[1] 
[[李氏朝鮮]]時代末期から[[大韓帝国]]時代は、
旧来の[[支那]]式[[日時制度]]から西洋式の[[日時制度]]や独自の[[日時制度]]へと移行していく激動の時代でした。

[SEE[ 他の時代も含めた事項は[[朝鮮半島の紀年法]]、[[朝鮮半島の旧暦]]、[[朝鮮半島の標準時]] ]]


* 高麗国時代まで

[SEE[ [[朝鮮半島の紀年法]]、[[朝鮮半島の旧暦]] ]]


* 李氏朝鮮時代

[262] 
[[高麗国]]にかわって成立した[[朝鮮国]] ([[李氏朝鮮]])
も、[[支那王朝]] ([[明国]]、のち[[清国]])
の[[属国]]でした。
政治や文化の諸制度と同様、[[日時制度]]も[[支那]]の制度をベースとしていました。



[415] [[李氏朝鮮]]は、
[[紀年法]]として[[支那の元号]]や[[干支]]を使っていました。

[263] 
しかしすべての場面で[[支那の元号]]をそのまま用いていたわけではなく、
例えば[[明国]]滅亡後[[清国]]の[[属国]]となってからも、
旧[[宗主国]]の[[明国]]の[[元号]]を使い続けました。
[SEE[ [[崇禎紀元]] ]]

[264] 
[[正史]]の[CITE[朝鮮王朝実録]]では、
[[干支]]や[[支那の元号]]だけでなく[[在位紀年]]が用いられました。
現在でも[[李氏朝鮮]]時代の記述では[[在位紀年]]がしばしば用いられています。
[SEE[ [[朝鮮半島の紀年法]] ]]


[331] 
[[日本]]との外交文書では、当初[[明の元号]], のちに[[干支年]]を用いました。
[[日本]]側は[[日本の元号]], 時折[[干支年]]を用いました。
[SEE[ [[外交文書の日時]] ]]





[73] [[李氏朝鮮]]や[[支那]]では、
当時[[近代的標準時制度]]は未実施でした。
各地の[[真太陽時]]が用いられました。


[118] [[tzdata]] は元の [[LMT]] を
[CODE[Asia/Seoul]] は [TZ[+08:27:52]]、
[CODE[Asia/Pyongyang]] は [TZ[+08:23:00]]
としています [SRC[>>116]]。

[HISTORY[
[364] 
[[朝鮮民主主義人民共和国]]政府の[[朝鮮社会科学院]]歴史研究所長の[[黄明哲]]は、
[TIME[2017年][year:2017]]の[[論文]]で、
「朝鮮では当代
国家の都の地(首都)に位置する子午線を本初子午線にして標準時を定め、1日を12時 
間とする時間制を制定して使用してきた」 [SRC[>>360]] とし、
[[李氏朝鮮]]やそれ以前の王朝が[[標準時]]を制定していたと主張しました。
1日を12分割するというのは、[[十二支の時法]]のことでしょう。

[265] 
首都の時刻を全国で標準的に用いていたとすると、
[[時刻]]を[[朝鮮半島]]全体に[[送信][報時]]できる技術を[[朝鮮国]]が保持していたことになりますが、
その根拠は示されていません。
]HISTORY]

-*-*-

;; [427] [[ソウル]] ([[漢陽]]、[[漢城]]、[[京城]]) は、
[[朝鮮半島]]中央部西岸の[[都市]]です。
[[明国属国朝鮮]]、[[清国属国朝鮮]]、[[大韓帝国]]、
[[大日本帝国朝鮮]]の[[首都]]として栄えました。
[[李氏朝鮮]]時代には[[王宮]]の[[景福宮]]がありました。
現在は[[大韓民国]]の[[首都]]となっています。

[309] [[明国属国朝鮮]]の[[国王]]の[RUBYB[[[世宗]]][[[在位]][TIME[1418年][year:1418]]-[TIME[1450年][year:1450]]]]は、
[[日時計]]や[[水時計]]を作らせました。
[[昼]]は[[日時計]]が、[[夜]]は[[水時計]]が用いられました [SRC[>>410, >>411]]。

[413] [TIME[1434年6月][1434-06]]、
[[蒋英実]]は[[水時計]]の[[自撃漏]]を製作し、
[[景福宮]]南側の[[報漏閣]]に設置しました。
[[自撃漏]]は[[標準時計]]となりました。 [SRC[>>412]]

[414] [TIME[1434年11月2日][1434-11-02]] [SRC[>>37]]、
[[蒋英実]]は[[日時計]]の[[仰釜日晷]] ([[앙부일구]], [[Angbu Ilgu]])
を製作し、王宮に設置しました。
これが[[漢陽]]の[[標準時]]となりました。 [SRC[>>410, >>411]]

[266] [[仰釜日晷]]が設置されたのは[[惠政橋]] ([[혜정교]]) と[[宗廟]] ([[종묘]])
だった [SRC[>>39]] といいます。

[267] [[韓国語]]版 [[Wikipedia]] の過去の版は、
これを [LON[126°58′41″][126.58.41E]] = [TZ[+08:27:55]] であるとしていました。
現在の版や[[英語]]版 [SRC[>>410, >>411]] では [TZ[+08:28]] としています。
変更の理由は不明です。


-*-*-



[74] [DFN[李氏朝鮮の暦]]は、正式には[[宗主国]]の[[明国]]や[[清國]]の[[農暦]]であり、
[[支那]]の[[地方時]]に基づき計算されたものでした。

[2] [TIME[1442年][year:1442]]以後、
[[朝鮮国]]の[[地方時]]に基づき計算した[[七政算]]を独自に運用するようになりましたが、
[[宗主国]]の[[暦]]と一致させるため、何度も[[改暦]]や本来の計算結果と異なる修正が行われました。
(それでも[[清国]]と異なる[[日付]]となったことが何度かあったようです。)
[SEE[ [[朝鮮半島の旧暦]] ]]

;; [4] 
[[琉球国]]も[[清国]]の[[曆][農暦]]を採用しつつ、
実際には自国で計算していました。
[SEE[ [[琉球暦]] ]]



[87] 
[[京城]]には[[天文台]]がありました。
[[高さ]]は20[[呎]]でした。
[[天体]]に異状があるときは
[[国王]]に奏上し、
[[国王]]は[[北京朝廷][清国]]に報告していました。
[SRC[>>81]]


[84] 
[TIME[1894年][year:1894]]まで、
[[李朝]]の星学家は毎年[[支那]]から取り寄せた[[暦本]]を理解し応用する程度でした。
天文台は[[暦本]]発行の義務を有していましたが [SRC[>>81]]、
天文台長が[[支那]]の原本と異なる[[暦本]]を発行したときは、
遠島の流刑の厳罰に処されていました。
にも関わらず天文学は“旧来の星學や魔法の範囲”に留まり未発達でした。
[SRC[>>80]]


[470] 
[[清]]は[TIME[西暦1645年][1645]]に[[時憲暦]]を採用しましたが、
[[属国]]の[[朝鮮]]は[TIME[西暦1654年][1654]]から[[時憲暦]]を採用しました
[SRC[>>388 p.[L[181]]]]。

[471] 
しかし[[清]]は[[朝鮮]]が[[時憲暦]]の全般的な知識の習得を禁止しており、
[[朝鮮]]ではその運用が進みませんでした。
[[朝鮮]]が十分な知識を得て運用するようになったのは、
18世紀後半でした。
[SRC[>>388 p.[L[181]] (全2009)]]

[472] 
[[北京]]と[[漢城]]は[[時憲暦]]における[[経度]]12度30分、[[時間]]42分の[[経度差]]がありました。
そのため[[清]]の[[暦書]]と[[漢城]]基準[[暦]]は[[月の大小]]や[[閏月]]が異なる場合がありました。
[RUBYB[[[正祖]]時代][[TIME[1776]]-[TIME[1800]]]]に自国の[[暦書]]を使う機運が高まりましたが、
[[朝鮮]]国内からの批判がありました。
そのため[[清]]の[[暦書]]と著しく異なる場合に、
[[暦法]]を改変してでも[[清]]の[[暦書]]と一致させました。
[SRC[>>388 p.[L[181]] (全2009)]]



-*-*-

[182] 
[[李朝]]時代末期の記録によると、
[[子供]]が生まれるとその[[出生]]の[[時刻]]を正確に記録し、
将来を占っていました。
[[年齢]]は[[数え年]]を使っていました。 [SRC[>>9]]

[183] 
「正確」がどの程度のものかは不明ですが、
それなりの[[時刻]]を知る方法があったということになります。


[186] 
官衙や高等行政官 (郡長知県など) の住宅は、
市内北壁付近の高台にあり、
周囲に高さ一丈一尺の壁と門がありました。
門の上には四方に開いた瓦葺きの櫓があり、
朝夕は[[太鼓]]で[[報時]]していました。
[SRC[>>12]]

[230] 
現在でも[[ソウル]]には[[鍾路]]と呼ばれる道路があり、
繁華街で周辺の地域名ともなっています。
[[鍾路]]の由来は[[李氏朝鮮]]時代の[[普信閣]]の[[時鐘]]とされています。
4時に33回、
19時に28回鳴らして城門の開閉の合図としていました。 [SRC[>>214]]






-*-*-

[185] 
[[休日]]もいくつかありました。 [SRC[>>184]]



[HISTORY[
[313] [[李氏朝鮮]]が 
[TZ[+08:00]] を[[標準時]]として採用した [SRC[>>189]]
とする説があります。
かつて[[韓国語]]版 [[Wikipedia]] は[[李氏朝鮮]]中後期に[[北京]]の [TZ[+08:00]]
が[[標準時]]となったとしていましたが、削除されました
[SRC[>>327]]。
いずれも根拠は不明です。[[清国]]の[[属国]]であったことから、
[[清国]]末期以降の[[支那海岸時]] [TZ[+08:00]]
を類推したものでしょうか。


[369] 
[TIME[1910-04-01]]の11時 (どの時刻で?) までは [TZ[+08:00]]、
それ以後は [TZ[+09:00]] とする説もあります [SRC[>>368]]。
妙に具体的な数字が出ていますが、
事実と全く異なり ([TZ[+08:30]] への移行は[TIME[1908-04-01]]、
[[日韓併合]]は[TIME[1910-08-29]]、
[[中央標準時]] [TZ[+09:00]] への移行は[TIME[1912-01-01]]でどれも少しずつ違います)、
根拠は不明です。

]HISTORY]

[HISTORY[

[269] あるいは[[李氏朝鮮]]が
[TZ[+09:00]] を[[標準時]]として採用した [SRC[>>304]]
とする説もあります。
後述の通り[[鉄道時]]などとして採用されたものが[[国家標準時]]と誤認されたのでしょうか。

]HISTORY]



[REFS[
- [594] [CITE[한국사데이터베이스]] ([TIME[2018-09-29 23:50:18 +09:00]]) <http://db.history.go.kr/id/nh_027_0020_0020_0040_0010>
- [595] [CITE[한국사데이터베이스]] ([TIME[2018-09-29 23:51:24 +09:00]]) <http://db.history.go.kr/id/nh_027_0020_0020_0040_0020>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[8] ([TIME[2005-04-18 15:21:30 +09:00]])
<http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4638/kankoku.html>
]FIGCAPTION]

> 「笠山日時計」は今から約350年前、第4代王である世宗が製作した「仰釜日晷」(韓国宝物845号)の複製である。17世紀半ばに西洋式時間測定法が加わり、それまでの「十二時百刻法」が「十二時九六刻法」に修正された後のもので、17世紀後半・李朝時代の宮廷内外で公衆時計として使用されていた日時計である。日時計の本体は韓国で玉石と呼ばれる黒御影石でつくられている。黒御影石は結晶が光を受けて反射し、近くに寄ると見る角度によっては光の輝きが宝石のように美しく変化する。また、熱膨張係数がきわめて小さいので、測定用の定盤や精密機器の台座として利用されている。15分間間隔の「真太陽時」と季節(二十四節季気)を知ることができる。

]FIG]


- [116] [[tzdata]]
([TIME[2016-04-19 01:50:32 +09:00]]) <https://www.ietf.org/timezones/data/asia>
-- [133] [CITE['''['''tz''']''' [PATCH] * asia (Asia/Seoul) correct DST.]] ([TIME[2014-10-31 16:01:06 +09:00]]) <http://mm.icann.org/pipermail/tz/2014-October/021831.html>
- [410] [CITE@en[Time in South Korea - Wikipedia]] ([TIME[2018-01-20 01:19:32 +09:00]]) <https://en.wikipedia.org/wiki/Time_in_South_Korea>
- [411] [CITE@en[Time in North Korea - Wikipedia]] ([TIME[2018-01-18 22:55:12 +09:00]]) <https://en.wikipedia.org/wiki/Time_in_North_Korea>
- [412] [CITE@ja[蒋英実 - Wikipedia]] ([TIME[2018-01-11 22:51:11 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E8%8B%B1%E5%AE%9F>
- [39] [CITE@ko[한국 표준시 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전]]
([TIME[2015-08-22 09:20:48 +09:00]] 版)
<https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%95%9C%EA%B5%AD_%ED%91%9C%EC%A4%80%EC%8B%9C>
-- [327] [CITE@ko["한국 표준시"의 두 판 사이의 차이 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전]] ([TIME[2018-01-20 01:15:44 +09:00]]) <https://ko.wikipedia.org/w/index.php?title=%ED%95%9C%EA%B5%AD_%ED%91%9C%EC%A4%80%EC%8B%9C&type=revision&diff=14591410&oldid=14588527>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[37] [CITE@ko[韓国時間 - ウィキペディア、私たちのすべての百科事典]]
([TIME[2016-02-12 17:59:27 +09:00]] 版)
<https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%95%9C%EA%B5%AD_%ED%91%9C%EC%A4%80%EC%8B%9C>
]FIGCAPTION]

> 1434年(世宗16年)11月2日(旧暦10月2日):世宗大王が日時計(アンブイルグ)を作成ソウルヘジョン校(現光化門郵便局の北)と宗廟の前に設置する。時間という概念が必要なかった時代に漢城(ソウル)の時刻は、今日のUTC +08:28。

]FIG]

- [359] [CITE[北東アジア研究]] 第28号 ([TIME[2017年3月][2017-03]])
-- [360] [CITE[最近の朝鮮民主主義人民共和国の歴史学学会の研究動向と成果について]] 
([[黄明哲]], [TIME[2017-04-06 16:32:18 +09:00]]) 
<http://hamada.u-shimane.ac.jp/research/organization/near/41kenkyu/kenkyu28.data/hokutou28_4_hwan.pdf>
-- [361] [CITE[朝鮮社会科学院研究者の 論文投稿の経緯と掲載に寄せて]] 
([[福原裕二]], [TIME[2017-04-06 16:32:13 +09:00]]) 
<http://hamada.u-shimane.ac.jp/research/organization/near/41kenkyu/kenkyu28.data/hokutou28_3_fukuhara.pdf>


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[214] [CITE@ja[韓国旅行、韓国ツアー | 韓国観光公社公式サイト :韓国観光公社公式サイト]]
([TIME[2019-02-11 21:27:04 +09:00]])
<http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/TMC/TE_JA_7_1_1.jsp?cid=281246>
]FIGCAPTION]

> 宝物第2号に指定された「普信閣(ポシンカク)」は、ソウルの繁華街・鍾路(チョンノ)の交差点にあります。この普信閣の鐘は朝鮮時代、時を知らせる役目をした鐘で、当時ソウルには人々が出入りする4つの大きな門があり4時に33回打てば城門を開き、午後7時に28回打つと閉め、都への出入りを規制するといった役割を果たしていました。 

]FIG]

-
[368] 
[CITE[천문과 역사 그리고 진실... : 상식과 이설]], [[Comte]], [TIME[2023-06-15T12:54:37.000Z]] <http://katnani.egloos.com/490288>


]REFS]

[486] [CITE[jic084_302.pdf]], [TIME[2022-03-20T08:07:21.000Z]], [TIME[2023-07-02T14:26:03.573Z]] <https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/134678/1/jic084_302.pdf>





* 西洋式日時の流入


;; [284] 
[TIME[1860年][year:1860]]、
[[清国]]は[[露西亜帝国]]に[[外滿洲]]東部を[[割譲]]しました
([[北京条約]])。これによって[[露西亜帝国]]と[[李朝]]は[[国境]]を接するようになりました。

;; [285] 
[TIME[1861年][year:1861]]、
[[露西亜帝国]]は[[朝鮮半島]]に南接する[[日本]]の[[対馬]]に進攻しましたが、
撤退しました ([[ロシア軍艦対馬占領事件]])。


;; [405] 
[TIME[1871年6月][1871-06]]、
[[米国]]は[[江華島]]に進攻しました ([[辛未洋擾]])。

;; [286] 
[TIME[明治4年7月14日][1871-08-29]]、
[[日本]] ([[明治政府]]) は[[廃藩置県]]を実施し、
[[厳原藩]]は[[厳原県]]となりました。
対[[李朝]]外交は[[明治政府]]に移管されました。


;; [289] 
[TIME[明治6年1月1日][1873-01-01]]、
[[日本]]は[[太陽暦に改暦][明治改暦]]しました。
[SEE[ [[明治改暦]] ]]


;; [399] 
[TIME[1873年11月][1873-11]]、
[[大院君]]は失脚し、
[[閔氏政権]]が成立しました。


[162] 
[TIME[1876-02-26]]、
[[大日本帝国]]と[[朝鮮国]]は[CITE[日朝修好条規]]に[[調印]]しました。
その[[日付]]は、

- [417] 
[[日本]]側:
「大日本國紀元二千五百三十六年明治九年二月二十六日」、
- [418] 
[[朝鮮]]:
「大朝鮮國開國四百八十五年丙子二月初二日」

でした。
[SRC[>>353 /382, >>161]]

[392] 
[[日本]]側が提示した原案では
「大日本神武紀元二千五百三十六年明治九年」、
「朝鮮国丙子」
でした。
[SRC[>>388 pp.[L[170]]-[L[171]]]]

[389] 
従来、[[日本]]は[[日本の元号]]を、
[[朝鮮]]は[[干支年]]を使っていました ([SEE[ [[外交文書の日時]] ]])。
これに[[日本]]は[[皇紀]]を加えたわけですが、
[[朝鮮]]側がこれに反対した形跡はありません [SRC[>>388 p.[L[179]]]]。

[416] 
しかし協議において[[朝鮮]]側は両国の対等性に強いこだわりを持っていました。
そこで[[開国紀元]]を加える形の修正が行われたのです。
[SRC[>>388 pp.[L[170]]-[L[171]]]]

[270] 
[CITE[日朝修好条規]]は[[朝鮮國]]を[[独立国]]と定めていました。
実際には未だに[[朝鮮]]は[[清]]の属国でしたが、
だからといって[[清の元号]]を使うわけにもいかなかったようです。

[167] 
これが[[開国年号]]の始まりとされています [SRC[>>13]]。
だとすると[[開国年号]]は[[皇紀]]に触発されて使い始められたということでしょうか。




[REFS[
- [353] 
[CITE@ja-JP[東亜關係特種絛約彙纂]], [[東亜同文會 編纂]], [TIME[1904/5/25][1904-05-25]], [TIME[2023-03-28T13:58:31.000Z]], [TIME[2023-04-01T10:15:57.718Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2938191/1/382>
- [373] 
[CITE[[[年号と東アジア]]]]
-- [388] [DFN[[CITE[近現代朝鮮のナショナリズムと年号]]]]


]REFS]

;; [200] 
[TIME[1876年11月10日][1876-11-10]]、
[[釜山]]に[[日本]]の[[郵便局]]が設置されました。

;; [377] [TIME[1877年][year:1877]]、
[[釜山]]に[[日本租界]]が設置されました。


;; [201] 
[TIME[1880年][year:1880]]、
[[元山]]に[[日本]]の[[郵便局]]が設置されました。



[165] 
[TIME[1882-05-22]]、
[[大朝鮮國]]と[[大美國]]は[CITE[朝美修好通商條約]]に[[調印]]しました。
[[正文]]である[[漢文]]版には、
[[朝鮮]]側は
「大朝鮮國開國四百九十一年                         
即中國光緖八年四月初六日」、
[[米国]]側は
「大美國一千八百八十二年五月二十二日」
とありました。 [SRC[>>163]]
[[英文]]版には、
「May the 22[SUP[nd]], A.D. 1882」
とありました。 [SRC[>>164]]

[271] 
[CITE[朝美修好通商條約]]は[[清国]]と[[米国]]によって起草され、
[[清国]]立会の元[[朝鮮国]]と[[米国]]が[[調印]]しました。
そのため[[支那の元号]]も併記されたのでしょう。

[421] 
[[条約]]締結と同時に、
[[朝鮮]]が[[中国]]の属国で内政と外交は大朝鮮国君主の自主による旨の照会文が[[米国大統領]]に送付されました。
その[[日付]]は、
「大朝鮮国開国四百九十一年即光緒八年三月二十八日」
でした。
[SRC[>>388 p.[L[171]]-[L[172]]]]




[422] 
[CITE[朝美修好通商條約]]
方式は、この後

- [TIME[西暦1882年6月][1882-06]] [CITE[朝英仁山条約]] ([[英国]]が[[批准]]せず)
- [TIME[西暦1883年11月][1883-11]] 朝英
- [TIME[西暦1884年6月][1884-6]] 朝伊
- [TIME[西暦1884年7月][1884-7]] 朝路
- [TIME[西暦1886年6月][1886-6]] 朝仏
- [TIME[西暦1892年6月][1892-06]] 朝墺

各条約で踏襲されました。
[SRC[>>388 p.[L[172]]]]


;; [398] 
[TIME[1882年7月23日][1882-07-23]]、
[[軍事クーデター]]が発生し、
[[親日派]]が追放され[[大院君]]が復権しました ([[壬午軍乱]])。
[[大日本帝国]]と[[清国]]が進攻しました。
その後再び[[大院君]]は失脚し、[[閔氏政権]]が復活しました。
これらの事件を通じて[[清国]]による[[属国]]の[[李氏朝鮮]]への支配が強化されることになりました。


[354] 
[TIME[1882-08-30]]の条約: 大日本国明治、大朝鮮国開国
[SRC[>>353 /384]]

[419] 
このときの[CITE[済物浦条約]]・[CITE[日朝修好条規続約]]以後の[[条約]]は[[明治]]と[[開国]]が使われました。
[[取極]]や往復文書等では[[朝鮮]]は[[干支年]]のみを使うことが多くありました。
[SRC[>>388 p.[L[171]]]]


[423] 
[TIME[西暦1882年][1882]]10月、
[CITE[中国朝鮮商民水陸貿易章程]]
が制定されました。
[[日付]]は[[光緒]]のみでした。
なお前文で[[朝鮮]]は[[中国]]の属国と明記されていました。
[SRC[>>388 p.[L[172]]]]



;; [193] 
[TIME[1882年11月][1882-11]]、
[[清国]]の[[電信]]線[[京城]] - [[義州]]間が開通しました。


;; [379] [TIME[明治16年1月][1883-01]]、
[[仁川]]が[[開港]]し、[[日本租界]]が設置されました。
[[仁川]]に[[日本]]の[[郵便局]]が設置されました。


[159] 
[TIME[朝鮮開國四百九十二年癸卯未十月初一日][1883-10-30]]、
[[朝鮮政府]]の[[統理衙門博文局]]が初の近代的[[新聞]]である
[CITE[漢城旬報]]
を創刊しました。
第1号では欄外に「中國光緒九年」と併記されていました。
第4号以後[[支那の元号]]は欄内に併記されるようになり、欄外には
「西歴一千八百八十三年十一月三十日」
と[[西暦]] ([[グレゴリオ暦]])
が併記されるようになりました。
[SRC[>>160]]

;; [448] 本紙創刊に当たっては[[開化派]]と[[守旧派]]の対立があったそうです。

[446] 
関連して[[兪吉濬]]が書いた
[CSECTION[創刊辞]]
冒頭には、
「檀君開国四千四百」
と途中まで書いて削除され、
「大朝鮮開国四百九十二年」
と修正されていました。
[SRC[>>447]]

[449] 
[[兪吉濬]]は同時期に[[皇紀]]への言及があり ([SEE[ [[朝鮮開国]] ]])、
[[皇紀]]に触発された後の[[檀君紀元]]を先取りした試みとみられます。
[SRC[>>447]]
なお現行[[檀君紀元]]とは年数が違います。
[SEE[ [[檀君紀元]] ]]


[REFS[

- [447] 
[CITE[JOR_72_3_460.pdf]], [TIME[2021-09-06T09:48:42.000Z]], [TIME[2023-07-02T10:04:54.434Z]] <https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/217781/1/JOR_72_3_460.pdf#page=32>

]REFS]


;; [191] 
[TIME[明治16年][year:1883]]、
[[大北電信会社]]の海底電信線[[呼子]] ([[佐賀県]]) - [[壱岐]] - [[対馬]] - [[釜山]]間が開通しました。
([[釜山]]陸揚地 - [[釜山]]日本人居留地間は[[日本政府]]設置、
[[呼子]] - [[対馬]]間は後に[[日本政府]]が買収。)

;; [278] [TIME[1883年12月][1884-12]]、
[[仁川]]に[[清国租界]]が設置されました。



;; [192] 
[TIME[明治17年2月][1884-02]]、
[[釜山]]に日本電信局が設置されました。
電信局では[[気象観測]]も行いました。


;; [378] [TIME[1884年][year:1884]]、
[[釜山]]に[[清国租界]]が設置されました。

;; [387] [TIME[1884年][year:1884]]、
[[仁川]]に[[各国租界]]が設置されました。


;; [195] 
[TIME[1884年11月18日][1884-11-18]]、
[[朝鮮政府]]は[[郵征総局]]を設置しました。



;; [400] 
[TIME[1984年12月4日][1984-12-04]]、
[[清国]]からの独立を試みた[[親日派]]による[[軍事クーデター]]が発生しましたが、
[[清国]]の介入により失敗に終わりました ([[甲申政変]])。
暴徒により[[京城]]の[[日本公使館]]が襲撃されました。
[[大日本帝国]]と[[清国]]はこの後撤兵しましたが、
[[清国]]は[[袁世凱]]を派遣し事実上[[李氏朝鮮]]を直接統治するようになりました。
クーデターの舞台となった[[郵征総局]]は閉鎖されました。

;; [376] [TIME[1885年4月][1885-04]]、
[[巨文島]]に[[英国]]が進攻しました。

;; [291] 
[TIME[1885年12月][1885-12]]、
[[日本]]が[[仁川]]に進攻したとの[[デマ]]が流れました。

[356] 
明治19年1月の契約: 大日本明治、大朝鮮 + [[干支年]]
[SRC[>>353 /402]]

;; [401] この頃、[[清国]]は[[朝鮮]]域内の都市間の[[電信線]]の整備を進めました。
既に[[京城]]と[[清国]]の間に[[電信]]が開通していました。


[649] 
この頃[[朝鮮半島]]に滞在していた[[欧米人]]や[[日本人]]は、
日常生活では自国の[[日時制度]]
([[西暦]] ([[日本人]]は[[日本の元号]])、
[[グレゴリオ暦]] ([[露国人]]は[[露暦]])、
[[西洋式時刻]])
を使っていたとみられます。
[[時刻]]は[[地方時]]が一般的だったのでしょうか。



[397] [TIME[1886年2月][1886-02]]以後、
在[[漢城]]日本[[公使館]]では定時の[[気象観測]]が行われていました
[SRC[>>395, >>393, >>207]]
([TIME[6時][06:00]]、[TIME[12時][12:00]]、[TIME[18時][18:00]] [SRC[>>207]])。
[[時刻]]が何であったのかは不明です。
(これ以前にも観測が行われたことがありますが、記録は残っていません [SRC[>>207]]。)

[458] 
[TIME[1887年][year:1887]]頃から、
在[[朝鮮]][[ロシア帝国]][[公使]]の[[ウェベル]]
([[Karl Ivanovich Weber]], 
[[Carl von Waeber]]) による[[京城]]での定時の[[気象観測]]が行われていました [SRC[>>207]]。
また[[朝鮮海関]]により[[元山]]、[[仁川]]、[[釜山]]での観測も行われていました
[SRC[>>207]]。
観測に用いた[[時刻]]が何であったのかは不明です。



;; [194] 
[TIME[1887年2月][1887-02]]、
[[英国]]が[[巨文島]]から撤退しました。

;; [277] 
[TIME[1887-04-30]]、
[[日本政府]]の[[釜山電信局]]と[[釜山郵便局]]が合併し[[釜山郵便電信局]]となりました。

[424] 
[TIME[西暦1887年][1887]]、
[[朝鮮]]の[[駐日公使]]派遣の[[国書]]の[[日付]]は
「大朝鮮国開国四百九十六年朕御極之二十四年六月十三日」
でした。
[SRC[>>388 p.[L[173]] (月脚2009, p.146)]]
新たに[[即位紀年]]の[TIME[朝鮮李大王24(1887)年丁亥][1887]] ([TIME[y~4077]])
が使われるようになりました。

[425] 
当時[[朝鮮]]へは[[清]]の干渉が強まり、
[[朝鮮]]は自主の拡大を企てていました。
[[即位紀年]]の利用は ([[清国]]以外に対し)
[[清の元号]]を使わないという意志の表れとされます。
[SRC[>>388 p.[L[173]]]]


;; [290] 
[TIME[明治21年1月1日][1888-01-01]]、
[[日本]]は[[中央標準時]] [TZ[+09:00]] を採用しました。
[SEE[ [[中央標準時]] ]]


;; [314] 
在[[仁川]]日本領事館内には簡易的な郵便局が設置されていましたが、
正式に仁川郵便局となりました。
その後間もなく[TIME[明治21年7月][1888-07]]、
在[[京城]]日本領事館内に仁川郵便局の出張所が設置されました。
この郵便局は[[日本人]]のみならず[[欧米人]]も利用するようになりました。
[SRC[>>315]]

;; [292] 
[TIME[明治21年7月9日][1888-07-09]]、
[[朝鮮政府]]の[[京城]]・[[釜山]]間の[[電信]]線が開通しました。
(しかし1年のうち4分の1ほどは不通と言われるほど不安定なものでした。)
仁川郵便局の京城出張所が[[電信]]取扱を開始しました。
[SRC[>>315]]


[355] 
西暦1888年の条約: 
大朝鮮国開国、
大露西亜 ([[西暦]] + [[ユリウス暦]])
[SRC[>>353 /399]]


;; [385] [TIME[1888年][year:1888]]、
[[元山]]に[[清国租界]]が設置されました。

[225] [[Shanks]] (2003) の [[KOREA, NORTH]] と [[KOREA, SOUTH]] は、
[TIME[1890年1月1日0時0分][1890-01-01T00:00]]から [TZ[+08:30]] (それ以前は[[LMT]])
としていました [SRC[>>226]]。 
根拠は不明です。
1890年代の時期不明を表している可能性もあります。

[363] 
[TIME[明治24(1891)年][1891]]の契約:
大朝鮮開国 + 干支年
[SRC[>>354 /427]]

[428] 
[TIME[西暦1891年][1891]]、
[[朝鮮]]は[[日本]]に倣った新式[[貨幣]]の発行を計画しました。
[[日本]]の[[大阪造幣局]]で彫刻された地金には
「大朝鮮国開国五百一年」
と刻まれました。
[SRC[>>388 p.[L[173]]]]

[429] 
これに対し、[[清]]の[[袁世凱]]は、
国号に「大」を付けたこと、
[[光緒]]ではなく[[開国]]を使ったことを、
[[属国]]では許されないことだと介入しました。
[[朝鮮]]は[[国際条約]]の先例を挙げて反論しましたが、
[[清]]は外交と内政は違うと一蹴しました。
[SRC[>>388 p.[L[174]]]]

[430] 
結局は
「朝鮮国五百二年」
と「大」を削って発行されました。
しかし発行量が少なく政治的影響は大きくありませんでした。
なおこれ以前にも[[開国]]入りの[[貨幣]]は鋳造されていましたが、
発行には至らず問題になっていませんでした。
[SRC[>>388 pp.[L[173]]-[L[174]]]]




[279] 
[TIME[1892年][1892-10-15]]に[[仁川]]で出版された[[日本人]]著者の[[日本語]]書籍
[CITE[仁川事情]]は、[[奥付]]の出版の[[日付]]を
「明治廿五年十月十五日、朝鮮開國五百一年秋八月廿五日」としていました。
[SRC[>>280]]
([[朝鮮]]で発行された初の[[日本語]]書籍ではないかと言われています。)


[281] 
[[仁川]]の[[朝鮮海関]]の執務時間は、
原則として[[日の出]]から[[日没]]までと定められていました。
時間外の手数料は「夜の12時」が境界とされていました。
[[公休日]]として[[日曜日]]の他、
[[陽暦]]の[[年末年始]]と[[陰暦]]のいくつかの日が定められていました。 [SRC[>>280 DjVu 16ページ]]



;; [402] [TIME[1894年][year:1894]]春、
大規模な[[農民反乱]]が発生しましたが、[[李氏朝鮮]]政府は鎮圧できませんでした。
([[甲午農民戦争]] = [[東学党の乱]])

;; [170] 
[TIME[1894年6月8日 (清国暦5月5日)][1894-06-08]]、
[[清国]]が[[朝鮮]]に進攻しました。

;; [171] 
[TIME[1894年6月10日 (清国暦5月7日)][1894-06-10]]、
[[日本]]が[[朝鮮]]に進攻しました。


;; [293] 
[TIME[明治27年7月19日][1894-07-19]]、
[[朝鮮政府]]電信線の不安定さに不満を抱いていた[[日本政府]]は、
[[京城]] - [[釜山]]の軍用電信線の建設に着手しました。


;; [403] [TIME[1894-07-23]]、
[[日本軍]]は[[京城]]を制圧しました。
[[大日本帝国]]の支援の元[[大院君政権]]が復活し、
[[閔氏政権]]は崩壊しました。


;; [404] [TIME[1894-07-25]]、
[[大日本帝国]]と[[清国]]は[[戦争]]状態となりました。 

;; [169] 
[TIME[1894-08-01]]、
[[日清戦争]]が開戦しました。

[431] 
[TIME[1894-07-30]]、
[[朝鮮国]]の軍国機務処議定存案
「今より以後、国内外の公私の文牒に開国紀年を書く事」
によって、
[[光緒]]にかえて[[開国]]を使うこととなりました。
[SRC[>>388 pp.[L[174]]-[L[175]]]]


[530]
[[李氏朝鮮]]の[[官報]]は、
[TIME[「甲午六月二十一日」][1894-07-23]]
と[[干支紀年]]で始まり、その次の年号が
[TIME[「開國五百三年六月二十九日」][1894-07-31]]
となり、以後[[開国年号]]となっていました。 [SRC[>>168]]

[172] 
[[Wikipedia]] は、
[TIME[1894年7月27日][1894-07-27]]に[[李氏朝鮮]]が[[開国年号]]を採用したとしています
[SRC[>>173, >>174]]。

[177] 
[TIME[1894年8月20日][1894-08-20]]の日朝両国の[[条約]]は、
[[調印]]を
[TIME[「大日本國明治二十七年八月二十日」すなわち「大朝鮮國開國五百三年七月二十日」][1894-08-20]]
としていました。
また本文中に
[TIME[「[LINES[日本暦明治二十七年七月二十三日][朝鮮暦開國五百三年六月二十一日]]」][1894-07-23]]
とありました。
[SRC[>>176]]


[451] 
王命と国王への上書を管理した[[承政院]] (改称して[[承宣院]], 後に[[秘書院]]) の
[CITE[承政院日記]] ([CITE[承宣院日記]]) は、

- [452] 7月19日 ([TIME[1894-08-19]]) まで[[光緒]]と[[干支年]]の併記
- [453] 7月20日 ([TIME[1894-08-20]]) から[[干支年]]のみ
- [454] 11月1日 ([TIME[1894-11-27]]) から[[開国]]と[[干支年]]の併記

と変化しました。
[SRC[>>388 p.[L[179]]]]

[455] 
[[開化派]]政府が[[紀年法]]改革を行った後も、
王室側は情勢を見守っていたと推測されます。
[TIME[1894-11-27]]は新任の[[日本]]の[[井上馨]]公使が内政改革綱領を示して王室に強圧的な姿勢を取り始めた時期に当たります。
[SRC[>>388 p.[L[179]]]]




;; 
[272] 
[TIME[明治27(1894)年10月][1894-10]]、
[[京城]]の[[日本公使館]]の[[気象観測]]の[[時刻]]が
[TIME[6時][06:00]]、[TIME[14時][14:00]]、[TIME[22時][22:00]]に改められました。
[SRC[>>207]]


[468] 
[[李氏朝鮮]]政府は、
翌[TIME[西暦1895年][1895]]の[[暦書]]として、
従来の
[CITE[大清光緒二十年歳次甲午時憲書]] ([TIME[西暦1894年][1894]])
と内容は同様で[[紀年法]]が異なる
[CITE[大朝鮮開國五百四年歳次乙未時憲書]]
を発行しました。
[SRC[>>388 p.[L[180]]]]
[CITE[時憲書]]
は
[[時憲暦]]の[[清]]における[[避諱]]ですが、この[[年]]はそのままでした。


;; [72] [TIME[1895年][year:1895]]、
[[清国]]と[[大日本帝国]]の[[下関条約]]で、
[[清國]]は[[朝鮮国][清国属国朝鮮]]の[[独立]]を承認しました。

[275] [TIME[1895年6月][1895-06]]、
[[東京帝国大学]]は[[台湾の標準時]] (後の[[西部標準時]]) の検討にあわせて、
[[朝鮮国]]にある[[日本]]の官庁では[[西部標準時]] [TZ[+08:00]]
を採用するべきであり、[[朝鮮国]]の[[標準時]]も [TZ[+08:00]]
とするよう勧告するべきだ、と[[日本政府]]に提案しました。
これを受けた[[大日本帝国]]の[[勅令]]案には
「朝鮮王國所在ノ帝國諸官衙ノ標準時ハ西部標準時ニ依ル」
ともありました。しかし[[内地]]と[[朝鮮国]]駐在官との連絡は便利になるとはいっても、
[[朝鮮国]]の[[標準時]]はまた別であり時期尚早だとして、
削除されました。
[SEE[ [[西部標準時]] ]]

[276] [[東京帝国大学]]の検討では、
[[朝鮮半島]]の東岸では[[標準時]]と[[地方時]]の[[時差]]が30分以上となるものの、
[[北海道]]と[[中央標準時]]で[[時差]]があってもそこまで問題にはなっていないとしていました。

[650] 
[[東京帝国大学]]や[[東京]]の[[日本政府]]の関係者が[[朝鮮国]]の事情にどこまで通じていたか不明ですが、
未だ[[近代的標準時]]を実施していないと認識していたことがわかります。


;; [196] 
[TIME[1895年7月][1895-07]]、
[[朝鮮政府]]の郵便事業が再開されました。



;; [407] [TIME[1895年10月8日][1895-10-08]]、
[[閔妃]]が暗殺されました ([[乙未事変]])。

[433] 
[TIME[朝鮮開国504年8月27日 (西暦1895年10月15日)][1895-10-15]]、
[[朝鮮国]]の[[内閣]]は、
[[大朝鮮帝国]]への改称、
国王の[[皇帝]]即位、
[[建元]]を
「伏候」
し、裁可されました。
[SRC[>>388 pp.[L[175]]-[L[176]]]]

[434] 
[TIME[朝鮮開国504年9月7日 (西暦1895年10月24日)][1895-10-24]]、
[[日本]]を除く各国公館の反対のため、
[[皇帝]]即位は延期され、
[[太陽暦]]への[[改暦]]のみ詔勅で公布することになりました。
[SRC[>>388 p.[L[176]] ([CITE[[[続陰晴史]] 上]], 高宗32年9月8日, 9日)]]

[435] 
[TIME[朝鮮開国504年9月9日 (西暦1895年10月26日)][1895-10-26]]、
開国504年11月17日をもって開国505年1月1日とする詔勅が
[CITE[官報]]
号外に掲載されました。
[SRC[>>388 p.[L[176]]]]

[155] 
[TIME[開國五百四年十一月十五日][1985-12-30]]、
[[朝鮮国][李氏朝鮮]]は[TIME[開國五百五年][1986-01-01]]より[[太陽暦]]を採用し、
[[建陽]]と[[建元]]し、
[[一世一元]]とすることと定めました。 [SRC[>>154]]

;; [432] 
同日、断髪・易服も命じられました。
つまり[[清]]制からの脱却の改革の一貫でした。
しかし[[断髪]]への反発は大きく、各地で反乱がありました
[SRC[>>388 p.[L[176]]]]。

;; [157] 
翌日の[[官報]]は発行されなかったようで、
次は[TIME[建陽元年一月四日][1896-01-04]]でした。

[328]
[TIME[開国504年11月16日][1895-12-31]]の翌日が[TIME[建陽元年1月1日][1896-01-01]]となりました。

[158] 
この頃既に[[官報]]掲載の[[郵便]]の[[時刻]]は[[「午前[VAR[○]]時」、「午後[VAR[○]]時」と記述][12時間制]]されていました。


[469] 
[[李氏朝鮮]]政府は、
翌[TIME[西暦1896年][1896]]の[[暦書]]として、
[CITE[大朝鮮開國五百五年歳次丙申時憲曆]]
を発行しました。
[[清国]]の[[時憲暦]]の名称を引き継いでいましたが、
[[清]]の[[避諱]]を反映した前年までの[[時憲書]]ではなく、
[[時憲暦]]という書名になっていました。
また、
この年から従来の[[陰暦][朝鮮半島の旧暦]]の[[暦書]]の内容の最下段に[[陽暦][グレゴリオ暦]]の[[日付]]と[[七曜]]が追加されていました。
[SRC[>>388 p.[L[180]]]]



[76] 
後に[[標準時]]が [TZ[+09:00]] となるまで、
[[旧暦][大韓帝国の旧暦]]の[[日付]]は[[清国]]の[[農暦]]と同じままでしたし、
[[太陽暦]]を採用したにも関わらず[[曆]]は[[旧暦][大韓帝国の旧暦]]しか扱っていませんでした。


[450] 
こうした一連の近代化政策には、
[[開国紀元]]の採用や[[建元]]や[[改暦]]などを含め、
[TIME[西暦1894年][1894]]の日清戦争当時に樹立された[[開化派]]政府の[[閣僚]]となった[[兪吉濬]]が主導していたとされます。
[SRC[>>388 p.[L[178]]]]
[[兪吉濬]]はそれ以前から[[日本]]留学の経験に基づき[[皇紀]]に倣った[[開国紀元]]を使ったり
([SEE[ [[太祖紀元]], [[檀君紀元]] ]])、
いち早く[[国漢文]]を採用したりしていました。


[456] 
[CITE[承政院日記]] ([CITE[承宣院日記]], [CITE[秘書院日記]])
は、
[[開国]]と[[干支年]]と[[陰暦][朝鮮半島の旧暦]]の[[日付]]を書いていましたが、
[TIME[1897-01-01]]からはそれに加えて[[陽暦][グレゴリオ暦]]の[[日付]]が併記されるようになりました。
王家が内部では[[建陽]]の利用を回避していたことがわかります。
[SRC[>>388 p.[L[179]]]]



;;
[406] [TIME[1896年2月][1896-02]]、
[[ロシア帝国]]が[[漢城]]に進攻、
親露派のクーデターにより[[国王]]の[[高宗]]は[[ロシア公使館]]に移転しました
([[露館播遷]])。
旧政権の改革的政策は破棄されました。
[[兪吉濬]]は国賊とされ[[日本]]への亡命を余儀なくされました。

[179] 
[[李朝]]は
[TIME[1897年][year:1897]]分の[[曆]]として
[CITE[大朝鮮建陽二年歳次丁酉時憲曆]]
を発行しました。



;; [409] [TIME[1897年2月20日][1897-02-20]]、
[[国王]][[高宗]]は[[王宮]]に戻りました。


[462] 
[TIME[1897-07-24]]、
[[詔勅]]により、
王室祭祀では[[旧暦][朝鮮半島の旧暦]]を幷用することとされました。
実質的には[[陰暦][朝鮮半島の旧暦]]への復旧措置だとされます。
[SRC[>>388 pp.[L[179]]-[L[180]] ([CITE[官報]] 建陽元年7月27日)]]



[436] 
[TIME[1897-08-12]]、
[[詔勅]]により
「乙未十一月十五日の詔勅」
が ([[建元]]と[[断髪]]) 取り消され、
新たな[[建元]]が命じられました。
[SRC[>>388 p.[L[176]] ([CITE[官報]]開国506年8月14日号外)]]


[145] 
[TIME[1897年8月14日][1897-08-14]]、
[[李氏朝鮮]]は新しい[[元号]]として[[光武]]を[[建元]]しました
[SRC[>>139, >>141, >>143]]。

[441] 
[TIME[1897-08-14]]、
議政府議政[[沈舜沢]]が「光武」と「慶徳」の2案を奏上し、
[[高宗]]が「光武」を選びました。
掌礼院が択んだ吉日の8月16日から開始されました。
[SRC[>>388 p.[L[176]] ([CITE[官報]] 開国506年8月15日号外)]]


[146] 
その前後、[TIME[建陽二年八月十四日][1897-08-14]]までの[[官報]]定期分は、
旧[[元号]]の[[建陽]]を使っていました。
しかし[TIME[開國五百六年八月十四日][1897-08-14]]と[TIME[開國五百六年八月十五日][1897-08-15]]の号外は、
[[開国年号]]を使っていました。
[TIME[光武元年八月十六日][1897-08-16]]から[[光武]]となっていました。
その後の発行分の記事内でも、
[TIME[開國五百六年八月十四日][1897-08-14]]と[TIME[開國五百六年八月十五日][1897-08-15]]は[[開国年号]]でした。

- [TIME[建陽二年八月十二日][1897-08-12]] [SRC[>>142]]
- [TIME[建陽二年八月十三日][1897-08-13]] [SRC[>>138]]
- [TIME[建陽二年八月十四日][1897-08-14]] [SRC[>>139, >>140]]
- [TIME[開國五百六年八月十四日][1897-08-14]] [SRC[>>139, >>141, >>142]]
- [TIME[開國五百六年八月十五日][1897-08-15]] [SRC[>>141, >>143]]
- [TIME[光武元年八月十六日][1897-08-16]] [SRC[>>142]]


[126] 
[[李氏朝鮮]]から[[日本政府]]への通知では、
[TIME[1897年8月14日][1897-08-14]]より[[光武]]に[[改元]]し[[太陽暦]]を用いる
[SRC[>>125]]、とされていました。

[147] 
[[中文]]版 [[Wikipedia]] は
[TIME[1897-08-16]]から[[光武]]としています。 [SRC[>>132]]

[HISTORY[
[151] [[韓国語]]版 [[Wikipedia]] は
[TIME[1897-08-17]]から[[光武]]としています。 [SRC[>>150]]
]HISTORY]


[153] [[大韓帝国]]の[[官報]]には、
この頃でも依然として内容が[[旧暦][朝鮮半島の旧暦]]で記述された記事を少なからず掲載していました。
[[十二支時刻法]]もしばしば使われていました。
一方で[[郵便]]の[[時刻]]は[[「午前[VAR[○]]時」、「午後[VAR[○]]時」と記述][12時間制]]されていました。
[[太陽暦]]や[[西洋式時刻]]が使われ始めたものの、
王宮内をはじめ旧来の[[日時制度]]が公式に使われ続けていたようです。


[457] 
[CITE[承政院日記]] ([CITE[秘書院日記]])
は、
[TIME[1897-08-17]]から、
「光武元年丁酉七月十九日」
のように
[[光武]]と[[干支年]]と[[陰暦][朝鮮半島の旧暦]]の[[日付]]に[[陽暦][グレゴリオ暦]]の[[日付]]を併記する形となりました
[SRC[>>388 p.[L[179]]]]。


[463] 
[TIME[1897-08-21]]、
[[大君主]]、
[[王太后]]、
[[王太子]]、
[[王太子妃]]の[[誕生日]]は
「今より」
[[陰暦][朝鮮半島の旧暦]]に従うものとされ、
翌年の[[暦]]に[[陰暦][朝鮮半島の旧暦]]で記載することが裁可されました
[SRC[>>388 p.[L[180]] ([CITE[官報]] [ASIS[建陽]]元年8月25日)]]
君主誕生日などの[[国慶日]]は、
[[甲午改革]]期から制定され始め、
[TIME[西暦1896年][1896]]から[[陽暦][グレゴリオ暦]]で施行されることになっていましたが、
[[陰暦][朝鮮半島の旧暦]]で施行されました。
[SRC[>>388 p.[L[180]]]]


[473] 
[CITE[独立新聞]]
は、
[[甲午改革]]を継承して「国民化」 (文明化) 運動を民間から推進していました。
元は[[建陽]]と[[陽暦][グレゴリオ暦]]の[[日付]]を使い、
[[陰暦][朝鮮半島の旧暦]]は使っていませんでした。
建陽二年八月十四日号の次は光武元年八月十七日号で、
それ以後[[光武]]と[[陽暦]][グレゴリオ暦]]の[[日付]]を使うようになりました。
しかし[[改元]]についての論説はありませんでした。
[SRC[>>388 p.[L[181]]]]

[474] 
[CITE[独立新聞]]
は、元は[[火曜日]]、[[木曜日]]、[[土曜日]]の[[週]]3回発行でした。
[TIME[1897-07-01]]から[[週]]5回発行になり、
[[日曜日]]と[[月曜日]]が休刊でした。
[SRC[>>388 p.[L[181]]]]


;; [442] [TIME[1897-10-12]]、
[[高宗]]は[[皇帝]]に[[即位]]しました
[SRC[>>388 p.[L[176]]]]。

;; [408] [TIME[1897-10-13]]、
[[詔勅]]により[[朝鮮国][李氏朝鮮]]は[[大韓][大韓帝国]]に改称しました
[SRC[>>388 p.[L[176]]]]。


[464] 
[TIME[1897-10-12]]の[[皇帝]]即位儀式は[[明]]礼により行われました。
この頃から[[詔勅]]等も[[国漢文]]から[[漢文]]が主体に変わりました。
[[陰暦][朝鮮半島の旧暦]]への揺り戻しも含め、
前政権が目指したような文明化ではなく、
(近代国家体制に触れて変容した) [[小中華]]意識のもとでの[[皇帝]]即位でした。
[SRC[>>388 p.[L[180]]]]


;; [380] [TIME[1897年][year:1897]]、
[[鎮南浦]]と[[木浦]]に[[各国租界]]が設置されました。


[HISTORY[
[233] 
[TIME[1897年][year:1897]]に[[韓国標準時]] [TZ[+08:28]]
が制定されたとする [[Webページ]]もありますが、
出典も不明瞭で信用し難いものです。
[SRC[>>213]]
[[大韓帝国]]の成立年からの推測でしょうか。
]HISTORY]


[180] 
[[大韓帝国]]は
[TIME[1898年][year:1898]]分の[[曆]]として
[CITE[大韓光武二年歳次戊戌明時曆]]
を発行しました。
この年から[[明時曆]]に改称されました。
内容は前年と同様でした [SRC[>>388 p.[L[180]]]]。

[467] 
[TIME[1897-11-30]]、
[[議政府]]議政[[沈舜沢]]が政治の重んずるところは敬天而授時であるとして、
新[[暦書]]名として「明時」と「一元」を奏上し、
[[高宗]]が「明時」を選びました。
[SRC[>>388 p.[L[180]] ([CITE[官報]] 光武元年12月1日)]]



[362] 
明治31年の契約:
大韓光武 [[グレゴリオ暦]],
大日本明治
[SRC[>>354 /413]]


[374] [TIME[1899年][year:1899]]にまとめられた [[Milne]] の[[時差の表]]では、
[[Korea]] は [TZ[+09:00:00]] とされていました。出典は[[英国政府]]や
[[International Telegraph Bureau]] とされていました。 [SRC[>>375]]

[273] [[電信]]では [TZ[+09:00]] が使われていたのでしょうか。
[[日本]]が[[大北電信会社]]に九州釜山線を敷設させたため、
[[釜山]]側 (や[[京城]]) でも[[中央標準時]]を用いることにした、
というような事情があったりするでしょうか?
(しかし[[清国]]所有の北行きの[[電信]]で[[中央標準時]]が使われた可能性はなさそうです。)
あるいはこの時既に[[日本]]から[[中央標準時]]が[[電信]]で転送
(>>635) されており、[[電信局]]で用いられていたのでしょうか。


;; [190] ただし [[Milne]] 当時[[西部標準時]] [TZ[+08:00]] だった
[[Formosa]] の[[時刻]]を [[International Telegraph Bureau]] 
出典で [TZ[+09:00]] としており ([SEE[ [[台湾の標準時]] ]])、
この情報をどこまで信用して良いものか不明です。


;; [381] [TIME[1899年][year:1899]]、
[[群山]]と[[城津]]と[[馬山]]に[[各国租界]]が設置されました。


;; [102] 
[TIME[明治32年5月][1899-05]]、
[[京仁鉄道]]建設を[[日本]]企業が引き継ぎました。

[445] 
[TIME[1899-09-11]]、
[CITE[韓清通商条約]]
が締結されました。
[[日付]]は
「光武三年」
「光緒二十五年」
でした。
[SRC[>>388 pp.[L[176]]-[L[177]]]]


;; [630] [TIME[1899年9月18日][1899-09-18]]、
[[京仁鉄道]]の[[仁川]] - [[鷺梁津]]
[WEAK[([[京城]]郊外)]]
間が開業しました。
この頃の乗客の8割は[[朝鮮人]]でした
[SRC[>>283 1ページ]]。

;; [287] 
[TIME[1900年][year:1900]]、
[[露西亜帝国]]は[[内滿洲]]に進攻しました
([[北清事変]])。

[358] 
西暦1900年の条約:
光武、
[[露曆]] ([[ユリウス暦]])
[SRC[>>354 /405]]

;; [205] [TIME[1900年11月12日][1900-11-12]]、
[[京仁鉄道]]の[[鷺梁津]] - [[京城]]間が開業しました。
その後乗客比率は[[朝鮮人]]6割、
[[清国]]人2割、
その他2割となりました
[SRC[>>283 1-2ページ]]。





;; [382] [TIME[1900年][year:1900]]、
[[馬山]]に[[露国租界]]が設置されました。

;; [390] [TIME[1900年][year:1900]]、
[[日本]]の[[京城郵便局]]が設置されました。

;;
[197] [TIME[1900年][year:1900]]、
[[大韓帝国]]は[[通信院]]を設置しました。


[206] 
公式には[[太陽暦]]を採用し、[[西洋式時刻]]も使われるようになった一方で、
[[大韓帝国]]は依然[[支那]]由来の旧来の[[日時制度]]を運用していました。

[85] 
[TIME[1905年][year:1905]]の[[日本政府]]の書籍によると、
[[大韓帝国]]には天文家と巫祝の育成のため天文学校が設置されていました。
次の三科がありました。 [SRC[>>81]]

- 天文科
-- 毎年10人入学
-- 入試: 天体測量詩の記憶が必要
- 気象科
-- 毎年4人入学
-- 入試: 墓地等の選定の吉方を指定する知識が必要
- 占術科
-- 吉日を選定する
-- 毎年4人入学

[86] [[京城]]には[[天文台]]がありました (>>87)。


[640] 
また、[[漏刻官]]養成所が設置されていました。
この学校は
「韓國ニ於ケル唯一ノ標準時タル京城ノ時刻」
を測定する[[漏刻官]]を「養成スルノ装置」を有していました。
[SRC[>>33]]

[641] 
つまりこの当時[[京城]]には未だ[[漏刻]] ([[水時計]])
が稼働しており、[[漏刻官]]が運用していたのでしょう。
言及されていませんが、[[日時計]]もまだ利用していたのでしょうか。
[[韓國]]の「唯一の標準時」とはいいますが、
従来通り[[時鐘]]や[[太鼓]]で[[報時]]していたのであれば、
通用範囲は[[京城]]市内と周辺程度だったでしょうか。


[208] 
[[京城]]の[[地方時]]は、 [TZ[+08:28]] とされることが多いです。
かつて[[日時計]]があったとされる位置は
[TZ[+08:27:55]] に当たります (>>414)。
王城の[[景福宮]]は [TZ[+08:27:54]]、
城壁西側の[[京仁鉄道]][[京城駅]]は [TZ[+08:27:52]]、
[[京城郵便局]]は [TZ[+08:27:56]]
です。

[639] 
[TIME[1904年][year:1904]]頃の[[米国海軍天文台]]の[[時差の表]]は、
[RUBYB[地方][country districts]]では[RUBYB[まだ][to some extent]][RUBYB[[[日時計]]][sundial]]が使われている
[SRC[>>724, >>725, >>726]]
としていました。

[260] [[Time Changes]] は、
[TIME[1904年][year:1904]]から[TIME[1932年][year:1932]]の変遷を示した後、
[RUBYB[地方の民衆は[[日時計]]を使っていた]@en[People in country districts used sun dials.]]との注釈を加えていました [SRC[>>1256]]。
同じ情報源によるものと思われます。

[351] 
[TIME[1908-04-01]]より前の[[時刻]]を
[TZ[+08:27:52]] = [LON[東経126度58分][126.58E]]の
Seoul City Hall
とする実装がありました [SRC[>>350]]。
出典は不明です。

[REFS[
- [350] [CITE@en[more accurate UTC timeshift for Japan, Korea]], [[commenthol]], [TIME[2016-11-07 05:06:04 +09:00]], [TIME[2021-06-20T09:56:35.000Z]] <https://github.com/commenthol/date-chinese/commit/e7dc82fbbddaf548475f0da8b66477904d671075#diff-b3f7764ca5cbd7ee312709dc1984b0ebbc5331c0eac8ca490c1b39bc3284fafbL61>
]REFS]

;; [384] [TIME[1902年][year:1902]]、
[[馬山]]に[[日本租界]]が設置されました。

;; [288] 
[TIME[1902年][year:1902]]頃、
[[支那]]海岸部各所で[[支那海岸時]] [TZ[+08:00]]
が使われるようになりました。
[SEE[ [[中国大陸の標準時]] ]]

;; [631] [TIME[1902年10月1日][1902-10-01]]、
[[京釜鉄道]]北部 ([[京城]]側)
が一部開業しました。この後順次南進していきました。
また、南部 ([[釜山]]側)
も一部開業し、順次北進していきました。
[SEE[ [[京釜鉄道]] ]]

;; [632] 
[TIME[1903年][year:1903]]、
[[京釜鉄道]]が[[京仁鉄道]]を買収しました。

[11]
[TIME[明治三十七年十一月十八日][1904-11-18]]の[[京釜鐵道]]の[[仁川]]の事業所からの報告によると、
当時[[鉄道時]]として、
[[內地中央標準時]]より 32分遅い
「仁川ニ於ケル韓國標準時」
を使っていました。 [SRC[>>134]]
つまり「仁川ニ於ケル韓國標準時」とは [TZ[+08:28]]
でした。
[SEE[ [[アジア大陸の鉄道標準時]] ]]


[644] 
「仁川における」の意味は不明ですが、
[[仁川]]の[[地方時]]は
[TZ[+08:26:28]]
で、[[京城]]の[[地方時]]
[TZ[+08:28]] と約2分の[[時差]]がありました。
[[京仁鉄道]]は[[首都]]である[[京城]]の[[地方時]]を[[仁川]]でも用いていたことがわかります。
[[仁川]]市内でもこの[[時刻]]が使われていたのでしょうか。
[[京釜鉄道]]一部開業、[[京仁鉄道]]買収以前の状況は不明ですが、
[[京仁鉄道]]開通当初から[[首都]]の[[時刻]]が採用されていたと考えるのが自然です。


[634] [TIME[1904年][year:1904]]頃の[[米国海軍天文台]]の[[時差の表]]は、
次のように説明していました。

- [635] [[東京時]] [TZ[+09:00]] [SRC[>>724, >>725]], 
[[日本中央標準時]] [SRC[>>726]]
が毎日[RUBYB[[[ソウル]]][Seoul]]の 
[[Imperial Japanese Post and Telegraph Office]]
へ電信で送信されている。
- [636] これを30分引いて [TZ[+08:30:30]] に修正されている [SRC[>>724, >>725, >>726]]。
-- [637] 30分引いたのが[[経度]]差に近い。 [SRC[>>724, >>725, >>726]]
-- [638] 修正したものが鉄道、路面電車、郵便電信局、
[RUBYB[上流階級][better classes]]のほとんどで使われている。 [SRC[>>724, >>725, >>726]]




[119]
これは現地駐在の[[米国人]]の報告によるのでしょうが、
[[日本]]の[[郵便電信局]]で [TZ[+08:30]]
が作成され、
[[鉄道]]などで使われているとあります。
しかし[[京仁鉄道]]は[[鉄道時]]を [TZ[+08:28]]
だとしていました (>>11)。
だとすれば[[郵便電信局]]も [TZ[+08:28]] を使っていたとするのが自然です。
ただし当時は2分程度は誤差のうちだったとも思われます。
[TIME[1908年][year:1908]]の[[大韓国標準時]] [TZ[+08:30]]
制定時も、
[[大韓帝国]]と[[韓国統監府]]のどちらも従来の[[京城時刻]]の標準化と認識しており、
2分の変更とは捉えていなかったようです (>>5, >>45)。


[294] 
[[日本]]本国と直結された[[報時]]システムがいつ稼働したのかは不明ですが、
[TIME[1894年][year:1894]]の[[京城]]・[[釜山]]間の日本の軍用電線の架設後、
あるいはその後の[[日清戦争]]終戦の頃からでしょうか。
[WEAK[(それ以前の[[京城]]・[[釜山]]間電信線は[[朝鮮政府]]所有で、日常的に不通になる代物でした。)]]
この頃[[日本]]本国でも各地の[[郵便局]]に[[正午]]が[[電信]]で[[報時]]されていました。
[SEE[ [[幕末維新期の日時]] ]]


[295] 
[[京城]]以外の[[日本]]の[[郵便電信局]]も、
同様の方法で[[報時]]していたのでしょうか。
その時刻は[[地方時]]か、[[京城慣用時]]のいずれだったのでしょうか。


[296] 
[[日本]]の[[郵便電信局]]の[[報時]]開始以前や、
[[日本人]]以外がどのように[[時刻]]を得ていたのかは不明です。
[[米国]]の資料に何の言及もないことから、
[[朝鮮政府]]や欧米諸国は近代的報時機構を有していなかった可能性が高そうです。
[[朝鮮半島]]の外国人は[[日本人]]と[[清国人]]がほとんどだったようですから、
欧米諸国が専用の設備を有していなくても不思議ではなく、
また[[清国]]本国もこの時代には西洋式ではない旧来の[[日時制度]]を運用していました。
[[西洋式時刻]]を使っていた[[欧米人]]や[[日本人]]は、
[[李朝]]の[[鐘]]や[[太鼓]]の伝統的報時機構により、
あるいは[[日時計]]によって[[時刻調整][時刻同期]]していたのでしょうか。


[320] 
[[釜山]]側で開業し北へと延伸していった[[京釜鉄道]]南部線が使っていた[[時刻]]も不明です。
[[釜山]]の[[地方時]]は [TZ[+08:36]] で、
[[京城]]の [TZ[+08:28]] より8分ほど進んでいます。
[[釜山]]でも[[電信]]で[[京城時]]を再現することは可能だったでしょうし、
いずれ南北連結全線開業することを睨んでこの時刻を使っていた可能性はありますが、
[[釜山]]市内で使われていたであろう[[地方時]]との
8分の[[時差]]は、さすがにこの時代でも誤差の範囲を超えていたはずです。
後の鐡道時改正時の新聞記事には、
南北線のダイヤ改正の説明に特記なく「約三十分」の鐡道時改正の旨が記載されています
[SRC[>>305]] から、
南線も[[中央標準時]]とは異なる時刻だった可能性が高そうです。
しかしどちらの[[地方時]]も「約三十分」の「韓時間」には違いありませんから、
南北線の時刻が同じだったかどうかは断定できません。
両線で時刻が違っていたため、全線開通で統一のための変更が必要になったと考える方が筋は通っています。

[HISTORY[

[89] 現代の文献で「[[日韓併合]]前」に [TZ[+08:28]] 
が[[大韓帝国]]の[[標準時]]として[[朝鮮半島]]全域で使われており、
[[日本人]]は[[京城標準時]]と呼んでいた [SRC[>>88]] とするものや、
[[清国]]から[[大韓帝国]]が独立した際に[LON[東経126.97度][126.97]]で[[中央標準時]]より
32.12分遅い[[時刻]]が[[韓国標準時]]となった [SRC[>>36, >>221]]
([LON[126.97]] は [TZ[+08:27:52.8]]。32.12分は32分7秒。)
とするものもありますが、出典は不明です。

[34] 
[[Wikipedia]] は[[漏刻官]]に関する「韓國ニ於ケル唯一ノ標準時タル京城ノ時刻」
という記述 (>>640) を根拠に
「[[首都]]・[[漢城]](現在の[[ソウル]])での[[平均太陽時]]が[[標準時]]とされており」[SRC[>>32]]
と説明しています。
しかしこの記述を直ちに[[近代的標準時]]と理解することはできません。
また、[[真太陽時]]ではなく[[平均太陽時]]とする根拠も不明です。

[75] 
[[京釜鉄道]]の
「仁川ニ於ケル韓國標準時」 [TZ[+08:28]]  (>>11)
や「[RUBYB[[[한국 표준시]]][韓國標準時]]」 (>>440)、
日本領事館告示の「韓國標準時」 [SRC[>>209]]
[WEAK[(ただし当時の表現そのままかは不明)]]
のように、
当時 [TZ[+08:28]] が実質的に[[韓国標準時]]だとする認識を持つ人々
[WEAK[(>>640 も含めいずれも[[日本人]])]]
が[[京城]]近辺にはいたようです。

[324] しかし[[李朝]]や[[大韓帝国]]が公式に[[近代的標準時]]を制定した形跡は見当たりません。
[TIME[1908年][year:1908]]の[[大韓国標準時]]制定の際にも[[大韓帝国]]、
[[日本]]の[[韓国統監府]]の双方が
「従来慣用の時刻」と呼び、旧[[標準時]]とはしていませんでした。
現在の[[大韓民国]]の政府当局の [[Webページ]] [SRC[>>61]]
も、[[大韓國標準時]]以前には何も示していません。

]HISTORY]



[HISTORY[

[365] 
[[朝鮮民主主義人民共和国]]政府の[[朝鮮社会科学院]]歴史研究所長の[[黄明哲]]は、
[TIME[2017年][year:2017]]の[[論文]]で、
[TIME[1884年][year:1884]][[国際子午線会議]]の決定
「に基づき、朝鮮封建王朝では、1日12時間体系を24時間体系に変更するとともに、
東経127度30分を本初子午線とする標準時を使用するようにした。」
[SRC[>>360]] としました。
文脈より[TIME[1884年][year:1884]]と[TIME[1906年6月][1906-06]]の間にそのような決定がなされたことになります。しかし、

- この主張の根拠は一切示されていません。
- [[大韓帝国]]はこの会議の参加国ではありませんでした。
-- しかも参加国ですら会議後[[標準時]]を制定したのは[[日本]]だけでした。
-- 無関係の国がその決定に「基づ」くというのは不審です。
- [[国際子午線会議]]で世界を24の[[時間帯]]に分割することが決定された、
というのは有名な世界的デマです。
-- 仮にそのデマに従うなら、 [TZ[+08:30]] は24の[[時間帯]]には含まれないはずなので、
[[大韓帝国]]は会議の決定に違反していることになってしまいます。
- [[黄明哲]]の問題なのか翻訳の問題なのかわかりませんが、
この[[論文]]は[[本初子午線]]という用語を独自の用法?で使っていて、意味が通りません。
- [[大韓帝国]]は[[旧来の時法][十二支時刻法]]と[[24時間の時法][西洋式時刻]]を併用しており、
「変更」できていませんでした。
-- かなり後の年の[[官報]]にも[[旧来の時法][十二支時刻法]]で記述された記事があり、
国策として[[24時間の時法][西洋式時刻]]に移行する意志があったようには見えません。
-- [[24時間の時法][西洋式時刻]]の[[平均太陽時]]を採用していた各国が共通の[[本初子午線]]と[[世界時]]を定めようとした[[国際子午線会議]]の前提が、
当時の[[朝鮮半島]]では成立していませんでした。

... ということで、信用しがたいです。

;; [518] [TIME[2018年][year:2018]]の[[朝鮮民主主義人民共和国]]の[[政令]]には
「기준자오선」 [SRC[>>517]] (基準子午線) という表現が見られます。
これを[[英語]]で「prime meridian」 ([[本初子午線]]) と訳した例 [SRC[>>506]] 
もありますが、単純に基準となる[[子午線]]という意味と解するべきでしょう。
[TIME[2015年][year:2015]]の[[政令]]には ([[子午線]]を) 「기준으로」 [SRC[>>187]]
(基準として) という表現がありました。
[[朝鮮民主主義人民共和国]]で「기준자오선」がどの程度幅広い意味で用いられているかは不明ですが、
ここでは基準となる[[子午線]]という意味で用いられていたのを[[日本語]]で[[本初子午線]]と訳してしまったのが文意が不明となった原因でしょうか。

[238] むしろ24分割というデマに従うなら、
日帝の [TZ[+09:00]] 標準時採用の方が趣旨に沿っています。
しかも[[国際子午線会議]]決議を遵守したのは世界的に[[日本]]だけだったとされていますから、
それを過剰に評価する[[黄明哲]]は[[親日派]]の疑いすらありますw

]HISTORY]


[317] 
20世紀初め頃の漢字ハングル混じりの[[朝鮮語]]新聞[CITE[皇城新聞]]の本文記事では、
例えば
[TIME[「上午九点鐘半」][09:30]]
[SRC[>>316]]
のような[[支那]]式の[[西洋式時刻]]表記が用いられていました。
広告では「[[午后]]」や「[[正午]]」のような[[日本]]式の表記が用いられていました。


[REFS[
- [161] [CITE@ja[日朝修好条規 - Wikisource]] ([TIME[2019-01-26 11:31:08 +09:00]]) <https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%9D%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E8%A6%8F>
- [163] [CITE@auto[조미수호통상조약 - 위키문헌, 우리 모두의 도서관]] ([TIME[2019-01-25 06:35:41 +09:00]]) <https://ko.wikisource.org/wiki/%EC%A1%B0%EB%AF%B8%EC%88%98%ED%98%B8%ED%86%B5%EC%83%81%EC%A1%B0%EC%95%BD>
- [164] [CITE[The 1882 US and Korea Treaty: Draft and Final Versions]] ([TIME[2019-02-10 14:37:41 +09:00]]) <https://web.archive.org/web/20160311075538/http://www.instrok.org/instrok/resources/Draft%20and%20Final%20Versions.pdf>
- [160] [CITE[漢城旬報]]
- [280] [CITE[仁川事情]]
- [168] [CITE[舊韓國 官報]] <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00049827465> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00049827465>
- [176] [CITE@ja[暫定合同條款 - Wikisource]] ([TIME[2019-01-27 16:37:33 +09:00]]) <https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%9A%AB%E5%AE%9A%E5%90%88%E5%90%8C%E6%A2%9D%E6%AC%BE>
- [375] [TIME[1899年][year:1899]] [CITE[The Geographical Journal, for February 1899.]]
[[時差の表]]
- [395] [CITE[1.公使館ノ部 自明治十九年二月 至同二十五年三月/分割1]] ([[アジア歴史資料センター | Japan Center for Asian Historical Records]]著, [TIME[2018-01-25 19:24:01 +09:00]]) <https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_B12082121400>
-- [396] ([TIME[2015-10-11 12:32:05 +09:00]]) <https://www.jacar.archives.go.jp/aj/contents/pdf/B12/B12082121400.b3_0109.3-2512.00000215.pdf>
- [156] [CITE@ja[年號ヲ建陽ト建ツル件 - Wikisource]] ([TIME[2019-01-25 20:50:17 +09:00]]) <https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%B9%B4%E8%99%9F%E3%83%B2%E5%BB%BA%E9%99%BD%E3%83%88%E5%BB%BA%E3%83%84%E3%83%AB%E4%BB%B6>
- [104] [CITE@ja[改曆及建元ニ關スル件 - Wikisource]] ([TIME[2019-01-26 15:33:45 +09:00]]) <https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%94%B9%E6%9B%86%E5%8F%8A%E5%BB%BA%E5%85%83%E3%83%8B%E9%97%9C%E3%82%B9%E3%83%AB%E4%BB%B6>
- [144] [CITE@ja[年號ヲ光武ト改ムルノ件 - Wikisource]] ([TIME[2019-01-26 20:22:34 +09:00]]) <https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%B9%B4%E8%99%9F%E3%83%B2%E5%85%89%E6%AD%A6%E3%83%88%E6%94%B9%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%8E%E4%BB%B6>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[125] [CITE@ja[官報. 1897年08月30日 - 国立国会図書館デジタルコレクション]] ([[大蔵省印刷局 '''['''編''']''']]著, [TIME['''['''1964''']'''-][year:1964]]) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2947536/4>
]FIGCAPTION]

>
[BOX(vertical)[
○朝鮮國改元   朝鮮國ニ於テハ本月十四日ヨリ建陽ノ年號ヲ改メテ光武ト稱
シ仍ホ陽曆ヲ用フヘキ旨本邦駐箚同國臨時代理公使ヨリ本月十八日附ヲ以テ
外務省ヘ通知アリ
]BOX]

]FIG]

- [316] [CITE[釜鐵試運]]
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00093750663> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00093750663>
- [393] [CITE@ja[京城公使館における気象観測記録とその気象学史的位置づけ]] ([TIME[2018-01-25 19:23:12 +09:00]]) <https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajg/2013s/0/2013s_280/_article/-char/ja/>
-- [394] ([TIME[2018-01-25 19:23:48 +09:00]]) <https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajg/2013s/0/2013s_280/_pdf/-char/ja>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[173] [CITE@ja[開国 (李氏朝鮮) - Wikipedia]] ([TIME[2019-02-02 23:35:27 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%9B%BD_(%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE)>
]FIGCAPTION]

>公式には甲午改革で成立した金弘集政権が1894年7月27日から採用
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[174] [CITE@zh[開國 (朝鮮高宗) - 维基百科,自由的百科全书]] ([TIME[2019-01-27 14:45:59 +09:00]]) <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%9C%8B_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%AB%98%E5%AE%97)>
]FIGCAPTION]

> 金弘集进行甲午改革,1894年7月27日採用。
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[148] [CITE@ja[光武 (元号) - Wikipedia]] ([TIME[2019-02-02 23:35:26 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%AD%A6_(%E5%85%83%E5%8F%B7)>
]FIGCAPTION]

>光武(こうぶ、광무、クァンム)は李氏朝鮮・大韓帝国で用いられた元号。建陽2年(1897年)8月14日に改元して光武を用い[1]、同年10月に国号を大韓帝国と改めた。光武元号は1907年8月2日に隆熙に改元されるまで使用された。
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[132] [CITE@zh[光武 (年號) - 维基百科,自由的百科全书]] ([TIME[2019-01-26 18:41:41 +09:00]]) <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%AD%A6_(%E5%B9%B4%E8%99%9F)>
]FIGCAPTION]

> 光武(1897年8月16日—1907年8月2日)是朝鲜王朝大君主、大韩帝国皇帝高宗之年號,1897年8月16日改元光武,10月12日高宗称帝,改国号大韩帝国,1907年8月2日改元隆熙。
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[150] [CITE@ko[광무 (연호) - 위키백과, 우리 모두의 백과사전]] ([TIME[2019-01-25 18:00:40 +09:00]]) <https://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B4%91%EB%AC%B4_(%EC%97%B0%ED%98%B8)>
]FIGCAPTION]

> 광무(光武)는 1897년 8월 17일부터 1907년 8월 11일까지 대한제국 고종 때에 사용한, 대한제국의 첫 번째 연호이다.
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[175] [CITE[1894迄(1413件)]]
<http://luckyday.html.xdomain.jp/PDF/18931894.pdf>
]FIGCAPTION]

>1894年7月31日-09:00|韓国/朝鮮|  ||朝鮮・開国503年6月29日|清国年号使用禁止と
李朝開国紀元の使用を定め
る(1894年=高宗31年は、開国503年と表記)
]FIG]

- [282] [CITE@ja-JP[『降ろされた日の丸の著者吉原勇氏が執筆する「仁川の70年」。これまでの分をPDFファイルにまとめました。 - 仁川(ジンセン)を想う会]] ([TIME[2019-02-21 19:29:51 +09:00]]) <https://jinsendayori.jimdo.com/%E4%BB%81%E5%B7%9D%E3%81%AE%EF%BC%97%EF%BC%90%E5%B9%B4/>
-- [283] [CITE[仁川の70年⑤]]

]REFS]

@@
[494] 
[CITE@ja-JP[朝鮮戸籍必携集]], [[中原茂 編纂]], [TIME[1930.9][1930]], [TIME[2025-10-29T01:48:45.000Z]], [TIME[2025-11-26T14:35:59.104Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1905951/1/246?keyword=%E5%85%83%E5%8F%B7> (要登録)

* 軍用時と鉄道時

;; [311] [TIME[1904年][year:1904]]、
[[ロシア帝国]]と[[大日本帝国]]は[[日露戦争]]となり、
[[朝鮮半島]]、[[南満州]]、[[日本海]]が戦場となりました。

;; [383] 
[TIME[1904年2月6日][1904-02-06]]、
[[日本軍]]は[[馬山電信局]]を制圧しました。
[TIME[1904年][year:1904]]、
[[日本軍]]は[[馬山露国租界]]に進攻しました。

;; [620] 
[TIME[1904年2月8日][1904-02-08]]、
[[日本軍]]は[[ソウル]]を制圧しました。

[624] 
[[ロシア軍]]は[[平安道]]と[[咸鏡道]](南北)に進攻しました。
[[ロシア軍]]の[[軍用時]]は不明です。
[[内滿洲]]の[[ハルビン時]]あるいは[[外滿洲]]の[[浦塩時]]でしょうか。
あるいは各地の[[地方時]]でしょうか。
[SEE[ [[滿洲の標準時]] ]]

;; [622] 
[TIME[1904年4月][1904-04]]、
[[ロシア軍]]は[[咸鏡道]]の大部分を制圧しました。

;; [621] 
[TIME[1904年5月][1904-05]]はじめ頃、
[[日本軍]]は[[朝鮮半島]]および海上から[[南満州]]に進攻しました。
[TIME[1904年5月][1904-05]]頃、
[[日本軍]]は[[南満州]]の制圧地域で[[軍政]]を[[施行]]しました。


[1207] 
[TIME[明治37年5月5日][1904-05-05]]、
[[日本軍]]は、
陸海軍各部隊に[[日時計]]と説明書を配布し、
[LAT[東経123度子午線][123E]]の時刻 = [TZ[+08:12]] を 
[TIME[5月25日][1904-05-25]]以降の「満韓地方の基準時」
とすることを通達しました。
これは[[滿洲]]の[[遼東半島]]付近 ([[遼河]]) の時刻に当たります。
時刻を一定のものとするため、と説明されています。
それまでは部隊ごとに、あるいは現在地ごとに異なる時刻を使っていたのでしょうか。
[SEE[ [[滿洲の標準時]]、[[日本軍の軍用時]] ]]



[129] [TIME[1906年][year:1906]]の[[日本]]の学術雑誌記事は、
[[日露戦争]]開戦当時、[[韓国]]と[[遼東]]で[[平壌]]の[[地方時]]を用いる構想が[[陸軍]]内にあったらしい、
としていました
[SRC[>>93]]。
[TZ[+08:23]] ということになります。
[[満韓地方の基準時]] [TZ[+08:12]] との関係は不明です。
[SEE[ [[満州の標準時]] ]]


;; [623] 
[TIME[1904年10月10日][1904-10-10]]、
[[日本軍]]は[[咸鏡道]]南部の制圧地域に[[軍政]]を[[施行]]しました。




[203] 
[TIME[1904年][year:1904]]頃発刊されていた[[朝鮮人]]向けの[[新聞]]である[CITE[帝國新聞]]は、
各ページの[[日付]]を「大韓光武八年[VAR[○]]月[VAR[○]]日([VAR[○]]曜)」のように表記すると共に、
最初のページには、

>
[BOX(vertical)[
檀君元年三千二百四十七年

箕子元年三千二十六年

開國五百十三年

孔子降誕二千四百五十五年

西歷紀元一千九百四年

日本明治三十七年

清曆光緒三十年

陰曆甲辰[VAR[○]]月[VAR[○]]日 ([VAR[干支]])
]BOX]

... のような各種[[紀年法]]による表示もありました。 
[SRC[>>202]]
[TIME[1898年][year:1898]]から[TIME[1903-07-04]]までは、
[[大韓帝国]]の[[元号]]のみでした。
[TIME[1904-09-07]] - [TIME[1906-06-07]] にはこのような表示がありました。
主たる読者だったであろう[[京城]]近辺の[[朝鮮人]]上流階級は、
[[大韓帝国]]の[[元号]]と[[太陽暦]]の[[日付]]を中心としつつも、
実生活上その他の各[[日付]]も必要としていたということなのでしょう。

;;
[330] このような併記は[[大日本帝国]][[沖縄県]]の新聞でも見られました。
[SEE[ [[南西諸島の日時]] ]]

;; [371] [SEE[ [[箕子]], [[孔子紀元]] ]]

;; [372] この「檀君元年」は現行[[檀君紀元]]と違う数え方 ([TIME[y~4180]]) です。
[SEE[ [[檀君紀元]] ]]


[319] 
この頃発行されていた漢字ハングル混じりの[[朝鮮語]]新聞[CITE[皇城新聞]]は、
「大韓[VAR[元号]][VAR[漢数字年]]年[VAR[漢数字月]]月[VAR[漢数字]]日 [VAR[曜日漢字]]曜」
のような[[陽暦]]と
「陰曆 [VAR[干支年]][VAR[漢数字月]]月[VAR[漢数字日]]日[VAR[日干支]]」
のような[[陰暦]]を併記していました。
[SRC[>>318, >>305]]
本文中では
「午前[VAR[何]]時[VAR[何]]分」、
「午后[VAR[何]]時[VAR[何]]分」のような表記が使われていました [SRC[>>318]]。
「午正十二時十五分」 [SRC[>>305]] のような表記も見られました。
記事中の日付は特記がなければ[[陽暦]]と思われますが、
「陰九月十六日夜」や「陰八月初九日夜」のように[[陰暦]]のものも少なくなかったようです。
広告には「下午五時量」のような表記の時刻や「陰曆旧月卄二日」のような表記の日付も見られました。
依然として新旧両曆が混在し、むしろ陰暦によく馴染んでいた人々も多かったと見受けられます。



[633] 
[TIME[1904年11月20日][1904-11-20]]、
[[京釜鉄道株式会社]]は[[鉄道時]]を[[中央標準時]] [TZ[+09:00]] 
に変更しました [SRC[>>134, >>1254, >>32]]。
[[京仁鐡道]]全線と[[京釜鐡道]]南北両線 [SRC[>>305]] の運転時刻が改正されました。
この変更は、
[[京釜鐡道]]が完工し南北両線が接続され、
全線での試運転が開始されることになったためのようです。
[SEE[ [[アジア大陸の鉄道標準時]] ]]



[440] 
[CITE[帝國新聞]]は、確認できる範囲では[TIME[1904年9月7日][1904-09-07]]以降、
「[VAR[午前|午後]][VAR[○]]時[VAR[○]]分」 ([[漢数字]]) 
のような形で[[鉄道]]の発着時刻を掲載していました。
[TIME[11月18日][1904-11-18]]から
[TIME[21日][1904-11-21]]の紙面には、
[RUBYB[[[한국 표준시]]][韓國標準時]]から[RUBYB[일본 중앙 표준시][[[日本中央標準時]]]]に改める旨の広告がありました
[SRC[>>437, >>438, >>439]]。

;; [617] 掲載されている[[時刻]]は、前後数日変わっていません。
[[標準時]]改正後の[[ダイヤ]]も、[[時刻]]の数値はそのままでスライドしたのでしょうか。
その後[TIME[12月3日][1904-12-03]]と[TIME[5日][1904-12-05]]で1時間前後の[[ダイヤ]]改正があったようです。
(他の記事によると[TIME[12月1日][1904-12-01]]ダイヤ改正。)
[[京釜鐡道]]は[TIME[11月20日][1904-11-20]]に同時にダイヤ改正されました [SRC[>>305]]。

[303] [CITE[皇城新聞]]にも[[韓國標準時]]から[[内地中央標準時]]に改める旨の広告が同時期に掲載されました
[SRC[>>302, >>305]]。
記事としても、
南北両線が連結され南北ともダイヤ改正があることが報じられると同時に、
[[韓時間]]から「約三十分」早い[[東京標準時]]に改められる旨が記されていました
[SRC[>>305]]。


[210] 
[TIME[明治37年11月28日][1904-11-28]]、
在京城日本領事館の領事[[三増久米吉]]の[[告示]]により、
在京城日本領事館で[[韓國標準時]]より32分早い[[中央標準時]]が採用されました。
同時に在京城日本領事館警察署鐘楼で[[時鐘]]の[[報時]]が開始されました。
[SRC[>>209, >>219]]



[608] [TIME[1904年][year:1904]]頃の[[米国海軍天文台]]の[[時差の表]]は、
次のように説明していました。

- [609] [[標準時]] [TZ[+09:00]] [SRC[>>725]]
- [610] [[標準時]] [TZ[+08:30]] [SRC[>>726]]
- [611] [[東京時]] [TZ[+09:00]] [SRC[>>724, >>725]], 
[[日本中央標準時]] [SRC[>>726]]
が毎日[RUBYB[[[ソウル]]][Seoul]]の 
[[Imperial Japanese Post and Telegraph Office]]
へ電信で送信されている。
- [612] [TIME[1904年12月1日][1904-12-01]]より前には [SRC[>>725, >>726]]、
これを30分引いて [TZ[+08:30:30]] に修正されている [SRC[>>724, >>725, >>726]]。
-- [613] 30分引いたのが[[経度]]差に近い。 [SRC[>>724, >>725, >>726]]
-- [614] 修正したものが鉄道、路面電車、郵便電信局、
[RUBYB[上流階級][better classes]]のほとんどで使われている。 [SRC[>>724, >>725, >>726]]
- [615] [TIME[1904年12月1日][1904-12-01]]より、
[[Korea]] の Japanese post-offices and railways は[[東京時]] [SRC[>>725]],
[[日本中央標準時]] [SRC[>>726]] [TZ[+09:00:00]] を使い始めた。



[1098] 
[[日本]]の学術雑誌に掲載された[TIME[明治37年12月7日][1904-12-07]]の[[釜山]]からの報告によると、
[[釜山]]の各国[[領事館]]その他官衙では以後[[日本]]の[[中央標準時]]が用いられることになりました。
[SRC[>>97]]
[TIME[7日][1904-12-07]]付報告ではありますが、
[[施行]]の日は不明です。


;; [426] 
[TIME[1905年1月1日][1905-01-01]]、
[[京釜鉄道]]の[[京城]]・[[草梁]] [WEAK[([[釜山]])]]
間が開通しました。

[627] [TIME[1905年1月8日][1905-01-08]]、
[[日本軍]]は各部隊に対し、
以後[[中央標準時]]を用いるよう指示しました。
[[朝鮮半島]]北部と[[満洲]]の軍用鐡道もこの時刻によっていたかもしれません。
[SEE[ [[滿洲の標準時]] ]]


[298] 
この時系列より、
[[京釜鉄道]]の全線開通 (と軍用鉄道の北鮮、滿洲延伸) により単一の[[鉄道時]]が必要となり、
[[中央標準時]]が選ばれ、各市内の[[日本人]]がこれに追随したことがわかります。
[[中央標準時]]が選ばれたのは、
明確な[[大韓帝国]]の標準時が存在しなかったことや、
[[京釜鉄道]]が[[日本人]]により経営されていたことが理由でしょうか。
[[日本政府]]や[[日本軍]]の意向も反映されていたかもしれません。
全通後間もなく実現することになる[[日本]]の[[鉄道]]との連絡運行を見据えていた可能性もあります。


[329] しかし鉄道、郵便電信局、京城公使館、釜山領事館、日本軍の切替のタイミングが少しずつずれており、
[[日本政府]]・[[日本軍]]により、あるいは在京城日本公使館により戦略的に[[中央標準時]]に統一したのではなく、
[[鉄道時]]の変更がなし崩し的に波及していった可能性を検証する必要があります。
ただし鐘楼の建設や鐘の調達は数日でできることとは思えません。
以前から計画されていたのでしょうか。
それとも別目的で用意されていたのを転用したのでしょうか。


[297] 
米国資料は[TIME[12月1日][1904-12-01]]を切り替えの日としていますが、
実際には[TIME[11月][1904-11]]から[[鉄道時]]や[[日本公使館]]は切り替えていました。
[[鉄道時]]が[[郵便電信局]]の[[報時]]に依存していたとするなら、
[[郵便電信局]]と[[鉄道]]の切り替えは同時だったと考えるのが自然です。
[TIME[12月1日][1904-12-01]]の[[京釜鐡道]]ダイヤ改正と混同された可能性や、
[[鐡道時]]改正からやや遅れて市民が時刻を切り替えた可能性、
元々は「[TIME[12月][1904-12-01]]頃」の意だった可能性などが考えられるでしょうか。
あるいは[[郵便電信局]]のシステムと[[鉄道]]のシステムが共に[[中央標準時]]を受け取っており、
別個に京城時に修正していたとするなら、
両者の切り替えが別タイミングでもおかしくはないでしょうか。


[HISTORY[
[299] 
[[朝鮮民主主義人民共和国]]政府の[[朝鮮社会科学院]]歴史研究所長の[[黄明哲]]は、
[TIME[2017年][year:2017]]の[[論文]]で、
[TIME[1906年][year:1906]]の[[韓国統監府]]における [TZ[+09:00]] の採用を[[大日本帝国]]の
「朝鮮の標準時を改変するための第一歩」であると主張しました [SRC[>>360]]。
しかし[TIME[1906年][year:1906]]の決定は新設された[[韓国統監府]]による現状追認でしかありませんでした。
黄がなぜ[TIME[1904年][year:1904]]の出来事に言及しなかったのかは不明ですが
(まさか知らなかったということはありますまい)、
[[大日本帝国]]にそのような意図があったとするなら、
それは[TIME[1904年][year:1904]]に[[中央標準時]]が採用された時だったとする方が自然です。
([[日露戦争]]と絡めればより説得力も増しましょう。)

[300] 
しかしながら、実際には[[大日本帝国]]は[[朝鮮半島]] (や[[滿洲]]や[[臺灣]])
における[[時刻]]に関して明確な戦略を有していたというよりは無計画に成り行きに任せていたと理解せざるを得ません。
もし本当に「朝鮮の標準時を改変」しようとしていたなら、
「第一歩」などと悠長なことはせず、
[[朝鮮政府]]に[[中央標準時]]採用を要求していたはずです。
遡れば[TIME[1895年][year:1895]]に既にその機会はありましたし (>>275)、
[TIME[1912年][year:1912]]までそうした要求ができなかった事情は見当たりません。
]HISTORY]

[HISTORY[
[268] [[Time Changes]] の [[CHINA, PEOPLE'S REPUBLIC OF]] は、
[TIME[1904年12月1日][1904-12-01]]から
[[Chosen]] (今の [[Korea]]) と [[Manchuria]]
が[[標準時]] [TZ[+09:00]] としていました [SRC[>>1256]]。
[SEE[ [[滿洲の標準時]] ]]

[257] [[Time Changes]] の [[KOREA]] は、
[TIME[1904年12月1日][1904-12-01]]から[[標準時]] [TZ[+09:00]]、
それ以前は[[標準時]] [TZ[+08:30]] としていました [SRC[>>1256]]。
この[TIME[12月1日][1904-12-01]]という[[日付]]の根拠は不明ですが、
関係があるのかどうか、[[千島列島]]でも現れます ([SEE[ [[北日本の日時]] ]])。

[227] [[Shanks]] (2003) の KOREA, NORTH と KOREA, SOUTH は、
[TIME[1904年12月1日0時0分][1904-12-01T00:00]]から [TZ[+09:00]]
としていました。 [SRC[>>226]]

[223] [[Wikipedia]] 記事は、
[TIME[1904年][year:1904]]に[[支那]]海岸部、
[[朝鮮]]、[[満州]]で[[グリニッジ子午線]]基準の[[標準時]]が採用された [SRC[>>420]]
としていますが、出典要検証とされています。

[301] これらの根拠は不明ですが、
米国資料と同じ情報源とみられます。
しかし支那や滿洲、果ては千島にまで対象範囲が拡大された理由は不明です。
]HISTORY]

[HISTORY[
[98] 
鉄道開業当初の[[時刻]]については、
開通以来[[中央標準時]]だったなど不正確に言及される場合があるようです。
近い時代の資料では、
[[京釜鉄道]]開通当初から[[中央標準時]] [SRC[>>1097]]、
[TIME[明治37年12月][1904-12]]の[[京釜鉄道]]一部開通以来[[中央標準時]] [SRC[>>95]]、
[[朝鮮鉄道]]は[TIME[明治37年][year:1904]]以来[[中央標準時]]を使っていた [SRC[>>113]] 
などと表現されています。これらはいずれも実は正確な説明ですが、
一部開業と全線開通の違いや[[京釜鉄道]]による[[京仁鉄道]]買収など、
鉄道開業当初の複雑な経緯を理解していなければ誤解が生じる危険性があります。
]HISTORY]



















;; [643] 
[TIME[1905年4月1日][1905-04-01]]、
[[韓国通信機関委託ニ関スル取極書]]により、
[[大韓帝国]]は[[郵便]]、[[電信]]、[[電話]]事業を[[日本政府]]に委託しました。
[TIME[7月1日][1905-07-01]]までに移管が完了しました。

[199] 
[[朝鮮半島]]における[[日本政府]]の[[郵便局]]の[[消印]]では、
[[日本の元号]]である[[明治]]が使われました。
ただし[[欧文]]の[[国際郵便]]では、[[西暦]]が使われました。 [SRC[>>198]]


;; [123] 
[TIME[1905-04-28]]、
[[日本]]の軍用鉄道[[京義線]][[龍山]] - [[新義州]]間が開業しました。


[252] 
[TIME[1905-07-13]]、
[[大日本帝国台湾]]で
[CITE[台湾標準時を韓国に採用せよ]]
と題した論文が出版されました。 
本論文は、[[大韓帝国]]の統治に[[大日本帝国]]が関与することになったことから、
[[朝鮮半島]]に[[台湾]]と同じ[[西部標準時]] [TZ[+08:00]]
を採用するべきと主張したものでした。
[SRC[>>346]]

[347] 
[[台湾]]が[[日本]]の統治下に入ってから[[標準時]]を一定させ、
しかも[[内地]]と1時間の[[時差]]としたことから換算も便利になったように、
[[大韓帝国]]も交通、運輸、軍事上便利になるため、
すぐにでも[[標準時]]が実施されるべきだとされました。
[SRC[>>346]]

[348] 
[[西部標準時]] [TZ[+08:00]] の[LON[東経120°子午線][120]]は[[朝鮮半島]]の西部を通り、
西岸の[[地方時]]に近いこと、
東岸は30分近い[[時差]]があるとはいえ、
[[北海道]]の実績から問題ないと思われることが指摘されました。
[SRC[>>346]]


[349] 
[[台湾]]在住だったと思われる著者が、[[朝鮮半島]]の事情にどれだけ通じていたのかは不明です。


;; [625] 
[TIME[1905-10-18]]、
[[朝鮮半島]]における[[日本軍]]の[[軍政]]は終了しました。


;; [626] 
[TIME[1905-11-25]]、
[[ポーツマス条約]]が[[発効]]し、
[[日露戦争]]は終了しました。

;; [274] [TIME[明治38(1905)年11月][1905-11]]、
[[大韓帝国]]は[[大日本帝国]]の[[保護領]]となりました。

;; [628] 
[TIME[1905-12-15]]、
[[安東]] [WEAK[([[新義州]]の対岸[[滿洲]]側)]]・[[奉天]]間の[[安東軽便鉄道]]が開通しました。

;; [211] 
[TIME[1905-12-21]]、
[[日本政府]]は[[韓国統監府]]を設置しました。

[48] 
[[日本政府]]の[[韓国統監府]]は、
[TIME[明治39年5月26日][1906-05-26]][[統監府令]]第13號により、
[[韓国統監府]]と所属官署の[[時刻]]を[[中央標準時]]と定めました [SRC[>>47, >>1097]]。


[204] 
[[鉄道]]や[[京城]]の[[日本公使館]]は
[TIME[1904年][year:1904]]末に既に[[中央標準時]] [TZ[+09:00]] 
を採用しており (>>633, >>210)、
[[朝鮮半島]]の[[日本人]]はこれに従っていました。
[TIME[1906年][year:1906]]の[[日本]]の[[学術雑誌]]の記事は、
[[韓國]]では既に[[京釜鉄道]]開通の頃から汽車発着その他普通の生活で[[中央標準時]]を採用してきた[SRC[>>1097]] としていました。
[[韓国統監府]]もおそらく設置当初からこれに倣っていたと思われ、
統監府令はそれを明文化したに過ぎないとみられます。
明文規定がないことで問題が生じたのか、単純に制度整備の一環だったのかは不明です。

[96] [[統監府令]]は[[施行]]の日を明記していませんでした。
制定は[TIME[5月26日][1906-05-26]]付ですが、
[[日本政府]]の[[官報]]への掲載は
[TIME[6月2日][1906-06-02]]でした。
[TIME[1912年][year:1912]]の学術雑誌の記事は[TIME[明治39年6月][1906-06]]からとしていました [SRC[>>95]]。
[[朝鮮総督府]]の[CITE[施政二十五年史]] ([TIME[1935][year:1935]]) [SRC[>>357]] や
[CITE[京城府史]] ([TIME[1936][year:1936]]) [SRC[>>217]] は、
[TIME[明治39年6月2日][1906-06-02]]以来としていました。
[TIME[明治三十九年一月十九日][1906-01-19]]統監府令第四號[CITE[統監府令公文式]]は、
[[統監府令]]は各官庁に到達した翌日から起算し満7日を経て[[施行]]と定めていました
[SRC[>>306]]。
[TIME[明治39年6月2日][1906-06-02]]は[TIME[5月26日][1906-05-26]]の
7日後に当たります。





[91] 
[TIME[1906年][year:1906]]の[[日本]]の学術雑誌は、
[[韓國]]はほとんどが[[地理的][地理的時間帯]]に[[中央標準時]]を用いることが当然可能だと評していました。
[[関東州]]と[[満鉄]]は[[中央標準時]]を用いている ([SEE[ [[滿洲の標準時]] ]]) 
が[[地理的][地理的時間帯]]に[[西部標準時]]を用いるべきだと指摘しつつ、
[[韓國]]は統一上、西部も含め全域で[[中央標準時]]でよいとしていました。
[SRC[>>1097, >>93]]

;; [90] [TIME[明治39年7月1日][1906-07-01]]、
[[日本人]]の民間企業だった[[京釜鉄道]]は[[日本政府]]に買収され、
[[日本政府]]の[[韓国統監府]]の[[鉄道管理局]]管轄となりました。

;; [256] [TIME[明治39年9月1日][1906-09-01]]、
[[朝鮮半島]]の[[日本]]の[[軍用鉄道]]が[[日本政府]]の[[韓国統監府]]の[[鉄道管理局]]に移管されました。


;; [312] [TIME[1907年5月][1907-05]]、[[南満州]]の[[標準時]]が [TZ[+09:00]]
から [TZ[+08:00]] に變更され、隣接する[[朝鮮半島]]と[[時差]]が生じました。
[SEE[ [[滿洲の標準時]] ]]

;; [124] 
[TIME[光武十一年八月二日][1907-08-02]]、
[[純宗]]が[[大韓帝国]]の[[皇帝]]に[[即位]]しました。

[121] 
[TIME[光武十一年八月二日][1907-08-02]]、
[[大韓帝国]]は[[隆熙]]に[[改元]]しました。 [SRC[>>117]]
[[改元]]の[[日]]は明記されていませんが、
その後の出版分も含め[[官報]]では[TIME[2日][1907-08-02]]まで[[光武]]、
[TIME[3日][1907-08-03]]から[[隆熙]]で明確に分かれていました。

[HISTORY[
[131] [[中文]]版 [[Wikipedia]] は
[TIME[8月2日][1907-08-02]]から[[隆熙]]としています [SRC[>>128]]。
(ただし[[光武]]最終日ともしています [SRC[>>132]]。)
[[日本語]]版と[[韓国語]]版では不明瞭です [SRC[>>127, >>130]]。

[152] [[韓国語]]版 [[Wikipedia]] は[[光武]]最終日を
[TIME[8月11日][1907-08-11]]としています。 [SRC[>>150]]
]HISTORY]


[114] 
[[大韓帝国]]の[[官報]]は、
この頃でも[[十二支時刻法]]を使った記事を掲載していました [SRC[>>115]]。
「陰暦[VAR[月日]]」のような形で[[旧暦][朝鮮半島の旧暦]]に言及する記事も少なくありませんでした。

[461] 
[[大韓帝国]]の[[官報]] [SRC[>>111]] は、
[TIME[1908年1月][1908-01]]以来国内各地の気象観測結果を毎日掲載していました。
その[[時刻]]がどのようなものかは不明です。


[234] 
[TIME[明治42年][year:1909]]に[[日本]]で発行された学術雑誌の記事は、
[[大韓帝国]]の[[時刻]]のことを[[京城標準時]]と呼んでいました。 [SRC[>>229]]

-*-*-

[100] 
[TIME[1904年][year:1904]]末の[[鐡道]]と[[日本政府]]機関の[[中央標準時]]採用により、
[[朝鮮半島]]の[[時刻]]は[[京城慣用時]] [TZ[+08:28]] ないし [TZ[+08:30]]
と[[中央標準時]] [TZ[+09:00]] の (少なくても) 2つとなりました。
[TIME[1908年][year:1908]]時点の[[韓国統監府]]の見解では、
[[韓国人]]と[[外国人]]は[[京城慣用時]]を、
[[日本人]]は[[中央標準時]]を使っており、
不便が生じていました (>>45)。

[321] 
不便が生じていたということからわかる通り、
[[朝鮮人]]、[[日本人]]、[[欧米人]]はそれぞれ独立に生活していたわけではありませんから、
この2種類の時刻も完全に人種で分かれていたとはいえません。
例えば[[朝鮮人]]や[[欧米人]]であっても鉄道に乗り遅れないためには[[中央標準時]]を把握しておかなければなりませんでした。

[325] 
[[朝鮮半島]]には[[朝鮮政府]]の[[郵便局]]と[[日本政府]]の[[郵便局]]がありました。
[[朝鮮政府]]の[[郵便局]]は歴史が浅く運用が政情にも左右されていました。
この時代の状況は不明ですが、かつては[[欧米人]]も[[日本政府]]の[[郵便局]]を利用していました
(>>314)。米国資料が[[日本政府]]の[[郵便局]]の状況を掲載していた (>>635) のも、
情報源であろう現地米国人の関心の範囲内にあったためと推察されます。
従って[[欧米人]]が[[郵便局]]を利用するに当たっても[[中央標準時]]に触れていたと予想できます。

[322] 
[TIME[1906年][year:1906]]頃の米国資料では、
[[Korea]] の[[標準時]]は [TZ[+09:00]] 
とされていました [SRC[>>725]]。
[[鉄道時]]等の変更経緯を把握 (>>608)
した上でそう記述していたということは、
少なくても米国本国では、
現地米国人がこれを使っていたと認識していたのでしょう。

[323] 
[[釜山]]では各国領事館が[[中央標準時]]を採用したとの報もあり (>>1098)、
これが[[日本人]]からの報告であることを差し引いても、
少なくても[TIME[1905年][year:1905]]初め頃の[[釜山]]では[[欧米人]]が[[中央標準時]]を使うことがあったと思われます。
この頃の[[釜山]]は[[日本]]国内と見紛うくらいに[[日本人]]が居住しており、
[[日本人]]にとっては本国との連絡のためにも[[中央標準時]]が便利だったでしょうから、
そうした環境の[[欧米人]]にとっても[[中央標準時]]が便利だったことは想像に難くありません。


[REFS[
- [318] 
[CITE[釜鉄延長]],
[CITE[皇城新聞]] [TIME[光武八年十一月二日][1904-11-02]] 二面
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00093762186> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00093762186>
- [202] [CITE[帝國新聞]]
-- [437] ([TIME[2018-01-26 17:27:54 +09:00]]) <http://webviewer.nl.go.kr/imageviewer_web/imageviewer.jsp?control_no=CNTS-00069062012&media_code=%E5%B8%9D%E5%9C%8B%E6%96%B0%E8%81%9E&sYear=19041118&eYear=19041118>
-- [438] ([TIME[2018-01-26 17:31:00 +09:00]]) <http://webviewer.nl.go.kr/imageviewer_web/imageviewer.jsp?control_no=CNTS-00069062068&media_code=%E5%B8%9D%E5%9C%8B%E6%96%B0%E8%81%9E&sYear=19041119&eYear=19041119>
-- [439] ([TIME[2018-01-26 17:31:26 +09:00]]) <http://webviewer.nl.go.kr/imageviewer_web/imageviewer.jsp?control_no=CNTS-00069062100&media_code=%E5%B8%9D%E5%9C%8B%E6%96%B0%E8%81%9E&sYear=19041121&eYear=19041121>
- [305] [CITE[釜鉄貫通]] 
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00093762838> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00093762838>
- [302] [CITE[從來鐵道用時刻은 韓國標準時를 用더니]] 
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00093763005> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00093763005>
- [724] [CITE[THE CHRONOMETER AND TIME SERVICE OF THE UNITED STATES NAVAL OBSERVATORY AND THE PRESENT STATUS OF STANDARD TIME]]
- [725] [[Appendix IV of the Publications of the United States Naval Observatory]]
- [726] [CITE[Mathematical Geography]]
- [97] [CITE[釜山諸官衙に於ける日本中央標準時の採用]],
[CITE[地学雑誌]] Vol. 17 ([TIME[1905][year:1905]]) No. 3 P 211a, [TIME[1905-03-15]]
([TIME[2016-05-02 19:36:44 +09:00]]) <https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/17/3/17_3_211a/_article/-char/ja/>
-- <https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/17/3/17_3_211a/_pdf/-char/ja>
- [58] [CITE[韓國観象臺及大韓光武十一 年明時暦]] ([TIME[2016-02-12 23:21:03 +09:00]] 版) <https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/19/10/19_10_745/_pdf>
-- [CITE[[[大韓光武十一年歳次丁未明時暦]]]]
- [79] [CITE[韓国誌]],
[[農商務省山林局]],
[TIME[1905年][year:1905]]
-- [80] <https://books.google.co.jp/books?id=RvUQvgo9uZwC&pg=PP344>
三三二ページ
-- [81] <https://books.google.co.jp/books?id=RvUQvgo9uZwC&pg=PP357>
三四五ページ
-- [33] <https://books.google.co.jp/books?id=RvUQvgo9uZwC&pg=PP358>
三四六ページ
-- [9] 
<https://books.google.co.jp/books?id=RvUQvgo9uZwC&pg=PP559>
五四七ページ
-- [184] <https://books.google.co.jp/books?id=RvUQvgo9uZwC&pg=PP579>
五六七ページ
-- [12] 
<https://books.google.co.jp/books?id=RvUQvgo9uZwC&pg=PP591>
五七九ページ
- [306] [CITE@ja[統監府令公文式 (明治三十九年統監府令第四号) - Wikisource]] ([TIME[2019-02-06 10:12:44 +09:00]]) <https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%B5%B1%E7%9B%A3%E5%BA%9C%E4%BB%A4%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BC%8F_(%E6%98%8E%E6%B2%BB%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B9%9D%E5%B9%B4%E7%B5%B1%E7%9B%A3%E5%BA%9C%E4%BB%A4%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8F%B7)>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[47] 官報 第六千八百七十六號 明治三十九年六月二日 土曜日 - 府令 [SRC[>>46]]
]FIGCAPTION]

> 
[BOX(vertical)[
統監府令第十三號

統監府及所屬官署ニ於テ用ユル時間ハ帝國標準時ニ依ル

[BOX(indent set)[
[BOX(left)[
明治三十九年五月二十六日
]BOX]

[BOX(right)[
統監 侯爵伊藤博文
]BOX]
]BOX]

]BOX]

]FIG]

- [111] [CITE[官報. 開國503年6月21日-隆熙4年6月30日]] ([[內閣法制局官報課 編]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000032917> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000032917>
-- [154] vol : 1, 323ページ, [TIME[開國五百[ASIS[四][欠字]]年十一月十五日][1985-12-30]]
-- [138] vol : 5, 115 ページ, [TIME[建陽二年八月十三日][1897-08-13]]
-- [139] vol : 5, 117 ページ, [TIME[開國五百六年八月十四日][1897-08-14]]
-- [140] vol : 5, 119 ページ, [TIME[建陽二年八月十四日][1897-08-14]]
-- [141] vol : 5, 121 ページ, [TIME[開國五百六年八月十五日][1897-08-15]]
-- [142] vol : 5, 123 ページ, [TIME[光武元年八月十六日][1897-08-16]]
-- [143] vol : 5, 125 ページ, [TIME[光武元年八月十七日][1897-08-17]]
-- [117] vol : 25、169 ページ, [TIME[光武十一年八月二日][1907-08-02]]
-- [115] vol : 25、174 ページ, [TIME[隆熙元年八月三日][1907-08-03]]
- [122] [CITE@ja[年號ヲ隆熙ト改ムルノ件 - Wikisource]] ([TIME[2019-01-26 17:35:15 +09:00]]) <https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%B9%B4%E8%99%9F%E3%83%B2%E9%9A%86%E7%86%99%E3%83%88%E6%94%B9%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%8E%E4%BB%B6>
- [92] [CITE[地学雑誌]] Vol. 18 (1906) No. 6
-- [1097] [CITE[韓國標準時]],
[CITE[地学雑誌]] Vol. 18 (1906) No. 6 P 424e-425
([TIME[2016-05-02 16:51:18 +09:00]]) <https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/18/6/18_6_424e/_article/-char/ja/>
-- [93] [CITE[關東州の標準時]],
[CITE[地学雑誌]] Vol. 18 (1906) No. 6 P 425b
([TIME[2016-05-02 16:44:58 +09:00]]) <https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/18/6/18_6_425b/_article/-char/ja/>
- [46] [CITE@ja[国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1906年06月02日]] ([TIME[2015-11-21 16:53:17 +09:00]] 版) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2950217/2>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[229] 
[CITE[六月十八日の日食]],
田代,
[CITE[天文月報]] Vol. 2, No. 3, [TIME[明治四十二年六月一日][1909-06-01]], pp. 34-35
([TIME[2006-12-19 17:01:12 +09:00]])
<http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1909/pdf/190906.pdf#page=10>
]FIGCAPTION]

>
[BOX(vertical)[
(表中臺灣時刻は西部標準
時にして、京城時刻は京城標準時)
]BOX]
]FIG]

- [95] [CITE[朝鮮に於ける標準時の復奮]] (地学雑誌 Vol. 24 (1912) No. 1 P 61a-62, [TIME[2016-05-02 19:27:21 +09:00]]) <https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/24/1/24_1_61a/_article/-char/ja/>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[209] [CITE[京城発達史]],
[TIME[明治四十五年六月三十日][1912-06-30]],
[[京城居留民團役所]]
<https://books.google.co.jp/books?id=M6kygJdKi20C&pg=PP169>
]FIGCAPTION]

一三七ページ 明治三十七年

> 
[BOX(vertical)[
十一月三増領事告示に、當館に於て来る二十八日本邦中央標準時(韓國標準時に比すれば三十二分早
し)を用ひ且同日より當館警察署鐘樓に於て半鐘を報ず
]BOX]
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[113] [CITE[朝鮮鉄道史]],
[TIME[大正四年十月三日][1915-10-03]],
[[朝鮮總督府鐵道局]]
([TIME[2016-05-22 18:20:02 +09:00]]) <https://books.google.co.jp/books?id=yg1lQAg_JKoC>
]FIGCAPTION]

三八五ページ
<https://books.google.co.jp/books?id=yg1lQAg_JKoC&pg=PP42>

>
朝鮮鐵道の運轉時刻ハ三十七年以来中央標準時ヲ用キタリシカ四十一年
四月韓國標準時([WEAK[中央標準時ヨリ三十分遅シ]])ニ依ルコトニメラレ四十五年一月舊制ニ復
シタルヲ以テ南滿洲鐵道ノ標準時ニ先ツコト一時間ナリトス


附録 年表 八ページ
<https://books.google.co.jp/books?id=yg1lQAg_JKoC&pg=PP11>

>
明治四十一年 (隆熙二年)
>
四月一日 [SNIP[]]
列車運轉時刻ヲ韓國標準時ニ依ルコトニ改ム


附録 年表 九ページ
<https://books.google.co.jp/books?id=yg1lQAg_JKoC&pg=PP10>

>
明治四十五年
>
一月一日 列車運轉時刻ヲ中央標準時ニ依ルコトニ改ム

]FIG]

- [357] [CITE@ja[国立国会図書館デジタルコレクション - 施政二十五年史]] ([TIME[1935][year:1935]]) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454095/114>


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[216] 
[CITE[京城府史]] 第2巻,
[TIME[昭和十一年三月三十一日][1936-03-31]],
[[京城府]]
]FIGCAPTION]


[217] <https://books.google.co.jp/books?id=IjBo6tTdfS4C&pg=PP390>
二八四ページ

>
[BOX(vertical)[
朝鮮標準時 明治三十九年六月二日以来半島に於ける日本帝國の諸官署のみは日本標準時を
使用し、明治四十一年四月一日以後は半島に於ける日韓兩國官署共帝國中央標準時に封し三十分
の時差を置いて標準時としたが、併合後内地との關係が益密接となり相互の交通亦頻繁を加ふる
に至り、之を統一する必要を認め明治四十五年一月一日より朝鮮の標準時は中央標準時に據るこ 
とゝした。
]BOX]


[315] 
<https://books.google.co.jp/books?id=IjBo6tTdfS4C&pg=PP746>
五九八ページ


[219] <https://books.google.co.jp/books?id=IjBo6tTdfS4C&pg=PP894>
七二六ページ

>
[BOX(vertical)[
日本標準時の採用

十一月二十八日より日本中央標準時([WEAK[韓國標準時に比すれば三十二分早い]])を用ゐ、領
事館警察署鐘樓に於て半鐘を鳴らし之を報じた。

]BOX]

[218] <https://books.google.co.jp/books?id=IjBo6tTdfS4C&pg=PP983>
八〇一ページ

>
[BOX(vertical)[
韓國標準時の採用

従前各官署の執務時間は日本標準時に準じ来つたが、四月一日以来統監府竝に所屬官 
署は悉く韓國標準時によることに改めた。([WEAK[二月十四日付統監府令第五號]])然るに比の後二年を經明治四十五年一月一日より再び中央標準時に復歸した。 
]BOX]


]FIG]

- [1256] [[Time Changes]] (1982)
- [207] [CITE[7.『朝鮮國漢城日本公使館氣候経驗録』ならびに『朝鮮國漢城日本領事館 氣候經驗錄』にみられる気象データの観測地点について]] ([TIME[2014-10-10 15:54:29 +09:00]]) <http://www.let.osaka-u.ac.jp/geography/gaihouzu/newsletter11/pdf/n11_s7.pdf>
- [88] [CITE[[[大日本帝国の海外鉄道]]]]
- [135] [CITE['''['''tz''']''' [PATCH] * asia (Asia/Seoul) correct DST.]] ([TIME[2014-11-01 06:54:20 +09:00]]) <http://mm.icann.org/pipermail/tz/2014-October/021833.html>
- [346] 
[CITE[臺灣標準時を韓國に採󠄃用せよ]],
[[ABC]],
[TIME[1905-07-13]]
-- [345] [CITE@en[#7 - Taiwan kanshū kiji. v.5:no.7-12 1905. - Full View | [[HathiTrust]] Digital Library | HathiTrust Digital Library]], [TIME[2021-03-02T04:15:38.000Z]] <https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=coo.31924106495397&view=1up&seq=69&size=150>
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[251] [CITE[台湾史関係文献目録]] ([TIME[2012-10-04 15:33:15 +09:00]]) <https://www.chukyo-u.ac.jp/research/irss/taiwan/ui/twn-de.htm>
]FIGCAPTION]

> 台湾標準時を韓国に採用せよ ABC[著] 台湾慣習記事 第5巻第7号 台北 台湾慣習研究会 1905/07 p57-59
]FIG]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[253] [CITE[[[臺灣慣習記事]] - Google ブックス]] ([TIME[2017-10-25 23:51:00 +09:00]]) <https://books.google.co.jp/books?id=4S9BAQAAMAAJ>
]FIGCAPTION]

> 君も亦其の實行の方法手段に關して、高見ある所、重ねて紙上に公けにせらる~に至方
墟こ遙を輻ひ L 《編者)〇壺灣標準時を韓國に探用せよ今や時局の發展這共に、韓國に
於ける諸般の政機は、我が政府の管理の下虻綜蹄するに至れるは、人の知る所なク、 ...
>
雜鑰 U 肇魘棵攤畔嚇韡口惦探川乜豪)第苀簷我が磨灘を領有するに際し、其の標準時
の]定を必要ビせし理由ど、灌も異なるこどな範なク、然'IT : I( 'て!_ˉ: . ' ‵尹 00 軘淳摑
` oo 沖 o 曳心 00 らは劇作なる帖を憂把韓國の櫓準時ヒなすべ董ゃ他なし華騰の神 ...
>
鹼 LO 、潺石如< ‵内地の標準降即ち中央標準時に後くる、、こ w 」`正さ〟に一時間
なれば内地に於ける十時は[韓國の九時實なるの、筒盟なる時差を示すを以て]彼我の
交通往來に際し、時計の取扱弘上の簡易なるこ E 、亦多言ずろを要せぎるべし、されば.

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[134] [CITE[한국사데이터베이스]] ([TIME[2017-03-24 18:03:26 +09:00]]) <http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=jh_022_0010_0970>
]FIGCAPTION]

> (97) [鐵道運行 標準時間變更 件]
> 社第乙四八號
> 拜啓從來鐵道用時刻ハ韓國標準時ヲ用ヒ來リ候處來[TIME[十一月二十日][1904-11-20]]ヨリ內地中央標準時 (內地中央標準時ハ仁川ニ於ケル韓國標準時ニ比シ三十二分早シ) ニ依リ列車運轉致候ニ付此段御届申上候也
> [TIME[明治三十七年十一月十八日][1904-11-18]]
> 京釜鐵道株式會社 營業部 仁川出張所長 杉甲一郞
> 日本公使館 御中
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1254] [CITE@en[Railway time - Wikipedia, the free encyclopedia]]
([TIME[2015-10-21 12:49:41 +09:00]] 版)
<https://en.wikipedia.org/wiki/Railway_time#Korea>
]FIGCAPTION]

> In 1904, during the Russo-Japanese War the Chosen Keifu Railway, a privately-run company, introduced Japan Central Standard Time as its railway time instead of Korean traditional time (UTC+08:28).[28] In 1908, Chosen Keifu Railway adopted new Korean standard time (UTC+08:30).

]FIG]

- [112] [CITE@ja[韓国標準時 - Wikipedia]] ([TIME[2014-08-27 17:35:43 +09:00]] 版) <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[32] [CITE@ja[韓国標準時 - Wikipedia]]
([TIME[2015-08-19 11:19:21 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E5%9B%BD%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82>
]FIGCAPTION]

> 大韓帝国時代初期は首都・漢城(現在のソウル)での平均太陽時が標準時とされており[1]、京城時[2]や韓国標準時[3]と呼ばれていた。京城時は、日本の中央標準時よりも32分遅かった[3][4][5]。

-*-*-

> 鉄道においては、日露戦争の起きた1904年より日本の標準時が使われることとなった[6]。1904年11月20日、民間企業の京釜鉄道は運転時刻を京城時から日本の中央標準時へ変更した[3]。1906年5月26日には、明治三十九年統監府令第十三号が出され、統監府及び所属官署において使用する時刻が日本の中央標準時と定められ[7]、1906年7月1日に京釜鉄道が統監府鉄道管理局へと引き継がれた。

-*-*-

> しかし、二つの時刻が併存しているのは、錯誤が起き易く不便であったため、統監府は方針を転換し、韓国側の時刻を採用すべく韓国政府と協議を行い、韓国政府は1908年(隆熙2年)4月1日に官報第3994号(勅令第5号)で韓国標準時を定め、同日に統監府は府令を以って韓国標準時を採用することとなった[2]。この時は、漢城のやや東を通って朝鮮半島を南北に貫く東経127.5度を基準とし、UTC(当時はGMT)との時差は8時間30分であった。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[127] [CITE@ja[隆熙 - Wikipedia]] ([TIME[2019-02-02 23:35:27 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%86%E7%86%99>
]FIGCAPTION]

> 隆熙(りゅうき、융희/륭희、ユンヒ/リュンヒ)は大韓帝国で用いられた元号。1907年8月2日に純宗が即位するとともに改元され、1910年8月29日に日本による韓国併合を迎えるまで用いられた。
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[128] [CITE@zh[隆熙 - 维基百科,自由的百科全书]] ([TIME[2019-01-26 18:36:49 +09:00]]) <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%86%E7%86%99>
]FIGCAPTION]

> 隆熙(1907年8月2日—1910年8月29日)是大韩帝国皇帝纯宗之年號,1907年8月2日改元隆熙。1910年8月29日日韓併合,废除隆熙年号。
]FIG]

- [130] [CITE@ko[융희 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전]] ([TIME[2019-01-23 13:03:42 +09:00]]) <https://ko.wikipedia.org/wiki/%EC%9C%B5%ED%9D%AC>


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[54] [CITE@en[Railway time - Wikipedia, the free encyclopedia]]
([TIME[2015-10-21 12:49:41 +09:00]] 版)
<https://en.wikipedia.org/wiki/Railway_time#Korea>
]FIGCAPTION]

> In 1904, during the Russo-Japanese War the Chosen Keifu Railway, a privately-run company, introduced Japan Central Standard Time as its railway time instead of Korean traditional time (UTC+08:28).[28] In 1908, Chosen Keifu Railway adopted new Korean standard time (UTC+08:30).

]FIG]

- [198] [CITE@ja[日韓通信業務合同 - Wikipedia]] ([TIME[2019-01-25 17:22:56 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9F%93%E9%80%9A%E4%BF%A1%E6%A5%AD%E5%8B%99%E5%90%88%E5%90%8C>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[36] [CITE[台湾農暦と中国、香港、台湾の祝日]]
([TIME[2016-01-07 20:59:16 +09:00]] 版)
<http://www2s.biglobe.ne.jp/~yoss/worldtime/CNemitdlrow.html>
]FIGCAPTION]

> 朝鮮では、日清戦争で、日本のおかげで独立 ( 1895年/明治28年)が転がり込んだ時、東経126.97度基準、日本の中央標準時よりも32.12分遅い
韓国標準時を採用しました。しかし国際基準は、原則 15度 ( 1時間 ) 刻みであり、基準を満たすものではありませんでした。
朝鮮国内の鉄道においては、1904年より日本の標準時を使用しており、複雑な時刻の並存は不便であり、朝鮮統監府は、韓国側の時刻を
改良採用すべく韓国政府と協議、韓国政府は1908年4月1日に、韓国標準時を東経127.5度基準、UTC+8:30としました。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[221] [CITE[中国地図]]
([TIME[2016-04-01 17:06:00 +09:00]])
<http://www2s.biglobe.ne.jp/~yoss/W-map/CHINA.html>
]FIGCAPTION]

> 朝鮮は日清戦争で、日本のおかげで独立 ( 1895年/明治28年)が転がり込んだ時、東経126.97度基準、日本の中央標準時よりも
32.12分遅い韓国標準時を採用しました。 しかし朝鮮国内の鉄道においては、1904年より日本の標準時を使用しており、複雑な
時刻の並存は不便であり、朝鮮統監府は、韓国側の時刻を改良採用すべく韓国政府と協議、韓国政府は1908年4月1日に、韓国標準時を
東経127.5度基準、UTC+8:30としました。

]FIG]

- [61] [CITE[한국표준연력]]
([TIME[2016-02-25 22:29:42 +09:00]] 版)
<http://manse.kisti.re.kr/contents-1.html>
- [187] [CITE@ko[조선민주주의인민공화국 최고인민회의 상임위원회 정령 제599호 - 위키문헌, 우리 모두의 도서관]] ([TIME[2016-04-22 17:45:38 +09:00]]) <https://ko.wikisource.org/wiki/%EC%A1%B0%EC%84%A0%EB%AF%BC%EC%A3%BC%EC%A3%BC%EC%9D%98%EC%9D%B8%EB%AF%BC%EA%B3%B5%ED%99%94%EA%B5%AD_%EC%B5%9C%EA%B3%A0%EC%9D%B8%EB%AF%BC%ED%9A%8C%EC%9D%98_%EC%83%81%EC%9E%84%EC%9C%84%EC%9B%90%ED%9A%8C_%EC%A0%95%EB%A0%B9_%EC%A0%9C599%ED%98%B8>
- [517] [CITE@ko[조선민주주의인민공화국 최고인민회의 상임위원회 정령 제2232호 - 위키문헌, 우리 모두의 도서관]] ([TIME[2018-04-30 09:44:30 +09:00]]) <https://ko.wikisource.org/wiki/%EC%A1%B0%EC%84%A0%EB%AF%BC%EC%A3%BC%EC%A3%BC%EC%9D%98%EC%9D%B8%EB%AF%BC%EA%B3%B5%ED%99%94%EA%B5%AD_%EC%B5%9C%EA%B3%A0%EC%9D%B8%EB%AF%BC%ED%9A%8C%EC%9D%98_%EC%83%81%EC%9E%84%EC%9C%84%EC%9B%90%ED%9A%8C_%EC%A0%95%EB%A0%B9_%EC%A0%9C2232%ED%98%B8>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[189] [CITE[朝鮮半島での「標準時」で学ぶ日韓の歴史│韓国社会・文化│韓国ドラマ・韓流ドラマ 韓国芸能ならワウコリア]]
( ([TIME[2016-06-04 00:07:49 +09:00]]))
<http://www.wowkorea.jp/news/korea/2015/0807/10149937.html>
]FIGCAPTION]

> 1876年、朝鮮政府は長い鎖国の時代を終え、開港を断行した。近代化の道を歩み始めた朝鮮半島(韓半島)は、西洋式の標準時として東経120度か東経135度を選択する必要があった。半島の位置としては、東経127.5度がもっと適しているが、世界の主な国々との時差が1時間単位ではなく、30分単位になる不便が生じる。
>  長い間、中国の影響力を強く受けていた朝鮮に対しては、中国の北京と同じ時間であることが便利だった。結果、東経120度の時間(GMT+8)を標準時として選択した。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[304] [CITE@ja[【海外の反応】 パンドラの憂鬱 海外「日本だってもうこりごりだろ」 北朝鮮 日本標準時から『平壌時間』に変更へ]]
([[ニャン吉]]著, [TIME[2018-01-19 23:59:41 +09:00]])
<http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-1628.html>
]FIGCAPTION]

> 日本との併合前に李氏朝鮮によって太陽暦が採用され、時差はGMT(昔だからね)+9時間が採用された。1時間単位の方が便利なのと、近くの大国日本に合わせたと思われる。つまりGMT+9時間と定めたのは日本ではなく李氏朝鮮。 

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[188] [CITE@ja[北朝鮮が「平壌時間」を復活。70周年を迎えた終戦記念日に | LH MAGAZINE -えるえいち-]]
( ([TIME[2016-05-23 18:01:47 +09:00]]))
<http://life-hacking.net/%E5%8C%97%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%8C%E5%B9%B3%E5%A3%8C%E6%99%82%E9%96%93%E3%82%92%E5%BE%A9%E6%B4%BB/>
]FIGCAPTION]

> 北朝鮮が2015年8月15日から平壌時間を105年ぶりに復活させました。

> 実は1910年の韓国併合まで日本と北朝鮮の時差は30分ありました。
韓国併合において、日本の標準時に統一しました。

]FIG]

- [506] [CITE['''['''tz''']''' North Korea timezone to become GMT+9 from May 5 2018]] ([TIME[2018-05-01 00:59:21 +09:00]]) <https://mm.icann.org/pipermail/tz/2018-April/026432.html>
]REFS]


[492] 
[CITE@ja[朝鮮貨幣1]], [TIME[2023-09-18T15:14:00.000Z]], [TIME[2023-12-30T07:36:02.631Z]] <http://kodaimoji.chowder.jp/moji-list/a2kfol/h2k01.html>

隆煕3年紀年銭





* 大韓国標準時

[254] 
[TIME[隆熙2年4月1日][1908-04-01]]、
[[大韓帝国]]は [TZ[+08:30]]
を[[標準時]]として定めました。
[SRC[>>136, >>357, >>217, >>218]]




[45] 
[TIME[明治四十一年二月一日][1908-02-01]]機密統發㐧一五五號で[[大日本帝国]]の[[韓国統監府]]の副統監の[[曾禰荒助]]は統監の[[伊藤博文]]に対し、
次のように報告し関係機関への通告を依頼しました。 [SRC[>>44]]

- [239] [[大韓帝国]]には2つの[[時刻]]がある。30分違う。
-- [240] [[京城時]]。韓国人と外国人が使っている。
-- [241] [[日本中央標準時]]。日本人が使っている。
- [242] 誤解が生じ不便である。
- [243] 統監府は日本人の時刻を韓国人の慣用する時刻に変更し統一したい。
- [245] 統監府と韓国政府で協議した。
- [246] 韓国政府は勅令で従来慣用の京城時刻すなわち [TZ[+08:30]] [[平時]]を[[大韓標準時]]と定める。
- [247] 統監府は府令で統監府と所属官署の時刻を[[韓國標準時]]とする。
- [248] いずれも[TIME[4月1日][1908-04-01]]実施。

[249] 
[[韓国統監府]]は、
駐韓軍司令部、
観測所、
鉄道管理局、
通信管理局にも時刻変更の同意を取り付けました。 [SRC[>>44]]

[250] 
[TIME[2月5日][1908-02-05]]、
[[伊藤博文]]は[[本国政府][日本政府]]に時刻変更を通知しました。 [SRC[>>44]]



[5] 
[[大韓帝国]]の[TIME[隆熙二年二月七日][1908-02-07]][[勅令]]第五號
[CITE[大韓國標準時에關ᄒᆞᆫ件]]
([TIME[隆熙二年二月十一日][1908-02-11]]発行[[大韓帝国]][[官報]]第[N[三千九百九十四][3994]]号所収)
は、
「従来慣用」の「京城時刻」
すなわち[LON[グリニッジ東経127度30分][127.30E]]の[[平時]]を[DFN[大韓國標準時]]と定め、
[TIME[4月1日][1908-04-01]][[施行]]としました [SRC[>>149]]。
つまり当時[[京城]]で現に用いられていた [TZ[+08:30]] を[[国家標準時]]として法制化しました。

[444] 
[TIME[隆熙二年二月卄二日][1908-02-21]]発行[[大韓帝国]][[官報]]第四千四號の
2ページ [SRC[>>443 217ページ]] 末尾には、
[CITE[正誤]]と題して[[勅令]]における学部大臣名の欠落の訂正が掲載されました。
(目録 [SRC[>>443 143ページ]] では
[TIME[2月19日][1908-02-19]]の官報4001号に収録されているものとして 
[CITE[大韓國標準時件中改正件]] が挙げられていますが、
誤りのようです。)
[[勅令]]本文には変更はありませんでした。


[137] 
[[大日本帝国]]の[[韓国統監府]]の[TIME[明治四十一年二月十四日][1908-02-14]][[統監府令]]第五號は、
[[統監府]]および所属官署の[[時刻]]を[[韓國標準時]]とし、
[TIME[明治41年4月1日][1908-04-01]][[施行]]としました [SRC[>>136, >>94]]。


[255] [TIME[明治41年/1908年4月1日][1908-04-01]]、
[[大韓帝国]]駐在の[[日本軍]]司令部も[[韓國標準時]]に改めました [SRC[>>94]]。

[232] [TIME[明治41年/1908年4月1日][1908-04-01]]、
[[大日本帝国]]の[[韓国統監府]]の[[鉄道管理局]]は、
[[鉄道時]]を[[韓國標準時]]に改めました
[SRC[>>82, >>83, >>113]]。


[261] 
[[朝鮮半島]]各地の[[日本租界]]その他在住の[[日本人]]は、
[[韓国統監府]]方針に従い[[大韓国標準時]] [TZ[+08:30]]
に移行したものと思われます。


[391] 
[[朝鮮半島]]各地の[[日本]]以外の諸国[[租界]]の対応は不明です。



[244] [[tzdata]] の [CODE[Asia/Seoul]] と [CODE[Asia/Pyongyang]] は、
[TIME[1908年4月1日][1908-04-01]]を境に [TZ[+08:30]] としています [SRC[>>116]]。



[49] 
[[朝鮮半島]]の[[日本人]]にとっては、
本国との関係上[[中央標準時]] [TZ[+09:00]]
を使い続けるのが便利だったはずです。
2、30分の[[地方時]]の[[時差]]がある[[九州]]や[[沖縄]]でも[[中央標準時]]が問題なく運用されていたのと同様、
[[朝鮮半島]]でも大きな障害ではなかったはずです。
しかしながら、
[[大韓帝国]]政府や[[朝鮮人]]と同じ土地で[[時差]]を持って生活するのは、
それ以上に大きな問題だったのだと思われます。
[[大韓帝国]]政府と[[韓国統監府]]との関係が密接化し、
会合や文書のやり取りも増えていたはずですから、
[[時差]]によるトラブルも多かったのかもしれません。


[HISTORY[
[366] 
[[朝鮮民主主義人民共和国]]政府の[[朝鮮社会科学院]]歴史研究所長の[[黄明哲]]は、
[TIME[2017年][year:2017]]の[[論文]]で、
[TIME[1906年][year:1906]]の[[韓国統監府]]における [TZ[+09:00]] の採用を[[大日本帝国]]の
「朝鮮の標準時を改変するための第一歩」であるとし、
[TIME[1908年][year:1908]]の[[大韓国標準時]]採用は[[純宗]]による
「崩壊寸前の国権を維持しようと
する試みの一つ」とし、[[日本]]は両国関係の悪化を懸念してこれを呑んだ
[SRC[>>360]] としました。

[367] 
実際には[[大韓国標準時]]の法制化は[[韓国統監府]]が提案したようで、
黄の論理は破綻しています。
仮に[[大日本帝国]]にそのような意図があるなら、
[[韓国統監府]]は [TZ[+09:00]] を[[大韓国標準時]]として制定するよう要求したはずです。
[TZ[+08:30]] の採用は「改変」の失敗を認めることになってしまいます。
しかし[[韓国統監府]]が [TZ[+08:30]] 採用を躊躇した様子はなく、
むしろ推進し積極的に調整していました。

[326] 
[[大日本帝国]]が特定の意図を持って戦略的に[[朝鮮半島]]の[[時刻]]に介入したと考えると、
二転三転し徹底しない[[日本]]の[[時刻]]の選択は不自然すぎて理解不能です。
その場その場の成り行きで局所的に好ましい手法を選択してきた[[朝鮮人]]、[[日本人]]、
[[欧米人]]の各勢力・事業者の思惑と判断の結果に過ぎないと考える方が、
この時代の[[朝鮮半島]]の[[日時]]の混沌を無理なく受け入れることが出来ます。

]HISTORY]




[181] 
[[大韓帝国]]は、
[TIME[1909年][year:1909]]分として
[CITE[大韓隆熙三年曆]]
を発行しました。 [SRC[>>109]]
この[[年]]から題名が[[明時曆]]ではなくなり[[干支紀年]]が省かれるようになりました。
内容も[[太陽暦]]をベースに[[旧暦][大韓帝国の旧暦]]が併記される[[日本]]の[[曆]]に近い形式に改められました。
これ以後[[旧暦][大韓帝国の旧暦]]は[[日本の旧暦]]の[[日付]]と一致するようになりました。



;; [386] [TIME[1909年][year:1909]]、
[[ロシア帝国]]は[[大日本帝国]]に[[馬山露国租界]]を売却しました。


;; [258] 
[TIME[明治42年6月18日][1909-06-18]]、
[[日本政府]]の[[韓国統監府]]の[[鉄道管理局]]は廃止され、
[[鉄道庁]]が設置されました。

[259] 
[TIME[明治42年12月16日][1909-12-16]]、
[[韓国統監府]]鉄道は[[日本政府]] (本国) の[[鉄道院]]に移管されました。
[[韓国鉄道管理局]]が設置されました。
[[鉄道院]]は、
[TIME[明治42年12月17日][1909-12-17]][[鉄道院]][[告示]]第八十九號で、
[[韓国鉄道]]の[[時刻][鉄道時]]を[[韓國標準時]]と定めました [SRC[>>99]]。
既に[[韓国鉄道]]は[[韓国標準時]] [TZ[+08:30]] を採用していましたから、
これは[[鉄道院]]の制度としてそれを追認するものでした。




[HISTORY[
[120] [[tzdata]] の注釈は、[TIME[2014年][year:2014]]当時の [[Wikipedia]] 記事に
[TIME[1910年4月][1910-04]]に [TZ[+09:00]] に変更されたとあるが、
他の記述と矛盾し不審である [SRC[>>116, >>135, >>133]] と述べています。
他にも[TIME[1910年][year:1910]]に変更されたとする記事がありますが [SRC[>>188, >>215]]、
根拠は示されていません。
[[日韓併合]]の年に基づく推測でしょうか。
]HISTORY]


[REFS[


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[220] [CITE[Nikkan gaikō shiryō shūsei - Google ブックス]]
([TIME[2019-02-12 19:14:28 +09:00]])
<https://books.google.co.jp/books?id=0qNGAAAAMAAJ&q=%E4%BA%AC%E5%9F%8E%E6%85%A3%E7%94%A8%E6%99%82>
]FIGCAPTION]

>
曾禰副統監織道等二直接ノ關係ァルヲ以テ直チ二實行スル能ハス初メ周知セシムル爲
メ一定ノ期限ヲ定メ置クノ必要ホスへシ李首相韓人ハ餘リ時ヲ顧ミサルヲ以テ利害關係
ハ少キモ日本人-一ハ大二利益ァルへシ且ッ锥道等一一ハ直接二關係ヲ及如キ惡口モ止ムへシ曾騸副
統監本勅令發布セラルレハ日本人ノ正午モ韓人ノ正午モ同一トナリ彼ノ日本人カ午-一ァラサル時ヲ午ト云フカ李首相其
レハ實一一然リ曾禰副統監從來京城慣用時カ日本時ト三十分ナル簡明ノ差ァリタル事
ハ檫準時ヲ一定スル爲メ二ハ好都合ナリ李首相標準時ノ件ハ畢部ノ主管ナルカ故二
照會ヲ受領セハ其ノ勅令案-一依リ奏請 ...

]FIG]

- [44] [CITE[24.韓国標準時ニ関シ伊藤統監ヨリ通報ノ件 明治四十一年二月]] ([[アジア歴史資料センター | Japan Center for Asian Historical Records]]著, [TIME[2019-02-07 18:09:13 +09:00]]) <https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_B12082128000>
-- 旧: [CITE[国立公文書館 アジア歴史資料センター 標題:24.韓国標準時ニ関シ伊藤統監ヨリ通報ノ件 明治四十一年二月]] (明治41年2月1日付け、[TIME[2015-10-20 11:15:25 +09:00]] 版) <http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_B12082128000>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[212] [CITE[한국사데이터베이스]] ([TIME[2017-03-24 17:59:02 +09:00]]) <http://db.history.go.kr/item/level.do?levelId=mk_008_0060_0790>
]FIGCAPTION]

>
,원문서명	,通牒  
,발신자	,學部秘書課長 金思重  
,발신일	,隆熙二年二月四日 ( 1908년 02월 04일 )  
,수신자	,內閣法制課長 洪運杓 座下  
>通牒
>大韓國標準時定行에 關 請議書 送交오니 照亮오셔 會議에 提出케 심을 爲要.
>學部秘書課長 金思重
>內閣法制課長 洪運杓 座下
>隆熙二年二月四日
>學秘機密發 第三七號

]FIG]

- [307] 
[CITE[時間標準]],
[CITE[皇城新聞]] [TIME[大韓隆熙二年二月九日][1908-02-09]] 二面
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00093818878> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00093818878>
- [149] [TIME[隆熙2年2月11日][1908-02-11]]発行[[大韓帝国]][[官報]]第3994号
-- [459] <http://viewer.nl.go.kr:8080/viewer/view_image.jsp?cno=CNTS-00049819922&vol=0&page=180>
[[リンク切れ]] [TIME[2018-01-27T05:52:02.300Z]]
-- [460] [CITE@ko[자료검색_디지털화 자료 | 국립중앙도서관]] ([TIME[2018-01-27 14:51:39 +09:00]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/search_wonmun.jsp?kwd=%E5%A4%A7%E9%9F%93%E5%9C%8B%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82%E4%BB%B6>
--- [235] [CITE[大韓國標準時件]] 
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00048611137> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00048611137>
- [443] [CITE@ko[자료검색_디지털화 자료 | 국립중앙도서관]] ([TIME[2018-01-26 19:13:13 +09:00]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/search_wonmun.jsp?kwd=%E5%A4%A7%E9%9F%93%E5%9C%8B%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82%E4%BB%B6%E4%B8%AD%E6%94%B9%E6%AD%A3%E4%BB%B6>
-- [236] [CITE[大韓國標準時件中改正件]] 
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00048272916> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00048272916>


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[136] [CITE@ja[国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1908年02月19日]] ([[大蔵省印刷局]]著, [TIME['''['''1964''']'''-][year:1964]]) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2950738/1>
]FIGCAPTION]

>
[BOX(vertical)[
統監府令第五號

統監府及所屬官署ニ於テ用井ル時ハ韓國標準時ニ依ル

[BOX(center)[
附則
]BOX]

本令ハ明治四十一年四月一日ヨリ之ヲ施行ス

[BOX(set)[
[BOX(left)[
[BOX(indent)[
明治四十一年二月十四日
]BOX]
]BOX]

[BOX(right)[
統監代理

[BOX(indent)[
副統監 子爵 曾禰荒助
]BOX]

]BOX]
]BOX]

]BOX]

]FIG]

[FIG(quote)[ 
[FIGCAPTION[
[593] [CITE[한국사데이터베이스]] ([TIME[2018-09-29 23:39:20 +09:00]]) <http://db.history.go.kr/id/mh_004_0100_0010_0010_0050>
]FIGCAPTION]

>
[PRE[
公報
  明治 41년 2월 15일
【統監府告示 第五號】
統監府 及 所屬官署에서 使用하는 時는 韓國標準時에 依함
附 則
本令은 明治四十一年四月一日부터 施行함
 明治四十一年二月十四日
統監代理 副統監 子爵 曾禰荒助
]PRE]
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[15] 
[CITE[讀賣新聞]] [TIME[明治四十一年三月廿八日][1908-03-28]],
朝刊 二面
]FIGCAPTION]

>
[BOX(vertical)[
[BOX(indent)[
●韓國時間採用
]BOX]

[BOX(right)[
(日本時間より三十分遅る)
]BOX]

[RUBY[帝國鉄道廳][ていこくてつだうちやう]]にては[RUBY[來][きたる]]四月一日より[RUBY[韓國][かんこく]][RUBY[京釜][けいふ]]
[RUBY[京義][けいぎ]][RUBY[全線][ぜん〱]][RUBY[發着][はつちやく]][RUBY[時刻][じこく]][RUBY[改正][かいせい]]と[RUBY[共][とも]]に[RUBY[同][どう]][RUBY[發着][はつちやく]][RUBY[時間][じかん]]は
[RUBY[韓國標準時][かんこくへうじゆんじ]]を[RUBY[用][もち]]ふる[RUBY[事][こと]]となりたりされば[RUBY[今][こん]]
[RUBY[後][ご]][RUBY[韓國][こく]]に[RUBY[於][お]]ける[RUBY[鉄道][てつだう]][RUBY[時刻][じこく]]は[RUBY[總][すべ]]て三十[RUBY[分][ぷん]][RUBY[宛][づヽ]][RUBY[遅][おく]]
る〻[RUBY[事][こと]]となるべし

]BOX]

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[222] [CITE[Gaikô-jihô - Google ブックス]]
([TIME[2019-02-12 19:21:50 +09:00]])
<https://books.google.co.jp/books?id=F9svAQAAMAAJ&q=%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82>
]FIGCAPTION]

> 151 ページ
> 〇韓國の標準時
> 韓國政府は今回標準時の制度を定憐束經百廿七度牛の子午線の時を以て至國]般の
> 王となぜ葉是によれば日本の標準時と三十分の差あら即韓國曜報(二七) 韓日博報(一
>  ...
> 152 ページ
> 韓日博報(一一八)ち日本の正午は韓國の午前十一時三十発韓國の正午は日本の午後
> 零時三十好に該営す従來韓國には二様の標準時ぁ』一は韓國側にして韓國標準時を
> とろもの、一は日本側にして日本標準時をとるもの之與同一場所に於て二個の標準時あるは不便離少とせ ... 

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[224] [CITE[Gaikō jihō: Revue diplomatique - Google ブックス]]
([TIME[2019-02-12 19:24:39 +09:00]])
<https://books.google.co.jp/books?id=mhhAAQAAMAAJ&q=%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82>
]FIGCAPTION]

> 151 ページ
> 是にょれば日本の標準時と三十分の差あら即寶博熱・(二七)人)警察髖五十四入(日人)
> 配匱數髏覷廳五人) (各道四十九人)皿睜瓦十二人(內釁日人十三人‵韓人三十九入) 
> ‵事'配櫪數詐覷醜三人(日人】人、韓人二人)各道四、十九人( B 入十二人‵韡人、三 ...
> 152 ページ
> ... 新化全國標準時玄定 U 丕江當軋日本側菴之怔工石三士杠垂、統監府及所在官廳
> 憶其口日豐告一不迂軋軍司命部恣遠加 5 蠻之化傚本在 5 ん。汽車`汽船郵便電信等
> 交遜機關の日本標準時なるを以て韓国側も勢ひ續て之に支配せらるる氣味な優しが茶
>  ...

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[228] [CITE[Gaiko Jiho '''['''International Affairs, Japan''']''' - Google ブックス]]
([TIME[2019-02-12 19:25:38 +09:00]])
<https://books.google.co.jp/books?id=Fec-AQAAIAAJ&q=%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82>
]FIGCAPTION]

> 51 ページ
> 藝韓國の標準時韓國政府は今回標準時の制度を定め、束經百廿七度半の子午線の時
> を以て全國一般のさとなせり。是によれば日本の標绺時と三十分の差あ 6、即铋國時報
> (二七)警部,、査楚搭配& 61 人ず人十各道百三配&數干三十二人)配^ 6;配&數十七 ...
> 52 ページ
> 從來、韓國には二樣の標準時あり、一は韓國側にして韓國標^ -時をとるもの, 1 は日本
> 側にして日本標準時をとるもの之也。同一場所に於て二個の標準時あるは不便鈔少
> とせず。韓國政府の新に全國標準時を定むるに當り、日本側も之によるととなケ統監府
> 及 ...

]FIG]

-[310] [CITE[일본 영 츄월좌도부씨가]] 
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00098988865> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00098988865>
- [308] 
[CITE[日時廢止]]
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00093152878> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00093152878>
- [94] [CITE[韓國新標準時]] (地学雑誌 Vol. 20 (1908) No. 3 P 214b-215, [TIME[2016-05-02 19:21:24 +09:00]]) <https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/20/3/20_3_214b/_article/-char/ja/>
- [10] 
[CITE[簡單に恒星時を求める法]],
[[田代庄三郎]],
[CITE[天文月報]], [TIME[明治42年4月1日][1908-04-01]]発行
([TIME[2006-12-19 17:01:10 +09:00]]) <http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1909/pdf/190904.pdf#page=8>
-- [[大韓標準時]] [TZ[+08:30]] に言及があります。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[99] [CITE@ja[国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1909年12月17日]] ([[大蔵省印刷局]]編) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2951297/1>
]FIGCAPTION]

>
[BOX(vertical)[
鐵道院告示第八十九號

韓國鐵道ニ於テ用井ル時ハ韓國標準時ニ依ル

[BOX(set)[
[BOX(indent left)[
明治四十二年十二月十七日
]BOX]

[BOX(right)[
鐵道院總裁 男爵後藤新平
]BOX]
]BOX]

]BOX]

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[82] [CITE@ja[朝鮮総督府鉄道局『朝鮮鉄道史』(1915.10) | 渋沢社史データベース]] ([TIME[2016-03-30 22:51:44 +09:00]] 版) <http://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=12010&query=&class=&d=all&page=4>

[83] [CITE@ja[朝鮮総督府鉄道局『朝鮮鉄道史. 第1巻』(1929.10) | 渋沢社史データベース]] ([TIME[2016-03-30 22:58:15 +09:00]] 版) <http://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=12020&query=&class=&d=all&page=6>

]FIGCAPTION]
>
明治41年(1908) 4月1日 	列車運転時刻ヲ韓国標準時ニ依ルコトニ改ム
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[237] [CITE@ko[조선왕조실록]] ([TIME[2019-02-16 15:35:24 +09:00]]) <http://sillok.history.go.kr/id/kzb_10102007_002>
]FIGCAPTION]

> 勅令第五號, 大韓國標準時所關件。 裁可頒布。 【從來慣用京城時刻, 卽英國 구린위취 觀象台子午儀中心爲基本, 東經百二十七度三十分平時也。 定爲大韓國標準時, 自隆熙二年四月一日施行。】
]FIG]

- [226] [[Shanks]] (2003)
- [420] [CITE@en[Universal Time - Wikipedia]] ([TIME[2017-05-14 10:19:16 +09:00]]) <https://en.wikipedia.org/wiki/Universal_Time#Adoption_in_various_countries>


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[481] [CITE@ja[北朝鮮、従来より30分遅らせた平壌時間の運用を開始 - ウィキニュース]]
([TIME[2018-04-16 12:06:22 +09:00]])
<https://ja.wikinews.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%80%81%E5%BE%93%E6%9D%A5%E3%82%88%E3%82%8A30%E5%88%86%E9%81%85%E3%82%89%E3%81%9B%E3%81%9F%E5%B9%B3%E5%A3%8C%E6%99%82%E9%96%93%E3%81%AE%E9%81%8B%E7%94%A8%E3%82%92%E9%96%8B%E5%A7%8B>
]FIGCAPTION]

> 古くの朝鮮では、東経127.5度(WoW! Koreaでは同127度としている)を基準にした標準時を採用しており、日本と30分の誤差があったが、日韓併合後の1912年に東経135度を基準とする日本標準時 (UTC+9:00) に合わせるようになった。また、韓国も1954年に東経127.5度を基準とした標準時に戻したが、経費の負担が増したことや在韓米軍の作戦への影響から、1961年に再び東経135度を基準とする標準時に戻されており、現在までUTC+9:00が用いられている。

]FIG]

;; [LON[127E]] = [TZ[+08:28]], [LON[127.5E]] = [TZ[+08:30]]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[13] [CITE[朝鮮王公族実録(記)の編修(纂)について]] ([TIME[2019-02-05 21:55:44 +09:00]])
<https://tais.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=515&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1&page_id=13&block_id=69>
<https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:qDAsan_iPgUJ:https://tais.repo.nii.ac.jp/index.php%3Faction%3Dpages_view_main%26active_action%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D515%26item_no%3D1%26attribute_id%3D22%26file_no%3D1%26page_id%3D13%26block_id%3D69>
]FIGCAPTION]

ニ三ページ

>
[BOX(vertical)[
「李太王実録」(六冊。資料二四冊)であるが、その第一の巻首の「第一章 総説 第一節 編修例言」につぎのよ
うに書き記されている。
> [SNIP[]]
>
第五則 紀年ハ干支ヲ以テ一貫シ本邦紀年ノ下ニ其ノ他ノ紀年ヲ注記ス。
>従来朝鮮ニハ一王ノ法徧ク行ハレスシテ公私ノ文書ニ雑多ノ紀年ヲ慣用セリ。太王一代ノ間ニ於テ特ニ多シ。
李氏開国紀年ハ一タヒ之ヲ江華条約ニ始用シ各国締約ノ文書ニハ往々之ヲ用ヒタルモ、国内ニ於テ慣用シタル
ニハ非ス。明治二十七ニ至リ突然開国五百三年ノ紀年ヲ用ヒ建陽建元ニ至リ止ム。其ノ間二個年ニ満タサルナ
リ。近年ニ至リ民籍ニ開国紀年ヲ用ヒタルハ後日ノ遡記ニ係リ徒ラニ紛更ヲ加ヘタルモノナリ。李王職ノ作成
シタル王公族牒籍ハ民籍ノ例ニ同シ。
>清朝ニ朝貢セル時代ニ於テ事大文書並ニ国内ノ告身式ニハ清朝ノ紀年ヲ用ヒタルモ、哲宗王ノ墓表陰記ノ如キ
ハ明朝ノ崇禎紀年ニ依レリ。
>>又即祚紀年ヲ用ヒタルモノハ、即祚ノ翌年ヲ以テ元年ト為スヲ例トセリ。而シテ建陽建元以後ニモ此ノ紀年法
ヲ用ヒタルモノアリハ、従来朝鮮ニハ建元ノ例極メテ少ナキヲ以テ、建元紀年ノ効用ヲ鮮スルモノ少キニ因ル。
干支紀年ハ上世以来彼我ノ同一ナル所ニシテ、拠テ以テ一貫ノ紀年ト為スヲ得ヘシ。干支周甲ノ場合ニ邵雍ノ
元会説ニ依リテ命名セルコト申翊聖ノ皇極経世書補編洪啓禧ノ経世指掌ノ書ノ如キモノアルモ、公行ノ例ナキ
ヲ以テ、他ノ紀年法ヲ参用シ干支ノ上ニ本邦紀年ヲ冠シ、下ニハ王家ノ即祚紀年或ハ開国紀年元号紀年ヲ参用
シテ対照ト為ス。而シテ改元ノ年ニハ初日ニ遡リテ元年ト書シ、即祚紀年ヲ注記スルニハ単ニ即祚某年ト書シ、
前代君主ノ即祚紀年ニハ某王即祚某年ト書シ、開国五百三年以後ハ即祚紀年ノ注記ヲ省略シ、建陽建元以後ハ
開国紀年ヲ省略シタリ。
>外国交際ニ関スル章節ハ或ハ清朝紀年ヲ注シ、或ハ西洋紀年ヲ注ス。彼我ノ対照ニ便スルナリ。
>第六則 暦日ハ時用ノ制ニ従ヒ明治二十九年一月一日ヲ以テ分界トス
朝鮮ハ古来ヨリ固有ノ暦法アラス。太王ノ即祚ノ初年ニ千歳歴ヲ続纂シ、翌年甲子ヲ以テ元年ト為シ、之ヲ国
内ニ行用シ首ニ時憲書ヲ以テ起数ストノ一語ヲ加ヘテ、以テ清朝ノ正朔ヲ奉セサルニアラサルコトヲ示シタル
ハ太陰暦ノ法ナリ。而シテ其正閏ハ必シモ我カ邦ノ太陰暦法ト一致セス。之ヲ行用シテ即祚三十二年[WEAK[○明治 二十八]]年
十一月十六日ニ至ル其ノ翌十七日ヲ以テ建陽元年[WEAK[○開国 五百五年]]一月一日トシ、明時歴ヲ用ヒタリ。其ノ太陽暦ノ法タル
コト、我ト同一ナルモ陰陽歴ヲ併用シテ軽重スル所アラス。本書ハ朝鮮文書ヲ撮録スルニ当リ、其ノ記載ノ暦
日ヲ我ノ暦日ニ改定スルハ頓ニ堪ヘサルヲ以テ、明治二十九年一月一日ヲ以テ分界トシ、其ノ以前ハ彼ノ太陰
暦ニ依リ、以後ハ太陽暦ニ依リ彼我交渉ノ場合ニハ暦日ヲ対照シテ之ヲ註記ス。近時撰述ノ李太王行状及ヒ壙
誌ニ陰暦ヲ用ヰタルモノノ如キハ、時用ノ制ニ反スルモノニシテ王ノ薨年ニ一年ノ差錯ヲ生セリ。

]BOX]

三一ページ
>
[BOX(vertical)[
「李熹公実録」(三冊。資料六冊)であるが、その第一の巻首の「第一章 総説 第一節 例言」につぎのように書
き記されている。

>一 紀年ハ干支ヲ以テ一貫シ他ノ紀年法ヲ参用ス。周甲後モ亦タ同シ。
本書ノ資料ニ用ヰタル文書ニハ干支紀年ノモノアリ。公ノ従官録ノ如キ是ナリ。日本紀年ノモノアリ。我一切
ノ官公文書是ナリ。而シテ併合以前ノ朝鮮ニハ各種ノ紀年法並ヒ行レテ其ノ改廃モ一ナラス。李氏朝鮮ノ開国
紀年ハ明治九年丙子ノ江華条約ニ始用シタルモノナルモ民籍ノ懸録ニハ其ノ以前ノ事実ニ遡リテ之ヲ行用シ建
陽建元以後ニハ之ヲ行用セサルナリ。建陽紀年ハ明治二十八年乙未ニ一世一元ノ制ヲ定メ翌年ヲ以テ建陽元年
ト為シタルニ始マルモ、開国五百六年丁酉八月十二日詔ヲ以テ之ヲ繳消シ光武ト建元シタリ。光武紀年ハ光武
十一年丁未七月十九日李王ノ受禅ニ至リテ止ミ、同年八月三日ヨリ隆熈ノ改元ヲ行用シタリ。而シテ隆熈紀年
ハ其ノ四年庚戌八月二十九日併合ニ至リテ止メリ。此ノ他開国ノ初ヨリ明清ノ年号ヲ行用シタルモノアルモ、
明治二十七年甲午六月二十二日以後ハ清朝ノ年号ヲ用ヰス。又明ノ亡滅後ニ於テ故サラニ崇禎紀年ヲ用ヰタル
モノアリ。哲宗王陵ノ表石陰記ニ崇禎紀元後二百四年辛卯六月十七日誕生ト書セル如キハ其ノ一例ナリ。又在
位国王ノ即祚紀年ヲ用ヰタルモノアリ。即祚ノ翌年ヲ以テ元年ト為スヲ例トス。近代ノ憲宗哲宗ヨリ李太王ニ
至ルマテ皆是ナリ。而シテ建元以後ハ之ヲ用ヰス。今本書紀年ニ参用註記スルニ当リ、其ノ開国紀年ハ遡及シ
テ江華条約ノ先後ヲ論セス。降テ建陽建元ノ前年ニ止メタリ。建陽二年ハ略シテ之ヲ光武元年トシ、光武十一
年ハ略シテ之ヲ隆熈元年トセリ。而シテ李氏朝鮮ノ号タルヤ朝鮮ヲ以テ地域ノ名称ト為シタルニハ非スシテ、
李氏有国ノ国号ト為シタルモノナレハ、其ノ紀年ヲ称スルニ当リテハ朝鮮開国某年又ハ李氏開国某年トシ、建
陽元年ニモ李氏又ハ朝鮮ヲ加書スルヲ相当トスト雖モ、今ハ略シテ開国某年又ハ建陽某年トシ、又其ノ天下号
ヲ有セル時代ニハ大韓光武某年、又ハ大韓隆熈某年ト書スヘキモノナルモ、略シテ光武某年又ハ隆熈某年ト書
シタリ。而シテ即祚紀年ハ隆熈改元以後ハ重複ニ属スルヲ以テ、之ヲ略シ外国紀年ハ全ク之ヲ省略シタリ。
>一 併合以前ノ暦日ハ明治二十八九年ノ交ヲ以テ分界トシ、前ハ千歳歴ニ依リ後ハ太陽暦ニ依ル。
近代朝鮮ノ暦法ハ明ノ大統暦清ノ時、憲書ヲ用ヰ太陰暦ノ法ナリシカ、明治二十九年丙申一月一日以後太陽暦
ノ法ヲ並用シ、明治三十年丁酉八月十三日ニ至リ其ノ暦書ヲ明時暦ト名ツケタリ。而シテ我邦ハ明治五年壬申
十一月[WEAK[開国四百八十一年]][WEAK[李太王九年]]   太陽暦ヲ採用シ、其ノ十二月三日ヲ以テ明年一月一日ト定メタルモノナレハ、其ノ間彼我ノ暦
法ニ異同アルハ勿論彼ノ行用シタル太陰暦ノ法モ亦タ我ト其ノ暦日ヲ同シウセサルモノアリ。今千歳暦ニ依リ
最近李熹公ノ生弘化二年乙巳以後ニ於ケル彼我ノ異同ヲ対照スルニ、弘化三年丙午七月大八月小ハ彼ニ在テハ
七月小八月大ナリ。(中略)而シテ明治二十九年建陽
元年丙申一月一日以後ハ彼我ノ陽暦ニ異同アラサルヲ以テ陽暦
ノ暦日ニ依レリ。而シテ李熹公ノ従官録ノ日子ノ記載ハ併合後ニ至ルマテ尚ホ千歳歴ニ依リタルモノナレハ、
之ヲ鈔載スルニ当リ三正綜覧ニ依リ二暦ノ対当日子ヲ求メ、且ツ其ノ旧ヲ註記セリ。故ニ陽暦日子ノ下ニ陰某
日ト註セルハ皆千歳暦ノ推歩ニ従ヒタルモノナリ。

]BOX]

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[215] 
[CITE[呵 々 明 々 白 々 大 嘘]],
[TIME[H28年7月][2016-07]]
([TIME[2016-09-24 11:14:12 +09:00]])
<http://gochagocha.cool.coocan.jp/Giman/Minzokusei/MinzokuSubD.htm>
]FIGCAPTION]

>                   1897年    大韓帝国独自の農暦(1895年下関条約で清国から独立している)
>                   1899年    京釜鉄道の時刻表は UTC+8:28 (京城時と呼ばれた) 
>                   1904年    UTC+9:00 (普通の日常生活で用いられていた)
>                   1908年    大韓帝国がUTC+8:30にすると発表(平壤時間と呼ばれた) 
>                           韓国統監府もそれに合わせる
>            韓国併合 1910年    UTC+9:00 (2014年Wikipediaではこの年標準時設定となっている)
>                   1912年    UTC+9:00 (1910年に韓国併合をしている)

]FIG]

[231] [[Wikipedia]] 以外出典不明で、書いてある内容も怪しい。


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[213] [CITE@ja-JP[【番外編】時差とサマータイム(前編) - SALARIED MAN SEIKATSU GA TOMARANAI(koyappo web site)]]
([TIME[2019-02-11 21:18:43 +09:00]])
<https://www.koyappo.com/2018/11/17/%E7%95%AA%E5%A4%96%E7%B7%A8-%E6%99%82%E5%B7%AE%E3%81%A8%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%A0-%E5%89%8D%E7%B7%A8/>
]FIGCAPTION]

> 1897年 韓国標準時を制定(+8時間28分)
> 1904年 日露戦争時に日本の標準時を使用開始(+9時間)
> 1908年 韓国標準時(127.5度線を基準)の時間を再定義(+8時間30分)
> 1912年 日本の135度線と合わさる。(+9時間)
> 1935年 満州国も日本時間に合わせる。
> 1954年 韓国標準時を採用(127.5度線を基準)(+8時間30分)
> 1961年 135度線を基準とする標準時を採用(+9時間)
>  
> 以下詳細をwikipedia より抜粋。

]FIG]


]REFS]



* 日本時代以後

[SEE[ [[朝鮮半島の紀年法]]、[[朝鮮半島の旧暦]]、[[朝鮮半島の標準時]] ]]

* 暦本

[REFS[
- [TIME[1894]] 甲午
-- [466] [CITE[大清光緒二十年歳次甲午時憲書]]
- [TIME[1895]] 乙未
-- [465] [CITE[大朝鮮開國五百四年歳次乙未時憲書]]
- 1896 丙申
-- [CITE[大朝鮮開國五百五年歳次丙申時憲書]]
- 1897 丁酉
-- [CITE[大朝鮮建陽二年歳次丁酉時憲曆]]
- 1898 戊戌
-- [CITE[大韓光武二年歳次戊戌明時曆]]
- 1899 己亥	
-- [CITE[大韓光武三年歳次己亥明時曆]]
- 1900 庚子	
-- [35] [CITE[大韓光武四年歲次庚子明時曆]] ([[觀象所 編]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000015484> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000015484>
-- [51] [CITE[大韓光武四年歲次庚子明時曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978299> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978299>
- 1901 辛丑	
-- [CITE[大韓光武五年歲次辛丑明時曆]]
- 1902 壬寅	
-- [CITE[大韓光武六年歳次壬寅明時曆]]
- 1903 癸卯	
-- [CITE[大韓光武七年歳次癸卯明時曆]]
- 1904 甲辰	
-- [16] [CITE@ko[大韓光武八年歲次甲辰明時曆]] ([TIME[2019-02-09 12:23:01 +09:00]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000015414>
<http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000015414>
-- [21] [CITE[大韓光武八年歲次甲辰明時曆]]
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000015430>
<http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000015430>
-- [50] [CITE[大韓光武八年歲次甲辰明時曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978275> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978275>
-- [60] [CITE[大韓光武八年歲次甲辰明時曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978283> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978283>
- 1905 乙巳	
-- [18] [CITE[大韓光武九年歲次乙巳明時曆]]
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000015444>
<http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000015444>
-- [25] [CITE[大韓光武九年歲次乙巳明時曆]]
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000016674>
<http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000016674>
-- [30] [CITE[大韓光武九年歲次乙巳明時曆]] ([[觀象所 編]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000016675> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000016675>
-- [52] [CITE[大韓光武九年歲次乙巳明時曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047979075> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047979075>
-- [62] [CITE[大韓光武九年歲次乙巳明時曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978292> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978292>
- 1906 丙午
-- [26] [CITE[大韓光武十年歲次丙午明時曆]]
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000015438>
<http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000015438>
-- [53] [CITE[大韓光武十年歲次丙午明時曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978287> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978287>
- 1907 丁未
-- [19] [CITE[大韓光武十一年歲次丁未明時曆]]
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000015417>
<http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000015417>
-- [20] [CITE[大韓光武十一年歲次丁未明時曆]]
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000015421>
<http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000015421>
-- [23] [CITE[丁未明時曆]]
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000019395>
<http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000019395>
-- [27] [CITE[大韓光武十一年歲次丁未明時曆]]
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000015418>
<http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000015418>
-- [38] [CITE[大韓光武十一年歲次丁未明時曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978277> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978277>
-- [41] [CITE[大韓光武十一年歲次丁未明時曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978278> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978278>
-- [42] [CITE[大韓光武十一年歲次丁未明時曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978279> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978279>
- 1908 戊申
-- [14] [CITE@ko[大韓隆熙二年歲次戊申明時曆]] ([TIME[2019-02-05 22:30:23 +09:00]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978273>
<http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978273>
-- [17] [CITE[大韓隆熙二年歲次戊申明時曆]]
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000015422>
<http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000015422>
-- [22] [CITE[大韓隆熙二年歲次戊申明時曆]]
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000015413>
<http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000015413>
-- [43] [CITE[大韓隆熙二年歲次戊申明時曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978280> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978280>
-- [55] [CITE[大韓隆熙二年歲次戊申明時曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978273> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978273>
-- [56] [CITE[大韓隆熙二年歲次戊申明時曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978274> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978274>
-- [64] 以下は書誌情報が誤り
-- [24] [CITE[大韓光武二年歲次戊申明時曆]]
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000015428>
<http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000015428>
-- [29] [CITE[大韓光武二年歲次戊申明時曆]]
<http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000015423>
<http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000015423>
-- [31] [CITE[大韓光武二年歲次戊申明時曆]] ([[觀象所 編]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000015416> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000015416>
-- [40] [CITE[大韓光武二年歲次戊申明時曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978276> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978276>
-- [57] [CITE[大韓光武二年歲次戊申明時曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978282> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978282>
-- [59] [CITE[大韓光武二年歲次戊申明時曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978281> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978281>
-- [65] [CITE[大韓隆熙二年曆]] ([[관상소]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047988221> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047988221>
- 1909
-- [109] [CITE[大韓隆熙三年曆]]
(一部のみ):
[CITE[민속박물관 - 주요 소장품 검색]] ([TIME[2019-02-09 16:09:20 +09:00]]) <http://nfm.museum.go.kr/nfm/getDetailArtifact.do?JSON=%7B%22MCSJGBNC%22%3A%22PS01002001001%22%2C%22MCSEQNO1%22%3A%22026944%22%2C%22MCSEQNO2%22%3A%2200000%22%2C%22SEARCH_MODES%22%3A%22DIRECTORYS%22%2C%22SEARCH_STR%22%3A%22%22%7D#>
- 1910
-- [108] [CITE[大韓隆熙四年曆]]
([TIME[2019-02-09 16:05:25 +09:00]]) <https://www.kobay.co.kr/kobay/item/itemLifeView.do?itemseq=1501SMBCN8C>
]REFS]

** 千歳暦

[REFS[
- [67] [[千歲曆]]: 1897 [[當宁]]元年丁酉 - [[當宁]]一百年丙子
-- [66] [CITE[千歲曆]] ([[觀象監 編]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000015404> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000015404>
-- [68] [CITE[千歲曆]] ([[관상감]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047978268> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047978268>
- [70] [[千歲曆]]: 1897 [[當宁]]元年丁酉 - [[當宁]]一百十年丙戌、[[百中曆]]: 康煕32年-乾隆57年 [[大統暦]] & [[時憲暦]]
-- [69] [CITE[千歲曆 : 幷上,下]] ([[觀象監 編]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=KOL000017190> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=KOL000017190>
-- [71] [CITE[千歲曆: 幷上,下]] ([[관상감]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00047979252> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00047979252>
- [78] [[千歲曆]]: [[當宁]]元年甲子 - [[當宁]]一百年癸卯
-- [77] [CITE[千歲曆. 上篇 第2/ [編者未詳]]] ([[[편자미상]]]) <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00076808087> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00076808087>
]REFS]

* 法令番号

[SEE[ [[年内連番と改元の関係]] ]]

* データファイル

[SEE[ [[元号]]、[[朝鮮半島の旧暦]] ]]

* メモ

[7] 
[TIME[1905年][year:1905]]の[[日本政府]]の書籍は、
[[朝鮮半島の旧暦]]のことを[DFN[韓曆]]と呼んでいました [SRC[>>79]]。






[63] [CITE[Kyoto University Research Information Repository: 朝鮮における時憲暦の受容過程とその思想的背景]]
([TIME[2016-04-11 13:16:34 +09:00]])
<https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/134678>

[101] 
<http://210.204.213.159/_Common/Download.nfm?filename=141119_press.pdf&dir=16>

[103] 
<http://210.204.213.159/_Common/Download.nfm?filename=01.pdf&dir=22&seq=4620>


[105] 
[CITE[대한제국기太陽曆의시행과曆書의변화]], [[정성희]]
<http://db.history.go.kr/download.do?levelId=kn_103_0020&fileName=kn_103_0020.pdf>


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[106] [CITE@ja[Template:歴代李氏朝鮮暦 - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-12 23:59:32 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/Template:%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%9A%A6>
]FIGCAPTION]

> 大統暦1392-1653 / 時憲暦1653-1782 / 千歳暦1782-1894 / グレゴリオ暦1894-1897 / 明時暦1897-1905 / 千歳暦1905-1907 / 隆煕暦1907-1910

]FIG]

[107] 
唐突な千歳暦とグレゴリオ暦が謎だ。

[110] [CITE[민속박물관 - 주요 소장품 검색]]
([TIME[2019-02-09 16:12:05 +09:00]])
<http://nfm.museum.go.kr/nfm/ownMuseumSearch.do?JSON=%7B%22DO_SEARCH%22%3A%221%22%2C%22SEARCH_MODES%22%3A%22DIRECTORYS%22%2C%22SEARCH_STR%22%3A%22%22%2C%22IS_OWNER%22%3A%221%22%2C%22MCBSCODE%22%3A%22PS09006001005%22%2C%22PAGE_ROW_COUNT%22%3A%2212%22%2C%22MASTER_MCBSCODE%22%3A%22PS09%22%2C%22MCCLEVEL%22%3A%226%22%2C%22CURRENT_PAGE%22%3A%221%22%7D>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[166] [CITE[日清戦争前夜の日本と朝鮮21)]]
([TIME[2018-12-04 15:51:49 +09:00]])
<http://f48.aaacafe.ne.jp/~adsawada/siryou/060/resi057.html>
]FIGCAPTION]

> 先の招討使日記には「光緒」という清国の年号を使っているが、政府内では清国年号、日本に対しては「干支」、西洋国には「開国」年号を使い分ける、これが当時の朝鮮国なり。

]FIG]















[332] [CITE@ja[アラベスク  二重丸印]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T02:47:48.000Z]], [TIME[2020-09-04T02:47:56.037Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-64.html>

[333] [CITE@ja[アラベスク  二重丸印]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T02:48:42.000Z]], [TIME[2020-09-04T02:49:06.752Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-61.html>

[334] [CITE@ja[アラベスク  使用済]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T02:50:18.000Z]], [TIME[2020-09-04T02:50:24.074Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-57.html>

[335] [CITE@ja[アラベスク  消印]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T02:51:29.000Z]], [TIME[2020-09-04T02:51:30.823Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-55.html>

[336] [CITE@ja[アラベスク  偽印]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T02:58:36.000Z]], [TIME[2020-09-04T02:58:37.884Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3285.html>

[337] [CITE@ja[アラベスク  偽印]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T02:59:28.000Z]], [TIME[2020-09-04T02:59:29.908Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3284.html>

[338] [CITE@ja[アラベスク  梨花切手]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T03:00:50.000Z]], [TIME[2020-09-04T03:00:51.403Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-3030.html>

[339] [CITE@ja[アラベスク  ?]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T03:01:26.000Z]], [TIME[2020-09-04T03:01:27.376Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-2862.html>

[340] [CITE@ja[アラベスク  販売用CTO?]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T03:03:14.000Z]], [TIME[2020-09-04T03:03:15.586Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-2057.html>

[341] [CITE@ja[アラベスク  e.t.c]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T03:05:12.000Z]], [TIME[2020-09-04T03:05:13.739Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1750.html>

[342] [CITE@ja[アラベスク  日本局消し]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T03:06:48.000Z]], [TIME[2020-09-04T03:06:49.728Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1566.html>

[343] [CITE@ja[アラベスク  カバー]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T03:08:40.000Z]], [TIME[2020-09-04T03:08:41.766Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1231.html>

[344] [CITE@ja[アラベスク  Last Day]]
([[かきたがわ]], [TIME[2020-09-04T03:09:12.000Z]], [TIME[2020-09-04T03:09:13.510Z]])
<http://komoro1939.blog136.fc2.com/blog-entry-1213.html>

[352] [CITE[제주 향교 문서 번역]], [[김 지 홍]], [TIME[2023-03-21T08:56:50.000Z]] <https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:JJE8zvyBap8J:https://t1.daumcdn.net/cfile/tistory/2331074555BAC2BD1C%3Fdownload&cd=13&hl=ja&ct=clnk&gl=jp>

>孔子降誕 二千四百八十一年 庚午(1930년) 冬

[370] 
[TIME[2023-06-20T12:19:53.00Z]]
<https://kwansei.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=27746&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1>


- [475] [CITE@ko[근대 이행기 동아시아의 紀年法 - 제왕의 시간에서 민족/국민의 시간으로]], [TIME[2023-07-02T13:44:24.000Z]] <https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART002127623>
(先頭5ページのみPDF閲覧可能)

[476] >>388 の引用:

- [477] [CITE[近代移行期東アジアの紀年法―帝王の時間から民族/国民の時間へ]],
[[金美花]],
[TIME[2016]]

は >>475

-[478] [CITE[Korea Open Access Journals]], [TIME[2023-07-02T14:15:46.000Z]] <https://www.kci.go.kr/kciportal/landing/article.kci?arti_id=ART001495579>
-- [479] 
[CITE[일제의 식민지 초등교육과 <曆>]],
[[박경수]],
[TIME[2010]]

[480] 
>>479 は日本語の概要が付いていますが、冒頭がいきなり

>本論文は、朝鮮人を愚民化することで、‘忠良なる臣民’に育成しようと 思った日帝の植民地政策が、初等學校教育と日常でどう行われたことを敎科書と暦を通じて理解することにある。[SNIP[]]

でなんかよくわからない[[陰謀論]]的結論ありきで行論します宣言しちゃってます。

[484] >>388 の引用:

- [485] 
[CITE[大韓帝国期太陽暦の施行と暦書の変化]],
[[チョン・ソンヒ]],
[TIME[2003]]

は >>483

- [482] [CITE[국사관논총103집(전체화일) - kn_103_0020.pdf]], [TIME[2023-07-02T14:19:12.000Z]] <https://db.history.go.kr/download.do?levelId=kn_103_0020&fileName=kn_103_0020.pdf>
(全文PDF)
-- [483] [CITE[대한제국기 太陽曆의 시행과 曆書의 변화]],
[[과사철]]



[487] 
>>388 の引用:

- [488] 
[CITE[十九世紀末韓国貨幣制度改革の国際政治]],
[[ホン・ジヨン]],
[TIME[2006]]

は

- [491] 
[CITE@en[SNU Open Repository and Archive: 19세기말 한국 화폐제도개혁의 국제정치]], 
[[홍지연]],
[TIME[2005]],
[TIME[2019-09-23T02:17:36.000Z]], [TIME[2023-07-02T14:53:14.036Z]] <https://s-space.snu.ac.kr/handle/10371/12012>
- [489] [CITE@ko[서울대 국제문제연구소 : 『세계정치』저널 : 세계정치 제6호 자유무혁협정의 정치경제]], [TIME[2023-07-02T14:52:27.000Z]] <http://www.snuiis.re.kr/sub5/5_1.php?mode=view&number=205&b_name=gan1&page=4>
-- [490] 「제7장 19세기 말 한국 화폐제도 개혁의 국제정치 (홍지연) 253」

で、ウェブ上では閲覧不可。





[493] [CITE@ja-JP[北海道労働研究 9(3)]], [[北海道立総合経済研究所]], [TIME[1958-06]], [TIME[2025-07-02T03:11:48.000Z]], [TIME[2025-07-22T06:50:52.442Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2272747/1/16?keyword=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)

[495] 
[CITE@ko[대한제국기 명시력 역서에 수록된 절후월령의 시간문화 양상]], [TIME[2026-03-06T08:34:46.000Z]] <https://www.kci.go.kr/kciportal/landing/article.kci?arti_id=ART002260062>
