[4] 
[DFN[天命]]は、[[清]]の初代皇帝[[太祖]] ([[ヌルハチ]]) の時代の[[元号]]です。

* 同時代と見られる用例

- [119] 己未年国書 >>13
- [91] [TIME[西暦1618年][1618]]に[[明]]から[[清]]に降った[RUBYB[[[李永芳]]][-[TIME[1634]]]]から朝鮮人への文書
「天命辛酉五月十八日」
[SRC[>>74, >>6]]
- [95] 
[CITE[満洲金石志]]卷六所収[CITE[勅賜大金喇嘛法師寶記]] 
「[SNIP[]]至天命辛酉年八月二十一日[SNIP[]]旹大金天聰四年歳次庚午孟夏吉旦[SNIP[]]」
[SRC[>>74]]
-- [147] 満文、漢文の全文 [SRC[>>146 PDF14ページ]]
- [97] 
[[中華民国台湾]]の[[中央研究院]]歷史語言研究所所蔵[[故宮]]満文老档コレクション中の[[劉学成]]奏本
「天命辛酉年拾貳月日」
([[満文]])
[SRC[>>74]]
-- [108] 「天命辛酉拾月」 [SRC[>>6 (>>74)]]。
- [106] 
[[中華人民共和国]][[辽阳博物馆]]所蔵[[东京城]]汉字“内治门”门额
「大金天命壬戌年」
[SRC[>>6]]
-- [107] 「夭命」
とする [SRC[>>7]] のは [[OCR]] の誤認識。

[60] 
[[日本国]][[東京都]][[調布市郷土博物館]]所蔵[[東京城]]天祐門門額は、
[[無圏点老満文]]で書かれています。
[SRC[>>39]]

- [62] [[日本国]][[徳島県]][[鳴門市]]の[[徳島県立鳥居記念博物館]]
[WEAK[(後に[[日本国]][[徳島県]][[徳島市]]の[[徳島県立鳥居龍蔵記念博物館]])]]
に拓本があります。
[SRC[>>39]]
- [61] [[日本]]の[[昭和時代]]の東洋史研究者[RUBYB[[[今西春秋]]][[TIME[1907]]-[TIME[1979]]]]は、写真から解読を試みました。
[SRC[>>43]]
-- [63] 中央「Abkai Usiha Duka」 (天星門)
[SRC[>>43]]
-- [64] 両傍小字
「Aisin Gurun i Abkai Fulingga sahaliyan
indahūn aniya juwari biyade ilibuha」
[SRC[>>43]]
- [65] [[日本]]の[[昭和時代]]・[[平成時代]]の東洋史研究者[RUBYB[[[松村潤]]][[TIME[1924]]-]]は、
[TIME[平成6(1994)年][1994]]に拓本と現物を実見しました。
[SRC[>>39]]
-- [67] 中央「Abkai Gosiha Duka」 (天祐門)
[SRC[>>39]]
--- [68] 現物、拓本とも「Abkai Gosiha」は剥落し判読不能。
[SRC[>>39]]
-- [69] 小字は[[今西春秋]]と同解釈。
--- [66] 「sahaliyan indahūn」 (壬戌)
[SRC[>>39]]


[46] 
[[中華人民共和国]][[遼寧省]][[瀋陽市]]の[[故宮博物院]]石刻館所蔵[CITE[海州牛荘城老満文徳盛門門額]]は、
[TIME[西暦1623年[LINES[癸][亥]]][1623]]再建の[[牛荘城]]の[[徳盛門]]の門額で、
[[老満文]]で書かれています。
[SRC[>>39]]

- [47] [[満州国]]在住の日本人研究者[[山下泰蔵]]は、
[[Walter Fuchs]] に拓本を贈りました。
[SRC[>>39]]
- [48] 満支在住のドイツ人東洋史研究者 [RUBYB[[[Walter Fuchs]]][1902-1979]] は、
[CITE[Beitrčge zur Mandjurischen Bibliographie und Literatur]]
[WEAK[([TIME[1936]])]]
に附図として拓本の写真を掲載し、
解読を試みました。
[SRC[>>39]]
-- [51] 「Tondo erdemude uwesimbuhe duka」 [SRC[>>39]]
-- [52] 左右小字「Aisin gurun-i abkai fulingga ningguci(?) aniya ....... ilibuha.」 [SRC[>>39]]
- [49] [[今西春秋]]は、
[[Walter Fuchs]]
の写真から解読を試みました。
[SRC[>>43]]
-- [53] 左小字「Aisin Gurun i Abkai Fulingga ……… aniya」 (金国天命………年)
[SRC[>>43]]
--- [55] ningguci (第六) とは読めず、強いて言えば jakūci (第八) ではないか、
としました。[SRC[>>39]]
-- [54] 右小字「sahahūn ulgiyan aniya uyun biyade ilibuha」 (癸亥年九月建)
[SRC[>>43]]
- [50] [[松村潤]]は、
[TIME[平成6(1994)年][1994]]夏に瀋陽で実見し解読を試みました。
[SRC[>>39]]
-- [56] 中央「Tondo Erdemude Uwe-
simbuhe Duka」
[SRC[>>39]]
-- [58] 左小字「Aisin Gurun i Abkai Fulingga sahahūn」 (金国天命癸)
[SRC[>>39]]
-- [59] 右小字「ulgiyan aniya juwari biyade ilibuha」 (亥年夏月建)
[SRC[>>39]]
-- [57] 左右小字は判読困難。東京城天祐門門額、牛荘城雲版とあわせて推測。
[SRC[>>39]]

;; [117] 本銘文は建元年の特定問題に絡んで注目されました。

- [70] 
[[中華人民共和国]][[遼寧省]][[瀋陽市]]の[[故宮博物院]]陳列館所蔵牛荘城雲版裏側銘
-- [71] 右「大金天命癸」
[SRC[>>39]]
-- [72] 左「亥年鑄牛莊城」
[SRC[>>39]]
-- [73] 
陳列館解説「大金天命八年鑄造的報警器。[SNIP[]]」
[SRC[>>39]]
-- [SRC[>>6, >>112]]
- [113] 
[[牛庄城]][[西门]]門額 [SRC[>>116]]
-- [114] 「外攘门」 [SRC[>>116]]
-- [115] 右下小字「大金天命癸亥年十月吉旦立」 [SRC[>>116]]
- [118] 
[[中華民国台湾]]の「[[中央研究院]]歴史語言研究所藏明淸史料」登録番號163607
「abkai fukingga han i sahaliyan ūlgiyan biyai.」
(「天命ハンの壬亥  月」, [[満文]])
[SRC[>>8 PDF 6ページ, 26 ページ [L[(28)]]]]
- [96] 
[[中華民国台湾]]の支那史研究者[RUBYB[[[李光濤]]][[TIME[1897]]-[TIME[1984]]]]は、
[[北平]]で天命丙寅年暦書を見たといいます。
[SRC[>>74]]
- [92] [CITE[乱中雜錄續錄]]卷一所収[[大金国]]皇帝から[[明]]人[RUBYB[[[毛文龍]]][[TIME[1576]]-[TIME[1629]]]]への文書
「天命丙寅五月日」
[SRC[>>74, >>6]]
- [93] 
[CITE[内庫大庫档案存真初集]] p.62 所収[CITE[天命丙寅年閏六月老満文誥命]]
「天命丙寅年閏六月」 ([[漢文]]、本文は[[老満文]]) [SRC[>>74]]
- [105] [CITE[明清档案存真选辑]]初集所収满文丙寅年诰命
「天命丙寅年月日」 ([[満文]]、[[漢文]]) [SRC[>>6]]
- [94] [CITE[明清史料甲編]]第一本[CITE[内閣档案之由来及其整理]]所収[[北平図書館]]蔵内閣旧蔵書目
「天命丙寅年封佟延一件」
[SRC[>>74]]

[REFS[
- [8] [CITE[グルンの印璽制度をめぐって─ダイチン・グルン太祖と太宗時代の実態─]],
[[庄声]],
[TIME[2015-02-02]],
[TIME[2015-04-27T09:00:13.000Z]], [TIME[2021-05-02T02:17:42.804Z]] <https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/197412/3/rek12_02after.pdf>
- [146] [CITE@ja[清朝前期統治政策の研究]], [[新藤篤史]], 
[TIME[2019-03-15]],
[TIME[2021-05-02T06:22:35.000Z]] <https://tais.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1221&item_no=1&page_id=13&block_id=69>
]REFS]


* 成立

[12] 
後に編纂された[[清国]]の歴史書では、
[TIME[西暦1616年[LINES[丙][辰]]][1616]]に[[後金]]が建国され[[天命]]と[[建元]]された、
とされていました。
一応これが現在も通説となっています。
近現代の研究や解説で天命[VAR[何]]年と書かれる場合、
基本的にはこの数え方に従うようです。
([TIME[y~244]])

[18] 
その一方で[[建国]]と[[建元]]の時期、当時の[[国号]]については、
史書の記述をそのまま信用するのは難しいとして、
近現代の[[日本]]や[[支那]]の研究者が諸説を提示してきました
[SRC[>>10, >>6]]。

-*-*-

[20] 
[[武皇帝実録]]本[CITE[清太祖実録]]
[WEAK[([RUBYB[後金[[天聰]]年間][[TIME[1627]]-[TIME[1636]]]]に編纂され[TIME[清崇徳元(1636)年][1636]]11月15日に完成した[CITE[太祖太后実録]]の改訂、[TIME[清順治12(1655)年][1655]]2月完成)]]
は、
[TIME[丙辰(1616)年][1616]]1月1日に即位、[[天命]]と[[建元]]したと書いていました。
[SRC[>>10, >>39]]
[CITE[高皇帝実録]], [CITE[満洲実録]]も同様でした [SRC[>>6]]。
([TIME[y~244]])

[40] 
[[清国]]の公式の記録である本書が、
現在につながる[TIME[西暦1616年][1616]]建元説
([TIME[y~244]])
の根本とされています
[SRC[>>39]]。

[HISTORY[
[150] 
[[中文]]版[CITE[维基百科]]は[[天命]]の開始日を[TIME[1616-02-29]]としました。
[SRC[>>149]]
根拠は不明です。
[[農暦]]の西暦1616年1月1日は、
[TIME[1616-02-17]]です。

[REFS[
- [149] 
[CITE@zh[後金及清朝年號列表 - [[维基百科]],自由的百科全书]], [TIME[2021-07-24T14:46:18.000Z]], [TIME[2021-08-01T03:52:56.865Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%87%91%E5%8F%8A%E6%B8%85%E6%9C%9D%E5%B9%B4%E8%99%9F%E5%88%97%E8%A1%A8#%E5%BE%8C%E9%87%91%E5%B9%B4%E8%99%9F>
]REFS]

]HISTORY]

[15] 
[CITE[清太祖実録]]の元になったとされる[CITE[満文老档]]
[WEAK[([CITE[満文原档]] ([CITE[旧満州档]]) を[TIME[乾隆40(1775)年][1775]]頃整理したもの, [[無圏点老満文]])]]
では、
[[ヌルハチ]]の時代は丙辰年の前後とも[[干支年]]だけで書いていました。
例えば[TIME[西暦1617年][1617]]は falahūn (丁) meihe (巳) amiya (年)
と書かれていました。
一方次の[[天聡]]年間は、
sure (天聡) han (汗) i (の) sučungga (元) aniya (年), jai (二) aniya (年)
のように書かれていました。
[SRC[>>11]]

[31] 
この書き分けとちょうど符合するように、
現存する他の殆どの史料は[[干支年]]を使い、
年数を書いていません。
こうしたことなどから、
[CITE[実録]]の[[天命]]建元記事は[[潤色]]が疑われました [SRC[>>11]]。

[42] 
[[三田村泰助]] (>>16) [SRC[>>11]] や[[今西春秋]] [SRC[>>43]] は、
[[漢]]化が進む前の[[満州人]]の生活上は従前の[[干支年]]が使われ続けたと考えました。
[CITE[満文老档]]が[[元号]]を使わないのはその反映と考えました。
[[三田村泰助]]は[CITE[満文老档]]に[[建元]]記事がないのはその事実が無かったからと考えましたが、
[[今西春秋]]は[[崇德]]改元の記事もないことを指摘し、
著者が関心を払わなかったに過ぎないと考えました。

;; [99] 
[[黃彰健]] (>>77) は、
[CITE[満文老档]]和訳本 p.1234
などに[[十二支年]]を使った例も見えるとしました [SRC[>>74]]。
しかし[[日本]][[国立国会図書館]]所蔵和訳本1234頁には、
[[日干支]]と[[十二支時刻]]はありますが、
[[十二支年]]は見当たりません
[SRC[>>98]]。


[109] 
[[中華人民共和国]]の東洋史研究者[RUBYB[[[蔡美彪]]][[TIME[1928]]-[TIME[2021]]]]は、
[[天命]]紀年のほとんどが漢文であること、
次の太宗の時代も漢文では[[天聰]]紀年を使い、
満文では「淑勒汗的某年」式に書いていることから、
[[天命]]は従来の[[明]]の[[元号名]]のかわりとして支那側の伝統から生じたもので、
「天命金国汗」の汗号に由来すると考えました。
年数ではなく[[干支年]]で書かれるのも、
[[建元]]が無かったためとしました。
[SRC[>>6]]

[111] 
太宗の[[天聰]]年間は、
満文では
sure han i sucungga fulahūn gūlmahūn aniya (淑勒汗的第一、丁卯年)
や
淑勒汗的第二、戊辰年のように書き、
漢文では天聰元年丁卯、天聰二年戊辰のように書いていました。
[[蔡美彪]]はこれも[[即位紀年]]に過ぎず、
次の[[崇德]]で初めて[[建元]]したと考えました。
[SRC[>>6]]

[120] 
[[蔡美彪]]が引用していない[[満文]]の「天命[VAR[干支]]年」と書いた史料を含めると、
この表記が必ずしも[[漢文]]に集中しているとはいえず、
また[[漢文]]が先行しているとも言い難いように思われます。
未整理の文献も含め、[[満文]]と[[漢文]]の史料の総合的な調査研究による発生過程の解明が望まれます。

[121] 
また、これは何をもって[[元号]]とするかの定義の問題にも関わると思われます。
[[元号]]の制定 = [[建元]]とそれによる反乱、建国の意思の表明を重視すれば、
[[建元]]の事実がなかったものは (当時の時点では) [[元号]]ではない、
と狭く考えることもできます。一方で[[明の元号]]のかわりに[[元号]]と同じように使われた実績があるなら、
(当時既に) [[元号]]として成立していたと見なす考え方もあり得るでしょう。
しかも[[明の元号]]はほぼ[[一世一元]]で運用されており、
[[元号名]]が[[皇帝]]の名前となっていたことを思えば、
[[即位紀年]]と[[元号]]の境界は常に曖昧です。


[9] 
[[満州語]]の
abkai fulingga
と[[漢語]]の[[天命]]の語は、
[[漢語]]、[[満州語]]とも、
[[汗]]号や[[貨幣]]名などとして、
[[天命]]年間や次の[[天聡]]年間によく用いられていました [SRC[>>8 PDF 4ページ, >>11]]。
建国を正当化するスローガン的な意味合いから生じた言葉だったのでしょう。

[30] 
年の表記と関係していない用法は、
[[元号]]が確立した時代なら[[元号名]]に因んだといえますが、
そうと確定できない時代には、
必ずしも[[元号]]の徴証とはいえません。
また、
両言語で使われており、併記されたものもあることから、
例えば[[元号名]]が[[漢語]]にのみあったということもいえません [SRC[>>11]]。

;; [151] [[天運]]の類との関係も気になります。

[122] 
年の表記としての用法とそれ以外との用法のどちらが元でどちらが派生なのか、
当時の文献等を総合的に分析して検討する必要があると思われます。

-*-*-

[13] 
[[李氏朝鮮]]と[[清]]の記録では、
[TIME[西暦1619年[LINES[己][未]]][1619]]に[[後金]]から[[朝鮮]]に国書が送られました。

-
[24] 
太白山本[CITE[李朝実録]][CSECTION[光海君日記]]
[TIME[己未(1619)年][1619]]4月9日条に、
[[後金]]から「天命二年」と称した[[国書]]が届けられたとありました。
[SRC[>>10]]
-
[14] 
この国書は[[李氏朝鮮]]側に[[漢文]]
([CITE[大東野乗]]本[CITE[乱中雑録]] [WEAK[([RUBYB[[[趙慶男]]][[TIME[1570]]-[TIME[1641]]]])]] 所収 [SRC[>>36, >>10]])、
[[清]]側に[[満洲語]]、[[漢文]]等が残ります
[SRC[>>10]]。
([CITE[満文老档]]の[[日本語]]訳本 [SRC[>>29]])
-- [37] 
[CITE[朝鮮群書大系]]所収[CITE[大東野乗]]本[CITE[乱中雑録]]所収国書には、
末尾に
「[V[天命三十六年。[LINES[萬曆十二年甲申、彼賊稱帝][改元潜懷犯上之志而中原]]]]
[V[[LINES[我國皆不知之][而知亦無益矣]]]]」
とありました。
[SRC[>>36]]
-- [75] 
[TIME[1964年][1964]]大韓民国石印本[CITE[亂中雜錄續錄]]卷一己未年4月初4条所収国書には、
末尾に
「[V[天命三十六年月日]]」
とありました。
[SRC[>>74, >>39]]
--
[27] 
[CITE[満文老档]][[満州語]]版所収国書には、
本文直後に発出日が
ilan (三) biyai (月) orin (廿) emu (一) de (日)
とありました。
この部分は[CITE[清太祖実録]][[満州語]]版にはありませんでした。
[SRC[>>10]]
--
[28] 
[[三田村泰助]]は、
[CITE[満文老档]][[満州語]]版所収の国書が[[朝鮮]]に送られたものの原稿としました。
[SRC[>>10]]
-- [76] 
[[黃彰健]]は、
当時[[大金]]と[[朝鮮]]のやり取りは[[漢文]]で成されたもの故、
[CITE[乱中雑録]]本が国書原文に近いものとしました。
[SRC[>>74]]


[23] 
[[明]]の朝廷は、
[TIME[明万暦47(1619)年][1619]]に[[朝鮮]]経由で[[天命]]建元を知ったとされます。
[SRC[>>10]]

-
[22] 
[CITE[三朝遼時実録]]
[WEAK[([RUBYB[[[王在晋]]][[TIME[1567]]-[TIME[1643]]]], [TIME[明崇禎11(1638)年][1638]])]]
[TIME[万暦47(1619)年][1619]]5月条に、
[[朝鮮]]からの情報で、
[[天命]]と建元されたと書かれていました。
[SRC[>>10]]
- [104] 
[CITE[皇明従信録]]
[TIME[万暦47(1619)年][1619]]5月条に、
[[朝鮮]]からの情報で、
[[天命]]と建元されたと書かれていました。
[SRC[>>6]]
-
[21] 
[[京師図書館]]本[CITE[皇明実録]]
[TIME[万暦47(1619)年][1619]]6月庚午条に、
[[朝鮮]]からの情報で、
建国と改元があったと書かれていました。
[SRC[>>10]]
-- [41] [CITE[神宗実録]]
[TIME[万暦47(1619)年][1619]]6月庚午条 [SRC[>>39]]

[86] 
しかし[[明]]の官僚は[TIME[明万暦46(1618)年][1618]]時点で記録に残していました。

- [84] 
[CITE[籌遼碩畫]]所収万暦46年9月[RUBYB[[[方従哲]]][-[TIME[1628]]]]
[WEAK[(大学士)]]
題本に、
[RUBYB[[[楊鎬]]][-[TIME[1629]]]]が入手し[[孫弘祖]]が提出した情報によると、
[[建元]]したとありました [SRC[>>83, >>74]]。
-- [85] [CITE[神宗実録]]万暦46年9月壬辰条にも記載有り。
[SRC[>>74]]
- [80] 
[CITE[籌遼碩畫]]所収万暦46年9月[RUBYB[[[黄嘉善]]][[TIME[1549]]-[TIME[1624]]]]
[WEAK[(兵部尚書)]]
題本に、
[[建元]]したとありました [SRC[>>78, >>74]]。
- [82] 
[CITE[籌遼碩畫]]所収万暦46年10月[[薛鳳翔]]
[WEAK[(兵科給事)]]
題本に、 
天命元年と建元したとありました [SRC[>>81, >>74]]。


[45] 
その他これに関係すると思われる記録がいくつかあります。

-
[33] 
[[李氏朝鮮]]の[RUBYB[[[羅萬甲]]][[TIME[1592]]-[TIME[1642]]]]の[CITE[丙子錄]]に、
「この歳」の5月に[[後金]]が[[天命]]建元した、
とありました。
[SRC[>>11]]
「この歳」とは[TIME[西暦1619年[LINES[己][未]]][1619]]の[[サルフの戦い]]を指していましたが、
本書は誤って[TIME[西暦1618年][1618]]に掛けていました。
[SRC[>>43]]
-
[34] 
[[イタリア]]人修道士で[TIME[西暦1643年][1643]]から[[明]]、[[清]]に滞在した
[RUBYB[[[Martino Martin]] ([[衛匡国]])][[TIME[1614]]-[TIME[1661]]]]
の
[CITE[韃靼戦記]]
[WEAK[([CITE[Histoire de la guerre des tartares contre la Chine]], 原本[[ラテン語]])]]
は、
[TIME[西暦1618年][1618]]に
[[Thienmin]]
と[[建元]]したと書いていました
[SRC[>>11 (仏語版 p.17)]]。
-
[44] 
[[日本]]の[[天理図書館]]所蔵[CITE[大清建国考]] 
[WEAK[([RUBYB[[[伊藤仁齋]]][[TIME[1627]]-[TIME[1705]]]])]]
所引[CITE[皇明実紀]], [CITE[明紀全載]]に,
[TIME[明万暦46(1618)年][1618]]に[[天命]]と建元したとありました。
[SRC[>>42]]

[123] 
これらの記録にある天命元年、天命2年の記述に従えば、
[[元年]]は[TIME[西暦1618年[LINES[戊][午]]][1618]]です。
通説より2年遅れています。
([TIME[y~1826]])

[17] 
[TIME[西暦1618年[LINES[戊][午]]][1618]]は、
[[ヌルハチ]]が[CITE[七大恨]]で[[明]]からの独立を宣言した年でした。
従って[[元年]]に相応しい年と考えられます [SRC[>>11]]。




[19] 
[[日本]]の[[昭和時代]]の朝鮮史研究者[RUBYB[[[田川孝三]]][[TIME[1909]]-[TIME[1988]]]]は、
[CITE[光海君日記]]巻138[TIME[己未(1619)年][1619]]4月9日条の
「天命二年」
より、[[清]]の記録との2年のずれを指摘しました
[SRC[>>26 DjVu 6ページ, >>25, >>39 (>>26)]]。
この史料の発掘により、従来史料不足で放置されていた[[天命]]建元の研究が進展しました
[SRC[>>10]]。

[16] 
[[日本]]の[[昭和時代]]の東洋史研究者[RUBYB[[[三田村泰助]]][[TIME[1909]]-[TIME[1989]]]]は、
各国の記録の比較検討から、
[TIME[西暦1619年[LINES[己][未]]][1619]]に[[国書]]としての体裁を整えるため考案された[[元号]]であって、
[[明]]から独立した[TIME[西暦1618年[LINES[戊][午]]][1618]]に遡って[[元年]]と設定したものと考えました。
[SRC[>>10, >>11]]

[32] 
[[三田村泰助]]が2年 ([TIME[西暦1619年[LINES[己][未]]][1619]])
に考案されたと推測したのは、
それ以前の用例がなく、
[[明]]が直接ではなく[[朝鮮]]を介して[[建元]]を知ったということからでした
[SRC[>>11]]。

[87] 
[[黃彰健]] (>>77) は、
「建元している」という情報が[[明]]で
「その年 (万曆46年) 建元した」
と誤解されて広まったものとし、
[CITE[光海君日記]]の「天命二年」もその影響下で生じたと考えました。
[SRC[>>74]]

[124] 
ともかく、
この時期の[[明]]と[[李氏朝鮮]]の人々の間で、
[[満州族]]の[[元号]]が[[天命]]で、
[TIME[西暦1618年[LINES[戊][午]]][1618]]が[[元年]]であるとの情報が広まっていたことは確かなようです。
しかも、
その人々が[[満文]]の[[元号名]]を想定していたのかどうかは不明ですが、
[[天命]]という[[漢文]]の[[元号名]]が広まっていました。



-*-*-

[77] 
[[中華民国台湾]]の東洋史研究者[RUBYB[[[黃彰健]]][[TIME[1919]]-[TIME[2009]]]]は、
[CITE[光海君日記]]の内容と成立過程の分析から、
「天命二年」は編纂官が国書原本を実見できずに書いたものと考えました。
国書原本にあったのは「天命三十六年」だったとしました。
[SRC[>>74]]

[88] 逆算すると[[元年]]は[TIME[明万暦12(1584)年[LINES[甲][申]]][1584]]となります。
([TIME[y~1827]])

[89] 
[[ヌルハチ]]は同族争いで[TIME[明万暦11(1583)年][1583]]に挙兵しましたから、
その翌年は元年とするに相応しい年と考えられます [SRC[>>74]]。

[90] 
しかし当時の[[ヌルハチ]]はまだ小勢力に過ぎず、
[[建元]]したとは考えにくいです。
[[黃彰健]]は、
国書の頃に[[元号]]が必要となったために遡って[[元年]]を定めたと考えました
[SRC[>>74]]。

[127] 
国書以後は天命[VAR[年数]]年の年数表記の用例が見当たりませんが、
[[黃彰健]]は、
即位に起算する[[支那]]式の慣例に馴染まないことに気づき、
年数を使わない[[干支年]]表記に改めたものだと推測しました
[SRC[>>74]]。

[110] 
[[蔡美彪]] (>>109) は、
「天命三月十六日」
の誤写だとしました。
3月16日だとすると送付の時期にちょうど一致するといいます。
[SRC[>>6]]

[128] 
国書の日付は「天命三十六年」、「天命三十六年月日」、
「天命二年」、「3月21日」、記載なしと諸書ばらばらです。
しかも当時の天命元年、天命2年の風聞を除けば、
年数を明記した信頼できる他の紀年資料がまったくありません。
この状況では、当時の国書の記載を確定させるのは困難と言わざるを得ません。


-*-*-


[35] 
[[李氏朝鮮]]時代の[CITE[家世集遺補]][CSECTION[丙丁志]]に、
[TIME[明天啓辛酉(1621)年][1621]]に[[天命]]改元されたとありました。
[SRC[>>11 ([RUBYB[[[稲葉岩吉]]][[TIME[1876]]-[TIME[1840]]]])]]

[38] 天啓辛酉年が天啓元年であることを思えば、
天啓と天命の改元情報が混乱して記録された可能性もあるでしょうか。

[125] 
あるいは現存する紀年史料がほとんどこの年以後であることを思えば、
このとき初めて[[天命]]の[[元号]]に接した人の間で、
いつしか[[元年]]と誤解されるに至ったのかもしれません。

[126] 
なんにせよ、年数ではなくもっぱら[[干支年]]で書かれたため、
正しい建元年を知ることができなかったのでしょう。


[FIG(table)[

:西暦:[[西暦]]
:干支:[[干支年]]
:明:[[明]]
:天命:清実録 ([TIME[y~244]])
:光海君:光海君日記 ([TIME[y~1826]])
:乱中:乱中雑録 ([TIME[y~1827]])




:乱中:1
:西暦:1584
:明:万暦12
:干支:甲申

:乱中:2
:西暦:1585
:明:万暦13
:干支:乙酉

:乱中:3
:西暦:1586
:明:万暦14
:干支:丙戌

:乱中:4
:西暦:1587
:明:万暦15
:干支:丁亥

:乱中:5
:西暦:1588
:明:万暦16
:干支:戊子

:乱中:6
:西暦:1589
:明:万暦17
:干支:己丑

:乱中:7
:西暦:1590
:明:万暦18
:干支:庚寅

:乱中:8
:西暦:1591
:明:万暦19
:干支:辛卯

:乱中:9
:西暦:1592
:明:万暦20
:干支:壬辰

:乱中:10
:西暦:1593
:明:万暦21
:干支:癸巳

:乱中:11
:西暦:1594
:明:万暦22
:干支:甲午

:乱中:12
:西暦:1595
:明:万暦23
:干支:乙未

:乱中:13
:西暦:1596
:明:万暦24
:干支:丙申

:乱中:14
:西暦:1597
:明:万暦25
:干支:丁酉

:乱中:15
:西暦:1598
:明:万暦26
:干支:戊戌

:乱中:16
:西暦:1599
:明:万暦27
:干支:己亥

:乱中:17
:西暦:1600
:明:万暦28
:干支:庚子

:乱中:18
:西暦:1601
:明:万暦29
:干支:辛丑

:乱中:19
:西暦:1602
:明:万暦30
:干支:壬寅

:乱中:20
:西暦:1603
:明:万暦31
:干支:癸卯

:乱中:21
:西暦:1604
:明:万暦32
:干支:甲辰

:乱中:22
:西暦:1605
:明:万暦33
:干支:乙巳

:乱中:23
:西暦:1606
:明:万暦34
:干支:丙午

:乱中:24
:西暦:1607
:明:万暦35
:干支:丁未

:乱中:25
:西暦:1608
:明:万暦36
:干支:戊申

:乱中:26
:西暦:1609
:明:万暦37
:干支:己酉

:乱中:27
:西暦:1610
:明:万暦38
:干支:庚戌

:乱中:28
:西暦:1611
:明:万暦39
:干支:辛亥

:乱中:29
:西暦:1612
:明:万暦40
:干支:壬子

:乱中:30
:西暦:1613
:明:万暦41
:干支:癸丑

:乱中:31
:西暦:1614
:明:万暦42
:干支:甲寅


:乱中:32
:西暦:1615
:明:万暦43
:干支:乙卯

:天命:1
:乱中:33
:干支:丙辰
:西暦:1616
:明:万暦44


:天命:2
:乱中:34
:干支:丁巳
:西暦:1617
:明:万暦45

:天命:3
:乱中:35
:干支:戊午
:西暦:1618
:明:万暦46
:光海君:1

:天命:4
:乱中:36
:干支:己未
:西暦:1619
:明:万暦47
:光海君:2

:天命:5
:干支:庚申
:西暦:1620
:明:万暦48, 泰昌1

:天命:6
:干支:辛酉
:西暦:1621
:明:天啓1

:天命:7
:干支:壬戌
:西暦:1622
:明:天啓2

:天命:8
:干支:癸亥
:西暦:1623
:明:天啓3

:天命:9
:干支:甲子
:西暦:1624
:明:天啓4

:天命:10
:干支:乙丑
:西暦:1625
:明:天啓5

:天命:11
:干支:丙寅
:西暦:1626
:明:天啓6


]FIG]


[REFS[
- [79] [CITE[籌遼碩畫]]
-- [83] [CITE@zh-TW[[[籌遼碩畫]]10 第21頁 (圖書館) - 中國哲學書電子化計劃]], [[Donald Sturgeon]], [TIME[2020-12-01T08:24:34.000Z]], [TIME[2021-05-01T07:18:37.695Z]] <https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=100995&page=21>
-- [78] [CITE@zh-TW[[[籌遼碩畫]]10 第97頁 (圖書館) - 中國哲學書電子化計劃]], [[Donald Sturgeon]], [TIME[2020-12-01T08:24:34.000Z]], [TIME[2021-05-01T06:19:02.046Z]] <https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=100995&page=97>
-- [81] [CITE@zh-TW[[[籌遼碩畫]]11 第32頁 (圖書館) - 中國哲學書電子化計劃]], [[Donald Sturgeon]], [TIME[2020-12-01T08:24:34.000Z]], [TIME[2021-05-01T06:25:27.885Z]] <https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=100996&page=32>
- [36] [CITE@ja[[[朝鮮群書大系]] : '''['''正''']'''24輯続24輯続々24輯別集7輯. 〔正 第8〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[朝鮮古書刊行会]], [TIME[1909-1916][year:1916]], [TIME[2021-05-01T01:19:28.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1914733/210>
- [26] [CITE@ja[[[毛文龍]]と朝鮮との関係について]], 
[[田川孝三]],
昭和7年2月,
[TIME[2014-01-27T07:10:33.000Z]], [TIME[2021-04-30T11:25:15.326Z]] <https://repository.tku.ac.jp/dspace/handle/11150/1637>
- [10] [CITE[天命建元の年次に就て : 太祖滿文老檔の一考察]],
[[三田村泰助]],
[TIME[1935-12-10]],
[TIME[2015-11-02T04:58:05.000Z]], [TIME[2021-04-30T07:04:56.214Z]] <https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/138683/1/jor001_002_117.pdf>
-- [25] 
引用:
[CITE[光海君時代に於る毛文龍と朝鮮との關係]],
[[田川孝三]]
-- [11] 
[CITE[天命建元の年次に就て(續) : 太祖滿文老档の一考察]],
[[三田村泰助]],
[TIME[1936-02-28]],
[TIME[2015-11-02T04:58:06.000Z]], [TIME[2021-04-30T07:05:41.648Z]] <https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/142942/1/jor001_3_226.pdf>
- [29] [CITE@ja[[[満文老档]]. 太祖の巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[藤岡勝二 訳小倉進平 等編]], [TIME[1939][year:1939]], [TIME[2021-04-30T12:00:43.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1162411/69>
- [98] [CITE@ja[[[満文老档]]. 太宗天聡の巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[藤岡勝二 訳小倉進平 等編]], [TIME[1939][year:1939]], [TIME[2021-05-01T09:52:09.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1162434/180>
- [74] 
[CITE[淸太祖天命建󠄁元考]],
[[黃彰健]], 
民國五十五年三月三十一日改定, 
民國五十五年十月四日補記,
[TIME[2020-03-05T07:54:12.000Z]], [TIME[2021-05-01T04:56:45.435Z]] <http://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/4013mAGwvcj.pdf>
- [6] 
[CITE[大清国建号前的国号、族名与纪年]],
[[蔡美彪]],
[TIME[1987年][1987]],
[TIME[2021-01-18T01:38:50.000Z]], [TIME[2021-04-30T05:23:53.166Z]] <http://hrc.cssn.cn/rmtj/202101/W020210118369589241511.pdf>
-- [7] [CITE[大清国建号前的国号、族名与纪年_[[中国历史研究网]]]], 
[[蔡美彪]],
[TIME[1987年][1987]]
2021.01.18, [TIME[2021-04-30T05:24:02.000Z]] <http://hrc.cssn.cn/rmtj/202101/t20210118_5245375.shtml>
- [39] [CITE[牛荘城老満文門額について]],
[[松村潤]],
[TIME[1994]]
<https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/download/863>
-- [43] 引用:
[CITE[天命建元考]], [[今西春秋]], 昭和34年10月
- [116] [CITE[海城遗址(四)_[[鞍山市]]档案馆]], 
日期:2017-01-11,
[TIME[2021-05-01T12:44:15.000Z]] <http://asarchives.net/anshanfangzhi/4167.html>
- [112] [CITE@zh[[[大金天命云板]] - 维基百科,自由的百科全书]], [TIME[2021-04-16T04:10:07.000Z]], [TIME[2021-05-01T12:38:58.700Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%87%91%E5%A4%A9%E5%91%BD%E4%BA%91%E6%9D%BF>
]REFS]

@@
[BOX[

[154] 
[CITE@ja-JP[鎌田博士還暦記念歴史学論叢]], [[鎌田先生還暦記念会]], [TIME[1969]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-04T14:25:11.558Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12210375/1/156> (要登録)


[155] 
[CITE@ja-JP[清朝前史の研究]], [[三田村泰助]], [TIME[1965]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-10T15:13:24.846Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2989532/1/194?keyword=%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)

]BOX]

-*-*-

[130] 
[CITE[中国歴代年号考]]は、
[[天命]]と[[天聰]]の後に注釈を挿入して、
[[祟德]]建元より前の文献には汗号紀年だけで[[元号]]はなく、
[CITE[実録]]が漢制に附会したものだとする、
[[蔡美彪]]の説を引用していました。
[SRC[>>131 (>>6)]] 

[133] 
[[中文]]版[CITE[维基百科]]は、
やはり[[蔡美彪]]の説を引用して、
[[天命]]や[[天聰]]は汗号紀年だけで[[元号]]はなく、
[CITE[実録]]が漢制に附会したものだとする研究者がいると書きました。
[SRC[>>132, >>142]]
[CITE[[[中国歴代年号考]]]]と文言がほぼ同じなので、
引用はされていませんが[CITE[[[中国歴代年号考]]]]の影響かもしれません。

[135] 
[[中文]]版[CITE[维基百科]]はその後の改訂で、
その説に対し、
[[大金天命云板]]などに[[天命]]の[[元号]]が残るため、
[[天命]]の[[元号]]が存在したことは確実だ、
と否定的に追記されました。
[SRC[>>134]]
[TIME[2021-01-14]]に[[蔡美彪]]が死去した直後、
追悼のため[[蔡美彪]]の論文が紹介されたタイミング [SRC[例えば >>7]]
での改訂でした。

[136] 
これでは[[蔡美彪]]の説はまったく成立しない、既に否定された説のように読めますが、
実際には[[蔡美彪]]は当該[[雲版]]を踏まえて検討していたことが、
論文には明記されていました [SRC[>>6]]。
[CITE[维基百科]]の編集者は当時の記事に書かれていた要約だけを読み、
原論文を読むことなく論旨を誤解し、追記したのでしょう。

[139] 
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]も、
実際に制定されたのではなく後から制定されたものだ、
[[在位紀年]]に後から命名したものだとする説もあるとしました。
[SRC[>>138, >>145]]
その出典は不明ですが、[[蔡美彪]]の説の孫引きでしょうか。

[140] 
このように、
「建元の事実はなかった」
「元号状のものはあった」
といった説が
「元号がなかった」
と誤解を招く形で要約されて伝言ゲームされた結果、
[[追号][追号元号]]説が提唱され否定されたことになってしまっているようです。


[REFS[
- [131] [CITE[[[中国歴代年号考]]]] 修訂本 p.222
- [137] [CITE@ja[天命 (後金) - [[Wikipedia]]]], [TIME[2021-04-16T05:05:34.000Z]], [TIME[2021-05-02T04:38:23.618Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%91%BD_(%E5%BE%8C%E9%87%91)>
-- [138] [CITE@ja[「天命 (後金)」の版間の差分 - [[Wikipedia]]]], 
[[Yonoemon]],
2007年4月3日 (火) 00:55時点における版,
[TIME[2021-04-30T21:38:46.000Z]], [TIME[2021-05-02T04:39:51.454Z]] <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A9%E5%91%BD_(%E5%BE%8C%E9%87%91)&diff=11670334&oldid=4354370>
- [144] [CITE@ja[天聡 - [[Wikipedia]]]], [TIME[2021-04-30T21:38:46.000Z]], [TIME[2021-05-02T04:55:09.329Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%81%A1>
-- [145] [CITE@ja[「天聡」の版間の差分 - [[Wikipedia]]]], 
[[Novo]],
2007年6月18日 (月) 14:31時点における版,
[TIME[2021-04-30T21:38:46.000Z]], [TIME[2021-05-02T04:55:33.369Z]] <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A9%E8%81%A1&diff=13198472&oldid=12329032>
- [1] [CITE@zh[[[天命]] (后金) - [[维基百科]],自由的百科全书]], [TIME[2021-04-15T02:27:42.000Z]], [TIME[2021-04-29T02:35:35.960Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%91%BD_(%E5%90%8E%E9%87%91)>
-- [132] [CITE@zh[“天命 (后金)”的版本间的差异 - [[维基百科]],自由的百科全书]], 
[[Shizhao]],
2009年10月10日 (六) 08:53的版本,
[TIME[2021-04-18T04:22:48.000Z]], [TIME[2021-05-02T04:23:39.631Z]] <https://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A9%E5%91%BD_(%E5%90%8E%E9%87%91)&diff=11356834&oldid=11356644>
-- [134] [CITE@zh[“天命 (后金)”的版本间的差异 - [[维基百科]],自由的百科全书]], 
[[Baomi]],
2021年1月17日 (日) 03:20的版本,
[TIME[2021-04-18T04:26:35.000Z]], [TIME[2021-05-02T04:26:48.517Z]] <https://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A9%E5%91%BD_(%E5%90%8E%E9%87%91)&diff=63759335&oldid=63759292>
- [141] [CITE@zh[[[天聪]] - 维基百科,自由的百科全书]], [TIME[2021-04-18T04:48:35.000Z]], [TIME[2021-05-02T04:51:31.425Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%81%AA>
-- [142] [CITE@zh[“天聪”的版本间的差异 - [[维基百科]],自由的百科全书]], 
[[Shizhao]],
2009年10月10日 (六) 08:52的版本,
[TIME[2021-04-18T04:51:14.000Z]], [TIME[2021-05-02T04:51:48.614Z]] <https://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A9%E8%81%AA&diff=11356821&oldid=11356661>
-- [143] [CITE@zh[“天聪”的版本间的差异 - [[维基百科]],自由的百科全书]], 
[[Baomi]],
2021年1月17日 (日) 03:14的版本,
[TIME[2021-04-18T04:50:14.000Z]], [TIME[2021-05-02T04:52:23.432Z]] <https://zh.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%A9%E8%81%AA&diff=63759239&oldid=61665226>



]REFS]

* 終了

- [100] 
[CITE[国朝史料零拾]]所収[CITE[衆貝勒擁戴太宗誓辞]] 
「天聰丙寅年九月初一日」
[SRC[>>74]]
-- [102] 内容より、当時の原稿そのままの文面ではない [SRC[>>74]]。

[101] 
天命丙寅年に[[ヌルハチ]]が没し、
9月に[[太宗]]が即位しました。
9月から12月に[[天命]]が使われ続けたのかどうか、
同時代の史料がなく不明です。
[SRC[>>74]]

[103] 
当時は[[天命]]から[[天聰]]に切り替えられたものの、
[[漢]]化後の史書で即位翌年を[[天聰]]の[[元年]]に再設定したとも考えられます
[SRC[>>74]]。


* 天命汗銭 (天命皇宝)

[5] 
[CITE@en[File:Nurhachi Coin, Aphai fulingga han chiha.jpg - Wikimedia Commons]], [TIME[2021-04-16T05:21:51.000Z]], [TIME[2021-04-30T05:22:01.138Z]] <https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nurhachi_Coin,_Aphai_fulingga_han_chiha.jpg>

[2] [CITE@ja[満洲文字を知る5]], [TIME[2010-06-15T06:05:50.000Z]], [TIME[2021-04-30T03:07:54.943Z]] <http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/manju/manju5.html>

[153] [CITE@ja[天命汗銭2]], [TIME[2023-09-19T15:08:00.000Z]], [TIME[2023-12-30T07:50:27.743Z]] <http://kodaimoji.chowder.jp/moji-list/m2kfol/m2k02.html>

[152] [CITE@ja[m2k01.pdf]], [TIME[2005-06-09T07:32:00.000Z]], [TIME[2023-12-30T07:49:36.889Z]] <http://kodaimoji.chowder.jp/pdf/pdf/m2k01.pdf>

* 関連

[129] 前: [[干支年]], [[万暦]]

[3] 次: [[天聡]]

* メモ

[148] [CITE[737b76e4526a357855b8f6fc90b7f273.pdf]], [TIME[2014-10-18T13:00:52.000Z]], [TIME[2021-05-05T10:30:40.588Z]] <http://eurasiaken.sakura.ne.jp/wp-content/uploads/2014/03/737b76e4526a357855b8f6fc90b7f273.pdf>
