[86] 
[DFN[至大]]は、
[[日本の私年号]]の1つです。

* 呼称

[87] 
[[読み][元号名の読み方]]は、
「しだい」
とされます。
[SRC[>>80, >>107, >>108]]

* 用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [22] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[東京都]][[板橋区]]]] [[板碑]]]]
-- [23] [[武蔵野郷土館]]所蔵 [SRC[>>18]]
-- [85] [[江戸東京たてもの園]]所蔵 [SRC[>>78]]
-- [84] >>78 : カラー写真
-- [106] >>104 : カラー写真 (解像度上の下) 判読は概ね可能、展示会風景をケース越しで撮影、
反射等でやや見づらい
-- [19] >>18 : 白黒写真 (解像度中の下) 判読は難しめ
-- [44] >>1 : 白黒写真 (低解像度) 概ね判読できるが印刷技術上ぼやけている
-- [62] >>251 : 白黒写真 (低解像度) 一部以外判読困難
-- [95] >>94 : 白黒写真 (解像度中の上)  比較的細部まで確認しやすい
-- [20] >>18 : [CH[至]]から[CH[年]]の上半分まで 部分拡大 白黒写真 (中解像度) よく読める
-- [24] 
[VRLBOX(.text)[
至大元年

(花瓶)

月    日
]VRLBOX]
[SRC[>>18]]
--- [63] 
[VRLBOX(.text)[
至大元年

(花瓶)

□ [LINES(smaller)[二][二]]日
]VRLBOX]
[SRC[>>251]]

]ITEMS]

[56] 
>>22
の原所在地が[[板橋区]]であるという情報 [SRC[>>18]]
は、
>>4
には記載がなく、
>>1
は[[久保常晴]]の独自調査によるものかとしています。
>>4
は当時の所蔵地[[武蔵野郷土館]]で発行されたものであり、
その時点で[[武蔵野郷土館]]側には受け入れの記録が残存していなかったことになります。
原所在地の情報は慎重に扱う必要がありそうです。


[57] 
>>4 は「月日」を「左行の意味不明「月日」か」と注釈しています。 [SRC[>>1]]

* 諸説

[111] 
用例が[[板碑]]1点だけ知られており、その年代特定に議論が重ねられていますが、
結論は出ていません。

[112] 
研究者により[[南北朝時代]]末期頃から[[室町時代]]中頃まで年代にやや幅があります。
最後に検討されてから既に40年近い時間が経過していますから、
近年までの知見も踏まえた再検討が望まれます。

[113] 
[[公年号]]の[[至徳]]との類似性を重視する[[千々和到]]の説があり、
[[千々和到]]の[[公年号]]1字置き換え[[私年号]]論の中核的な事例とされていますが、
[[板碑]]の様式論がこの理論に引きづられているきらいもあり、
そうだとすると循環論法的な構造に注意を要します。

[114] 
比定年以外の論点はほとんど議論されていません。
[[南朝]]系土豪説がありますが、
推測を重ねた仮説に過ぎず、物証に欠けます。比定年次第では成立し得ません。


* 研究史

[4] 
[TIME[昭和31(1956)年][1956]]の
[CITE[武蔵国板碑集録]] 第1集, [[千々和実]]は、
>>22
を紹介し、
「『[[至大]]』の年号なし,[[私年号]]か。」、
と注釈しています。 [SRC[>>1]]

;; [16] 
[CITE[武蔵国板碑集録]]は第2集と第3集が[[国立国会図書館デジタルコレクション]]にありますが、
第1集は未所蔵の模様です。 [TIME[2026-05-04T09:03:20.100Z]]

-*-*-

[21] 
昭和42年の[CITE[日本私年号の研究]]
は、次のように説明しています。
[SRC[>>18]]

- >>4
- [25] 様式から[[南北朝時代]]
-- [26] 永和3年[[板碑]]が類例
--- [27] [[永和]]年間前後と推定できる
- [28] [[南北朝時代]]末期 [SRC[>>18, >>42]]

[30] 
また、次のように推測しています。
[SRC[>>29]]

- [31] [[永和]]前後
-- [32] 少し前、[[武蔵]]の[[在地土豪]]による[[平一揆]]
--- [33] [[南朝]]に寝返った[[在地土豪]]が[[下野]]の[[南朝]]方[[宇都宮氏綱]]に呼応した反乱と目される
--- [34] [[南北朝]]対立の中でこの一揆に属した者の所為と肯定して差し支えあるまい
--- [35] すぐに鎮圧されたが、残党は行方をくらます
---- [36] [[建徳]]の[[同音異字年号]]の[[乾徳]] (応安3年) と同じ[[武蔵国]][[入間郡]]内
----- [38] [[乾徳]]も一揆残党の所為とも考え得る
----- [37] [[北朝]]年号を拒否したものがあったとみることも可能
--- [40] 一揆を起こした者の[[建元]]とすれば、その規模拡大をはかったものとも考え得る
- [41] 逆に[[元号名]]がいわゆる年号らしからぬ点に、公家的な年号選定の知識なき地方土豪層の発案した名称と考え得る要素
- [39] [[元]]の[[至大]]との関連は考え得ない

[NOTE[

[115] 
この背景の推測については、現在の通説によれば若干の訂正を要します。

[116] 
[[宇都宮氏綱]]の父親の[[宇都宮公綱]]は南朝方でしたが、
[[宇都宮氏綱]]自身は北朝方でした。

[117] 
[TIME[応安元(1368)年][1368]]の[[平一揆]]は、[[武蔵]]の[[平]]姓の武士団が挙兵し、
[[宇都宮氏綱]]と呼応して、ともに[[上杉憲顕]]と対抗したものと説明されています。

[118] 
反[[上杉憲顕]]という点で[[南朝]]方残党と共通しており、
[[昭和時代]]頃には[[南朝]]と結び付ける説が行われていたものの、
現在の一般的理解では[[平一揆]]それ自体を[[南朝]]方勢力の反乱とは考えません。

]NOTE]

[REFS[

- [3] 
[CITE[日本私年号の研究]]
-- [18] 
p.[V[図版第四]] [L[(3)]] [L[(4)]]
-- [17] 
pp.[V[二三八]]-[V[二四一]]
-- [29] 
pp.[V[二六五]]-[V[二六六]]
-- [42] p.[V[五三三]]

]REFS]


-*-*-

[45] 
昭和49年頃、[[肥留間博]]は、
当時得られた新しい史料を使って[[久保常晴]]の[[編年]]を再検討しました。
[SRC[>>1]]

[46] 
まず、

- [48] 様式
- [49] [[月日]] ([[月番号]], [[日番号]]なし) 紀年銘

に基づき、
14世紀末から15世紀初頭、
それも[[応永]]年間、
と一旦結論付けました。 [SRC[>>1 (>>59)]]

[47] 
これに対し、[[県敏夫]]と[[千々和到]]が[[至徳]]の1字置き換えではないかと指摘したため、
再検討し、

- [50] [[蓮座]]様式から[[南北朝時代]]末期[[応安]]年間から[[応永]]年間までの約半世紀
- [51] [[月日]]銘は当該[[蓮座]]の[[板碑]]のみに見られ、新旧2種
-- [52] >>22 は古い様式
-- [53] 古い様式は、いずれも[[康暦]]年間
- [54] [[花瓶]]様式から、[[康暦]]年間以降の可能性が強い

ということから、
[[南北朝時代]]末期、[[永和]]・[[康暦]]年間から[[明徳]]年間まで、
としました。
[SRC[>>1]]

;; [55] 求めたい不明な[[私年号]]の側の推測によって[[編年]]作業が駆動されているのは、
あまり健全とは思えませんが...

;; [60] 
なお、途中経過として言及される昭和49年の論文は、[[武蔵野郷土館]]で開催された展示会で刊行されたものです。
[SRC[>>61]]
[[国立国会図書館デジタルコレクション]]には所蔵がありません。
[TIME[2026-05-04T09:59:43.300Z]]


[REFS[

- [61] 
[CITE@ja-JP[武蔵野 54(1)(289)]], [[武蔵野文化協会]], [TIME[1975-11]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-04T09:57:20.733Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7932682/1/27?keyword=%E6%AD%A6%E8%94%B5%E9%87%8E%E3%81%AE%E6%9D%BF%E7%A2%91%E5%B1%95> (要登録)
- [2] [CITE@ja-JP[貝塚 (14)]], [[物質文化研究会]], [TIME[1975-03]], [TIME[2022-12-27T12:44:39.000Z]], [TIME[2022-12-28T08:10:35.338Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4412807/1/3> (要登録)
-- [1] [DFN[[CITE[[L[私年号「至大」の時期[BR[]]⸺板碑における編年の一例⸺]]]]]],
[[[L[肥留間博]]]]
--- [58] 引用:
[CITE[武蔵野の板碑展―展示品解説―]],
[[武蔵野文化協会]],
昭和49年
---- [59] 
[DFN[[CITE[『報告書』一読の印象⸺独特の蓮座と「月日」例の集中度⸺]]]],
[[肥留間博]]


]REFS]

-*-*-

[43] 
[[千々和到]]は次のように論じています。 [SRC[>>6]]

[7] 
[[日本国]][[東京都]]の[[武蔵野郷土館]]保管[[板碑]]
「至大元年  月  日」
[SRC[>>6]]

[8] 
[[久保常晴]]は[[南北朝時代]]末、[[永和]]年間頃と推定しました。
[SRC[>>6]]

[9] 
[[千々和到]]は ([[元真]]を除くと) [[南北朝時代]]の[[関東]]唯一の確実な[[私年号]]としていました。
[SRC[>>6]]


[11] 
[[肥留間博]]は[[応永]]年間としました [SRC[>>6 (>>12)]] が、
[[千々和到]]が[[至徳]]年間頃としたため、
[[肥留間博]]は再検討により[[永和]]から[[明徳]]のものとしました [SRC[>>6 (>>1)]]。
[SRC[>>6]]

[13] 
[[肥留間博]]の推定は蓮座、花瓶、「  月  日」という紀年銘に注目した[[型式編年]]で、
十分に信頼できる結論だと[[千々和到]]は評価しています。
[SRC[>>6]]

[14] 
[[千々和到]]は[[公年号]]の[[至徳]]の「徳」をよろこばしい「大」に置き換えたもので、
他の[[私年号]]にも類例があるとしています。
[SRC[>>6]]

[15] [[至徳]]は[[北朝の元号]]なので、[[久保常晴]]の[[南朝]]方土豪説は成り立ちません。
[SRC[>>6]]

[103] 
[[千々和到]]の諸論文や、その影響下にあると思われる同時代の解説記事等で、
[[至徳]] → [[至大]]は[[私年号]]によく見られる1字置き換えの典型例の1つとして紹介されています。

[REFS[

- [6] [CITE[[[中世東国の「私年号」]]]]
-- [12] 引用: [CITE[武蔵野の板碑展⸺展示品解説]], [TIME[1974]]

]REFS]

-*-*-

[64] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]の
[CITE[板碑の総合研究]]
は、
[CITE[日本私年号の研究]]
の[[南北朝時代]]説を紹介しつつも、
様式から[[室町時代]]中頃と考えると、
しかし決定打が無いので一応[[南北朝時代]]の末期とみなし是非は今後の課題としています。
[SRC[>>251]]

[65] 
また、
[[南朝]]方の[[関東]]在地士族の一揆の所産か、と説明しています。
[SRC[>>251]]

[92] 
本書の第二巻では、[[肥留間博]]が[[南北朝時代]]の末期と説明し、
「近時」は[[元号]]の1字置き換えにより[TIME[至徳元(1384)年][1384]]に比定する説が強い 
[SRC[>>93]]、
と補足しています。
[SRC[>>91]]

[REFS[

-
[250] 
[CITE@ja-JP[板碑の総合研究 1 (総論編)]], [[坂詰秀一]], [TIME[1983.2][1983]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-04T11:42:14.324Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12226011/1/157?keyword=%E8%87%B3%E5%A4%A7> (要登録)
--
[251] 
[CSECTION[[V[私年号板碑]]]],
[[[V[石村喜英]]]]
- [91] 
[CITE@ja-JP[板碑の総合研究 2 (地域編)]], [[坂詰秀一]], [TIME[1983.11][1983]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-04T12:26:11.413Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12285158/1/72?keyword=%E8%87%B3%E5%A4%A7> (要登録)
-- [93] 引用:
[CITE[金石文から見た中世の東国]],
[[千々和到]],
昭和56年
- [98] [CITE[仏教考古学研究]]
[TIME[2026-05-04T12:56:21.00Z]]
<https://dl.ndl.go.jp/pid/13203062> (非公開)
-- [99] おそらく >>251 の再収録


]REFS]

-*-*-

[102] 
[TIME[昭和57(1982)年][1982]]の展覧会の図録では、
[[南北朝時代]]末期か、としています。
[SRC[>>94]]

[96] 
また、
[[峰岸純夫]]は講演会で[[板碑]]研究の意義を説明しましたが、
その1つに[[私年号研究]]が挙げられていました。
[[千々和到]]の研究を引きつつ、
[[公年号]]の[[至徳]]の縁起が悪いというのか拒否し、
1字変えて災厄が防除できると考え、
[[至大]]にしようじゃないかと誰かが考えて、流布し、[[板碑]]にも刻まれた、
[[元号]]は非常に呪術的な意味を持っているからこう考えられた、
と説明しました。
[SRC[>>94]]

[97] 
他にもいくつか[[私年号]]が挙げられていますが、その筆頭の代表例で[[至大]]が使われています。
[SEE[ [[享正]], [[延徳]], [[福徳]], [[彌勒]] ]]
なお[[峰岸純夫]]には[[不改年号]]についての論文があります。

[REFS[

- [94] 
[CITE@ja-JP[板碑 : 特別展図録]], [[埼玉県立博物館]], [TIME[1982.3][1982]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-04T12:41:41.321Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12261498/1/40?keyword=%E8%87%B3%E5%A4%A7> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[69] 
[[千々和到]]のものその他の[CITE[日本私年号の研究]]以後の[[私年号]]の表では、
時期が次のように説明されています。
[SRC[>>68]]

- [88] [[南北朝時代]]後期
- [70] [[南北朝時代]]末期
- [71] [[永和]]または[[至徳]]
- [72] [[南北朝時代]]末期 [[至徳]]か
- [73] [[至徳]]
- [76] [TIME[1375]]-
- [74] [TIME[1384]]-[TIME[1387]]か
- [75] [TIME[1384]]
- [77] 14世紀後半 [SRC[>>66]]

[67] 
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]は初期から掲載しています。
最初期は14世紀後半としていましたが、
[TIME[平成19(2007)年][2007]]に現在と同様の既述に変更されました。
[SRC[>>66]]

[78] 
[[令和改元]]の頃の[CITE[[[中世東国と年号]]]]は次のように説明しています。 [SRC[>>5]]

- [79] [[私年号][日本私年号一覧表]] 連番13 至徳年間 1384-1387
- [80] [RUBY[至][し]][RUBY[大][だい]]
- [81] 
板碑編年より1380年代 - 1420年代、
公年号との類似性から至徳年間
- [82] 至大元年[BR[]]  月  日
- [83] 板橋区旧在 [[江戸東京たてもの園]]所蔵

[90] 本書と対になる[[府中市郷土の森博物館]]の展覧会で展示がありました。 [SRC[>>89]]

[105] >>104 はその展示風景。

[109] 
[TIME[平成30(2018)年][2018]]の [[SNS]] 投稿で、
[[南朝]]方で使われ、「世が大平に至る」と説明しているものがあります。 [SRC[>>108]]
根拠は不明です。

[110] >>108 は利用期間が独特な [CITE[Wikipedia]] と共通しているので、
[CITE[Wikipedia]] または共通の源資料からの派生でしょうか。しかし
[CITE[Wikipedia]] には「世が大平に至る」などという説明はありません。

[REFS[

- [68] [[日本私年号一覧表]]
- [100] 
[CITE[ミロクと福徳 : 日本的ユートピアの世界 (町田市立博物館図録 ; 第120集)]],
[[町田市立博物館]] 編,
2000.12,
[TIME[2026-05-04T12:57:50.300Z]]
<https://dl.ndl.go.jp/pid/14036160> (非公開)
-- [101] 
「21 コマ: 父村浄蒲寺の私年号題曼茶羅を書いた日調上人は、日寿上人の母方の従兄にあたる。〓.阿弥陀一尊種子板碑至大元年(南北朝末頃)銘六〇・〇×一九・六板橋区出土東京都小金井市・江戸東京たてもの園〓六地蔵画」
- [66] [[Wikipediaの私年号一覧表]]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,至大 	,- 	,永和または至徳年間(1375年-) 	,不明 	,東京都武蔵野郷土館蔵板碑 
]FIG]
-- [319] 
[CITE@ja[「[[私年号]]」の版間の差分 - Wikipedia]], [TIME[2024-07-24T01:25:17.000Z]], [TIME[2024-07-26T14:00:16.087Z]] <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7&diff=prev&oldid=12991145>
--- [320] 
[CSECTION[2007年6月7日 (木) 19:38時点における版]],
124.25.210.158
- [108] 
[CITE@ja[Xユーザーの大森博子 Hiroko Ohmori🔍📚さん: 「【元号】340 至大 しだい 永和または至徳年間(1375年-)期間不明 東京都武蔵野郷土館蔵板碑 これも南朝方の人が使ったものという。世が大平に至る。」 / X]], [TIME[午前5:58 · 2018年10月31日][2018-10-30T20:58:22.000Z]], [TIME[2026-05-04T11:06:42.000Z]] <https://x.com/11111hiromorinn/status/1057376186492346369>
- [89] 
[CITE@ja[nenpo_r1.pdf]], [TIME[2022-02-22T07:56:35.000Z]], [TIME[2026-05-04T12:21:54.643Z]] <https://www.fuchu-cpf.or.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/005/297/nenpo_r1.pdf#page=3>
- [5] 
[CITE[[[中世東国と年号]]]],
pp.25-26
- [107] 
[CITE@ja[東京新聞:「私年号」の板碑など展示 府中で元号企画展 天文との関係も紹介:東京(TOKYO Web)]], [TIME[2026-05-04T13:07:07.000Z]], [TIME[2019-10-07T01:16:35.981Z]] <https://web.archive.org/web/20191007011335/https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201910/CK2019100602000110.html>
- [104] 
[CITE@ja[Xユーザーの可怜小汀さん: 「板碑から中世東国の人々の年号や改元に対する意識を探る。私年号では東国で最も流布した「福徳」をはじめ、「徳応」「弥勒」「至大」各銘の板碑を展示する。特に「至大」銘板碑は展示品が唯一の史料であり貴重だ。また鎌倉公方による不改年号の例として、同市安養寺所蔵の「正長三年」銘板碑を紹介する https://t.co/3MjGumw2KP」 / X]], [TIME[午前2:29 · 2019年8月14日][2019-08-13T17:29:30.000Z]], [TIME[2026-05-04T11:06:42.000Z]] <https://x.com/iokhicjnoakn/status/1161328940851453952/photo/2>


]REFS]


* 関連

[SEE[ [[致得]], [[弘德]] ]]

* メモ