[1] [[日本]]の南西部の島嶼群である[[南西諸島]]では、
現在、
[[日本]]の他の地域と同じ[[日本の暦]]や[[中央標準時]] 
[TZ[+09:00]] が使われています。

* 時刻の変遷の概略

[SEE[ [[日本の標準時]] ]]

* 琉球暦と元号

[282] 
前近代の[[南西諸島]]では、
[[中国大陸]]と[[日本列島]]の勢力の影響を受け、
両地の[[暦]]が使われました。

** 伝説の時代

;; [28] 
[[平安時代]]頃までに、[[奄美群島]]や[[吐噶喇列島]]が[[日本]]の統治下に入りました。

;; [17] 
後に編纂された[[琉球王国]]の[[正史]]によると、
西暦12世紀、
[[日本]]で失脚した元有力[[武士]]の[[源為朝]]が[[琉球]]に渡り、
王家の祖となりました。
[[尚]]王家の権威付けのためと考えられ、
信憑性は低いと考えられてはいるものの、
[[奄美群島]]各地にも[[源為朝]]の伝説は残されていました。
現代の学説では、
[[平安時代]]後期に[[九州]]から[[南西諸島]]へ多くの人が移住したとは考えているようです。

[279] 
[[南西諸島]]現地に王朝成立以前の記録は残っていませんし、
当時行われた[[日時制度]]がわかるような外部の記録もみつかっていません。

[261] 
[CITE[中山世鑑]]
は、
伝説の王朝の設立された[TIME[西暦1187年][year:1187]]以後を、
[[中華王朝 [WEAK[(南宋、元、明)]] の元号][支那の元号]]で記述しました
(>>432)。
それ以前の[[日付]]は記載されませんでした。

[281] 
[CITE[中山世譜]]
は、
[[隋]]と[[流求]]との外交記事
[WEAK[(現在では[[流求]]は[[沖縄]]説と[[台湾]]説があります。)]]、
伝説の王朝の設立前の[[源為朝]]についての[[日本本土]]の[[保元の乱]]の記事、
伝説の王朝の記事のいずれも、
[[中華王朝の元号]]で記述しました。

[260] 
[CITE[Wikipedia]]
は、
伝説の王朝の時代を、
[[中華王朝 [WEAK[(南宋)]] の元号][支那の元号]]で記述しました
[SRC[>>259]]。

@@
[CITE@ja[天孫氏 - Wikipedia]], [TIME[2020-09-06T11:37:28.000Z]], [TIME[2020-09-21T03:09:57.944Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%AB%E6%B0%8F>
[CITE@ja[舜天 - Wikipedia]], [TIME[2020-09-06T08:40:04.000Z]], [TIME[2020-09-21T03:07:46.753Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9C%E5%A4%A9>

@@
[280] 
歴史的記録が存在しない以上、
この伝説王朝の時代とそれ以前はどのように記述してもよい (何が正しいとも言えない)
ことになります。
[[南西諸島の日時]]
([[元号]]や[[旧暦]])
を出力する実装は、
正史の趣意を尊重し、
[TIME[西暦1186年][year:1186]]までは[[日本の暦]]と同じとし、
[TIME[西暦1187年][year:1187]]からは[[中華王朝の元号]]・[[農暦]]と同じとするのがよさそうです。


[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[259] [CITE@ja[[[舜天王統]] - Wikipedia]]
([TIME[2020-05-15 18:51:30 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9C%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E7%B5%B1>
]FIGCAPTION]

> 舜天王統(しゅんてんおうとう)は、舜天を祖とする王統で、1187年(淳煕14年)から1259年(開慶元年)の間、3代73年にわたり、「琉球国中山王」として王位に就いたとされる。

]FIG]

]REFS]

** 三国時代

;; [203] 
14世紀頃、
[[沖縄本島]]に[[北山]]、[[中山]]、[[南山]]の三国が成立しました。

;; [29] 
14世紀頃、[[奄美群島]]南部が[[沖縄本島]]の[[北山]]王朝の統治下に入りました。

;; [18] 
[TIME[1372年][year:1372]]、
[[琉球]]の[[中山]]王朝が[[明]]に[[朝貢]]しました。

[79] [[琉球王国]]は[[朝貢]]以来、[[中国]]の[[暦]]
([[支那の元号]]、[[農暦]])
を使っていました。 [SRC[>>22]]

;; [31] 
[TIME[1416年][year:1416]]、
[[北山]]王朝は滅亡し、[[中山]]王朝の統治下に入りました。

[248] 
[[琉球]]現存最古の[[金石文]]とされる[[安國山樹華木之記碑]]
[WEAK[(原位置[[日本国]][[沖縄県]][[沖縄本島]])]] 
に、
「宣徳二年歳次丁未八月」
とありました。
[TIME[大明宣徳2(1427)年][year:1427]]8月建碑とされます。
[SRC[>>246, >>247]]



[REFS[
- [247] [CITE@ja-JP[琉文21 » 長虹堤①]], [TIME[2020-05-30 18:46:50 +09:00]] <http://ryubun21.net/index.php?itemid=4878>
]REFS]

** 統一王朝時代

;; [19] 
[TIME[1429年][year:1429]]、
[[中山]]王朝が[[沖縄本島]]を統一しました。
これが[[琉球王国]]の成立とされています。
[[奄美群島]]南部の[[与論島]]と[[沖永良部島]]も[[琉球王国]]の統治下に入りました。
その後[[徳之島]]も統治下に入りました。

;; [32] 
[TIME[1447年][year:1447]]、
[[奄美大島]]が[[琉球王国]]の統治下に入りました。


[296] 
[[琉球国]]王の名が入った[[雲版]]が現在に伝えられており、
「天順二年八月八日」
([TIME[1458年8月8日][kyuureki:1458-08-08]])
とありました。
[SRC[>>295, >>297, >>299]]

[NOTE[
[300] 
[TIME[天順2(1458)年][year:1458]]に[[琉球国]]の[[国王]]の[[尚泰久]]が[[大里城]]に寄進したものとされます。
[SRC[>>297 PDF 11頁 ([CITE[奈良帝室博物館の雲板について]], [[真境名安康]], [CITE[南島研究]] 創刊号, [TIME[1928年][year:1928]])]]

[301] 
この雲版は[[日本国]][[徳島県]]の[[浄智寺]]にありました。
[[浄智寺]]に施入された経路と年代は不明ですが、
細川家が琉球と貿易し、
[CITE[善隣国宝別記]]
に[[雲版]]が貿易品目として記されていることが注目されます
[SRC[>>295 [V[[B[参考[YOKO[2]]]]]] ([V[第一図版[YOKO[2]]]])]]。

[304] 
明治44年に[[浄智寺]]から[[奈良帝室博物館]]に寄託されましたが、
その経緯は不明です。
現在も[[奈良国立博物館]]に保管されています。
[SRC[>>299]]

[305] 
資料によって銘文の釈読が微妙に違っています。

- [306] >>295 [V[[B[参考[YOKO[2]]]]]] ([V[第一図版[YOKO[2]]]])
-- 表 右 「[V[大里城]]」
-- 表 中 「[V[琉球国主大世圭  慶庚生]]」
-- 表 左 「[V[天順二年八月八日]]」 
- [307] >>297 PDF 11頁 ([CITE[奈良帝室博物館の雲板について]], [[真境名安康]], [CITE[南島研究]] 創刊号, [TIME[1928年][year:1928]])
-- 「[V[大里城 琉]]
[V[球国主大世主庚寅慶生 天順二年八月八日]]」
- [308] >>299
--
「[L[大里城 / 琉球国王大世主]]
[L[庚寅慶生 / 天順二年(1458)八月八日]]」

[309] このうち >>295、 >>299 に白黒写真が掲載されていますが、
一致しない部分を確定できるほどの鮮明ではありません。
>>295 の写真をみると中央列の末尾は
「庚寅慶生」
が正しいようにも見えます。

]NOTE]


[REFS[
- [295] [CITE[[V[雲版銘文󠄃集]]]],
[CITE[[[仏教考古学研究]]]], pp. [V[一三七]]-[V[一七八]]
(初出: [V[昭和三〇年]]-[V[昭和三三年]])
- [299] [CITE[平成29年度(2017年度) 博物館教育普及活動]], 
[[沖縄県立博物館・美術館]],
[TIME[2018-06-15T03:01:39.000Z]], [TIME[2020-12-03T12:24:28.966Z]] <https://okimu.jp/userfiles/files/2017fukyuhoukoku_1.pdf#page=67>
]REFS]

-*-*-

[21] [TIME[1465年][year:1465]]、
[[琉球]]人が[[福建]]で[[造暦]]法を学び、
以後[[琉球]]国内で[[暦]]が作られるようになりました。 [SRC[>>22]]


[298] 
15世紀の[[首里城]]の
「闕の南門」
には、
木製「[[漏器]]」 ([[水時計]])
がありました。
[SRC[>>297 PDF 7頁]]


[REFS[
- [297] [CITE[太宰府神社旧蔵「琉球国図」にみる一五世紀の[[琉球王国]]]], 
[[安里進]],
[TIME[2004-03-30]],
[TIME[2020-12-03T12:00:35.000Z]] <http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/23767/1/No15p90.pdf>
]REFS]

;; [33] 
[TIME[1466年][year:1466]]、
[[喜界島]]が[[琉球王国]]の統治下に入り、
[[奄美群島]]全体が[[琉球王国]]領となりました。

;; [20] 
[TIME[1469年][year:1469]]、
[[琉球王国]]で[[クーデター]]があり、
[[第二尚氏]]の王朝が成立しました。

;; [23] 
[TIME[1500年][year:1500]]に[[石垣島]]、
[TIME[1522年][year:1522]]に[[与那国島]]が[[琉球王国]]の統治下に入りました。


[252] 
[[琉球]]現存最古の[[仮名]]書き[[金石文]]とされる[[たまおとんのひのもん]]
([[玉陵の碑文]]、[[日本国]][[沖縄県]][[沖縄本島]])
に、
「大明弘治十四年九月大吉日」
とありました。
[TIME[大明弘治14(1501)年][year:1501]]9月建碑とされます。
[SRC[>>253]]

[255] 
[[田名家文書]]に含まれる琉球現存最古とされる文書は[TIME[嘉靖二年(一五二三)八月二十六日][1523-10-14]]のものとされます
[SRC[>>254]] (原表記不明)。
[[Web]] で画像として見られる例として、
「嘉靖十六年八月二十日」 ([[縦書き]]、画像では八月まで)、
「康凞五十七年[LINES[戊][戌]]正月廿六日」
のものがあります [SRC[>>246]]。


[277] 
[[奄美群島]]の[[ノロ]]辞令書に、
「萬暦十五年十月四日」 ([[縦書き]])
と書かれたものがありました
[SRC[>>467]]。
[TIME[明万暦15(1587)年10月4日][kyuureki:1587-11-03]]と解され、
[[奄美群島]]で[[明の元号]]が使われたことがわかります。
この前後の辞令書もあったようです。


;; [278] 1523-08-26 と 1587-10-04 はたまたま[[農暦]]と[[旧暦]]が1日ずれている期間に当たっており、
どちらも[[農暦]]のはずですが、残念ながらそれを証明できる史料はありません。


[REFS[
- [253] [CITE@ja[[[玉陵の碑文]] - Wikipedia]], [TIME[2020-05-17 11:28:06 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E9%99%B5%E3%81%AE%E7%A2%91%E6%96%87>
- [254] [CITE@ja[文化遺産データベース]], [TIME[2020-05-31 11:45:14 +09:00]] <https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/134174>
]REFS]


@@
[BOX[

[246] 
[CITE@ja-JP[沖繩文化 = The Okinawa bunka 28(1)(77)]], [[『沖繩文化』編集所]], [TIME[1993-01]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-02-28T14:41:09.815Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4437792/1/11> (要登録)

[365] 
[CITE@ja[untitled - kiyo0017-tomita.pdf]], [TIME[2018-08-07T09:59:37.000Z]], [TIME[2025-03-28T11:24:49.455Z]] <https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/17/kiyo0017-tomita.pdf>

]BOX]

** 薩摩藩属時代

;; [25] 
[TIME[1609年][year:1609]]、
[[日本]]の[[薩摩藩]]が[[琉球王国]]に進攻しました。
[[奄美諸島]]は[[薩摩藩]]に編入されましたが、
形式的に[[琉球王国]]の管轄下にも置かれました。
その他の地域は[[琉球王国]]領土として存続しましたが、
[[琉球王国]]は[[薩摩藩]]の[[属国]]となりました。
ただし[[支那]]への[[朝貢]]も継続されました。

[286] 
[TIME[日本慶安3(1650)年][year:1650]]、
[[琉球]]初の[[正史]]
[CITE[[[中山世鑑]]]]
が編纂されました
[SRC[>>287]]。
序文には
「日本慶安庚寅大呂吉旦」
とありました
[SRC[>>283]]。
'''[TIME[慶安3(1650)年[LINES[庚][寅]]][year:1650]]12月[[吉日]]'''と解されています。



[432]
[CITE[[[中山世鑑]]]]
は、
[[源為朝]]の伝説を[[日本の元号]]を使って記述していますが、
全体的には[[南宋]]、[[元]]、[[明]]と[[支那の元号]]を使っています。
最初の年号は「南宋淳煕十四年丁未」 
([TIME[1187年][year:1187]]、[[源為朝]]の[[子]]とされる[[舜天]]の即位) です。
[SEE[ [[中山世鑑]]、[[中山世譜]] ]]

;; [469] 実際には[[中国]]に初めて[[朝貢]]した頃より前は[[支那の元号]]が使われていたわけではないでしょうし、
歴史書の記述自体も史実かどうか疑わしいとされています。

@@


[360] 
[CITE@ja[HIDOKEI_No.1.pdf]], [TIME[2021-09-25T07:29:07.000Z]], [TIME[2024-04-17T09:49:29.394Z]] <https://sundial.stars.ne.jp/pdf/HIDOKEI_No.1.pdf#page=5>

[REFS[
- [284] [CITE[[[中山世鑑]]]]
-- [283] [CITE@ja[[[琉球國中山世鑑]]/序 - Wikisource]], [TIME[2020-09-07T02:52:44.000Z]], [TIME[2020-09-21T02:53:43.395Z]] <https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E5%9C%8B%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E4%B8%96%E9%91%91/%E5%BA%8F>
-- [287] [CITE@ja[[[中山世鑑]] - Wikipedia]], [TIME[2020-09-13T14:43:23.000Z]], [TIME[2020-09-21T02:55:51.564Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E4%B8%96%E9%91%91>
]REFS]


[113] 
[[琉球王国]]発給の辞令書の[[日付]]は、
かつては[[支那の元号]]の年月日として表記されていましたが、
[TIME[1659年][year:1659]]頃から[[干支年]]も記載されるようになりました。
[SRC[>>112]]

[437] [[薩摩藩]]直接統治下の[[奄美諸島]]では、
[[日本の元号]]が使われていたようです。
(例えば >>468 参照)。
[[元号]]なしで[[十二支]]だけで[[年]]を表記することもありました
[SRC[例えば >>467]]。

[245] 
[[日本国]][[沖縄県]][[石垣市]] ([[八重山諸島]])
に残る当時の島内の公文書に、[[日付]]が
「戌三月十五」
とありました。
[TIME[西暦1814年3月15日][kyuureki:1814-03-15]]と解されます。
[SRC[>>244]]



;; [53] [[十二支年]]のみの表記は[[日本本土]]でも一般的に見られました。

[250] 
[[日本国]][[鹿児島県]] ([[奄美群島]]) [[徳之島]]に残る文書に、
[CITE[雑書由緒記寫]], [TIME[慶応2(1866)年][year:1866]]10月
「[ASIS[千][PDFママ]]時慶應二年寅十月寫之」、
[CITE[徳之島世の主由緒書(寶満家系図)]]
「慶長十七年壬子九月十五日死去」
といった[[日本の元号]]の日付がみられました。
[SRC[>>249]]

;; [251] 
これらを引用した論文の本文に
「万暦三十六年(慶長十三年)二月死去」
とありました
[SRC[>>249]]。
この論文の本文の年號の多くは[[西暦]]か[[西暦]]と[[日本の元号]]の併記なのに、
この箇所だけ[[明の元号]]と[[日本の元号]]の併記とした理由は読み取れません。
(この部分は引用に直接現れず、他の資料からの転記でしょうか。)



[258] 
[[日本国]][[鹿児島県]] ([[奄美群島]]) [[喜界島]]で[[卜占]]を行った[[我原家]]の[[トキ双紙]]に、
「天保四年巳十月吉日書之」
と書かれたものがありました。
[SRC[>>246]]

[263] 
18世紀、[[琉球王国]]の[[正史]]が編纂されました。
[[琉球王即位紀年]]により編年されました。
[SEE[ [[琉球王即位紀年]] ]]


[358] 
[CITE[41_90.pdf]], [TIME[2023-12-21T06:40:24.000Z]] <https://www.jstage.jst.go.jp/article/kayo/41/0/41_90/_pdf/-char/ja#page=9>

-*-*-

[234] [[明]]から[[清]]への交代期には、[[琉球]]はしばらく[[南明]]政権と交流しています。
その時期はまだ[[清]]の[[暦]]ではなく[[明]]の[[暦]]を使っていたと思われます。
(1648年の両者の[[閏月]]の配置が異なっています。
[[閏月]]の[[日付]]が入った記録があるかは不明。)

[503] [[明]]滅亡で[[清]]が[[中国]]主要部を占拠した後も、
しばらくは[[南明]]と交流があり、その[[元号]]を使っていたようです
[SRC[>>484, >>485, >>486, >>487]]。次のような例がみられ、
すっきり一度で切り替わったわけではなさそう [SRC[>>112]] です。

- 隆武五年二月 [SRC[>>485]]
- 順治六年十一月十三日 [SRC[>>486]]
- 隆武八年 [SRC[>>624]]


-*-*-

[438] [TIME[1854年][year:1854]]の[[琉球王国]]と[[米国]]の[[条約]]では、
[[琉球]]の[[日付]]として[[支那の元号]]が、
[[米国]]の[[日付]]として[[西暦]]が示されていました [SRC[>>439]]。

[SEE[ 日本本土については[[幕末維新期の日時]]、その他各国については[[外交文書の日時]] ]]

[REFS[
- [439] [CITE@ja[琉米修好条約 - Wikisource]] ([TIME[2014-08-05 03:56:41 +09:00]] 版) <http://ja.wikisource.org/wiki/%E7%90%89%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[204] [CITE@ja[[[琉法修好條約]] - Wikisource]], [TIME[2019-11-09 10:18:35 +09:00]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%90%89%E6%B3%95%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%A2%9D%E7%B4%84?uselang=ja>
]FIGCAPTION]

>咸豐伍年乙卯十月十五日在那覇公館立。
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[442] [CITE@ja[琉蘭修好條約 - Wikisource]]
([TIME[2015-12-24 00:28:25 +09:00]] 版)
<https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%90%89%E8%98%AD%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%A2%9D%E7%B4%84?uselang=ja>
]FIGCAPTION]

> 天主降生千八百六十九年七月初六日,以荷蘭書漢書立字,應遵執據。
> 咸豐九年己未六月初七日,在那霸公館,鈐蓋關防。

]FIG]

- [205] [CITE[甲 朝鮮(韓国)/乙 琉球]], [[アジア歴史資料センター | Japan Center for Asian Historical Records]], [TIME[2019-11-23 10:26:33 +09:00]] <https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_B13090775800>
]REFS]


-*-*-

[502] 
[[現代日本]]では、
過去の出来事に言及する時、
俯瞰的な目的では[[西暦]]を使い、
詳細な記述では[[元号]]と[[西暦]]を併記するのが一般的です。
[[琉球王国]]の出来事も同様です。
[[元号]]表記は、
[[日本の元号]]による場合、
[[支那の元号]]による場合、
併記する場合が見られます。


[57] 
出来事の呼称に[[元号]]が含まれる場合、
[[日本の元号]]が使われたり、
[[支那の元号]]が使われたりしていて、
同じ事象に複数の呼称がある場合もあります
[SRC[>>464, >>465, >>56]]。
以前は[[支那の元号]]が一般的だったのが、
[[沖縄県]]設置後に[[日本の元号]]の呼称に置き換わったという事例 [SRC[>>690]]
もあります。


[262] 
[[現代日本]]の辞書類、文書、 [[Webページ]]などでは[[琉球王即位紀年]]が使われることもあります。
単独で使われることはあまりなく、
[[西暦]]、[[日本の元号]]、[[中華王朝の元号]]の1つ以上と併記されるのが普通です。


-*-*-

[14] 1682年から1879年/明治12年まで[[琉球王国]]で発行されていた[[暦]]は[DFN[[RUBY[[[琉球暦]]][りゅうきゅうれき]]]]と呼ばれています。
1718年以降は[DFN[[CITE[選日通書]]]]という題名で発行されています。
正式には[[清]]の[[時憲暦]]を用いることとなっていましたが、
その到着までの便宜用という名目で[[琉球暦]]を発行して用いていたようです。
内容は[[時憲暦]]と同じで、[[北京]]の[[時刻][地方時]]により計算されていました。 [SRC[>>22]]
[SEE[ [[農暦]]、[[旧暦]] ]]

;; [156] 
[[李朝]]も[[清国]]の[[曆][農暦]]を採用しつつ、
実際には自国で計算していました。
[SEE[ [[李氏朝鮮の日時]] ]]


[REFS[
- [112] [CITE[琉球王国史の基礎的研究]] ([TIME[2018-12-08 20:04:43 +09:00]]) <https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/22114/takara7.pdf>
-- PDF 14ページ、44ページなど
- [146] [CITE@ja[琉球王朝の頃、どのような暦を使っていたか知る手掛かりとなる資料があるか。また、その暦は薩摩藩と関係が... | レファレンス協同データベース]] ([[国立国会図書館]] 著, [TIME[2015-11-21 19:01:06 +09:00]] 版) <http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000085357>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[445] [CITE[古琉球の元号: 目からウロコの琉球・沖縄史]]
([TIME[2016-01-24 00:05:26 +09:00]] 版)
<http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/06/post-72ef.html>
]FIGCAPTION]

> 明朝の朝貢国だった琉球では、一貫して中国元号を使用していました。元号を受け入れることは、空間的に中国の国際体制に参加するだけでなく、時間的にもその傘下に入ることを意味していたのです。ちなみに琉球の「○○王統」や「○○王~年」という表現は、古琉球当時には一切ありません。
> 洪武 こうぶ (1368~1398)
> 建文 けんぶん (1399~1402)※
> 永楽 えいらく(1403~1424)
> 洪煕 こうき(1425)
> 宣徳 せんとく(1426~1435)
> 正統 せいとう(1436~1449)
> 景泰 けいたい(1450~1456)
> 天順 てんじゅん(1457~1464)
> 成化 せいか(1465~1487)
> 弘治 こうじ(1488~1505)
> 正徳 せいとく(1506~1521)
> 嘉靖 かせい(1522~1566)
> 隆慶 りゅうけい(1567~1572)
> 万暦 ばんれき(1573~1619)
> ※建文帝は永楽帝のクーデターにより皇位を奪われたので、その存在を抹消されていた。琉球側の記録では建文年号の使用は見られないが、当時の状況から言えば建文帝存命当時には使用されていた可能性が高い。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[444] [CITE[琉球新報新聞博物館]]
([TIME[2016-01-19 13:21:59 +09:00]] 版)
<http://page.freett.com/aienar/main/sinbunmuse.htm>
]FIGCAPTION]

> 来館した時、明治27年12月16日付と同年12月28日付の琉球新報のコピーがおいてありましたので、頂いて参りました。年号が明治の元号、西暦の他に、神武暦が書かれているのは時代的なものでしょうが、中国の清暦の記載まであるのは沖縄の地域的なものなのでしょう。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[443] [CITE@ja[沖縄紀行:琉球八社を巡る -2日目-]]
([TIME[2016-01-24 00:09:21 +09:00]] 版)
<http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2007/2007_0629_Okinawa_02/2007_0629_01.html>
]FIGCAPTION]

> 一方、スポンサーの懐具合についてはどうだろう。そのヒントは由緒書に隠されている。
> 天久宮の創建は "成化年間"とあるが、実は日本の元号に "成化" というのはなく、琉球にもない。これは中国の元号である。当時の王朝は明で、成化年間は1465~1487年に相当する。
> 一国が自国の歴史を刻むとき、自前の暦(こよみ)を使うか外国の暦を使うかで、国家間の力関係を読み解くことができる。この場合、もちろん琉球は明に柵封される立場であり、強い影響下にあったので暦も明暦を使っているのである。

]FIG]




[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[484] ([TIME[2001-02-07 20:31:06 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>
]FIGCAPTION]

> [二九七 中山王世子尚賢より隆武帝あて、登極を賀し、朝廷の恩を謝す奏文]
> 隆武二年三月初九日
>  琉球国中山王世子臣尚賢、謹んで上奏す

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[485] ([TIME[2001-02-07 20:31:06 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>
]FIGCAPTION]

> [三〇二 中山王世子尚質より福建布政使司あて、未だ帰国しない進香および慶賀使節の安否を問う咨文]
>  右、福建等処承宣布政使司に咨す
> 隆武五年二月 日
> ※本項の記年の隆武五年は順治六年(一六四九)に相当するが、隆武
は二年までで、その年に清に亡ぼされている(なお鄭成功は「隆武
四年暦」を出している)。当時の琉球の情報は隆武帝の即位までで
あり、隆武二年の金正春らの慶賀使派遣、同年冬の毛大用の帰国以
後、情報はとだえており、この間の金正春らの探訪船の派遣も福州
に達していない。まして、清軍による福州制圧の情報は未だもたら
されていなかった可能性が強い。なお、本項への中国側(魯監国)
からの返書は二九六項にあるので、項注ともに参照されたい。]

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[486] ([TIME[2001-02-07 20:31:06 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>
]FIGCAPTION]

> [三〇四 中山王世子尚質より巡撫福建都察院捉あて、金思徳らの送還の際の尽力に感謝する咨文]
>  右、巡撫福建都察院捉に咨す
> 順治六年十一月十三日

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[487] ([TIME[2001-02-07 20:31:06 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>
]FIGCAPTION]

> [二九一 中山王世子尚賢より中国あて、先帝毅宗への進香使の派遣についての符文]
> 弘光元年四月十五日給す

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[488] ([TIME[2001-02-07 21:10:20 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%97%f0%91%e3%95%f3%88%c4%91%e6%88%ea%8fW%83e%83L%83X%83g/03.txt>
]FIGCAPTION]

>     一集  巻三
> 勅詔集
>   起順治四年
> 歴代宝案
>   至康熈三十四年

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[624] ([TIME[2013-03-30 13:59:04 +09:00]])
<http://rekibun.jp/201212tyousa.html>

[6] ([TIME[2018-11-25 20:17:54 +09:00]]) <https://web.archive.org/web/20170408100324/http://rekibun.jp/201212tyousa.html>
]FIGCAPTION]

>  『比嘉春潮全集』(第一巻 歴史篇Ⅰ)の後のグラビアに「のろの辞令書」として掲げてあり、本文に「のろ辞令書」についての説明が見つからない。「中国の三藩動乱と沖縄」(201頁)の琉球のスタンスを示すものとしてのものであろう。そのことについて、島袋源一郎は『補遺伝説 沖縄の歴史』(317頁)の「明・清の乱と琉球の態度」でこの辞令書を挙げている。「承応二年(1653)王尚質より今帰仁間切中城のろくもいに賜はりし辞令に、隆武八年と記されている。是れ即ち靖南王の称へた年号で清の福臨の順治十年に当たっているのから考えれば、あるいは順治を称へ、あるいは隆武を用い、その間日和見的態度にいたと推定することが出来る」とある。
>  伊波普猷は「その頃から進貢使は空道と称する琉球国王の印璽を押した白表を携帯していて、万一支那の革命の時は直ちに之に表文を認めることにしていたという。以て当時如何に事大主義なりしかを察知すべきである」と。
>  隆武年は動乱で1年しかないが、琉球では隆武八年(順治10年:1653)まで架空の年号を用いたことになる。中城のろ辞令書であるが、架空の年号を7年も使っていたわけである。動乱中の弘光元年(1645)の辞令書、それと隆武三年の辞令書があるが(辞令書等古文書調査報告書:沖縄県文化財調査報告書)、二点については動乱中、動乱間もない頃なので、当時の情報の流れからすると致し方ないのかもしれない。

]FIG]

- [468] [CITE[徳之島における三平所と手々村神役の継承システム : 琉球と薩摩藩の影響を受けた文書とシマの運営を含め]]
([[弓削政己]],
[TIME[2015-03-31]], 
[TIME[2018-11-25 20:13:45 +09:00]]) <https://hdl.handle.net/10114/9940>
-- 旧:
([TIME[2015-04-01 16:09:36 +09:00]] 版)
<http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/9940/1/15_oki_41_yuge.pdf>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[464] [CITE@ja[「癒しの島」から「冷やしの島」へ:琉球王国の測量技術と遺産「印部石」]]
([TIME[2016-02-05 17:32:11 +09:00]] 版)
<http://earthcooler.ti-da.net/e2559845.html>
]FIGCAPTION]

> 1609年に琉球王国を侵攻した薩摩藩が「慶長検地」を行い石高を定めた後、首里王府は1735年から1750年にかけて自主的に検地を実施した。これを「乾隆(注1)大御支配」(けんりゅうのおおごしはい)といい、その際に用いられた図根点(基準点)を「印部石(シルビイシ)」という。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[465] [CITE[小禄 -OROKU- うるく]]
([TIME[2015-01-20 11:28:12 +09:00]] 版)
<http://098oroku.net/haru.html>
]FIGCAPTION]

> その後、1737~50年(乾隆2~15)に王府は印部土手を用いた独自の測量法で両先島を除く沖縄島と周辺離島を検地した(乾隆大御支配=元文検地)。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[56] [CITE[企画展「琉球王国の小さな遺産」]]
([TIME[2018-12-08 11:10:33 +09:00]])
<http://www.city.ginowan.okinawa.jp/pageRedirect.php?url=/2556/2562/2563/2602/36742/37476.html>
]FIGCAPTION]

> 印部石とは、沖縄が琉球王国だった時代、1737年~1750年にかけて実施された「乾隆(けんりゅう)検地」(「元文検地」または「乾隆大御支配(けんりゅうおおごしはい)」ともいう)の際、測量の基準点として置いた石のことです。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[690] [CITE@ja[八重山地震 - Wikipedia]]
([TIME[2018-09-27 00:52:27 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%87%8D%E5%B1%B1%E5%9C%B0%E9%9C%87>
]FIGCAPTION]

> 先島諸島(特に八重山列島)が大きな被害を受けた。そのため、元号を取って明和の大津波ともよばれる。
[SNIP[]]
> 防災システム研究所の山村武彦は、従来、地元ではこの地震による津波は乾隆大津波又は八重山大津波と呼ばれていたようだとする。そして、前者の名称は、この地震の発生年が、当時、琉球王国が使用していた中国の元号'''['''注 1''']'''で乾隆(けんりゅう)36年にあたることに由来しており、牧野清が1968年に著した『八重山の明和大津波』'''['''20''']'''で日本の元号で呼んでから、明和の大津波と呼ばれるようになったとされると述べている'''['''24''']'''。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[466] ([TIME[2009-09-11 15:01:00 +09:00]] 版)
<http://www.shimatate.or.jp/20kouhou/simatatei/50/06-09.pdf>
]FIGCAPTION]

>  図の左端の上に「嘉慶元年(一七九六)丙辰九月九日」と製作年月日と思われる日付を見ることができる。瓜二つの『薩摩藩調製図』も、これと同時に王府内で調製されたものと考えられる。

]FIG]

;; [[嘉慶]]は[[日本]]の[[北朝]]の[[元号]]でもあり、
[[清国]]の[[元号]]でもありました。この場合は[[清国]]の方です。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[467] [CITE[[[奄美諸島]]のノロ(女性祭司)関係文書 ―16世紀から19世紀において]]
([TIME[2016-02-05 18:11:02 +09:00]] 版)
<http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/26342/1/cdats-hub2-17.pdf>
]FIGCAPTION]

> 
[BOX(vertical)[
萬暦十五年十月四日
]BOX]

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[13] [CITE@ja[白雪姫と七人の小坊主達 チベットゼミ in 沖縄(前半)]]
([[白雪姫]] 著, [TIME[2016-02-08 23:48:36 +09:00]] 版)
<http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-602.html>
]FIGCAPTION]

> 今日は沖縄三山時代の北山の王城の地、今帰仁城(ナキジングスク)に行く。むろん、世界遺産であーる。
>  この城の上には乾隆14年の碑文があり、沖縄が薩摩の実効統治下にありつつも公式には中国元号を用いていたことがわかる。

]FIG]

- [249] [CITE[沖永良部島民のアイデンティティと境界性]],
[[高橋孝代]],
[TIME[2004 年 2 月][2004-02]]
<https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=24690&file_id=20&file_no=2>
PDF 72頁から
- [244] [CITE[与那国島報告書(カラー).ren - yonaguni7.pdf]], [TIME[2017-12-04 16:37:34 +09:00]] <https://okimu.jp/userfiles/files/page/museum/issue/report/yonaguni7.pdf#page=6>
]REFS]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[288] [CITE@ja[琉球王朝の頃、どのような暦を使っていたか知る手掛かりとなる資料があるか。また、その暦は薩摩藩と関係が... | レファレンス協同データベース]]
([[国立国会図書館]] 著, [TIME[2015-12-25 16:27:40 +09:00]] 版)
<http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000085357>
]FIGCAPTION]

> 上記資料から、沖縄の暦は進貢していた中国との関連が深いことがわかる。例えば、1465年琉球で初めて暦を作成した金鏘や、1674年暦を作成し広めた楊春栄は中国で暦法を学び、暦官として造暦を司っている。但し、第一尚氏王統時代には薩摩の侵攻と明清交代期であった影響で、和暦も使われたとの記述もある。また薩摩の侵攻後は琉球・薩摩両者の間で暦の併用、交換を行っていたことが当時の史料から確認できる。
> 1663年清の公暦である「時憲暦」を国内で刊行、1718年には「時憲暦」を沖縄に合わせて修改した暦「撰日通書」が作成され、一般に用いられたとされる。その他、民間で作られた暦として「選吉必鑑」や「選日宝鑑」、「廸吉全書」などがある。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[289] ([TIME[2014-07-20 20:07:20 +09:00]] 版)
<http://www1.cts.ne.jp/~koyomi/kikou2-20.html>
]FIGCAPTION]

> 〈中国暦の流通〉沖縄は明・清両王朝の正朔を受けるという冊封(さくふう)関係にあり、福建省まで
>  暦を受取りに行って毎年100部の暦が授けられた。しかし、年内未着の場合に備えて独自の「琉
>  球暦」を造暦し、康熙57年(1718)には『選日通書』(「通書」は雑書と同じ意味)と改名した。これを可
>  能にしたのは、清の頃に何年か先までの暦を記した官撰の「万年暦」が刊行されていたためでる。
> 〈砂川(うるか)暦〉これは宮古島城辺町(宮古島市)砂川地区で使用された暦。流刑地であった宮古
>  島に流されてきた知識人などの協力もあって、幕末以来、近年までおよそ100年続いた。現在は
>  神宮館の暦を用いている。 

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[290] ([TIME[2011-01-05 13:28:33 +09:00]] 版)
<http://www.chikyu.ac.jp/sociosys/PDF/okamoto-repo-2006.pdf>
]FIGCAPTION]

> 史料4:原田禹雄訳注『周煌 琉球国志略』巻四下、節令
>  『隋書』に、「月のみちかけを眺めて、時節を数え、草が茂り枯れるのをうかがって、一年とする」
> と、ある。思うに、これはすべて、まだ中国と通じなかった昔のことにすぎない。現在は、代々(中国
> 皇帝より毎年頒賜される)暦に謹んで従い奉っている。(琉球の)貢使が北京に着くと、必ず往って時
> 憲書を賜って、それを奉持して帰国する。そして、琉球国内では、特に通事官を置き、あらかじめ『万
> 年暦』によって、推算応用する《(暦の)書面には、「琉球国の司憲書官は、謹んで教礼に従い、選日通
> 書を印刷製造して、仮に国内に施行させ、(中国の)天朝が(時)憲書を頒賜あそばされるのを、お待
> ち申し上げるものである。頒賜された(時)憲書が、わが国に到着次第、国をあげて、すべて(時)憲
> 書を用い、ともに一王(皇帝)の正朔(暦)に、謹んで従い奉ることができるのである。これぞ、千億
> 万年も王(皇帝)の導きと、教化を尊ぶという意味なのである」と、書かれている》。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[291]  [CITE[琉球王朝の暦日 suchowan's blog/ウェブリブログ]]
([TIME[2014-10-01 19:20:06 +09:00]] 版)
<http://suchowan.at.webry.info/201410/article_1.html>
]FIGCAPTION]

> when.exe では、琉球王の薨去の日付を『コンサイス世界年表』から
> とっています。'''['''1''']'''
> | 尚真王 大永 6(1526) 12 11 62歳
> という具合です。この「大永」は日本の年号です。一方、朔閏表は
> 島津の薩摩入りまでは中国、以降は日本の朔閏表を用いていました。
> 今回、確認したところ、もともとの日付は中国暦日で表現されていた
> ものを、『コンサイス世界年表』が月と日はそのまま保持して、機械的に
> 年を中国の年号と年次から日本の年号と年次に置き換えていたことに
> 気付きました。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[292] [CITE[館長連続講演会「暦とくらし-日本編-」 千里ニュータウン+万博+∞…=吹田市立博物館!/ウェブリブログ]]
([TIME[2015-07-21 12:49:34 +09:00]] 版)
<http://sui-haku.at.webry.info/201301/article_6.html>
]FIGCAPTION]

> 学友の安藤隆雄君が明治改暦の時の旧暦と新暦を持参し、紹介してくれました。旧暦は使われず回収されたため、古本の市場にもあまりでまわっていないそうです。
> アルプスの少年
> 2013/01/20 18:09
> 琉球王国は日本と中国の年号をつかいわけていたそうです。暦も時憲暦をつかっていました。いまでも旧暦の記載がある『沖縄琉球暦』が重宝がられているようです。
> アルプスの少年
> 2013/01/20 18:20

]FIG]


[367] [CITE@ja[Xユーザーの𫇰國音之字さん: 「「漢字文化圏」の概念がなかったから「同文」を使ったかな? 和訳「天地上において同文の国が五つある。それは中国・ベトナム・朝鮮・日本そして琉球である。琉球の年号は各代とも「寛永」というように記している。この 国は閩海の東方にあり、船で行くと5、6 日かかる。明堂にて朝会の慣例あり」(1/3) https://t.co/l45drATBjj」 / X]], [TIME[午前4:50 · 2025年6月3日][2025-06-02T19:50:03.000Z]], [TIME[2025-06-11T04:14:36.000Z]] <https://x.com/mun_ghion/status/1929626586367906200/photo/1>

;; [368] [[越南人]]の記録

[386] 
[CITE@ja-JP[沖縄近世史の諸相]], [[田名真之]], [TIME[1992.9][1992]], [TIME[2025-12-18T02:09:35.000Z]], [TIME[2026-01-06T06:37:33.637Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13272238/1/128?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83> (要登録)


* 首里城下の報時

[342] [[琉球王国]]時代には、[[首里城]]の[[日時計]]と[[水時計]]に基づき[[太鼓]]で城内に時刻を知らせ、
更に[[鐘][時の鐘]]により城下にも[[報時]]していました。

;; [37] 
[[日本本土]]の他の[[城下町]]でも同様でした。
[SEE[ [[時の鐘]] ]]

[REFS[
- [155] [CITE@ja[琉球古来の数学 - 国立国会図書館デジタルコレクション]] ([[矢袋喜一]]著, [TIME[大正4][year:1915]]) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952291/63>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[89] [CITE@ja[沖縄美ら島財団 - 琉球王国御用達の時計 今では身近な時計ですが、昔は正確な時刻を知るというのは大変なことでした。...]]
([TIME[2015-12-23 22:00:22 +09:00]] 版)
<https://www.facebook.com/okinawa.churashima/posts/423749107812650>
]FIGCAPTION]

> かつての琉球王国では時間をどのように計っていたかというと・・・
> 水時計と日時計を組み合わせて用いていました。
> 水時計は、水槽に水を流し、水がたまる速度が一定であることを利用し、時刻を知るという方法です。
> その水時計があった場所が、漏刻門(ろうこくもん)と呼ばれる場所でした。
> 「漏刻」とは中国語で「水時計」を意味しています。
> 日時計は、太陽の位置から時刻を知る方法です。
> 琉球王国では、「日影台(にちえいだい)」と呼ばれる日時計が用いられていました。
> 時刻版と呼ばれる石の円盤の上に棒を立て、その陰の位置から時刻を計っていました。
> 日時計は太陽の動きに対応しなければなりませんので、季節ごとに時刻版を変えていたようです。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[90] [CITE[時計番はエライのだ: 目からウロコの琉球・沖縄史]]
([TIME[2015-12-23 22:01:28 +09:00]] 版)
<http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2007/02/post_2cc4.html>
]FIGCAPTION]

> この日時計が設置されたのは近世(江戸時代)の1744年のことです。日時計の導入を進めたのは、あの大政治家と呼ばれた蔡温です。実は、首里城の門の名前(漏刻門)からもわかるように、蔡温による日時計の設置以前にも、ここには時計(漏刻器。水時計)が設置されていました。古い記録から1463年(古琉球時代)にすでに存在していたことがわかりますが、この時計はあまり正確ではなかったようです。
> 蔡温は西原の幸地村(刻時嶺)であらかじめ日時計の実験をおこない、5年間の観測の後に首里城に導入します。この時計によって、琉球では正確な時間が計れるようになります。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[91] [CITE[首里城をゆく      ]]
([TIME[2014-02-05 17:57:53 +09:00]] 版)
<http://www.lint.ne.jp/~uematsu/shuri.html>
]FIGCAPTION]

> 漏刻門(ろうこくもん)
> 「漏刻」は中国語で「水時計」の意味。門の楼内の水時計と奥の広場にある日時計とセットで時間を計った。時刻は太鼓で知らせたという。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[92] [CITE[首里城跡]]
([TIME[2014-01-16 10:39:44 +09:00]] 版)
<http://5.travel-way.net/~niemon/okinawa/nahasi/syurijo.html>
]FIGCAPTION]

> 漏刻門
> 「漏刻とは、中国語で水時計という意味です。この門の上の櫓の中に水で時間をはかる水槽(水時計)が設置されていました。門をすぎた広場には日時計があり、その二つで時刻をはかり、太鼓をたたいて時をしらせました。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[93] [CITE[沖縄旅日記8]]
([TIME[2002-01-21 16:48:44 +09:00]] 版)
<http://homepage2.nifty.com/aquarian/Okinawa/OkinawaJourney/OkwaJrny_8.htm>
]FIGCAPTION]

> 次に辿り着いた門が「漏刻門(ろうこくもん)」。櫓の中に、時刻を計る水時計があったことから、名付けられた。門の内側には、かつて、日時計があって、太鼓を打ち鳴らして時刻を知らせたという。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[94] [CITE[JOBBB 168 沖縄ボラボラ② 那覇市 写真と記事のページ]]
([TIME[2012-11-09 02:11:01 +09:00]] 版)
<http://jobbb.sakura.ne.jp/radio/168Okinawa-bora-bora2/Okinawa-bora-bora2-picturecaption01.html>
]FIGCAPTION]

> 漏刻門(ろうこくもん 漏刻は中国語で水時計の事。門上のやぐらの中に水時計が設置されていたことからこの名がついた)を過ぎたところに現れる広場。
> ここには日時計があり街の方に向けられています。
> 琉球王国時代はこの日時計で午前・午後という大きな時刻を、漏刻門の水時計(漏刻)で細かな時刻を計算し、太鼓を叩いて人々に時刻を知らせたそうです。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[95] [CITE[JOBBB 168 沖縄ボラボラ② 那覇市 写真と記事のページ]]
([TIME[2012-11-09 02:11:01 +09:00]] 版)
<http://jobbb.sakura.ne.jp/radio/168Okinawa-bora-bora2/Okinawa-bora-bora2-picturecaption01.html>
]FIGCAPTION]

> 西(いり)のアザナという高台からは那覇市内が一望できます!目の前に広がるビル群に圧倒されること間違い無し!?現地解説板によると琉球王国時代にはここに鐘楼が建っており、鐘を打ち鳴らして時刻を知らせたそうです。標高は約130mあるとのこと。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[96] [CITE@ja[西のアザナ |「テンペスト」沖縄観光ガイド - Walkerplus]]
([TIME[2015-12-23 22:16:50 +09:00]] 版)
<http://sp.walkerplus.com/tempest/13.html>
]FIGCAPTION]

> かつて「西のアザナ」は「島添(シマスイ)アザナ」とも呼ばれており、その意味については「浦々を支配する」と「浦々を擁護する」の2説が存在しています。この「西のアザナ」でも、「東のアザナ」や「右掖門(うえきもん)」と同様に、1879年の琉球処分まで「漏刻門(ろうこくもん)」の時を報せる太鼓に呼応して、同時に鐘を打って城下に時刻を報せていました。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[97] [CITE@ja[首里城公園紹介動画「西のアザナ」 | 首里城公園 ‐ 琉球王国の栄華を物語る 世界遺産 首里城]]
([TIME[2015-12-23 22:18:47 +09:00]] 版)
<http://oki-park.jp/shurijo/1717>
]FIGCAPTION]

> 別名「島添(しまそえ)アザナ」ともいい、往時はここに旗を立て、鐘を備えて時刻を報じた。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[38] [CITE@jp[西のアザナ (観光情報) (観光情報) | 沖縄観光 VELTRA(ベルトラ)]]
([TIME[2015-12-23 22:19:28 +09:00]] 版)
<http://www.veltra.com/jp/japan/okinawa/ctg/173782:%E8%A5%BF%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%83%8A/>
]FIGCAPTION]

> 昔はここに旗を立て、鐘を備えて時刻を報じたといわれています。1879年の琉球処分まで(漏刻門)の時を報せる太鼓に呼応し、同時に鐘を打って城下に時刻を報せていました。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[99] [CITE[おきなわ建築Web|沖縄 暮らしのでざいん研究会【野外ワーク・第1回首里城~玉陵】]]
([TIME[2014-05-03 20:30:43 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa-kentikuweb.com/special/okinawakurasi/work/01/index.html>
]FIGCAPTION]

> 西のアザナと東のアザナ、右掖門では、漏刻門の時を報せる太鼓と合わせて、同時に鐘を打って城下に時を報せていました。明治12年の琉球処分まで続いていました。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[100] [CITE@ja[那覇港、沈みゆく夕日、那覇市街、三日月…首里城「西のアザナ」から - 結~つなぐ、ひらく、つむぐ~]]
([TIME[2015-12-23 22:23:41 +09:00]] 版)
<http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/1d8a31f85a5e5bdb8e41a91b6beaa1f3>
]FIGCAPTION]

> 「西(いり)のアザナ…城郭の西端に築かれた物見台で、別名を『島添(しまぞえ)アザナ』ともいいます。かつてはここに鐘楼が建っていて、鐘を打って時刻をしらせました。 標高は約130mで、那覇市街や那覇港のようす、そして遠く水平線上には慶良間諸島を望むことができます。」

]FIG]

]REFS]

* 独自の文字による日時表記

[143] 
[[沖縄]]、特に[[先島]]では、[[数値]]の記述に[[藁算]]と呼ばれる[[結縄]]法が用いられました。
[[明治時代]]頃まで続いていたようです。
その用途には[[暦日]]記述も含まれていました。
[SRC[>>142]]

[147] 
[[石垣島]]では、木製の[[日時計]]が ([TIME[昭和9年7月][1934-07]]の) 
「最近」喜舎場氏により旧家から発見されました。
「一年の季節を表した字」がはっきり判読できる状態でした。[SRC[>>145]]


[148] 
[[石垣島]]の[[石垣町]][[北]]約一里の山麓のハナ[ASIS[バ][バ? パ?]]ル山なる場所に、
天測の遺跡がありました。
カナハリかカラハカリ (唐計り) の転かとの説もありました。 [SRC[>>145]]
(しかし○○バルは[[原]]の可能性の方が高いのでは。)
[[星見石]] [SRC[>>154]] でしょうか、
あるいはもっと大規模なものがあったのでしょうか。

[256] 
[[先島]]で使われた[[カイダー字]]には、
[[漢字]]から派生した[[数字]]や「[[月]]」や「[[日]]」
の[[字]]が含まれており、
[[日付]] ([[月日]])
の表記に使われました。
[SEE[ [[カイダー字]] ]]

[257] 
[[南西諸島]]各地に[[十干十二支]]を表す独自の記号がありました。
[SEE[ [[琉球古字]] ]]


[REFS[
- [145] [CITE@ja[国立国会図書館デジタルコレクション - 南島覚書]] 
([[須藤利一]],
[TIME[2015-12-28 21:26:37 +09:00]] 版) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460042/25>
- [142] [CITE@ja[国立国会図書館デジタルコレクション - 南島覚書]] ([TIME[2015-12-28 21:26:37 +09:00]] 版) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1460042/129>
- [154] [CITE@ja[星見石 - Wikipedia]] ([TIME[2019-01-12 16:29:29 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E8%A6%8B%E7%9F%B3>
]REFS]

[340] [CITE[<4D6963726F736F667420576F7264202D20926B93562D90AF8CA990CE82C982C282A282C4303731313131302E646F63> - yokoo.pdf]], [TIME[2008-02-13T16:43:41.000Z]], [TIME[2021-05-08T07:02:46.989Z]] <https://www2.nao.ac.jp/~mitsurusoma/yokoo.pdf>

* 明治維新後の内地化

;; [24] 
[TIME[明治4年][year:1871]]、
[[廃藩置県]]により[[鹿児島藩]] ([[薩摩藩]]) は[[鹿児島県]]となりました。
[[奄美群島]]・[[吐噶喇列島]]は[[鹿児島県]]管轄となり、
[[琉球王国]]は[[鹿児島県]]の[[属国]]となりました。

;; [68] 
[TIME[明治5年][year:1872]]、
[[琉球王国]]が[[廃止]]され、[[琉球藩]]が設置されました。

[433] [[琉球藩]]時代には、
まだ[[支那の元号]]が使われていたようです。


[722] [TIME[明治6年][year:1873]]、
[[改暦][明治改暦]]により[[太陽暦]]が実施されました。

[404] [TIME[明治8年][year:1875]]、
[[日本政府]]は[[琉球藩]]に対し、[[明治]]の[[元号]]を使うよう求めています。
当時の[[沖縄]]では日本に対しては[[日本の元号]]を使い、
[[清國]]に対しては[[支那の元号]]を使っていたようで、
そのような慣習を改めなければならない、とされていました。 [SRC[>>403]]
[[琉球藩]]は、
「皇国ニ対シ奉リテハ皇暦ヲ用ヒ、
支那ニ対シテハ彼ノ暦を用ヒ」
ることを認めるよう[[日本政府]]に求めました [SRC[>>1068 p.182]]。
しかし[[日本政府]]は、
「両属ノ体タラシムルハ国権ノ立タザル最モ大ナルモノ」
とし、拒否しました [SRC[>>1068 p.182]]。


[4] [TIME[明治12年][year:1879]]まで[[琉球藩]]は引き続き[[暦]]を発行していたといいます 
[SRC[>>22]] し、
中央政府から[[清国]]の[[元号]]をやめて[[明治]]の[[元号]]を使うようわざわざ要求されている状況でしたから、
実態としては[[琉球王国]]時代と変わっていなかったのかもしれません。


;; [723] [TIME[1879年4月4日][1879-04-04]]、[[琉球藩]]が[[廃止]]され、
[[沖縄県]]が設置されました。


[80] 
[[沖縄県]]設置後公式には[[選日通書]]は発行されなくなりました。
しかしその後も[[石垣島]]では[CITE[選日通書]]という[[時憲暦]]による[[略暦]]が発行されていたようです。
[SRC[>>22]]

[434] [[沖縄県]]設置後本格的に[[明治]]など[[日本の元号]]が使われるようになりました。
公文書で[[支那の元号]]は使われなくなりました
[SRC[>>1068 p.184]]。
しかし民間ではその後も[[日清戦争]]頃まで使われ続け、
遺骨を入れる箱や壷などに[[清国]]の[[光緒]]が残っているようです
[SRC[>>1068 pp.184-185]]。

[407] 
[TIME[明治21年1月1日][1888-01-01]]、
[[中央標準時]] [TZ[+09:00]] が実施されました。

[30] ただし[[沖縄]]までの海底[[電信]]線が開通したのは[TIME[明治29年][year:1896]]なので、
それまでは[[中央標準時]]に正確に[[同期][時刻同期]]された[[時計]]はなかったかもしれません。



[192] 
[TIME[明治26(1893)年][year:1893]]、
[CITE[琉球新報]]が創刊しました。
各ページ上部の[[日付]]欄に、
[[日本の元号]]、
[[皇紀]]、
[[清暦]]、
[[西暦]]が記載されました。
[SRC[>>1068 p.184]]

その[TIME[翌年][year:1893]]の紙面の写真にうつっている範囲では、
[[右横書き]]で次のようにありました
<https://cdn.mainichi.jp/vol1/2018/12/17/20181217ddm001010029000p/6.jpg>。

- 明治二十七年十ニ月十六日[INS[以後不明]]
- 神武紀元二千五百[INS[以後不明]]
- 清曆光緒二十年十二月(大)[INS[以後不明]]
- 西曆千八百九[INS[以後不明]]

;; [193] 
このような併記は[[大韓帝国]]の新聞にも見られました。
[SEE[ [[大韓帝国の日時]] ]]



;; [2146] 
[[尖閣諸島]]は[[江戸時代]]以前から[[先島諸島]]と人の行き来があり、
実質的に[[琉球]]の一部でした。[[沖縄県]]設置後も、
その[[行政]]的な管理下にありましたが、
[TIME[明治28年1月14日][1895-01-14]]、
[[日本政府]]の[[閣議決定]] (明治28年内甲第2号閣議決定) [SRC[>>72]]
により、
正式に[[日本]]の領土に編入されました [SRC[>>71]]。

;;
[75] [TIME[明治28(1895)年][year:1885]]には[[北大東島]]・[[南大東島]]が、
[TIME[明治33(1900)年][year:1900]]には[[沖大東島]]が (明治33年沖縄県告示第95号)、
[[沖縄県]]に編入されました。

[27] 
[[尖閣諸島]]や[[大東諸島]]も、 ([[法的]]には) [[中央標準時]]
[TZ[+09:00]] が実施される地域となりました。


[201] 
明治末頃から大正時代にかけて、
[[内地]]同様に[[旧暦]]から新暦への移行が励行されましたが、
大きな成果はあげられませんでした。
[SRC[>>199]]
[SEE[ [[明治改暦]] ]]



[REFS[
- [403] [CITE@ja[公文別録・[[琉球]]廃藩置県処分・明治八年・第一巻・明治八年]] ([[独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN]]著, [TIME[2019-09-16 12:03:23 +09:00]]) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001692005>
-- 旧: [CITE[国立公文書館 アジア歴史資料センター 標題:明治ノ年号遵奉及藩制改革等ヲ令ス附松田内務大丞ノ説明書]] ([TIME[2016-01-26 01:38:20 +09:00]] 版) <http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A03022995500>
--
[191] 
>>1068 pp.181-182 が
「日本政府ノ版図タレバコノ年号ヲ奉ズベシ」
と引くのはこれ (PDF 6ページ)
- [22] [CITE[Amazon.co.jp: 暦の大事典: 岡田 芳朗, 神田 泰, 佐藤 次高, 高橋 正男, 古川 麒一郎, 松井 吉昭: 本]] ([TIME[2014-09-10 13:46:09 +09:00]] 版) <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4254102372/wakaba1-22/>
- [71] [CITE@ja[尖閣諸島情勢に関するQ&A | 外務省]] ([TIME[2014-06-18 06:21:09 +09:00]] 版) <http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/qa_1010.html#q2>
- [72] [CITE[標杭建設に関する閣議決定]] ([TIME[2014-08-29 16:11:41 +09:00]] 版) <http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/2a11rui715-1895/1895-01-14.html>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[302] [CITE@ja[琉球王国 - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-13 13:48:35 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD>
]FIGCAPTION]

> 1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に「陞爵」して華族に列した。明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫ったが、琉球は従わなかった。そのため1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ'''['''10''']'''、沖縄県令として前肥前鹿島藩(佐賀藩の支藩)主の鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[303] [CITE@ja[琉球藩 - Wikipedia]]
([TIME[2015-12-18 18:59:54 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E8%97%A9>
]FIGCAPTION]

> 明治政府は翌1875年、琉球に対して清との冊封と朝貢関係の廃止、ならびに明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との朝貢関係を継続する意向を表明。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[447] [CITE@ja[台湾出兵 - Wikipedia]]
([TIME[2015-07-09 08:34:24 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5>
]FIGCAPTION]

> 明治政府は翌1875年(明治8年)、琉球に対し清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令した。しかし琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[446] [CITE@ja[琉球王国 - Wikipedia]]
([TIME[2015-07-03 12:09:44 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD>
]FIGCAPTION]

> 明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫ったが、琉球は従わなかった。

]FIG]

]REFS]


* 西部標準時


[9] [DFN[[[西部標準時]]]]は、[TIME[明治29年1月1日][1896-01-01]]
[SRC[>>8]] から昭和12年/1937年9月30日 
[SRC[>>59]] まで、[[大日本帝国]]の西部地域で用いられていた[[標準時]]です。

[62] [LON[東経120度子午線][120E]]の[[時刻]] [SRC[>>8]]、すなわち
[TZ[+08:00]] でした。

[44] [[西部標準時]]と共に[[夏時刻制]]が実施されたことはありません。

[64] [[台湾]]・[[澎湖列島]]と[[八重山列島]]・[[宮古列島]]に適用されていました
[SRC[>>8]]。

[227] [[関東州]]および[[満鉄附属地]]でも[[西部標準時]]が採用されていました。
更に、[[満州国の標準時]]や[[支那]]の[[北京]]、[[南京]]、[[上海]]等を含む地域の標準時とも一致していました。
[SEE[ [[関東州の標準時]]、[[中国大陸の標準時]] ]]

;;
[172] 
[[満州国の標準時]]や[[中華民国]]の[[時刻]]を[[西部標準時]]と呼ぶのは[[法令]]を厳密に解釈すると正しくありませんが、
日常的には ([[日本人]]は) 素朴に
[TZ[+08:00]] のことを[[西部標準時]]と呼ぶこともありました。

** 名称

[212] [[西部標準時]]は次のように呼ばれることがあります。
(当時から使われたものかどうかは定かではありません。)

[FIG(middle list)[ [974] [[西部標準時]]の呼称
- [[西部標準時]]
- [DFN[Western Standard Time]]
- [DFN[Western S. T.]]
- [DFN[[[日本西部標準時]]]]
- [DFN[[[JWT]]]]
- [DFN[[[Japan Western standard Time]]]]
- [DFN[Western Standard Time]]
]FIG]

[SEE[ 利用事例については[[日本の標準時]] ]]

** 創設


[45] 
[[西部標準時]]は、
[TIME[明治28年12月28日][1895-12-28]][[勅令]]第167号
[CITE[標準時ニ關スル件]]で定められ、
[TIME[明治29年1月1日][1896-01-01]]に[[施行]]されました
[SRC[>>8]]。


[366] 
[TIME[明治28年6月20日][1895-06-20]]、
[[日本政府]]の[[帝国大学]] [WEAK[(現在の[[東京大学]])]] の[[総長]]の[[濱尾新]]は、
[[理科大学]] [WEAK[(現在の[[東京大学]]理学部)]] の協議をまとめ、
[[文部大臣]]の[[西園寺公望]]に提出しました。
[TIME[29日][1895-06-29]]には[[台湾事務局]]
[WEAK[(当時の[[大日本帝国台湾]]の行政府)]]
の[[総裁]]の[[伊藤博文]]に送付されました。
そこでは次のように述べられていました。 [SRC[>>228]]

- [[中央標準時]]と新領地では1時間前後の[[時差]]があり、新領地では採用できない
- 現在新領地では様々な[[地方時]]が用いられていて不便である
- 新領地の標準時は、現在の[[地方時]]と大差なく、[[中央標準時]]との換算が容易であるべきだ
- すなわち [TZ[+08:00]] がよい
-- [[台湾島]]と[[澎湖諸島]]の間に [LON[120E]] がある
-- [[中央標準時]]とちょうど1時間の[[時差]]である
-- [[萬國普通子午線及計時法公會]]決議の精神や[[欧米]]の[[標準時]]と整合した [[GMT]]
と整数[[時差]]である
-- [[支那]]の東部でも[[標準時]]として用いられるべきものだ
- [[八重山列島]]と[[宮古列島]]でも用いるべきだ
- [[朝鮮國]]でもこれを使うのが便利だ
-- 東岸では30分以上の[[時差]]があるが、
[[中央標準時]]と[[北海道]]の[[時差]]と同程度なので問題なかろう
-- 在朝鮮の日本の機関ではもちろん用いるべき
-- [[朝鮮政府]]に[[朝鮮國]]の[[標準時]]として採用することを勧告するべき
- [[標準時]]の呼称を設けるべき
-- 内地標準時または中央標準時
-- 台湾標準時または西標準時

;; [381] [[中央標準時]]制定を主導した、
初代[[理科大学]]長だった[[菊池大麓]]は[TIME[明治26年9月][1893-09]]に退き、
かわって[[山川健次郎]]が[[理科大学]]長をつとめていました。
(山川は[[天文学]]者ではなく[[物理学]]者であり、議論に参加したかは不明。)

[378] 本案は[[台湾事務局]]委員の賛同を得て
[TIME[12月20日][1895-12-20]]に[[勅令]]案が[[内閣総理大臣]]に提出され、
[TIME[27日][1895-12-27]]に[[裁可]]されました [SRC[>>228]]。

[379] 当初[[勅令]]案には
「朝鮮王國所在ノ帝國諸官衙ノ標準時ハ西部標準時ニ依ル」
ともありました。しかし[[内地]]と[[朝鮮国]]駐在官との連絡は便利になるとはいっても、
[[朝鮮国]]の[[標準時]]となるわけではないので、
時期尚早であると[[台湾事務局]]で判断され、削除されました [SRC[>>228]]。
[SEE[ [[朝鮮半島の標準時]] ]]

[51] 
提案から[[勅令]]となるまで半年かかっていますが、
その間に[[沖縄県]]や[[先島諸島]]現地への照会や調査があったのかは不明です。

[47] 
[[勅令]]には[[施行]]の[[日]]が明記されていませんが、
[[時刻]]は明記されていません。

[49] 一般に[[法令]]で開始の[[日]]だけが記されているなら
[TIME[0時][00:00]]からと解するべきですが、
[[帝國從來ノ標準時]] [TZ[+09:00]] の
[TIME[12月31日24時][1896-01-01T00:00+09:00]]が[[本土]]にあってはそのまま[[中央標準時]]
[TZ[+09:00]] [TIME[1月1日0時][1896-01-01T00:00+09:00]]になり、
西部にあっては[[西部標準時]] [TZ[+08:00]]
[TIME[12月31日23時][1895-12-31T23:00+08:00]]に戻ったということでしょうか。

[50] あるいは[[帝國從來ノ標準時]]実施時には新標準時の0時に[[日本]]各地で[[時砲]]が同時に鳴らされた
([SEE[ [[中央標準時]] ]]) ということですから、
同様に[[西部標準時]]の0時に[[施行]]されたと考えるべきでしょうか。

[48] [[台湾]]や[[先島]]で[[時砲]]のような[[施行]]の合図があったかは不明です。

-*-*-

[52] 
なお、[[下関条約]]の[[発効]]により[[日本領]]となった時点で[[台湾の標準時]]は明治19年勅令第51號
[CITE[本初子午線経度計算方及標準時ノ件]]が適用され[[帝國從來ノ標準時]] 
[TZ[+09:00]] になっていた、と[[法令]]の文面から解釈することも可能ではあります。
[[台湾][大日本帝国台湾]]における[[法律]]の適用については後に明治29年法律第63号
[CITE[台湾ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律]]が定められていますが、
それでもなお[[憲法]]その他の[[法令]]が適用されると解釈するべきかどうか争いがあったようです。
[[台湾の標準時]]については、[[法令]]の解釈はともかく実態として、
[[西部標準時]]実施以前には存在しておらず[[地方時]]が使われていたようではあります。

[REFS[
- [8] 明治28年12月28日勅令第167号
[CITE[標準時ニ關スル件]]
- [59] [CITE[標準時ニ關スル件中改正ノ件]]
- [228] [CITE[||| 臺灣大學深化臺灣研究核心典藏數位化計畫 |||]] (明治28年12月27日 [TIME[2017-11-26 16:58:13 +09:00]]) <http://dtrap.lib.ntu.edu.tw/DTRAP/item?docid=M052_02_0129_0136&corpus=%E4%BC%8A%E8%83%BD%E5%98%89%E7%9F%A9%E6%89%8B%E7%A8%BF&num=10&highprec=1>


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[237] 
[CITE@ja[[[公文類聚]]・第十九編・明治二十八年・第二十八巻・地理・土地・観象、警察・行政警察]]
([[独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN]]著, [TIME[2018-09-26 23:53:04 +09:00]])
<https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?KEYWORD=&LANG=default&BID=F0000000000000005897&ID=M0000000000001736285&TYPE=&NO=>
]FIGCAPTION]

>  標準時ニ関スル件ヲ定ム

]FIG]

]REFS]

** 西部標準時施行下の沖縄

[SEE[ 台湾の状況は[[台湾の標準時]]、関東州の状況は[[関東州の標準時]] ]]

[586] [[西部標準時]]実施中は[[沖縄県]]の区域の中に[[時間帯]]の境界があったことになります。
現代からみると不便そうに思えます
[WEAK[(実際末期には不便だったようで廃止の理由の1つに挙げられています ([SEE[ [[大東亜の標準時]] ]]))]]。
しかし同じ[[沖縄県]]とはいえ[[沖縄諸島]]と[[先島諸島]]は距離がありますし、
明治初期には[[沖縄諸島]]と[[先島諸島]]の間に[[国境]]を置く案すら[[清国]]と交渉が進められていたくらいです。
当時の[[交通]]と[[通信]]の状況や庶民への[[時計]]の普及の具合では、
ここに境界線を引くことにそこまで大きな障害は無かったのでしょう。

[210] 
当時の[[時刻]]の運用や、
[[時差]]による不便などの様子については、
あまり資料が残っていないようです。



[43] [TIME[1982年][year:1982]]に日本で出版された[[石原昌家]]
[CITE[大密貿易の時代: 占領初期沖繩の民衆生活]] [SRC[>>571]]
によると、
[[西部標準時]]実施当時の[[与那国島]]では[[腕時計]]も普及しておらず、
石原の調査時点で[[時差]]のことを記憶している人は少なかったようです。

[42] [TIME[2017年][year:2017]]の[[新聞記事]]は、
[[西部標準時]]廃止当時に[[石垣島]]在住で尋常高等小学校に通っていた者のうち、
[[20世紀]]末まで[[時差]]撤廃のことを記憶している者がほとんどいないとし、
当時[[時計]]のある家が少なかったためか、
としていました。
[SEE[ [[大東亜の標準時]] ]]


[NOTE[
[588] [TIME[1915年][year:1915]]に[[那覇]]で出版された[[八重山諸島]]に関する本
[SRC[>>587]] は、
当時の[[諸島]]の様子を詳細に説明しているにも関わらず、[[時差]]や[[時計]]への言及が一切ありません。
[[大正時代]]であっても、[[著者]]が島内で[[時刻]]について特筆するべきことを見出さなかったということになります。
]NOTE]

[REFS[
- [587] [CITE@ja[国立国会図書館デジタルコレクション - 八重山の研究]] ([[比嘉徳]]著, [TIME[大正4][year:1915]]) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932656>
]REFS]

-*-*-

[70] 
[[西部標準時]]の適用範囲に[[尖閣諸島]]は明記されませんでしたが、
元より[[尖閣諸島]]は[[八重山]]の行政機関の管理下にあり、
正式編入後は[[八重山郡]] [WEAK[([TIME[明治29年4月1日][1896-05-01]]設置 [SRC[>>73]])]]
[[石垣村]] [WEAK[([TIME[大正3年4月1日][1914-04-01]]設置 [SRC[>>74]] = 旧[[八重山村]]・[TIME[明治41年][year:1908]]設置 [SRC[>>74]]、現[[石垣市]])]]
に所属したことから、[[八重山]]の一部として[[西部標準時]]の適用範囲内だったと思われます。

[REFS[
- [73] [CITE[中野文庫 - 沖縄県ノ郡編制ニ関スル件]] ([TIME[2014-08-29 16:19:39 +09:00]] 版) <http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm29-13.htm#%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%83%8E%E9%83%A1%E7%B7%A8%E5%88%B6%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E4%BB%B6(%E6%98%8E%E6%B2%BB29%E5%B9%B4%E5%8B%85%E4%BB%A4%E7%AC%AC13%E5%8F%B7)>
- [74] [CITE@ja[八重山村 - Wikipedia]] ([TIME[2014-08-22 11:58:54 +09:00]] 版) <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%87%8D%E5%B1%B1%E6%9D%91>
]REFS]

-*-*-

[16] [[気象観測]]では一貫して[[中央標準時]]が用いられました。
[SEE[ [[日本の標準時]] ]]


** 西部標準時の廃止

[SEE[ 詳細は[[内臺時差撤廢]] ]]

[65] [TIME[1937年][year:1937]]には[[西部標準時]] [TZ[+08:00]] が廃止され、
旧[[西部標準時]]地域には[[中央標準時]]
[TZ[+09:00]] が適用されました。[TIME[9月30日午後11時][1937-09-30T23:00+08:00]]をもって
[TIME[10月1日午前0時][1937-10-01T00:00+09:00]]とされました。

[98] [[中央標準時]]への統合は、国内の[[時差]]の不便を解消することを目的としていました。
同時期に[[南洋群島]]や[[満州国]]でも[[時差]]の解消が進められていました。

-*-*-

[173] 
[[昭和時代][昭和時代の日時]] ([[西部標準時]]廃止前も廃止後も)、
[[内地]]では[[夏時刻の実施が検討][日本標準時改正案]]されました。
実現した場合、
[[西部標準時]]地域もこれに追随して西部の夏時刻 [TZ[+09:00]]
を実施する、あるいは時差撤廃後の夏時刻 (実質二重夏時刻) [TZ[+10:00]]
を実施するという選択を迫られた可能性がありました。
しかしそこまで具体化することなく廃案となりました。
[SEE[ [[日本標準時改正案]] ]]

-*-*-

[106] [[大東亜戦争の終戦]]後の[TIME[1945-09-21]]、
[[大日本帝国]][[台湾総督府]]は、
[[台湾の標準時]]を旧[[西部標準時]] 
[TZ[+08:00]] に[[改正]]しました。
この時改められたのは[[大日本帝国]][[台湾総督府]]管下、
すなわち[[台湾]]本島の他に[[澎湖諸島]]と[[新南群島]]を含むと思われます。
[SEE[ [[臺灣の標準時]] ]]
[[大日本帝国]][[沖縄県]]の[[先島諸島]]
[WEAK[(当時[[大日本帝国]][[沖縄県]]崩壊により[[自治状態][八重山自治会]])]]
には適用されず、引き続き[[中央標準時]]
[TZ[+09:00]] が用いられました。

[174] 
[[台湾]]における[[中央標準時]] [TZ[+09:00]]
は、戦時中に適用され[[終戦]]後に廃止されたことで、
実質的に世界各地で行われた戦時[[通年夏時刻]]
([[戦争時刻]])
のようなものとなりました。

** 誤情報

[207] 
[[西部標準時]]については、
不適切な情報が溢れています。
そもそも[[平成時代]]初期まで[[日本]]国内でも[[西部標準時]]の存在は忘れられていました。

[208] 
[[西部標準時]]の廃止の直後に戦争の時代に突入し、
その後[[米国]]や[[中華民国]]の統治下となったため、
[[昭和時代]]後期の[[日本本土]]にとっては遠い異国の過去の出来事になってしまいました。
そのため[[百科事典]]なども扱うことがなかったのでしょう。
[[欧米]]からみても、
[[米軍]]統治下という特殊な[[琉球][米領琉球]]地域の更に辺境の情報を入手するのは難しかったのでしょう。

[209] 
[[沖縄返還]]後の[[日本]]にとっては既に[[西部標準時]]は遥か過去の出来事になっており、
[[標準時]]が違っていた可能性すら思い至らなくなっていました。
[[平成時代]]に入ってようやく過去の[[日本の標準時]]の変遷が調査され、
[[インターネット]]で情報交換されるようになり、
その実態が明らかになってきたのです。

-*-*-

[269] [[Shanks]] (2003) [SRC[>>270]] は、
[TIME[1896年1月1日][1986-01-01]]から[[日本]]の一部地域を 
[TZ[+08:00]]、それ以外の地域を [TZ[+09:00]] とし、
それ以前を[[地方時]]としていました。
これは最初の[[(中央)標準時][中央標準時]]の制定を見落としたもので、誤りです。

-*-*-

[206] 
[[西部標準時]]の成立や廃止を[[戦争]]や[[日本軍]]の動向にやたらと関連付ける説がありますが、
それを裏付ける資料は見当たりません。否定的な資料ならあります。
[SEE[ [[大東亜の標準時]] ]]


[213] [[第二次世界大戦]]の[[終戦]]により[[西部標準時]]が[[廃止]]されたとするもの
[SRC[>>397, >>576]] もありますが、明確に誤りです。


-*-*-

[572] [TIME[1982年][year:1982]]に[[日本]]で出版された書籍は、
[[第二次世界大戦]]の前、
[[台湾]]と[[与那国島]]が[[西部標準時]]を用いており、
[[石垣島]]との間に1時間の[[時差]]があった、
としました [SRC[>>571]]。

[573] 根拠は示されておらず不明です。
他にこの説を支持するものはなく、誤りの可能性が高いと考えられます。
ただ本書は現地住民への取材を重ねて執筆されたものですから、
公式制度と異なる何らかの実態を反映している可能性も否定できません。

-*-*-


[519] 1950年代の米国政府の地図を基に作られたのではないかと推測される地図 [SRC[>>570]]
では、[[先島諸島]]が [TZ[+08:00]]、それ以外の[[南西諸島]]が [TZ[+09:00]]
で塗られています。

[521] [[米国政府]]の[[時間帯]]の図では、[TIME[1985年][year:1985]]版から
[TIME[1995年][year:1995]]版まで、
[[先島諸島]] ([[尖閣諸島]]を含む。) が [TZ[+08:00]] で着色されていました。
[TIME[1997年][year:1997]]版以降は [TZ[+09:00]] となっています。 [SRC[>>520]]
[TIME[1968年][year:1968]]版を元に描かれたという[[日本]]の[[地図]]でも
[TZ[+08:00]] になっています [SRC[>>549]]。

[522] [[Shanks]] (1991 [SRC[>>150]], 2003) は、
[[先島諸島]]各地を [TZ[+08:00]] としており、標準時改正が無かったものとして扱っていました。
([[Shanks]] (2003) では[[台湾の標準時]]も一度も[[中央標準時]]に統一されていないことになっていました。)

[149] [[tzdata]] は、[TIME[1993年][year:1993]]、 [[Shanks]] を出典に
[DFN[[CODE[Asia/South_Ryukyu]]]] を1896年以来現在に至るまで [TZ[+08:00]]
としていましたが、代表都市不明のため[[注釈]]にして保留にしていました [SRC[>>150]]。

[523] その後 [[tzdata]] は[[石垣島]]を代表都市として [DFN[[CODE[[[Asia/Ishigaki]]]]]]
という名前でこれを正式な項目としました。 [[tzdata]] を採用していた1990年代の [[OS]]
などでは、これに対応する[[時間帯]]を [DFN[[[south Ryukyu Islands]]]] 
などとして[[日本]]本土と別に表示していました。 [SRC[>>150, >>151]]

[525] [TIME[1998年][year:1998]]の [CITE@en[UNIX USER]] 誌の連載記事[CITE[ルート訪問記]]
[SRC[>>524]] を契機に[[奈良女子大学]]の[RUBY[鴨浩靖][かもひろやす]]らの
[DFN[South Ryukyu Islands調査隊]]が事情を調査し、
[[西部標準時]]の誤伝であると結論付けて[TIME[翌年][year:1999]]同誌上で報告しました
[SRC[>>150]]。[TIME[1999年2月][1999-02]]、 [[tzdata]] からも 
[WEAK[(1970年以後が異なる場合のみ収録するとの方針に反するとして)]]
[CODE[Asia/Ishigaki]] は削除されました [SRC[>>150, >>151, >>152, >>526]]。

[NOTE[
[141] 本件をきっかけに [SRC[>>150]]、
[[日本]]の[[時間]]と[[計算機]]をテーマにした
[DFN[tz-japanメーリング・リスト]]が作られました。
アーカイブが残されておらず内容は不明で、
[TIME[2005年][year:2005]]頃までに消滅したようです [SRC[>>139, >>140]]。
[[西部標準時]]問題を [[tzdata]] に報告した[[鈴木秀幸]]は、
[[東京]]代表点の訂正 ([SEE[ [[幕末維新期の日時]] ]]) や[[昭和基地]]情報の追加
([SEE[ [[南極の標準時]] ]]) も求めており、
そうした情報収集が行われたのかもしれません。

]NOTE]

[590] [CITE[ブリタニカ百科事典]]の[[地図]]は、[TIME[2017年][year:2017]]時点で未だに[[先島諸島]]を
[TZ[+08:00]] に着色しています [SRC[>>589]]。

[580] [[米国統治時代][琉球政府]]の[[先島諸島]]で、
[[西部標準時]] [TZ[+08:00]] が復活していた可能性もありますが、
それにしては現地の記録や当時の記憶を語る人がまったく見られないというのが不自然です。
以前の[[西部標準時]]の情報が残り続けていたに過ぎないと解釈する方が自然です。
ただ、 [TZ[+08:00]] で描いた[[時間帯図]]が、
同じく米国統治下だった[[小笠原諸島]]を正しく
[TZ[+10:00]] で描いていることには注意する必要があります。
[SEE[ [[小笠原の標準時]] ]]

[119] 
返還直前の[TIME[1971年9月][1971-09]]の航空時刻表 [SRC[>>118]] には、
[[時差]]への言及がなく、
[[那覇]]、[[宮古]]、[[石垣]]、[[与那国]]の所要時間から各島間で[[時差]]がなかったと判断できます。


[REFS[
- [270] [[Shanks & Pottenger]] [CITE@en[The International Atlas]] (2003)
- [520] 1985年-2015年 [CITE@en[Standard Time Zones of the World (CIA World Factbook)]]
[[時差の表]]
- [570] 20世紀後半初期 時間帯図 [[時差の表]]
- [549] [TIME[1972年][year:1972]] [CITE[世界大百科事典]] [[時差の表]]
- [524] [CITE[第41回 ルートへの道はフリー・ソフトウェアのインストールから]] ([TIME[2015-08-10 14:36:19 +09:00]]) <http://tomo.gr.jp/root/9808.html>
- [150] [CITE[「South Ryukyu Islandsの謎」調査の中間報告 および 最終報告]] ([TIME[2008-01-25 08:07:00 +09:00]] 版) <http://www.tomo.gr.jp/root/9925.html>
- [152] [CITE[Asia/Ishigaki?]] ([TIME[2012-02-25 02:55:06 +09:00]] 版) <http://mm.icann.org/pipermail/tz/1998-November/010471.html>
- [526] [CITE@ja[日本の標準時]] ([TIME[2016-09-23 14:40:18 +09:00]]) <https://web.archive.org/web/20050307030437/http://www.sat.t.u-tokyo.ac.jp/~hideyuki/tzdatajp.html>
- [139] [CITE@ja[日本の標準時]] ([TIME[2019-01-18 15:16:43 +09:00]]) <https://web.archive.org/web/20050307034753/http://www.sat.t.u-tokyo.ac.jp:80/~hideyuki/tzdatajp.html>
- [140] [CITE@ja[日本の標準時]] ([TIME[2019-01-18 15:16:59 +09:00]]) <https://web.archive.org/web/20051030041856/http://www.sat.t.u-tokyo.ac.jp:80/~hideyuki/tzdatajp.html>
- [151] [CITE@ja[日本標準時 - Wikipedia]] ([TIME[2014-08-30 23:49:52 +09:00]] 版) <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82#South_Ryukyu_Islands.E6.99.82.E9.96.93>


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[397] [CITE@ja[占星術用語事典]]
([TIME[2015-03-08 09:10:10 +09:00]] 版)
<http://www.ffortune.net/fortune/astro/dict/na.htm>
]FIGCAPTION]

> 日本の標準時は江戸時代までは首都である京都の平均太陽時が使用されていた。しかし明治維新以降、天皇が東京に「移動」してしまったため、一時的に東京の平均太陽時を全国の標準時とした時期があった。しかし明治17年、国際会議によって各国はグリニッジ標準時から1時間の倍数異なる時刻を使おうということになったため、日本の標準時として、東経135度線、つまり明石の平均太陽時が使用されることになった。これを「日本標準時」という。

>  その後、日本は一時期台湾を領有したため、台湾用に「西部標準時(JWT=Japan Western standard Time)」を定め、明石時刻は「中央標準時(JCT=Japan Central standard Time)」とした。しかし、太平洋戦争敗戦により台湾を失ったため、西部標準時は消滅し、中央標準時が、再び日本標準時と呼ばれることになった。

[211] [CITE@ja[日本標準時-Japan Standard Time]] ([TIME[2016-05-22 12:33:21 +09:00]]) <http://can.ifortune.net/wiki/wiki.cgi/astro/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82>
も同内容。
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[571] [CITE[大密貿易の時代: 占領初期沖繩の民衆生活 - 石原昌家 - Google ブックス]] ([TIME[2017-01-21 14:01:05 +09:00]]) <https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=hVNDAQAAIAAJ>
]FIGCAPTION]

> 22 ページ
> 台湾鬵圈內の与冒霸与那国鳥の諸特撖麵戦前、台湾と与那国島とは同一時間だった。
しかし与那国島から石垣島に行く場合は時計の針を一時間早めた。
つまり、与那国—石垣間には一時間の時差があった。両島間の距離は南北一二七キロ
にしかすぎず、現在、時差はなくなっているが、台湾と沖縛とには依然、一時間の時差が
ある。これは、戦前、与那国島も台湾同様、「西部標準時」を使っていたからである。
この事実を知っているひとは与那国出身といえども数少ない。戦前、腕時計を持ち歩いていたひと
は限られているからである。崎原永著氏(一九二-一卩大正一一年生。沖純療育園長)の
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[158] [CITE[空白の沖縄社会史: 戦果と密貿易の時代 - 石原昌家 - Google ブックス]] ([TIME[2019-02-17 18:30:31 +09:00]]) <https://books.google.co.jp/books?id=dZsnAQAAIAAJ&dq=%E6%99%82%E5%B7%AE>
]FIGCAPTION]

>22 ページ
>
台湾経済圏内の与那国島%与那国島の諸特徴徴戦前、台湾と与那国島とは同一時間
だった。しかし与那国島から石垣島に行く場合は時計の針を一時間早めた。
つまり、与那国ー石垣間には一時間の時差があった。両島間の距離は南北一二七キロ
にしかすぎず、現在、時差はなくなっているが、台湾と沖縄とには依然、一時間の時差が
ある。これは、戦前、与那国島も台湾同様、「西部標準時」を使っていたからである。
この事実
を知っているひとは与那国出身といえども数少ない。戦前、腕時計を持ち歩いていたひと
は限られているからである。崎原永著氏(一九二二=大正一一年生。沖縄療育園長)の中学時代、帰省の折りの体験
である。この点については、沖縄気象台観測課主任技術専門官・宮良孫好氏からも確認
を得た。

]FIG]

;; [200] 時刻に関する記述は22ページのみ。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[157] 
[CITE[地域経済における集積 : 展望]],
[[大城肇]],
[CITE[琉球大学経済研究]] (72): 9-28, [TIME[2006-09]]
<http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12000/104/1/oshiro_h10.pdf#page=6>
]FIGCAPTION]

>
[SNIP[]] 石原(2000)によれば、戦前、与那国と台湾は同一時間
帯であり、与那国一石垣間で1時間の時差があったという[SUP[12)]]。
[SNIP[]] 戦後になり、[SNIP[]] 
標準時は国境線の中に設定され、与那国‐
石垣が同一時間帯となり、与那国‐台湾の問に1時間の時差が設定された。

> 
12)石原(2000)22~28頁及び316頁参照。

>
石原昌家(2000)『空白の沖縄社会史一戦果と密貿易の時代』晩聾社。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[574] [CITE[与那国島民の台湾テレビ電波による東京オリンピック視聴の意味考察]] 
([[坂田謙司]]、[TIME[2016-02-04 15:07:54 +09:00]]) <http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2012/48-2_02-02.pdf#page=13>
]FIGCAPTION]

> 例えば,戦前には与那国島
と台湾は同一時間帯であり,石垣島とは1時間
の時差があったという点からも,同一生活圏に
あったことがわかる[SUP[42)]]。

42) 石原昌家『大密貿易の時代−占領初期沖縄の民衆生活−』晩声社,1982,p22。
]FIG]

- [589] [CITE@en[Greenwich meridian | Britannica.com]] ([TIME[2017-02-09 21:57:09 +09:00]]) <https://global.britannica.com/place/Greenwich-meridian/images-videos>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1050] [CITE@ja[日本統治時代から台湾には時差がありましたか? - 歴史 解決済み| 【OKWAVE】]]
(2017-11-23 23:01:52 oska2 [TIME[2018-05-10 23:12:26 +09:00]])
<https://okwave.jp/qa/q9400478.html>
]FIGCAPTION]

> 奄美諸島・琉球列島とともに、東京の標準時間よりも1時間の時差が存在しました。
> が、戦時体制になるに従って東京の標準時間に統一されました。
> 軍部としては、二重の時間は作戦上面倒だったのでしよう。

]FIG]

;; [1051] [[奄美諸島]]から[[台湾]]まで [TZ[+08:00]] だったと主張しているが、
そのような事実はない。


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[576] [CITE@ja[知ってた?八重山は昔、台湾標準時間だった|観相師 ふかマン]]
([TIME[2017-01-21 14:43:07 +09:00]])
<http://ameblo.jp/fukaman-life/entry-12218513572.html>
]FIGCAPTION]

> 大東亜戦争が終わるまで
> 八重山は、日本からみて“時差”が1時間存在してました。
> 戦争が終わってからは
> ここ、八重山の時間は明石市の『日本標準時刻』に組み入れられました。
> 日本西部標準時刻
> ここに詳しいことが載ってます。
> 昔は沖縄までが、明石市を起点とする標準時刻。
> 宮古~西側が台湾標準時刻。
> いや、正式には日本西部標準時刻。

]FIG]

- [117] [CITE[#時刻表にみる沖縄本土復帰前の南西航空]] ([TIME[2011-08-28 12:22:37 +09:00]]) <http://www.tt-museum.jp/cold_0240_sw1971.html>
-- [118] [CITE[南西航空時刻表]],
[TIME[1971(昭46)年9月][1971-09]],
[[南西航空]]

]REFS]

* 米国統治時代

;;
[46] 
[TIME[昭和20年][year:1945]]、
[[米軍]]は[[沖縄本島]]に進攻し、
[TIME[6月][1945-06]]までに制圧しました。
[TIME[昭和20年9月][1945-09]]、
[[米国]]が[[琉球諸島]]、[[奄美群島]]、[[吐噶喇列島]]のうち[[下七島]]を統治下に置きました。
[TIME[昭和21年2月2日][1946-02-02]]、
正式に[[日本政府]]から[[米軍]]に統治権が移行されました。
米国統治時代、[[奄美群島]]と[[下七島]]は同じ行政区に含められました。





[40] [[標準時]]としては、引き続き[[中央標準時]]
[TZ[+09:00]] が使われたようです。
[[米国]]統治下の[[法令]]でこれを明示したものは見当たらず、
法的には[[大日本帝国]]時代の[[勅令]]がそのまま存続したということになるでしょうか。

[41] [[夏時刻]]も実施されていたようですが、
[[日本本土]]の[[夏時刻法]]は適用されておらず、
[[米軍]]の指示で地域ごとに独自に実行したもので、
期間も異なっていました。
[SEE[ [[昭和のサンマータイム]] ]]

[78] 
[[米領琉球]]の[[時刻]]の名称として、
[DFN[沖縄時間]]などが用いられました。
[SEE[ [[日本の標準時]] ]]

[FIG[ [2160] [[沖縄]]の[[太陽]]

- [[那覇]] [[標準時]] [TZ[+09:00]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-03-20 offsetbefore=02:00
]FIG]
[[春分]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-06-21 offsetbefore=02:00
]FIG]
[[夏至]]
-- 
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-09-23 offsetbefore=02:00
]FIG]
[[秋分]]
-- 
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-12-21 offsetbefore=02:00
]FIG]
[[冬至]]
- [[那覇]] [[夏時刻]] [TZ[+10:00]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+10:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-03-20 offsetafter=01:00 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[春分]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+10:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-06-21 offsetafter=01:00 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[夏至]]
-- 
[FIG(suntime)[
tz=+10:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-09-23 offsetafter=01:00 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[秋分]]
-- 
[FIG(suntime)[
tz=+10:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-12-21 offsetafter=01:00 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[冬至]]
- [[那覇]] [[二重夏時刻]] [TZ[+11:00]] (実施例なし)
--
[FIG(suntime)[
tz=+11:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-03-20 offsetafter=02:00
]FIG]
[[春分]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+11:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-06-21 offsetafter=02:00
]FIG]
[[夏至]]
-- 
[FIG(suntime)[
tz=+11:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-09-23 offsetafter=02:00
]FIG]
[[秋分]]
-- 
[FIG(suntime)[
tz=+11:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-12-21 offsetafter=02:00
]FIG]
[[冬至]]

]FIG]


[220] 
[TIME[1951年1月1日][1951-01-01]]、
[[年齢]]を[[満年齢]]で表すことになりました。
([[日本本土]]では[TIME[1950年1月1日][1950-01-01]]に[[施行]]されていました。)
[SEE[ [[満年齢]] ]]


-*-*-

[435] 
[[米軍]]の統治下に置かれた地域では、
[[日本の元号]]ではなく[[西暦]]が原則として用いられました [SRC[>>440, >>441]]。
[[元号を用いることは憚られ][元号排斥]]ていました [SRC[>>160]]。
[[日本本土]]ですら [[GHQ]] 
は軍事力を背景に[[内政干渉]]を続け[[元号を排除][元号排斥]]しようと企てました
([SEE[ [[昭和の元号危機]] ]]) が、[[米軍]]の直接統治下にあった[[南西諸島]]では、
[[元号]]は[[本土][日本本土]]以上に厳しい状況にありました。

;; [344] 
[[日本本土]]では[[信教の自由]]のため[[キリスト紀元]]を強制できなかったとされます。
[[南西諸島]]ではそのような自由が認められませんでした。


[221] 
[[奄美諸島]]が[[日本]]に返還される前日に発行された新聞
[CITE[[[奄美タイムス]]]]
の[[号外]]は、
「[TIME[1953年12月24日(木曜)][1953-12-24]]」
と[[西暦]]だけを書いていました
[SRC[ [[昭和のサンマータイム]]に引用あり ]]
(その後は不明)。


[214] 
それでも[[元号]]が完全に消失したわけではありませんでした。


[451] [[法令]]については、[[米軍]]統治が開始されるまでの[[日本の法令]]と、
それ以後の[[米軍]]当局およびその下部の政府組織による[[法令]]が適用されました。
[[日本の法令]]を参照するときは、[[元号]]を使った[[法令番号]]が引き続き用いられました。
[[琉球政府]]等の[[法令番号]]は、[[西暦]]を使っていました。
[[法令]]中の[[日時]]も[[西暦]]で表記されていました。

[161] [[戸籍]]では[[日本の元号]]が用いられました [SRC[>>160]]。

[359] 関連: [[戸籍の日時]]

[177] 
[TIME[昭和28(1953)年][year:1953]]頃、
[[琉球政府]]法務局は[[戸籍]]の整備を進めていました。
法務局の[[久貝良順]]は、
[[日付]]に[[日本の元号]]を用いることを主張し、
[[米国]]の反発を押し切ってこれを実現しました。
[SRC[>>168]]


[20] 
[CITE[[[戸籍法施行規則][戸籍法施行規則 (琉球政府)]]]]
[SEE[ [[戸籍法施行規則 (琉球政府)]] ]]

- [356] [CITE[R-1957-04-04-G.pdf]], [TIME[2020-11-09T06:55:00.000Z]], [TIME[2023-07-19T14:15:05.231Z]] <https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/img/kouhou//R-1957-04-04-G.pdf#page=15>

[355] 
>>356 #page=30 を見ると[[戸籍]]本体だけでなく、
[[出生届]]、
[[死亡証明書]]など関連する届出書にも[[昭和]]の[[日付]]を書かせていたようです。


-*-*-

[5] [[米国]]統治下の[[琉球政府]]によって定められた[[祝祭日]]として、
[[お盆の日]]が[[旧暦]]の[[7月15日]]とされていました。

[7] [[琉球政府]]は正式な[[旧暦]]を決定していたのでしょうか?

[124] 確かな情報は得られていませんが、当時の法令や議事録を検索する限り、
[[旧暦]]は自明なものとされていたようにみえます。
[[農暦]]ではなく[[旧暦]]ということでいいのでしょうかね? 
(両者で違いが出る日付の琉球の出来事を扱った文献は現在のところ見つけられていません。)


[202] 
[[大日本帝国]]時代と同じように米国統治時代にも、
[[旧正月]]など[[旧暦]]行事を新暦に移行させようとする動きがありました。
しかしこの時代も大きな成果をあげられませんでした。
[[奄美]]でも同様で、
更には中断していた[[六月灯]]
[WEAK[(旧[[薩摩藩]]統治地域の旧暦6月の祭事)]]
が再興されたりもしました。
[SEE[ 奄美について[[昭和のサンマータイム]]に引用文あり ]]
[SEE[ [[明治改暦]] ]]


[11] [SEE[ 休日について詳細は[[琉球の休日]] ]]


;; [34] 
[TIME[昭和27(1952)年2月10日][1952-02-10]]、
[[吐噶喇列島]]が[[日本]]に返還されました。


;; [10] 
[TIME[1952年4月28日][1952-04-28]]、
[[日本国との平和条約]]によって[[米国]]は[[奄美群島]]および[[琉球諸島]]の統治権を得ました。

;; [35] 
[TIME[昭和28(1952)年12月25日][1952-12-25]]、
[[奄美群島]]が[[日本]]に返還されました。

-*-*-

[175] 
米国統治が長期化するなかで、
[[沖縄県]]民には[[西暦]]が浸透し、
[[日本の元号]]は過去のものとなっていきました。


[178] 
[TIME[平成31(2019)年][2019-04-01]]の[[新聞記事]]によると、
[TIME[1941年][year:1941]]生まれの人が、
[[西暦]]だけで暮らしてきたと証言しているようです
[SRC[>>169]]。



[176] 
[TIME[昭和35(1960)年4月1日][1960-04-01]]、
[[日本国]][[兵庫県]][[西宮市]]の[[甲子園球場]]で、
第32回[[選抜高校野球大会]]が開催されました。
米国統治下で初めて出場した[[那覇高校]]の主将の[[牧志清順]]は、
[[選手宣誓]]で[[日付]]を
「1960……昭和35年!4月1日!」
と[[西暦]]で言いかけ、
すぐに[[昭和]]に訂正しました。 
牧志のアルバムには自筆で
「1960・・・・・・!! 昭和35年4月1日」
などと記載されており、
本人にとっても印象的な場面だったようです。
[[平成末期][平成最後]]の取材に対し、
妻は、
[WEAK[(盛大な歓迎のなか[[日本本土]]の大会に参加できたことへの)]]
「緊張と感動で素に戻っていつもの[[西暦]]がスッと出た」
のではないかと推測しました。
応援の同級生は、
「そもそも、なんで昭和と言わなきゃいけないの」と友達で話しながら、
[[沖縄]]と[[本土][日本本土]]は違うと実感したといいます。
[SRC[>>167, >>1069 pp.170-172 (アルバム写真あり)]]

[185] 
[[沖縄県]]出身で[[本土][日本本土]]の[[大学]]に進学した[[大城章男]]
([TIME[平成31年][year:2019]]時点で71歳)
は、
[[大学]]で、[[西暦]]ばかり使う変人と思われたといいます。
[SRC[>>1069 p.175]]



[164] 
[[八重山法務支局]]のみ、
[TIME[昭和参拾六年九月六日][1961-00-06]]付け[[登記]]の[[公告]]まで[[昭和]]を使っていました [SRC[>>165]]
が、[TIME[壱九六壱年九月拾壱日][1961-09-11]]付け[[登記]]からは[[西暦]]となりました
[SRC[>>166]]。





[759] [TIME[1966年][year:1966]]の[[米国]]の書籍は、
RYUKYU ISLANDS
の[[標準時]]を [TZ[+09:00]] としていました [SRC[>>761]]。


[163] 
米国統治時代末期になると、
[[日本本土]]の制度との関係から[[日本の元号]]が使われる事例もありました。
[SRC[>>162]]


[182] 
[TIME[昭和43(1968)年1月][1968-01]]、
新聞
[CITE[琉球新報]]
は、
[[日付]]を[[西暦]]から、
[[元号]]に括弧で[[西暦]]併記に変更しました
[SRC[>>1069 p.173]]。


[179] 
[TIME[昭和43(1968)年7月1日][1968-07-01]]、
新聞
[CITE[沖縄タイムス]]
は、
創刊以来[TIME[「1948年」][year:1948]]のように[[西暦年]]を記載していましたが、
[TIME[「1968年(昭和43年)」][year:1968]]
のように[[元号]]を併記するようになりました。 [SRC[>>169, >>190]]


[218] 
[TIME[昭和43(1968)年][year:1968]]の[[琉球海運]]
[WEAK[([[所在地]]の表記は「沖縄那覇市」)]]
の[[日本本土]]と[[琉球][米領琉球]]を結ぶ航路の運航時刻表には、
「1968年」
とありました [SRC[>>217]]。

[243] 
[[沖縄人]]が[[日本本土]]に入域するに当たって[[日本政府]]発行[[身分証明書]]に押印された入出域スタンプには、
[[那覇港]]出港[[英語]]スタンプ (おそらく[[琉球政府]]管下の出入域管理当局のもの)
に「APR 1 1969」、
[[鹿児島港]]入港[[日本語]]ベース[[英語]]混じりスタンプ
([[日本政府]]の出入域管理当局のもの)
に「2. APR 1969」とありました。
[SRC[>>242]]




[186] 
[[琉球政府]]は、[[沖縄県]]となってから[[元号]]を使うことを決めました。

[187] 
当時[[琉球政府]]職員だった[[名幸宏明]]は、
「まず本土並みになりたかった」
ことの1つが[[元号]]制度の採用だったとしました。
同僚は他の[[都道府県]]もやっているのだから、
という雰囲気でした。
[SRC[>>1069 p.175]]



[235] 
[[会計年度]]も米国式でした。
[SEE[ [[米領琉球の会計年度]] ]]




[985] 
[TIME[1971年][year:1971]]頃から、
[[中華人民共和国]]と[[中華民国]]は[[尖閣諸島]]の[[領有権]]を主張するようになりました。
[[中華人民共和国]]は現在に至るまでしばしば周辺海域に[[軍艦]]を派遣しています。
[[中華民国]]や[[中華人民共和国]]の[[法令]]上は、
両国の[[標準時]] [TZ[+08:00]] (あるいは時期によっては[[夏時刻]] [TZ[+09:00]])
が適用されることになっていると思われます。
実際には[[米領琉球]] (返還後は[[日本国]])
の[[実効統治]]下にあり、[[日本の標準時]]が使われています。
[SEE[ [[台湾の標準時]]、[[中華人民共和国の標準時]] ]]


;; [39] [TIME[昭和47(1972)年5月15日][1972-05-15]]、
[[琉球]]は[[日本]]に返還され、
[[沖縄県]]が復活しました。

-*-*-

[222] 
[[現代日本]]では、
米国統治時代の出来事に言及する時、
[[西暦]]による場合もあれば、
[[日本の元号]]による場合、
併記する場合もあります。



[REFS[
- [165] [CITE[登記公告(コザ、八重山法務支局)]] ([TIME[2016-07-05 18:44:18 +09:00]]) <http://www2.archives.pref.okinawa.jp/hpdata/kouhou/HTML/ryukyu/01661.html>
- [166] [CITE[登記公告(八重山、那覇法務支局、本部、久米島登記所)]] ([TIME[2016-07-05 18:44:21 +09:00]]) <http://www2.archives.pref.okinawa.jp/hpdata/kouhou/HTML/ryukyu/01859.html>
- [761] [CITE[Time Changes in the U.S.A.]] ([TIME[1966][year:1966]])
- [440] [CITE@ja[布令及指令の效力繼續 - Wikisource]] ([TIME[2014-08-05 12:57:02 +09:00]] 版) <http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%B8%83%E4%BB%A4%E5%8F%8A%E6%8C%87%E4%BB%A4%E3%81%AE%E6%95%88%E5%8A%9B%E7%B9%BC%E7%BA%8C>
- [441] [CITE@ja[奄美、宮古、八重山支局管內の公證人の職務 - Wikisource]] ([TIME[2014-08-05 12:56:38 +09:00]] 版) <http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A5%84%E7%BE%8E%E3%80%81%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E3%80%81%E5%85%AB%E9%87%8D%E5%B1%B1%E6%94%AF%E5%B1%80%E7%AE%A1%E5%85%A7%E3%81%AE%E5%85%AC%E8%AD%89%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%81%B7%E5%8B%99>
- [162] [CITE[昭和45年国勢調査規則]] ([TIME[2016-07-05 18:51:29 +09:00]]) <http://www2.archives.pref.okinawa.jp/hpdata/kouhou/HTML/ryukyu/29403.html>
- [217] [CITE[#[[時刻表]]にみる復帰前の沖縄航路]], [TIME[2011-08-28 12:22:35 +09:00]] <http://www.tt-museum.jp/cold_0185_rk1968.html>
- [242] [CITE@ja[新里 榮治 氏 昭和44 (1969)年-昭和48 (1973)年在学 | [[広島大学]]]], [TIME[2020-04-28 20:35:20 +09:00]] <https://www.hiroshima-u.ac.jp/ialumni/memories/shinzato>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[160] [CITE@ja[戸籍整備法 - Wikipedia]]
([TIME[2016-12-24 20:58:40 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%B1%8D%E6%95%B4%E5%82%99%E6%B3%95>
]FIGCAPTION]

> 琉球政府やその管轄下の市町村の公文書は、全て西暦が用いられており、「昭和」等の元号表記や住所として「沖縄県」を用いるのはタブーであった。しかし戸籍に限っては、本籍に「沖縄県」、年月日は「昭和」などの元号表記が貫徹されていた。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[167] [CITE@ja[代替わりへ:沖縄と元号/上 米占領下、センバツ出場 選手宣誓、西暦で言いかけ - 毎日新聞]]
([TIME[2019-03-22 16:22:02 +09:00]])
<https://mainichi.jp/articles/20181213/ddp/001/040/004000c>
]FIGCAPTION]

> 「1960……昭和35年!4月1日!」
>  兵庫県の甲子園球場で1960年4月1日にあった第32回選抜高校野球大会の開会式。戦後初めてセンバツに沖縄勢として出た那覇高主将の牧志清順(まきしせいじゅん)さんは、選手宣誓で日付を西暦で言いかけ、すぐに元号で言い直した。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[168] [CITE[ある日突然、ほぼ全員が「無戸籍」に…沖縄戦後の驚くべき実態(井戸 まさえ) | 現代ビジネス | 講談社(2/5)]]
([TIME[2019-03-22 16:30:11 +09:00]])
<https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56690?page=2>
]FIGCAPTION]

> 昭和28年2月、意外な形で好機は訪れる。
> 前年に創立された琉球政府法務局の初代民事課長・久貝良順氏が突然東京にやってきたのだ。新谷がそうであったように、琉球政府職員としては戦後最初の本土出張だった。
> 沖縄にとっては適正な不動産登記と戸籍整備法の整備復活が緊急の課題で、当時の琉球政府法務局は本土の法務省と同様に民事以外の刑事、矯正、保護等の法務行政全般を統括する機関であったが、その全予算の20%が「戸籍整備事業」に充てられたのみでなく、ある公式の席上で久貝課長は、大胆率直にも「戸籍整備に置ける本籍表示には「沖縄県」と冒頭に書く。これが本土復帰にもつながる。
> また、年月日は西暦年数でなく、日本の年号による」という趣旨のことを述べ、それを実際に実行にこぎつける。
> 米国側ではこの表示について相当神経質になっていたが、久貝局長は「これは行政組織上の公共団体を意味するものではなく、今や土地表示の為の記号にすぎず、長年使用して来た慣例的なものである」という趣旨のことを強調して最後まで譲ることがなかった。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[169] [CITE[[大弦小弦]せっかく紙面の下の方にある小欄に目を留めてくださったのに恐縮なのだが… | 大弦小弦 | [[沖縄タイムス]]+プラス]]
(2019年4月1日 07:31 阿部岳 [TIME[2019-04-20 21:29:24 +09:00]])
<https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/403404>
]FIGCAPTION]

> 本紙の日付表記は「2019年(平成31年)」となっている。過去には変遷があった
> ▼創刊時、沖縄は米軍支配下にあり「1948年」とだけ記した。復帰運動の熱が高まると、「1968年(昭和43年)」と初めて元号が加わり、復帰の日からは「昭和47年(1972年)」と元号が前に来た。しかし「1979年(昭和54年)」に再び順番が入れ替わる
> ▼この年、敗戦で消えた元号使用の法的根拠を復活させる元号法が制定された。全国で沖縄県議会だけが、促進の請願を採択しなかった。元号は日本の象徴。日本への期待が膨らみ、そしてしぼんだ県民感情の起伏が読み取れる
> ▼表記の変遷期に本紙で働いた1941年生まれのOBは物心ついた時は米軍支配下で、「西暦だけを使って暮らしてきた」と話す。きょう発表される新元号も、ピンとこないという。「ヘイセイの次はハイサイでどう?」

]FIG]

[190] 
>>169 について >>1069 p.181 に写真あり。

[FIG[
- 1968年6月30日
- 1968年(昭和43年)7月1日
- 昭和47年(1972年)5月15日
- 1979年(昭和54年)1月1日
]FIG]


- [1069] 
[CITE[[DFN[[RUBY[令和][れいわ]] 改元の舞台裏][令和 改元の舞台裏]]]],
毎日新聞「代替わり」取材班,
[TIME[二〇一九年六月十五日][2018-06-15]]発行
-- [1066] [CITE@ja-jp[[[令和 改元の舞台裏]] | [[毎日新聞]]「代替わり」取材班 |本 | 通販 | Amazon]] ([TIME[2019-09-16 09:29:19 +09:00]]) <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4620325910/wakaba1-22/>

]REFS]

- [183] 
[CITE[資料画像 (R00160267B)]] ([TIME[2017-12-23 08:33:22 +09:00]]) <https://www3.archives.pref.okinawa.jp/RDA/ryusei/R00160267B/index.html?title=%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A%20&page=102>
-- [184] 
[CITE[文書だより]] 第6号,
[TIME[1971年6月1日(火)][1971-06-01]]


[354] 
[[公文書]]での[[句読点]]の使い方の一部として、[[日時]]の表記法の定めが
[CITE[[[文書作成規程]]]]
にありました。

[357] [CITE@ja[沖縄県公文書館 戦後初期会議録]], [TIME[2023-07-20T03:00:31.000Z]] <https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/view_sengo.php?id=20>

>
第一回沖縄群島議会会議録(臨時会第一号)
>
一九五〇年十一月十三日(月曜日)
午前十時二十五分開議

> 仲宗根朝武氏は具志頭村出身で大正十三年具志頭村書記拝命、昭和十二年具志頭村収入役に十四年助役に昇進、十八年具志頭村長になられ、終戦後に及び、終戦後も具志頭村長に当選、引続き村長の重責についておられたが、一九四九年十月十九日に民政議会議員拝命、今日に及んで居られます。以上大体略歴を申し述べました。

[370] 
[CITE@ja[R-1953-11-27.pdf]], [TIME[2020-11-09T06:15:48.000Z]], [TIME[2025-10-01T13:46:04.585Z]] <https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/img/kouhou//R-1953-11-27.pdf>

[371] 
[CITE@ja[R-1962-01-26.pdf]], [TIME[2003-04-01T01:45:18.000Z]], [TIME[2025-10-01T14:47:13.002Z]] <https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/img/kouhou//R-1962-01-26.pdf#page=5>


[372] >>371 は[[戸籍]]に関する認定の告示。認定年月日が[[昭和]]年表記。

[375] [CITE@ja[R-1965-08-06.pdf]], [TIME[2000-03-28T12:12:22.000Z]], [TIME[2025-10-01T15:04:55.151Z]] <https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/img/kouhou//R-1965-08-06.pdf#page=2>

[376] >>375 は[[失踪]]の[[催告]]。[[生年月日]]が[[大正]]。
それ以外の日付は[[西暦年]]。

[377] [CITE@ja[R-1967-02-24.pdf]], [TIME[2020-11-09T06:37:58.000Z]], [TIME[2025-10-01T15:10:10.896Z]] <https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/img/kouhou//R-1967-02-24.pdf#page=16>

[380] >>377 は[[海難事件]]の裁決。
当事者の[[生年月日]]は[[大正]]、昭和6年。
それ以外の日付は[[西暦年]]。


[373] 
[CITE@ja[R-1965-09-14.pdf]], [TIME[2020-11-09T06:34:38.000Z]], [TIME[2025-10-01T14:55:17.546Z]] <https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/img/kouhou//R-1965-09-14.pdf#page=14>


[374] >>373 [[米国民政府]]の[[高等弁務官布告]]の [[English]] 原文では一部[[西暦2桁年号]]が混じっているが、
[[日本語]]訳文ではすべて4桁に揃えられている。


[382] [CITE@ja[沖縄県公文書館 戦後初期会議録]], [TIME[2025-10-01T15:39:14.000Z]] <https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/view_sengo.php?id=113>

>
[PRE[
一九五一年三月六日(火曜日)
 午前十時二十三分開議
]PRE]

>◎久部良正三君 与那国の租納-久部良間は二十年に県道に認定されています。[SNIP[]]

(終戦前の昭和20年の[[沖縄県道]][[認定]]を指す。)


[383] 
[CITE@ja[沖縄県公文書館 戦後初期会議録]], [TIME[2025-10-01T15:56:38.000Z]] <https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/view_sengo.php?id=330>

>
○経済副部長(知念忠太郎君) お答え致します。第二条と附則の第三条とは関連があります。日本におきましては原則的にはメートル法となっております。昭和三十五年度迄は現在の尺貫法を許すということになっているが、沖縄では文化程度も差があって、これを強制的に切替えることはできません。[SNIP[]]

>
議案第四十五号
>  臨時中央政府立法院参議推薦賛同について
>[SNIP[]]
>昭和 六年 七月 同社依願退職
>[SNIP[]]
>同 十九年 一月 沖縄県農業会常任理事選任命指導部長
>一九四五年 七月 命田井等軍政府勧業部農業顧問




* 沖縄県の日本復帰

[26] [[米国]]統治地域が[[日本]]に返還されてからは、
最新の[[日本の法令]]の適用下となり、
本来の[[日本の暦]]や[[中央標準時]]が実施されるようになりました。

;; 
[121] 
昭和四十六年法律第百二十九号
[CITE[沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律]]
により、[[琉球政府]]の[[法令]]は移行期間後失効、
[[市町村]]の[[条例]]は原則としてそのまま適用されることとなりました。

[120] 
といっても公的に用いられる[[紀年法]]が[[西暦]]から[[日本の元号]]へと変わったのと[[祝日]]が一部異なっていたものが[[日本の祝日]]に統一された
([SEE[ [[琉球の休日]] ]]) 程度であり、
[[標準時]]改正のような大きな変更はありませんでした。

[215] 
返還後も多くの[[米軍基地]]が[[沖縄県]]内に残りました。
[[米軍基地]]内では、
[[西暦]]や[[米軍時間帯]]をはじめとする[[米軍]]の[[日時制度]]が引き続き用いられました。



[36] 
[[沖縄県]]では現在でも[[旧暦]]に基づく年間行事が盛んに行われています。
[[旧暦]]としては ([[農暦]]などではなく) [[日本の旧暦]]が用いられています。

-*-*-


[180] 
[TIME[昭和47(1972)年5月15日][1972-05-15]]、
[[沖縄県]]の[[日本]]復帰に伴い、
[CITE[沖縄タイムス]]
は日付表記を[[元号]]併記から[[西暦]]併記に改め、
[TIME[「昭和47年(1972年)」][year:1972]]
のようにしました。
[SRC[>>169, >>190]]





[104] 
[TIME[昭和53年][year:1978]]から[TIME[昭和56年][year:1981]]
([TIME[昭和57年][year:1982]]は不明) の夏季、
[[米国空軍]][[嘉手納基地]]では、
[[省エネ]]や[[日光]]の有効活用を名目に[[サマータイム]]が実施されていました。
[[日本人]]従業員は生活に悪影響が出て反対しており、
[[沖縄県知事]]や[[沖縄県議会]]も取り上げました。 [SRC[>>102, >>103]]

[105] 実施対象が一部従業員のみ [SRC[>>102]]
ということから、[[時計]]を動かす[[夏時刻制]]ではなく、
[[夏季業務時間]]制度が一部業務に適用されていたということでしょうか。

;; [107] ちょうど[[第二次石油危機]]の時代で、世界各地で[[夏時刻]]が実施されていました。
[SEE[ [[石油危機]] ]]
[[日本政府]]も[[夏時刻制度]]を検討していました。
[SEE[ [[日本の季節性夏時刻制定運動]] ]]



[181] 
[TIME[昭和54(1979)年1月1日][1979-01-01]]、
[CITE[沖縄タイムス]]
は日付表記を[[西暦]]併記から[[元号]]併記に改め、
[TIME[「1979年(昭和54年)」][year:1979]]
のようにしました。
[SRC[>>169, >>190]]

[188] 
[TIME[昭和54(1979)年6月8日][1979-06-08]]、
[CITE[沖縄タイムス]]
社説は、
成立直後の
[CITE[元号法]]
について、
[[大東亜戦争]]と[[天皇制]]と[[元号]]を結び付け、
「県民感情として受け入れがたい」
と批判しました。
[SRC[>>1069 pp.178-179]]

[189] 
[CITE[元号法]]成立に先立って[[沖縄県議会]]に提出された法制化を求める決議は、
審議未了に終わりました。他県と違って[[沖縄県]]は法制化に消極的でした。
[SRC[>>1069 p.179]]



[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[102] ([TIME[2018-12-08 02:00:56 +09:00]])
<http://www2.pref.okinawa.jp/oki/Gikairep1.nsf/f2d4b51dfefc430f492567220015ee7a/436ea1e11a82860b492573e2000b88e8?OpenDocument>
]FIGCAPTION]

> 昭和56年 第 4回 沖縄県議会(定例会)	
> 第 4号  6月13日
> [SNIP[]]
> ○中根 章君 [SNIP[]]
>  それから次に、空軍のサマータイムの問題で御質問を申し上げる予定でありましたけれども、時間がありませんので簡単に申し上げますけれども、この問題は7時から出勤になる。そうすると大変生活にもいろんなことで支障を来すということになって従業員は反対を続けております。それで知事も6月5日付で全駐労の委員長に対してサマータイム問題の回答を寄せておられますけれども、来年からはぜひこれが取り外されるように知事も県も大きく撤回するようにしたいというふうに答弁をしておられますので、来年度、これの取り組みとその見通しについてお伺いをいたします。
> [SNIP[]]
> ○知事(西銘順治君) [SNIP[]]
>  次、サマータイムの問題、その他細かい点につきましては副知事、担当部長から答弁させることにいたします。
> [SNIP[]]
> ○副知事(比嘉幹郎君) サマータイムの問題についてお答えいたします。
>  在沖米空軍においてサマータイムを実施しているわけでございますが、その理由は、私が嘉手納の基地司令宮と会ったときにいろいろ述べておりました。1つは省エネルギーの観点からであると。もう1つは昼間の明るい時間を合理的に使うということでございます。それからもう1つは、もしこのサマータイムを実施していろんな面で支障を来す従業員がおれば、その人々が直接申し出ればそれなりの措置をとると。つまりいろいろ時間を大目に見たり、あるいは仕事の時間をちょっと変更したり、つまり個別的な例外的に取り扱いたいということでございました。しかしいずれにしても、省エネとかその他の理由によって昭和53年以降、いわゆるサマータイムを実施しているわけでございます。その対象は嘉手納空軍基地内の従業員約2000人のうち、約880人となっております。県としては、従業員及びその家族の生活サイクルと健康管理等の面からその及ぼす影響が大きいのでその撤回を求めて検討委員会というものを設置いたしまして県の考え方、意見等を述べて協議を重ねてきたわけでございます。それで米側の省エネ委員会では、ことしのサマータイム実施期間を5月4日から9月27日までの約5カ月間とし、基地司令官へ進言しているわけでございます。そこで私も、また担当部長も師団長とか基地司令官とその再考方を求めて折衝してきたわけでございますが、それで結局6月1日から8月28日まで実施するということになったわけでございます。来年以降のサマータイム問題について米軍側との交渉で従業員に負担をかけないで、軍内部の努力による他の方法で省エネ対策を強化しエネルギー節減を図ることとすると。それから来年以降は、従業員に負担をかけるサマータイムが実施されないよう努力すると。そういった確認のもとに、このサマータイムの問題の解決のために努力していきたいと考えております。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[103] ([TIME[2018-12-08 02:00:56 +09:00]])
<http://www2.pref.okinawa.jp/oki/Gikairep1.nsf/f2d4b51dfefc430f492567220015ee7a/acf4068d56f2e0a6492573000020adbf?OpenDocument>
]FIGCAPTION]

> 昭和58年 第 2回 沖縄県議会(定例会)	
> 第 3号  3月 3日
> [SNIP[]]
> ○小橋川朝蔵君 本員は、自由民主党沖縄県連の議員団を代表いたしまして、かねて通告してありましたもろもろの案件につきまして本員の所見を述べながら知事並びに関係部長に質問をいたしますので、誠意ある御答弁をいただきたいと思っております。
> [SNIP[]]
> 思うに、米軍基地関係業務は、その中に基地労働業務を繰り入れた従来の組織は基地から派生する諸問題の解決に足かせとなっているのが現状でございます。私は、今日まで議会の中で軍特別委員会に属しておりましたけれども、長年の活動の中で基地問題は論議されましたが、基地労働問題に対しましては、「サマー・タイム」があったとき以外は議会で論議されておらないわけでございます。これをもってしても基地の諸問題と基地労働者の関係は、おのずから違った形で、違った政治的、行政的な配慮がされるべきだと思うわけででございます。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[199] 
[CITE[明治・大正・昭和――事件と暮らし 沖縄事始め・世相史事典]],
[TIME[1983-12]]

[CITE@ja-jp[沖縄事始め・世相史事典―明治・大正・昭和ー事件と暮らし (1983年) | 山城 善三, 佐久田 繁 |本 | 通販 | [[Amazon]]]], [TIME[2019-11-20 11:05:54 +09:00]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000J4QECA/wakaba1-22/>
]FIGCAPTION]

p.63 明治六年

>
[BOX(vertical)[
[RUBY[新暦][しんれき]]採用

太政官(新政府)は、明治五年十一月九日に、
「来たる十二月三日を明治六年一月一日とする」
という改暦の詔を出した。
欧米諸国との不平等条約を改正するためには、
国際的に認められている新暦を採用しなければならなかったのだ。
しかし東京は別として、
世間ではこの新暦にかなり抵抗感を持ち、
一揆を起こした地方さえあり、
新聞でも旧暦を併記して慣れるまで旧慣を尊重した。

沖縄の新暦採用も、
明治六年一月、本土にならったが、
本土と同様、
一般はなじまず、
新聞は明治末まで旧暦を併記した。

[ASIS[⛋][◇でなく◆]][B[新暦採用で日曜休み]]

旧暦の一日は十二[RUBY[時][とき]]で、正午から夜の十二時までを六つ、
夜の一時から昼の十二時までを六つの十二[RUBY[時][とき]]としていた。
[RUBY[午][うま]]の刻といえば、
今の午前十一時が終わった時から午後二時までの二時間、
という大ざっぱなものであった。

新暦を用いると共に、
それまでは[RUBY[一六][いちろく]]の休暇といって、
月のうちの一日、十一日、二十一日の一の日と、
六日、十六日、二十六日の六の日の六回休んでいたのを日曜日に休むことにし、
祭日や暑中休暇など、
西洋にならった。

]BOX]

p.73 明治八年

>
[BOX(vertical)[
明治年号を使用せよ

新政府は六月三日、
明治の年号を使用すると共に、
「法律研修者三人と留学生十人を状況させよ」
と通達した。
琉球藩では、
「清国に対しては清暦を使用させてほしい」
と嘆願、
時間を稼ごうとした。
沖縄戦後の米軍統治時代、
米国には西暦、
日本には昭和年号を用いたようなものだが、
政府が聞き入れるはずはなかった。

法律研修生は翌年、
留学生は明治十五年上京した。

[BOX(right)[
(現代史)
]BOX]
]BOX]

p.344 明治45年

>
[BOX(vertical)[
旧正廃止
新正を実施したが・・・・・・

県庁の新正一本だての提唱にもかかわらず、
農村では旧正が盛んだった。
明治四十五年、
国頭村では新正月の実施を決定して実施したが、
三年とは持たず、
大正三年にはまた旧正に戻った。 [WEAK[(国頭村史)]]

この生活のリズムは根強く残り、
戦前まで旧正が盛んだったのは、
他町村も同様であった。
戦後も旧正廃止は度々話題になったが、
復帰後は旧正の法定休日がなくなり、
戦前ほどではないにしても、
なお民間では休みにする企業が多いようだ。

]BOX]

p.764 昭和53年

>
[BOX(vertical)[
米軍、サマータイム実施

この年の夏在沖米空軍はエネルギー節約のためにサマータイムを実施し始めた。
朝は午前六時四十五分から午後三時四十五分まで。

五十六年は六月一日から八月二十八日まで、午前七時から午後四時までのサマータイム実施を通告してきた。
全駐労空軍支部では「生活習慣の無視」として撤回闘争をつづける。
]BOX]

]FIG]

;; [216] この書籍は、[[明治時代]]以後の[[沖縄県]]地域のいろいろな出来事を歴史順に紹介しています。
米軍の「サマータイム」は紹介していますが、[[昭和のサンマータイム]]には言及がありません。
出版は米軍[[サマータイム]]からそう遠くない時代で、
そちらには詳しい説明を必要としていないようです
(夏季の時刻だけでなく、普段の時刻を示さないと制度の説明になっていないはずですが、
それが省略されているのは、通常の勤務時間帯が筆者にとって常識で説明の必要性を感じなかったからでしょう)。
一方[[昭和のサンマータイム]]は記憶にも記録にもなかったのでしょう。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[240] 
[CITE[200503_edu_02b.pdf]], [TIME[2016-04-19 15:49:13 +09:00]] <https://www.jica.go.jp/jica-ri/IFIC_and_JBICI-Studies/jica-ri/publication/archives/jica/field/pdf/200503_edu_02b.pdf#page=18>
]FIGCAPTION]

>>証言1-6 風疹児の近況
>>>「昭和40年生の風疹児も現在では30年代半ばになっている。 [SNIP[]]」
>>那覇市教育委員会編 『那覇市教育史通史』2002年

]FIG]

;; [241] 米国統治時代の年が「昭和40年」と[[昭和]]で書かれている。
[TIME[西暦2002年][year:2002]]の編纂頃の現地の人の証言。
(を引用したもの。)

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[285] [CITE@ja[サマータイム: 金政工務店社長日記]]
([[金丸政司]],
2011年04月19日 21:35,
[TIME[2015-11-24 02:04:44 +09:00]] 版)
<http://kanemaru-blog.seesaa.net/article/196642169.html>
]FIGCAPTION]

> 私は以外なところでサマータイムを体験しました。それは沖縄の米軍基地内。
学生時代にときどき基地内の運送屋さんのアルバイトをしていましたが、
基地内及び米軍施設はすべてサマータイムでした。(多分)
朝7時から仕事が始まり、11時半から13時まで長い昼休み。午後は4時までで終わり。

]FIG]

[NOTE[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[114] [CITE[健康住宅 注文住宅 リフォーム|金政工務店(宮崎県日向市)]] ([TIME[2018-03-12 19:15:41 +09:00]]) <http://ietateru.com/aisatu.html>
]FIGCAPTION]

>
代表取締役				金丸政司
>(経歴)
> 昭和60年 琉球大学 工学部 建設工学科卒業

]FIG]

[769] この書き方だとはっきりしないけど[[夏季営業時間]]の意か。
]NOTE]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[125] [CITE@ja[【news】[[サマータイム]]導入について | お便りコーナー | 沖縄のうわさ話]]
([TIME[2018-12-12 15:35:04 +09:00]])
<https://www.098u.com/2018/08/200541#comment-1807704>
]FIGCAPTION]

> 匿名さんより
> 2018年08月14日(火) 17:48
> 復帰前の沖縄では、米軍基地の中では一時期サマータイムやってたそうだ。米軍人軍属以外で経験したのは基地従業員だけ。まあ、復帰前と言っても1950年代の話らしいから民間地域には大した影響なかったのだろうね。

]FIG]

;; [219] 2つの「サマータイム」が混同されて伝承されている?

]REFS]

@@
[387] 
[CITE@ja-JP[月報司法書士 (2)(207)]], [[月報発行委員会]], [TIME[1989-02]], [TIME[2026-01-20T01:30:11.000Z]], [TIME[2026-02-13T08:52:57.914Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2844595/1/2?keyword=%E6%B2%96%E7%B8%84%E5%BE%A9%E5%B8%B0> (要登録)


* 沖縄独自時刻の提案

[SEE[ 南西諸島を含む日本全国の標準時や夏時刻の提案については[[日本標準時改正案]] ]]

[126] [[沖縄]]における[[中央標準時]] [TZ[+09:00]] は、
30分-45分程度の[[通年夏時刻]]に相当します。
[[本土]]に比べると[[朝]]遅くまで[[日]]が昇らず、
[[夜]]遅くまで[[日]]が沈まないことになります。

[127] それだけならばそれに最適化された社会となっているのでしょうが、
[[本土]]と経済や文化でつながっている以上、
解消できない無理も生じているのでしょう。
後述の通り、[[沖縄]]独自の[[時刻]]の提案にもつながっています。
そこまで飛躍しなくとも、
「夜型社会」が問題視され、
健康への影響を懸念する人もいます。
[SEE[ [[夏時刻の健康被害]] ]]

;; [265] だとすると、
[[日本本土]]との経済的関係が比較的弱かった米国統治時代はどうだったのでしょうか。

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[122] [CITE@ja[沖縄 サマータイム ( 沖縄県 ) - すべらない沖縄JOHO - Yahoo!ブログ]]
(2013/6/5(水) 午後 9:49 [TIME[2018-12-12 15:25:36 +09:00]])
<https://blogs.yahoo.co.jp/kawai2951/68232593.html>
]FIGCAPTION]

> この時期のナイトダイビングでは
> 夜の8時に海に入ったりする。
>  
> キャバクラのお姉ちゃんの出勤時間が22時
> ナイトフィーバーは0:00〜賑わう・・・
> モーニングの習慣がありません (喫茶店もないし)

]FIG]

[CITE@ja[沖縄 サマータイム ( 沖縄県 ) - すべらない沖縄JOHO - Yahoo!ブログ]] ([TIME[2019-07-27 12:52:20 +09:00]]) <https://web.archive.org/save/https://blogs.yahoo.co.jp/kawai2951/68232593.html>

]REFS]



[FIG[ [129] [[沖縄]]の[[太陽]]

- [[那覇]] 旧[[西部標準時]] [TZ[+08:00]] (実施例なし)
--
[FIG(suntime)[
tz=+08:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-03-20 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[春分]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+08:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-06-21 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[夏至]]
-- 
[FIG(suntime)[
tz=+08:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-09-23 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[秋分]]
-- 
[FIG(suntime)[
tz=+08:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-12-21 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[冬至]]
- [[那覇]] [[中央標準時]] [TZ[+09:00]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-03-20 offsetafter=01:00
]FIG]
[[春分]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-06-21 offsetafter=01:00
]FIG]
[[夏至]]
-- 
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-09-23 offsetafter=01:00
]FIG]
[[秋分]]
-- 
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-12-21 offsetafter=01:00
]FIG]
[[冬至]]

-*-*-

- [[石垣島]] 旧[[西部標準時]] [TZ[+08:00]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+08:00 lat=24.334444 lon=124.156111 day=2000-03-20 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[春分]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+08:00 lat=24.334444 lon=124.156111 day=2000-06-21 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[夏至]]
-- 
[FIG(suntime)[
tz=+08:00 lat=24.334444 lon=124.156111 day=2000-09-23 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[秋分]]
-- 
[FIG(suntime)[
tz=+08:00 lat=24.334444 lon=124.156111 day=2000-12-21 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[冬至]]
- [[石垣島]] [[中央標準時]] [TZ[+09:00]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=24.334444 lon=124.156111 day=2000-03-20 offsetafter=01:00
]FIG]
[[春分]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=24.334444 lon=124.156111 day=2000-06-21 offsetafter=01:00
]FIG]
[[夏至]]
-- 
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=24.334444 lon=124.156111 day=2000-09-23 offsetafter=01:00
]FIG]
[[秋分]]
-- 
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=24.334444 lon=124.156111 day=2000-12-21 offsetafter=01:00
]FIG]
[[冬至]]

]FIG]


[81] 
[TIME[2000年12月25日][2000-12-25]]、
[[沖縄県]][[那覇市]]の商業施設[[パレット久茂地]]前の街頭演説で、
[[民主党]]の沖縄2区総支部長だった[[島尻昇]]は、
[[沖縄]]の[[標準時]]を
[TZ[+08:00]]
とすることで、株式取引時間などから経済効果が生じると主張しました
[SRC[>>69]]。

[82] 
[TIME[2002年3月19日][2002-03-19]]、
[[民主党]]の沖縄県連代表となっていた[[島尻昇]]は、
[[国会]]の[[衆議院]]の[[沖縄及び北方問題に関する特別委員会]]の[[沖縄振興特別措置法]]案の審議に[[参考人]]として出席し、
[[沖縄県]]に[[一国二制度]]の一貫で[[沖縄時間]] [TZ[+08:00]]
を導入することが株式取引その他の市場の活性化につながると主張しました
[SRC[>>67]]。

[83] 
[TIME[2002年8月26日][2002-08-26]]、
[[民主党]]は[[沖縄]]政策をまとめた[CITE[民主党沖縄ビジョン]]を公表しました。
[[本土]]と[[沖縄]]で[[時差]]を設けることで、
[[本土]]からの観光客の活動時間が長くなり観光業にメリットが有ると主張しました。
[TIME[2005年8月12日][2005-08-12]]の改訂版にも同内容が盛り込まれました。
[SRC[>>76, >>77]]

[84] 
当時の[[沖縄ビジョン]]は、
[[沖縄]]の[[独立]]や[[一国二制度]]導入を掲げるなど、
[[親中派]]や[[琉球独立]]派に寄った非常に攻めた内容となっていました。
当然[[民主党]]沖縄県連の意向も反映されていたはずですが、
経済色の強い島尻の主張に対し、
[[沖縄ビジョン]]は観光をメリットに謳っていました。


[111] 
[TIME[2004年1月8日][2004-01-08]]、
[[朝日新聞]]の[[船橋洋一]]は、
[[与那国島]]を [TZ[+08:00]] とするなど[[日本]]全国を3区に分けることを提案しました。
[[与那国島]]は[[日本]]の西端として取り上げられたもので、
実際には日本西部を意図していたとみられますが、
どこまで [TZ[+08:00]] とするべきと考えていたのかは不明です。
(抽象的な提案に留まっており、そこまで真剣に考えていなかった可能性もあります。)
[SEE[ [[日本標準時改正案]] ]]

;;
[88] 
[TIME[2005年9月][2005-09]]、
[[衆議院議員総選挙]]が行われ、
沖縄2区では[[民主党]]を[[離党]]した[[島尻昇]]が[[無所属]]で出馬しましたが、
落選しました。[[民主党]]は沖縄2区で[[社民党]]の候補を支持し、
自党候補を擁立しませんでした。 (結局[[社民党]]候補が当選しました。)
ちなみにこの選挙はいわゆる[[郵政選挙]]で、
中央では[[夏時刻]]推進派が失脚し導入が頓挫することにもなりました。
[SEE[ [[日本標準時改正案]] ]]

[85] 
[[沖縄ビジョン]]は[TIME[2008年][year:2008]]にも改訂版が公表されましたが、
[[時差]]に関する記述はありませんでした。この版では以前の過激な主張は抑えられ、
比較的現実的な政策がまとめられている印象があります。

[HISTORY[
[87] 
[TIME[2009年][year:2009]]の[[民主党政権]] ([[鳩山由紀夫内閣]])
時代に[[沖縄ビジョン]]が公表され、
[[標準時]] [TZ[+08:00]] 採用が盛り込まれたという報道があります [SRC[>>86]] 
が、
[TIME[2009年][year:2009]]版[[沖縄ビジョン]]が策定されたとする情報は見当たらず、
他の[[民主党]]の沖縄政策を扱う文書で[[標準時]]の件が含まれているものも見つかっていません。
いろいろな時代の情報が混乱して伝わったものでしょうか。
]HISTORY]

[170] 
[[社会党]]の[[衆議院議員]]の[[帆足計]]の元秘書で[[八重山諸島]]出身の[RUBYB[[[友寄英正]]][[TIME[1938][year:1938]]-[TIME[2007-05-01]]]]
(筆名[[金城朝夫]])
は、[[島おこし運動]]で[[時差]]が必要と主張していました
[SRC[>>1822]]。

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[69] [CITE[民主党:全国キャラバン「おかしなことなくし隊」報告・沖縄]]
(2000/12/25 [TIME[2018-12-08 13:05:19 +09:00]])
<http://www1.dpj.or.jp/news/?num=13757>
]FIGCAPTION]

> 沖縄県那覇市
> パレット久茂地前 街頭演説
> [SNIP[]]
> ●島尻 昇(沖縄2区総支部長)
>  沖縄振興策は沖縄に1時間時差を設ける事す。一時間、遅らせることで、株の証券取引所の営業時間が一時間遅くなります。当然、投資は活発化します。そのほかにも多くのビジネスチャンスが生まれます。」

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[67] [CITE[衆議院会議録情報 第154回国会 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第6号]]
([TIME[2014-11-28 18:29:30 +09:00]])
<http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/154/0025/15403190025006c.html>
]FIGCAPTION]

>
第154回国会 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 第6号
>
平成十四年三月十九日(火曜日)
>    午前十時二分開議
> 出席委員
[SNIP[]]
>   理事 荒井  聰君 理事 武正 公一君
[SNIP[]]
>   参考人
>   (民主党沖縄県連代表)  島尻  昇君
[SNIP[]]
>本日の会議に付した案件
> 政府参考人出頭要求に関する件
> 沖縄振興特別措置法案(内閣提出第五号)
[SNIP[]]
>
○荒井(聰)委員 民主党の荒井聰でございます。[SNIP[]]
> また、本法案の五十六条の金融業務特別地区における事業の認定を行う際に、沖縄時間を設定するという御意見がございました。具体的にはどのようなことを意味し、どのような効果をねらっているのか、お答えを願いたいと思います。
>○島尻参考人 [SNIP[]]
やはりもっと踏み込んで、一国二制度を導入するぐらいの意気込みが必要であるというふうに考えています。
> その流れの中で、先生から御指摘がありましたもう一点の沖縄時間を設定するということになりますけれども、これもいわゆる一国二制度的なものになってまいりますけれども、本県の地理的な条件から見まして、沖縄に日本標準時間からマイナス一時間の時差を設定するということによって、例えば第五十六条、金融業務特別地区における事業の認定を想定されていますけれども、効果的に運用することが可能であると考えました。
> これは、本土市場と違う時間、いわゆる異なる時差を設定することによって発生する、例えば株価の終わり値などの値を運用することによって、新たに沖縄市場を展開することも可能となる。また、その活用の仕方によっては、県益のみならず、また日本国の国益にも資する結果とつながっていくという考えに基づいております。
>○荒井(聰)委員 沖縄時間の設定というのは、大変ユニークで示唆に富んだ御意見かと思います。確かに沖縄では五時、六時といってもまだまだ明るくて、時間が本土とは随分違うなという印象をあそこへ行くと一番最初に感ずることでもございますので、それを経済活動に反映するということは大変示唆に富んだものと思います。
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[76] [CITE[民主党:民主党沖縄ビジョン]]
(2002/08/26 [TIME[2018-12-08 13:06:20 +09:00]])
<http://www1.dpj.or.jp/news/?num=10686>
]FIGCAPTION]

> 10. 本土との間に時差を設定
> 本土からの観光客の活動時間を長くできるなど観光産業にメリットをもたらすため、本土との間に時差を設けることを、企業経営の負担等も勘案しつつ、検討する。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[77] [CITE[民主党沖縄ビジョン【改訂】 ]]
(2005 年8月  [TIME[2006-06-23 00:00:00 +09:00]])
<http://www1.dpj.or.jp/news/files/BOX_KOA0022.pdf#page=12>
]FIGCAPTION]

> 25) 本土との間に時差を設定
> 本土からの観光客の活動時間を長くできるなど観光産業にメリットをもたらすため、本土と
の間に時差を設けることを、企業経営の負担等も勘案しつつ検討する。 

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[86] [CITE@ja[甲午戦争から120年 日本は中国の敵ではない_中国網_日本語]]
(2013-12-16 10:44:53 [[李明艳]]著, [TIME[2013-12-16 11:46:05 +09:00]])
<http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2013-12/16/content_30906229.htm>
]FIGCAPTION]

> わずか数年前の2009年、民主党の鳩山政権は、沖縄一国二制度、両岸(大陸部と台湾)及び日韓国民の沖縄訪問ビザ免除、沖縄の学生の中国語の学習、沖縄の通貨発行、中韓と同じ標準時区を設定、より重要なこととして沖縄からの米軍基地撤退などの内容を含む「沖縄ビジョン」を提示した。台湾紙・中国時報が伝えた。

]FIG]

]REFS]

-*-*-

[264] 
[TIME[平成18(2006)年][year:2006]]や[TIME[平成22(2010)年][year:2010]]、
[[日本国]][[沖縄県]]で活動する反政府グループは、
[[私年号]]の[[琉球][琉球 (元号)]]を機関紙(?)で使いました。
[SEE[ [[琉球 (元号)]] ]]

-*-*-

[108] 
[TIME[平成20年7月8日][2008-07-08]]、
[[沖縄県議会]]で[[社大党・ニライの会]]の[[県議会議員]]の[[瑞慶覧功]]
[WEAK[(後に[[会派おきなわ]]の会派長)]]
は、
「暑い沖縄の特色」として[[サマータイム]]を実施することが観光や経済やゆとりに有効だと提案しました [SRC[>>101]]。

[109] 
ただし簡単な言及のみに留まっており、
[[夏時刻]]と[[夏季業務時間]]のいずれを想定していたのかは不明です。
瑞慶覧がその後議会 (本会議) で[[サマータイム]]を提案した記録は見られません。

[131] 
[TIME[平成20(2008)年][year:2008]]、
[[日本国]][[沖縄県]][[沖縄市]]の[[沖縄市活性化100人委員会]]の[[沖縄市の将来ビジョンづくり部会]]は、
「約10年後の沖縄市のある家庭の風景をイ
メージするものとして、ストーリーテリング手法にてとりまとめた」という物語
[CITE[2020年の沖縄市のある一日]]
を作成しました。
ここでは、
「道州制導入により、沖縄にも時差が導
入されたため、上海との時差は無くなり」、
[[上海]]に留学する[[沖縄県]]民が増えたと描かれていました。 [SRC[>>133]]
部会内に[[中国大陸の標準時]]と同じ [TZ[+08:00]]
を[[沖縄県]]の[[標準時]]とすることを望む意見があったものと思われます。
ただし、最終的な報告書には[[標準時]]に関する内容は盛り込まれておらず、
その後具体的な動きにはつながらなかったようです。

;; [331] 
その[TIME[2020(令和2)年][year:2020]]までの間に[[道州制]]の機運はしぼみ、
懐かしさすら感じられるようになりました。
[[中華人民共和国]]との関係はかつてほど悪化してはおらず、
むしろ来日観光客は激増したものの、
[[沖縄県]]民ですらそこまで日常的に両国を行き来するようにはなりませんでした。
そこに[[新型コロナウイルス]]が発生し、
一般人の往来は激減しました。
もちろん[[標準時]]改正も成りませんでした。



[116]
[TIME[2009年][year:2009]]、
[[日本国]][[沖縄県]][[読谷村]]で開催された[[行政]]と[[住民]]による政策ワークショップで、
夜型社会の改善のため[[サマータイム]]が提案されました
[SRC[>>115]]。しかし具体的な動きにはつながりませんでした。

;; [128] 夜型対策に[[夏時刻]]は逆効果なのでは...
それとも >>123 のように夏だけ1時間遅らせる提案でしょうか。

;; [110] この時期、中央でも[[サマータイム]]導入が検討されていました。
[SEE[ [[日本標準時改正案]] ]]

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[101] ([TIME[2018-12-08 02:00:56 +09:00]])
<http://www2.pref.okinawa.jp/oki/Gikairep1.nsf/GoZentai/20080205000000?OpenDocument#20080205020030>
]FIGCAPTION]

> 平成20年 第 2回 沖縄県議会(定例会)	
> 第 5号  7月 8日
> [SNIP[]]
> ○瑞慶覧 功 皆さん、おはようございます。
>  中頭郡区、北谷町出身、社大・ニライの瑞慶覧功です。
>  数少ない議会経験のない新人です。皆様の御指導、御鞭撻よろしくお願い申し上げます。
> [SNIP[]]
> ○瑞慶覧 功 [SNIP[]]
>  それから道州制の問題もこれから出てきますけれども、やはり日本列島、沖縄から北海道まで気象条件も文化も異なります。単独州を目指すのであれば、もっと沖縄を主張することが大事であると考えます。そのためにかりゆしウエアをおきなわブランドとしてもっと県内外に進めていく必要があると思います。
>  また、今回質問できませんでしたが、暑い沖縄の特色としてサマータイムの導入なども考えていく必要があると考えております。そのことが観光産業や地域経済、さらにはゆとりある暮らしにつながってくると考えます。

]FIG]

- [132] [CITE@ja[第16回 | 沖縄市の将来ビジョンづくり部会 | 沖縄市活性化100人委員会 | 沖縄市の情報 | 沖縄市役所]] ([TIME[2019-01-01 15:03:55 +09:00]]) <http://www.city.okinawa.okinawa.jp/about/1377/1393>
-- [133] [CITE[2020年の沖縄市のある一日]] ([TIME[2015-02-03 19:39:10 +09:00]]) <http://www.city.okinawa.okinawa.jp/userfiles/files/page/about/1393/2020okinawasi.pdf>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[115] [CITE[沖縄の未来を考える市町村ワークショップ | 沖縄21世紀ビジョン | Think! うちなーの未来をみんなで考えよう]]
([TIME[2010-11-26 14:13:43 +09:00]])
<https://www.pref.okinawa.jp/21vision/workshop/Pcat=2&n=3_workshop.html>
]FIGCAPTION]

> 読谷村
> 実施期間:平成21年8月3日(月)14:00
> 参加人数:31人(うち行政職員12人、自治会役員など19人)
> 全体概要: [SNIP[]]
>  夜型社会を変える取り組みとして「サマータイムの導入」があった。
>  「うちなータイム」については、「ゆったりとした時間の流れ」としてとらえ、残すべきとする意見がある一方、「時間をしっかり守るべき」として変えていくべきものとする意見があった。

]FIG]

]REFS]

-*-*-

[60] 
[[日本国]][[沖縄県]]で営業する観光業者[[沖縄ツーリスト株式会社]]の経営者の[[東良和]]は、
[[沖縄]]で[[西部標準時]] [TZ[+08:00]]
を採用することを提案しました。
[[日本本土]]からの観光客の感覚に比して[[沖縄]]の[[日の出]]時刻
([[中央標準時]]) が遅いため、
1時間繰り下げた方が朝から[[ゴルフ]]を楽しみ、
夜には[[イルミネーション]]を楽しむことができる、
としています。また、[[東アジア]]各地との[[時差]]がなくなることによる経済効果や、
日本国内に[[時差]]が存在することが[[教科書]]に載るなど[[沖縄]]の存在感を高める効果もあるとしています。
[SRC[>>58, >>1820]]

[61] 
東は[TIME[2013年][year:2013]] [SRC[>>58]] や
[TIME[2014年][year:2014]] [SRC[>>1821]] 
の講演会でこの提案を披露しているようです。
[TIME[2017年][year:2017]]に[[沖縄県]]で発行されている[[新聞]]で旧[[西部標準時]]を紹介した
[SRC[>>1822]] ようで、再導入の提案も記事に含まれていたかもしれません。
東がいつ頃から主張し始めたのかは不明です。
[[民主党]]のかつての主張を知っていても不思議はありませんが、
関係は不明です。

[63] 
東以外にも独自時刻の導入を主張する人は少数存在しているようです
[SRC[>>1823, >>123]] が、あまり支持を集められてはいないようです。
東も講演会の余談がてらに自説を紹介している程度のようで、
まだ実現に向けた具体的な活動というよりは支持者を広げようとしている段階と思われます。

[66] 
[[観光客]]の時間活用を意識した[[時刻]]ということで[[リゾートタイム]]に似ていますが、
一般的に[[リゾートタイム]]は[[時刻]]を早めるのに対し、
[[沖縄]]の時刻の提案は[[時刻]]を遅めるという点が逆です。

[REFS[
- [58] [CITE[復帰40年 沖縄観光の課題と未来]] 
([TIME[2013年1月23日][2013-01-23]],
第6回 本土復帰40周年記念リレー講演会,
沖縄ツーリスト株式会社 代表取締役社長 [[東良和]],
[TIME[2018-02-13 19:00:59 +09:00]]) <http://www.ogb.go.jp/-/media/Files/OGB/Soumu/40kinenkouen/06_kouen03-2_shiryou.pdf?la=ja-JP&hash=71578727836E8D0EF2D04865C2B675FA65BFA3B3#page=30>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1820] [CITE[復帰40年沖縄観光の課題と未来]]
( 沖縄ツーリスト株式会社代表取締役社長 東 良和 氏 [TIME[2018-02-13 19:00:55 +09:00]])
<http://www.ogb.go.jp/-/media/Files/OGB/Soumu/40kinenkouen/06_kouen03-2.pdf?la=ja-JP&hash=4DADD0C57A3872F6001EC1896013E12673DF22B3>
]FIGCAPTION]

> 【番外編(1時間の時差の導入)】
> 時差の導入も、新たな沖縄観光の発展のカギではないかと思います。1時間の時差を導入したら、
東アジアと同一時間になります。[SNIP[]] 観光の立場で、私が強調したいのは、マイ
ナス1時間の時差を設けることによって、本土
から来ると、時間を戻し1時間ゆったりするこ
とができるということと沖縄のリゾートとして
の価値が上がるということです。[SNIP[]]冬に沖縄での
ゴルフを計画しているお客様から、「なんで7時からゴルフできないの」とよく聞かれます。日の出
が遅いですからと言っても沖縄に来るまでは信じてもらえません。[SNIP[]]
冬は早く暮れたほうがイルミネーションが楽しめます。[SNIP[]]
時差ができたら「日本には時差があります」と、全国的に小学校の頃から教科書で沖縄のことを学
んでくれると思います。[SNIP[]]

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1821] [CITE@ja[バックナンバー]]
(2014年9月1日号 首都圏ソフトウェア協同組合 [TIME[2018-08-28 00:01:09 +09:00]])
<http://backnumber.cbz.jp/?t=bd46&m=2d33&p=2014090119_2594026506309147>
]FIGCAPTION]

> 沖縄ツーリストの東良和会長
である。先日、ネットワークの仮想化を実現する「オープンフロー」の開発研
究所として設立された沖縄オープンラボラトリの勉強会で東会長の話を聞いて、
その思考の柔軟性に感服した。[SNIP[]]
>  さらに驚いた提案は、沖縄は時差を設けて、1時間本土より遅らせる「特区」
にしてもらう、ということだ。現在は、東京で朝、明るくなっても沖縄は暗く、
夕刻、東京が暗くなっても沖縄はまだ明るい。観光客は東京時間で行動するの
で、朝、暗いうちにゴルフのプレーを開始し、夕方、夕日を見ながら食事をす
れば素晴らしい体験ができるのに、日が高いうちに夕食を終えてしまう、とい
うようなちぐはぐが起きている。1時間時差をもらえば、多くのちぐはぐが是
正されるのではないか。
>  国内に時差を設けるのは前例があるそうだ。琉球国が日本に帰属して沖縄県
になった直後、宮古島、石垣島地域は本土時間と1時間の時差を設けていたそ
うだ。しかし、台湾を日本に組み入れたとき、一体化政策の一環として時刻を
本土と同じにしたとき、途中にある宮古島、石垣島地域の時差制度もなくなっ
てしまったそうだ。今度は「沖縄全体に時差を」ということだ。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1822] [CITE@ja[宮古、八重山はかつて時差が台湾と同様に1時間あった… | 八重山毎日新聞社]]
(2017年06月30日 [TIME[2018-08-28 00:04:45 +09:00]])
<http://www.y-mainichi.co.jp/news/31861>
]FIGCAPTION]

> 宮古、八重山はかつて時差が台湾と同様に1時間あったことを先に東良和沖縄ツーリスト会長が県紙に、先日は本紙のコラムが取り上げていたのを読んで、私が尊敬する反骨のジャーナリストの友寄英正さんを思い出した▼東京で社会党代議士秘書を務め、帰郷後常に「マイノリティー」いわゆる少数派や弱者の側に立ってさまざまに平和運動や住民運動を主導した友寄さんが、「島おこし運動」で熱く時差の必要性を語っていたからだ

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1823] [CITE@ja[明日21日は、1年で最も昼が長い夏至。7年前の夏至の日、北海道… | 八重山毎日新聞社]]
([TIME[2017年06月20日][2017-06-20]], [[慶田盛伸]], [TIME[2018-08-28 00:06:46 +09:00]])
<http://www.y-mainichi.co.jp/news/31814/>
]FIGCAPTION]

> 昭和の末の台湾旅行以来「時差はあるべきだ」がささやかな持論▼わが国は国内時差を認めないが、明治28年から昭和12年まで、東経120度以西の宮古八重山に1時間遅れの西部標準時が設定されていたことはあまり知られていない。日清戦争で台湾を領有した結果、台湾と先島に設定された▼当時の人々は太陽とともにある暮らしで、時差とは何の関わりもなかったに違いない。廃止理由も軍事上か、よくわからないまま [SNIP[]] 石垣で時計を1時間遅らせば、ゆったりとしたディナーと遅い朝のぜいたくな時間を楽しめる。魅力創出につながる▼時差1時間には香港、マカオ、バリ島、シンガポール。名だたるアジアリゾートが位置する。ご一考を。(慶田盛伸)

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[123] [CITE@ja[沖縄の課題「夜型社会」サマータイム導入!?: 沖縄へUターンしてわかった「沖縄エンジョイトーク」]]
(Okinawa-Higashi at 23:56 2018年05月25日 [TIME[2018-12-12 15:25:45 +09:00]])
<http://www.okinawa-talk.net/article/459591328.html>
]FIGCAPTION]

>沖縄の課題の一つとして、「夜型社会」が挙げられる。
[SNIP[]]
>実際に、沖縄県の2016年の調査によると、子どもたちの平日前夜の就寝時刻は
小学5年生の42.8%が中学2年生の82.7%が22時以降だ。
>
睡眠時間も小学5年生が32.8%が、中学2年生の67.0%が8時間未満となっている。
>
これでは、学校生活に影響が出て、
学力低下の原因になっている可能性が高い。
[SNIP[]]
> 個人的に考えているのは、沖縄のみ日本時間より1時間遅くする、「沖縄時間」の導入も視野に入れてはどうか。
> 夏だけの「サマータイム」としての導入でも良いと思う。

]FIG]

;; [233] この提案記事の2ヶ月後、逆に2時間も進める[[夏時刻]]を全国で実施する提案がありました。
[SEE[ [[平成30年夏時刻騒動]] ]]

]REFS]

-*-*-

[130] 
日照時間を鑑みると、確かに[[沖縄]]で通年、または季節により [TZ[+08:00]]
を採用することは、悪いアイデアとはいえません。
しかし[[本土]]と[[時差]]が生じることによる様々な不便や経済的不利益、
既に[[中央標準時]]前提 (かつ[[日本]]国内で[[時差]]が存在しないこと前提) 
となっている社会システムや[[計算機システム]]の改修、
[[季節性時刻][夏時刻]]を採用するとした場合の切り替えコストや[[健康被害][夏時刻の健康被害]]、
[[本土]]と[[時刻]]を切り離し[[中国]]と同じ[[時刻]]を採用するという事実から否応なく生じる政治的メッセージ、
といったような事情を考えていくと、
メリットを遥かに上回るデメリットがあり、実現はほとんど不可能と思われます。

* 琉球、支那、日本の旧暦の差異

[12] 中国の暦と日本の暦はどちらも中国式[[太陰太陽暦]]とはいえ、
[[時差]]など細部で違いがありますから、[[日本]]本土と[[琉球]]の間でも[[日付]]が異なることが度々あったと思われます。
[SEE[ [[旧暦]] ]]

* 支那と日本の元号の衝突

[3] [[日本の元号]]と[[支那の元号]]で同じ名称のものがいくつかあります。
[[琉球]]の記録にみえる[[元号]]の解釈時には、
[[支那の元号]]の可能性をまず検討する必要があります。
[SEE[ [[元号]] ]]

* 現代日本における琉球日時の取扱い

[135] 
[[日本の元号]]や[[旧暦]]を扱った書籍や [[Webサイト]]などでは、
特に[[琉球]]を扱ったもの以外、
[[琉球]]で使われた[[支那の元号]]や[[旧暦]]に触れたものはほとんどありません。
[[元号]]や[[旧暦]]を使った[[日付]]の処理や[[西暦]]との換算を行う[[計算機ソフトウェア]]でも、
[[琉球]]の[[元号系]]や[[旧暦]]を扱えるものはほとんどありません。

[136] 
そうしたソフトウェアを開発する場合、
[[日本の元号]]と[[支那の元号]]の名前の衝突に注意が必要です。
[SEE[ 前の章、[[元号]] ]]

[138] 
現在一般的な[[計算機ソフトウェア]]は[[時差]]の違いを扱えるものも多いですが、
[[過去の日時]]の取扱いは難しいことが多いのが実情です。
[[西部標準時]]も含めた[[日時]]処理を正しく扱えるものはあまりありません。

[137] [SEE[ 夏時刻については[[昭和のサンマータイム]] ]]

* データファイル

[2] [SEE[ 元号データファイルは[[元号一覧]] ]]

[15] [SEE[ 旧暦と新暦の対応や日本・支那との比較は[[旧暦]] ]]

[55] [SEE[ 祝日データファイルは[[日本の祝日]] ]]

* 関連

[54] 
[[南西諸島]]各地では、[[地名]]と「[[時間]]」を組み合わせ、
[[時刻]]に厳格ではないルーズな慣習を表現することがあります。
たとえば[[ウチナータイム]]、[[宮古時間]]、[[八重山時間]]、
[[島時間]]のような語があります。
(こうした語は[[南西諸島]]に限らず、世界各地で見られます。)
[SEE[ [[地方時間]] ]]

[134] [SEE[ [[臺灣の標準時]]、[[小笠原の標準時]] ]]

* メモ



[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[144] [CITE[黒島の石碑・説明看板]]
([TIME[2015-03-28 09:40:23 +09:00]] 版)
<http://www.zephyr.justhpbs.jp/kuroshima_hibun.html>
]FIGCAPTION]

> 矢橋式日時計 第107号
>  日時計のみかた
>  この日時計は、上のひさしの形をした板のかげが、
> 午前は左側、午後は右側の目盛にうつり、それで、そ
> のときの時刻がわかります。
>  この半円形の目盛板は、その中心のまわりに回転さ
> せて、時間のくるいをなおせば、常に正しい時刻を示
> すことができます。
>  また、毎日の正午になると、上のひさしの形をした
> 板の先にある穴のかげが、ちょうど、下の「8」の
> 字型をした日付の目盛線の上にきて、それで、正午の
> 時刻と、およその月日を知ることができます。
>  この日時計の特長とあわせかた
>  これまでの普通の日時計には、次の2種類の時差がありま
> した。
>  経度差 ここ(東経124.0°)と、中央標準時の基
> 準子午線(東経135°)の通る兵庫県赤石との経度差によ
> る時差(ここでは日時計が常に約44分遅れる)と
>  均時差  四季の変化で、太陽が天の黄道上を移行する
> 速さが一定でないため、真太陽と、わたくしたちが時刻の
> 基準にしている平均太陽との相違による、最大16分まで
> の歩みおくれがあります。
>  この日時計は、東経135°、北緯45°のところの垂直型日
> 時計とまったく同じ方向をむくように、すこし傾けておいて
> ありますから、(1)の経度差による時差はありません。
>  また、目盛が等間隔になっているので、(2)の均時差によ
> る時差は、下の均時差修正表に記してある日に、目盛板を多
> 少左右に回転して、その下方にある矢印の真上に、その日の
> 修正値がくるようにすれば、日時計から、直接、中央標準時
> (誤差1分程度)を知ることができます。	矢橋式日時計
> この日時計は旧黒島マリンビレッジの敷地内にあります。

]FIG]










[153] [CITE@ja[高知シリウスふぁーむ便り・・石垣島のかげぼうし日時計 | ネクタイ外して野良へ・・農園工房シリウスふぁーむ便り]]
([TIME[2019-01-25 13:22:07 +09:00]])
<https://ameblo.jp/shiriusufarm/entry-12133577764.html>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[159] ([TIME[2018-10-07 05:00:37 +09:00]])
<http://bunjin-k.net/yonaguni1.htm>
]FIGCAPTION]

>  明治29(1896)年、標準時変更によって西部標準時が設けられた際、1時間の時差をもって、与那国は台湾と同一時刻の標準時間帯となった。(ただし西部標準時の使用は昭和12(1937)年に廃止されている)。(宮城政二郎『与那国物語』1993年)

]FIG]



[171] [CITE@ja[[第374回]暦の会4月例会 ]]
([TIME[2014-07-20 20:07:20 +09:00]])
<http://www1.cts.ne.jp/~koyomi/kikou2-20.html>

[194] [CITE[日時計を識る(日影台の日時計を考える)]]
([TIME[2019-02-16 10:24:00 +09:00]])
<http://www.kotenmon.com/cal/roukoku/hidokei.html>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[195] [CITE[会議議事録要約]]
([TIME[2019-10-14 11:53:21 +09:00]])
<https://web.archive.org/web/20020830182853/http://www.kokuminkaigi.gr.jp/hearing1/okinawa/giji_4.html>
]FIGCAPTION]

> (永井氏)
> 私は「サマータイム導入と同時に沖縄時差時間の制定を」というタイトルで話させていただきます。

]FIG]


[196] [CITE@ja[新聞と暦表記]]
([TIME[2019-10-20 22:30:10 +09:00]])
<http://www.ayirom-uji-2016.com/%E6%96%B0%E8%81%9E%E3%81%A8%E6%9A%A6%E8%A1%A8%E8%A8%98>

[197] [CITE@ja[琉球新報さんのツイート: "【新元号アンケート】新元号が「令和(れいわ)」に決まりました~!あなたの感想は?"]]
([TIME[2019-10-20 22:30:49 +09:00]])
<https://twitter.com/ryukyushimpo/status/1112555548723957760>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[198] [CITE@ja[【月刊正論1月号】中国は、沖縄を「特別自治区」と思っている!? 沖縄対策本部代表 仲村覚(5/6ページ) - 産経ニュース]]
([[SANKEI DIGITAL INC.]]著, [TIME[2018-03-30 12:28:31 +09:00]])
<https://www.sankei.com/premium/news/161230/prm1612300028-n5.html>
]FIGCAPTION]

> 外務省の外交文書としてアーカイブ保存されており「琉球所属ニ関シ日清両国紛議一件」というタイトルで公開されている。双方の主張の要点を当時の外交を解説している書籍「沖縄の地位」(國際方學會編 昭和三十年初版)より引用して紹介する。まず、清国側の主張である。
>  一、琉球王の即位は中国皇帝よりの冊封による。二、清帝即位の時、琉球王により慶賀使を派する。三、年号、歴法、文書いずれも清制で、米・仏・欄との条約もその通りとなっている。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[223] [CITE[南風原平和ガイドちゅ~しん 第39号]]
(2011(平成23)年6月10日 [TIME[2019-11-24 20:37:52 +09:00]])
<http://archive.is/kd3Uf#selection-289.0-343.22>
]FIGCAPTION]

> 昨年の総会からの持ち越しでもある「ガイドの会」として西暦、元号どちらを使うかということが今回も議論されました。「外国人を案内するときは西暦でなくてはわからない」「天皇制による元号は戦争責任を考えると使わないほうがいい」「役場は元号である」「1972年まで沖縄は西暦だった」などなど、活発な意見が出され、多数決の結果、圧倒的多数で「併記」に決定。「2011(平成23)年」が「ガイドの会」の正式表記になりました。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[224] ([TIME[2019-02-22 15:11:40 +09:00]])
<https://www.city.naha.okinawa.jp/sigikai/rule.files/reisyu.pdf#page=12>
]FIGCAPTION]

> 1 議会の呼称は、「平成○年(西暦)○月那覇市議会定例会(臨時会)」とす
> る。
> 【平成4年(1992年)1月31日 議会運営委員会決定】
> 《補足説明》
>  議会の呼称は、それまで「第○回那覇市議会定例会(臨時会)」となって
> いたが、この通し番号方式は、復帰直後の昭和47年(1972年)6月定例会を
> 第1回として、平成3年(1991年)12月定例会までに185回を数えた。
>  元号・西暦併記式の新呼称は、平成4年(1992年)2月臨時会から適用さ
> れている。
>  ちなみに、国会では、昭和22年5月20日に召集された「第1回国会」以来、現
> 在でも通し番号方式となっている。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[225] [CITE[[LINES[令和元年][第4回]]沖縄県議会(定例会)会議録(第3号)]],
令和元年6月26日(水曜日)午前10時4分開議, [TIME[2019-09-17 10:02:57 +09:00]] <https://www.pref.okinawa.jp/site/gikai/documents/r1dai4kai.pdf#page=80>
]FIGCAPTION]

>
[B[〇瑞慶覧 功君]] ハイサイ グスーヨー チューウガナビラ。 
>
会派おきなわの瑞慶覧です。 
>
ことし5月1日から元号が令和に変わりました。4月1日に新元号が発表されましたが、日本中のマスコミがお祭り騒ぎとなり、菅官房長官は令和おじさんともてはやされ、安倍首相は慣行を無視して異例の会見を行いました。これこそ天皇の政治利用だと思います。 
>私は昭和30年、西暦1955年生まれです。昭和の時代までは西暦に換算することは何とかできますが、明治や平成などは西暦がなかなか出てきません。歴史などはほとんど西暦で覚えます。元号を始めた本家の中国でさえ、西暦へ切りかえています。そろそろ日本も西暦に切りかえるべきだと思います。 
>
今回、平成天皇の希望で生前退位が決まりました。そのおかげでお祝いムードで世がわりができ、経済効果もあったと思います。しかし、今回一代限りの特例法となっており、問題です。そして、皇位継承資格について、女性天皇を国民の75%が支持しているのに、安倍首相の支持基盤である右翼団体などの反発が強いために皇室制度改革が進んでいません。時代錯誤も甚だしい女性差別です。国民の圧倒的な民意が無視されるのであれば、いっそのこと天皇制を廃止すべきです。
]FIG]

[226] 
瑞慶覧は以前[[サマータイム]]に賛成していた人物 (>>108)。
「平成天皇」
という不適切な語で上皇陛下のことに言及している。
「国民の圧倒的な民意」
によるお祝いムードや改元という現実を受け入れられず、民意ではなく自身の主張である
「天皇制を廃止すべき」
との結論に導く見事な話術よ。
また、
[[改元]]で首相が会見してはならないという慣例は我が国には存在していないし、
会見したら「天皇の政治利用」になるという論理は謎である。

[229] 
そんな人物であっても、
米国統治時代で[[西暦]]で生まれ育ってきたはずで、
[[昭和]]で暮らしたのは成人後の十数年程度のはずなのに、
「昭和の時代までは西暦に換算することは何とかできます」
とかいうほど[[元号]]に馴染んでいるというのが興味深い。
[[本土][日本本土]]の[[昭和]]生まれでも、
自分の生まれ年以外を[[西暦]]に換算できない人は多いはず。
(逆に、[[西暦]]を使ってきた[[沖縄県]]民だからこそ、
[[昭和]]と[[西暦]]の換算に慣れている可能性もあるか?)

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[230] [CITE@ja[咸豊元年異国日記 : 那覇市歴史博物館]]
([TIME[2019-11-24 21:00:47 +09:00]])
<http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/item7/7217>
]FIGCAPTION]

> 作成/筆写年_年号	咸豊元年(嘉永4年)
> [SNIP[]]
> 注記	辛亥正月ヨリ十二月ニ至ル(1851年1月~12月)/近世・王府(行政)

]FIG]


[231] [CITE[門上コレクションの銘書について]]
([TIME[2016-05-02 10:56:20 +09:00]])
<http://www.edu.city.naha.okinawa.jp/tsuboya/kiyou/kiyou16%20suzuki.pdf>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[232] [CITE[那覇市議会史 第1巻  通史編 那覇市議会の歩み]]
([TIME[2011-05-06 16:23:00 +09:00]])
<http://www.gikai.city.naha.okinawa.jp/pdf/history/vol_1.pdf#page=15>
]FIGCAPTION]

> 紀年については、「戦前期」と「復帰後」は元号で、「アメリカ統治期」は西暦で、時代
> 背景が分かるように表記した。 

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[236] [CITE@ja[与論日和 10 旧暦|yoron blue.|note]]
(yoron blue. 2019/12/29 16:30 [TIME[2019-12-30 10:02:15 +09:00]])
<https://note.com/yoron_blue/n/ne04f9d716e03>
]FIGCAPTION]

> 与論島では毎朝の町内放送でもアナウンスされるほど
> 日常的に旧暦が使われています。

]FIG]


[238] [CITE@ja[尚本家令和二年 年頭所感【元琉球王族、尚家が語る沖縄への想い】 | | OKINAWA41]]
([TIME[2020-01-07 09:13:27 +09:00]])
<https://www.okinawa41.go.jp/reports/35169/>

[239] ([TIME[2020-04-20 23:17:56 +09:00]])
<https://www.jstage.jst.go.jp/article/jscfh/32/0/32_71/_pdf/-char/ja>


[266] [CITE@ja[アラベスク  李昌性]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T02:54:39.000Z]], [TIME[2020-09-04T02:54:40.786Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3078.html>

[267] [CITE@ja[アラベスク  レプリカ]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T02:55:15.000Z]], [TIME[2020-09-04T02:55:17.287Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-2876.html>

[268] [CITE@ja[アラベスク  100圓加刷]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T02:56:01.000Z]], [TIME[2020-09-04T02:56:03.226Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-2503.html>

[271] [CITE@ja[アラベスク  100円加刷]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T02:57:11.000Z]], [TIME[2020-09-04T02:57:12.477Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1393.html>

[272] [CITE@ja[ゆる琉球史マンガbot@廃人前提おじさんさんはTwitterを使っています 「ただ唯一、国内で日本元号を使おうとした時期がある。17世紀、明清交代で琉球は南明亡命政権を支持するも、間もなく滅亡。この時期に日本の「寛文」元号を使用する事例がいくつか見られる。明清どちらが勝つか不安定な状況で、琉球の人たちは安定した日本の政権の元号を使おうとしたのではないか。」 / Twitter]]
(午前9:26 · 2019年4月30日 [TZ[+09:00]], [TIME[2020-09-05T04:05:51.000Z]])
<https://twitter.com/mangaryukyu/status/1123020841053065216>

[273] [CITE@ja[ゆる琉球史マンガbot@廃人前提おじさんさんはTwitterを使っています 「現存の島袋のノロ(神女)辞令書には「隆武7年(1651年)」と記されているが、これは明朝滅亡後の亡命政権である南明政権の年号。隆武2年で政権は滅亡しているが、琉球では明朝滅亡後も清朝年号を拒否し、南明年号を使用している。」 / Twitter]]
(午後6:19 · 2019年3月30日 [TZ[+09:00]], [TIME[2020-09-05T04:05:51.000Z]])
<https://twitter.com/mangaryukyu/status/1111920901052755969>

[274] [CITE@ja[ゆる琉球史マンガbot@廃人前提おじさんさんはTwitterを使っています 「また福州の隆武政権の滅亡後は広州で永暦帝が即位しているが、琉球では「永暦」の年号は使われず、ずっと「隆武」で通している。」 / Twitter]]
(午後6:20 · 2019年3月30日 [TZ[+09:00]], [TIME[2020-09-05T04:06:25.000Z]])
<https://twitter.com/mangaryukyu/status/1111921098340204545>

[275] [CITE@ja[ゆる琉球史マンガbot@廃人前提おじさんさんはTwitterを使っています 「朝鮮では私的文書に明朝最後の年号「崇禎」が19世紀末(!)まで使われ続けたというが(山内弘一『朝鮮からみた華夷思想』)、琉球は日本になってからも「明治」ではなく、清朝「光緒」を家譜などに使う例が散見される。」 / Twitter]]
(午後11:31 · 2019年3月30日 [TZ[+09:00]], [TIME[2020-09-05T04:06:44.000Z]])
<https://twitter.com/mangaryukyu/status/1111999351755161601>

[276] [CITE@ja[ゆる琉球史マンガbot@廃人前提おじさんさんはTwitterを使っています 「たとえば麻氏の子孫による『玉城・大城グスク由来記』が書かれた年号が「大清光緒壬辰」となっている。日本の明治25年(1892年)。王国滅亡から13年経っても、彼らは琉球士族としての気概を持ち続けたのだろうか。年号から彼らの気持ちが見えてくるようだ。」 / Twitter]]
(午後11:34 · 2019年3月30日 [TZ[+09:00]], [TIME[2020-09-05T04:07:03.000Z]])
<https://twitter.com/mangaryukyu/status/1112000081488547846>


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[293] [CITE@ja[第57回 「𦁪」と「綾」 | 人名用漢字の新字旧字(安岡 孝一) | 三省堂 ことばのコラム]]
([TIME[2020-10-14T05:37:05.000Z]])
<https://dictionary.sanseido-publ.co.jp/column/%e7%ac%ac57%e5%9b%9e-%e3%80%8c%f0%a6%81%aa%e3%80%8d%e3%81%a8%e3%80%8c%e7%b6%be%e3%80%8d>
]FIGCAPTION]

> 当時、琉球政府の公文書では、「沖縄県」も「昭和」も一切使用を許されていなかったのですが、再製された戸籍に限っては、本土と同じく元号表記を使用し、「沖縄県」を本籍地としたのです。

]FIG]


[351] 
[TIME[2023-07-19T13:28:05.700Z]]
<https://researchmap.jp/read0012388/presentations/12532032/attachment_file.pdf>
#page=15

[294] [CITE@ja[あげな中 22期生 同窓会ブログ]], [TIME[2020-11-28T09:16:36.000Z]] <https://agenacyu22.ti-da.net/>

[[日本国]][[沖縄県]][[うるま市]]の[[中学校]]の[[同窓会]]の告知と報告の[[ブログ]]。
告知チラシに
「[L[S43・4月~S44・3月生まれの方]]」
と[[元号年]]で[[生年月日]]の範囲が記載されている。
[[沖縄返還]]時点で4歳くらいの人達。

同じ告知チラシの開催日は
「[L[2016年7月9日(土)]]」
と[[西暦年]]。

ブログ記事の案内文は

>このブログは、H28.7.9(土)に開催する
あげな中22期生同窓会の告知と

と[[元号年]]。ブログの最期の記事の締めは

>平成28年 7月9日(土)
あげな中学校 22期生 同窓会
>
完

と[[元号年]]。

恩師から寄せられた手紙の写真
「[V[[CURSIVE[二〇一六年七月吉日]]]]」
[[草書]]混じりでやや崩れた[[手書き]]。
書いた人の年齢は不明だが、
米国統治時代に若者だったとみて間違いなかろう。
[[縦書き]]の崩れた[[手書き]]と[[西暦]]の組合せが興味深い。

当日配布された名札の写真
「[L[平成28年 (申) 第22期生 同窓会]]」
[[元号年]]と[[十二支年]]。
ここで[[十二支年]]は意外。

当日配置された日程表の写真:
表紙
「[L[2016年 7月9日(土)]]」
日程ページ
「[L[平成28年 7月9日(土)]]」。
ページによって[[西暦年]]だったり[[元号年]]だったり。



[310] [CITE[石垣島の石碑・説明看板(市街地-1)]], [TIME[2020-09-05T09:20:13.000Z]], [TIME[2020-12-20T10:15:24.982Z]] <http://www.zephyr.justhpbs.jp/ishigaki_hibun_cityarea-1.html>

[[西暦年]]と[[元号年]]が入り混じっているのは[[本土]]と変わらない。
(この [[Webサイト]]の翻刻文は[[漢数字]]を[[算用数字]]に書き換えていることもあるので要注意。)


[311] 
>[裏面上段]
>贈 勲四等瑞宝章叙勲記念
>1967年11月3日
>八重山電力株式会社

>[裏面下段]
> 牧志宗得社長は、明治十九年九月一九日、那覇市に生まれ、明
治四十三年、東京私立日本医学校を卒業、大正二年、石垣市に牧
志医院を開業、五十有余年の長期に亘って八重山住民の医療保健
に尽くされた。昭和二十三年、[SNIP[]]、更に、昭和三十四年五月、八重山電力株式会社の初代社
長として、住民福祉に貢献された。昭和四十二年秋、多年の地方
自治行政に対する功績によつて勲四等に叙せられ、瑞宝章を授与
された。茲にその栄誉を讃え、胸像を建立して、その功績を永く
後世に伝えるゆえんである。
> 昭和四十四年二月四日 八重山電力株式会社

>[側面]
>[SNIP[]]
>  平成十四年二月二十二日 石垣市長 大濱長照
>  胸像移転実行委員長 石垣信亨

昭和44年は返還前。この説明文がいつ書かれたものかは不明。

[312] 

>頌徳碑
>[SNIP[]]
>碑ヲ建テ其ノ功徳ヲ讃仰スル次第
デアル
>
一九四七年(昭和二十二年)
> 十月二十二日
>(旧九月九日重陽節句)
>頌徳碑建立委員会 大濱用立
>大史姓一門総台  吉野高善
>文喜舎場永珣
>現敷地移轉 昭和四十七年十月十五日

この碑文がいつ書かれたものかは不明。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[313] [CITE[石垣島の石碑・説明看板(市街地-1)]]
([TIME[2020-09-11T13:35:57.000Z]], [TIME[2020-12-21T03:33:39.827Z]])
<http://www.zephyr.justhpbs.jp/ishigaki_hibun_cityarea-2.html>
]FIGCAPTION]

> 桃林寺仁王像 説明書き

> 重要文化財(美術-彫刻)
> 桃林寺仁王像 二軀
> 元文二年(西紀一七三七年)文明氏久手堅仁屋昌忠の作。[SNIP[]]
> 一.所在地 石垣市字二八五番地 桃林寺山門
> 一.文化財指定 一九五六年二月二十二日
> 一.管理者 桃林寺
> 社団法人 八重山観光協会

> 沖縄県指定文化財124
> 金剛力士立像
> 久手堅仁屋昌忠・川平仁屋正肖・小浜仁屋當明作
> 琉球・第二尚氏時代 乾隆2年(1737)
> 沖縄県石垣市・桃林寺

]FIG]

[314] 1つ目は額に入った書状。[V[元文二年]]は[[日本の元号]]。
2つ目はそれに対する説明プレートで、まだ新しいものに見える。
乾隆2年は[[清の元号]]。

どちらも書かれた年代は不明、
返還前に[[琉球政府]]の[[重要文化財]]、
返還後に[[沖縄県]]の[[有形文化財]]に指定されたものだというので、
1つ目は返還前に書かれた可能性が高いだろう。

返還前に[[日本の元号]]で書き、
返還後にかえって[[支那の元号]]で書いていることに注意。


[315] >>313

>長延翁頌徳碑

>
宮平長延翁ハ山陽姓第四世ノ偉人ニシテ西歴一六七四年八月廿日黒島首里大屋子長孝ノ二男トシテ誕生シ一七四九
年十一月十三日永眠セラル享年七十六歳 [SNIP[]]
>[SNIP[]]茲ニ山陽姓一門碑ヲ建テ其ノ高徳ヲ鎮ス
>一九五一年昭和二十六年八月吉日

[317] 米国統治時代建立なのに[[昭和]]併記。

[316] >>313

>八重山キリシタン事件 殉教の地
> 一六二四年に石垣島冨崎の沖に漂着した宣教師ファン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父によって八重山にキリスト教がもたらされ[SNIP[]]
> 二〇〇四(平成一六)年十月二二日(旧九月九日)

[318] [[キリスト教]]関係ながら[[平成]]併記の上に[[旧暦]]日付も併記。


[319] [CITE[昔の「八重山&本島」の思い出]], [TIME[2017-03-05T04:24:55.000Z]], [TIME[2020-12-21T09:25:00.049Z]] <http://www.zephyr.justhpbs.jp/past_yaeyama.html>

>南西航空(SWA:現在のJTAの前身)時代の搭乗整理券です。
>那覇→宮古行き 		宮古→石垣行き

> これらのチケットは、昭和49年に使用したものです。

登場整理券に押されたスタンプ

> 49. 3. 29

> 49. 4. 01

[[南西航空]]は、返還前の[TIME[昭和42(1967)年][year:1967]]に[[日本航空]]が出資して設立。







[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[320] [CITE[明和の大津波]]
([TIME[2019-06-06T12:21:31.000Z]], [TIME[2020-12-21T09:34:42.623Z]])
<http://www.zephyr.justhpbs.jp/meiwa_tunami.html>
]FIGCAPTION]

> 当時の様子が、蔵元(行政庁)より琉球王府に提出された「大浪之時各村之形行書(おおなみのときのかくむらのなりゆきしょ)」に、次のように記録されています。
>  
> 【大波揚候次第(おおなみあがりそうろうしだい)より抜粋訳】
>  	『八重山には男女28,992人がいた。
>  乾隆36辛卯年(1771年)3月10日(新暦4月24日)五ツ時分(午前8時頃)に大地震があり、この地震がやんですぐに東の方が雷のように轟いた。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[321] [CITE[明和の大津波]]
([TIME[2019-06-06T12:21:31.000Z]], [TIME[2020-12-21T09:36:08.124Z]])
<http://www.zephyr.justhpbs.jp/meiwa_tunami.html>
]FIGCAPTION]

>  石垣島・宮良地区のタフナー原にある、明和大津波遭難者慰霊之塔の碑文には、津波の様子が次のように克明に記されています。
>  
>  碑文
>  八重山の古記録「大波之時各村之形行書(おおなみのときのかくむらのなりゆきしょ)」によれば、乾隆36年(日本年号明和8年)3月10日(1771年4月24日)午前8時ごろ大地震があり、

]FIG]


[334] [CITE[石垣島の石碑・説明看板(郊外-1)]], [TIME[2020-06-13T09:08:05.000Z]], [TIME[2020-12-24T08:33:55.037Z]] <http://www.zephyr.justhpbs.jp/ishigaki_hibun_suburb1.html>

>明和の大津波慰霊碑
> Memorial Monument for the Great Tsunami of Meiwa
> 八重山の古記録大波之時各村之形行書によれば、乾隆三十六年(日本年号明和八年)三月十日(一七七一年四月二四日)午前八時ごろ大地震があり、[SNIP[]]
>  一九八三年(昭和五八)四月二四日
>   明和大津波遭難者慰霊碑建立期成会

> According to an ancient Yaeyama record written for the Rukyu Kingdom’s government (Onami no toki kaku mura no nariyuki sho), at around 8:00 a.m. on April 24th, 1771 (during the Meiwa period) there was a major earthquake, followed by a sound to the east of Ishigaki island similar to the roar of thunder.
>[SNIP[]]
> April 24th, 1983 



[322] 
[CITE[西表島の石碑・説明看板 (東部)]], [TIME[2020-01-31T12:26:35.000Z]], [TIME[2020-12-21T09:58:19.072Z]] <http://www.zephyr.justhpbs.jp/iriomote_hibun_east.html>

>>世持之宮
>>昭和三十六年彼の辛丑之建立
>
※辛丑:かのとうし

本当にこの通りの表記なのか、掲載されている写真では判読不可。

<https://goo.gl/maps/Rkc693mC1D7zzWzr9> この石碑と思われるがこちらでも判読不可。




[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[323] [CITE[小浜島の石碑・説明看板]]
([TIME[2020-02-07T13:52:56.000Z]], [TIME[2020-12-21T10:01:47.724Z]])
<http://www.zephyr.justhpbs.jp/kohamajima_hibun.html>
]FIGCAPTION]

> 節さだめ石

]FIG]


[324] [CITE[竹富島の石碑・説明看板 (西集落・西)]], [TIME[2020-01-24T14:07:32.000Z]], [TIME[2020-12-21T11:41:32.416Z]] <http://www.zephyr.justhpbs.jp/taketomi_hibun_no21.html>


>小城盛の由来
>正保元年 一六四四年 尚賢王の世代琉球本土の冠船の
[SNIP[]]

>復元記念
>[SNIP[]]
>昭和三十六年六月十日建立


[325] [CITE[竹富島の石碑・説明看板 (西集落・西)]], [TIME[2020-01-24T14:07:32.000Z]], [TIME[2020-12-21T11:44:49.762Z]] <http://www.zephyr.justhpbs.jp/taketomi_hibun_no21.html>

石碑「[V[一九五三[SUP[癸己]]年六月二十五日竣工]]」

[326] 星見石 >>325



[327] [CITE[石垣島の石碑・説明看板(市街地-2)]], [TIME[2020-08-28T14:19:42.000Z]], [TIME[2020-12-22T05:06:49.470Z]] <http://www.zephyr.justhpbs.jp/ishigaki_hibun_cityarea-3.html>

>石垣市・蘇澳鎮姉妹都市締結経緯
>都市名 蘇澳鎮(台湾)
>締結日 平成7年9月26日(1995年)

>蘇澳鎮・石垣市姉妹都市提携20周年記念
>宜蘭縣蘇澳鎮    沖縄県石垣市
>鎮長 陳金麟    市長 中山義隆

20周年記念で建立ということは平成27年か。
日本側と台湾側のトップの名前があるが説明は日本語だけで、
[[民国紀元]]は書かれていない。

(もしかして対になるものが台湾にもあるのか?)
(← 調べた限りではそういう情報はない。)

(このページで紹介されている石垣市の他の台湾との姉妹都市関係の碑文はすべて西暦単記)

[328] 
[CITE[2015広報いしがき12月号P1-P12 - 201512_1p.pdf]], [TIME[2019-12-24T23:13:50.000Z]], [TIME[2020-12-22T05:11:41.104Z]] <https://www.city.ishigaki.okinawa.jp/material/files/group/9/201512_1p.pdf>

[332] [CITE[石垣島の石碑・説明看板(郊外-2)]], [TIME[2020-06-19T15:08:08.000Z]], [TIME[2020-12-23T02:04:31.893Z]] <http://www.zephyr.justhpbs.jp/ishigaki_hibun_suburb4.html>

>一九八七年(昭和六二年)八月二日
>      蘇澳港 国際青年商会会長 廖 大慶
>       国際委員長          簡 弘遠
>  (社) 八重山青年会議所理事長  山森 康二
>            対外交流委員長  井上信吉



[329] [CITE[石垣島の石碑・説明看板(市街地-2)]], [TIME[2020-08-28T14:19:42.000Z]], [TIME[2020-12-22T05:16:10.779Z]] <http://www.zephyr.justhpbs.jp/ishigaki_hibun_cityarea-3.html>

>>親善之碑
>> 岡崎市長 大田光二

>>昭和四十三年八月

>親善之碑は、愛知県岡崎市と石垣市の友好親善都市提携を記念したもので、1969年に建立されました。



[330] [CITE[石垣島の石碑・説明看板(市街地-2)]], [TIME[2020-08-21T14:12:40.000Z]], [TIME[2020-12-22T05:21:50.757Z]] <http://www.zephyr.justhpbs.jp/ishigaki_hibun_cityarea-4.html>

>新本井戸頌徳碑

> 一九五四年          昭和二十五庚寅年十一月三日吉日


[333] [CITE[石垣島の石碑・説明看板(郊外-1)]], [TIME[2020-06-13T09:08:05.000Z]], [TIME[2020-12-24T08:32:24.118Z]] <http://www.zephyr.justhpbs.jp/ishigaki_hibun_suburb1.html>

>詩碑
>仰高徳

>
一九五五年乙末九月六日竣工


[335] [CITE[星見石]], [TIME[2019-06-28T13:55:09.000Z]], [TIME[2020-12-24T10:11:10.850Z]] <http://www.zephyr.justhpbs.jp/hoshimiishi.html>


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[336] [CITE@ja[「八重山の漁業守る」海域6カ所に産卵保護区 ナミハタなど禁漁期間も - 琉球新報デジタル|沖縄のニュース速報・情報サイト]]
(2021年4月10日 05:40 [TIME[2021-04-11T00:38:34.000Z]], [TIME[2021-04-11T00:38:56.973Z]])
<https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1301988.html>
]FIGCAPTION]

> 産卵期にあたる旧暦の3~4月の2カ月間、レジャーでの釣りも含め、保護区内での水産動植物の採捕を全て禁止する。今年は4月12日~6月9日が禁漁期間となる。
>  これまで地元の漁業者が自主的に設定してきた保護区を、沖縄海区漁業調整委員...

]FIG]

[337] [CITE[Microsoft Word - 89-99 秋田 研究 ナミハタ - 89-99.pdf]], [TIME[2018-03-29T11:19:49.000Z]], [TIME[2021-04-11T00:41:40.362Z]] <https://www.pref.okinawa.jp/fish/kenkyu/jigyohokoku-data/jihouh27/89-99.pdf>

[339] [CITE@ja[八重山沿岸海域の産卵場保護区に関する意見募集について/沖縄県]], [[沖縄県]], [TIME[2021-01-18T23:44:38.000Z]], [TIME[2021-04-11T00:45:28.456Z]] <https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/iken/r2/hogokuiken.html>

[338] [CITE[Taro-20201209指示概要(八重山保護区) - 01gaiyou.pdf]], [TIME[2021-01-18T23:44:38.000Z]], [TIME[2021-04-11T00:44:51.149Z]] <https://www.pref.okinawa.lg.jp/site/iken/r2/documents/01gaiyou.pdf>

>3)保護期間は、主対象とする魚類の繁殖の季節性、月周期性を考慮して、旧暦の3月から 4 月 ま で の 約 2 ヶ 月 間 と し 、 あ ら か じ め 今 後 5 年 間 の 保 護 期 間 を 指 示 に 示 す こ と と する 。



[341] [CITE@ja[島袋 梨絵(𝑹𝒊𝒆 𝑺𝒉𝒊𝒎𝒂𝒃𝒖𝒌𝒖𝒓𝒐)さんはTwitterを使っています 「沖縄が本土復帰して49年の今日。復帰前は本土に行くにもパスポートが必要でした。当時母は20歳。今も大切に持っているパスポートを見せてもらったら、なんと返還されるその日に乗船した船のスタンプが!貴重な物を見せてもらえて感慨深い一日。 https://t.co/Dn5pVBNpP5」 / Twitter]]
(午後4:41 · 2021年5月15日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-05-17T02:01:57.000Z]])
<https://twitter.com/rorieshima/status/1393471497151209472/photo/2>

[343] [CITE[<4D6963726F736F667420576F7264202D2097AE8B8589A48D9182CC8CF088D582C68AB58D732E646F63> - okamoto-repo-2006.pdf]], [TIME[2011-01-05T04:28:33.000Z]], [TIME[2021-07-11T09:55:25.886Z]] <https://www.chikyu.ac.jp/sociosys/PDF/okamoto-repo-2006.pdf>

[345] [CITE@ja[琉球王朝の暦日: suchowan's blog]], [TIME[2022-05-19T07:37:56.000Z]] <https://suchowan.at.webry.info/201410/article_1.html>

[346] [CITE@ja[さK 🍶さんはTwitterを使っています: 「いま使ってるお味噌は那覇で作られてるんだけど、「慶応元年創業」って書いてある。その頃はここは独立国だったんで、慶応っていう暦ではないと思うんだけど、琉球王朝時代の暦ってのはどうなってたんだろ。」 / Twitter]], 午前8:06 · 2013年1月28日 [TZ[+09:00]], [TIME[2022-07-21T02:11:01.000Z]] <https://twitter.com/debugordie/status/295669188322807808>

[347] [CITE@ja[『文書だより』(3)公文書の年号 - 琉球政府の時代]], [[koubunshokan_okinawa]], [TIME[2022-07-24T09:30:36.000Z]] <https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/ryukyu_documents/%E3%80%8E%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%A0%E3%82%88%E3%82%8A%E3%80%8F%EF%BC%88%EF%BC%93%EF%BC%89%E5%85%AC%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%AE%E5%B9%B4%E5%8F%B7/>

[348] [CITE[SHIMOOKA_Erina_va2.pdf]], [TIME[2023-03-28T16:08:32.000Z]], [TIME[2023-04-26T05:18:38.342Z]] <https://theses.hal.science/tel-03257454/document#page=76>

[349] [CITE@JA[日本における琉球史跡]], [TIME[2019-03-29T00:30:33.000Z]], [TIME[2023-06-18T04:36:16.972Z]] <https://ryukyuhistory.web.fc2.com/Japan_Ryukyu/Main.html>


[350] [CITE[takara2.pdf]], [TIME[2023-07-02T13:52:08.000Z]] <https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/22114/takara2.pdf#page=7>


[352] [CITE[R-1958-07-29.pdf]], [TIME[2003-04-01T01:03:53.000Z]], [TIME[2023-07-19T13:33:31.276Z]] <https://www3.archives.pref.okinawa.jp/GRI/searchs/img/kouhou//R-1958-07-29.pdf#page=4>

[353] 
>>352 米国統治が始まる前の[[生年月日]]について、
[[西暦年]]に直されて表記されたものと、
本来の[[元号年]]のまま表記されたものがあった。



[361] 
[CITE@ja-JP[沖繩文化 = The Okinawa bunka 28(1)(77)]], [[『沖繩文化』編集所]], [TIME[1993-01]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-21T08:15:38.241Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4437792/1/11> (要登録)

[362] 
[CITE@ja[琉球王朝の頃、どのような暦を使っていたか知る手掛かりとなる資料があるか。また、その暦は薩摩藩と関係が... | レファレンス協同データベース]], [[国立国会図書館]], [TIME[2024-07-21T08:21:06.000Z]] <https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000085357&page=ref_view>

[363] 
[CSECTION[[[暦をめくる、世界をめぐる]]]]


[364] 
[CITE@ja-JP[琉球史料叢書 第1]], [[伊波普猷, 東恩納寛惇, 横山重]], [TIME[1962]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-02-25T14:46:22.618Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3005495/1/120?keyword=%E5%B9%B2%E6%94%AF> (要登録)


[369] 
[CITE@ja-JP[沖縄八重山]], [[滝口宏]], [TIME[1960]], [TIME[2025-07-02T03:11:48.000Z]], [TIME[2025-07-22T08:21:25.002Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3026330/1/124> (要登録)

[384] 
[CITE@ja-JP[中国と琉球]], [[野口鉄郎]], [TIME[1977.1][1977]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-22T13:52:22.209Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9770063/1/126?keyword=%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E7%B4%80%E5%B9%B4> (要登録)


[385] [CITE@ja[各国の年号事情、中国・日本の影 「年号と東アジア」編者、水上雅晴・中央大学教授|好書好日]], [TIME[2025-11-19T04:02:49.000Z]] <https://book.asahi.com/article/12394384>

> また、水上さんが「今回の本には盛り込めなかった」と今後の課題に挙げるのは、琉球(沖縄)の視点だ。現地の骨つぼを調べると、中国年号を使っていた住民が日本の「明治」を使うようになる転換が明治20年代ごろに見られるという。琉球処分で明治政府が琉球を日本に併合したあと、日清戦争で日・中の力関係が変化したことなどが理由と水上さんは見る。

