本文が入る形式に戻っています。
明応元年までは年数の下に「年」の字がありませんが、
延徳4年からは「年」の字が入ります。
このような形式的な変化も、成立過程の解明の大きなヒントとなるはずです。

[182] 
[CITE[日国覚書]]の年表記の違い (>>181) 
との関係も気になります。



[172] 
本来延徳3年になるべき年に「明応元」が来ているのがこの部分の最もおかしなところですが、
次のように考えるのはどうでしょう。はじめに

>
[VRLBOX[
延徳元

[BOX(indent)[
二

三 此年[SNIP[]]
]BOX]

延徳四秊 

[BOX(indent)[
此年[SNIP[]]
]BOX]

明応二年 

[BOX(indent)[
此年[SNIP[]]
]BOX]

]VRLBOX]

とあったとします。[[改元]]のため「明応元年」は表記されていないのですが、
後からこれを見た人が「延徳四」の右横に「明応元」と注釈を書き入れたとします。
ところがその書く位置がよくなかったのか、伝来の過程で「三」が消えてその位置に
「明応元」が収まったとすると、現在の状態になります。
(この想像にも強い根拠はありません。)

*** 延徳条の記事構成

[175] 
[[延徳]]条には次のようにあります。
[SRC[>>99]]

>
[VRL[
三[LINES(smaller)[己][トリ]] [SNIP[]]、三年テ開元、

延徳[LINES(smaller)[元][二]]開元[LINES(smaller)[庚][戌]]

[BOX(indent)[
京[SUP(smaller inline)[ニハ]]正京二年ト延徳[SUP(smaller inline)[ヲ]]カヱ玉フナリ、
此年[SUP(smaller inline)[ハ]]多日テリ、後ニハ大風大雨フリテ、作モウ皆実モナシ、
大飢饉無申計、
天下[SUP(smaller inline)[ニ]]此年サヽラヲ老若共[SUP(smaller inline)[ニ]]スル事無[SUB(quarter)[レ]]限、
又京[SUP(smaller inline)[ニ]]王崩御トテ福徳二年[LINES(smaller)[庚][戌]]年号ヲ賛ル也、
此年一秊中[SUP(smaller inline)[ニ]]三度秊号賛ルナリ、
以[SUP(smaller inline)[ノ]]外[SUP(smaller inline)[ニ]]大飢饉[SUP(smaller inline)[シテ]]、
其[SUP(smaller inline)[ノ]]年[SUP(smaller inline)[ノ]]内[SUP(smaller inline)[ニ]]米[SUP(smaller inline)[ハ]]七十、大豆[SUP(smaller inline)[ハ]]六十、粟[SUP(smaller inline)[ハ]]更[SUP(smaller inline)[ニ]]ナシ、
牛馬カツヱ死ル事大半[SUP(smaller)[ニ]]越[SUP(smaller inline)[タリ]]、
人民餓[RUBY(smaller)[死無][事]]限、
]BOX]

]VRL]

[176] 
[[延徳]]条は年号だけでなく記事本文にも違和感があります。
本文内容を見ると、改元、天候・飢饉、改元、飢饉という構成になっています。
このように改元記事が2回もあるのはこの年だけで、
それはこの記事にもある通り1年で3度の改元という珍事ゆえかもしれません。
しかし本文の真ん中あたりに改元記事があるのはこの年と弥勒元年だけです
[WEAK[(享禄5年も末尾ではないですが、最終盤です)]]。
また、「福徳二年[LINES(smaller)[庚][戌]]」と本文中に[[元号年]]が登場すること、
[[干支]]が[[割書]]されることは、この年の他に弥勒2年
[WEAK[(と永[RUBY[亨][(享)]]10年)]]
だけです。
改元記事を挟んで飢饉記事が2度繰り返されるのも、
それだけ酷い飢饉だったという表現とも受け取れますが、
同じような内容を繰り返し書いているようにも見えて不審です。

[177] 
これもあまり強い根拠があっての想像ではありませんが、
この年の本文は元々「延徳」と「福徳2年」の2つの別の年だったと考えてはどうでしょうか。
成立過程のある段階の本で共存していたのかもしれませんし、
別々の原資料の記述を無理に統合したのかもしれません。

[183] 
[CITE[日国覚書]]が原資料の様子をとどめていると仮定すると、

>
[VRLBOX[
延徳元

[BOX(indent)[
二開元[LINES(smaller)[庚][戌]] [SNIP[]]

]BOX]

福徳二[LINES(smaller)[辛][亥]] 此年[SNIP[]]

延徳四秊[LINES(smaller)[壬][子]]

[BOX(indent)[
此年[SNIP[]]
]BOX]

明応二年[LINES(smaller)[癸][丑]]

[BOX(indent)[
此年[SNIP[]]
]BOX]

]VRLBOX]

のような構成だった時代もあったのではと想像がはかどります。


*** 延徳条の改元記事

[191] 
[[延徳]]条には[[元号]]に関する説明が次のようにあります。
[SRC[>>99]]

>
[VRL[
三[LINES(smaller)[己][トリ]] [SNIP[]]、三年テ開元、

延徳[LINES(smaller)[元][二]]開元[LINES(smaller)[庚][戌]]

[BOX(indent)[
京[SUP(smaller inline)[ニハ]]正京二年ト延徳[SUP(smaller inline)[ヲ]]カヱ玉フナリ、
[SNIP[]]、
又京[SUP(smaller inline)[ニ]]王崩御トテ福徳二年[LINES(smaller)[庚][戌]]年号ヲ賛ル也、
此年一秊中[SUP(smaller inline)[ニ]]三度秊号賛ルナリ、
[SNIP[]]、
]BOX]

明応元[LINES(smaller)[辛][亥]]  此年[SUP(smaller inline)[モ]]秊号イロ〱也、
[SNIP[]]、

延徳四秊[LINES(smaller)[壬][子]] 

]VRL]

[192] 
記事中に[[改元]]のことが書かれている箇所は本書中多いですが、
ほとんどは「開元」程度の簡単な記述です。
この2年間は特に詳しく異様な説明文です。

[193] 
c系統では延徳条の[[助詞]]が微妙に違っていて、

>
[V[京[SUP(smaller inline)[ニテ]]ハ正亨二年[SUP(smaller inline)[ト]]延徳[RUBY[[SUP(smaller inline)[ヲ]]][(ニ)]]改玉フ也]]

>
[V[又京[SUP(smaller inline)[ニ]]王崩御トテ福徳二[LINES(smaller)[庚][戌]]年[SUP(smaller inline)[ト]]年号ヲ改[SUP(smaller inline)[ル]]也]]

となっています。 [SRC[>>100]]

[325] 
>>24 /54, >>24 /137
にこの部分の一部の「[V[原本のまま]]」の掲載があります。
ここでいう「原本」は [[a-1]] 本に当たります。

-*-*-

[194] 
まず、「正京二年」「正亨二年」なる[[年号]]が出てきます。
[[正京]]や[[正亨]]、あるいは[[正享]]だとしても、
このような[[公年号]]は存在しません。
この時期に似た音の[[公年号]]もありません。
[[京都]]でそのような[[元号]]が使われていたとする情報が、
この頃の[[甲斐国]]には流布されていて、
筆者の記憶または何らかの資料にあったのでしょう。
「京」「亨」は字形と音が似ていますから、
伝写の過程で変化したものと思われます。
祖本に近いとされる >>99 本では「京」だとはいえ、
「亨」や「享」が原形だった可能性は十分あります。
(どちらも噂としてあった可能性もあり、「原形」
を追求してもさほどの意味はないかもしれませんが。)

[196] 
そしてその
「正京二年」「正亨二年」
と
「延徳」
の[[改元]]があったとのことですが、[[延徳]]「を」変えたのか、
[[延徳]]「に」変えたのかの2説があります。
つまり新旧なのか旧新なのか正反対の2通りの解釈があり得ます。
普通に考えればここは延徳条なのですし、
「正京」には「二年」とあって「延徳」には年数がないので、

- [197] 正京2年 → 延徳元年

と解釈するべきなのでしょうが、
このあたりは紀年が混乱している時期なので断定し難いのも事実です。
ここが延徳2年条だとすると、

- [198] 正京2年 → 延徳2年

と「京都で」
改元されたことになってしまいます。
>>99 本が「延徳を」替えると書いているのをそのまま解釈するなら、

- [199] 延徳元年 → 正京2年
- [200] 延徳2年 → 正京2年

のどちらかになってしまいます。これも新元号が2年になっておかしいのですが、
>>99 本も >>100 本の本文も「を」としているのは簡単には無視できません。

-*-*-

[208] 
京の王の崩御が理由で、福徳2年と[[改元]]されたとあります。
そのような情報がこの頃の[[甲斐国]]には流布されていて、
筆者の記憶または何らかの資料にあったのでしょう。
しかしその「王」とは一体誰なのか、も問題です (>>201)。



[209] 
この記事は延徳庚戌条にかけられており、
「福徳二年」の直後にも「[LINES(smaller)[庚][戌]]」と明記されています。
ここでもやはり新旧元号の疑問があります。
>>99 本は「福徳2年庚戌年号を替る」とありますから、
そのまま読めば福徳2年 → 新元号元年です。
>>100 本は「福徳2庚戌年と年号を改る」とありますから、
そのまま読めば旧元号末年 → 福徳2年です。
新元号が2年となるのはおかしいですが、
旧元号が「正京」でも「延徳」でもなく「福徳」となるのもおかしいです。

[210] 
[CITE[日国覚書]]
との関係も問題があります。
[CITE[日国覚書]]
には
「福徳二年[LINES(smaller)[辛][亥]]」
とあって、庚戌年の次が辛亥年なので、[[1年ずれ]]ています。
[CITE[日国覚書]]
の直前の奥書にも
「福徳二年[LINES(smaller)[辛][亥]]」
とあります。
(>>178)
現存
[CITE[日国覚書]]
を見ていたならその直前の[[奥書]]の日付も当然目に入ったはずで、
こうした「物証」がある
「福徳二年[LINES(smaller)[辛][亥]]」
を無視して
「福徳二年[LINES(smaller)[庚][戌]]」
とするだろうかとの疑問が生じます。
現在の[CITE[勝山記]]の形に編集した人は
[CITE[日国覚書]]
を見ていなかったのか、
そうでなければ
[CITE[日国覚書]]
が不正確だと考えるよほど強い根拠を持ち合わせていたことになります。
いずれにしても、
「福徳二年[LINES(smaller)[辛][亥]]」
を書いた人物ではない可能性が高いことになりますし、
その同時代人ではない可能性もかなりあります。

[211] 
「福徳二年[LINES(smaller)[庚][戌]]」
説自体は当時の東国にあったようです。
[SEE[ [[福徳]] ]]
「福徳二年[LINES(smaller)[辛][亥]]」
説と同時並行して[[甲斐国]]で行われた可能性は否定できません。
そのような説が編集時に採用された可能性もありますし、
何らかの編集・書写時の誤り (例えば >>177)
で
「福徳二年[LINES(smaller)[辛][亥]]」
が
「福徳二年[LINES(smaller)[庚][戌]]」
に変化してしまった可能性もあります。

-*-*-

[212] 
さて、この1年では3度も[[元号]]が変わったのだと書かれています。
この3度とは具体的にどれを指しているのでしょうか。
ここが延徳元年条なんか延徳2年条なのかという大問題がありますが、
一応延徳2年として、

- [213] 延徳2年、正京2年、福徳2年

の3つでしょうか。3度変わるとあるのに2回しか[[改元]]はありませんが、
言い方の違いと言えないでもありません。が少し引っかかります。
前条の長享3年や、次条の明応元年が入るのでしょうか。
しかしそれでは「1年で」3回とはなりません。
あるいは

- [216] 延徳元年、延徳2年、正京2年、福徳2年

で3回変わったという解釈もできるでしょうか。


[214] 
正京の改元にわざわざ「京には」と修飾があるのも不審です。
わざわざ[[京都]]の[[改元]]と明記しているのはここだけです。
次の福徳の改元も「京に」とはあってこれも不審なのですが、
これは王の崩御に掛かっていると取れないこともありません。
正京は[[改元]]の[[噂][改元デマ]]だけで実施されなかったという解釈もあり得ます。
現に東国で[[福徳]]の用例は多いですが、[[正京]]は
[CITE[勝山記]]諸本以外でまったく発見報告がありません。

[215] 
年号が3度も変わったと書いたのがいつ、誰であるのかは重要な問題かもしれません。
当時を知る人が書いたのではなく、
現在の延徳条にある程度の情報しか持っていない編集者が書いたのだとすると、
文面上にみえる3つの年号でこれは異様だと感想をそのまま記したと解釈できるかもしれません。


-*-*-

[365] 
>>364 は[CITE[妙法寺記]]「[V[正[RUBY[亨][(ママ)]]二年]]」
''と''延徳''を''改めた、
[CITE[勝山記]]「[V[正京二年]]」
''と''延徳''を''改めたとのことについて、正[ASIS[享]]二年''を''延徳''と''代えたと解釈し、
''長''享''三''年を延徳元年としたことだろうとしています。

[366] 
つまり[CH[正]]は[CH[長]]の誤りだとする説です。それ以上の説明はありませんが、
確かに[CITE[勝山記]]諸本の表記の異同を鑑みれば、
[CH[长]]に近い[[草書]]の[[字形]]と[CH[[ASIS[正][乚い]]]]を取り違えることはないとはいえません。
[CH[二]]と[CH[三]]もよくある誤りですし、全体的に年数が混乱している以上、
元から誤解か誤算があった可能性も否定できません。

[367] 
もしこの説が正しいとすれば、[[正亨]], [[正享]], [[正京]]なる[[元号]]はどこにも存在しない、
誤記、誤読に端を発した[[幽霊元号]]ということになるのでしょう。


-*-*-

[217] 
次の明応元年条 (本来は延徳3年) には、この年も年号色々なりとあります。
[SRC[>>99, >>100]]
この年に至っては色々あったということしか筆者は伝えてくれていません。
その「色々」とは一体何だったのでしょうか。
なにか理由があって書けなかったのでしょうか、
それとももう面倒になって書くのをやめたのでしょうか。

[218] 
果たして、
[CITE[日国覚書]]
の
「福徳二年[LINES(smaller)[辛][亥]]」
をその筆者は知っていたのでしょうか。
例えば前条の
「福徳二年[LINES(smaller)[庚][戌]]」
を優先し、
重複する謎の
「福徳二年[LINES(smaller)[辛][亥]]」
は捨てて、
説明も面倒になって「いろいろ」で済ませたりしたのでしょうか。

[219] 
[[東国]]に残る史料によればこの年は延徳3年、
福徳元年、
福徳2年、
福徳3年などと表現されていたようです。
[SEE[ [[福徳]] ]]
確かに手元にそのような史料が混在していたなら、
もう投げ出してしまいたい気持ちはわからないでもありませんが...

[220] 
また、「明応元」はその「いろいろ」に含まれているのでしょうか。

-*-*-

[327] [ASIS[松本本]]勝山記には書き入れがあります [SRC[>>24 /57]]。

>
大機翁曰、昆陽漫録ニ載ス鎌倉鶴岡八幡宮座不冷所着到ノ軸ニ福徳二年四月一日ト彫テアリ、
>
同所光明寺ニ祈禱ノ額ノ裏ニ福徳二年辛亥九月吉日トアル由鎌倉志出、
>
一条過去帳ニ延徳二年十二月十七日板垣善満逆修、福徳二年正月四日同五月一日トアリ、延徳三年七月六日、八月十三日同九月十六日ト記セリ同六月十日[SUP(smaller)[云]][SUB(smaller)[云]]、按ニ庚戌十二月ノ末ニ改元、但シ復[SUB(quarter)[二]]延徳[SUBSUP(quarter)[一][ニ]]六月十日ノ後七月六日迄ノ間ナリ

[SEE[ [[福徳]], [[鎌倉光明寺勅額]] ]]


*** 王とは誰か

[201] 
延徳条の[[福徳]]の[[改元]]事由には[[京都]]で「王」が[[崩御]]とあります。

[232] この時期、

- [202] [[足利義尚]] 9代将軍 [TIME[長享3(1489)年3月26日][kyuureki:1489-03-26]]死去
-- [203] [TIME[長享3(1489)年8月21日][kyuureki:1489-08-21]] [[改元]]
- [204] [[足利義政]] 8代将軍 [TIME[延徳2(1490)年1月7日][kyuureki:1490-01-07]]死去
- [205] [[足利義視]] 10代将軍の父 [TIME[延徳3(1491)年1月7日][kyuureki:1491-01-07]]死去

が相次いで[[京都]]で死去しています。

[233] 
この「王」は通常は[[足利義政]]と解されているようです。
[[足利義政]]と[[足利義視]]を指すとする説もあります [SRC[>>251 [V[([YOKO[11]])]]]]。
ただ紀年の混乱している時期の記事ですし、
[[甲斐国]]でそのような噂が流れていたという記述ですから、
必ずしも史実の特定人物1人の死去と同定できるものでもない可能性はあります。

[206] 
「王」は前後の年の記事には出現しません。
天皇や将軍と明確にわかる記述も前後の年にはありません。

;; [234] 
[TIME[永[RUBY[亨][(享)]]10(1438)年][1438]]まで遡ると
「京与鎌倉合戦」とあります ([[永享の乱]]のこと >>207)。

[236] 
少し遡って[TIME[文明10(1478)年][1478]]条に、
[TIME[11月14日][kyuureki:1478-11-14]]、
「王」が[[京都]]から東に逃れて[[日本]][[甲斐国]]小石澤観音寺に入ったとの記事があります。
[SRC[>>99, >>235]]
この[[王]]が延徳条で崩御した王と同一人物かは定かではありません。
[SRC[>>235]]

[238] 
少し進んで[TIME[明応8(1499)年][1499]]条に、
11月に「王」が[[三島]]に流され、
[[北条早雲]]により更に[[相模]]に送られたとあります。
[SRC[>>99, >>237]]
延徳条で「崩御」した[[王]]とは明らかに別人です (「崩御」が事実なら)。
文明10年の「王」と同一人物かは定かではありません。

[239] 
文明10年、明応8年にぴったり該当する足利将軍家の人物は見当たりません。
またそもそも[[将軍]]を「王」「崩御」と表現し得るのかどうかは、
なかなか微妙なラインではないでしょうか。

[241] 
文明10年と明応8年の「王」は、[[後南朝]]の[[皇族]]とする説があります。
[SRC[>>237, >>240]]

[330] 
松平本勝山記明応8年条には書き入れがあります。
[SRC[>>24 /59]]

>
按ニ南朝亀山第四宮尊親法王始後村上之春宮即位而後為僧、延文中在藤沢遊行十二世尊親他阿上人也、是ヨリシテ遊行賜論旨三島西福寺ニ色紙歌アリ、此ニ王ト云親王此時藤沢ニ入ルナルベシ、己下畧


[242] 
文明10年について[CITE[ウィキペディア]]は、
[[菅政友]]が[[後南朝]]の当主ではないかと疑われると書き残しているのを引いています。
[SRC[>>240]]
他の出典はよくわかりません。

[336] 
[[昭和時代]]の[[熊沢天皇]]系[[後南朝]]説の1つで、
明応元年に[[西陣南帝]]が[[建元]]し、
明応10年に[[甲斐国]]に移ったとしているものがあります。
[SEE[ [[明応]] ]]


[243] 
[CITE[晴富宿禰記]]
は、
文明11年7月19日条で[[小倉宮]]王子が[[越後国]]から[[越前国]]へ向かったとし、
文明11年7月30日条で[[出羽王]]が[[高野]]へ向かったとしているようです。
[SRC[>>240]]

[244] 
それに先立ち[[応仁の乱]]中の[TIME[文明3(1471)年][1471]]には、
[[京都]]で[[小倉宮]]が[[西陣南帝]]を称したといわれています。
[SRC[>>240]]
おそらくこの時期[[後南朝]]について[[京都]]でもそれ以外でも、
いろいろな噂が出回っていたのでしょう。
その中には真実も混じっていたのかもしれませんし、
まったくのでまかせも混じっていたことでしょう。

[246] 
ここで思い起こされるのが、
[TIME[文明元(1469)年11月21日][kyuureki:1469-11-21]]に[[奈良]]に流れた噂で、
[[吉野]]と[[熊野]]の[[後南朝]]勢力が挙兵して明応元年と[[建元]]したといわれていた記録です。
[SEE[ [[明応]] ]]
「王」が「崩御」して福徳2年が改元されたという記事の翌年が
[CITE[勝山記]]の「明応元年」です。
「王」と「明応」と[[後南朝]]の不思議なつながりは偶然でしょうか?

[333] 
[[江戸時代]]から[[明治時代]]には、[[彌勒]]や[[福徳]]を[[後南朝]]の[[元号]]とする説がありました。
[SEE[ [[日本南北朝時代の日時]] ]]

[334] 
これといった根拠があった説ではなく、
[[私年号]]というものの全体像が見えていなかったなかで一部の[[後南朝の元号]]
(と伝承されていたもの)
の存在を拡大解釈したに過ぎないと思われますし、
「王」の伝承やそれについての研究を参照しているわけではありません。
しかしあながち無下にもできないようにも思われます。

[335] 
「王」や他の[[落人伝説]]が[[皇胤]]であるかはなかなか疑わしいですし、
[[中世東国私年号]]を[[後南朝]]と結びつけるのも誤りとみてほぼ間違いないと思われます。
[[後南朝]]の「王」がそう簡単に東遷できる状況ではなかったでしょう。
しかし「噂」の東遷はもっと簡単で、まったくの偶然とは限りません。


[REFS[

- [235] 
[CITE@ja-JP[[[甲斐志料集成]] 第3]], [[甲斐志料刊行会]], [TIME[昭和8][1933]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-03T12:43:32.698Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1913050/1/260> (要登録)
- [237] 
[CITE[[[妙法寺記]]の「王」: 不二草紙 本日のおススメ]], 
2015.05.27,
23:23,
[TIME[2024-02-03T12:47:07.000Z]] <http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2015/05/post-b522.html>
- [240] 
[CITE@ja[[[後南朝]] - Wikipedia]], [TIME[2024-01-20T12:27:11.000Z]], [TIME[2024-02-03T12:58:32.926Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%8D%97%E6%9C%9D>




]REFS]

*** 延徳条の解釈

[52] 
[[堀内亨]]は[CITE[日国覚書]]と[CITE[勝山記]]の比較により、
当時辛亥年が福徳2年と認識されていたこと、
翌年[[公年号]]に復帰したこと、
[CITE[勝山記]]祖本の編者がその認識を持たなかったために年紀の乱れを生じさせたことを指摘しました。
[SRC[>>15]]

[53] 
そして、
[CITE[勝山記]]で前年の庚戌年に「延徳元」「延徳二」を併記したり、
「正京」「福徳」の[[私年号]]を用いられたとしたり、
辛亥年を「明応元」として年号色々と書いたりするなど、
記述に混乱が見られるのも当然だと評しました。
[SRC[>>15]]

-*-*-

[222] 
[[平成時代]]初期の歴史研究者[[渡部恵美子]]は、
紀年の混乱、特に延徳条の中に福徳2年の記述を指摘して、
これを長享3年から延徳元年への改元の直後に[[福徳]]の[[私年号]]が使われたためだと推測しました。
[SRC[>>492]]

[223] 
そして
[CITE[日国覚書]]
の福徳2年条が明応元年条に対応するだけでなく、
その前の延徳条の後半にも対応しているとしました。
両年とも大飢饉の記述があり、
売買の記述と、
牛馬や人民の死亡の記述があると構造が共通しているからです。
[SRC[>>492]]

[224] 
しかし福徳2年条と明応元年条は一応は対応関係があるのに対し、
福徳2年条と延徳条後半は数値が違っています。また、
[CITE[日国覚書]]と[CITE[勝山記]]で福徳2年の干支が違います。
これらは細かいながら重要な違いですが、
なぜか言及されていません。
大飢饉があり牛馬と人がたくさん死んだと2年連続で書かれているのは、
2年連続で大飢饉があってたくさん死んだ可能性もあります。
同じ人が2年連続で記録したなら同じような文面になるのは当然なので、
むしろ細かな違いがなぜ生じたかを重視する必要があるのではないでしょうか。

[225] 
[[渡部恵美子]]はまた、
[CITE[日国覚書]]
は福徳2年のうち1月から6月の記載しかないこと、
[[甲斐国]]で[[福徳]]が辛亥年の1月から6月に使われその後延徳3年に変わったと考えられること
([SEE[ [[福徳]] ]])
から、
[CITE[日国覚書]]
福徳2年条は辛亥年1年間の記録ではなく、
[[福徳]]の[[私年号]]の時期の記録だと考えました。
そして[[公年号]]とは違う[[私年号]]を呪術的目的で使ったと主張しました
([SEE[ [[中世私年号]] ]])。
(しかし福徳2年条の後に延徳4年条が続くことには言及していますが、
それが「福徳の記録」においてどのような意味を持つのかは説明していません。)
[SRC[>>492]]

[226] 
[[渡部恵美子]]は加えて、
延徳条の[[改元]]記事は「京」という場所や「王崩御」という改元事由の説明があることを、
[[公年号]]と違う[[私年号]]と[[正京]]や[[福徳]]を認識していた表れだと主張しました。
[SRC[>>492]]

;; [227] しかしなぜ「京」での[[改元]]と明記された記事が[[東国]]の[[私年号]]を表すのかには説明がありません。
また、弥勒2年は何も説明がないから[[私年号]]だと真逆の説明を付けています (>>229)。

;; [228] 
なお、前半[[年代記]]部分には、
[[法清]]、
[[常色]]、
[[養老]]に[[改元]]理由の説明があります。
[SRC[>>99]]
後半の享禄5年条も[[改元]]理由の記載があるとの解釈があります [SRC[>>258 [V[([YOKO[11]])]]]]。

-*-*-

[276] 
[[平成時代]]の歴史研究者[[勝俣鎮夫]]は、

- [277] [CITE[勝山記]]壬子年条は[CITE[日国覚書]]壬子年条のみに基づく。
- [278] [CITE[勝山記]]辛亥年条は[CITE[日国覚書]]辛亥年条のみに基づく。
- [279] [CITE[勝山記]]「明応元」辛亥年表記は編者の誤記で、
理由は不明だが、[CITE[日国覚書]]の福徳2年表記に誘発されたのは間違いない。
-- [281] 編者が用いた[[王代記]]には辛亥年は延徳3年と書かれていたと思われる。
-- [282] [CITE[日国覚書]]にわざわざ「又云明ル年延徳四秊壬子ノ年也」
と書いているのは[[日国]]も福徳2年の翌年がなぜ延徳4年か疑問を抱いたから。
-- [283] [CITE[勝山記]]辛亥年条に「此年モ秊号イロイロ也」
とあるのは延徳3年、福徳2年、明応元年といろいろあることをある程度認めた上で明応元年を選択した編者の弁解だろう。
- [284] [CITE[勝山記]]編者は[CITE[日国覚書]]辛亥年条記事は[CITE[勝山記]]辛亥年条に置いたが、
福徳2年は庚戌年に移動させた。
-- [287] 
庚戌年に福徳への改元が行われた何らかの資料を持っていたと思われる。
-- [288] 
[CITE[勝山記]]編者が用いた[[王代記]]から庚戌年に[[足利義政]]の死去があると知り、
福徳2年の改元と結びつけたので
「京ニ王崩御トテ福徳二年庚戌(ト)年号ヲ替ル也」
-- [289] 
延徳条の年号に関する部分は「[V[編集上の捏造記事]]」
--- [290] 
「京ニハ正京二年ト延徳ヲカエ玉フナリ」
---- [291] 正京(正享)2年は[CITE[勝山記]]にのみみえ、他に一切現れない
---- [292] 干支もなく、福徳2年のような確実な史料にもとづくとは思われない。
--- [293] 
「此年一秊中ニ三度秊号替ルナリ」
---- [294] 
延徳[LINES(smaller)[元][二]]年 → 正京二年 → 福徳二年をさす
---- [295] 
編者の編集上の混乱に対する自己弁明であるのは確実
- [285] [CITE[勝山記]]編者は[CITE[日国覚書]]辛亥年条記事を[CITE[勝山記]]辛亥年条のみならず延徳条にも置いた。
-- [286] 物価記事を、辛亥年条は売買なしとし、延徳条は値段を若干安く簡略化して書いた。
- [296] 
こうした「[V[編者の編集上の操作・歪曲の記述]]」の「[V[年号観]]」とは:
-- [297] 
[[東国]]では福徳2年辛亥が延徳3年辛亥と同じレベルで日常的に使用されていた
--- [298] 
特定の寺院集団や個人的に使用された私年号と同一視するのは必ずしも妥当ではない
--- [299] 
「[V[元号に対して、地域社会年号ともいう[BR[]]べき公界の公年号]]」
-- [300] 
[CITE[勝山記]]編者は福徳2年辛亥から約100年後、
福徳2年辛亥と正京2年を京都の朝廷が改元した京年号と考えた、
「[V[東国の自分達が使用した年号とは別世界の京年号ともいうべ[BR[]]き年号と考えていた]]」
--- [301] 
編者が編纂の原則とした、「[V[改元の際の年(干支)の[BR[]]交替]]」 (>>261)
をさせていないことからも証明される
--- [302] 
「[V[われわれが私年号とした年号を京年号(元号)とし、自分達が生活す[BR[]]る東国地方の年号とは異なる地域年号と編者は考えた]]」
--- [303] この年号観は、京年号とは別の東国独自の年号の存在が前提となる
---- [304] [[日国]]らが使った[[福徳]]を生み出した
「[V[広く東国地域に使用された公年号、地域年号]]」

と主張しました。
[SRC[>>258]]

[305] 
しかしこの主張はその大部分を推測や根拠不明の断定に頼って積み上げられています
(ここで紹介するにあたって省略したのではなく、これだけの内容しかありません)。
前提となる事実認定にも問題があります。

- [306] 15世紀末から16世紀初頭 (= 福徳2年辛亥の約100年後) 
に[CITE[勝山記]]編者がこれらの編集操作を行ったと断定しています
[SRC[>>258]] が、
その理由は説明されていません。論者らの研究グループによる未証明の仮説に過ぎません。
- [307] [CITE[日国覚書]]福徳2年条から[CITE[勝山記]]延徳条が作られたとしていますが、
根拠が脆弱です。
-- [308] 
[CITE[日国覚書]]の「米ハ九十、大豆ハ七十、小豆ハ八十五文・・・」
から
[CITE[勝山記]]の「米ハ七十、大豆ハ六十、粟ハ更ニナシ」
と値段を安く変えて簡略化したと主張されていますが [SRC[>>285]]、
項目も価格もまったく違い、これではまったくの捏造記事ということになります。
なぜ編者が捏造しなければならなかったか、
動機がまったく説明されていません。
-- [309] 
その他は飢餓で人が死んだなどの内容で、
同じような惨状が2年続いたなら必然的に同じようになることしか書かれていません。
--- [310] 
そのわりに、[CITE[日国覚書]]福徳2年条と[CITE[勝山記]]辛亥年条が似ているほどに
[CITE[日国覚書]]福徳2年条と[CITE[勝山記]]延徳条の表現は似ていません。
- [311] 
[CITE[日国覚書]]福徳2年条からのみ[CITE[勝山記]]辛亥年条が書かれたとしています。
確かに両者の大部分はよく似ています。
しかし[CITE[日国覚書]]が物価を詳しく書いているのに対し、
[CITE[勝山記]]は「売買ナシ」としか書いていません [SRC[>>258]]。
なぜそうしなければならなかったのかの説明は必要でしょう。
これも編者の捏造なのでしょうか? 動機は何でしょうか?
-- [312] 
[CITE[勝山記]]延徳条も辛亥年条も、
少なくても売買については、
[CITE[日国覚書]]と別の材料から記載した可能性を潰すことなくそうでないと断言できるとは思えません。
- [313] その他の[[元号]]に関する議論はすべて根拠のない想像に過ぎません。
-- [314] 
根拠のない推測を理由に史料の記述を捏造と断定するのは、
史料に対する敬意を欠いています。
[[研究者倫理]]を問題にしていいレベルでは。
-- [316] 
そもそも、
そこまで断定的に捏造と判断できるような史料は、
史実の追求にまともに使えるとは思えません。
論者は[CITE[勝山記]]の史料価値を否定しているのでしょうか。
-- [315] 
[[干支年]]の有無で依拠史料の確実性が判断できるという理論も他では聞いたことがありません。
-- [317] 
庚戌年に[[足利義政]]が死去したから福徳2年を庚戌年に移動させた、
というのは一見意味不明です。
--- [318] 
これはおそらく論者の主張である
「編者は[[改元]]の翌年を新元号の始まりと考えていた」
から福徳2年が[[福徳]]の始まりということになり、
従って福徳2年は[[改元]]の年である、
ということになって、
改元理由と福徳2年が同じ年に属して辻褄が合ったということになったのでしょう。
-- [319] 
東国の独自年号が100年後の編者の時代にはわからなくなって京都の独自年号と誤認されるようになったので、
京都の独自年号と書かれているものは実は東国の独自年号なのだ、
という主張ですが、常識的に考えてそんなことが起こるでしょうか。
常識的に起こらないことが起こったと主張するなら、
どのようなメカニズムで起こったのか仮説の1つでも出すべきではないでしょうか。
--- [321] 
東国年号だとわからなくなったとしても、
東国年号という概念が存続していたなら、
東国年号ではと推測するのが自然ではないでしょうか。
東国年号という概念が存続していたのに100年前の東国年号は不明で、
100年前の謎の年号を京都年号と断定する、
という独特の感性を編者は持っていたとの主張でしょうか。
--- [320] 
というか京都の独自年号だと考えたのが編者の捏造なのか、
誤った想像なのか、
何らかの史料から誤って演繹したのか、
論者の主張が段落ごとに違っているのでいまいちよくわかりません。



** 弥勒2年

[184] 永正4年条には[[私年号]]の[[弥勒]]の記述があります。
[SRC[>>99]]

>
[VRL[

永正三秊[SUP(smaller inline)[丙寅]]

[BOX(indent)[
此年春[SUP(smaller inline)[ハ]]売買去年[SUP(smaller inline)[ノ]]冬ヨリモ尚ヲ高直也、
秋ツクリハ悉[SUP(smaller inline)[ク]]吉[SUP(smaller inline)[シ]]、
但[SUP(smaller inline)[シ]]春[SUP(smaller inline)[ノ]]ツマリ[SUP(smaller inline)[ニ]]秋吉ケレトモ、
物[SUP(smaller inline)[モ]]ツクラヌ物イヨ〱明[SUP(smaller inline)[ル]][RUBYB[年][〻]][RUBYB[[SUP(smaller inline)[ノ]]][〻]]春マテモ貧ナリ、
此年半[SUP(smaller inline)[ノ]]比ヨリモ年号賛ルナリ、
此年冬雪フラスシテアタヽカナル事先代ニモカヤウナル事無[SUB(quarter)[レ]]之、
海[SUP(smaller inline)[モ]]コヲラス、
]BOX]

永正四年

[BOX(indent)[
弥勒二秊[LINES(smaller)[丁][卯]]、此年[SNIP[]]
]BOX]

永正五年[LINES(smaller)[戊][辰]]

[BOX(indent)[
此年[SNIP[]]
]BOX]

]VRL]

[185] 
この前後の時期は[[年]]と[[秊]]の違い、[[干支]]の縦横や仮名表記など、
表記の微妙な違いがあり注目されます。

[186] 
永正4年条は[[干支]]がありません。そのかわりに記事本文冒頭に弥勒2年とあり、
[[干支]]が書かれています。
この付近で年に[[干支]]がないのは文亀4年 = 永正元年で1年が2回書かれているうちの永正元年の方だけで、
永正4年は異例です。
そして本文中に[[元号年]]と[[干支]]の[[割書]]があるのは[[延徳]]条と永正4年だけで、
やはり異例です。

;; [207] 
他に永[RUBY[亨][(享)]]10年に[[永享の乱]]の旨の記述のあと、
奇妙な「[V[次ノ年[LINES(smaller)[己][未]]秊]]」
という記事があるのですが、次の11年条が「[V[同若君[SNIP[]]]]」
と謎の「同」から始まって[[永享の乱]]の結末が記載されています。
[SRC[>>99]]
元は一続きの文章だったものが年ごとに強引に分割された結果と推測できます。



[187] 
元々

>
[VRLBOX[

永正四年

弥勒二秊[LINES(smaller)[丁][卯]]

[BOX(indent)[
此年[SNIP[]]
]BOX]

]VRLBOX]

ないし

>
[VRLBOX[

弥勒二秊[LINES(smaller)[丁][卯]]

[BOX(indent)[
此年[SNIP[]]
]BOX]

]VRLBOX]

とあったのが変化して現在の形になったのではないかと想像できます。

[248] 
なお、「弥勒」は本によっては[[異体字]]で表記されています。 [SEE[ [[弥勒]] ]]


-*-*-

[188] 
永正3年条にはこの年の半ば頃に元号が変わったとあります。
次の年は永正4年・弥勒2年なので、「弥勒元年」に変わったと解釈するのが穏当です。
この部分の筆者の記憶または何らかの資料には、
永正3年の途中で[[改元]]情報が流れてきたことがあったのでしょう。

;; [322] 他の[[改元]]情報の可能性も皆無ではありませんが、
今のところ[[弥勒]]よりも合理的な解釈は考えられません。

[189] 
しかしその後弥勒2年は永正4年に戻り、永正5年と続いていったのでしょうが、
その事になんの説明もないのは不思議です。
この直前いくつかの[[改元]]はすべて旧元号末に[[改元]]の記述があり、
永正3年にも[[改元]]の記述があるのですから、
[[改元]]が取り消される(?)という珍事はもっと重大な事件として書かれていてもいいはずなのに、
何もありません。
[WEAK[(なお次の改元は少し離れて永正18年、大永8年と続くのですが、これらには改元記事がありません。)]]

[190] 
[[永正]]年間に入ると[[年]]と[[秊]]の違い、[[干支]]の縦横や仮名表記といった表現のぶれが増え、
[[見せ消ち]]による訂正もしばしば見られます。こうした特徴も本書の成立過程の何がしかと関係しているのでしょうか。

-*-*-

[331] 
>>24 本は、永正3年記事に「[V[弥[ASIS[勤]]元年カ]]」として、
次のように注釈を加えています。 [SRC[>>24 /61]] 

>
[VRLBOX[

弥[V[勃]]年号創作使用シタノハ、庶民ニ[BR[]]
精神的安心ヲ与ヘル立場ニアル、僧[BR[]]
輩、社僧連デ、飢饉、米価高騰ナド[BR[]]
ガ理由トナリ、弥勒菩薩󠄁ノ救ヲ求メ[BR[]]
タ、弥勒年号銘名(日本年号所功氏)

(松平本勝山記書キ入レ)

[BOX(indent)[

「弥勒、都留郡黒野田村 (笹子町)[BR[]]
奥明神棟札ニ弥勒二年丁卯仲冬十[BR[]]
二日敬誌トアリ」

]BOX]

弥勒菩薩󠄁ハ現実ノ世ニ於󠄁テ不運不幸、[BR[]]
苦ニ耐エカネテ居ル人ノ為ニ、如来[BR[]]
トナリ[RUBY[兜][ト]]率天ノ浄土ヘ生キナカラニ[BR[]]
シテ導ク、救ノ菩薩󠄁


]VRLBOX]


[229] 
[[渡部恵美子]]は、
[[公年号]]のあとに何の断りもなく[[私年号]]が記載されていることについて、
編者が[[公年号]]と[[私年号]]だとわかって併記したもので、
([[千々和到]]の[[私年号]]説 [SEE[ [[中世私年号]] ]] のように) 
[[私年号]]を[[公年号]]と誤認していたなら、
誤りと判明した時点で記録から消したはずだ、
と主張しました。
[SRC[>>492]]

;; 
[230] 
[[延徳]]条では逆に説明が詳しいから[[私年号]]だと真逆の説明を付けています (>>226)。
どちらにしても「通常と違うから私年号という認識があったに違いない」
ということでしょうか。

[231] 
しかし[[公年号]]と違う[[私年号]]があって併用されていたと編者が知っていて、
それが[CITE[勝山記]]の時代のうち[[延徳]]とこの年だけの特殊事情だったとすると、
なぜ編者はそのことを明記してくれなかったのでしょう。
[[渡部恵美子]]の考えるように[[延徳]]条の「京」「王崩御」 
がそのサインだった (>>226) とすると、弥勒2年はそれがない唯一の年です。
数十年間に1回しかない特別な出来事を、
ただ単に[[公年号]]と[[私年号]]を併記して何も注記をしないでも当然に理解されるはずだと、
編者は考えられたのでしょうか。


** 元二年

[266] 
[CITE[勝山記]]は一部の研究者の主張する[[元二年]]説の根拠にもなっています。

-*-*-

[260] 
[[平成時代]]の歴史研究者[[勝俣鎮夫]]は、
[[長享]],
[[延徳]],
[[文亀]],
[[享禄]],
[[天文]]の各[[改元]]は誤記でも誤写でもなく
「[V[一貫した編集方法]]」
によるものだとして、

- [261] 編者は[[改元]]によって「[V[年(干支)]]」も変わると考えていた
- [262] 「[V[それによって生じた干支と年次のくい違いを修正する編集上の操作]]」
で奇妙な表記が生じた
- [263] 「[V[改元によって年が交替するという、改元の機能にそくしたプリミティブな改元観]]」
を示している

のだと主張しました。
[SRC[>>258]]

[264] 
しかし実際には「編集方法」はまったく「一貫」しておらず、
[[改元]]ごとにバラバラの混乱を招いています。

[265] 
また、 >>99 本では「[V[享禄[RUBY[二][元]]年]]」である部分を
「[V[享禄[LINES(smaller)[二][元]]年]]」
と引いて、
「[V[延徳[LINES(smaller)[元][二]]開元[LINES(smaller)[庚 ][ 戌]]]]」
と同一視しています
[SRC[>>258]]。
しかし「元」と「二」の位置の違いや「開元」の意味には何も触れていません。

[332] 
ちなみに >>24 本では
「[V[享禄[LINES(smaller)[二][元]]年  [SUP(normal)[己]][SUB(normal)[丑]]]]」 ([[明朝体]]) 
と[[翻]]刻しています (底本は >>99 本と同じ [[a-1]])。

-*-*-


[267] >>99 本天文2年条に、

>
[VRL[
[SNIP[]]此年五月、六月、七月、八月[SUP(smaller inline)[マテ]][BR[]]
大雨フリ候て、カウサク悪[SUP(smaller inline)[シ]]、[SNIP[]]

]VRL]

とあります。

[268] 
>>99 本天文3年条に、

>
[VRL[

[SNIP[]]此[SUP(smaller inline)[ノ]]年[SUP(smaller inline)[ハ]]、始[SUP(smaller inline)[ノ]][BR[]]
年八月ヨリ、明[SUP(smaller inline)[ル]]年[SUP(smaller inline)[ノ]]四月マテ、[RUBY[ワラヒ][〔蕨〕]]ヲホリ候て、[BR[]]
皆[SUP(smaller inline)[ナ]]身命ツキ候、

]VRL]

とあります。

[269] 
[[勝俣鎮夫]]は、
天文2年条で8月よりの飢饉の始まりを記しているので、
天文3年条の「始ノ年」は天文2年であり、
編者が[[天文]]の[[年号]]の「始ノ年」を天文2年としたことは明らかだとします。
そして
[SRC[>>258]]

[270] 
そしてこれが
「改元による年号の年次は二年(実質的には元年と二年)よりはじまる」
という年号観なのだと述べています。
[SRC[>>259]]
(「実質的」とはどういうことなのでしょう?)

[271] 
しかし、このような解釈は一案としてあるのでしょうが、とうてい「明らか」とは言えず、
論証が必要と思われます。

[272] 
まず、5月から8月までの大雨の記事から8月が飢餓の始まりと認識されていたとは直ちには結論付けられません。
作物の十分実らなかった秋から食糧事情が悪化した可能性は確かに高いですが、
実際には前後したかもしれませんし、食料供給の実態と「飢餓」
レベルに達しているとの認識も前後していたかもしれません。
文中で言えば、天文2年条に飢餓の直接の記述はなく、
天文3年条の「春」になって飢餓が酷い旨が出てきています。

[273] 
次に、「始」が[[天文]]の時代の始めとはどこにも書かれていません。
「始ノ年」と「明ノ年」が対句になっています。
飢餓の期間を示しているに過ぎないとも解釈できます。
その始まりがたまたま天文2年だっただけです。

[274] 
そもそも天文3年条の該当する文は「此ノ年ハ」から始まっています。
にも関わらずその文中に「始ノ年」「明ノ年」が登場するのは不審です。
原資料からの転載時に無理に年単位に再編集したためにおかしくなったのではないか、
などまずは編纂時の不手際を検討しておく必要があるでしょう。
そうでないとすれば、編者の「年」の認識を考察しないことには、
この文は正しく読めないおそれがあります。
基礎的な検討なしに結論を急ぐべきではありません。

[275] 
また、本書の他の部分で[[干支年]]や[[十二支年]]を使いながら、
[[元号年]]を使った記述が皆無であることにも注意が必要です (>>160)。
ここで唐突に、しかし暗黙に、[[元号年]]で時代が記述されることがあるのか、
慎重にならざるを得ません。

;; [323] 
[[元年]]は古くは「はじめのとし」と[[漢文訓読]]されましたが、
中世に[[和文]]でそのような言い方をしたかは不明ですし、
それを「始ノ年」と表記し得たかも不明です。
そしてそのような議論も当該論文にはありません。



[REFS[

- [257] 
[CITE[戦国時代論]], [[勝俣鎮夫]]
-- [258] [CSECTION[[[戦国時代東国の地域年号について]]]]

]REFS]


** d-2本

[346] 
'''d-2'''
本 [SRC[>>344]]
は他系統の諸本とは違って、[[元号]]ごとにひとまとめになっているようです。
他本より情報が少ないようで、
意図的にせよそうでないにせよ省略して写したものとは思われますが、
詳しく検討する必要があります。


[351] 
混乱した紀年の状態からこの形式に書き換えたために誤ったのか、
それとも他の原因なのか、他本とは違う特徴があります。

- [352] 「[V[長享元二年[SUP(smaller inline)[戊申]]]]」
の次の段落が「延徳元年」、
その次の段落が「[V[明応元[SUP(smaller inline)[辛亥]]]]」
から始まります。
- [353] 
延徳元年条には
「[V[京都[SUP(smaller inline)[ニ]]而[SUP(smaller inline)[ハ]]正京共延徳を賛玉ふ]]」
とあります。
-- [354] 他本でそれに続く[[福徳]]の記述がありません。
- [355] 
明応の段落には元年辛亥の後「[V[二年[SUP(smaller inline)[壬子]]]]」
「[V[三年]]」
「[V[四年]]」
「[V[五年]]」
「[V[六年[SUP(smaller inline)[丁巳]]]]」
「[V[七年[SUP(smaller inline)[戊午]]]]」
などと続きます。
- [356] 明応元年条に「此年も色々大飢饉売買なし[SNIP[]]」とあります。
他本だと最初の部分は「此年モ年号イロイロ也」にあたります。
- [357] 他本だと永正3年に改元記事、4年に弥勒2年と年号がありますが、
この本にはまったくありません。

[359] 
明応は他の諸本で紀年が混乱しており、[[元年]]はその誤った辛亥年を取り (その結果延徳が元年だけになり)、
2年はその続きの壬子年とされ、
6年以後は正しい[[明応]]の丁巳を取っていますが、
その間の3年間は[[干支年]]だと4年あるはずで、
どうしようもなくなったのか[[干支]]が省略されています。


[358] 
翻刻を収録した書籍の解説は[CITE[勝山記]]の異本である本書の特徴を説明する中で、
[[福徳]]や[[弥勒]]の[[私年号]]に言及しています。
[SRC[>>344]]
しかしこの本にはどちらの記述もなく、
なぜそのことに触れないままこの2つの[[私年号]]を紹介したのかは謎です。


[360] 
[[福徳]]や[[弥勒]]が消されている理由は謎です。
書写時に不要と判断して削ったのでしょうか。
それともこの本が原本に近く、他の諸本にある[[福徳]]や[[弥勒]]は書写時の追記なのでしょうか。
ただ >>356 を見るとこの本よりも他の諸本の方が原形に近いように思われます。

[361] 
また、[[福徳]]の記述はなくても、 >>353 のその前段部分はこちらの本にもあります。
なぜ[[福徳]]は削って前段は削らなかったのかが謎です。





** 暦法

[249] 
>>99 本[TIME[文明8(1476)年][1478]]条に、

>
[VRL[
松ヲ二度立[SUP(smaller inline)[ル]]也、
]VRL]

とあります。 >>100 本では

>
[VRL[
門松二度立[SUP(smaller inline)[ル]]也、
]VRL]

となっています。

[252] 
[[阿部浩一]]は閏正月を表す可能性があり、その場合[[京暦]]とは異なると指摘しています。
[SRC[>>251]]

[253] 
[CITE[妙法寺記]]の[[閏月]]と配月 [SRC[>>251 (>>255)]]:

- 文正元年閏12月 (京暦: 閏2月)
- 明応5年閏2月
- 明応7年閏10月
- 明応9年 7大5小
- 明応10年 8大5小
- 永正12年閏正月 (京暦: 閏2月)
- 永正17年閏6月
- 天文3年閏正月
- 天文5年閏10月
- 天文24年閏10月
- 永禄2年 正月小 2月大
- 永禄5年 正月一日も戌の日、続けて3年戌の日 (永禄2,4,5年が戌、永禄3年は辰)
- 永禄6年 正月一日庚申

[254] 
>>251 は[CITE[妙法寺記]] [SRC[>>255]] から引いて[V[大永七年戊子]]に
「[V[改元此年以ノ外ニ大日テリニ候。]]」
としています。ところが >>99 本、 >>100 本とも改元は大永8年戊子で、
「改元」と「此年」の間で[[改行]]しています。

[REFS[

- [250] [CITE[[[遙かなる中世]] (12)]]
-- [251] 
[CITE[[V[戦国期東国の暦・私年号に関する一考察[BR[]]―甲斐国『妙法寺記』『王代記』と[BR[]]三島暦を素材として―]]]],
[[[V[阿部浩一]]]]
--- [255] 
引用:
[CITE[武田史料集]],
[[清水茂夫]]・[[服部治則]]校注,
[TIME[1967]]


]REFS]

** メモ

[58] 
a系統の多くは蔵知5年から始まります。
a-2 (内閣文庫所蔵[CITE[小佐野正秀覚書]]) は明要8年から始まります [SRC[>>59]]。
[SRC[>>55]]

[62] 
d-2 ([[神奈川県]][[足柄上郡]][[中井町]][[鴈丸フミ子]]所蔵[CITE[年代古事記 全]])
は貴楽元年から始まります。
[SRC[>>55]]

[60] 
b系統は巻頭に[[天平感宝]]についての「常ノ年代記」には書かれていないので云々との記事を持ちます。
[SRC[>>55]]

[64] [[b-3]] によると具体的には:

>
天平感宝  愚管抄云、天平感宝元年七月二日、孝謙
天皇即位、コノ天平感宝ハ四月十四日ニ斯ク改元ア
リケレト、其年ノ七月二日、又天平勝宝トカワリニ
ケレハニヤ、常ノ年代記ニハ此年号ヲハ書ノセスナ
ルヘシ、続日本紀天平二十一年四月丁未、改元、為
天平感宝元年、[LINES(smaller)[五月][有閏、]]七月甲午、又改元、為天平勝
宝元年、

とあります。 [SRC[>>55]]

[61] 
[[b-3]] には[[承運]]についての記事 [SEE[ [[承運]] ]]、
[[法興]]についての記事が冒頭に付加されています。
[SRC[>>55]]



-*-*-


[25] >>2 #page=8

[93] >>92

[91] [CITE@ja-JP[甲斐叢書 第7巻]], [[甲斐叢書刊行会]], [TIME[昭和10][1935]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-01T14:49:41.183Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1209124/1/187>

[95] 
[CITE@zh[甲斐的私年號 - 知乎]], [TIME[2024-02-01T15:13:07.000Z]] <https://zhuanlan.zhihu.com/p/35430908>


[362] 
[CITE@ja-JP[都留市史 通史編]], [[都留市史編纂委員会]], [TIME[1996.3][1996]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-09T11:07:59.710Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9541073/1/88?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83> (要登録)

[363] 
[CITE@ja-JP[戦国史料叢書 第2期 第13]], [[人物往来社]], [TIME[1967]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-12T07:27:17.226Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2973949/1/14?keyword=%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)

[364] 
[CITE@ja-JP[富士吉田市史 史料編 第2巻 古代・中世]], [[富士吉田市史編さん委員会]], [TIME[1992.3][1992]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-15T14:27:42.026Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13205403/1/142?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)


- [371] [CITE@ja-JP[日本名所風俗図会 5]], [[角川書店]], [TIME[1983.3][1983]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-16T05:19:09.253Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12281096/1/194?keyword=%E5%81%BD%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)
-- [372] [CITE[富獄細見記]]
- [373] [CITE@ja-JP[富士吉田市史 史料編 第5巻(近世 3)]], [[富士吉田市史編さん委員会]], [TIME[1997.3][1997]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-16T05:19:50.571Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13205404/1/183?keyword=%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)

[374] 
>>371 は[CITE[妙法寺旧記]]を引き、その余談として「偽年号」
の正京2年、福徳2年、弥勒2年を紹介している。
>>373 はその質の低い部分写本らしく、重要な語句に誤脱がある。


- [376] 
[CITE@ja-JP[甲斐武田氏 : その社会経済史的考察 第1分冊]], [[なかざわしんきち]], [TIME[1970]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-16T05:24:14.843Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537147/1/17?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)
- [375] 
[CITE@ja-JP[甲斐武田氏 : その社会経済史的考察 付録 2]], [[なかざわしんきち]], [TIME[1982.6][1982]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-16T05:23:30.516Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9538876/1/16?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)



* メモ







