[1] 
[[日本]]の[[古代]]には[[干支年]]などが使われていましたが、
やがて[[元号][日本の元号]]制度が導入されました。

[SEE[ 他の時代も含めた概観は[[日本の元号]] ]]

* 紀年法

[1252] 
[[日本列島]]で[[古代]]に用いられた痕跡のある[[紀年法]]や、
古代の出来事を記述するため当時から現在までにわたって使われた[[紀年法]]には、
実に多種多様なものがあります。

[FIG(short list)[ [1253] 古代日本と関係する主要な紀年法
- [[干支年]]
- [[天皇即位紀年]]
- [[中華王朝の元号]]
- [[日本の元号]]
- [[古代年号]]
- [[朝鮮半島の即位紀元]]
- [[皇紀]]
- [[西暦]]
]FIG]

[SEE[ 各制度に関する事項は[[元号]]、[[改元]]、[[干支年]] ]]


** 干支年

[1987] 
5,6世紀頃には既に[[干支年]]が使われました。
(>>97)

[HISTORY[

[1986] 
[[O. Kümmel]]
は、
「辛亥年」
(>>1937)
が[TIME[崇峻天皇4(591)年][year:591]]か[TIME[白雉2(651)年][year:651]]か定めるに当たり、
支那暦移入の13年前の崇峻天皇4年にこの日付はあり得ない、
としました。
[SRC[>>1939 (Die Kunst Chinas und Japans, Handbuch der Kunstwissenschaft, 1929 S. 109)]]
13年前とは[TIME[推古天皇10(602)年][year:602]]の[[百済]]僧[[観勒]]が暦書等を献上したことを指すと思われますが、
[CITE[日本書紀]]
にはその遥か前の時代から[[渡来人]]記事が散見され、
崇峻天皇4年に[[干支]]の知識があっても不思議ではありません。
[SRC[>>1939]]

]HISTORY]


** 天皇即位紀年

[860] 
[[天皇]]の治世のはじめを[[元年]]とし、
区別が必要な場合には[[元号名スロット]]に[[天皇]]の名前を当てて[[元号風に記述][疑似元号]]する[[天皇即位紀年]]方式は、
[[元号]]が制定されなかった時代の[[日本]]の歴史の記述の標準的な方法として、
[[飛鳥時代]]から現在まで広く用いられています。

[861] 
[CITE[日本書紀]]は[[神武天皇]]即位から[[持統天皇]]まで、
[[元号]]があった時期を除き、全面的に[[天皇即位紀年]]を採用しました
(>>29)。
[CITE[続日本紀]] (>>1049)
は[[文武天皇]]の[[大宝]]の[[建元]]以前にこれを採用しました。

[862] 
[[元号名スロット]]の[[天皇名]]として、
現在の[[漢風諡号]]のほか、
[CITE[日本書紀]]では[[和風諡号]]が用いられましたし、
古い時代の文章にはそれ以外の呼称が使われたことがありました。


[545] 「[VAR[[[漢風諡号]]]]天皇」またはその省略形の
「[VAR[[[漢風諡号]]]]」
を[[疑似元号]]として用い、
[CITE[日本書紀]]に従い[[天皇]]の即位の頃を元年とする[[天皇即位紀年]]は、
歴史学の議論や神社の由緒の記述などで現在まで使われています。
各種の[[元号一覧]]の類で、
[[元号]]以前の時代における[[元号]]に相当するものとされています。
[SEE[ [[元号一覧]] ]]

[209] [CITE[日本書紀]]では
[[大化]]以前に[[神武天皇]]から[[皇極天皇]]まで、[[神功皇后]]を含めて
36個の[[擬似元号]]がありました。
他に[[大化]]以後の[[元号]]断続期のものがありました (>>210)。

[87] 基本的には[CITE[日本書紀]]の記述をそのまま皇紀元年から西暦645年に当てはめた形とされているようです。

[138] [[改元]]はそれぞれの初年の元日として扱われるようです。

;; [211] [[即位]]が前天皇の末年で、新天皇の元年よりも前の年である場合があります。

[865] 
後述の通り、[[孝徳天皇]]の時代以後の[[天皇即位紀年]]の扱いはいろいろと混乱がみられます。



[863] 
[CITE[日本書紀]]
の記述のように[[神武天皇]]即位からあったとは考えにくいですが、
[[即位紀年]]は世界各地で使われた例があり、
[[日本]]でも[[飛鳥時代]]頃には使われていたようです。
最初は「誰々の時代の頃」のような曖昧な時代記述から始まり、
次第に「誰々の時代の何年」のような形式に発展したようです。

[1034] 
[CITE[Wikipedia]] の[[神武天皇]]記事を見ると、
即位前は[[干支年]]で表記し、
「辛酉年(神武天皇元年) 」
を経て以後
「神武天皇2年」
のように表記しています。
他に「即位4年2月23日」
のような表記もみられます。
[SRC[>>1033]]





[REFS[
- [1033] [CITE@ja[[[神武天皇]] - Wikipedia]], [TIME[2020-02-23 00:15:07 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87>

]REFS]

[393] 
関連: [[元興寺伽藍縁起并流記資財帳]]

[2743] [CITE@ja-JP[史学叢説 第1集]], [[星野恒 稿, '''['''星野幹, 星野彬 共編''']''']], [TIME[明治42][1909]], [TIME[2023-05-30T10:04:52.000Z]], [TIME[2023-06-17T07:16:57.947Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1026757/1/111> (要登録)


[2744] >>2743 [[天皇即位紀年]]の古い例がないことを指摘しています。

-*-*-

[383] 
初代の[[神武天皇]]の即位前は他のいろいろな方法で記述されます。
[SEE[ [[神武天皇即位前の紀年法]] ]]




[2354] 
初期の天皇の在位の間には空位期間がありました。

- [[神武天皇後空位年]]
- [[懿徳天皇後空位年]]
- [[成務天皇後空位年]]
- [[応神天皇後空位年]]
- [[反正天皇後空位年]]

[2666] 
前の[[天皇]]の[[延長年号]]を使うもの、
[[干支年]]を使うものなど、
諸書の表記は様々です。
[SEE[ [[神武天皇後空位年]] ]]



[2277] 
[[継体天皇]]から[[欽明天皇]]までの時代の
[CITE[日本書紀]]
などの記述は混乱しており、
諸説あります。
[[紀年法]]もその混乱を反映していろいろあります。
[SEE[ [[辛亥の変]] ]]

-*-*-

[1181] 
[CITE[国史研究年表]]の数え方 [SEE[ [[日本私年号一覧表]] ]


-*-*-


[4] [[皇紀]]は、[[神武天皇]]の即位年から起算した[[紀年法]]です。
[[神武天皇]]即位紀年の自然な延長ですが、
「神武天皇[VAR[何]]年」ではなく、
「皇紀[VAR[何]]年」などと表記されます。
[[日本の歴史]]のほとんどの期間を単調増加する年号で扱えるのが利点です。
もちろん[[神武天皇]]の時代から連続して用いられていたものではありません。
[[神武天皇]]の即位年から何年という数え方は[[南北朝時代]]頃から記録に残っているようです。
[[紀年法]]として実用されるようになったのは[[江戸時代]]頃でした。
[SEE[ [[皇紀]] ]]




* 推古天皇時代

[2630] [SRC[>>2629 PDF 17ページ]]

[REFS[
- [2629] [CITE[AN10086451-19911200-1001.pdf]], [TIME[2021-03-05T08:19:58.000Z]], [TIME[2021-03-07T04:52:33.482Z]] <repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=1633>
]REFS]

* 元号の導入

[588] 
7世紀の[[日本]]では、徐々に[[元号]]の導入が進みました。
そのあり方には今なお不明な点が多く議論があります。


[196] 
初期年号とその異称 ([[大化]]、[[白雉]]、[[白鳳]]、[[朱鳥]]、[[朱雀]])
は、[[中世]]から近年まで、
いろいろな文献が[CITE[日本書紀]]と異なる形で記述していました。
特に[[古代年号]] (>>226) 文献は、
[CITE[日本書紀]]とまったく矛盾する時代や順序でこれらの[[元号]]が用いられたこととするものがありました。

[197] 
異説は[[古代年号]]と共にかなり広まっていたようですが、
[[明治時代]]に近代的歴史学が成立すると徐々に消えていきました。
しかし[[白鳳]]はかなり後の時代まで[[白雉]]と別に扱われていました (>>847)。


[FIG(list)[ [229] 初期元号
- [844] 初期元号α群: [CITE[日本書紀]]にみえるもの
-- [[大化]]、[[白雉]]、[[朱鳥]]
- [845] 初期元号β群: その他[[六国史]]にみえるもの
-- [[白鳳]]、[[朱雀]]
- [846] 初期元号γ群: その他古い時代の記録があるもの
-- [[法興]] (>>770)、[[宝元]] (>>299)
]FIG]



** 法興



[770] 
[[推古天皇]]の頃に使われたとされる[[元号]]に[[法興]]があります。
同時代的に使われた可能性が高いと見られる、
[[日本]]で作られた最古の[[元号]]です。
[SEE[ [[法興]] ]]

[296] 
[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘]]に[[日付]]として
「法興元丗一年歳次辛巳十二月」 (次の「鬼」まで日付部分とする説もあり)、
「明年正月廿二日」、
「二月廿一日癸酉」、
「翌日」、
「癸未年三月中」
があります。
[SRC[>>297]]

;; [385] 関連: [[1年ずれ]]

[301] 
その釈迦三尊像の宣字形台座の下座下框に「辛巳年八月九月」
の墨書があります (>>64)。
これや釈迦三尊像の調査から、
銘文は造像当時のもので後刻ではないと考えられています。
([[昭和時代]]の研究者には後刻説もありました。)
[SEE[ [[法興]] ]]

[298] 
現在では「法興」を[[私年号]]と解し、
「法興元丗一年歳次辛巳」と「辛巳年」を
[TIME[621年][year:621]]、
「癸未年」を[TIME[623年][year:623]]と解するのが定説となっています。 [SRC[>>297]]

[302] 
従って「法興」元号は当時ある程度使われていたものとみられます。
[[法隆寺]]周辺など仏教信仰との関係の中で利用されていたと推測されます
[SRC[>>246 普及版 p.338 ([[田村圓澄]], [TIME[1968][year:1968]])]]。

[306] [CITE[伊予湯岡碑]]碑文に
「法興六年十月歳在丙辰」
とあり、[TIME[596年][year:596]]と解されています。
ただし原碑は行方不明となっています。
[SRC[>>305]]

[355] 
[CITE[日本書紀]]に記録されておらず[[聖徳太子]]に関係する記録に残されたこの[[元号]]は、
[[聖徳太子]]の事績を敬仰するものであって[[法隆寺]]などの関係者が[[私的に使った][私年号]]とされています。
[SRC[>>352 p.52]]



[REFS[
- [297] [CITE@ja[[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘]] - [[Wikipedia]]]]
([TIME[2019-06-13 09:38:33 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%E9%87%91%E5%A0%82%E9%87%88%E8%BF%A6%E4%B8%89%E5%B0%8A%E5%83%8F%E5%85%89%E8%83%8C%E9%8A%98>
- [305] [CITE@ja[[[伊予湯岡碑]] - [[Wikipedia]]]] ([TIME[2019-06-25 15:45:20 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E6%B9%AF%E5%B2%A1%E7%A2%91>
]REFS]



** 大化

[66] 
[[乙巳の変]]により[[孝徳天皇]]が[[即位]]し、
[[大化の改新]]と呼ばれる一連の改革が実施されました。
[[即位]]直後、
新たに[[元号]]として
「[[大化]]」
が[[建てられ][建元]]ました。
これが[[日本]]の最初の[[公年号]]とされます。
[SEE[ [[大化]] ]]



*** 改元直前

[1884] 
[CITE[日本書紀]]
は、
[[皇極天皇]]の第4年 = [[孝徳天皇]]の第1年 = [TIME[西暦645年[LINES[乙][巳]]][year:645]]を、
「[[大化]]」
の[[建元]]を境に、
前半を皇極天皇4年、
後半を大化元年と呼んでいました
(>>67)。

[1930] 
[CITE[日本書紀]]
やそれ以後の[[正史]]は[[年]]の名前を[[年]]単位で書いていました (>>1883)。
つまり[[年]]内に[[改元]]があっても、
[[年]]は年頭の記事の1度だけ明記されるので、
年頭から[[改元日]]までが[[遡及年号]]となっていました。
[SEE[ [[遡及年号]] ]]

ところが[[皇極天皇]]から[[孝徳天皇]]への[[譲位]]の前後は、
同じ[[年]]が[[皇極天皇即位紀年]]と[[大化]]の
2通りに書き分けられていました。
編纂方針のぶれのようにも思われますが、
[CITE[日本書紀]]
中唯一の[[譲位]]によって生じた特例ともみられます。

;; [1931] 
次の[[譲位]]は[[持統天皇]]から[[文武天皇]]で、
[CITE[日本書紀]]
と
[CITE[続日本紀]]
の狭間に当たります。
同じ[[年]]が
[CITE[日本書紀]]
では[[持統天皇即位紀年]]の[[年]]、
[CITE[続日本紀]]
では文武天皇元年となっていました。
これも前例に倣ったと言えなくもありません。



[840] 
[CITE[日本書紀]]
は、
[[改元]]を[[譲位]]の
5日後としていました。
[CITE[日本書紀]]
の[[譲位]]記事は、
いずれも[[皇極天皇]]4年と記述されていました。
(>>1883)

[1932] 
これをそのまま受け取るなら、
[[孝徳天皇]]が[[即位]]した後も、
[[大化]]の新[[元号]]が決定し[[改元]]が実行されるまで、
従前の[[皇極天皇即位紀年]]が継続されたことになります。

[2543] 
現存する[[金石文]]や[[木簡]]は、
この時代[[干支年]]が使われたことを示しています。
当時[[天皇即位紀年]]や[[大化]]の[[元号]]が使われた直接の証拠はありません。
[[皇極天皇即位紀年]]も[[大化]]の[[元号]]も、
現存最古の用例は
[CITE[日本書紀]]
とみられます。
残念ながら、
現存する史料から当時の運用を確定させることはできません。

[607] 
[[大化]]という[[元号名]]が[[追号]]とする説 (>>519) による場合、
[[即位]]から[[改元]]までのこの期間をどう解釈するかが問題となります。
[[称元]]の日だったとする説もあり得ますし、
歴史的事実を反映しない潤色とする説もあり得ます。

[HISTORY[

[319] [CITE[[[Wikipedia]]]] の[[孝徳天皇]]記事は、
[TIME[西暦645年][year:645]]を当初[[皇極天皇]]4年、
[TIME[6月14日][kyuureki:0645-06-14]]から
[TIME[19日][kyuureki:0645-06-19]]まで[[孝徳天皇]]元年、
[TIME[19日][kyuureki:0645-06-19]]から大化元年としています [SRC[>>318]]。
一方で [CITE[Wikipedia]] の他の記事 [SRC[>>322]] や[[元号一覧]]は、
[[大化]]開始日の
[TIME[6月19日][kyuureki:0645-06-19]]までを皇極天皇4年としていて、
一貫していません。


[321] 
[CITE[Wikipedia]] 
方式は、
[[皇極天皇]]が既に[[退位]]し[[孝徳天皇]]が[[即位]]しているにも関わらず、
[[皇極天皇]]4年と呼ぶのは不適切との考えによるものでしょうか。
しかしこのような[[紀年法]]は他に用例がみられず、
敢えてこの5日間だけ特別に扱うメリットもほとんど考えつきません。
そもそもこの[[天皇即位紀年]]の体系が
[CITE[日本書紀]]
による歴史的確立に依る所が大きいことを思えば、
それと異なる新方式にどれだけの価値がありましょうか。

]HISTORY]

[841] 
この時期の[[日付]]を[[生成]]する場合には、
[CITE[Wikipedia]] 方式より、
歴史的に採用されてきた方式の方が適切と思われます。
[[日付]]を解釈する[[ソフトウェアの類][元号一覧]]は、
[[孝徳天皇即位紀年]]にも対応するのが良さそうです。

[FIG(table)[

:d: [[日付]]
:s: [CITE[日本書紀]] (>>67)
:w: [CITE[Wikipedia]] (>>318)
:note: メモ

:d: 
[TIME[西暦645年6月12日][kyuureki:645-06-12]]
:s:
皇極天皇4年6月戊申
:w:
皇極天皇4年(645年)6月12日
:note:
[[乙巳の変]]

:d: 
[TIME[西暦645年6月13日][kyuureki:645-06-13]]
:w:
皇極天皇4年(645年)6月13日

:d: 
[TIME[西暦645年6月14日][kyuureki:645-06-14]]
:s:
皇極天皇4年6月庚戌
:w:
孝徳天皇元年(645年)6月14日
:note:
[[皇極天皇]][[譲位]]、
[[孝徳天皇]][[即位]]

:d: 
[TIME[西暦645年6月15日][kyuureki:645-06-15]]
:s:
皇極天皇4年6月辛亥

:d:
[TIME[西暦645年6月19日][kyuureki:645-06-19]]
:s:
皇極天皇4年6月乙卯
:w:大化元年(645年)6月19日
:note:
[[大化]][[改元]]

:d:
[TIME[西暦645年7月2日][kyuureki:645-07-02]]
:s:
大化元年7月戊辰
:note:
[CITE[日本書紀]]
の[[改元]]後初記事

]FIG]


[546] 
なお、[[改元]]以前を[[0年]]、負の年で表現する実装もあります。
[SEE[ [[大化]], [[CLDRの和暦]] ]]

[REFS[
- [320] [CITE@ja[[[大化]] - [[Wikipedia]]]] ([TIME[2015-12-19 14:26:18 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8C%96>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[318] [CITE@ja[[[孝徳天皇]] - [[Wikipedia]]]],
[TIME[2020-06-15T01:27:10.400Z]]
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87>
]FIGCAPTION]

>
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に乙巳の変が起きると、[SNIP[]]
>孝徳天皇元年6月19日(645年7月17日)、史上初めて元号を立てて大化元年6月19日とし、大化6年2月15日(650年3月22日)には白雉に改元し、白雉元年2月15日とした。

>
-皇極天皇4年(645年)
--6月12日 - 中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害。
--6月13日 - 蘇我蝦夷が自宅に火を放ち自殺する。
-孝徳天皇元年(645年)
--6月14日 - 皇極天皇の譲位を受け、即位した。中大兄皇子を皇太子とした。
-大化元年(645年)
--6月19日 - 史上初めて元号を立て、大化元年とした。


]FIG]

- [322] [CITE@ja[645年 - [[Wikipedia]]]] ([TIME[2016-01-14 06:42:09 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/645%E5%B9%B4>
]REFS]

*** 異説


[838] 
[[大化]]の[[元号]]が当時制定されたのでなく、
後の時代に遡って制定されたとする説があり、
はっきりしていません (>>519)。

-*-*-

[839] 
他の年を[[元年]]とする[[大化]]の異説がいくつかありました。

[FIG( list)[ [866] [[大化]]異説
- 西暦645年 孝徳天皇元年[LINES[乙][巳]] (>>66)
- 西暦646年 孝徳天皇2年[LINES[丙][午]] (>>1399)
- 西暦686年 天武天皇15年[LINES[丙][戌]]
- 西暦687年 持統天皇元年[LINES[丁][亥]]
- 西暦695年 持統天皇9年[LINES[乙][未]] ([[持統大化]] >>198)
]FIG]



[1399] 
[CITE[法隆寺伽藍縁起并流記資財帳]]
に、
[CITE[日本書紀]]
と1年ずれた[[大化]]の用例がみられました (>>406)。
ほかにも例があります (>>1247)。

;;
[2578] 
関係は不明ですが、
1年ずれた[[白鳳]]にちょうど接続します
(>>848)。


[1919] 
[CITE@ja-JP[法隆寺の諸問題 昭和9]], [[鵤故郷舎]], [TIME[昭和9][1934]], [TIME[2023-01-11T10:47:13.000Z]], [TIME[2023-01-15T06:31:50.617Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1146465/1/65> (要登録)

[1920] [CITE@ja-JP[續日本紀研究 (146/147)]], [[續日本紀研究会]], [TIME[1969-10]], [TIME[2023-01-11T10:47:13.000Z]], [TIME[2023-01-15T06:46:01.730Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/6076152/1/3> (要登録)


- [2797] [CITE@ja-JP[アジア・アフリカ文化研究所研究年報 (5)]], [[アジア・アフリカ文化研究所]], [TIME[1971-03]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-28T08:00:37.998Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4430359/1/15> (要登録)


[2798] [CITE[襲国偽僣考]]が[[大化]]と[[大和]]は音が似て混同したのではと指摘していますが [SRC[>>2797]]。
もしかすると原形は[[孝徳天皇]]の[[国名即位紀年]]の「大和元年」「大和2年」...
だったのが誤って「大化」に変化して記録された可能性もあるでしょうか。

[2799] 
中世でなく上代の日本語でこの混同が起こり得るのか、「大和元年」の痕跡はあるのか、
という課題はありますが。

[2800] 
[[持統大化]]でなく[[孝徳大化]]の変化した「大和」が知られていないのもこの説の弱点。
[[持統天皇]]時代に変化する前に「大和」が存在した根拠が皆無になるから。

** 白雉

[107] [[孝徳天皇]]の治世の最初の[[元号]]だった[[大化]]は、
大化6年、
[[改元]]されて[[白雉]]となりました。
[SEE[ [[白雉]] ]]


[68] [CITE[日本書紀]]
には、
大化5年までの記事の後、
「白雉元年春正月辛丑朔。[SNIP[]]
二月庚午朔戊寅。 [SNIP[(白雉献上の記事)]]
甲寅。 [SNIP[]] 改元白雉。 [SNIP[]]」 [SRC[>>65]]
とありました。
[[年始]]ではなく2月に大化6年から白雉元年に[[改元]]されたことがわかりますが、
年内で書き分けることはせず、
[[年始に遡って][年始遡及年号法]]白雉元年としていました。
その後白雉5年まで記事が続きました。

[1076] 
[CITE[続日本紀]] (>>1049)
や
[CITE[新唐書]] (>>542)
は、
[[孝徳天皇]]の[[白雉]]に言及していました。
[[白雉]]の存在を裏付けるものとされます。
[SRC[>>859 p.二〇八]]

-*-*-

[867] 
[[白雉]]と別称[[白鳳]]の異説はいろいろありました。

[FIG(list)[ [868] [[白雉]]・[[白鳳]]異説
- 西暦647年 孝徳天皇3年[LINES[丁][未]] 白雉、 白鳳
- 西暦649年 孝徳天皇5年[LINES[己][酉]] 白鳳 (>>1840)
- 西暦650年 孝徳天皇6(後元)年[LINES[庚][戌]] 白雉 (>>107)、 白鳳 (>>783)
- 西暦651年 孝徳天皇7(後2)年[LINES[辛][亥]] 白鳳 (>>848)
- 西暦652年 孝徳天皇8(後3)年[LINES[壬][子]] 白雉
- 西暦655年 斉明天皇元年[LINES[乙][卯]] 白雉
- 西暦661年 斉明天皇7年天智天皇称制0年[LINES[辛][酉]] 白鳳 (>>978)
- 西暦662年 天智天皇称制元年[LINES[壬][戌]] 白鳳 (>>978)
- 西暦671年 天智天皇称制10(即位4)年[LINES[辛][未]] 白鳳 (>>790)
- 西暦672年 天武天皇書紀元年[LINES[壬][申]] 白鳳 ([[天武白鳳]] >>790)
- 西暦673年 天武天皇書紀2年[LINES[癸][酉]] 白鳳 ([[天武白鳳]] >>790)
- 西暦690年 持統天皇4年[LINES[庚][寅]] 白鳳
]FIG]

[1206] 
現在の [[Webサイト]]の用例を見ると[[白雉]]のほとんどは
[CITE[日本書紀]]
式の本来の650年元年の[[白雉]]です。
それ以外の[[白雉]]の利用例はほとんど見当たりません。
[[九州王朝]]愛好家サイトで652年元年の[[白雉]]が頻出しますが、
実用例はほぼありません。

[1207] 
[[白鳳]]は現在の [[Webサイト]]でも[[寺社縁起]]を中心に複数の系統が相当数使われていることが確認できます。


[SEE[ 現代の寺社縁起類における、日本書紀の記述に一致する白雉の用例は[[白雉]] ]]

[SEE[ それ以外の用例は各異説の項 ]]


*** 孝徳天皇後元

[70] [CITE[日本書紀]]
の[[孝徳天皇]]より後の時代、
[[天豐財重日足姫天皇]] ([[斉明天皇]]) 紀に、
「天萬豐日天皇。後五年十月崩。 」 [SRC[>>69]]
とありました。
[[天命開別天皇]] ([[天智天皇]]) 紀に、
「天萬豐日天皇後五年十月崩。」 [SRC[>>72]]
とありました。
いずれも[[孝徳天皇]]の[[崩御]]を指し、
[[天萬豐日天皇]] ([[孝徳天皇]]) 
紀によれば白雉5年10月のことでした。

[1208] 
内容の一致から、
ここでいう「後」
とは[[白雉]]のこととされています。
[[中華王朝の即位紀元][支那式即位紀元]]にも[[治世途中で改元][漢初の即位紀年の改元]]され、
後世に便宜上
「後元」
などと呼んだ例がありましたから、
それに類するものとされています。


[1867] 
[[伴信友]] (>>1038)
は、
「後五年」
は[[元号のない漢初期の改元][支那式即位紀年]]の例に準拠した書き方で、
当時[[元号]]を重視していなかったため (>>1836)
としました。
[SRC[>>1731]]

[HISTORY[

;;
[1844] 
[CITE[日本書紀]]
に[[皇極天皇]]の
「改元四年」
と書いた例があり、
[[伴信友]]はこれも同じく[[漢初の即位紀年の改元]]に近い例としました (>>1866)。


]HISTORY]


[1868] 
[[伴信友]] (>>1038)
は、
[CITE[日本書紀]]
の本文中で[[大化]]、[[白雉]]を使った例がないことを指摘しました。
その他の方法でもこの時代のことを指した例自体がないので証明は難しいものの、
当時[[白雉]]の[[元号]]を使って[[日付]]を書かなかった証拠になるとしました。
[SRC[>>1731]]


[HISTORY[

[1869] 
[[伴信友]] (>>1038)
は、
[CITE[続日本紀]]
以後なら必ず「白雉五年」のように書くので、
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
時に改めるべきところが漏れてしまったのだろうとしました。
[SRC[>>1731]]

[2086] 
しかし
[CITE[日本書紀]]
にこの程度の不統一は散見されるのであって、
[CITE[日本書紀]]
編纂時に
「白雉五年」
と[[孝徳天皇]]の
「後五年」
の2通りの表記法があり、
混在したままになってしまったと理解できるものです。
敢えて改刪を仮定する必然性に欠けます。

]HISTORY]

[2545] 
「後」が[[白雉]]であることは通説となっていますが、
当時どちらの表記だったのか、
どちらもあったのか、
どちらもなかったのかは、
よくわかっていません。
[[白雉]]の[[元号]]が当時制定されたのでなく、
後の時代に遡って制定されたとする説があり (>>519)、
「後」
はその痕跡で有力な根拠とされています。



*** 白雉の延長年号

[518] [[孝徳天皇]]の崩御後[[白雉]]の[[元号]]は使われなくなり、
次の[[元号]]は[[建てられ][建元]]ませんでした。
([[朱鳥]]の終わりと似ています。 [SEE[ 両者の共通点は >>1102 ]])
その終了をいつとするか、
諸説あります。

[2546] 
[CITE[日本書紀]]
孝徳天皇紀は、
白雉5年10月壬子条に[[孝徳天皇]]の[[崩御]]を書いていました。
その後には、
12月己酉条の葬儀記事、
是日条の[[斉明天皇]]行幸記事、
是年条の朝鮮3国奉弔記事が続き、
終わっていました。
[SRC[>>65]]
年末まで特別の記事がない以上、
白雉5年が12月末日まで続いたとするのが自然な解釈です。


[1145] 
[CITE[大辞林]]
は、
終了を
「654.10.?」
としました
[SRC[>>1143]]。
[[月]]を特定しているのは[[崩御]]の[[月]]に基づくのでしょうが、
[[日]]まで特定しなかった理由は謎です。


[1144] 
[CITE[デジタル大辞泉]]
は、
終了を
「655年1月?」
としました
[SRC[>>1143]]。
「?」をつけて不明としながらも示したこの[[月]]の根拠は不明です。
[[旧暦]]の年末を[[ユリウス暦]]か[[グレゴリオ暦]]に換算したものでしょうか。
(だとしても[[白雉]]の開始の時期は[[西暦]]に換算されていませんでした。)


[316] [CITE[Wikipedia]] の[[元号一覧]]および個別記事 [SRC[>>317]]
は、
[[白雉]]の最終日を[[旧暦]]白雉5年10月10日
([[ユリウス暦]]654年11月24日)
としました 
(その次の[[元号]]空白期の開始日も同日)。
それ以後の[[日付]]の記述には、
[[孝徳天皇即位紀年]]を使っています [SRC[>>318]]。
[CITE[Wikipedia]]
以外にも、
同様に
10月11日以後を[[孝徳天皇]]10年とする[[対照表][元号一覧]]があります [SRC[>>323]]。



[330] 
[[白雉]]の[[元号]]がこの日に終わったとする根拠は、
[[孝徳天皇]]の[[崩御]]によって[[元号]]が用いられるべき期間が終了したとの考え方と思われます。
だとすれば[[元号]]不在だからといって[[崩御]]後まで[[孝徳天皇即位紀年]]で代用するというのもおかしな話です。

-*-*-

[1113] 
[[坂本太郎]]は、
[CITE[日本書紀]] (>>1104)、
[CITE[万葉集]] (>>1112)、
[CITE[革命勘文]]
「巳上一蔀自神倭盤余彦天皇即位辛酉年至于天豊財重日足姫天皇七年庚申年 合千三百廿年已畢」
(皇紀1320[LINES[庚][申]]年は正しくは[TIME[斉明天皇6(660)年][year:660]])
といった[[斉明天皇]]時代の記述がみな[[元号]]でなく[[斉明天皇即位紀年]]を用いることを指摘し、
[[延長年号]]が当時正式に用いられたものではないとしました (>>522)。
[SRC[>>859 pp.二一一-二一二]]

[2547] 
[[孝徳天皇]]や[[斉明天皇]]・[[天智天皇]]の時代の[[金石文]]や[[木簡]]は、
[[干支年]]を使っていました。
当時[[白雉]]や[[天皇即位紀年]]が用いられたという直接の根拠は見つかっていません。
[[白雉]]の[[延長年号]]が[[斉明天皇]]・[[天智天皇]]時代にも使われたかどうかは、
不明とするほかありません。
[CITE[革命勘文]]
はともかく、
[CITE[日本書紀]]
や
[CITE[万葉集]]
から、
[[奈良時代]]時点では[[白雉]]の[[元号]]を使っても[[延長年号]]は一般的ではなかったとみられます。


-*-*-

[2330] 
[[白雉]]の別名たる[[白鳳]] (>>783)
には[[延長年号]]の用例がかなり多く見られます。


[REFS[
- [317] [CITE@ja[白雉 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-19 14:08:54 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%9B%89>
- [329] [CITE[古代史年表(欽明天皇~元明天皇)]] ([TIME[2016-01-19 15:27:53 +09:00]] 版) <http://www.ookuninushiden.com/newpage1.html>
- [323] [CITE@ja[和暦・西暦対照表〔インデックス〕-公卿類別譜(公家の歴史)]] ([TIME[2016-01-19 14:48:31 +09:00]] 版) <http://www.geocities.jp/okugesan_com/taishohyo/index.html>
-- [[大化]]-[[改暦]]前
-- 消失確認 [TIME[2019-05-13T11:04:52.100Z]]
-- [CITE@ja[和暦・西暦対照表〔インデックス〕-旧暦変換]] ([TIME[2019-05-13 20:04:23 +09:00]]) <https://web.archive.org/web/20190329032818/www.geocities.jp/okugesan_com/taishohyo/index.html>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1143] [CITE@ja[[[白雉]] とは - 【@nifty辞書 powered by コトバンク】]], [TIME[2020-05-04 17:55:46 +09:00]] <http://dictionary.nifty.com/word/%E7%99%BD%E9%9B%89-600351>
]FIGCAPTION]

>デジタル大辞泉
>[SNIP[]]
650年2月15日~655年1月?。びゃくち。

>大辞林 第三版
>[SNIP[]]
年号(650.2.15~654.10.?)。

]FIG]


]REFS]


*** 孝徳天皇白雉たる白鳳

[783] 
[[孝徳天皇]]や[[斉明天皇]]の時代を表す[[元号]]に[[白鳳]]があり、
主に[[奈良時代]]頃、
使われていました。
[[白雉]]の別名と考えられています。

;;
[2548] 
[[天智天皇]]時代の[[白鳳]] (>>978) 
や[[天武白鳳]] (>>617) とは同名ですが、
[[元年]]が違っています。
[[孝徳天皇]]時代を[[元年]]とする[[白鳳]]が、
[[天智天皇]]や[[天武天皇]]の時代を表すために使われることがあり、
同じ年でも年数が変わってくるので要注意です。

[871] 
[[平安時代]]以後[[白鳳]]とは[[天武白鳳]] (>>790)
との認識が一般的になったようです。
[[孝徳天皇]]時代の[[白鳳]]の用法は、
それ以後あまりみられなくなります。
[[天武白鳳]]に圧倒されたのは事実でしょうが、
[[孝徳天皇]]時代の[[白鳳]]がその後も細々と使われ続けたのか、
消えてなくなってしまったのかはわかりません。
(新規性のない文献はあまり紹介されないバイアスがあるでしょうから。)

-*-*-


[2082] 
[[伴信友]] (>>1038)
は、次の根拠を挙げて、
明らかに[[白鳳]]は[[白雉]]の別称だとしました。
[SRC[>>1731]]

- [2549] 
[CITE[大織冠伝]] (>>939)
に、
白鳳5年に[[孝徳天皇]]が[[崩御]]とあること。
それが
[CITE[日本書紀]]
の[[白雉]]5年と一致すること。
(>>2332)
- [2550] 
[CITE[古語拾遺]] (>>752) に、
[[孝徳天皇]]の[[白鳳]]4年とあること (>>1050)。
- [2551] 
[CITE[西宮記]] (>>2069) に、
[[白鳳]]とあり、
[[孝徳天皇]]の時代とみられること。
- [1842] 
[CITE[大鏡]]
のある本の注に、
[[斉明天皇]]の[[崩御]]が白鳳十三年辛酉とあること (>>2080)。
[CITE[大織冠伝]] (>>939)
の記述と一致し、
[[干支年]]の辛酉も一致すること。


[938] 
[[斎藤励]]
[SRC[>>556]]、
[[坂本太郎]] (>>517) [SRC[>>859 p.二〇八]]、
[[西山德]]
[SRC[>>937]]
は、
[CITE[藤氏家伝]] (>>939)
の検討 (>>2332)、
[CITE[古語拾遺]] (>>752)
の検討から、
[[孝徳天皇]]の[[白雉]]が[[白鳳]]とも呼ばれたとしました。
[[坂本太郎]]は、
[CITE[類聚三代格]] (>>1046)
も根拠に挙げました
[SRC[>>859 p.二〇八]]。

[1839] 
[[白雉]]と[[孝徳天皇]]時代の[[白鳳]]が同じであることは、
[[伴信友]]以来これといった有力な反論もなく、
通説となっています。
(同じでないとする説の例: >>550)

-*-*-

[2302] 
[[平安時代]]の
[CITE[口遊]] (>>1626) 
は、
初期[[元号]]の一覧に[[白鳳]]を挙げていましたが、
[[孝徳天皇]]の時代が[[大化]]から[[白雉]]までとし、
その次の[[白鳳]]をどの[[天皇]]とも結びつけていませんでした。

[1853] 
[[伴信友]] (>>1038)
は、
[[孝徳天皇]]の時代が[[大化]]から[[白鳳]]までとするべきで、
誤写だとしました (>>2071)。

[2576] 
[[坂本太郎]] (>>517) 
は、
[[天武白鳳]]が生じる過渡期の不安定な状態と考えました (>>1625)。

[REFS[
- [937] [CITE[[[粟原寺]]銅鐘盤銘に就いての二三の考察]],
[[西山德]],
昭和二十四年四月十二日報告,
[TIME[2020-01-30 18:32:25 +09:00]] <https://www.jstage.jst.go.jp/article/tja1948/7/1/7_1_33/_pdf/-char/en>


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[913] [CITE@ja[[[御祭神]]・御由緒 / 鷺宮咲前神社]], [TIME[2020-01-29 17:16:51 +09:00]] <http://www.sakisaki.net/yuisho.html>
]FIGCAPTION]

>白鳳元年(650)、第11代小崎邦平は、神託により抜鉾大神を神楽の郡(甘楽郡)蓬丘菖蒲谷に御遷座する。
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[909] [CITE@ja[福智上宮神社/[[福智町]]]], [TIME[2020-01-06 08:57:43 +09:00]] <http://www.town.fukuchi.lg.jp/soshiki/gakushu/syakaikyoiku/bunkazai/bunkazai4/247.html>
]FIGCAPTION]

>福智修験の発祥地で、白鳳元年(650年)に開山したと伝えられています。
]FIG]

]REFS]


**** 孝徳天皇時代の白鳳の終了時期


[2552] 
[[白雉]]の終了時期が明確でない (>>518) のと同様、
[[白鳳]]の終了時期もはっきりしません。
[CITE[日本書紀]]
に記載がないため依拠すべき規範がまったく存在しない反面、
[[白鳳]]の方が[[延長年号]]の用例は多いようです。


[1861] 
[[伴信友]] (>>1038)
は、
次のように考えました。
[SRC[>>1731]]

- [2553] 
[[白鳳]]は[[斉明天皇]]の時代まで使われ、
[[天智天皇]]の時代には使わなかったようにもみえます。
- [2554] 
しかし、
[[天智天皇]]は[[中華王朝]]の制度を多く取り入れていました。
-- [2555] 
代替わり直後も、
すぐに[[即位]]せず、
中華風に喪に服すべく、
[[称制]]というほど謙遜しているのです。
-- [2556] 
それなのに、
前の時代の[[元号]]である[[白鳳]]を停止するはずがありません。
- [2559] 
つまり[[天智天皇]]の時代にも[[白鳳]]が使われ続けました。
- [2560] その次の[[弘文天皇]]の時代も使われました。
- [2557] 
当時の[[元号]]の性質は、
後の時代ほど重視されるものではありませんでした (>>1837)。
-- [2558] 
それであまり使われなかったので、
後の時代に混乱して伝えられているのです (>>2109、>>2110)。

[759] 
[[斎藤励]]は、
[CITE[神皇正統記]]
が[[天智天皇]]時代に[[白鳳]]を挙げ (>>746)、
[[伴信友]]が[[天武天皇]]時代の前まで[[白鳳]]が使われたとするのは、
[CITE[藤氏家伝]] (>>642)
が白鳳14年とするのが根拠だろうが、正しくないとしました。
[SRC[>>556]]
[[斎藤励]]は、
[[斉明天皇]]が中継ぎで即位したから[[白鳳]]を継続したに過ぎないと考え、
[[天智天皇]]時代には当然継続されなかったものとしました (>>758)。

[2561] 
どちらの説も物証がなく、そう考えられなくもないという程度です。
[[白鳳]]と書かれた[[金石文]]は未だ発見されていません。
[CITE[日本書紀]]
には[[白鳳]]はありません。
[CITE[藤氏家伝]]
のうち、
[CITE[大織冠伝]]
が[[天智天皇]]時代に[[白鳳]]を使わないのは[[斎藤励]]の指摘通りですが、
[CITE[貞恵伝]]
は[[白鳳]]を使いました。
従って現存する[[奈良時代]]以前の史料では、
[[天智天皇]]時代を表すため[[白鳳]]を使うことも、使わないこともあったとしかいえません。



**** [CITE[藤氏家伝]] の白鳳



[2332] 
[CITE[藤氏家伝]] (>>642)
には、
「[[白鳳]]」が使われました。
[[孝徳天皇]]時代の[[白鳳]]の、
現存最古の用例とされます。

[939] 
[[伴信友]] (>>1038) [SRC[>>1731]]、
[[坂本太郎]] (>>517) [SRC[>>859 p.二〇八]]
は、
白鳳5年に[[孝徳天皇]]崩御とあるのが
[CITE[日本書紀]]
白雉5年と一致することを指摘しました。
[[西山德]]は、
[[白鳳]]が
[CITE[日本書紀]]
の[[白雉]]と一致することを指摘しました
[SRC[>>937]]。

[HISTORY[
[1079] 
[[昭和時代]]、
[[池辺眞榛]]は、
[[白鳳]]とは[[天武天皇]]の時代 (>>790) ゆえ、
[[白鳳]]は[[白雉]]の誤写としました
[SRC[>>937 ([CITE[古語拾遺新註]], 昭和十八年印行本五八六頁)]]。
当時はまだ[[天武白鳳]]の存在が研究者にも信じられていました。
]HISTORY]

[1242] 
[CITE[日本書紀]] 
の[[白雉]]は[[孝徳天皇]]の[[崩御]]の[[年]]までしか使われませんでしたが、
[CITE[藤氏家伝]]
の[[白鳳]]は[[孝徳天皇]]の[[崩御]]後にも使われたようです。
[CITE[大織冠伝]]
に
「十二年」、
「十三年」、
「十四年」
とありました。
順に素直に読めば (>>1231)、
白鳳12年、
白鳳13年、
白鳳14年となります [SRC[>>502 (>>550)]]。
白鳳13年までは[[斉明天皇]]の時代、
白鳳14年は[[天智天皇]]の時代に当たります。
[CITE[貞恵伝]]
に、
「白鳳十六歳次乙丑」
とありました。
[[天智天皇]]の時代に当たります。

-*-*-

[558] 
[CITE[大織冠伝]]
白鳳12年、13年、14年の記事は、
[CITE[日本書紀]]
の同内容の記事と、
1年のずれがみられました。
例えば、
[CITE[大織冠伝]]
14年の[[天智天皇]]の[[称制]]は、
[CITE[日本書紀]]
では
13年に相当するものでした [SRC[>>502]]。

[577] 
その前後、
白鳳5年 (>>939) や天智天皇摂政6年は
[CITE[日本書紀]]
と整合しています。
[CITE[貞慧伝]]
の
「白鳳十六歳次乙丑」
も天智天皇称制4年で、
[CITE[日本書紀]]
と整合しています
[SRC[>>502]]。

[2564] 
この
[CITE[日本書紀]]
との矛盾を解消するには、

- [2565] 白鳳5年や16年は正しく、[[白雉]]と[[白鳳]]は等しい。
白鳳12年、13年、14年は誤り。
- [2566] 白鳳12年、13年、14年は正しく、
[[白鳳]]は[[白雉]]と1年のずれがある (>>1840)。
白鳳5年や16年は誤り。

... のどちらかの解釈を採ることになります。
[CITE[藤氏家伝]]
が完全に正しく、
[CITE[日本書紀]]
の[[斉明天皇]]時代が1年ずれているという可能性もありますが、
そのためにはこの前後の
[CITE[日本書紀]]
の記事すべてを、
適宜1年ずらして時系列に矛盾がでないように調整しなければなりません。
これまでそれを検証した人がいるのかわかりませんが、
成立は難しいのではないでしょうか。
他にも複雑な解釈を考え得るかもしれませんが、
[CITE[藤氏家伝]]
だけを根拠にそのような説を実証するのは難しそうです。


[1841] 
[[伴信友]] (>>1038)
は、次のように主張しました。
[SRC[>>1731]]

- [2567] [[白雉]]と[[白鳳]]は同じです (>>2082)。
-- [2570] 
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
時に議論があって最初の[[白雉]]を残して[[白鳳]]に変えたことを削除したのです。
-- [2569] 
[CITE[日本書紀]] 
大化6年庚戌に[[白雉]]に[[改元]]とありますが、
5年己酉に[[白鳳]]に改められたとすれば、
一致します。
- [2568] 
[CITE[大織冠伝]]
は[[恵美押勝]]が大師のとき書いたものです。
[[元号]]や年次を適当に済ませたはずがありません。
-- [2571] 
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
前の当時の
[CITE[日本書紀]]
に基づいたため、
現存
[CITE[日本書紀]]
とのずれが生じたのです。

[2572] 
論理展開がやや不明瞭なのですが、
[[伴信友]]は[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
を議論の前提としており、
それ以前の
[CITE[日本書紀]]
と
[CITE[藤氏家伝]]
は一致していたと考えていたようです。
現在一致しないのは、
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
時の不手際で[[白雉]]が1年ずれてしまったためということでしょうか。


[1080] 
[[斎藤励]]は、
[[伴信友]]説について、
[CITE[藤氏家伝]]
より
[CITE[日本書紀]]
の方が当時に近いため、
[CITE[日本書紀]]
の誤りとは考えにくいとしました。
白鳳(白雉)5年、(天智)摂政6年は一致しているため、
12年、13年、14年が誤算だろうとしました。
[SRC[>>556]]

;;
[1245] 
誤算だとすると、
[CITE[藤氏家伝]]
著者が使った原資料には、
[[干支年]]や[[天皇即位紀年]]があったことが想定されます。
そうだとすると、
[[白鳳]] (や[[白雉]])
は当時使われた[[元号]]でなく、
[[奈良時代]]までに新たに使われるようになった[[紀年法]]だったのでしょうか。



[HISTORY[
[1243] 
[[所功]]は、
[[白鳳]]が[[斉明天皇]]と[[天智天皇]]の時代に使われたとする説に対し、
1年のずれを考慮すれば13年となり[[斉明天皇]]の時代に収まる14年 (>>558)
を除けば、
[CITE[大織冠伝]]
では[[天智天皇]]の時代に使われていないと指摘しました [SRC[>>502]]。
この指摘は
[CITE[大織冠伝]]
について正しいですが、
[CITE[貞慧伝]]
に白鳳16年がある以上、
些事に過ぎないと言わざるを得ません。
]HISTORY]

-*-*-

[1246] 
[CITE[貞恵伝]]
の白鳳5年にも
[CITE[日本書紀]]
と1年のずれが指摘されています [SRC[>>1078]]。

[2573] 
こちらは[[干支年]]も併記されており、
[[元号年]]と一致しているので、
単純な誤算とはいえません。
記事の内容も、
構成が違うので、
そもそも同じ時点を指しているのかどうかから検討が必要そうです。



-*-*-

[HISTORY[

[550] 
[[田村圓澄]]は、
[CITE[藤氏家伝]] (>>642)
上 ([CITE[大織冠伝]]、[CITE[貞慧伝]])
を根拠に、次のように推測しました。
[SRC[>>502]]

- [551] 
[[白鳳]]は[[高麗]]僧の[[道賢]] ([[道顕]]) 作の貞慧誄が初見であり、
[[道賢]]が[[斉明天皇]]・[[天智天皇]]の時代に着想したものである。
- [553] 
[[法興]]が[[聖徳太子]]没後使われなくなったように、
[[白鳳]]は[[中臣鎌足]]没 (白鳳20年 = 天智天皇8年)
後使われなくなった。
- [554] 
[[白鳳]]と[[白雉]]は、ほぼ同時期の別の[[元号]]である。
- [555] 
8世紀の[[藤原不比等]]や[[藤原光明子]]らにとって、
[[白鳳]]は[[藤原氏]]の草創の[[藤原鎌足]]や[[貞慧]]の時代であり、
公文書でもこの[[元号]]を使った。

[557] 
[[所功]] (>>255)
は、
[[中臣鎌足]]の死去まで用いられた、
[[藤原氏]]が特別な感情を持っていた、
といった点に疑問を呈しました。
根拠として[CITE[藤氏家伝]]の紀年 (>>558, >>577)
や、
天平9年[[太政官奏]] (>>1048) 
で[[白鳳]]時代と[[近江]]の[[天智天皇]]時代が区別されていたことを挙げました。
[SRC[>>502]]

[2562]
現存する史料から、
[[白鳳]]の[[元号]]と[[藤原氏]]を結び付けて考えるのは自然な流れです。
[[坂本太郎]] (>>517)
も、
[CITE[藤氏家伝]]
の[[白鳳]]から[[藤原氏]]と関係が深い[[多武峯]]を経て[[天武白鳳]]へとつながるルートを想定しました
(>>1455)。
しかし
[CITE[藤氏家伝]]
の[[紀年法]]
(>>1036)
は、
[[田村圓澄]]のいうほど[[白鳳]]と[[藤原氏]]の密接な関係を物語るようにはみえません。

]HISTORY]

**** 役小角伝承の白鳳


[2319] 
[[役小角]]は、
いわゆる[[白鳳時代]]の人物でした。
その人物像は、
確かな情報がほとんど残されていません。
死後、
[[修験道]]の開祖として崇められるようになり、
伝承が発展しました。

[2575] 
伝承にはよく[[白鳳]]が出てきます。
古いものとして、
[[平安時代]]後期までに成立したとされる、
[CITE[箕面寺縁起]] (>>2285)
と
[CITE[扶桑略記]] (>>666) 所引 [CITE[役公伝]] 
があります。
ここで使われている[[白鳳]]は主に
2種類あって、
1つは●: [TIME[白雉元(650)年[LINES[庚][戌]]][year:650]]が[[元年]]、
もう1つは△: [TIME[白雉2(651)年[LINES[辛][亥]]][year:651]]が[[元年]]でした。


[FIG(table)[

:y: [[年]]
:m: [CITE[箕面寺縁起]] (>>2285)
:i: [CITE[一代要記]] (>>1735) 所引 [CITE[箕面縁起]]
:t: [CITE[当麻寺流記]] (>>2390) 写本所引 [CITE[箕面寺縁起]]
:f: [CITE[扶桑略記]] (>>666) 所引 [CITE[役公伝]] 
:r: その他
:note: メモ

:m: [[舒明天皇]]「第六年歳次甲午正月一日」 (>>2293)
:note: [[役小角]]誕生
:i: 天武天皇白鳳元年 (>>1749)
:y:
[TIME[舒明6(634)年[LINES[甲][午]]][kyuureki:634-01-01]]
:t:
「舒明天皇◦㐧六年歳次甲午正月一日」 (>>2392)


:y: [TIME[天智称制9(670)年[LINES[庚][午]]][kyuureki:670-03-17]]
:m: 「白鳳卄年歳次庚午春三月十七日」 (>>2294) △
:i:
「白鳳二十年庚午」 (>>1752) △、
[[伴信友]]
「白鳳廿年庚午」
[SRC[>>1731]] △

:m: 「同年四月十七日夜」 (>>2295)

:m: 「同年十月十七日甲午」 (>>2296)
:r: 
[CITE[色葉字類抄]] (>>2320)
「白鳳卄一年十月十七日甲午」 (>>2323)、
[CITE[色葉字類抄]] (>>2320)
「白鳳二十一年辛未十月十七日」 (>>2324) △

:y: [TIME[天智称制10(671)年[LINES[辛][未]]][kyuureki:671-01-08]]
:m:「白鳳卄[RUBY[二][イ一]]年歳次辛未正月八日」 (>>2297) [RUBY[●][△]]
:note:
[[金峯山]]登山

:y: [TIME[持統5(691)年[LINES[辛][卯]]][year:691]]
:r:
[CITE[大和葛城宝山記]] (>>2303)
所引
[CITE[金剛山縁起]] 
「白鳳四十年辛卯三月」 (>>2306)


:y: [TIME[持統11(697)年[LINES[丁][酉]]][kyuureki:697-02-10]]
:m:「同卌八年歳次丁酉二月十日」 (>>2299) ●
:note:
[CITE[続日本紀]]
[TIME[文武3(699)年[LINES[己][亥]]5月[RUBY[丁丑][24]]][kyuureki:699-05-24]]「役君小角流于伊豆嶋」
:i:
文武元年丁酉注釈
「白鳳四十八年丁酉二月十日」 (>>1758) ●
:f:「[RUBY[藤原宮御宇][持統]]天皇代白鳳四十七年丁酉歲二月十日」 (>>675) △
:r:
[CITE[類聚既験抄]] (>>2307)
「藤原宮御宇文武天皇白鳳卅七年二月十日」 (>>2311)
:t:
「持統天皇御宇 [SNIP[]] 歳次丁酉二月十日」 (>>2393)


:y: [TIME[文武4(700)年[LINES[庚][子]]][kyuureki:700-02-25]]
:m:「同五十一年歳次庚子二月卄五日」 (>>2300) ●
:i:
文武三年己亥
「[RUBY[朱鳥十三][白鳳五十一]]年二月二十五日」 (>>1758) [RUBY[_][△]]
:f:
「白鳳五十六年十二月廿五日」 (>>675)
:note:
文武3年 = 持統13年 = 書紀朱鳥14年
:r:
[CITE[類聚既験抄]] (>>2307)
「白鳳五十二年十二月廿五日」 (>>2311)


:m:
「大寳元年歳次辛刃正月一日」 (>>2301)
:y:
[TIME[大宝元(701)年[LINES[辛][丑]]][kyuureki:701-01-01]]
:note:[[遡及年号]]
:f:
「大寶元年辛丑正月一日」 (>>675)
:t:
「大寳元年歳次辛刃正月一日」
(>>2394)

]FIG]



[1536] 
[CITE[扶桑略記]]
に引用された
[CITE[役公伝]]
の内容は
[CITE[日本霊異記]]
(>>1378)
系統の[[役小角]]伝承とされます。
[CITE[日本霊異記]]
上巻28
に似た内容の話がありますが、完全には一致せず、文章としても異なります。
[CITE[日本霊異記]]
には
「所以晚年以四十餘歲」
「藤原宮御宇天皇之世」
「大寶元年歲次辛丑正月」
とありました
[SRC[>>1382]]。
[[白鳳]]何年とはこの伝承に後から、
[[平安時代]]中期から後期頃に付け加えられたのでしょうか。


[2334] 
[CITE[扶桑略記]]
は、この[[白鳳]]の他に、
[[天武白鳳]]を記述していました。
著者は[[天武白鳳]]を正しいと考え、
[CITE[役公伝]]
の[[白鳳]]を不審とみていたようです
(>>1531)。


[1759] 
[CITE[箕面寺縁起]]
と
[CITE[扶桑略記]] 所引 [CITE[役公伝]] 
の前後関係は不明ですが、
[CITE[扶桑略記]]
の記述は不審でした。
白鳳47年 → 白鳳56年 → 大宝元年の順に記述されていましたが、
白鳳56年は大宝元年より後になります。
白鳳47年と大宝元年に[[干支年]]が併記されているのに、
白鳳56年だけ年数のみです。
「一(年)庚子」が雑に書かれて「六(年)十」
と誤読された可能性は検討する価値がありそうです。


[2317] 
白鳳20/21年10月17日だけ「甲午」と[[日干支]]が付されているのは不審です。
[CITE[[[日本の暦日データベース]]]]
の使っている[[旧暦]]に從うなら、
この付近で10月17日の[[日干支]]が甲午となるのは、
[TIME[和銅3(710)年][kyuureki:710-10-17]]です。
なにかが間違っているようです。

[2817] 
白鳳20年''庚''午の[[年干支]]が原形だった可能性もあります。



[2397] 
[CITE[当麻寺流記]]
写本に
[CITE[箕面寺縁起]]
が引用されていますが (>>2390)、
[[白鳳]]の[[元号年]]が省略されています。
引用に使った
[CITE[箕面寺縁起]]
の時点ですでに省略されていたのでしょうか。
それとも引用者が不審に思って省略したのでしょうか。



- [2905] [CITE@ja[国書データベース]], [TIME[2024-07-09T06:22:03.000Z]] <https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100371627/26?ln=ja>

白鳳47年、白鳳56年

-*-*-

[2574] 
より新しい時代の文献には、[[役小角]]関係の伝承で、
他の[[白鳳]]も見られるようになります。


**** 白雉より1年早い白鳳

[1840] 
[CITE[大織冠伝]] (>>939)
の[[斉明天皇]]時代に当たる白鳳12年、13年、14年は、
[[白雉]]と等しい[[孝徳天皇]]時代の[[白鳳]]だと解釈すると、
[CITE[日本書紀]]
と1年ずれています [SRC[>>1731]]。
この部分が[[白雉]]と一致すると仮定すると、
[[元年]]は1年早い[TIME[孝徳天皇5(649)年[LINES[己][酉]]][year:649]]となります。
(もちろん、
[[孝徳天皇]]の[[崩御]]など他で1年のずれが生じます。)

[HISTORY[

[2563] 
[[伴信友]] (>>1038)
は、
[CITE[大織冠伝]]
は
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614) 
前の状態を伝えていると考えました。
それによると元の
[CITE[日本書紀]]
の[[白雉]] = [[白鳳]]は、
現在の
[CITE[日本書紀]]
の[[白雉]]より1年早いものでした (>>1841)。

[751] 
[[斎藤励]]は、
[[伴信友]]説を、

- 大化 孝徳天皇乙巳から戊申(己酉)まで4(5)年間
- 白雉・白鳳 孝徳天皇己酉(庚戌)から[[天智天皇]]辛未まで23(22)年間、
[[弘文天皇]]壬申を加えると推測すれば24(23)年間

... と紹介しました。括弧内が[[伴信友]]の説明で、
括弧外は[[斎藤励]]が[[伴信友]]の論旨から調整したものだといいます。
[SRC[>>556]]
括弧内の[[伴信友]]の説明は、
[[伴信友]]が結論としてまとめたものでした。
括弧外の[[伴信友]]の論旨とは、
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614) 
前と[[伴信友]]が考えたもののようです。
[[伴信友]]の書き方がやや不明瞭なため、
真意はよくわかりません。

;; [2538] 
なお、
[[弘文天皇]]壬申年 
[WEAK[([[天武天皇]]の[[朱雀]]改元以前)]]
について[[伴信友]]は一応「白鳳廿三年」と書いていました (>>2098)。

]HISTORY]



[756] 
[[斎藤励]]は、
[CITE[藤氏家伝]] 
に基づき、
[[白雉]] = [[白鳳]]は[[斉明天皇]]時代も引き続き使われたとしました。
[CITE[藤氏家伝]]
の1年のずれは、換算の誤りとしました。
(>>1080)
[SRC[>>556]]
此れ以後、
換算ミスが通説となっているようです。

;;
[2577] 
[CITE[藤氏家伝]]
が換算をミスしたとすると、
その原資料は[[白鳳]]表記ではなかったことになります。
すると
[CITE[藤氏家伝]]
に基づき[[斉明天皇]]時代も[[白鳳]]が使われたとする[[斎藤励]]の説は、
根拠として弱くなってしまいます。


**** 白雉と1年遅い白鳳

[848] 
[CITE[扶桑略記]]
などの[[役小角]]伝承には、
[[白鳳]]の[[元号]]を使って[[持統天皇]]や[[文武天皇]]の時代を表現した例がみられました
(>>2319)。
[[孝徳天皇]]の後十数年が経過した時代ですが、
[[元年]]は[[白雉]]と同じか、
1年遅れて[TIME[孝徳天皇白雉2(651)年[LINES[辛][亥]]][year:651]]に当たるものでした。


[1862] 
[[伴信友]] (>>1038)
は、
[CITE[一代要記]] (>>1735)
[[天智天皇]]の條所引の
[CITE[箕面寺縁起]] (>>2285)
に、
「白鳳廿年庚午」
とあること、
[CITE[色葉字類抄]] (>>2320)
[[箕面寺]]の下に、
「白鳳二十一年辛未十月十七日云々」
とあること (>>2324)
を引いて、
年次と干支が一致するので同じ縁起の文にみえるとした上で、
白雉2年が元年で
[CITE[大織冠伝]]
と1年ずれているとしました。
仏僧の作り話が混じった縁起なので事実は信用できないが、
年代書などによって年号を決めたものだろうとし、
1年ずれているのは依拠した本がずれていたのか、
記載時に誤ったのか、
とみていました。
[SRC[>>1731]]





[849] 
1年ずれた[[大化]] (>>1399)
にちょうど接続しますが、
関連性は不明です。


[851] 
[[白雉]]の[[延長年号]]だとしても、
[[天武天皇]]の[[朱鳥]]の時代より更に後の時代をあえて[[白鳳]]で表した理由が謎です。
当該記事は[[文武天皇]]の時代に流罪になった[[役小角]]に関するものですから、
政府批判的な態度で[[延長年号]]を使ったという可能性はあるでしょうか。
しかし
[CITE[扶桑略記]]
成立は摂関期、
[[源平合戦]]すら経験していない時代です。
それより前に作られた逸話にそのような考え方はあり得るのか疑問があります。

[850] 
[[朱鳥]]が忘れられた年代記の類があって、
[[孝徳天皇]]の[[白雉]]時代以後[[文武天皇]]の[[大宝]]まで、
ずっと[[白鳳]]で数えることでもあったのでしょうか。
[[持統天皇]]や[[文武天皇]]の時代まで何十年も離れていますから、
数え間違えて1年ずれるようなことも起こり得そうです。




** 斉明天皇

[71] 
[[孝徳天皇]]のあと、
[[斉明天皇]]が[[即位]]しました。
[[斉明天皇]]は[[皇極天皇]]の[[重祚]]でしたが、
[CITE[日本書紀]]は[[皇極天皇即位紀年]]でも[[白雉]]の続きでもなく、
二度目の即位の年 (白雉6年) を
「元年」としていました [SRC[>>69]]。


[1104] 
[CITE[日本書紀]]
[TIME[持統天皇4(690)年][year:690]]10月に、

>
[TIME[乙丑][kyuureki:690-10-22]]。詔[SUB[二]]軍丁筑紫國上陽咩郡人大伴部博麻[SUB[一]]曰。於[SUB[下]]天豐財重日足姫天皇七年救[SUB[二]]百濟之役[SUB[上]]。
汝爲[SUB[二]]唐軍[SUB[一]]見[SUB[レ]]虜。

... とあり (続き >>1105)、
引用された[[詔]]の文中で[[斉明天皇即位紀年]]で[TIME[斉明天皇7(661)年][year:661]]が言及されました
[SRC[>>859 p.二一一, >>837]]。


[852] 
この時代の記述には、
[[斉明天皇即位紀年]]の他に、
[[白雉]]の[[延長年号]]たる[[白鳳]] (>>783) を使ったものや、
[[異年号]]である[[宝元]] (>>299) を使ったものがみられます。
しかしいずれも
[CITE[日本書紀]]
成立以後のもので、
当時使われたかどうか定かではありません。
当時使われたことが確かなのは、
[[金石文]]や[[木簡]]にみられる[[干支年]]だけです。


[REFS[
- [1106] [CITE@ja[[[斉明天皇]] - Wikipedia]], [TIME[2020-04-19 18:01:44 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87#%E5%9C%A8%E4%BD%8D%E5%B9%B4%E3%81%A8%E8%A5%BF%E6%9A%A6%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%AF%BE%E7%85%A7%E8%A1%A8>
]REFS]

*** 宝元

[299] [[西琳寺]]の金堂阿弥陀仏光背銘に「寳元五年己未」
とあったと
[CITE[西琳寺縁起]]
([[鎌倉時代]]成立)
に記録されており、
[TIME[斉明天皇5年][year:659]]と解されています。
[[宝皇女]] ([[斉明天皇]])
の[[天皇即位紀年]]たる[[異年号]]と考えられています。
[SEE[ [[宝元]] ]]


** 天智天皇

[2579] 
[[天智天皇]] ([[中大兄皇子]])
は、
[TIME[斉明天皇7(661)年7月24日][kyuureki:661-07-24]]の[[斉明天皇]]の[[崩御]]に伴い[[称制]]し、
[TIME[天智天皇7(668)年1月3日][kyuureki:668-01-03]]に[[即位]]しました。


[73]
[CITE[日本書紀]]
は、
[[天豐財重日足姫天皇]] ([[斉明天皇]]) 紀に7年末まで[[斉明天皇]]に関する記事を掲載し、
[[天命開別天皇]] ([[天智天皇]]) 紀に[[斉明天皇]]7年の[[崩御]]から後の記事を掲載しました。
約半年分、期間がかぶる形となっていました。
この半年は、
[[天智天皇]]紀でも[[斉明天皇]]の「七年」とされました。
その次の年が[[天智天皇]]の「元年」とされ、
「十年」まで記事が続きました。
[SRC[>>69, >>72]]

[2580] 
現在の[[各種対照表など][元号一覧]]もこれに倣っているものが多いようですが、
異説もあります。 [SEE[ [[元号一覧]] ]]

[886] 
[CITE[Wikipedia]] 
の[[斉明天皇]]記事の表は、
斉明天皇7年まで示した後、
8年と9年を括弧付きで示しました。
[SRC[>>1106]]
その意図は不明です。

[2882] 
[CITE[日本国志]] (>>2881) は[[天智天皇]]の[[即位]] (≠ [[称制]])
までを[[斉明天皇]]の[[天皇即位紀年]]によっています。

-*-*-

[143] 
[TIME[斉明天皇7(661)年][year:661]]を天智天皇元年とするものがあります。
つまり一般的な数え方より1年早く (大きく) なります。
[[天智天皇]]の[[称制]] (事実上の[[代替わり]])
がこの[[年]]だったことを重視したものとみられます。

[547] 
この方式を採用した例として、
[CITE[万葉集]]左注引用[CITE[日本紀]]
[SRC[>>502 ([CITE[[CITE[万葉集]]の紀年]], [[岡田芳朗]], [CITE[日本古代史の諸問題]], 昭和43年刊)、>>447]]、
[CITE[日本年号史大事典]] 巻末年号対照表 (>>181)
などがあります。
[[天智天皇]]時代の[[白鳳]]の多数説の[[元年]]も、
この方式に由来するものでしょうか (>>1682)。

[2584] 
[CITE[Wikipedia]]
の[[天智天皇]]記事は、
冒頭で[[称制]]と ([CITE[日本書紀]] 方式の) [[元年]]の1年のずれに注意を促しながら、
歴史の章でこれを混同しそうな曖昧な記述をしていました。
[SRC[>>136]]

-*-*-

[222] 
[TIME[天智天皇7(668)年][year:668]]に[[天智天皇]]は正式に[[即位]]しました。
そこでこの[[年]]を天智天皇元年とするものがあります。
[CITE[日本書紀]]
自体に次のような6年ずれた記事があり、
[[元年]]の決め方の違いによるものとされています。

[221] [CITE[日本書紀]]
天武天皇即位前紀に、
「天命開別天皇元年立爲東宮。
四年冬十月庚辰。 [SNIP[]]
十二月。天命開別天皇崩。」
とありました [SRC[>>74]]。
[[天智天皇]]の時代に[[天武天皇]]が[[皇太子]]となったこと、
[[天智天皇]]が重病となったこと、
[[天智天皇]]が[[崩御]]したことが、
[[天智天皇]]の1年と4年の出来事と説明されていました。
これに相当する天智天皇紀の記事は、
それぞれ7年、10年となっていました
[SRC[>>72]]。
つまり6年のずれがありました。

[1105] 
[CITE[日本書紀]]
[TIME[持統天皇4(690)年10月乙丑][kyuureki:690-10-22]]条に、

>
詔[SUB[二]]軍丁筑紫國上陽咩郡人大伴部博麻[SUB[一]]曰。 [SNIP[]]
洎天命開別天皇三年。土師連富杼、氷連老、筑紫君薩夜麻、弓削連元寶兒四人、思欲奏聞唐人所計、縁無衣粮、憂不能達。 [SNIP[]]

... とあり (>>1104 の続き)、引用された[[詔]]の文中に
「天命開別天皇三年」 (天智天皇3年)
とありました。
記述内容の整合性より、
[TIME[天智天皇9(670)年][year:670]]と解されています
[SRC[>>837]]。
つまり6年のずれがありました。

-*-*-

[2581] 
[CITE[日本書紀]]
が採用する天皇[VAR[何]]年の書き方を一般に[[天皇即位紀年]]などと呼び慣わし、
「[VAR[何々]]天皇[VAR[何]]年」
のように書いていますが、
[[天智天皇]]の場合
「天智天皇3年」
と書いても3通りの解釈が生じます。
[CITE[日本書紀]]
に有る書き方という意味で
「(日本)書紀[VAR[何々]]天皇[VAR[何]]年」
のような書き方もあり得るのですが、
[[天智天皇]]の場合
[CITE[日本書紀]]
だけでも2通りの解釈があります。
「天皇即位紀年」
という総称も[[天智天皇]]については紛らわしい呼び方です。

[2582] 
そこで
「天智天皇称制[VAR[何]]年」、
「天智天皇即位[VAR[何]]年」
のように書き分けることがあります。
ところがこの書き方も、
[CITE[日本書紀]]
の[[称制]][VAR[何]]年は[[称制]]の翌年が[[元年]]なので、
1年分の解釈のずれが生じ得ます。
また、
[[即位]]後を
「天智天皇称制8年」
のように書くのは違和感があるかもしれません。
[[即位]]何年は明白かと思いきや、
他の[[天皇]]でも
「[VAR[何々]]天皇[VAR[何]]年」
を別称で
「[VAR[何々]]天皇即位[VAR[何]]年」
と書くことがあって、
[[天智天皇]]でも深く考えず「即位」
と書いている可能性を捨てきれません。


[414] 
[[平成時代]]の[[日本政府]]
[WEAK[([[内閣総理大臣]]名、おそらく[[宮内庁]]職員作成)]]
の文書で、
[CITE[日本書紀]]
から引いて
「天智天皇称制六年二月二十七日」
と述べた例がありました [SRC[>>411]]。
[CITE[日本書紀]]
そのものにある表記ではなく、
担当者の判断で補ったのか、
参照した文献がこう書いて明確化していたのでしょう。


;; [2587] 
ところで、
[[天智天皇]]の治世より前の事跡は[[中大兄皇子]]という名前で紹介されることが多いようです。
[[称制]]期間は、どちらの呼び名で言及されることもあるようです。
すると
「中大兄皇子[VAR[何]]年」
や
「中大兄[VAR[何]]年」
のような言い方があっても良さそうなのですが、
ほとんどみられません。

-*-*-

[2601] 
現存する[[金石文]]は、
当時を[[干支年]]で書き表していました。
[[天皇即位紀年]]の現存最古は
[CITE[日本書紀]]
とみられます。
[[天皇即位紀年]]が当時使われたものかどうか確証はありません。
確かに言えるのは、
[CITE[日本書紀]]
編纂の時代までに
2種類の数え方が成立していた 
[WEAK[(そして混乱もあった)]]
ことくらいです。
[CITE[日本書紀]]
所収の[[詔]]
(>>1105)
が原文そのままであるなら、
[[持統天皇]]時代にそのうち1種が既に成立していたことになります。


[2583] 
[CITE[藤氏家伝]] (>>642)
は、
「摂政六年」
の次の
「七年」
に[[天智天皇]]が[[即位]]したと書き、
その翌年を
「即位二年」
と書きました。
つまり
[CITE[日本書紀]]
の2つの[[天智天皇即位紀年]]に相当するものを、
「摂政」と「即位」と呼んでいました。


[2279] 
[CITE[大日本史]] (>>2280)
は、
即位年からの[[天皇即位紀年]]を採用しました。
[[称制]]時代は
「壬戌歳」
など[[干支年]]で記述されました。
[SRC[>>2278]]


[2109] 
[[伴信友]] (>>1038)
は、
次の事例を挙げて、
[[天智天皇即位紀年]]に2種類あると指摘しました。
[[伴信友]]は、
[[天智天皇]]当時は[[孝徳天皇]]時代の[[白鳳]] (>>783) 
を使い続けていたとしました。
[[天智天皇即位紀年]]の混乱は、
後の時代に生じたものとしました (>>1861)。
[SRC[>>1731]]

- [1858] 
[CITE[大織冠伝]] (>>642)
は、
[[天智天皇]]の時代の始まりを、
「皇太子攝政元年[LINES[壬][戌]]其七年[LINES[戊][辰]]をもて、卽位元年と立て記」
([[縦書き]])
しました。
- [1859] 
[CITE[日本書紀]]
天智天皇10年冬10月庚辰と天武天皇即位前紀天智天皇4年の[[天智天皇]]の病気の記事は、
後者が即位年を元年としたものでした (>>221)。
- [1860] [CITE[興福寺縁起]] に即位年を元年とした例がありました (>>2079)。

[761] 
[[斎藤励]]は、
[CITE[藤氏家伝]] (>>642)
に基づき、
[[天智天皇]]時代は摂政何年、即位何年と数えていたとしました。
[[斉明天皇]]は中継ぎで即位したので前の時代の[[白鳳]]の[[元号]]を使い続けたのであり、
[[天智天皇]]の時代になったら使わなくなったのは明らかとしました (>>759)。
[SRC[>>556]]


-*-*-


[1045] 
[CITE[藤氏家伝]] (>>642)
の
[CITE[大織冠伝]]
には、[[天智天皇]]の摂政の7年、
すなわち天皇即位の年に、
「刊定律令」
とありました。
[[近江令]]を指しています。


[273] 
[[平安時代]]の[[日本の法令]]集
[CITE[弘仁格式]]
[WEAK[([TIME[弘仁11(820)年4月21日][kyuureki:820-04-21]]成立も現存せず)]]
の序文
[WEAK[([CITE[類聚三代格]] [WEAK[(11世紀頃成立 >>1046)]] 所収 [SRC[>>1043]], [CITE[本朝文粋]] [WEAK[([RUBYB[康平年間][[TIME[1058][year:1058]]-[TIME[1065][year:1065]]]]成立)]] 所収 [SRC[>>1044]])]]
に、
「降至天智天皇元年制令廿二巻世人所謂近江朝廷之令也」
とありました。
[[近江令]]成立を「天智天皇元年」としました。


[878] 
[CITE[本朝法家文書目録]]
に
「令廿二巻。天智天皇元年作。近江令是也」
とありました。
[SRC[>>879 p.一九]]

[877] 
[CITE[本朝書籍目録]]
[WEAK[(13世紀頃成立)]]
に「令[LINES[天智天][皇元年]]廿二巻[LINES[近江令][是也]]。」
とありました。
[SRC[>>879 p.一九]]

;; [880] 
[[坂本太郎]]は[[弘仁格式序]]
→
[CITE[本朝法家文書目録]]
→
[CITE[本朝書籍目録]]
と[[コピペ]]を推測しました。
根拠の1つに「天智天皇元年」の一致を挙げました。
[SRC[>>879 p.一九]]


[275] [CITE[Wikipedia]] の[[近江令]]記事は、
「「天智天皇の命令により藤原鎌足が天智元年(668年)に律令を編纂した」(『藤氏家伝』大織冠伝)」、
「正史の『日本書紀』には近江令制定の記事はない。しかし、天智9年(670年)条 [SNIP[]]。天智10年(671年)に [SNIP[]]。」
と書きました [SRC[>>274]]。
括弧内の[[西暦年]]を誰がどのような根拠で補ったか不明ですが、
元年と9年の[[西暦年]]が2年差で、
明らかに矛盾しています。
前者は[[即位]]紀年、後者は[[称制]]紀年です。

-*-*-

[2585] 
次の時代との境界も[[壬申の乱]]の混乱期に当たり、
複数の数え方があります
(>>368)。


[FIG(table)[ [1107] [[天智天皇]]時代

:w: [[西暦]]
:k: [[干支]]
:3: 称制当年 (>>143)
:1: 称制翌年 (>>73)
:2: 即位 (>>222)
:s: 斉明延長 (>>886)
:note: メモ

:w: [TIME[661][year:661]]
:k: [[辛酉]]
:note: 斉明7年[[崩御]]、
天智[[称制]]
:3: 1
:s: 7

:w: [TIME[662][year:662]]
:k: [[壬戌]]
:1: 1
:note: 
:3: 2
:s: 8

:w: [TIME[663][year:663]]
:k: [[癸亥]]
:1: 2
:3: 3
:s: 9

:w: [TIME[664][year:664]]
:k: [[甲子]]
:1: 3
:3: 4

:w: [TIME[665][year:665]]
:k: [[乙丑]]
:1: 4
:3: 5

:w: [TIME[666][year:666]]
:k: [[丙寅]]
:1: 5
:3: 6

:w: [TIME[667][year:667]]
:k: [[丁卯]]
:1: 6
:3: 7

:w: [TIME[668][year:668]]
:k: [[戊辰]]
:1: 7
:2: 1
:note: 天智[[即位]]
:3: 8

:w: [TIME[669][year:669]]
:k: [[己巳]]
:1: 8
:2: 2
:3: 9

:w: [TIME[670][year:670]]
:k: [[庚午]]
:1: 9
:2: 3
:3: 10

:w: [TIME[671][year:671]]
:k: [[辛未]]
:1: 10
:2: 4
:3: 11

:w: [TIME[672][year:672]]
:k: [[壬申]]
:1: 11
:2: 5
:note: 天智[[崩御]]、
[[壬申の乱]]、
天武1年
:3: 12

]FIG]

[2588] 主要な[[元号名スロット]]の値:

- [2589] 称制当年 (>>143)
-- 「天智天皇」
- [2590] 称制翌年 (>>73)
-- 「天智天皇」
-- 「天命開別天皇」
-- 「天智天皇称制」
-- 「天智称制」
-- 「天智摂政」 [SRC[>>2633 p.275]]
-- 「称制」
-- 「摂政」
- [2591] 即位 (>>222)
-- 「天智天皇」
-- 「天命開別天皇」
-- 「天智」
-- 「天智天皇即位」
-- 「即位」

[REFS[
- [1044] [CITE@zh[[[弘仁格序]] - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2020-04-07 20:40:10 +09:00]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%BC%98%E4%BB%81%E6%A0%BC%E5%BA%8F>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[898] [CITE[天武持統天皇陵]], [TIME[2014-04-11 11:28:57 +09:00]] <http://inoues.net/tenno/tenmujitou.html>
]FIGCAPTION]

>鵜野讃良(うののさらら)は斉明天皇3年(657)、13歳で叔父の大海人皇子に嫁いだ。斉明7年(661)、斉明天皇の新羅遠征の
際、夫と共に九州へ随行し、翌年筑紫の「那の津」で草壁皇子を産む。同年、父中大兄皇子が皇位を継承し(天智天皇)、夫の大海
人は皇太子となる。天智称制6年頃までには、姉の大田皇女の後、鵜野讃良が大海人皇子の正妻になったものと思われる。
やがて天智天皇は弟ではなく、実子の大友皇子を後継者に望み、大海人皇子は身の危険を察して、天智10年(671)吉野に隠遁。
鵜野讃良も草壁を伴いこれに従った。天智11年壬申の乱勃発。大海人皇子は大友皇子を破り、天武元年(672)、飛鳥浄御原宮で
即位し鵜野讃良も皇后となる。以後夫を輔佐し、ともに律令国家建設に尽力した。吉野宮での六皇子の盟約を経て、天武6(680)
年、我が子「草壁皇子の立太子」を実現する。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[411] 内閣衆質一七六第一七七号
[CITE@ja[衆議院議員吉井英勝君提出陵墓の治定と祭祀に関する再質問に対する[[答弁書]]]],
[[内閣総理大臣]][[菅直人]],
平成二十二年十一月二十六日 ([TIME[2019-08-23 09:26:04 +09:00]]) <http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b176177.htm>
]FIGCAPTION]

>「日本書紀」には、天智天皇称制六年二月二十七日に斉明天皇と間人皇女が小市岡上陵に合葬され、大田皇女がその陵前に埋葬されたことについての記述があり、
]FIG]

- [274] [CITE@ja[近江令 - [[Wikipedia]]]] ([TIME[2019-06-10 00:40:20 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E4%BB%A4>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[837] [CITE@ja[[[筑紫薩夜麻]] - Wikipedia]], [TIME[2020-04-20 19:33:48 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E7%B4%AB%E8%96%A9%E5%A4%9C%E9%BA%BB>
]FIGCAPTION]

>ここで言う「天智天皇の3年」は、天皇が即位して3年目という意味と推測され、称制9年のことである。そのように考えると、上記の史料にある「天智天皇10年」(即位4年)に帰国したという記述と符合する。
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1109] [CITE@ja[[[蘇我安麻呂]] - Wikipedia]], [TIME[2020-04-12 16:54:10 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%98%87%E6%88%91%E5%AE%89%E9%BA%BB%E5%91%82>
]FIGCAPTION]

>天智天皇4年(671年)に天智天皇が病気によって重態となった際、 [SNIP[]]
小花下は天智天皇3年(664年)以前の冠位制度に基づいた名称であることから、壬申の乱後幾ばくも経たない頃に早世したと考えられる。 

前者は即位年、後者は称制年。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1110] [CITE@ja[10月17日【今日は何の日?】671年 病臥した[[天智天皇]]が大海人皇子に後事を託すが、大海人はこれを断り、内裏の仏殿で出家して吉野へ隠退する | おおつうしん]], 
2016.10.17,
[TIME[2020-04-26 16:55:54 +09:00]] <https://oo24n.jp/today/today-1017.html>
]FIGCAPTION]

>>天智天皇は、病がいよいよ深くなった10年(671年)10月17日に、大海人皇子を病床に呼び寄せて、後事を託そうとした。

>>天智天皇4年(671年)に天智天皇が病気によって重態となった際、大海人皇子(後の天武天皇)を病床に呼ぶための使者を務める。

]FIG]

;; [758] 
いずれも [CITE[Wikipedia]] (の別の記事) からの引用。2つの同内容で異なる[[年号]]の記事を並べているのに、
この記事の[[著者]]は何の注記もしていない。 (内容の齟齬に気づいてすらいない?)

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2593] [CITE@ja[第38代・[[天智天皇]]の称制と皇位継承 | WEB歴史街道]], 
2019年09月18日 公開,
[[吉重丈夫]],
[TIME[2020-08-13 20:23:18 +09:00]] <https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6847#:~:text=%E7%BF%8C%E5%B9%B4%E3%81%AE%E7%9A%87%E7%B4%801322%E5%B9%B4,%E5%88%B6%E5%85%83%E5%B9%B4%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8B%E3%80%82>
]FIGCAPTION]

>※本稿は、吉重丈夫著『皇位継承事典』(PHPエディターズグループ)より、一部を抜粋編集したものです。


> 翌年の皇紀1322年= 称制元年(662年)、中大兄皇子は、先帝・斉明天皇崩御で、即位せずに政務を執る、いわゆる「称制」を開始され、称制元年となる。
>[SNIP[]] 皇統譜には称制元年とある。

> 皇紀1327年=称制6年(667年)3月19日、近江国滋賀大津宮(現在の大津市)へ遷都される。[SNIP[]]
>皇紀1328年=天智7年(668年)1月3日、先帝の斉明天皇が崩御されてから、皇太子・中大兄皇子は長い間皇位に就かれず皇太子のまま称制されたが、ようやくここで正式に即位される。[SNIP[]]

;; >>2595 ではまた別の表記。

]FIG]

- [2602] [CITE@ja[天智天皇の即位は668年なのに664年が天智3年なのは何故ですか?... - [[Yahoo!知恵袋]]]], 
2020/5/31 11:47:56,
[TIME[2020-08-17 17:32:12 +09:00]] <https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11225981161>

]REFS]

@@
[1543] 
[CITE@ja[水鏡詳解 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[江見清風]], [TIME[1903序][year:1903]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992843/117>

*** 天智天皇時代の白鳳

[978] 
[[天智天皇]]の時代を中心に[[白鳳]]の[[元号]] (>>783)
を当てる説が、
[[中世]]頃から現在までみられます。
[TIME[斉明天皇7(天智天皇称制0、661)年[LINES[辛][酉]]][year:661]]を[[白鳳]]元年とする説を採るものが多いですが、
[TIME[天智天皇称制元(662)年[LINES[壬][戌]]][year:662]]を[[白鳳]]元年とする説も少数みられます。

[1682] 
[CITE[日本書紀]]
は壬戌年を[[天智天皇]]の[[元年]]としますが、
[[斉明天皇]]が[[崩御]]し[[天智天皇]]が[[称制]]したのは辛酉年でした。
両説とも[[天智天皇]]の[[代始改元]]と位置付けるものといえます。

;; [2586] 
[[孝徳天皇]]時代の[[白鳳]] (>>783)
が引き続き[[天智天皇]]時代も使われたとする説があります。
本項の[[白鳳]]とは異なります。
(同じ[[天智天皇]]時代でも、数え方によってまったく違う[[白鳳]]の年数になります。)

-*-*-

[944] 
[CITE[神皇正統記]] (>>746)
は、
[[元号名]]だけで年代を示していませんが、
[[天智天皇]]の時代の[[元号]]を[[白鳳]]としていました。

[1683] 
[CITE[二中歴]] (>>1671),
[CITE[興福寺年代記]] (>>1669),
[CITE[如是院年代記]] (>>1673)
は、
辛酉年を[[白鳳]]元年としていました。

-*-*-

[1108] 
[[天智天皇]]の時代に[[白鳳]]が用いられたとする説が、
いつしかその[[元年]]から[[白鳳]]が使われたとみなされ、
[[元年]]の解釈の違いから2説が生じたのでしょうか。

[1681] 
[CITE[神皇正統記]] 
が示した各[[天皇]]と[[白雉]]、[[白鳳]]、[[朱雀]]、[[朱鳥]]の[[元号]]の流れは、
[CITE[二中歴]] 
系統の説と似ており、関係性を検討する価値がありそうです。



[2110] 
[[伴信友]]は、
当時[[孝徳天皇]]時代の[[白雉]]から改称した[[白鳳]]が使われ続けていたはずと考えており、 
後の時代に混乱が生じたものとしました (>>1861)。
[[天智天皇]]時代の[[白鳳]]の説を示したものとして、
次のものを挙げていました。
[SRC[>>1731]]

- [1854] 
[CITE[神皇正統記]] (>>746)
に、
[[天智天皇]]時代に[[白鳳]]とありました。
-- [1865] 
[[白鳳]]を[[天智天皇]]に書いて[[天武天皇]]に書かないのは、
[[天武白鳳]]説と別の伝承によるものでしょうか、
あるいは再利用 (>>2104) 
がおかしいとして前の時代のみ採ったものでしょうか。
- [1855] 
[CITE[古代年號]]
に、
[[白鳳]]は天智天皇元年壬戌とありました。
- [1856] 
[CITE[海東諸國記]]
をはじめ年代記の類に、
辛酉年を[[白鳳]]元年とするものが多いです。
- [1857] 
[CITE[水鏡]] (>>1539)
ある本の注に、
「天智天皇治十年、白鳳十年辛未崩、」
とありました。
壬戌を元年としています。




[1685] 
[[坂本太郎]]は、
[[天武白鳳説]]を検討した上で更に異説として
[CITE[神皇正統記]] 説 (>>944)、
[CITE[二中歴]]・[CITE[興福寺年代記]]・[CITE[如是院年代記]]説 (>>1683) 
を挙げ、
その信憑性を「それらの各々を批判する必要を感じない」
程度のものと評しました。
[SRC[>>859 p.二二八]]

[1688] 
これらの文献に先立つ
[CITE[興福寺伽藍縁起]] (>>1632)
は、
不思議と[[天智天皇]]の[[白鳳]]と[[天武白鳳]]を結び付ける性質を持ち、
天智説の成立との関係が注目されます (>>1661)。

-*-*-


-*-*-


[961] 
金沢文庫本[CITE[泰澄和尚伝記]]
[WEAK[([TIME[正中2(1325)年][1325]]写)]]
に、
「天渟名原瀛真人天武天皇飛鳥浄御原宮御宇白鳳廿二秊壬午歳六月十一日」
とあります。
ただし他の写本では[[天武白鳳]] (壬申元年説) 
が使われています。
[SEE[ [[泰澄]] ]]





[1008] 
[RUBYB[[[祝部行丸]]][[TIME[1512][year:1512]]-[TIME[1592][year:1592]]]]の
[CITE[日吉社神役年中行事]]
に、
「第三十九代[SUB[号]]大津宮、天智帝[SUB[志賀都候]]白鳳二年三月上巳」
とありました。
[CITE[日吉社神道秘密記]]
に、
大比叡大明神臨幸の時代として、
「第三十九代天智天皇御宇白鳳二癸酉年三月上巳」
とありました。
[SRC[>>1001 PDF p.20]]

[1009] 
[CITE[日吉山王祭礼新記]]
[WEAK[(奥書[TIME[貞享5(1688)年][year:1688]])]]
は、
「天智天皇の御寓、白鳳元年」
とあり、
[[大僧都覚深]]識文に
「天智聖代大宮権現鎮座[SUB[ヨリ]] [SNIP[]] 従[SUB[二]]白鳳年中[SUB[一]]至[SUB[二]]延暦九年[SUB[一]]」
とありました。
[SRC[>>1001 PDF p.20]]

[1010] 
[[大僧都覚深]]の
[CITE[日吉山王権現知新記]]
に
「日吉鎮座記[SUB[ニ]]云、人王三十九代天智帝[SUB[ノ]]御宇白鳳二年三月三日」
とあり、
注記で
「鎮座記[SUB[ニ]]云[SUB[ハ]][SUB[ニ]]天智帝白鳳二年[SUB[ト]][SUB[一]]誤也、
白鳳二年者天武天皇即位二年也」
と訂正されていました。
注記が覚深のものか、後人の追記か不明です。
[SRC[>>1001 PDF p.20]]

[1684] 
癸酉年は[TIME[日本書紀天武天皇2(673)年][year:673]]ですから、
[[天武白鳳]]との混乱がみられます。
([TIME[天智天皇0(661)年][year:661]]は辛酉、
[TIME[天智天皇2(663)年][year:663]]は癸亥です。)

[1011] 
[[八塚春児]]は、
[[平野神社]]伝承 (>>1002)
も含め、
[[日吉社]]関係で[[天智天皇]]時代の[[白鳳]]の説が一定程度流布していたことは間違いないとしました。
[SRC[>>1001]]

-*-*-

[1007] 
現代の寺社の由緒を記したものでも、
[[西暦年]]換算がこの時代となっているものが少なからずみられます。

[1116] 
[CITE[Wikipedia]]
は[[白鳳]]の説の1つとして、
「『二中歴』『海東諸国紀』等」
(>>1671)
を出典に[TIME[元年 (西暦661年)][year:661]]
から[TIME[23年 (西暦683年)][year:683]]
まで続いたとしています。
[SRC[>>1114]]


[REFS[


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[947] [CITE@ja[[[神崎神社]]の「なんじゃもんじゃの木」・・・ | すってんぱれ!]], 
2010.09.12 Sunday,
[TIME[2020-01-29 09:06:32 +09:00]] <http://soleil.suttempare.sunnyday.jp/?eid=1085516>
]FIGCAPTION]

>住所は 香取郡神崎町神崎本宿1944、 [SNIP[]]
創建は白鳳2年(662年)で、天鳥船命(あめのとりふねのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)・大貴己命(おおなむちのみこと)を祀る神社です・・・

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[963] [CITE@ja[栃木県の分布に特徴ある神社-その三 [[箒根神社]] | 分布に特徴ある神社を考える]], 
投稿時刻 21st February 2014、投稿者 マグノリア さん,
[TIME[2020-01-24 06:30:09 +09:00]] <http://magnoliachizu.blogspot.com/2014/02/blog-post_21.html>
]FIGCAPTION]

>矢板市上伊佐野197に麓山という神社があります。栃木県神社庁 (著)栃木県神社誌 (1964年)に、白鳳2(662)年箒川の水源である黒嶽山頂に祠を建てて、橿原箒根神社とし、後になって神護景雲年中(767-770)、古社の山峰に遷祀し、また後に麓山に遷祀して、麓山大明神と名前を変えたという記載があります。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[964] [CITE@ja[[[大宮神社]](群馬県安中市) | 古今東西 御朱印と散策]], [[クロノ]], 
2018.03.28.Wed.20:40,
[TIME[2020-01-30 19:31:33 +09:00]] <http://chrono2016.blog.fc2.com/blog-entry-469.html>
]FIGCAPTION]

>当社の由緒は不詳ですが、口伝では飛鳥時代の白鳳二年(662年)昌福寺の別当たり神威霊験ありと云われています。
]FIG]



[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[910] [CITE[1912七福神めぐり_A4_omote_121402 - 1912七福神_A4_omote_121402.pdf]], [TIME[2019-12-19 09:23:32 +09:00]] <http://www.obu-kankou.gr.jp/wp-content/uploads/2019/12/1912%E4%B8%83%E7%A6%8F%E7%A5%9E_A4_omote_121402.pdf>
]FIGCAPTION]

>普門寺
[SNIP[]]
>白鳳元年(661年)、
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[945] [CITE@ja[[[千葉県]] 国宝・重要文化財]], [TIME[2020-01-30 20:33:32 +09:00]] <https://ginzastc.aikotoba.jp/page108.html>
]FIGCAPTION]

>飯香岡八幡宮 本殿
> 千葉県市原市八幡1057
>飯香岡八幡宮は、白鳳年間(675)に一国一社の八
幡宮として勧請されたことに始まります。

>飯香岡八幡宮 拝殿
> 千葉県市原市八幡1057
飯香岡八幡宮は、白鳳年間(675)に一国一社の八
幡宮として勧請されたことに始まります。


>高滝神社社殿附末社社殿
> 千葉県市原市高滝1
>高滝神社は三代実録に貞観10年(868)上総国正
六位上高滝神従五位下とあり、白鳳2年(662)に
鎮座された神社です。 


]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[946] [CITE@ja[[[坂戸神社]](袖ケ浦市坂戸市場) | たんぽぽろぐ]], 
2019.11.16, 2019.11.15,
[TIME[2020-01-30 20:43:29 +09:00]] <https://momijiaoi.net/sakado/>
]FIGCAPTION]

>千葉県神社名鑑によると創建は白鳳2年(662or673)。
]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[962] [CITE@ja[篠山の歴史・見処 探訪 -[[加茂神社]]]], [TIME[2016-05-07 07:22:57 +09:00]] <http://www.harimaya.com/sasayama/sasatan/sasa_78.html>
]FIGCAPTION]

>天智天皇の白鳳二年(662)、唐・新羅連合軍が高句麗を攻撃、天皇は同盟国の百済と高句麗を支援するため兵二万七千を新羅に派遣した。
]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[967] [CITE@ja[地域紹介/[[野洲市]]ホームページ]], [TIME[2020-01-31 11:56:48 +09:00]] <http://www.city.yasu.lg.jp/school/shinohara/1464154206656.html>
]FIGCAPTION]

>春日神社の創建は、白鳳2年(662年)、
]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[965] [CITE@ja[[[春日神社]] | 全国観光情報サイト 全国観るなび 野洲市 (日本観光振興協会)]], [TIME[2020-01-31 11:54:09 +09:00]] <https://www.nihon-kankou.or.jp/shiga/252107/detail/25343ag2130010499>
]FIGCAPTION]

>春日神社の創建は白鳳2年(662)、
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[966] [CITE@ja[[[春日神社]](滋賀県 野洲市)│観光・旅行ガイド - ぐるたび]], [TIME[2020-01-31 11:55:43 +09:00]] <https://gurutabi.gnavi.co.jp/i/i_101660/>
]FIGCAPTION]

>春日神社の創建は白鳳2年(662)、
]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[968] [CITE@ja[由緒 - [[新川神社]]]], [TIME[2020-01-31 12:04:14 +09:00]] <http://web.archive.org/web/20141125141819/http://niikawajinjya.com/contents/history.html>
]FIGCAPTION]

>「郷村名義抄」が伝える伝説によれば、「新庄村は白鳳三年(663)に老人夫婦顕れ、
[SNIP[]]
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[969] [CITE@ja[由緒 - [[新川神社]]]], [TIME[2020-01-02 04:03:54 +09:00]] <https://niikawajinjya.com/contents/history.html>
]FIGCAPTION]

>宮司家所蔵の 宝永三年(一七〇六)新川四社大権現由来書 が伝える伝説によれば、「新庄村は白鳳三年(673)に老人夫婦顕れ、
[SNIP[]]
]FIG]

[970] 同じ [[Webページ]]に掲載された由緒書だが、この数年間のうちに改訂された。
新しい版は異なる典拠が示され、[[西暦年]]換算も変わっている。
その「宝永三年(一七〇六)新川四社大権現由来書」
のリンク先に同書の画像と解説がある。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[971] [CITE@ja[宝永三年(1706)新川四社大権現由来書:舩木宮司家蔵 解説]], [TIME[2020-01-02 05:14:06 +09:00]] <https://niikawajinjya.com/contents/note/20.html>
]FIGCAPTION]

画像内

> 天武天皇御宇白鳳元年正月二日寅刻

> 白鳳三年[SUB[甲]][SUP[戌]]三月十九日

現代語訳

> 天武天皇の御時世、白鳳元年(672)の正月二日寅刻( 3~ 5時)

> 白鳳三年(674)甲戌三月十九日

>(現代語訳文責:宮司 舩木信孝)

]FIG]

[972] こちらの[[白鳳]]はまた別の換算になっている。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[973] [CITE@ja[馬路石邊神社]], [TIME[2018-04-05 09:17:00 +09:00]] <http://engishiki.org/oumi/bun/oum220407-01.html>
]FIGCAPTION]

>白鳳3年(663)創祀素盞鳴命を祀る
>       朱鳥元年(686)大己貴命を合祀

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[974] 
[CITE@ja[No.046 宮原(橘)公忠と鎮宅霊符と八代郡氷川町宮原 ⑦ | [[宮原誠一]]の神社見聞牒]],
平成30年(2018年)02月16日,
[TIME[2020-01-31 12:16:26 +09:00]] <https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12353048514.html>
]FIGCAPTION]

>百済国が、天武天皇白鳳3年(663年)、白村江戦いによって滅亡し、白鳳9年(669)、百済王族とその一族が火の君の世話により九州八代へ亡命し、その時、太上神仙鎮宅霊符も一緒に伝えられたとされる。これをきっかけに霊符神社が創建された。
]FIG]

[977] 
出典不明だが、
何らか由緒をまとめた資料によるのだろうか。
現地案内板 (>>975 テキスト、>>976 写真)
に似たような説明はあるが、白村江云々や白鳳何年という記述はない。
[[白村江の戦い]]は[[天武天皇]]の時代でなく、[[天智天皇]]の時代。


- [975] [CITE@ja[【霊符神社】(熊本県八代市): ~風の宿り~ブログ]], [TIME[2020-01-31 12:26:10 +09:00]] <http://kazenoyadori.seesaa.net/article/160054646.html>
- [976] [CITE@ja[霊符(れいふ)神社(熊本県八代市) | 旅人のブログ]], [TIME[2020-01-31 12:28:06 +09:00]] <https://tabi-bito.net/reifu-shrine-yatsushiro-city-kumamoto-prefecture/>


]REFS]

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[948] [CITE[[[桑実寺]]から繖山]], 
2000年10月15日(日),
[TIME[2007-05-05 19:49:02 +09:00]] <http://www.ken-tmr.com/kuwanomiji/kuwanomiji.html>
]FIGCAPTION]

>桑実寺の案内板があり下記の文があった。
>>
桑実寺、
>>白鳳元年(662年)に天智天皇の四番目の皇女の病気を治すために建てられた。

]FIG]

[NOTE[
[954] 
この年とする説は他に見当たらない。
案内板を写した写真も見つからず。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[951] [CITE[桑実寺]], [TIME[2018-07-03 08:56:02 +09:00]] <http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_kuwanomi.htm>
]FIGCAPTION]

> 「桑實寺遷史」:桑實寺7世住職北川隆啓著、平成元年 より
[SNIP[]]
>>
白鳳6年(678)天智天皇の御願により定恵上人によって開山<薬師堂(現本堂)が落慶法要>されたと伝える。(桑實寺縁起)

]FIG]

[955] 
[CITE[桑實寺遷史]]
は[[桑実寺]]で配布されたものらしく、住職の著書でもあり公式見解とみてよかろう。


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[952] [CITE@ja[[[桑實寺]] | 西国四十九薬師霊場会]], [TIME[2020-01-31 11:07:48 +09:00]] <https://yakushi49.jp/46kuwanomidera/>
]FIGCAPTION]

>創建は白鳳六(六七七)年。天智天皇の勅願寺院として藤原鎌足の長男・定恵和尚が開山した。

]FIG]

[956] この寺は[[西国四十九薬師]]に属しているので、
その団体たる[[西国四十九薬師霊場会]]にも属しているに違いなく、
であるとすればこれも公式見解に近いものといえるが、
[[西暦年]]換算が違っている。



[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[953] [CITE@ja[桑実寺]], [TIME[2011-05-02 20:39:39 +09:00]] <http://srcc-ah.my.coocan.jp/syuin_tabi/03_shiga_ken/19_oumi_hatiman/03_kuwanomidera/kuwanomiji.html>
]FIGCAPTION]

朱印状の台紙に印刷された文字

>開創年・白鳳六年(六七七)十一月八日
]FIG]

[957] [[西国四十九薬師]]としての朱印状の写真あり。
この台紙が[[桑実寺]]で用意しているものなのか、
[[西国四十九薬師]]全体でまとめて提供しているものなのかわからないが。


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[950] [CITE@ja[[[桑実寺]](桑實寺)(西国薬師霊場第四十六番) | かめちゃんの日記]], 
2013年10月03日(木) 22時05分35秒,
[TIME[2020-01-31 10:56:36 +09:00]] <https://ameblo.jp/camehei/entry-11627176136.html>
]FIGCAPTION]

>桑實寺、朱鷺書房の『西国四十九薬師巡礼』によると、
>>
[SNIP[]]
>>
開山は定恵和尚(藤原鎌足の長男)
>>
開創年は白鳳六年(677年)11月8日

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[949] [CITE@ja[[[桑実寺]] - Wikipedia]], [TIME[2020-01-27 20:53:05 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%91%E5%AE%9F%E5%AF%BA>
]FIGCAPTION]

>寺伝では、天智天皇の四女、阿閉(あべ)皇女(元明天皇)の病気回復を僧に祈らせたところ、琵琶湖から薬師如来が降臨し、阿閉皇女の病気を治して去り、それに感激した天智天皇の勅願により、藤原鎌足の長男、定恵が白鳳6年(677年)に創建したと伝えられている。
]FIG]

[958] 
[[定恵]]は[TIME[天智天皇4(665)年12月23日][kyuureki:665-12-23]]没とされているし、
[[天智天皇]]の勅願で[TIME[天武天皇6(677)年][year:677]]に創建というのは時間が経ちすぎている。
[[孝徳天皇]]の[[白雉]]とすると、
[TIME[白雉6年 = 斉明天皇元(655)年][year:655]]だが、
[[元明天皇]]は[TIME[斉明天皇7(661)年][year:661]]生まれで辻褄が合わない。

]NOTE]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1023] [CITE@ja[[[粟津御供]](ごく) : 湖都・近江膳所・亀屋廣房でございます]], [[zeze-kameya]], 
2010年 04月 10日,
[TIME[2020-01-31 20:55:43 +09:00]] <https://zezekameya.exblog.jp/13370517/>
]FIGCAPTION]

>の由来は天智天皇白鳳2年(663年) 日吉山王の神供に始まり
続いて6年(667年)大津の宮の大膳に進ぜられたにはじまると
伝えられ粟の飯(いひ)こそはその頃の貴人の食味であった

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1024] [CITE@ja[[[篠津神社]](滋賀県大津市中庄)]], [TIME[2018-12-06 17:03:00 +09:00]] <https://www.nozawayu.com/jinjyasanmon/siga/sinotu.html>
]FIGCAPTION]

>篠津神社は岩坐神社、膳所神社、和田神社、若宮八幡神社と共に膳所五社に数えられ、毎年順番に粟津御供を担います。粟津御供は山王祭の神事の1つで、天智天皇白鳳2年(663)に日吉大社に神供し、天智天皇白鳳6年(667)に大津の宮の大膳に進ぜられた事が始まりと伝えられています。神事の際には琵琶湖に浮かばせた神舟に乗せた7基の神輿に、粟の御供奉献が行われます。 

]FIG]


]REFS]

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1013] [CITE@ja[宮巡 ~神主さんが作る宮崎県の神社紹介サイト~ - [[加久藤神社]](かくとうじんじゃ)]], [[宮崎県神道青年会]], 
2014-9-6 9:32,
[TIME[2020-01-31 20:30:05 +09:00]] <http://m-shinsei.jp/modules/gnavi/index.php?cid=9&lid=434>
]FIGCAPTION]

>創建は『三国名勝図会』によると、天智天皇白鳳七年二月、大職冠藤原鎌足公の命により勧請し加久藤に崇めた村内の総鎮守である。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1014] [CITE@ja[[[加久藤神社]] ..::産土神名帳::..]], [TIME[2019-12-08 01:03:00 +09:00]] <https://jinmyocho.jpn.org/jinja/45_miyazaki_nanbuyamazoi/1660/1660.html>
]FIGCAPTION]

>当社創建は「三国名勝図会」によると、天智天皇白鳳七年二月、大職冠藤原鎌足公の命により勧請し二之宮を加久藤に崇めた村内の総鎮守である。
[SNIP[]]
>(案内板より)

]FIG]

[1015] この神社の由緒は新しい時代はすべて[[西暦年]]が併記されているのに、
白鳳にだけ併記されていない。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1016] [CITE[[[豊岡村野邊神社]]-お祭り三昧]], 
写真撮影:2008年7月19日,
[TIME[2019-02-01 11:44:33 +09:00]] <https://humizuki.com/omaturi_zanmai/sight/jinja/toyooka/nobe.htm>
]FIGCAPTION]

>社傳によれば天智天皇白鳳2年3月近江國日吉紳社より御魂を移すと言ふ。
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1018] [CITE[本地垂迹資料便覧]], [TIME[2019-10-14 10:52:38 +09:00]] <http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/files/HIYOSHI.html>
]FIGCAPTION]

>「日吉社神道秘密記」
>[SNIP[]]
第三十九代天智天皇御宇白鳳二(癸酉)年三月上巳
[SNIP[]]
>[SNIP[]]
第三十九代御宇天智天皇白鳳二年三月上巳御影向。
[SNIP[]]
>[SNIP[]]
第四十代天武帝御宇白鳳十年に御影向。
[SNIP[]]
>[SNIP[]]
>「東海道名所図会」巻の一
>日吉山王神社
>大宮 大比叡明神。 すべて山王権現と称す。
祭神大国主大神また大黒天君と名づく。 日枝山頂に神代より鎮座。 天智天皇御宇、大津宮遷都の後、白鳳年中、坂本に遷す。
[SNIP[]]


]FIG]

- [1019] [CITE[[[阿良須神社]](舞鶴市小倉)]], [TIME[2019-12-08 21:24:08 +09:00]] <http://tangonotimei.com/doc/tango/arasujj.html>

[1020] 複数史料が引用されており、多くは天武天皇の白鳳10年としているが、
天智天皇の白鳳10年とするものが1例ある。


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1017] [CITE@ja[式内 [[佐紀神社]](西畑) -]], [TIME[2020-01-31 20:42:00 +09:00]] <https://jinja.kojiyama.net/%E5%BC%8F%E5%86%85%E3%80%80%E4%BD%90%E7%B4%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE%EF%BC%88%E8%A5%BF%E7%95%91%EF%BC%89/>
]FIGCAPTION]

>所在地 奈良市佐紀町字西畑2701
[SNIP[]]
>天智天皇白鳳3年創立と伝わる。
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1021] [CITE@ja[[[佐紀神社]](西町)]], [TIME[2018-02-25 15:31:00 +09:00]] <http://engishiki.org/yamato/html/030204-02.html>
]FIGCAPTION]

>【住所】奈良県奈良市佐紀西町2701 (御前池西) 
[SNIP[]]
>【由緒】白鳳3年(652)に創祀
>天武天皇2年(673)に鎮祀

]FIG]

[1022] 西暦652年は孝徳天皇白雉2年。

]REFS]




** 壬申の乱と天武天皇

[76] 
[TIME[天智天皇10(671)年][year:671]]、
[[天智天皇]]が[[崩御]]し、
[[弘文天皇]] ([[大友皇子]])
が後継者となりました。
ところが翌[TIME[天武天皇元(672)年[LINES[壬][申]]][year:672]]、
[[壬申の乱]]で[[弘文天皇]]と[[天武天皇]] ([[大海人皇子]])
が争い、
破れた[[弘文天皇]]は[[崩御]]しました。
[[天武天皇]]の治世となり、
[TIME[天武天皇2(673)年[LINES[癸][酉]]][year:673]]、
[[即位]]しました。

[115] 
この[[弘文天皇]]について、
[CITE[日本書紀]]
は[[即位]]の記事を掲載せず、
[[天皇]]として扱いませんでした。
その後[[即位]]説が生じ、
[[江戸時代]]に通説化しました。
ただ現在では[[即位]]の根拠が不十分で実態は不明とされています。
[SRC[>>369]]

[1012] 
この事実の解釈をめぐり、
[[壬申]]年と[[天武天皇]]の時代の[[天皇即位紀年]]にも混乱が生じました。
しかも[[中世]]以来、
[[天武天皇]]の時代に[[朱雀]]、[[白鳳][天武白鳳]]の[[元号]]が定められたとの説が流布され、
広範囲で信じられていました。
[CITE[日本書紀]]
にあった[[朱鳥]]も含めた各[[元号]]が組み合わさって、
実に様々なバリエーションが生まれました。
この時代の記述は古代日本でも特に酷く混乱しているのです。


[FIG[ [1699] [[白雉]]と[[朱鳥]]と[[天武天皇]]

[PRE[
      干支     白雉  白鳳 白鳳   白鳳     即位   朱雀 朱鳥
               孝徳  孝徳 天智 ? 天武     天武   
               戌?子             申?酉    申?酉  申?戌
---- --------- ----- ---- ---- - -------- ------ ----- --- -----------------
 650            +<,   +<,                                  白雉元
 653            +<|,    |                    
 661              ||    |                                  天智称制
 662              ||    |                                  称制元
 672              ||    |                  +<-,            壬申
 673   +<--,      ||    |                     |            天武即位
 675   +<----,    ||    |                     |            >>1356
 677   *   | |    ||    |                     |            >>1255
 680       | |    ||    |                    +|            >>1256
 681   +<---,|    ||    |                     |            >>1355
 681   *   |||    ||    |                     |            山上碑 >>218
 682   +<--+||    ||    |                     |                
 683   +   |||    ||    |                     |            >>1366
 684   +<-,|||    ||    |                     |          
 685   +<,||||    ||    |                     |          
 686   *<|||:|    ||    |                     |        +<, 朱鳥元 / >>1259
 690     |||||    ||    |                     |          |
 713   * |||||    ||    |                     |          | 常陸風土記 >>787
 720   *-||'||  *-'|    |                  *--'        *-' 日本書紀 >>864
 724     || ||     |    |      ?<-,                ?<,     >>281
 730   *-'| ||     |    |         |                  |     >>580
 737      | ||     |    |      ?<,|                  |     >>1048
 747   *  | ||     |    |        ||        *         |     >>1311
 749   *--' ||     |    |        ||                  |     >>1349
 760        ||     |  *<:        ||        *         |     藤氏家伝 >>642
 8C         ||     |    |        ||                  | (*<)万葉集 >>1720
 797   *----'|     |    |      ?-|'                ?-'   | 続日本紀 >>1049
 806   *<----:     |    |        |                       | >>1356
 807         |     |  * |        |                       | 古語拾遺 >>752
 810         |     |    |      ?<|,                      | >>1698
 815         |     |    |        ||        (?)           | 新撰姓氏録 >>1358
 822   *     |     |    |        ||                    * | 霊異記 >>1378
 840         |     |    |      ?-|'                      | 日本後紀 >>750
 890         |     |    |        |                 (*<>*)| 熱田縁起 >>524
 907         |   ? |    |      ? |                   | ? | 口遊 >>1626
 917  (*<,)  |     |    |        |                   |   | >>155
10C      |   | (*<=:)   |       (|*<--,)             |   | >>120
10C      |   |     |    |        |    |    (?<,)     |   | >>1487
10C      |   |     |    |        |未  |       |   *? |   | 大神宮 >>571
1060     |   |   ? |    |        |    |       |      |   | 新唐書 >>542
11C    *-|---'     |    |      ?-'    |       |      |   | 類聚三代格 >>1046
11C      |      *  |  亥|           *<|,   *  |   *  | * | 扶桑略記 >>666
1099     |         |    |        (*<--||,)    |      |   | >>1587
12C      |         |    |         *   |||   ? |      |   | 師元 >>1466
12C      |         |    |        (*<,)|||     |      |   | 帝王系図 >>1465
12C      |         |    |           | |||   ?-'      |   | >>1487
12C      |         |    |         *<--+||            |   | >>158
1145     |         |    |  ?======*=|=|||===*        |   | 興福寺 >>1632
12C      |         |    |         * | |||            |   | 袋草紙 >>1502
12C      |         |    |         *-' |||            |   | 袖中抄 >>1463
1197   *-'      *--'  *-'      ?  *---'||            |   | 多武峰略記 >>929
1220            *                 *    ||  *      *  | * | 愚管抄 >>1508
13C                                    ||   ?        |   | >>1489
13C                                 *--'|   ?        |   | >>1547
13C             *                 *     |  *      *  | * | 皇代記 >>1526
                                                     |  *' 万葉集写 >>1720
14C               *       *             |          申| *   二中歴 >>1647
14C              ?         ?            |          ? | ?   神皇正統記 >>746
14C             *                   *   |  *      *  | *   興福寺 >>1557
14C             *                   *   |  *      *? |     東寺王代記 >>1556
1469                              *-----'            |     22社註式 >>1585
15C              *        *                        ? | ?   興福寺 >>1669
1570            *         *         *      *      *申|     如是院 >>1673
1769                                                *"-*   参考熱田 >>524
---- --------- ----- ---- ---- - -------- ------ ----- --- -----------------
      干支     白雉  白鳳 白鳳   白鳳     即位   朱雀 朱鳥
               孝徳  孝徳 天智 ? 天武     天武   
               戌?子             申?酉    申?酉  申?戌
]PRE]


]FIG]

*** 天武天皇即位紀年

[368] 
[CITE[日本書紀]]は[[天智天皇]]没年すなわち天智天皇称制10年の翌年、
つまり壬申年を[[天渟中原瀛眞人天皇]] ([[天武天皇]])
の[[元年]]としました [SRC[>>74]] (㋐')。

[111] [CITE[日本書紀]]
を[[引用]]する[[学術論文]]や [[Webページ]]をはじめ、
それ以外の記事や[[対照表の類][元号一覧]] [SRC[>>323, >>347]] も、
[CITE[日本書紀]]
方式を踏襲したものが多いようです
[SEE[ [[天武天皇]]]] (㋐)。

[134] [CITE[Wikipedia]] の各記事 [SRC[>>132, >>133]] も
[CITE[日本書紀]]
方式と同じく、
[[天智天皇]]没年すなわち[TIME[西暦671年][year:671]]を天智天皇10年、
翌壬申年すなわち[TIME[西暦672年][year:672]]を天武天皇元年としました (㋐)。ただし、  (㋒):

- [480] 日付記事は
[TIME[西暦672年][year:672]]に[[弘文天皇]]元年かつ[[天武天皇]]元年と併記しています
[SRC[>>479, >>481]] (㋑)。
- [112] [CSECTION[天智天皇]]
記事は
[TIME[西暦672年][year:672]]に[[括弧]]つきで天智天皇11年としています
[SRC[>>136]]。
- [483] [CSECTION[天武天皇]]記事では、
[CITE[日本書紀]]
と同じ方式 (㋐) が基本ですが、
なぜか[[年表]]でのみ
[TIME[西暦672年][year:672]]を[[弘文天皇]]元年、
[TIME[西暦673年][year:673]]を[[弘文天皇]]2年とし、
それ以後は[CITE[日本書紀]]と同じ方式
[WEAK[(㋐と同じく[[天武天皇]]元年は[TIME[西暦672年][year:672]])]]
としています。


[91] [[弘文天皇]]の[[即位]]を認め[[天皇即位紀年]]を建てる立場であっても、
[CITE[日本書紀]]に倣い[[踰年称元]]を採り
672年を元年とするもの (㋒㋓) と、
[[即位]]の671年を元年とするもの (㋔) があるようです。

[185] 
[[弘文天皇]]を認め[[天武天皇]]の元年を即位年とする場合
[TIME[673年][year:673]]が元年となり (㋓㋔)、
[CITE[日本書紀]]より1年遅れます。

[172] 
[[辞書]]類では[[弘文天皇]]に関する記事で天武天皇元年ではなく弘文天皇元年とするものが多いようです
[SRC[>>159]]。かといってそれによって天武天皇年を遅らせることも無いようです (㋑)。

[180] 
一方で[[対照表の類][元号一覧]]でしばしば天武天皇年を遅らせる方式
(㋓㋔) が採用されているようで
[SRC[>>113, >>50]]、 [[Webページ]]などでもそれに従うものがいくらか見られます
[SEE[ [[天武天皇]] ]]。

[380] 
かなり古い時代から使われていたようで (>>372)、
在位当時からあった数え方かもしれません。



[181] [CITE[日本年号史大事典]] 巻末年号対照表は[[天皇即位紀年]]と[[元号]]を併記し、
この期間の[[元号]]は空欄となっていますが、[[天皇即位紀年]]については[[天智天皇]]を[[称制]]開始年を元年とするため他より1年早く、
[[弘文天皇]]も即位を元年とするため[[壬申の乱]]より1年早く2年間、
[[天武天皇]]もまた即位を元年としています
(それらの前の[[斉明天皇]]は[CITE[日本書紀]]と同年)。
[[天武天皇]]年については[CITE[日本書紀]]との違いの注記があります。
(㋔)

-*-*-

[182] 
この時代の出来事を検討する上で現存史料で最も時代が近い[CITE[日本書紀]]は避けて通れません。
[CITE[日本書紀]]以来1000年以上にわたり、
各種文献、[[論文]]、 [CITE[Wikipedia]]、[CITE[日本の暦日データベース]]、
多数の [[Webページ]]などが[CITE[日本書紀]]方式 (㋐) で各年に言及してきました。
この天武天皇紀年をずらすことは混乱の元でしかなく、
好ましい選択には思えません。

[370] 
一方で[[弘文天皇]]の[[即位]]を認めて[[壬申]]年を弘文天皇紀年で表現する方法
(㋑㋒㋓) もそれなりに広く行われているのもまた事実です。
この方法を無視することはできそうにありません。

[371] 従って、[[対照表や実装の類][元号一覧]]は、
次のような方針を採るべきでしょう。

- [183] [[壬申]]年は天武天皇元年とする。 (㋐) 
- [186] 複数表現を認める場合、[[壬申]]年に弘文天皇元年を併記する。 (㋑)
- [187] 天皇即位紀年''から''の変換等では天武天皇および弘文天皇の[[壬申]]年元年に対応する。
天智天皇紀年の[[延長][延長年号]]にも対応する 
[WEAK[(これはどの[[天皇即位紀年]]や[[元号]]でも一般に行うべき [SEE[ [[延長年号]] ]])]]。
(㋒)
- [188] 天皇即位紀年''から''の変換等で複数候補を併記できるときは、
他の可能性にも言及する。 (㋐'㋓㋔)

[FIG(table)[

:ad: [[西暦年]]
:k: [[干支年]]
:a: ㋐
:aa: ㋐'
:i: ㋑
:u: ㋒
:e: ㋓
:o: ㋔
:note: 注記

:ad: [TIME[670][year:670]]
:k: [[庚午]]
:a: 天智9年
:aa: 天智9年、
天智3年
:i: 天智9年
:u: 天智9年
:e: 天智9年
:o: 天智10年

:ad: [TIME[671][year:671]]
:k: [[辛未]]
:a: 天智10年
:aa: 天智10年、
天智4年
:i: 天智10年
:u: 天智10年
:e: 天智10年
:o: 弘文元年
:note: [[天智天皇]][[崩御]]、
[[弘文天皇]]治世

:ad: [TIME[672][year:672]]
:k: [[壬申]]
:a: 天武元年
:aa: 天武元年
:i: 
天武元年、
弘文元年
:u: 
天武元年、
弘文元年、
天智11年
:e: 弘文元年
:o: 弘文2年
:note: [[壬申の乱]]、
[[弘文天皇]][[崩御]]、
[[天武天皇]]治世

:ad: [TIME[673][year:673]]
:k: [[癸酉]]
:a: 天武2年
:aa: 天武2年
:i: 天武2年
:u: 天武2年、
弘文2年
:e: 天武元年
:o: 天武元年
:note: [[天武天皇]][[即位]]

:ad: [TIME[674][year:674]]
:k: [[甲戌]]
:a: 天武3年
:aa: 天武3年
:i: 天武3年
:u: 天武3年
:e: 天武2年
:o: 天武2年

]FIG]


[2388] 
[CITE[役小角本記]]
に
「天智天皇六年丁卯四月 [SNIP[]]
天武帝九年庚辰 [SNIP[]]」
とありました。
これを引いて、
9年は庚辰でなく辛巳だとする論文がありました。
[SRC[>>2386 PDF 5ページ、17ページ]]
[CITE[日本書紀]] の壬申年元年方式では9年は庚辰で正しく、
9年が辛巳となるのは癸酉年元年方式です。
なお
[CITE[役小角本記]]
は[[偽書]]で、
[TIME[神亀元(724)年[LINES[甲][子]]][year:724]]10月成立を称していましたが、
[[鎌倉時代]]とも[[室町時代]]ともされます。

[2464] >>2463

[2542] 
[TIME[寛政6(1794)年][year:1794]]、
[[日下部勝皋]]は、
[[薬師寺東塔檫銘]]を解して
[CITE[日本書紀]]
と[[天武天皇]]の[[即位紀年][天皇即位紀年]]に
1年のずれがあることを指摘しました。
当時壬申年を[[弘文天皇]]の元年、
癸酉年を[[天武天皇]]の元年と数えていたとしました。
[SRC[>>2541, >>2540 (>>2541)]]


[2539] 
[[伴信友]]は、
[[藥師寺]]の塔の露盤の擦銘に
「維清原宮馭宇天皇卽位八年庚辰之歳建子之月」
とある
(>>1256)
のを引いて、
[[持統天皇]]の時代まで壬申年を[[弘文天皇]]の元年、
癸酉年を[[天武天皇]]の元年と数えていたとしました。
[SRC[>>2540 PDF p.8]]

[REFS[
- [2541] [CITE[[[薬師寺擦銘釈]] / [[日下部勝皋]] 撰]], [TIME[2020-08-06 15:28:58 +09:00]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi10/chi10_04166/index.html>
- [2540] [CITE[[[長等の山風]]]] (本編)


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[372] [CITE[[[薬師寺]]論争…④東塔檫銘: 夢幻と湧源]],
[TIME[2008年2月25日 (月)][2008-02-25]]
([TIME[2019-08-06 13:52:02 +09:00]]) <http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_8ba5.html>
]FIGCAPTION]

>薬師寺東塔の擦管(屋上に出た心柱を被覆する銅管)の基部に、次のような銘文が刻入されている(大橋一章『法隆寺・薬師寺・東大寺 論争の歩み 』グラフ社(0604))。
>>維清原宮馭宇
天皇即位八年庚辰之歳建子之月以
[SNIP[]]
>
長和4(1015)年の『薬師寺縁起』の冒頭部分に、次のようにある。
>>    天武天王即位八年庚辰十一月、[SNIP[]]、
以十四年戊丙秋九月九日、天皇崩於明香清御原

]FIG]

;; [379] 
薬師寺東塔擦管銘文は[[文武天皇]]の時代のものか、
あるいは少し遅れて[[奈良時代]]の初期頃のものか。

- [2596] [CITE[記紀を読む]], [TIME[2017-01-04 12:33:06 +09:00]] <http://kamodoku.dee.cc/kiki-wo-yomu2.html>
-- [2598] [CITE[孝徳紀を読む]], [TIME[2013-07-18 10:33:59 +09:00]] <http://kamodoku.dee.cc/koutokuki-wo-yomu.html>
-- [2597] [CITE[天智紀を読む]], [TIME[2013-07-18 11:15:22 +09:00]] <http://kamodoku.dee.cc/tenjiki-wo-yomu.html>
-- [2599] [CITE[天武紀を読む(下)]], [TIME[2013-07-18 11:20:36 +09:00]] <http://kamodoku.dee.cc/tenmuki-ge-wo-yomu.html>

;; [2600] [[記紀]]の紹介の形を採っているが純粋な解説ではなく、
自説の主張が含まれている。
[CITE[日本書紀]]
の部では、
[[孝徳天皇]]時代と[[天武天皇]]時代は[[天皇即位紀年]]に[[元号]]を併記し、
[[天智天皇]]時代は
「称制元年
(662年)」
・・・→
「称制7年
・即位元年
(668年)」
・・・→
「即位4年
(671年)」
と書いている。ただこの[[紀年法]]は著者の独自の主張に特に関係があるようには見えない。
[[持統天皇]]時代に
「天智天皇の元年(662)」
ともあるから、
強いこだわりがあるようにも見えない。
ではなぜ敢えて
[CITE[日本書紀]]
と異なる[[紀年法]]としたのか、よくわからない。


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[

[136] [CITE@ja[[[天智天皇]] - Wikipedia]] ([TIME[2016-01-06 22:37:16 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87>
]FIGCAPTION]

>661年の斉明天皇崩御後に即日中大兄皇子が称制したため暦が分かりにくくなっているが、『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、斉明天皇崩御の翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。

[SNIP[]]


>[SNIP[]] 661年8月24日(斉明天皇7年7月24日)斉明天皇が崩御した。
>その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制した(天智天皇元年)。 [SNIP[]]

]FIG]

- [132] [CITE@ja[壬申の乱 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-30 09:54:11 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1>
- [133] [CITE@ja[弘文天皇 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-29 00:04:24 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%9A%87>
- [369] [CITE@ja[大友皇子即位説 - [[Wikipedia]]]] ([TIME[2019-07-20 18:32:51 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%9A%87%E5%AD%90%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E8%AA%AC>
-- 壬申年を「大友元」、翌年を「天武元」とする[[説][日本書紀後世改刪説]]㋓を紹介
- [479] [CITE@ja[8月3日 - Wikipedia]] ([TIME[2016-02-06 00:46:25 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%883%E6%97%A5>
- [481] [CITE@ja[672年 - Wikipedia]] ([TIME[2016-01-14 06:53:06 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/672%E5%B9%B4>
- [482] [CITE@ja[天武天皇 - Wikipedia]] ([TIME[2016-02-04 08:50:14 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87>
- [333] [CITE@ja[suchowan's UniWiki Calendar/When/Exe/暦説明/本編/日本]] ([TIME[2016-01-19 18:00:04 +09:00]] 版) <http://hosi.org/u/wiki.cgi?Calendar%2FWhen%2FExe%2F%E6%9A%A6%E8%AA%AC%E6%98%8E%2F%E6%9C%AC%E7%B7%A8%2F%E6%97%A5%E6%9C%AC>
-- >>50 と同じ
-- [109] [CITE@ja[suchowan's UniWiki Calendar/When/Exe/暦説明/本編/日本/補足/天武天皇元年]] ([TIME[2019-05-15 13:04:21 +09:00]]) <http://hosi.org/u/wiki.cgi?Calendar%2FWhen%2FExe%2F%E6%9A%A6%E8%AA%AC%E6%98%8E%2F%E6%9C%AC%E7%B7%A8%2F%E6%97%A5%E6%9C%AC%2F%E8%A3%9C%E8%B6%B3%2F%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%85%83%E5%B9%B4>
-- [113] 出典: [CITE[[[コンサイス世界年表]]]]
- [159] [CITE@ja[[[壬申の乱]](じんしんのらん)とは - コトバンク]] ([[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,世界大百科事典 第2版,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及]]著, [TIME[2019-05-15 17:24:12 +09:00]]) <https://kotobank.jp/word/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1-82010>
-- [160] [CITE[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]
--- 「天武1 (672) 年」 ㋑
-- [161] [CITE[世界大百科事典 第2版]]
--- 「672年(天武1,壬申の年)」 ㋐
-- [162] [CITE[日本大百科全書(ニッポニカ)]]
--- 「672年(弘文天皇1)」「671年(天智天皇10)」 ㋑
- [163] [CITE@ja[[[天武天皇]](てんむてんのう)とは - コトバンク]] ([[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,世界大百科事典 第2版,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及]]著, [TIME[2019-05-15 17:28:16 +09:00]]) <https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87-102805>
-- [164] [CITE[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]
--- 「天智7 (668) 年」「弘文1 (672) 年」 ㋑
-- [165] [CITE[日本大百科全書(ニッポニカ)]]
--- 「668年(天智天皇7)」 ㋑
- [166] [CITE@ja[[[弘文天皇]](こうぶんてんのう)とは - コトバンク]] ([[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及]]著, [TIME[2019-05-15 17:34:25 +09:00]]) <https://kotobank.jp/word/%E5%BC%98%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%9A%87-63126>
-- [167] [CITE[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]
--- 「弘文1(672)」「天智 10 (671) 年」 ㋑
-- [168] [CITE[デジタル版 日本人名大辞典+Plus]]
--- (弘文天皇が)「天武天皇元年7月23日自決」 ㋐
-- [169] [CITE[日本大百科全書(ニッポニカ)]]
--- 「671年(天智天皇10)」「672年(弘文天皇1)」 ㋑
-- [171] [CITE[精選版 日本国語大辞典]]
--- 「弘文元年(六七二)」
- [173] [CITE@ja[大伯皇女(おおくのこうじょ)とは - コトバンク]] ([[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,朝日日本歴史人物事典,世界大百科事典 第2版,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典]]著, [TIME[2019-05-15 17:51:06 +09:00]]) <https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%BC%AF%E7%9A%87%E5%A5%B3-39126>
-- [174] [CITE[朝日日本歴史人物事典]]
--- 「天武2(673)年」
-- [175] [CITE[世界大百科事典 第2版]]
--- 「673年(天武2)」
- [176] [CITE@ja[[[矢田寺]](ヤタデラ)とは - コトバンク]] ([[デジタル大辞泉,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及]]著, [TIME[2019-05-15 17:52:36 +09:00]]) <https://kotobank.jp/word/%E7%9F%A2%E7%94%B0%E5%AF%BA-648520>
-- [178] [CITE[デジタル大辞泉]]
--- 「天武天皇2年(673)」
-- [179] [CITE[日本大百科全書(ニッポニカ)]]
--- 「673年(天武天皇2)」 ㋑

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[50] [CITE@ja[[[suchowan's UniWiki]] Calendar/When/Exe/暦説明/本編/日本]]
([TIME[2016-01-10 15:17:11 +09:00]] 版)
<http://www2u.biglobe.ne.jp/~suchowan/u/wiki.cgi?Calendar%2FWhen%2FExe%2F%E6%9A%A6%E8%AA%AC%E6%98%8E%2F%E6%9C%AC%E7%B7%A8%2F%E6%97%A5%E6%9C%AC>
]FIGCAPTION]

> 改元の日付は三省堂の『コンサイス世界年表』[6]に拠りました。
[SNIP[]]
> 弘文天皇の在位の解釈により天武天皇元年 が1年食い違う史料もありますが(というか弘文天皇は明治になってから認められた 天皇なのでたいていの古文献では1年ずれているはず)、やはりコンサイス世界年表 に従ってAD673年を天武元年としています(指摘してくださったykawazoeさんありがとう ございます)。どうしても日本書紀[8]に合わせたい場合は、whenhv.exe と shoki.rsc を組み合わせて使用してください。

]FIG]

- [19] [CITE[HuTime - 時間基盤情報-暦変換(和暦)]] ([TIME[2019-05-03 17:17:57 +09:00]]) <http://www.hutime.jp/basicdata/calendar/calendars/Japanese.html>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[101] >>19
]FIGCAPTION]

> 「神武天皇」から「文武天皇」まで
> 『日本書紀』および『続日本紀』(ともに『日本国史大系』(吉川弘文館刊)収録のもの)の記述に従っています。
> (1)年号名および改元日が記されているものはそれによる(大化、白雉、朱鳥)。
> (2)年号がないものは天皇(または皇后)の名称を年号として用いる。この場合、各史料に元年と記された年の1月1日をもって年号を改める(即位日ではない)。ただし、持統天皇11年丁酉(日本書紀)と文武天皇元年丁酉(続日本紀)は同じ年であるため、この年は文武天皇の即位日から年号を「文武天皇」として扱う。なお、弘文天皇は入力のみ対応する(出力時は「天武天皇」)。
]FIG]

- [391] [CITE[聖徳太子 実像と伝説の間]] より
「天武十年(六八二)三月」
[SRC[>>387 p.47]]

[394] >>391 について [SRC[>>340]]

>
「天武十年(六八二)三月」p.47というのは when.exe MS-DOS版
のせいかもしれません。日本書紀からの引用なので、これは
681年でなければなりません。

[REFS[

- [400] [CITE[聖徳太子―実像と伝説の間]],
[[石井公成]],
[TIME[ニ〇一六年一月二十日][2016-01-20]]
-- [387] pp.80-81
-- [401] pp.201-205
-- [CITE@ja-jp[聖徳太子: 実像と伝説の間 | 石井 公成 |本 | 通販 | [[Amazon]]]] ([TIME[2019-09-21 11:41:18 +09:00]]) <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393135873/wakaba1-22/>
- [7] [CITE@ja[『[[聖徳太子 実像と伝説の間]]』: suchowan's blog]],
2016年03月01日
([TIME[2019-08-07 16:02:16 +09:00]])
<https://suchowan.at.webry.info/201603/article_1.html>
-- [263] 移転確認 [TIME[2024-12-30T02:45:21.100Z]]
-- [340] 
[CITE@ja[『聖徳太子 実像と伝説の間』: suchowan's blog]], [TIME[2024-12-30T02:45:24.000Z]], [TIME[2019-09-21T02:42:20.053Z]] <https://web.archive.org/web/20190921024033/https://suchowan.at.webry.info/201603/article_1.html>

]REFS]



[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[304] [CITE@ja[[[白鳳地震]] - [[Wikipedia]]]] ([TIME[2019-06-25 15:44:24 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87#cite_note-6>
]FIGCAPTION]

>かつて壬申の乱のあった672年を弘文天皇元年、翌年(673年)を天武天皇元年とする見方もあり、白鳳地震発生を天武天皇十二年と記載する史料も存在するが(『大日本地震史料』)、現在では『日本書紀』の記述通りとするのが一般的である(『地震の事典』)。
]FIG]

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2594] [CITE@ja[第39代・[[弘文天皇]]と壬申の乱 | WEB歴史街道]], 
2019年09月25日 公開,
[[吉重丈夫]],
[TIME[2020-08-13 20:27:20 +09:00]] <https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6862?utm_source=torimochi&utm_medium=referrer>
]FIGCAPTION]

>皇紀1332年=弘文元年・天武元年(672年)7月23日、朝廷方(弘文天皇方)が乱に敗れ、大友皇子(弘文天皇)は自害し崩御される。
]FIG]


]REFS]


@@
[BOX[

[1545] [CITE@ja[水鏡詳解 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[江見清風]], [TIME[1903序][year:1903]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992843/121>

[1151] 
[CITE@ja-JP[気象 (311)]], [[気象庁 監修]], [TIME[1983-03]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-10T14:23:35.847Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3203664/1/15> (要登録)

[2592] 
[CITE@ja[ノート:弘文天皇 - Wikipedia]], [TIME[2020-07-30 19:12:17 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E5%BC%98%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%9A%87>

]BOX]

[538] 
[CITE@ja[天武元年: suchowan's blog]], [TIME[2022-06-03T14:00:14.000Z]] <https://suchowan.at.webry.info/201602/article_28.html>

>どちらが正しくどちらが間違いというわけではないのですが、
日本書紀に従った紀年の方は、明らかに史実ではない時代まで
遡りますからサブとせざるを得ず、結果壬申年を弘文元年と
する方がメインになってしまいます。

[2780] [CITE[shirin_007_3_375.pdf]], [TIME[2021-09-06T06:28:01.000Z]], [TIME[2023-09-27T07:32:24.567Z]] <https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/247246/1/shirin_007_3_375.pdf#page=26>


-[2859] 
[CITE@ja[mrj_031_017.pdf]], [TIME[2024-02-09T14:35:05.000Z]] <https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/56570/mrj_031_017.pdf#page=10>
-
[2857] 
[TIME[2024-02-09T14:30:26.400Z]]
<https://tobunken.repo.nii.ac.jp/record/6138/files/386_63_Omote_Redacted.pdf>
#page=5
#page=6

[2858] 
>>2857 [[弘文天皇]]の即位を[CITE[日本書紀]]が隠蔽、と[[陰謀論]]じみたことを書いている。
>>2857 は >>2859 を見よとしている。どちらも同じ著者。
>>2859 はあくまで研究史上の発見として紹介していて、
>>2857 だと[[江戸時代]]の発見で真相が解明されたように読める書き方になっている。
著者の真意はわからない。

[2868] 
[CITE@ja-JP[潜竜遺事]], [[磯田正敬]], [TIME[明30.2][1897]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-12T07:22:39.576Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/772421/1/107>

[388] 
[[昭和時代]]の[[友田吉之助]]は、
現在の[[干支年]]と異なる[[干支紀年法]]があって[CITE[日本書紀]]の旧版はそれを採用していた、
とのかなり大胆な説を提唱しました。
[SEE[ [[異種干支紀年法説]] ]]

[389] 
それに対して[[伊野部重一郎]]は、そのような概念を導入しなくても説明可能だと反論しました。
例えば、[[天武天皇]]前後の時代は次のような
[CITE[日本書紀]]
の稿本または旧歴史観があり、
最終的な
[CITE[日本書紀]]
の成立までに改められたという考え方を提示しています。
[SRC[>>408]]

- [390] [CITE[日本書紀]]斉明天皇7年 = 斉明天皇8年/天智天皇元年
- [392] [CITE[日本書紀]]天智天皇9年 = 天智天皇10年
- [396] [CITE[日本書紀]]天智天皇10年 = 斉明天皇11年 (大友皇子元年)
- [399] [CITE[日本書紀]]天武天皇元年 = 空位 (大友皇子2年)
- [402] [CITE[日本書紀]]天武天皇2年 = 天武天皇元年
- [403] [CITE[日本書紀]]天武天皇15年 = 天武天皇14年 持統天皇元年(?)
- [405] [CITE[日本書紀]]持統天皇元年 = 持統天皇2年(?)

[REFS[

- [408] [CITE[[[友田吉之助氏の所謂「舊日本紀」について⸺特に紀年論の立場から⸺]]]]

]REFS]

*** 飛鳥時代、奈良時代の表記


[116] 
[[干支年]]は古い時代から新しい時代まで用例が見られますが、
[[天武天皇]]の[[即位紀年]]が使われたと確実にいえるのは[[奈良時代]]頃からのようです。

[114] 
古い時代の史料が[[天武天皇]]時代を指すとき[[干支年]]か[[即位紀年]]を用い、
[[白鳳]]などの[[元号]]はみられません (番号は[[坂本太郎]]の論文内の整理番号):
[[干支年]]:
墓誌 (1 >>1255, 4 >>580, 6 >>1349),
[CITE[日本書紀]] 朱鳥元年七月丁巳条詔 (3 >>1259),
[CITE[続日本紀]] 延暦十年春正月己巳条牒 (8 >>1355),
[CITE[類聚三代格]] 大同元年閏六月八日官符 (9 >>1356)、
即位紀年:
[CITE[武智麻呂伝]] (7 >>1244),
[CITE[新撰姓氏録]] (10 >>1360, 11 >>1361)、
即位紀年㋐:
大安寺 (5 >>1314)、
即位紀年㋓:
薬師寺 (2 >>1256)
[SRC[>>859 pp.二一二-二一三]]
近年までに出土した[[木簡]]も専ら[[干支年]]を使っていました
(>>62)。



[117] 
[[坂本太郎]]は、
[[天武天皇]]時代を記述する古い史料が、
独立した性質を持ちながらことごとく[[白鳳]]を使わないため、
少なくても[[平安時代]]初期まで、
[[天武白鳳]]は用いられなかったと推測しました。
[SRC[>>859 pp.二一二-二一三]]

[118] 
ただし「大宝以前の固定性の少い年号」は[[干支年]]や[[天皇即位紀年]]を用いることが珍しくなく、
例えば[[白雉]]を使わない大安寺資財帳 (>>1319),
[CITE[霊異記]] (>>1398)
の事例がありますから、[[元号]]がなかったとは断言できず、
推測に留まらざるを得ません。
[SRC[>>859 pp.二一二-二一三]]

[119] 
[[坂本太郎]]は、
[CITE[霊異記]] ([[大化]] >>1389),
法隆寺資財帳 ([[大化]] >>406),
[[孝徳天皇]]時代の[[白鳳]] (>>783)
と[[大宝]]より前の[[元号]]を使った例があり、
[[天武天皇]]時代に[[元号]]を使わない [CITE[藤氏家伝]] (>>642) 
下 [CITE[武智麻呂伝]] (>>114 7)
に対し [CITE[藤氏家伝]] 上が[[白鳳]]を[[斉明天皇]]時代にまで使っていること、
[[天武天皇]]時代に[[元号]]を使わない
[CITE[美努連岡万墓誌銘]] (>>580) が[[大宝]]以後の[[元号]]を使っていることを挙げて、
いい加減な理由で[[天武天皇]]の時代に[[元号]]を使わなかったのではないとしました。
[SRC[>>859 pp.二一二-二一三]]





*** 天武白鳳

[790] 
[[天武天皇]]時代に[[白鳳]]の[[元号]]があったとされました
([DFN[天武白鳳説]])。

;; [1454] [[孝徳天皇]]時代の[[白鳳]] (>>783) とは時代が違っています。


[156] 
[CITE[多武峯略記]]
所引
「後記」
に
「白鳳七[LINES[戊][寅]]年」
とありました。
後記は10世紀後半成立とみられ、
壬申年[[天武白鳳説]]の初出とされます。
(>>153)

[1500] 
次にみられるのは百数十年経過した
[CITE[師元年中行事]]
でした (>>1499)。


[757] 
[CITE[扶桑略記]] (>>666)、
[CITE[水鏡]] (>>1539)、
[CITE[東寺年代記]]
に[[天武天皇]]2年癸酉3月の[[白鳳]]の祥瑞改元記事がありました。
[SRC[>>556]]
[CITE[扶桑略記]]
は、
[[天武白鳳説]]の最有力の史料とされていました
[SRC[>>859 p.二二一]]。
[CITE[扶桑略記]]
で既に癸酉元年説の体系は完成されていたとされます
[SRC[>>859 p.二二二]]。


[763] 
[CITE[扶桑略記]]
は[[白鳳]]を14年間としていました。
[SRC[>>556]]

[1565] 
[CITE[興福寺略年代記]] (>>1557)
は
[CITE[扶桑略記]]
と同じ[[朱雀]]、[[白鳳]]、[[朱鳥]]の元年の系列を踏襲した例として挙げられます。
[SRC[>>859 pp.二二二-二二三]]。

[1582] 
[CITE[東寺王代記]] (>>1566)
は
[CITE[扶桑略記]]
と同じ[[朱雀]]、[[白鳳]]を採用していましたが、
[[白鳳]]の13年目に[[朱雀]]に[[改元]]されたとする「或説」
を書いていました。
必ずしも [CITE[扶桑略記]] にばかり従ったものでなく (>>1581)、
諸種の異説があってその1つが記録されたものと考えられます
[SRC[>>859 p.二二三]]。

[1583] 
[[天武天皇]]元年と[[白鳳]]元年の1年のずれから継続年数の異説が生じたとも、
[[白鳳]]元年の2説あるいは[[天武天皇]]元年の2説の1年のずれから生じたとも、
継続年数が改元年を含むかどうかの解釈のずれから生じたとも推察できます。


[781] 
[CITE[一代要記]] (>>1735)、
[CITE[愚管抄]] (>>1508)、
[CITE[皇代記]] (>>1526)
その他が壬申年[[天武白鳳説]]を採用していました。
[SRC[>>556]]
[CITE[扶桑略記]] 方式より1年早いものです。
[CITE[愚管抄]]
が、
壬申年を元年とする「ややまとまって示された最初の史料」
とされます [SRC[>>859 p.二一九]]。
[CITE[皇代記]] 
には改元理由が加わっており、
ここに至って壬申元年説が
「その体系を完成し、
一つの歴史知識として普遍的な性質を獲得したような感がある」
と評されました
[SRC[>>859 p.二二〇]]。
これ以後多くの年代記の類でこの説が踏襲されました。


[768] 
[CITE[愚管抄]] (>>1508)
は[[白鳳]]を13年間としていました。
[SRC[>>556]]

-*-*-

[1677] 
他に[[天武天皇]]時代を[[白鳳]]とする少数説がいくつかあります。

[931] 
[CITE[太神宮諸雑事記]]
は、
「白鳳二年[LINES[壬][申]]」、
「白鳳四年[LINES[甲][戌]]」
としていました (>>571)。

[1678] 
壬申元年説を癸酉元年説と逆方向に1年ずらしたものに当たります。
何らかの換算ミスで発生したものでしょうか。

[1679] 
[CITE[興福寺伽藍縁起]] (>>1632)
は、
「天武天皇卽位元年白鳳十二[LINES[癸][未]]年」
としていました。

[1680] 
[[天皇即位紀年]]と[[天武白鳳]]が混同され結合されたものとみられます
(>>1661)。

[1686] 
[[坂本太郎]]は、
主要2説を検討した上で更に異説として
[CITE[大神宮諸雑事記]] 説 (>>931)、
[CITE[興福寺伽藍縁起]] 説 (>>1679) 
を挙げ、
その信憑性を「それらの各々を批判する必要を感じない」
程度のものと評しました。
[SRC[>>859 p.二二八]]


-*-*-

[1772] 
[[伴信友]]は、
癸酉年を元年とする史料と壬申年を元年とする史料を大量に収集しました。
[[伴信友]]は
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
説を主張していたので、
癸酉年を本来の天武天皇元年 = 白鳳元年としました。
癸酉年元年説の根據として次のものを示しました。
[SRC[>>1731]]

- [1773] 
[CITE[扶桑略記]] (>>666)
に朱雀2年に備後国[[白雉]]による[[白鳳]]の[[建元]]の記事があること。
-- [1774] 
[CITE[水鏡]] (>>1539) 編年記もそれに同じであること。
-- [1775] 
天武紀2年に備後国[[白雉]]記事があり、
このとき[[白雉]]に[[改元]]され、
後に[[白鳳]]に変えられたと考えられること。
- [1776] 
[CITE[年中行事秘抄]] (>>1547)
「天武天皇白鳳元年四月十四日。以大來皇女獻伊勢神宮依合戰願也」
とあり、
天武紀2年4月14日己巳と一致すること。
- [1777] 
[CITE[愚管抄]] (>>1508)
に
「天武天皇十五年云々、朱雀一年元年壬申、白鳳十三年、朱鳥一年」
とあること。
-- [1778] 
通本の「白鳳十三年」の下に細書で
「元年壬申支干同前、年内改元歟」とある。
-- [1779] 
「朱鳥」は「八年」として小書で「内一年」
と注し1つの写本に「元年丙戌歟」と注記され、
「八」は「一」の誤りで、
小書は後人の加筆と考えられること。
-- [1780] 
従ってこの引用は校訂したもの。
- [1781] 
[CITE[簾中抄]] (>>2198)
の[[天武天皇]]時代に
「朱雀一年白鳳十三年朱鳥一年」
とあること。
- [1783] 
[CITE[東寺年代記]] (>>1566)
に
「天武天皇元壬申云々、元年建朱雀號、二年卽位改朱雀號白鳳」
「十四年改白鳳爲朱鳥」
とあること。


[1807] 
壬申年元年説は、
改刪によって壬申年が天武天皇元年になったことで生じたもので、
この1年のずれが改刪の証拠にもなるとしました。
壬申年元年説として、次のものを示しました。 [SRC[>>1731]]

- [1797] 
[CITE[愚管抄]] (>>1508) 皇帝年代記、
[CITE[皇年代略記]] (>>707),
[CITE[紹運録]] (>>1610),
明應製年代記の首書などが、
[[白鳳]]元年を壬申年としました。
- [1798] 
[CITE[多武峰略記]] (>>929) 所引舊記の[[白鳳]]は、
[CITE[日本書紀]]
天武天皇紀と比較すると壬申年が元年となります。
- [1799] 
[CITE[元亨釈書]] (>>1609)
に
「白鳳十四年百濟常輝賜封三十戸」
とあるのが最後で、
これは
[CITE[日本書紀]]
天武天皇14年にかかれていました。
- [1800] 
師光 (>>2266) 師緒等の年中行事、
[CITE[年中行事秘抄]] (>>1547)、
[CITE[袋草子]] (>>1502)、
[CITE[袖中抄]] (>>1463) など所引[CITE[帝王系圖]] (>>1465)、
[CITE[山家要略]]、
[CITE[廿二社注式]] (>>1585) など所引[CITE[扶桑明月集]]、
[CITE[海東諸國記]]
など、
[[白鳳]]元年を壬申年としました。
- [1801] 
[CITE[源平盛衰記]]
十四巻の[[壬申の乱]]記事に、
「白鳳元年壬午」
とありました。
「壬申」
の誤りです
(>>1898)。
- [1810] 
「白鳳十一年壬午正月」
古瓦がありました。
白鳳元年は壬申年になるので、当時のものではありません。
(>>2510)

[1806] 
[[白鳳]]から[[朱鳥]]への[[改元]]について、
次のような矛盾した例を示しました。
これらは[[著者]]が自分で年数を計算せず、
古い記録を収集したまま書いたものだとしました。
[SRC[>>1731]]

- [1802] [CITE[水鏡]] (>>1539)
[[天武天皇]]の條二年に、
[[白鳳]]と[[改元]]されたとありました。
十五年に、
大和國赤雉が献上されて朱鳥元年に[[改元]]とありました。
[[朱鳥]]改元は14年のはずです。
(>>2493)
- [1804] [CITE[扶桑略記]]
に、
[[天武天皇]]の2年に[[白鳳]]改元とあり、
注に白鳳合至十四年といいながら、
壬申年を元年とし、
十五年を[[朱鳥]]の[[改元]]としていました (>>772)。
- [1805] 
[CITE[歴代皇紀]] (>>2215)
のある校本に、
朱雀元年壬申、
白鳳十三年元年癸酉とありました。
普通本には朱雀元年壬申 (ある本には丙戌)、
白鳳十三年元年壬申とありました。
- [1808] 
[CITE[吾妻鏡]]
に、
「白鳳十五年自大和國獻赤雉爲朱鳥元年」
とありました (>>2486)。
- [1809] 
[CITE[著聞集]] (>>2356)
に、
「天武天皇の御宇白鳳十四年」
とありました。

[1835] 
その他、
[[琵琶]]の[[白鳳]]にも言及しました。
[[天武天皇]]の時代のものか、
銘文がはっきりしない、
としていました。 (>>1813)


[2104] 
[[伴信友]]は、
[[孝徳天皇]]時代の[[白雉]]の別称に[[白鳳]]があったと考えていました (>>2082)。
[[天武白鳳]]も、
元は[[白雉]]だったものが、
[[白鳳]]に改められたとしました。
[SRC[>>1731]]

- 
[1792] 
[CITE[源平盛衰記]] (>>775)
に、
頼業が癸酉年に[[白雉]]の祥瑞から[[白雉]]に[[改元]]し、
その年のうちに[[白鳳]]と改められたと述べたと書かれていました。
-- [2081] 
博識たる[[大外記]]の頼業が、
[[改元]]のような重大事にいい加減なことを言ったはずがありません。
-- [2105] 
頼業以外はこの説を唱えてはいませんが、
同年内の改称のためあまり知られなかったに過ぎません。
同年中に[[天平勝宝]]と改められた[[天平感宝]]が、
古い[[年代記]]などで省かれて知らない人が多いのと同じです。
- 
[1793] 
壬申年に[[朱雀]]に[[代始改元]]したものの、
実は先帝の年に掛かっていたため、
前例に照らしてもあるまじき礼を失したものでした。
そのため翌年[[白雉]]の[[祥瑞]]で[[白雉]]と[[改元]]したのでした。
それを更に[[白鳳]]に[[改元]]したものでした。
-- [2106] 
[[白雉]]は[[孝徳天皇]]の時代に[[祥瑞]]から[[建元]]され、
[[白鳳]]に改めて[[斉明天皇]]、[[天智天皇]]の時代に使われたものでした。
この先例にならって[[白鳳]]に改めたのでした。
-
[1794] 
初期版
[CITE[日本書紀]]
には、
壬申年8月から[[朱雀]]、
癸酉年3月から[[白雉]]に[[改元]]、
その後[[白鳳]]に改称して13年乙酉までありました。
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
時に議論があって削除されました。
丙戌年の朱[ASIS[雀]]「[[改元]]」を「[[建元]]」に改めるべきところが漏れたのでした
(>>1725)。

;; [2108] 先帝の最終年途中に[[改元]]してはいけないというのは、
実は[[儒教]]の影響で[[奈良時代]]に成立した慣習でした。
[SEE[ [[改元時期]] ]]

[HISTORY[
[2520] 
[[斎藤励]]は、
[[伴信友]]説を紹介するに当たり、
癸酉年3月に[[白[ASIS[鳳]]]]と[[改元]]し、
さらに[[白鳳]]に置き換えた、
と述べていました。
[SRC[>>859 p.二二五 (>>1731)]]
[[白雉]]に[[改元]]し[[白鳳]]に置き換えたの誤りです。
]HISTORY]



-*-*-

[762] 
[[斎藤励]]は、
[CITE[扶桑略記]]、[CITE[水鏡]] (>>764)、
[CITE[帝王編年記]] (>>1607)、
[CITE[皇年代略記]]、
[CITE[愚管抄]] (>>1508)、
[CITE[東寺年代記]]
その他 (>>765)、
[CITE[神皇正統記]] (>>766)
より、
[[朱雀]]を[[天武天皇]]壬申年の[[元号]]としました。
[CITE[続日本紀]] (>>281) より[[公年号]]たることがわかるとしました
[SRC[>>556]]。


[767] 
[[斎藤励]]は、
[CITE[扶桑略記]] (>>666)、
[CITE[水鏡]]、[CITE[東寺年代記]] (>>757)
より、
[[天武天皇]]2年の[[元号]]としました。
[CITE[扶桑略記]] (>>763) 
より、14年間としました。
[SRC[>>556]]

[771] 
[[斎藤励]]は、
[CITE[日本書紀]]天武天皇2年3月壬寅に[[祥瑞]]記事があること、
白鳳14年丙戌に改元されたとすれば、
天武天皇15年丙戌の
[CITE[扶桑略記]] 祥瑞・改元記事や、
[CITE[日本書紀]] [[朱鳥]]改元記事と一致するとしました。
[CITE[一代要記]]、
[CITE[皇代記]]、
[CITE[愚管抄]]
その他 (>>781)
が[[元年]]を天武天皇元年とするのは、
[[朱鳥]]元年丙戌の前年を[[白鳳]]最終年とし、
そこまで14年と遡って壬申を元年と誤ったものかとし、
[CITE[愚管抄]] (>>768)
が[[白鳳]]元年壬申としつつ13年間とするのは更に誤りを重ねたものとしました。
[SRC[>>556]]

-*-*-


[523] 
[[坂本太郎]]は、

- [[天武白鳳]]が[[平安時代]]初期およびそれ以前の史料に見られないこと (>>117)
- [[天武白鳳説]]の根拠の文献はいずれも新しい時代のもので、
[[天武天皇]]時代の事実を記したものと信じ難いこと (>>1611)
- [[[CITE[日本書紀]]改刪説]]が[[天武白鳳説]]の根拠とならないこと (>>1624)

... を示し、[[天武白鳳]]の[[天武天皇]]時代の実在を否定しました。
[[孝徳天皇]]時代の[[白雉]]の別称だった[[白鳳]]が、
関係性の記憶が失われた時代に
[CITE[日本書紀]]
の[[白雉]]の[[祥瑞]]記事と結び付いて[[天武白鳳説]]が生じたとしました。
[SRC[>>859, >>502 (>>859, >>883)]]





[1611] 
[[坂本太郎]]は、
[[天武白鳳説]]の根拠とされる史料として、
次のもの (おおむね年代順) 
を検討しました。
(記号は論文内の整理番号)
[SRC[>>859 pp.二一四-二二四]]

- 壬申元年説:
[CITE[多武峯略記]] (>>929) 所引後記 (A),
[CITE[袖中抄]] (>>1463) 所引 [CITE[帝王系図]] (B),
[CITE[師元年中行事]] (>>1466, C),
[CITE[袋草紙]] (>>1502, D),
[CITE[愚管抄]] (>>1508, E),
[CITE[皇代記]] (>>1526, F),
[CITE[帝王編年記]] (>>1607),
[CITE[皇帝系図]] (>>1608),
[CITE[元亨釈書]] (>>1609),
[CITE[本朝皇胤紹運録]] (>>1610),
[CITE[二十二社註式]] (>>1585),
[CITE[皇年代略記]] (>>707)
など
- 癸酉元年説:
[CITE[扶桑略記]] (>>666, G),
[CITE[水鏡]] (>>1539, H),
[CITE[年中行事秘抄]] (>>1547, I),
[CITE[興福寺略年代記]] (>>1557, J),
[CITE[東寺王代記]] (>>1566, K)
など

;; [1612] 
[CITE[帝王編年記]]
以後は
[CITE[皇代記]]
系統の史料に基づいているに過ぎないとされました。
[SRC[>>859 p.二二一]]
[CITE[二十二社註式]]
は偽作が疑われ
(>>1599)
[[天武白鳳説]]の有力な証拠とするのは危険とされました
[SRC[>>859 p.二二四]]。



[1584] 
これら史料の検討より、
[[天武白鳳説]]は村上天皇・円融天皇の時代に初めて現れ、
[[堀河天皇]]・[[鳥羽天皇]]の時代にやや盛んに流布し、
その後広まったとしました。
ここから読み取れるのはあくまで史料制作当時の巷説・思想であって、
遡って[[天武天皇]]時代の事実とするのは
「慎重な史家のとるべき道でない」
と[[伴信友]]や[[斎藤励]]の説を否定しました。
[SRC[>>859 pp.二二三-二二四]]


[1455] 
[[坂本太郎]]は、
[[白雉]]と同じ[[白鳳]] (>>783) を使った [CITE[藤氏家伝]]
と、
[[天武白鳳]]の初出 (>>156) の [CITE[多武峯略記]]
が[[定恵]]によって結ばれることに注目し、
[[天武白鳳]]が生じた理由が[[多武峯]]にあったのではないかと考えました
[SRC[>>859 p.二一六]]。
より強く、
「[[多武峯]]だけでの一説ではなかろうかと疑った」
ということでした
[SRC[>>859 p.二一九]]。
しかし
「不幸にしてそれは見出し難い」
とせざるを得ませんでした。
「白鳳号についての名称上の意識が非常に明らかに存在していたことが、
天武白鳳説を生ぜしめる一つの要素となったとせられぬことはない。」
としました。
[SRC[>>859 p.二一六]]


[1501] 
[CITE[多武峯略記]]
で[[白鳳]]が盛んに用いられ (>>156)
てから、
次の
[CITE[師元年中行事]]
の頃「微弱な一説」
として現れる (>>1500)
まで、
百数十年の断絶があります。
[[坂本太郎]]が[[多武峯]]との特異的な関係を疑ったのはこれによるものでした。
[SRC[>>859 pp.二一八-二一九]]

[1625] 
[[坂本太郎]]は、
[[孝徳天皇]]時代の[[白雉]]に[[奈良時代]]に[[白鳳]]の別称が生じ、
[[平安時代]]まで併用されるうち、
両者の関係性の知識が次第に失われて別の[[元号]]と考えられるようになり、
[CITE[日本書紀]]
にもある[[天武天皇]]時代の[[白雉]]の[[祥瑞]]に結びついて[[天武白鳳説]]が成立したとしました。
[CITE[口遊]] (>>1626)
が[[白雉]]と[[白鳳]]を列挙しながら[[白鳳]]がどの時代かを示さなかったのは、
その過渡期の姿だとしました。
[SRC[>>859 pp.二二七-二二八]]




[1525] 
[[坂本太郎]]は、
[CITE[扶桑略記]]
(癸酉元年説)
より
[CITE[愚管抄]]
(壬申元年説)
が後から成立したものであることから、
後者の筆者が前者を参照することはできたものの、
両者の内容の比較から、
それぞれ独自に巷説を記述したものとしました。
元年が異なるのも、
流動しやすい巷説であることを物語っているとしました。
[SRC[>>859 pp.二一九-二二〇]]
[[白雉]]の[[祥瑞]]に結びついて癸酉元年説が生じ、
[[天武天皇]]元年を壬申年とするか癸酉年とするか曖昧であったために壬申元年説が派生したものではないかとしました。
[SRC[>>859 p.二二八]]


[1687] 
[[坂本太郎]]は、
[[天武白鳳説]]主要2説、
異説2説 (>>1686)、
[[天智天皇]]時代の[[白鳳]]説 (>>1685)
といった異説が頻出することは、
[[白鳳]]の成立の根拠が流動して常のない巷説だったことを示すのではないかとしました。
[SRC[>>859 p.二二八]]





-*-*-

[847] [[江戸時代]]後期から[[昭和時代]]に初期元号の研究が進み、
異説が否定されてきましたが、
[[白鳳]]はかなり後の時代まで[[白雉]]と別の[[元号]]として扱われていました。
[[美術史]]上の区分[[白鳳時代]]はその名残です。
[[昭和時代]]に出版された[CITE[日本年号大観]]も、
[[白鳳]]を掲載していました。

[911] 
一般向けの辞典付属の[[元号一覧]]の類では、
[[20世紀]]末頃まで[[白鳳]]などが掲載されていることがありました
[WEAK[(もしかすると[[21世紀]]に入ってもあったかもしれません)]]。


[1117] 
[CITE[Wikipedia]]
は[[白鳳]]の説の1つとして、
「『麗気記私抄』等」を出典に[TIME[元年 (西暦672年)][year:672]]
から[TIME[14年 (西暦685年)][year:685]]
まで続いたとしています。
[SRC[>>1114]]




[912] 
寺社の創設の歴史を記した案内板や[[自治体]]・観光団体の紹介文、
古い時代の出来事を扱った民間の[[Webサイト]]など、
現在でも[[白鳳]]を使って[[年号]]を記述する事例は数多くみられます
(次に示すのはその一部です)。
天武天皇元年を白鳳元年とするものも、
天武天皇2年を白鳳元年とするものもみられ
(それ以外の[[白鳳]]もあり)、
中世の混乱が現代に持ち越されている形となっています。


[648] 
[[CLDRの和暦]], [[CLDR元号コード]]がなぜか[[天武白鳳]]に対応しています。


[REFS[ [932] 天武天皇0年白鳳

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[933] [CITE@ja[[[大富神社]] - Wikipedia]], [TIME[2020-01-15 13:06:24 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AF%8C%E7%A5%9E%E7%A4%BE>
]FIGCAPTION]

>宗像神社宝鏡記によると白鳳元年(671年)、山田庄長横武某に住吉大神・八幡大神の神託が祀ったという。
]FIG]

;; [1676] 同内容の [[Webページ]]が他にも多数。


]REFS]

[REFS[ [901] 天武天皇元年白鳳

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[908] [CITE[湊のくに]], 
平成26年7月1日号   公民館だよりNo51号,
発行:会津若松市 湊公民館,
[TIME[2015-11-09 14:04:43 +09:00]] <https://aizuwakamatsu.mylocal.jp/documents/20181/1102854/20140701.pdf>
]FIGCAPTION]

>経沢地区編1 「守屋(もりや)神社」
>[SNIP[]]
>白鳳時代の572年、大連(おおむらじ)として、朝廷にも加わった守屋は、
[SNIP[]]
>[SNIP[]]、物部一族の永山氏が白鳳元年(672)に社殿を建てたとされています。


]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[900] [CITE[[[琴平神社]] - 南国市役所:::::土佐のまほろば:::::]], 
担当 : 生涯学習課 / 掲載日 : 2016/07/27,
[TIME[2020-01-29 12:51:51 +09:00]] <https://www.city.nankoku.lg.jp/sp/life/life_dtl.php?hdnKey=1568>
]FIGCAPTION]

>天武天皇の白鳳13(684)年の地震
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[895] [CITE@ja[女帝とは何か?~皇位継承のありかたを変えた持統天皇~ | [[竹田恒泰]]公式サイト「竹の間」]], 
2005年11月21日,
掲載日平成17年11月21日,
[TIME[2020-01-28 22:00:56 +09:00]] <http://www.takenoma.com/article/2005/11/21/616/>
]FIGCAPTION]

>白鳳(はくほう)元年(672)
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[905] [CITE@ja[天武天皇13年の地震 | [[四国]]災害アーカイブス]], [TIME[2020-01-29 12:59:32 +09:00]] <https://www.shikoku-saigai.com/archives/2751>
]FIGCAPTION]

>天武13年(684)10月14日、
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[906] [CITE@ja[白鳳13年の地震 | [[四国]]災害アーカイブス]], [TIME[2020-01-29 13:00:29 +09:00]] <https://www.shikoku-saigai.com/archives/3357>
]FIGCAPTION]

>天武13年(684)10月14日、
]FIG]

;; [907] 同じサイトだが記事ごとに題名が違う。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[914] [CITE@ja[穴師村(あなしむら)/[[泉大津市]]ホームページ]], [TIME[2020-01-29 17:19:37 +09:00]] <https://www.city.izumiotsu.lg.jp/kakuka/tosiseisakubu/matidukuriseisakuka02/tantougyoumu/keikaku/jyukyohyouji/anasimura.html>
]FIGCAPTION]

>和泉五社の第二社である延喜式内社「泉穴師神社」がある。白鳳元年(672年)の創建とされ、 [SNIP[]]
]FIG]

]REFS]

[REFS[ [902] 天武天皇2年白鳳

- [934] [CITE@ja[[[淺間山]]爆発史集 : 白鳳13年-昭和30年 : 685-1955 (軽井沢測候所): 1956|書誌詳細|国立国会図書館サーチ]], [TIME[2020-01-29 20:59:29 +09:00]] <https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I007715363-00>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[904] [CITE[氷上郡合併協議会]], 
平成15年2月19日,
[TIME[2012-04-01 12:52:39 +09:00]] <http://www.gappei-archive.soumu.go.jp/db/28hyougo/91-tanba/name/details.html>
]FIGCAPTION]

>氷上郡の名称は西暦685年(白鳳13年)頃より使用され
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[903] [CITE[3史実にみる[[軽井沢]]の温泉の歴史]], [TIME[2010-06-29 13:44:20 +09:00]] <http://www.onsen-ryokou.com/area02/karuonsen3.htm>
]FIGCAPTION]

>[B[浅間山噴火の歴史]]
>( 685) 白鳳13年     記録に残る最も古い噴火
[SNIP[]]
>[B[引用資料]]
>  やまぼうし 星野嘉助氏著
>  軽井沢案内 1999年版 軽井沢町観光商工課
>  浅間山火山防災マップ 

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[915] 
[CITE[美浦村鎮座大宮大神]], [TIME[2018-01-27 08:43:08 +09:00]] <http://www.ibaraki-jinjacho.jp/ibaraki/kennan/jinja/09072.htm>
]FIGCAPTION]

>神社名 	:大宮大神
>鎮座地 	
: 	〒300-0404
稲敷郡美浦村土浦外十六大字入会字岡平1番地3
>
[SNIP[]]
>
【御由緒】 	 [SNIP[]]
> 白雉元年(650)第12代景行天皇の御代生田長者満盛が此処に居住し安中郷を統率していた時、氏神として創立し崇敬していました。
> 第40代天武天皇の御代白鳳元年3月(673)伊勢の大神を奉斎。

]FIG]

[NOTE[
[916] 
[[茨城県神社庁]]の [[Webサイト]]、つまり公式の由緒の説明。
白雉元年は西暦650年だが、景行天皇の時代とは全然違う。
白雉と別に白鳳がある。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[917] [CITE[[[大宮大神]] (2019年8月26日)(茨城県稲敷市) - び・び・びのびいすけ]], 
2019/10/0200:00,
[TIME[2020-01-29 17:24:08 +09:00]] <http://biisuke0822.blog.fc2.com/blog-entry-3978.html?sp>
]FIGCAPTION]

>大宮大神は、稲敷市伊佐部に鎮座する神社です。
>創建は、天智帝元年(668年)とされ、

]FIG]

[918] 由緒と住所が微妙に違うこれは同名の別の神社か。
]NOTE]


]REFS]

[REFS[

- [1111] [CITE@ja[[[丹生川上神社]](奈良・吉野郡)]], [TIME[2019-12-03 20:16:54 +09:00]] <http://www.y-tohara.com/nara-niukawakami.html>
-- 天武天皇白鳳4年を[TIME[西暦675年][year:675]]とする箇所と[TIME[676年][year:676]]とする箇所がある。
西暦年が引用に含まれるのか著者の注記か定かでなく、
換算ミスかどうかもはっきりしない。


]REFS]

-*-*-

[920] 
[CITE[邇幣姫神社由緒記]]
には[[白鳳地震]]が
「白鳳十三年甲寅の四月十四日」
とあります [SRC[>>919]] が、
[CITE[日本書紀]]など一般に[[白鳳地震]]は[TIME[天武天皇13(684)年甲申][year:684]]とされています。
この付近で甲寅年は[TIME[白雉5(654)年][year:654]]で、
[[干支]]の誤記と解するのが妥当でしょう。


[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[919] [CITE@ja[[[白鳳地震]] - Wikipedia]], [TIME[2020-01-14 19:34:09 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87>
]FIGCAPTION]

>『邇幣姫神社由緒記』 [SNIP[]]
>> 白鳳十三年甲寅の四月十四日〔ママ〕
]FIG]

]REFS]



[2822] 
[CITE@ja-JP[郷土研究東三河ところどころ]], [[豊田珍彦]], [TIME[昭13][1938]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-30T11:52:35.628Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1261780/1/107> (要登録)


*** 朱鳥

[77] [CITE[日本書紀]]には天武天皇14年の次に
「朱鳥元年春正月壬寅朔癸卯。 [SNIP[]]
秋七月己亥朔庚子。[SNIP[]]
戊午。改元曰朱鳥元年。〈朱鳥。此云阿訶美苔利。〉[SNIP[]] 」 [SRC[>>75]]
とありました。
ここでも[[元日から先立って][年始遡及年号法]][[朱鳥]]の元号が使われました。
[SEE[ [[朱鳥]] ]]

[780]
[[斎藤励]]は、
[CITE[日本書紀]]
に[[朱鳥]]改元記事があるので実在は疑いないとしました
[SRC[>>556]]。

[1692] 
[[斎藤励]]は
[CITE[熱田縁起]] (>>524) の「朱雀元年丙戌」
を[[朱雀]]の根拠としました。
[SRC[>>556]]。

[784] 
[[斎藤励]]は[[天武天皇]]時代に[[朱雀]]があったとするため、
さすがに同じ[[天武天皇]]の時代に[[朱雀]]2回は紛らわしいので[[朱鳥]]とした、
[[朱鳥]]が正しいが[[朱雀]]とも言ったとしました。
[SRC[>>556]]。


[869] 
[[朱鳥]]と異称の[[朱雀]]には異説がいくつかありました。

[FIG(list)[ [870] [[朱鳥]]と[[朱雀]]の異説
- 西暦672年天武天皇元年壬申朱雀 (>>617)
- 西暦673年天武天皇2年癸酉朱雀
- 西暦684年天武天皇13年甲申朱雀
- 西暦686年天武天皇15年丙戌朱鳥 (>>77)
- 西暦686年天武天皇15年丙戌朱雀 (>>285)
- 西暦687年持統天皇元年丁亥朱鳥 (>>2116)
- 西暦687年持統天皇元年丁亥朱雀
- 朱馬 (>>2426)
]FIG]

**** 改元理由

[2128] 
[CITE[日本書紀]]
は、
[[朱鳥]]に[[改元]]した理由を説明していませんでした。


[2131] 
[[改元]]前後、[[天武天皇]]は重病を患っており、
[[改元]]後まもなく[[崩御]]しました。
このため、
[[改元]]意図は[[天武天皇]]の病気平癒祈願と推測されています。
[SRC[>>502 (岩波日本古典文学大系[CITE[日本書紀]]下巻四八〇頁頭注一)]]


[2137] 
[CITE[日本書紀]]
によると、
[[改元]]の5日前に[[天武天皇]]は[[皇后]]の[[持統天皇]]と[[皇太子]]の[[草壁皇子]]に政治を委ねたとされます。
すると[[改元]]はこの新しい政治体制と関係するとも考えられます。
[[持統天皇]]の[[称制]]と[[朱鳥]]を関連付ける考え方 (>>2113) も、
根底にはこの時系列があるのでしょう。


[HISTORY[

[2132] 
[CITE[日本書紀]]の天武天皇9年7月、10年7月に、
[[朱鳥]]、[[朱雀]]の出現記事がありました。
これとの関連が指摘されました。

[1816] 
[[伴信友]]は、
[CITE[日本書紀]]
天武天皇9年、10年の[[朱雀]]によるとする説について、
5,6年前の[[祥瑞]]で[[改元]]するとは考えにくいとしました。
[SRC[>>1731]]

]HISTORY]

[1815] 
[[中世]]以後の多くの[[歴史書]]が、
天武天皇15年に[[大和国]]から[[赤雉]]が献上されたことによる[[改元]]としていました。
[CITE[扶桑略記]] (>>666) [SRC[>>1731, >>502]]
に
「白鳳十五年丙戌、大倭國進赤雉、仍七月改元爲朱鳥改元」
とありました [SRC[>>1731]]。
[CITE[水鏡]]、
[CITE[吾妻鏡]]
などにも同じでした [SRC[>>1731]]。
[CITE[皇年代記]]
に
「十五年大和國獻赤雉、仍爲瑞改元」
とありました [SRC[>>1731]]。
[CITE[皇代記]]、
[CITE[一代要記]]などが、
[[大和国]]から[[赤雉]]が献上された[[祥瑞改元]]としていました
[SRC[>>502]]。

[2133] 
ただしこれは
[CITE[日本書紀]]
のような古い記録にない記事で、
信頼できるものかどうか、
定かでありません。



[782]
[[斎藤励]]は、
[CITE[日本書紀]]
に改元理由がないため、
[CITE[扶桑略記]] (>>666)、
[CITE[一代要記]] (>>1735)、
[CITE[皇年代略記]]、
[CITE[皇代記]] (>>1526)
に同年[[赤雉]]祥瑞による改元、
[CITE[釈日本紀]]
に9年、10年[[朱雀]]祥瑞による改元とあることを挙げ、
[[赤雉]]の[[祥瑞]]は他に例がないので[[朱雀]]が正しい、
[CITE[釈日本紀]]の朱雀は数年前なので不審、
同じ朱雀が再び現れて改元されたのであり、
[CITE[扶桑略記]]
が[[赤雉]]としたのは
編者の「疎漏」としました。
[SRC[>>556]]。





[1819] 
[[伴信友]]は、
[CITE[日本書紀]]
に[[天武天皇]]が鳥や赤色を重視した記録があり、
[[朱雀]]や[[朱鳥]]を[[建元]]したのもそれによるものだとしました。
[SRC[>>1731, >>502]]
([[伴信友]]は[[朱鳥]]と[[朱雀]]が[[天武天皇]]時代の
2つの[[元号]]と考えていました。)

[2134] 
[[直木孝次郎]]は、
[[天武天皇]]が[[壬申の乱]]や[[朱鳥]]改元で[[赤]]色を喜んだと指摘しました。
[SRC[>>502 ([CITE[飛鳥奈良時代の研究]], 昭和五十年刊, [CSECTION[持統天皇と呂太后]], p.126, p.143)]]


[HISTORY[
[2136] 
[[伴信友]]は、
[[天武天皇]]の時代の[[元号]]に他に[[白雉]]、[[白鳳]]もあるが、
これは前の時代の[[元号]]を再利用したものなので別の話だとしました。
([[伴信友]]は[[孝徳天皇]]時代の[[白雉]]・[[白鳳]]が[[天武天皇]]時代に再利用されたと考えていました。)
]HISTORY]


[2135] 
[[直木孝次郎]]は、
[[天武天皇]]と[[持統天皇]]が[[朱鳥]]を[[建元]]したのは[[天智天皇]]の[[白雉]]に対抗する意図があったと推測しました。
[SRC[>>502 ([CITE[飛鳥奈良時代の研究]], 昭和五十年刊, [CSECTION[持統天皇と呂太后]], p.126, p.143)]]



**** 朱鳥延長年号

[887] 
[[朱鳥]]の終わりをいつとするか、
はっきりしないところがあります。
([[白雉]]の終わりと似ています。 [SEE[ 両者の共通点は >>1102 ]])
[[朱鳥]]は[[改元]]の[TIME[7月20日][kyuureki:686-07-20]]に始まり、
短いものは[[天武天皇]]の[[崩御]]の[TIME[元(686)年9月9日][kyuureki:686-09-09]]を終了とし、
長いものは
[TIME[16(701)年][year:701]]で[[大宝]]への[[改元]]に接続するものとします。

[2272] 
この時期の[[日時]]を[[生成]]する時、
通常は[TIME[西暦686年][year:686]]の末までを[[朱鳥]]元年とし、
翌年以降を持統天皇元年、2年と数えていくのが適切と考えられます。
[[朱鳥]]の[[日時]]を解釈する時、
年数の上限を設けずに認識するのが適切と考えられます。

-*-*-

[78] 
[CITE[日本書紀]]
では、
[[天武天皇]]紀が朱鳥元年9月の[[天武天皇]]の[[崩御]]を境に[[高天原廣野姫天皇]] ([[持統天皇]]) 紀に続き、
[[持統天皇]]の[[称制]]から12月まで朱鳥元年の記事がありました。
その後改めて「元年」となりました。
[SRC[>>18]]
なお
[CITE[日本書紀]]
は年始から[[遡及年号]]を使う編纂方針のため [SEE[ [[遡及年号]] ]]、
[[改元]]のあった年に遡って[[朱鳥]]元年とされていました。
つまり
[CITE[日本書紀]]
では[[朱鳥]]の継続期間が1年間となっていました。

[327] 
[[現代日本]]の多くの[[対照表の類][元号一覧]]は一般に[TIME[西暦686年][year:686]]末まで[[朱鳥]]元年、
[TIME[西暦687年][year:687]]初から[[持統天皇]]元年としています [SRC[>>92, >>323]]。


[141] [CITE[Wikipedia]] 
の[[元号一覧]]は[[持統天皇]]の[[称制]]の日である朱鳥元年9月9日を[[朱鳥]]最終日とし、
以後空白期にしています。
この数え方では[[朱鳥]]の継続期間は約2ヶ月となります。
しかし他の記事では、残りの期間も[[朱鳥]]元年として扱っています [SRC[>>207]]。

-*-*-

[93] 
古い文献には[[朱鳥]]8年まで用例があります [SRC[>>92, >>269]]。
ただし[[元年]]が1年ずれているものがあります (>>2116)。
[[江戸時代]]には、
2年以降の[[朱鳥]]の用例を根拠に、
[[持統天皇]]の[[即位]] (持統天皇4年) 
と[[朱鳥]]の継続期間を関連付ける説が有力と考えられたようです。

[2113] 
[[西生懐忠]]は、
[[鬼室集斯墓]] (>>1820)
の
「朱鳥三年」
を説明するため、
[[天武天皇]]の[[崩御]]後に[[持統天皇]]が[[称制]]し、 
翌年が称制元年、 4年が天皇元年となっていて、 
それまで[[朱鳥]]を使っていたのが、 
後に称制元年を持統天皇元年としたものとしました。 
[CITE[愚管抄]] (>>1508)、
[CITE[皇代略記]] 
が天武天皇没後7年まで[[朱鳥]]とすることにも言及しました。
[SEE[ [[鬼室集斯墓]] ]]

[2122] 
[[新井白石]]は、
[[那須國造碑]] (>>213)
の
「朱鳥四年己丑」
説を説明するため、
己丑年は[[持統天皇]]3年、
朱鳥4年に当たり、
その翌年に[[持統天皇]]が[[即位]]したので、
[[持統天皇]]の即位前には[[朱鳥]]が使われ続けたとしました。

[2124] 
[[藤貞幹]]は、
[CITE[好古小録]]
で、
[[那須國造碑]] (>>213)
の
「朱鳥四年己丑」
説を説明するため、
[[朱鳥]]は諸書に
11年まで見えると指摘しました。
[SRC[>>2114]]


[2270] 
[[伴信友]]は次のように指摘し、
乙未年の[[改元]]まで[[朱鳥]]が使われたとしました [SRC[>>1731]]。

- [1814] 
丙戌年の[[朱鳥]]改元は、
[CITE[日本書紀]]
天武天皇十五年七月戊午に記事があるのをはじめ、
各書にあって混乱はありません。
- [2100] [[鬼室集斯]]墓碑に、
「朱鳥三年戊子十一月八日殂」
とありました。
持統天皇2年に当たります。
(>>1820)
- [1821] 
[CITE[霊異記]]
に、
「有紀曰朱鳥七年壬辰二月」
とありました (>>1390)。
持統天皇6年2月丁未乙卯、3月戊辰などに相当します。
--
[1827] 
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
のため現在のものには残っていません。
ここでいう改刪は、
[[白鳳]]などを消去したものでなく、
その次にあった改刪でした。
- [1822] 
[CITE[紹運録]] (>>1610)、 
[CITE[紹運要略]] (>>2242)
などの[[草壁皇子]]に、
「朱鳥四年薨」
とありました。
[CITE[日本書紀]]
持統天皇3年に当たります。
- [1823] 
[CITE[新古今和歌集]]
に
「朱鳥五年九月」
の紀伊國行幸のことがありました
(>>2121)。
[CITE[日本書紀]]
持統天皇4年9月丁亥に当たります。
- [1824] 
[CITE[大鏡裏書]] (>>2255)、
[CITE[愚管抄]] (>>1508) 皇帝年代記、
[CITE[皇年代略記]] (>>707)、
[CITE[師光年中行事]] (>>2266)
などにも同様でした。
- [2211] [CITE[皇年代略記]] (>>707)
に一説で8年甲午とあるのは持統天皇8年であって朱鳥8年ではないので、
異説ではありません (>>1825)。
- [1826] 
[CITE[海東諸國記]]
に朱鳥二年を持統天皇時代のはじめとしていました。



[785]
[[斎藤励]]は、
[[伴信友]]が引用した[[鬼室集斯墓碑]]「朱鳥三年戊子」 (>>1820)、
[CITE[霊異記]] (>>1390)、
[CITE[万葉集]]
から、
[[朱鳥]]は[[持統天皇]]時代も使われたとしました。
[CITE[万葉集]]は1年誤り、
[CITE[霊異記]]から朱鳥7年まであったことが明らか、
[CITE[万葉集]](を訂正)から朱鳥9年甲午まであったとみられるとしました。
[[伴信友]]が翌乙未から[[大化]]としたのはよくできた説だが疑わしく、
[[持統天皇]]時代終わりまで[[朱鳥]]が用いられただろうとしました。
[SRC[>>556]]。


[789] 
[[斎藤励]]は、
[CITE[日本書紀]]
所収の詔の文面 (>>892) が[[朱鳥]]の[[元号]]を用いていなかった証拠にも思えるが、
[[元号]]も[[即位紀年]]も使っていたのだとしました。
その証拠として、
[CITE[常陸国風土記]]が[[大宝]]以前を[[干支年]]で表し (>>787) 
後の時代は[[元号]]で慶雲元年と書いている、
[CITE[日本書紀]] の孝徳「後五年」 (>>70)、
のような例がある、
としました。
さらには、
ここに
[CITE[万葉集]]
の1年ずれ (>>2117) が発生した経緯も推察できるとしました。
[SRC[>>556]]。

[2883] 
[CITE[日本国志]] (>>2881) は[[朱鳥]]を4年までとし、
その次を[[持統天皇]]の元年としています。


[2637] 
[[木崎愛吉]]は、
[CITE[大日本金石史]]の[[年表]] [WEAK[(記事の有る年のみ表記)]] で、
次のように書きました。
[SRC[>>2638]]

- [2640] 皇紀1326年 天智天皇 即位5年 ([TIME[西暦666年][666]])
- [2639] 皇紀1346年 天武天皇 15年    ([TIME[西暦686年][686]])
- [2641] 皇紀1348年 天武天皇 朱鳥3年 ([TIME[西暦688年][688]])
- [2642] 皇紀1349年 天武天皇 朱鳥4年 ([TIME[西暦689年][689]])
- [2643] 皇紀1352年 持統天皇 3年     ([TIME[西暦692年][692]])

[2644] [[鬼室集斯墓碑]]を、疑問視しつつも紹介しており、
その発見者として[[西生懐忠]] (>>2113) に言及していました。
[SRC[>>2638]]
朱鳥と持統天皇の数え方は、その影響でしょうか。




[2123] 
[[井上通泰]]は、
新井 (>>2122) が
[CITE[靈異記]]
や
[CITE[万葉集]]
所引
[CITE[日本紀]]
が[[朱鳥]]の[[延長年号]]を使っているのを引かなかったことから、
新井はそれを知らなかったのだろうとしました。
そしてこれらに朱鳥7年があることから、
称制が理由なら持統天皇4年以後があったはずがないとし、
[[持統天皇]]即位まで[[朱鳥]]を使ったとするのは妄断だとしました。
当時[[元号]]制度が未成熟だったとする[[伴信友]]の主張を引いて、
朱鳥8年ないし9年まで用いられたものとしました。
[SRC[>>2114]]

[2636] 
[[昭和時代]]の日本史研究者[[胡口靖夫]]は、
[[西生懐忠]] (>>2113) と[[伴信友]] (>>2270) の主張を引き、
更に
[CITE[万葉集]]
所印
[CITE[日本紀]]
を1年ずれ (>>2117) に言及しつつ示し、
また
[CITE[日本霊異記]] (>>1390)
を示し、
[[朱鳥]]は長く続いたとしました。
それを根拠に此の点に関して[[鬼室集斯墓碑]]は不審ではないとしました。
[[佐藤誠実]]の [CITE[白鳳朱雀并法興元考]]
をも引いていました。
加えて[[重松明久]]の
[CITE[白鳳時代の年号の復[ASIS[元]]的研究]]
を引いて、
[CITE[日本書紀]]
成立時の「或る種の作意」で[[朱鳥]]が1年に限定されたとの説に賛同しました。
[SRC[>>2634]]


[24] 
[CITE[日本年号史大事典]]巻末年表は、
[TIME[西暦686年][year:686]]を朱鳥元年とし、
2年から5年は括弧書き、
それ以後の[[元号]]欄は空欄としていました。
[SRC[>>246 普及版 p.795]]

[2273] 
[[変換表や実装の類][元号一覧]]には、
次の[TIME[大宝元(701)年][year:701]]の[[改元]]まで[[朱鳥]]とするものもあります。
これといった根拠や主張はなく、杜撰な実装の結果のようにみえます。
(>>412)

[REFS[
- [2638] [CITE@ja[[[大日本金石史]]. 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], 
[[木崎愛吉]], [TIME[大正10][year:1921]], 
[TIME[2021-04-07T09:20:22.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960208/20>
- [2633] [CITE[[[近江朝と渡来人⸺百済鬼室氏を中心として⸺]]]]
-- [2634] [CITE[鬼室集斯墓碑をめぐって]],
pp.44-72
-- [2635] [CITE@ja-jp[[[近江朝と渡来人―百済鬼室氏を中心として]] | 胡口 靖夫 |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2021-03-27T03:02:05.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4639014031/wakaba1-22/>
]REFS]

-*-*-

[2274] 
2年以後の用例はいずれも当時のものでないため、
当時[[元年]]だけで終了したのに使われ続けることがあったのか、
後の時代に終了時期が曖昧になって使われるようになったのか、
明確になっていません。
当時から曖昧だったとも推測されます (>>522)。
そもそも[[元年]]も当時どれだけ使われたものか明らかではない
(>>842)
ことに難しさがあります。


@@
[2779] [CITE@ja-JP[国史大辞典 第3回(さ-そ た-と)]], [[八代国治 等編]], [TIME[昭和3-4][1929]], [TIME[2023-09-26T02:10:58.000Z]], [TIME[2023-09-27T05:51:47.125Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1172030/1/145>


**** 持統天皇元年朱鳥

[2116] 
[CITE[万葉集]]
に、
[CITE[日本書紀]]
朱鳥元年の翌年、
[TIME[持統天皇元(687)年[LINES[丁][亥]]][year:687]]を元年とする数え方の
「朱鳥」
がみられました。
しかもその出典は
[CITE[日本紀]]
とされていました (>>284)。
([CITE[日本書紀]] 式と混在していました (>>2115)。)

-*-*-

[2271] 
[[江戸時代]]以来諸説が唱えられてきましたが、
本来の[[朱鳥]]が後の時代に誤って
1年ずれて書かれるようになったとするのが通説となっています。

[HISTORY[
[1828] 
[[伴信友]]は、
[CITE[万葉集]]
1巻左注に
「朱鳥四年庚寅」
から
「朱鳥八年甲午」
まであるのは[[持統天皇]]元年から数えたもので、
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
後の記述を読み誤ったものだとしました。
[SRC[>>1731]]
]HISTORY]

[2117] 
[[斎藤励]]は、
[[持統天皇]]時代に
[CITE[日本書紀]]
式[[朱鳥]]と[[持統天皇]]即位紀年が併用されていたため、
混同が生じたとしました
(>>785, >>789)。
ただし現在までの研究によれば[[持統天皇]]時代に[[天皇即位紀年]]が実用されたか、
未だ明確になっていません。

[527] 
[[坂本太郎]]は、
[CITE[万葉集]] の1年ずれ (>>284) は、
[[代始改元]]が慣例化した時代、
[[朱鳥]]が[[天武天皇]]末年 = [[持統天皇]]初年のものであるため、
[[持統天皇]]の時代に始まったと錯誤し、
書写時に傍注が本文に混入し持統天皇紀の年が朱鳥の年に転移した可能性があるとしました。
[SRC[>>502 (>>859, >>883)]]

[548] 
[[岡田芳朗]]は、
[CITE[万葉集]]左注の[[天智天皇]]年が[[斉明天皇]]崩御年を元年とする (>>547) ことから、
[[天武天皇]]崩御年の[[朱鳥]]を[[持統天皇]]年と混同した結果、
1年のずれが生じたと推測しました。
[SRC[>>502 ([CITE[[CITE[万葉集]]の紀年]], [CITE[日本古代史の諸問題]], 昭和43年刊)]]

[549] 
[[所功]]は、
岡田説を支持し、
[[天智天皇]]は[[斉明天皇]]崩御年を[[元年]]とし、
[[朱鳥]]は[[天武天皇]]崩御翌年を[[元年]]とする矛盾を持ち、
1年ずれの[[朱鳥]]と[CITE[日本書紀]]方式の[[朱鳥]]が混在している
[CITE[万葉集]]左注の史料価値は疑わしい、
と指摘しました。
[[持統天皇]]時代の[[元号名]]のない年数のみの[[元号年]]の用例があって[CITE[日本書紀]]の[[持統天皇]]即位紀年と一致すること (>>567)、
[[元号名]]なしの「十年」が異本で「持統天皇十年」となっており後の加筆と考えられること (>>567)、
を示した上で、
1年ずれの[[朱鳥]] (>>284) は元は年数のみだったのを後で[[朱鳥]]と加筆した、
と推測しました。
[SRC[>>502]]


[2275] 
[CITE[日本書紀]]
の構成は、
[[天武天皇]]紀の最後に[[朱鳥]]元年の[[天武天皇]]の[[崩御]]に関係する記事があり、
[[持統天皇]]紀の最初に[[朱鳥]]元年の[[持統天皇]]の[[称制]]からの記事が続き、
其の次に「元年」 (持統天皇元年)、「二年」と記事が続く形となっています。
前から順に呼んでいけば曖昧さはありませんが、
慎重さを欠いていれば
「元年」
から[[持統天皇]]の[[天皇即位紀年]]に切り替わっていることに気づかず、
「朱鳥元年」、
(朱鳥)「二年」、
(朱鳥)「三年」
と続いていると誤読してしまうおそれがありそうです。
こうした土壌から、
1年のずれや[[延長年号]]が生じたのかもしれません。

;; [2276] 
[[斉明天皇]]から[[天智天皇]]の代替わりも同様の構成ですが、
そちらは[[元号]]がないので、そのような誤認は発生しません。
[[孝徳天皇]]から[[斉明天皇]]の代替わりは、
ちょうど年末年始が境界になっているので、
やはり誤認しません。





[HISTORY[


[2118] 
[[井上通泰]]は、
[CITE[日本書紀]] 式を採る 
[CITE[日本書紀]]、
[[鬼室集斯墓]] (>>1820)、
[CITE[万葉集]] 1例 (>>2115)、
[CITE[靈異記]] (>>1390)
と、
[[持統天皇]]元年が元年の
[CITE[万葉集]] 4例 (>>284)
の2つの数え方が古くからあったとしました。
後者は[[伴信友]]の主張を引いて、
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614) 
により削除されたとしました。
[SRC[>>2114]]

[769] 
[[木村正辞]]は、
現存
[CITE[日本書紀]]
と異なる、
[[朱鳥]]元年を持統天皇元年丁亥とする[CITE[日本紀]]が存在したとしました。
[SRC[>>502 ([CITE[日本書紀成立の研究]], [[友田吉之助]], 昭和44年刊)]]


[544] 
[[友田吉之助]]は、
坂本説 (>>527)
を
「余りにも想像的な解釈」
とし、
木村説 (>>769)
がほぼ間違いないだろうとしました。
[SRC[>>502 ([CITE[日本書紀成立の研究]], [[友田吉之助]], 昭和44年刊)]]

]HISTORY]


[REFS[
- [2114] [CITE[上代歴史地理新考 東山道・附風土記逸文註釋、[[井上通泰]]]], 
[TIME[1943.6.30][1943-06-30]],
[TIME[2020-06-18 14:28:20 +09:00]] <https://kiebine2007.amearare.com/rekisitiri2.htm>
]REFS]


[2838] [SRC[>>2114]]

>
[SNIP[]]按に扶桑略記に。八月天皇幸2野上宮1。立2年號1爲2朱雀元年1。大宰府献2三足赤雀1。仍爲2年號1。とあり。水鏡も同じ。當時大宰帥は栗隈王なり。既に上に見えたり。然れども年號のことは。未(ダ)偏く天下に行はれざりしが故に。此記には。こゝに漏したるなるべし。されどたしかに年號ありしことは。續紀神龜元年の詔に。白鳳以來朱雀以前。年代玄遠。とあれば。扶桑略記水鏡も。誤にはあらず。さればこれよりは。まことに天皇の元年なること。疑ひなきを。次なる二年を以。元年なりと云る説は私なり[SNIP[]]

[2839] [SRC[>>2114]]

>按に。本紀に壬申を以。元年と爲たる事は。既にも云る如く。營2宮室於崗本宮1。即冬遷以居焉。是謂2飛鳥淨御原宮1。とありて。此年天皇踐祚し給へること明らけし。【正統記に見えたり。】且扶桑略記等の書にも於2野上行宮1。既立2年號1。爲2朱雀元年1。と云こと。八月に在り。又朱雀二年三月。備後國進2白雉1。仍改2白鳳元年1。と云ることあり。【水鏡。編年記。亦同じ】しかるに後に議ありて。朱雀白鳳の年號を廢し給へれば。壬申を(3603)以元年とし。癸酉を二年と爲給へること。自然の理と申すべし。然るに後の議者。かの藥師寺塔(ノ)擦(ノ)銘に。即位八年庚辰之歳とある文を以。據として。癸酉を元年として。壬申をば大友帝に屬たるは。甚非なり。七月以前は。實に近江朝に係くべきこと。本よりなれど。八月以後は。近江朝既に亡びて。天武天皇踐祚し給ふ。いかでかこれを元年と謂はざるべけん。况や此年十一月。新羅貢調等の事ある。これを元年に係けずして。何れの年にか記さん。塔擦銘の如きは。庚辰歳の。天皇御即位の八年に當れるを以て。書るのみにこそあれ。紀元を改めし文にはあらず。なほいはゞ。持統天皇は。四年庚寅を以。位に即給ひしかども。なほ丁亥歳を以。元年と爲したるにあらずや。みな當時議ありて。定め給ひしことなれば。後世此を彼此と云べきよしなし。しかるに議者の説に。本書壬申を以元年とせしは。直に天武を以。天智の統に接せむがために。此曲筆を致しゝものなり。と云るは。甚しき酷なる論なり。また信友が説の如きは。後人の日本紀を改刪せしものゝ所爲と云り。何の明證ありて。さるあぢきなき説をば立たる。ゆめ/\惑ふべからず。謹て本書の旨に從ひてあるべし

[2603] 
[[蝦名翠]],
[TIME[‎2007][year:2007]],
[TIME[2020-08-17T08:45:42.100Z]]
<https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=35174&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1>

>万葉集』の基本的姿勢は持統称制元年(六八七)を朱鳥元. (二・一四六). 年と設定している。従って「朱鳥四年庚寅の秋九月」の紀 を連想させる。斉明四年(六五八)、紀伊行幸中の斉明天皇. 伊行幸は、持統四年(六九O)九月十三日から二十四日に ...


**** 壬申年朱雀

[617] 
日本書紀天武天皇元年[LINES[壬][申]]を[[朱雀]]元年とし、
同年または翌年の[[白鳳]]への[[改元]]まで約1年間継続したとする説があります。


[764] 
[CITE[扶桑略記]] (>>666)、
[CITE[水鏡]] (>>1539)
に[[天武天皇]]壬申年8月の[[朱雀]]の祥瑞改元記事がありました。
[SRC[>>556]]

[765] 
[CITE[帝王編年記]] (>>1607)、
[CITE[皇年代略記]]、
[CITE[愚管抄]] (>>1508)、
[CITE[東寺年代記]]
その他が[[朱雀]]を[[天武天皇]]壬申年としていました。
[SRC[>>556]]

[766] 
[CITE[神皇正統記]] (>>746)
が[[朱雀]]を[[天武天皇]]時代としていました。
[SRC[>>556]]

-*-*-


[1762] 
[[伴信友]]は、
[CITE[扶桑略記]] (>>666)、
[CITE[水鏡]] (>>1539)
[CITE[愚管抄]] (>>1508)
などを根拠に壬申年が[[朱雀]]としました。
[SRC[>>859 p.二二九]]
[WEAK[(丙戌年は [CITE[日本書紀]] 同様[[朱鳥]]としました。)]]
次の根據を示しました [SRC[>>1731]]。

- [1763] 
[CITE[扶桑略記]] (>>666)
に天武天皇元年壬申に太宰府赤雀による[[朱雀]]の[[建元]]の記事があること。
-- [1764] 
[CITE[水鏡]] (>>1539)、
[CITE[一代要記]] (>>1735)、
[CITE[愚管抄]] (>>1508)、
[CITE[興福寺略年代記]] (>>1557)、
[CITE[東寺王代記]] (>>1566)
もそれに同じであること。
-- [1765] 
[CITE[源平盛衰記]] (>>775)
の経宗の話もこれと同じ説と考えられること。
- [1766] 
[CIT[帝王編年記]] (>>1607)
に信濃国赤雀による[[朱雀]]の[[建元]]の記事があること。
-- [1767] 
[CITE[皇年代略記]] (>>707)
の壬申年に信濃国赤鳥による[[朱雀]]の[[建元]]の記事があり赤雀の誤りと考えられること。
- [1768] 
[CITE[紹運録]] (>>1610)
のある写本の[[大友皇子]]譜に
「朱雀元年依謀叛被誅」
と注されていること。
--- [1769] 
ただし印本と群書類従本には「朱鳥」
- [1770] 
[CITE[神皇正統記]] (>>746)
に[[天武天皇]]時代に[[朱雀]]、
[[朱鳥]]とあること。
-- [1771] ただし[[白雉]]、[[白鳳]]は漏れている。

[1689] 
癸酉年を元年とする説は誤りとしました。
[SRC[>>1731]]

- [1785] 
[CITE[一代要記]] (>>1735)
所引
[CITE[箕面寺縁起]] (>>1749)
に癸酉年に太宰府赤雀と[[朱雀]]改元と[[白鳳]]元年の記事がある。
-- [1786] 癸酉年が朱雀元年で、白鳳元年に改められたと解される。
-- [1787] 太宰府赤雀は壬申年のことなので、誤っている。
-- [2318] [[伴信友]]はこれを
[CITE[箕面寺縁起]]
の記述と解釈しましたが、
現存
[CITE[箕面寺縁起]]
の内容と比較すると、
この部分は
[CITE[一代要記]]
の記述のようです。
- [1788] 
[CITE[紹運録]] (>>1610)
に[[天武天皇]]即位が白鳳2年とある。
[[元正天皇]]誕生が白鳳十年辛巳とある。
-- [1789] 
[CITE[一代要記]]と一致する。
- [1790] 
[[大友天皇]]が壬申年に白鳳を使い、
[[天武天皇]]が同年に朱雀に改め、
翌年に白鳳に改めたのが混同されたと考えられる。



-*-*-

[1693] 
[[斎藤励]]は、
[CITE[扶桑略記]] (>>666)
を根拠に壬申年が1回目の[[朱雀]]、
[CITE[熱田縁起]] (>>524)
を根拠 (>>1692) に丙戌年が2回目の[[朱雀]]としました。
[SRC[>>859 p.二二九]]

[285] 
[[坂本太郎]]は、
[[元号名]]の再利用を支持せず、
[CITE[扶桑略記]]
と
[CITE[熱田縁起]]
では後者の史料価値が何倍も高いとして、
壬申年を否定し丙戌年を[[朱雀]]としました。
[[朱鳥]]と[[朱雀]]の関係性から両者は別称であると考えられ (>>1695)、
[CITE[日本書紀]] の[[朱鳥]]改元記事がまた丙戌年を[[朱雀]]とする根拠となるとしました。
[CITE[愚管抄]] (>>1508, E), 
[CITE[皇代記]] (>>1526, F), 
[CITE[扶桑略記]] (>>666, G), 
[CITE[水鏡]] (>>1539, H), 
[CITE[興福寺略年代記]] (>>1557, J), 
[CITE[東寺王代記]] (>>1566, K) 
など (記号は論文内の整理番号)
はいずれも[[天武白鳳説]]について (>>1611) 同様信頼できるものでないとしました。
[SRC[>>859 p.二二九, >>502 (>>859, >>883)]]



-*-*-

[936] 
[[平成時代]]・[[令和時代]]に用いられている[[日本の私年号]]である[[◆朱雀]]とは無関係です。



[2650] [CITE[f14-1.pdf]], [TIME[2019-10-25T01:44:44.000Z]], [TIME[2021-04-16T03:59:02.635Z]] <http://meijiseitoku.org/pdf/f14-1.pdf#page=3>

** 持統天皇

[889] 
[TIME[西暦686年][year:686]]、
[[天武天皇]]が[[崩御]]したため、
[[持統天皇]]が[[称制]]しました。
次期天皇とみられた[[草壁皇子]]は[[即位]]しないまま[TIME[西暦689年][year:689]]に[[薨御]]し、
[TIME[西暦690年][year:690]]に[[持統天皇]]が[[即位]]しました。

[193] 
[CITE[日本書紀]]は、
[TIME[西暦687年][year:687]]を[[持統天皇]]の元年とする[[天皇即位紀年]]を使いました。
以後持統天皇11年8月の[[譲位]]まで記事が続きました。
これが[CITE[日本書紀]]本文の最後でした。
[SRC[>>18]]


[1257] 
[CITE[日本書紀]]
に、
[[天皇即位紀年]]を用いた[[詔]]文が収録されました
(>>892)。





[378] [CITE[政事要略]]
[WEAK[([[平安時代]]成立)]]
廿五巻に、
「右官史記云、太上天皇[LINES[持][統]]元年正月頒暦諸司」
とありました。
[SRC[>>375, >>377]]
[CITE[右官史記]]は[[文武天皇]]時代に書かれたものと解されています。

[888] 
この時代を表すため[[朱鳥]]が使われることがありました
(>>887)。

[855] 
この時代を表すため[[唐]]の[[元号]]である[[永昌]]が使われた[[石碑]]が残っています
(>>213)。

[884] 
この時代を表すため[[白鳳]] (>>848) を使った例が知られています。

-*-*-

[891] 
[CITE[日本書紀]]
方式の[[天皇即位紀年]]が一般的ですが、
[TIME[西暦686年][year:686]]を[[元年]]とするものもみられます。
[TIME[同年][year:686]]が元年の[[朱鳥]]がなかったことにしているものまであります。

[24] 
[CITE[日本年号史大事典]]巻末年表は、
[TIME[西暦686年][year:686]]を[[持統天皇]]の[[元年]]としていました
[SRC[>>246 普及版 p.795]]。

[468] 其の他の事例 [SEE[ [[泰澄]] ]]


-*-*-

[2645] 
[[西生懐忠]]は、
[[朱鳥]]の[[延長年号]]の正当性を説明するため、
元来[[持統天皇]]の即位年が[[元年]]だったと主張しました (>>2113)。

[2646] [[木崎愛吉]]は、 
[CITE[大日本金石史]]の[[年表]]で[[持統天皇]]の即位年を[[元年]]としました
(>>2637)。

[890] 
[[河内春人]]は、
[[持統天皇]]の[[即位]]は[[草壁皇子]]の[[薨御]]による想定外の事態ゆえ、
本来[TIME[西暦690年][year:690]]が[[持統天皇]]の[[元年]]だったはずで、
そうなっていない[CITE[日本書紀]]紀年は編纂時の史料操作だとしました。
[SRC[>>590]]


-*-*-

[2125] 
[[現代日本]]では、
ごく少数ながら、
[[持統天皇]]の[[天皇即位紀年]]を持統天皇称制[VAR[何]]年という言い方で
3年まで数える例がみられます。

[2126] 
その場合第4年以降は持統天皇[VAR[何]]年のように続けて数えるようです。
(元年にリセットはしません。)

[2127] 
また、称制[[元年]]は、 
[CITE[日本書紀]]
持統天皇元年とするようです。
[[天武天皇]]が[[崩御]]した前年の
[CITE[日本書紀]]
朱鳥元年ではありません。

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[897] [CITE[奈良学ナイトレッスン 平成26年度 第1夜 ~古代ミステリー紀行-薬師寺建立の謎と悲劇の皇子~ - 140423.pdf]], [TIME[2019-02-06 13:32:40 +09:00]] <https://nara.jr-central.co.jp/event/mini/_pdf/140423.pdf>
]FIGCAPTION]

>日時:平成26年4月23日(水)19:00~20:30
>会場:奈良まほろば館2階
>講師:多田一臣(二松学舎大学特別招聘教授)
>[SNIP[]]
>持統天皇の称制2(688)年の正月 [SNIP[]] 持統天皇の称制2年。称制をとって持統2年という言い方が普通かも知れませんが、要するに688年の段階で薬師寺はほぼ完成していると考えていいのだろうと思います。
>持統天皇11(697)年の8月 [SNIP[]]

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[896] [CITE@ja[第4代 女帝持統天皇]], [TIME[2016-01-20 21:49:41 +09:00]] <http://o-mino.la.coocan.jp/page931.html>
]FIGCAPTION]

>
661(斉明7)年----父中大兄皇子が皇位を継承し(天智天皇)、夫の大海人は皇太子に就く
>667(天智称制6)年までに姉の大田皇女は薨ずる。
>671(天智10)年、10月大海人皇子、吉野にて仏門に。?野皇女も草壁皇子(10歳)同伴。
>687(持統元年)年 [SNIP[]]
>688(持統2年)年 [SNIP[]]
>689(持統称制3)年、4月8日、新羅人を下毛野国へ。
>689(持統称制3)年、4月13日、草壁死亡。       
>689年6月、[SNIP[]]
>689(持統称制3)年、[SNIP[]]
>690持統4年  1月1日 皇后、皇位に付く。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[894] [CITE@ja[大津皇子謀反事件と第41代・[[持統天皇]]の即位 | WEB歴史街道]], 
2019年10月15日 公開,
[[吉重丈夫]],
[TIME[2020-01-28 21:59:10 +09:00]] <https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6924>
]FIGCAPTION]

[2595] 

>皇紀1322年=天智元年(662年)、筑紫の娜大津(博多湾)で鸕野讚良皇女は草壁皇子を産まれ、翌天智2年には天智天皇の第一皇女の大田皇女が大津皇子を産まれた。

>そしてこの年朱鳥元年(686年)9月9日、天武天皇が崩御され、皇后は即位式を催行されないまま称制して政務を執られる。持統天皇称制元年とし、元号の朱鳥はまた使用されなくなった。

... が最後の段落で、次のページ:
[CITE@ja[大津皇子謀反事件と第41代・[[持統天皇]]の即位 | WEB歴史街道]], [TIME[2020-08-13 20:33:44 +09:00]] <https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6924?p=1>
へ進む。最初の段落:

>天武天皇崩御の翌月、川島皇子(天智天皇の皇子)の密告により、大津皇子(天武天皇の第三皇子で草壁皇子の1歳年少)の謀反が発覚して捕縛される。
[SNIP[]]
>翌10月3日、大津皇子は自害させられる。
[SNIP[]]
> 11月16日、伊勢神宮の斎宮であられた大来皇女は同母弟・大津皇子の罪に連座し、任を解かれ都に帰された。
>皇紀1349年=持統3年(689年)4月13日、先帝・天武天皇の第二皇子である皇太子・草壁皇子(28歳)が薨去された。


]FIG]

]REFS]


*** 持統大化

[198] 
[TIME[持統天皇9(695)年[LINES[乙][未]]][year:695]]を[[大化]]の[[元年]]とする[DFN[持統大化]]
[SRC[>>590]]
説が、
[CITE[愚管抄]] 
[WEAK[([[鎌倉時代]]初期成立)]]
あたりから
[SRC[>>470]]
みられるようになりました。
古い史料にみられないことから、
当時用いられたものでなく、
[[中世]]以後に用いられるようになったものとされています。

[800] 
[CITE[日本書紀]] と同じく[[孝徳天皇]]の時代に[[大化]]があり、
加えて[[持統天皇]]の時代にも[[大化]]があったとするものの他に、
[[持統天皇]]の時代だけに[[大化]]を示すものも現れました。

-
[2774] 
[CITE[愚管抄]] (>>1508)、
[CITE[皇年代略記]] (>>707)、
[CITE[皇代記]] (>>1526)、
[CITE[歴代皇記]] (>>2215)、
[CITE[簾中抄]] (>>2198)、
[CITE[一代要記]] (>>1735)、
[CITE[本朝皇胤紹運録]] (>>1610)
などは、
[[孝徳天皇]]時代と[[持統天皇]]時代に[[大化]]を掲載していました
[SRC[>>502]]。
-
[2775] 
[CITE[二中歴]] (>>1671)
などは、
[[持統天皇]]時代だけに[[大化]]を掲載していました。

[2263] 
[[持統大化]]時代の[[年号]]を記述するとき、
「大化[VAR[何]]年」
とする他に、
区別のため
「持統天皇大化[VAR[何]]年」
と明記する例がよくみられました。

;;
[2776] 
[[元号名]]の前に[[天皇]]名を書くのは他の時代についてもよく行われたものですが
([SEE[ [[元号名スロット]] ]])、
他の時代を[[元号名]]だけで書くときでも、
[[大化]]だけは[[天皇]]名を書いていました。

[2777] 
[[天皇]]名か[[干支年]]の併記がなければ、
[[孝徳天皇]]時代か[[持統天皇]]時代かは、
文脈で判断するしかありません。

-*-*-

[2256] 
[[江戸時代]]、
[[伴信友]]は、
次の根拠を示し、
[[持統大化]]の実在を主張しました [SRC[>>1731]]。

- [1829] 
[CITE[皇年代略記]] (>>707)
に、
[[朱鳥]]は
「至八年甲午」
とあり、
乙未が大化元年、
大化二 (= 2年継続)
とされていました。
「元年乙未、去三月癸巳、近江國都賀山醴泉出爲瑞歟」
とありました。
- [1830] 
[CITE[愚管抄]] (>>1508) 皇帝年代記、
[CITE[大鏡目録]] (>>2195)
(「件の四書」の年次の数字は異本により異同があるので、合うものを採用します)、
[CITE[東寺年代記]] (>>1566)、
明應製年代記の[[元号]]と年次が一致していました。
-- [2259] 「明應製年代記」がどれを指すか不詳。
--- [2260] [[斎藤励]]は「明應年代記」と引用 [SRC[>>556]]。
- [1831] 
[CITE[紹運録]] (>>1610)
[[文武天皇]]に大化三年二月立太子とありました。
[CITE[続日本紀]]
持統天皇11年立太子記事があり、
[CITE[王子枝別記]]
に持統天皇の十一年春二月丁卯朔壬午、立爲皇太子とあるのに相当します。
- [1832] 
[CITE[袋草紙]] (>>1502)
に持統天皇大化三年、譲位輕皇太子とあり、
[CITE[紹運要録]] (>>2194)
太上天皇の部に持統上皇大化三年丁酉八月一日、
譲位于文武とあり、
[CITE[紹運録]] (>>1610)
[[文武天皇]]に大化三年八月一日卽位とありました。
[CITE[日本書紀]]
持統天皇11年の記述に相当します。
- [1833] 
[CITE[歴代皇紀]] (>>2215)、
[CITE[簾中抄]] (>>2198)
に朱鳥殘七年、大化四年とありました。
朱鳥殘八年、大化二年とあるべきを誤ったのかもしれません。
[[持統天皇]]時代に[[朱鳥]]、[[大化]]があった証拠ではあります。
異本を検討する必要があります。
- [1834] 
[CITE[海東諸國記]]
に[[大和]]とありました。
[[音]]が通じるので、誤りと考えれば、一致します。
-
[1836] 
[[孝徳天皇]]の[[大化]]を[[持統天皇]]が再利用したのは不審に思われるかもしれませんが、
当時の[[元号]]はそれほど重視されない性質のものだったため (>>1837) です。



[510] 
[[重松明久]]は、
[[持統大化]]を、
「実在性の濃い年号」
としました。
[SRC[>>470 ([CITE[白鳳時代の年号の復原的研究]], [[重松明久]], [CITE[日本歴史]] 第319号, 昭和49年)]]


[794] 
[[斎藤励]]は、
[[伴信友]]引用各書の記述が一致していることを認めながら、
各書いずれも後世の同系統・同性質の史料で根拠として弱いとしました
[SRC[>>556]]。
[[所功]]は、
[[持統大化]]の史料が[[中世]]以後にしかなく、
「実在性が濃い」とはいえないとしました [SRC[>>502]]。
[[河内春人]]は、
[[持統大化]]の史料が[[中世]]以後にしかなく、
[[中世]]の歴史認識であるとしました
[SRC[>>590]]。

-*-*-

[807] 
[[伴信友]]は、
当時の[[元号]]は
「一時の嘉號の如く」 (>>1836)
今ほど重要ではなかったため、
[[孝徳天皇]]の時代にあった[[大化]]を再利用することもあり得たとしました。
[SRC[>>1731, >>502]]

[806] 
[[斎藤励]]は、
他の初期[[元号]]について再利用を認めながら、[[大化]]については、
[[孝徳天皇]]時代と[[持統天皇]]時代に再利用すべき類似性が見出だせないと否定しました。
[[持統大化]]は[[私年号]]に過ぎないとしました。
[SRC[>>556]]
(ここでいう「私年号」は、同時代的でない私的に利用された[[元号]]の意と思われます。)

[793] 
[[重松明久]]は、
同じ[[元号]]を短期間に再利用することはあり得ないとしました [SRC[>>502 ([CITE[白鳳時代の年号の復原的研究]], [CITE[日本歴史]] 第319号, [TIME[昭和49(1974)年][year:1974]]), >>590 (同)]]。


[491] 
[[河内春人]]は、
[[白雉]]や[[朱鳥]]との重複という大きな問題点が解決されていないとしました
[SRC[>>590]]。
[[河内春人]]は[[伴信友]]説を、
[[孝徳天皇]]時代の[[大化]]の[[元号]]を[[持統天皇]]時代に継続的に使用したと説明しており
[SRC[>>590 (>>1731)]]、
再利用 [WEAK[([[元年]]リセット)]] でなく継続利用 [WEAK[([[元年]]は乙巳年のまま)]]
したと理解していたようにみえます。

-*-*-

[2258] 
[[伴信友]]は、
[CITE[日本書紀]] の改刪により記述が削除されたため、
現在の
[CITE[日本書紀]]
に[[持統大化]]が現れないと説明しました。

[2261] 
[[重松明久]]や[[原秀三郎]]は、
[CITE[日本書紀]]
によって[[持統大化]]が[[孝徳天皇]]時代へと
「遡上的追建」
されたとしました
(>>805, >>596)。

[511] 
[[所功]]は、
[[持統大化]]は
[CITE[日本書紀]]
成立のわずか24年前であり、
その[[改元]]が記録されないはずはなく、
遡上追建 (>>805) は行い得ないとしました。
[SRC[>>502]]

[512] 
[[河内春人]]は、
[[持統天皇]]の時代に[[改元]]があったとして、
それを抹消して[[孝徳天皇]]の時代に移動する必然性に疑問を呈しました。
[SRC[>>590]]

-*-*-


[2262] 
[[持統大化]]の[[建元]]の理由は明らかではありません。
[[持統大化]]は[[鎌倉時代]]頃から使われていますが、
改元理由が記されたのは[[戦国時代]]頃の
[CITE[皇年代略記]] (>>707)
で、
[[醴泉]]が出現したことによるとされていました。
しかしそれは疑問形であって、
著者が確証を持たないまま書いたようです
(>>272)。


[803] 
[[斎藤励]]は、
[[伴信友]]説 (>>2256) の[[朱鳥]]最終年の翌年がちょうど[[大化]]に接続するものの、
[[大化]]の名称と[[醴泉]]に関係が見出だせないこと、
[[醴泉]]と[[改元]]に2年の差があること (>>802) から、
[[祥瑞改元]]ではないとしました [SRC[>>556]]。


[612] 
[[原秀三郎]]は、
[[醴泉]]出現による[[祥瑞改元]]で、
次の[[文武天皇]]擁立の準備だとしました。
[[大化]]とは、
徳知が遠くまで及び[[醴泉]]が出現した意としました。
[SRC[>>590 ([CITE[二つの大化年号と孝徳大化の虚構性]], [CITE[日本古代国家史研究]], 1980)]]


@@
[BOX[

[427] 
[[原秀三郎]]は[[マルクス史学]]者で、[[大化の改新]]捏造説で人気を得た。
その[[大化の改新]]否定説の一部として[[孝徳大化]]を否定し[[持統大化]]を史実と主張した。

- [426] [CITE@ja-JP[日本史の謎と発見 4]], [[毎日新聞社]], [TIME[1978.11][1978]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-10T08:02:48.839Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12210780/1/60> (要登録)

]BOX]



[630] 
[[河内春人]]は、
[[元号名]]を[[祥瑞]]の名前でなく理由とするのは[[祥瑞改元]]の例にないため、
[[醴泉]]出現が根拠ではないと「断じてよい」としました。
[SRC[>>590]]

-*-*-

[2238] 
[CITE[扶桑略記]]
などにみられないということは、
[[平安時代]]末期以後、
[[天武白鳳]]などに遅れて成立したのでしょうか。

[2239] 
成立の過程ははっきりしませんが、
[[元号]]制度の画期で
[CITE[日本書紀]]
と
[CITE[続日本紀]]
の狭間でもある[[持統天皇]]と[[文武天皇]]の間の時期であることが、
関わっているのでしょうか (>>2235)。
[[持統天皇]]「九年乙未」が「元年乙未」と誤読されたことから始まった可能性もあります。


[2781] 
[[持統天皇]]の誕生年が大化年間といわれているのも注目されます。
天皇ごとにまとめられた[[年代記]]の類で[[持統天皇]]の項に書かれた誕生年が、
後に治世中の[[元号]]と誤認された可能性があります。

[2782] 
誤認し得る書き方の写本が発見されれば有力な根拠となるでしょうが、
[[持統大化]]説の出現と[[持統天皇]]大化年間誕生説の出現の前後関係も要注意です。

- [2783] 現在の通説、大化元年誕生説は[[鎌倉時代]]後期まで遡ります。
[SEE[ [[持統天皇]] ]]
- [2784] [CITE[扶桑略記]]は大化4年誕生説です。
[SEE[ [[持統天皇]] ]]
- [2785] [[持統大化]]の初出はちょうどその中間です。

[2786] 
この現状では両者の関係性を説明するのがまだ難しい。

[2787] 
[[持統大化]]は[[持統天皇]]治世に始まり、[[文武天皇]]治世まで続きます。
[[孝徳天皇]]と[[文武天皇]]のどちらも[[軽皇子]]と呼ばれます。
これも[[持統大化]]説の発生に関係している可能性があります。

-*-*-


[467] 
[[昭和時代]]には、[[持統大化]]がよく知られていなかったために他の[[古代年号]]からその正体を探ろうとした説もありました。
[SEE[ [[泰澄]] ]]




-*-*-

[2701] [CITE@ja-JP[郷土史概論]], [[大木金平]], [TIME[1921]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:19:27.257Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3440245/1/87> (要登録)

[2704] [CITE@ja-JP[郷土史概論]], [[大木金平]], [TIME[大正10][1921]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:30:21.451Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/965684/1/89>



** 文武天皇

[194] 
[CITE[日本書紀]]は[[持統天皇]]から[[文武天皇]]への[[譲位]]を[[高天原廣野姫天皇]]の十一年のこととし、
そこで終わっていました。

[79] 
[[六国史]]の次である[CITE[続日本紀]] (>>1049)
の最初の[[天之眞宗豐祖父天皇]] ([[文武天皇]]) 紀には、
「高天原廣野姫天皇十一年。立爲皇太子。
元年八月甲子朔元年八月甲子朔。受禪即位。 」 [SRC[>>80]]
とありました。同じ年が持統天皇11年とも文武天皇元年とも表現されていました。

[144] 代替わりがあった年を前帝の最終年とし、
翌年を元年とする[CITE[日本書紀]]の[[踰年称元]]の原則が、
[CITE[日本書紀]]と[CITE[続日本紀]]の狭間であり、
かつ[[崩御]]でなく[[譲位]]だった持統天皇11年文武天皇元年には崩れているのです。

[195] そのためここまで[[天皇即位紀年]]の交替は常に年末年始でしたが
(例外は2回の[[天皇即位紀年]]から[[元号]]への[[建元]]と
1回の[[改元]]のみ)、今回は年内の[[改元]]のように[[各種対照表その他][元号一覧]]で扱われているようです。
[SEE[ [[元号一覧]] ]]

[208] [CITE[Wikipedia]] は[[退位]]を[[旧暦]]持統天皇11年8月1日/[[ユリウス暦]]697年8月22日としています [SRC[>>140]]。
次の[[文武天皇]]は、[[即位]]が[[旧暦]]文武天皇元年8月1日/[[ユリウス暦]]697年8月22日です
[SRC[>>142]]。


[326]
持統天皇11年を置かず、初日から[[文武天皇]]元年とするもの [SRC[>>323]]
もあります。
[CITE[日本書紀]]
の原則に従うなら、
[[年始に遡及][遡及年号]]するこの方式が一貫していますが、
当の
[CITE[日本書紀]]
の記述と一致しなくなってしまう問題があります。



[885] 
この時代を表すため[[白鳳]] (>>848) を使った例が知られています。


[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[382] [CITE@ja[天智天皇への敬仰史|[[近江神宮]]]]
([TIME[2019-08-07 17:55:05 +09:00]]) <http://oumijingu.org/publics/index/115/>
]FIGCAPTION]

>
持統天皇の元年(687)、[SNIP[]]
続いて文武天皇の大宝2年(702)からは [SNIP[]]

]FIG]

]REFS]



** 初期元号成立論

[842] 
[[日本の元号]]が現在に至るまで継続して制定され利用され始めたのは[[大宝]]でした
(>>106)。
この点には古来議論がなく、[[金石文]]や近年出土している[[木簡]]の紀年ともよく一致しています。
[[大宝]]をもって[[日本の元号]]制度の確立したことは疑いありません。

[843] 
ところがそれ以前にも断続的に[[元号]]が存在していた痕跡があります。
しかしその痕跡はあまりに断片的であやふやで、
[[大宝]]以後のように確立された制度に支えられたものでなかったことは明らかです。
ではその実態はどのようなものだったか、
というところには、
当時はまったく存在せず後の時代に作られたとする説から、
実は断続なく[[元号]]はあったが記録が失われたとする説まで、
古くからいろいろな説が提示されてきました。
[[平安時代]]以後に生じた異端説は否定されたものの、
初期元号の成立過程をめぐっては今なお不明な点が多く残されています。


[585] 
我々は[[元号]]が当然に存在している時代を生きているので、
どうしても[[元号]]の誕生に注意が行きがちですが、
[[元号]]だけが[[紀年法]]ではありません。
初期元号の性質を解明するためには、
当時の人々の紀年や時代認識がいかなるもので、
[[大化]]から[[大宝]]の時代を経てそれがどう変化したのかを明らかにしなければなりません。

[586] 
出土[[木簡]]によれば、当時の[[行政]]で[[干支年]]が主に使われたことは疑いありません。
一方で当時のものとされる[[金石文]]や文書には、
何々天皇の時代という形式もよく出てきます。
古くは[[獲加多支鹵大王]]の時代に既に使われていました。
その後何々天皇の干支何々年、
何々天皇第何年という表記がみえるようになり、
やがて何々天皇何々元号第何年の表記に発展しました。
この[[干支年]]と[[即位紀年]]が当時どのように使われ、
[[支那]]から伝来した[[元号]]の概念がどう影響したのかをみなければなりません。

[587] 
[[支那の元号]]そのものが[[日本]]で使われた形跡がほとんどないのも不思議です。
同じ[[支那]]伝来の[[干支年]]がこれだけ広く使われていたにも関わらず、
なぜ[[支那の元号]]を使わなかったのでしょうか。
[[干支年]]は政治性が低く、
[[元号]]は政治性が高いという認識を、
[[日本人]]ははじめから持っていたのでしょうか。
(それとも単に[[百済]]の模倣?)
それは[[法興]]、[[大化]]、[[大宝]]の各時代にどう変化していったのでしょうか。

[519] 
初期3[[元号]]に対する見解は、

- [591] [CITE[日本書紀]]の記述を肯定する実在説
- [592] 遡及的に定めたとする追号・追建説
- [593] [CITE[日本書紀]]による造作として否定する非実在説

... の3種に大別でき [SRC[>>590]]、
異称や空白期の解釈などに様々なバリエーションがあります。

[611] 
実在説は、
[CITE[日本書紀]]
にあるように当時[[元号]]が実施されたと考えるものです。
非実在説と追号説は、
当時は[[元号]]が実施されなかったと考えるものです。
非実在説は、
[[元号]]は
[CITE[日本書紀]]
編纂時に定められたもので、
強い言葉でいえば偽造・捏造として否定的に評価するものです。
追号説は、
[[元号]]は当時から
[CITE[日本書紀]]
編纂までの間のある時点において、
遡って制定されたと中立的に評価するものです。
[[追号]]は[[元号]]制度創設当時の[[漢]]の[[武帝]]の先例があり、
[[日本]]でも[[元号名]]がなくても[[天皇即位紀年]]や[[改元]]があったと考えるものです。





-*-*-


[791] 
[CITE[日本書紀]]は、
[[大化]]、[[白雉]]、[[天皇即位紀年]]、[[朱鳥]]、[[天皇即位紀年]]、[[大宝]]と[[元号]]の使用を断続的に示していました。



[792] 
[[平安時代]]頃から、
[[年代記]]類で[[大化]]、[[白雉]]、[[天皇即位紀年]]、
[[朱雀]]、[[白鳳]]、[[朱鳥]]、[[大化]]、[[大宝]]と[[天武天皇]]以後を埋めて示されるようになりました。


[747] 
[[北畠親房]]は、
[CITE[神皇正統記]]
で、
[[孝徳天皇]]の[[大化]]からの[[元号]]を挙げつつ、
[[文武天皇]]の[[大宝]]から[[元号]]が断続しなくなり、
[[大宝]]を[[元号]]の始めとしました。
(>>746)


[835] 
[[南北朝時代]]頃から、
[[継体天皇]]時代から[[大宝]]までの時代に連続的に[[元号]]を設定した[[古代年号]]説 (>>226)
が広まりました。
バリエーションの発生や、
より古い時代の新元号の設定は[[令和]]時代に至るまで続いています。


[744] 
[[斎藤励]]は、
[CITE[大鏡]] (>>742)
[CSECTION[大臣の次第を述ぶる條]]
以下諸書が[[大宝]]を最初の[[元号]]としていることを指摘しました。
北畠の解釈 (>>747) を引いて、
異説というべきものではないとしました。
[SRC[>>556]]


[515] 
[[伴信友]]は、
[[白雉]]・[[白鳳]]は[[孝徳天皇]]時代から天智天皇10年辛未まで22年間、
[[朱雀]]は天武天皇時代初年から、
[[朱鳥]]は天武天皇時代末年から持統天皇8年甲午まで9年間、
[[大化]]は持統天皇晩年に2年間、
[[大長]]は文武天皇初年に4年間と推測しました。
[SRC[>>502]]

[2532] [[伴信友]]は、次のように主張しました。
[SRC[>>1731]]

- [2533] [[孝徳天皇]]乙巳年から[[大化]]が使われました。
[SRC[>>1731, >>556 (>>1731)]]
- [2111] [[孝徳天皇]]6年から[[白雉]]が使われました。
-- [2535] [[白鳳]]に改称されました。
-- [2534] [[斉明天皇]]の時代も継続されました。
-- [2511] [[天智天皇]]の時代も継続されました (>>1861)。
-- [2513] [[天智天皇]]時代の[[白鳳]]は混乱から生じた誤った説でした (>>2110)。
- [2098] [[朱雀]]は、[[白鳳]]23年[LINES[壬][申]]に[[改元]]されたものでした (>>1762)。
[SRC[>>1731, >>556 (>>1731)]]
- [2099] [[白鳳]]は、癸酉年に[[改元]]されたものでした (>>1772)。 
[SRC[>>1731, >>556 (>>1731)]]
-- [2103] 当初[[白雉]]だったものが、すぐに[[白鳳]]に改められました (>>2104)。
-- [1784] 
壬申年を元年とする説は、
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
によって天武天皇元年が癸酉年から壬申年に改められ、
1年のずれが生じたことによって生じた誤った説でした。
[[朱鳥]]への[[改元]]の時期の諸説もそれに伴う混乱でした。
(>>1807)
- [2269] [[天武天皇]]丙戌年から[[朱鳥]]が使われました (>>2270)。
[SRC[>>1731, >>556 (>>1731)]]
-- [2536] [[持統天皇]]の時代もっ継続されました。
[SRC[>>1731, >>556 (>>1731)]]
- [2257] [[持統天皇]]乙未年から[[大化]]が使われました (>>2256)。
[SRC[>>1731, >>556 (>>1731)]]
- [1870] 丁酉年
(持統天皇大化3年)、
[[文武天皇]]の即位時に[[大長]]と改元しました (>>795)。
[SRC[>>1731, >>556 (>>1731)]]
- [2537] [[文武天皇]]辛丑年、
[[大宝]]と改元しました。
[SRC[>>1731, >>556 (>>1731)]]





[514] 
[[斎藤励]]は、
次のように推測しました (>>603)。
[SRC[>>556]]

- [[大化]] [[孝徳天皇]]乙巳-己酉の5年間
- [[白雉]]・[[白鳳]] [[孝徳天皇]]庚戌-甲寅の5年間
(+ [[斉明天皇]]乙卯-辛酉の7年間)
- [[元号]]なし [[天智天皇]]
- [[朱鳥]] [[天武天皇]]壬申の1年間
- ([[白雉]])・[[白鳳]] [[天武天皇]]癸酉-乙酉の13年間
- [[朱鳥]]・([[朱雀]]) [[天武天皇]]丙戌の1年間
(+ [[持統天皇]]丁亥-丙申の10年間)
- [[元号]]なし [[文武天皇]]元年-4年
- [[大宝]] [[文武天皇]]辛丑-







[1613] 
[[伴信友]]や[[斎藤励]]は、
自身の主張と
[CITE[日本書紀]]
の記録が異なる理由を[[[CITE[日本書紀]]の改刪][日本書紀後世改刪説]]に求めました。
[[坂本太郎]]は、
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
説も、[[白鳳]]や[[朱雀]]の実在も否定しました。





[836] 
[[坂本太郎]]の結論は「大方の支持」を得て通説化したものの、
[[昭和時代]]後期にいくつか新説が提示されるようになりました。
[SRC[>>502]]


[598] 
[[佐藤宗諄]]は、
[[大化]]、
[[白雉]]、
[[朱鳥]]は[[大宝]]以後に[[追号]]されたものとしました
[SRC[>>590 ([CITE[年号制成立に関する覚書]])]]。

[824] 
[[岡田芳朗]]は、
[[大化]]や[[白雉]]の実在を疑わしいとしました。
[SRC[>>502 ([CITE[日本の暦]], 昭和47年刊, p.92)]]

[820] 
[[重松明久]]は、
[[大化]]は本来[[持統天皇]]時代 (>>805)、
[[白雉]]は本来[[天武天皇]]時代 (>>530)
にあったと主張しました。


[797] 
[[斎藤励]]は、
[[元号]]は断続的に用いられたとする斎藤説は、
[[大宝]]以前は断続的だったという古くからの伝承と一致する、
としました。
[SRC[>>556]]


[501] 
古田は、
[[九州王朝]]説の立場から、
[CITE[日本書紀]]の[[白雉]]と[[朱鳥]]は[[九州年号]] (>>226)
の[[改元]]を換骨奪胎したもので、
[[天皇]]の[[元号]]は[[大化]]のあと[[大宝]]まで断絶していた、
と主張しました。
[SRC[>>470]]


[256] 
[[所功]]は、
佐藤らの追号説を「考慮すべき鋭い指摘を含んでいる」とし、
「制度的に確立された大宝 (七〇一) 以降の継続年号」と
「試行的な断続年号」を区別する必要は認めながらも、
[[大化]]が実在したとしました (>>815)。
[SRC[>>461 p.5, >>246 普及版 p.15]] 



[279] 
[CITE[日本年号史大事典]]の[[大化]]の項 [SRC[>>246 普及版 p.121]]
は、
[[大化]]の使用を「疑問視する考え方も少なくない」とし、
[CITE[日本書紀]]の述作または遡っての制定だとする[[佐藤宗諄]]説 (1968、1977)、
佐藤説を受けて[[代始改元]]はあったが[[元号]]は追号されたとする[[田中卓]]説 (1977)
を紹介しました。
しかし[[新羅]]が[[唐]]の[[元号]]を使わざるを得なくなった事例を引き、
「独自の年号を建てながら、それを公然と使うことが難しかったのではないか」
と結論づけました。
[CITE[元号―年号から読み解く日本史―]]
も、
独自の元号で改新の思想を示したものの、
「公的 (とりわけ外交文書) に使用することは、まだ難しかったにちがいない。
もしそれを強行すれば、前述した新羅のごとく「中華の年号」
をそのまま使用するように強制される恐れがあったからである。」
としました。
[SRC[>>352 p.58]]

;; [543] 
[[所功]]は[CITE[新唐書]]に[[白雉]]の記述があることを実在の根拠に挙げています。
当時の[[遣唐使]]により伝達されたことになります。
公式な文書に使ったかどうかはわかりませんが、
正史に掲載されるほど記録に残る形ではあったようです。
[[新羅]]の例を恐れつつそのようなことは起こり得るのでしょうか。

[589] 
[[河内春人]]は、
[[所功]]の見解を肯定説の代表例としていますが、
肯定説は
[CITE[日本書紀]]
の記述をそのまま認め[[史料批判]]を経ていないため単純に支持できないとしました
[SRC[>>590 (>>502)]]。


[827] 
[[田中卓]]は、
[[斉明天皇]]から[[持統天皇]]の時代、
[[大化]] (>>283) と[[白雉]] (>>828) が同時に[[追号]]されたとしました。
[SRC[>>590 ([CITE[年号の成立]], [CITE[律令制の諸問題]], 1986, 初出 1977)]]


[816] 
[[新川登亀男]]は、
[[大化]]を[[和銅]]年間の追号 (>>595)、
[[白雉]]を[[孝徳天皇]]崩御後[[天武天皇]]時代前半の追号 (>>830)、
[[朱鳥]]を[CITE[日本書紀]]通り (>>831) としました。

[599] 
[[河内春人]]は、
[[祥瑞]]による[[白雉]]とそうでない[[大化]]の同時追号とする田中説 (>>827)
は考えにくく、
異なる論理による追号とする新川説はあり得るとしました。
[SRC[>>590]]



[562] 
[[前川明久]]は、
[[孝徳天皇]]の後、
[[文武天皇]]に至るまでの皇位継承が極めて不安定な情勢で行われたことが[[元号]]を定められなかった原因とし、
[[文武天皇]]の[[大宝]]以後皇位継承法が確立して[[元号]]が継続的に利用されるようになった、
としました。
[SRC[>>502 ([CITE[日本古代年号使用の史的意義]], [CITE[日本歴史]]第二四二号, 昭和43年7月)]]





[583] 
[[嵐義人]]は、
[[大宝]]以前の[[元号]]は皇位継承上「治天下」の唱えがたい御宇に慣用されてきた[[紀年法]]であるものの
「公年号としての性格は極めて稀薄」
としました。
[SRC[>>502 ([CITE[大宝以前における年号の性格――皇位との関連を中心として――]], [CITE[瀧川政次郎先生米寿記念論文集 神道史論叢]])]]

[584] 
[[所功]]は、
[[隋]]や[[唐]]を手本とした当時の政治家が[[改元]]し、
[[元号名]]をつけなかったり便宜的に「治天下」に代用したことは、
「ありえないと思われる」と指摘しました。
[SRC[>>502]]


[600] 
[[河内春人]]は、
初期元号について次の通り主張しました。
[SRC[>>590]]

- [613] 
[[大化]]は、
[[孝徳天皇]]の[[白雉]]の[[改元]]時に最初の[[即位紀年]]に[[追号]]したものだった。
- [609] 
[[白雉]]、[[朱鳥]]は、
[[孝徳天皇]]時代、[[天武天皇]]時代に定められた。
口誦を基本とし、
政治的強制力はなかった。
-- [610] 
[[祥瑞]]を重視し利用した[[孝徳天皇]]と[[天武天皇]]が[[元号]]を定めた。
対照的に[[斉明天皇]]と[[天智天皇]]は[[元号]]を定めなかったので、
[CITE[日本書紀]]にも[[祥瑞]]記事はない。
- [618] 
領域的支配を指向する[[大化]] (>>614)、
統治途中で定められた[[白雉]]、[[朱鳥]]とも、
時間的支配の思考はそれほど強くない。
そのため継続的な[[元号]]の制定が要請されず、
制度として定着もしなかった。
- [619] 
当時は文書行政が未確立で[[元号]]を書く機会は少ない。
[[木簡]]にすら出てこない。
[[元号]]が支配システムで用いられた可能性は低く、
民衆は[[元号]]を知らなかっただろう。
- [620] 
石碑は政治的モニュメントの性質が強く、
[[木簡]]と異なる傾向がある。
[[新羅]]で石碑に[[大昌]]が用いられた例があるし、
[[那須国造碑]] (>>213) に[[永昌]]が用いられたこと、
[[宇治橋断碑]]の[[大化]]もこの観点で考えるべきで、
[[木簡]]にないから[[元号]]が使われなかったとはいえない。


[621] 
[[河内春人]]は、
[CITE[日本書紀]]の[[孝徳天皇]]「後五年」記事から、
[[元号]]を伴わずとも[[称元紀年]]が機能しており、
[[称元紀年]]のリセット、
「当代の更新」
たる[[改元]]が実施されたと主張しました。
河内は次のように主張しました。
[SRC[>>590]]

- [622] 
[[年号]]と[[称元]] ([[改元]]) は位相を異にし、
[[称元]] ([[改元]]) が[[年号]]より上の位相である。
[[年号]]設定の理由を[[改元]]で説明するべきではない。
- [627] 
[[年号]]設定は断続的だが、
[[称元紀年]]の[[改元]]は継続されていた。
王権支配の時間的論理としては、[[改元]]を重視するべき。
-- [625] 
[[孝徳天皇]]は、
[[白雉]]献上儀式による当代の更新で権力活性化を狙った。
[[称元]]も更新され、
「シロキトリ」に類する語で口誦され、
「白雉」「白鳳」と表記されることもあったが、
[[称元紀年]]の[[後元]]に当たるものと理解されていた。
-- [624] 
[[皇極天皇]]・[[斉明天皇]]は、
[[孝徳天皇]]を挟む変則的な形だが、
2度の元年であり、
2度目は当代の更新の意味を付与されていると考えられる。
-- [623] 
[[天智天皇]]について、
[CITE[日本書紀]]の2つの[[称元紀年]]は称制紀年、即位紀年と理解されてきたが、
[[治天下]]としての即位と、
[[治天下天皇]]との新たな君主位の創出による治世の更新と考えられる。
-- [626] 
[[天武天皇]]は、
健康回復を願って当代を更新するべく[[改元]]した。
-- [628] 
[[持統天皇]]について、
[[草壁皇子]]に関わる称制と即位 (>>890)
は当代の更新に当たらない。
[[持統天皇]]は[[文武天皇]]に譲位し[[太上天皇]]となっているので、
これを当代の更新と想定できる。
- [629] 
当代における元年の更新は、
王権の時間的支配への着手と表することができる。
[[年号]]はそれを荘厳化する1つの手段に過ぎなかった。
[[律令制]]によって[[改元]]を自在に行い名付けが定着化するが、
[[天皇]]の時間への干渉であって時間的支配が確立したものだ。





[561] 
[[前川明久]]は、
[[律令]]を制定して命名する ([[大宝律令]]) ために[[元号]]が必要であり、
[[遣唐使]]によってこれを[[唐]]にも紹介し、
[[国書]]にも[[大宝]]の[[元号]]を用いたと推測しました。
[SRC[>>502 ([CITE[日本古代年号使用の史的意義]], [CITE[日本歴史]]第二四二号, 昭和43年7月)]]

[563] 
[[佐藤宗諄]]は、
7世紀には[[元号]]が断続的な上に全国的・画一的でなく、
[[大宝]]でようやく国家的な[[元号]]として成立したとしました。
[[元号]]制度の確立は、
直接的には[[大宝律令]]の制定と関係するものであり、
以後継続的に用いられたのは弱体化しつつある古代天皇制を、
天皇の権威を法的に人民に及ぼす[[元号]]によって補強するためだったとしました。
[SRC[>>502 ([CITE[年号制成立に関する覚書]], [[佐藤宗諄]], [CITE[日本史研究]]第一〇〇号, 昭和四十三年九月)]]


[564] 
[[所功]]は、
[[持統天皇]]の時代から[[文武天皇]]の時代にかけての[[唐]]との関係改善により、
[[律令]]の完成直前に高度な政治的判断によって[[元号]]を使用することが法制化され
[SEE[ [[日本の元号法制]] ]]、
[[対馬]]からの金の献上による[[大宝]]の[[改元]]が演出されたと推測しました。
法的な裏付けが整備されたことで、
[[元号]]が普及し継続的に使われるようになったとしました。
[SRC[>>502]]


[358] 
[CITE[元号―年号から読み解く日本史―]]
は、[[白村江の戦い]]や[[壬申の乱]]という時世柄、
[[唐]]を刺激するような独自の[[改元]]が難しかったという可能性に触れつつも、
安定した[[天武天皇]]の時代にも[[改元]]がされていないことから、
「むしろ当時は、 [SNIP[]] 代始のたびに、また
[SNIP[]] 祥瑞の出現により、年号を改め定めなければ、
という認識がなかったものとみられる。」
としました。
[SRC[>>352 p.61]]

[339] 
[CITE[日本年号史大事典]]は、
[[法興]] (>>770) や[[宝元]] (>>299) のような古代の[[異年号]]は、
元号制度の受容の不徹底により生まれたとしました。
[SRC[>>246 普及版 p.341]]

[935] 
[[元号]]制度成立事情を明らかにする上では[[法興]]の性質にも注意を向けなければなりません。
[[法興]]が[[聖徳太子]]の時代に既に使われたかどうかは定かではありませんが、
政権から遠くない、最高レベルの知識層の一部で使われたということにはなります。
[[大化]]など初期元号の発達の流れとは、いったいどのような関係にあったのでしょうか。
[[白雉]]、[[朱鳥]]や8世紀元号のような[[祥瑞]]による命名とは明らかに異なりますが、
いつ誰がどのような意図で命名したのでしょうか。



[634] 
[[所功]]は、
[CITE[新唐書]]
には[[大化]]がなく[[代始改元]]で[[白雉]]のように読める (>>2025)
ことについて、
[CITE[新唐書]]の遣唐使関連の記述は正確とは言えず、
[[大化]]非実在の根拠とはいえないとしました。
[SRC[>>502]]

[FIG(table)[

:e: [[天皇]]
:s: [CITE[日本書紀]]
:k: [CITE[藤氏家伝]] (>>542)
:f: [CITE[扶桑略記]] (>>666)
:c: [CITE[掌中歴]] (>>632)
:n: [CITE[二中歴]] (>>1671)
:b: [[伴信友]] (>>2532)
:t: [[斎藤励]] (>>514)

:e: [[皇極天皇]]以前
:s: [[天皇即位紀年]]
:b: [[天皇即位紀年]]
:f: [[天皇即位紀年]]
:k: [[天皇即位紀年]]
:n: [[古代年号]]

:e: [[孝徳天皇]]
:s: [[大化]]
:b: [[大化]]①
:t: [[大化]]①
:f: [[大化]]
:k: [[大化]]
:n: [[古代年号]]

:e: [[孝徳天皇]]
:s: [[白雉]]、
後
:b: [[白雉]]① → [[白鳳]]①
:t: [[白雉]]① → [[白鳳]]①
:f: [[白雉]]
:k: [[白鳳]]
:n: [[古代年号]]

:e: [[孝徳天皇]]
:s: [[白雉]]、
後
:b: [[白雉]]① → [[白鳳]]①
:t: [[白雉]]① → [[白鳳]]①
:f: [[白雉]]
:k: [[白鳳]]
:n: [[白雉]]

:e: [[斉明天皇]]
:s: [[天皇即位紀年]]
:f: [[天皇即位紀年]]
:b: [[白雉]]① → [[白鳳]]①
:t: [[白雉]]① → [[白鳳]]①
:k: [[白鳳]]
:n: [[白雉]]

:e: [[天智天皇]]
:s: [[天智天皇]]称制紀年
:f: [[天智天皇]]称制紀年
:b: [[白雉]]① → [[白鳳]]①
:k: [[天智天皇]]称制紀年、
[[白鳳]]
:n: [[白鳳]]

:e: [[天智天皇]]
:k: [[天智天皇]][[即位紀年][天皇即位紀年]]
:s: [[天智天皇]]称制紀年、
[[天智天皇]][[即位紀年][天皇即位紀年]]
:f: [[天智天皇]]称制紀年
:b: [[白雉]]① → [[白鳳]]①
:n: [[白鳳]]

:e: [[弘文天皇]]
:s: [[天武天皇]][[即位紀年][天皇即位紀年]]
:b: [[白雉]]① → [[白鳳]]①
:f: [[天武天皇]][[即位紀年][天皇即位紀年]]、 
[[朱雀]]
:n: [[白鳳]]

:e: [[天武天皇]]
:s: [[天武天皇]][[即位紀年][天皇即位紀年]]
:b: [[朱雀]]
:t: [[朱鳥]]① (= [[朱雀]]①)
:f: [[天武天皇]][[即位紀年][天皇即位紀年]]、
[[朱雀]]
:k: [[天武天皇]][[即位紀年][天皇即位紀年]]
:n: [[白鳳]]

:e: [[天武天皇]]
:s: [[天武天皇]][[即位紀年][天皇即位紀年]]
:b: [[白雉]]② → [[白鳳]]②
:t: ([[白雉]]② →) [[白鳳]]②
:f: [[天武天皇]][[即位紀年][天皇即位紀年]]、
[[白鳳]]
:n: [[白鳳]]
:k: [[天武天皇]][[即位紀年][天皇即位紀年]]

:e: [[天武天皇]]
:s: [[天武天皇]][[即位紀年][天皇即位紀年]]
:b: [[白雉]]② → [[白鳳]]②
:t: ([[白雉]]② →) [[白鳳]]②
:f: [[天武天皇]][[即位紀年][天皇即位紀年]]、
[[白鳳]]
:n: [[朱雀]]
:k: [[天武天皇]][[即位紀年][天皇即位紀年]]

:e: [[天武天皇]]
:s: [[朱鳥]]
:b: [[朱鳥]]
:t: [[朱鳥]]② (= [[朱雀]]②)
:f: [[天武天皇]][[即位紀年][天皇即位紀年]]、
[[朱鳥]]
:n: [[朱鳥]]

:e: [[持統天皇]]
:s: [[持統天皇]]称制紀年
:f: [[持統天皇]]称制紀年
:b: [[朱鳥]]
:t: [[朱鳥]]② (= [[朱雀]]②)
:n: [[朱鳥]]

:e: [[持統天皇]]
:s: [[持統天皇]]称制紀年
:f: [[持統天皇]]称制紀年
:b: [[大化]]②
:t: [[朱鳥]]② (= [[朱雀]]②)
:n: [[大化]]

:e: [[文武天皇]]
:s: [[天皇即位紀年]]
:f: [[天皇即位紀年]]
:b: [[大長]]
:t: [[天皇即位紀年]]
:n: [[大化]]

:e: [[文武天皇]]
:s: [[大宝]]
:f: [[大宝]]
:b: [[大宝]]
:t: [[大宝]]
:k: [[大宝]]
:c: [[大宝]]
:n: [[大宝]]

]FIG]


[REFS[
- [882] 
[CITE[[[日本古代史の基礎的研究]]]]
-- [859] [CITE[白鳳朱雀年号考]],
下 制度篇 pp.二〇五-二三一 所収,
初出: 昭和三年五月
-- [883] 
[CITE[日本書紀の後世改删説について]],
上 文献篇 pp.八七-一二二 所収,
初出: 昭和十八年二月
-- [879] [CITE[飛鳥浄御原令考]],
下 制度篇 pp.一-一九 所収,
初出: 昭和二十九年七月
- [590] 
[CITE[年号制の成立と古代天皇制]],
[[河内春人]],
[TIME[2016年2月][2016-02]]
([TIME[2018-08-01 01:32:30 +09:00]])
<https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/19451/1/sundaishigaku_156_1.pdf>
- [899] [CITE[「天智・天武・持統天皇の時代」考: sanmaoの暦歴徒然草]], 
2017年12月 5日 (火),
[TIME[2020-01-28 22:17:10 +09:00]] <http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/12/post-9244.html>
]REFS]


@@
[BOX[

[2916] 
[CITE@ja-JP[大八州雑誌 (135)]], [[大八州館]], [TIME[1897-09]], [TIME[2024-10-01T09:05:02.000Z]], [TIME[2024-10-31T09:02:33.912Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1535000/1/2> (要登録)


[1152] 
[CITE@ja-JP[談山神社 : 大化改新1350年]], [[新人物往来社]], [TIME[1995.6][1995]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-16T08:17:55.920Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13264433/1/22> (要登録)


[1158] 
[CITE@ja-JP[日本史研究 (83)]], [[日本史研究会]], [TIME[1966-03-20]], [TIME[2025-10-29T01:48:45.000Z]], [TIME[2025-11-27T04:57:40.522Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/10987478/1/7> (要登録)

[1160] >>1158 イデオロギー色が強いが史料に基づく整理の部分は妥当

]BOX]


*** 「一時の嘉号」説

[1837] 
[[伴信友]]は、
初期元号の性質を
「一時の嘉號の如く」
なものだったと説明しました。
[[漢]]で[[元号]]が生まれた頃の[[元号]]例を示して似た性質だとしました。
[[大宝]]以後の[[元号]]が重要なものと考えられ、
社会全体で利用されたのに対して、
初期元号はそこまで重視されず、
あまり利用されなかったとしました。
よって[[大宝]]より前のことは、
それ以後の事例から類推するべきではないとしました。
根拠として、
あるいは帰結として、
次のような事例を示しました。
[SRC[>>1731]]


- [1863] 
[CITE[常陸風土記]] (>>787)
に、
[[孝徳天皇]]時代を[[元号]]でなく[[干支年]]で記述した例が
2件ありました。
一方で[[大宝]]より後の
「慶雲元年」
は[[元号年]]でした。
[[元号]]を重視しなかった時代への古老の言及をそのまま書いたものでしょう。
- [1894] [CITE[日本書紀]] に「後五年」とあるのは白雉5年のことです。
[[元号]]を重視しなかったので、
[[元号]]を使わずに書いたのです。 (>>1867)
- [2512] 
元号が再利用されたのも、
重視されなかったからです
(>>1836)。
- [1877] [[大宝]]から[[元号]]を重要なものとしました。
-- [2088] [[文武天皇]]時代の[[妙心寺]]鐘銘 (>>257)
に、[[元号年]]でなく[[干支年]] がありました。
-- [1892] 
[CITE[続日本紀]] (>>1049)
は、
文武天皇4年[LINES[庚][子]]まで[[元号]]の[[大長]]を載せず、
5年に[[大宝]]を「[[建元]]」と書きました (>>1983)。
-- [2087] [CITE[神皇正統記]] (>>746)
が[[大化]]以来[[元号]]があっても[[大宝]]から[[元号]]の始めとするのは、
これと同じことです。
- [1879] 
天智天皇時代に書かれた、
船王後首 (1本作、船王𢓭首) の墓誌 (>>126)、
小野毛人朝臣の墓誌 (>>1255)、
采女竹良卿の壽地碑銘 (>>1958)
などは[[干支年]]のみ。
また藥師寺塔擦銘 (>>1256)。
これらいずれも[[白鳳]]の元号を使いませんでした。
[[元号]]が重要なものとみなされず、
普及していなかったためでしょう。
- [1880] 
[CITE[[[那須國造碑]]]]銘 (>>213)。
[[元号]]を重視していなかったので、
新米[[渡来人]]が私的に[[唐の元号]]を用いたものでした。
[SEE[ [[那須國造碑]] ]]
- [1887] 
多武峰所蔵の栗原寺の塔の鑢盤の銘文 (>>1960)
の「甲午年」 (持統天皇8年)。
朱鳥9年と書いていませんが、
同じ文で和銅[VAR[何]]年とも書いていました。
甲午年は[[元号]]を重視しなかった時代だからです。
-
[1888] 
鬼室墓碑 (>>1820)
に
「朱鳥」
とあるのは、
[[百済]]人で学頭職の文人だったからです。
-
[1905] 
[[法興]]は、
31年の[[聖徳太子]]没まで使われ、
自然に廃止されたものだろう。
[[大宝]]以後のように重視されたものでなく、
しかも[[蘇我馬子]]などによるものだったので、
史書にも載せられませんでした。
-
[1906] 
[[大宝]]以前の[[元号]]は嘉號のようなものでしかなかったので、
代替わり後も同じ[[元号]]を続けたり、
再利用したりがありました。
元々
[CITE[日本書紀]]
に載せられなかったものもあれば、
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
で削除されたものもありました。



[1878] 
[[伴信友]]はこの理屈をあまりに都合よく使った感が強く、
挙げられた個々の事例は現在では成立しないとされるものが多いですが、
[[大宝]]以後ほど重視されず、
あまり利用されなかったという基本的な性質は、
通説化して現在の研究者にも認められているようです。


[603] 
[[斎藤励]]は、
[[白雉]]と[[白鳳]]を別名とし (>>778)、
[[孝徳天皇]]と[[天武天皇]]の2度用いられたものとしました。
[[朱雀]]と[[朱鳥]]も正式には区別されたものの、
[[朱鳥]]を[[朱雀]]ともいったものとしました (>>514)。
同じ[[元号]]の再利用は[[支那王朝]]には前例がありませんが、
[[伴信友]]説の通り、
[[白雉]]の[[祥瑞]]が再出したためで、
[[大宝]]以前は[[元号]]を重視せず「一時の嘉号」
として用いたものだとしました。
[SRC[>>556]]


@@
[BOX[


[2753] [CITE[37_01_16.pdf]], [TIME[2019-03-04T04:25:26.000Z]], [TIME[2023-08-23T10:10:13.904Z]] <http://ajih.jp/backnumber/pdf/37_01_16.pdf>


[2757] 
>>2753
[TIME[平成17(2005)年][2005]]の論文。
[CITE[麗気記私抄]]
の[[古代年号]]を紹介している。
[CITE[麗気記私抄]]
は以前から[[古代年号]]の史料として紹介されていたが、
この論文の重要な指摘は、
本書は他書と違ってその来歴に言及しているところ。
すなわち、
[CITE[麗気記私抄]]
は[[役行者]]の説として[[古代年号]]を列挙している。

[2758] 
他の[[役行者]]関連の伝承と同じく史実とは思われないが、
[[役行者]]と結び付けられる形で[[古代年号]]が (少なくても[[室町時代]]には)
流布されていた点は無視できない。
[[役行者]]の伝承には[[平安時代]]から[[白鳳]]の (異常な年数の) [[延長年号]]が出現している。
そして
[CITE[麗気記私抄]]
が[[古代年号]]を注釈したのも
[CITE[麗気記]]
に「白鳳年」と書かれていたことによる。
果たしてこれらの材料にはどのような関係が見出だせるであろうか。


[2759] 
[CITE[麗気記私抄]]
でもう1箇所注目するべきなのは、
大宝から元号が始まるという当時の通説であろうものとの整合性が説明されている点。
すなわち、

- [2760] 継体天皇の時代から[[元号]]は始まったが、元年だけで2年以後はなかった
- [2761] [[大宝]]から今まで途切れなく続いている

と説明している。[[役行者]]がそう述べていると。
これは[[古代年号]]の出自に関わるかもしれない意味深な説明で、
どうしてこんな説が出てきたのかは追求してみる価値があろう。

[415] 
「是役行者の言也。」はその続きの部分に掛かっているぽい。だからここでは関係ない。

[2762] 
また、この説明は、今まで難解で意味不明とされてきた
[CITE[二中歴]]
の例の不記年号只有人伝言の下りとも何か関係があるかもしれない。
年号を書かないと元年しかない、は繋がりがありそう (どちらが原型かはわからないし、
どちらも原型ではないかもしれない)。
[CITE[二中歴]]はその後に「自大宝始立年号而已」
とよくわからないことが書いてあるが、
[CITE[麗気記私抄]]
だとこれ以(已)来年号は断絶しない、大宝以(已)前は元年だけで云々、
という書き方になっていて、こちらだと意味は明白。
どちらかの表現からどちらかの表現へ直接変化したとは言い難いが、
関係を疑ってみたくはなる。

;; [SEE[ [[年代記類]] ]]


[2835] 
元年だけで云々、も現在の常識だけで否定してはいけないのかもしれない。
というのも
[CITE[類聚三代格]]
に「白鳳年」が出てくる (>>1048)。
みんな白鳳「年間」の意味だと勝手に補完しているが、
そう解釈するしかない理由は特にない。
そうなると江戸時代の通説(?)だった「一時の嘉号」説ももう一度考え直す価値があろう。
大陸の制度の[[元号]]を[[大化]]から導入した、
と[CITE[日本書紀]]以来みんな思い込んでいたけど、
大陸式の[[元号]]制度を導入したことが明らかなのは[[大宝]]から。
それ以前の3つは本当に[[元号]]だったのか。
なぜ[[大宝]]前の[[金石文]]に[[元号]]が書かれていないか、
なぜ[[大宝]]前の[[元号]]に空白期間があるのか、
[CITE[日本書紀]]の「後五年」 (>>70) とは何か、
あたりの問題がまとめて解決できる可能性も出てくる。

[2836] 
まあ
[CITE[麗気記]]
も
[CITE[麗気記私抄]]
も[[中世]]のものなので、
こんなものをいくら調べても古代はわからないのだけど、
なにか突破口が見つかればラッキーくらいの軽い気持ちで考えてみたらどうだろうね。




[2764] 
>>2763 は
[CITE[麗気記私抄]]
の3写本を調べて該当部分を引用している
[SRC[pp.[V[一八󠄂七]]-[V[一九一]]]]
ものの、
[[九州王朝説]]を前提に考察しているために元年云々を完全にスルーしている。
非常にもったいない。

;; [2768] 
>>2763 は後の方で[[役行者]]の伝承と[[古代年号]]の関係にも言及しているのに、
なにかありそうだというのにとどまっていて、やはり惜しい。
([[九州王朝]]と[[修験道]]が繋がっていると断じるには躊躇があったらしいが、
[[九州王朝説]]に縛られない視点があればもっと先へ進めたはず。
(なお[[九州王朝説]]の本流ではその辺見境なく[[九州王朝説]]と[[修験道]]が関係していて[[羽黒山]]まで[[九州王朝]]の版図が広がっているみたいなことをいっているようだが、根拠が
「[[九州年号]]があるから」レベルなので参考にもならない。))

[2765] 
[CITE[麗気記私抄]]
は写本がいくつか現存するらしく、
現在はそのうちの1本の昭和初期の翻刻が[[国立国会図書館デジタル]]で閲覧できるが、
写本原本をウェブ上で公開しているところはない。
写本は状態が悪いようなことが後書きで解説されているし、
本文中にちょくちょく中略とあるのも翻刻者が略したのではなかろう。
[[古代年号]]のリストも途中で何箇所か省略されている。

[2766] 
>>2763 の調査だと他の写本では略されていないらしい。
が、3本で一致しないところがおおく、[[元号名]]の文字も違いが目立つ。
現存する写本だけが悪いというより、伝写の過程にかなりの問題があったとみえる。

[2767] 
3本とも (省略部分は他の写本と同じとみなせば) [[孝徳天皇]]からは[CITE[扶桑略記]]式で、
それ以前に独自の[[元号]]が足される形態。
[CITE[二中歴]]の方が古そうだからと本職の研究者からも[[九州王朝説]]の人々からも
[CITE[麗気記私抄]]
はあまり顧みられておらず、
>>2763 は元の[[九州年号]]が [CITE[扶桑略記]]
の影響で変形した結果だと主張している。

[2769] 
だが実のところ
[CITE[麗気記私抄]]
も
[CITE[二中歴]]
の該当部分もいつまで遡れるかはっきりとはわかっていないし、
どちらも引用元があるようなことを言っているので、
大元がいつなのかは本当によくわからない。
[CITE[麗気記私抄]]
が参照する
[CITE[麗気記]]
は[[後醍醐天皇]]の頃なのかどうかという感じ、
現存
[CITE[二中歴]]写本も[[後醍醐天皇]]の頃なのかという感じ。
偶然なのか似たような時代感だな?
と現状これくらいのふわっとした情報しかないので、
[CITE[麗気記私抄]]
より
[CITE[二中歴]]
が古いはずと信じて視野を狭めてしまうのは危うそうだ。

[2770] 
そうなると
[CITE[日本書紀]]
型
→
[CITE[扶桑略記]]
型
→
[CITE[麗気記私抄]]
型と徐々に[[古代年号]]が増殖していき、
そこから変形した
[CITE[二中歴]]
型が発生した、
という可能性が見えてくる。
[CITE[扶桑略記]]
の[[古代年号]]をすべて含むのに元年と順序が違う
[CITE[二中歴]]
型が突然どこかから湧いて出てきて、そこから先祖返りして
[CITE[麗気記私抄]]
型が生じた、とするよりも流れとしては自然に感じる。

;;
[2771] 
[[古代年号]]が徐々に増えたとする説を唱えたのは[[久保常晴]]だが、
[CITE[扶桑略記]]
型の時代の[[古代年号]]は[[坂本太郎]]の先行研究で解決済みと除外してしまったので、
[[鎌倉時代]]だか[[室町時代]]だかに突然湧いて出てきたことになっていた。
[[九州王朝説]]の人達は
[CITE[日本書紀]]
が[[九州王朝]]の歴史を盗用した[[偽史]]だと信じていたので、
[CITE[二中歴]]
型こそが[[九州年号]]で、
[CITE[日本書紀]]
との矛盾は盗用して捏造したせいだと説明していた (意味不明)。


[431] 
[CITE@ja-JP[塩尻 : 随筆 上巻]], [[天野信景, 室松岩雄 校]], [TIME[明41.11][1908]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-10T08:15:41.942Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/898488/1/173?keyword=%E4%B8%80%E6%99%82%E3%81%AE%E5%98%89%E5%8F%B7>




[416] 
[CITE@ja-JP[元号(年号)考究録 : 和西暦対照表]], [[飯田重平]], [TIME[1986.9][1986]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-10T07:46:13.409Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12210544/1/8?keyword=%E4%B8%80%E6%99%82%E3%81%AE%E5%98%89%E5%8F%B7> (要登録)

[430] 
[CITE@ja-JP[日本書紀通釈 : 70巻 第5]], [[飯田武郷]], [TIME[明治36][1903]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-10T08:14:28.903Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/992404/1/420>



[420] 
[CITE@ja-JP[日本の年号 : 揺れ動く<元号>問題の原点]], [[所功]], [TIME[1977.2][1977]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-10T07:53:21.217Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12207409/1/44?keyword=%E4%B8%80%E6%99%82%E3%81%AE%E5%98%89%E5%8F%B7> (要登録)



[1163] 
[CITE@ja-JP[日本歴史年表史]], [[奥野彦六]], [TIME[1972]], [TIME[2025-10-29T01:48:45.000Z]], [TIME[2025-12-16T15:35:51.917Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12188525/1/165?keyword=%E4%B8%8D%E7%94%A8> (要登録)


]BOX]


*** 干支年と初期元号

[1970] 
[[澤柳大五郎]]は、
造像銘記の類は大陸より移入されたもので、
日本の上代仏教美術の淵源たる六朝隋唐の造像銘と比較する意義があるとしました。

そのうち[[紀年]]について、
[[支那]]で[[干支年]]のみを記したものが1つもない
[WEAK[([CITE[支那美術史雕塑篇]], [[大村西崖]]に掲載された魏晋南北朝造像記の数百例)]]
のに対し、
[[日本]]では元は[[元号]]がなかったものの、
定められてからは[[元号]]を使ったと推測するのが妥当であろうとしました。

そこで[[元号]]との関係により次の4種に分類しました。
[SRC[>>1939 PDF pp.5-8]]

- [1971] 一 正史銘記トモニ年號ナキモノ
-- 
>>1937,
>>264,
>>266,
>>271,
>>1935,
>>1944,
>>266 (重),
>>203,
>>1937 (重),
>>126,
>>1255,
>>218 #1,
>>1958,
>>1948,
>>1946,
>>257,
>>374
- [1972] 二 史ニ(公)年號ナクシテ銘ニ(私)年號アルモノ
--
(>>1212 ?),
>>64,
(>>1213 ?),
>>213
- [1973] 三 史に年號アリテ銘ニ年號ナキモノ
--
>>1937 (重),
>>264 (重),
>>374 (重),
>>1959
- [1974] 四 史竝ニ銘記トモニ年號アルモノ
-- 
>>1938,
>>1304,
>>1262,
>>579,
>>1266,
>>1281,
>>218 #2,
>>1960,
>>1963,
>>218 #3,
>>1967,
>>1295,
>>580,
「以下略」

;; [1975] 2例に ( ?) とありますが、意図不明です。
現物が伝わらないものを指すようにも思われますが、
他にも該当するものがあります。

;; [1976] 「重」と書いたのは、
複数説が併記されたものです。


[1978] 
[[元号]]があるときは使ったとする説によれば、第3類が問題となります。
うち、
>>1959
は文章構成上、[[元号]]のない時代の[[干支年]]が続くので、
統一のため[[元号]]でなく[[干支年]]を使ったと解し得ます。
>>374
は飾った長文の末に「歳次降婁漆兎上旬」
のような飾った表記で締めているのであって、
[[元号]]を使わないのも文章のあやとみなし得ます。
文武天皇2年説を採るなら[[元号]]のない年で第1類に入ります。
>>264
は様式から推古天皇2年説が有力と澤柳は考えており、
第1類に入ります。
[SRC[>>1939 PDF pp.5-8]]

;; [1981] 
実は >>374 は朱鳥元年説でも銘文の7月上旬に対し[[改元日]]が
[TIME[7月20日][kyuureki:686-07-20]]なので、
第3類でなく第1類に入れるべきものでした。



[1980] 
そこで真に問題といえるのは
>>1937
だけとなります。
(この論文の検討の目的は
>>1937
の年代の決定でした。)

- [1982] [[元号]]を記述していないのだから、白雉2年説より崇峻天皇4年説が穏当と言い得ます。
- [1984] 白雉2年はまだ[[大化]]の[[建元]]からわずか6年、
[[元号]]について大陸と一律に議論できるものではありません。
吉備の郡領まで[[改元]]が伝わらなかったのかもしれません。
起草者の無教養で[[元号]]を書かなかったと解せないこともありません。
- [1985] [[白雉]]が[[公年号]]かどうかに疑いを持つなら、話も変わってきます。

... ということで、この表記だけから確証を得るには至らず、
[[元号]]があったなら書いたはずと考えるのが妥当ではないかと言えるに留まるとしました。
[SRC[>>1939 PDF pp.5-8]]

*** 大化以来連続説

[503] 
[[平安時代]]、
[[弘仁]]の[[改元]]詔書に、
[[飛鳥時代]]以前に[[元号]]はなく、
[[難波朝]]の[[大化]]に[[元号]]が始まり今に続く、
とありました (>>1698)。
[[大化]]から[[元号]]が始まったとする歴史認識としてよく紹介されます
[SRC[>>502, >>352 p.57]]。
更に強く、
[[大化]]から現在まで[[元号]]が''途切れなく''続くと解釈する説がありました。


[505] 
[[伴信友]]は、
[CITE[日本後紀]] 所収の[[弘仁]]の[[改元]]詔書 (>>1698)
にある通り、
[[孝徳天皇]]から[[元号]]が絶えないのは明らか、
としました。
[SRC[>>1731, >>556 (>>1731)]]
[[弘仁]]当時は
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
以前であって、
これが改刪の証拠となるとしました。
[SRC[>>1731]]


[881] 
[[斎藤励]]は、
[[伴信友]]の解釈を否定し、
[[漢文]]の文飾誇張に過ぎないとしました
[SRC[>>556]]。
[[坂本太郎]]は[[伴信友]]の説を否定し、
必ずしも[[大化]]以来の継続を示すものではないとしました
[SRC[>>883 p.一一五]]。
文勢上概要を述べて詳細を省いたに他ならず、
克明な解釈を施すのは大人気ないことであるからです
[SRC[>>859 p.二三〇]]。


[1895] 
[[伴信友]]は、
[[三敎指歸]]の[[覺明]]による抄が、
[CITE[覽初要集]]を引いて、
皇極天皇4年を大化元年として以来[[元号]]があるとしていた (>>2029)
のを引いて、[[大化]]以来[[元号]]が続くというのは正しいとしました。
[SRC[>>1731]]
これも自説に一致するとは[[伴信友]]の解釈であって、
覚明注は[[大化]]以来''途切れなく''続くとは書いていませんでした。



*** 大宝始源説


[2027] [CITE[日蓮大聖人御書全集 報恩抄]], [TIME[2005-07-29 08:40:42 +09:00]] <http://sgi.daa.jp/gosyo/title/G045.HTM>

[448] 
[[江戸時代]]頃までに成立した
[CITE[[[新撰三国運数符合図]]]]
には、
[[文武天皇]]欄に、[[元号]]のはじめと記述がありました。
[SRC[[CITE[[[新撰三国運数符合図]]]]


[2854] [CITE@ja-JP[日蓮聖人遺文全集講義 第18巻]], [[大林閣]], [TIME[昭8至15][1940]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-06T03:01:36.647Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1246427/1/106> (要登録)

[2940] 
[CITE[口遊]]

[2941] 
[CITE@ja-JP[古事類苑 第2冊]], [[神宮司庁]], [TIME[昭和3][1928]], [TIME[2024-11-28T09:48:19.000Z]], [TIME[2024-12-15T01:36:36.293Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1873317/1/273>


*** 大化の制定時期

[798] 
[CITE[日本書紀]]は、
[TIME[孝徳天皇元年西暦645年乙巳][year:645]]を[[大化]]の元年とし、
6年に[[白雉]]に改元されたとしていました。

[815] 
[[所功]]は、
[[乙巳の変]]直後に[[大化]]が[[建元]]されたことは
「大筋で史実と認めて差しつかえないと思う」
としました。
[SRC[>>461 p.5, >>246 普及版 p.15]] 


[808] 
[[重松明久]]は、
[[孝徳天皇]]の[[大化]]について、
[[改新の詔]]などに[[律令]]色が濃く後の時代の成立とみられることを指摘しました。
[SRC[>>502 ([CITE[白鳳時代の年号の復原的研究]], [[重松明久]], [CITE[日本歴史]] 第319号, 昭和49年)]]

[810] 
[[所功]]は、
後世の作為があるなら、
[[孝徳天皇]]の[[大化]]改元記事を不自然で簡潔にするはずがないとしました
[SRC[>>502]]。

[597] 
[[河内春人]]は、
[[戦後]]の否定説は[[大化の改新]]否定論を背景とするものであるところ、
現在では政治変革の存在は肯定する説が主流となっているため、
[[大化の改新]]はなく[[元号]]もなかったという短絡的な説は成り立たないことを指摘しました。
[SRC[>>590]]


[259] 
[[大化]]と時代が近いとされる[[金石文]]として[[宇治橋断碑]]がありますが、
時期と内容には議論があります。
他にもいくつか[[大化]]のものとされることがある[[金石文]]がありますが、
疑問視されています。
[SEE[ [[大化]] ]]



[813] 
[[佐藤宗諄]]は、
[[大化]]の使用を裏付ける7世紀の史料はなく、
8世紀にすらほとんどみられないことを指摘しました。
[SRC[>>502 ([CITE[年号制成立に関する覚書]], [CITE[日本史研究]]第一〇〇号, [TIME[昭和四十三年九月][1968-09]])]]
[[重松明久]]は、
[[孝徳天皇]]時代の[[大化]]の実用例がみられないことを指摘しました。
[SRC[>>502 ([CITE[白鳳時代の年号の復原的研究]], [[重松明久]], [CITE[日本歴史]] 第319号, 昭和49年)]]


[594] 
[[大化]]の実在否定説は、
唯一の当時の遺物とされる[[宇治橋断碑]]は後の時代 (8世紀以後)
に作られたものとする説に依拠しています。
[SEE[ [[大化]] ]]
実在を否定するなら、
碑文は後の時代のものでなければなりません。
逆に碑文が後の時代のものだとしても、
実在説や追建説とは両立し得ます。
7世紀に作られたとする説もあり、
簡単に結論を導くことはできません。




[811] 
[[佐藤宗諄]]は、
[[クーデター]]と関連付けた[[改元]]は異色だとしました。
[SRC[>>502 ([CITE[年号制成立に関する覚書]], [CITE[日本史研究]]第一〇〇号, [TIME[昭和四十三年九月][1968-09]])]]

[814] 
[[所功]]は、
[[恵美押勝の乱]]後の[[天平神護]]への[[改元]]の例を挙げ、
考えられなくもないとしました
[SRC[>>502]]。



[528] 
[[佐藤宗諄]]は、
8世紀初頭の律令制下で[[代始改元]]にも[[祥瑞]]が伴っていたことから、
それ以前でありながら[[祥瑞]]のない[[大化]]を異例としました。
[SRC[>>502 ([CITE[年号制成立に関する覚書]], [CITE[日本史研究]]第一〇〇号, [TIME[昭和四十三年九月][1968-09]])]]
[[重松明久]]は、
[[孝徳天皇]]の[[大化]]について、
[[祥瑞]]が明記されていないことを指摘しました。
[SRC[>>502 ([CITE[白鳳時代の年号の復原的研究]], [[重松明久]], [CITE[日本歴史]] 第319号, 昭和49年)]]

[601] 
[[河内春人]]は、
[[大化]]は[[祥瑞]]を具象化した名前ではなく徳治思想に関連する吉祥句で、
[[祥瑞改元]]ばかりの8世紀の知識で潤色したものでないとし、
7世紀末までに成立していた蓋然性が高いとしました。
[[追号]]ゆえ[[祥瑞]]でなく吉祥句とするほかなく、
口誦的 (>>606) でもなかったとしました。
[SRC[>>590]]



[614] 
[[河内春人]]は、
「化」とは王化、王の徳が及ぶ支配空間を表すので、
[[漢]]や[[新羅]]の最初の[[元号]]の「[[建元]]」
と違って時間的支配という思考からずれており
[[日本]]における理念的支配の限界を見て取れる、
[[評]]の成立など空間的支配が着手される一方、
時間的支配が視野に入っていない当時の政治状況と合致する、
としました。
[SRC[>>590]]




[521] 
[CITE[日本書紀]]
の
「建元」
と
「改元」
の使い分けが不審なことから[[大化]]が後世に追号されたものとする説がありましたが、
支持を得ていません (>>1694)。








[805] 
[[重松明久]]は、
[[孝徳天皇]]の[[大化]]を、
[CITE[日本書紀]] 新版編者による[[持統大化]]の「遡上的追建」としました
[SRC[>>470 ([CITE[白鳳時代の年号の復原的研究]], [[重松明久]], [CITE[日本歴史]] 第319号, 昭和49年)]]
(>>2261)。

@@
-[428] 
[CITE@ja-JP[古代国家と宗教文化]], [[重松明久]], [TIME[1986.12][1986]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-10T08:08:18.679Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12234265/1/191> (要登録)


[596] 
[[原秀三郎]]は、
[CITE[日本書紀]]編纂時に藤原氏が[[藤原鎌足]]の事績とするため[[持統大化]]を[[孝徳天皇]]時代に遡上させたとしました
[SRC[>>590 ([CITE[二つの大化年号と孝徳大化の虚構性]], [CITE[日本古代国家史研究]], 1980)]]
(>>2261)。

[812] 
[[佐藤宗諄]]は、
[[大化]]の[[元号]]が「八世紀に述作された可能性がきわめて濃厚」
と主張しました。
[SRC[>>502 ([CITE[年号制成立に関する覚書]], [CITE[日本史研究]]第一〇〇号, [TIME[昭和四十三年九月][1968-09]])]]

[283] 
[[田中卓]]は、
[[斉明天皇]]から[[持統天皇]]の時代、
[[大化]]と[[白雉]]が同時に[[追号]]されたとしました。
[SRC[>>590 ([CITE[年号の成立]], [CITE[律令制の諸問題]], 1986, 初出 1977)]]

[833] [[河内春人]]は、
[[祥瑞]]による[[白雉]]と祥瑞との関連性が見出だせない[[大化]]が同時に[[追号]]されたとは考えにくいしました。
[SRC[>>590]]





[595] 
[[新川登亀男]]は、
[[和銅]]年間に[[元号]]制度の歴史的投影として[[追号]]されたものと主張しました
(>>817)。
[SRC[>>590 ([CITE[「大化」「白雉」「朱鳥」年号の成り立ち]], [CITE[史料としての『日本書紀』]], 2011)]]

[804] 
[[伴信友]]、
[[斎藤励]]、
[[重松明久]]は、
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614) 
説を支持していました。
その後の研究者は、
[[改刪説][日本書紀後世改刪説]]も、
[[持統大化]]説 (>>198) も否定しました。
[[河内春人]]は、
[[和銅]]時代に[[大化]]を[[孝徳天皇]]の時代として設定する必然性に疑問を呈しました。
[SRC[>>590]]



[819] 
[[河内春人]]は、
[[孝徳天皇]]の[[白雉]]の[[改元]]時に、
[[孝徳天皇]]の最初の[[即位紀年]]に[[追号]]したのが[[大化]]だとしました。
[[大化]]が
7世紀末までに成立していた (>>601) なら、
[[孝徳天皇]]晩年、
[[斉明天皇]]、[[天智天皇]]は[[孝徳天皇]]と距離を取っていたので、
[[追号]]する蓋然性はかなり低く、
[[追号]]時期は[[孝徳天皇]]の時代しか残らないとしました。
[[漢]]の[[武帝]]は在位途中で[[追号]]し、
[[新羅]]王は即位後人格的支配が確立してから[[改元]]したと考えられることから、
[[孝徳天皇]]も在位中に[[白雉]]に[[改元]]し、
その際に[[大化]]と[[追号]]したとするのが最も整合的な解釈だとしました。
[SRC[>>590]]



*** 白雉と朱鳥の制定時期

[825] 
[[佐藤宗諄]]は、
[[白雉]]は[[大宝]]以後に[[追号]]されたものとしました
[SRC[>>590 ([CITE[年号制成立に関する覚書]])]]。


[828] 
[[田中卓]]は、
[[斉明天皇]]から[[持統天皇]]の時代、
[[大化]]と[[白雉]]が同時に[[追号]]されたとしました。
[SRC[>>590 ([CITE[年号の成立]], [CITE[律令制の諸問題]], 1986, 初出 1977)]]

[834] [[河内春人]]は、
[[祥瑞]]による[[白雉]]と祥瑞との関連性が見出だせない[[大化]]が同時に[[追号]]されたとは考えにくいしました。
[SRC[>>590]]

[830] 
[[新川登亀男]]は、
[[白雉]]を[[孝徳天皇]]崩御後[[天武天皇]]時代前半の追号としました。
[SRC[>>590 ([CITE[「大化」「白雉」「朱鳥」年号の成り立ち]], [CITE[史料としての『日本書紀』]], 2011)]]

[832] 
[[河内春人]]は、
[[大化]]が7世紀制定 (>>601) なら、
[[白雉]]と[[朱鳥]]も時代を引き下げる蓋然性は低いとし、
8世紀の[[祥瑞改元]]が政治状況に関連すると共に[[大瑞]]発生に結び付けられるのに対して[[白雉]]と[[朱鳥]]は[[大瑞]]相当ではないことから、
8世紀の通念に基づく[[追号]]ではないとしました。
[[白雉]]、[[朱鳥]]の祥瑞は、
[[孝徳天皇]]-[[持統天皇]]時代の[[西周]]を規範とする思想的背景から政治的に作り出されたもので、
[[追号]]でなく「当代を荘厳化するための手段」とするほうが理解しやすいとしました。
[SRC[>>601]]

[604] 
[[河内春人]]は、
[[白雉]]改元前年、
[[阿倍内麻呂]]死去、
[[蘇我倉山田石川麻呂]]失脚など政権主要メンバーがいなくなったため、
政権の求心力回復、王権権威の補完のため[[祥瑞]]の創出が必要となり、
[[白雉]]改元、
[[大化]]追号があったとしました。
[[孝徳天皇]]時代の[[元号]]制定の中心にいたのは[[道登]]だろうとし、
[[白雉]]献上時に[[孝徳天皇]]に諮問されており、
「[[祥瑞]]をイデオロギー儀礼に引き上げたブレーン」
と評価されるべきだとしました。
[[道登]]は[[宇治橋]]にも関与したことから、
[[宇治橋断碑]]は[[追号]]後の建碑と理解できるとしました。
[SRC[>>590]]





[529] 
[[岡田芳朗]]は、
[[白雉]]が献上されたとしても[[改元]]はなかったとしました。
[SRC[>>502 ([CITE[日本の暦]], 昭和47年刊, p.92)]]



[530] 
[[重松明久]]は、
[CITE[日本書紀]]
の[[孝徳天皇]]の[[白雉]]は[[天武天皇]]時代の[[白雉]]を遡上的に記述したものとしました。
[SRC[>>502 ([CITE[白鳳時代の年号の復原的研究]], [[重松明久]], [CITE[日本歴史]] 第319号, 昭和49年)]]

[821] 
[[重松明久]]は、
[CITE[日本書紀]]の[[白雉]]献上から[[改元]]までの経緯は潤色が著しいとしました。
[SRC[>>502 ([CITE[白鳳時代の年号の復原的研究]], [[重松明久]], [CITE[日本歴史]] 第319号, 昭和49年)]]

[822] 
[[所功]]は、
潤飾されていたとしても[[改元]]がなかったとまではいえないとしました。
さらに、
[[重松明久]]の[[[CITE[日本書紀]]改刪説][日本書紀後世改刪説]]は[[天武天皇]]時代を
「より一層潤飾」
したと主張しているのに、
[[白雉]]を他の時代に移動させるのは辻褄が合わないとしました。
[SRC[>>502]]

[823] 
[[所功]]は、
[[天武天皇]]時代の[[白雉]]は史料にみえないとしました。
[SRC[>>502]]


[566] 
[[所功]]は、
[CITE[日本書紀]]の
「後五年」
から、
[[白雉]]の[[元号]]がほとんど使われなかったものとしました。
[SRC[>>502]]


[829] 
[[田中卓]]は、
[CITE[日本書紀]]の
「後五年」
から、
[[元号名]]は[[追号]]としました。
[SRC[>>246 普及版 p.123 (1977)]]

[826] 
[[佐藤宗諄]]は、
[[朱鳥]]は[[大宝]]以後に[[追号]]されたものとしました
[SRC[>>590 ([CITE[年号制成立に関する覚書]])]]。



[565] 
[[吉野裕子]]は、
[[朱鳥]]の[[改元日]]が7月丙午であって[[朱鳥]]と[[午]]がともに[[南]]を意味すること、
同日命名された[[飛鳥浄御原宮]]の浄御原とは「神聖な胎」と考えられることから、
「新生を暗示する改元」が「天皇の死を暗示」するものだとし、
[CITE[日本書紀]]の作為を推測しました。
[SRC[>>502 ([CITE[日本古代呪術]], p.146)]]

[831] 
[[新川登亀男]]は、
[[朱鳥]]を[CITE[日本書紀]]通り当時のものとしました。
[SRC[>>590 ([CITE[「大化」「白雉」「朱鳥」年号の成り立ち]], [CITE[史料としての『日本書紀』]], 2011)]]


[606] 
[[河内春人]]は、
[[朱鳥]]改元年、
[[天武天皇]]は病状が悪化し、
[[持統天皇]]や[[草壁皇子]]に政務を委託したことから、
政権の不安定化の打破、
[[天武天皇]]の回復を願って、
[[祥瑞]]を強調し[[元号]]として共有したものだとしました。
[SRC[>>590]]


*** 白鳳と朱雀の発生

[1084] 
[[白鳳]]と[[朱雀]]は、それぞれ[[白雉]]と[[朱鳥]]の別名とされます。
[[奈良時代]]かそれ以前に発生したとみられますが、
その過程にはなお不明な点があります。

-*-*-

[1090] 
[[江戸時代]]以来多くの研究者が、
[[孝徳天皇]]の[[白雉]]が[[白鳳]]とも呼ばれたことを明らかにしました
(>>938)。

[HISTORY[
[1845] 
[[伴信友]]は、
[[白雉]]の雉が卑しげだから鳳に置き換えたのであろうとしました。
[CITE[日本書紀]]
によると大化6年に[[穴戸國]]から[[白雉]]が献上され、
[[百済人]]が媚びて[[祥瑞]]だというので[[改元]]したとあるため、
他の[[百済人]]などがさらに媚びて、
雉より鳳がめでたいと注進したのかもしれない、
としました。
[SRC[>>1731]]
しかしこの説は推測に過ぎず、その根拠は示されませんでした。
記録が残っていないのは 
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
で削除されたとされます。



[778] 
[[斎藤励]]は、
[[天武白鳳]] (>>617) があったとしていましたが、
[[伴信友]]が
[CITE[源平盛衰記]] (>>777)
を根拠に[[孝徳天皇]]の[[白雉]]がいつしか[[白鳳]]となったの同様、
[[天武白鳳]]も元は[[白雉]]だったとするが、
[CITE[水鏡]]一本 (>>1542) を引いて、
[[孝徳天皇]]時代と同じかもしれない、
としました。
[SRC[>>556]]
しかし
[CITE[水鏡]]
の異本のうちの
1つが[[白鳳]]を[[白雉]]であったに過ぎませんから、
それが元の形であったとする有力な根拠が提出されない限り、
両者が混同されやすかったという以上の結論を導くのは難しいでしょう。
]HISTORY]

[516] 
[[佐藤誠実]]は、
[[白鳳]]は[[白雉]]の別名、
[[朱雀]]は[[朱鳥]]の別名としました。
[SRC[>>859 p.207 ([CITE[史学雑誌]]一一ノ一一、四九頁), >>502 ([CITE[白鳳朱雀并法興元考]])]]
佐藤は、
[CITE[続日本紀]] (>>1049)、
[CITE[類聚三代格]] (>>1046)、
[CITE[藤原家伝]] (>>642)、
[CITE[古語拾遺]] (>>752)、
[CITE[熱田縁起]] (>>524)
の他はすべて信じられないとしました。
[SRC[>>859 p.207 ([CITE[史学雑誌]]一一ノ一一、四九頁)]]


-*-*-

[559] 
[[坂本太郎]]は、
現存史料に忠実に従えば、
[TIME[養老4(720)年][year:720]]
[WEAK[([[白鳳]]・[[朱雀]]のみえない[CITE[日本書紀]]の成立)]]
から[TIME[神亀元(724)年][year:724]] (>>1077)
の4年間に[[白鳳]]が出現したことになるとしました。
[SRC[>>859, p.二〇九, >>502]]

[560] 
[[所功]]は、
公文書に使用されたのは成立後相当の年月が経過し、
[[公年号]]のように認識されていたためと推測し、
養老4年より前から一部で使用されていたとしました。
[SRC[>>502]]

[1085] 
[[田村圓澄]]は、
[CITE[藤氏家伝]] (>>752)
にみえる[[白鳳]]は[[斉明天皇]]・[[天智天皇]]の時代に生まれたものとしました
(>>550)。
[[所功]]は、
貞慧誄が[[道賢]]の原文のままなら[[白鳳]]の出現をそこまで遡らせられる
[SRC[>>502]] と否定はしませんでした (が田村説全体には否定的でした >>557)。



[1091] 上限を [CITE[日本書紀]] とする坂本説は、
坂本自身が現存史料に従えばと限定した通り、
強い根拠とはいえません。 [CITE[日本書紀]]
に[[白鳳]]、[[朱雀]]がみえないことは、
当時まだ存在していなかったことの証拠としては弱いもので、
所の指摘の通り既に使われていたとするのが穏当です。
[CITE[藤氏家伝]]
が原史料を忠実に伝えるものなら、
田村説の通り[[白鳳]]は現役当時に遡り得るものです。
しかしいずれも決定的な証拠とはいえず、
出現時期は不明とするほかありません。

-*-*-



[1077] 
「白鳳」
の現存最古の用例は、
[CITE[続日本紀]]
[TIME[神亀元(724)年][year:724]]とされます [SRC[>>859 pp.二〇八-二〇九]]。
「白鳳」とあるだけでどの時期に相当するか定かではありませんが、
[[孝徳天皇]]時代の[[白雉]]を指すとするのが通説となっています。
(>>281)


-*-*-


[1088] 
[[坂本太郎]]は、
[[白雉]]が [CITE[日本書紀]] や [CITE[新唐書]] などに見える (>>1076) という外形的証拠、
[[白雉]]を得た故[[白雉]]と[[改元]]したとの「極めて穏当な事件」という内容的解釈から、
[[白鳳]]でなく[[白雉]]が元の名称としました。
[SRC[>>859 p.二〇九]]


[760] 
[[斎藤励]]は、
[CITE[古語拾遺]] (>>752)、
[CITE[藤氏家伝]] (>>642)、
[CITE[続日本紀]] (>>281)
といった文献にみえることから、
[[白鳳]]が仏僧の妄作や辺境の[[私年号]]でないことは明白としました。
[SRC[>>556]]


[1092] 
[[伴信友]]は、
雉が卑しげなので鳳に置き換えたものとしました。
[SRC[>>859 p.二〇九 (>>1731)]]

[1093] 
[[坂本太郎]]は、
伴説は考え得るものの必然的な関係を示すほどではないと評し、
自身もこの問題を解決し得るとは思えないと謙遜した上で、
次のように補強しました。
[SRC[>>859 pp.二〇九-二一〇]]

- [520] 後の時代の[[祥瑞]]ランクによれば、[[白雉]]は[[中瑞]]、[[鳳]]は[[大瑞]]。
[SRC[>>859, >>502]]
-- [1095] 文化の外面形式を装飾する欲求、文字使用の衒学的傾向による置き換えではないか。
- [1096] [[慶雲]]、[[養老]]、[[神亀]]はいずれも[[大瑞]]。
- [1097] [[神亀]]は当初[[白亀]]と呼ばれた形跡がある。
[[白亀]]は[[六典祥瑞]]にないが、[[神亀]]は[[大瑞]]。
-- [1098] [[白鳳]]出現とちょうど同時期の置き換え。
偶然の符合とするべきではない。


;; [1099] 
[[白亀]]から[[神亀]]に改称されたとする[[伴信友]]説は、
否定しきれないまでも有力な根拠を求め得るものではありませんでした。
[[坂本太郎]]がなぜここだけ無批判に受け入れてしまったのか不思議です。
[SEE[ [[白亀]] ]]

[1115] 
[CITE[Wikipedia]] は坂本らの[[白雉]]・[[朱鳥]]の美称説が通説だとしています
[SRC[>>1114, >>1119]]。
しかし[[白雉]]が[[白鳳]]に置き換えられた根拠を[[劉勰]]の
[CITE[文心雕龍]] 第四十八節知音篇としており、
その出典は示していません。
[SRC[>>1114]]

[1094] 
[[河内春人]]は、
当時[[和語]]の音声表現が重視されており、
[[漢字]]表現が当てられたとき2種類が生じたものとしました (>>602)。


[1101] [[祥瑞]]のランクアップ説は[[所功]]の[[元号]]関係の文献で半ば確定的に取り上げる
[SRC[>>502, >>246]] など通説化していますが、
坂本以後論拠の補充もなく納得感に物足りなさが残ります。
近年提唱された河内説はこの時代の他の[[元号]]の問題も含め整合的に説明し得るもので、
注目されます。
両説は矛盾するものでなく、
[[和語]]と[[漢字]]のつながりが流動的だったものが、
[[祥瑞]]ランクに基づき[[白鳳]]表記が好まれるようになったと理解できます。



-*-*-


[1695] 
[[坂本太郎]]は、
[[朱鳥]]が[[支那天文学]]で[[星宿南宮]]の名として知られることを指摘しました。
[SRC[>>859 p.二二九 ([CITE[史記]]天官書, [CITE[礼記]]曲礼上, [CITE[爾雅]]釈天疎, [CITE[淮南子]]天文訓など)]]
[CITE[淮南子]]高誘注に
「朱鳥朱雀也」
とあることから、
[[白雉]]・[[白鳳]]より遥かに容易に転換し得るものとしました。
[SRC[>>859 p.二二九]]









[1089] 
[[所功]]は、
平安時代中期以後、
正称異称の関係が忘れられたものと推測しました。
[SRC[>>502]]






[170] [[Wikipedia]] の[[日本の元号]]の一覧は、
[[私年号]]のうち[[白鳳]]と[[朱雀]]だけ特別に掲載しています。
それぞれ、[[白雉]]と[[朱鳥]]の別名 (ただし異説もあり) [SRC[>>225]] とされています。

[300] 
[CITE[日本年号史大事典]]は、
[[白鳳]]と[[朱雀]]が
[CITE[大織冠伝]]、
[CITE[続日本紀]]、
[CITE[扶桑略記]]
などにあるが、
[[坂本太郎]] [SRC[>>859]]
により[[白雉]]、[[朱鳥]]の異称であることが示されており、
[[異年号]]とはいえない、としました。
またそのようにたやすく言い換えられるところが[[大宝]]以降とは異なる脆弱さを読み取れる
(所功 1978) と指摘しました。
[SRC[>>246 普及版 p.338 (筆者「K」 ([[久野旦雄]]))]]


[359] 
[CITE[元号―年号から読み解く日本史―]]
は、
[[白雉]]も[[朱鳥]]も「当時ほとんど一般に知られていなかったようである」とし、
[CITE[続日本紀]]神亀元年の詔 (>>281) を引いて、
「年号として定着せず不安定であったから、
七十数年後奈良時代に入ると、
「白鳳」「朱雀」と言い換えても通用したものと考えられる。」
[SRC[>>352 p.62-63]]
としました。

[605] 
[[新川登亀男]]は、
[[白雉]]を[[百済]]系と結合した[[孝徳天皇]]グループ、
[[白鳳]]を[[高句麗]]系と結合した[[藤原鎌足]]家が用いたとしました
[SRC[>>590]]。





[REFS[


- [740] [CITE[[[王朝時代の陰陽道]]]], [[斎藤励]]
-- [556] [CSECTION[年号の起原及改元の動機]]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[754] [CITE@ja[[[白鳳時代]](はくほうじだい)とは - コトバンク]], [[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,大辞林 第三版,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及]], [TIME[2020-01-30 18:55:31 +09:00]] <https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E9%B3%B3%E6%99%82%E4%BB%A3-113852>
]FIGCAPTION]

[940] 

>白鳳は私年号であり,正式に朝廷で定められた年号ではない。私年号の白鳳が用いられたとされる時期は,孝徳~斉明朝と天武朝,持統朝とであるが,当時の正史である『日本書紀』にはみえない。したがって天武朝,持統朝を白鳳の名称で呼ぶことは適当でないが,白鳳の語感のよい点から,初め美術史で用いられたものが,文化史に,さらには政治史に用いられるようになった。
[SNIP[]]
>ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

[941] 

>奈良時代にこの時代を白鳳・朱雀(すざく)と呼んだのに基づく。白鳳は白雉(はくち)(650年―654年),朱雀は朱鳥(しゅちょう)(686年)という年号の美称。
[SNIP[]]
>株式会社平凡社 百科事典マイペディア

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[942] [CITE@ja[[[白鳳文化]] - Wikipedia]], [TIME[2020-01-15 12:19:33 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%B3%E6%96%87%E5%8C%96>
]FIGCAPTION]

>白鳳とは日本書紀に現れない元号(逸元号や私年号という)の一つである(しかし続日本紀には白鳳が記されている)。天武天皇の頃に使用されたと考えられており(天智天皇のときに使用されたとする説もある)、白鳳文化もこの時期に最盛期を迎えた。 

]FIG]

- [943] [CITE@ja[総論 白鳳の美術]], 
[[内藤栄]],
[TIME[2020-01-30 19:06:22 +09:00]] <https://web.archive.org/web/20200130100407/http://kousin242.sakura.ne.jp/mt005/111-3/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2/%E9%B3%B3%E5%87%B0%E6%9C%9F/>
- [1114] [CITE@ja[[[白鳳]] - Wikipedia]], [TIME[2020-04-13 23:43:18 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%B3>
- [1119] [CITE@ja[[[朱雀]] - Wikipedia]], [TIME[2020-04-20 19:23:55 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E9%9B%80#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%9C%B1%E9%9B%80>

]REFS]



[381] [CITE[[[元号]]と[[改元]]と日本建国/やまとの謎(125): 夢幻と湧源]] ([TIME[2019-08-07 12:08:52 +09:00]]) <http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2019/01/post-853f.html>

[419] [CITE[mrh_038_001A.pdf]] ([TIME[2019-09-22 20:56:49 +09:00]]) <https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/48098/mrh_038_001A.pdf#page=11>

*** 初期元号和語表現

[2129] 
[CITE[日本書紀]]
には、
[[朱鳥]]の[[訓み]]が敢えて明記されていました (>>77)。
現在のような[[漢語]]としての[[音読み]]の[[元号名]]と違った、
[[和語]]の[[元号名]]があったことがわかります。
[[大化]]と[[白雉]]には、
そのような記述はありませんでした。


[1817] 
[[伴信友]]は、
[[朱鳥]]の訓注は[[元号]]には似つかわしくないとしながらも、
嘉称 (>>1836) なので[[大和言葉]]で呼ぶよう[[詔]]があったのだろうとしました。
[[朱鳥]]時代は
[CITE[日本書紀]]
の編纂と近い時代なので、
このように伝わっていたとして不審ではないとしました。
[SRC[>>1731]]



[602] 
[[河内春人]]は、
[CITE[日本書紀]]の「朱鳥」に「アカミトリ」と[[訓]]が示されるのは、
文字表記に傾斜した性格の8世紀の[[元号]]と違って口誦に傾斜した性格があったためとしました。
文字と音声が別に成立し結合したとは考えにくく、
「朱鳥」から「朱雀」が派生したとするより、
「アカミトリ」という音声が「朱鳥」と「朱雀」の表記がそれぞれ形成されたとする方が整合的に理解できる、
「白雉」と「白鳳」も同様としました。
[CITE[万葉集]]巻三、
[[大津皇子]]の死去前の歌に
「藤原宮朱鳥元年冬十月」
とあり、
口誦が強く意味を持つ場で[[元号]]が使われたのであり、
[[木簡]]に現れないことも説明できるとしました。
[SRC[>>590]]

[2130] 
[[中華王朝]]の風習を真似て[[元号]]を導入したのだとすると、
[[漢語]]でなく[[和語]]で[[元号]]を決めたというのは不可思議です。
しかし 
[CITE[日本書紀]]
にはっきりと書かれている以上、
そうだったのだと理解するほかありません。
あるいは初期元号が[[中華王朝]]の[[元号]]と性質が大きく違っていた証左なのかもしれません。


*** 白雉と朱鳥の終了

[1102] 
[CITE[日本書紀]]
によれば、
[[白雉]]は[[孝徳天皇]]の[[崩御]]により終了 (>>518)、
[[朱鳥]]は[[天武天皇]]の[[崩御]]により終了 (>>887) しました。
その後は[[元号]]のない時期となりました。

[190] 
新しい[[元号]]が建てられなかった理由は定かではなく、
終了の日も明確に示されたものではありません。
[[元号]]空白期に当時どのように[[年]]が記述されたか諸説あり、
古い時代から現代に至るまで、いろいろな表現法が混在しています。

-*-*-



[615] 
[[斎藤励]]は、
[[斉明天皇]]、[[持統天皇]]は中継ぎで即位したので前の時代の[[元号]]を使い続け、
[[天智天皇]]、[[文武天皇]]の時代になったら使わなくなったのは明らかとしました。
[[白雉]]、[[朱鳥]]とも鳥の名前の[[祥瑞]]で、
2つの[[天皇]]の時代で用いたこと、
後の[[天皇]]がどちらも女帝であることが興味深いとしました。
[SRC[>>556]]

[526] 
[[斎藤励]]が [CITE[大織冠伝]] により[[斉明天皇]]時代まで[[白雉]]が使われたとし、
[[伴信友]]がそれに加えて[[天智天皇]]の漢風嗜好など心理的解釈により[[天智天皇]]時代まで[[白雉]]が使われたとしました。
[[坂本太郎]]は、
一理ないとは思わないとして否定はしませんでしたが、
「むしろこうした議論全体が無意味ではないか」としました。
[SRC[>>859 p.二一〇]]。

[522] 
[[坂本太郎]]は、
[[大宝]]以後のように[[改元]]の連続がない時代、
旧[[元号]]の廃止には特別な意思表示が必要であるにも関わらず、
それが見られない点に注意しました。
政府は代替わりによって旧[[元号]]が廃止されたと解釈した
(のが [CITE[日本書紀]] に採られた)
のに対し、
世間では継続したと解釈されることがあった
(のが [CITE[大織冠伝]] などに採られた)
としても不思議でないとしました
[SRC[>>859 pp.二一〇-二一一, >>502]]。
[[朱雀]] ([[朱鳥]]) は正式には1年でしかなかったため、
この傾向は更に熾烈であったとしました。
[SRC[>>859 pp.二二九-二三〇]]。
各種史料が[[元号]]でなく[[斉明天皇]]の[[即位紀年]]を使うことを指摘する (>>1113)
とともに、
[CITE[大織冠伝]]
に
[CITE[日本書紀]]
の記事を否定するほどの力はなく、
むしろ
[CITE[日本書紀]]
の記事により否定されるとしました。
[SRC[>>859 pp.二一一-二一二]]。
[[所功]]らはこの解釈に従い[[元号]]停止が明示されなかったため[[延長年号]]が生じたとしました
[SRC[>>502, >>246 普及版 p.125]]。

[1103] 
坂本のいうように政府が終了を表明していないなら、
「正しい終了時期」は最初から存在せず、議論は無意味といえます。
ただ坂本は、政府に代替わりによる終了という「正しい終了時期」の認識があり、
民間にはそれと異なる思想もあったとしました。
その根拠といえるものは [CITE[日本書紀]] のみです。
これがいえるのは[[代始改元]]が慣例化した後の時代や[[中華王朝]]の価値観の下でのことで、
当時の政府当局の認識とまでは断定しづらいものがあります。
また民間とはいっても[[延長年号]]の用例は辺境地や一般大衆によるものではなく、
[CITE[藤氏家伝]] や [CITE[万葉集]] にみられるものです。
記録に残されず中央貴族にすら徹底されなかった
「正しい終了時期」
は、政府内にすら存在しなかったとする方が説得力があります。

;; [616] 
興味深いことに、[[昭和時代]]の [CITE[元号法]] 制定より前の[[日本政府]]が、
[[昭和天皇]]の[[崩御]]により[[昭和]]の[[元号]]は終了するとの見解を示したことがありました。
この[[昭和の元号危機]]問題に[[坂本太郎]]も無関係ではありませんでした。
[SEE[ [[昭和の元号危機]] ]]


[191] 
[[一覧やソフトウェアの類][元号一覧]]のなかには、
[[朱鳥]]の直前まで[[白雉]]を継続させ、
[[大宝]]の直前まで[[朱鳥]]を継続させるものもあります。
必ずしも特定の学説の主張に結びつくものでなく、
単純化のためまたは不注意により発生したものとみられます。

[108] 
[CITE[日本書紀]]同様に崩御後も年末まで[[白雉]]元年とする対照表もあります [SRC[>>329]]。


[15] [[国立天文台]]の[CITE[日本の暦日データベース]]は、
[[神武天皇]]元年から[[大宝]]建元よりも前の期間について、
[[文武天皇]]元年を含む[[天皇即位紀年]]、[[大化]]、[[白雉]]、[[朱鳥]]のすべてを年単位
([[旧暦]]年) で割り当てていて、3[[元号]]の建元日も無視されています [SRC[>>347]]。
[[大宝]]以後の[[改元日]]は忠実に反映されているようです。
不透明な時代を扱いかねての処置なのでしょうが、
時代によって挙動を変えるのはあまり適切な判断とも思えません。

[85] 
[[対照表や変換ソフトウェアの類][元号一覧]]では、
[CITE[日本書紀]]や[CITE[続日本紀]]に倣い[[天皇即位紀年]]を使うものまたは[[元号]]空欄とするものが多く、
このいずれかが適切な処置と思われます。

[FIG(short list)[ [210] 元号不在期間の[[天皇即位紀年]]
- [[白雉]]の後
-- [[斉明天皇]]
-- [[天智天皇]]
-- [[天武天皇]]
- [[朱鳥]]の後
-- [[持統天皇]]
-- [[文武天皇]]
]FIG]

[412] 次の[[元号]]が建てられるまで直前の[[元号]]が[[継続したとみなす][延長年号]]ものもあります。
[CITE[日本書紀]]と比べて不適切な処理のようにも思えますが、
実際には[CITE[日本書紀]]以外で[[白雉]]や[[朱鳥]]が引き続き用いられているような事例が見られ、
明確な終了の宣言がなかったとも考えられるため、
間違いとまでは言い切れません。
実装の便宜と古い時代まで正確に記述する必要性を天秤にかけた結果か、
あるいは空白期の存在に注意を払わなかった杜撰な実装のいずれかでしょう。
新たにソフトウェアを作成する場合の実装戦略として積極的に採用するほどのものとは思えませんし、
元号の一覧表としては適切な表現とはいえません。


[88] 「(白雉後)[VAR[何]]年」、
「(朱鳥後)[VAR[何]]年」
といった[[疑似元号]]を導入するものもあるようです。
歴史的にこうした手法の実績はありませんし、
採用事例も多くありません。
あまり適切な処理とはいえません。

[177] できるだけ当時の表記を尊重する立場なら[[天皇即位紀年]]より[[干支年]]のほうが適切かもしれませんが、
[[干支年]]は60年単位でしか識別できないため、
対照表ならともかく[[和暦]]の実装では不適切でしょう。
しかも当時の表記を尊重するなら、
[[大宝]]以前はすべて[[干支年]]に統一せざるを得ません。

[110] 
[[元号]]がなければ[[西暦]]表記で代用するという立場もありましょうが、
[[和暦]]の実装であれば[[天皇即位紀年]]の方がより歴史的に適切とも思われます。


** 白鳳時代

[1121] 
[[白鳳時代]]、[[白鳳文化]]、[[白鳳地震]]といった語は、
[[明治時代]]から[[昭和時代]]までの未だ[[白鳳]]の性質が明らかになっていなかった頃、
学術的な用語に取り上げられ、[[美術史]]などの分野でそのまま現在まで使われています。

[1122] 
[CITE[Wikipedia]] の「白鳳文化」記事は、
[[白鳳文化]]を[[大化の改新]] ([TIME[西暦645年][year:645]]) 
から[[平城遷都]] ([TIME[西暦710年][year:710]])
までの[[飛鳥時代]]の文化としています。
また[[天武天皇時代][天武白鳳]]と[[天智天皇]]時代の[[白鳳]]説を紹介し、
[[天武白鳳]]の頃が[[白鳳文化]]の最盛期としています。
[SRC[>>1120]]

[1118] 
[CITE[Wikipedia]]
の「白鳳」
記事は、
[[白鳳]]は[[白雉]]の別名とするのが通説としつつ、
[[天智天皇]]時代の説、
[[天武天皇時代の説][天武白鳳説]]を紹介しています。
[[白鳳]]時代の事件には、
[TIME[西暦661年][year:661]]の[[斉明天皇]]崩御から[TIME[西暦684年][year:684]]の[[白鳳地震]]までを挙げていて、
[CITE[Wikipedia]] の紹介する[[天智天皇]]説の元年から[[天武天皇説][天武白鳳説]]の末年までをカバーしているように見えます。
本来の[[孝徳天皇]]時代はなぜか省かれています。
[SRC[>>1114]]

[REFS[
- [1120] [CITE@ja[[[白鳳文化]] - Wikipedia]], [TIME[2020-04-13 23:41:53 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%B3%E6%96%87%E5%8C%96>
]REFS]

** 白鳳の特定をめぐる混乱

[979] 
寺社由緒やその他の各地の伝承にみえる紀年は、
現在では[[元号年]]に[[西暦年]]を併記したものになっていることが多いようです。
[[元号年]]のみのものもありますが、
逆に[[西暦年]]のみのものもあります。
一覧表のようなデータベース的正確のものでは[[西暦年]]が使われがちにみえます。

[980] 
こうしたものは、もともと[[元号年]]や[[干支年]]で記述されてきたものが、
[[明治時代]]以後の[[近代化][幕末維新期の日時]]によって[[干支年]]が削られ、
[[西暦年]]が付されてきたのですが、
具体的にいつ、誰がどのように[[換算][暦の換算]]したのかが問題となります。

[981] 
[[大宝]]以後の[[元号]]は大きな問題はないのですが (それでも1,2年の換算ミスや、
旧暦からの換算ミスはありがちです)、
初期元号、とくに[[白鳳]]は深刻な状況にあり、
ひどい場合は同じ寺社の伝承でも資料ごとに異なる[[西暦年]]が併記されています。
([[白鳳]]の各項に示した実例参照。)

[982] 
[[明治時代]]から[[昭和時代]]まで信じられていた[[天武白鳳]]や、
現在信じられている[[白雉]] = [[白鳳]]説に基づく換算は、
そのような[[対照表][元号一覧]]もよく流布していたと考えられますから、
理解できます。

[983] 
それ以外の換算、とくに[[天智天皇]]時代の[[白鳳]]によるものは、
どんな根拠で[[西暦年]]が導かれたのでしょうか。
[[明治時代]]以後の[[日本史]]研究者には一般的な説だったようにみえないのですが、
歴史学以外の分野の年表などによったのでしょうか。

[984] 
[[干支年]]や[[元号年]]を失わせる形の「近代化」 
(実在が疑わしい[[白鳳]]を削るという判断もありそう。)
は元の情報をたどるのが難しくなる危険性を孕んでいます。
地方の小さな寺社の伝承などは、
そのうち原典資料が散逸して怪しい[[西暦年]]の情報だけ残る懸念があります。

-*-*-

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[922] [CITE[[[白山神社]]のクスノキ]], 
撮影年月日 2013年5月21日,
[TIME[2017-04-11 20:42:27 +09:00]] <http://www.hitozato-kyoboku.com/niihama-hakusan-kusu.htm>
]FIGCAPTION]

>愛媛県神社庁の神社紹介ページの内容を読み解くと、白鳳13年(662?)の大地震後、大和国葛城山から役小角(えんのおづぬ)を招いて寺を開き、文武天皇元年(697)には加賀国白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ)の分霊を勧請したと伝えれているらしい。
]FIG]

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[921] [CITE[[[白山神社]] « 愛媛県神社庁]], [TIME[2020-01-29 18:03:27 +09:00]] <http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=476>
]FIGCAPTION]

>白鳳13年10月14日全国で大地震があり多くの神社仏閣が倒れ、道後のお湯もつぶれたという記録があり、当時の伊予の国の殿様小市宿祢王興(オチノスクネ)がこれらの復興の為、奈良県葛城山(カツラギサン)から役小角(エンノオヅヌ)と言う行者を招き文武元年8月加賀国(今の石川県)一の宮白山比咩神社の御分霊を頂き当地にお祀り申し上げ白山大権現と崇敬されていたが、明治初年神仏判然令により、一緒にお祀りしていた水谷寺は奈良天台寺に帰り、白山神社として現在に至る。
]FIG]

]REFS]


[923] [TIME[西暦662年][year:662]]は[[孝徳天皇]]の白雉元年から数えたときの第13年。
現在の[[愛媛県神社庁]]の
[[Webページ]] [SRC[>>921]] には
(この筆者が見た時の状態と同じかどうかは不明ですが、
そうそう変わるものでもないでしょう。)、
[[西暦年]]がありません。
「?」
とある通り、換算したものの疑問を感じたのでしょう。
大地震とは[[白鳳地震]]を指すので、
[TIME[天武天皇13(684)年][year:684]]と解さなければなりませんでした。
中世の混乱が遠因、
現代の[[西暦年]]への[[換算][暦の換算]]が直接の原因となって紀年の誤りが発生した過程が記録された貴重な実例です。

-*-*-

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[959] [CITE@ja[鳴無神社]], [TIME[2019-08-07 14:53:00 +09:00]] <http://engishiki.org/tosa/bun/tos590401-02.html>
]FIGCAPTION]

>白鳳13年(662)8月14日社殿造営
>[SNIP[]]
>>由緒
>>[SNIP[]]
白鳳13年8月14日地震のため当郷の地大半一度海底に沈みしため、
[SNIP[]]
>>
[BOX(right)[
全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
]BOX]

]FIG]

]REFS]

[960] [[孝徳天皇]]の白雉元年を[[白鳳]]元年とした[[西暦年]]です。
[[白鳳地震]]を指すならこの[[西暦年]]換算は正しくありません。


-*-*-

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[924] [CITE[東浅井郡浅井町内保1[[誓願寺]]]], [TIME[2016-09-10 14:34:23 +09:00]] <http://kokokujitanbo.com/azai-a-2-1.htm>
]FIGCAPTION]

>開基 	白鳳13年(651)定恵

]FIG]

[925] 
[TIME[白雉2(651)年][year:651]]を白鳳13年と数えるのは他に例が見当たりません。
何らか誤りでしょうか。
他サイトは[TIME[西暦651年 = 白雉2年][year:651]]としています [SRC[>>926, >>927]]。
[[白鳳地震]]で用例が頻出する白鳳13年であることが気になりますが、
関係あるでしょうか。
あるいは[TIME[天武天皇2(673)年[LINES[癸][酉]]][year:673]]が白鳳2年と[[されること][天武白鳳]]があり、
[CITE[二中歴]]方式の[[古代年号]]で白鳳13年でもあることと関係あるでしょうか。


[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[926] [CITE@ja[古寺探訪コラム]], [TIME[2014-06-02 07:51:56 +09:00]] <http://tama3.org/example763.html>
]FIGCAPTION]

>創建年 	651年(白雉2年)
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[927] [CITE@ja[[[誓願寺]] (滋賀県長浜市) 湖北一向一揆の拠点: お寺の風景と陶芸]], [TIME[2020-01-29 18:32:55 +09:00]] <https://tempsera.at.webry.info/201201/article_20.html>
]FIGCAPTION]

>(5)開山:定恵 (6)開創:651年
]FIG]

]REFS]




-*-*-

[2385] 
[CITE[扶桑略記]]
の判断
(>>1531)、
>>1079

[2387] 
[CITE[役行者顛末秘蔵記]]
の
「白鳳四季甲子」
を[[天武天皇]]時代とし、
[[干支年]]が合わないとする論文がありました [SRC[>>2386 PDF 4ページ、17ページ]]。
[[天武天皇]]の時代だとする記述が
[CITE[役行者顛末秘蔵記]]
にあったのか論文著者の判断か不明ですが、
[[天智天皇]]時代の[[白鳳]]だとすれば[[干支年]]は矛盾しません。
なお
[CITE[役行者顛末秘蔵記]]
は[[偽書]]で、
「于時寶字七年癸酉卯月夏至日」
の[[道鏡]]の著書を称しますが、
実際は[[室町時代]]とも[[江戸時代]]ともされます。
[TIME[天平宝字7(763)年][year:763]]は癸卯です。


[REFS[
- [2386] 
[CITE[役小角傳]],
[[佐藤虎雄]],
[TIME[2020-07-30 11:46:30 +09:00]] <https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/448/GKH002103.pdf>
]REFS]

*** 滋賀県の平野神社由緒

[1000] 
[[日本国]][[滋賀県]][[大津市]]にある[[平野神社]]の由緒は大変興味深いので、
詳しくみてみましょう。


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[985] 
[CITE@ja[神社紹介 > 滋賀県の神社 > [[滋賀県神社庁]]]], [TIME[2020-01-31 15:33:30 +09:00]] <http://www.shiga-jinjacho.jp/ycBBS/Board.cgi/02_jinja_db/db/ycDB_02jinja-pc-detail.html?mode:view=1&view:oid=68>
]FIGCAPTION]

>社伝によると、天智天皇が志賀の大津の宮に遷都された時都の三里以内に守護神として祀られたと伝えられ天智称制七年即ち白鳳元年正月下旬に鎮座した。藤原鎌足公の創立と伝えられる京都西洞院家の管領の社である。「精大明神」(けまりの守護神)は猿田彦命で三十五代皇極天皇の御代、京都西洞院滋野井に鎮座の精大明神を御神託により大津松本本宮狐谷に奉遷された。 [SNIP[]] 天正二年現在地に遷座された。

]FIG]

[986] 
神社庁、つまり公式サイトとみてよいでしょうが、
「天智称制七年即ち白鳳元年」
なる他のどの説とも一致しない見解が示されています。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[987] 
[CITE@ja[【公式】[[平野神社]] (滋賀県大津市)(@hirano_668)さん / Twitter]], [TIME[2020-01-31 11:57:37 +09:00]] <https://twitter.com/hirano_668?lang=ja>
]FIGCAPTION]

>滋賀県大津市にある平野神社の公式アカウントです。668年建立。
]FIG]

[988] 公式
[CITE[Twitter]]
アカウントのプロフィールには[TIME[天智天皇8(668)年[LINES[戊][辰]]][year:668]]の[[西暦年]]があり、
一致しません。


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[989] [CITE[[[平野神社]] - 神社の御朱印 Wiki*]], 
Last-modified: 2013-05-10 (金) 23:30:40,
[TIME[2020-01-31 15:39:56 +09:00]] <https://wikiwiki.jp/goshuin/%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C/%E5%B9%B3%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE>
]FIGCAPTION]

>(参拝日:平成24年10月8日)
[SNIP[]]
>
(由緒:現地案内板より)
>
[SNIP[]]
天智天皇が近江志賀に大津の宮を遷都されたとき、都の三里以内に守護神として祭祀せられ
天智称制七年(六六八)鎮座され、藤原鎌足公の創建と伝えられる。
>
精大明神は猿田彦命で、第三十五代皇極天皇の御代、
京都西洞院滋野井に勧請ありし精大明神を御神託により、
大津本宮狐谷に奉遷になる『衢』びきの神、蹴鞠の守護神として白鳳元年(六四二)奉遷された。
>
[SNIP[]] 天正二年現在地に鎮座なる

]FIG]

[REFS[
- [990] [CITE@ja[[[平野神社]](滋賀)の画像]], [TIME[2020-01-31 15:41:16 +09:00]] <https://ameblo.jp/masa-20160101/image-12383748050-14211126200.html>
- [991] [CITE[大津市 [[平野神社]]:ぐだぐだ月記:SSブログ]], [TIME[2020-01-31 15:41:34 +09:00]] <https://gudagudagekki.blog.ss-blog.jp/2014-10-28>
]REFS]

[992] 現地案内板 (翻刻、写真)
では、
「天智称制七年(六六八)」
と
「白鳳元年」
は別の説明に現れます。しかも
「白鳳元年(六四二)」
という、やはり他に例のない説が提示されています。
この[[西暦年]]は[TIME[皇極天皇元(642)年[LINES[壬][寅]]][year:642]]で、
「皇極天皇の御代」という説明には一致しています。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[995] [CITE[[[平野神社]] 大津市松本1丁目]], [TIME[2013-06-15 13:26:23 +09:00]] <http://kamnavi.jp/en/oumi/hirano.htm>
]FIGCAPTION]

> 由緒
>天智天皇は近江志賀に大津の宮を遷都された時、都の三里以内に守護神として祭祀せられ、天智称制七年(668)鎮座され、藤原鎌足公の創建と伝えられる。
> 精大明神は猿田彦命で、第三十五代皇極天皇の御代、京都西洞院滋野井に勧請ありし精大明神を御神託により、大津本宮狐谷に奉遷になり「衢」びきの神、蹴鞠の守護神として白鳳元年(642)奉遷された。 [SNIP[]] その後天正酉年(1573)現社地に鎮座なる平野大明神の相殿に遷座し、現在に至る。
>[SNIP[]]
>以上、社頭掲示。

>>『平成祭礼データ』
>>由緒
>>[SNIP[]] 第三十八代天智天皇が近江志賀の大津の宮に遷都された時、都の三里以内に守護神として祭祀され、天智称制七年戊辰(668年)に鎮座、藤原鎌足公が創建せられ、京都西洞院家の菅領の社であった。 精大明神は猿田彦命であって御神体は衣冠の座像にて国の重要文化財に指定され、第三十五代皇極天皇(642年)の御代京都西洞院滋野井に勧精ありし精大明神を御神託により、大津松本本宮狐谷に奉遷になり、 [SNIP[]] 天正元 酉年(1573年)現在地に鎮座なる平野大明神の相殿(あいどの)に遷座し現在に至る。 
>>[SNIP[]]
>参考 『平成祭礼データ』
]FIG]

[996] 
先述の写真の案内板と文面は大筋同じなのですが、
細部が少しずつ違います。
引用が正確だとすると、
少しずつ改訂されたバージョンが多数あるということでしょうか。

[997] 平成データだけ、天智7年に「戊辰」と[[干支年]]が付記されています。
これは
[CITE[日本書紀]] と一致しています。

[998] 1つ目の由緒にあった白鳳元年は平成データにはなく、かわりに[[皇極天皇]]に
[TIME[642年][year:642]]と書かれていますが、
[[西暦年]]の挿入の仕方が文章として不自然で、
編集の痕跡を匂わせます。

[999] 遷宮年が他の[TIME[天正2(1574)年甲戌][year:1574]]でなく[TIME[天正元(1573)年癸酉][year:1573]]となっていることも注目されます。
これは建設のどの段階を採るかによる違いらしいです [SRC[>>1001]]。


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[993] [CITE[[[平野神社]]|歴史事典|大津市歴史博物館]], [TIME[2016-02-11 17:36:27 +09:00]] <http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/db/jiten/data/121.html>
]FIGCAPTION]

>創建は大津宮の頃と伝える。7世紀の中頃、皇極(こうぎょく)天皇の代に京都西洞院滋野井にまつられた蹴鞠(けまり)の神、精大明神を松本の狐谷に移し、後の天正2年(1574)現在地に再度移した。
]FIG]

[994] この解説は怪しい部分を省略して簡略化したのか、[[皇極天皇]]時代としか書いていません。

-*-*-

[1002] 
この神社の由緒については、
当地で生まれ育ったという歴史学者の[[八塚春児]]
[WEAK[(後に[[京都教育大学]]の[[教授]])]]
が、
[TIME[平成7(1995)年][year:1995]]に詳細に調査した結果を報告しました
[SRC[>>1001]]。

[1005] 
それによると、
[[明治時代]]と推測される文書に
「人王四十代天武天皇白鳳元年正月下旬」
とあり、
これと別の天智7年説が結びつき現在の奇妙な説明になったようです。
白鳳元年説が何に由来するのかは、残念ながら判明していません。
[SRC[>>1001]]

[1006] 
[[皇極天皇]]の時代については、
[TIME[皇極天皇3(644)年[LINES[甲][辰]]][year:644]]とする伝承が見つかっているようですが、
その説明と現在の説明に一致しない部分があります [SRC[>>1001]]。
[TIME[642年][year:642]]に比定したのは明治期以後でしょうが、その根拠は不明なままです。



[1003] なお、本論文は「天智天皇称制七年」について、
引用文は正しく「六六八」としているのに、
それを直接参照する本文で1年誤って「六六七」
としています。
本論文の本質に関わる重要な部分であるにも関わらずこのようなミスが混入するところに、
年号の扱いの難しさを感じずにはいられません。

;; [1004] 
[[天正]]年間の紀年のある (真偽不詳) 文書に、
[[大化の改新]]が
「大化元[SUB[乙]][SUP[卯]]年」
とありました [SRC[>>1001 PDF p.15]]。
[TIME[西暦645年[LINES[乙][巳]]][year:645]]の誤記たることは明らかですが、
この付近では[TIME[推古天皇3(595)年[LINES[乙][卯]]][year:595]]、
[TIME[斉明天皇元(655)年[LINES[乙][卯]]][year:655]]が該当します。



[REFS[
- 
[1001] 
[CITE[大津松本平野神社の由緒についての基礎的考察]],
[[八塚春児]],
[TIME[平成7(1995)年12月][1995-12]]
<http://hdl.handle.net/20.500.12176/5009>
]REFS]

*** 当麻寺の伝承

[2364] 
[[当麻寺]]
([[當麻寺]])
は、
[[日本国]][[奈良県]][[葛城市]]の[[寺院]]です。
現在地での建立は[[役行者]] (>>2319) に関係があるとされますが、
その時期には諸説あります。

-*-*-

[2367] 
[CITE[建久御巡礼記]] (>>2361)
は、
「白鳳九年[LINES[辛][巳]]二月十五日」
としていました (>>2363)。

[2374] 
現在の[[当麻寺]]はこの説を採用し、
[TIME[西暦681年][year:681]]としているようです。
しかしこれ年を天武天皇10年とする説と、
天武天皇9年とする説が混在しているようです。
[SRC[>>2371]]

[2373] 
文化財調査の発表はこれを
「“白鳳九年辛巳”(辛巳は天武天皇10年=681)」
と説明しました [SRC[>>2370]]。

[2372] 
[CITE[Wikipedia]]
はこれを引用して、
「天武天皇9年(680年)」
と説明しました
[SRC[>>2366]]。

[2400]
辛巳年は、
[TIME[[CITE[日本書紀]]天武天皇10(681)年[LINES[辛][巳]]][year:681]]で、
これを白鳳9年とするのは癸酉年を元年とする[[天武白鳳]]です。
[[干支年]]を信用するなら、この解釈が正しいことになります。

[2401] 
もう一方の説は壬申年を元年とする[[天武白鳳]]で、
白鳳9年とは[TIME[[CITE[日本書紀]]天武天皇9(680)年[LINES[庚][辰]]][year:680]]となります。


-*-*-

[2389] 
[CITE[[[当麻寺流記]]]]
は、
「天武天皇御宇朱鳥六年[LINES[辛][卯]]」
の[[宣旨]]を経て、
「乙未年」 
と説明しました (>>2378)。 

[2398] 
朱鳥6年は[TIME[持統天皇5(691)年[LINES[辛][卯]]][year:691]]に当たります。
「天武天皇御宇」は朱鳥元年に引きずられたものでしょうか。

[2399] 
乙未年は[TIME[持統天皇9(695)年[LINES[乙][未]]][year695]]に当たります。
ここで[[干支年]]は唐突感があります。
朱鳥の[[延長年号]]が前年の朱鳥9年くらいまでとすることが多く、
乙未年が大化元年、大和元年などとされることがあり、
この辺りを時代の境目とする認識が中世にはあったようです。
それに関係するものでしょうか。

-*-*-

[2426] 
[CITE[上宮太子拾遺記]] (>>2433)
の
[CSECTION[當麻寺建立事]] ([[縦書き]])
は、
「彼寺縁起」 ([[縦書き]])
から引用して、
「天武天皇御宇朱[ASIS[馬][灬は一]]六年」
の[[宣旨]]によると説明しました (>>2432)。

[2369] 
[CITE[Wikipedia]]
は
[CITE[上宮太子拾遺記]]
[WEAK[([TIME[嘉禎(1237)年][year:1237]]成立)]]
所引
[CITE[当麻寺縁起]]
を引用して
「朱鳥6年(692年か)」
と説明しました
[SRC[>>2366]]。

[2402] 
文化財調査の発表は
「『当麻寺縁起』(1237)」
から引いて
「“朱鳥六年辛卯”(辛卯は持統天皇5年=691)」
と説明しました [SRC[>>2370]]。
出典は、
[[西暦年]]より、
[CITE[上宮太子拾遺記]]
所引縁起のことでしょう。
[[干支年]]が付されていますが、異本にはあるのでしょうか?

[2403] 
[[干支年]]や
[CITE[日本書紀]]
の[[朱鳥]]によれば[TIME[西暦691年][year:691]]とするのが正しいことになります
(>>2398)。
[CITE[Wikipedia]]
の西暦年は、
1年ずれた[TIME[持統天皇元(687)年[LINES[丁][亥]]][year:687]]を朱鳥元年とする数え方です。

-*-*-

[2417] 
[[仁和寺]]本
[CITE[大和国当麻寺縁起]]
[WEAK[([TIME[建長5(1253)年4月25日][kyuureki:1253-04-25]]書写以前に成立、[TIME[仁治3(1242)年][year:1242]]成立か)]]
は、
「去朱雀元年[LINES[壬][申]]五月日」 ([[縦書き]])
の[[壬申の乱]]を経た
「天武天皇御宇白鳳二秊[LINES[癸][酉]]」 ([[縦書き]])
の[[宣旨]]を経て、
「白鳳十四年[LINES[辛][巳]]二月十
五日」 ([[縦書き]])
に造営開始して
「同白鳳十六年[LINES[乙][酉]]」 ([[縦書き]])
と説明しました。
[SRC[>>2416]]


- [2418] 朱雀元年壬申は、
[TIME[天武天皇元(672)年[LINES[壬][申]]][year:672]]に当たります。
中世によく用いられた朱雀と一致します。
- [2419] 白鳳2年癸酉は、
[TIME[天武天皇2(673)年[LINES[癸][酉]]][year:673]]に当たります。
[[天武白鳳]]の壬申元年説と一致します。
- [2420] 白鳳14年は、
壬申元年説なら[TIME[天武天皇14(685)年[LINES[乙][酉]]][year:685]]のはずですが、
辛巳年なので[TIME[天武天皇10(681)年[LINES[辛][巳]]][year:681]]で、
4年のずれがあります。
- [2421] 白鳳16年は、
壬申元年説なら[TIME[持統天皇元(687)年[LINES[丁][亥]]][year:687]]のはずですが、
乙酉年なので[TIME[天武天皇14(685)年[LINES[乙][酉]]][year:685]]で、
2年のずれがあります。
-- [2422] なお己酉年は、[TIME[大化5(649)年][year:649]]か[TIME[西暦709年][year:709]]です。



[2368] 
[CITE[Wikipedia]]
は、
[TIME[建長5(1253)年][year:1253]]成立だという
[CITE[大和国當麻寺縁起]]
を引用して、
「天武天皇14年(685年)」
造営開始して
「同16年(687年)」
と説明しました
[SRC[>>2366]]。
建長5年とあることから、
仁和寺本と同じものを指しているのでしょうか。


[2404] 
この[[天武天皇]]即位紀年は、
[CITE[日本書紀]]
と同じ壬申年を元年とする数え方です。
天武天皇16年は[TIME[持統天皇元(687)年[LINES[丁][亥]]][year:687]]で、
[[天武天皇]]の[[崩御]]の翌年に当たる[[延長年号]]です。


[2423] 
「辛巳年」が元の伝承だとすると、
白鳳9年説 (>>2400) と一致します。

[2424] 
[CITE[大和国當麻寺縁起]]
説は天武天皇2年から12年もの時間が経ってようやく白鳳14年に起工したというストーリーですが、
「白鳳14年」「白鳳16年」が元の伝承で、
[[天武白鳳]]でなく[[天智天皇]]時代の[[白鳳]]だとすると、
天武天皇3年、天武天皇5年だったことになり、
時間経過が不自然ではなくなります。



-*-*-

[2365] 
[CITE[古今著聞集]]
は、
「天武天皇の御宇白鳳十四年」
としていました (>>2360)。

[2405] 
[[干支年]]がないので特定できませんが、
壬申年元年だとすれば朱鳥元年の前年、
癸酉年元年だとすれば朱鳥元年になってしまいます。
すると壬申年元年方式とする方が自然でしょうか。

-*-*-

[2376] 
その他、
西南院は
「白鳳12年(683)」
創建と説明されます [SRC[>>2375]]。
壬申年を元年とする[[天武白鳳]]の数え方です。


[REFS[
- [2416] [CITE[AN00181387_1959_19_27.pdf]], [TIME[2015-08-03 11:41:46 +09:00]] <https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/3532/1/AN00181387_1959_19_27.pdf#page=3>


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2371] [CITE[当麻寺]], [TIME[2020-04-22 11:44:06 +09:00]] <http://www.eonet.ne.jp/~katsuragi/>
]FIGCAPTION]

>この年号について、当麻寺の護持寺院が発行するパンフレットやwebサイトなどで確認すると、中之坊は白鳳9年=天武天皇10年=681年としていたが、それ以外の各院の資料は、白鳳9年=天武天皇9年=681年としているものがほとんどであった。河中一学氏『當麻寺私注記』によると、『扶桑略記』によるところとして、天武天皇2年=白鳳元年と説明されている。当麻寺が公式に創建年を681としてるのは『建久御巡礼記』に白鳳九辛巳年と記されているからであり、辛巳と記されていることから681年であることがわかる。そして681年は天武天皇10年であり、當麻寺各院の資料の多くは残念ながら不正確ということになろう。
]FIG]

- [2375] [CITE[大和[[当麻寺]]東塔・西塔]], [TIME[2020-07-15 17:59:50 +09:00]] <http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/hoso_taimatera.htm>
- [2366] [CITE@ja[[[當麻寺]] - Wikipedia]], [TIME[2020-07-22 21:13:41 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%B6%E9%BA%BB%E5%AF%BA#%E5%89%B5%E5%BB%BA%E7%B8%81%E8%B5%B7>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2370] 
[CITE[国宝[[当麻寺]]西塔納置舎利容器について 【報道発表資料】]],
[[當麻寺]],
[[奈良県教育委員会]],
[[奈良国立博物館]],
[TIME[平成30年11月14日][2018-11-14]],
[TIME[2018-11-14 12:41:15 +09:00]] <http://www.pref.nara.jp/secure/204966/taima.pdf>
]FIGCAPTION]

>現地に移建した年代については、『建久御巡礼記』(1191)では“白鳳九年辛巳”(辛巳は天武天皇10年=681)、『当麻寺縁起』(1237)では“朱鳥六年辛卯”(辛卯は持統天皇5年=691)とし、一定しない。
]FIG]

]REFS]

** 初期元号実装法



[872] 
[[元号]]を使った[[年号]]を解釈する[[ソフトウェア][元号一覧]]は、
[CITE[日本書紀]]
式の正当な表記たる初期年号α群のほかに、
歴史的に使われてきた異称たる初期年号β群や、
[[異年号]]たる初期年号γ群にも対応するべきです
(が、β群やγ群の実装状況は芳しくありません)。

[873] 
加えて、歴史的に使われてきた種々の異説にも対応するべきですが、
同じ[[元号名]]で多数の解釈があり得るケースを実装できない構造のソフトウェアもあります
(自動で抽出・処理するものなど)。
その場合は最も正統たる初期年号α群を優先するべきです。
[[利用者]]に複数の選択肢を提示できる場合など構造上可能な場合には、
異説による解釈も示すべきです。

[EG[
[874] 
例えば古い文献に現れる[[日付]]の解釈の補助に使うソフトウェアは、
[[白鳳]]何年という入力が与えられたとき、
各異説に当てはめた解釈を示して[[利用者]]の判断を仰ぐべきです。
]EG]

;;
[875] [[干支年]]が併記されていれば、
どの異説が採用されたものか判定できるかもしれません。


[413] 
[[和暦]]の実装の中には、
[[大化]]以前の[[日付]]を適切に扱えないものや、
[[西暦]]の[[年号]]を最初の[[元号]]たる[[大化]]と誤認すること (またはその逆)
で問題を起こすものがあります。
問題を起こさないまでも、
「大化-3年」のような一般的でない[[負]]数の[[大化]]年が使われることもあります。
[SEE[ [[西暦和暦誤認バグ]] ]]


[REFS[
- [92] [CITE@ja[朱鳥 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-11 11:49:32 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B1%E9%B3%A5>
- [269] [CITE[null]] ([TIME[2014-08-09 23:32:00 +09:00]]) <http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000160.html>
- [140] [CITE@ja[持統天皇 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-23 09:00:05 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8C%81%E7%B5%B1%E5%A4%A9%E7%9A%87>
- [142] [CITE@ja[文武天皇 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-23 09:00:05 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87>
- [207] [CITE@ja[686年 - Wikipedia]] ([TIME[2016-01-06 08:09:59 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/686%E5%B9%B4>
- [347] [CITE[[[日本の暦日データベース]]]]
]REFS]


* 古代年号

[226] 日本の古い時代の[[元号]]とされる、
[DFN[古代年号]] ([DFN[偽年号]]、[DFN[逸年号]]、[DFN[僭年号]]、
[[九州年号]])
と呼ばれる[[異年号]] ([[私年号]]) 群が知られています。

[227] 
[[継体天皇]]の時代から[[大宝]]の頃までに連続的に数十個の[[元号]]があるほか、
それ以前の時代にもいくつかあります。
[[公年号]]の[[大化]]、[[白雉]]、[[朱鳥]]、
その異称の[[白鳳]]、[[朱雀]]、
[[私年号]]の[[法興]]、[[宝元]]が含まれることがありますが、
その順序や時代は違っていることもあります。

[334] 
中世から現在までの色々な書物に一覧が登場し、
寺社の縁起などに使用例も多々見られるようですが、
その名称や相当年代には様々なバリエーションがあり、
一覧の出入りも激しいようです。

[332] 当時実際に使われたものではなく後世
(中世以後) に作られたり、誤認から生じたりしたものとされています。


[2946] 
[DFN[佛年號]] [SEE[ [[明要]] ]]

[439] 
[CITE@ja-JP[荒川村誌 資料編 2]], [[荒川村]], [TIME[1979.11][1979]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-14T12:23:27.804Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9641866/1/29?keyword=%E6%98%8E%E8%A6%81%E5%85%AD%E5%B9%B4> (要登録)

[DFN[日本擬年號]] ([[明要]])

[441] [CITE@ja-JP[武蔵野 13(2)]], [[武蔵野文化協会]], [TIME[1929-02]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-14T12:24:52.403Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7932477/1/18?keyword=%E6%98%8E%E8%A6%81%E5%85%AD%E5%B9%B4> (要登録)

[DFN[擬號]] ([[明要]]。[[白鳳]]には言及なし。)


[3] 
[DFN[古代逸年号]]は一見中立的な呼称ですが、実用例を見るとほぼすべて[[九州王朝説]]の支持者によるものです。
古代に実在した記録が失われてしまったというニュアンスなのでしょう。

[81] 
そうでない事例としては
[CITE[修訂 絹と立方体]] p.[L[209]] (#page=210)
に[[神代文字]]との関連でこの用語が使われています。


** 古代年号の一覧

[478] 
[[古代年号]]とされるものの[[名称][元号名]]や時代は、
史料によりさまざまです。
表記の揺れが激しく文字数すら異なるものや、
名称の一部が不明とされるものまであります。
一覧中で抜けや順序の入れ替わりも多いです。
[[室町時代]]、[[江戸時代]]と時代を下るにつれて新しい[[元号]]が追加されてゆく傾向が指摘されています。

[FIG(list short)[ [224] 主要な[[古代年号]]
- [[継体]]
- [[善化]]/[[善記]]
- [[正和]]
- [[発倒]]/[[教到]]
- [[僧聴]]
- [[同要]]/[[明要]]
- [[貴楽]]
- [[結清]]/[[法清]]
- [[兄弟]]
- [[蔵和]]
- [[師安]]
- [[和僧]]
- [[金光]]
- [[賢接]]/[[賢稱]]
- [[鏡當]]
- [[勝照]]
- [[端政]]
- [[従貴]]/[[告貴]]
- [[煩転]]/[[願転]]
- [[光元]]
- [[定居]]
- [[倭京]]
- [[仁王]]
- [[聖徳]]
- [[僧要]]
- [[命長]]
- [[常色]]
- [[大長]]
]FIG]



[445] 
[[金宝]],
[[襲国年]],
[[百済年号]],
[[田代之宝光寺古年代記]]





[REFS[
- [6000] [CITE[[[日本書紀]]]], [CITE[[[続日本紀]]]]
- [337] [CITE@ja[[[続和漢名数]] : 3巻. '''['''2''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]] ([TIME[2019-07-05 18:59:59 +09:00]]) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2580210/28>
- [247] [CITE@ja[[[襲国偽僭考]]]]
- [243] [CITE[[[増補逸号年表]]]]
- [335] 
[336] [CITE[[[逸年号考]]]]
- [338] [CITE@ja[海東諸国紀 - 国立国会図書館デジタルコレクション]] ([[申叔舟 '''['''撰''']''']]著, [TIME[昭和8][year:1933]]) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1193135/27>
- [6100] [CITE[我国に於ける所謂古代年号に関する二三の問題]],
[[久保常晴]],
[CITE[立正大学文学部論叢]] (11), 30-64, [TIME[1959-06-20]]
<http://repository.ris.ac.jp/dspace/bitstream/11266/2716/1/KJ00000189301.pdf>
-- [235] [CSECTION[第一表 古代年号とその出典々籍表]]
--- [6121] [CITE[二中歴]] (>>1671)
--- [6122] [CITE[皇代記]]
--- [6123] [CITE[海東諸国記]]
--- [6124] [CITE[如是院年代記]] (>>1673)
--- [6125] [CITE[麗気記私抄]]
--- [6126] [CITE[春秋暦略]]
--- [6127] [CITE[日本偽年号]]
--- [6128] [CITE[塩尻]]
--- [6129] [CITE[衝口発]]
--- [6130] [CITE[和漢年契]]
--- [6131] [CITE[古代年号]]
--- [6132] [CITE[万葉緯]]
--- [6133] [CITE[襲国偽僭考]]
--- [6134] [CITE[清白士集]]
--- [6135] [CITE[紀元通略]]
--- [6136] [CITE[茅窓漫録]]
--- [6137] [CITE[逸年号考]]
--- [6138] [CITE[靖方溯源]]
-- [6101] [CSECTION[第三表 古代年号表]]
- [6150] [CITE[[[日本私年号の研究]]]]
-- [237] [CSECTION[第一〇表 古代年号とその出典典籍表]] p.125
--- [6171] [CITE[和漢年代記]]
--- [6172] [CITE[皇代記]]
--- [6173] [CITE[二中歴]] (>>1671)
--- [6174] [CITE[麗気記私抄]]
--- [6175] [CITE[海東諸国記]]
--- [6176] [CITE[如是院年代記]] (>>1673)
--- [6177] [CITE[春秋暦略]]
--- [6178] [CITE[塩尻]]
--- [6179] [CITE[万葉緯]]
--- [6180] [CITE[衝口発]]
--- [6181] [CITE[和漢年契]]
--- [6182] [CITE[古代年号]]
--- [6183] [CITE[襲国偽僭考]]
--- [6184] [CITE[清白士集]]
--- [6185] [CITE[紀元通略]]
--- [6186] [CITE[茅窓漫録]]
--- [6187] [CITE[逸年号考]]
--- [6188] [CITE[靖方溯源]]
-- [6151] [CSECTION[第四七表 古代年号表]] p.528
- [461] [CITE[[[年号の歴史]]]]
-- [470] [DFN[[CITE[まぼろしの〝 古代年号〟]]]]
--- [CSECTION[〝 古代年号〟一覧表]], p.18
-- [502] [CITE[大宝以前の公年号――諸説の再検討――]]
- [246] [CITE[[[日本年号史大事典]]]]
-- [6250] [CSECTION[表16 いわゆる〝 古代年号〟一覧]], 普及版 p.339
--- [6251] [CITE[二中歴]] (>>1671)
--- [6252] [CITE[海東諸国紀]]
--- [6253] [CITE[如是院年代記]] (>>1673)
--- [6254] [CITE[襲国偽僣考]]
-- 出典: [CITE[まぼろしの〝 古代年号〟]],
[[所功]],
[TIME[1983][year:1983]] (>>470)
-- [303] 普及版 p.340 (筆者「K」 ([[久野旦雄]]))
- [240] [CITE[古代逸年号の謎: 古写本『九州年号』の原像を求めて]],
[[丸山晋司]],
[TIME[西暦一九九二年二月二十九日][1992-02-29]]
-- [6427] [CSECTION[表A 『二中歴』古代年号部分原拠本の年号立て(案)]] p.31
-- [6428] [CSECTION[表D 『海東諸国記』の直接の原拠本]] p.37
-- [6429] [CSECTION[表c 『歴史読本』一九七三年一二月臨時増刊「万有こよみ百科」による「私年号・異年号一覧」]] p.126
-- [CSECTION[III表 貝原益軒の見た『麗気記私抄』写本(想定)と「日本偽年号」対比表]] p.144
--- [6430] 私抄
-- [2763] [CSECTION[『麗気記私抄』三写本対照表]] p.189
--- [6431] 筑波大
--- [6432] 松平
--- [6433] 国學院
-- [CSECTION[『春秋暦略』各種の年号立て対照表]] p.205
--- [6434] ②春秋暦
--- [6435] ③漫録
--- [6436] ④冨山房
--- [6437] ⑤本文
-- [CSECTION[『和漢合符』、『万葉緯』所引古代年号対照表]] p.208
--- [6438] 合符
--- [6439] 万葉緯
-- [CSECTION[古代年号対比表 (和漢春秋暦・勝山記)]] p.236
--- [6440] 春秋暦
--- [6441] 勝山記
-- [6421] [CSECTION[A表 古代年号の原形]] p.251
-- [6422] [CSECTION[B表 『二中歴』原拠本古代年号]] p.253
-- [6423] [CSECTION[C表 『二中歴』の古代年号]] p.254
-- [6424] [CSECTION[D表 『海東諸国記』の古代年号]] p.255
-- [6425] [CSECTION[E表 『麗気記私抄』の古代年号]] p.256
-- [6426] [CSECTION[F表 『続和漢名数』「日本偽年号」の古代年号]] p.257
- [244] [CITE[「大化」は日本最初の年号ではない!!]] (1997.7.8 [TIME[2012-04-08 21:55:33 +09:00]]) <http://teikoku-denmo.jp/history/honbun/nengou.html>
- [232] [CITE[私年号一覧表]] ([TIME[2001-01-17 03:06:39 +09:00]] 版)
<http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi12.html>
-- 消滅確認 [TIME[2019-05-26T09:35:09.000Z]]
-- [6301] [CITE[私年号一覧表]] ([TIME[2019-05-26 18:35:44 +09:00]]) <https://web.archive.org/web/20031210085657/http://homepage1.nifty.com/kitabatake/rekishi12.html>
-- [252] [CITE[私年号一覧表]] ([TIME[2001-01-17 03:06:39 +09:00]]) <http://kitabatake.world.coocan.jp/rekishi12.html>
- [231] [CITE[大宝以前の逸年号-逸年号論序説-]],
[[KAWANISHI Yoshihiro]],
Created: [TIME[September 9, 2001][2001-09-09]],
[TIME[01.10.13][2001-10-13]]
<http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/NENGO.htm>
-- [233] [CITE[大宝以前の逸年号-逸年号論序説-]] ([[河西良浩]]著, [TIME[2006-11-26 20:03:02 +09:00]]) <http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/NENGO01.htm>
--- [6401] [CITE[二中歴]] (>>1671)
--- [6402] [CITE[麗気記私抄]]
--- [6403] [CITE[海東諸国記]]
--- [6404] [CITE[如是院年代記]] (>>1673)
--- [6405] [CITE[和漢年契]]
--- [6406] [CITE[襲国偽僭考]]
--- [6407] [CITE[茅窓漫録]]
-- [CITE[大宝以前の逸年号-逸年号論序説-]] ([[河西良浩]]著, [TIME[2006-11-26 20:03:03 +09:00]]) <http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/NENGO02.htm>
-- [CITE[大宝以前の逸年号-逸年号史料集成-]] ([[河西良浩]]著, [TIME[2006-11-26 20:02:45 +09:00]]) <http://www2.odn.ne.jp/~cbe66980/Main/Appendix.htm>
- [225] [CITE@ja[私年号 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-13 18:25:40 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
-- [234] [CITE@ja[「私年号」の版間の差分 - Wikipedia]] ([TIME[2019-05-12 11:26:57 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7&type=revision&diff=10331308&oldid=10189093>
---
[CSECTION[2007年1月30日 (火) 07:58時点における版]],
[[Yonoemon]]
--- ここで[[古代年号]]が追加された。
-- [6001] 以後令和元年時点まで、
[[古代年号]]については細かな追加や変更がいくつかあるが大枠は変わらず。
--- 2016年にいくつか異説追加
- [228] [CITE@ja[九州王朝説 - Wikipedia]] ([TIME[2016-01-13 03:42:23 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC#.E4.B9.9D.E5.B7.9E.E5.B9.B4.E5.8F.B7.E8.A1.A8>
-- [6002] 
[CITE@ja[「九州王朝説」の版間の差分 - Wikipedia]] ([TIME[2019-05-19 09:59:58 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E8%AA%AC&type=revision&diff=3327069&oldid=3322265>
--- [CSECTION[2005年10月26日 (水) 14:06時点における版]],
220.63.144.72
-- 2006年に情報が補われたが大意に変化なし。
-- [6003] 2017年に読み方追加などいくつか変更。
-- その後令和元年まで細かな修正などのみ。
- [245] [CITE@ja[鶴峯戊申 - Wikipedia]] ([TIME[2019-05-26 18:00:26 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B6%B4%E5%B3%AF%E6%88%8A%E7%94%B3>
-- [CSECTION[2006年4月9日 (日) 01:54時点における版]],
[[Izayohi]]
--- 最初の版
--- 九州年号表追加
--- [6413] 元号名
--- [6414] 如是院
--- 襲国年
- [220] [CITE[明かり窓]]
([TIME[2019-05-22 16:31:46 +09:00]])
<https://web.archive.org/web/20190331093636/http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-mado1.htm>
-- [TIME[2013-12]]
-- [6411] [CITE[日本大文典]]
- [219] [CITE@ja[日本大文典の日本年号、宣教師 ロドリゲス、九州年号 – 古代史俯瞰 by tokyoblog]],
[[tokyoblog]],
[TIME[2015-07-03]]
([TIME[2019-05-22 16:23:47 +09:00]])
<https://tokyox.sakura.ne.jp/wordpress/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E6%96%87%E5%85%B8%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B9%B4%E5%8F%B7%E3%80%81%E5%AE%A3%E6%95%99%E5%B8%AB-%E3%83%AD%E3%83%89%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%82%B9%E3%80%81%E4%B9%9D%E5%B7%9E/>
- [242] [CITE[「古代逸年号」目録について 瀬戸市林研心]] ([TIME[2016-12-10 11:20:47 +09:00]]) <http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/itunengo.html>
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- [230] [CITE[古田史学の会・東海 : Home]]
([TIME[2019-05-09 12:20:21 +09:00]])
<http://www.asahi-net.or.jp/~qi9n-hys/nengo.htm>
- [223] [CITE[多元的古代研究会 2019,05,20  古田武彦先生の方法論による古代史研究 邪馬台国・邪馬壹国・卑弥呼・和田家文書・東日流外三郡誌研究 ]]
([TIME[2019-05-20 08:43:00 +09:00]])
<http://www.tagenteki-kodai.jp/>
-- [CSECTION[熊本県に伝わる「石原家文書」と山梨県に伝わる「王代記」で納音・九州年号が良く一致していることが、多元127号(2015年5月号)で藤田隆一氏より報告されました。]]
- [239] [CITE[「九州年号」を記す一覧表を発見 -- 和水町前原の石原家文書 前垣芳郎]] ([TIME[2018-01-21 08:36:21 +09:00]]) <http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html>
- [260] [CITE@ja[九州年号と九州王朝 – 古代史俯瞰 by tokyoblog]] ([TIME[2019-06-17 18:30:10 +09:00]]) <https://tokyox.sakura.ne.jp/wordpress/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B4%E5%8F%B7%E3%81%A8%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E7%8E%8B%E6%9C%9D/>
- [261] [CITE@ja[第1325話 2017/01/21 | [[古賀達也]]の洛中洛外日記]] 
[CSECTION[九州年号「継躰」建元の追号説]]
([TIME[2019-06-17 18:33:47 +09:00]]) <http://koganikki.furutasigaku.jp/koganikki/the-name-of-an-era-for-kyushu-dynasty/%e7%ac%ac%ef%bc%91%ef%bc%93%ef%bc%92%ef%bc%95%e8%a9%b1%e3%80%8020170121/>
- [6442] [CITE@ja[九州年号-皇紀対照表 - EthnoGraphic @ ウィキ - アットウィキ]] ([TIME[2019-07-05 20:00:57 +09:00]]) <https://www39.atwiki.jp/ethnographic/pages/49.html>
- [6999] その他
-- [CITE@en[[[data-locale]]/era-kodai.txt at master · manakai/data-locale]] ([TIME[2019-09-23 16:04:33 +09:00]]) <https://github.com/manakai/data-locale/blob/master/src/era-kodai.txt>
]REFS]

@@
[BOX[

[1896] 
[[伴信友]]の見解:
[SRC[>>1731]]

[1907] 
[[法興]]から[[大宝]]の前までの重視されなかった時代の断続的な[[元号]] (>>1906)
が伝わっていたところに前後に仏僧が偽年号を作って年代記を創り始め、
書写の誤りなどもあって諸説が生まれた。
[CITE[海東諸國記]]
にあるのもその類。
そのような年代記に従って歴史を書いたり社寺縁起を書いたり、
仏僧の虚言も出来た。

[1908] 
偽年号が僧徒が作ったというのは、
僧聽、
知僧、
僧要、
願轉、
金光など仏説によって作ったであろうものがあり、
無学の僧のものらしく用字は拙くひどいものが多い。

[1909] 
偽年號が作られたのは近年ではない。
[CITE[源平盛衰記]]、
[CITE[平家物語]]
などに崇峻天皇の時代の端政、
敏達天皇の時代の金光がある。
[CITE[平家物語]]
善光寺炎上の段、
此如來欽明天皇の御宇に及びて、
彼國より此國へ徒らせ給ふに、
常に金色の光を放たせ給ふ、
是に依て年號をば金光と號すと云へり

[1910] 
[CITE[神明鏡]]
に、推古天皇の時代に定居とある。

[1911] 
[CITE[水鏡]]
のある本に、
継体天皇の時代の末尾、
此御時はじめて年號を書給ふ、
としてその25年辛亥から安閑天皇時代を敎到、
宣化天皇の時代に僧聽、
欽明天皇から敏達天皇の時代を喜樂、金光、
敏達天皇から用明天皇、崇峻天皇の時代を勝烈、
舒明天皇の時代を聖徳、命長、
などを書いている。
この[[元号]]の記述は元の本にはなく、
後人が書き換えたもののようだ。

[1912] 
[CITE[濫觴抄]]
継体天皇の時代に善記を挙げている。
本朝年號の條に、
繼體十六年壬寅善記元年、
自注に、
或記云、元年壬寅㠯前一千百七十八年無年號云々、
とある。
今按從神武元年辛酉至繼體十五年辛丑、
一千百七十一年歟、但甲寅年神武卽位之説在之、
若據此説者一千百七十八年歟、
自此以後至大寶雖相續、普通記不載之、
大畧以大寶以後載歟、
とある。
(この文書は上下巻あり、
下巻は建長4年まで。上巻と比べると少し欠けているとみられる。)

[NOTE[

- [2813] [CITE@jp[[[濫觴抄]]1]], [[独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN]], [TIME[2023-11-29T06:41:31.000Z]] <https://www.digital.archives.go.jp/img.pdf/752031>
-- [2814] [CITE[752031.pdf]], [TIME[2023-11-29T06:43:11.000Z]] <https://www.digital.archives.go.jp/acv/contents/pub/PDFdyn/2019/lossy/02140038005850/752031.pdf#page=14>

]NOTE]


[1913] 
正和年中に劔工のことを書いた書にも、
善記、敎到がある。
敎到は狛朝葛の續敎訓抄、
豊原統秋の體源抄に、
丙辰記を引いて、
ともに安閑天皇の時代の元号とある。
このような類はほかにもあったが忘れた。

[1914] 
[CITE[壒嚢鈔]]
に、
吾朝には初は年號無りき、人皇第廿六
代武烈天皇の御世に、始て善記と云ふ號ありしか
ども、不次して有無不定なり、其後第卅七第孝徳
の御世に、大化、白雉、天武の御時、朱雀、白鳳なむ
ど云號ありしかども今年紀に不連、第四十二代文
武天皇の御宇大寶よりこそ絶ぬ事とはなりにけ
れ、但又善記より次第する本あり、白鳳を天智の御
世に繋け、大化を天武の末に係たる本あり、此本
頗違ふ事多き故に、是を不用と云、只文武天皇五
年に係る、大寶より次第するを善とするなり、
とある。
取るに足らない説だが古い議論として珍しいので引用した。


[1915] 
藤貞幹が証文20数種類、朝鮮籍も含めて収集した
[CITE[逸號年表]]
がある。
それに見つけたものを書き加えて証文80数種類書き加えている。

[1916] 
いろいろあるが古いものは孝霊天皇の時代に善記、烈滴とあるのがはじめのようだ。
]BOX]


@@
[BOX[




- [2891] [CITE[茅窓漫錄]]
-- [2892] 
[CITE@ja-JP[日本経済叢書 巻19]], [[滝本誠一]], [TIME[大正4-6][1917]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-05-31T11:58:19.244Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/950402/1/45>
-- [1176] 
[CITE@ja-JP[日本経済叢書 巻19]], [[滝本誠一]], [TIME[大正4][1915]], [TIME[2026-01-20T01:30:11.000Z]], [TIME[2026-02-20T07:48:38.406Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/950402/1/72>



[2919] [CITE[[[百瀬川]]]]


- [653] [CITE@ja[箕面寺秘密縁起]], [TIME[2016-01-06 10:42:27 +09:00]] <http://mino-sigaku.la.coocan.jp/page126.html>
- [654] [CITE[t201.pdf]], [TIME[2018-12-06 00:35:11 +09:00]] <http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/kaihou/t201.pdf#page=14>
- [1760] [CITE@ja[大阪府史蹟名勝天然紀念物調査報告. 第2輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-05-26 20:35:10 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1119851/65>
- [1761] [CITE[Mirador Viewer]], [TIME[2020-02-26 19:30:39 +09:00]] <https://clioapi.hi.u-tokyo.ac.jp/mirador/?manifest=https://clioapi.hi.u-tokyo.ac.jp/iiif/81/tdata/kujo/kujo00001-00105/51/manifest>
1613,
1614,
1615,
1618,
1619,
1620,
1622

[2915] [[年紀異同攷]]


[2000] 善光寺縁起
[CITE[続群書類従28上釈家部 - Google ブックス]], [TIME[2020-06-09 18:49:33 +09:00]] <https://books.google.co.jp/books?id=EjQKz9Fs2p0C&pg=RA1-PA30#v=onepage&q&f=false>

- [2647] [CITE@ja[烈擲元年より2279年目にして神治枯元年より2679年目の令和元年を前に漢字を見詰めてみる。 | mixiユーザー(id:46062987)の日記]], [TIME[2021-04-16T03:56:35.000Z]] <https://open.mixi.jp/user/46062987/diary/1971025215>
- [2648] [CITE@ja[大化の前後(一応大寶迄) *元号の事 | mixiユーザー(id:46062987)の日記]], [TIME[2021-04-16T03:56:48.000Z]] <https://open.mixi.jp/user/46062987/diary/1971331885>

[2649] 
「神治枯」
など従来の[[古代年号]]研究で捕捉されてこなかった出典不明の謎[[元号]]が見える。
[[古代年号]]の増殖はなおも進行中なのだろうか。

[[神治枯]]



[REFS[
- [2653] [CITE@ja[法律案審議録(元号法案 その1) 昭和54年第87回[[国会]] 総理本府関係 1]] ([[独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN]]著, [TIME[2018-06-12 23:56:17 +09:00]]) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2011021814402318057>
PDF 167ページ
]REFS]


- [2855] 
[CITE[戦国時代論]], [[勝俣鎮夫]]
-- [2856] [CSECTION[[[戦国時代東国の地域年号について]]]]

[SEE[ [[中世私年号]] ]]


[2824] [CITE@ja-JP[大日本仏教全書 150]], [[仏書刊行会]], [TIME[明治45-大正11][1922]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-30T14:06:46.078Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/952854/1/204>

[2899] 
[CITE@ja-JP[故実叢書 第18]], [[吉川弘文館'''['''ほか''']''']], [TIME[昭和3-6][1931]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-06-21T12:46:16.024Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1120459/1/133> (要登録)


[2665] [CITE[Taro12-t226.jtd - t226.pdf]], [TIME[2019-12-24T09:00:04.000Z]], [TIME[2021-06-03T05:37:18.590Z]] <http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/kaihou/t226.pdf#page=5>




[532] 
[CITE[「二中歴」]], [TIME[2005-06-17T12:05:12.000Z]], [TIME[2022-04-20T11:28:53.512Z]] <https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/cahierdusud/history/nichureki.html>

[1249] [CITE[「二中歴」]], [TIME[2023-06-15T11:38:48.000Z]], [TIME[2018-11-06T06:09:54.766Z]] <https://web.archive.org/web/20181106043840/http://www.geocities.jp/cahierdusud/history/nichureki.html>

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師安 私年号


[533] [CITE[夏正から周正へ]], [TIME[2005-06-17T12:02:26.000Z]], [TIME[2022-04-20T11:34:30.746Z]] <https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/cahierdusud/history/kasei.html>

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善記

[2680] [CITE@ja-JP[群馬県史料集 第8巻 (縁起篇 1)]], [[群馬県文化事業振興会]], [TIME[1973]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-24T06:10:37.510Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2989053/1/109> (要登録)

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瑞政


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[2712] [CITE@ja-JP[国史の研究 総説]], [[黒板勝美]], [TIME[昭和6][1931]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-29T03:49:56.980Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1075909/1/86>

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[2852] [CITE@ja[huru4.pdf]], [TIME[2014-12-11T22:17:50.000Z]], [TIME[2024-01-16T07:49:02.012Z]] <https://www.town.soeda.fukuoka.jp/docs/2014121000014/files/huru4.pdf#page=5>






[2754] [CITE@ja-JP[国史の研究]], [[瓜生寅]], [TIME[明40.1][1907]], [TIME[2023-08-15T09:35:38.000Z]], [TIME[2023-08-23T12:10:05.668Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/769391/1/114>

[2756] [CITE@ja-JP[広文庫 第15冊]], [[物集高見]], [TIME[大正5-7][1918]], [TIME[2023-08-15T09:35:38.000Z]], [TIME[2023-08-23T12:17:59.915Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/969109/1/211>

[2755] [CITE@ja-JP[熊本年鑑 第19巻 昭和41年]], [[熊本年鑑社]], [TIME[1966]], [TIME[2023-08-15T09:35:38.000Z]], [TIME[2023-08-23T12:17:22.925Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3012335/1/63> (要登録)

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[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2796] [CITE[現代と古代史学 - [[吉田晶]] - Google ブックス]], 
[TIME[1984][year:1984]],
[TIME[2020-09-02T03:50:19.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=W_klAAAAMAAJ&q=%22%E8%87%AA%E7%94%B1%E8%87%AA%E6%B2%BB%E2%80%9D>
]FIGCAPTION]

>218 ページ
>もとより干支の併用字根強くおこなわれたが、紀年法の中心は元号となった。-
日本古代のいまひとつの紀年法は私年号である。五九一年を元年とする法興、六
五九年を元年とする宝元、六八九年を元年とする永昌の三例が知られている。
>219 ページ
以下、大宝以後明治にいたる元号制を簡単に述べ、明治の一世一元制の特殊性を
考えることにしたい。まず改元の種類 ... 室町から戦国期にかけて飢饉や戦乱の
とき、関東を中心に短期間で地域限られているが私年号があらわれている。福徳
・ ...
こうした伝統は明治にふひきつがれ、一八八四年の秩父事件のとき、郡役所を
占領したのちに「自由自治元年」と称したと伝えられている。以上のような元号
の歴史をうけて明治の一世一元制が成立する。その成立過程については一八六八
年( ...
>225 ページ
>( 8 )令集解同条の古記に「用年号」の本文があげられており、大宝令の規定は
養老令本文と略同文とみてよい。( 9 )私年号については久保常晴『私年号の研究
』(吉川弘文館)がある。( 0 )『歴史評論』三三四号参照。( 1 )その内容は一九七八



]FIG]


[2805] 
[CITE@ja-JP[塩尻 : 随筆 上]], [[天野信景, 室松岩雄 校]], [TIME[1907]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-29T05:08:45.418Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/991406/1/204>

-[2808] [CITE@ja-JP[山梨県の文化財 第8集]], [[山梨県教育委員会]], [TIME[1967]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-29T05:43:27.371Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2515039/1/15> (要登録)
- [2809] [CITE@ja-JP[戦国史料叢書 第2期 第13]], [[人物往来社]], [TIME[1967]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-29T05:45:08.839Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2973949/1/176> (要登録)
- [2811] [CITE@ja-JP[新編信濃史料叢書 第8巻]], [[信濃史料刊行会]], [TIME[1974]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-29T05:52:39.499Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537187/1/37> (要登録)

[2837] [CITE@ja[西暦紀元 - Uyopedia]], [TIME[2019-05-06T05:12:01.000Z]], [TIME[2023-12-02T03:17:13.656Z]] <http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E8%A5%BF%E6%9A%A6>

>余談というか珍説

>
2)『二中歴』その他の中世文書(鎌倉期)などに「大化」以前の年号と称するものが大量に伝えられ、「逸年号」と呼ばれるが、その中で二番目に古いものとして「經明」という年号がある。經明元年は垂仁天皇十三年という。ところが垂仁天皇十三年には『日本書紀』をみても改元(または建元)するに値するようなこれといった記事がない。そこで「これは誤記で、正しくは三十年ではないか」と考えてみると垂仁天皇三十年はまさしく西暦紀元元年に相当するのであり、「經明」という年号は西暦紀元と同じ紀年であることがわかる。 

[2862] 
[CITE@ja-JP[伊予史談 (160)]], [[伊予史談会]], [TIME[1961-03]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-10T03:25:49.416Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/8100708/1/15> (要登録)



[2804] [CITE@ja-JP[熊谷家伝記 第4編]], [[熊谷直遐, 市村咸人 校訂, 伊那史料叢書刊行会]], [TIME[1934]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-29T04:49:04.677Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1876546/1/48> (要登録)

[2806] 
[CITE@ja-JP[類聚近世風俗志 : 原名守貞漫稿 上 原名守貞漫稿]], [[喜田川季荘]], [TIME[明治41][1908]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-29T05:15:52.033Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1053410/1/29> (要登録)

[2807] 
[CITE@ja-JP[国語国文の研究 (21)]], [[京都国語国文研究会]], [TIME[1928-06]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-29T05:17:36.400Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1476909/1/65> (要登録)

[2810] [CITE@ja-JP[本居宣長全集 第13巻]], [[大野晋, 大久保正 編集校訂]], [TIME[1971]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-29T05:47:52.587Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2971189/1/302> (要登録)

[2812] [CITE@ja-JP[修訂駿河国新風土記 下巻]], [[新庄道雄, 修訂: 足立鍬太郎, 補訂: 飯塚伝太郎]], [TIME[1975]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-29T05:57:15.802Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537280/1/75> (要登録)

[2825] [CITE@ja-JP[大八州雑誌 (135)]], [[大八州館]], [TIME[1897-09]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-30T14:19:49.152Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1535000/1/2> (要登録)

[2821] 
[CITE@ja-JP[大八州雑誌 (180)]], [[大八州館]], [TIME[1901-06]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-30T10:06:31.633Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1535045/1/18> (要登録)

- [2823] [CITE@ja-JP[大日本地誌大系 第6冊]], [[大日本地誌大系刊行会, 日本歴史地理学会 校訂]], [TIME[大正4][1915]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-30T14:03:41.406Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1879446/1/47>
/26


[2826] 
[CITE@ja-JP[朝鮮群書大系 : '''['''正''']'''24輯続24輯続々24輯別集7輯 續々第三輯]], [[朝鮮古書刊行会]], [TIME[大正3][1914]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-01T07:32:33.019Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1915331/1/17>

[2827] 
[CITE@ja-JP[朝鮮群書大系 : '''['''正''']'''24輯続24輯続々24輯別集7輯 續々第五輯]], [[朝鮮古書刊行会]], [TIME[大正3][1914]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-01T07:37:38.523Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1915351/1/214>

[2828] [CITE[i13_01034_0001.pdf]], [TIME[2009-05-28T07:01:12.000Z]], [TIME[2023-12-01T08:12:52.055Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i13/i13_01034/i13_01034_0001/i13_01034_0001.pdf#page=7>

[2831] [CITE@ja-JP[続日本史 巻之2]], [[一色重熈]], [TIME[明14-15][1882]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-01T12:23:55.797Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/772423/1/39>

[2832] [CITE@ja-JP[聖世紹胤録 乾]], [[東条琴台 (信耕)]], [TIME[明3][1870]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-01T12:33:41.912Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/769873/1/24>

[2833] [CITE@ja-JP[古今人物年表 天]], [[早川蒼淵]], [TIME[1900]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-01T12:36:49.879Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/992084/1/10>



[2834] [CITE@ja-JP[阿波國郷土史年表 : 研究用稿本]], [[飯田義資, 羊我山人 撰]], [TIME[1936]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-01T12:45:33.378Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1085728/1/147> (要登録)

[2842] [CITE@ja-JP[神祇全書 第4輯]], [[佐伯有義 等編]], [TIME[明治41][1908]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-11T09:15:46.827Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/991328/1/132> (要登録)
右上

[2844] [CITE[p1bfm1g71k14dt1u7u1fhvj92aa8.pdf]], [TIME[2017-05-09T07:25:14.000Z]], [TIME[2023-12-21T06:49:51.727Z]] <https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/2017/201705/p1bfm1g71k14dt1u7u1fhvj92aa8.pdf#page=1>

智僧

[2847] [CITE@ja-JP[明石市史資料 第5集 (古代・中世篇)]], [[明石市教育委員会]], [TIME[1985.3][1985]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-21T09:56:58.005Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9576242/1/21> (要登録)

鏡常

[2848] [CITE@ja-JP[廿日市町史 通史編 下]], [[廿日市町]], [TIME[1988]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-21T14:44:42.066Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9576496/1/577> (要登録)

たんしゃう (端政)


[2849] [CITE@ja-JP[群馬県史料集 第8巻 (縁起篇 1)]], [[群馬県文化事業振興会]], [TIME[1973]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-22T09:11:42.132Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2989053/1/109> (要登録)

[2845] [CITE@ja[null]], [TIME[2023-11-08T23:27:25.000Z]], [TIME[2023-12-21T06:53:41.156Z]] <http://www.torashichi.sakura.ne.jp/yaridamasono47.html>

[1917] 
[[古代年号]]

- [[天平]] 
- [[神記]] 
- [[大花]]

紛らわしいもの

- [[金刺]] ([[欽明天皇]]宮号)


[2829] >>1917 これ[[欽明天皇]]時代の[[古代年号]]の[[金光]]と関係ありそう...

[2830] 
「刺」と「光」が混同され得るとはただちに肯定できないものの、
[[崩し字]]で「刺す」の偏と「光」が似た字形になる可能性はありそうなふいんき。
実際に混同し得るレベルの崩しの実例がどこかで見つかれば確度は高まる。

[2851] 
[TIME[2024-01-03T05:30:40.300Z]]
<https://sucra.repo.nii.ac.jp/record/17143/files/KY-AA11946779-07-02.pdf>

[2864] 
[CITE@ja-JP[薩摩の刀と鐔]], [[福永酔剣]], [TIME[1965]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-10T03:44:19.965Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2507782/1/25> (要登録)
/29 左下


- [2901] 
[CITE@ja[Xユーザーの丸山晋司さん: 「以下、『神武歌謡は生きかえった』より、(批判相手の文面を正確に出すために)谷本氏論考を書写して行きます。(同書202頁より) https://t.co/zlzJq9IYJx」 / X]], [TIME[午後0:08 · 2024年7月3日][2024-07-03T03:08:07.000Z]], [TIME[2024-07-09T05:08:42.000Z]] <https://x.com/nemurikappa/status/1808336892381089956>
-- [2902] 
[CITE@ja[Xユーザーの丸山晋司さん: 「古代年号の一使用例についてー『大菩提山秘記』の史料批判序説(谷本茂) 『二中歴』以前の使用例 「大宝」以前の古代年号について、いわゆる「九州年号」説を検討する立場から多くの資料が収集され、活発な議論が展開されている(1)が、採集した資料の成立時期の推定が困難な場合が多く、古代の史料」 / X]], [TIME[午後9:50 · 2024年7月4日][2024-07-04T12:50:30.000Z]], [TIME[2024-07-09T05:08:42.000Z]] <https://x.com/nemurikappa/status/1808845843564486682>
--- [2910] 
[CITE@ja[Xユーザーの丸山晋司さん: 「五来重編『修験道史料集Ⅱ』(名著出版)中の『大菩提山等縁起』はほぼ11頁あり、その中の126頁(右から二枚目)からが『大菩提山秘記』となっている。(何処までが『秘記』なのか、俄には判断出来ない。) https://t.co/uT84wOqd3e」 / X]], [TIME[午後6:12 · 2024年7月12日][2024-07-12T09:12:15.000Z]], [TIME[2024-07-16T00:52:13.000Z]] <https://x.com/nemurikappa/status/1811690020258087387/photo/3>
- [2906] 
[CITE@ja[国書データベース]], [TIME[2024-07-09T06:36:52.000Z]] <https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100371627/5?ln=ja>
- [2903] [CITE@ja-JP[仁寿鏡 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-09T06:06:37.296Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2538116/1/79>
-- [2904] [CITE@ja[KJ-01_055.pdf]], [TIME[2021-11-02T01:21:47.000Z]], [TIME[2024-07-09T06:07:21.377Z]] <https://dil-opac.bosai.go.jp/publication/nied_tech_note/pdf/KJ-01_055.pdf#page=5>

[2942] 
[CITE@ja-JP[大八州雑誌 (167)]], [[大八州館]], [TIME[1900-05]], [TIME[2024-11-28T09:48:19.000Z]], [TIME[2024-12-15T03:54:23.277Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1535032/1/15> (要登録)


[2908] 
[CITE@ja-JP[大八州雑誌 (180)]], [[大八州館]], [TIME[1901-06]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-10T10:58:47.164Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1535045/1/18> (要登録)

[2917] 
[CITE@ja-JP[平田篤胤全集 4]], [[平田盛胤, 三木五百枝 校訂]], [TIME[1919.3][1919]], [TIME[2024-10-01T09:05:02.000Z]], [TIME[2024-10-31T09:22:27.829Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1907672/1/32> (要登録)


[2695] [CITE@ja-JP[日本史学新説]], [[広池千九郎]], [TIME[明25.11][1892]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:02:45.443Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/770755/1/6>

[2696] [CITE@ja-JP[口永良部島の伝説]], [[安山登]], [TIME[1967序][1967]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:06:19.677Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9545590/1/13> (要登録)

[2697] [CITE@ja-JP[熊本年鑑 第19巻 昭和41年]], [[熊本年鑑社]], [TIME[1966]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:10:42.629Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3012335/1/63> (要登録)

[2698] [CITE@ja-JP[広文庫 第15冊]], [[物集高見]], [TIME[大正5-7][1918]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:15:00.591Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/969109/1/205>

[2699] [CITE@ja-JP[国史の研究]], [[瓜生寅]], [TIME[明40.1][1907]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:17:10.028Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/769391/1/114>

[2700] [CITE@ja-JP[日韓古史断]], [[吉田東伍]], [TIME[1893]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:18:09.160Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/993752/1/249>

[2702] [CITE@ja-JP[伊那 43(9)(808)]], [[伊那史学会]], [TIME[1995-09]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:22:59.286Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4431645/1/11> (要登録)

[2703] [CITE@ja-JP[百家随筆 第三]], [[図書刊行会]], [TIME[大正7][1918]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:26:24.240Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1883766/1/30> (要登録)

[2705] [CITE@ja-JP[蕗原拾葉 第20輯 (善光寺史略)]], [[上伊那郡教育会]], [TIME[昭和15][1940]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:32:54.142Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1142914/1/8>

[2706] [CITE@ja-JP[現代コリア (365)]], [[現代コリア研究所]], [TIME[1996-10]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:35:01.493Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7958515/1/3> (要登録)

[2707] [CITE@ja-JP[中古の政治と法制]], [[滝川政次郎]], [TIME[1949]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:42:55.658Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2995860/1/28> (要登録)

-[2708] [CITE@ja-JP[月刊状況と主体 (230)]], [[谷沢書房]], [TIME[1995-02]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:45:34.176Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2208003/1/83> (要登録)
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[2709] [CITE[本地垂迹資料便覧]], [TIME[2021-10-29T12:11:24.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:50:05.614Z]] <http://www.lares.dti.ne.jp/~hisadome/honji/files/HIKOSAN.html>
-[2710] [CITE[huru4.pdf]], [TIME[2014-12-11T22:17:50.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:52:22.235Z]] <https://www.town.soeda.fukuoka.jp/docs/2014121000014/files/huru4.pdf#page=5>

[2711] [CITE@ja-JP[古代日韓鉄文化]], [[宍戸儀一]], [TIME[1944]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T06:55:14.649Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1908718/1/52> (要登録)



[2716] [CITE@ja-JP[大分の歴史 2 (古代)]], [[大分合同新聞社]], [TIME[1977.4][1977]], [TIME[2023-01-06T06:14:39.000Z]], [TIME[2023-01-07T13:34:17.913Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9770055/1/221> (要登録)

[2717] [CITE@ja-JP[筑紫史論 第4輯]], [[波多野晥三]], [TIME[1995.8][1995]], [TIME[2023-01-06T06:14:39.000Z]], [TIME[2023-01-07T13:50:33.849Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9639925/1/77> (要登録)

[84] 
[CITE[[[日本国志]]]]


[286] 
[CITE@ja-JP[神道大系 神社編 39]], [[神道大系編纂会]], [TIME[1989.12][1989]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-10T06:14:14.037Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12265774/1/67> (要登録)


[287] 
[CITE@ja-JP[天界 21(236)]], [[東亜天文学会]], [TIME[1941-01]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-10T06:16:08.838Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3219957/1/9> (要登録)



[361] >>360 に振り仮名。 >>362 に関係する論文



[409] 
[CITE@ja-JP[読史備要]], [[東京大学史料編纂所]], [TIME[1966]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-10T06:51:24.179Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3007343/1/79> (要登録)

[410] 
[CITE@ja-JP[伊都岐島名勝図会]], [[三好右京]], [TIME[明42.8][1909]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-10T07:07:54.139Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/766076/1/34?keyword=%E7%AB%AF%E6%AD%A3> (要登録)

[429] 
[CITE@ja-JP[石田・和田・竜・山中四先生頌寿記念史学論文集]], [[頌寿記念論文集刊行委員会]], [TIME[1962]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-10T08:11:12.754Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3006676/1/237> (要登録)


[438] 
[CITE@ja-JP[蕗原拾葉 下巻]], [[長野県上伊那郡教育会]], [TIME[1975]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-13T12:26:15.491Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536796/1/319> (要登録)

[457] [CITE@ja-JP[楠公外史]], [[松下三鷹]], [TIME[昭14][1939]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-14T13:54:05.960Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1217023/1/121> (要登録)

[458] >>457 大和と大長の間に文帝というのがある


[462] 
[CITE@ja-JP[日本歴史講義]], [[峯岸米造 述]], [TIME['''[''' ''']''']], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-14T14:21:05.454Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/900010/1/82>

[463] 
[CITE@ja-JP[伏敵編 附録]], [[山田安栄, 重野安繹 閲]], [TIME[明24.11][1891]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-14T14:22:27.507Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2390548/1/56>


[464] 
[CITE@ja-JP[九州歴史資料館研究論集 = Study of Kyushu Historical Museum (13)]], [[九州歴史資料館]], [TIME[1988-03]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-14T14:40:53.938Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7948568/1/28> (要登録)

国東長安寺所蔵[CITE[屋山関係年代記]]。


[465] 
[CITE@ja-JP[資料国文図録]], [[全国教育図書株式会社]], [TIME[1964]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-18T04:06:51.566Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1347220/1/286> (要登録)

[466] 
[CITE@ja-JP[善光寺如来縁起 : 元禄五年版]], [[小林一郎]], [TIME[1985.3][1985]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-23T07:36:28.748Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12238644/1/22?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)

[469] 
[CITE@ja-JP[法学紀要 = Journal of the Law Institute (6)]], [[日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所]], [TIME[1964-06]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-27T08:16:52.241Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/6> (要登録)


[471] 
[CITE@ja-JP[日本に残る古代朝鮮 近畿編]], [[段煕麟]], [TIME[1976]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-27T09:15:22.924Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12238748/1/86?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)


[[定居]]は大寺院や大豪族だけが使用した私年号

[552] 
[CITE@ja-JP[伊勢崎史話 10(9)]], [[伊勢崎市立図書館]], [TIME[1967-09]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-04T15:14:25.972Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2227547/1/7> (要登録)

[578] 
[CITE@ja-JP[群馬県史料集 第8巻 (縁起篇 1)]], [[群馬県文化事業振興会]], [TIME[1973]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-04T15:29:43.517Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2989053/1/109?keyword=%E5%96%84%E8%A8%98> (要登録)


[537] 
[CITE@ja-JP[続日本史 巻之2]], [[一色重熈]], [TIME[明14-15][1882]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-04T12:11:50.999Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/772423/1/39>


-[488] 
[CITE@ja-JP[大八州雑誌 (163)]], [[大八州館]], [TIME[1900-01]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-04T11:40:27.891Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1535028/1/35?keyword=%E5%B8%AB%E5%AE%89> (要登録)
-[472] 
[CITE@ja-JP[大八州雑誌 (165)]], [[大八州館]], [TIME[1900-03]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-04T11:37:59.931Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1535030/1/19> (要登録)
- [489] 
[CITE@ja-JP[大八州雑誌 (167)]], [[大八州館]], [TIME[1900-05]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-04T11:42:13.504Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1535032/1/15> (要登録)
- [536] 
[CITE@ja-JP[大八州雑誌 (174)]], [[大八州館]], [TIME[1900-12]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-04T11:47:23.608Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1535039/1/25> (要登録)
- [534] 
[CITE@ja-JP[大八州雑誌 (178)]], [[大八州館]], [TIME[1901-04]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-04T11:46:13.360Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1535043/1/24> (要登録)
- [508] 
[CITE@ja-JP[大八州雑誌 (180)]], [[大八州館]], [TIME[1901-06]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-04T11:45:53.803Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1535045/1/18> (要登録)

-[539] 
[CITE@ja-JP[大日本史 : 訳文 第1冊]], [[山路弥吉 訳]], [TIME[昭和15][1940]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-04T12:25:55.284Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1686506/1/69?keyword=%E5%96%84%E8%A8%98> (要登録)
- [540] 
[CITE@ja-JP[筑後国史 下巻]], [[矢野一貞, 宮崎来城 等校]], [TIME[昭和2][1927]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-04T12:26:57.490Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1175343/1/89?keyword=%E5%96%84%E8%A8%98>

[541] 
[CITE@ja-JP[益軒全集 巻1]], [[貝原益軒, 益軒会]], [TIME[明治43][1910]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-04T12:30:09.482Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/992410/1/455?keyword=%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)

-
[1026] 
[CITE@ja-JP[新編信濃史料叢書 第1巻]], [[信濃史料刊行会]], [TIME[1970]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-07T11:39:28.278Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537180/1/66?keyword=%E5%85%83%E5%B9%B4> (要登録)
-
[582] 
[CITE@ja-JP[善光寺名所図会]], [[石倉重継]], [TIME[明36.9][1903]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-07T11:35:48.703Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/819516/1/54?keyword=%E5%85%83%E5%B9%B4>
-
[1032] 
[CITE@ja-JP[蕗原拾葉 第20輯 (善光寺史略)]], [[上伊那郡教育会]], [TIME[昭和15][1940]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-07T14:16:51.635Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1142914/1/8?keyword=%E5%85%83%E5%B9%B4>

[1040] 
[CITE@ja-JP[古語拾遺精義]], [[溝口駒造]], [TIME[昭和10][1935]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-17T04:13:43.523Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1233224/1/208?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>

[1141] 
[CITE@ja[もう一つの歴史教科書問題 小村神社の始鎮は「勝照二年」その1]], [TIME[2025-05-20T12:21:33.000Z]] <https://rekisi.tosalog.com/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B4%E5%8F%B7%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%9F%EF%BC%81/%E5%B0%8F%E6%9D%91%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E3%81%AE%E5%A7%8B%E9%8E%AE%E3%81%AF%E3%80%8C%E5%8B%9D%E7%85%A7%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E3%80%8D%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%91#comment1>


[1146] 
[CITE@ja[もう一つの歴史教科書問題 『和州寺社記』の推古告貴三年、光充二年<丙寅>]], [TIME[2025-05-20T12:26:53.000Z]] <https://rekisi.tosalog.com/%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E5%B9%B4%E5%8F%B7%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%81%91%E3%81%9F%EF%BC%81/%E3%80%8E%E5%92%8C%E5%B7%9E%E5%AF%BA%E7%A4%BE%E8%A8%98%E3%80%8F%E3%81%AE%E6%8E%A8%E5%8F%A4%E5%91%8A%E8%B2%B4%E4%B8%89%E5%B9%B4%E3%80%81%E5%85%89%E5%85%85%E4%BA%8C%E5%B9%B4-%E4%B8%99%E5%AF%85->

[1148] 
[CITE@ja-JP[純正史学から見た炭焼小五郎と深田の石仏]], [[森平太郎]], [TIME[昭13][1938]], [TIME[2025-07-02T03:11:48.000Z]], [TIME[2025-07-22T13:42:44.833Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1220421/1/6?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7+> (要登録)


[1153] 
[CITE@ja-JP[初期真宗の研究]], [[宮崎円遵]], [TIME[1971]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-16T12:21:27.520Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12270281/1/235?keyword=%E5%92%8C%E5%85%89> (要登録)


[1164] 
[CITE@ja-JP[仏教大学講座 第4]], [[仏教年鑑社]], [TIME[昭8至10][1935]], [TIME[2025-10-29T01:48:45.000Z]], [TIME[2025-12-17T13:38:58.487Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1246751/1/10?keyword=%E7%A7%81%E7%A7%B0%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)


[1165] 
[CITE@ja-JP[日本中世史]], [[渡辺保, 遠藤元男]], [TIME[昭14][1939]], [TIME[2025-10-29T01:48:45.000Z]], [TIME[2025-12-17T13:44:19.436Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1687131/1/142?keyword=%E5%81%BD%E4%BD%9C> (要登録)

[1166] 
[CITE@ja-JP[出羽国風土略記 上篇]], [[進藤重記]], [TIME[昭和3][1928]], [TIME[2025-12-18T02:09:35.000Z]], [TIME[2025-12-18T08:29:51.464Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1259254/1/12?keyword=%E5%96%84%E8%A8%98> (要登録)



[1168] 
[CITE@ja-JP[鳥海考 続]], [[須藤儀門]], [TIME[1989.9][1989]], [TIME[2025-12-18T02:09:35.000Z]], [TIME[2025-12-28T01:10:09.377Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13199974/1/163?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)

[1170] 
>>1168 訴訟の証拠として古代年号で書かれた縁起を提出したが江戸幕府から荒唐無稽と却下されたとのこと

[1172] 
[CITE@ja-JP[古語拾遺精義]], [[溝口駒造]], [TIME[昭和10][1935]], [TIME[2026-01-20T01:30:11.000Z]], [TIME[2026-02-06T15:54:30.779Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1233224/1/207?keyword=%E5%B9%B4%E5%8F%B7>

-[1173] 
[CITE@ja-JP[古代史の海 (3)]], [[古代史の海編集委員会]], [TIME[1996-03]], [TIME[2026-01-20T01:30:11.000Z]], [TIME[2026-02-12T09:48:24.250Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4428401/1/28> (要登録)
--[1174] 
[CITE@ja-JP[古代史の海 (3)]], [[古代史の海編集委員会]], [TIME[1996-03]], [TIME[2026-01-20T01:30:11.000Z]], [TIME[2026-02-12T10:15:15.939Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4428401/1/60> (要登録)


[1175] 
[CITE@ja-JP[龍谷大学善本叢書 19]], [[龍谷大学仏教文化研究所]], [TIME[1999.3][1999]], [TIME[2026-01-20T01:30:11.000Z]], [TIME[2026-02-13T14:36:31.429Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13059446/1/247> (要登録)


[1177] 
[CITE@ja-JP[塩尻 : 随筆 上巻]], [[天野信景, 室松岩雄 校]], [TIME[明41.11][1908]], [TIME[2026-03-03T01:08:12.000Z]], [TIME[2026-03-05T15:40:22.149Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/898488/1/209>

[CITE[皇年代記]]


[1180] 
[CITE@ja-JP[口頭伝承の比較研究 1]], [[川田順造, 徳丸吉彦]], [TIME[1984.11][1984]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T08:14:29.040Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12442393/1/54?keyword=%E5%96%84%E8%A8%98> (要登録)





]BOX]

**聖徳太子系資料

[BOX[

- [1179] 
[CITE@ja-JP[六大新報 (1826)]], [[六大新報社]], [TIME[1939-06]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-03T15:48:18.397Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7942520/1/3?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)

]BOX]

** 常色

[440] 
[[常色]]は[[孝徳]]の崩れた[[字形]]から発生した疑いがあります。

[2900] 
[[常色]]が[[孝徳]]の転とわかった今あらためて[CITE[二中歴]]にだけある[[継体]]、趣深いよな。


** 大長

[795] 
[[伴信友]]は、
持統天皇大化3年[LINES[丁][酉]]に[[文武天皇]]が即位した時、
[[大長]]と[[改元]]したとしました。
次の根拠を示していました。
[SRC[>>1731]]

- [1871] 京人の[[藤貞幹]]の筆記に、
「延暦某年[WEAK[年次の字は壊破て詳ならず、]]の解文に、大長四年庚子云々と書る當時の古書を見たり、此明[SUP[ル]]年の辛丑に、大寶の號を建てられたれば、件の大長は文武の元年より、四年庚子に至るまでの年號なり」
とありました。
従って丁酉年が[[元年]]とするのが正しいです。
[SRC[>>1731, >>556]]
-- [1872] [[藤貞幹]]の
[CITE[逸號年表]]
にも[[大長]]が掲載されました。
[SRC[>>1731]]
- [1873] 
[CITE[海東諸國記]]
に、
「文武元年丁酉、明年戊戌改元大長、四年辛丑改元大寶」
とありました。
[SRC[>>1731, >>556]]
[[大長]]改元が1年遅れていますが、誤解か誤写でしょうか。
[SRC[>>1731]]
-- [1875] 
[CITE[逸號年表]]
が、
[CITE[海東諸國記]]
の[[大長]]を[[丁酉]]年に[[改元]]とするのは誤りです。
[SRC[>>1731]]
- [1876] 
古い年代記4本に、
持統天皇6年壬辰改元、文武天皇4年庚子まで、とし、
さらに持統天皇の年次により9年辛丑を大寶元年としていました。
[CITE[八宗傳來集]] (>>2089)
古写本も同じ年次干支に当てていました。
[[持統天皇]]時代とするのは誤りです。
[SRC[>>1731]]
- [1874] [CITE[続日本紀]]
に掲載されなかったのは、当時まだ[[元号]]を重視していなかったからです (>>1892)。



[796] 
[[斎藤励]]は、
新しい史料にしか見えないこと、
[[藤井貞幹]]が見たという解文の真偽も定かでないこと、
[CITE[海東諸国紀]]
も絶対に信用できるといえない上に天武2年戊戌改元としており一致しないこと、
[CITE[続日本紀]]に記載なく[[大宝]]を[[建元]]したとあることから、
[[私年号]]に過ぎないとしました。
[SRC[>>556]]


[2890] 
[CITE@ja-JP[甲府繁昌記]], [[遠藤甲斐吉]], [TIME[明13.5][1880]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-05-31T11:54:28.160Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/765024/1/7>


** 古代年号の成立

[500] 
[[栗田寛]] (>>324) は、
[[中世]]、
[[仏教]]関係者が海外との交流の中で、
[[日本]]の古い時代に[[元号]]がないことに問題を感じ、
[[古代年号]]を作ったと推測しました。
[SRC[>>324]]



[473] 
久保は、
[[古代年号]]を[[南北朝時代]]までにまとまったものと推測しました。
その根拠は、
[[古代年号]]を収録した文献として最古で書写年代が明らかなものとして[RUBYB[[[永徳]]年間][[TIME[1381][year:1381]]-[TIME[1384][year:1384]]]]の
[[建長寺]]本[CITE[和漢年代記]]があったためでした。
[[建長寺]]本[CITE[和漢年代記]]にない[[善記]] - 
[[貴楽]]は[[室町時代]]に追加されたものとしました。
[CITE[皇代記]]や
[CITE[二中歴]] (>>1671)
などは書写段階で[[古代年号]]が書き加えられた可能性を否定できないため、
保守的に推測したものとみられます。 [SRC[>>470]]
久保は[[古代年号]]の仏教色の濃さから、
仏教関係者により作られたものとしました
(>>497)。

[474] 
所は、
[[善記]]以後の[[古代年号]]が
「出揃った時期は、もう少し古く鎌倉末期ころとみて差しつかえない
(けれどもそれ以上に遡ることはむずかしい)」
としました。
所の主張の根拠は
[CITE[二中歴]] (>>1671)
でした。
[SRC[>>470]]


;; [477] 
現存写本で確実に遡れるのは久保説の通り[[南北朝時代]]ということになります。
所説はこの部分が書写時に挿入されたとは考えにくいとの状況証拠的な推測で、
鎌倉末期まで遡らせたものです。
おそらく妥当な推測でしょうが、慎重にみれば確定とまではいえません。
[[九州王朝]]説支持者の中には、
[CITE[二中歴]]にあるということは原典の編纂された[[平安時代]]まで遡れるのだ、
と主張する人もいるようです。
[CITE[掌中歴]]は一部のみ現存し、
[CITE[懐中歴]]は現存しない上、
現存しない写本を仮定すればどのようにでも推測できますが、
危険です。

[499] 
[[所功]]は、
[[古代年号]]を作ったのは
「おそらく鎌倉時代(末期)の僧侶か仏教に関係の深い人物と推測して大過ないと思われる」
としました。
[SRC[>>470]]


-*-*-



= [289] [CITE[宮寺縁事抄]]所収[CITE[住吉縁起]]所引[CITE[或本]] : 
[TIME[嘉禎3(1237)年][1237]]以前 :: [[明要]]
[SEE[ [[年代記類]] ]]
=
[1161] 
[CITE[龍門文庫本帝王記]]巻首[[古代年号]]一覧 :
後深草天皇時代に一旦成立した後の[TIME[文永7(1270)年][1270]]写本の原書写部分
= [294] 
[CITE[聖法輪蔵]] : [TIME[文保元(1317)年][1317]] ::
[[金光]], 
[[賢称]],
[[鏡常]],
[[勝照]],
[[端正]]・[[端政]],
[[吉貴]],
[[光宛]],
[[定居]],
[[倭京]]・[[和京]]
= [290] [CITE[宗像大菩薩御縁起]] : 
[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代]]の書写
:: [[明要]], [[僧聴]], [[法清]]
[SEE[ [[年代記類]] ]]
= [288] [CITE[二中歷]]現存最古写本の書写 : [[暦応]]頃
= [1162] 
[CITE[山田聖栄帝王年代記]] :
[TIME[後光厳天皇貞治6(1367)年][1367]]から程無くして一旦成立、
文明14年の書写




[REFS[

- [362] 
[CITE@ja-JP[初期真宗の研究]], [[宮崎円遵]], [TIME[1971]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-10T06:47:03.129Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12270281/1/236> (要登録)
- [292] 
[CITE@ja-JP[真宗史料集成 第4巻]], [[同朋舎出版]], [TIME[1982.11][1982]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-10T06:28:15.869Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12269212/1/44> (要登録)
-- [360] 本文 /275

]REFS]

** 古代年号の配置

[492] 
[[古代年号]]の[[改元]]年や継続年数がどのように定まったのかは、
はっきりしていません。史料による違いも多いです。

[493] 
[[大宝]]以前の初期年号について、
古い時代の[[古代年号]]史料は、
[CITE[日本書紀]]の[[初期年号]]を穴埋めする形ではなく、
[CITE[日本書紀]]と矛盾する形の異説 (>>196)
を示していました。
これは[[古代年号]]の成立過程を推測する上で重要なヒントと思われます。

[494] 
[[古代年号]]の[[改元]]時期は、
[CITE[日本書紀]]による[[天皇]]の代替わりの時期と整合しません。
古田は、これを天皇家とは別の権力の存在を示すものだと主張しました。
[[所功]]は、
[[代始改元]]の原則が[[中世]]には崩れていたことから、
「南北朝期ころにまとめあげられたことを裏書きしているのかもしれない」
と指摘しました。
[SRC[>>470]]

** 古代年号の名前と意味

[495] 
[[古代年号]]の[[元号名]]は、
他の[[日本の元号]]や、
他国の[[元号]]と比較しても、
かなり異色です。
3文字のものや、
[[元号]]らしさが感じられないものもあります。
総じて[[仏教]]色が強い文字遣いです。

[496] 
[CITE[二中歴]] (>>1671)
の[[古代年号]]には、
命名の由来とおぼしき仏教関係記事が添えられていました。
[SRC[>>470]]

[497] 
久保は、
[CITE[日本書紀]]や[CITE[聖徳太子伝暦]]に出典を求められるものが
「大部分を占めている」とし [SRC[>>470]]、
中世の[[聖徳太子]]信仰との関係を指摘しました。
ただ[[所功]]は「出典確認は、さらに検討の余地もあるであろう」
と指摘しました [SRC[>>470]]。
ほとんど史料がないところに推測を重ねたものゆえ、
強引な解釈と言わざるを得ないものもありました。


[498] 
古田は、[[九州王朝]]の出来事に関係しているとして元号名の由来を解しました。
しかし[[所功]]はこれを「あまりに恣意的な解釈が多く、
とうてい成立しがたい」と批判しました。
[SRC[>>470]]


[2750] [CITE@ja[hyena_no_papaさんはTwitterを使っています: 「@nemurikappa @hoshisora_c &gt;列擲 &gt;烈擲 &gt;列滴 という変化ですか?逸年号って文字の異同が多いんですよね。公年号でも同様に文字の異同が多いんですかね? &gt;余り真面目に考えなくても良い 文字の異同にこだわる人なんで、つい「真面目に考え」たくなります^^;」 / X]], [TIME[午後10:13 · 2023年8月2日][2023-08-02T13:13:54.000Z]], [TIME[2023-08-02T15:09:26.000Z]] <https://twitter.com/hyena_no/status/1686727022620663808>

* 古代の元号の研究史

[504] 
[CITE[日本書紀]]は[[大化]]を最初の[[元号]]としていました。


[506] 
[CITE[扶桑略記]] (>>666)
[[孝徳天皇]]条は、
「初立[SUB[二]]年号[SUB[二]]為[SUB[二]]大化元年[SUB[一]]。」
とし、[[大化]]を最初の[[元号]]としていました。
[SRC[>>502]]

[484] 
[[古代年号]]を掲載する文献として、現在一応最古とされる
[CITE[二中歴]] (>>1671)
は、
[[大宝]]以後の[[公年号]]のリストの前に区別して、
[[古代年号]]のリストを掲載していました。

[487] 
[[中世]]の[[日本]]では皇年代記の類がよく作られ、
[[古代年号]]が書かれていました。
約40種を調査した報告 
[SRC[>>470 ([CITE[神皇正統記の基礎的研究]], [[平田俊春]], [TIME[1979][year:1979]])]]
でも、
[[古代年号]]の出典を明記したものは見当たらなかったようです。

;; [2801] >>487 同書はたしかに多数の[[年代記]]類を調査していますが、
[[古代年号]]の出典に触れた箇所は未発見です。[[白鳳]]等の考察はあります。

[486] 
[TIME[1471年][year:1471]]、
[[李氏朝鮮]]で
[CITE[海東諸国記]]
が成立しました。
[CITE[海東諸国記]]
は[[日本]]の各[[天皇]]の一覧表に[[元号]]の一覧表を示しており、
[[大宝]]以前に (特記なく)
[[古代年号]]を示していました。
出典は不明ながらも、当時の[[日本]]で作られていた、
[[南北朝時代]]頃成立の年代記、皇代記の類と推測されています。
[SRC[>>470]]

@@
[BOX[

[CITE[新安手簡]]

]BOX]

-*-*-

[1038] 
[[江戸時代]]、
[[伴信友]]は多くの資料を集め、
初期元号の体系を明らかにしようと試みました [SRC[>>1731]]。
[[坂本太郎]]はこの基礎的な作業の功績を高く評価しました [SRC[>>859 p.206]]。
実際現在までに知られる主要な史料のほとんどが、
整理されて[[伴信友]]の著書に掲載されていました。
初期元号に関する情報が含まれないものも含め膨大な数の文書を読んで調査したはずです。


[2085] 
[[伴信友]]は、
[[弘仁]]の[[改元]]詔書 (>>1698)
の記述から、
[[大化]]から[[元号]]が途切れず続いたと考えました (>>1893)。
古代から[[江戸時代]]までにわたって蓄積された多くの[[金石文]]や文献の記述から、
[[大化]]、
[[白雉]]・[[白鳳]]、
[[朱雀]]、
[[白雉]]・[[白鳳]]、
[[朱鳥]]、
[[大化]]、
[[大長]]、
[[大宝]]と途切れなく続いた初期元号の列を復元しました (>>751)。
これから外れた異説も示して否定しました。
[[古代年号]]は根拠のない造作と否定しました。
[SRC[>>1731]]

[2514] 
[[伴信友]]は、初期元号は[[大宝]]以後のように重視されたものではない、
一過性の美称のようなものに過ぎないと考えました。
同じ[[元号]]の再利用など[[大宝]]以後の常識に背く事象も、
そのような性質ゆえのことと理解しました。
(>>1837)

[2516] 
[[伴信友]]は、
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614) 
説を提唱していました。
現存最古の文献である
[CITE[日本書紀]]
と自説が矛盾するのは、
改刪の結果だとしました。
[SRC[>>1731]]


[2530] 
[[大長]]は[[明治時代]]に[[斎藤励]]に否定され (>>741)、
[[白鳳]]と[[朱雀]]と改刪説は[[昭和時代]]に[[坂本太郎]]に否定され (>>517)、
[[持統大化]]は[[昭和時代]]に[[所功]]に否定された結果、
[[伴信友]]の復元した初期元号の列はまったく成立しなくなってしまいました。
しかしそれまでの歴史書等の主張を整理し議論の土台を提供したことや、
[[大宝]]以降と異なる初期元号の性質を提示したことの意義は小さくありません。

[2531] 
[[伴信友]]の判断を誤らせてしまったのは、
現存最古の文献たる
[CITE[日本書紀]]
は信用できないとの理解を議論の出発点にしたことでしょう。
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614) 
説を前提に、
他の遥かに新しい文献の説でも採用し、
矛盾はすべて改刪のせいと説明しました。
友達の友達から聞いた的な怪しげな噂まで信用してしまいました (>>795)。

[CITE[日本書紀]]
に不審な点が多いのは事実ですし、
[CITE[日本書紀]]
の原本やそれに近い時代の写本が現存しない以上、
改刪がないとは断言できず、
その可能性を追求したことには意義がありました。
かといって、
[[奈良時代]]頃ならまだしも、
[[中世]]や[[近世]]の文献に、
[CITE[日本書紀]]
を修正する力を求めたのは、
過大評価だったと言わざるを得ません。

といっても[[伴信友]]は[[古代年号]]をほとんど相手にしなかったように、
どんなものでも
[CITE[日本書紀]]
より重視したわけではありません。そこには[[伴信友]]なりの判断基準があったようです。



-*-*-

[315] 
[CITE[続和漢名数]] ([[貝原益軒]])
は、
「此の偽年号、浮屠の妄作する所なり」
としました。 [SRC[>>303]]

[324] 
[CITE[逸年号考]] ([[栗田寛]])
は、
「多くは中古以来僧徒の人の国へゆききおほくありし頃より、
皇国の古へに紀号なきを厭ぬ事に思ひて造出たるならん。
其の文字づかいもいと拙く、
仏家の語を用ゐたるにて知るべし。」
としました。
[SRC[>>303]]


[325] 
[TIME[文政3(1820)年][year:1820]]、
[[鶴峯戊申]]は
[CITE[[RUBY[襲国][そのくに]]偽僭考][襲国偽僭考]]
で、
「九州年号と題したる古写本」
などを出典に[[古代年号]]を紹介し、
「年号連綿」たることを確認し
「今按ずるに、
文武天皇の大宝以前の年号は、
九州年号とまがへるものあらんもしるべからず」
としました。 
[SRC[>>303]]
これが
「[[九州年号]]」
という語の初出です
[SRC[>>470]]。
「九州年号と題したる古写本」
の正体はまったく不明です。
[SEE[ [[九州年号]] ]]

[741] [[明治]]末年、
[[斎藤励]]は、
[CITE[海東諸国紀]],
[CITE[如是院年代記]] (>>1673),
[CITE[二中歴]] (>>1671)
などが[[継体天皇]]時代からあったとする[[古代年号]]について、
仏僧の妄作か、
そうでなくても西部で私用されただけで、
開始年・終了年もばらばらで名前も乱れており、
信用できないものと通説化しており、
[[公年号]]の最初は[[大化]]だと述べました。
[SRC[>>556]]

[1039] 
[[佐藤誠実]]は、
上代史料以外は信用できぬものとし、
[[白鳳]]と[[朱雀]]は[[白雉]]と[[朱鳥]]の異称たることを明らかにしました。
後に[[坂本太郎]]はこの論考を正しいと認め、
自身も同様の結論を示しました。
ただ佐藤の論文は単純すぎて従来の異説を否定しなかったために、
定説となり得なかったとしました。
[SRC[>>859 p.207]]

[517] 
[[坂本太郎]]は、
上代史料に加えて後代史料も詳細に検討し、
[[白鳳]]と[[朱雀]]は[[白雉]]と[[朱鳥]]の異称たることを明らかにしました。
[SRC[>>859, >>502 (>>859, >>883)]]
これにより[[白鳳]]と[[朱鳥]]の問題は決着したと考えられています。


[328] 
[[古田武彦]]は、
「天皇家以前に年号をもっていた公権力―それは九州王朝以外にない」
としました。
(1963)
[SRC[>>303]]
[SEE[ [[九州年号]], [[九州王朝説]] ]]

[485] 
古田は当初[[日本]]の
[CITE[麗気記私鈔]]、
[CITE[如是院年代記]] (>>1673)、
[CITE[襲国偽僣考]]
を挙げつつ、
[[李朝]]の
[CITE[海東諸国記]]
が「正確であると思われる」
と主張しました。
[CITE[二中歴]] (>>1671)
にはなぜか言及していませんでした。
後に[[所功]]はこの主張に根拠がないと批判しました。
[SRC[>>470]]


[255] 
[[所功]]は、
「[[九州王朝]]」が「九州年号」を使っていたという異説
([CITE[失われた九州王朝―天皇家以前の古代史―]],
[[古田武彦]],
[TIME[昭和48年][year:1973]]) は
「学問的にまったく成り立たない」
[SRC[>>461 p.5, >>246 普及版 p.15]]
と完全に切り捨てていました。

[331] 
[[所功]]は古田説について
「恣意的な解釈が多く、とうてい成立しがたい」とし、
継体天皇の時代から[[元号]]が建てられているのは
[CITE[扶桑略記]] (>>666)
[[欽明天皇]]十三年条に、
[[継体天皇]]朝に仏教私伝があったと記されていることに関係するのではないかと指摘しました。
(1978)
[SRC[>>303]]

[313] 
同書には[[所功]]の[CITE[まぼろしの〝九州年号〟]] (1983)
に掲載された「いわゆる〝古代年号〟一覧」が再録されました。
[SRC[>>6250]] 

;; [314] 
同書は[[鶴峯戊申]]や[[古田武彦]]の説を紹介し、
「これを「九州年号」として評価する論者も少なくない。」
としました。
[SRC[>>303]]
「少なくない」は主観的な表現ですし、
この2人がすべてとは言っていないのですが、
少ないのではないかという印象はあります。
「学問的にまったく成り立たない」
少数説で敢えて触れるまでもない説をわりと優遇して紹介しているようにみえます。


[356] 同著者のより新しい著書
[CITE[元号―年号から読み解く日本史―]]
は、
[[異年号]]や[[偽年号]]とされるものは[[私年号]]とは違って
「私的であれ該当時期にあったとは認め難い、
かなり後代に作られたとみられるもの」
であって、
「一部の論者が〝[[古代年号]]〟とか〝[[九州年号]]〟と呼んで、
実在したに違いないと熱烈に主張する年号らしきもの」
と紹介しました。
[SRC[>>352 p.53]]

[357] 
[CITE[元号―年号から読み解く日本史―]]
の[[古代年号]]に関する記述は、
[CITE[まぼろしの〝九州年号〟]]
を数行に要約したものです。すなわち、
久保は[CITE[和漢年代記]]の頃までにまとまったとしたものの、
「それより少し前の鎌倉末期 (十四世紀前半) 成立とみられる」
[CITE[二中歴]] (>>1671)
にあるとし、
また[CITE[海東諸国紀]]にあるなどかなり広まっていたものの、
平安時代以前に遡る確実な史料がなく、
仏教色が顕著な[[元号]]が少なくないことから、
[[鎌倉時代]]に入ってから仏教関係者が造作したと「考えるほかないであろう」
としました。
[SRC[>>352 pp.53-54]]

[REFS[
- [1731] [CITE[[[年号の論]]]]
]REFS]



[2714] 
[[前川清一]]は[CITE[熊本県の私年号小考]]で、
[[古代年号]]について[CITE[日本私年号の研究]]の説を基本としつつ、
注釈で[[鶴峯戊申]]や[[古田武彦]]の[[九州年号]]説も紹介しました。
ただしそれに対する評価は特に書いていません。

[27] 
[[平成時代]]になると[[九州年号]]説から派生したと思われる独創的な亜種説が、
[[陰謀論]]などとも絡み合いつつ展開されています。
[SEE[ [[古代年号別王朝説]] ]]



* 律令時代と元号

[106] [[大宝]]以後、[[元号]]は継続して建てられるようになり、現在に続いています。
[SEE[ [[律令時代の元号]] ]]



* 暦法輸入

[346] 
[[倭の五王]]の頃、[[支那王朝]]から[[暦]]がもたらされたと考えられています。

[354] 
[[宋]]に[[朝貢]]した[[倭の五王]]の外交文書では、
[[宋の元号][支那の元号]]が使われていたと考えられます。
[SRC[>>352 p.47]] 

[876] 
5世紀、6世紀頃から[[干支年]]の記された遺物がみられるようになり (>>2)、
この頃から[[日本]]でも一部で[[干支年]]が使われうようになったことがうかがえます。


-*-*-

[348] 
[CITE[日本書紀]]によると、
[TIME[欽明天皇14年][year:553]]、
[[百済]]から[[暦博士]]が来朝しました。

[349] 
[CITE[日本書紀]]によると、
[TIME[推古天皇10年][year:602]]に[[百済]]から[[観勒]]が来朝し、
[[天文学]]や[[暦学]]を教授しました。


[1225] 
[CITE[政事要略]]
は、
推古天皇12年から[[暦日]]が使われるようになったとしていました。
(>>376)


[350] 
[CITE[日本書紀]]の[[雄略天皇]]時代以後は[[元嘉暦]]によって記述されていると考えられています。


-*-*-

[366] 
[CITE[日本書紀]][TIME[天智天皇10年][year:671]]11月条に、
「月生二日」
とありました。
[[朔]]から数えて2日、すなわち[[暦日]]の2日と同義と解されています。
[SRC[>>365]]

[367] [[朔]]自体は目視できず、
原始的には[RUBY[[[哉生明]]][さいせいめい]] (はじめて明を生じる = [[三日月]])
が使われたと考えられるところ、
敢えて「[[月生]]」と表現するのはそうした原始暦法の名残ではないかとの説もありました。
しかし「[[月生]]」日付法は[[唐]]でも行われていたことがわかり、
この説は否定されました。
[SRC[>>365]]

[REFS[
- [365] [CITE[暦と時の事典]] p.73 [CSECTION[[RUBY[月生幾日][げっせいいくにち]]]]
]REFS]


@@
[CITE[王朝時代の陰陽道]]


* 飛鳥改暦

>>213

[1031] [CITE@ja[万葉雑記 色眼鏡 その十七 続日本紀と日食観測 - 竹取翁と万葉集のお勉強]], 
2013年02月09日,
[TIME[2020-02-27 10:21:01 +09:00]] <https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/dd770d07ff8666a9512c5ff6677ae26e>



* 記録による年のずれ

[SEE[ [[1年ずれ]], [[2年ずれ]], [[旧暦]] ]]



* 年号由来命名

[853] 
[[大宝]]以後の事件名や用語は[[日本の元号]]によるものが多いですが、
[[大宝]]以前のものは[[干支年]]によるものが多いです。

[FIG(short list)[ [398] [[干支年]]に因んだ用語
- [[乙巳の変]]
- [[庚午年籍]]
- [[壬申の乱]]
- [[庚寅年籍]]
- [[辛亥の変]]
- [[甲子の宣]]
- [[丁未の乱]]
- [[辛巳事件]]
]FIG]

[276] [[元号]]によるものもあります。

[FIG(short list)[  [277] 初期の[[元号]]に因んだ用語
- [[大化前代]]
- [[大化の改新]]
- [[白鳳文化]]
- [[白鳳地震]]
- [[白鳳様式]]
]FIG]


[278] [CITE[日本書紀]]には[[朱鳥]]に因んで[[飛鳥浄御原宮]]と命名されたとの記事があります。
(どう因んでいるのか現代人には明らかではなく、議論があります。)

[854] 
[[法興]]と[[法興寺]]の関係は古くから議論になっています。





* 金石文の紀年

[1086] 
[[日本列島]]各地に残された古い時代の金属器や石碑などに、
当時の[[日付]]の記述の銘文がみられます。

[856] 
[[日本列島]]に残された最古の[[日時]]記録は、
[[支那王朝]]
([[漢]]、[[魏]]など)
の[[元号][支那の元号]]でした。
それぞれ大陸から移入されたとみられるものもあれば、
[[日本列島]]で製造されたとする説があるものもあります。
列島製としても模造品の可能性があり、
直ちに[[日付]]を運用していたと結論づけることはできません。

[353] 
[[漢]]に[[朝貢]]した[[奴国]]や、
[[魏]]に[[朝貢]]した[[邪馬台国]]の外交文書では当時の[[支那の元号]]である[[建武中元]]や[[景初]]を使ったに違いなく
[SRC[>>352 p.46]]、
[[倭の五王]]の[[宋]]への遣使でもまたそうだったでしょう (>>354)
が、それ自体はまったく現存していません。


[2] 
その後の時代の[[日本]]では[[干支年]]が主に使われました。
[[金石文]]にもこれが残されました。
[[干支]]だけでは年代が特定できないため、
その遺物や周囲の状況から推定されています。
時代が下ると[[天皇即位紀年]]につながるもの、
[[元号]]のようなものも現れてきました。

** 漢時代

[99] 
[[東大寺山北高塚古墳]]
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[天理市]])]]
出土中平銘大刀に、
「中平□[ASIS[□][年]] 五月丙午」
とありました。
[SRC[>>96, >>442]]
[RUBYB[漢[[中平]]年間][[TIME[184][year:184]] - [TIME[189][year:189]]]]、
[[五月丙午]]は実[[日付]]ではなく[[吉日]]の意と解されています。
[SRC[>>96]]
[[漢土]]で制作されたものと推測されています。

;; [1223] 
[CITE[後漢書東夷伝]]には、
1世紀頃、
[[倭国]]の[[漢]]への遣使があったと記載されました。
[[漢]]の[[建武中元]]や[[永初]]の[[元号]]が使われ、
[[日本]]側の[[日付]]には特に言及ありませんでした。


[REFS[
- [442] 
[CITE@ja[[[ADEAC]](アデアック):デジタルアーカイブシステム]], [TIME[2022-02-25T08:36:32.000Z]] <https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1210015200/1210015200100010/ht002840>
]REFS]

[2880] 
[CITE@ja[Xユーザーの可怜小汀さん: 「東大寺山古墳(天理市) から出土した金象嵌「中平□年」銘鉄刀のレプリカ。復元品には「中平六年(189年)」と銘記してあるが、何か根拠があるのかね https://t.co/0QXdJjLgK6」 / X]], [TIME[午後0:21 · 2024年3月3日][2024-03-03T03:21:51.000Z]], [TIME[2024-03-13T04:04:42.000Z]] <https://twitter.com/iokhicjnoakn/status/1764129032537518480>


** 魏晋南北朝時代

[57] 3世紀頃の[[中華王朝の元号][支那の元号]]が記された[[鏡]]が日本各地で見つかっています
[SRC[>>58, >>56]]。

[1134] 
[[大田南5号墳]]
[WEAK[([[日本国]][[京都府]][[京丹後市]])]]
出土、
[[安満宮山古墳]]
[WEAK[([[日本国]][[大阪府]][[高槻市]])]]
出土、
[[国立博物館]]保管の3面の[[方格規矩四神鏡]]に、
「青龍三年」
とありました。
[TIME[魏青龍3(235)年][year:235]]と解されています。
[SRC[>>56, >>1138, >>1139]]


[1135] 
[[鳥居原狐塚古墳]]
[WEAK[([[日本国]][[山梨県]][[西八代郡]][[市川三郷町]])]]
出土[[平縁神獣鏡]]に
「赤烏元年」
とありました。
[TIME[呉赤烏元(238)年][year:238]]と解されています。
[SRC[>>56, >>1140]]


[1123] 
[[神原神社古墳]]
[WEAK[([[日本国]][[島根県]][[雲南市]][[加茂町]])]]
出土[[三角縁神獣鏡]]に
「景□三年」
とありました。
[TIME[魏景初3(239)年][year:239]]と解されています。 [SRC[>>58]]

[1132] 
[[和泉黄金塚古墳]]
[WEAK[([[日本国]][[大阪府]][[和泉市]])]]
出土[[画文帯四神四獣鏡]]に
「景初三年」
とありました。
[TIME[魏景初3(239)年][year:239]]と解されています。 [SRC[>>56, >>1131]]

[1133] 
[[景初4年]]の[[銅鏡]]が[[日本列島]]から2面出土しています。
景初4年は大陸で実用が確認されない[[延長年号]]のため、
解釈には諸説あります。
[SEE[ [[景初4年]] ]]





[1125] 
[[蟹沢古墳]]
[WEAK[([[日本国]][[群馬県]][[高崎市]])]]
出土、
[[森尾古墳]]
[WEAK[([[日本国]][[兵庫県]][[豊岡市]])]]
出土、
[[竹島御家老屋敷古墳]]
[WEAK[([[日本国]][[山口県]][[周南市]])]]
出土の3面の[[三角縁神獣鏡]]に
「□始元年」
とありました。
[TIME[魏正始元(240)年][year:240]]と解されています。
[SRC[>>58, >>1128]]



[1136] 
[[安倉高塚古墳]]
[WEAK[([[日本国]][[兵庫県]][[宝塚市]])]]
出土[[平縁神獣鏡]]に
「赤烏七年」
とありました。
[TIME[呉赤烏7(244)年][year:244]]と解されています。
[SRC[>>56]]

;; [1214] 
[CITE[魏志倭人伝]]には、
3世紀、
[[邪馬台国]]の女王[[卑弥呼]]や[[台与]]の[[魏]]への遣使があったと記載されました。
[[魏]]の[[景初]]や[[正始]]の[[元号]]が使われ、
[[日本]]側の[[日付]]には特に言及ありませんでした。
(>>1215 も参照。)


[1137] 
[[上狛古墳]]
[WEAK[([[日本国]][[京都府]][[木津川市]])]]
出土といわれる[[平縁神獣鏡]]に
「元康□年」
とありました。
[RUBYB[晋元康年間][[TIME[291][year:291]]-[TIME[299][year:299]]]]と解されています。
[SRC[>>56]]

[1127] 
[[日本国]][[大阪府]][[和泉市久保惣記念美術館]]所蔵[[画文帯同向式神獣鏡]]に
「建武五年」
とありました。
[TIME[後漢建武5(29)年][year:29]]の可能性は低いとみられ、
[TIME[南斉建武5(498)年][year:498]]が定説とされてきましたが、
[TIME[後趙建武5(339)年][year:339]]説もあります。
[SRC[>>1126]]

;; [1224] 
[CITE[宋書]]、
[CITE[南斉書]]、
[CITE[梁書]]、
[CITE[隋書]]、
[CITE[北史]]、
[CITE[南史]]、
[CITE[旧唐書]]
[WEAK[([TIME[西暦1113年][year:1113]]頃までに日本伝来)]]
の[[東夷伝]]に[[倭]]に関する記事があり、
[[中華王朝]]の[[元号]]が使われました。
[[日本]]側の[[日付]]には特に言及ありませんでした。
(ただし 
[CITE[旧唐書]]
には[[白亀元年]]なる[[元号]]がありました。)

-*-*-

[102] 
[[石上神宮]] 
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[天理市]])]]
所蔵[[七支刀]]には、
「泰□四年□月十六日丙午正陽」とありました。
ある年、ある月の16日正午と解されています。
この刀は[[百済]]から[[日本]]に贈られたものとされています。
[SRC[>>100]]
'''3世紀から5世紀'''で諸説あります。
[SEE[ [[泰□]] ]]


[2612] 
[[平安時代]]に存在していたとされる[[護身剣]]に、
「歳在庚申正月」
などとありました。
銘文より[[百済]]から贈られたものとされ、
[[七支刀]]との関係も取り沙汰されています。
現物は失われて久しく、
偽造とする説もあります。
[TIME[西暦300年][year:300]]説、
[TIME[西暦360年][year:360]]説 [WEAK[([[七支刀]]の[TIME[西暦372年][year:372]]に近い)]]、
[TIME[西暦420年][year:420]]説、
[TIME[西暦660年][year:660]]説 [WEAK[([[百済]]滅亡の年)]]
があるようです。
[SEE[ [[護身剣]] ]]

[2613] 
一方は[[元号]]、一方は[[歳在]]と書いていることも注目されます。
[[百済の紀年法]]の復元にも関係してきます。

** 5世紀、6世紀


[97] 
[[稲荷山古墳出土鉄剣]]
[WEAK[([[日本国]][[埼玉県]][[行田市]]出土)]]
に「辛亥年七月中記 [SNIP[]]」
とありました。
[TIME[西暦471年][year:0471]]と解するのが通説とされ、
一説に[TIME[西暦531年][year:531]]と解されています。
[SRC[>>96]]



[98] 
[[江田船山古墳出土鉄刀]]
[WEAK[([[日本国]][[熊本県]]出土)]]
には
「治天下獲□□□鹵大王世 [SNIP[]] 八月中 [SNIP[]]」
とありました。
5世紀頃、
[[獲加多支鹵大王]]の治世の8月と解されています。 [SRC[>>96]]
第何年か明記されませんが、
後の[[天皇即位紀年]]につながるものと考えられます。


[95] 
[[隅田八幡神社人物画像鏡]]
[WEAK[([[日本国]][[和歌山県]][[橋本市]])]]
に、
「癸未年八月日十 [SNIP[]]」とありました。
'''[TIME[西暦443年][year:0443]]8月'''または'''[TIME[西暦503年][year:0503]]8月'''と解されています
[SRC[>>94]]。
「日十」は10日と解する説もありますが、
他に類例がなく、
続く文の一部と解されています。


[103] 
[[元岡古墳群]]
[WEAK[([[日本国]][[福岡県]][[福岡市]])]]
出土金錯銘大刀に
「大歳庚寅正月六日庚寅日時 [SNIP[]]」とありました。
[TIME[西暦570年][year:570]]と解されています。 [SRC[>>96]]
[[干支]]に[[大歳]]と書かれていることが注目されます。
[SEE[ [[大歳]] ]] 

[443] 
[[四天王寺]]に伝わる[[丙子椒林剣]]に
「丙子」
とありました。
5世紀説から8世紀説まであって、評価は定まっていないようです。
[SEE[ [[丙子椒林剣]] ]]


[REFS[

- [96] [CITE@ja[鉄剣・鉄刀銘文 - Wikipedia]] ([TIME[2019-04-26 11:45:14 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%89%A3%E3%83%BB%E9%89%84%E5%88%80%E9%8A%98%E6%96%87>
- [94] [CITE@ja[[[隅田八幡神社人物画像鏡]] - Wikipedia]] ([TIME[2019-05-08 21:44:09 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%85%E7%94%B0%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E7%94%BB%E5%83%8F%E9%8F%A1>
- [1128] [CITE@ja[ファイル:蟹沢古墳出土 三角縁同向式神獣鏡.JPG - Wikipedia]], [TIME[2020-04-18 18:28:09 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E8%9F%B9%E6%B2%A2%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B8%81%E5%90%8C%E5%90%91%E5%BC%8F%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1.JPG>
- [1131] [CITE@ja[[[和泉黄金塚古墳]] - Wikipedia]], [TIME[2020-04-20 19:29:33 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E6%B3%89%E9%BB%84%E9%87%91%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3>
-- [1129] [CITE@ja[ファイル:[[和泉黄金塚古墳]]出土 画文帯同向式神獣鏡.JPG - Wikipedia]], [TIME[2020-04-18 18:29:48 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%92%8C%E6%B3%89%E9%BB%84%E9%87%91%E5%A1%9A%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E7%94%BB%E6%96%87%E5%B8%AF%E5%90%8C%E5%90%91%E5%BC%8F%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1.JPG>
- [1126] [CITE@ja[建武五年鏡について]],
[[小山満]],
[TIME[2017-02-28]],
[TIME[2020-05-02 18:16:19 +09:00]] <https://soka.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=39086&item_no=1&page_id=13&block_id=68>
- [58] [CITE@ja[銅鏡 - Wikipedia]] ([TIME[2019-04-27 11:00:28 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%8F%A1#.E7.B4.80.E5.B9.B4.E9.8A.98.E9.8F.A1>
-- [1138] [CITE@ja[ファイル:安満宮山古墳出土 「青龍三年」銘方格規矩四神鏡.JPG - Wikipedia]], [TIME[2020-04-18 18:56:02 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%AE%89%E6%BA%80%E5%AE%AE%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E3%80%8C%E9%9D%92%E9%BE%8D%E4%B8%89%E5%B9%B4%E3%80%8D%E9%8A%98%E6%96%B9%E6%A0%BC%E8%A6%8F%E7%9F%A9%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E9%8F%A1.JPG>
-- [1139] [CITE@ja[ファイル:出土地不詳 「青龍三年」銘方格規矩四神鏡.JPG - Wikipedia]], [TIME[2020-04-18 18:57:40 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E5%87%BA%E5%9C%9F%E5%9C%B0%E4%B8%8D%E8%A9%B3_%E3%80%8C%E9%9D%92%E9%BE%8D%E4%B8%89%E5%B9%B4%E3%80%8D%E9%8A%98%E6%96%B9%E6%A0%BC%E8%A6%8F%E7%9F%A9%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E9%8F%A1.JPG>
-- [1140] [CITE@ja[ファイル:鳥居原古墳出土 対置式神獣鏡.JPG - Wikipedia]], [TIME[2020-04-18 18:59:23 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E9%B3%A5%E5%B1%85%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E5%AF%BE%E7%BD%AE%E5%BC%8F%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1.JPG>
- [56] [CITE@ja[三角縁神獣鏡 - Wikipedia]] ([TIME[2019-04-30 16:43:18 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B8%81%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1#.E7.B4.80.E5.B9.B4.E9.8A.98.E3.82.92.E3.82.82.E3.81.A4.E4.B8.89.E8.A7.92.E7.B8.81.E7.A5.9E.E7.8D.A3.E9.8F.A1>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[100] [CITE@ja[七支刀 - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-08 08:58:53 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80>
]FIGCAPTION]

> 銘文の冒頭には「泰■四年」の文字が確認できる。年紀の解釈に関して「太和(泰和)四年」として369年とする説(福山敏男、浜田耕策ら)があり、この場合、東晋の太和4年(369年)とされる'''['''2''']'''。「泰」は「太」と音通するため'''['''2''']'''。
> また、「泰始四年」として判読する説(管政友、宮崎市定)がある。この場合は、中国の年号として、西晋の「泰始4(268)年」または劉宋の「泰始4(468)年」とされる'''['''2''']'''。


> 1963年、金錫亨は「分国論」を発表し、三韓の住民が日本列島に移住し、各出身地毎に分国を建てたと主張したが、そのなかで「泰和」を百済独自の年号とした'''['''8''']'''。この説はその後も李丙燾らによって踏襲され'''['''9''']'''、また延敏沫は別の文字「奉■」と判読し、おなじく百済独自の年号とした'''['''2''']'''。しかし、これらの百済独自年号説は、村山正雄のレントゲン写真'''['''10''']'''による分析の精緻化によって、浜田耕策によって反駁された'''['''2''']'''。「泰和」を百済独自の年号とする場合は、2005年時点でこの七支刀が唯一の現存史料となり、年代が全く特定できなくなるし'''['''2''']''''''['''11''']'''、また李丙燾は、日本書紀の神功皇后記の紀年論による年号である372年を根拠に「泰△元年」を369年とするが、その場合、東晋の太和4年であったということになるが、当時、百済が独自に建元した記録が存しないため、成立しない'''['''2''']'''。延敏沫は武寧4(504)年とするが傍証がないし、また504年当時の百済は干支を使用しているため、独自年号説は成立しない'''['''2''']'''。

]FIG]

]REFS]


** 飛鳥時代


[1212] 
[[伊予湯岡碑]]逸文に、 
「法興六年十月歳在丙辰」 
とありました。
'''[TIME[推古天皇4(596)年][year:596]]10月'''と解されています。
[[法興]]の[[元号]]があること、
[[元号年]]と[[干支年]]の間に[[月名]]が割り込んでいること、
[[干支年]]が「[[歳在]]」で記述されていることが注目されます。
[SEE[ [[法興]]、[[歳在]] ]]


[ITEMS[ [[日時事例]]

- [2726] 
[DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[熊本県]][[熊本市]]]][[熊本城]]跡出土象嵌銘文刀]]
「[DATA(.text)[[V[甲子年五[ASIS[□][(月)]][ASIS[□][(中)]]]]]]」
[SRC[>>2725]]
-- [2730] >>2725 に写真
-- [2727] [TIME[日本推古天皇12(604)年甲子][604]]
-- [2728] 
[TIME[令和4(2022)年出土]], [TIME[2023-01-27]]発表。
[SRC[>>2725]]
---[2729] 
既に多数の新聞に掲載されているのに、
[[熊本市]], [[熊本城]],
[[熊本大学]],
[[熊本大学キャンパスミュージアム推進室]]のどの[[ウェブサイト]]にも情報掲載なし。
情報公開体制がおかしいのでは?
[TIME[2023-01-28T06:17:02.500Z]]


]ITEMS]


[266] 
[[法隆寺]]献納銅造如来半跏像
[WEAK[(原所在地[[日本国]][[奈良県]][[生駒郡]][[斑鳩町]])]]
に、
「歳次丙寅年正月生十八日記高屋」
とありました。
'''[TIME[推古天皇14(606)年][year:606]]1月'''または'''[TIME[天智天皇5(666)年][year:666]]1月'''と解されています。
[SRC[>>267]]

[271] 
[[法隆寺]]金堂薬師如来像光背銘
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[生駒郡]][[斑鳩町]])]]
に「歳次丙午年」、
「歳次丁卯年」
とありました。
それぞれ[TIME[西暦586年][year:586]]、
[TIME[607年][year:607]]と解されています。
[SRC[>>270]]
刻まれたのは更に後の時代とみられています。

;; [386] 関連: [[1年ずれ]]

[ITEMS[ [[日時事例]]

-
[199] 
[DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[兵庫県]][[養父市]]]][[箕谷2号墳]]出土[[戊辰年銘大刀]]]]
「[DATA(.text)[[V[戊辰年五月[ASIS[□][(中)]]]]]]」
[SRC[>>200, >>96, >>2721]]
--
[2724] >>2721 に写真、模写あり
--
[2722] 
[TIME[日本推古天皇16(608)年][608]] [SRC[>>200, >>96, >>2721]]
--
[2723] 
一説、[TIME[日本天智天皇7(668)年][668]] [SRC[>>2721]]

]ITEMS]

[64] 
[[法隆寺金堂釈迦三尊像]]
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[生駒郡]][[斑鳩町]])]]
[[光背]]銘に
「法興元丗一年歳次辛巳」と「癸未年」
(>>296)、
台座墨書に「辛巳年八月九月」 [SRC[>>59]] とありました (>>301)。
それぞれ[TIME[推古天皇29(621)年][year:621]]、
[TIME[推古天皇31(623)年][year:623]]、
[TIME[推古天皇29(621)年][year:0621]]と解されています。
[[歳次]]と書かれていることが注目されます。
[SEE[ [[法興]], [[歳次]] ]]


[308] 
[CITE[天寿国繍帳]]銘文に、
「歳在辛巳十二月廿一癸酉日入」、
「明年二月廿二日甲戌夜半」
とあったとされます。
[TIME[621年][year:621]]、
[TIME[622年][year:622]]と解されています。
ただしいずれの箇所も[CITE[上宮聖徳法王帝説]]所収のもので、
現存していません。
銘文成立は7世紀頃とされますが、正確な時期には諸説あります。
[SRC[>>307]]
[[歳在]]と書かれていることが注目されます。
[SEE[ [[歳在]] ]]

@@ 
-[2619] [CITE@ja[天寿国繍帳銘に見える間人王の忌日: suchowan's blog]], [TIME[2021-02-10T11:36:55.000Z]] <https://suchowan.at.webry.info/201202/article_3.html>
-[2620] [CITE@ja[聖徳太子薨去から1400年(つづき): suchowan's blog]], [TIME[2021-02-12T10:03:33.000Z]] <https://suchowan.at.webry.info/202102/article_10.html>
- [2651] [CITE@ja[「天寿国繍帳銘は儀鳳暦だから後代の作」と言えるか:北康宏「天寿国繍帳銘文再読」 - 聖徳太子研究の最前線]], [TIME[2021-05-08T07:09:36.000Z]] <https://blog.goo.ne.jp/kosei-gooblog/e/8fbf2390b185c3c57b1e884b7d7bebf7>
- [2652] [CITE@ja[天寿国繍帳銘に見える間人王の忌日(つづき): suchowan's blog]], [TIME[2021-05-08T07:57:06.000Z]] <https://suchowan.at.webry.info/202103/article_29.html>


[1935] 
[[法隆寺戊子年銘釈迦如来及び脇侍像]]
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[生駒郡]][[斑鳩町]])]]
に、
「戊子年十二月十五日 [SNIP[]]」
とありました。 
'''[TIME[推古天皇36(628)年12月25日][kyuureki:628-12-15]]'''と解されています。
[SRC[>>1934]]
[TIME[持統天皇2(686)年12月25日][kyuureki:686-12-25]]説もありました
[SRC[>>1943]]。




[202] 
[[穴太廃寺]] 
[WEAK[([[日本国]][[滋賀県]][[大津市]])]]
出土平瓦片には
「庚寅年」、「壬辰年」とありました。
それぞれ'''[TIME[西暦630年][year:630]]'''、
'''[TIME[西暦632年][year:632]]'''と解されています。 [SRC[>>201]]


[1938] 
[[宇治橋断碑]]
[WEAK[([[日本国]][[京都府]][[宇治市]])]]
の現存しない部分にあったとされる碑文に、
「大化二年 丙午之歳」
とありました。
[TIME[大化2(646)年][year:646]]と解されています。
建碑はそれ以後とされます。
[SEE[ [[大化]] ]]

[1247] 
[CITE[山州名跡志]] 巻之十五所引舊記所引[CITE[宇治橋銘]]
[SRC[>>2016, >>1977, >>649]]
および
[CITE[見聞談叢]]所引銘文 [SRC[>>649]] に
「大化'''元'''年 丙午之歳」
とありました。

[2017] 
大化2年の誤りとされます。 [SRC[>>649]]
「舊記」は不明ながら、2書とも[[近世]]のものですから、
妥当でしょう。
ただし
[CITE[法隆寺伽藍縁起并流記資財帳]] 
の1年ずれ[[大化]] (>>406)
と同じ数え方である点は要注意です。

[REFS[
-
[2015] 
[CITE[[[山州名跡志]]. 巻之1-22 / [[白慧]] 撰]], [TIME[2022-09-19T05:00:00.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_01834/index.html>
--[2016] [CITE[ru04_01834_0015_p0023.jpg (2592×1728)]], [TIME[2007-01-29T01:31:19.000Z]], [TIME[2022-09-19T05:00:36.606Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_01834/ru04_01834_0015/ru04_01834_0015_p0023.jpg>
- [1977] 
[CITE@ja[[[山州名跡誌]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[白慧]], [TIME[大正4][year:1915]], [TIME[2022-09-19T04:57:05.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952774/239>
- [200] [CITE@ja[まちの文化財(87) 日本最古の辰年文字/[[養父市]]]] ([[養父市役所]]著, [TIME[2019-05-20 14:57:55 +09:00]]) <https://www.city.yabu.hyogo.jp/6231.htm>
-- [2719] 消滅確認 [TIME[2023-01-28T05:42:20.800Z]]
-- [2720] 
[CITE@ja[まちの文化財(87) 日本最古の辰年文字/[[養父市]]]], [[養父市役所]], [TIME[2023-01-28T05:56:12.000Z]] <https://web.archive.org/web/20140225190120/http://www.city.yabu.hyogo.jp/6231.htm>
-
[2721] 
[CITE@ja[戊辰年銘大刀を探る/[[養父市]]]], 
更新日:2019年11月21日,
[TIME[2023-01-17T05:26:21.000Z]], [TIME[2023-01-28T05:55:22.203Z]] <https://www.city.yabu.hyogo.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shakaikyoiku/1/4/mi123/1908.html>
- [649] [CITE@ja[「宇治橋断碑」銘文攷 : 第二・三行を中心に]], [[仲谷 健太郎]], [TIME[2020-07]], [TIME[2020-10-09]], [TIME[2022-09-19T04:56:00.000Z]] <https://seisen.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=25&block_id=29&item_id=1321&item_no=1>
#page=6
-
[2725] 
[CITE@ja[古墳時代の鉄刀に象嵌の銘文 熊本城跡から出土、製作年月日か 江田船山古墳に続く県内2例目、国内では8例目|[[熊本日日新聞社]]]], 
[[鬼束実里]],
2023年1月27日 21:34,
[TIME[2023-01-28T06:10:49.000Z]] <https://kumanichi.com/articles/928661>




]REFS]

-*-*-

[62] 
7世紀の遺跡からは[[干支]]紀年を持つ[[木簡]]が多く出土しています。 [SRC[>>59]]
[[大宝律令]]施行まで、
行政上はもっぱら[[干支年]]が用いられていたようです。

[60] 
[[前期難波宮跡]] 
[WEAK[(現[[日本国]][[大阪府]][[大阪市]]、[TIME[白雉3(652)年][year:652]]-[TIME[天武天皇15(686)年][year:686]])]]
出土[[木簡]]に
「戊申年」
とありました。
'''[TIME[大化4(648)年][year:0648]]'''と解されています。
[SRC[>>59]]
本項執筆時点で木簡紀年の最古例とされます。


[1365] 
[[藤原京]]跡
[WEAK[(現[[日本国]][[奈良県]]、[TIME[持統天皇8(694)年][year:694]]-[TIME[和銅3(710)年][year:710]])]]
出土[[木簡]]に、例えば次のようなものがありました。

- [1366] 「癸未年十一月」 [TIME[天武天皇12(683)年][year:683]]11月 [SRC[>>1364]]
- [1369] 「辛卯年十月」 [TIME[持統天皇5(691)年][year:691]]10月 [SRC[>>1370]]
- [1368] 「丙申年七月」 [TIME[持統天皇10(696)年][year:696]]7月 [SRC[>>1367]]
- [1373] 「丁酉年」 [TIME[文武天皇元(697)年][year:697]] [SRC[>>1374]]
- [2084] 「己亥年十月上捄国阿波評松里」 [TIME[文武天皇3(699)年][year:699]]10月 [SRC[>>2083]]
- [1371] 「己亥年十月」 [TIME[文武天皇3(699)年][year:699]]3月 [SRC[>>1372]]
- [1375] 「[ASIS[庚][<http://glyphwiki.org/wiki/u2ff8-u5e7f-cdp-8ced>]]子年四月」 [TIME[文武天皇4(700)年][year:700]]4月 [SRC[>>1376]]

[REFS[
- [1934] [CITE[ASUKA/[[蘇我氏]]の寺]], [TIME[2020-06-06 19:04:57 +09:00]] <https://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/soga/soga08_4_4.html>
- [1364] [CITE@ja[木簡庫 奈良文化財研究所:詳細]], [TIME[2020-05-15 10:32:13 +09:00]] <https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJFKI33000106>
- [1370] [CITE@ja[木簡庫 奈良文化財研究所:詳細]], [TIME[2020-05-15 10:34:55 +09:00]] <https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJEKM31000126>
- [1367] [CITE@ja[木簡庫 奈良文化財研究所:詳細]], [TIME[2020-05-15 10:33:40 +09:00]] <https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJEKM29000108>
- [1374] [CITE@ja[木簡庫 奈良文化財研究所:詳細]], [TIME[2020-05-15 10:36:35 +09:00]] <https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJEKM42000100>
- [1372] [CITE@ja[木簡庫 奈良文化財研究所:詳細]], [TIME[2020-05-15 10:35:43 +09:00]] <https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJEKM32000103>
- [1376] [CITE@ja[木簡庫 奈良文化財研究所:詳細]], [TIME[2020-05-15 10:37:23 +09:00]] <https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/6AJEKN34000110>
- [2083] [CITE@ja[[[木簡庫]] 奈良文化財研究所:詳細]], [TIME[2020-06-15 10:30:34 +09:00]] <http://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK005084000051>
]REFS]

-*-*-

[61] 
[[三条九ノ坪遺跡]] ([[日本国]][[兵庫県]][[芦屋市]]) で出土した[[木簡]]には
「三 壬子年」とあり、
[TIME[白雉3(652)年][year:0652]]を指す可能性が高いとされています。 [SRC[>>59, >>417, >>418]]
本項執筆時点で木簡紀年の2番目に古い例とされています。

[1209] 
ただこのように[[干支年]]の前に[[元号年]]数だけを記述した例は他に見られません。
導入初期の試行錯誤とも考えられますが不安が残ります。

;; [2885] 
[[元号年]]と[[年の字]]の間に[[干支年]]を書くのも[[近世]]に多い様式で、
[[中世]]はともかく[[古代]]にはまずありません。

[1211] 
[[元号名]]のない[[天皇即位紀元]] (>>70) とすれば、
[[元号名]]が表記されないのは必ずしも不都合ではないとも主張できます。
が、孤例であることにはやはり注意が必要です。

[1210] 
[TIME[宝亀3(772)年][year:772]]では時代が進みすぎですが、否定はできません
[SRC[>>59]]。

;; [2888] 
が、[[元号名]]を書かないのは不審です。

[2887] 
[CH[三]]と「壬子年」を一連のものとみない考え方もあります。

[2886] 
[CH[三]]が[[元号年]]でないなら[TIME[和銅5(712)年][year:712]]の可能性もあります
[SRC[>>59]]。

[2889] 
[[干支年]]の[[木簡]]で和銅年間はやや新しすぎでしょうか。
[TIME[西暦592年][592]]だと最古の紀年[[木簡]]より古くて不適でしょうか。
[TIME[白雉3(652)年][year:0652]]も現存最古の[TIME[大化4(648)年][year:0648]] (>>60)
と比べて十分古すぎともいえますが...


[2884] 
[CITE@ja[AN00396860_19_044_045.pdf]], [TIME[2021-02-19T16:30:48.000Z]], [TIME[2024-05-31T10:19:18.617Z]] <https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/8834/1/AN00396860_19_044_045.pdf>


[2614] [CITE[兵庫県立考古博物館|ひょうご考古学情報 / 館蔵品紹介]], [TIME[2017-09-07T06:29:37.000Z]], [TIME[2021-01-27T06:53:41.587Z]] <http://www.hyogo-koukohaku.jp/collection/p6krdf0000000w01.html>


-*-*-

[206] 
[[夏見廃寺]] ([[日本国]][[三重県]][[名張市]]) で出土した
大形多尊塼仏片には「甲午年」とあり、
[TIME[649年][year:649]]と解されています [SRC[>>212]]。



[204] 
[[野中寺]]
[WEAK[([[日本国]][[大阪府]][[羽曳野市]])]]
塔跡出土平瓦に
「庚戌年正月」
とありました。
'''[TIME[650年][year:650]]1月'''と解されています。 [SRC[>>205]]


[1937] 
[[N-165]] [[銅造観音菩薩立像(法隆寺献納)]]
[WEAK[(原所在地[[日本国]][[奈良県]])]]
に、
「辛亥年七月十日記笠評君名左(又は大)古臣辛丑日崩去辰時故 [SNIP[]]」
とありました。
'''[TIME[白雉2(651)年7月10日][kyuureki:651-07-10]]'''と解されています。
[SRC[>>1936]]
[TIME[崇峻天皇4(591)年7月10日][kyuurelki:591-07-10]]説もありました。
釈読や解釈にも議論がありました。
[SRC[>>1939]]


[264] 
[[N-196]] 法隆寺献納甲寅年銘光背
[WEAK[(原所在地[[日本国]][[奈良県]][[生駒郡]][[斑鳩町]])]]
に、
「甲寅年三月廿六日」
とありました。
[SRC[>>265, >>1939]]
'''[TIME[推古天皇2(594)年3月26日][kyuureki:594-03-26]]'''
[SRC[>>265, >>1939, >>1943, >>1941]]
または
'''[TIME[白雉5(654)年3月26日][kyuureki:654-03-26]]'''
[SRC[>>1939, >>1943, >>1941]]
と解されています。
制作地が[[日本]]か大陸かは不明です [SRC[>>1942]]。


[1944] 
[[観心寺]]阿弥陀如来像光背銘
[WEAK[(原所在地[[日本国]][[大阪府]][[河内長野市]])]]
に、
「戊午年十二月」
とありました。
'''[TIME[斉明天皇4(658)年][year:658]]12月'''と解されています。
[SRC[>>1943, >>1949]]



[1213] 
[[西琳寺]]金堂阿弥陀仏光背銘逸文に、
「寳元五年己未正月」
とありました。
'''[TIME[斉明天皇5(659)年][year:659]]1月'''と解されています。
[[宝元]]の[[元号]]があることが注目されます。
[SEE[ [[宝元]] ]]



[203] 
[[野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像]]
[WEAK[([[日本国]][[大阪府]][[羽曳野市]])]]
銘文に、
「丙寅年四月□八日癸卯開」
とありました。
'''[TIME[天智天皇5(666)年][year:666]]4月'''と解されています。
[[日付]]解釈には異説もあります。
[SEE[ [[野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像]] ]]



[126] 
[[船氏王後墓誌]]
([[日本国]][[大阪府]])
には「阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」、
「戊辰年十二月」
とあり、それぞれ[TIME[西暦641年][year:641]]、
[TIME[西暦668年][year:668]]と解されています。
日本で現存する墓誌の最古の紀年とされていますが、
成立はそれよりやや遅れて7世紀の終わり頃とされています。
[SRC[>>124, >>125]]


[1255] 
[[小野毛人墓誌]]に
「営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」
とありました。 [SRC[>>1254]]
'''[TIME[天武天皇6(677)年[LINES[丁][丑]]][year:677]]'''と解されています。
後刻説もあります。


[1256] 
[[薬師寺東塔檫銘]]
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[奈良市]])]]
に
「維清原宮馭宇
天皇即位八年庚辰之歳建子之月」
とありました。
[[建子月]]は[[11月]]に当たります。
[[干支年]]より、
[TIME[日本書紀天武天皇8(679)年[LINES[己][卯]]][year:679]]では1年のずれがあり、
[TIME[天武天皇即位8年 = 日本書紀天武天皇9(680)年[LINES[庚][辰]]][year:680]]と解されます。
それ以後の銘文となりますが、
東塔には移築論争があり、
この銘文が[[天平]]年間以前のいつ成立したかは不明です。


[1950] 
[[法隆寺]]
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[生駒郡]][[斑鳩町]])]]
所蔵黄地平絹幡(戊子年銘)
に、
「戊子年七月十五日記丁亥」
ないし
「戊子年七月十五日丁亥」
とありました。
'''[TIME[持統天皇2(688)年7月15日][kyuureki:688-07-15]]'''と解されています。
[SRC[>>1951, >>1952]]



[1958] 
[CITE[采女氏塋域碑]]
[WEAK[(原所在地[[日本国]][[河内国]][[石川郡]][[春日村]][[帷子山]])]]
逸文に、
「己丑年十二月卄五日」 ([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>1957, >>1956]]
'''[TIME[持統天皇3(689)年12月25日][kyuureki:689-12-25]]'''と解されています。




[1948] 
[[鰐淵寺]]
[WEAK[([[日本国]][[島根県]][[出雲市]])]]
観世音菩薩立像台座銘に
「壬辰年五月」
とあり、
'''[TIME[持統天皇6(692)年][year:692]]5月'''と解されています。
[SRC[>>1947]]


[1946] 
[[法隆寺]]
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[生駒郡]][[斑鳩町]])]]
所蔵造像記銅板銘文に
「甲午年三月十八日」
とありました。
'''[TIME[持統天皇8(694)年3月18日][kyuureki:694-03-18]]'''と解されています。
[SRC[>>1945]]






[257] 
[[妙心寺]] 
[WEAK[([[日本国]][[京都府]][[京都市]])]]
[[梵鐘]]に、
「戊戌年四月十三日壬寅収」
とありました。
'''[TIME[文武天皇2(698)年4月13日][kyuureki:698-04-13]]'''と解されています。 
[SRC[>>258]]


[374] 
[[長谷寺銅板法華説相図]]
[WEAK[([[日本国]][[大分県]][[中津市]])]]
銘文に
「歳次降婁漆兎上旬」
とありました。
[[戌]]年7月[[上旬]]を表します。
時期は不明確で諸説あるものの、
'''[TIME[文武天皇2(698)年][year:698]]7月上旬'''と解されています。
[SRC[>>373]]
(他に[TIME[朱鳥元(686)年][year:686]]7月上旬、
[TIME[和銅3(710)年][year:710]]7月上旬、
[TIME[養老6(722)年][year:722]]7月上旬、
[TIME[宝亀元(770)年][year:770]]7月上旬の各説があります。)


[REFS[
- [1939] 
[CITE[御物辛亥年銘金銅像 飛鳥彫刻ノオト其一]],
[[澤柳大五郎]],
[TIME[1947-08-01]]
<https://tobunken.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=7070&file_id=22&file_no=1>
- [1943] 
[CITE[飛鳥・白鳳小金銅仏の発願者、制作者 [WEAK[上]]]],
[[久野健]],
[TIME[1979-02-26]],
[TIME[2020-06-09 11:14:03 +09:00]] 
<https://tobunken.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6462&item_no=1&page_id=13&block_id=21>
-- [1988] 
[CITE[飛鳥・白鳳小金銅仏の発願者、制作者 [WEAK[下]]]],
[[久野健]],
[TIME[1979-06-30]],
[TIME[2020-06-09 11:15:19 +09:00]] <https://tobunken.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=6465&item_no=1&page_id=13&block_id=21>
- [1956] 
[CITE[采女氏塋域碑考]],
[[三谷芳幸]],
[TIME[‎1997][year:1997]]
<https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=29586&item_no=1&attribute_id=19&file_no=1>
- [1945] [CITE@JA[造像記銅板([[法隆寺]]藏)]], [TIME[2020-05-19 06:15:24 +09:00]] <http://www.senshu-u.ac.jp/~off1024/nenpyoushiryou/zouzouki/zouzouki.htm>
- [1936] [CITE[[[観音菩薩立像]] - e国宝]], [TIME[2020-06-07 11:00:45 +09:00]] <http://www.emuseum.jp/detail/100739/001/012?word=&d_lang=ja&s_lang=ja&class=12&title=&c_e=&region=&era=&cptype=2&owner=1&pos=41&num=2&mode=detail&century=>
- [1942] [CITE[[[光背]] - e国宝]], [TIME[2020-06-07 11:37:34 +09:00]] <http://www.emuseum.jp/detail/100767>
- [1941] [CITE@ja[[[法隆寺献納宝物]] - Wikipedia]], [TIME[2020-05-24 11:20:06 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%E7%8C%AE%E7%B4%8D%E5%AE%9D%E7%89%A9>
- [1947] [CITE@ja[[[島根県]]:鰐淵寺菩薩像(トップ / くらし / 文化・スポーツ / 文化財 / 出雲国風土記登場地 / 出雲国風土記の遺跡 / 地域間交流の証拠)]], [TIME[2020-03-14 03:38:09 +09:00]] <https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/izumo_fuudo/iseki/kouryuu/koryu04.html>
- [1949] [CITE@ja[8550_光背([[根津美術館]]) :: 東文研アーカイブデータベース]], [TIME[2020-06-07 12:12:12 +09:00]] <https://www.tobunken.go.jp/materials/nenki/813986.html>
- [1951] [CITE@ja[7789_黄地平絹幡(戊子年銘)([[法隆寺]]) :: 東文研アーカイブデータベース]], [TIME[2020-06-07 12:13:35 +09:00]] <https://www.tobunken.go.jp/materials/nenki/249165.html>
- [1952] [CITE@ja[9368_[[黄地平絹幡]](法隆寺) :: 東文研アーカイブデータベース]], [TIME[2020-06-07 12:21:31 +09:00]] <https://www.tobunken.go.jp/materials/nenki/820771.html>
- [1957] [CITE@ja[[[妙見寺]]について | 大阪府南河内郡太子町 にある小さな温かいお寺 曹洞宗 妙見寺]], [TIME[2019-08-01 10:44:54 +09:00]] <http://myokenji.o.oo7.jp/about/>

]REFS]

-*-*-

[213] 
[[那須国造碑]]
[WEAK[([[日本国]][[栃木県]][[大田原市]])]]
に
「永昌元年己丑四月」、
「歳次康子年正月二壬子日辰節」
とありました。
前者は[TIME[唐永昌元(689)年][year:689]]4月で、
後者'''[TIME[西暦700年1月2日][kyuureki:689-01-02]]'''の没後のものと解されています。 
当時[[日本の元号]]がなく、
[[朝鮮半島]]からの[[渡来人]]の影響で[[唐の元号]]が使われたと考えられています。
[[那須国造碑]]の[[日付]]は当時の新暦[[儀鳳暦]]と一致しています。
[SEE[ [[那須国造碑]] ]]

[HISTORY[
[214] 
かつては「永昌元年」でなく「朱鳥元年」ないし「朱鳥四年」と解する説もありました。
[SEE[ [[那須国造碑]] ]]

]HISTORY]





[REFS[



- [309] [CITE[古代史獺祭 [[上宮聖徳法王帝説]] フレーム版]] ([TIME[2006-03-21 07:31:19 +09:00]]) <http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/taisetsu/frame/taisetsu_frame.htm>
-- 消滅確認 [TIME[2021-01-29T06:46:55.500Z]]
-- [CITE[Wayback Machine]], [TIME[2021-01-29T06:46:44.000Z]] <https://web.archive.org/web/20060907090854/http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/taisetsu/frame/taisetsu_frame.htm>
- [418] 
[CITE[えと記す最古の木簡 兵庫の遺跡「壬子三年」の文字]],
[CITE[朝日新聞]] [TIME[19[ASIS[89][98カ]].11.1][1998-11-01]]
([TIME[2006-09-18 11:08:12 +09:00]]) <http://www.ic.daito.ac.jp/~hama/news/mokan981112.pdf>
- [59] [CITE[黎明期の日本古代木簡]],
[[市大樹]],
[TIME[2015-03-31]]
([TIME[2019-05-12 14:41:16 +09:00]]) <https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2228&item_no=1&page_id=13&block_id=41>
- [417] [CITE[[[兵庫県立考古博物館]]|ひょうご考古学情報 / 館蔵品紹介]],
三条九ノ坪遺跡木簡(1点)(平成13年度指定)
([TIME[2017-09-07 15:29:37 +09:00]]) <http://www.hyogo-koukohaku.jp/collection/p6krdf0000000w01.html>
- [124] [CITE@ja[船氏王後墓誌 | 大阪府柏原市]] ([TIME[2019-02-05 10:23:33 +09:00]]) <http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2016081400033/?doc_id=5199>
- [125] [CITE@ja[船王後 - Wikipedia]] ([TIME[2019-04-30 22:59:06 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E7%8E%8B%E5%BE%8C>
- [201] [CITE@ja[[[穴太廃寺]] - Wikipedia]] ([TIME[2019-05-06 15:04:30 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E5%A4%AA%E5%BB%83%E5%AF%BA>
- [205] [CITE@ja[野中寺]] ([TIME[2019-04-28 23:23:03 +09:00]]) <http://www9.plala.or.jp/kinomuku/yachuji/yachuji.html>
-- [82] まだあるが移転確認 [TIME[2025-03-04T02:00:25.200Z]]
-- [83] 
[CITE@ja[野中寺]], [TIME[2025-01-28T06:53:36.000Z]], [TIME[2025-03-04T01:59:42.666Z]] <https://koji-junpo.coolblog.jp/yachuji/yachuji.html>
- [212] [CITE@ja[[[夏見廃寺]] - Wikipedia]] ([TIME[2019-05-05 11:20:20 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E8%A6%8B%E5%BB%83%E5%AF%BA>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[268] [CITE@ja[那須国造碑 - Wikipedia]]
([TIME[2017-05-20 00:35:09 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%82%A3%E9%A0%88%E5%9B%BD%E9%80%A0%E7%A2%91>
]FIGCAPTION]

> 「永昌」という元号は唐のものであるが、日本の元号は686年に天武天皇の崩御により701年の大宝まで停止されていたため、唐の元号を使用したと考えられている。

]FIG]


- [215] [CITE@ja[[[上野三碑]]:[[山上碑]]及び古墳 | 高崎市]] ([TIME[2019-01-08 13:08:55 +09:00]]) <https://www.city.takasaki.gunma.jp/info/sanpi/02.html>
- [216] [CITE@ja[[[上野三碑]]:[[多胡碑]] | 高崎市]] ([TIME[2019-01-08 13:08:55 +09:00]]) <https://www.city.takasaki.gunma.jp/info/sanpi/03.html>
- [217] [CITE@ja[[[上野三碑]]:[[金井沢碑]] | 高崎市]] ([TIME[2019-01-08 13:08:55 +09:00]]) <https://www.city.takasaki.gunma.jp/info/sanpi/04.html>
- [258] [CITE[妙心寺見どころ・豆知識 | 京都ガイド]] ([TIME[2019-06-15 21:44:10 +09:00]]) <https://kyototravel.info/myoushinjihighlight>
- [265] [CITE[光背 - e国宝]] ([TIME[2019-06-19 12:22:29 +09:00]]) <http://www.emuseum.jp/detail/100767/000/000?mode=detail&d_lang=ja&s_lang=ja&class=12&title=&c_e=&region=&era=&century=&cptype=&owner=&pos=9&num=4>
- [267] [CITE[菩薩半跏像 - e国宝]] ([TIME[2019-06-19 12:29:19 +09:00]]) <http://www.emuseum.jp/detail/100730/000/000?d_lang=ja&s_lang=ja&word=&class=12&title=%E8%8F%A9%E8%96%A9&c_e=&region=&era=&cptype=2&owner=1&pos=1&num=5&mode=detail&century=>
- [270] [CITE@ja[法隆寺金堂薬師如来像光背銘 - [[Wikipedia]]]] ([TIME[2019-06-03 22:01:54 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%E9%87%91%E5%A0%82%E8%96%AC%E5%B8%AB%E5%A6%82%E6%9D%A5%E5%83%8F%E5%85%89%E8%83%8C%E9%8A%98>
- [307] [CITE@ja[[[天寿国繍帳]] - [[Wikipedia]]]] ([TIME[2019-06-13 18:28:55 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AF%BF%E5%9B%BD%E7%B9%8D%E5%B8%B3>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[342] [CITE@ja[日本最古の暦使用の刀剣 発掘 (2011.9.21) - 渓流詩人の徒然日記]]
([TIME[2016-02-08 12:41:20 +09:00]] 版)
<http://blog.goo.ne.jp/kelu-cafe/e/0f56f9001e43b18e23bf1097d41da9b0>
]FIGCAPTION]

> 福岡市教育委員会は21日、同市西区の元岡古墳群(7世紀中ごろ)で、
西暦570年を示すとみられる「庚寅(こういん)」や「正月六日」など19文字
の銘文が象眼された鉄製の大刀が出土したと発表した。
>  調査を指導した九州大の坂上康俊教授によると、大刀の製造年代を示す
とみられる「庚寅」は、南朝の宋から百済経由でもたらされた「元嘉(げんか)暦」
に基づく干支(かんし)とみられ、暦法使用の実例としては日本最古の発見という。
>  坂上教授は「元嘉暦は554年には大和政権にもたらされたと考えられ、大刀
の銘文は元嘉暦の伝来からほどなく日本列島で使われていた証拠。画期的な
資料だ」と話している。
>  市教委によると、銘文にある年号と、正月六日の日付を示す干支がともに「庚寅」
であることから、元嘉暦に照らすと570年に当たるという。

]FIG]

- [373] [CITE[長谷寺銅板法華説相図の銘文について―校訂・解釈・彫刻技法―]],
[[片岡直樹]],
[TIME[2012年7月][2012-07]]
([TIME[2019-08-06 15:38:36 +09:00]]) 
<http://nirr.lib.niigata-u.ac.jp/bitstream/10623/36008/1/40_1-17.pdf>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[343] [CITE@ja[稲荷山古墳出土鉄剣 - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-25 01:44:08 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F%E9%89%84%E5%89%A3>
]FIGCAPTION]

> 辛亥年七月中記、
> 辛亥年は471年が定説であるが一部に531年説もある。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[344] [CITE@ja[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘 - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-08 12:35:57 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%E9%87%91%E5%A0%82%E9%87%88%E8%BF%A6%E4%B8%89%E5%B0%8A%E5%83%8F%E5%85%89%E8%83%8C%E9%8A%98>
]FIGCAPTION]

> また、1989年の昭和資材帳調査で、釈迦三尊像の宣字形台座の下座下框から「辛巳年八月九月作□□□□」の墨書が発見された。この下框材は建造物の扉を転用したものとみられ、釈迦三尊像の完成が623年であることから、この墨書の「辛巳年」は621年に比定されている'''['''61''']'''。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[345] [CITE@ja[妙心寺 - Wikipedia]]
( ([TIME[2016-09-24 00:14:05 +09:00]]))
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E5%BF%83%E5%AF%BA>
]FIGCAPTION]

> 梵鐘 – 戊戌(つちのえいぬ)年、つまり西暦698年にあたる年の銘文がある、日本最古の紀年銘鐘。

]FIG]


- [352] [CITE[[[元号―年号から読み解く日本史―]]]]
- [1254] [CITE@ja[[[金銅小野毛人墓誌]] - Wikisource]], [TIME[2020-04-26 17:03:09 +09:00]] <https://ja.wikisource.org/wiki/%E9%87%91%E9%8A%85%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%AF%9B%E4%BA%BA%E5%A2%93%E8%AA%8C>


]REFS]

[2876] 
[CITE@ja[01yoshinaga.pdf]], [TIME[2020-05-25T01:22:56.000Z]], [TIME[2024-02-29T12:57:31.332Z]] <https://www.kansai-u.ac.jp/Tozaiken/publication/asset/bulletin/05/01yoshinaga.pdf>


** 律令時代

[1251] [[大宝律令]]の施行後、[[元号年]]が主として使われるようになりました。
[SEE[ [[律令時代の元号]] ]]

[293] 
[[大宝]]以後も[[干支年]]は根強く利用され続けたことが
[CITE[続日本紀]]記事や[[金石文]]、[[木簡]]などから窺えます
(佐藤 2000)。
[SRC[>>246 普及版 p.130]]

[63] 
しかし8世紀以後[[干支年]]の紀年を持つ木簡の出土例は少なくなっています。 [SRC[>>59]]
かわって大宝元年、
大宝二年をはじめ[[元号年]]の紀年を持つ木簡が見られるようになります。
[SRC[>>246 普及版 p.130]]


-*-*-

[581] 
[[正倉院文書]]の[[御野国]]、
[[豊前国]]、
[[陸奥国]]の[[戸籍]]には、
「太寶二年」
とありました。
[SRC[>>502]]



[1953] 
[[長谷寺]]
[WEAK[([[日本国]][[大分県]][[中津市]])]]
銅製観音菩薩立像に、
「壬歳次攝提格林鐘拾[ASIS[伍][または五]]日 [SNIP[]]」
とありました。
[[干支年]]は壬寅年で、
林鐘は6月ゆえに'''[TIME[大宝2(702)年6月15日][kyuureki:702-06-15]]'''または'''[TIME[皇極天皇元(642)年6月15日][kyuureki:642-06-15]]'''と解されています。
[SRC[>>1954]]


[1959] 
[[法起寺]]
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[生駒郡]][[斑鳩町]])]]
三重塔露盤銘逸文に、
「壬午年二月廿二日」、
「戊戌年」、
「乙酉年」、
「丙午年三月」
とありました。
[SRC[>>698]]
それぞれ、
[TIME[推古天皇30(622)年12月22日][kyuureki:622-12-22]]、
[TIME[舒明天皇10(638)年][year:638]]、
[TIME[天武天皇15(685)年][year:685]]、
'''[TIME[慶雲3(706)年][year:706]]3月'''と解されています。
露盤は現存せず、
[CITE[聖徳太子伝私記]]
[WEAK[([TIME[嘉禎4(1238)年][year:1238]]成立)]]
に引用されたものが伝わります。
偽作説もありましたが、
現在は真作と考えられています。






[1262] 
[[文祢麻呂]]墓誌
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[宇陀市]]出土)]]
に
「[SNIP[]] 慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒」
とありました。
[SRC[>>1263]]
'''[TIME[慶雲4(707)年9月21日][kyuureki:707-09-21]]'''没後に作られたものとされます。




[579] 
[CITE[威奈大村卿墓誌銘]]
に、
「[SNIP[]]
以[SUB[二]]大寶元年[SUB[一]]律令初定
[SNIP[]]
四年正月
[SNIP[]]
慶雲二年
[SNIP[]]
同
歳十一月十六日
[SNIP[]]
四年二月
[SNIP[]]
慶雲四年歳在丁未
四月廿四日
[SNIP[]]
其年冬
十一月乙未朔廿一日乙
卯
[SNIP[]]」
とありました。
[SRC[>>1264, >>1265]]
'''[TIME[慶雲4(707)年][year:707]]'''の没後のもので、
[TIME[大宝元(701)年][year:701]]
[SRC[>>502 ([CITE[寧楽遺文]]下巻, p.967)]]
から没年までの[[元号年]]が見えます。




[1266] 
[[下道圀勝弟圀依母夫人之骨蔵器]]
([[日本国]][[岡山県]][[小田郡]][[矢掛町]]出土)
に
「以和銅元年歳次戊申十一月廿七日己酉成」
とありました。
'''[TIME[和銅元(708)年11月27日][kyuureki:708-11-27]]'''と解されています。
[SRC[>>1267]]



[1281] 
[[銅製伊福吉部徳足骨蔵器]]
[WEAK[([[日本国]][[鳥取県]][[岩美郡]][[宇部野村]]出土)]]
に
「[SNIP[]] 藤原大宮御宇[SUB[大行]]天皇御世慶雲四年歳次丁未春二月二十五日從七位下被賜仕奉 [SNIP[]]
和銅元年歳次戊申秋七月一日卒
[SNIP[]]
三年庚戌冬十月
[SNIP[]]
故謹録錍和銅三年十一月十三日己未」
とありました。
'''[TIME[和銅3(710)年11月13日][kyuureki:710-11-13]]'''に作られたものと解されています。
[SRC[>>1282, >>1284, >>1285, >>1286]]

;; [1288] 繰り返しを避けるためなのか本文には歳次何々とあるのに最後の紀年にはなく、
かわりに[[日干支]]があるのが注目されます。



[1291] 
奈良県佐井寺僧道薬墓出土墓誌
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[天理市]]出土)]]
に
「和銅七年歳次甲寅二月廿六日命過」
とありました。
'''[TIME[和銅7(714)年2月26日][kyuureki:714-02-26]]'''没後のものと解されています。
[SRC[>>1292]]



[1960] 
[[栗原寺]]
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[桜井市]])]]
三重塔鑢盤銘文に、
「[SNIP[]] 大倭国浄美原
宮治天下天皇時 [SNIP[]]
以甲午年始至於和銅八年合廿二年中 [SNIP[]]
和銅八年四月 [SNIP[]]」
とありました。
[SRC[>>1961, >>1962]]
それぞれ[[天武天皇]]時代、
[TIME[持統天皇8(694)年][year:694]]、
'''[TIME[和銅8(715)年][year:715]]4月'''と解されています。



[1963] 
[[元明天皇]]陵碑
[WEAK[(原位置[[日本国]][[奈良県]][[奈良市]])]]
に、
「養老五年歳次辛酉冬十二月癸酉朔十三日乙酉」
とありました
[SRC[>>1939]]。
'''[TIME[養老5(721)年12月13日][kyuureki:721-12-13]]'''と解されています。
この碑は行方不明になっていたのが[[江戸時代]]に発見され、
[CITE[東大寺要録]]
[WEAK[(12世紀頃成立)]]
を参考に複製されたものといいます
[SRC[>>1964]]。
原碑は判読不能とされます
[SRC[>>1965]]。







[1293] 
[[太安萬侶墓誌]]
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[奈良市]]出土)]]
に
「左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」
とありました。
[SRC[>>1294]]
'''[TIME[養老7(723)年[LINES[癸][亥]]12月15日][kyuureki:723-12-15]]'''と解されています。
死去は[TIME[養老7(723)年[LINES[癸][亥]]7月6日][kyuureki:723-07-06]]と解されています。




[218] 
[[上野三碑]] 
[WEAK[([[日本国]][[群馬県]][[高崎市]])]]
に、
それぞれ、
[[山ノ上碑]]
「辛巳歳集月三日」 [SRC[>>215]]、
[[多胡碑]]
「和銅四年三月九日甲寅」 [SRC[>>216]]、
[[金井沢碑]]
「神亀三年丙寅二月二十九日」 [SRC[>>217]]
とありました。
それぞれ'''[TIME[天武天皇10(681)年10月3日][kyuureki:681-10-03]]'''、
'''[TIME[和銅4(711)年3月9日][kyuureki:711-03-09]]'''、
'''[TIME[神亀3(726)年2月29日][kyuureki:726-02-29]]'''と解されています。
[SEE[ [[律令時代の元号]] ]]





[1967] 
[[観禅院]]梵鐘銘文に
「神亀四年歳次丁卯十二月十一日」
とありました。
[SRC[>>1969]]
'''[TIME[神亀4(727)年12月11日][kyuureki:727-12-11]]'''と解されています。






[1269] 
[[山代忌寸真作墓誌]]
([[日本国]][[奈良県]][[五條市]]発見)
に
所知天下自輕天皇御世以来至于四継仕奉之人河内國石川郡山代郷従六位上山代忌寸真作 戊辰十一月廿五日□□□□〔逝去〕又妻京人同國郡郷移蚊屋忌寸秋庭 壬戌六月十四日□□□〔逝〕」
とありました。
[[文武天皇]]時代から4代にわたって仕えた人物と妻の[[墓誌]]とされます。
[[日付]]はそれぞれ、
'''[TIME[神亀5(728)年[LINES[戊][辰]]11月25日][kyuureki:728-11-25]]'''、
[TIME[養老6(722)年[LINES[壬][戌]]6月14日][kyuureki:722-06-14]]とされます。
[SRC[>>1268]]

;; [1289] [[干支年]]を使い、「年」を省略しているのが注目されます。



[1295] 
[[金銅小治田安万侶墓誌]]
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[奈良市]]出土)]]
に
「左琴神亀六年二月九日」
「[SNIP[]] 神亀六年歳次己巳二月九日」
「右書神亀六年二月九日」
とありました。
'''[TIME[神亀6(729)年2月9日][kyuureki:729-02-09]]'''の没後のものと解されています。
[SRC[>>1296]]







[REFS[
- [698] [CITE[東京国立博物館デジタルライブラリー / [[聖徳太子伝私記]]《定本古今目録抄》 : 上巻]], [TIME[2020-06-08 11:25:05 +09:00]] <https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/1713>
-- 125番 <https://webarchives.tnm.jp/dlib/img/1713/medium/1546/00125.jpg>
-- 126番 <https://webarchives.tnm.jp/dlib/img/1713/medium/1546/00126.jpg>
- [1954] [TIME[2020-06-07 12:23:33 +09:00]] <http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/dk01705.pdf?file_id=1338#page=8>
- [1961] [CITE[[[粟原寺]]跡 - かぎろひNOW]], 
2018/12/1119:50,
[TIME[2020-06-08 13:41:08 +09:00]] <http://kagiroi3.blog.fc2.com/blog-entry-1899.html?sp>
- [1962] [CITE[20.jpg (JPEG 画像, 298x469 px)]], [TIME[2017-05-10 16:43:37 +09:00]] <http://www.tanzan.or.jp/images/about/20.jpg>
- [1964] [CITE@ja[[[元明天皇]] - Wikipedia]], [TIME[2020-06-04 09:23:30 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E9.99.B5.E3.83.BB.E9.9C.8A.E5.BB.9F>
- [1965] [CITE@ja[[[橿原考古学研究所]] 友史会 :: 2006年9月例会 『平城京外京周辺の遺跡』]], [TIME[2020-06-08 14:05:23 +09:00]] <http://www.kashikoken-yushikai.org/index.php/blog/reikai0609>
- [1969] [CITE@ja[[[梵鐘]](ぼんしょう) - 法相宗大本山 興福寺]], [TIME[2020-06-08 14:17:25 +09:00]] <https://www.kohfukuji.com/property/e-0090/>
]REFS]

[1029] 
[CITE@ja-JP[上毛及上毛人 (294)]], [[上毛郷土史研究会]], [TIME[1941-10]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T04:44:45.783Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3567484/1/7> (要登録)

-*-*-

[580] 
[CITE[美努連岡万墓誌銘]]
に、

- [1989] 「[SNIP[]] 飛鳥淨御原 天皇御世
甲申年正月十六日 [SNIP[]]」
- [1990] 「[SNIP[]] 藤原宮御宇
大行 天皇御代大寶元年歳次辛丑五月
[SNIP[]]」
- [1991] 「[SNIP[]] 平城宮治天下大行 天皇御世
霊龜二年歳次丙辰正月五日 [SNIP[]]」
- [1992] 「[SNIP[]] 神龜五年歳次戊辰十月卄日
卒春秋六十有七 [SNIP[]]」
- [1993] 「天平二年歳次庚午十月[ASIS[一]]日」

... ([[縦書き]]) とありました。
[SRC[>>1940, >>1955, >>1270]]

[1996] 
「飛鳥淨御原 天皇」
は
「飛鳥淨御原宮⃞天皇」
とするものもありました。
1字剥落のようにも見えますが、
「大行 天皇」
が空欄を入れていることから、
こちらも空欄と解するのが適当とされます。
[SRC[>>1955]]

[1997] 
最後の天平2年10月「一」日
は、判読困難です。
「一」、「二」とされることもありますが、
「卄」と読んで3年忌に当たる天平2年10月20日と刻んだものとの説があります。
[SRC[>>1955]]


[1995] 
それぞれ、
[TIME[天武天皇13(684)年1月16日][kyuureki:684-01-16]]、
大宝元年5月、
霊亀2年1月5日、
神亀5年10月20日、
'''[TIME[天平2(730)年10月20日][kyuureki:730-10-20]]'''と解されています。

[1999] 
天武天皇13年1月16日については、
[CITE[日本書紀]]
春正月甲申朔[RUBY[庚子][17]]条に相当し、
1日の差があります。
[SRC[>>1955]]



[HISTORY[
[1994] 
「飛鳥浄御原天皇御世[RUBY[甲午年][﹅﹅﹅]](天武天皇十二年)正月十六日」
([[縦書き]])
とするものもありました
[SRC[>>502 p.55 ([CITE[寧楽遺文]]下巻, p.969)]]
が、誤りです。
]HISTORY]

[REFS[
- [1955] [CITE@ja[[[美努岡萬連墓誌銅版]]に就て - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-07 13:45:58 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2537554/2>
-- <https://dl.ndl.go.jp/view/pdf/digidepo_2537554.pdf?pdfOutputRanges=2-5&pdfOutputRangeType=R&pdfPageSize=>
]REFS]

-*-*-

[1298] 
奈良県行基墓出土墓誌断片
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[生駒市]]出土)]]
に
「□一年二月□〔丁〕」
とありました。
[TIME[天平21(749)年][year:749]]と解されています。
[SRC[>>1297]]

[1345] 
現存するのは断片のみですが、
[CITE[大僧正舎利瓶記]]
([CITE[行基舎利瓶記]],
[CITE[大僧上舎利瓶記]])
として写しが伝わります。
次のような[[日付]]がありました。
[SRC[>>1346, >>1347]]
'''[TIME[天平21(749)年3月23日][kyuureki:749-03-23]]'''のものと解されています。

- [1348] 近江大津之朝戊辰之
歳
- [1349] 「飛鳥之朝壬午之歳」
-- [TIME[日本書紀天武天皇11(682)年][year:682]]
- [1350] 天平十七年
- [1351] 寿八十二廿一年二月二日丁酉之夜
-- 82才は年齢、21年は天平
- [1352] 二月八日
- [1353] 天平廿一年歳次己丑三月廿三日

[REFS[
- [1346] [CITE@ja[『行基年譜』、『行基墓誌』の原文がみられるのは井上薫著の『行基事典... - Yahoo!知恵袋]], [TIME[2020-05-14 17:05:14 +09:00]] <https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1099961965>
- [1347] [CITE[舍利瓶記の信憑性]], [TIME[2018-11-28 14:44:04 +09:00]] <http://web.kyoto-inet.or.jp/people/honda5/ron2.htm>
]REFS]

-*-*-

[1301] 
[[石川年足墓誌]]
[WEAK[([[日本国]][[大阪府]][[高槻市]]出土)]]
に
「[SNIP[]]
當平成宮御宇天皇之世天平寳字六年歳次壬寅九月丙子朔乙巳 [SNIP[]]
以十二月乙巳朔壬申葬于 [SNIP[]]」
とありました。
[SRC[>>1300]]
'''天平宝字6(762)年9月'''と解されています。
(9月1日、12月1日と解する [SRC[>>1302]] のは誤訳。)


[1304] 
宇治宿禰墓誌
[WEAK[([[日本国]][[京都府]][[京都市]]出土)]]
に
「□雲二年十二月」
とありました。
'''[TIME[慶雲2(705)年][year:705]]'''または'''[TIME[神護景雲2(768)年][year:768]]'''と解されています。
空白は1文字分ですが、
「景雲」と[[2文字表記][元号名]]されることもあるため否定できません。
[SRC[>>1303]]


[1307] 
[[高屋枚人墓誌]]
[WEAK[([[日本国]][[大阪府]][[南河内郡]][[太子町]]出土)]]
に
「寳龜七年歳次丙辰十一月乙卯朔卄八日壬午葬」
とありました。
[SRC[>>1306]]
'''[TIME[宝亀7(776)年11月28日][kyuureki:776-11-28]]'''と解されています。



[1308] 
紀吉継墓誌
[WEAK[(現[[日本国]][[大阪府]][[南河内郡]][[太子町]]出土)]]
に
「維延曆三年歳次甲子朔癸酉丁
酉 [SNIP[]]」
とありました。
'''[TIME[延暦3(784)年1月25日][kyuureki:784-01-25]]'''没後のものと解されています。
[SRC[>>1309]]

;; [1310] [[月名]]が抜けていることが注目されます。






[REFS[
- [1284] [CITE[古事類苑]], [CSECTION[帝王部十六]], [CSECTION[諡號]], [CSECTION[漢風諡]], [TIME[2012-03-19 02:16:18 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/teioubu/frame/f000922.html>, 第 9 巻 922 頁
- [1305] [CITE[高屋枚人墓誌]], [TIME[2020-05-12 18:58:51 +09:00]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i04/i04_03153_b355/index.html>
-- [1306] [CITE[i04_03153_b355_p0001.jpg (JPEG 画像, 1728x2592 px) - 表示倍率 (19%)]], [TIME[2012-02-10 14:44:42 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_03153/i04_03153_b355/i04_03153_b355_p0001.jpg>
- [1303] [CITE[kyoutofu-J46.pdf]], [TIME[2015-02-04 09:08:22 +09:00]] <http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/jyouhou/kyoutofu-J46.pdf#page=50>
- [1285] [CITE[Ijuin+article+3.pdf]], [TIME[2020-05-12 17:53:42 +09:00]] <https://static1.squarespace.com/static/58124ac8579fb3f8ea46dc1b/t/587aef521e5b6cf13b816186/1484451672357/Ijuin+article+3.pdf#page=18>
- [1286] [CITE@ja[東京国立博物館 - コレクション 名品ギャラリー 館蔵品一覧 伊福吉部徳足比売骨蔵器(いほきべのとこたりひめこつぞうき) 画像一覧]], [[東京国立博物館 -トーハク-]], [TIME[2020-05-12 17:57:32 +09:00]] <https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=other&colid=J35626&t=>
-- [1287] [CITE[LL_C0031985.jpg (JPEG 画像, 1097x871 px) - 表示倍率 (58%)]], [TIME[2011-05-24 18:40:04 +09:00]] <https://www.tnm.jp/uploads/r_collection/LL_C0031985.jpg>
- [1267] [CITE[国指定文化財等データベース]], [TIME[2020-05-11 18:31:37 +09:00]] <https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9763>
- [1263] [CITE@ja[[[書根麻呂]] - Wikipedia]], [TIME[2020-04-27 18:14:10 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E6%A0%B9%E9%BA%BB%E5%91%82#%E6%96%87%E7%A5%A2%E9%BA%BB%E5%91%82%E3%81%AE%E5%A2%93>
- [1264] [CITE@ja[[[威奈大村]] - Wikipedia]], [TIME[2020-04-26 21:24:18 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A8%81%E5%A5%88%E5%A4%A7%E6%9D%91>
- [1265] [CITE[威奈大村骨蔵器銘文]], [TIME[2011-08-13 20:30:37 +09:00]] <http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/01kodai/photo/kodai21-07.html>
- [1268] [CITE@ja[重要文化財|墓誌([[山代忌寸真作墓誌]])|奈良国立博物館]], [TIME[2020-05-11 18:38:34 +09:00]] <https://www.narahaku.go.jp/collection/640-0.html>
- [1270] [CITE@ja[[[美努岡麻呂]] - Wikipedia]], [TIME[2020-04-27 18:45:03 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E5%8A%AA%E5%B2%A1%E9%BA%BB%E5%91%82>
-- [1940] [CITE@ja[ファイル:Epitaph of Mino no Okamaro.jpg - [[Wikipedia]]]], [TIME[2020-06-09 13:35:28 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Epitaph_of_Mino_no_Okamaro.jpg>
- [1282] [CITE[国指定文化財等データベース]], [TIME[2020-05-12 17:32:38 +09:00]] <https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/9738>
- [1283] [CITE@ja[6736_[[下道圀勝弟圀依母夫人之骨蔵器]](複製)(国立歴史民俗博物館) :: 東文研アーカイブデータベース]], [TIME[2020-05-12 17:34:49 +09:00]] <https://www.tobunken.go.jp/materials/nenki/242420.html>
- [1290] [CITE@ja[[[金石文]] - Wikipedia]], [TIME[2020-04-28 17:27:38 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%9F%B3%E6%96%87#%E5%A2%93%E7%A2%91%E3%83%BB%E5%A2%93%E8%AA%8C%E9%8A%98>
- [1292] [CITE@ja[重要文化財|墓誌(奈良県佐井寺僧道薬墓出土)|[[奈良国立博物館]]]], [TIME[2020-05-12 18:13:55 +09:00]] <https://www.narahaku.go.jp/collection/722-1.html>
- [1294] [CITE@ja[[[太安万侶]] - Wikipedia]], [TIME[2020-04-27 18:34:51 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%AE%89%E4%B8%87%E4%BE%B6>
- [1296] [CITE@ja[[[小治田安萬侶]]の墓 - Wikipedia]], [TIME[2020-04-27 04:02:42 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%B2%BB%E7%94%B0%E5%AE%89%E8%90%AC%E4%BE%B6%E3%81%AE%E5%A2%93>
- [1297] [CITE@ja[重要美術品|墓誌断片(奈良県行基墓出土)|[[奈良国立博物館]]]], [TIME[2020-05-12 18:29:28 +09:00]] <https://www.narahaku.go.jp/collection/p-490-0.html>
- [1299] [CITE[石川年足墓誌]], [TIME[2020-05-12 18:38:31 +09:00]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i04/i04_03153_b352/index.html>
-- [1300] [CITE[i04_03153_b352_p0001.jpg (JPEG 画像, 1728x2592 px)]], [TIME[2012-02-10 14:44:34 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_03153/i04_03153_b352/i04_03153_b352_p0001.jpg>
- [1302] [CITE@ja[国宝「[[石川年足墓誌]]」が発見された「荒神塚」 - 日々是好日 とっつあんの雑記帳]], [TIME[2020-05-12 18:49:27 +09:00]] <https://blog.goo.ne.jp/tottuan310920/e/0a65371d291a73544f11f9ef4d12b211>
- [1309] [CITE@ja[紀広純 - Wikipedia]], [TIME[2020-05-02 13:35:16 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%BA%83%E7%B4%94#%E3%81%9D%E3%81%AE%E4%BB%96>

]REFS]

-*-*-

[1904] 
[[法隆寺]]
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[生駒郡]][[斑鳩町]])]]
[[五重塔]]天井格椽裏[[落書]]に、
「六月肺出」
とありました。
[[肺]]は[[彗星]]を意味するとみられます。
[SRC[>>2008 pp.370-371]]

[2007] 
[[五重塔]]は8世紀初め頃再建されたものとされます。
当時の[[ハレー彗星]]出現を記録したものとする説があります。



** 不審なもの

[397] 
[[漢の元号]]が書かれた金石文である通称[[室見川銘板]]が[[昭和時代]]に出土しました。
[[清国]]で作られたものと推測されています。
[SEE[ [[室見川銘板]] ]]


-*-*-

[2107]
[[国立歴史民俗博物館]]所蔵の[[琵琶(銘「白鳳」)]]は、
[[白鳳時代]]のものと伝えられる[[琵琶]]です。
銘文に
「白鳳六丁」
などと書かれているとされます。
天武天皇元年壬申を元年とする[[天武白鳳]]によれば、
[TIME[白鳳6(677)年][year:677]]は[[丁丑]]年で、
この4文字と矛盾しません。
一応'''[TIME[西暦677年][year:677]]'''と解されています。
[SEE[ [[琵琶(銘「白鳳」)]] ]]

[1813] 
[[伴信友]]は、
当時知られていた不明瞭な銘文
「白鳳丁六」
より、
「丁丑」
とすると白鳳5年だとしました。
「十六」
との説もあるが白鳳16年はない、
としました。
[SRC[>>1731]]


-*-*-

[2510] 
「白鳳十一年[SUP[壬]]午正月」
と書かれた[[古瓦]]があったと、
[[江戸時代]]の記録に残されていました。
天武天皇元年壬申を元年とする[[天武白鳳]]と[[干支年]]が一致するので、
一応'''[TIME[天武天皇11(682)年][year:682]]1月'''と解されています。
[SEE[ [[白鳳11年古瓦]] ]]


[1811] 
[[伴信友]]は、
[[天武白鳳]]説のうち癸酉年を元年とするものを正しいとしたので、
1年ずれが生じるこの[[古瓦]]を偽造と判断しました [SRC[>>1731]]。

-*-*-

[1820] 
[[鬼室集斯墓]]とされる八角石柱
[WEAK[([[日本国]][[滋賀県]][[日野町]][[鬼室神社]])]]
に、
「[V[朱鳥三年[LINES[戊][子]]十一月八日□]]」
とありました。
一応'''[TIME[持統天皇2(688)年11月8日][kyuureki:688-11-08]]'''と解されますが、
[[中世]]以後の偽作とされます。
関係して[[鬼室王女墓]]に
「[V[朱鳥三年戊子三月十七日]]」
とあったとされます。
[SEE[ [[鬼室集斯墓]], [[鬼室王女墓]] ]]


-*-*-

[2675] 
[[日本刀]]の[[元祖]]の[[天国]]の作った刀の銘に
「久視元年八月一日」
のものがあったとされます。
偽銘と考えられています。
[SEE[ [[久視]] ]]

[2678] 
また、同じ[[天国]]の作とされ現存する[[小烏丸]]には銘文がありませんが、
かつては「大宝□年」銘があったといわれ、
弐年説と参年説があり、また大宝2年8月25日説があります。
しかしやはり偽銘と考えられています。
[SRC[>>2608]]


[REFS[
- [2608] 
[CITE@ja-JP[[[刀剣と歴史]] (426)]], [[日本刀剣保存会]], [TIME[1965-07]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-24T04:45:10.288Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7901120/1/22> (要登録)
]REFS]





-*-*-


[1272] 
[[楊貴氏墓誌]]
[WEAK[(現[[日本国]][[奈良県]][[五條市]]出土)]]
は、
[[江戸時代]]に発見され、その後行方不明となっていますが、
「[SNIP[]]
天平十一年八月十
二日記
歳次己卯」
([[縦書き]])
とありました。
一応'''[TIME[天平11(739)年[LINES[己][卯]]8月12日][kyuureki:739-08-12]]'''と解されています。
[SRC[>>1271]]

[1273] 
[[年月日]]の後に更に[[歳次]]何々と[[年干支]]を書くのはこの時代他に例がなく、
しかも「記」を挟んで次の行にあることに疑問が持たれています。
両者の[[字形]]が異なることから
「歳次己卯」
は追刻とされますが、それを除く銘文が右側に偏りすぎていることが注目されます。
こうした不審点や他の理由から、
信憑性には疑問が持たれています。
[SRC[>>1271]]


[REFS[
- [1271] [CITE@ja[[[楊貴氏墓誌]] - Wikipedia]], [TIME[2020-04-27 19:23:12 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%8A%E8%B2%B4%E6%B0%8F%E5%A2%93%E8%AA%8C>
]REFS]


* 文献の紀年

** 三国志

[1215] 
[CITE[三国志]]
[WEAK[([[陳寿]]著、[TIME[西暦280年][year:280]]以後成立)]]
内通称
[CITE[魏志倭人伝]]
に、
[[三国時代]]当時の[[倭]]に関する記述がありました。

[1217] 
[[陳寿]]による原文に、
[[倭人]]の[[寿命]]について
「其人壽考或百年或八九十年」
とありました。
[SRC[>>1219]]

[1218] 
[[裴松之]]による注釈
[WEAK[([TIME[南宋元嘉6(429)年][year:429]]成立)]]
に、
「魏略曰其俗不知正歲四節但計春耕秋收爲年紀」
とありました。
[SRC[>>1219]]

[1222] 
[CITE[晋書]]
[WEAK[([TIME[648年][year:648]]成立)]]
に、
「不知正歲四節,但計秋收之時以爲年紀。人多壽百年,或八九十。」
とありました。
[SRC[>>1221]]


[1216] 
当時の[[倭]]に[[中華王朝のような整備された暦法][農暦]]がなく、
農耕により年を数える原始的な[[自然暦]]があるのみだったようです。

[1220] 
この記述は春年と秋年の2年で現在でいう1年を数えていたとする[[二倍年暦説]]の根拠の1つに使われていますが、
学術的根拠が希薄で疑問視されています。
[SEE[ [[二倍年暦説]] ]]


[REFS[
- [1219] [CITE@ja[[[三國志]]/卷30 - Wikisource]], [TIME[2020-04-22 17:29:52 +09:00]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B730?uselang=ja#%E5%80%AD%E4%BA%BA>
- [1221] [CITE@ja[[[晉書]]/卷097 - Wikisource]], [TIME[2020-04-22 17:48:23 +09:00]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7097?uselang=ja#%E5%80%AD%E4%BA%BA>
]REFS]

** 金剛場陀羅尼経写本

[1900] 
[CITE[金剛場陀羅尼経]]
写本に、
「[ASIS[嵗][歲でなく歳]]次丙戌年五月」
([[縦書き]])
の書写とありました。
[[日本]]の現存最古の[[写経]]で、
[[紙]]に書かれた最古の部類に属するとされます。
'''[TIME[天武天皇15(686, 朱鳥元)年][year:686]]5月'''と解されています。
[SRC[>>1899]]

[1903] 
ちなみに[[石田茂作]]は論文でこれを
「歲次丙戌 [WEAK[(天武天皇十四年)]]」
([[縦書き]])
としていました。 [SRC[>>1902 p.366]]
壬申翌年の癸酉年を[[天武天皇]]元年とした数え方となります。


[REFS[
- [1901] [CITE[[[佛敎考古學論攷]]]]
-- [1902] [CITE[法隆寺金堂天井板の落書]], 初出昭和二二年八月
-- [2008] [CITE[法隆寺五重塔の落書と壁畫]], 初出昭和二二年一二月
- [1899] [CITE@ja[[[金剛場陀羅尼経]] - Wikipedia]], [TIME[2020-05-27 21:20:06 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%89%9B%E5%A0%B4%E9%99%80%E7%BE%85%E5%B0%BC%E7%B5%8C>
]REFS]

** 古事記

[44] 
[CITE[古事記]]
[WEAK[([TIME[和銅5(712)年][kyuureki:712-01-28]]成立)]]
は、
[[歴史書]]でした。
[[日本]]の現存最古の史書とされます。

[2009] 
[[神代]]から[[推古天皇]]の時代までを扱っていました [SRC[>>47, >>43]]。
ほぼ同時代を扱った 
[CITE[日本書紀]]
ほど[[日付]]の記述は多くありません。
序文を除き、
[[元号]]は使われませんでした。

-*-*-

[46] 序文には、
誰々天皇の時代、
というような表現がいくつかありました。その他に、

- [2010] 「歲次大梁月踵夾鍾」
- [2011] 「和銅四年九月十八日」
- [2012] 「和銅五年正月廿八日」

... とありました。 [SRC[>>47]]
それぞれ、
[TIME[天武天皇2(673)年][year:673]]2月、
[TIME[和銅4(711)年9月18日][kyuureki:711-09-18]]、
'''[TIME[和銅5(712)年1月28日][kyuureki:712-01-28]]'''と解されています。



-*-*-

[45] 
本文では、
経過年数や人物の年齢を記したものの他に、
崩年が「壬子年十一月十三日」 [SRC[>>43]]
のように[[干支年]]と[[漢数字]]の[[月日]]で示されました。
例外的に「戊子年三月十五日癸丑日」 [SRC[>>43]]
と[[日干支]]も併記したものもありました。

[FIG(railroad)[
= [VAR[[[干支][干支年]]]]
= [CODE[年]]
= [VAR[月]]
= [VAR[[[漢数字]]数]]
= [CODE[日]]
= ?
== [VAR[[[干支][日干支]]]]
== [CODE[日]]
]FIG]


[REFS[
- [47] [CITE@ja[[[古事記]] 上-1 併序]] ([TIME[2014-06-02 16:53:02 +09:00]]) <http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_01.html>
- [43] [CITE@ja[[[古事記]] 下-4 清寧天皇記~推古天皇記]] ([TIME[2014-06-05 17:33:31 +09:00]]) <http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_17.html>
]REFS]

** 日本書紀

[864] 
[[六国史]]の第1、[CITE[日本書紀]]
[WEAK[([TIME[養老4(720)年][year:720]]成立)]]
は[[日本]]最古の[[正史]]で、
[CITE[古事記]]
からやや遅れて成立した現存する日本で2番目に古い歴史書です。


*** 神武東征時代

[423] [CITE[[[日本書紀]]]]の最古の[[紀年]]のある記事は[[神武東征]]であり、
「及年四十五歳。[SNIP[]] 是年也太歳甲寅。
其年冬十月丁巳朔辛酉。天皇親帥諸皇子舟師東征。」、
すなわち「甲寅年冬十月丁巳朔辛酉」
なる[[日付]]が示されていました。 [SRC[>>5]]

[421] [[神武天皇]]の[[年齢]]を逆算して更に何年か遡ることはでき
[WEAK[([SEE[ [[皇紀前]] ]]、ただし[CITE[日本書紀]]と[CITE[古事記]]で記述が異なります)]]、
あるいは「于今一百七十九萬二千四百七十餘歳。」 [SRC[>>5]]
との記述から[[神代]]の概年数を知ることはでき
([SEE[ [[天孫紀元]] ]])、
一方で史実がどの程度反映されているか不確かとはいえ、
[[日本]]の[[正史]]である[CITE[日本書紀]]で明確に記載された最初の[[日付]]がこれであり、
この日こそが[[日本の歴史]]の出発点であるといえます。

[422] それ以後[[神武東征]]時代については同様に[[干支年]]で[[日付]]が記載されました。
[SRC[>>5]]

[105] [CITE[日本書紀]]は以後の天皇については[[摂政]]、[[称制]]、[[壬申の乱]]のような空位時代も前後の天皇や天皇に準じた[[神功皇后]]の時代に組み込んでいますが、
[[神武東征]]については初代天皇という特殊性のためか、
[[神武天皇]]時代には組み入れられていません。
[[干支年]]で記述されるのは[CITE[日本書紀]]でここだけです。

[28] もちろんこれは[CITE[日本書紀]]編者らによる[[紀年法]]であって、
[[神武東征]]が史実かどうかの議論は置いておくとしても、
当該時代の実際の[[日時制度]]は定かではありません。

[16] [[皇紀]]が[[神武天皇]]の[[即位紀年][天皇即位紀年]]の延長として定められたためか、
[TIME[皇紀元年][year:-659]]以前も数年間連続した期間があるにも関わらず、
この期間は蔑ろにされがちです。
この[[神武東征]]期間を扱う[[紀年法]]もいくつかあります。
[SEE[ [[神武天皇即位前の紀年法]] ]]

*** 記紀天皇時代

[29] [[神武天皇]]即位後、
最初の[[元号]]である[[大化]]より前の時代について、
[CITE[日本書紀]]などでは[[天皇即位紀年]]が用いられてきました。

[9] [[神武天皇]]の即位について[CITE[日本書紀]]には
「辛酉年春正月庚辰朔。天皇即帝位於橿原宮。是歳爲天皇元年。」 [SRC[>>5]]
とする記事があり、
以後ここからの年数で記述されました。

[10] 
例えば次の記事は「二年春二月甲辰朔乙巳。」 [SRC[>>5]]
とあり、 
神武天皇の即位2年目、
2月すなわち[[朔日]]の[[日干支]]が[[甲辰]]である[[月]]、
[[日干支]]が[[乙巳]]である日、
すなわち[TIME[皇紀2年2月2日][-0658-02-02]]が表されていました。
[[神武天皇]]のみならず以後の天皇の時代、
[CITE[日本書紀]]に続く各[[正史]]でもこの[[日付形式]]が採用されました。

[30] 
[[朔日]]を表すときは、
「廿四年春二月丁未朔」 [SRC[>>11]]
のごとく[[日干支]]は1つだけ記述されました。

[32] 
[[月]]内のいつかを表すときは、
「廿三年春三月」 [SRC[>>11]]
のように[[月]]まで記述されました。

[33] 
[[年]]内のいつかを表すときは、
「廿五年」 [SRC[>>25]]
のように[[年]]まで記述されました。

[34] 
「五年秋八月庚寅朔壬寅。[SNIP[]]
冬十月。」 [SRC[>>25]]、
「三年冬十月辛未朔癸酉。[SNIP[]]
十一月。[SNIP[]]
是歳[SNIP[]]」 [SRC[>>25]]、
「廿二年春三月甲申朔戊子。[SNIP[]]
丁酉。」 [SRC[>>25]]、
「四十一年春二月甲午朔戊申。[SNIP[]]
是月。」 [SRC[>>25]]
のごとく、年、季節、月が前項と同じ時省略されたり、
「この歳」、「この月」のような表現が用いられたりもしました。

[49] 
「三月上巳」「二年春三月上巳」 [SRC[>>48]]
のような表現もありました。
([[上巳の節句]] = 3月3日)


[52] [CITE[日本書紀]]では「[VAR[何々]]朔」または「[VAR[何々]]朔[VAR[何々]]」
といった日の表記がほとんどでしたが、
[CITE[続日本紀]]以後では
「[VAR[何々]]朔」または「[VAR[何々]]」
となりました。

;; [53] なお[CITE[六国史]]第6の
[CITE[日本三代實錄]]では、
[[日]]は「[VAR[何々]]朔」または「[VAR[何]]日[VAR[何々]]」
のように常に日番号が併記されるようになりました。 [SRC[>>54]]


[FIG(railroad)[ [36] [VAR[日付]]
= |
== =
=== [VAR[年]]
=== ?
==== [VAR[季]]
==== [VAR[月]]
==== ?
===== [VAR[朔と日]]
== =
=== [VAR[季]]
=== [VAR[月]]
=== ?
==== [VAR[朔と日]]
== =
=== [VAR[月]]
=== ?
==== [VAR[朔と日]]
== [VAR[日]]

]FIG]

[FIG(railroad)[ [35] [VAR[[[季]]]]
= |
== [CODE[春]]
== [CODE[夏]]
== [CODE[秋]]
== [CODE[冬]]
]FIG]

[FIG(railroad)[ [37] [VAR[月]]
= ?
== [CODE[閏]]
= |
== [CODE[正月]]
== =
=== [VAR[[[漢数字]]数]]
=== [CODE[月]]
]FIG]

[FIG(railroad)[ [51] [VAR[朔と日]]
= |
== =
=== [VAR[朔]]
=== ?
==== [VAR[日]]
== [VAR[日]]
]FIG]

[FIG(railroad)[ [38] [VAR[朔]]
= [VAR[[[干支][日干支]]]]
= [CODE[朔]]
]FIG]

[FIG(railroad)[ [39] [VAR[日]]
= [VAR[[[干支][日干支]]]]
]FIG]

[17] 
[[天皇即位紀年]]は、「元年」、
「二年」のように年番号のみで表されていましたが、
他の天皇の在位中を参照する必要があるときは
「天豐財重日足姫天皇三年」 [SRC[>>18]] (斉明天皇3年)、
「天渟中原瀛眞人天皇元年夏六月」 [SRC[>>18]] (天武天皇元年6月)
のように天皇名と共に表記されました。

[23] 
天皇の他、[[神功皇后]]の時代についても、
「冬十月癸亥朔甲子、群臣尊皇后曰皇太后。是年也、太歲辛巳。則爲攝政元年。
二年冬十一月丁亥朔甲午、[SNIP[]]」 [SRC[>>22]] 
のように同様の方法で記述されました。
次巻では「攝政六十九年夏四月。」 [SRC[>>25]] のように参照されました。

[192] 天皇名は「[[天豐財重日足姫天皇]]」のような[[和風諡号]]で記述されました。
現在ではこれを「[[斉明天皇]]」
のような[[漢風諡号]]に置き換えて表記するのが一般的となっています。
簡略化して単に「[[斉明]]」のように表記することもあります。

;; [20] [[漢風諡号]]は[CITE[日本書紀]]よりも後の時代に[[追号]]されたとされています。
現存する[CITE[日本書紀]]写本には[[漢風諡号]]も巻名に併記されていますが、
[[漢風諡号]]成立後に追記されたと考えられています。

[424] [[神功皇后]]については、現在では
「神功皇后摂政[VAR[何]]年」 [SRC[>>135]]、
「神功皇后[VAR[何]]年」、
「神功[VAR[何]]年」 [SRC[>>135]]、
「摂政[VAR[何]]年」 [SRC[>>135]]
といろいろな表記がみられます。


[EG[
[90] [[Wikipedia]] は「神功元年10月2日 - 神功69年4月17日」 (在位期間)
や「神功皇后69年4月17日」 (死去) のように表記しています [SRC[>>135]]。
]EG]

[FIG(railroad)[ [40] [VAR[年]]
= |
== =
=== ?
==== ?
===== |
====== [VAR[[[漢風諡号]]]]
====== [VAR[[[和風諡号]]]]
==== ?
===== |
====== [CODE[天皇]]
====== [CODE[皇后]]
====== [CODE[皇后摂政]]
====== [CODE[摂政]]
=== [VAR[[[漢数字]]数]]
== [VAR[[[干支][干支年]]]]
= [CODE[年]]
]FIG]

[21] [CITE[日本書紀]]の[[漢文]]原文では「天渟中原瀛眞人天皇元年」
のように[[元号年]]の表記の形を採っており、
現在もこの年を表記する際「天武天皇元年」のように元号風に取り扱う慣例となっていますが、
[CITE[日本書紀]]の一般的な[[書き下し文]]では
「天渟中原瀛眞人天皇の元年」などと[[助詞]]を挟んで2語として扱っているようです。
[[年]]以下についても「二年の春の二月甲辰の朔の乙巳」
のように[[助詞]]をいくつも挟んで[[書き下し文]]とするようです。

;; [31] [[漢文]]の書き下しにおける[[日付]]の処理方法に、
当時一般的な規則があったのかどうかは、わかりません。
後の時代の[[元号年]]も、
「何々の何年」と[[助詞]]を挿入している例は見られるようです。
[[天皇]]名でも[[元号名]]でも、
どの時代の何年目という包含関係が意識にあったため、
そう書き下したのでしょう。



[13] [[天皇即位紀年]]相互の関係は「太歳己卯」 [SRC[>>12]]
のごとき[[太歳]]の[[干支年]]の記述により知ることができました。

;; [14] [[皇紀]]や、各[[天皇即位紀年]]と[[西暦]]との関係は、
こうした記述をつなぎ合わせて求められました。


[REFS[
- [CITE[[[日本書紀]]]]
-- [5] [CITE@zh[日本書紀/卷第三 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 17:49:03 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B8%89>
-- [12] [CITE@zh[日本書紀/卷第四 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 18:49:25 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%9B%9B>
-- [41] [CITE@zh[日本書紀/卷第七 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-27 20:46:00 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B8%83>
-- [22] [CITE@zh[日本書紀/卷第九 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 20:47:37 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B9%9D>
-- [25] [CITE@zh[日本書紀/卷第十 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 20:50:57 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%81>
-- [48] [CITE@zh[日本書紀/卷第十五 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 13:16:08 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%BA%94>
-- [11] [CITE@zh[日本書紀/卷第十七 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-27 17:15:56 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%83>
-- [65] [CITE@zh[日本書紀/卷第廿五 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 17:29:45 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E4%BA%94>
-- [69] [CITE@zh[日本書紀/卷第廿六 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 20:37:36 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E5%85%AD>
-- [72] [CITE@zh[日本書紀/卷第廿七 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 17:49:15 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E4%B8%83>
-- [74] [CITE@zh[日本書紀/卷第廿八 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 17:55:32 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E5%85%AB>
-- [75] [CITE@zh[日本書紀/卷第廿九 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 17:56:51 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E4%B9%9D>
-- [18] [CITE@zh[日本書紀/卷第三十 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 19:06:54 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81>
- [CITE[続日本紀]]
-- [80] [CITE@zh[[[續日本紀]] - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 13:05:22 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%BA%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80>
- [54] [CITE@zh[日本三代實錄 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 13:37:50 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E4%BB%A3%E5%AF%A6%E9%8C%84>
- [135] [CITE@ja[神功皇后 - Wikipedia]] ([TIME[2016-01-08 23:31:07 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E>
]REFS]

*** 元年

@@
[1883] 
[[代替わり]]と[[天皇即位紀年]]の[[元年]]の関係



[67] 
[CITE[日本書紀]] 
は、
[TIME[西暦645年[LINES[乙][巳]]][year:645]]を、

- [1924] 第24巻[[皇極天皇]]紀 [SRC[>>1885]]
-- [1886] [TIME[6月「[RUBY[庚戌][14]]」][kyuureki:645-06-14]]の[[譲位]]までを[[皇極天皇]]4年として記述
- [1925] 第25巻[[孝徳天皇]]紀 [SRC[>>65]]
-- [1926] [TIME[「天豐財重日足姫天皇四年六月[RUBY[庚戌][14]]」][kyuureki:645-06-14]]の[[即位]]から[TIME[「[RUBY[乙卯][19]]」][kyuureki:645-06-19]]の[[改元]]までを[[皇極天皇]]4年として記述
-- [1927] [TIME[「大化元年秋七月丁卯朔[RUBY[戊辰][2]]」][kyuureki:645-07-02]]以後を[[大化]]元年として記述
- [1928] 
第26巻[[斉明天皇]]即位前紀は[[皇極天皇]]の[[譲位]]を
「改元四年六月」
と記述
(>>1729)
- [1929] 
第27巻[[天智天皇]]即位前紀は[[皇極天皇]]の[[譲位]]を
「天豐財重日足姫天皇四年」
と記述
[SRC[>>72]]


... していました。


[REFS[
- [1885] [CITE@zh[[[日本書紀]]/卷第廿四 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2020-05-23 09:50:43 +09:00]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E5%9B%9B>
]REFS]

*** 改元

[1726] 
ほとんどの[[代替わり]]には[[天皇即位紀年]]や[[元号]]の変更について特に何の記載もなく、
暗黙的に変更されていました。

[42] 
[CITE[日本書紀]]の[[景行天皇]]紀には、
「活目入彦五十狹茅天皇 [SNIP[]] 九十九年 [SNIP[]]
秋七月己巳朔卯己卯。太子即天皇位。因以改元。
是年也太歳辛未。 」 [SRC[>>41]]
とあり、新天皇即位により[[改元]]されたとありました。

[1722] 
[CITE[日本書紀]]で[[大化]]より前の「改元」の記事はこれだけです。
「[[建元]]」の記事はありませんでした。

[1723] 
[[大化]]の[[建元]]は、
「改天豐財重日足姫天皇四年爲大化元年」
とありました (>>67)。

[1724] 
[[白雉]]の[[建元]]は、
「改元白雉」
とありました (>>68)。


[1729] 
[[斉明天皇]]即位前紀に
「[SNIP[]] 十三年冬十月。息長足日廣額天皇崩。
明年正月。皇后即天皇位。
改元四年六月。讓位於天萬豐日天皇。稱天豐財重日足姫天皇。曰皇祖母尊。天萬豐日天皇。」
とありました [SRC[>>69]]。

;; [1730] ちなみにここで[[天皇即位紀年]]の[[改元]]を挟んだ舒明天皇13年と皇極天皇元年の時間関係を示すため後者を
「明年」と書いています。

[1725] 
[[朱鳥]]の[[改元]]には、
「改元曰朱鳥元年」
とありました (>>77)。

[1727] 
[CITE[日本書紀]]
の次、
[CITE[続日本紀]] (>>1049)
の最初の[[元号]]である[[大宝]]には、
「建元爲大寶元年」
とありました (>>829)。


-*-*-

[1694] 
[CITE[日本書紀]]
の
「建元」
と
「改元」
の使い分けが不審なことから、
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
説や[[大化]]を[[追号]]とする説 (>>521)
を唱える人がいました。
こうした説は支持を得ていません。


[1881] 
そうした説は[[建元]]とするべきところが[[改元]]とされることを不自然だと指摘しています。
しかし
[CITE[日本書紀]]
は[[建元]]という語をまったく使っていませんし、
今も (おそらく当時も) [[改元]]と[[建元]]を厳密に区別するべきとの意識は強くありません。
[[建元]]でないからおかしいとの論理を成立させるのは難しそうです。

[1882] 
[CITE[日本書紀]]
の[[元号]]と[[天皇即位紀年]]の扱い方に外形的な区別が見られないことを考えれば、
[[建元]]と書き分ける方がむしろ不自然という主張も成り立ち得ます。
[[改元]]と[[建元]]を区別するべきというのは[[元号]]が連綿と続くのが当然になった現在の常識に偏った見方とも思えます。



-*-*-



[490] 
[[重松明久]]は、
[CITE[日本書紀]]が[[孝徳天皇]]の[[大化]]を 
([[建元]]でなく) [[改元]]としており不自然なことを指摘しました。
[SRC[>>502 ([CITE[白鳳時代の年号の復原的研究]], [[重松明久]], [CITE[日本歴史]] 第319号, 昭和49年)]]

[809] 
[[所功]]は、
[[皇極天皇]]の[[天皇即位紀年]]から[[大化]]の[[元号]]への変更を[[改元]]と呼んで不自然でないと指摘しました。
[SRC[>>502]]


[817] 
[[新川登亀男]]は、
[[大宝]]と[[慶雲]]の[[改元]]記事が
「改元為某年」、
[[大化]]と[[和銅]]以後が
「改某年為某年」
とされていることから、
[[大化]]の[[改元]]記事は[[和銅]]年間以後のものとしました。
[SRC[>>590 ([CITE[「大化」「白雉」「朱鳥」年号の成り立ち]], [CITE[史料としての『日本書紀』]], 2011)]]

[818] 
[[河内春人]]は、
大化紀全体が律令知識で潤色されており、
[[改元]]記事の文体が影響を受けている可能性もあり根拠にならないとしました。
[SRC[>>590]]

-*-*-

[1696] 
[[伴信友]]は、
[[天武天皇]]の[[天皇即位紀年]]から[[朱鳥]]の[[元号]]への変更が[[建元]]でなく[[改元]]とされるのは不審だと指摘しました。
[SRC[>>1731, >>859 p.二三〇]]

[1733] 
[[伴信友]]は、
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
によりそれ以前の[[元号]]を削除した時、
[[改元]]から[[建元]]への修正を忘れたためだとしました。
[SRC[>>1731, >>859 p.二三〇]]

[525] 
[[坂本太郎]]は、
[[大化]]が[[建元]]でなく[[改元]]であること、
[[大化]]や[[白雉]]を経て中断があっても[[建元]]とする必然性がないこと、
斉明天皇紀の「気軽な意味」の[[改元]]の用例があること (>>1732) から、
これを否定しました。
[SRC[>>859 p.二三〇, >>502 (>>859, >>883)]]

[1697] 
[[伴信友]]は[[大化]]以来[[元号]]が途切れなく続いていたとする詔の解釈を示していました
(>>505) が、
これは [CITE[日本書紀]] の[[建元]]と[[改元]]の区別を重視した伴説と矛盾するものです。
[CITE[続日本紀]]
によれば[[大宝]]が[[建元]]され、それ以前に[[元号]]はなかったとされます。
伴説に從うなら
[CITE[日本書紀]]
のみならず
[CITE[続日本紀]]
も改刪されたものとせざるを得ません。
[SRC[>>859 p.二三〇]]


[1893] 
[[伴信友]]は、
[[大宝]]の前に[[大長]]の[[元号]]があったとしていました (>>1870)。
[CITE[続日本紀]]
が[[大宝]]を「建元」
としたのは、
[[大長]]までが[[元号]]を重要なものとみなさなかった時代 (>>1837)、
[[大宝]]からが重要に扱う時代となったことによるものとしました
[SRC[>>1731]]。
[[坂本太郎]]の指摘の通り、
あまりに自説に都合の良い解釈を重ねた矛盾した主張と評さざるを得ません。



-*-*-

[1732] 
[[伴信友]]は、
[CITE[日本書紀]]
斉明天皇即位前紀に改元四年 (>>1729)
とあるのは[[皇極天皇]]の即位による[[称元]]から4年を表し、
[[元号]]の[[改元]]とは意味が異なるとしました。
[SRC[>>1731]]

[HISTORY[
[1866] 
[[伴信友]]は、
それと同時に、
[[皇極天皇]]は[[舒明天皇]]の[[崩御]]後[[攝政]]となり、
翌年[[即位]]したところ、
[[敏達天皇]]7世孫と遠く[[女子]]なのに[[皇太子]]を差し置いて[[即位]]したのであって、
故に遠慮して当初は前帝の治世に加えて年を数え、
その後改元[SUP[ノ]]年を立てたのだろう、
これは[[漢初の即位紀年の改元]]に近い、
としました。
[SRC[>>1731]]

[1846] 
しかしながら、
[CITE[日本書紀]]
の[[舒明天皇]]即位紀年と[[皇極天皇]]即位紀年の境界は編集上の都合で年単位に設定されたと理解するのが自然で、
後世の[[逾年改元]]のような扱いが当時既にあったと考える根拠はありません。
仮にそうであるとしたところで、
前帝の最終年とその翌年での[[改元]]は単なる[[称元]]と考えるのが普通で、
治世途中の[[改元]] (>>1867) と同一視するのは難しいでしょう。

]HISTORY]


*** 引用文

[26] [CITE[[[日本書紀]]]]には他の書物の[[引用]]という形で、
「魏志云、明帝景初三年六月、」[SRC[>>22]]、
「百濟記云、壬午年、」[SRC[>>22]]、
「六十六年。是年、晉武帝泰初二年。」 [SRC[>>22]]
といった形の年の表現も一部に含められました。
[[日干支]]でなく[[日子]]で書いたものもありました。

-*-*-


[1259] 
[CITE[日本書紀]]
朱鳥元年七月丁巳条
[WEAK[([[朱鳥]]の[[改元]]は7月戊午なので、[[実際はまだ改元前][遡及年号]])]]
に
「丁巳。詔曰。天下百姓由貧乏而貸稻及貨財者。乙酉年十二月卅日以前。不問公私皆兔原。」
とありました。
[SRC[>>75]]

[1260] 
乙酉年は[TIME[天武天皇14(685)年[LINES[乙][酉]]][year:685]]と解されています。

;;
[1261] 
[[坂本太郎]]は、
[[天武天皇]]時代を指す[[紀年]]の用例をいくつか示し (>>114)、
この乙酉年に「(天武十三年)」 ([[縦書き]])
と注釈を付しました。 (注釈が何に基づくものか不明ですが、
体裁より、坂本が加えたものとみられます。)
他の用例の注釈は
[CITE[日本書紀]]
と同じく壬申年を元年としているのに、
[CITE[日本書紀]]
のこの用例だけ、
[CITE[日本書紀]]
と違う即位年元年となっています。意図的とは考えにくく、換算ミスでしょうか。

-*-*-


[1397] 
[CITE[日本書紀]]
[TIME[持統天皇6(692)年[LINES[壬][辰]]][year:692]]春2月丁未条に、
「二月丁酉朔丁未。詔諸官曰。當以三月三日將幸伊勢。 [SNIP[]]」
とありました [SRC[>>18]]。

;; [1396] 
[CITE[日本霊異記]]
に
「朱鳥七年壬辰二月」
として引用されました
(>>1390)。



-*-*-

[892] 
[CITE[日本書紀]]
持統天皇7年11月己亥条に
「試飲[SUB[二]]近江国益須郡醴泉[SUB[一]]。」、
持統天皇8年3月己亥条に
「詔曰、粤以[SUB[二]]七年歳次癸巳[SUB[一]]、醴泉涌[SUB[二]]於近江国益須郡賀山[SUB[一]]。」
とありました [SRC[>>502]]。

[1258] 
後者の7年[LINES[癸][巳]]は持統天皇7年と解されています。

[893] 
[[斎藤励]]は、
この時代の[[詔書]]は元から[[漢文]]で、
[CITE[日本書紀]]
編者の漢訳ではなく原文にあったものとしました。
[SRC[>>556]]



*** 紀年論

[55] 
[CITE[日本書紀]]と[CITE[古事記]]の自然な解釈は寿命や記述の矛盾が生じるため、
そのまますべて歴史的事実とすることはできません。
記紀や他の史料をどう解釈するべきかについて、
古くから様々な議論があります。
ほぼ確実とみられる学説から、
著しく独創的なファンタジーまで多様で膨大な数の提案があります。
[SEE[ [[紀年論]] ]]


*** [CITE[日本書紀]]後世改刪説と初期元号

[1614] 
[[江戸時代]]の[[伴信友]]や[[明治時代]]の[[斎藤励]]は、
[[[CITE[日本書紀]]後世改刪説]]を主張しました。
これは、
[[奈良時代]]に
[CITE[日本書紀]]
がいったん成立した後、
大規模に書き換えられたことがあり、
現在伝わる
[CITE[日本書紀]]
はその改変後のものだとする説でした。

[1728] 
その根拠には、
「[[改元]]」と「[[建元]]」の使い分け
(>>1694)
など数点が挙げられていました。
改刪によって[[壬申の乱]]前後の記述が大幅に書き換えられて、
[[天武天皇]]元年が癸酉年から壬申年の1年ずらされたとされました。


[1615] 
[[伴信友]]と[[斎藤励]]は[[天武白鳳]]や[[持統大化]]などの[[元号]]が実在したと考え
(>>751, >>514)、
それらが改刪により削除されたものと主張しました。
[CITE[日本書紀]]
と異なる初期元号説にとって
[CITE[日本書紀]]
との矛盾は強い否定材料となりますが、
改刪説はその
[CITE[日本書紀]]
の史料価値を下げるものですから、
都合が良いのです。

[1624] 
[[[CITE[日本書紀]]後世改刪説]]は、
[[昭和時代]]、
[[坂本太郎]]により完全に否定されました。
以後そのままの形で支持する歴史学者はいないようです。
[[坂本太郎]]は[[天武白鳳説]]との関係も特に検討して問題点を指摘し、
少なくてもそれに明快な解答が与えられない限り、
[[天武白鳳説]]の消極的理由に採用できない
[SRC[>>859 p.二二六]]
としました。
(改刪前を復元できないのですから、積極的理由になり得ないことは言うまでもありません。)

;; [2515] 
[[奈良時代]]の成立よりも'''前'''に改変されたとする説はその後も提唱されています。
完成し世に出る前の改変の検討とは、
編纂の過程を推測する議論に他なりません。
いったん世に出た後に改変された版に置き換えられたとする改刪説とは同列には語れません。



-*-*-

[2517] 
[[伴信友]]は、
[[大化]]から[[大宝]]まで、
[[元号]]が途切れず続いたとしました。
それが現在の
[CITE[日本書紀]]
に掲載されていないのは、
改刪の結果としました。
次のように説明しました。
[SRC[>>1731]]

- [2527] [[白鳳]] ([[孝徳天皇]]時代の[[白雉]]から改称)
は、
改刪時に削除されました。
--  [2518] 
「後五年」
は、
改刪時に修正し忘れたものでした
(>>1869)。
-- [2519] 
[CITE[大織冠伝]]
の[[白鳳]]は、
改刪前の
[CITE[日本書紀]]
によるものでした
(>>1841)。
- [2528] 
壬申年の弘文天皇元年が削除され、
癸酉年の天武天皇元年が壬申年に変更されました。
-
[1617] 
[[朱雀]] (壬申年)、
[[白雉]] (癸酉年)
[[天武白鳳]] ([[白雉]]から改称)
は、
改刪時に削除されました
(>>1772, >>1794)。
[SRC[>>1731, >>859 p.二二五 (>>1731)]]
-- [2521] 
壬申年説は、
改刪による天武天皇元年の移動で生じた混乱でした
(>>1807)。
-- 
[1618] 
[[天武白鳳]]は、
[[朱雀]]を削除すると[[孝徳天皇]]から[[天智天皇]]の[[白鳳]]から続くように見えるが実はそうではなく、
また前の天皇の時代の元号を再利用するのは「理なき事」であると議論があって、
削除されました。
[SRC[>>1731, >>859 p.二二五 (>>1731)]]
- 
[1890] 
[[朱鳥]]は宮號を定めた由縁とも切り離せないものだったので、
削除されませんでした。
-- [2522] 
[[朱鳥]]が[[建元]]でなく[[改元]]と書かれたのは、
改刪時の修正漏れでした
(>>1794)。
-
[1891] 
[[朱鳥]]を[[持統天皇]]の時代まで継続して使い、
[[大化]]と[[改元]]したのは、
改刪時に議論があって削除されました。
-- [2523] 
[[天武白鳳]]が削除された次の段階の改刪で削除されました
(>>1827)。
--- [2525] 
[CITE[日本霊異記]]
の[[朱鳥]]はその削除前の
[CITE[日本書紀]]
によるものでした
(>>1827)。
--- [2524] 
[CITE[万葉集]]
の[[朱鳥]]はその削除前の
[CITE[日本書紀]]
を誤読したものでした
(>>1828)。
- [2529] 
[[大長]]は、
改刪時に削除されました。
- [2526] 
[[大化]]から[[元号]]が続くという説は、
改刪前の
[CITE[日本書紀]]
に基づくものでした
(>>505)。






[779] 
[[斎藤励]]は、
[[元号]]の再利用は後世からみれば異様なので、
[CITE[日本書紀]]改刪時に[[天武白鳳]]
(と[[孝徳天皇]]の[[白雉]]の別名の[[白鳳]])
は捨てられたとし、
[[朱雀]]も[[朱鳥]]と紛らわしいことと、
[[伴信友]]説の通り[[弘文天皇]]の時代にかかってしまうことから、
省かれたとしました。
[SRC[>>556]]

-*-*-

[1025] 
[[坂本太郎]]は[[伴信友]]の[[改刪説][日本書紀後世改刪説]]を否定しました。
[[伴信友]]の[[白鳳]]その他の[[元号]]についての論は、
改刪の論拠というよりは改刪を前提とする結論であるとし、
古い時代の文献に現れないものであって、
[[改刪説][日本書紀後世改刪説]]の否定に論証の必要もないとしました。
[SRC[>>883 p.一一五]]。
そこで改刪説否定論文では初期元号に深入りしなかったのですが、
別の論文では、
改刪説を前提とする[[伴信友]]の初期元号に関する主張 (の一部)
も検証しました。


[1537] 
[[天武白鳳]]や[[朱雀]]の最有力史料とされた
[CITE[扶桑略記]]
(>>757)
について、
仏徒の造作による物語や取るに足らぬ街談巷説が多い
[CITE[扶桑略記]]
の異説は他に有力な証拠がない限り信頼できず、
[CITE[日本書紀]]
の改刪の根拠にはなし得ないとしました。
[SRC[>>859 p.二二一]]

[1619] 
壬申年が[[大友天皇]]紀、
癸酉年以後が[[天武天皇]]紀だったとする[[伴信友]]説は、
壬申年8月から[[天武天皇]]朝となるのと同様な場合に
[CITE[日本書紀]]
の歴代の紀年で取られていることもあるのであえて不思議とするべきではないと認めつつも、
[CITE[日本書紀]]
当初版がその壬申年8月から癸酉年3月を[[朱雀]]としていたとするのは妙な関係になるのではないかと指摘しました。
[SRC[>>859 p.二二六]]
[CITE[日本書紀]]
の原則に従うなら[[遡及年号]]を使い、
[[大友天皇]]紀は[[朱雀]]元年、
[[天武天皇]]紀は初年が[[白鳳]]元年となるのが妥当でしょう。

[1620] 
逆に、
現行
[CITE[日本書紀]]
の通り壬申年を天武天皇元年とする方が、
8月の[[壬申の乱]]がおさまって泰平を寿ぎ[[祥瑞]]により[[朱雀]]と[[改元]]したとするに似つかわしい、
改刪するならむしろ何もない所に[[朱雀]]を書き加える方が順当で、
[[伴信友]]説はそれに逆行するものだとしました。
[SRC[>>859 p.二二六]]

[1621] 
さらに、
[[元号]]の削除の必要性にも疑問を呈しました。
[[白鳳]]が前の時代と同じだから削除するというのは薄弱で、
しかも[[孝徳天皇]]時代は [CITE[日本書紀]] 編纂当時は[[白雉]]なのだから紛らわしくなく、
改刪時のことだとしても[[孝徳天皇]]の[[白雉]]を[[白鳳]]に改めず[[天武天皇]]時代だけ削除する理由が考えられないとしました。
[SRC[>>859 p.二二六]]

;;
[1889] 
これは[[坂本太郎]]の誤解かもしれません。
[[伴信友]]は[[孝徳天皇]]の[[白雉]]も、途中で[[白鳳]]に改称され、
[CITE[日本書紀]]
旧版にもそう書かれていたと主張したので、
そうだとしたら紛らわしいです。
([[伴信友]]は[[天武天皇]]時代の「改称」には一応根拠を与えたのに対し、
[[孝徳天皇]]時代の「改称」には何も根拠を示していないのですが。)

[1622] 
[CITE[日本書紀]]
によれば[[朱鳥]]は[[天武天皇]]の晩年、
闘病中の慌ただしい時にわずか2ヶ月用いられたもので、
「甚だいぶかしい事件」でした。
[[白鳳]]や[[朱雀]]を削除する腕前のある改刪者が、
それ以上に不審なこの[[朱鳥]]を削除しなかったのは不審としました。
[SRC[>>859 pp.二二六-二二七]]

[1623] 
[[坂本太郎]]は更に、
[[朱鳥]]が
[CITE[万葉集]]
や
[CITE[日本霊異記]]
のような当時の文献に見える
「のに反し、白鳳・朱雀の全然見出されないことの相違をこれと関係させて考える場合、
白鳳・朱雀削除説はいかに無力となることであろう。」
[SRC[>>859 p.二二七]]
としました。
この理屈は不明瞭で、
改刪説の立場なら、
普及していた[[朱鳥]]は削除しようにもできなかったなどと反論できそうです。




-*-*-

[1616] 
[[重松明久]]はやや異なる形の[[改刪説][日本書紀後世改刪説]]を主張しました
(>>805, >>822)。



** 法隆寺伽藍縁起并流記資財帳

[1400] 
[CITE[法隆寺伽藍縁起并流記資財帳]]
[WEAK[([TIME[天平19(747)年][year:747]]2月)]]
は、
[[法隆寺]]の[[資財帳]]でした。
次の[[日付]]が見えました
[SRC[>>407]]。

- [1401] 
「池邊大宮御宇
天皇并在坐御世御世
天皇、歳次丁卯」
-- [[用明天皇]]
- [406] 
「小治田
天皇大化三年歳次戊申九月廿一日己亥」
- [1402] 
「戊午年四月十五日」
- [1403] 
「右奉爲上宮聖徳法王,癸未年三月、」
- [1404] 
「右養老三年歳次己未、」
- [1405] 「右天平四年歳次壬申四月廿二日、」
- [1406] 「右天平四年歳次壬申四月廿二日、」
- [1407] 「右和銅四年歳次辛亥、寺造者、」
- [1408] 「右和鋼四年歳次辛亥、寺造者、」
- [1409] 「右養老三円歳次己未、從唐請坐者、」
-- [1410] [[変換ミス]]か?
- [1411] 「右甲午年、飛鳥淨御原宮御宇 天皇請坐者、」
- [1412] 「右奉爲天朝、天平七年歳次乙亥、」
- [1413] 「右養老六年歳次壬戌十二月四日、」
- [1414] 「右天平元年歳次己巳、仁王會時、」
- [1415] 「天平二年歳次庚午」
- [1416] 「養老六年歳次壬戌十二月四日」
- [1417] 「天平八年歳次丙子二月廿二日」
- [1418] 「天平八年歳次丙子二月廿二」
- [1419] 「天平八年[ASIS[歳衣]]丙子二月廿二日」
- [1420] 「癸巳年十月廿六日飛鳥宮御宇 天皇爲仁王
會納賜者」
- [1421] 「天平五年歳次癸酉」
- [1422] 「養老六年歳次壬戌十二月四日」
- [1423] 「天平六年歳次甲戌二月」
- [1424] 「養老六年歳次壬戌十二月四日」
- [1425] 「癸巳十月廿六日仁王會、納賜飛鳥宮御宇 天
皇者」
- [1426] 「天平五年[ASIS[歳衣]]癸酉」
- [1427] 「天平六年歳次甲戌三月」
- [1428] 「養老六年歳次壬戌十二月四日」
- [1429] 「右癸巳年十月廿六日仁王會、納賜飛鳥宮御宇
天皇者」
- [1430] 「右天平元年歳次己巳、爲仁王會納賜平城宮御宇
天皇者」
- [1431] 「養老六年歳次壬戌十二月四日」
- [1432] 「天平八年歳次丙子二月廿二日」
- [1433] 「天平六年歳次甲戌二月」
- [1434] 「養老六年歳次壬戌十二月四日」
- [1435] 「天平八年歳次丙子二月廿二日」
- [1436] 「養老六年歳次壬戌十二月四日」
- [1437] 「天平元年歳次己巳仁王會」
- [1438] 「天平六年歳次甲戌三月」
- [1439] 「天平八年歳次丙子二月廿二日」
- [1440] 「養老六年歳次壬戌十二月四日」
- [1441] 「天平六年歳次甲戌三月」
- [1442] 「天平元年歳次己巳仁王會時」
- [1443] 「天平十年歳次戊寅正月十七日」
- [1444] 「小治(田脱カ)大宮御宇 天皇戊午年四月十五
日」
- [1445] 「天平十年[ASIS[歳衣]]戊寅四月十二日」
- [1446] 「右本記云、又大化三年歳次戊申九月廿一日己
亥、許世徳陀高臣宣命納賜、己夘年停止、」
- [1447] 「右養老六年歳次壬戌、納賜平城宮御宇 天皇
者、神龜四年歳次丁夘年停止、」
- [1448] 「天平十八年十月十四日」
- [1449] 「天平十九年二月十一日」
- [1450] 「天平廿年六月十七日」


-*-*-


[799] 
「小治田天皇大化三年歳次戊申」 (>>406)
の[[小治田天皇]]は普通[[推古天皇]]ですが、
[CITE[日本書紀]]
の[[大化]]は[[孝徳天皇]]時代でした。
しかも [CITE[日本書紀]]
大化3年は丁未で、
戊申は大化4年で、
[[1年ずれ]]がありました。
[SRC[>>404]]
[[干支年]]を信じるなら[TIME[孝徳天皇2(646)年[LINES[丙][午]]][year:646]]が[[大化]]元年となります。

[280] 
[[伴信友]]は、
法隆寺縁起 (>>1400)
「小治田天皇大化三年歳次戊申九月廿一日己亥」
を引いて、

- [1847] [[小治田宮]]は[[推古天皇]]か[[皇極天皇]]。
[[皇極天皇]]が[[小治田宮]]におり、
[[孝徳天皇]]の時代になって[TIME[大化元(645)年][year:645]]12月、
[[難波長柄豊崎宮]]に[[遷都]]した。
[[譲位]]当時の宮號で表したものである。
- [1864] 
3年は4年の誤り。
[[干支年]]、[[日干支]]、記事内容から4年とわかる。
古い本で4を「亖」と書くことがあるから誤写したものか。

... としました。
[SRC[>>1731]]

[HISTORY[
[1848] 
この[[伴信友]]説を、
[N[4]]
を[V[[LINES[二][二]]]]と書くことがあるので[V[三]]と誤読したもの、
と説明するものもありました。
[SRC[>>502 (>>1731)]]

]HISTORY]

;;
[2544] 
[CITE[[[紀年銘の記載形式に就いて]]]]
によれば
[N[4]]
を[V[二二]]や[V[[LINES[二][二]]]]と書くのは[[鎌倉時代]]から[[室町時代]]に見られるといいますから、
この説が成り立つものか、
なおも検討が必要です。
[SEE[ [[亖]] ]]


[1852] 
[[皇極天皇]]が[[小治田宮]]にあったのは[TIME[皇極天皇元(643)年12月21日][kyuureki:642-12-21]]から[TIME[皇極天皇2(643)年4月28日][kyuureki:643-04-28]]で、
その後は[[飛鳥板蓋宮]]に遷宮しました。
[[乙巳の変]]の舞台も[[板蓋宮]]でした。
この宮号の説明には疑問が残ります。



[REFS[
- [407] 
[CITE[法隆寺伽藍縁起并流記資財帳]] ([TIME[2017-01-04 02:33:07 +09:00]]) <http://www.kagemarukun.fromc.jp/page018p.html>
]REFS]

** 大安寺伽藍縁起并流記資財帳

[1311] 
[CITE[大安寺伽藍縁起并流記資財帳]]
[WEAK[([TIME[天平19(747)年][year:747]]2月勘録)]]
は、
[[大安寺]]の資財帳でした。
次の[[日付]]が見えました。
[SRC[>>1312]]

- [1313] 
天皇位十一年[ASIS[歳衣]]己亥春二
月
- [1314] 
飛鳥淨御原宮御宇 天皇二年歳次癸酉十二月
壬午朔戊戌
--
[HISTORY[
[1344] 
[[坂本太郎]]は
「飛鳥淨御原宮御宇天皇二年歳次癸酉十二月壬午朔。」
を引用しました
[SRC[>>859 p.二一二]]。
[[Webページ]]本 [SRC[>>1312]]
を信じればそのような日付はなく、
「戊戌」の脱落とみられます。
]HISTORY]
- [1315] 
六年歳次
丁丑九月康(庚)申朔丙寅
- [1316] 
十三年
- [1317] 
平城宮御宇 天皇天平十六年歳次甲申六月十
七日
- [1319] 
袁智 天皇坐難波宮而、庚戌年冬十月始、辛亥年春三月造畢
- [1320] 
天平十四年歳次壬午
- [1321] 丙戌年七月、奉爲淨御原宮御宇 天皇皇后并
皇太子
- [1322] 天平十四年歳次壬午
- [1323] 天平十四年歳次壬午
- [1324] 
右平城宮御宇 天皇、以天平八年歳次丙子造坐者、
- [1325] 
右平城宮御宇 天皇、以養老七年歳次癸亥三月廿
九日請坐者、
- [1326] 
右飛鳥淨御原宮御宇 天皇以甲午年請坐者、
- [1327] 
右飛鳥淨御原宮御宇 天皇以甲午年坐奉者、
- [1328] 
右平城宮御宇 天皇以養老六年歳次壬戌十二月
七日納賜者、
- [1329] 右前岡本宮御宇 天皇以庚子年納賜者、
- [1330] 右飛鳥宮御宇 天皇以癸巳年十月廿六日、爲仁王會
納賜者、
- [1331] 右平城宮御宇 天皇以養老六年歳次壬戌十二月
七日納賜者、
- [1332] 右一色、平城宮御宇 天皇以天平二年歳次庚午
七月十七日納賜者、
- [1333] 天平十八年
- [1334] 右飛鳥岡基宮御宇 天皇歳次己亥納賜者、
- [1335] 右飛鳥淨御原宮御宇 天皇歳次癸酉納賜者、
- [1336] 右飛鳥淨御原宮御宇 天皇歳次癸酉納賜者、
- [1337] 右飛鳥淨御原宮御宇 天皇歳次癸酉納賜者、
- [1338] 右飛鳥岡基宮御宇 天皇歳次己亥納賜者、
- [1340] 右依前律師道慈法師寺主僧教義等啓白、平城宮御
宇 天皇天平十六年歳次甲申納賜者、
- [1341] 天平十八年十月十四日
- [1342] 天平十九年二月十一日
- [1343] 天平廿年六月十七日



[REFS[

- [1312] [CITE[大安寺伽藍縁起并流記資財帳]], [TIME[2017-01-04 02:33:07 +09:00]] <http://www.kagemarukun.fromc.jp/page017p.html>
- [404] 
[CITE[[[法隆寺]]の再建と二つの本尊]],
[[大橋一章]],
1997
<https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1408&item_no=1&page_id=13&block_id=21>


]REFS]

** 藤氏家伝

[642] 
[CITE[藤氏家伝]]
[WEAK[([TIME[天平宝字4(760)年][year:760]]成立)]]
は、
[[藤原氏]]の歴史書 (伝記集) でした。
[CITE[日本書紀]]や[CITE[続日本紀]]にない記述が含まれることが注目されます。
共通する記事もあり、関係性は古くから議論されてきました。

[643] 
上巻に[[藤原鎌足]]についての [CITE[大織冠伝]]、
[[貞慧]] ([[定恵]]) についての [CITE[貞恵伝]]、
現存しない[[藤原不比等]]条がありました。
下巻に[[藤原武智麻呂]]についての [CITE[武智麻呂伝]]
がありました。
現存3伝には、次の[[日付]]が含まれました (出現順) [SRC[>>646]]。

[FIG(table)[
:s: 条
:t: 記述
:note: メモ

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:
豊御炊天皇廿二年歳次甲戌 [SNIP[]] 十有二月
:note:
[[推古天皇]]

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:崗本天皇御宇之初
:note: [[舒明天皇]]

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:
後崗本天皇二年歳次癸卯、冬十月
:note:
[[皇極天皇]]

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:
後崗本天皇四年歳次乙巳、夏六月
:note: ここから[[乙巳の変]]。
書紀[TIME[大化元(645)年[LINES[乙][巳]]][year:645]]。

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:戊申

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:己酉

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:庚戌
[SNIP[]]
改元為大化。

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:白鳳五年、秋八月
:note:
[[孝徳天皇]][[崩御]]。
書紀[TIME[白雉5(654)年[LINES[甲][寅]]][year:654]]。

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:十二年、冬十月
:note:
[647] 
「白鳳十二年」
(>>1035)
[[難波]]行幸、
戦争準備。
書紀[TIME[斉明6(660)年][year:660]]。

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:十三年、春正月
:note:
[282] 
「白鳳十三年」
(>>1035)
[[斉明天皇]]出陣。
書紀[TIME[斉明7(661)年][year:661]]。

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:三月

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:夏五月

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:秋七月
:note:
[[斉明天皇]][[崩御]]、
[[天智天皇]][[称制]]。
書紀[TIME[斉明7(661)年][year:661]]。

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:是月

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:冬十一月
:note:天皇喪至自朝倉宮、殯于飛鳥川原

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:十四年
:note:皇太子摂政, >>558。

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:摂政六年、春三月
:note:
[[近江]]遷都。
書紀[TIME[天智6(667)年[LINES[丁][卯]]][year:667]]。


:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:七年正月
:note:即天皇位。
書紀[TIME[天智7(668)年[LINES[戊][辰]]][year:668]]。

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:七年、秋九月

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:即位二年、冬十月

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:十六日、辛酉

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:甲子

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:粤以庚午閏九月六日、

:s:[CITE[大織冠伝]]
:t:毎年十月

-*-*-

:s: [CITE[貞恵伝]]
:t:白鳳五年歳次甲寅
:note:[TIME[西暦654年甲寅][year:654]]。
書紀[TIME[白雉4(653)年[LINES[癸][丑]]][year:653]] [SRC[>>928, >>1078]]。

:s: [CITE[貞恵伝]]
:t:則唐主永徽四年
:note:[TIME[西暦653年癸丑][year:653]]


:s: [CITE[貞恵伝]]
:t:白鳳十六年歳次乙丑秋九月
:note:>>577


:s: [CITE[貞恵伝]]
:t:其年十二月廿三日

:s: [CITE[貞恵伝]]
:t:白鳳十六年歳次乙丑十二月廿三日
:note:>>577

-*-*-

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:天武天皇即位九年歳次庚辰四月十五日

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:大宝元年

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:二年正月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:大宝元年

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:三年四月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:四年三月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:慶雲二年仲春

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:三年

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:其十二月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:三年七月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:和銅元年三月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:壬申年
:note: 
先従壬申年乱離已来

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:五年六月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:六年正月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:八年正月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:此年左京人得瑞亀、改和銅八年為霊亀元年

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:霊亀二年十月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:養老二年九月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:三年正月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:其七月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:五年正月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:神亀元年二月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:五年七月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:六〔年三〕月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:天平三年九月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:是年天平六年

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:九年七月

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:其廿四日

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:其翌日

:s: [CITE[武智麻呂伝]]
:t:八月五日



]FIG]

[644] 
[CITE[大織冠伝]]
と
[CITE[武智麻呂伝]]
は、
何年何月に何々との記事を繰り返し示す
[CITE[日本書紀]]
などの歴史書に近い記述形式でした。
[CITE[貞恵伝]]
はそのような形式を取らず文量も比較的少ないものでした。


[1036] 
[CITE[藤氏家伝]]
の[[年号]]記述は、
次のように整理できます。

- [1227] [CITE[大織冠伝]]
と
[CITE[武智麻呂伝]]
は、
-- [1237] 古い時代は、
「[VAR[誰々]]天皇[VAR[何]]年歳次[VAR[何々]]」形式を使っていました。
--- [1233] [CITE[大織冠伝]] 
に1例だけ年まで特定しない「[VAR[誰々]]天皇御宇之初」形式がありました。
--- [1232] 
[CITE[武智麻呂伝]]
の1例は
「[VAR[誰々]]天皇即位[VAR[何]]年歳次[VAR[何々]]」と「即位」の語が入っていました。
--- [1236] 
[CITE[武智麻呂伝]]
に1例
「壬申年」
がありました。
-- [1231] 新しい時代は、
「[VAR[何々]][VAR[何]]年」と[[元号名スロット]]のあるものと、
「[VAR[何]]年」と[[元号年]]のみのものを混用していました。
[[元号名]]は原則初出のみで、以後は省略して年数だけを示す
[CITE[日本書紀]]
方式と同じと解するのが自然です。
--- [1230] [CITE[大織冠伝]]
の[[元号名スロット]]には
「白鳳」、「摂政」、「即位」を使っていました。
--- [1229] [CITE[武智麻呂伝]]
の[[元号名スロット]]には[[大宝]]以後の各元号を使っていました。
--- [145] [CITE[大織冠伝]]
に一例だけ
「庚午閏九月六日」
と他にない表記がありました。
[CITE[大織冠伝]]中最後の[[日付]]で、
[TIME[天智天皇称制9(670)年][year:670]]。
文頭でなく文中に置かれていました。
- [1226] [CITE[貞恵伝]] は、
-- [1234] [[日本の元号]]を「白鳳[VAR[何]]年歳次[VAR[何々]]」
と統一していました。
-- [1235] [[唐の元号]]1例だけ「[VAR[誰々]][VAR[何々]][VAR[何]]年」
形式でした。


[NOTE[
[1035] 
[[所功]]の論文は、
[[坂本太郎]]の論文から
[CITE[大織冠伝]]
を孫引いていますが、
同じ部分で古い版では
「白鳳十三年」
[SRC[>>502 (>>517)]]、
新しい版では
「白鳳十二年」
[SRC[>>246 普及版 p.123 (坂本太郎一九四八)]]
として1年ずらしています。
[[坂本太郎]]の論文には
「例の大織冠伝には、白鳳十二年、十三年と記される」 [SRC[>>859 p.二一〇]]
とありました。
より完全なものを引用しなおしたのでしょうか。
[CITE[大織冠伝]]
は前表の通り年数しか書いておらず、
「白鳳」は[[坂本太郎]]が文脈上補ったものです。

[1037] 
「坂本太郎一九四八」がどの論文か明記されておらず不明です。
セットで引用されている >>883
が[TIME[昭和18(1943)年][year:1943]]なのを誤ったものでしょうか
(そちらの論文には
[CITE[大織冠伝]]
言及なし)。
]NOTE]

[1228] 
この時代の[[金石文]]や[[木簡]]、あるいは [CITE[日本書紀]]
など他の文献にみえる紀年の方式はいろいろありますが、
一方 
[CITE[藤氏家伝]]
の紀年はそれらと必ずしも一致せず、しかし各伝ごとに一貫しています。
だとすると、原資料の紀年にそのまま従った結果ではなく、
各伝の編者が意図的に統一したと想定する必要がでてきます。
[CITE[藤氏家伝]]
の編者によるものでなく、
[CITE[藤氏家伝]]
の編者がみた原資料の編者によるものかもしれません。
意図的というのは単に読みやすいようにという程度かもしれませんし、
何か政治的な意図かもしれません。
いずれにしても、
[CITE[藤氏家伝]]
が編纂された時代の記述方法であって、
当時リアルタイムで使われた方式かどうか、
慎重な検討が必要になるということです。

[NOTE[
[1238] 
「壬申年」の1例だけ原則に外れた例外に見えます。
紀年でなく事件[[壬申の乱]]を指すもので、
しかも当時の[[天皇]]が誰か明らかにし難いためでしょうか。
]NOTE]


-*-*-

[2331] 
[CITE[藤氏家伝]]
には「白鳳」
が使われていますが、
この解釈にはいろいろと問題があります (>>2332)。

-*-*-

[1239] 
[[天智天皇]]の時代は、
「摂政[VAR[何]]年」
「即位[VAR[何]]年」
と異様な書かれ方をしていました。
いずれも前年に[[天智天皇]]の[[称制]]、[[即位]]の記事があるため、
順に読み進めれば[[天智天皇]]の[[称制]]、[[即位]]紀年であることは明らかですが。

[1240] 古い時代のように「天智天皇[VAR[何]]年」形式にできなかったのは、
称制と即位の2つがあるためでしょう。
でも「天智天皇称制[VAR[何]]年」形式にしなかったのはなぜでしょうか。
また古い時代のように「歳次[VAR[何々]]」をつけなかったのはなぜでしょうか。
編者は[[天皇即位紀年]]より[[元号]]に近しいものとみていたのでしょうか。

[1241] 
[[天智天皇]]の[[即位]]後在位中なら、
誰のと限定せずに
「摂政[VAR[何]]年」
「即位[VAR[何]]年」
と数えていていたとしても不自然ではありません。
果たしてその当時まで遡り得るものでしょうか。

-*-*-

[1244] 
[CITE[武智麻呂伝]]
には
「天武天皇即位九年」
と[[漢風諡号]]の[[天武天皇]]が使われました。


[1362] 
[[坂本太郎]]は、
「漢風諡で記されたことは疑うべきであるけれど、
武智麿伝の価値については定論があるからここに加えた」
と[[漢風諡号]]たることを指摘しつつ、
有効な史料の1つとして扱いました。
[SRC[>>859 p.二一二]]

;; [1363] 
[[漢風諡号]]は通説では[RUBYB[[[淡海三船]]][[TIME[養老6(722)年][year:822]]-[TIME[延暦4(785)年][kyuureki:785-07-17]]]]による撰進とされますが、
正確な時期は不明です。
[CITE[武智麻呂伝]]
成立の正確な時期も不明です。
どちらも同時期であり、一応関係性には注意が必要です。
[[坂本太郎]]は[[漢風諡号]]に関する後の論文でもこの箇所を引きました
[SRC[>>882 p.二四一]]
が、特にそこから議論を発展させてはおりません。


[REFS[
- [645] [CITE[データベース]], [TIME[2011-07-11 15:19:45 +09:00]] <http://www.isc.meiji.ac.jp/~yoshimu/database.html>
-- [646] [CITE[藤氏家伝]]
- [1078] [CITE@ja[[[定恵]] - Wikipedia]], [TIME[2020-04-20 19:26:29 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E6%81%B5>
]REFS]



** 風土記

[787] 
[CITE[常陸国風土記]]
[WEAK[([[奈良時代]]初期成立)]]
に、
「難波長柄豊前大宮馭宇天皇之世癸丑年」
[SRC[>>786]]、
「難波長柄豊前大朝馭宇天皇之世己酉年」
[SRC[>>788]]
のようにありました。

[REFS[
- [786] [CITE@ja[[[常陸國風土記]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[西野宣明 '''['''校''']''']], [TIME[天保10 '''['''1839''']'''][year:1839]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541382/13>
- [788] [CITE@ja[常陸國風土記 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[西野宣明 '''['''校''']''']], [TIME[天保10 '''['''1839''']'''][year:1839]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541382/25>
]REFS]


** 万葉集

[1720] 
[CITE[万葉集]]
は、
[[和歌集]]でした。

[1112] 
[CITE[万葉集]]
歌番号8番左注に、

>
右檢山上憶良大夫類聚歌林曰飛鳥岡本宮御宇天皇元年己丑九年丁酉十二月己巳朔壬午天皇大后幸于伊豫湯宮後岡本宮馭宇天皇七年辛酉春正月丁酉朔壬寅御船西征始就于海路 [SNIP[]]

... とありました。[TIME[舒明天皇元(629)年][year:629]]、
[TIME[斉明天皇7(661)年][year:661]]と書かれています。

[2115] 
[CITE[萬葉集]]
卷三大津皇子被死之時云々の左註に
「右藤原宮朱鳥元年冬十月」
とありました。
[[天武天皇]]丙戌年を元年とする数え方でした。
[SRC[>>2114]]

[284] 
[CITE[万葉集]]左註に「朱鳥四年」「朱鳥六年」とありました。
[SRC[>>246 普及版 p.125]]
[[持統天皇]]元年を朱鳥元年とする数え方で、
[CITE[日本書紀]] 
と1年のずれがありました。
次の例がありました [SRC[>>502]]。

- [572] 巻1 34番 「朱鳥四年」
- [573] 巻1 44番 「朱鳥六年」
- [574] 巻1 50番 「朱鳥七年」
- [575] 巻2 195番 「朱鳥五年」


[567] 
[CITE[万葉集]]左注に[[日本紀]]曰とあるうち、
[[持統天皇]]時代のもので[[元号]]のないものは、
3例ありました。
これを[[持統天皇]]の[[即位紀年]]とすれば、
現在伝わる[CITE[日本書紀]]と年数、[[干支]]、記事内容とも一致します。
[SRC[>>502]]

- [568] 巻1 36-39番左注「日本紀曰、三年己丑正月 [SNIP[]] 四年庚寅二月 [SNIP[]] 五年辛于正月 [SNIP[]]」
- [569] 巻2 171-193番左注「日本紀曰、三年己丑夏四月癸未朔乙未 [SNIP[]]」
- [570] 巻2 202番左注「案[SUB[二]]日本紀[SUB[一]]曰、十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、 [SNIP[]]」
(寛永版本など流布本)、金沢文庫本では「持統天皇十年」

[1030] [[養老]]の[[元号]]については、
[[養老]]参照。


** 続日本紀

[1049] 
[CITE[続日本紀]]
[WEAK[([TIME[延暦16(797)年][year:797]]成立)]]
は、
[[六国史]]第2の[[日本]]の[[正史]]です。
[TIME[文武天皇の即位(797年)][year:797]]から[TIME[桓武天皇延暦10(791)年][year:791]]までを収録していました。

-*-*-

[1075] 
[CITE[続日本紀]]
[TIME[文武天皇4(700)年][year:700]]3月己未条の道照和尚伝に、
「孝徳天皇白雉四年」とありました。
[SRC[>>639]]


[REFS[

[FIG(quote)[ 
[FIGCAPTION[
[639] [CITE[続日本紀]],
[TIME[2020-01-07 04:24:02 +09:00]] <http://www.kikuchi2.com/jodai/shokuall.html>
]FIGCAPTION]

>
《文武四年(七〇〇)三月己未(庚戌朔十)》○三月己未。道照和尚物化。 [SNIP[]]
初孝徳天皇白雉四年。随使入唐。 [SNIP[]]
]FIG]

]REFS]


[1280]
[CITE[続日本紀]] 
大寶三(703)年秋七月甲午条に、
「甲午。詔曰。籍帳之設。國家大信。逐時變更。詐僞必起。宜以庚午年籍爲定。更無改易。」
とありました。
[SRC[>>1279]]
[[庚午年籍]] ([TIME[天智天皇9(670)年][year:670]])
への言及がありました。


[REFS[
- [1279] [CITE@zh[[[續日本紀]]/卷第三 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2020-04-28 17:02:24 +09:00]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%BA%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B8%89>
]REFS]

-*-*-

[281] 
[CITE[続日本紀]][TIME[神亀元(724)年][year:724]]十月丁亥朔条に、
「白鳳以来朱雀以前年代玄遠」
とありました。
[SRC[>>639]]
白鳳から朱雀までの時代が遠くなってしまってよくわからないので云々という[[詔]]でした。

;; [363] 
[CITE[続日本紀]]の[[白鳳]]の用例はこれのみ、
[[朱雀]]の用例は他はすべて[[元号]]以外の意味でした。

[2138] 
[[白鳳]]と[[朱雀]]は、
[[元号名]]と解されています。
しかしいずれも[[正史]]に現れる[[元号名]]ではありません。
それが[[正史]]の記事、しかも[[詔]]の文中に現れることが注目されます。
これは[[白鳳]]と[[朱雀]]の現存最古の用例とされます。

[HISTORY[
[755] 
[[伴信友]]や[[斎藤励]]は、
[[白鳳]]や[[朱鳥]]が2度[[元号]]として使用されたと主張したため、
それぞれがどちらを指すか検討しました。


[1795] 
[[伴信友]]は、
[[天武天皇]]の時代前後を指すのであって、
[[壬申の乱]]後の混乱や、
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
で当時のことがわかりにくくなっているのを指しているとしました。
「年代玄遠」
といっても
40、50年ほど前のことに過ぎず、
婉曲表現であるとしました。
[SRC[>>1731]]

[2141] 
[[斎藤励]]は、
[[伴信友]]その他の学者が[[天武白鳳]] (>>617) 
とするのは牽強付会で、
「年代玄遠難明」とはいえないし[[白鳳]]と[[朱雀]]の順序がおかしいとしました。
[SRC[>>556]]

[2142] 
[[伴信友]]の時代にも既に、
[[伴信友]]説によれば[[白鳳]]と[[朱雀]]の順序が逆で不審であり、
[[朱雀]]は[[朱鳥]]の誤りで[[天武天皇]]時代だけを指すものだとの説がありました。
[SRC[>>1731]]

[1796] 
[[伴信友]]は、
[CITE[続日本紀]]
のどの本にも[[朱雀]]とあること、
その解釈ではこのやり取りの意味が明らかにできないことから否定し、
順序が逆なのは婉曲表現ゆえと問題にしませんでした。
[SRC[>>1731]]


[2139] 
[[斎藤励]]は、
[[白鳳]]は[[孝徳天皇]]時代の[[白雉]] (>>760)、
[[朱雀]]は[[天武天皇]]時代の[[朱雀]] (>>790)
を指すとしました。
[SRC[>>556]]
これによれば[[孝徳天皇]]の頃から[[壬申の乱]]の頃までとなります。
あるいは[[天智天皇]]時代前後とも解せるでしょうか。

[1083] 
[[坂本太郎]]は、
この記事からどの時代か決定することは不可能とし、
2回使用されていたなら時期を特定できない表現が使われなかったはずだ、
と2回使用説を否定しました。
[SRC[>>859 p.二〇九]]
]HISTORY]

[2140] 
[[坂本太郎]]は、
[[白鳳]]は[[孝徳天皇]]の[[白雉]]を指し、
[[朱雀]]は[[天武天皇]]の[[朱鳥]]を指すとしました。
[SRC[>>859]]
これによれば[[孝徳天皇]]の頃から[[天武天皇]]の頃までとなります。
[[孝徳天皇]]の[[大化]]が含まれないのが気になりますが、
元より大まかに昔のあの頃という意味の表現だったのでしょう。


[2143] 
[TIME[神亀元(724)年][year:724]]から見て、
[TIME[白雉元(650)年][year:650]]は74年前、
[TIME[朱鳥元(686)年][year:686]]は38年前です。
例えば[TIME[令和元(2019)年][year:2019]]からみたときの[TIME[昭和20(1945)年][year:1945]]から[TIME[昭和56(1981)年][year:1981]]、
[TIME[平成元(1989)年][year:1989]]からみたときの[TIME[大正4(1915)年][year:1915]]から[TIME[昭和26(1951)年][year:1951]]に相当します。
現在に置き換えて考えてみても、
大昔というには仰々しいかもしれませんが、
一昔二昔前であるのは確かです。
[[第二次世界大戦]]前後の社会の大変化のように、
当時も[[壬申の乱]]や[[大宝律令]]、[[平城遷都]]のような変革期を経ています。
平時であっても40年前の現場スタッフがそのまま残っている可能性はそれほど高くないでしょうから、
既に当時の事情がわからなくなっていたとしても不思議でありません。


[REFS[

[FIG(quote)[ 
[FIGCAPTION[
[639] [CITE[続日本紀]],
[TIME[2020-01-07 04:24:02 +09:00]] <http://www.kikuchi2.com/jodai/shokuall.html>
]FIGCAPTION]

>
《神亀元年(七二四)十月丁亥朔》○冬十月丁亥朔。治部省奏言。勘検京及諸国僧尼名籍。或入道元由。披陳不明。或名存綱帳。還落官籍。或形貌誌黶。既不相当。惣一千一百廿二人。准量格式。合給公験。不知処分。伏聴天裁。詔報日。白鳳以来。朱雀以前。年代玄遠。尋問難明。亦所司記注。多有粗略。一定見名。仍給公験。
]FIG]
]REFS]

-*-*-

[1276] 
[CITE[続日本紀]]
天平寶字八(764)年秋七月丁未条に、
[[益人]] [SRC[>>1275]] の[[戸籍]]に関する記事がありました。
「丁未。先是。從二位文室眞人淨三等奏曰。伏奉去年十二月十日勅。紀寺奴益人等訴云。
[SNIP[]]
後至庚寅編戸之歳。
[SNIP[]]
有僧綱所庚午籍。
[SNIP[]]
但近江大津宮庚午年籍不除。
[SNIP[]]
依庚午籍勘者可從沈。
[SNIP[]]」
[SRC[>>1274]]
と[[庚午年籍]] ([TIME[天智天皇9(670)年][year:670]])、
[[庚寅年籍]] ([TIME[持統天皇4(690)年][year:690]])
への言及がありました。



[REFS[
- [1274] [CITE@zh[[[續日本紀]]/卷第廿五 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2020-04-28 16:37:37 +09:00]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%BA%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E4%BA%94>
- [1275] [CITE@ja[[[紀益麻呂]] - Wikipedia]], [TIME[2020-04-27 21:28:30 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E7%9B%8A%E9%BA%BB%E5%91%82>
]REFS]

[1278] 
[CITE[続日本紀]]
寶龜十(779)年夏六月辛亥条に、
「辛亥。
[SNIP[]]
自庚午年。至大寳二年四比之藉。並注忌部。而和銅元年造藉之日。
[SNIP[]]」
と[[庚午年籍]] ([TIME[天智天皇9(670)年][year:670]])
以来の[[戸籍]]への言及がありました。

[REFS[
- [1277] [CITE@zh[[[續日本紀]]/卷第卅五 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2020-04-28 16:53:40 +09:00]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%BA%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%85%E4%BA%94>
]REFS]


[1355] 
[CITE[続日本紀]]
延暦十(791)年春正月己巳条に、
「己巳。典藥頭外從五位下忍海原連魚養等言。謹検古牒云。 [SNIP[]]
飛鳥淨御原朝庭辛巳年。貶賜連姓。 [SNIP[]]」
とありました。
[SRC[>>1354]]


[REFS[
- [1354] [CITE@zh[[[續日本紀]]/卷第四十 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2020-04-30 17:09:39 +09:00]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%BA%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%8D%81>
]REFS]

** 古語拾遺

[752] 
[CITE[古語拾遺]]
[WEAK[([TIME[大同2(807)年2月13日][kyuureki:807-02-13]])]]
は、
[[神道]]の文献でした。

-*-*-

[1050] 
「至于難波長柄豐前朝白鳳四年 [SNIP[]]」
とありました。
[SRC[>>753]]
[[難波長柄豐前朝]]とは[[孝徳天皇]]時代のことです。

[1850] 異本にはこの[[白鳳]]を[[白雉]]とするものがありました。
[SRC[>>1731 p.五百八十四]]

[1851] 
[CITE[本朝月令]] (>>2062) [SRC[>>1731 p.五百八十四]]、
[CITE[師光年中行事]] (>>1489) [SRC[>>2066]]
などにこの部分が引用されており、
いずれも[[白鳳]]とありました。

[2061] 
[CITE[年中行事秘抄]]
にこの部分が引用されていました [SRC[>>2059, >>1731 p.五百八十四]]。
ある本には朱書きで
「白雉カ」
([[縦書き]])
と注釈がありました [SRC[>>2059]]。

[2068] 
[CITE[公事根元]] 
にもこの部分が引用されているとされますが
[SRC[>>1731 p.五百八十四]]、
[CITE[公事根源]] [WEAK[([TIME[応永29(1422)年][year:1422]]成立)]] 
に
「白鳳四年」
([[縦書き]])
とありました
[SRC[>>2067]]。



[1849] この記事に相当するものは 
[CITE[日本書紀]] 
にはありませんでした。
[SRC[>>1731 p.五百八十四]]

[2057] 
[[伴信友]]は、
「至難波長柄豐前朝白鳳四年」
([[縦書き]])
とあることを引き、
[[白雉]]とある異本は
[CITE[日本書紀]]
に合わせて書き換えたものだとしました。
[SRC[>>1731 p.五百八十四]]





[1081] 
[[坂本太郎]]は、
この[[白鳳]]は[[孝徳天皇]]の[[白雉]]の意味としました
[SRC[>>859 p.二〇八]]。

[2058] 
[[西山德]]は、
どの[[天皇]]の時代の出来事かは重視され、
誤り難いと思われるため、
[[孝徳天皇]]時代と解して良いとしました
[SRC[>>937]]。



[REFS[
- [753] [CITE[[[古語拾遺]] 一卷 加序]], [TIME[2013-05-16 23:15:06 +09:00]] <https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/kogosyuui/syuui01.htm>
- [2067] [CITE@ja[[[公事根源]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [['''['''一条兼良''']''' [著]]], [TIME['''['''元和年間''']'''][year:1600]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532178/79>
]REFS]

** 新撰姓氏録

[1358] 
[CITE[新撰姓氏録]]
[WEAK[([TIME[弘仁6(815)年][year:815]]成立)]]
は、
[[日本]]の氏族事典でした。
わずかな部分のみ現存します。


[REFS[
- [1359] [CITE[[[新撰姓氏錄]] しんせんしょうじろく]], [TIME[2010-11-24 22:13:30 +09:00]] <https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/mokuroku/syoujiroku/syoujiroku.htm>
]REFS]

-*-*-

[1360] 
[CITE[新撰姓氏録]]
巻二高橋朝臣条に、
「天渟中原瀛真人天皇 [WEAK[謚天武]] 十二年改膳臣賜高橋朝臣」
とありました。
[SRC[>>1359]]

[1704] 
この天武天皇12年の元年が壬申年か癸酉年か、
判断できる材料がありません。

[1705] 
現代の辞書類その他は壬申元年の[TIME[日本書紀天武天皇12(683)年][year:683]]説を採っています。
根拠は不明です。
[SRC[>>1700, >>1702, >>1703, >>1706, >>1710]]

[1708] 
高橋氏と関係のある[[高椅神社]]
[WEAK[([[日本国]][[栃木県]][[小山市]])]]
の[[縁起]]類は癸酉元年の[TIME[天武天皇12(684)年][year:684]]説を採っています。
根拠は不明です。
[SRC[>>1707, >>1709, >>1712, >>1714, >>1715, >>1716, >>1717]]
ほかにもこの説を採るものがあります
[SRC[>>1713]]。


[REFS[
- [1707] [CITE[[[延喜式神名帳]] 東海道 下總国simofusa]], 
H16.11.30,
[TIME[2013-06-15 13:25:22 +09:00]] <http://kamnavi.jp/en/simofusa.htm>
- [1717] [CITE[小山市 高橋神社 [[高椅神社]]]], 
[TIME[19.4.27][2007-04-27]],
[TIME[2016-08-05 17:59:46 +09:00]] <http://10.pro.tok2.com/~a11234842/961takahasijinnja.html>
- [1700] [CITE@ja[[[磐鹿六鴈]] - Wikipedia]], [TIME[2020-05-09 16:36:30 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E9%B9%BF%E5%85%AD%E9%B4%88>
- [1701] [CITE@ja[[[高橋氏]](たかはしうじ)とは - コトバンク]], [[世界大百科事典 第2版,日本大百科全書(ニッポニカ),世界大百科事典内言及]], [TIME[2020-05-25 15:46:24 +09:00]] <https://kotobank.jp/word/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E6%B0%8F-1182706>
-- [1702] [CITE[世界大百科事典 第2版]]
-- [1703] [CITE[日本大百科全書(ニッポニカ)]]
- [1713] [CITE@ja[『[[万葉集]]』を訓(よ)む(その723): 河童老「万葉集を訓む」]], 
2015年02月06日,
[TIME[2020-05-25 16:03:47 +09:00]] <http://kiyokagen.seesaa.net/article/413613349.html>
- [1709] [CITE@ja[[[高椅神社]](栃木県小山市): ご利益散歩 ~備忘録~]], 
2014年11月22日奉拝,
2016年02月23日,
[TIME[2020-05-25 15:54:10 +09:00]] <http://kamekame7.seesaa.net/article/434181116.html>
- [1706] [CITE@ja[[[多氏]]の出自について(6) | 気まぐれな梟]], 
2016-06-15 13:29:15,
[TIME[2020-05-25 15:49:28 +09:00]] <https://ameblo.jp/ufjtmb26/entry-12167565302.html>
- [1710] [CITE@ja[323.巻三・481~483:死にし妻を悲傷しびて、高橋朝臣が作る歌一首あわせて短歌 - [[万葉集]]の日記]], 
2018-03-13,
[TIME[2020-05-25 15:56:10 +09:00]] <http://souenn32.hatenablog.jp/entry/20180313/1520901837>
-- [1711] 出典とされるもの: 
[CITE@ja-jp[新潮日本古典集成〈新装版〉 [[萬葉集]] 一 | 生子, 青木, 克彦, 清水, 博, 伊藤, 至, 井手, 四郎, 橋本 |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2020-05-25 15:57:20 +09:00]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4106208024/wakaba1-22/>
- [1716] [CITE[[[高椅神社]] - 小山市/栃木県 の見どころ。東北本線・J... by TOKKY1747 | Omairi(おまいり)]], [TIME[2020-05-25 16:07:51 +09:00]] <https://omairi.club/posts/114813>
- [1712] [CITE@ja[[[高椅神社]]|創建1300年/料理の神様『磐鹿六雁命』を祀る神社 | とちのいち]], 
2020年4月29日,
[TIME[2020-05-25 15:58:29 +09:00]] <https://tochinoichi.com/takahashi-shrine/>
-- [[西暦年]]に置き換え[[元号年]]を書いていないので、
元の伝承が天武天皇12年だったことがわからない文章になってしまっている。 [SEE[ >>979 ]]
- [1714] [CITE@ja[[[高椅神社]](小山市)]], [TIME[2020-01-21 17:12:00 +09:00]] <https://www.totitabi.com/oyama/takasaki.html>
- [1715] [CITE@ja[神社検索([[栃木]])]], [TIME[2020-05-25 16:07:13 +09:00]] <http://www.jinja-net.jp/jinjacho-tochigi/jsearch3tochigi.php?jinjya=1444>

]REFS]

-*-*-

[1361] 
[CITE[新撰姓氏録]]
第十一藤原朝臣条に、
「天命開別天皇 [WEAK[謚天智]] 八年賜藤原氏
男正一位贈太政大臣不比等
天渟中原瀛真人天皇 [WEAK[謚天武]] 十三年賜朝臣姓」
とありました。
[SRC[>>1359]]

[1719] 
現代の[[Webサイト]]で壬申元年の[TIME[日本書紀天武天皇13(684)年][year:684]]説を採るものがあります。
根拠は不明です。
[SRC[>>1718]]

[REFS[
- [1718] [CITE@ja[藤原不比等]], [TIME[2011-01-01 22:24:31 +09:00]] <https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/huhito.html>
]REFS]

** 上宮聖徳法王帝説

[640] 
[CITE[上宮聖徳法王帝説]]は[[平安時代]]頃の成立とされますが、
記紀と異なる古い史料に基づく信用度の高いものと理解されています。
[SRC[>>310]]

[311] 
[CITE[上宮聖徳法王帝説]]には、
法隆寺金堂坐釋迦佛光後銘文
(>>296)
や
[CITE[天寿国繍帳]]銘文
(>>308)
が収録されていますが、
それ以外に[[日時]]を記したものとして
「戊午年四月十五日」、
「壬午年二月廿二日夜半」、
「來年二月廿二日」、
「明年二月廿二日」、
「歳次丙午年」、
「丁未年六七月」、
「志癸嶋天皇御世戊午年十月十二日」、
「庚寅年」、
「小治田天皇御世乙丑年五月」、
「七月」、
「飛鳥天皇御世癸卯年十月十四日」、
「□□天皇御世乙巳年六月十一日」、
「辛卯年四月」、
「乙巳年八月」、
「丁未年四月」、
「秋七月」、
「壬子年十一月」、
「戊子年三月」、
「甲午年」、
「壬午年二月廿二日」、
「庚戌春三月」、
「惟古天皇即位十年壬戌」、
「十三年辛丑春三月十五日」、
「辛丑年」、
「癸卯年」、
「戊申」、
「己酉年三月廿五日」、
「癸亥年」、
「癸酉年十二月十六日」、
「丙子年四月八日」、
「戊寅年十二月四日」、
「乙酉年三月廿五日」、
「承歴二年【戊午】」、
「甲寅年十月癸卯朔壬子」、
「推古天皇卅四年秋八月」、
「廿二年甲戌秋八月」、
「卅五年夏六月辛丑」
があります。
[SRC[>>309]]

[SEE[ 仏教公伝の日について[[辛亥の変]] ]]

[312] 
[[干支年]]の前にどの[[天皇]]の治世か示して時期を明らかにするもののほか、
[[推古天皇]]の[[干支年]]を伴わない[[天皇即位紀年]]が見られることが注目されます。

[2673] 
[[法興]]も参照。

[REFS[
- [310] [CITE@ja[[[上宮聖徳法王帝説]] - [[Wikipedia]]]] ([TIME[2019-06-14 17:07:54 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%AE%AE%E8%81%96%E5%BE%B3%E6%B3%95%E7%8E%8B%E5%B8%9D%E8%AA%AC>
]REFS]

** 日本霊異記

[1378] 
[CITE[日本霊異記]]
([CITE[日本国現報善悪霊異記]]、[[平安時代]]成立)
は、
現存最古の[[説話集]]です。
日本各地、広い時代のいろいろな説話が収録されています。
歴史書ではなく、
そのまま歴史的事実とはいえない内容が多いものの、
当時の人々の歴史認識を推測する手がかりにはなります。

[1379] 
年数を特定しない誰々天皇の時代のような記述もありますが、
他に次のような日付が上巻に見られます
[SRC[>>1382]]。

- [1380] 1
「少子部栖輕者,泊瀨朝倉宮廿三年治天下雄略天皇[WEAK[謂大泊瀨稚武天皇]]之隨身,肺脯侍者矣。」
-- 泊瀨朝倉宮は雄略天皇の都
- [1383] 2
「昔欽明天皇[WEAK[是磯城嶋金刺宮食國天國押開廣庭命也]]御世,
[SNIP[]]
十二月十五日生子。
[SNIP[]]
於二月三月之頃
[SNIP[]]」
- [1385] 5
「案本記曰:
[SNIP[]]
皇后,癸丑年春正月,即位小墾田宮,卅六年御宇矣。
元年夏四月,庚午朔己卯,立廄戶皇子為皇太子。
[SNIP[]]
天皇[WEAK[推古]]代十三年乙丑夏五月,甲寅朔戊午,
[SNIP[]]
十七年己巳春二月,
[SNIP[]]
廿九年辛巳春二月,[SNIP[]]
四八年甲申,[WEAK[四八年者,推古三十二年也。]]夏四月,
[SNIP[]]
卅三年乙酉冬十二月,八日,
[SNIP[]]
孝德天皇世六年庚戌秋九月,賜大花上位也。春秋九十有餘而卒矣。」
-- [2628] 
[TIME[大化6(650)年[LINES[庚][戌]]2月15日][kyuureki:650-02-15]]に[[改元]]して[[白雉]]。
- [1386] 6
「從日本國使,以養老二年,歸向本朝。」
- [1387] 9
「飛鳥川原板葺宮御宇天皇之世[WEAK[皇極]]癸卯年春三月頃,
[SNIP[]]
逕八箇年,以難破長柄豐前宮御宇天皇之世[WEAK[孝德]]庚戌年秋八月下旬,
[SNIP[]]」
- [1388] 10
「大和國添上郡山村中里,昔有云椋家長公。當十二月,依方廣經,欲懺先罪。
[SNIP[]]
即日,申時,命終。」
- [1389] 12
「而往大化二年丙午,營宇治椅, [SNIP[]]
迄于同年十二月晦夕, [SNIP[]]」
- [1398] 13
「難破長柄豐前宮時[WEAK[孝德]]甲寅年」
- [1390] 25
[WEAK[忠臣少欲足諸天見感得現報示奇事縁二十五]]
「故中納言-從三位-大神高市萬侶卿者,大后天皇[WEAK[持統]]時忠臣也。
有記云:「朱鳥七年壬辰二月,詔諸司:『當三月三,將幸行伊勢。[SNIP[]]」
-- 有記云は [CITE[日本書紀]]
持統天皇6年 (>>1397) と一致しています [SRC[>>556]]。
- [1391] 28
「以大寶元年歲次辛丑正月」
- [1392] 30
「藤原宮御宇天皇之代[WEAK[文武朝]]慶雲二年乙巳秋九月十五日庚申,廣國忽死。
逕之三日,戌日申時,
[SNIP[]]」
- [1393] 32
「神龜四年歲次丁卯九月中」
- [1394] 奥書「延喜四年五月十九日午時」

[1395] その他中巻、下巻にも
中7
「以天平廿一年己丑春二月二日丁酉時」
中39
「奈良宮治天下大炊天皇[WEAK[淳仁帝]]御世天平寶字二年戊戌春三月」
下16
「奈良宮御宇大八嶋國白壁天皇世[WEAK[光仁朝]]寶龜元年庚戌冬十二月廿三日之夜」
下38
「帝姬阿倍天皇御世之天平神護元年歲次乙巳年始」
など多くの用例がみられました。


[REFS[
- [1382] [CITE[[[日本靈異記]]【卷上】]], [TIME[2020-01-04 08:03:48 +09:00]] <https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/ryoiki/ryoiki01.htm>
]REFS]


** 日本後紀

[750] 
[CITE[日本後紀]]
[WEAK[([TIME[承和7(840)年][year:840]]成立)]]
は、
[[六国史]]第3の[[歴史書]]でした。

[1698] 
[TIME[弘仁元(810)年9月19日][kyuureki:810-09-19]][[改元]]詔書が次の通り収録されました。

[FIG(quote)[ 
[FIGCACPTION[
[749] 弘仁元年9月19日詔

[CITE[日本後紀]]
卷廿[TIME[弘仁元年九月[RUBYB[丙辰][19]]][kyuureki:810-09-19]]条

参照:
[CITE[日本後紀]]
[TIME[2020-01-07 02:53:23 +09:00]] <http://www.kikuchi2.com/chuko/koukiall.html>
]FIGCAPTION]

>
[BOX(vertical)[
飛鳥以前未[SUB[レ]]有[SUB[二]]年號之目[SUB[一]]、
難波御宇始顯[SUB[二]]大化之稱[SUB[一]]、
爾來因循歴世至[SUB[レ]]今是用。 [SNIP[]]
宜改[SUB[二]]大同五年[SUB[一]]爲弘仁元年。 [SNIP[]]

]FIG]





** 熱田縁起

[524] 
[CITE[熱田太神宮縁起]]
[WEAK[([TIME[寛平2(890)年][year:890]]成立)]]
は、
[[熱田神宮]]の[[縁起]]でした。
[SEE[ [[熱田縁起]] ]]

[1690] 
[RUBYB[[[貞観]]年間][[TIME[859][year:859]]-[TIME[877][year:877]]]]の[[縁起]]を元に作成されたものとされます。
現在に伝わるものは数種類あり、
細部や注釈が異なります。
[CITE[参考熱田大神宮縁起]]
(参考本)
刊本は、
[TIME[明和6(1769)年][year:1769]]、
[[伊藤信民]]が数本を参照して校閲したものでした。
[SRC[>>859 p.二二九]]



[1691] 
古代の[[天皇即位紀年]]やその後の時代の[[元号]]が見られる他に、
次のような記述がありました。


- [1052] 本文
「天命開別天皇七年戊辰」
-- = [TIME[天智天皇摂政7(668)年][year:668]]
-- 岩瀬本 [SRC[>>677]]
-- 参考本 [SRC[>>1056]]
-- 群書類従本 [SRC[新校 巻第廿四 p.五九九]]
- [1064] 本文
「天命[ASIS[𫔭][井]]別天皇七年戊辰」
-- 宮内庁書陵部本 [SRC[>>1063]]
- [1071] 本文
「天命開別天皇七年戌[ASIS[𫝕][<https://glyphwiki.org/wiki/u2b755-itaiji-001>]]」
-- 山内文庫本 [SRC[>>1069]]
- [679] 本文
「天渟中原瀛真人天皇朱鳥元年丙戌夏六月巳己朔戊寅」
-- = [TIME[日本書紀朱鳥元(686)年][year:686]]
-- 岩瀬本 [SRC[>>677]]
- [1067] 本文
「天[ASIS[渟][𠅘]]名原瀛真人天皇朱鳥元年丙戌夏六月己巳朔[ASIS[戊][ノなし]]寅」
-- = [TIME[日本書紀朱鳥元(686)年][year:686]]
-- 宮内庁書陵部本 [SRC[>>1066]]
- [1072] 本文
「天渟中原瀛[ASIS[真][異体]]人天皇朱𫠓元[ASIS[年][<https://glyphwiki.org/wiki/koseki-103750>]]丙戌夏六月巳己朔戊寅」
-- = [TIME[日本書紀朱鳥元(686)年][year:686]]
-- 山内文庫本 [SRC[>>1070]]
- [1053] 本文
「天渟中原瀛真人天皇朱鳥元年丙戌夏六月己巳朔戊寅」
-- = [TIME[日本書紀朱鳥元(686)年][year:686]]
-- 群書類従本 [SRC[新校 巻第廿四 p.五九九]]
-- 末尾に「右尾張國熱田太神宮緣記、參考熱田緣起を以て校勘す。」
とあるが、本文この部分に校異の注釈は無し。
- [1051] 本文
「天渟中原瀛眞人天皇朱雀元年丙戌夏六月己巳朔戊寅」
-- 参考本 [SRC[>>1057]]
- [1059] 割注
「天武紀云朱鳥元年戊寅 [SNIP[]] 扶桑略記云天武天皇朱鳥元年八月 [SNIP[]]
按自天智帝七年至朱鳥元年留皇居凡十五年 [SNIP[]]」
-- 参考本 [SRC[>>1057]]
- [1060] 欄外注釈
「熱田問答雜錄朱鳥元年十二月 [SNIP[]]」
-- 参考本 [SRC[>>1057]]
- [680] 欄外注釈
「熱田本記云白鳳〓年庚辰七月十三日云」
-- 岩瀬本 [SRC[>>677]]
- [682] 欄外注釈
「按白鳳天武天皇年號十四年而終白鳳九年乃庚辰也〓字蓋誤九字也正縁記作
天智天皇七年七月十三日者是也」
-- 岩瀬本 [SRC[>>677]]
- [1073] 欄外注釈
「經亮云按日本紀朱𫠓元[ASIS[年][<https://glyphwiki.org/wiki/koseki-103750>]]六月己己 [SNIP[]]」
-- 山内文庫本 [SRC[>>1070]]
- [1074] 欄外注釈
「熱田本記云朱𫠓元[ASIS[年][<https://glyphwiki.org/wiki/koseki-103750>]]六月十日遷坐同十二月朔日 [SNIP[]]」
-- 山内文庫本 [SRC[>>1070]]

[REFS[
- [1061] [CITE[[[熱田縁起]]]]
-- [1054] 岩瀬本:
--- [677] [CITE[【[[熱田太神宮縁起]]】]], [TIME[2020-01-20 17:31:15 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-22102&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E7%86%B1%E7%94%B0%E5%A4%AA%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E7%B8%81%E8%B5%B7%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=20>
-- [1055] 参考本:
--- [1056] [CITE[参考熱田大神縁起]], [TIME[2020-04-23 11:17:14 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=YA9-141-000-000-001&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=ON&SHOMEI=%E5%8F%82%E8%80%83%E7%86%B1%E7%94%B0%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E7%B8%81%E8%B5%B7&REQUEST_MARK=%E3%83%A4%EF%BC%99%EF%BC%8D%EF%BC%91%EF%BC%94%EF%BC%91&OWNER=%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%A0%94&BID=200000752&IMG_NO=24>
--- [1057] [CITE[参考熱田大神縁起]], [TIME[2020-04-23 11:17:30 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=YA9-141-000-000-001&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=ON&SHOMEI=%E5%8F%82%E8%80%83%E7%86%B1%E7%94%B0%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E7%B8%81%E8%B5%B7&REQUEST_MARK=%E3%83%A4%EF%BC%99%EF%BC%8D%EF%BC%91%EF%BC%94%EF%BC%91&OWNER=%E5%9B%BD%E6%96%87%E7%A0%94&BID=200000752&IMG_NO=25>
-- [1062] 宮内庁書陵部本
--- [1063] [CITE[熱田太神宮縁起]], [TIME[2020-04-23 11:54:36 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-101316&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=ON&SHOMEI=%E7%86%B1%E7%94%B0%E5%A4%AA%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E7%B8%81%E8%B5%B7&REQUEST_MARK=%EF%BC%A4%EF%BC%A9%EF%BC%A7%EF%BC%8D%EF%BC%AB%EF%BC%B3%EF%BC%B2%EF%BC%AD%EF%BC%8D%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%93%EF%BC%91%EF%BC%8D%EF%BC%96%2C+16%E3%82%B3%E3%83%9E%2C+Y&OWNER=%E6%9B%B8%E9%99%B5%E9%83%A8%E8%94%B5&BID=100231496&IMG_NO=15>
--- [1066] [CITE[熱田太神宮縁起]], [TIME[2020-04-23 11:59:39 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-101316&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=ON&SHOMEI=%E7%86%B1%E7%94%B0%E5%A4%AA%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E7%B8%81%E8%B5%B7&REQUEST_MARK=%EF%BC%A4%EF%BC%A9%EF%BC%A7%EF%BC%8D%EF%BC%AB%EF%BC%B3%EF%BC%B2%EF%BC%AD%EF%BC%8D%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%93%EF%BC%91%EF%BC%8D%EF%BC%96%2C+16%E3%82%B3%E3%83%9E%2C+Y&OWNER=%E6%9B%B8%E9%99%B5%E9%83%A8%E8%94%B5&BID=100231496&IMG_NO=16>
-- [1068] 山内文庫本
--- [1069] [CITE[熱田太神宮縁起]], [TIME[2020-04-23 12:22:29 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-002106&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=ON&SHOMEI=%E7%86%B1%E7%94%B0%E5%A4%AA%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E7%B8%81%E8%B5%B7&REQUEST_MARK=%EF%BC%99%EF%BC%99%EF%BC%8D%EF%BC%92%EF%BC%91%EF%BC%8D%EF%BC%96%2C+17%E3%82%B3%E3%83%9E%2C+A&OWNER=%E9%AB%98%E7%9F%A5%E5%9F%8E%E6%AD%B4%E5%8D%9A%E5%B1%B1%E5%86%85%E6%96%87%E5%BA%AB&BID=100064551&IMG_NO=12>
--- [1070] [CITE[熱田太神宮縁起]], [TIME[2020-04-23 12:27:09 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-002106&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=ON&SHOMEI=%E7%86%B1%E7%94%B0%E5%A4%AA%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E7%B8%81%E8%B5%B7&REQUEST_MARK=%EF%BC%99%EF%BC%99%EF%BC%8D%EF%BC%92%EF%BC%91%EF%BC%8D%EF%BC%96%2C+17%E3%82%B3%E3%83%9E%2C+A&OWNER=%E9%AB%98%E7%9F%A5%E5%9F%8E%E6%AD%B4%E5%8D%9A%E5%B1%B1%E5%86%85%E6%96%87%E5%BA%AB&BID=100064551&IMG_NO=13>

]REFS]


** 先代旧事本紀

[2013] 
[CITE[先代旧事本紀]]
[WEAK[(9世紀頃成立)]]
は、
[[歴史書]]でした。
[[神代]]から[[推古天皇]]時代までを扱っていました。

[2014] 
本文は[[平安時代]]頃成立、
[[推古天皇]]時代の紀年のある序文はその後加えられた[[偽書]]とする説が有力です。

[SEE[ 序文の日付について[[古史古伝の日時]] ]]

[2020] 
本文では[[神武東征]]から[[推古天皇]]まで[[日付]]が書かれていました。
おおむね
[CITE[日本書紀]]
方式をとっているようですが、細部 ([[干支年]]の書き方など)
に若干の違いはみられました。



** 興福寺縁起

[2078] 
[CITE[興福寺縁起]]
[WEAK[([TIME[昌泰3(900)年][kyuureki:900-06-26]][[藤原良世]]著)]]
は、
[[興福寺]]の[[縁起]]でした。

[2079] 
「天開別天皇卽位二年歳次己巳冬十月」
([[縦書き]]) [SRC[>>2077]]
(「天開別天皇卽位二年歳次己巳」
([[縦書き]]) [SRC[>>1731]])
とありました。
[[天智天皇]]即位年元年に当たります。


[REFS[
- [2077] [CITE@ja[[[大日本仏教全書]]. 119 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-14 12:01:05 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952823/168>
]REFS]

** 日本三代実録

[2381] 
[CITE[日本三代実録]]
[WEAK[([TIME[延喜元(901)年][year:901]]成立)]]
は、
[[歴史書]]でした。
[[六国史]]の第6です。

[2383] 
[TIME[元慶元(877)年12月16日][kyuureki:877-12-16]]条に、
「十六日壬午。 以禅院寺為元興寺別院。禅院寺者、遣唐留学僧道照、還此之後、壬戌年三月、
[SNIP[]]」
とありました。
[SRC[>>2382]]
[TIME[天智天皇元(662)年][year:662]]3月と解されています。

[2384] 
[TIME[元慶元(877)年12月27日][kyuureki:877-12-27]]条に、
「廿七日癸巳。勅。 [SNIP[]]
右京人前長門守従五位下石川朝臣木村、 [SNIP[]]。木村言。
始祖大臣武内宿祢男宗我石川、 [SNIP[]]。
清御原天皇十三年、賜姓朝臣。 [SNIP[]]」
とありました。
[SRC[>>2382]]


[REFS[
- [2382] [CITE@zh[[[日本三代實錄]]/卷第卅二 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2020-07-15 19:07:23 +09:00]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E4%BB%A3%E5%AF%A6%E9%8C%84/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%85%E4%BA%8C>
]REFS]

** 口遊

[1626] 
[CITE[口遊]]
[WEAK[([TIME[天禄元(907)年][kyuureki:907-12-27]]成立)]]
は、
[[教科書]]でした。
現存するものは[TIME[弘長3(1263)年][year:1263]]の[[真福寺]]本の系統です。

[1630] 
[CSECTION[年代門]]
に、
次のようにありました。
[SRC[>>1629]]

>
[BOX(vertical)[
今案。自大寳元年迄今年惣二百七十年。昔大
寳以往有年號。曰大化。白雉。白鳳。朱鳥。凡
從大化至白雉合九載。其後齊明天智二帝。雖
治天下專無年號。轉更至天武治天歳號朱鳥。
其後持統一帝無年號。亦天武御天歳號大寳。
從此以來永以不絶也。
]BOX]

[2070] [[白鳳]]が言及されながらどの天皇の時代にも挙げられていないのが注目されます。

[2071] 
[[大化]]と[[白雉]]は、
合計9年とされますが、
[CITE[日本書紀]]
によれば10年とされるもので、
誤算か誤写とみられます。
[SRC[>>1731]]

[2214] 
この注記の前に歴史の記述の部分があったようですが、
現存せずどのような形だったかはっきりしません。
[CITE[簾中抄]] (>>2198)
には[[大宝]]以後の[[元号]]一覧の後に[[大化]]、
[[白雉]]、[[白鳳]]、[[朱鳥]]に言及した注釈がついており、
あるいは同様の構成だったのでしょうか。


[REFS[
- [1627] [CITE[【[[口遊]]】]], [TIME[2020-05-24 09:57:08 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=THKW-07020&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%8F%A3%E9%81%8A%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=7>
- [1628] [CITE@ja[[[口遊]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[源為憲]], [TIME[文化4(1807)][year:1807]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2540624/7>
- [1629] [CITE@ja[[[続群書類従]]. 第32輯ノ上 雑部 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[塙保己一]], [TIME[大正12-15][year:1926]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936492/35>
]REFS]

** 太神宮諸雑事記

[571] 
[CITE[太神宮諸雑事記]]
[WEAK[(9世紀末頃成立して以後[TIME[延久1(1069)年][1069]]まで加筆 ([TIME[承暦3(1079)年][1079]]以前))]]
は、
[[伊勢神宮]]の[[歴史書]]でした。

[1662] 次の[[日付]]がみられました。
[SRC[>>655]]

- [656] [[孝徳天皇]]時代、
-- [1663] 「大化元年」
-- [1664] 「同二年」
- ([[斉明天皇]]、[[天智天皇]]の記事なし)
- [657] [[天武天皇]]時代、
-- [658] 「白鳳二年[LINES[壬][申]]」 ([[壬申の乱]])
-- [659] 「御即位二年[LINES[关][酉]]九月十七日」 (癸酉)
-- [660] 「白鳳四年[LINES[申][戊]]秌九月十三日」 (甲戌)
-- [661] 「[RUBY[朱雀][或云朱雀一年[RUBY[壬][元]]申]]三年九月卄日」
-- [662] 「朱雀三年」
- [663] [[持統天皇]]時代、
-- [664] 「即位四年[LINES[庚][宣]]」 (庚寅)
-- [665] 「同六年[LINES[壬][辰]]」

-*-*-

[1665] 
異なる表記が混用されており、異なる原資料をつなぎ合わせたものでしょうか。

[1666] 
特に不審なのは[[天武天皇]]の時代で、
1つの段落で3つの連続する年を[[白鳳]]、[[天皇即位紀年]]、[[白鳳]]と書き分けています。
著者や書写者は疑問を持たなかったのでしょうか。
それともいずれかの段階で[[白鳳]]への置き換えがあり、
1箇所見落としがあったのでしょうか。
この[[白鳳]]は2つの主要な[[天武白鳳説]]のどちらとも異なり、
1年のずれがあります。

[1667] 
[[天武天皇]]時代のうち[[朱雀]]何年に[[干支年]]が省かれているのも不審です。
何者かの注釈に或云とあるのは、
いずれかの年代記の類に朱雀が壬申年から1年継続とあるのに朱雀3年で不審に思ったためでしょう。
全体的に年代順で配列されているのですから、
この朱雀は[[白鳳]]より後の時代とみなすべきで、
壬申年なら時代が戻り、しかも[[白鳳]]とかぶってしまいます。
朱雀何年に[[干支年]]を書けなかったのもそれが理由でしょうか。
次の持統天皇時代の記事が持統天皇4年からはじまっているのですから、
この朱雀3年は持統天皇3年か持統天皇2年とみるのは都合が良すぎる解釈でしょうか。


[REFS[
- [655] [CITE[【[[太神宮諸雑事記]]】]], [TIME[2020-01-19 16:22:06 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-22602&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%A4%AA%E7%A5%9E%E5%AE%AE%E8%AB%B8%E9%9B%91%E4%BA%8B%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=7>
]REFS]


- [2818] [CITE@ja-JP[明治聖徳記念学会紀要 (14)]], [[明治聖徳記念学会]], [TIME[1995-04]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-29T15:00:41.628Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4425434/1/5> (要登録)

[2819] >>2818 「朱雀」が「私年号」だからその記事は信用できず、[[持統天皇]]時代ではないか、
もっと後世の出来事ではないか、とする説がある (この著者は否定的)。
確かに「私年号だから」を理由に信憑性を否定までするのは行き過ぎているが、
このケースでは本来[[持統天皇]]時代の記事の可能性は想定したほうがいい。


** 本朝月令

[2062] 
[CITE[本朝月令]]
[WEAK[(10世紀前半頃成立)]]
は、
[[年中行事]]ガイドでした。

[2063] 
現在は一部のみが伝わります。
第2巻 (4月-6月) 
が現存する他、
引用された[[逸文]]が諸書にあります。
[SEE[ >>1487, >>1851 ]]
[CITE[政事要略]] (>>376)
の[[年中行事]]の章のベースとなりました。

[REFS[
- [2064] [CITE[【[[本朝月令]]】]], [TIME[2020-06-14 09:36:53 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-044003&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E6%9C%AC%E6%9C%9D%E6%9C%88%E4%BB%A4%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=33>
]REFS]

** 西宮記

[2069] 
[CITE[西宮記]]
[WEAK[(10世紀頃成立)]]
は、
儀式ガイドでした。
構成の違う異本が複数知られています。

-*-*-

[2072] 
[[伴信友]]によれば、
十月宰相行列の條に、
「菅簦云々、白鳳制云、三品已上聽菅簦云々」
とありました。
[SRC[>>1731]]

[2076] 
[[国立国会図書館]]所蔵の[[江戸時代]]の本によると、
「[LINES[白鳳制云三品][以上聴菅簦云〻]]」
([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2075]]


[2073] 
[CITE[神道大系]]本由来のテキストデータによると、2箇所:

>第二巻/臨時三/車/本文/輦、太子老親王大臣僧正等、依宣旨乗之、 [SNIP[]] △菅?、公卿及祭使、御禊前駈持之、〈白鳳制云、三品以上、聴菅?也、〉行幸時、王卿已下雨具、用市女笠、

>臨時四/車/本文/輦、太子老親王大臣僧正等、依宣旨乗之、[SNIP[]] △菅?、公卿及祭使、御禊前駈持之、〈白鳳制云、三品已上、聴菅?也、〉行幸時、王卿以下雨具、用市女笠、

... とありました
[SRC[>>2074]]。
文中「菅?」は「菅簦」とみられます。



[REFS[
- [2075] [CITE@ja[[[西宮記]]. '''['''7''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-14 11:33:59 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2551514/55>
- [2074] [CITE@ja-JP[[[儀式書]] - kodaishi-text-by-takuro ページ!]], [TIME[2020-06-14 11:30:17 +09:00]] <https://kodaishi-text-by-takuro.jimdofree.com/%E5%84%80%E5%BC%8F%E6%9B%B8/>
]REFS]

** 政事要略

[376] 
[CITE[政事要略]]
[WEAK[([TIME[長保4(1002)年][year:1002]]11月成立後追記)]]
は、
政務ガイドでした。
現在は一部のみが伝わります。

[2065] 
廿五巻に、
「儒傳云、以小治田朝十二年歳次甲子正月戊戌朔始用暦日」
とありました。
[SRC[>>375, >>377]]
[WEAK[([CITE[儒伝]]は[[逸書]])]]
「小治田朝十二年歳次甲子」とは推古天皇12年です。

[REFS[
- [375] [CITE@ja[[[政事要略]]. '''['''2''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]] ([TIME[2019-08-07 11:01:26 +09:00]]) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2561023?tocOpened=1>
- [377] [CITE[[[古事類苑]]>方技部五>暦道上>始用暦日 第 25 巻 319 頁]] ([TIME[2014-03-11 14:32:38 +09:00]]) <http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/hougibu/frame/f000319.html>
]REFS]

** 新唐書


[542] 
[CITE[新唐書]]
[WEAK[([TIME[北宋仁宗嘉祐6(1060)年][year:1060]]成立、[TIME[康治2(1143)年][year:1143]]頃までに日本伝来)]]
は、
[[唐国]]の[[歴史書]]でした。
[[中華王朝]]の[[正史]]の
1つです。


[635] 
[CITE[新唐書]]
東夷伝日本条は、
[[神代]]以来の[[日本]]の歴史を記していました。
編者が入手できた資料が限定的だったとみえ、
著しく簡潔なダイジェストとなっています。


[2022] 
[CITE[宋史]]
[WEAK[([TIME[西暦1345年][year:1345]]成立)]]
は、
[[宋国]] ([[北宋]]・[[南宋]])
の[[歴史書]]でした。
[[中華王朝]]の[[正史]]の
1つです。

[2023] 
[CITE[宋史]]
日本伝は、
[[神代]]以来の[[日本]]の歴史を記していました。
その多くは、
[[日本]]の[[奝然]]が[[唐]]に献上した
[CITE[王年代記]]
([[逸書]])
からの[[引用]]の形をとっていました。


-*-*-

[748] 
[CITE[新唐書]]
の[[日本]]に関する記述と
[CITE[宋史]]
所引
[CITE[王年代記]]
の内容はよく似ており、
同系統と考えられています。
ただし細部に違いもあります。

[FIG(table)[ [638] [CITE[新唐書]] 倭人伝における[[日本の元号]]

:g: [[日本の元号]] [SRC[>>633]]
:c: [[元号コード]]
:e: [[天皇]] [SRC[>>633]]
:n: [[天皇]]代数
:oj: 
[CITE[宋史]]
所引
[CITE[王年代紀]]
[[日本の元号]] [SRC[>>1721]]
:oc: 
[CITE[宋史]]
所引
[CITE[王年代紀]]
[[中華王朝の元号]] [SRC[>>1721]]
:note: メモ

:e:[[神武天皇]]
:oj:即位元年甲寅
:oc:周僖王時

:e:[SNIP[]]

:e:[[應神]]
:oj:甲辰歲

:e:[SNIP[]]

:e:[[欽明]]
:g:欽明之十一年
:note:梁承聖元年
:oj:即位十三年壬申歲
:oc:梁承聖元年

:e:[SNIP[]]

:e:[[用明]]
:note:隋開皇末
:oc:隋開皇中

:e:[SNIP[]]

:e:[[皇極]]
:note:太宗貞觀五年

:e:[[孝德]]
:g:[[白雉]]
:n:36
:note:永徽初
:c: 2
:oj:白雉四年
:oc:唐永徽四年

:e:[[天豐財]]
:#oe:[[天豐財重日足姬天皇]]
:oc:顯慶三年

:e: [SNIP[]]

:e:[[總持]]
:#oe:持總
:note:咸亨元年

:e:[[文武]]
:note:長安元年
:g:[[太寶]]
:n:42
:c: 4
:oj:大寶三年
:oc:長安元年


:e: [[阿用]]
:n: 43
:note: [[元明天皇]]
:oj:[SNIP[]]

:e:[[聖武]]
:g:[[白龜]]
:n:45
:note: [[神亀]] #9
:oj:寶龜二年
:oc:開元四年

:e:[[孝明]]
:g:[[天平勝寶]]
:c: 12
:n:46
:note:
天寶十二載
上元中
:oj:天平勝寶四年
:oc:天寶中

:e:[SNIP[]]

:e:[[白璧]]
:note:建中元年
:oj:二十四年

:e:[[桓武]]
:note:貞元末
:oc:元和元年


:e:[SNIP[]]

:e:[[仁明]]
:note:開成四年
:oc:開成、會昌中



:e:[SNIP[]]

:e:[[光孝]]
:note:光啟元年
:n: 58
:oc:光啟元年

:oj:[SNIP[]]

]FIG]

[637] 
[[紀年]]に関係する箇所だけみても、
とても不完全で不正確なものでした。
最初の[[日本の元号]]の言及は[[白雉]]で、
その次は[[大宝]]でした。
その後の[[元号]]も網羅性は低いものでした。
[[天皇]]の情報の方がまだ充実していますが、
それも不正確でした。


[636] 
[CITE[新唐書]]
の[[日本]]と[[支那]]の紀年の対応の最初は、
「欽明之十一年,直梁承聖元年。」
でした
[SRC[>>633]]。
[[支那南北朝時代]]の南朝の国、[[梁]]の承聖元年は、
[TIME[西暦552年壬申][year:552]]です。
[CITE[日本書紀]]
では[[欽明天皇]]13年に当たり、
2年のずれがあります。
[SEE[ [[辛亥の変]] ]]

;; [384] この[[年]]が記録されたのは[[仏教公伝]]と関係がありそうです。

-*-*-

[2021] 
[CITE[新唐書]]
に、
「永徽初、其王孝徳即位、改元曰[SUB[二]]白雉[SUB[一]]。
献[SUB[二]]虎魄大如斗、馬瑙若五升器[SUB[一]]。」
とありました。

[2025] 
[[白雉]]が[[孝徳天皇]]の[[代始改元]]と認識されていたように読めます
[SRC[>>502]]。即位と改元が同時と明記してはいないので、
別タイミングと解せなくもありませんが、不自然です。
筆者はこれ以上正確な情報を持っていなかったので、
このような表現にしかなり得なかったと理解するべきでしょうか。

[2024] 
[CITE[続日本紀]]
に白雉4年遣唐使の記事があり、
その記録に基づくとする説があります。
[SRC[>>502 (坂本太郎)]]

-*-*-

[1100] 
[[聖武天皇]]の時代に[[白亀]]なる[[元号]]があったとされますが、
これも[[日本]]側の記録に見えないものです。
[SEE[ [[白亀]] ]]

-*-*-

[2026] 
[CITE[王年代記]]
は[[日本]]から持ち込まれた書物のはずですが、
日本側に現存する記録と比べて著しく不正確です。
それ以外にも[[遣唐使]]が数度行き来しており、
[[唐国]]に長く居住していた[[日本人]]もいました。
にも関わらず、
[CITE[新唐書]]
執筆時点で正確な情報がほとんど残っていなかったことになります。








[REFS[
- [633] [CITE@ja[[[新唐書]]/卷220 - Wikisource]], [TIME[2020-01-10 05:07:14 +09:00]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%96%B0%E5%94%90%E6%9B%B8/%E5%8D%B7220?uselang=ja#%E5%80%AD%EF%BC%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC>
- [1721] [CITE@zh[[[宋史]]/卷491 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2020-05-11 22:02:19 +09:00]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%AE%8B%E5%8F%B2/%E5%8D%B7491#%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9C%8B>
]REFS]


[2607] [CITE[九州王朝説批判1]], [TIME[2004-06-07T13:49:30.000Z]], [TIME[2020-09-30T08:32:31.755Z]] <http://home.p07.itscom.net/strmdrf/kyusyu_text1.htm>


** 類聚三代格


[1046] 
[CITE[類聚三代格]]
[WEAK[(11世紀頃成立)]]
は、
[[平安時代]]の歴代[[日本の法令]]集である[[三代格式]]を集成したものでした。

-*-*-

[1048] 
[CITE[類聚三代格]]
所収[TIME[天平9(737)年3月10日][kyuureki:737-03-10]][[太政官奏]]には、
「従白鳳年迄于淡海天朝」
とありました。
[SRC[>>1041, >>364]]

[1082] 
[[坂本太郎]]は[[孝徳天皇]]の[[白雉]]と同じ[[白鳳]]としました
[SRC[>>859 p.二〇八]]。
理由は明示されませんが、
[[白鳳]]年から[[天智天皇]]時代までという前後関係によるものでしょう。

-*-*-

[1356] 
[CITE[類聚三代格]]
巻十六所収[TIME[大同元(806)年閏六月八日][kyuureki:806-06'-08]]官符に、
「応尽収入公勅旨并寺王臣百姓等所占山川海嶋濱野林原等事
右件検案内、従乙亥年曁于延暦廿年、一百廿七歳之間、
[SNIP[]]
依慶雲三年詔旨一切停止、
[SNIP[]]
依延暦十七年十二月八日格行之、
[SNIP[]]」
とありました。
[SRC[>>364]]

[1357] 
乙亥年は[TIME[天武天皇4(675)年[LINES[乙][亥]]][year:675]]と解されています。
[SRC[>>859 p.二一三]]

-*-*-

[1047] 
[CITE[類聚三代格]]
には、
[[[CITE[弘仁格式]]序]]
[WEAK[([TIME[弘仁11(820)年][kyuureki:820-04-20]])]]
が収録されていました (>>273)。


[REFS[
- [1041] [CITE@ja[[[類聚三代格]] / 32]], [TIME[2020-04-16 18:17:21 +09:00]] <http://codh.rois.ac.jp/iiif/iiif-curation-viewer/index.html?pages=200019146&pos=32&lang=ja>
- [1042] [CITE[[[類聚三代格]]. 巻第1,3-5,7-8,12,15-16 / 植松茂岳 等'''['''校''']''']], [TIME[2020-04-21 20:37:16 +09:00]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wa03/wa03_00283/index.html>
-- [1043] [CITE[wa03_00283_0001_p0004.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) - 表示倍率 (28%)]], [TIME[2007-07-26 17:58:03 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wa03/wa03_00283/wa03_00283_0001/wa03_00283_0001_p0004.jpg>
(巻1画像4)

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[364] [CITE[[[類聚三代格]]]],
[CITE@ja-JP[法制史料テキスト - kodaishi-text-by-takuro ページ!]] ([TIME[2019-08-03 15:59:31 +09:00]]) <https://kodaishi-text-by-takuro.jimdo.com/%E6%B3%95%E5%88%B6%E5%8F%B2%E6%96%99/>
]FIGCAPTION]

>
巻2/経論并法会請僧事/13/太政官謹奏/請抽出元興寺摂大乗論門徒一依常例住持興福寺事/右得皇后宮職解?、始興之本、従白鳳年、迄于淡海天朝、内大臣割取家財、為講説資、伏願、永世万代勿令断絶、近則装厳天朝、福田万姓、遠則恒転法輪、奉資菩提者乎、亦中間者故正一位太政大臣藤原公頻割取財貨、添助論衆、迄于聖代、皇后自減資財、亦増論衆、伏願、再興先祖之業、重張聖代之徳、三宝興隆、万代无滅、欲令講説興福寺、伏聴進止者、朝議商量、崇道勧学、无妨仏教、望依所請、今具事状、伏聴天裁、謹以申聞、謹奏、奉勅、依奏、/天平九年三月十日

]FIG]

]REFS]



** 扶桑略記

[666] 
[CITE[扶桑略記]]
[WEAK[([TIME[寛治8(1094)年][year:1094]]-[TIME[嘉承2(1107)年][year:1107]]頃成立)]]
は、
[[皇円]]が[[神武天皇]]から[[堀河天皇]][TIME[寛治8(1094)年][year:1094]]まで、
[[天皇]]ごとに出来事をまとめた[[歴史書]]でした。
以後の[[歴史書]]をはじめ、大きな影響を与えました。

[1539] 
[CITE[水鏡]]
[WEAK[(院政期末-鎌倉初頃成立)]]
は、
[[神武天皇]]以来の時代を扱った[[歴史物語]]でした。
大部分が
[CITE[扶桑略記]]
を言い換えたに過ぎないものとされています。
[SEE[ [[水鏡]] ]]

-*-*-

[1087] 
[CITE[扶桑略記]]
は、
[[孝徳天皇]]の[[大化]]と[[白雉]]、
[[文武天皇]]の大宝2年以後は
「大寶二年壬寅」
のように[[元号名]]を明記し、
[[文武天皇]]5年以前は
「元年壬申」
のように[[天皇即位紀年]]の年数だけを書いていました。
[SRC[>>667]]

[2492] 
[[天武天皇]]時代は特殊で、
[[天皇即位紀年]]を使いつつ、
次のように改元記事を掲載していました。
[SRC[>>667]]

- [668] 「元年壬申」
- [669] 元年「八月,天皇幸野上宮,立年號為朱雀元年。大宰府獻三足赤雀,仍為年號。」
- [678] 2年癸酉「三月,備後國進白雉。仍改為白鳳元年。白鳳合至十四年。」
- [676] 「十五年丙戊,大倭國,進赤雉。仍七月,改為先鳥元年。」

[1530] 
これは壬申年を元年とする[[朱雀]]や、
天武天皇2年を元年とする[[白鳳]]の現存する初出の例とされます。


[772] 
[[伴信友]]は、
[CITE[扶桑略記]]
が[[天武天皇]]の時代について、
2年に[[白鳳]]改元とし、
[[白鳳]]を14年間とし、
壬申を元年とし、
15年を朱鳥の改元とする矛盾ぶりは、
編者が自身で計算せず、
参照した記録をつなぎ合わせただけだったためとしました。
[SRC[>>556]]

[773] 
[[斎藤励]]は、
[[伴信友]]の指摘は意図を掴みかねるところがあるものの、
[CITE[扶桑略記]]
の15年丙戌を[[白鳳]]15年と[[伴信友]]が誤解したもので、
[CITE[扶桑略記]]は[[天武天皇]]の[[即位紀年]]で一貫していて正しい、
としました。
[SRC[>>556]]

[774] 
斎藤の指摘通り[[天武天皇]]の項では一貫していますが、
伴の指摘の通り[[大宝]]以後の他の[[元号]]の説明とは違いがあり、
不審と言わざるを得ません。
元々[[天武天皇]]の項は[[天皇即位紀年]]で記述され、
後から[[元号]]の説明が挿入されたのではないか、
と疑う余地があります。


[1540] 
[CITE[水鏡]]
[[天武天皇]]時代の[[朱雀]]、[[白鳳]]、[[朱鳥]]の[[改元]]の時期と理由も、
[CITE[扶桑略記]]
と完全に一致します。
[SRC[>>1538]]

[2493] 
[CITE[水鏡]]
は文として順番に説明していく形をとっているので、
[CITE[扶桑略記]]
と同内容でも、
年数が実は[[天皇即位紀年]]であることがよりわかりにくくなっています。
[CITE[水鏡]]
だけを読んだ人は、まず間違いなく[[白鳳]]の年数と解してしまうでしょう。
([CITE[水鏡]]
著者自身がそう誤解していた可能性も高いでしょう。)
[[伴信友]]は、
15年改元とするのは14年の誤りだと指摘しました 
(>>1802)。

[SEE[ その他、[CITE[扶桑略記]] 系統の記述による誤読が明白な事例 >>2491 ]]



[1542] 
[CITE[水鏡]]
諸本のうちの1本 [SRC[>>1544]]
に、
「朱雀といふ年號を白鳳とぞかへられし」
の
「白鳳」
が
「白雉」
となっているものがありました
[SRC[>>1544, >>556 (水鏡詳解)]]。


[2815] 
[CITE[扶桑略記]][[天武天皇]]条の[[改元]]記事が他条と整合しないので、
後から追加された可能性がありますが、
[CITE[水鏡]]
に同じ[[改元]]記事があるということは、たとえそうだとしても
[CITE[水鏡]]
の成立よりは前 (= [CITE[扶桑略記]]の古い本か、
[CITE[扶桑略記]]がもとにした[[年代記]])
になります。

[2816] 
[CITE[濫觴抄]]
も
[CITE[扶桑略記]]
からの派生記事を多く含みますが、
「[V[天武二年癸酉[SUP(smaller)[白鳳元年]]]]」
とあります。
[SRC[>>2814 #page=21]]
なお本書は[[善記]]を最初の[[元号]]としますが、
それは他書によるものと思われます。

-*-*-

[675] 
[CITE[扶桑略記]]
[[文武天皇]]五年辛丑正月同月条の引用する
[CITE[役公傳]]
([[佚書]]、[[役小角]]の[[伝記]])
に、
「[RUBY[藤原宮御宇][持統]]天皇代白鳳四十七年丁酉歲二月十日」、
「白鳳五十六年十二月廿五日」
「大寶元年辛丑正月一日」
などとありました。
[SRC[>>1535, >>667]]

[1531] 
[CITE[扶桑略記]]
編者
([[皇円]])
の注釈 (私詞) は、
時系列の辻褄が合わない上に[[白鳳]]は14年しかないのに不審だ、
としていました。
[SRC[>>1535, >>667]]

[1532] 
[[白鳳]]が14年しかないとするのは
[CITE[扶桑略記]]
の採用した[[天武白鳳説]]でした。
[CITE[扶桑略記]]
の編者にとって、
2つの矛盾する[[白鳳]]の説があっても、
一方は信用に値するもので、
他方は信用に値しないが一応書き留めるべきと判断するものではあった、
ということになります。

[1533] 
[CITE[役公傳]]
の[[白鳳]]は、
[[白雉]]に連なるもので注目されます
(>>2319)。



[1541] 
[CITE[水鏡]]
には、
[[役小角]]への言及はありますが、
[[白鳳]]の[[元号]]は使われませんでした。



-*-*-

[2210] 
[CITE[水鏡]] 
1本の注に、
「天智天皇治十年、白鳳十年辛未崩、」
とありました。
[SRC[>>1731]]

[2496] 
[[天智天皇]]時代の[[白鳳]]の一種ですが、主流説と1年のずれがあります。

-*-*-

[2497] 
[CITE[水鏡]]
中巻の先頭に目次があり、
[[天皇]]名に[[元号]]が示されていました。
[[元号]]に添えられた数字は継続年数のようです。

[2500] 
ある本には次のようにありました
[SRC[>>2499]]。

>
[BOX(vertical)[
[SUP[卅八]] 孝德天皇 [LINES[大化五][白雉五]]  [SUP[卅九]] 齊明天皇

[SUP[四十]] 天智天皇  [SUP[四十一]] 天武天皇 [LINES[朱萑一 白鳳十[ASIS[一][>>2498]]][朱[ASIS[鳥][灬は一]]一]]

[SUP[四十二]] 持統天皇 [LINES[朱鳥八][大化二]] [SUP[四十三]] 文武天皇 [LINES[大宝三][慶雲四]]

]BOX]

[2498] ここで、
「白鳳十」の次の文字は、
「一」の下に接して汚れのような点がついたものです。
[CITE[古典選集本文データベース]]
は
「〔三〕」
と解しました。 [SRC[>>2499]]


[2501] 
またある本には次のようにありました
[SRC[>>2494]]。

>
[BOX(vertical)[
[WEAK[卅八]] 孝德天皇 [LINES[大化五][白雉五]]  [WEAK[卅九]] 齊明天皇

[WEAK[四十]] 天智天皇  [WEAK[四十一]] 天武天皇 [LINES[朱雀一 白鳳十三][朱鳥一]]

[WEAK[四十二]] 持統天皇 [LINES[朱鳥八][大寶二]] [WEAK[四十三]] 文武天皇 [LINES[大寶三][慶雲四]]

]BOX]

[2502] 
この[[元号]]の記述は本文と一致しません。
本文成立後に別個に書き加えられたものでしょうか。

- [2503] [[白鳳]]が元々何年だったのかはっきりしません。
「十三」とするのは校訂者が計算したものでしょうか。
本文に素直に従うなら14となるべきに思われます
(>>2493)。
- [2504] 本文では[[持統天皇]]時代は[[天皇即位紀年]]と明言されているのに、
こちらでは[[朱鳥]]になっています。「朱鳥八」は、
[[天武天皇]]の「朱鳥一」の次に[[持統天皇]]内に8年間という意味でしょうか。
次の2年と合わせて10年間で、[[譲位]]の第11年より前の年数となります。
- [2505] [[持統天皇]]の第2の[[元号]]が本により[[大化]]と[[大宝]]で違っています。
どちらが元の形だったのでしょうか。
- [2506] [[文武天皇]]の最初の無年号4年は省かれています。
- [2508] [[文武天皇]]の[[元号]]の年数総計は[[大宝]]4年、慶雲5年ですが、[[改元]]のあった最終年を省いたのか、
1年ずつ少なくなっています。以後の[[天皇]]も同様です。





[REFS[
- [2240] 
-- [1534] [CITE[新日本古典籍総合データベース]], [[国文学研究資料館 | National Institute of Japanese Literature]], [TIME[2020-04-03 14:26:18 +09:00]] <https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100085005/viewer/92>
-- [1535] [CITE[新日本古典籍総合データベース]], [[国文学研究資料館 | National Institute of Japanese Literature]], [TIME[2020-04-03 14:26:18 +09:00]] <https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100085005/viewer/104>
- [2241] [CITE@ja[[[国史大系]]. 第6巻 日本逸史 扶桑略記 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[経済雑誌社]], [TIME[1897-1901][year:1901]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991096/270>
- [667] [CITE[[[扶桑略記]]【ふそうりゃくき】阿闍梨皇圓]], [TIME[2011-03-26 02:26:36 +09:00]] <https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/kiryaku/fs05.htm>
- [1803] 
-- [2494] [CITE@ja[国文大観. 歴史部1 [[四鏡]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-08-02 09:33:09 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991359/117>
-- [1538] [CITE@ja[国文大観. 歴史部1 [[四鏡]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[丸岡桂, 松下大三郎 共編]], [TIME[明治36][year:1903]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991359/127>
- [2495] 
-- [1546] [CITE@ja[[[水鏡詳解]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[江見清風]], [TIME[1903序][year:1903]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992843/6>
-- [1544] [CITE@ja[[[水鏡詳解]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[江見清風]], [TIME[1903序][year:1903]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992843/120>
- [2499] [CITE[[[古典選集本文データベース]] テキストページ]], [TIME[2020-08-02 09:37:32 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/CsvSearch.cgi?GRP_ID=G0001501&DB_ID=G0001501TEXT&IS_KIND=CsvPageChanger&IS_SCH=CSV&IS_KEY_A1=%E6%B0%B4%E9%8F%A1&IS_TAG_A1=Cul999&IS_KEY_A2=2&IS_TAG_A2=Cul20&IS_CND_A2=ALL&IS_NUMBER=100&IS_KEY_A3=1&IS_TAG_A3=Cul996&IS_CND_A3=ALL>
]REFS]

** 大鏡

[742] 
[CITE[大鏡]]
[WEAK[([[白河院]]の頃成立)]]
は、
[[歴史物語]]でした。

[681] 
古代についての[[日付]]を、
[[孝徳天皇]]の「元年乙巳」、
「五年つちのとのとり」、
「天智天皇十年二月三日」
のように書いて[[元号]]は示さず、
[[孝徳天皇]]と[[天智天皇]]の間
[WEAK[(ここでは[[斉明天皇]]に言及なし。)]]
で
「かの時年號あらざれば月日申しにくし」
とし、
[WEAK[([[天武天皇]]と[[持統天皇]]の時代の[[年号]]に言及なく、)]]
「文武天皇の御時に年號定りて大寶元年といふ」
としていました。
([[縦書き]])
[SRC[>>743]]



[2080] 
ある本の注には、
「齊明天皇治七年、白鳳十三年辛酉崩御」
とありました。
[SRC[>>1731]]

-*-*-

[2195] 
[[伴信友]]は[[持統大化]]説の関係で
[CITE[大鏡目録]]
を引用していました。年次は異本により異同があったようです
(>>1830)。

[2255] 
[[伴信友]]によると
[CITE[大鏡裏書]]
に[[朱鳥]]の記述があったようです (>>1824)。


[REFS[
- [743] [CITE@ja[国文大観. 歴史部1 [[四鏡]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[丸岡桂, 松下大三郎 共編]], [TIME[1903-1906][year:1906]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991359/14>
]REFS]


** 掌中歴

[632] 
[CITE[掌中歴]]
[WEAK[([RUBYB[平安時代後期][[TIME[1124][year:1124]]-[TIME[1130][year:1130]]ごろ]]成立)]]
は、
便覧でした。

[295] 
[[元号一覧]]の最初を[[大宝]]としており、
それ以前に何も示していませんでした。
[SRC[>>631]]

[351] 
[[月の大小と閏月の一覧表][大小暦]]が掲載されていました。
[SRC[>>631]]

[REFS[
- [631] [CITE[【[[掌中歴]]】]], [TIME[2020-01-19 11:02:31 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-266204&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E6%8E%8C%E4%B8%AD%E6%AD%B4%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=21>
]REFS]


** 師元年中行事

[1466] 
[CITE[師元年中行事]]
[WEAK[([[鳥羽天皇]] (在位[TIME[嘉承2(1107)年][kyuureki:1107-07-19]]-[TIME[保安4(1123)年][kyuureki:1123-01-28]]) の頃いったん成立し追筆)]]
は、
行事の一覧表でした。

[1468] 
行事がいつ始まったなどと注釈されることがあり、
天武天皇時代については次のようなものがありました。
[SRC[>>1463, >>859 p.二一八]]

- [1469] 1月7日 「白馬節会及叙位事 [LINES[天武天皇十年][正月七日御小安殿宴]]」
- [1470] 1月8日 「大極殿始御斎会事 [LINES[天武天皇九年始説金][光明経於宮中及諸寺]]」
- [1471] 1月11日 「除目事 [LINES[天武天皇四年三][月始任官云々]]」
- [1472] 1月15日 「宮内省進御薪事 [LINES[天武天皇白鳳二年][癸酉始供御薪]]」
- [1473] 1月16日 「踏歌節会事 [LINES[天武天皇三年正月拝朝大][極殿詔男女無別踏歌]]」
- [1474] 1月17日 「射礼事 [LINES[天武天皇九年正][月大射宮門内]]」

-*-*-

[1475] 
著者[[中原師元]]の親[RUBYB[[[中原師遠]]][[TIME[延久2(1070)年][kyuureki:1070-11-23]]-[TIME[大治5(1130)年][kyuureki:1130-08-07]]]]に
[CITE[師遠年中行事]]
がありました。
同趣旨の文書のため必然的に内容は似ていますが、
文言の異同が多く、
直接的にこれに基づいたものとは言い難いでしょう。

[1477] 
[CITE[師''遠''年中行事]]
には
[CITE[師元年中行事]]
の天武天皇時代の説明はまったくみられません。
かわりに次の説明がありました [SRC[>>1476]]。

- [1478] 1月9日 「[RUBY[始外官除][天武天皇四年三月]]目議事」

[1479] 
まったく内容が一致しないということは、
[CITE[師''元''年中行事]] の[[天武天皇]]時代の記述は中原氏に伝わった信頼できる記録に基づいたものではない可能性が高くなります。

-*-*-

[1480] 
1月8日
「天武天皇九年始説金光明経於宮中及諸寺」
は、
[CITE[日本書紀]]
天武天皇9年''5''月乙亥朔是日条「始説金光明經于宮中及諸寺」と一致します。

[1481] 
1月17日
「天武天皇九年正月大射宮門内」
は、
[CITE[日本書紀]]
天''智''天皇9年春正月乙亥朔辛巳条「詔士大夫等大射宮門内」と一致します。

[1483] 
1月16日
「天武天皇三年正月拝朝大極殿詔男女無別踏歌」
は、
似た文言が次に示すものなどいくつかの文献に現れます。

- [1487] 
[CITE[明文抄]]
「天武天皇三年正月。拜朝大極殿。詔男女無別闇夜踏歌。[SUB[本朝月令]]」
[SRC[>>1482]]
-- [1494] 
[CITE[明文抄]]
は
[RUBYB[[[藤原孝範]]][[TIME[保元3(1158)年][year:1158]]-[TIME[天福元(1233)年][year:1233]]]]著
-- [1495] 
[CITE[本朝月令]] (>>2062)
- [1488] 
[CITE[年中行事抄]]
1月14日
「天武天皇三年正月。拜朝大極殿。詔男女無別闇夜踏歌事。」
[SRC[>>1484]]
- [1489] 
[CITE[師光年中行事]] (>>2266)
1月16日
「天武天皇三年正月。拜朝大極殿。詔。男女无別。闇夜踏歌事。」
[SRC[>>1486]]



[1490] 
1月11日
「天武天皇四年三月始任官云々」
は、「云々」とあり、
後半を省略しての引用であることを窺わせます。


[1485] 
1月15日の宮内省進御薪事は、
他の文献では別の説を示しています。

- [1491] 
[CITE[日本書紀]]
天武天皇
4年春正月戊申
「百寮諸人。初位以上進薪。」
- [1492] 
[CITE[年中行事抄]]
1月15日
「天武天皇四年正月。百寮諸人初位以上進薪。」
[SRC[>>1484]]
- [1493] 
[CITE[師光年中行事]] (>>2266)
1月15日
「日本書紀云。天武天皇四年正月十五日戊申。百寮諸人初位以上進薪。」
[SRC[>>1486]]

[1497] 
[CITE[師元年中行事]]
の[[天武天皇]]の記述の根拠は不明ですが、
いずれも当時存在した他の文献からの引用の可能性が高そうです。
しかしその引用の方法、あるいは引用した文献が、
信頼できるものだったのか疑問を持たざるを得ません。

-*-*-

[1498] 
[[坂本太郎]]は、
天武天皇時代の1例のみ[[白鳳]]の[[元号]]であることから、
「後世の攙入と見ることは余りに独断に過ぎるにもせよ、
少くとも本書著作の当時においては、
白鳳号と天武朝との関係がきわめて稀薄であった」
としました。
[[白鳳]]が信頼できる記録に基づくものなら、
師元が他の日付にも適用したであろうからです。
[SRC[>>859 p.二一八]]

[1499] 
[[坂本太郎]]は、
[CITE[師元年中行事]]
が最初に成立したとみられる[[鳥羽天皇]]の頃に、
[[白鳳]]元年を[[天武天皇]]壬申年とする微弱な一説が存在したのだろうとしました。
[SRC[>>859 p.二一八]]



[REFS[
- [1476] [CITE@ja[[[続群書類従]]. 第10輯ノ上 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[塙保己一]], [TIME[大正13-15][year:1926]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1939754/109>
- [1467] [CITE@ja[[[続群書類従]]. 第10輯ノ上 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[塙保己一]], [TIME[大正13-15][year:1926]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1939754/125>
- [1484] [CITE@ja[[[続群書類従]]. 第10輯ノ上 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[塙保己一]], [TIME[大正13-15][year:1926]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1939754/141>
- [1482] [CITE[[[続群書類従]] 30下(雑部) - 太田藤四郎 - Google ブックス]], [TIME[2020-05-21 12:48:16 +09:00]] <https://books.google.co.jp/books?id=k0qWK0cMENQC&pg=RA93>
]REFS]

** 興福寺伽藍縁起

[1632] 
[CITE[興福寺伽藍縁起]]
[WEAK[([TIME[久安元(1145)年][kyuureki:1145-10-02]]成立)]]
は、
[[寺社縁起]]でした。

[1633] 次の[[日付]]がみられました。
[SRC[>>1631]]

- [1634] 「人皇卅八代齊明天皇卽位三年[LINES[丁][巳]]」
- [1635] 「天智天皇卽位八年[LINES[己][巳]]」
- [1636] 「[RUBY[天武][四十代]]天皇卽位元年白鳳十二[LINES[癸][未]]年」
- [1637] 「[RUBY[元明天][四十三代]]皇卽位二年和同二[LINES[己][酉]]年」
- [1638] 「同七年[LINES[甲][寅]]」
- [1639] 「和銅七年」
- [1640] 「[RUBY[元正天][四十四代]]皇養老五[LINES[辛][酉]]年」
- [1641] 「神龜三[LINES[丙][酉]]年」
- [1642] 「天平二[LINES[庚][午]]年」
- [1643] 「天平六[LINES[甲][戌]]年」
- [1644] 「同十七[LINES[乙][酉]]年」
- [1645] 「天平寳字五[LINES[辛][丑]]年」
- [1646] 「天平寳字八[LINES[甲][辰]]年」
- [1647] 「光仁天皇寳龜二[LINES[辛][亥]]年」
- [1648] 「嵯峨天皇御時」
- [1649] 「弘仁四[LINES[癸][巳]]年」
- [1650] 「[RUBY[敏達][卅一代]]天皇卽位八[LINES[巳][亥]]年冬十月」
- [1651] 「[RUBY[村上][六十二代]]天皇應和三[LINES[癸][亥]]年」
- [1652] 「白河院承保二[LINES[乙][卯]]年」
- [1653] 「孝謙天皇天平勝寳四[LINES[壬][辰]]年」
- [1654] 「二月堂」
- [1655] 「三月堂」
- [1656] 「于時承曆三己未年」
- [1657] 「久安元年[LINES[乙][丑]]冬十月二日」

-*-*-

[1658] 
異なる原資料からまとめたものなのか、[[日付]]表記がばらばらで規則性が見い出せません。

[1659] 
斉明天皇3年[LINES[丁][巳]]は
[CITE[日本書紀]] 
と一致します。

[1660] 
天智天皇8年[LINES[己][巳]]は
[CITE[日本書紀]]
と一致します。
「即位」ではなく[[称制]]から8年ですが、
[[天皇即位紀年]]の意味で深く考えずに使ったものでしょう。

[1661] 天武天皇元年白鳳12年[LINES[癸][未]]は不審です。
即位年から数えた天武天皇元年[LINES[癸][''酉'']]と、
壬申年元年の[[天武白鳳説]]による白鳳12年[LINES[癸][未]]が混同されたものでしょうか。
[[干支年]]を無視すると、
日本書紀天武天皇元年[LINES[壬][申]]が12年なら元年は辛酉(661)年、
日本書紀天武天皇2年[LINES[癸][酉]]が12年なら壬戌(662)年になり、
[[天智天皇]]時代の[[白鳳]]説 (>>978) と一致します。


[REFS[
- [1631] [CITE@ja[[[続群書類従]]. 第27輯ノ下 釈家部 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-05-24 10:22:55 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936488/60>
]REFS]

** 袋草紙

[1502] 
[CITE[[[袋草紙]]]]
[WEAK[([RUBYB[[[保元]]年間][[TIME[1156][year:1156]]-[TIME[1159][year:1159]]]]頃成立)]]
は、
[[歌論書]]でした。

-*-*-

[1505] 
巻1
[CSECTION[大嘗会歌次第]]
に、

>
天武天皇御宇白鳳二年癸酉十一月始之。但歌不見。

... とありました。
[SRC[>>1503, >>859 p.二一九]]

[1507] 
[TIME[日本書紀天武天皇元(672)年[LINES[壬][申]]][year:672]]が[[白鳳]]の元年に当たります。

[1506] 
[CITE[日本書紀]]
[TIME[天武天皇2(673)年[LINES[癸][酉]]][year:673]]の[[大嘗祭]]記事が大元と思われますが、
引用ではなく直接の根拠が何だったのか明らかではありません。

-*-*-

[2191] 
[[伴信友]]によると、
「持統天皇大化三年、譲位輕皇太子」
とあった (>>1832) ようです。

[2193] 
それと同じ箇所かどうか不明ですが、
「持統天皇 十年十一年譲位輕太
子号曰太上天皇」 ([[縦書き]])
とありました [SRC[>>2192]]。
ここで「十年」は在位年数でしょうか。
「十一年」は譲位年でしょうか。
([TIME[持統天皇11(697)年][year:697]]が譲位年です。)



[REFS[
- [1504] [CITE[[[袋草紙]]. 巻1-4 / 清輔 '''['''著''']''']], [TIME[2020-05-21 16:30:14 +09:00]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko30/bunko30_d0120/index.html>
-- [1503] [CITE[bunko30_d0120_0001_p0027.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) - 表示倍率 (29%)]], [TIME[2010-07-22 09:30:16 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_d0120/bunko30_d0120_0001/bunko30_d0120_0001_p0027.jpg>
-- [2192] [CITE[bunko30_d0120_0001_p0038.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) - 表示倍率 (31%)]], [TIME[2010-07-22 09:30:27 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_d0120/bunko30_d0120_0001/bunko30_d0120_0001_p0038.jpg>
]REFS]

** 大覚寺所蔵[CITE[年代記]]

@@
- [2802] 
[CITE@ja-JP[日本古典の成立の研究]], [[平田俊春]], [TIME[1959]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-28T14:42:06.996Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3006623/1/588> (要登録)


** 色葉字類抄

[2320] 
[CITE[[[色葉字類抄]]]]
[WEAK[(12世紀頃成立以後数度改変)]]
は、
[[辞書]]でした。
大きく異なる本が複数伝わっており、
何度か追補されたといわれています。

-*-*-

[2323] 
現存する3巻本の[[箕面寺]]の項には、
「白鳳卄一年十月十七日甲午」 ([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2322, >>2328]]


[2324] 
[[伴信友]]によると、
[CITE[色葉字類抄]]
の[[箕面寺]]の項には、
「白鳳二十一年辛未十月十七日云々」
とありました。
[SRC[>>1731]]


[2329] 
3巻本より古いとされる2巻本には[[箕面寺]]の項目が見当たりません。

[REFS[
- [2321] [CITE[[[色葉字類抄]]. 上,中,下 / '''['''橘忠兼''']''' [著]]], [TIME[2020-07-15 16:52:12 +09:00]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ho02/ho02_00596/index.html>
-- [2322] [CITE[ho02_00596_0003_p0060.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px)]], [TIME[2006-09-16 05:12:59 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ho02/ho02_00596/ho02_00596_0003/ho02_00596_0003_p0060.jpg>
- [2328] [CITE[[[色葉字類抄]](花山院本)]], [TIME[2015-11-27 14:00:01 +09:00]] <http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y05/html/171/l/03_p058.html>
]REFS]


** 箕面寺縁起

[2285] 
[CITE[[[箕面寺縁起]]]]
[WEAK[([TIME[承安3(1173)年][year:1173]]以前成立)]]
は、
[[寺社縁起]]でした。

-*-*-

[2288] 
[[神武天皇]]の時代から[[大宝]]元年までの[[日付]]のある記事がありました。
[[天皇]]の事蹟や[[元号]]の一覧ではないため断片的ですが、
次のようにありました。
[SRC[>>2286]]

- [2287] 「第一代神武天皇御宇即位元年甲寅治天
下七十九年御生年百二十七也」
([[縦書き]])
-- [2292] [CITE[日本書紀]] 神武天皇甲寅年 [[神武東征]]、
神武天皇元年[LINES[辛][酉]]即位、
神武天皇76年[[崩御]]127歳、
その後3年空位
- [2289] 「第卅代欽明天皇磯城嶋金刺宮御宇即位元
年歳次庚申治天下卅二箇年也就中第十三年
歳次壬申冬十月[RUBY[⿱二白][[ASIS[三][二+汚れにも見える]]日]]済國聖明王 [SNIP[]]」
([[縦書き]])
-- [2290] [CITE[日本書紀]] [TIME[欽明天皇13(552)年[LINES[壬][申]]][year:552]]冬10月条[[仏教公伝]]記事に相当。
- [2291] 
「第卅一代敏達天皇[RUBY[譯][オハしタ]]田宮御宇即位元年歳
次辛夘治十四箇年也厥第二年歳次壬辰春正
月一日聖徳太子 [SNIP[]]」
([[縦書き]])
- [2293] 
「第卅五代舒明天皇岡夲宮御宇即位元年歳次
己[RUBY[刃][丑]]仏法来朝七十八箇年治天下十三ケ年也厥
第六年歳次甲午正月一日大和國平群郡[RUBY[茅][茅]]原郷 
[SNIP[]]」
([[縦書き]]) 
[SRC[>>2286 1615]]
- [2294] 
「白鳳卄
年歳次庚午春三月十七日」
([[縦書き]])
[SRC[>>2286 1615]]
-- [641] 
[[所功]]所引
[CITE[箕面縁起]]
「白鳳二十年」
[SRC[>>502 (>>517)]]。
- [2295] 
「同年四月十七日夜」
([[縦書き]])
[SRC[>>2286 1616]]
- [2296] 
「同
年十月十七日甲午」
([[縦書き]])
[SRC[>>2286 1618]]
- [2297] 
「白
鳳卄[RUBY[二][イ一]]年歳次辛未正月八日」
([[縦書き]])
[SRC[>>2286 1619]]
- [2298] 
「第[RUBY[卅][卌]]一代持統天皇御宇是謂藤原宮矣」
([[縦書き]])
[SRC[>>2286 1620]]
- [2299] 
「行者 [SNIP[]] 以同卌八年歳次丁酉二月十日流
遣於伊豆嶋生年六十五也」
([[縦書き]])
[SRC[>>2286 1620]]
- [2300] 
「同五十一年歳次庚
子二月卄五日」
([[縦書き]])
[SRC[>>2286 1620]]
- [2301] 
「大寳元年歳次辛刃正月一日」
([[縦書き]])
[SRC[>>2286 1622]]

[2333] 諸書に引用されており、また[[白鳳]]の用法が注目されます (>>2319)。


[REFS[
- [2286] [CITE[[[九条家]]旧蔵本(九00001~00105)-[[箕面寺縁起]] [[役行者]]事]], [TIME[2020-02-26 19:30:39 +09:00]] <https://clioapi.hi.u-tokyo.ac.jp/mirador/?manifest=https://clioapi.hi.u-tokyo.ac.jp/iiif/81/tdata/kujo/kujo00001-00105/51/manifest>
]REFS]

** 袖中抄

[1463] 
[CITE[[[袖中抄]]]]
[WEAK[([RUBYB[[[文治]]年間][[TIME[1185][year:1185]]-[TIME[1190][year:1190]]]]頃成立)]]
は、
[[歌学書]]でした。

[1464] 
第3巻、
[CSECTION[かつまたの池]]
の条に、

>
天武天皇飛鳥浄御原宮。
大和国高市郡也。
帝王系図云。
白鳳九年十一月依皇后病造薬師寺云々

とありました。 [SRC[>>1462, >>859 p.二一七]]

[1465] 
この
[CITE[帝王系図]]
は中原氏によるものとされ、
時期より[[中原師元]] (>>1466)
の可能性があるとされます。
[SRC[>>859 p.二一七]]



[REFS[
- [1462] [CITE@ja[[[袖中抄]] 20目録1巻 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ]], [TIME[2020-05-21 10:37:37 +09:00]] <https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00006315#?c=0&m=0&s=0&cv=94&r=0&xywh=-362%2C691%2C2827%2C1024>
]REFS]


** 簾中抄

[2198] 
[CITE[簾中抄]]
[WEAK[(平安時代末期頃成立)]]
は、
[[便覧]]でした。

-*-*-

[2205] 
[[天皇]]一覧に[[元号]]と年数が示されていました。
[[孝徳天皇]]に[[元号]]が初めて定められたとし、
「大化五年白雉五年」 ([[縦書き]]) とありました。
[[天武天皇]]に
「朱雀一年白鳳三年朱鳥一年」 ([[縦書き]]) とありました。
[[持統天皇]]に
「朱鳥のこり七年大化四年」 ([[縦書き]]) とありました。
[SRC[>>2204, >>2206]]

[1782] 
[[伴信友]]は、
[[天武天皇]]の時代に
「朱雀一年白鳳十三年朱鳥一年」、
[[持統天皇]]の時代に
「朱鳥殘七年、大化四年」
とあったとしました。
ある写本には朱雀と朱鳥を前後に書き「十」が脱落したものがあり、
誤りと考えられる、
としていました。
[SRC[>>1731]]


-*-*-

[2201] 
[[大宝]]以後の[[元号]]の年数がまとめられていました。
[[元号一覧]] [SRC[>>2202, >>2207]] と、
[[天皇]]ごとの[[元号一覧]] [SRC[>>2200, >>2209]]
がありました。
前者の後に、
[[大宝]]の前に[[大化]]、[[白雉]]、[[白鳳]]、[[朱鳥]]という[[元号]]があったと書かれていました
[SRC[>>2203, >>2208]]。



[REFS[
- [2199] [CITE@ja[簾中抄 2巻 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ]], [TIME[2020-06-28 12:39:32 +09:00]] <https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00008020>
-- [2204] <https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00008020#?c=0&m=0&s=0&cv=29&r=0&xywh=121%2C971%2C2820%2C1024>
-- [2202] <https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00008020#?c=0&m=0&s=0&cv=89&r=0&xywh=-226%2C94%2C2820%2C1024>
-- [2203] <https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00008020#?c=0&m=0&s=0&cv=93&r=0&xywh=491%2C342%2C2820%2C1024>
-- [2200] <https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00008020#?c=0&m=0&s=0&cv=175&r=0&xywh=-366%2C873%2C2820%2C1024>
- [2206] [CITE@ja[[[簾中抄]] 2巻. '''['''1''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-28 12:52:31 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2566605/22>
-- [2207] [CITE@ja[[[簾中抄]] 2巻. '''['''2''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-28 12:53:32 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2566606/2>
-- [2208] [CITE@ja[[[簾中抄]] 2巻. '''['''2''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-28 12:54:30 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2566606/6>
-- [2209] [CITE@ja[[[簾中抄]] 2巻. '''['''2''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-28 12:56:09 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2566606/80>
]REFS]


- [2624] [CITE@ja[史籍集覧. 23 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[近藤瓶城]], [TIME[1902-1926][year:1926]], [TIME[2021-02-26T09:50:22.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920383/139>
- [2623] [CITE@ja[史籍集覧. 23 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[近藤瓶城]], [TIME[1902-1926][year:1926]], [TIME[2021-02-26T09:47:30.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920383/155>
-[2622] [CITE@ja[史籍集覧. 23 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[近藤瓶城]], [TIME[1902-1926][year:1926]], [TIME[2021-02-26T09:43:12.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920383/181>

** 建久御巡礼記

[2361] 
[CITE[建久御巡礼記]]
[WEAK[([TIME[建久2(1191)年][year:1191]]以後成立)]]
は、
旅行記でした。

[2363] 
[[当麻寺]]の縁起に、
「白鳳九年[LINES[辛][巳]]二月十五日」
とありました。
[SRC[>>2362]]

[REFS[
- [2362] [CITE[二上山の彼方 ―當麻の時空―]], 
[[志水義夫]],
[TIME[2020-03-31 14:21:16 +09:00]] <http://119.245.151.59/ancient/report/pdf/report7_11_taima.pdf#page=7>
]REFS]

** 多武峯略記


[929] 
[CITE[多武峯略記]]
[WEAK[([TIME[建久8(1197)年][year:1197]]成立)]]
は、
[[多武峰]]の寺社に関する事項をまとめたものでした。
[[逸書]]を含む諸文献からの引用が多く含まれており、
それぞれに由来するいろいろな[[日時表記]]もみられました。

[131] 
そのうち[[白雉]]、[[白鳳]]の時代の記述には次のようなものがあります。
2系統の異本があって内容が大きく異なります。
両本の内容に、そして両本に引用された各書の内容には相互に矛盾もあります。
本書の成立の過程でも、その後の伝来でも、
関係する伝承に混乱があったことがうかがえます。

[123] 
上巻第5
[CSECTION[草創]]

[FIG(table)[

:121: 
[CITE[神道体系]]本
[SRC[>>121]]
:122: 
[CITE[群書類従]]本
[SRC[>>122]]
:note: メモ

:121:
右當寺草創星霜遠隔、
先賢於未詳之、
後世何輙決之、
然而
粗見舊記之文、
僅聞古老之説、
以十三重塔可爲當寺之濫觴歟、
夫此塔者、
大織冠一男定慧和尚任平生之契約、爲納嚴考之遺骸、
採靈木於他州、拓洪基於此地者也、
而入唐歸朝之年紀、塔婆建立之時代、
舊記所載相違非一、
今以管見擧其異説耳、
:122:
右當時草創星霜遠隔。
先賢猶未詳之。
後世何輙決之。
然而粗見舊記之囗。
僅聞古老之説。
以十三重塔可爲當時濫觴歟。
夫此塔者大織冠一男定惠和尚任平生之契約。
爲納先公之遺骸。
採靈木於異國。
拓洪基於此地者也。
而入唐歸朝之年紀。
塔婆建立之時代。
舊記所載相違非一。
以今管見擧其異説耳。

:121:
荷西記云、
定慧和尚、
天智天皇治天下丁卯、生年二十三入唐、
天武天皇治天下戊寅歸朝、
謁右大臣、(不比等也、)
問言、
大織冠御墓所何地哉、
答曰、
攝津國嶋下郡阿威山也、
爰和尚稱有平生契約、
引率廿五人参阿威山墓所、
掘取遺骸、手自懸頸、即落涙言、
吾天萬豐日天皇太子也、
宿世契爲陶家子、役人荷土、
共登談岑、安(置脱カ)遺骸於十三重塔之底云々、取意、
:122:
荷西記云。
定惠和尚。
天智天皇治天下丁卯生。
年二十三入唐。
天武
天皇治天下戊寅歸朝。
謁弟右大臣問云。
大織冠御墓處何地哉。
答曰。
攝津國嶋下郡阿威山也。
於是和尚具語先公契約。
即引率二十五人。參阿威山墓所。
掘取遺骸。手自懸頸。即落涙言。
吾是天萬豐日天皇太子。
宿世之契爲陶家子云々。
故人荷土共登談岑。
安置遺骸於十三重塔之底矣。

:122:
後記(千滿撰)云。
或説云。
白雉四年(癸丑)夏五月十二日。定惠和尚生年十歳。
隨遣唐使小山上吉士長丹等。到長安。
天智四(乙丑)年秋九月廿二日。
付大唐使劉德高等歸京師。
天智九(庚午)年閏九月六日。
改大織冠聖廟。移倉橋山多武峯云々。
:note:
[TIME[白雉4(653)年[LINES[癸][丑]]5月12日][kyuureki:653-05-12]]



:121:
日本紀云、
天武天皇即位七年戊寅、
定慧和尚改大織冠墓所、
移倉橋山多武岑十三重塔底云々、

:121:
又或記云、
天武天皇六年丁丑定慧歸朝、
移大織冠廟於大和國十市郡椋橋山、
其上建塔云々、

:121:
或記云、
和尚天智天皇治天下丁卯入唐、年廿三也、
天武天皇第七年戊寅歸朝、創當寺云々、
:122:
或説云。
天智六(丁卯)年。定惠和尚生。
年二十三入唐。
白鳳七(戊寅)年歸朝。
同年十一月。改大織冠聖廟移倉橋山多武峯。
其上起十三重塔云々。

:122:
或説云。
白雉四年入唐。
天智六年重入唐矣。

:121:
扶桑集云、
天智天皇九年庚午閏九月六日、
移大織冠廟於多武岑云々、

:121:
藤氏家傳云、
天智天皇庚午閏九月六日、火葬於山階舎、
:note:
[CITE[大織冠伝]]
「粤以庚午閏九月六日、火葬於山階精舎。」

:121:
已上二文、日時雖同、葬所大異、

:121:
又同傳云、
和尚以白鳳五年甲寅
(私云、孝徳天皇十年也、)
到長安、
以白鳳十六年乙丑秋九月、經自百濟來京師也、
以其年十二月廿三日、終大原第、春秋二十三云々、
:note:
[CITE[貞恵伝]]
「[SNIP[]] 故以白鳳五年歳次甲寅、随聘唐使到于長
安、 [SNIP[]] 以白鳳
十六年歳次乙丑秋九月、経自百済来京師也、
[SNIP[]] 則以其年十二
月廿三日、終〔於〕大原之第、春秋廿三、
[SNIP[]]」


:121:
今案、此家傳文聊有疑殆、
同傳云、
天智天皇八年己巳十月十六日大織冠薨逝云々、
而今云定慧和尚乙丑歳遷化、如此傳者、
大織冠御存生之時、和尚令入滅歟、
若然者、十三重塔非和尚建立歟、
將亦非爲遺骸安置歟、
又薨逝己巳年十月也、
至于次年閏九月、不營葬事經一年後始火葬歟、
如何、
:note:
[CITE[大織冠伝]]
「即位二年、冬十月、 [SNIP[]] 十六日、辛酉、薨于淡海之第。」

:122:
舊記云。
定惠和尚白雉四(癸丑)年夏五月隨遣唐使入唐。
高宗永徽四年也。
在唐習學二十六年。
高宗儀鳳三(戊寅)年。
伴百濟
使歸朝。
白鳳七年秋九月也。
同年起十三重塔矣。
:note:
[154] 
[[OCR]]
が
「白維」
と誤認識した例
[SRC[>>928]]
があり要注意。

:121:
又或記云、
建立以後百七十二年、賢基始來住云々、
今案、
賢基來住者嘉祥元年也、
仍次上兩記意同歟、

:121:已上
入唐・歸朝・改葬・起塔等之時代、異説如此、
但此中荷西記者、
與定慧和尚存(在イ)日記全同云々、
日本紀文又以符契、
仍暫以彼説可爲指南歟、
雖然取捨之條尚以有恐、更待後賢之正決、
可詳舊記之違文者歟、
:122:已上。
入唐歸朝。改葬起塔等之時代。異説如此。
但此中荷西記者。與定惠和尚存日記全同。
仍暫以彼説可爲指南歟。
雖然取捨之條。尚以有恐。
更待後賢之正決。
可詳舊記之違文者歟。

:121:
(若如荷西記者、
草創以後至于今年丁巳、五百廿箇年也、)

]FIG]

;; [127] [[坂本太郎]]の論文で引用されたもの
[SRC[>>859 pp.二一四-二一五]]、
[[高橋照彦]]の論文で引用された静胤本 [SRC[>>928 PDF 10ページ]]
は、
[CITE[群書類従]]本とほぼ同じ。[[日付表記]]部分は完全に一致。



[128] 
上巻第10
[CSECTION[地主]]

[FIG(table)[

:121: 
[CITE[神道体系]]本
[SRC[>>121]]
:122: 
[CITE[群書類従]]本
[SRC[>>122]]
:note:
メモ

:121: [SNIP[]]

:121:
官位(付賜姓)

:121:
傳云、
及岡本天皇御宇之始、
以良家子簡授錦冠令嗣宗業、
固辭不受、歸去三嶋別業云々、

:121:
或記云、
皇極天皇三年甲辰正月授神祇伯、
并令兼大連、公而固辭不就云々、

:121:
又云、
皇極天皇四年乙巳六月三日戊
申誅入鹿了、
其第三日庚戌輕皇子即位、(孝徳天皇、)
中大兄爲皇太子、(天智天皇、)
鎌足大連(于時神祇伯拜、)
大錦冠任内大臣、封二千戸(年卅一、)

:121:
白鳳五年甲寅八月拜紫冠、増封八千戸、
:note:
[CITE[大織冠伝]]
「白鳳五年、秋八月、詔曰、「[SNIP[]] 超拝紫冠、増封八千戸。」」

:121:
至齊明天皇御宇、遷大紫冠、進爵爲公、
増封五千戸、(惣一萬五千戸也、)
:note:
[CITE[大織冠伝]]
「皇祖母尊、[SNIP[]]
故遷大紫冠、進爵為公、増封五千戸。前後并凡一万五千戸。」

:121:
天智天皇八年己巳十月十五日庚申、
帝遣皇太子(天武天皇)於内臣家授大織冠、
即改姓爲藤原朝臣云々、
:note:
[CITE[日本書紀]]
天智天皇8年冬10月庚申
「天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家。授大織冠與大臣位仍賜姓爲藤原氏。 [SNIP[]]」
[CITE[大織冠伝]]
「即位二年、冬十月、[SNIP[]]。遣東宮皇大弟、就於其家、詔曰、「[SNIP[]]
仍授織冠。以任太政大臣。改姓為藤原
朝臣。」

:121:
[SNIP[]]

:121:
薨逝

:121:
傳云、
天智天皇八年己巳冬十月十六日辛酉薨于淡海之第、
時年五十有六、上哭之甚慟廢朝云々、
:note:
[CITE[大織冠伝]]
「即位二年、冬十月、[SNIP[]]
十六日、辛酉、薨于淡海之第。時年五十有六。上哭之甚慟。廃朝九日。」


:121:
或記云、
天皇臨喪悲泣如喪親云々、
墓所在草創之處、


]FIG]


[129] 
上巻第11
[CSECTION[住侶]]

[FIG(table)[

:121: 
[CITE[神道体系]]本
[SRC[>>121]]
:122: 
[CITE[群書類従]]本
[SRC[>>122]]
:note:
メモ

:121:
定慧和尚(當寺草創人也、)
:122:
定惠和尚者。
當寺開基人也。

:121: [SNIP[]]
:122: [SNIP[]]

:121:
歸朝之後、草創當寺、
止住修行、
:122:
故歸朝後。草創談岑。
止住當寺三十七年。

:122:
靈廟在當寺。
碑曰。
入唐求法沙門定惠。
和銅七年六廿五。春秋七十。
端座遷化矣。

:121:春秋四十有二遷化、(一云廿三、)
:122:
或説云。
白鳳十四年十二月二十三日。四十二歳遷化。

:121:
古老説云、
和尚御墓在山城國木幡寺邊、
:122:
靈在山城國木幡寺矣。

:121:[SNIP[]]
:122:[SNIP[]]

]FIG]

[130] 
上巻第13
[CSECTION[佛事]]

[FIG(table)[

:121: 
[CITE[神道体系]]本
[SRC[>>121]]
:122: 
[CITE[群書類従]]本
[SRC[>>122]]
:note:
メモ

:121:[SNIP[]]
:122:[SNIP[]]

:122:法華會。

:122:
毎年十月於聖靈院修之。

:122:
後記云。
白鳳十三年爲内大臣遠忌定惠和尚講法華經。
其後天暦二年十月自朔日至四日。
僧都實性始修法華八講矣。
自爾已來。毎年修之。
:note:
[TIME[天暦2(948)年10月1日][kyuureki:948-10-01]]-[TIME[4日][kyuureki:948-10-04]]

:121:
維摩八講(自十月十日至十六日七ヶ日、)
:122:維摩會。

:121:
私云、
近來自十日至十六日七箇日也、

:121:
記云、
毎年十月、草木黄落、萬物凋熟之時、
始自十日至十三日四ヶ日修八講會、
雖無其料、年來不闕、
承和八年始之、今所修法花八講是也、
今案、十月十六日是内大臣遠忌、所謂維摩會竟日也、
仍改十日始十二日、五箇日講演宜修、
十六日爲彼遠忌功徳也云々、
:122:
毎年十月於聖靈院修之。

:122:
後記云。
白鳳十一年十月。爲内大臣遠忌定惠和尚講維摩經。
其後延暦四〔年十〕月。僧正善珠復講此經。
其後天延二年十月。内供奉増賀復講此經。
同三年十月。撿挍千滿修維摩略會矣。
自爾已來。毎年修之。

:121:[SNIP[]]
:122:[SNIP[]]

]FIG]


[137] 
下巻第2
[CSECTION[堂舎(付佛像)]]

[FIG(table)[

:121: 
[CITE[神道体系]]本
[SRC[>>121]]
:122: 
[CITE[群書類従]]本
[SRC[>>122]]
:note:
メモ

:121:[SNIP[]]
:122:[SNIP[]]

:121:
講堂(檜皮葺、五間四面、禮堂作、元三間四面、)
:122:
講堂。

:122:
(檜皮葺五間四面。禮堂作。元三間四面。)

:121:
記云、
三間檜皮葺堂一宇、庇四面、一面孫庇也、
號阿彌陀堂云々、

:121:
荷西記云、
安置遺骸於十三重塔之底、經年之後、
塔南建三間四面堂、號妙樂寺云々、
:122:
荷西記云。
安置遺骸於十三重塔之底。
經年之後塔南建三間四面堂。
號妙樂寺矣。

:121:
私云、
此記雖云經年、恨不記其年數、
此堂草創尤以不審也、
追可勘之、

:121:
天禄三年二月十四日官奏寺解云、
:122:
天禄三年二月十四日官奏寺解云。
:note:
[TIME[天禄3(972)年2月14日][kyuureki:972-02-14]]

:121:
墓頭有寺、號妙樂寺、草創之後不知年紀云々、
古人不知之歟、

:122:
荷西記。
定惠和尚白鳳七年建
立塔婆。經年之後建立講堂云々。
此記雖云經年。恨不記年數矣。

:122:
天禄三年三月二十八日氏長者御願文云。
白鳳十一年三月内大臣長子定惠和尚初建講堂矣。
:note:
[TIME[天禄3(972)年3月28日][kyuureki:972-03-28]]

:122:
要記云。
三間檜皮葺堂四面庇。
其中南面孫庇也。名曰講堂。

:121:
記云、
延喜十六年始修理之、
同十七年修理事畢、
延長三年當國目城(シキノ)上(カミ)利(トシ)春始造阿彌陀高欄、
同四年造葺同堂飛簷并蔀子、
大藏行直奉加蔀料材、
天慶九年修理、
葺改檜皮一千三百團、
件堂甍元無瓦、
今以新一千三百枚葺之、
忠幹朝臣加稲五百束云々、
:122:
延喜十六年始修理之。
同十七年修理畢。
延長三年當國目城上利春始造高欄。
同四年造飛簷并蔀。大藏行直加材木。
天慶九年改檜皮葺。以瓦七千三百枚葺之。
忠幹朝臣加稲五百束矣。

:121:[SNIP[]]
:122:[SNIP[]]

]FIG]

[146] 
引用元ごとにも[[日付表記]]の方式は違い、
[[天皇]]と[[干支年]]を組み合わせたもの、
[[元号]]方式のもの、
[[元号]]と[[干支年]]を組み合わせたものなどがみられます。
次のような事実が明白です。

- [147] [CITE[神道体系]] 本には
[CITE[藤氏家伝]]
からの引用がみられます。
-- [149] 必ずしも
[CITE[藤氏家伝]]
の日付表記そのままではありません。
-- [148] 
[CITE[藤氏家伝]]
の[[天智天皇]]時代の年号は、
[CITE[日本書紀]]
方式に書き換えられています。
-- [150] 
[CITE[神道体系]] 本にある
「白鳳」
は、
すべて
[CITE[藤氏家伝]]
からの引用中に出現します。
- [151] 
「白雉」
は 
[CITE[群書類従]]
本にのみ出現します。
[CITE[日本書紀]]
と矛盾しません。
- [152] 
[CITE[群書類従]]
本にはその他にも
「白鳳」
が出現します。

[1456] 
両本の成立過程には不確定な点もあるようです。
[SEE[ [[多武峯略記]] ]]
[[白鳳]]元号の利用状況が大きく偏ったこの状況か如何にして生じたのか、
慎重な検討が必要とされます。

[1457] 
異なる[[日付表記]]が混在するということは、
編纂時や書写時に引用元の表記が大きく改変されずにそのまま伝えられたものと期待できます。
しかしながら、
[CITE[藤氏家伝]]
と引用文を比較すると編者が改変していたことが判明します。
やはりここにも慎重な検討は必要です。


-*-*-

[120] 
[CITE[群書類従]]
本
[CSECTION[草創]]
で引用された
「後記」
は、
[[千満]]によるものとあります。
[RUBYB[[[千満]]][?-[TIME[天元4(981)年][year:981]]]]は、
[CITE[多武峯略記]]
本文より、
[[村上天皇]]
[WEAK[(在位[TIME[天慶9(946)年][kyuureki:946-04-20]]-[TIME[康保4(967)年][kyuureki:967-05-25]])]]、
[[円融天皇]]
[WEAK[(在位[TIME[安和2(969)年][kyuureki:969-08-13]]-[TIME[永観2(984)年][kyuureki:984-08-27]])]]
の頃の[[多武峯]]の検校と知られています。
「後記」
に続く3つの「或説」
は、いずれも「後記」
からの引用と考えられます。
[SRC[>>859 pp.二一四-二一五]]

[153] 
その「後記」
第2「或説」
に
「白鳳七[LINES[戊][寅]]年」
とあり、
[TIME[日本書紀天武天皇7(678)年][year:678]]と解されます。
[[元年]]は[TIME[日本書紀天武天皇元(672)年[LINES[壬][申]]][year:672]]にあたり、
[[天武白鳳]] (>>790)
の現存最古の用例とされます。
[SRC[>>859 pp.二一四-二一五]]

[155] 
諸説示された中で一番古そうだという「荷西記」
は、
「天智天皇治天下丁卯」
「天武天皇治天下戊寅」
と書いていました。
「後記」第2「或説」は、
その[[紀年法]]を
「天智六[LINES[丁][卯]]年」
「白鳳七[LINES[戊][寅]]年」
と置き換えたに過ぎず、
記述された事実関係は一致しています。
ところが、丁卯年に生まれて戊寅年に帰国したなら12歳で、
この記述はそもそも矛盾しています。
[SRC[>>859 pp.二一四-二一五]]
[CITE[荷西記]]
は[TIME[延喜17(917)年][year:917]]、
[[多武峯妙楽寺]]僧[[荷西]]の伝えを弟子[[泰行]]が記したもので、
説話的で史実性に乏しいところがあり慎重な評価が必要とされます。 [SRC[>>928]]



[930] 
[[坂本太郎]]は、
最初荷西記が不用意に記したとしても、
或説として長らく伝えられるはずがなく、
[[千満]]が後記で荷西記から引用したものではないかとしました。
従って他に「白鳳」を使った信頼できる記録に頼ったものではなく、
[[千満]]が当時の説に従い[[天武白鳳]]に書き換えたものとしました。
[SRC[>>859 p.二一五]]
[[高橋照彦]]は坂本説を支持し、
[RUBYB[[[天暦]]年間][[TIME[947][year:947]]-[TIME[957][year:957]]]]頃の[[天武白鳳説]]に従ったものとしました
[SRC[>>928 PDF 12ページ]]。



[157] 
[CITE[群書類従]]
本
[CSECTION[佛事]]
に後記から引用した白鳳が2例ありました。
[[坂本太郎]]は明らかに[[千満]]によるものとしました。
[SRC[>>859 pp.二一五-二一六]]

[1458] 
[RUBYB[[[天暦]]年間][[TIME[947][year:947]]-[TIME[957][year:957]]]]頃の[[千満]]が後記で[[天武白鳳]]を使ったとする説が成立するのは、
[CITE[多武峰略記]]
の「後記」が[[千満]]の原本を忠実に再現していることが前提となります。
[CITE[多武峰略記]]
成立後にこの部分だけ
「白鳳」
に置き換わったとは考えにくい (>>1457)
としても、
[CITE[多武峰略記]]
編者が元にした「後記」
写本の筆者が「白鳳」
に置き換えた可能性は、一応考慮しておかねばなりません。




-*-*-

[158] 
[CITE[群書類従]]
本
[CSECTION[草創]]
で引用された
「旧記」
に
「高宗儀鳳三[LINES[戊][寅]]年。 伴百濟使歸朝。 白鳳七年秋九月也。」
とありました。
[TIME[儀鳳3(678)年[LINES[戊][寅]]][year:678]]は[TIME[日本書紀天武天皇7年][year:678]]に当たりますから、
この[[白鳳]]も[[元年]]は[TIME[日本書紀天武天皇元(672)年[LINES[壬][申]]][year:672]]にあたると解されます。

[1451] 
「旧記」
は[TIME[建久8(1197)年][year:1197]]から見て「旧」で、
下巻6 [CSECTION[末寺]]
に[TIME[萬寿2(1025)年][year:1025]]の記述がある、
比較的新しいものです。
「古記」
と同一だとすると、
下巻2 [CSECTION[堂舎]]
より[RUBYB[[[嘉応]]年間][[TIME[1169][year:1169]]-[TIME[1171][year:1171]]]]まで下らせ得るものです。
[SRC[>>859 p.二一六]]

[1459] 
[[高橋照彦]]は内容や「白鳳」
を使っていることから、
[CITE[荷西記]]
や後記を踏まえた折衷案とみました
[SRC[>>928 PDF 11-12ページ]]。

-*-*-

[1452] 
[CITE[群書類従]]
本
[CSECTION[堂舎]]
に
「荷西記''云''」
でなく
「荷西記」
とある部分があって、その前後の部分の意味が解しがたいですが、
そこに「白鳳」も含まれます。
この部分は
[CITE[神道体系]]本では絶妙に異なっており、
両者の成立の過程も気になります。

[1453] 
[[坂本太郎]]は、
「荷西記」
に続く部分が
「荷西記云」
と引用された部分と同趣旨で別表現を取っていることを指摘し、
荷西記の意を取って記したものだと解しました。
従って[[白鳳]]も荷西記に由来するものでなく、
表現を置き換えたものに過ぎないとしました。
[SRC[>>859 pp.二一六-二一七]]

-*-*-

[1460] 
[CITE[群書類従]]
本上巻11 
[CSECTION[住侶]]
に
「或説云」
として、
[[定惠]]の死去が
「白鳳十四年十二月二十三日」
とありました。
現行説では[TIME[日本書紀天智天皇4(665)年[LINES[乙][丑]]12月23日][kyuureki:665-12-23]]、
[CITE[藤氏家伝]]では[TIME[白鳳16年歳次乙丑12月23日][kyuureki:665-12-23]]となり、
日付は一致しますが、
同年か定かでありません。

[1461] 
[CITE[群書類従]]
本の他の
「白鳳」
と同じく[[天武天皇時代][天武白鳳]]とすると、
時代が大きくずれてしまいます。

-*-*-

[1555] 
[[多武峰]]は[TIME[天仁2(1108)年][year:1108]]と[TIME[承安3(1173)年][year:1173]]に大規模な焼き討ちに遭いました。
[CITE[多武峰略記]]
の原資料の保存状態に悪影響はなかったのでしょうか。


[REFS[
- [121] [CITE@ja[[[多武峰略記]](神道体系本)]], [[Niels Guelberg]], [TIME[2020-05-20 10:11:15 +09:00]] <https://web.archive.org/web/20170404141013if_/http://www.f.waseda.jp/guelberg/ryakki/sht.htm>
- [122] [CITE@ja[[[多武峰略記]](群書類聚本)]], [[Niels Guelberg]], [TIME[2020-05-20 10:11:32 +09:00]] <https://web.archive.org/web/20190504045554if_/http://www.f.waseda.jp/guelberg/ryakki/gshr.htm>
- [928] [CITE[[[阿武山古墳]]小考 : 鎌足墓の比定をめぐって]], 
[[高橋照彦]],
[TIME[2004][year:2004]],
[TIME[2020-01-29 18:53:02 +09:00]] <https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/48098/mrh_038_001A.pdf#page=10>
]REFS]

** 覧初要集

[2056] 
[CITE[覧初要集]]
は[[逸書]]です。


[2030] 
[CITE[三教指帰]]
[WEAK[([TIME[延暦16(797)年12月1日][kyuureki:797-12-01]]成立後改訂)]]
は、
[[宗教書]]でした。

[2031] 
[CITE[三教指帰]]
に[RUBYB[[[覚明]]][[[平安時代]]末期-[[鎌倉時代]]初期]]が注釈したとするものがありました
[SRC[>>2032]]。


[2029] 
覚明注の
「[[延暦]]」
の[[元号]]の解説中、
[[元号]]の説明として、
「覧初要集云皇極天皇四年爲大化元年自此以來有元」
([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2032]]


[2053] 
[CITE[和漢事始]] (>>2039)
にもこの部分が孫引きされていました
[SRC[>>2051, >>2052]]。



[2034] 
[CITE[二中歴]] (>>1671)
の[[元号一覧]]の[[大化]]の横に細字の注釈で、
「覧初要集云皇極天皇四年爲大化元年」
([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2035]]



[HISTORY[

[2033] 
[[伴信友]]は、
覚明注所引
[CITE[覽初要集]]
に
「皇極天皇の四年を大化元年とす、是より以來年號あり」
とあることを紹介し、
[[大化]]を[[皇極天皇]]の[[元号]]とするのは誤りだとしました
[SRC[>>1731 p.五百九十二]]。
たしかに[[皇極天皇]]が[[改元]]したかに読める文面ですが、
[CITE[日本書紀]]
(>>1723)
以来の表現で、伴の理解が誤りでしょう。
([[伴信友]]は
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
説に関係するこの部分をよく知っていたはずなのに、
不思議です。)

]HISTORY]


[REFS[
- [2032] [CITE@ja[[[三教指帰注]] : 3巻. '''['''1''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-13 11:51:38 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2599673/19>
]REFS]

[2918] 
[CITE@ja-JP[日本随筆大成 別巻上]], [[日本随筆大成編輯部]], [TIME[1927-1931][1931]], [TIME[2024-10-01T09:05:02.000Z]], [TIME[2024-11-23T12:53:31.741Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1914157/1/327?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83> (要登録)

[1178] 
[CITE@ja-JP[名古屋叢書 : 校訂復刻 第18巻 (随筆編 1)]], [[名古屋市教育委員会]], [TIME[1982.3][1982]], [TIME[2026-03-03T01:08:12.000Z]], [TIME[2026-03-05T15:44:16.049Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12406372/1/195?keyword=%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)


** 新古今和歌集

[2119] 
[CITE[新古今和歌集]]
[WEAK[(13世紀初頭成立)]]
は、
[[和歌集]]でした。

[2121] 
1588番[[詞書]]に、
「朱鳥五年九月紀伊国に行幸時」
とありました。
[SRC[>>2120]]


[REFS[
- [2120] [CITE@ja[[[新古今和歌集]]/巻第十七 - Wikisource]], [TIME[2020-06-07 13:13:13 +09:00]] <https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%96%B0%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E5%92%8C%E6%AD%8C%E9%9B%86/%E5%B7%BB%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%83>
]REFS]

** 愚管抄

[1508] 
[CITE[愚管抄]]
[WEAK[([TIME[承久2(1220)年][year:1220]]に一旦成立、[[承久の乱]]後改訂)]]
は、
[[史論書]]でした。
巻1
[CSECTION[皇帝年代記]]
に歴代天皇ごとの事蹟がまとめられていました。

[1511] 
[[元号]]に関係して次のような記事がありました。
[SRC[>>1509]]

>
-孝徳 十年 元年甲寅
-- 御諱軽。皇極弟ナリ。同母ナリ。乙巳年六月十四日庚戌即位。同日以中大兄皇子立東宮。天智天皇也。摂津國難波長柄豊碕宮。后三人。皇子一人。
-- 左大臣阿倍倉橋麻呂 五年三月七日薨。
-- 大紫巨勢徳大臣 大化五年四月廿日任大臣。
-- 右大臣蘇我山田石川麻呂 馬子大臣子。大化五年三月被人告謀反得誅自死。
-- 大紫大伴長徳連 大化五年四月任。白雉二年七月薨。
-- 内大臣○内臣の誤。大錦上中臣鎌子連 大化元年任。一名鎌足。天児屋根尊廿一世孫。小徳冠中臣御食子卿之長男也。大化元年六月三日。誅殺人鹿。即賜恩賞。授内大臣。詔日。社 獲安。寔頼公力。仍拝大錦冠。授内大臣。封二千戸。軍國磯要任公處分云々。
-- コノ御時年号ハジメテアリ。大化五年。白雉五年。八省百官ヲサダメテヲク。國國ノサカイミツギモノヲ定ム。唐ヨリ文書寶物ヲヲクワタセリ。
-- [SNIP[]]
-- 白雉五年正月鼠ヲヲク大和國ヘムレユク。遷都ノ前相トイヘリ。
-齊明女 七年 重祚 元年乙卯
-- [SNIP[]]
-- 左大臣大紫巨勢徳大臣 四年正月薨。
-- [SNIP[]]
-天智 十年 元年壬戌
-- [SNIP[]]
-- 内大臣大織冠藤原鎌子 天皇八年十月十五日為内大臣。賜姓藤原氏。同十六日薨。年五十六。在官廿五年。
-- [SNIP[]] 御母齊明天皇ウセタマイテノチ。七年マデ御即位シタマハズ。
-- [SNIP[]] 又東宮ノ御時漏刻ヲツクラル。鎌足ヲ内大臣ニナシテハジメテ藤原ノ姓ヲタマウ。
-- 齊明天皇ノ位ニツカセタマウ支干ハ七年ノ後トモミエズ。相続シテタヘズトミユ。ウセタマイテ後七年マデ國主モヲハシマサヌニハアラザルニヤ。七年トアルハ天智ノ御即位アルベキヲ。猶御母ノ女帝ニ重祚ヲセサセマイラセテ。七年ノ後崩御。其後御即位カトココロエラルル。
-天武 十五年 元年壬申
-- 諱大海人。舒明第三子。天智同母。大和國飛鳥浄御原宮。天智七年ニ東宮トス。[SNIP[]]
-- 左大臣大錦上蘇我赤兄臣 元年八月被配流。
-- 右大臣大錦上中臣金連 元年八月被誅。
-- 大納言蘇我果安 元年八月坐事被誅。大納言起自此。于時五人也。
-- 又年号アリ。朱雀一年。元年壬申。白鳳十三年。元年壬申。支干同前。年内改元歟。朱鳥八年。内一年。天武十年ニ太子草壁皇子ヲ東宮トス。
[SNIP[]]
-持統女 十年 元年丁亥
-- [SNIP[]]
-- 太政大臣浄廣一高市皇子 天武第三息。四年七月五日任。十年七月十三日薨。中納言起自此云々。
-- [SNIP[]]
-- 此御時年号アリ。朱鳥ノノコリ七年。大化四年。元年乙未。ウヅエ踏歌ナドイフ事。此御時ハジマル。大化三年ニ位ヲ東宮ニユヅリタテマツリテ。太上天皇ノ尊号ヲタマハリタマウ事コレヨリハジマル也。ソノノチ四年ハヲハシマス。
-文武 十一年 元年丁酉 御年廿五
-- [SNIP[]] 大化三年戊戌二月為東宮。
-- [SNIP[]]
-- 知太政官事刑部親王 天武第九子。大寶三年正月廿日任。慶雲二年五月七日薨。
-- 大納言藤原不比等 大織冠二男。大寶元年任。
-- 参議大伴安麻呂 参議始自此。
-- 大化残一年。无年号三年。大寶三年。元年辛丑。年号此後相続不絶。律令ヲ定メラル。官位ニシタガイテ装束ヲ定メラル。冠ヲタマヘケルヲトドメテ位記ヲツクリ給フ。慶雲四年。元年甲辰。五月七日改元。

[1513] 
これより前の時代の天皇の記事では、
「綏靖太子。綏靖廿五年正月戌子為東宮。」、
「孝元第二子。同廿二年為東宮。」、
安康天皇記事内「安康三年八月。」、
「大臣巨勢男人大臣 武内子。天皇廿年九月薨。」、
「大臣稲目宿禰 卅一年三月薨。」、
のような年の表記を使っていました。
一定の法則性はありつつ、
複数の表記法が混在していました。

[1514] 
[[孝徳天皇]]から[[文武天皇]]の記事にも複数の表記法が混在しますが、
一貫していないという点では前の時代と共通しています。

[1515] 
[[元号]]については、

- [1516] [[孝徳天皇]]の時代の[[大化]]と[[白雉]]は、[CITE[日本書紀]] と同じです。
- [1517] [[天武天皇]]の時代に[[朱雀]]、
[[白鳳]]、
[[朱鳥]]があったとしています。
[[白鳳]]は壬申年とし、[[朱雀]]と同年であることに注意しています。
-- [1524] しかしその[[元号]]は使わず「元年」「天武十年」と書いています。
- [1518] [[朱鳥]]は[[持統天皇]]の時代に続いたとしています。
- [1519] [[大化]]が[[持統天皇]]の時代から[[文武天皇]]の時代にあったとしています。
-- [1520] [[孝徳天皇]]の時代の[[大化]]と重複することには言及がありません。
-- [1522] [[元号]]一覧のみならず[[日付]]表記にも使っています。
-- [1523] [[朱鳥]]や[[大化]]でなく[[持統天皇]]の[[即位紀年]] ([[元号年]]のみ) を使った[[日付]]表記も混在しています。
- [1521] [[文武天皇]]の時代は[[大化]]のあと、[[元号]]のない時代を経て[[大宝]]、
[[慶雲]]としています。

[2751] 
[CITE[愚管抄]]年代記は[CITE[簾中抄]] (>>2198) の影響が指摘されていますが、
この部分の記述もよく似ています。


[REFS[
- [1510] [CITE[[[愚管抄]]. 巻'''['''1''']'''-6,附録 / 慈鎮 述]], [TIME[2020-05-21 17:06:23 +09:00]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i04/i04_00775_0148/index.html>
-- [CITE[i04_00775_0148_p0019.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) - 表示倍率 (29%)]], [TIME[2014-01-10 16:52:58 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_00775/i04_00775_0148/i04_00775_0148_p0019.jpg>
-- [CITE[i04_00775_0148_p0020.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) - 表示倍率 (29%)]], [TIME[2014-01-10 16:52:58 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_00775/i04_00775_0148/i04_00775_0148_p0020.jpg>
-- [CITE[i04_00775_0148_p0021.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) - 表示倍率 (29%)]], [TIME[2014-01-10 16:52:58 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_00775/i04_00775_0148/i04_00775_0148_p0021.jpg>
-- [CITE[i04_00775_0148_p0022.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) - 表示倍率 (29%)]], [TIME[2014-01-10 16:52:58 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i04/i04_00775/i04_00775_0148/i04_00775_0148_p0022.jpg>
- [1509] [CITE[[[愚管抄]] 第一巻]], [[Hsato]], [TIME[2007-08-20 14:54:57 +09:00]] <http://www.st.rim.or.jp/~success/gukansyo01_yositune.html>
]REFS]

** 当麻寺流記

[2377] 
[CITE[[[当麻寺流記]]]]
は、
[TIME[宝亀6(775)年][year:775]]4月成立を装った偽書でした。
[TIME[寛喜3(1231)年][year:1231]]以前成立とされます。
現在では偽書とされますが、
その後の[[当麻寺]]の縁起類に影響を与えました。

[2378] 
「推古天皇之御宇卄年[LINES[壬][申]]」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2379 1665, >>2380]]、
「天武天皇御宇朱鳥六年[LINES[辛][卯]]」 ([[縦書き]])、
「乙未年」 ([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2379 1666, >>2380]]

-*-*-

[2390] 
九条家旧蔵本
[CITE[当麻寺流記]]
写本の末尾には、
引用文がありました。
[SRC[>>2379 1669]]

- [2391] 「箕面寺縁起云」 ([[縦書き]])
-- [2392] 「舒明天皇◦㐧六年歳次甲午正月一日」 ([[縦書き]])
-- [2393] 「持統天皇御宇是謂藤原宮矣◦歳次丁酉二月十日」 ([[縦書き]])
-- [2394] 「大寳元年歳次辛刃正月一日」 ([[縦書き]])
- [2395] 「役行者傳云」 ([[縦書き]])
-- [2396] (配流) 「藤原宮御宇文武
天皇三年乙亥五月下刃」 ([[縦書き]])


[REFS[
- [2379] [CITE[九条家旧蔵本(九00001~00105)-当麻寺流記 附当麻曼荼羅経文]], [TIME[2020-02-26 19:30:39 +09:00]] <https://clioapi.hi.u-tokyo.ac.jp/mirador/?manifest=https://clioapi.hi.u-tokyo.ac.jp/iiif/81/tdata/kujo/kujo00001-00105/56/manifest>
- [2380] [CITE[「[[当麻寺流記]]」の〈発見〉]],
[[川崎剛志]],
[TIME[2020-07-22 20:59:35 +09:00]]
<https://www.jstage.jst.go.jp/article/chusei/59/0/59_59_54/_pdf/-char/ja#page=6>
]REFS]

** 上宮太子拾遺記


[2433] 
[CITE[上宮太子拾遺記]]
[WEAK[([TIME[嘉禎3(1237)年][year:1237]]成立か [SEE[ [[上宮太子拾遺記]] ]])]]
は、
[[伝記]]でした。
[[聖徳太子]]の事跡が、
死後の関係する出来事まで含めて[[編年体]]で示されていました。
[CITE[日本紀]]、
[CITE[扶桑略記]]
を始めとする諸書を引用していました。

-*-*-

[2428] 
[[聖徳太子]]誕生以後の出来事が、
[[天皇]]ごと、
[[年]]ごとに記述されました。
最初のうちは[[聖徳太子]]の年齢、[[天皇即位紀年]]、[[干支年]]の併記で[[年]]を表していました。
一部の時期には[[法興元世]]の[[元号年]]も併記していました。

[2434] 
[[聖徳太子]]没後も、
同じ巻のうちは年齢の代わりに入滅後第何年のような表記がありましたが、
毎年のように表記揺れが見られました。

-*-*-

[2436] 
記事は[[引用]]が多く、引用文内は原書通りのため[[天皇即位紀年]]や[[干支年]]が混在していました。
次のような記述もありました。

- [2427] 
「推古天王御宇定光
二年[LINES[壬][申]]」
([[縦書き]])
[SRC[>>2425 1547/00114 (巻3), >>2450, >>2457]]
- [2432] 
「天武天皇御宇朱[ASIS[馬][灬は一]]六年」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2425 1547/00115 (巻3)]]
-- [2452] 
「天武天皇御宇朱[RUBY[[ASIS[馬][灬は一]]][[ASIS[鳥][灬は一]]][○]]六年」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2451]]
--- 両脇のルビは別筆書き込み
-- [2458] 
「天武天皇御宇。朱馬六年。」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2457]]
- [2437] [[大花]]の[[改元]]の記事 [SEE[ [[大花]] ]]
- [2438] 引用文内の[[天皇即位紀年]]改元記事 [SRC[>>2429 1547/00061]]

[2468] 
[[定光]]、
[[大花]]は引用以外では使われていないことに注意が必要です。
本書成立後の書写の過程でその部分だけ挿入されたとは考えにくいでしょう。
本書成立前にこれらの[[元号]]が使われていたこと、
[[法興元世]]は採用し、これらは採用しないと著者が判断する理由が何かあったことになります。


-*-*-

[2435] 
その後はほとんどで[[天皇即位紀年]]と[[干支年]]が使われました。
[[大宝]]以後は[[元号]]が使われました。


[2431] 
[[孝徳天皇]]の項は、
記事中に[[元号]]が[[大化]]であると説明されたものの、
それまでの[[天皇]]と同じく[[天皇即位紀年]]で元年から10年まで数えられ、
[[白雉]]には言及がありませんでした。
[SRC[>>2430 1547/00269, >>2453, >>2459]]

[2443] 
[[天智天皇]]の項は、
10年まで続いた後、

- [2460] 
「[RUBY[明年[LINES[壬][申]]][―十一年也]]正月[SNIP[]]」 ([[縦書き]]、ルビは別筆書き込み、「壬」は「己」のような字形だが他の箇所の「己」と明らかに異なる)
[SRC[>>2454]]
- [2461] 
「明[RUBY[年[LINES[壬][申]]][十一年也]]正月[SNIP[]]」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2430 1547/00282]]
- [2462] 
「[RUBY[明年[LINES[壬][申]]][十一年也(傍朱)]]正[LINES[考⃞正一][作五]]月[SNIP[]]」
([[縦書き]])
[SRC[>>2459]]

... として[[壬申の乱]]の記事がありました。

[2444] 
[[天武天皇]]の項は、
「白鳳十三年元年[LINES[壬][申]]」 ([[縦書き]])
から始まり、
「二年[LINES[关][酉]]」 ([[縦書き]])
と続いていきました。
[SRC[>>2430 1547/00286, >>2455, >>2459]]
壬申年が前の[[天智天皇]]と重出しているのが他の代替わりと違っていました
(が[[天武天皇]]の方は年号だけで記事なしでした)。
継続年数を書く形式は[[和銅]]以後と同じですが、
よく見ると年数と「元年」の間に[[空白]]がなく、続けて書かれていました。

[2463] 
8年[LINES[己][卯]]に、
「藥師寺緣起云。
右寺者。天武天皇卽位八年。[LINES[己][卯]]十一月。」 ([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2430 1547/00286, >>2459]]
[CITE[大日本仏教全書]]本には、
己卯の後に、「考⃞己卯疑庚辰」 ([[縦書き]]) とありました
[SRC[>>2459]]。


[2445] 
白鳳は
「十三年[LINES[甲][申]]」 ([[縦書き]])
まで続き、
その次が
「朱[ASIS[鳥][灬は一]]七年元[LINES[乙][酉]]」 ([[縦書き]])、
「二年[LINES[丙][戊]]」 ([[縦書き]])
で、
朱鳥2年9月に[[崩御]]とされていました。
[SRC[>>2430 1547/00287, >>2455, >>2459]]
よく見ると「元年」が「元」になっていました。

[2446] 
[[持統天皇]]の項には、ここまでなかった治世の年数
「御宇十年」 ([[縦書き]])
がありました
[SRC[>>2430 1547/00287, >>2455]]。以後[[文武天皇]]、[[元明天皇]]にもありました。
これより前には、
[[敏達天皇]]や[[孝徳天皇]]のほか、
[[斉明天皇]]に「治七年」 ([[縦書き]])、
[[天智天皇]]に「治十年」 ([[縦書き]])、
[[天武天皇]]に「治十五年」 ([[縦書き]])
とあり、
これより後の「元正天皇」からは「治九年」 ([[縦書き]])
と書かれていました。

[2447] 
[[持統天皇]]の時代は次のようにありました。
[SRC[>>2430 1547/00287, >>2455, >>2469]]

>
[BOX(vertical)[

, 元年[LINES[丁][亥]]          , 朱[ASIS[鳥][灬は一]]三年也,
, 二年[SUP[丙]][LINES[戊][子]] , 同四年 ,
, 三年[SUP[丁]][LINES[己][丑]] , 同五年 ,
, 四年[SUP[戊]][LINES[庚][寅]] , 同六年 , 正月即位
, 五年[SUP[巳]][LINES[辛][卯]] , 同七年 ,
, 六年[SUP[甲]][LINES[七][辰]] ,        ,
, 七年[SUBSUP[未][乙]][LINES[关][巳]],  ,
, 八年[LINES[甲][午]]          ,        , 此一年無年号
, 大化元年[LINES[乙][未]]      ,        ,
, 二年[LINES[丙][申]]          ,        ,
,                              ,此中間支干大相違以證夲可審定,==

]BOX]

写本では最後の一行だけ別筆の書き込みでした [SRC[>>2455]]。
[CITE[大日本仏教全書]]本には、
「朱⃞」とありました
[SRC[>>2459]]。


[2441] 
[[文武天皇]]の項は、
「元年[LINES[丁][酉]]」 ([[縦書き]])
から
「四年[LINES[庚][子]]」 ([[縦書き]])
の次に
「大寳元年[LINES[辛][丑]]」 ([[縦書き]])
から
「三年[LINES[关][卯]]」 ([[縦書き]])、
その次に
「慶雲元年[LINES[甲][辰]]」 ([[縦書き]])
などと続きました。
[SRC[>>2430 1547/00288, >>2455, >>2459]]
次の[[和銅]]以後と[[元年]]の書き方が違っていました。

[2442] その文武天皇元年には、
「大化三年也」 ([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2430 1547/00288, >>2455, >>2459]]



[2439] 
[[元号年]]による年の表記は、
「天平二十年 元年[LINES[己][巳]]」 ([[縦書き]])
のように[[元年]]の欄に[[元号名]]と継続年数を併記して、
次から
「二年[LINES[庚][午]]」 ([[縦書き]])
のように[[元号年]]だけ書く形でした。
[SRC[>>2430 1547/00290]]

[2440] 
[[元年]]だけ年数が来るところに継続年数が来る形はやはり無理があるのか、
誤写でしょうか、
「元年寳龜十一年 元年[LINES[庚][戊]]」 ([[縦書き]])
のように形式が崩れているところもありました
[SRC[>>2430 1547/00298]]。
[[白鳳]] (>>2444)、
[[朱鳥]] (>>2445)
は年数と「元年」の間の[[空白]]がなく連続していました。
[CITE[大日本仏教全書]]本は
「和銅七年。元年[LINES[戊][申]]」 ([[縦書き]])
だけ区切っていますが、
それ以外は
「靈龜二年元年[LINES[乙][卯]]」 ([[縦書き]])
のように続けていました [SRC[>>2459]]。


[2469] 
本書は
[CITE[日本紀]]
や
[CITE[扶桑略記]]
も出典として大量に引用していますが、
[[孝徳天皇]]から[[文武天皇]]の時代の紀年はそのどちらとも一致していません。
著者はどのような判断でこのような構成にしたのでしょうか。
あるいは書写の過程で書き換えられたのでしょうか。

[2470] 
[[白鳳]]を継続年数13年とするのは、
[CITE[扶桑略記]]
系の[[天武白鳳]]が天武天皇2年から天武天皇14年まで13年間継続とするのを、
誤って天武天皇元年から13年間としたものでしょうか。
朱鳥元年を天武天皇14年とするのは、それによって1年ずれたのでしょうか。

[2471] 
[[持統天皇]]の時代は特に混乱しており、
混乱していると注釈がついていました。
その注釈が朱書ということは、
成立後の写本に書き込まれたものでしょうか。
各年の書き込みも、
最初からあったのならもう少し違った表現になりそうなものです。
著者はある考えに従って1説を書き示したものが、
書写の過程で他の年代記と「校合」してかえって混乱してしまったのでしょうか。

[2472] 
主として書かれている[[干支年]]は、
[CITE[日本書紀]]
の[[持統天皇]]時代と矛盾しません。
この大枠は著者が最初に設定した時間軸なのでしょうか。
それとも書写の過程で整理された結果なのでしょうか。

[2475] 
[[持統天皇]]元年から5年には、
[[朱鳥]]の3年から7年と書かれていました。
これは[[天武天皇]]時代のずれをそのまま継続させたものでした。

[2473] 
小さく書かれている[[干支]]は、
持統天皇2年から持統天皇4年までは、
実際より2年遅れています。
持統天皇2年[LINES[戊][子]]に「丙」と書かれていますが、
正しくはそれより2年前、[[天武天皇]]の最終年が「丙戌」です。
本書では丙戌年が朱鳥2年です。
この小書き[[干支]]は、
[[朱鳥]]と[[持統天皇]]即位紀年の混同から生じたものでしょうか。

[2476] 
[[持統天皇]]の前の[[天武天皇]]時代は、
[[天皇即位紀年]]でなく[[白鳳]]と[[朱鳥]]が使われていました。
[[持統天皇]]の[[大化]]と[[文武天皇]]の[[大宝]]以降は、
[[元号]]が使われていました。
[[持統天皇]]の前半と[[文武天皇]]の前半だけ、
[[天皇即位紀年]]を主として、
[[元号]]を併記する形を採っていました。
前の[[天皇]]の[[元号]]の継続のとき新天皇の[[天皇即位紀年]]を使うという規則性はあるのですが、
その解釈を巡って混乱が生じたのでしょうか。

[2477] 
持統天皇8年には、
1年無年号とありました。
ところがその前の持統天皇6年、7年にも[[元号]]はないので、
矛盾しています。
[[朱鳥]]が7年まで書かれているので、
元のバージョン (?) で[[持統天皇]]即位紀年と[[朱鳥]]が混同されていたとすると、
この2年のずれがちょうど埋まって第8年だけが元号なしになります。


[2474] 
小さく書かれている[[干支]]の持統天皇5年から7年は、
4年までと逆に、実際より2年進んでいます。
持統天皇5年に「巳」、
持統天皇6年に「甲」、
持統天皇7年に「乙未」
とありました。
このうち持統天皇5年が朱鳥7年でした。
実際には持統天皇7年が巳、
持統天皇8年が甲、
大化元年 (持統天皇9年) が乙未でした。
つまり7年が巳で、その2年後が乙未という関係が共通しています。
こちらも[[持統天皇]]即位紀年と[[朱鳥]]が混同されて生じたものでしょう。


-*-*-


[2466] 
裏書の
[CSECTION[欽明天皇御代事]]
に、
次のようにありました。
[SRC[>>2467 1547/00310 ]]

>
[BOX(vertical)[
[RUBY[元年[LINES[庚][申]] ][[ASIS[曾][偏虫食]]聽第四年也 ]] [LINES[十二月即位 [SNIP[]] ][ [SNIP[]] ]]

二[LINES[辛][酉]] [LINES[明要元十一年ヨリ 舊事本紀云秋七月 [SNIP[]] ][ [SNIP[]] ]]

三[LINES[モ][戊]]

[SNIP[]]

十三[LINES[モ][申]] 貴米元。二年[SUP[ヨリ]]王代記云貴樂元[LINES[モ][申]]冬十月
百済國委蓋仏像經論日夲仏法㝡初也當
如来滅後一千五百一年也[SUP[云〻]]
[SNIP[]]

十四年[LINES[关][酉]] [SNIP[]]

十五[LINES[甲][戌]]法清元四年[SUP[ヨリ]] [SNIP[]]

[SNIP[]]

十九[LINES[戊][刀]]兄弟元年

卄[LINES[己][卯]]蔵智元 五年[SUP[アリ]]
[SNIP[]]

[SNIP[]]

卄五[LINES[甲][申]]師安元 [SNIP[]]

卄六[LINES[乙][酉]]智僧元年 五年

[SNIP[]]

卅一[LINES[庚][寅]]金光[RUBY[六][元]]年 [SNIP[]]

[SNIP[]]

]BOX]

[SRC[>>2465]]

>
[BOX(vertical)[
元[LINES[庚][申]] [LINES[ [ 傍⃞僧聽第四年也 ] 十二月卽位。 [SNIP[]] ][ [SNIP[]] ]]

二[LINES[辛][酉]] [LINES[明要元。十一年舊事本紀云。秋七月。[SNIP[]] ][ [SNIP[]] ]]

三[LINES[壬][戌]]

[SNIP[]]

十三[LINES[壬][申]] 貴樂元。二年[SUP[アリ]]。王代記云。貴樂元[LINES[壬][申]]冬十月。
百濟國。委蓋佛像經論。日本佛法最初也。當[SUB[二]]
如來滅後一千五百一年[SUB[一]]也。[SUP[云云]]
[SNIP[]]

十四[LINES[癸][酉]] [SNIP[]]

十五[LINES[甲][戌]]法清元。四年。 [SNIP[]]

[SNIP[]]

十九[LINES[戊][寅]]兄弟元年。

二十[LINES[己][卯]]藏智元。五年 [SNIP[]]

[SNIP[]]

二十五[LINES[甲][申]]師安元。[SNIP[]]

二十六[LINES[乙][酉]]智僧元年。五年

[SNIP[]]

三十一[LINES[庚][寅]]金光元。六年。[SNIP[]]

[SNIP[]]

]BOX]

[2478] 
この裏書は、読者が他の年代記から写したものでしょうか。
本書の成立より後に書かれたものでしょうが、
どれだけ古いものでしょうか。
本編で使われていない[[古代年号]]が多いことが注目されます。


[REFS[
- [2449] 
-- [2450] [CITE[【[[上宮太子拾遺記]]】]], [TIME[2020-08-01 10:16:18 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-109802&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E4%B8%8A%E5%AE%AE%E5%A4%AA%E5%AD%90%E6%8B%BE%E9%81%BA%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=174>
-- [2451] [CITE[【[[上宮太子拾遺記]]】]], [TIME[2020-08-01 10:19:59 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-109802&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E4%B8%8A%E5%AE%AE%E5%A4%AA%E5%AD%90%E6%8B%BE%E9%81%BA%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=175>
-- [2453] [CITE[【[[上宮太子拾遺記]]】]], [TIME[2020-08-01 10:37:20 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-109802&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E4%B8%8A%E5%AE%AE%E5%A4%AA%E5%AD%90%E6%8B%BE%E9%81%BA%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=402>
-- [2454] [CITE[【[[上宮太子拾遺記]]】]], [TIME[2020-08-01 10:45:00 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-109802&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E4%B8%8A%E5%AE%AE%E5%A4%AA%E5%AD%90%E6%8B%BE%E9%81%BA%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=421>
-- [2455] [CITE[【[[上宮太子拾遺記]]】]], [TIME[2020-08-01 11:06:28 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-109802&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E4%B8%8A%E5%AE%AE%E5%A4%AA%E5%AD%90%E6%8B%BE%E9%81%BA%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=426>
- [2448] 
-- [2429] [CITE[東京国立博物館デジタルライブラリー / [[上宮太子拾遺記]];1~7・裏書 : 第二]], [TIME[2020-07-31 18:30:53 +09:00]] <https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/1724>
-- [2425] [CITE[東京国立博物館デジタルライブラリー / [[上宮太子拾遺記]];1~7・裏書 : 第三]], [TIME[2020-07-31 17:38:35 +09:00]] <https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/1725>
-- [2430] [CITE[東京国立博物館デジタルライブラリー / [[上宮太子拾遺記]];1~7・裏書 : 第六]], [TIME[2020-07-31 18:38:12 +09:00]] <https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/1728>
-- [2467] [CITE[東京国立博物館デジタルライブラリー / [[上宮太子拾遺記]];1~7・裏書 : 裏書]], [TIME[2020-08-01 15:36:25 +09:00]] <https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/1730>
- [2456] 
-- [2457] [CITE@ja[[[大日本仏教全書]]. 112 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-08-01 14:02:57 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952816/127>
-- [2459] [CITE@ja[[[大日本仏教全書]]. 112 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-08-01 14:18:58 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952816/215>
-- [2465] [CITE@ja[[[大日本仏教全書]]. 112 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-08-01 15:23:01 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952816/141>
]REFS]



** 古今著聞集

[2356] 
[CITE[古今著聞集]]
[WEAK[([TIME[建長6(1254)年][year:1254]]成立後増補)]]
は、
[[説話集]]でした。

[2360]
巻2の36に、
「當麻の寺は推古天皇の御宇、聖德太子の御すゝめによりて麻呂子親王の建立し給へる也。
[SNIP[]]
天武天皇の御宇白鳳十四年に高麗國の惠觀僧正を導師として供養をとげらる。
其日天衆降臨しさま〲の瑞相あり。
行者金峯山より法會の塲に來りて私領の山林田畠等數百町を施入せられけり。
[SNIP[]]」
([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2358, >>2359, >>2357]]



[REFS[
- [2359] [CITE[【[[古今著聞集]]】]], [TIME[2020-07-22 18:33:15 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0339-007703&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E8%91%97%E8%81%9E%E9%9B%86%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=47>
- [2357] [CITE@ja[[[古今著聞集]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-07-22 18:32:41 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018126/24>
- [2358] [CITE@ja[[[古今著聞集]]:巻2 _Taiju's Notebook]], [TIME[2015-08-18 07:56:00 +09:00]] <http://www2s.biglobe.ne.jp/~Taiju/1254_kokon_chomonju_02.htm#02_36>
]REFS]

** 師光年中行事

[2266] 
[CITE[師光年中行事]]
[WEAK[([TIME[文永元(1264)年][kyuureki:1264-09-29]]成立、[RUBYB[[[中原師光]]][[TIME[1206][kyuureki:1206-05-03]]-[TIME[1265][year:1265]]]] ([CITE[師元年中行事]] (>>1466) の師元の4代子孫) 著)]]
は、
行事の一覧表でした。

[2267] 
[[天智天皇]]や[[斉明天皇]]の時代は[[天皇即位紀年]]で記述されました。

[1496] 
「天武天皇十一年」 ([[縦書き]]) [SRC[>>1486]]、
「天武天皇五年」 ([[縦書き]])、「同十二年」 ([[縦書き]])
など[[天武天皇]]時代は[[天皇即位紀年]]で記述されました。

[2265] 
「持統天皇四年」 ([[縦書き]]) [SRC[>>2264]]
のように[[持統天皇]]は[[天皇即位紀年]]で記述されました。

[2268] 
[[伴信友]]は
[CITE[師光年中行事]]
に[[朱鳥]]が使われたとしました (>>1824)
が、
どの箇所を指すのか不明です。
[CITE[続群書類従]]
本にはそれらしき記述が見当たりません。
写本によっては持統天皇4年が朱鳥5年と書かれていたりするのでしょうか。


[REFS[
- [1486] [CITE@ja[[[続群書類従]]. 第10輯ノ上 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[塙保己一]], [TIME[大正13-15][year:1926]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1939754/174>
-- [2066] [CITE@ja[[[続群書類従]]. 第10輯ノ上 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-14 09:49:44 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1939754/183>
-- [2264] [CITE@ja[[[続群書類従]]. 第10輯ノ上 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-07-05 17:28:32 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1939754/189>
]REFS]

** 一代要記

[1735] 
[CITE[一代要記]]
[WEAK[([[後宇多天皇]] (在位[TIME[文永11(1274)年][kyuureki:1274-01-26]]-[TIME[弘安10(1287)年][kyuureki:1287-10-21]]) 頃成立し以後追記)]]
は、
[[歴史書]]でした。
[[江戸時代]]に発見され流布されました。
[[天皇]]ごとに政府首脳や出来事がまとめられていました。

[1737] 
[[大宝]]以後は[[元号年]] (かそれに[[干支年]]を併記したもの) で表されました。
初期[[天皇]]の時代は、

- [1738] [[天皇]]の経歴では「[VAR[干支]]歳」「[VAR[干支]]」
- [1739] その他記事内では ([[天皇即位紀年]]) 「[VAR[何]]年」「天皇[VAR[何]]年」
「[VAR[誰々]]天皇[VAR[何]]年」
- [1740] [[年表]]見出し部分では ([[天皇即位紀年]]) 「[VAR[何]]年[VAR[干支]]」

... と書くのが原則となっているようですが、若干の例外もありました。
[SRC[>>1736, >>1734]]

[1742] 
[[孝徳天皇]]の[[年表]]見出し部分は
「大化元年乙巳」
「二年丙午」
・・・
「五年己酉」
「白雉元年庚戌」
・・・
と[[元号年]]が使われました。これは[[大宝]]以後と同じ書き方でした。
[SRC[>>1734]]

[1744] [[白雉]]元年の記事は
「白雉五年庚戌大化六年二月自長門國
進白雉仍改白雉[ASIS[元][>>1736 には無し]]」
とありました。見出し部分の年名は常に新元号を使う[[遡及年号]]方式のため、
年内記事部分に「大化六年」と明記していました。
[SRC[>>1734]]


[1743] 
[[孝徳天皇]]諸臣経歴中に
「元年」
「五年」
「天皇元年」
「天皇五年」
と混在していました。
[SRC[>>1734]]


[1741] [[天智天皇]]の経歴に、
「孝徳元年乙巳六月為皇太子」とありました。
[SRC[>>1736 44コマ]]

[1745] 
[[天武天皇]]年表見出し部分は
「白鳳元年壬申」
「二年癸酉」
・・・
「十三年甲申」
「十四年乙酉」
「朱鳥元年丙戌」
とありました。
[SRC[>>1734, >>1736]]

[1748] 
元年壬申から十三年甲申までには、
「元年[RUBY[壬申][癸酉]]」
・・・
「十三年[RUBY[甲申][乙酉]]」
と注釈で1年ずらしたものが書き加えられていました。
[SRC[>>1734]]
この注釈は他の写本には見られません。 [SRC[>>1736]]

[1749] 
[[天武天皇]]の経歴と年表の元年壬申の前に、
他の天皇には見られない、
特別な注釈の段落がありました。
[SRC[>>1736, >>1734]]

>
[BOX(vertical)[
癸酉歳太宰府獻三足赤雀仍改元朱
雀即白鳳元年也正月朔役行者生大
和國平群人也[LINES[見箕面][寺縁起]]三月近江朝遣
使大唐
]BOX]

こちらの癸酉を「壬申」と注釈し、
この段落の前に「朱雀元」と挿入されていました。
[SRC[>>1734]]
これも他の写本には見られません。
[SRC[>>1736]]

[1746] 14年に「[WEAK[旧本無之]]」 [SRC[>>1734]]
など [SRC[>>1736]] の注記がありました。

[1750] 
「白雉元年壬申三月備後國進白雉仍改
為白鳳 [SNIP[]]」とありました。
[SRC[>>1736]]

[1751] 
「朱鳥元年丙戌大和國獻赤雉因瑞改元
六月天皇病患草薙劔送置于尾張國熱
田社按朱鳥元年立齊王今年九月帝崩
而斎王猶御坐之由見如何」
とありました。 [SRC[>>1736]]

[1752] 
[[天武天皇]]の年表の後に
「[SNIP[]] 又箕面縁起云白鳳二十年庚午
行者登金峯山召諸神欲渡石橋於金剛
山」
とありました。
[SRC[>>1734]]


[1747] 
[[天武天皇]]諸臣経歴中に ([[大宝]]以後を除けば)
「十年」
「持統天皇朱鳥四年四月」 ([[草壁太子]]の没年)
「天皇十一年」
「元年八月」 ([[壬申の乱]]関係)
「二年」
「十二年」
「九年」
「朱鳥元年十一月」
「天武十一年壬子」 (正しくは壬午)
「文武天皇三年」
とありました。
[SRC[>>1734]]

[1755] 
[[持統天皇]]の経歴は[[干支年]]でしたが、
[[即位]]年が遅いためか
「丁亥歳為元年第四年庚寅正月一日戊寅即位」
と独特の方法で表記されました
[SRC[>>1734, >>1736]]。


[1753] 
[[持統天皇]]の年表は[[天皇即位紀年]]で書かれていましたが、
「七年癸巳改元大化 [SNIP[]]」
とありました。
[SRC[>>1734]]

[1754] 
[[持統天皇]]諸臣経歴中に ([[大宝]]以後を除けば)
「朱鳥四年四月」 ([[草壁太子]]の没年)
「天皇十一年」
「天皇四年」
「元年」
とありました。
[SRC[>>1736]]

[1756] 
[[文武天皇]]の経歴は
「持統十一年丁酉二月
立皇太子」
のように[[天皇即位紀年]]と[[干支年]]の併記でした。
崩御は「丁未」と[[干支年]]でした。
[SRC[>>1734]]

[1757] 
経歴中、
(即位年 = 持統11年) 「十一月大嘗會美乃尾張異本
云大化四年十一月己卯大嘗會始之」
とありました。
[SRC[>>1734]]


[1758] 
[[文武天皇]]の年表中に[[役小角]]関係の記事がみえます。
元年丁酉に注釈で
「箕面縁起云白鳳四十八年丁酉二月十日 [SNIP[]]」
とあります。 [SRC[>>1734]]
この部分は他の写本にはありません。 [SRC[>>1736]]
三年己亥本文に
「箕面縁起云[RUBY[朱鳥十三][白鳳五十一]]年二
月二十五日 [SNIP[]]」
とあります。 [SRC[>>1734, >>1736]]
(注釈はあるのは一方の写本 [SRC[>>1734]] のみです。)

-*-*-

[2310] 
[CITE[箕面寺縁起]]、
[CITE[箕面縁起]]
の引用が数箇所あります。
いずれも現存する宮内庁書陵部所蔵旧九条家本 [CITE[箕面寺縁起]] (>>2285)
と比較すると、
似たような記述は確かにありますが (>>2319)、
そのまままったく同じ文言はみられません。
[CITE[一代要記]]
が参照したものがどんな形だったかわかりませんが、
[CITE[一代要記]]
引用部をそのまま信用するわけにはいかないことになります。


[REFS[
- [1736] [CITE[【[[一代要記]]】]], [TIME[2020-05-26 17:10:36 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0257-017305&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E4%B8%80%E4%BB%A3%E8%A6%81%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=39>
- [1734] [CITE@ja[[[一代要記]] 10巻 | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ]], [TIME[2020-05-26 16:23:21 +09:00]] <https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00005875#?c=0&m=0&s=0&cv=38&r=0&xywh=-1292%2C0%2C5654%2C2047>
]REFS]

** 大和葛城宝山記

[2303] 
[CITE[大和葛城宝山記]]
[WEAK[(13世紀以前成立)]]
は、
[[寺社縁起]]でした。

[2306] 
「金剛山緣起云。
[RUBY[白][私記]]鳳四十年辛卯三月比。役行者勘葛木緣起。
十巻錄給之。 [SNIP[]] 大寳元年辛丑六月七日入唐給畢。 [SNIP[]]」
([[縦書き]]) とありました。
[SRC[>>2304]]



[REFS[
- [2305] [CITE@en[Zoku gunsho ruij : Hanawa, Hokiichi, 1746-1821 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive]], [TIME[2020-07-16 15:07:14 +09:00]] <https://archive.org/details/zokugunshoruij31hanauoft>
-- [2304] [TIME[2014-02-27 22:59:36 +09:00]] <https://ia800909.us.archive.org/34/items/zokugunshoruij31hanauoft/zokugunshoruij31hanauoft.pdf#page=89>
]REFS]

** 類聚既験抄

[2307] 
[CITE[類聚既験抄]]
[WEAK[([[鎌倉時代]]末期頃成立)]]
は、
[[寺社縁起]]でした。

[2311] 
「而藤原宮 
御宇文武天皇白鳳卅七年二月十日。被流遣伊 
豆大島。 [SNIP[]] 白鳳五十二年十二月廿五 
日。即勅使到來彼島。  
[SNIP[]] 以□寳九年辛丑正月一日。」
([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2309]]

[REFS[
- [2308] [CITE@en[Zoku gunsho ruij : Hanawa, Hokiichi, 1746-1821 : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive]], [TIME[2020-07-16 15:07:14 +09:00]] <https://archive.org/details/zokugunshoruij31hanauoft>
-- [2309] [TIME[2014-02-27 22:59:36 +09:00]] <https://ia800909.us.archive.org/34/items/zokugunshoruij31hanauoft/zokugunshoruij31hanauoft.pdf#page=331>
]REFS]

** 年中行事秘抄

[1547] 
[CITE[年中行事秘抄]]
[WEAK[([RUBYB[[[永仁]]年間][[TIME[1293][year:1293]]-[TIME[1299][year:1299]]]]頃成立)]]
は、
[[年中行事]]一覧でした。

-*-*-

[1551] 
[[天武天皇]]時代のことを天武天皇何年と[[天皇即位紀年]]で書いていましたが、
一例だけ
[CSECTION[伊勢斎宮事]]
に

>
天武天皇白鳳元年四月十四日。以大来皇女献伊勢神宮依合戦願也。

... とありました。
[SRC[>>859 p.二二二]]

[1552] 
[[Web]]
で公開されている写本には、この部分は

>
天武天皇白鳳元年四月十四日丙辰朔己巳欲遣侍大来[INS[目]]皇女于
天照大神宮而合居泊瀬斎宮是先潔身稍近神之所也
十四日以大来自皇女獻伊[ASIS[勢][>>1548 では丗]]神宮依合戦願也

... となっていました。 [SRC[>>1548, >>1550]]

[1553] 
これは
[CITE[日本書紀]]
天武天皇2年

>
夏四月丙辰朔己巳。欲遣侍大來皇女于天照大神宮。而令居泊瀬齋宮。是先潔身。稍近神之所也。

... と
[CITE[扶桑略記]]
(>>666)
天武天皇2年

> 四月十四日,以大來皇女,獻伊勢神宮。始為齋王。依合戰願也。

... から派生したものとみられます。

[1554] 
[[天武天皇]]2年を[[白鳳]]とするのは
[CITE[扶桑略記]] (>>666)
と同じ癸酉元年の[[天武白鳳説]]です。

-*-*-

[2060] 
他に
[CITE[古語拾遺]]
からの引用の[[白鳳]]がありました
(>>2061)。

[REFS[
- [1548] [CITE@ja[[[年中行事秘抄]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-05-22 20:34:04 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532970/1>
-- [2059] [CITE@ja[[[年中行事秘抄]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-14 09:24:08 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2532970/64>
- [1549] [CITE[[[年中行事秘抄]] : 近代]], [TIME[2020-05-22 20:34:21 +09:00]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/wa03/wa03_06277/index.html>
-- [1550] [CITE[wa03_06277_p0109.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px)]], [TIME[2008-07-02 15:02:29 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wa03/wa03_06277/wa03_06277_p0109.jpg>
]REFS]

** 皇代記

[1526] 
[CITE[皇代記]]
[WEAK[([[後伏見天皇]] (在位[TIME[永仁6(1298)年][kyuureki:1298-07-22]]-[TIME[正安3(1301)年][kyuureki:1301-01-21]]) の頃成立した後加筆)]]
は[[天皇]]ごとにまとめられた[[歴史書]]でした。

[683] 
[CITE[群書類従]]本
[CITE[皇代記]]
は、
次のように書いていました。
[SRC[>>651]]

- [684] 記事は[[天皇]]ごと、その中の[[元号]]ごとにまとめられています。
- [686] [[文武天皇]]以後、その中の[[元号]]ごとの記事とは別に、
天皇在位中の[[元号]]と年数の一覧が[[天皇]]ごとに示されています。
- [687] 記事内で当該時代は年数のみの表記、
他の時代は[[元号名]]と年数の両方の表記が原則となっています。
[[元号]]がない他の時代は
「敏達五年」
のような形式となっています。
- [685] 即位と[[代始改元]]が同時でなくとも、
前の天皇の[[元号]]を次の天皇には示していません。
- [688] 
[[元号]]が治世をまたぐ特別な場合として、
[[孝謙天皇]]を[[天平感宝]]8年間と[[天平宝字]]2年間とし、
[[淡路廃帝]]を[[天平宝字]]の「残六年」「尚六年」としています。
- [689] 
[[孝徳天皇]]、[[天武天皇]]、[[持統天皇]]の記事内には[[元号]]の記事がありますが、
[[天皇]]ごとの[[元号]]の一覧は含まれていません。
- [690] 
[[皇極天皇]]以前、[[斉明天皇]]、[[天智天皇]]の記事内には[[元号]]の記事も一覧もありません。
- [691] [[孝徳天皇]]時代は、[[大化]]5年間、[[白雉]]5年間となっています。
- [692] [[天智天皇]]記事に、「孝徳大化元年」との記述があります。
- [693] [[天武天皇]]記事に、
-- [694] [[朱雀]]1年間、「元年壬申」に赤鳥が献上されて建元。8月記事あり。
-- [695] [[白鳳]]13年間、「元年壬申」に白雉が献上されて改元。
「十五年丙戌」に「浄御原天皇崩」記事と10月の[[大津皇子]]死亡記事あり。
-- [696] [[朱鳥]]8年間、「元年丙戌」に赤雉が献上されて改元。
「九月九[ASIS[月]]天皇崩」。
- [697] [[持統天皇]]記事に、
-- [699] 「天武二年二月丁巳朔」の立皇后記事、
その直後に「三年戊子二月天皇崩」記事。
ほかに
「五年庚寅正月一日戊寅即位」、
「六年辛卯」など。
明記されていないが[[朱鳥]]と解すると年数と干支が合う。
-- [700] [[大化]]4年間。記事は「三年丁酉八月一日甲子」の譲位のみ。
- [701] [[文武天皇]]記事に、
-- [706] [[大津皇子]]注釈で「天智天皇十四年二月甲子」、「持統三年」。
天智とあるのは天武の誤り。
-- [702] 元号一覧で「大化残二年」、
「無年號二年」、
「大寶三年」、
「慶雲四年」。
-- [703] 「天武十二年」、
「持統大化三年二月」、
「同八月一日甲子」、
「二年戊戌十一月」、
「同三月」
「三年己亥十二月」、
「四年庚子三月」。
-- [704] その後に[[大宝]]と[[慶雲]]の記事。
- [705] ... とこの時代明らかに表記の一貫性が崩れ一部に矛盾が発生しています。

[1527] 
[[天武天皇]]時代の3つの[[元号]]は、
[CITE[愚管抄]]
と元年と継続年数が一致します。
([CITE[扶桑略記]] (>>666) とは一致しません。)
[[白鳳]]と[[朱鳥]]の改元理由は
[CITE[扶桑略記]]
と一致します。
([[朱雀]]は一致しません。)
[[坂本太郎]]は、
著者の材料が僅少ではなかったことを物語るものとしました。
[SRC[>>859 pp.二二〇-二二一]]

;; [1529] 同名別書 >>734

[REFS[
- [652] [CITE[皇代記]]
-- [651] [CITE@ja[[[群書類従]] : 新校. 第二巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[内外書籍株式会社]], [TIME[1931-1937][year:1937]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879729/93>
]REFS]

** 吾妻鏡

[2479] 
[CITE[吾妻鏡]]
[WEAK[([TIME[正安2(1300)年][year:1300]]頃成立)]]
は、
[[歴史書]]でした。

-*-*-

[2481] 
[TIME[文治3(1187)年12月7日][kyuureki:1187-12-07]]条に、

>
[BOX(vertical)[
[SNIP[]] 爰善信申云、
天武天皇御宇二年八月、帝遷坐野上宮給之
時、自鎮西献三足赤色之雀仍改元爲朱雀元年。
明年三月、自備後國、献白雉。又改朱雀二年、爲白
雉元年。同十五年、自大和國、進赤雉之間、改年號、
爲朱鳥元年。 [SNIP[]]
]BOX]

... とありました。
[SRC[>>2480, >>2483, >>2484, >>2485]]

[2486] 
[[伴信友]]は、
「白鳳十五年自大和國獻赤雉爲朱鳥元年」 ([[縦書き]])
と引用していました [SRC[>>1731]]。
同じ箇所を指すと思われますが、
こちらでは[[白雉]]でなく[[白鳳]]になっています。

[2487] 
現在 [[Web]] で閲覧できる 
[CITE[吾妻鏡]]
はいずれもこの部分を[[白雉]]にしていますが、
[[伴信友]]が見たものは[[白鳳]]だったのでしょうか。

[2488] 
[[善信]] ([[三善康信]]) の発言は、
[CITE[扶桑略記]]
の該当部分
(>>1087)
とほぼ同じです。
[CITE[扶桑略記]]
か、それと同系統の書物の内容を紹介したものでしょう。
ただし、

- [2489] 
[CITE[扶桑略記]]
では[[朱雀]]への[[改元]]が天武天皇元年8月なのに、
こちらでは天武天皇2年です。
そのため朱雀元年と白雉元年が1年ずつずれています。
- [2490] 
[CITE[扶桑略記]]
では[[元号名]]が[[白鳳]]なのに、
こちらでは[[白雉]]です。
[[祥瑞]]が[[白雉]]なのは
[CITE[扶桑略記]]
と同じです。それに引きづられたものでしょうか。
[CITE[扶桑略記]] 写本、
[[善信]]の参照した資料、
[[善信]]の発言、
[CITE[吾妻鏡]] の参照した資料、
[CITE[吾妻鏡]] 原本、
[CITE[吾妻鏡]] 写本のいずれの段階で置き換わったものか、
定かではありません。
- [2491] 
[[朱鳥]]への[[改元]]の年を、
[CITE[扶桑略記]]
は[[天武天皇]]15年としましたが、
[[白鳳]]15年と誤読しかねない構成になっていました (>>772)。
[CITE[吾妻鏡]]
は
「同十五年」
としていて曖昧ですが、自然に読めば白雉15年です。
更に[[伴信友]]の引用では
「白鳳十五年」
になっています。
「同」から「白鳳」に書き換えたのが誰か不明ですが、
まさに誤読してしまっています。





[REFS[
- [2482] [CITE[新刊[[吾妻鏡]]. 巻第1-52]], [TIME[2020-08-01 21:19:43 +09:00]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ri05/ri05_00402/index.html>
-- [2483] [CITE[ri05_00402_0005_p0042.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) - 表示倍率 (31%)]], [TIME[2007-09-14 16:40:29 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ri05/ri05_00402/ri05_00402_0005/ri05_00402_0005_p0042.jpg>
- [2484] 
-- [CITE[[[吾妻鏡]] 巻七 文治三年(1187) 十二月の01]], [TIME[2019-11-26 17:44:27 +09:00]] <http://23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/azuma/07-0036-12-01.html>
-- [CITE[[[吾妻鏡]] 巻七 文治三年(1187) 十二月の02]], [TIME[2019-11-26 17:44:27 +09:00]] <http://23.pro.tok2.com/~freehand2/rekishi/azuma/07-0037-12-02.html>
- [2485] [CITE@ja[[[吾妻鏡]]. 第2 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[与謝野寛 '''['''ほか''']'''編纂・校訂]], [TIME[昭和2][year:1927]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1111101/66>
- [2480] [CITE[[[古典選集本文データベース]] テキストページ]], [TIME[2020-08-01 21:14:35 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/CsvSearch.cgi?GRP_ID=G0001501&DB_ID=G0001501TEXT&IS_KIND=CsvPageChanger&IS_SCH=CSV&IS_KEY_A1=%E5%90%BE%E5%A6%BB%E9%8F%A1&IS_TAG_A1=Cul999&IS_KEY_A2=5&IS_TAG_A2=Cul20&IS_CND_A2=ALL&IS_NUMBER=100&IS_KEY_A3=79&IS_TAG_A3=Cul996&IS_CND_A3=ALL>
]REFS]

** 平家物語

[775] 
[CITE[平家物語]]
は、
[[軍記物語]]です。
異本が多く内容は少しずつ異なります。
[CITE[源平盛衰記]]
は
[CITE[平家物語]]
の異本の1つですが、
違いが多いものです。
成立過程には諸説ありますが、
13世紀頃とされます。

[2002] 
[CITE[源平盛衰記]]
には、古い時代の日付が次のようにありました [SRC[>>776]]。
「景行天皇御宇」
「仲哀天皇二年の九月」
「神功皇后御宇」
「仁徳天皇元年」
「履中天皇二年」
「允恭天皇四十二年」
「安康天皇三年」
「継体天皇五年」
「宣化天皇元年」
「孝徳天皇大化元年」
「斉明天皇二年」
「天智天皇六年」
「天武天皇元年」
「桓武天皇御宇、延暦三年十月」
「同十二年正月」

-*-*-

[777] また次のような記事がありました。
[SRC[>>776]]

> < 養和二年五月二十七日、改元有て寿永と云。>
> 五月 [SNIP[]]
> 同廿七日に改元の定あり、改養和二年為寿永元年。 [SNIP[]] 天智天皇十年に崩じ給しに、天武天皇固辞して即位し給はず、大伴皇子の乱ありて、次年の天武元年七月に彼皇子を被誅き。同八月に太宰府より三足の赤雀を献ず、仍て年号とす、朱雀是也と左大臣経宗被申けり。大外記頼業は、白雉を改て白鳳として、十一月に大嘗会を被行きと申ければ、忽に改元ありけるとかや。


[1791] 
[[伴信友]]は、
「よつて年號とす、朱鳥これなりと、左大臣經宗申されけり」
とあるのは「朱雀」の誤りで、
写本か著者の伝聞で誤ったものとしました。
[SRC[>>1731]]

[2101] 
現在のテキストには「朱雀」とあるようですが、朱鳥とする本と朱雀とする本があったのでしょうか。
原型はどちらだったのでしょうか。



-*-*-

[1897] [[壬申の乱]]について、

>其後長者東夷を催て、白鳳元年壬午
>P0349
>始て不破関を置て、美濃国にて軍構し給へり。

... とありました。 [SRC[>>776]]

[1898] 「壬午」は「壬申」の誤り [SRC[>>1731]]とされます。
[[壬申の乱]]が壬午年にあるはずがなく、
誤りであるのは明らかですが、
書き誤ったまま伝写され続けてきたことになります。
なおこの付近の壬午年は、
[TIME[天武天皇11(682)年][year:682]]です。

-*-*-

[2006] [[法興]]にも言及がありました。
[SEE[ [[法興]] ]]


[REFS[
- [776] [CITE[『[[源平盛衰記]]』(国民文庫)]], [TIME[2020-01-07 03:10:31 +09:00]] <http://www.kikuchi2.com/seisui/gsall.html>
]REFS]

** 日本皇帝系図

[1608] 
[CITE[[[日本皇帝系図]]]]
[WEAK[([RUBYB[[[延慶]]年間][[TIME[1308][year:1308]]-[TIME[1311][year:1311]]]]頃成立)]]
は、
歴代[[天皇]]の[[系図]]でした。

@@

[REFS[
- [2353] [CITE[群書系図部集 2 - [[Google ブックス]]]], [TIME[2020-07-16 21:07:54 +09:00]] <https://books.google.co.jp/books?id=dxv_wsnc14YC&pg=PP60>
]REFS]

** 元亨釈書

@@
[1609] [CITE[元亨釈書]]

** 二中歴

[1671] 
[CITE[二中歴]]
[WEAK[([[順徳天皇]] (在位[TIME[1210][year:1210]]-[TIME[1221][year:1221]]) の頃から[[後醍醐天皇]] (在位[TIME[1318][year:1318]]-[TIME[1339][year:1339]]) の頃までに成立)]]
は、
便覧でした。

[475] 
[CITE[二中歴]]は、
[CITE[掌中歴]]と[CITE[懐中歴]]
[WEAK[([RUBYB[平安時代後期][[TIME[1124]]-[TIME[1130]]ごろ]]成立)]]
をもとに大幅に増訂したものでした。
[CITE[二中歴]]は[[後醍醐天皇]] 
[WEAK[(在位[TIME[1318][year:1318]]-[TIME[1339][year:1339]])]]
を
「[[今上]]」としており、その時代の成立とされています。
しかしその後約100年分の追記があります。
[SRC[>>470]]

[476] 
現存する
[CITE[二中歴]]
[WEAK[([CITE[改定史籍集覧]]纂録類所収)]]
と
[CITE[掌中歴]]
[WEAK[([CITE[続群書類従]]雑部所収)]]
の「年代歴」
部分を比較すると、[[古代年号]]が[CITE[掌中歴]]になく、
[CITE[二中歴]]にのみ記載されています。
[CITE[二中歴]]は、
[CITE[掌中歴]]に基づくことを表す「手」、
[CITE[懐中歴]]に基づくことを表す「心」
のどちらの注記もこの部分に付していません。
よってこの部分は[CITE[二中歴]]の編者により補われたものとみられます。
[SRC[>>470]]

[2037] 
[[大化]]の注釈に
[CITE[覧初要集]]
からの引用がありました
(>>2034)。

[2752] 
[CITE[二中歴]]自体には[CITE[簾中抄]] (>>2198) 
の影響が指摘されていますが、[[古代年号]]部分は
[CITE[簾中抄]]
説とは違う説が提示されています。


[REFS[
-  [2036] [CITE[[[二中歴]]]]
-- [2035] [CITE@ja[[[二中歴]] 13巻. '''['''2''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-13 12:46:26 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2561051/5>
]REFS]

** 紹運要略

[2242] 
[CITE[紹運要略]]
[WEAK[([[南北朝時代]]頃成立)]]
は、
[[天皇家]]の経歴を集めた[[便覧]]でした。

[2244] 
次のようにありました。

- [2245] 「持統女皇」 ([[縦書き]])
「大化三年丁酉八月一日
譲位于文武天皇」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2243 PDF 3頁]]
- [2246] 「草壁皇子」 ([[縦書き]])
「朱鳥四年四月日薨」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2243 PDF 13頁]]
- [2248] 「天武天皇」 ([[縦書き]])
「天智天皇七年戊辰二月戊寅
日」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2247 PDF 2頁]]
- [2249] 「草壁皇子」 ([[縦書き]])
「天武天皇十年辛巳二月」 ([[縦書き]])、
「持統天皇三年己丑四月」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2247 PDF 2頁]]
- [2250] 「文武天皇」 ([[縦書き]])
「持統天皇十[RUBY[一][大化三]]年丁酉二月」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2247 PDF 2頁]]
- [2251] 「天智天皇」 ([[縦書き]])
「[RUBY[己巳][或云大化元]]年六月十四日庚子」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2247 PDF 4頁]]
- [2252] 「大友皇子」 ([[縦書き]])
「天智天皇十年辛未十月」 ([[縦書き]])、
「天武天皇即位元
年壬申七月二十三日」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2247 PDF 6頁]]
- [2253] 「持統天皇」 ([[縦書き]])
「丁亥歳為其元年至第四年即位」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2247 PDF 8頁]]

[2254] 
本書の日付表記はおおむね規則的にみえますが、
[[持統天皇]]時代を[[元号]]で記述した2例 (と注記された1例)、
大化元年を[[干支年]]だけで「己巳年」 (乙巳年の誤りか) と書いた1例、
「天武天皇''即位''元年」と書いた1例はそこから外れています。

[REFS[
- [2243] [CITE@ja[群書類従]], [[独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN]], [TIME[2020-07-01 17:55:04 +09:00]] <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M1000000000000056772>
- [2247] [CITE@ja[群書類従]], [[独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN]], [TIME[2020-07-01 18:07:48 +09:00]] <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M1000000000000056773>
]REFS]

** 神皇正統記

[746] 
[CITE[神皇正統記]]
[WEAK[([TIME[延元4(1339)年][year:1339]]成立)]]
は、
[[歴史書]]でした。

[1668] 
初期元号について次のように書いていました。
[SRC[>>745]]

>○第四十二代、[RUBY[文武][もんむ]]天皇は [SNIP[]]。又即位五年[RUBY[辛丑][かのとうし]]より[RUBY[始][はじめ]]て年号あり。[RUBY[大宝][たいはう]]と[RUBY[云][い]]ふ。これよりさきに、[RUBY[孝徳][かうとく]]の御代に[RUBY[大化][たいくわ]]・[RUBY[白雉][はくち]]、天智の御時[RUBY[白鳳][はくほう]]、天武の御代に[RUBY[朱雀][しゆじやく]]・[RUBY[朱鳥][しゆてう]]なんど[RUBY[云][い]]ふ号ありしかど、大宝より後にぞたえぬことにはなりぬる。よりて大宝を年号の[RUBY[始][はじめ]]とする也。

[REFS[
- [745] [CITE@ja[[[神皇正統記]] - Wikisource]], [TIME[2020-01-06 11:39:01 +09:00]] <https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%9A%87%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E8%A8%98>
]REFS]

** 興福寺略年代記

[1557] 
[CITE[興福寺略年代記]]
[WEAK[([[後光厳天皇]] (在位[TIME[観応3(1352)年][kyuureki:1352-08-17]]-[TIME[応安4(1371)年][kyuureki:1371-03-23]]) の頃成立して以後加筆)]]
は、
[[歴史書]]でした。

[1560] 
[[天皇]]や[[元号]]ごとに出来事がまとめられていました。
[[大宝]]以後は、
1年毎に、
[[元号年]]や[[天皇]]や出来事が記述されていました。
それ以前は、
[[天皇]]毎に何年に何があったと記述されていました。
[SRC[>>1559]]

[1561] 
[[孝徳天皇]]の項には、
次のようにありました。
[SRC[>>1559]]

>
[BOX(vertical)[
元年大化元年始置左大臣

二年道登法師始造宇治橋

五年始置八省百官 六年為白雉元年

白雉四年 元興寺道昭入唐 [SNIP[]]

]BOX]

[1562] 
[[天武天皇]]の項には、
次のようにありました。
[SRC[>>1559]]

>
[BOX(vertical)[
元年朱雀元年二年白鳳元年 作大官大寺

[LINES[百済大寺][高市大寺]] 三年自對嶋貢銀

六年賀茂祭始 九年始立藥師寺 十五年朱鳥元年

十六年大友皇子建立三井寺

]BOX]

[1563] 
[[天武天皇]]は「壬申年即位治十五年」 [SRC[>>1559]] であるにも関わらず
16年の記事があるのが不審です。

[1564] 
[[孝徳天皇]]と[[天武天皇]]の2例だけ他の時代と違う特別な構成のため、
一貫性の破れと断言することは難しいですが、
[[孝徳天皇]]時代は[[大化]]と[[白雉]]の[[元号]]を使っているのに対し、
[[天武天皇]]時代は[[天武天皇]]即位紀年を使っている違いは指摘できます。


[REFS[
- [1559] [CITE[【[[興福寺略年代記]]】]], [TIME[2020-05-23 10:55:56 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-396202&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E8%88%88%E7%A6%8F%E5%AF%BA%E7%95%A5%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=9>
- [1558] [CITE@ja[[[続群書類従]]. 第29輯ノ下 雑部 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-05-23 10:55:38 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936491/61>
]REFS]


** 皇代暦

[2215] 
[CITE[皇代暦]] ([CITE[歴代皇紀]])
[WEAK[([TIME[延文元(1356)年][year:1356]]年頃までに成立後加筆、[TIME[文明9(1477)年][year:1477]]頃改訂成立後加筆)]]
は、
[[歴史書]]でした。
[[天皇]]ごとに出来事などがまとめられており、
[[元号]]の[[名前][元号名]]や[[元年]]、年数などが示されていました。

-*-*-

[2217] 
[[孝徳天皇]]時代の大臣欄などは
「大化元年六月十四日」 ([[縦書き]])、
「大化五年三月」 ([[縦書き]])
のように[[元号年]]が使われました。
ただし[[元号年]]の次の行など繰り返しを避けるためか、
「元年」
のように年数だけの表記もみられました。
[[崩御]]は
「白雉五年十月十日」 ([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2216]]

[2228] [[元号]]の欄には次のようにありました。
[SRC[>>2216]]

>
[BOX(vertical)[
[LINES[元][乙巳]]大化五年[LINES[初年号][七月]]

元年十二月 遷都

二年始造宇治橋 [LINES[或道照][道誉][法師]]
造之

[LINES[庚][戌]]白雉五年[LINES[二月改元長门][国上白雉也]]

五年正月[SNIP[]]

]BOX]

[2229] 
[[白雉]]の[[元号]]の説明の仕方はこの後の各[[元号]]の原則的な表記とほぼ同じ規則によるものです。
[[大化]]は[[干支年]]に「元」とある点が違います。
最初の[[元号]]のため表記の説明が必要だったための例外でしょうか。

-*-*-

[2218] 
[[斉明天皇]]、
[[天智天皇]]時代には[[元号]]がなく、
[[天皇即位紀年]]が使われました。
[[天智天皇]]は
「治十年 [LINES[或十年][或[RUBYB[四][曰歟]]十一年]]」 ([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2216]]
治世10年間の別説に10年が再掲されるのは不審ですし、
41年の別説も不審です。
注記の通り
「四」
は何らかの誤りで、
元は11年だったのでしょう。
[CITE[日本書紀]]
の[[天皇即位紀年]]では10年間ですが、
[[天智天皇]]の[[称制]]があった年から数えれば全
11年となります。

-*-*-

[2219] 
[[天武天皇]]欄には、
元年は壬申とありました。
治世は
「[RUBY[十五年][或十四イ]]」 ([[縦書き]])
とありました。
「九月九日天皇崩」 ([[縦書き]])
とありますが、
前後の他の[[天皇]]とは違って何年か書かれておらず、
編纂または書写の過程での混乱を窺わせます。
大臣などの欄には[[元号名]]なく
「元年」などとあり、
[[天皇即位紀年]]にみえます。
[SRC[>>2216]]

[2220] 
[[元号]]の欄には次のようにありました。
[SRC[>>2216]]

>
[BOX(vertical)[
朱[RUBY[鳥][雀イ]]元年[RUBY[丙戌][壬申イ]]

[BOX(indent)[
元年正月[RUBY[下][不]]称即位

大友皇謀叛大臣
八人配流

元年信濃国献赤鳥
仍為瑞建元
]BOX]

白鳳十三年 [LINES[元年][[RUBYB[壬申][癸酉]]]]

朱鳥[RUBY[一][八イ]]年 [LINES[元年][丙戌]]

[BOX(indent)[
東鑑云

大和国献[RUBY[朱][赤]]雉仍瑞
改元[RUBY[朱鳥][イナシ]]

]BOX]

]BOX]


[2237] 
[[伴信友]]によると、
ある校本に、
朱雀元年壬申、
白鳳十三年元年癸酉とありました。
普通本には朱雀元年壬申 (ある本には丙戌)、
白鳳十三年元年壬申とありました。
[SRC[>>1731]]



[2222] 
この[[天武天皇]] (と続く[[持統天皇]]、[[文武天皇]]) の[[元号]]の書き方は、
[[大化]]、[[白雉]]、[[元明天皇]]の[[和銅]]以後と違っています。
本来なら
「[LINES[丙][戌]]朱鳥一年 [LINES[[VAR[何]]月][[VAR[何]]日]]」
のように[[元年]]の[[干支年]]、[[元号名]]、継続年数、[[改元日]]が書かれるはずです。
1つ目の[[朱鳥]]は[[干支年]]の位置が違って継続年「一年」が「元年」
と誤っています。
白鳳と2つ目の[[朱鳥]]は[[干支年]]の横に「元年」
があるまた別の書き方になっています。

[2221] 
第1と第2の[[朱鳥]]の双方が丙戌年とされていることも注目されます。
同じ[[元号]]を不注意で二重に書いてしまったことが疑われます。
考えられるストーリーは、

= はじめに第1の[[朱鳥]]だけがあった。
= 壬申年の記事が「元年」として追加されたが、
[[朱鳥]]の前の無元号期間とすべきところ、
[[朱鳥]]の後に書いてしまった。
= 第1の[[朱鳥]]を天武元年の元号とみなし、
[[白鳳]]と第2の[[朱鳥]]をその後に追加した。

... といったものではないでしょうか。

-*-*-

[2223] 
[[持統天皇]]記事は、
「朱鳥五年正月即位」 ([[縦書き]])、
「大化三年八月一日譲位」 ([[縦書き]])、
[[草壁皇子]]欄に
「朱鳥四年四月」 ([[縦書き]])
とありましたが、
大臣欄などは
「天皇四年」 ([[縦書き]])、
「元年正月」  ([[縦書き]])
など[[天皇即位紀年]]を使っており、
混在していました。
[SRC[>>2216]]

[2224] 
[[元号]]は次のように書いていました。
[SRC[>>2216]]

>
[BOX(vertical)[
朱鳥残七年

[BOX(indent)[
朱鳥二年八月 [SNIP[]]
]BOX]

[LINES[[RUBY[戊][乙イ]]][[RUBY[申][未イ]]]] 大化[RUBY[四][二イ]]年 [LINES[元年][乙[RUBYB[巳][未イ]]]]

[BOX(indent)[
[RUBY[三][元イ]]年[RUBY[丁未][イナシ]]七月天下大旱

[RUBY[四年][イナシ]]三月道昭和尚卒 [SNIP[]]
]BOX]

]BOX]

[2230] 
前の[[天武天皇]]の第2の[[朱鳥]]には1年とあり、
[[持統天皇]]に残7年とありました。
ところが[[持統天皇]]の[[大化]]には4年とあって、
次の[[文武天皇]]に[[大化]]は挙げらていませんでした。
異本では[[朱鳥]]に8年と残7年とありました。
[[孝謙天皇]]に「[LINES[丁][酉]]天平宝字八年[LINES[八月][十六日]]」 ([[縦書き]])、
[[淡路廢帝]]に「寳字自第二年」 ([[縦書き]])
とありました [SRC[>>2216]]。
この4種類の書き方の違いは、
それぞれ別のタイミングで混入したことを窺わせるものです。

[2232] 
[TIME[[CITE[日本書紀]] 孝徳天皇大化4(648)年][year:648]]は戊申年です。
[TIME[大化元(645)年][[year:645]]は乙巳年、
[TIME[大化3(647)年][year:647]]は丁未年です。
つまりこれらの干支は[[孝徳天皇]]時代とみなして振られたもので、
しかも継続年数4年が大化4年と混同されたものです。
[[大化]]という[[元号]]だけ見て誤って[[干支年]]に換算したものでしょうか。
それとも元々[[孝徳天皇]]時代の記述だったものがあやまってここに混入したのでしょうか。

[2234] 
「乙巳」が異本で「乙未」となっているのは、
この時代に乙巳年がなく、
ちょうど[TIME[持統天皇9(695)年][year:695]]があったため、
同音の誤記として訂正されたのでしょうか。


[2231] 
[CITE[日本書紀]]
持統天皇2年に
「[TIME[秋七月丁巳朔丁卯][kyuureki:688-07-11]]、大雩。旱也。」
とありました。
3年7月記事との関係が疑われます。
持統天皇2年が朱鳥3年とされ、大化3年と誤られたものでしょうか。

[2233] 
同様に4年3月の記事は、
[CITE[続日本紀]]
文武天皇4年3月己未条の[[道照]]和尚死去の記事が、
文武天皇4年から大化4年に誤って混入したものとみられます。

;; [2235] 
想像を逞しくするなら、
「最初の元号は大化」
と
「文武天皇から元号が始まった」
の2説が結びつき、
[[文武天皇]]の最初の時代が[[大化]]とされ、
次の段階で[[文武天皇]]の最初の[[元号]]が[[大宝]]だとして[[持統天皇]]時代に押し出された、
とも考えられるかもしれません。



-*-*-

[2225] 
[[持統天皇]]の後、
「已上卌一大載日本紀 [LINES[自神武天皇元年辛酉至][大化三年丁酉千三百五十七年]]」
([[縦書き]])、
「佛滅度後一千六百[RUBY[卌][卅イ]]六年云」 ([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2216]]


-*-*-

[2226] 
[[文武天皇]]記事には
「持統天皇十一年丁酉
八月一日甲子受禅」 ([[縦書き]])
とあり、
大臣欄に
「天皇四年」 ([[縦書き]])
とあって[[天皇即位紀年]]を使うところと、
中納言欄に
「大化元年」 ([[縦書き]])
とあるところが混在していました。
[SRC[>>2216]]

[2227] 
[[元号]]の一覧の部分には[[大宝]]と[[慶雲]]しかなく、
しかも
「慶雲四年五月十日」 ([[縦書き]])
に何々を祥瑞として改元、
のような書き方がされていました。
[SRC[>>2216]]
日付のようなわかりにくい書き方ですが、
[[慶雲]]は4年継続で、改元日は前の元号の最終年の5月10日、
という意味です
(慶雲4年5月10日の出来事の記事ではありません)。
文字の大きさも間の取り方もほとんど前後の文とかわりません。
[[元年]]の[[干支年]]も欠けており、他の[[天皇]]の時代の[[元号]]の書き方とまったく異なっています。

-*-*-

[2236] 
本書の記述は[[朱雀]]から[[持統大化]]までの異説の成立過程がたまたま保存されたかのように解釈し得る、
注目するべきものです。
しかし本書の成立は
[CITE[扶桑略記]]
など異説の初期から何百年か経過しています。
本書の当該記述が前の世代の文書からそのまま引き継がれたものか何かなら別ですが、
成立の過程ではなく、既に成立した異説の影響を受けて混乱が深まる過程ということになります。




[REFS[
- [2216] [CITE[【[[歴代皇紀]]】]], [TIME[2020-06-28 20:47:42 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0091-001401&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E7%9A%87%E7%B4%80%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=20>
]REFS]

** 帝王編年記

@@
[1607] 
[CITE[帝王編年記]]

** 太平記

[2003] 
[CITE[太平記]]
[WEAK[(14世紀頃成立)]]
は、
[[軍記物語]]でした。
異本が多数伝わり、その関係性には議論があります。

[2718] 
[[古代年号]]の[[天平]]が出現します。
[SEE[ [[天平]] ]]




** 東寺王代記

[1566] 
[CITE[東寺王代記]]
[WEAK[([TIME[文中3(1374)年][year:1374]]-[TIME[天授6(1380)年][year:1380]]頃成立して以後加筆)]]
は、
[[歴史書]]でした。

[1573] 
[[天皇]]ごと、[[元号]]ごとに記事がまとめられていました。
[[大宝]]以前は[[天皇]]ごとに、何年に何があったと記述されました。
[SRC[>>1567]]

[1574] 
[[孝徳天皇]]の記事は、
[[天皇即位紀年]]により記述され、
[[大化]]と[[白雉]]は[[改元]]記事に現れるのみでした。
ただし引用文中に[[白雉]]何年と書かれた例はありました。
[SRC[>>1567]]

[2197] 
[[孝徳天皇]]の元年を[TIME[丙午(646)年][year:646]]とし在位9年間とする説が併記され誤りかとされていました
[SRC[>>1567, >>2196]]。

[1575] 
[[天武天皇]]の記事は、
[[天皇即位紀年]]により記述されていました。
元年から十五年まで記事がありました。
次のような[[改元]]記事がありました。
[SRC[>>1567]]

- [1576] 「元年。建朱雀號。」
- [1577] 「二年。帝即位。改朱雀號白鳳。」
- [1578] 「或説。十四年改白鳳號朱雀。」

[1579] 
[[持統天皇]]の記事は、
[[天皇即位紀年]]により記述されていました。
元年から九年まで記事がありました。
次のような[[改元]]記事がありました。
[SRC[>>1567]]

>
[BOX(vertical)[
九年。建大化號。

[BOX(indent)[
或記云。已上四十一代無年號相續云々。或
記云。孝徳元年始建大化號。六年改元白
雉。齊明天智不立年號。天武元年建朱雀
號。二年改元。白鳳十四年改元。朱鳥號至
持統之七年。九年建大化號。大化至文武之
二年。五年建大寶。爾來年號相續。至今也
云々。
]BOX]
]BOX]

[1580] 
[[文武天皇]]の記事は、
[[大寶]]の[[建元]]まで[[天皇即位紀年]]により記述され、
[[大寶]]以後[[元号]]ごとに記述されていました。
[[天皇即位紀年]]部分は二年から五年まで記事がありました。
五年の記事は次のようなものでした。
[SRC[>>1567]]

>
[BOX(vertical)[
五年。始號大寶號。或記云。四年無年號云
云。
]BOX]

-*-*-

[1581] 
[[天武天皇]]の元年を[[朱雀]]、
2年を[[白鳳]]とするのは
[CITE[扶桑略記]] (>>666)
の系統ですが、
天武天皇15年でなく天武天皇14年を次の[[改元]]とするのは異なり、
しかも[[朱鳥]]でなく[[朱雀]]としています。
それも「或説」と敢えて書かれています。
本書の他の部分も含め必ずしも [CITE[扶桑略記]]
ばかりに依拠したものとは考えられません
[SRC[>>859 p.二二三]]。



[REFS[
- [1568] [CITE[東寺王代記]], [TIME[2020-05-23 11:28:06 +09:00]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ha04/ha04_02292/index.html>
-- [1569] [CITE[ha04_02292_p0017.jpg (JPEG 画像, 1936x1288 px) - 表示倍率 (39%)]], [TIME[2008-09-22 14:38:00 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ha04/ha04_02292/ha04_02292_p0017.jpg>
-- [1570] [CITE[ha04_02292_p0018.jpg (JPEG 画像, 1936x1288 px) - 表示倍率 (39%)]], [TIME[2008-09-22 14:38:01 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ha04/ha04_02292/ha04_02292_p0018.jpg>
-- [1571] [CITE[ha04_02292_p0019.jpg (JPEG 画像, 1936x1288 px) - 表示倍率 (39%)]], [TIME[2008-09-22 14:38:04 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ha04/ha04_02292/ha04_02292_p0019.jpg>
-- [1572] [CITE[ha04_02292_p0020.jpg (JPEG 画像, 1936x1288 px) - 表示倍率 (39%)]], [TIME[2008-09-22 14:38:06 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ha04/ha04_02292/ha04_02292_p0020.jpg>
- [1567] [CITE@ja[続群書類従. 第29輯ノ下 雑部 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-05-23 11:27:04 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936491/9>
- [2196] [CITE[【[[東寺年代記]]】]], [TIME[2020-06-28 11:44:45 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-30507&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E6%9D%B1%E5%AF%BA%E5%B9%B4%E4%BB%A3%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=19>
]REFS]

** 鴨脚本皇代記

[734] 
鴨脚本
[CITE[皇代記]]
[WEAK[([[室町時代]]頃成立、古典保存会刊)]]
は、次のように書いていました。
[SRC[>>733]]

- [735] [[天皇]]の一覧に[[元号]]の一覧が示されています。
- [736] [[孝徳天皇]]に[[大化]]5年間、[[白雉]]5年間。
- [737] [[天武天皇]]に[[朱雀]]壬申から1年間、
[[白鳳]]13年間、
[[朱酉]]丙戌から1年間。
- [738] [[持統天皇]]に[[大化]]乙未から3年間。
- [739] [[文武天皇]]は[[大化]]3年即位、
元年は丁酉大化三年。

;; [1528] 同名別書 >>1526

[REFS[
- [733] [CITE@ja[[[皇代記]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[昭15][year:1940]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117198/7>
]REFS]




** 本朝皇胤紹運録

[1610] [CITE[本朝皇胤紹運録]]
[WEAK[([TIME[応永33(1426)年][year:1426]]成立後追記)]]
は、
[[皇室]]の[[系図]]でした。
[[天皇家]]の[[人名]]に親子関係が記述され、
各人の経歴が添えられていました。
[[室町時代]]に成立後、
各時代の記述が追記されていきました。
内容に違いのある多数の異本が現在に伝わっています。

-*-*-

[2145] 
新しい時代では[[元号年]]を使うのが基本でした。
本によって表記が違うようで、
「天長元七七」 ([[縦書き]])
のように略式のもの [SRC[>>2149]]
もあれば、
「天長元年七月七日」 ([[縦書き]])
のようなもの [SRC[>>2149]]
もありました。
書写時に脱落したのか、
「延暦四十一卄五」 ([[縦書き]])、
「同七正十五」 ([[縦書き]]) [SRC[>>2149]]
と
「延暦四年十一月」 ([[縦書き]])、
「同七年正月」 ([[縦書き]]) [SRC[>>2147]]
のように本によって日付の形式だけでなく値まで違うこともあります。
表記には揺れもあって、
「天長十年二月廿八日」 ([[縦書き]]) と書いた隣の行に
「嘉祥三 三 廿一」 ([[縦書き]]) とあったりもしました [SRC[>>2147]]。
その他、[[干支]]が入っているなど細かい例外はいくつもあったようです。

[2151] 
古い時代では、
「二年正月甲子」 ([[縦書き]])、
「神功三年[LINES[癸][未]]」 ([[縦書き]])、
「天皇元年正月」 ([[縦書き]])、
「四十一年二月」 ([[縦書き]])
のように記述されました [SRC[>>2150]]。
細かな表記揺れがあるものの、
基本的に[[天皇即位紀年]]が使われました。

-*-*-

[2152] 
[[孝徳天皇]]の時代は、
[[大化]]と[[白雉]]の[[元号]]で日付が記述されました。

[2154] 
ある本では、
[[孝徳天皇]]記事に
「大化元六十一受禅」 ([[縦書き]])、
「白雉五十十崩」 ([[縦書き]])
などとありました。 
[SRC[>>2153]]

[2162] 
更に加えて[[孝徳天皇]]について、
「乙巳歳即位乙巳歳誕生六月十四日受禅六十四七月
始有年号曰大化十二月遷都[SNIP[云々]]」 ([[縦書き]])、
「十年甲寅十月十日崩[SNIP[云々]]」 ([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2161]]

[2155] 
[[有間皇子]]記事に
「白雉五年[LINES[甲][寅]]五年[LINES[巳][酉]]三月山田大臣[SNIP[云々]]」 ([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2153]]

[2157] 
別のある本では、
[[孝徳天皇]]記事に
「乙巳歳誕生 六月十四日受禅[SUB[六十四]]七月始有年号曰大化」 ([[縦書き]])、
「白雉五年甲寅 五年巳酉三月山田大臣[SNIP[云々]]」 ([[縦書き]])、
「在位十年十月十日崩」 ([[縦書き]])
などとありました [SRC[>>2156]]。


[2158] 
乙巳年に誕生と即位があり、
60歳で即位したようにも思えますが、
他史料と合わず不審です。
元は[TIME[乙巳(645)年6月14日][kyuureki:645-06-14]]即位の記事だったのが、
どこかから誕生が混入したのでしょう。
64歳かのような記述も元は6月14日だったのでしょう。

[2163] 
7月から[[大化]]に[[改元]]されたとするのは
[CITE[日本書紀]]
と一致しません。

[2164] 
白雉5年記事は、元は[[有間皇子]]の記事にあったのが、
いつの間にか[[孝徳天皇]]記事に混入したのでしょう。
年号が二重にあるのは不審です。
甲寅年は [TIME[[CITE[日本書紀]] 白雉5(654)年][year:654]]です。
己酉年はこの付近では [TIME[[CITE[日本書紀]] 大化5(649)年][year:649]]です。

[2160] 
「在位十年」は在位年数表記に見えますが、月日が続くので[[日付]]表記にもみえます。
同じ本の他の天皇を見ると、新しい時代では在位[VAR[元号]][VAR[何]]年のように書かれていて、
[[舒明天皇]]は「在位十三年十月九日崩」 ([[縦書き]])
と書かれているので、[[天皇即位紀年]]だとわかります。

-*-*-

[2159] 
[[斉明天皇]]、[[天智天皇]]の時代は[[天皇即位紀年]]で記述されました。
[[天智天皇]]記事に
「元年は壬戌」 ([[縦書き]])、
「孝徳大化元六立太子[SNIP[]]」 ([[縦書き]])、
「八 正即位[SUB[私云]]七年春正月十五日戊子即位[SUB[日本記]]説」 ([[縦書き]])、
「同十辛未十二三崩[SNIP[]]」 ([[縦書き]])、
「壬戌正月践祚」 ([[縦書き]])、
「元年壬戌」 ([[縦書き]])
などとありました
[SRC[>>2161]]。

[2165] 
元年は [CITE[日本書紀]] と同じ称制元年です。
この数え方なら即位は7年になるはずですが、
8年正月に別説7年と書き添える形になっています。
そして[[崩御]]が10年なのは [CITE[日本書紀]] と同じです。
前の記事に[[元号名]]もなにもないのに「同」
とあるのは若干不審です。


[2181] 
別の本の[[天智天皇]]記事は、
「孝徳大化元年乙巳六月為太子」 ([[縦書き]])、
「壬戌正月践祚」 ([[縦書き]])、
「戊寅正月即位」 ([[縦書き]])、
「治六年三月都彳近江国
大津宮」 ([[縦書き]])、
「御宇十年辛未歳十二月
三日崩」 ([[縦書き]])、
「元年壬戌」 ([[縦書き]])
などとありました 
[SRC[>>2180]]。


[2167] 
[[大化]]が「孝徳大化」とあることが注目されます。


[2170] 
[[元明天皇]]記事に、
「斉明七年辛丙降誕」 ([[縦書き]])
などとありました。
[SRC[>>2161]]
別の本には
「文武天王
辛酉誕生」 ([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2180]]

[2182] 
斉明天皇7年は[TIME[辛酉(661)年][year:661]]で、これが生年とされています。

-*-*-

[2169] 
[[大友皇子]]記事に、
「天智十五任太政大臣」 ([[縦書き]])、
「朱鳥元年」 ([[縦書き]])
とありました [SRC[>>2161]]。

[2190] 
別の本の[[大友皇子]]記事に
「朱雀元年」
とあったようです (>>1768)。

[2183] 
また別の本の[[大友皇子]]記事に、
「天智天王十正五任太政大臣」 ([[縦書き]])、
「天武天王元年七月依謀[SNIP[]]」 ([[縦書き]])、
「壬申歳七月卄三日」 ([[縦書き]])
とありました。
隣接する[[施基皇子]]記事にも同様の記述があって、
誤って重複して混入したようです。
[SRC[>>2180]]


[2173] 
[[天武天皇]]記事に、
「元年[SUB[ハ]]壬申」 ([[縦書き]])、
「天智七戊刀為皇子」 ([[縦書き]])、
「白鳳二正卄六即位」 ([[縦書き]])、
「朱鳥元丙戌九九崩[SNIP[]]」 ([[縦書き]])
などとありました。
[SRC[>>2171]]

[2185]
別の本の[[天武天皇]]記事に、
「白鳳二年癸酉二月卄六日即帝位」 ([[縦書き]])、
「朱雀元年壬申七月誅大友皇子」 ([[縦書き]])、
「天智天王七年戊刃二月為皇太㐧」 ([[縦書き]])、
「朱鳥元年丙戌九月九日崩」 ([[縦書き]])
などとありました。
[SRC[>>2184]]

[2166] 
[[持統天皇]]記事に、
「孝徳元降誕 天武三二為皇后」 ([[縦書き]])、
「朱雀五正一即位 大化三[LINES[丁][酉]]八一禅位」 ([[縦書き]])
などとありました。
[SRC[>>2161]]

[2186] 
別の本の[[持統天皇]]記事に、
「朱鳥二年丁亥即位」 ([[縦書き]])、
「御宇十年大化四年丁酉八月
一日譲位」 ([[縦書き]])
などとありました
[SRC[>>2180]]。

[2178] 
[[大津皇子]]記事に、
「依謀及朱鳥元年被誅」 ([[縦書き]])
などとありました。
[SRC[>>2174]]
別の本でも「朱鳥元年」 ([[縦書き]])
とありました。 
[SRC[>>2187]]

[2175] 
[[草壁皇子]]記事に、
「天武十二立太子[SNIP[]]」 ([[縦書き]])、
「朱鳥四年四月[SNIP[]]」 ([[縦書き]])、
「宝字二年[SNIP[]]」 ([[縦書き]])
などとありました。
[SRC[>>2174]]

[2188] 
別の本の[[草壁皇子]]記事に、
「天武天皇十年二月為太子」 ([[縦書き]])、
「持統天王朱鳥四年
四月」 ([[縦書き]])、
「宝字二年[SNIP[]]」 ([[縦書き]])
などとありました。
[SRC[>>2187]]


[2176] 
[[文武天皇]]記事に、
「白鳳十二癸未降誕」 ([[縦書き]])、
「大化三二立太子十五」 ([[縦書き]])、
「同八一即位今日受禅」 ([[縦書き]])、
「五年三卄八為大宝元」 ([[縦書き]])
などとありました。
[SRC[>>2174]]

[2189] 
別の本の[[文武天皇]]記事に、
「大化三年二月為皇太子」 ([[縦書き]])、
「同年八月一日受禅同日即位」 ([[縦書き]])、
「大化四年丁酉改元[LINES[但不][号之]]」 ([[縦書き]])、
「御宇十一年慶雲四年丁未六月十
四日崩」 ([[縦書き]])
などとありました。
[SRC[>>2187]]


[2172] 
[[文武天皇]]の最初の4年は
「文武三八」 ([[縦書き]]) [SRC[>>2171, >>2184]]、
「文武四四」 ([[縦書き]]) [SRC[>>2171]]
のようにありました。
[[聖武天皇]]記事に
「辛丑歳 誕生」 ([[縦書き]])
とありました
[SRC[>>2174, >>2187]]。
辛丑年は[TIME[大宝元(701)年][year:701]]です。

[2177] 
[[元正天皇]]記事に、
「白鳳十辛巳降誕」 ([[縦書き]])
などとありました。
[SRC[>>2174]]
他の本に
「辛巳歳誕生」 ([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2187]]

[2179] 
[[舎人親王]]記事に
「文武十一浄大貮位」 ([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>2174, >>2187]]
この日付がいつを指すのかわかりません。

-*-*-

[2194] 
[[伴信友]]によると、
[CITE[紹運要録]]
太上天皇の部に
「持統上皇大化三年丁酉八月一日、 譲位于文武」
とありました (>>1832)。
[CITE[紹運録]]
から派生した文書でしょうか。

-*-*-

[2168] 
[[孝徳天皇]]、[[天武天皇]]、[[持統天皇]]の時代がある場所では[[元号]]、
ある場所では[[天皇即位紀年]]で一貫性がありません。
[[朱鳥]]と[[朱雀]]は記事により逆転して使われています。
[[文武天皇]]の[[大宝]]以前の時代は[[天皇即位紀年]]と[[干支年]]が混在しますが、
[[元号]]は使われていません。
こうした不整合が初期段階から存在したのか、
書写の過程で混入したのか、
これだけでは判断のしようがありません。
いずれにしても一貫した編纂方針で日付の表記が整理されたものでないことは明らかです。


[REFS[
- [2146] [CITE@ja[[[本朝皇胤紹運録]] | 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ]], [TIME[2020-06-27 10:56:53 +09:00]] <https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00006552>
-- [2156] 
<https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00006552#?c=0&m=0&s=0&cv=14&r=0&xywh=1716%2C1212%2C704%2C256>
-- [2180] <https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00006552#?c=0&m=0&s=0&cv=16&r=0&xywh=925%2C230%2C644%2C234>
-- [2184] <https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00006552#?c=0&m=0&s=0&cv=17&r=0&xywh=1602%2C225%2C704%2C256>
-- [2187] <https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00006552#?c=0&m=0&s=0&cv=18&r=0&xywh=2117%2C226%2C705%2C255>
-- [2147] <https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00006552#?c=0&m=0&s=0&cv=21&r=0&xywh=2420%2C205%2C704%2C256>
- [2148] [CITE[[[本朝皇胤紹運録]] / '''['''洞院満季''']''' [編]]], [TIME[2020-06-27 10:57:30 +09:00]] <http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/nu02/nu02_00757_0001/index.html>
-- [2150] [CITE[nu02_00757_0001_p0015.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px)]], [TIME[2008-10-17 11:53:05 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/nu02/nu02_00757/nu02_00757_0001/nu02_00757_0001_p0015.jpg>
-- [2153] [CITE[nu02_00757_0001_p0028.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px)]], [TIME[2008-10-17 11:53:31 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/nu02/nu02_00757/nu02_00757_0001/nu02_00757_0001_p0028.jpg>
-- [2161] [CITE[nu02_00757_0001_p0029.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px)]], [TIME[2008-10-17 11:53:33 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/nu02/nu02_00757/nu02_00757_0001/nu02_00757_0001_p0029.jpg>
-- [2171] [CITE[nu02_00757_0001_p0030.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px)]], [TIME[2008-10-17 11:53:35 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/nu02/nu02_00757/nu02_00757_0001/nu02_00757_0001_p0030.jpg>
-- [2174] [CITE[nu02_00757_0001_p0031.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px)]], [TIME[2008-10-17 11:53:37 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/nu02/nu02_00757/nu02_00757_0001/nu02_00757_0001_p0031.jpg>
-- [2149] [CITE[nu02_00757_0001_p0037.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px)]], [TIME[2008-10-17 11:53:49 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/nu02/nu02_00757/nu02_00757_0001/nu02_00757_0001_p0037.jpg>
]REFS]

** 大乗院寺社雑事記

[2407] 
[CITE[大乗院寺社雑事記]]
[WEAK[([RUBYB[[[長禄]]年間][[TIME[1457][year:1457]]-[TIME[1460][year:1460]]]]頃)]]
は、
[[日記]]でした。

[2408] 
[TIME[長禄2(1458)年4月5日][kyuureki:1458-04-05]]条に、
「古記」
からの写しで、
次のようにありました。
[SRC[>>2406]]

- [2409] 「山田寺 [WEAK[孝徳天皇、大[RUBY[弘][(化)]]四年、]]」 ([[縦書き]])
- [2410] 「崇福寺 [WEAK[白鳳九年、]]」 ([[縦書き]])
- [2411] 「薬師寺 [WEAK[[LINES[白雉九年、][天智御宇、]]]]」 ([[縦書き]])

[2414] 
[CITE[Wikipedia]]
は、
[CITE[扶桑略記]]
を出典に[[崇福寺]]建立を[TIME[西暦668年][year:668]]とします [SRC[>>2413]]。
[CITE[扶桑略記]]
は、
[CITE[崇福寺緣起]]
を出典に、
天智天皇の
「七年戊辰正月十七日」
に建立としました [SRC[>>2412]]。
[TIME[天智天皇7(668)年[LINES[戊][辰]]][year:668]]は、
[[天智天皇]]時代の[[白鳳]]の主流説では白鳳8年に当たりますから、
1年のずれがあります。

[2415] 
[CITE[日本書紀]]
は、
[TIME[天武天皇9(680)年11月12日][kyuureki:680-11-12]]に[[薬師寺]]建立が発願されたとしていました。
天智天皇白雉9年は、天武天皇白鳳9年の誤伝でしょうか。
白雉9年は、
[CITE[日本書紀]]
に従っても異説に従っても、
[[天智天皇]]時代には入りません。



[REFS[
- [2412] [CITE[[[扶桑略記]]【ふそうりゃくき】阿闍梨皇圓]], [TIME[2011-03-26 02:26:36 +09:00]] <https://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/kiryaku/fs05.htm#40>
- [2406] [CITE[5c34c228f1a7f00f31b18fc7]], [TIME[2020-07-30 16:38:31 +09:00]] <https://www.city.kashihara.nara.jp/documents/5c34c228f1a7f00f31b18fc7#page=163>
- [2413] [CITE@ja[[[崇福寺]]跡 - Wikipedia]], [TIME[2020-07-15 17:22:06 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E7%A6%8F%E5%AF%BA%E8%B7%A1>
]REFS]

** 二十二社註式

[1585] 
[CITE[二十二社註式]]
[WEAK[([TIME[文明元(1469)年][year:1469]]成立)]]
は、
主要寺社の成立についてまとめた文書でした。

[1587] 
[CSECTION[[[日吉社]]]]
の項に、
「山家最要略記。日吉七社降臨垂跡時代事。扶桑明月集云。 [LINES[大江匡房記。匡房在世之時号][朧月集。没後改名明月集。]] 
[SNIP[]]
康和元年正月十一日 大江匡房謹記」
とありました。
引用関係が不明瞭ながら、
[CITE[二十二社註式]]
が引用する
[CITE[山家最要略記]]
に引用された[RUBYB[[[大江匡房]]][[TIME[長久2(1041)年][year:1041]]-[TIME[天永2(1111)年][kyuureki:1111-11-05]]]]によるという
[CITE[扶桑明月集]]
から引用するものを意味すると解されます。
[SRC[>>1586, >>859 p.二二四]]

[1588] 
その引用部には祭神の由来が書かれており、

- [1589] 「人皇三十代磯城島金刺宮欽明天皇即位元年[LINES[庚][申]]」
- [1590] 「第卅九代天智天皇大津宮即位元年[LINES[壬][戌]]」
- [1591] 「人皇十六代應神天皇軽島明宮御代」
- [1593] 「第三十代欽明天皇卅二年[LINES[辛][卯]]」
- [1594] 「第四十代天武天皇即位白鳳元年[LINES[壬][申]]」
- [1595] 「第十代崇神天皇即位元年[LINES[甲][申]]」
- [1596] 「第五十代桓武天皇即位延暦元年」
- [1597] 「同桓武天皇即位延暦二年[LINES[癸][亥]]正月十六日」
- [1598] 「桓武天皇延暦六年[LINES[丁][卯]]」

... といった[[日付]]がみられました。
[SRC[>>1586]]

-*-*-

[1599] 
[[坂本太郎]]は、
次のような理由を挙げて、
この引用部が[[大江匡房]]によるものとしては甚だ怪しく、
後代の造作か改変があったものだとしました。
[SRC[>>859 p.二二四]]

- [1600] 形式として、最後の[[日付]]が奇妙である。
-- [1601] しかも康和元年への改元は8月なので、1月11日では[[遡及年号]]となる。
-[1602] [[大江匡房]]の謹記としながら官位を冠しないのは
「朝紳にあるまじい失態」である。
- [1603] 祭神など内容も不審な点がある。
- [1604] 「桓武天皇即位延暦元年」とあるのは
「明白な年代上の誤謬といわねばならない」。

[1605] 
[[桓武天皇]]は[TIME[天応元(781)年][year:781]]に[[践祚]]、[[即位]]していますから、
翌[TIME[延暦元(782)年][year:782]]を「即位」とするのは誤りです。
とはいえそれまでの[[天皇即位紀年]]の流れから筆が滑ったとみれないこともなく、
この点は坂本のいう程強い根拠としづらいようにも思われます。

[1606] 
[TIME[康和元(1099)年1月11日][kyuureki:1099-01-11]]の[[遡及年号]]について、
[[改元]]は[TIME[承徳3(1099)年8月28日][kyuureki:1099-08-28]]でしたから、
半年以上遡って新元号が使われたことになります。



[REFS[
- [1586] [CITE@ja[群書類従]], [[独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN]], [TIME[2020-05-23 13:41:38 +09:00]] <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M1000000000000049985>
PDF 40ページ-41ページ
]REFS]

** 興福寺年代記

[1669] 
[CITE[興福寺年代記]]
[WEAK[([[後土御門天皇]] (在位[TIME[寛正5(1464)年][kyuureki:1464-07-19]]-[TIME[明応9(1500)年][kyuureki:1500-09-28]]) の頃成立して以後加筆)]]
は、
[[興福寺]]の[[歴史書]]でした。

[1670] 
[[古代年号]]を書いていました。

[REFS[
- [1556] [CITE@ja[[[興福寺年代記]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[坪井九馬三, 日下寛 校]], [TIME[明41.11][year:1908]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/769252/20>
]REFS]


** 如是院年代記

[1673] 
[CITE[如是院年代記]]
([CITE[建仁寺年代記]])
[WEAK[([TIME[元亀元(1570)年][year:1570]]頃成立)]]
は、
[[如是院]]の[[歴史書]]でした。

[1675] 
[[古代年号]]を書いていました。

[REFS[
- [1674] [CITE@ja[[[群書類従]]. 第579-581 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-05-24 12:59:02 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2576275/21>
]REFS]

** 皇年代略記

[707] 
[CITE[皇年代略記]]
[WEAK[([[戦国時代]]-[[江戸時代]]初期成立)]]
は、
歴史書でした。

[1838] 
次のように書いていました。
[SRC[>>576]]

- [708] 記事は[[天皇]]ごと、その中の[[元号]]ごとにまとめられています。
- [709] 他の[[天皇]]の時代の参照は
「允恭卅三年」
のような表記が多いですが、
「允恭天皇卅九年」
の表記も混在しています。
- [710] [[元号]]記事は[[孝徳天皇]]が最初で、
[[大化]]5年間、
[[白雉]]5年間です。
- [711] 
[[斉明天皇]]、
[[天智天皇]]は[[天皇即位紀年]]で、
[CITE[日本書紀]]と同じ数え方です。
- [712] 
[[天智天皇]]記事に
「孝徳天皇大化元年[LINES[乙][巳]]」。
- [713] 
[[天武天皇]]記事に、
-- [714] [[天智天皇]]崩御後最初が「天皇白鳳元年[LINES[壬][申]]九月己丑」。
[[元号]]のない天皇記事の最初の紀年に「天皇元年」と書き、
以後「二年」のように書くのが原則のようだが、
[[大宝]]以後は「天皇」と書かずに[[元号]]のみ。
「天皇白鳳」という書き方は[[天武天皇]]のみ。
10年まで記事が続いた後
「朱鳥元年[LINES[丙][戌]]九月九日」記事。
-- [715] [[朱雀]]1年 (壬申改元)、
[[白鳳]]13年 (壬申改元)、
[[朱鳥]]1年 (丙戌改元)。
[[祥瑞]]記述はあるが月日はなし。
-- [716] 「首書」より引用。
「三年」から「十五年丙戌」までの記事、
「元年丙戌正月十四日」記事、
「七月」記事。
([[元号]]記載なしで年数のみ。)
- [717] [[持統天皇]]記事に、
-- [718] 傍注「孝徳天皇元年」。
-- [719] 「天武三年[LINES[甲][戌]]二月」記事。
-- [720] 「朱鳥元年[LINES[丙][戌]]」記事。
-- [721] その割注「以丁亥為元年」。
-- [722] その次の記事「四年[LINES[庚][寅]]四月」。
以後「六年[LINES[壬][辰]]十一月」記事まで続く。
-- [723] その次の記事
「[RUBY[大化元年][イ天皇八年]][LINES[[RUBY[乙][イ己]]][未]]十二月乙卯」。
-- [724] その次の記事
「三年[LINES[丁][酉]]八月一日」。
-- [725] 
[[朱鳥]]
7年間。
「二年丁亥受禅。不改元至八年[RUBY[甲午][イ乙巳]]」
-- [726] 
[[大化]]3年間。元年乙未。
--- [509] 「昨三月癸巳近江国都賀山醴泉出、為[SUB[レ]]瑞歟」
-- [727] 「首書」より引用。
「持統天皇三年」
「朱鳥三年」
「四年」... 「八年」
「大化三年」
「文武元大化丁酉」
- [728] [[文武天皇]]記事に、
-- [729] 「天武天皇白鳳十二年[LINES[癸][未]]」
「持統天皇大化三年[LINES[丁][酉]]」
「天皇二年[LINES[戊][戌]]」
「五年[LINES[辛][丑]]三月廿八日為大宝元年。[LINES[自天皇元年丁酉八月][至去年庚子无年號。]]」
-- [730] 「首書」より引用。
「大化四年庚子」
- [731] [[元正天皇]]記事に「白鳳十年[LINES[辛][巳]]」。
- [732] ... とこの時期の記事には矛盾がみられます。

-*-*-

[1825] 
[[伴信友]]は、
又一説として
「朱鳥二年丁亥、受禪不改元至八年甲午」
とあった (>>725)
ことを引いて、
8年は持統天皇8年すなわち朱鳥9年で、
書き方が悪いだけで朱鳥の異説ではないとしました。
[SRC[>>1731]]

[2212] 
8年甲午が朱鳥8年だとすると、
1年のずれが生じることを指しているのでしょう。
最初からこのような[[朱鳥]]と[[持統天皇]]の[[天皇即位紀年]]が混在した理解しづらい文を書いたとは考えづらいですから、
元は別に書かれたか、
途中で[[朱鳥]]の[[元号]]が混入したものでしょうか。

[2213] 
乙巳とする異本が生じたのもこの混乱に関係するものでしょう。

-*-*-

[272] 
[[持統大化]]の祥瑞 (>>509)
は、
[CITE[日本書紀]]
の記述 (>>892)
と類似します [SRC[>>502]]。 

[802] 
[[斎藤励]]は、
醴泉の出現時期を
[CITE[皇年代略記]]
の編者が誤解したものとし、
編者もこれを祥瑞と断定せず疑念を持っていたことも指摘しました
(>>803)。
[SRC[>>556]]

[513] 
[[田村圓澄]]は、
[CITE[皇年代略記]]
の3月は11月の誤りで、昨年11月の意味としました。
[SRC[>>502]]

[801] 
[[所功]]は、
[CITE[皇年代略記]]
のこの記事は[[祥瑞改元]]に見せかける作為と指摘しました。 
[SRC[>>502]]




[REFS[
- [650] [CITE[皇年代略記]]
-- [576] [CITE@ja[[[群書類従]] : 新校. 第二巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[内外書籍株式会社]], [TIME[1931-1937][year:1937]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879729/115>
]REFS]

** 八宗伝来集

[2089] 
[CITE[八宗傳來集]]
[WEAK[([TIME[正保4(1647)年][year:1647]]成立)]]
は、
[[仏教書]]でした。

[2090] 
[[仏教]]宗派の[[日本]]傳來前の発祥を
「如來入滅[VAR[何]]年」
([[縦書き]])
と[[仏暦]]で記述し、
[[日本]]での経緯を
「天皇元号何年」
形式で記述していました。
[SRC[>>2091]]

[2092] 
[[日本]]の古い時代のものとして、次の例がみられました。

- [2094] 「仁王四十代天武天皇御門白鳳二十年[LINES[庚][辰]]」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2093]]
- [2096] 「仁王四十一代持統天皇ノ御時大長元年壬辰」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2095]]
- [2097] 「仁王四十二代文武ノ御時大長九年庚子」 ([[縦書き]])
[SRC[>>2095]]


[REFS[
- [2091] [CITE[八宗伝来集]], [TIME[2020-06-15 13:57:58 +09:00]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0943/index.html>
-- [2093] [CITE[bunko31_e0943_p0008.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) - 表示倍率 (32%)]], [TIME[2017-07-31 09:16:17 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_e0943/bunko31_e0943_p0008.jpg>
-- [2095] [CITE[bunko31_e0943_p0009.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) - 表示倍率 (32%)]], [TIME[2017-07-31 09:16:35 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_e0943/bunko31_e0943_p0009.jpg>
]REFS]

** 和漢事始

[2039] 
[CITE[和漢事始]]
[WEAK[([TIME[元禄10(1697)年][year:1697]]出版)]]
は、
[[雑学]]事典でした。


[2041] 
[CITE[日本書紀]]
(「日本紀」)
を引いて
「孝徳天皇大化五年二月」
([[縦書き]])
のように書いている所がありながら [SRC[>>2040]]、
「孝徳天皇三年」
([[縦書き]])
のように書いている所もありました [SRC[>>2042]]。

[2055] 
「年号」
の項には、
[CITE[日本紀]]
と
[CITE[覧初要集]] (>>2056)
からの引用により、
[[大化]]から[[元号]]が始まったことが説明されていました。
また、
[CITE[正統記]] (>>746)
を参照して[[元号]]が途切れない[[大宝]]を始めともいうことが補足されていました。
[[継体天皇]]時代から続くとする[[元号]]は佛人の偽作とされていました。
[SRC[>>2051, >>2052]]



[2038] 
附録の
[CITE[[[國朝年號譜]]]]
は、
[[日本の元号]]の[[一覧表][元号一覧]]でした。
[[天皇]]ごとに[[元号]]・[[改元日]]が示されていました。
すべてではないものの、
[[元号]]の由来の考察が示されていました。
[SRC[>>2043]]


- [2047] [[孝徳天皇]]の時代に[[大化]]と[[白雉]]がありました。
[[日本紀]]を出典としていました。
- [2048] [[天武天皇]]の時代に[[白鳳]]と[[朱鳥]]がありました。
-- [2049] 
[[白鳳]]は継続年数「十四年」しか情報がありませんでした。
-- [2050] 
[[朱鳥]]は継続年数「一」、
「考證」に
「日本紀云白鳳十五年秋七月乙亥朔戊午改元曰朱鳥元年○東鑑云白鳳十五年自大和國獻赤雉改年号爲朱鳥元年」
([[縦書き]])
とありました。
- [2046] [[斉明天皇]]、[[天智天皇]]、[[持統天皇]]に[[元号]]がなかったことが記されていました。
- [2045] [[文武天皇]]の[[大寶]]項に、
「文武帝自元年至四年亦無年号五年始立年号爲大寶自是以後年号相續不絶」
([[縦書き]])
とありました。
- [2044] [[天平感寶]]が挙げられ[[天平勝宝]]は立項されませんでした。
[[改元日]]の説明に、「七月二日甲午改感作勝」
([[縦書き]])
とありました。



[REFS[
- [2040] [CITE@ja[[[和事始]] (巻之1・2) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム]], [TIME[2020-06-13 19:21:58 +09:00]] <https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000187300001/204110e352cd49c39eb685757998a7b6?p=77>
- [2051] [CITE@ja[[[和事始]] (巻之5・6・附録) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム]], [TIME[2020-06-13 19:49:11 +09:00]]
<https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000187300003/303116777a4c4d2f87c83dffc79e4db0?p=36>
- [2052] [CITE[【[[和漢事始]]】]], [TIME[2020-06-13 19:50:06 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-01601&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%92%8C%E6%BC%A2%E4%BA%8B%E5%A7%8B%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=189>
- [2042] [CITE@ja[[[和事始]] (巻之5・6・附録) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム]], [TIME[2020-06-13 19:23:10 +09:00]] <https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000187300003/303116777a4c4d2f87c83dffc79e4db0?p=97>
- [2043] [CITE@ja[[[和事始]] (巻之5・6・附録) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム]], [TIME[2020-06-13 19:23:10 +09:00]] 
<https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000187300003/303116777a4c4d2f87c83dffc79e4db0?p=97>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2054] [CITE@ja[【ゆゆゆい】5月になりました新元号”[[令和]]”にもなりました、今月もよろしくお願いします。]], [TIME[2020-06-13 19:58:13 +09:00]] <https://yuyuyui.club/%E3%80%90%E3%82%86%E3%82%86%E3%82%86%E3%81%84%E3%80%915%E6%9C%88%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%81%E6%96%B0%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%BB%A4%E5%92%8C%E3%81%AB/#comment-27257>
]FIGCAPTION]

>『和事始』に曰く「覧初要集に云、皇極天皇四年を大化元年とす、是より以降年號あり、しかれば大化を以て年號の始とすべし、大化より年號始るといへども、其の後或いは年號を立て、或いは年號を立てず、文武天皇五年に大寶の號を立て、これより相續て年號たへず、故に正統紀には大寶を以て年號の始とせり」と。これは我が国の元号の起源について書かれた歴史書の一節です。

]FIG]

]REFS]

** 大日本史

[2280] 
[CITE[大日本史]]
[WEAK[(17世紀編纂開始、[[明治時代]]完成)]]
は、
[[歴史書]]でした。

@@
[2282] 
[[天皇大友]]元年、[[白鳳]] [SRC[>>2281]]
[[天武天皇]]元年 [SRC[>>2283]]
[[持統天皇]]元年 [SRC[>>2284]]

[REFS[
- [2278] [CITE@ja[[[大日本史]]. 第1冊 巻1−11 本紀 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[源光圀 編源綱条 校源治保 重校]], [TIME[明33][year:1900]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/770023/78>
- [2281] [CITE@ja[[[大日本史]]. 第1冊 巻1−11 本紀 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[源光圀 編源綱条 校源治保 重校]], [TIME[明33][year:1900]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/770023/81>
- [2283] [CITE@ja[[[大日本史]]. 第1冊 巻1−11 本紀 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[源光圀 編源綱条 校源治保 重校]], [TIME[明33][year:1900]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/770023/85>
- [2284] [CITE@ja[[[大日本史]]. 第2冊 巻12−20 本紀 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[源光圀 編源綱条 校源治保 重校]], [TIME[明33][year:1900]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/770024/3>
]REFS]

** 熊野年代記

[2325] 
[CITE[熊野年代記]]
[WEAK[(18世紀頃成立後改訂)]]
は、
[[歴史書]]です。

[2327] 
現代語訳とされる [[Webページ]] (どの程度原本を反映しているか不明)
によると、
[[文武天皇]]以前の時代について、
[[大化]]、[[白雉]]、[[白鳳]]、[[朱鳥]]、[[大宝]]以後の[[元号]]が併記されています。
[[大化]]、[[白雉]]、[[大宝]]以後は[[正史]]と一致しますが、
[[白鳳]]と[[朱鳥]]は次のようにありました。
(記事のない年次は抜けています。)
[SRC[>>2326]]

- [2335] 「天武 白鳳四 乙亥」
- [2336] 「天武 白鳳五 丙子」
- [2337] 「天武 白鳳六 丁丑」
- [2338] 「天武 白鳳七 戊寅」
- [2339] 「天武 白鳳十 辛巳」
- [2340] 「天武 白鳳十一 壬午」
- [2341] 「天武 白鳳十二 癸未」
- [2342] 「天武 白鳳十三 甲申」
- [2343] 「天武 白鳳十四 乙酉」
- [2344] 「天武 朱鳥十五 丙戌」
- [2345] 「持統 朱鳥二 戊子」
- [2346] 「持統 朱鳥四 庚寅」
- [2347] 「持統 朱鳥五 辛卯」
- [2348] 「持統 朱鳥六 甲午」

[2349] [[白鳳]]は、[[元年]]が壬申年の[[天武白鳳]]です。

[2350] 丙戌年は[[天武天皇]]15年で[[朱鳥]]元年のはずが、
まじったのか朱鳥15年になっています。

[2351] 
持統天皇2年から持統天皇5年が、朱鳥2年から5年となっています。
[CITE[日本書紀]] と1年のずれが生じています。

[2352] 
[TIME[持統天皇8(694)年[LINES[甲][午]]][year:694]]が朱鳥6年になっています。
2年のずれ ([CITE[日本書紀]] とは3年のずれ) が生じています。



[REFS[
- [2326] [CITE@ja[現代語訳「[[熊野年代記]]」天智~桓武]], [TIME[2020-01-14 09:04:21 +09:00]] <https://www.mikumano.net/nendaiki/nendaiki2.html>
]REFS]

** [CITE[日本国志]]

[2881] 
[CITE[日本国志]]
には、
[[清国人]]が[[明治時代]]に記述した[[年表]]があります。
[SEE[ [[日本国志]] ]]

* 元号の一覧

[SEE[ 元号の一覧表、西暦対照表、変換ソフトウェア、機械可読データファイルなどについて、[[元号一覧]] ]]

[86] [[元号一覧]]の類が取り扱いを開始する時期は様々です。次のような例が見られます。

- 無制限 ([[西暦]]の[[紀元前]]などで代用し無限に遡れることとする)
- [[神武東征]]開始年: [CITE[日本書紀]]人代のはじめ
- 皇紀元年: [[建国]]
- 大化元年: [[日本の元号]]のはじめ
- 大宝元年: [[日本の元号]]の継続のはじめ
- 明治元年: 近代のはじめ
- 明治6年: [[太陽暦]]のはじめ

-*-*-

[248] 
[[一覧表や実装の類][元号一覧]]で、
史実性に疑いが持たれ史実だとしても年代に訂正が必要とみられる古代の[[天皇即位紀年]]や、
当時のものではなく中世に創られたとされる[[古代年号]]をどう扱うべきか、
疑問に思う向きもありましょう。

[104] 
[CITE[Wikipedia]] のように、
通常記事では[[神武天皇]]から[[武烈天皇]]までは[[西暦]]と対応しないものとし、
別に項を立てて[[西暦]]と対照させる方針を採るものもあります。
[SRC[>>139]]

[251] 近現代の[[一覧表や実装の類][元号一覧]]のほとんどは[[古代年号]]を完全に無視しています。

[249] 
[[天皇即位紀年]]や[[古代年号]]、あるいは[[皇紀]]などが史実と異なるとしても、
[[日本]]国内で歴史の記述のために長年使われてきたことには違いありません。
[[西暦]] ([[キリスト紀元]]) の元年に[[イエスキリスト]]が誕生したかどうかがもはや[[西暦]]にとって意味を持たないのと同様に、
これらの[[紀年法]]も[[日本]]で使われてきた[[紀年法]]として、
対応し続けるべきと考えられます。

[250] [[西暦]]と違っていかにもな名前を持つ[[天皇即位紀年]]は[[天皇]]の[[即位]]年がずれると歴史的事実と年号の矛盾が明確になって使いづらくなるかもしれませんが、
そのような新たな定説が成立したときには他の紀年法 (おそらく西暦)
で記述することになるでしょうから、
既存の[[紀年法]]はこれまでの用法で書かれた日付を理解するためのものとして、
従来の定義のまま残されるべきでしょう。

[REFS[
- [139] [CITE@ja[上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧 - [[Wikipedia]]]]
([TIME[2015-12-11 20:13:52 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E5%9C%A8%E4%BD%8D%E5%B9%B4%E3%81%A8%E8%A5%BF%E6%9A%A6%E5%AF%BE%E7%85%A7%E8%A1%A8%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7>
]REFS]

* メモ





[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[253] [CITE@ja[間接的に天皇号の始用時期とも係わる推論二話]]
([TIME[2015-09-20 23:38:26 +09:00]])
<http://www5e.biglobe.ne.jp/~menme/mmj14.html>
]FIGCAPTION]

> 『寧楽遺文』の解説には、
>  唐の則天武后永昌元年は、 己丑の歳であつて、我が持統天皇三年に當ることより推せば、 寧ろ此地方に移住した歸化人が彼の年號を用ひたものであらう。
> という推定が述べられていて、おそらく、その通りなのであろう。

]FIG]


[254] (久野健 [TIME[2018-07-15 18:24:14 +09:00]])
<https://core.ac.uk/download/pdf/159511709.pdf>

[262] [CITE[pdf15_02.pdf]] ([TIME[2017-04-26 10:53:42 +09:00]]) <http://www.mus-his.city.osaka.jp/education/publication/kenkyukiyo/pdf/no15/pdf15_02.pdf>

[341] ([TIME[2015-10-28 01:36:43 +09:00]])
<http://tsukudaosamu.com/pdf/7-1.pdf#page=42>

[446] [CITE[「天寿国繍帳」と「戌寅暦」]]
([TIME[2016-03-11 11:19:14 +09:00]])
<http://www.wagoyomi.info/boinreki.html>

[447] [CITE@ja[参考資料 万葉集/日本紀と日本書紀との年号の相違問題 - 竹取翁と万葉集のお勉強]]
([TIME[2019-10-19 12:15:03 +09:00]])
<https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/06e0132d9ba6618fba9c72a5a7af026e>



[449] ([TIME[2019-10-19 15:11:14 +09:00]])
<http://www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/81005156.pdf>

[450] ([TIME[2018-01-17 11:10:52 +09:00]])
<http://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/820/1/BA67898227_2004_106_117.pdf>

[451] ([TIME[2012-06-27 19:00:58 +09:00]])
<http://inoues.net/study/mokkan_pdf.pdf#page=5>

[452] [CITE[古事類苑]]
([CSECTION[歳時部三]], [CSECTION[年號上]], [CSECTION[名稱]], 第 1 巻 156 頁, [TIME[2014-08-09 23:32:18 +09:00]])
<http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000156.html>

[453] [CITE[古事類苑]]
([CSECTION[歳時部三]], [CSECTION[年號上]], [CSECTION[年號通載]], [CSECTION[大化]], 第 1 巻 158 頁, [TIME[2014-08-09 23:32:40 +09:00]])
<http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000158.html>

[454] [CITE[古事類苑]]
([CSECTION[歳時部四]], [CSECTION[年號下]], [CSECTION[逸年號【入】]], 第 1 巻 340 頁, [TIME[2011-10-22 21:38:04 +09:00]])
<http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000340.html>


[2914] 
[CITE@ja[untitled - article_2_8.pdf]], [TIME[2013-03-30T06:03:43.000Z]], [TIME[2024-10-31T05:58:57.419Z]] <https://www.kansai-u.ac.jp/nenshi/sys_img/article_2_8.pdf#page=2>



[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[455] [CITE@ja[神功皇后 - Wikipedia]]
([TIME[2019-11-18 21:55:42 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E>
]FIGCAPTION]

> 神功皇后摂政66年(266年)
> 是年 晋武帝泰初二年晋起居注云「武帝泰初二年十月 倭女王遣重譯貢獻」
> (訳:この年は晋の武帝の泰初(泰始の誤り)2年である。晋の起居注という記録によると泰初2年10月に倭の女王が使者を送り通訳を重ねて朝貢した)

]FIG]


[456] [CITE[岩屋岩蔭遺跡巨石群/春分・秋分の頃の観測/SUNBEAM [金山巨石群と太陽暦__&&]&&__]]
([TIME[2014-02-24 22:18:01 +09:00]])
<http://www.seiryu.ne.jp/~kankou-kanayama/kyoseki/taiyou/2_4.html>

[459] [CITE[縄文学研究室//研究ノート]]
([TIME[2002-06-15 21:40:36 +09:00]])
<https://www.jomongaku.net/note/landscape.html>

[460] [CITE@ja[岩屋岩蔭遺跡 - 星たび]]
([TIME[2016-07-02 23:40:16 +09:00]])
<http://www.hoshitabi.com/kanayama/iwayaiwakage.html>



[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1028] [CITE@ja[Template:日本の元号 - Wikipedia]]
([TIME[2020-02-17 10:57:42 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/Template:%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%85%83%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

> 「白鳳」と「朱雀」は正史『日本書紀』には見えない私年号だが、地方の文献等に散見する。

]FIG]

[858] [CITE@ja[西暦紀元 - Uyopedia]], [TIME[2019-05-06 14:12:01 +09:00]] <http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E8%A5%BF%E6%9A%A6%E7%B4%80%E5%85%83>


[1142] 
[CITE@ja[CiNii 論文 - 我国に於ける所謂古代年号に関する二三の問題]] ([TIME[2019-01-09 12:27:49 +09:00]]) <https://ci.nii.ac.jp/naid/110000476943>







[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1154] [CITE[朝日八幡神社-パワースポット情報(愛媛県)<パワスポ.com>]]
([TIME[2018-11-28 14:55:26 +09:00]])
<http://powspo.com/0/002/711/>
]FIGCAPTION]

> 創建
> 656年~697年〔白雉7年~朱鳥12年〕

]FIG]



[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1377] [CITE@ja[難波長柄豊碕宮 - Wikipedia]]
([TIME[2020-05-01 05:25:26 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B3%A2%E9%95%B7%E6%9F%84%E8%B1%8A%E7%A2%95%E5%AE%AE>
]FIGCAPTION]

> 朱鳥元年(686年)の正月に全焼するまで

]FIG]



[1918] [CITE[行基伝の研究]]
([TIME[2019-01-01 10:36:03 +09:00]])
<http://web.kyoto-inet.or.jp/people/honda5/ron14.htm>


[1933] 
[[好太王碑]]、
[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘]]、
[[那須國造碑]]のどれも揃って過去の事跡には[[元号]]を使い、
現在の[[日付]]には[[干支年]]だけしか使わないのは、
何か意味があるのだろうか。



[1966] ([TIME[2020-03-31 13:22:11 +09:00]])
<http://www.manyo.jp/ancient/report/pdf/report1_03_a_study_in_the_cmpilatory.pdf>

[2028] [CITE@ja[御書本文|創価学会公式サイト]]
([TIME[2020-06-13 10:47:41 +09:00]])
<https://gosho-search.sokanet.jp/page.php?n=691>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1843] [CITE@ja[舒明天皇 - Wikipedia]]
([TIME[2020-05-31 23:44:42 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%92%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87>
]FIGCAPTION]

> 先代の推古天皇は、在位36年3月7日(628年4月15日)に崩御した時、継嗣を定めていなかった。

]FIG]




[2112] [CITE[日本の名琴一]]
([TIME[2001-11-09 05:48:48 +09:00]])
<http://orange.zero.jp/zad70693.rose/meiqin/nihonmeiqin1.html>


[2102] 
何の根拠もない妄想だけどこんなのはどうか。
古代、
天皇の名前と宮城の名前と時代の名前は密接な関係にあった。
だから何々宮天皇御世何々年のように書いた。
[[朱鳥]]の[[改元]]記事に宮号制定記事が付されているのは、
重病で死期を悟った天皇が、
自分の治世と宮殿に生前追贈しようとしたのだった。
だから[[朱鳥]]は本来天武天皇元年からの即位紀年の追号だったが、
いつしか忘れられ改元記事だけが残ったため、
崩御年が元年と理解されるようになった。



[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2144] [CITE@ja[朱鳥(アカミトリ)とは - コトバンク]]
([[デジタル大辞泉,大辞林 第三版,日本の元号がわかる事典,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及]]著, [TIME[2019-10-19 14:45:52 +09:00]])
<https://kotobank.jp/word/%E6%9C%B1%E9%B3%A5-422849>
]FIGCAPTION]

> しゅ‐ちょう ‥テウ【朱鳥】
> [SNIP[]]
> '''['''一''']''' 天武天皇の代の最後の年にたてられた年号。天武一五年(六八六)七月二〇日に改元、同年九月に天皇が没し、以後しばらくして用いられなくなった。私年号として、天武、持統両天皇の代に使用されたことがある。「書紀‐二九」に「朱鳥此云二阿訶美苫利一」とある。すちょう。あかみとり。
> [SNIP[]]
> 出典 精選版 日本国語大辞典

]FIG]




[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2312] [CITE@ja[最初の寺院]]
([TIME[2012-06-21 12:24:42 +09:00]])
<http://www.snk.or.jp/cda/kourataisya/14saiho.html>
]FIGCAPTION]

> 其の因縁に就いて「高良山寺院記」中に「白鳳六十年丁丑四月廿二日、阿曇多知尼少女に託して隆慶に告げて曰く、汝須らく三宝に帰依し浄業を修すべし、勝地幾(ちかき)にあり」と、又「高隆寺縁起」には「白鳳十三年二月八日、国書生清原真人道理聴進を視、名神御厨預り物部公岡麿、祝部物部公有憲、勾当阿曇公吉禰麿、神部公常仁、弓削郷戸主草公、同月十四日早朝、国宰の夢の示現に依って、力を合わせ林中の荊棘をかり払い、石岩を引きて平らにし、仏殿を草創し、便ち、五間四面の精舎一宇、五間七間の雑舎一宇を造作し、弥勒像一駆、毘沙門天像一駆を造り奉り、堂の母屋に安置し奉り、大明神像一駆を造り奉り、南の母屋に安置し奉り、庇一間是れ則ち太神宮寺法名高隆寺なり」とある。
> 年号に就いて、又其の造営の動機などに就いては異説もあるが天智天皇の御世である事は皆一致して居る。
>  然らば其建立の場所は何処か、「御井寺記録」に「隆慶が夢告を受けた時、館の東北に当たって夜奇光を見て尋ねたが、一つの霊木があったので、仏縁を刻み、又、荊を開くとき一寸八分の黄金仏を得た。
> 白鳳六年六月から翌一月に至り本堂が落成したが、此地は神功皇后征西のの営地の址である」と云って居る。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2313] [CITE[筑後高良山]]
([TIME[2018-06-06 05:57:50 +09:00]])
<http://www7b.biglobe.ne.jp/~s_minaga/ato_korasan.htm>
]FIGCAPTION]

>  ※その時代は「高良玉垂宮縁起」の奥付に「白鳳十三歳葵酉」とあったと云わる故、この頃と推定される。
> 「高良山寺院記」:「白鳳六十年丁丑四月廿二日、阿曇多知尼少女に託して隆慶に告げて曰く、汝須らく三宝に帰依し浄業を修すべし、勝地幾(ちかき)にあり」
> 「高隆寺縁起」:「白鳳十三年二月八日、国書生清原真人道理聴進を視、名神御厨預り物部公岡麿、祝部物部公有憲、勾当阿曇公吉禰麿、神部公常仁、弓削郷戸主草公、同月十四日早朝、国宰の夢の示現に依って、力を合わせ林中の荊棘をかり払い、石岩を引きて平らにし、仏殿を草創し、便ち、五間四面の精舎一宇、五間七間の雑舎一宇を造作し、弥勒像一駆、毘沙門天像一駆を造り奉り、堂の母屋に安置し奉り、大明神像一駆を造り奉り、南の母屋に安置し奉り、庇一間是れ則ち太神宮寺法名高隆寺なり」

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2355] [CITE[ni05_01494_0002_p0012.jpg (2592×1728)]]
([TIME[2008-04-22 10:12:06 +09:00]])
<https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ni05/ni05_01494/ni05_01494_0002/ni05_01494_0002_p0012.jpg>
]FIGCAPTION]

> 太化

]FIG]



[2509] ([TIME[2011-05-23 19:44:36 +09:00]])
<https://dil-opac.bosai.go.jp/publication/nied_tech_note/pdf/KJ-01_057.pdf#page=7>



[2604] [CITE[和銅日本紀と古事記との関係]]
([TIME[2013-02-15T08:45:28.000Z]], [TIME[2020-09-13T13:25:27.158Z]])
<http://kenkokusi.web.fc2.com/kojiki/2.5.html>

[2605] [CITE[「『日本書紀』の記述と合致」という紀年大刀に関する疑問 紀年と暦 庚寅銘は元嘉暦なのか: 天漢日乗]]
([TIME[2020-09-13T13:30:29.000Z]])
<http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2011/09/post-66a2.html>

[2606] [CITE@ja[大和 (私年号) - Wikipedia]]
([TIME[2020-09-13T14:40:35.000Z]], [TIME[2020-09-25T11:59:19.713Z]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7)>



- [2611] [CITE@ja[『[[日本書紀]]』仏教伝来記事と末法思想(その二)]], 
[[吉田一彦]], 
[TIME[2008-06-25]],
[TIME[2021-01-07T06:40:52.000Z]] <https://ncu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=212&item_no=1&page_id=13&block_id=17>


>
[VRL[
[SNIP[]]この「貴楽」とい 
う年号は、中世に流行した偽年号 (しばしば「私年号」と呼ばれるが、 
「偽年号」と呼ぶべきだろう) の一つで、[SNIP[]]
]VRL]

貴楽元年 vs 2年

[CITE@ja[六要9-5]], [TIME[2015-07-26T09:18:43.000Z]], [TIME[2021-01-07T08:10:13.915Z]] <http://www.biwa.ne.jp/~takahara/rokuyou09_05.html>

c.f. [[仏暦]]


[2621] [[日本帝皇年代記]]


[2625] 
<https://sucra.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=17143&item_no=1&attribute_id=24&file_no=1&page_id=26&block_id=52>

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左
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左頁右




[2869] [CITE@ja[同志社大学デジタルコレクション]]
([TIME[2024-02-12T16:14:26.000Z]])
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([TIME[2012-09-25T12:39:00.000Z]], [TIME[2024-10-14T06:21:32.876Z]])
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[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1149] [CITE@ja-JP[神道史論叢 : 滝川政次郎先生米寿記念論文集]]
([[滝川政次郎先生米寿記念論文集刊行会]], [TIME[1984.5][1984]], [TIME[2025-07-02T03:11:48.000Z]], [TIME[2025-07-23T07:24:48.074Z]])
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]FIGCAPTION]

> (要登録)

]FIG]


[1150] 
[CITE@ja-JP[天皇の系譜と神話 3]], [[吉井巌]], [TIME[1992.10][1992]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-07T02:49:12.667Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2972871/1/177> (要登録)


[1155] [CITE@ja-JP[伊那 43(9)(808)]], [[伊那史学会]], [TIME[1995-09]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-27T05:40:39.156Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4431645/1/11?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)


[1157] 
[CITE@ja-JP[万葉集論攷 1]], [[森淳司]], [TIME[1979.12][1979]], [TIME[2025-10-29T01:48:45.000Z]], [TIME[2025-11-25T11:08:10.309Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12452273/1/6> (要登録)


[1167] 
[TIME[2025-12-18T14:26:00.00Z]]
<https://meiji.repo.nii.ac.jp/record/12916/files/jinbunkagakukiyo_16_2-1.pdf>
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