[14] 
太古の昔には現行[[干支紀年法]]・[[十二支年]]と異なる、それらの原形となった[[紀年法]]が使われていました。

* 紀年法の発展

[27] 
[[川原秀城]]は、
各国が独自の[[即位紀年]]を使っていた[[春秋戦国時代]]、
混乱を解消するために天象に基づく紀年法を模索したのが[[木星紀年法]]だと説明しています。
[SRC[>>16]]
ただしその根拠は説明していません。

[28] 
[[川原秀城]]は[[木星紀年法]]と[[干支紀年法]]の2つの[[紀年法]]に分けています。
また、[[木星紀年法]]から[[干支紀年法]]へは5段階で発展したと説明しています。
[SRC[>>16]]

= [55] [DFN[歳星紀年法]] [[戦国時代]]初期
= [39] [DFN[戦国期太歳紀年法]] 西暦紀元前4世紀頃
= [46] [DFN[顓頊暦紀年法]] 秦始皇帝元年 西暦紀元前246年から
== [47] [[顓頊暦紀年法]]の[[十干十二支]]紀年 秦漢移行期頃から
= [48] [DFN[太初暦太歳紀年法]] 太初元年 西暦紀元前104年から
= [49] [DFN[三統暦の太歳紀年法]] [[前漢]]末から
= [50] [[超辰法]]の不履行 [[後漢]]から, 元和2年改暦で完全廃止

;; [29] [[顓頊暦紀年法]]を2分して6段階ともいえるとしています。
その場合は最初の3紀年法が[[木星紀年法]]、残る4紀年法が[[干支紀年法]]ということでしょうか。

* 歳星紀年法

[118] 
[DFN[歳星紀年法]]は、
[[歳星]] ([[木星]]) の位置を使った[[紀年法]]です。
[[歳星]]の[[公転周期]]が約12年であることに基づき、
[[十二次]]を12年[[周期]]の[[年名]]として使います。

[51] [[戦国時代]]初期、
[[木星]] (歳星) の[[軌道面]]ないし[[天の赤道帯]]を12等分し、
[[十二次]]としました。
[[木星]]は1年に1次ずつ[[東]]に移動するものとしました。
[SRC[>>16]]

- [[星紀]]
- [RUBY[[[玄枵]]][げんきょう]]
- [RUBY[[[娵訾]]][しゅし]]
- [RUBY[[[降婁]]][こうろう]]
- [RUBY[[[大梁]]][たいりょう]]
- [RUBY[[[実沈]]][じっちん]]
- [RUBY[[[鶉首]]][じゅんしゅ]]
- [[鶉火]]
- [[鶉尾]]
- [[寿星]]
- [[大火]]
- [[析木]]

[52] このうち[[星紀]]の中央に[[太陽]]がきたとき[[冬至]]に当たるとしました。
[SRC[>>16]]

;; [4] [[印度]]にもこれと対応関係の概念が存在します。
[SEE[ [[印度木星紀年法]] ]]

[53] 
[[歳星紀年法]]は[CITE[春秋左氏伝]]や[CITE[国語]]に見えます。
[SRC[>>16]]

[117] 
[CITE[春秋左氏伝]]
の大体は[[魯公]]の[[即位紀年]]を使っていますが、
稀に[[歳星]]の位置で[[紀年]]しています。
[SRC[>>116]]

[200] 
>>188
は[[十二次]]の[[分野]]の名前を[[紀年法]]として用いたものではないとしています。
[[十二支]]で呼ばれるようになるまでは[[紀年]]に用いたとは考えられず、
[[分野]]は専ら[[占星術]]で用いられたのだとしています。
[SRC[>>188 /124]]
[[分野]]は地方を表すのであり、
それで[[歳]]を表すことができず、
実際に[[分野]]の名によって[[歳]]を示したものはないのだと説明しています。
[SRC[>>188 /127-/128]]
ただし具体的な根拠を示して論証しているわけではありません
(>>188 の著者としてはそれなりに根拠を示したつもりかもしれませんが: >>203)。

[201] 
当時[[紀年法]]として主として[[即位紀年]]が用いられたことは、
古くから伝わる文献や[[金石文]]を見ると確実と考えられています。
[[紀年]]と共に[[木星]]の位置が記録されたとしても、
それが[[即位紀年]]に匹敵するような[[紀年]]の重要な構成要素の位置にあったのか、
[[暦注]]のような補助的位置付けだったのかは検討の余地があるといえます。

;; [202] 
もちろんそれらは排他的ではなくグラデーションで、
例えば今日の[[七曜]]が暦注的性格でありながら局所的には[[暦日]]の特定のために使われる
(例えば「次の会議は今月の第2金曜日です。」のように[[紀日法]]として機能しています。)
ように、中間的な性格もあり得ます。
また、後世の事例から常用、記録用、占術用といった用途の違いも予想されます。

[13] 
なお[[新城博士]]は、[CITE[左伝]]や[CITE[国語]]の[[歳星]]位置は冬至の実見ではなく、
後の時代の不完全な推算だと結論付けています。
[SRC[>>9]]



-*-*-

[38] [CITE[顓頊暦元と歳星紀年法]]
([TIME[2016-04-11 13:14:57 +09:00]])
<https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/66667/1/jic059_323.pdf>

[6] [CITE@ja[近代デジタルライブラリー - 戦国秦漢の暦法]]
([TIME[2016-02-08 12:34:28 +09:00]] 版)
<http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1063831>


[40] [CITE@ja[暦Wiki/十二次 - 国立天文台暦計算室]]
([TIME[2019-05-30 14:38:08 +09:00]])
<https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/BDBDC6F3BCA1.html#t7ba0e03>


[42] ([TIME[2016-02-13 17:31:00 +09:00]])
<http://www.wa.commufa.jp/tora/thedayafter/calender/saisei.htm>


[82] [CITE[密教文化 Vol. 1956 No. 35 001加地 哲定「大術暦考 (続々) P1-18」.pdf]], [TIME[2017-07-31T07:16:05.000Z]], [TIME[2023-02-16T13:28:36.015Z]] <http://echo-lab.ddo.jp/Libraries/%E5%AF%86%E6%95%99%E6%96%87%E5%8C%96/%E5%AF%86%E6%95%99%E6%96%87%E5%8C%96%20Vol.%201956%20No.%2035/%E5%AF%86%E6%95%99%E6%96%87%E5%8C%96%20Vol.%201956%20No.%2035%20%20001%E5%8A%A0%E5%9C%B0%20%E5%93%B2%E5%AE%9A%E3%80%8C%E5%A4%A7%E8%A1%93%E6%9A%A6%E8%80%83%20(%E7%B6%9A%E3%80%85)%20%20P1-18%E3%80%8D.pdf#page=12>

* 戦国期太歳紀年法



[54] 
[[天の赤道]]を12等分した区分に[[十二辰]]: [[子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥]]があります。
[[十二辰]]と[[十二次]]や[[木星]]の運行は[[一対一対応]]しますが、
順序が正反対でした。
[SRC[>>16]]

[56] 
西暦紀元前4世頃、
[[歳星]]の[[円軌道]]の1本の[[直径]]に対して[[線対称]]の位置にある[[天体]]を想定し、
[[太歳]], [[歳陰]], [[太陰]]などと称するようになりました。
[SRC[>>16]]

[58] 
[[太歳]]は[[木星]]と逆方向、[[十二辰]]と同じ順序で運行します。
[SRC[>>16]]

[59] 
この[[十二辰]]を使った[DFN[太歳紀年法]]が使われるようになりました。
[SRC[>>16]]

[FIG[ [57] [[戦国時代]]の[[木星]]の[[十二次]]と[[太歳]]の[[十二辰]] 

[PRE(aafig)[
                   戌      亥
                    ^       ^
            酉  降婁|   娵訾|     子
             ^  |   |   |   |      ^
     申  大梁|  |   |   |   |  玄枵|     丑
      ^  |   |  |   |   |   |  |   |      ^
  実沈|  |   |  |   |   |   |  |   |  星紀| ↖ 木星
  |   |  |   |  |   |   |   |  |   |  |   |
---------------------------------------------
  |   |  |   |  |   |   |   |  |   |  |   |
  |鶉首  |   |  |   |   |   |  |   |  |析木  
  v      |   |  |   |   |   |  |   |  |
  未     |鶉火  |   |   |   |  |大火  |
         v      |   |   |   |  |      v
         午     |鶉尾   |寿星  v      寅 ↙ 太歳
                v       v      卯
                巳      辰
]PRE]

;; [122] 
>>16 の図1を参考に作成。
元は >>11, >>116 の[[歳陰紀年法]]の図。

]FIG]

[60] 
[[太歳紀年法]]は[CITE[呂氏春秋]]に見えます。
[SRC[>>16]]

[63] 
[CITE[国語]]や[CITE[春秋左氏伝]]や[CITE[呂氏春秋]]の紀年と実際の[[木星]]の位置との星次差から、
これらは星次差が0となる西暦紀元前4世紀頃に行われたものと考えられています。
[SRC[>>16]]


[134] 
[[新城博士]]は、
[CITE[春秋左氏伝]],
[CITE[国語]]
の[[歳星]]記事の研究から、
西暦紀元前365年を甲寅歳とする[[超辰]]のない[[太歳紀年法]]の存在を立証しました。
[SRC[>>116]]

[139] 
この[[暦元]]は、[CITE[淮南子]][CSECTION[天文訓]]に
「太陰元始建于甲寅」
などとあることによります。
しかし[[干支紀年]]の現存最古は[CITE[淮南子]]であり、
西暦紀元前365年頃は[[歳星]]が12年で1周天することを初めて知り得た頃で、
[[十二辰]]に限られ[[十干]]は未だ用いられなかったと考えられています。
[SRC[>>116]]


[HISTORY[

[135] 
[CITE[呂氏春秋]]
の秦8年記事について、
[[王引之]]の[CITE[太歳考]]は、
秦6年の誤りとする許氏周生の説を取りました。
そうすると[[現行干支紀年法]]と一致します。
[SRC[>>116]]

[136] 
[[新城博士]]は、
記事にあるような「秋甲子朔」を満たすのは秦始皇8年で、
前後10年にないことを指摘しました。
[SRC[>>116]]

]HISTORY]



[HISTORY[

[119] 
[[歳星]]の鏡像の架空[[天体]]には、
[[太歳]],
[[太陰]],
[[歳陰]]といった呼称があります。
[SRC[>>116]]

[120] 
古来これらの区別は深く考えられていませんでした。
[SRC[>>116]]

[121] 
[[清]]の[[銭大昕]]は[CITE[十駕斎養新録]]巻十七[CSECTION[太陰]]条で、
[[太歳]] ≠ [[太陰]] = [[歳陰]]であって、
[[太歳紀年法]]と[DFN[太陰紀年法]] = [DFN[歳陰紀年法]]には2辰の差があるとしました。
[[漢]]初には太陰(紀年法)が用いられた
([CITE[史記]],
[CITE[淮南子]],
[[石氏]],
[[甘氏]]など)
とし、
[[太初]]の頃には太歳(紀年法)が用いられたとしました。
[SRC[>>116]]
(>>168 も参照。)

[125] 
[[清]]の[[王引之]]は[CITE[太歳攷]]で史料の詳細な検討などにより、
[[太歳]] = [[歳陰]] = [[太陰]]であることを論証しました。
以後多くの研究者がこれを支持し、
[[太歳紀年法]]と[[太陰紀年法]]の区別が存在しないことは通説となっています。
[SRC[>>116]]

[126] 
ただ[[銭大昕]]説に基づく不正確な解説は今も残っています。

[101] 
>>34 は[[顓頊暦紀年法]]を[[太歳]]、それ以前のものを[[太陰]]と呼んで区別したとしています。

[127] 
>>44 は[[歳星紀年法]]が[[太歳紀年法]]や[[太陰紀年法]]に発展したとしています。
しかしその両者の違いは説明していません。

]HISTORY]

[HISTORY[

[128] 
[[清]]の[[王引之]]は、
[[歳星]]と[[太歳]] = [[歳陰]] = [[太陰]]の関係に2通りの方法があると考えました。
[SRC[>>116]]

[129] 
[[清]]の[[董祐誠]]の[CITE[太歳弁]]は、
[[歳星]]が実際には1年に1次に満たないのに対して[[太歳]]は1年に1辰進むため、
長い年月で次第に関係が相違していくことに原因を求めました。
[SRC[>>116]]

[130] 
[[日本]]の[[新城博士]]は、
戦国期の[[太歳紀年法]]、
[[顓頊暦紀年法]]、
[[現行干支紀年法]]と[[紀年法]]が変遷してきたことを具体的に論証しました。
[SRC[>>116]]


]HISTORY]

[REFS[


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[44] [CITE@ja[[[太陰紀年法]](たいいんきねんほう)とは - コトバンク]]
([[,世界大百科事典内言及]] 著, [TIME[2016-02-08 13:01:32 +09:00]] 版)
<https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E9%99%B0%E7%B4%80%E5%B9%B4%E6%B3%95-1357619>
]FIGCAPTION]

> 歳星紀年法は太歳紀年法や太陰紀年法(木星の鏡像の位置によって年を表す方法)に発達したが

]FIG]

[34] [CITE@JA[[[天武天皇]]の年齢研究-干支と太歳]]
([TIME[2018-04-28 11:21:54 +09:00]])
<http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-g12.htm>


]REFS]

-*-*-





[30] [CITE@ja[太歳 - Wikipedia]]
([TIME[2015-12-18 12:27:48 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%AD%B3>

[31] [CITE@ja[干支 - Wikipedia]]
([TIME[2015-12-30 20:04:29 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF#.E5.A4.AA.E6.AD.B3.E7.B4.80.E5.B9.B4.E6.B3.95>

[32] [CITE@ja[旧暦で閏年のある年を太歳(大才)と呼んでいたか分かりますか?... - Yahoo!知恵袋]]
([TIME[2016-07-07 10:36:23 +09:00]])
<http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12161327442>

[33] ([TIME[2016-02-13 17:31:01 +09:00]])
<http://www.wa.commufa.jp/tora/thedayafter/calender/taisai.htm>


[35] ([TIME[2012-06-14 20:14:41 +09:00]])
<http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/science/shinjyoshinzo/saisei-kiji.pdf>

[36] ([TIME[2012-06-14 20:14:20 +09:00]])
<http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/science/shinjyoshinzo/saden-kokugo-2.pdf>

-[37] ([TIME[2012-05-29 22:13:39 +09:00]])
<http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/IijimaTadao/mokusei-kinen-utf.pdf>
-[89] [CITE@ja-JP[支那古代史と天文学]], [[飯島忠夫]], [TIME[1939]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-02-16T14:32:47.547Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1875304/1/41> (要登録)

* 顓頊暦紀年法


[65] 
[[木星]]の[[公転周期]]は11.86年で12年より少し短いため、
[[元期]]から約85年で1次のずれが生じます。
[SRC[>>16]]

[66] 
秦始皇帝元年 (西暦紀元前246年)、
[DFN[顓頊暦紀年法]]が使われるようになりました。
[SRC[>>16]]

[68] 
[[戦国期]]と比較して[[顓頊暦]]では[[木星]]は3辰、
[[太歳]]には1辰の差があります。 [SRC[>>16]]


[FIG[ [64] [[顓頊暦]]の[[木星]]の[[十二次]]と[[太歳]]の[[十二辰]] 

[PRE(aafig)[
                   酉      戌
                    ^       ^
            申  大梁|   降婁|     亥
             ^  |   |   |   |      ^
     未  実沈|  |   |   |   |  娵訾|     子
      ^  |   |  |   |   |   |  |   |      ^
  鶉首|  |   |  |   |   |   |  |   |  |玄枵 ↖ 木星
  |   |  |   |  |   |   |   |  |   |  |   |
---------------------------------------------
  |   |  |   |  |   |   |   |  |   |  |   |
  |鶉火  |   |  |   |   |   |  |   |  |星紀  
  v      |   |  |   |   |   |  |   |  |
  午     |鶉尾  |   |   |   |  |析木  |
         v      |   |   |   |  |      v
         巳     |寿星   |大火  v      丑 ↙ 太歳
                v       v      寅
                辰      卯
]PRE]

;; [123] 
>>16 の図1を参考に作成。
元は >>11, >>116 の[[太歳紀年法]]の図。


]FIG]

[69] 
[CITE[五星占]]や[CITE[漢書]][CSECTION[律暦志]]に[[顓頊暦紀年法]] ([[十二辰]])
がみえます。
[SRC[>>16]]

** 顓頊暦系干支紀年法

[141] 
その後[[十干]]を併用した[[十干十二支]]で[[紀年]]する方法が使われるようになりました。

[71] 
[CITE[淮南子]][CSECTION[天文訓]]が[[干支紀年]]の初出とされます。
[SRC[>>16, >>116]]

[138] 
[[清]]の[[銭塘]]の[CITE[淮南天文訓補注]]は、
[CITE[淮南子]]の淮南元年記事などから、
[[顓頊暦]]の推算であることを実証しました。
[SRC[>>116]]


[140] 
[CITE[漢書律暦志の研究]]は、
[[顓頊暦]]の採用されるに及んで[[十干]]を組み合わせて[[六十干支]]に拡張されたとみるのが自然だとしました。
[SRC[>>16]]
ただし厳密にその時期であることに特に根拠は示していません。

[70] 
[[川原秀城]]は、
秦漢移行期頃、[[十干]]を併用した[[十干十二支]]を使うようになったとし、
[[顓頊暦紀年法]]の採用の次段階としています。
[SRC[>>16]]
>>69 と >>71 の時間差がその根拠のようです。


[187] 
>>186 は[[太初暦]]から[[干支紀年法]]を用いるようになったとしています。
「初出」という意味なら[CITE[淮南子]]がある以上明らかに誤りといえますが、
「公用あるいは常用(普及)の始まり」としてはこの説も検討の余地があります。


[REFS[

- [186] 
[CITE@ja-JP[干支の書]], [[現代企画]], [TIME[1984.10][1984]], [TIME[2024-11-28T09:48:19.000Z]], [TIME[2024-12-24T03:12:16.354Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12609186/1/31> (要登録)

]REFS]

* 太初暦の紀年法


[181] 
漢太初元年、[[秦]]以来の[[顓頊暦]]から新たに制定された[[太初暦]]へと[[改暦]]されました。
これに伴い[[干支年]]は従来より1年先に進みました。

;; [182] 後の[[三統暦]]の[[超辰法]]ではありませんが、1回分の[[超辰]]の実施に相当する変更となりました。

[183] 
[[太初暦]]の[[干支紀年法]]は、[[現行干支紀年法]]と同じものです。


** 太初歳名問題

[184] 
太初元年の[[干支年]]については少なくても3通りが記録されています。

- 丙子 >>147 : [[顓頊暦紀年法]]
- 丁丑 >>157 : [[現行干支紀年法]] (最終[[太初暦]]の[[紀年法]])
- 甲寅 >>161 : [[[CITE[史記]]太初暦]]の[[紀年法]] (初期[[太初暦]]案の[[紀年法]])

[185] 
その事情は完全には解明されていませんが、
[[改暦]]に伴う記録の混乱と理解されています。

-*-*-

[147] 
[CITE[漢書]][CSECTION[律暦志]]に、
太初元年は太歳在子の年であるとも、
丙子歳であるとも書かれています。
[[顓頊暦紀年法]]と一致しており、[[現行干支紀年法]]とは[[1年ずれ]]があります。
[SRC[>>146]]

[114] 
[CITE[漢書]]所引[CITE[漢志]]に太初元年は[[困敦]] ([[子]]) 歳とあります (>>106)。

[115] 
この記述は、
[[三統暦]]の[[超辰法]]により[[現行干支紀年法]]と西暦紀元前95年で不連続で[[1年ずれ]]が発生するため、
[[現行干支紀年法]]の丁丑ではなく丙子であるものと説明されています。
[SRC[>>107]]


-*-*-

[157] 
[CITE[続漢書]][CSECTION[律暦志]]に、
[[太初暦]]は丁丑からとあり、
太初元年が丁丑歳であると解されています。
[[現行干支紀年法]]と一致しています。
[SRC[>>146]]



[158] 
[CITE[漢書]][CSECTION[礼楽志]]に、
太初4(西暦紀元前101)年を[[執除]] ([[辰]]) 歳との記述があります。
[[現行干支紀年法]]と一致しています。
[SRC[>>146]]

;; [159] 
[[新城博士]]は[CITE[漢書]]編纂者が当時の[[紀年法]]で推算して太初4年と書いた可能性を指摘して重視していませんが、
[CITE[漢書律暦志の研究]]
は[[顓頊暦紀年法]]から[[現行干支紀年法]]への移行の年代決定のため無視できないとしています。
[[顓頊暦紀年法]]や[[三統暦超辰法]]によれば[[卯]]歳となります。
[SRC[>>146]]

-*-*-

[161] 
[CITE[史記]][CSECTION[暦書]]所引[[武帝]]改暦詔書に、

>其更以七年為太初元年。年名焉逢摂提格。

とあります。[[焉逢]][[摂提格]]は[[甲寅]]です。
[SRC[>>146]]

[162] 
[CITE[史記]][CSECTION[暦術甲子篇]]に、
太初元年が焉逢摂提格とあります。
[SRC[>>146]]

[163] 
[CITE[漢書]][CSECTION[律暦志]]で[[太初暦]]改暦過程の[[太初本星度新正]]と関係して、

>
乃以前暦上元泰初四千六百一十七歳、至於元封七年、復得閼逢攝提格

とあります。
[SRC[>>146]]

[175] 
[[新城博士]]は太初元年を[[甲寅]]とするものを[DFN[太初暦紀年法]]と呼びました。
[SRC[>>146]]

;; [176] ただ、この[[太初暦]]初期案とされるものの[[紀年法]]を[[太初暦紀年法]]と呼ぶのは誤解を招くので、
好ましくないと思われます。

;; [177] 
一方で、[[新城博士]]のこの分野での功績を考えると[[新城博士]]の[[論文]]抜きに議論することは難しく、
これと異なるものを[[太初暦紀年法]]と呼ぶこともまた混乱のもとであり躊躇されます。
[[太初暦紀年法]]という用語は使わないのが賢明でしょう。


-*-*-

[160] 
[[清]]の[[王引之]]の[CITE[太歳攷]]では、
太初元年は[[改暦]] ([[改正月]]) のため15ヶ月あり、
前11月には太歳在子、
年後半には太歳在丑となるべきであることから、
これをもって従来の[[顓頊暦紀年法]]から翌年以後の[[現行干支紀年法]]に移行したものと考えました。
[SRC[>>146]]

[72] 
[[川原秀城]]は、
[[太初暦]]も[[木星]]の位置から歳名を決めたのは従来と同じでありながらも、
太初元年が15ヶ月で、
1年間に木星が1辰を超えたので、
この年の[[干支]]、紀年の[[元期]]が ([[顓頊暦紀年法]]なら丙子となるところ)
1つ先の丁丑と改められたのだと説明しています。
[SRC[>>16]]


[164] 
[CITE[漢書律暦志の研究]]
は、
甲寅 (閼逢攝提格)
は[[太初暦]]の制定初期段階の案で、
鄧平案の段階では採用されなかったものが[CITE[史記]]に残ったと考えています。
[SRC[>>146]]
[SEE[ [[四分暦]] ]]

[165] 
[[甲寅]]は、[[暦元]]の[[日干支]]を[[甲子]]とするようなもので、
或る種の[[紀年法]]で原始を意味する[[干支]]となっています。
[SRC[>>146]]

- [166] [[殷暦]]では[[甲寅]]歳を[[上元]]としています。
- [167] [CITE[淮南子]][CSECTION[天文訓]]に
「太陰元始。建于甲寅。」
と[[紀年法]]は[[甲寅]]から数えるべきと説いています。


[HISTORY[

[168] 
[[清]]の[[銭大昕]]は、[[太歳紀年法]]では[[丙子]]、
[[歳殷紀年法]]では[[甲寅]]になると考えました。 (>>121)
[SRC[>>146]]


]HISTORY]

[170] 
[[清]]の[[張永祚]]は、
>>163
の
4617年は[[三統暦]]の[[元]]であり、[[干支]]の復帰する年数ではなく、
「復得閼逢攝提格」
と相応しないことを指摘しました。
[SRC[>>146]]

[HISTORY[
[171] 
[[清]]の[[銭大昕]]は、
144年で[[超辰]]するので4617年で初めに戻るとしました。
しかしこれは計算の誤りであること明らかです。
[SRC[>>146]]
]HISTORY]

[169] 
[[清]]の[[王引之]]は、
>>163
の
「前歴」
からこの文が[[殷暦]]を説明するものと解釈し、
4617歳は4560歳 ([[四分暦]]の[[元]]) に、
太歳在子は太歳在寅に訂正するべきだと主張しました。
[SRC[>>146]]

[172] 
[[清]]の[[董祐誠]]は、
[[王引之]]説を概ね認め[[太初暦]]当初案が[[殷暦]]であり太初元年を甲寅歳としていたものとしましたが、
太歳在子については反対しました。
[SRC[>>146]]

[HISTORY[

[173] 
[[新城博士]]は、
[CITE[史記]][CSECTION[暦書]]では[[年]]名だけでなく[[月]]名も合わないことから、
どちらも元始の年、元始の月という意味に過ぎないとしました。
また、
>>163 の「復得」は1元を経て日月の元始状態 (歳星は含まれない) 
に復するの意味だとしました。
つまり訂正は必要しないと考えました。
[SRC[>>146]]

[174] 
しかし
[CITE[史記]],
[CITE[漢書]]
を比較すればどちらも同じ[[太初暦]]初期案であること明らかで、
一方を元始の意味、一方を甲寅歳の意味と解している[[新城博士]]の説は不自然です。
[SRC[>>146]]

]HISTORY]

[178] 
[[王引之]]と[[董祐誠]]は、「前暦」と読みました。
[CITE[漢書律暦志の研究]]
はこれに賛同し、
その場合は前暦、すなわち[[四分暦]]の[[元]]である4560年に改訂することが必然であるとしています。
[SRC[>>146]]

[179] 
[[新城博士]]は「乃ち以前、上元泰初を歴ること四千六百一十七歳にして、元封七年に至り」
と訓みました。
[SRC[>>146]]

[180] 
[CITE[漢書律暦志の研究]]
は太歳在子については未解決としています。
[SRC[>>146]]

[HISTORY[

[203] 
>>188 はこうした有力説とは少し違った説を唱えています。
その論拠には疑わしい点がいくつかあり、
そのままでは成立し難いと思われますが、
検討の余地がある興味深いアイディアもいくらか含まれます。

- [208] 歳名は[[歳星]]と[[歳陰]]の両方の位置を同時に表しています。
-- [209] 
[[攝提格]]は[[歳星]]が[[丑]]、[[歳陰]]が[[寅]]、
[[単閼]]は[[歳星]]が[[卯]]、[[歳陰]]が[[子]]、
といった具合です。
[SRC[>>188 /122]]
-- [210] 
[[前漢]]末、[[星紀]]は星が聚まり散るところと考えました。
その頃[[冬至点]]が[[星紀]] (丑) の位置にありました。
[[歳星]]は[[子]]へ、[[歳陰]]は[[寅]]へと運行すると考えました。
[SRC[>>188 /122]]
-- [211] 
[CITE[史記]][CSECTION[天官書]]や[CITE[淮南子]]は説明なく[[歳陽]]と[[歳陰]]の位置を
>>209 のように挙げています。
[SRC[>>188 /122-/123]]
-- [212] 
しかし[[後漢]]の頃には[[歳星]]との関係は忘れられ[[太歳]]との関係だけで説かれるようになっています。
[SRC[>>188 /127-/129]]
- [204] 太初元年は、[CITE[史記]]にある通り、[[攝提格]]歳です。
[SRC[>>188 /133]]
-- [205] 天測によって得られたものです。
[SRC[>>188 /133]]
--- [206] 同時代の[[司馬遷]]が間違えるはずがありません。
[SRC[>>188 /131]]
--- [207] 仮託の紀年を書くはずがありません。
[SRC[>>188 /131]]
甲は[[十干]]の最初だからいいとして、
寅とする理由がありません。
[SRC[>>188 /130]]
-- [213] 現在の天文学で逆算すると、
太初元年の[[歳星]]は[[寅]]から[[星紀]] ([[丑]]) にありました。
[[太歳]]は[[丑]]から[[寅]]にあったことになります。
すなわち[[攝提格]]歳です。
[SRC[>>188 /131]] 
-- [214] 
[CITE[漢書]]の記述は[[劉歆]]の説で逆算したものに過ぎません。
[SRC[>>188 /132-/133, /138-/140]]
--- [224] 
[CITE[呂氏春秋]]の秦8年の歳名も[[前漢]]末以後の書入れです。
[SRC[>>188 /139-/140]]
- [219] 
現行の太歳干支紀年は地節3(西暦紀元前67)年から始まりました。
[SRC[>>188 /137]]
-- [220] 
[[太初暦]]への反対は元鳳6年に決着しました。
第2章の末 = 地節3年まで残り8年です。
[SRC[>>188 /136-/137]]
-- [221] 
[CITE[史記]]によると地節2年が[[攝提格]]歳です。
つまり地節3年前11月 (地節2年11月) 冬至の[[太歳]]は[[寅]]にあります。
そこで地節3年を[[寅]]とし、以後[[十二支]]を続けていったと考えられます。
[SRC[>>188 /137]]
-- [223] 
甲は[[十干]]の最初。寅は[[歳星]]と[[太歳]]がわかれた最初。
元鳳6年に[[太初暦]]が強固となったので、
[CITE[史記]]に書かれた歳名に基づくのは当然です。
[SRC[>>188 /137]]
-- [222] 
このとき歳名を捨て、[[歳星]]を使わずに[[太歳]]のみによる[[十二支]]を採り、
[[十干]]を付けることが起こったと考えて良さそうです。
[SRC[>>188 /137]]
-- [215] 
[CITE[淮南子]]の干支は後世の注記です。
[SRC[>>188 /134]]
--- [216] 前後とそれほど関係ありません。
[SRC[>>188 /134]]
--- [217] [CITE[淮南子]]は歳名の説明はあっても[[干支年]]の説明をしていません。
[SRC[>>188 /134]]
--- [218] その年、[[木星]]は[[寅]]に、従って[[太歳]]は[[丑]]にあったはずです。
[SRC[>>188 /134]]

;; [225] 
[CITE[史記]]
を太初元年と同時代の記録として重視し
[CITE[漢書]]
を後世のものとして軽視する方針が貫かれています。
この点、 
>>105
など通説が
[CITE[史記]]
の当該部分の同時代性を疑うと共に[[太初暦]]の原形の残滓とみなして[[太初暦]]の史料としての価値を低く見ることと真逆です。

[226] 
この説の問題点はいくつか指摘できますが、
特に重大なのは地節3年に制度改変があったことの根拠が皆無であることと、
[[[CITE[史記]]四分暦]]の歳名は重視する一方でその直前の[[十干]]異名はまったく無視していることでしょう。
[CITE[史記]]によれば地節2年は「商橫攝提格二年」なのですから、
これが「強固」になった[[太初暦]]の歳名だったなら攝提格 = 寅だけではなく商橫 = 庚も重視されていなければおかしいのですが、
何の説明もありません。
[[改暦]]しているわけではないのですから、
わざわざリセットせずともそのまま続きでも良かったはずです。
そもそも「強固」になった[[太初暦]]の歳名を廃止して[[干支年]]を新規導入する理由もありません。
[[冬至]]だから旧年の年名を新年にスライドしてもいいという理屈も謎です
(太初元年は15ヶ月あったので2年分進めたと説明が付けられますが、
地節2/3年はそのような特殊事情がありません)。

]HISTORY]

[HISTORY[

[227] 
>>92 は[[干支]]を解説したウェブサイトです。[TIME[平成13(2001)年][2001]]には存在したことが確認できますし、
原文は[[パソコン通信]]の投稿のようなので[[平成時代]]初期頃まで遡る可能性があります。
ここには[[干支年]]の起源について次のような解説があります。

>具体的には漢の武帝の太初元年(BC104)に三統暦が施行されますが、
この時に年に十干十二支が割り当てられることも始められたと記録
されています。この年の干支は戊寅です。逆算すると元朔元年(BC128)
が甲寅になります。
>
このあと、太初元年の36年後、地節2年(BC68)が甲寅になるのですが、
なぜか、その翌年の地節3年(BC67)も同じ甲寅にされています。それ
以降はこういう干支の閏は一切行われず、単純に60年周期で干支が
繰り返されています。

>太初の時に年の干支を子ではなく寅から始めたのは、いわゆる三正論に
よるものです。

>
[PRE[
  ・太初元年に施行されたのは「太初暦」であり、「三統暦」は元始年間に
    それが改造された改訂版である。両者は基本的な仕組みが同じであるた
    め、太初暦をも三統暦と呼んでいる文献がけっこうあるもよう。太初暦
    になくて三統暦で加わったものの中で最も重要なのは「超辰法」である。

  ・現在の干支が確かにBC67年以降継続していることはほぼ間違いない。

  ・太初元年の干支に関しては、現在のところ次の3つの説が従来から主流
    であった。
      「甲寅」説(史記の記述による)
      「丙子」説(漢書の記述による)
      「丁丑」説(BC67年からの単純逆算)

  ・私が信じていた「戊寅」説は最近出てきた説の一つで、史記の記述の
    「甲寅」をできるだけ生かそうというもの。BC68/67年の木星の位置
    からこの2年は干支がだぶったと考えると、太初元年を寅年にできる
    という所から来たもの。しかしこの説では史記の「甲」までは生かす
    ことができず「戊寅」にならざるを得ない。

太初元年(BC104)が甲寅で、またBC67年も甲寅ということに関しては、後代の
学者がみな頭を悩ました問題のようです。そのため色々な人が色々なことを
言っているのですが、大雑把にいうと次の2通りの意見に分かれるようです。

  ・BC67年に暦が改訂された時、干支も再び甲寅から始めた。
  ・太初元年を甲寅としたのは後世の干支から「超辰法」で逆算したことに
    より出てきたものである。
]PRE]

>ただしこの超辰は実際の所、一度も実行された形跡がないようです。太初
元年が甲寅であったとするのは後世の逆算結果、という考え方の場合、では
史記の記述はどうなるのだ?という所が一番痛い所のようです。
>
なにしろ史記を書いたのは司馬遷であり、その司馬遷は武帝に仕えていた
のですから、その自分の時代のできごとを間違える訳がありません。そこで
この説を採る場合は、史記の武帝の代に関する記述は、彼が武帝の機嫌を
そこねて宮刑に処せられた時に同時に破棄されてしまったとし、現存の
武帝の時代の記述は後世の人が増補したものである、という説を採らざる
を得ません(これも昔からある説のひとつのようです)。

>
ということで、私が再度資料をいろいろと見た現在のところの感想としては
太初元年に甲寅で暦を始めたが、地節3年(BC67年)にちょうど暦の閏の周期
が改まった時に、再度甲寅から干支を振り直した、といった所がいちばん
もっともらしいのではなかろうか、と思っています。

[228] 
こうした記述に個々に出典は明記されていませんが、文末にいくつか参考文献が挙げられています。
それらの内容と比較するに、ここに引用した部分の大部分は >>188 
に基づいているようです。
しかし細部が完全には一致してはいません。明記された参考文献の他に情報源がないとすると、
>>92 の著者の解釈または独自説ないし誤解ということになりますが、どうなのでしょう。

- [229] 
地節2年と地節3年について、 >>188 は地節2年が攝提格 (寅) 歳で地節3年が甲寅歳だと主張していますが、
>>92 ではどちらも甲寅年だったとしています。
-- [232] 
>>188 はそれが[[干支紀年法]]の端緒だとしていますが、 >>92 は[[閏]]の周期だといっています。
- [230] 
太初元年について、 >>188 は焉逢 (甲) 攝提格 (寅) 歳だったと主張していますが、
>>92 では甲にはならないので戊寅年だったことにしています。

[231] 
>>229 はそのように拡大解釈できる余地があるにしても、 >>230 は[CITE[史記]]を重視する >>188
著者の考えを無視して[[現行干支紀年法]]に無理に合わせようとしているのであり、
>>188 とは異なる説と言わざるを得ません。
しかし >>92 は自説ではなくそのような資料をみたような書きぶりです。
>>188 の後、昭和後期から平成初期の間に >>188 から派生した新説があったのでしょうか。

[235] 
この >>92 の説は[CITE[史記]]由来の[[攝提格]] ([[寅]]) 
だけを活かすために >>188 以上に多くの仮定や史料の無視が必要となるのであり、
よほど有力な新史料 (同時代[[金石文]]など) でもない限り、
成立しがたいというべきでしょう。

-*-*-

[233] 
[CITE[ウィキペディア]]の元号記事の表は、 >>188 を出典としつつ奇妙なことをしています。
[[太初]]では、太初元年の[[干支]]は4説あるとしています。 [SRC[>>45]]
[[地節]]では、地節2年と3年の[[干支]]を同じとしています。 [SRC[>>67]]
ところがこの3つの年以外はまったく[[現行干支紀年法]]そのものです。

[234] 
[[干支年]]は基本的には連続的に変わっていくものなのですから、
ある年の[[干支]]に異説があるならば、
その前後の[[年]]にも影響が及ぶのが当然です。
ある[[年]]だけ突然変異的に違う[[干支年]]を選び、その次の[[年]]には元の法則性に復した、
などという説は誰も唱えていません。
ですから前後の年の[[干支]]も[[現行干支紀年法]]のままでいいはずがありません。
前後も変更することが難しければ、すべて[[現行干支紀年法]]で統一し、
問題の指摘されている年に注釈を付すという方法で十分だったはずです。
現状は[[干支年]]という[[紀年法]]の性質に対する根本的な理解を欠いていると言わざるを得ません。



]HISTORY]


[REFS[

- [188] 
[CITE@ja-JP[宇宙動物園 : 干支のルーツを探る]], [[中村清兄]], [TIME[1983.9][1983]], [TIME[2024-11-28T09:48:19.000Z]], [TIME[2024-12-24T05:03:14.603Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12282288/1/5> (要登録)

[NOTE[

[189] 
>>188 はその題名からは予想がつかない濃い本でした。
[[十二獣]]、
[[干支年]]等、
[[占術]]でおよそ[FRAC[1][3]]ずつ、
それぞれ基本から専門的な事項まで詰め込まれています。
[[十二獣]]関連と占術以外の民俗・迷信的内容はあまりないものの、
[[十二支]]と[[干支]]の総合的な入門書として優れたものと見受けられます。

[190] 
著者は[TIME[明治43(1910)年][1910]]生まれ、[[京都帝国大学]]で[[考古学]]と[[遺伝学]]を専攻した後、
[[高等学校]]の[[教諭]]。
本書は
[CITE[茶道雑誌]]
の連載を基にしているとのことです。
[SRC[>>188 /195]]


[191] 
ただし通説と異なる著者の見解も含まれていることには注意が必要です。
にも関わらず、旧説を個別に詳しく検討することを省いているのは、
本書が学術論文というよりは入門書という形態であるが故なのでしょうが、
批判のため敬意を失することを恐れて名前 (と出典) を省いた
[SRC[>>188 /195]]
ことと合わせ、学術的には問題があります。
通説と異なる見解であっても傾聴の価値はあるものと見受けられ、
著者の学識の高さを暗示するものでもあるだけに残念なところです。


]NOTE]


-[5] [CITE@ja[干支(えと)はいつ頃から使われているのでしょう?(かなり専門的)]]
([TIME[2015-03-08 08:35:39 +09:00]] 版)
<http://www.ffortune.net/calen/calen/fromqa/qa106.htm>
-- [87] 消滅確認 [TIME[2024-12-21T11:57:37.100Z]]
-- [92] 
[CITE[干支(えと)はいつ頃から使われているのでしょう?(かなり専門的)]], [TIME[2024-12-21T11:56:56.000Z]], [TIME[2001-05-21T01:49:27.136Z]] <https://web.archive.org/web/20010521014921/http://www.ffortune.net/calen/calen/fromqa/qa106.htm>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[45] [CITE@ja[[[太初]] (漢) - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-08 10:31:51 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%88%9D_(%E6%BC%A2)>
]FIGCAPTION]

> 太初元年については以下の4種がある'''['''1''']'''。
- 丙子:『漢書』による。
- 甲寅:『史記』に「甲寅」とあることから。
- 丁丑:紀元前67年から単純に60年サイクルの逆算
- 戊寅:『史記』に「寅」とあることから。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[67] [CITE@ja[[[地節]] - Wikipedia]]
([TIME[2021-04-30T21:38:46.000Z]], [TIME[2021-05-07T07:39:39.658Z]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%AF%80>
]FIGCAPTION]

> 干支については2年、3年ともに甲寅となっている

]FIG]

]REFS]

* 超辰法

[194] 
[DFN[超辰]]は、
[[干支年]]と[[天象]] ([[歳星]]の[[公転]]) 
との同期のため、
ときに[[干支年]]を2年分進めるものです。
[[閏]]の一種といえます。

-*-*-


[74] 
[[前漢]]末、[[太初暦]]を改め[[三統暦]]が作られましたが、
[[超辰法]]が導入されました。
[SRC[>>16]]

[75] 
[[歳星]]や[[太歳]]は144年に1次を余分に進めて145次動くとされました。
12 ÷ [FRAC[145][144]] ≒ 11.917年の[[公転周期]]に相当します。
[SRC[>>16]]

[76] 
[[三統暦]]の[[暦元]]、[[三統上元]]は、
太初元年の143127年前です。
この年を丙子[SUB[12]]としました。
[SRC[>>16]]

[93] 
太初元年は[TIME[西暦-103年][-103]]なので、[[三統上元]]は[TIME[西暦-143230年][-143230]]となります。

[98] 
[[西暦年]] [VAR[ad]] の[[干支年]] [VAR[k]] は、

[FIG(math)[
[VAR[O]] = −143230

[VAR[k]] = (22 + [VAR[ad]] + ⌊ [FRAC[[VAR[ad]] − [VAR[O]]][144]] ⌋ ) % 60
]FIG]

で求められます。


[77] 
[[三統暦]]に従うと太初元年は丙子となります ([[顓頊暦紀年法]]相当)。
[TIME[大始2(西暦-94)年][-94]]に乙酉を飛ばして丙戌となります ([[太初暦紀年法]]相当)。
大始2年から後漢光武帝建武25年までは[[太初暦紀年法]]と[[三統暦紀年法]]が一致します。
つまり[[三統暦紀年法]]による過去の[[紀年]]は当時行われたものと一致しない場合があります。
[SRC[>>16]]

[78] 
[TIME[建武26(西暦50)年][50]]は[[三統暦]]によれば[[超辰]]して辛亥としなければならないはずですが、
庚戌とされました。
[SRC[>>16]]

[79] 
実施しなかった理由は難しすぎた、理解できなかったという説もあるようです。
[SRC[>>16]]


[142] 
歳名 ([[干支年]]) は[[前漢]]中期以後頻繁に史書に見え、
その頃通用が広まったものと見られます。
一般的になると不連続的に[[超辰]]することに不便が多く、
それが不実施の要因ではないかといわれます。
[SRC[>>116]]


;; [143] 
時代によって要員の技術・知識レベル差はあるとはいえ、
継続的に[[暦算]]し国の[[曆]]を運用している機関がまったく理解が及ばなくなるほど[[超辰]]が技術的に難解とも思われません。
たとえ[[改暦]]レベルの技術を持つ者がいなくても、
[[暦法]]通りに計算することはできたはずです。
理解できないから不実施というよりは、
不便を恐れての不実施という方が説得力を感じる説です。
あるいは不便を上回る[[超辰]]の理論的必要性を「理解」しなくなった、
論じられなかったというならまだわかります。
稀な現象を政治的に説明・説得するだけの政治力を担当機関が持ち合わせていなかったというのもありそうな話ですが、
詳しい調査・検討が必要です。




[195] 
[[漢]]の時代の
「竟寧元年太歳在戊子」
銘の[[瓦磚]]があります。
西暦紀元前33年に当たります。
[SRC[>>188 /123, >>81 29]]

[198] 
[[羅振玉]]の[CITE[俑廬日札]]によれば、
清光緒戊子(1888)年2月に無数に出土したものの、
多くは仏国人によって取り去られ、
[[羅振玉]]は拓本を見れただけだったとのことです。
[SRC[>>199]]
>>188 /123, >>197, >>199 に拓本があります。

[196] 
[[三統暦]]によれば[[超辰]]されているはずの時期ですが、
[[現行干支紀年法]]が使われていることが[[金石文]]からも確認できます。
[SRC[>>188 /123]]

[REFS[

-[199] 
[CITE@ja-JP[[[図解書道史]] 第2巻]], [[藤原楚水]], [TIME[1971]], [TIME[2024-11-28T09:48:19.000Z]], [TIME[2024-12-24T05:58:57.178Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12719490/1/31?keyword=%22%E7%AB%9F%E5%AF%A7%E5%85%83%E5%B9%B4%E5%A4%AA%E6%AD%B3%E5%9C%A8%E6%88%8A%E5%AD%90%22> (要登録)
- [197] 
[CITE@ja-JP[臨書聚英 上]], [[浅沼一道 '''['''ほか''']'''編集]], [TIME[1982.7.][1982-07]], [TIME[2024-11-28T09:48:19.000Z]], [TIME[2024-12-24T05:52:30.261Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12428831/1/13?keyword=%22%E7%AB%9F%E5%AF%A7%E5%85%83%E5%B9%B4%E5%A4%AA%E6%AD%B3%E5%9C%A8%E6%88%8A%E5%AD%90%22> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[80] 
元和2年に[[三統暦]]から[[四分暦]]に[[改暦]]されました。
このとき[[超辰法]]は廃止されました。
[SRC[>>16]]

[99] 
[TIME[令和6(2024)年][2024]]は現行[[干支紀年法]]で甲辰[SUB[40]]です。
[[三統暦紀年法]]の式 (>>98) によれば戊午[SUB[54]]になります。


-*-*-

[106] 
[CITE[漢志]][CSECTION[世経]]に、

>
漢曆、太初元年、距上元十四萬三千一百二十七歲。前十一月甲子朔旦冬至、歲在星紀婺女六度、故漢志曰歲名困敦、正月歲星出婺女。

とあります。 [SRC[>>107]]

;; [108] この箇所については[[三統暦]]も参照。

[109] 
[CITE[漢志]]曰くとして説明することから、
この太初元年の[[木星]]の位置は[[三統暦]]の作者[[劉歆]]の推算によるものだろうとされます。
[SRC[>>107]]

[110] 
実際の[TIME[太初元(-103)年][-103]]の[[天象]]は近代天文学によればこれとズレがあり、
太初元年の実測の結果ではありません。
差異を計算すると、太初元年の175年後 ([TIME[西暦72年][72]]) の実測値に基づく逆算となります。
[SRC[>>107]]

[111] 
[[劉歆]]が[[三統暦]]を完成させたのは、
[TIME[元始5(西暦5)年][5]]よりも後のこととされます。
これは >>110 と同時期と考えて差し支えないとされます。
[SRC[>>107]]

[112] 
[[超辰法]]はこの逆算に基づいた[[歳星]]位置に基づき計算されるもので、
従って[[太初暦]]当時のものではなく[[三統暦]]で定められたものと断定されます。
[SRC[>>107]]

[HISTORY[

[113] 
[[成蓉鏡]]は太初元年が[[困敦]]歳と書かれていることから[[太初暦]]から[[超辰法]]が存在したと考えましたが、
誤りです。
[SRC[>>107]]

]HISTORY]


[REFS[

- [105] [CITE[[[漢書律暦志の研究]]]]
-- [107] [CSECTION[[V[〔一三〕 超辰法と暦元]]]],
pp.[V[六八]]-[V[七〇]]
-- [116] 
[CSECTION[[V[〔一六〕太歳紀年法]]]],
pp.[V[七七]]-[V[八七]]
-- [146] 
[CSECTION[[V[〔一七〕太初の歳名]]]],
pp.[V[八七]]-[V[九二]]

]REFS]

[HISTORY[

[95] 
>>124 >>61
は86年に一度[[超辰]]すると説明しています。

[192] 
これは現在の[[天文学]]で知られる実際の[[木星]]の[[公転周期]]と[[三統暦超辰法]]の[[閏]]の頻度を混同したものです。

[100] 
>>34
は約85年ごとに1次ずれるので修正が必要と説明しています。
(85/6年ごとに[[超辰]]するとはいっていません。)
しかし >>34 は太初元年 (太初暦)、太始2年 (三統暦) と次々と[[超辰]]したとも説明しています。

[193] 
これは[[改暦]]による事実上の[[超辰]]や[[三統暦]]による[[超辰法]]の制定を[[超辰]]の実施と混同したものです。

]HISTORY]

[REFS[

- [124] [CITE[t201.pdf]], [TIME[2018-12-05T15:35:11.000Z]], [TIME[2023-04-19T15:45:37.103Z]] <http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/kaihou/t201.pdf#page=4>
-- [94] 消滅確認 [TIME[2024-12-21T14:30:57.000Z]]
-- [10] [CITE[Wayback Machine]], [TIME[2024-12-21T14:29:23.000Z]] <https://web.archive.org/web/20230618175329/http://furutashigakutokai.g2.xrea.com/kaihou/t201.pdf#page=4>

]REFS]

;; [7] 
[[超辰]]は、[[印度の木星紀年法]]にも存在し、実施されていたことがあります。


@@
[BOX[

[62] [CITE[十二支の起源と干支紀年は単純な60周期ではなかった! 時代や地域により異なること - NAVER まとめ]]
([TIME[2020-09-13T13:24:49.000Z]])
<https://matome.naver.jp/odai/2141189052752056601?page=1&grid=false>

[61] [CITE@ja[新江 利彦 (Toshihiko SHINE) - 研究ブログ - researchmap]], [[Japan Science and Technology Agency]], [TIME[2023-02-16T13:45:56.000Z]] <https://researchmap.jp/blogs/blog_entries/view/478418/f27697ca22778495fd65b8079c90677a?frame_id=973630>

[41] [CITE@ja[十二辰 - Wikipedia]]
([TIME[2019-09-15 15:12:36 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E8%BE%B0#.E5.A4.AA.E6.AD.B3.E7.B4.80.E5.B9.B4.E6.B3.95>

]BOX]

* その後

[SEE[ [[干支紀年法]], [[十二支年]] ]]

[131] 
現在用いられている[[干支紀年法]]は、
他との区別の必要があれば[DFN[現行干支紀年法]]のようにいわれます。
特に区別の必要がなければ単に[[干支紀年法]], [[干支年]]と呼ばれます。
[[十二支]]のみのものは[[十二支年]], [[十二獣年]]と呼ばれます。

[132] 
[[現行干支紀年法]]は、
[[殷暦紀年法]] ([SEE[ [[殷暦]] ]]) [SRC[>>116]],
[[太初暦紀年法]]と同じものです。

[133] 
[[現行干支紀年法]]は、
[[三統暦紀年法]]のうち、[[三統暦]]が用いられていた時代のものと同じであり、
[[超辰]]を実施しないものに当たります。


** 異種紀年法説

[1] 記録には、現在に続く[[干支紀年法]]が通用したはずの時代に、
現在に続く[[干支紀年法]]と解釈すると何年かのずれが生じてしまうものが散見されます。

[2]
それらを、[[現行干支紀年法]]と異なる[[紀年法]]によるものとする説があります。
実際のところそうした事例の多くは何らかの誤りだと考えられていますが、
実際に異なる[[紀年法]]によるものもいくつか混入している可能性があります。


[SEE[ [[異種干支紀年法説]] ]]



* 歲陽歲名

[90] [CITE@zh-TW[日知錄 : 卷二十 - 中國哲學書電子化計劃]], [[Donald Sturgeon]], [TIME[2023-02-19T13:05:23.000Z]] <https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=374063&#p16>



[91] [CITE[usukura.pdf]], [TIME[2011-10-28T05:04:54.000Z]], [TIME[2023-02-24T13:33:53.613Z]] <https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/619/619PDF/usukura.pdf#page=2>


* 用例

[81] [SEE[ [[木星紀年法用例等年表]] ]]

* 研究史

@@


- [15] [CITE[[V[日本暦学会]]]] [L[第16号]],
[L[平成21年4月1日]] [WEAK[([TIME[2009-04-01]])]]
-- [16] 
[DFN[[CSECTION[[V[木星紀年法について]]]]]],
[[[V[川原秀城]]]],
pp.[L[(1)]]-[L[(6)]]
--- [17] 
[TIME[2006-03-22]]の[[日本暦学会]]総会の講演に加筆とのこと。

[18] 
[[川原秀城]]は[[薮内清]]に師事しており、
その研究を引き継いだものでした。また、本稿では

- [19] [CITE[中国の科学思想]], [[川原秀城]], [TIME[1996]]
- [25] [CITE[中国天文学史文集]], [[科学出版社]], [TIME[1978]]
-- [20]
[CITE[从马王堆帛书〈五星占〉的出土试探我国古代的岁星纪年问题]],
[[陈久金]]
--- [26] 
[CITE[従馬王堆帛書〈五星占〉的出土試探我国古代的歳星紀年問題]], [[陳久金]]

の資料が使われています。
[SRC[>>16]]


* 関連

[SEE[ [[歳在]] ]]

[SEE[ [[印度木星紀年法]] ]]

[SEE[ [[日本書紀の日時]] ]]

* メモ




[88] [CITE[20210713-mxt_kyokasyo02-000015567_001.pdf]], [TIME[2021-07-14T06:26:47.000Z]], [TIME[2023-07-02T13:53:51.491Z]] <https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2021/000015567/20210713-mxt_kyokasyo02-000015567_001.pdf#page=5>

>干支は、中華王朝の殷の時代から使わ
れている紀年法で、

>生徒が誤解するおそれのある表現である。
(殷の時代における干支の使用法について確定して
いるかのように誤解する。)

[137] 
いやそこは使われた形跡ないって断言しちゃってよ!


-*-*-



-[152] [CITE@ja[東洋文庫リポジトリ]], [TIME[2024-07-03T06:19:07.000Z]] <https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/records/4173>
#page=22
-[154] 
[CITE@ja-JP[支那古代史論]], [[飯島忠夫]], [TIME[大正14][1925]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-03T06:24:54.651Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/980745/1/121>
- [153] 
[CITE@ja-JP[東洋史論叢 : 白鳥博士還暦記念]], [[池内宏]], [TIME[大正14][1925]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-03T06:26:24.481Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2390898/1/134> (要登録)
- [155] 
[CITE@ja-JP[支那暦法起原考]], [[飯島忠夫]], [TIME[昭和5][1930]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-03T06:27:29.025Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1177084/1/25> (要登録)
- [156] 
[CITE@ja-JP[東洋史論叢 : 桑原博士還暦記念]], [[桑原博士還暦記念祝賀会]], [TIME[昭和6][1931]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-03T06:28:39.664Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1235171/1/410> (要登録)
- [73] 
[CITE@ja-JP[支那古代暦法史研究]], [[橋本増吉]], [TIME[昭和18][1943]], [TIME[2024-11-28T09:48:19.000Z]], [TIME[2024-12-23T15:06:44.461Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1063829/1/280> (要登録)
-
[8] 
[CITE[科学図書館]], [TIME[2019-07-23T07:03:52.000Z]], [TIME[2024-12-31T06:04:42.027Z]] <http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/science/testhtml.html#kodai>
-- [9] 
[CITE@ja[saisei-kiji.pdf]], [TIME[2012-06-14T11:14:41.000Z]], [TIME[2024-12-31T06:06:40.808Z]] <http://www.cam.hi-ho.ne.jp/munehiro/science/shinjyoshinzo/saisei-kiji.pdf>
--- [11] #page=24

-*-*-

[43] [CITE@ja[Blog | 北辰結社]]
([TIME[2019-09-29 18:55:39 +09:00]])
<https://simadu1123.wixsite.com/hokusin/blog-1/wu-ji-fa-jian-noocha-bi>

[21] [CITE@ja[誤記発見のお詫び。]], [TIME[2024-12-19T11:32:37.000Z]] <https://simadu1123.wixsite.com/hokusin/post/wu-ji-fa-jian-noocha-bi>

>これ以降は言い訳になってしまうのですが、このような誤記が起こった理由を説明します。当初私は歳星紀年法の成立当初の方法、つまり木星が位置する方向を天文学的な正確な数値を元に十二次を当てはめようと考え、プラネタリウムソフトなどを利用し算定しました。それによって求まったのが「歳次鶉火」という記述です。
> しかし、日本の具注暦では「木星の方向をたいして考えていな」かったのです。日本に伝わった頃には歳星紀年法は形骸化し、実際の木星の所在方向は気にせず、年の十二支との対照によって求めるようになり→「子:玄枵 丑:星紀 寅:析木 卯:大火 辰:壽星 巳:鶉尾 午:鶉火 未:鶉首 申:實沈 酉:大梁 戌:降婁 亥:娵訾」という対照方法が確立されました。なので日本の具注暦を再現する以上、この方法で対照しなければならなかったのです。

-*-*-

[23] [CITE@en[先秦年代学研究的理论与方法初探 - 民初思韻]], [TIME[2024-12-19T11:51:28.000Z]] <http://cn.rocidea.com/one?id=10271>

[24] [CITE@zh[马王堆简帛的岁星纪年与干支纪年 - 知乎]], [TIME[2024-12-19T11:59:23.000Z]] <https://zhuanlan.zhihu.com/p/682785345>


[22] 
[CITE@ja-JP[大東文化大学紀要 (7)]], [[大東文化大学]], [TIME[1969-02]], [TIME[2025-07-02T03:11:48.000Z]], [TIME[2025-07-22T07:56:36.795Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1755108/1/40> (要登録)

[83] 
[CITE@ja-JP[神道宗教 (237);2015・1]], [[神道宗教学会]], [TIME[2015-01]], [TIME[2025-07-02T03:11:48.000Z]], [TIME[2025-07-22T07:59:34.379Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12532936/1/53?keyword=%E7%B4%80%E5%B9%B4%E6%B3%95> (要登録)
