* 辛丑後

[45] 
[DFN[辛丑後]]は[[清]]末に使われた[[紀年法]]の1つです。

[12] [[章炳麟]]が辛丑後238年12月、
辛丑後240年と書いた例が知られています。
日付は[[農暦]]とされます。
[SEE[ [[清末民初の日時]] ]]

[27] 
[[辛丑後]]の解釈について、

- [50] 
[TIME[辛丑(1661)年][1661]]を第1年と数えたときの第238年で、
[TIME[西暦1898年戊戌][1898]]に当たる
[SRC[>>19 ([CITE[章太炎年譜長編]], [TIME[1979]]]]
[TIME[y~1725]]
- [49] 
[TIME[辛丑(1661)年][1661]]の次の[TIME[清康煕元(1662)年壬寅][1662]]を第1年としたときの第238年で、
[TIME[西暦1899年][1899]]に当たる
[SRC[>>19]]
[TIME[y~3806]]

の2説があります。

[29] 
後者の説においては、
前者の説は時期や本文記述等の検討により否定されています。
[TIME[辛丑(1661)年][1661]]は明永暦帝の治世の最終年で、
[[漢民族]]が無主となった「辛丑後」時代に含めるべきものではないのだとされます。
[SRC[>>19]]

[17] 
後者説は[TIME[昭和29(1954)年][1954]]に既に[[日本]]の研究者に採用されていますが、
その同定の根拠は示されていませんでした。
[SRC[>>16]]
この説が採用されることが多いようです [SRC[>>21 (>>19), >>20, >>22 (>>19), >>23 (>>19)]]。

[13] 
[CITE[支那亡国二百四十二年紀念会啓]]
は[[日本国]][[東京府]][[東京市]]の[[清国人]][[漢民族]]留学生らの団体の発起趣意書で、
[[章炳麟]]を筆頭に数名が署名していました。
[SRC[>>5]]

[14] 
なお同書所収の会則には
「陽暦四月廿七号午前十一時」
のような[[日時表示]]があり、
[[日本]]で[[日本]]式の表記を使っていたことがわかります。
(なお[[号]]は[[中文]]の[[口語]]の表現。)

[15] 
[[日本]]に残る資料から、
この集会が開催されたのは[TIME[明治35(1902)年][1902]]であることは確かなようです。
[SRC[>>5]]

[51] 
[CITE[支那亡国二百四十二年紀念会啓]]
の辛丑後242年が開催と同年で間違いないのだとすると、
前者の説と整合しています。
[[章炳麟]]が関与しているので、異説が同時期に共存していたと考えるのも難しそうです。

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [6] 
[CITE(.label)[支那亡国二百四十二年紀念会啓]]
「[DATA(.text)[辛丑後二百四十二年]]」
[SRC[>>5]]


]ITEMS]

[REFS[

-
[16] 
[CITE[[V[章炳麟の民族思想 [WEAK(smaller)[(上)]]]]]],
[[[V[小野川秀美]]]],
[TIME[1954-04-30]],
[TIME[2021-09-06T09:28:14.000Z]], [TIME[2023-03-10T06:47:46.483Z]] <https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/138997/1/jor013_1-2_059.pdf#page=12>
- 
[18] 
[CITE[[[章太炎全󠄃集]] (三)]]
--
[19] 
[CSECTION[[V[前󠄁言]]]] ([[明朝体]]), 
[[[V[朱維錚]]]],
[TIME[一九八󠄂二年十月][1982-10]],
pp.[V[一]]-[V[二二]]
- [5] 
[TIME[2023-03-10T06:15:23.700Z]]
<https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/download/3539>
- [21] 
[TIME[2021-05-04T05:43:43.000Z]]
<https://researchmap.jp/read0068043/published_papers/8235011/attachment_file.pdf>
#page=3

[FIG(quote)[

[FIGCAPTION[
[20] 
[CITE@en[CiNii Books - [[訄書]] 不分巻補佚1巻]], [TIME[2023-03-10T07:00:57.000Z]] <https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB19525044?l=en>
]FIGCAPTION]

>目録末に「于皇漢辛丑後二百三十八年[1901]十二月章炳麟識」とあり

]FIG]

- [22] [CITE[Microsoft Word - 373-1-楊鵬樺、王晨_英摘OK_v3.doc - 01_037_003_01_06.pdf]], [TIME[2019-10-18T00:55:48.000Z]], [TIME[2023-03-10T07:29:38.895Z]] <http://ccsdb.ncl.edu.tw/ccs/image/01_037_003_01_06.pdf#page=12>
- [23] 
[CITE[126-235-260.pdf]], [TIME[2022-09-30T08:01:09.000Z]], [TIME[2023-03-10T07:34:19.173Z]] <https://www.litphil.sinica.edu.tw/public/publications/newsletter/126/126-235-260.pdf#page=9>


]REFS]

* 亡国紀年

[28] 
[DFN[亡国紀年]]は[[清]]末に提唱されたとされることのある[[紀年法]]の1つです。
[SRC[>>26, >>1, >>2]]

[11] 
[DFN[支那亡国紀年]]という[[章炳麟]]の[[紀年法]]らしきものに触れた[[論文]]がありますが、
出典も説明も不十分で詳細不明です。
[SEE[ [[清末民初の日時]] ]]


[32] 
Yuán's Era と訳されることがあります。
[SRC[>>2]]
しかし Yuán (元?) は謎ですし、
「Chinese (Song Dynasty) lost China completely」
(宋朝?) 
という説明も謎で、
信憑性がありません。


[31] 
[[亡国紀年]]には[[明]]の滅亡によるもの、
[[清]]の入関によるものの2種類があったとされます。
[SRC[>>30]]


[REFS[

-
[26] 
[TIME[2023-03-21T05:10:17.900Z]]
<https://spc.jst.go.jp/cad/literatures/download/12426>
#page=4
-[30] 
[CITE[[V[中国近代と「二十世紀」[BR[]]⸺中国人の時間意識 (三) ⸺]]]],
[[[V[遊佐徹]]]],
[TIME[2020-09-14T03:02:13.000Z]], [TIME[2021-08-30T09:16:45.756Z]] <https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/53863/20160528123545957362/jfl_032_(109)_(122).pdf#page=12>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1] [CITE@ja[[[孔子紀年]] - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-24 15:32:08 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90%E7%B4%80%E5%B9%B4>
]FIGCAPTION]

> 有名な黄帝紀年や帝堯紀年、夏禹紀年、秦統一紀年、亡国紀年、共和紀年等々、多くの私紀年が登場し、どれもが自らの正当性を主張した。

]FIG]

-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2] [CITE[Taichuli | Project Gutenberg Self-Publishing - eBooks | Read eBooks online]]
([[Project Gutenberg]] 著, [TIME[2016-03-26 17:05:44 +09:00]] 版)
<http://www.gutenberg.us/articles/taichuli>
]FIGCAPTION]

> In the earlier 20th century, kinds of year marking system is released. Except Huángdì era, the following system are well-known,

>             Yuán's Era(亡国紀年),    Base on the year when Chinese (Song Dynasty) lost China completely

]FIG]
-- [25] 消滅確認 [TIME[2023-03-21T05:07:20.000Z]]

]REFS]

-*-*-

[33] 
先述の[[支那亡国二百四十二年紀念会]]は[TIME[西暦1902年][1902]]に[[日本]]で開催された[[清国人]]の団体とそのイベントです。
[SRC[>>3, >>4, >>10]]

[34] 
この会は「紀念」「記念」「紀年」と表記されることがあります。
この語は[[現代日本語]]では「記念」が正しいとされますが、
[[近代日本語]]までは「紀念」「記念」は混用され、
むしろ「紀念」をよく見かけます。
「紀年」も周年イベントの意では必ずしも誤用とはいえないところです。
[[日本語]]だけでなく[[中文]]でもこうした表記があり得ると思われます ([[要出典]])。

[35] 
会の名称それ自体が「亡国紀年」[[紀年法]]の年数と言えないこともないですが、
どちらかといえば[[周年]]を数えたもので、[[紀年]]的な[[性質は薄い][紀年法の成熟度]]かもしれません。
この会の趣意書の日付が「亡国[VAR[何]]年」
ではなく[[辛丑後]]表記であること
(>>6)
が、少なくてもその執筆時点で、
「亡国[VAR[何]]年」
の方は[[紀年法]]と認識されていなかった証左といえます。


[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[3] [CITE@ja[[[支那]] - Wikipedia]]
([TIME[2016-03-25 02:44:57 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E9%82%A3>
]FIGCAPTION]

> 1902年には、日本に亡命していた中国人共和主義者たちが、上野精養軒で「支那亡国二百四十二年記念会」を企画した。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[4] [CITE@ja[[[章炳麟]] - Wikipedia]]
([TIME[2016-03-24 07:05:01 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%A0%E7%82%B3%E9%BA%9F>
]FIGCAPTION]

> 1902年「支那亡国二百四十二年紀念会」を東京で開催する計画が立てられた。「支那亡国」とは南明永暦帝政権の滅亡を指し、開催予定日は明崇禎帝が自殺した日であって、それらを記念とすることにより満州王朝への復仇心の扇動を計画した。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE[テングリノール]], [TIME[2021-12-31T01:58:49.000Z]] <http://www.interq.or.jp/neptune/amba-omo/mt3r3.html>
]FIGCAPTION]

>以下、明朝の残党のうち最も後まで抵抗した永歴帝の一党が雲南を舞台として1660年に壊滅するまでの経緯についての記述が続く。反満を唱える共和主義者たちは、この年を完全な祖国滅亡の起点と位置づけ、1902年、亡命先の日本・横浜で 「支那亡国二百四十二年紀念会」 を開催しようとした。

]FIG]

]REFS]


* 明永暦紀年

[38] 
[DFN[明永暦紀年]] [SRC[>>7, >>8, >>37]]
は[[章炳麟]]が使った [SRC[>>7]] とされる[[紀年法]]です。

[9] 
[[元年]]は[TIME[西暦1661年辛丑][1661]]とされます。
[SRC[>>8, >>37]]

[44] 
[[日付]]は[[グレゴリオ暦]]とされます。 [SRC[>>40]]

[39] [[明の元号]]の[[永暦]]の元年ではなく、[[南明]]の滅亡年です。

[41] 
実質的に[[辛丑後]]と同じものです。[[辛丑後]]の通称または何らかの誤解で発生した名称でしょうか。
(ただし[[辛丑後]]は[[農暦]]の可能性が高いとされる点が違います。)

[42] 現在知られている出典はすべて[[日本]]の[[ウェブページ]]で、
[[紀年法]]をいくつも列挙したものです。

[43] 
もしかすると書籍か何かで共通の情報源があるのかもしれませんが、未発見です。

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[8] [CITE@ja[コラム1997_7-8]]
([TIME[2006-06-13 23:44:36 +09:00]] 版)
<http://www.shuiren.org/chuugoku/koramu/ko970708.htm#%E8%BF%91%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%90%84%E7%A8%AE%E7%B4%80%E5%B9%B4>
]FIGCAPTION]

>閑話休題、清が当に倒れようとする19世紀末~20世紀初頭にかけて、革命派・洋務派それぞれに独自の紀年をつくりました。
以下に挙げるのが、その代表的な所です。
>
,[SNIP[]],==
,明永暦紀年	,(紀元元年 後1661)
,[SNIP[]],==
> 使用者は、康有為・章炳麟・宋教仁・劉師培が代表的で、その著作や関係する雑誌・新聞等に用いられています。

]FIG]


-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[7] [CITE[More]]
([TIME[2016-03-26 17:21:56 +09:00]] 版)
<http://www.hosi.org/cgi-bin/more.cgi?2426357>
(消滅確認 [TIME[2021-05-04T05:50:05.600Z]])
]FIGCAPTION]

> 明永暦紀年         271   1 15  章炳麟

]FIG]
-- [36] 消滅確認 [TIME[2023-03-21T06:08:54.800Z]]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[37] 
[CITE[暦・記念日・出来事まとめスレ(8/29~)]], [TIME[2023-03-21T06:09:00.000Z]] <https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/anniversary/1125235921/4>
]FIGCAPTION]

>
4ぬるぽ女史 ◆IzXu3gqo6w 2005/08/28(日) 22:49:35ID:???
>
[PRE[
【8月29日の暦 その3】
チベット暦 2132年-6月25日 閏箕宿月      ホビット庄暦 2005年11月8日 Halimath
タイ佛暦 満2548年5月-9日 Sravana      バリ=シャカ暦 満1927年2月-10日 Karo
コプト暦 1721年12月23日 Misra      古アルメニア暦 1455年2月5日 Adam
イラン暦 1384年6月7日 Shahrivar      ヤズデギルド 1375年2月10日 Ordibehesht
黄帝生年紀年 4716年8月29日 劉師培     黄帝開国即位紀年 4703年8月29日 宋教仁
黄帝甲子紀年 4702年8月29日 黄節      黄帝紀年 4496年8月29日 『浙江潮』『江蘇』
檀君紀年 4338年8月29日 朝鮮暦日     共和紀年 2846年8月29日 章炳麟『教育今語雑誌』
建国紀元 2758年8月29日 ローマ帝国     孔子生年紀年 2556年8月29日 康有為
孔子卒年紀年 2483年8月29日 『強学報』     明崇禎紀年 崇禎378年8月29日 明(北京)最後の元号
明永暦紀年 345年8月29日 章炳麟     主体紀元 94年8月29日 金日成 
]PRE]

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[40] 
[CITE@ja[今は西暦2010年ですが他の暦は何年ですか?なにかの暦が2670年く... - [[Yahoo!知恵袋]]]], [[Yahoo! JAPAN]], [TIME[2023-03-21T06:18:19.000Z]] <https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1435224014>
]FIGCAPTION]

>
historia(n)1582さん
>
2010/1/13 22:41(編集あり)
>
[PRE[
●日付がグレゴリオ暦と同じ太陽暦

西暦(グレゴリオ暦)……………2010年
[SNIP[]]
[中国]明崇禎紀年 ………………383年
[中国]明永暦紀年 ………………350年
[SNIP[]]

]PRE]



]FIG]

]REFS]

-*-*-

[46] 
なお[[永暦]]の[[延長年号]]は[[清]]初に各地で使われました。
[SEE[ [[永暦]] ]]

* メモ


[24] [CITE[晚清“纪年”论争之文化解读-中国人民大学复印报刊资料]], [TIME[2023-03-20T14:06:39.000Z]] <http://rdbk1.ynlib.cn:6251/qw/Paper/293967>


>在晚清,纪年方式体现的是一种对现存秩序的反抗,这点再清楚不过了。钱玄同曾在年轻时做了一本《纪年检查表》,“于宋亡以后,徐寿辉起兵以前,均写‘宋亡后几年’,而附注曰‘伪元某某酋称某某几年’;于明亡之后,洪秀全起兵以前,均写‘明亡后几年’,而附注曰‘伪清某某酋称某某几年’;于洪秀全亡以后,民国成立以前,均写‘太平天国亡后几年’,而附注同上。”后来他回忆时也“颇自笑其过于迂谬”,只是想表明其“当年排满之心理”[8](p115)。这是年轻的钱玄同对于现存制度不满时所能找到的最有效的资源。


