[9] 
19世紀後半の[[越南]]は[[仏国]]、[[清国]]の関係する[[戦争]] ([[清仏戦争]]等) 
で大混乱でした。
その中でも特に[TIME[越南嗣徳36(1883)年][1883]] (日本明治16年) は、
[[嗣徳帝]]が死去、
[[育徳帝]]が即位するも3日で廃位、
[[協和帝]]が即位するも数ヶ月で廃位、
[[建福帝]]が即位したのにその翌年には死去、
と合計4人の[[皇帝]]が次々に交替するほどでした。

[19] 
[[阮朝]]は原則、即位の翌年始の[[改元]]をしています。
ところが[TIME[この年][1883]]は即位の同年に2人も[[廃帝]]が出ているため、
[[元号]]についての情報は混乱しています。
本項の主な対象は、この時期にあったとされる次の6つの[[元号]]です。

- [129] [DFN[得德]] ([TIME[y~3823]]) [[元年]] = [TIME[西暦1883年][1883]]
- [130] [DFN[育徳]] ([TIME[y~3822]]) [[元年]] = [TIME[西暦1883年][1883]]
- [163] [DFN[欲德]] ([TIME[y~3825]]) [[元年]] = [TIME[西暦1883年][1883]]
- [128] [DFN[協和]] ([TIME[y~3821]]) [[元年]] = [TIME[西暦1883年][1883]]
- [162] [DFN[合和]] ([TIME[y~3824]]) [[元年]] = [TIME[西暦1883年][1883]]
- [127] [DFN[協和]] ([TIME[y~1248]]) [[元年]] = [TIME[西暦1884年][1884]] 

[138] 
[[ネタバレ]]:
本項の検討による現時点での結論は、

- [139] [[得德]] ([TIME[y~3823]]) は出所不明の[[幽霊元号]]
- [140] [[育徳]] ([TIME[y~3822]]) は[[皇帝]]の称号の誤解による[[幽霊元号]]
- [164] [[欲德]] ([TIME[y~3825]]) は[[育徳]]から転じた名異説
- [141] [[協和]] ([TIME[y~3821]]) は[[即位]]と[[改元]]の混同による年異説
- [165] [[合和]] ([TIME[y~3824]]) は[[協和]]から転じた名異説
- [142] [[協和]] ([TIME[y~1248]]) は制定後に中止された未施行元号





-*-*-

[12] 
[TIME[平成31(2019)年][2019]]に[[日本]]で出版された[[元号]]専門の学術書に収録された、
[[越南の元号]]の研究者である[[越南人]]の協力により作成されたという[[年表]]では、

- [13] [TIME[西暦1883年][1883]] : 嗣徳36
- [14] [TIME[西暦1884年][1884]] : 協和1, 建福1
- [15] [TIME[西暦1885年][1885]] : 咸宜1, 同慶1

となっています。 [SRC[>>11]]

[32] 
[[育徳帝]]について、
[[日本語]],
[[中文]]の
[CITE[Wikipedia]] 
は、
在位わずか3日で[[元号]]も定められず、
居所に由来してこう呼ばれるのだと説明しています。
[SRC[>>1, >>8, >>33]]


[17] 
[[協和]]について、
[[日本語]],
[[中文]],
[[韓国語]]の
[CITE[Wikipedia]]
に記事があって、
いずれも[TIME[西暦1884年][1884]]から適用の予定が未施行のままに終わったと説明しています。
[SRC[>>5, >>6, >>16]]



[20] 
ここまでをまとめると、

- [21] [TIME[西暦1883年][1883]]は嗣徳36年 [TIME[y~1567]]
- [22] [[育徳帝]]は[[元号]]なし
- [23] [[協和]]は[TIME[西暦1884年][1884]]予定も、未施行 [TIME[y~1248]]
- [24] [TIME[西暦1884年][1884]]は建福元年 [TIME[y~569]]

ということになります。一応これを現行説、最新の学説とみておきます。

[35] 
[[阮朝]]の公式な史書である[CITE[國朝史撮要]]の目録に、

>
翼尊英皇帝 [WEAK[年十九嗣位,戊申,嗣德元年,當清道光二十八年、降生一千八百四十八年。在位三十六年,壽五十五歲。]]
>
恭惠皇帝[WEAK[附]] [WEAK[年三十二,奉遺詔入諒陰,纔三日被廢。成泰年間追尊。]]
>廢帝[WEAK[附]] [WEAK[朗國公,年三十七,以嗣君廢,得立,擬以來年爲協和元年。嗣位纔四月十日被弑,尚在嗣德三十六年紀內。]]
>簡尊毅皇帝 [WEAK[年十五嗣位,甲申,建福元年,當清光緒十年、降生一千八百八十四年。在位一年,壽十六歲。]]

とあります。 
[SRC[>>34]]
[CITE[國朝史撮要]]
は[TIME[越南維新2(1908)年][1908]]成立とされますが、
この部分には[[同慶帝]]まで書いて、

>
起自壬戌元年世祖即皇帝位,至戊子同慶三年,共八十七年。若計自戊戌世祖攝政,至同慶戊子三年,共三百三十一年。 

と[[経過年数表示]]がありますから、
[TIME[越南同慶3(1888)年][1888]]に既に書かれていたものでしょうか。

[36] 
つまり現行説は事件から5年後の[[越南国]]の公式見解とほぼ同じ 
(違いは[[育徳帝]]という通称くらい) ということになります。


[REFS[

-
[34] 
[CITE@zh[國朝史撮要/正編世代年紀 - [[维基文库]],自由的图书馆]], [TIME[2023-03-14T13:47:27.000Z]], [TIME[2023-03-28T08:43:20.889Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%9C%8B%E6%9C%9D%E5%8F%B2%E6%92%AE%E8%A6%81/%E6%AD%A3%E7%B7%A8%E4%B8%96%E4%BB%A3%E5%B9%B4%E7%B4%80>
-[5] [CITE@ja[協和 (元号) - Wikipedia]], [TIME[2023-03-12T08:54:49.000Z]], [TIME[2023-03-26T08:54:58.671Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%94%E5%92%8C_(%E5%85%83%E5%8F%B7)>
- [6] [CITE@zh[協和 (年號) - [[维基百科]],自由的百科全书]], [TIME[2023-03-12T08:55:51.000Z]], [TIME[2023-03-26T08:56:00.320Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%94%E5%92%8C_(%E5%B9%B4%E8%99%9F)>
-[16] [CITE@ko[히엡호아 (연호) - [[위키백과]], 우리 모두의 백과사전]], [TIME[2023-03-23T10:09:24.000Z]], [TIME[2023-03-27T11:55:15.861Z]] <https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%9E%88%EC%97%A1%ED%98%B8%EC%95%84_(%EC%97%B0%ED%98%B8)>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1] [CITE@ja[育徳帝 - [[Wikipedia]]]]
([TIME[2022-03-27T02:53:37.000Z]], [TIME[2022-04-10T08:43:35.987Z]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B2%E5%BE%B3%E5%B8%9D>
]FIGCAPTION]

> 阮朝の皇帝は元号で呼ばれるが、元号も定められなかったため、生前起居していた宮中の育徳堂にちなんで[B[育徳帝]]と称されている。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[8] [CITE@ja[[[阮朝]] - Wikipedia]], [TIME[2023-03-20T14:04:36.000Z]], [TIME[2023-03-27T09:00:33.339Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%AE%E6%9C%9D#cite_note-3>
]FIGCAPTION]

>「育徳」は元号ではなく、居所「育徳堂」に由来する。在位3日で廃されたため元号を定められず、改名もできなかった。

]FIG]

-
[33] 
[CITE@zh[育德帝 - [[维基百科]],自由的百科全书]], [TIME[2023-03-13T13:34:05.000Z]], [TIME[2023-03-27T13:34:44.358Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%82%B2%E5%BE%B7%E5%B8%9D>
- [10] [CITE[[[年号と東アジア―改元の思想と文化―]]]]
-- [11] [CSECTION[[[中国・日本・朝鮮・ベトナムの公󠄃年号一覧]]]]

]REFS]

-*-*-


[37] 
[[明治時代]]に[[日本陸軍]]が出版した
[CITE[仏安関係始末]]
は、
[[清仏戦争]]前後の出来事を詳細に記述したものです。
[TIME[明治21(1888)年2月][1888-02]]の出版で、
[RUBYB[[[引田利章]]][[TIME[1851]]-[TIME[1890]]]]の序文には[TIME[明治20(1887)年2月][1887-02]]とあります。
編纂の中心となった[[引田利章]]は[[日本陸軍]]所属の[[越南]]研究者で、
これ以前にも[[越南史]]等の著作があります。

[38] 
本書によると、
[[安南]] ([[越南]]) では[[嗣德王]]の死後、
[[瑞國公󠄃]]が即位、
元を改めて[[得德]]といいました。
しかし廃されて、在位はわずかに2日でした。
続いて[[__&&swc488(朗)&&__國公󠄃][朗國公]]が即位して協和王と称し、
[[協和]]は紀元の号ともなりました。
[SRC[>>7 /106]]

[40] 
[[瑞國公󠄃]] = [[育徳帝]]の在位は現行説によれば3日です。
2日とされているのは、数え方の違いでしょうか。

[41] 
[[育徳帝]]と[[協和帝]]もどちらも[[改元]]したと書かれていますが、
[[協和帝]]はそれが王の称号でもあるとされているのに対し、
[[育徳帝]]には王の称号が書かれていません。
この違いはどういうことでしょうか。
入手できた情報の違いが反映されているのでしょうか。
それともただの文章表現上の偶然の違いに過ぎないのでしょうか。

[39] 
本書には[[協和]]の[[日付]]の[[文書]]が2つ収録されています。

[44] 
1つは、
[V[佛蘭西共和政府派遣東京理事官]]の[[[V[ハルマン]]]]
([RUBYB[[[François-Jules Harmand]]][[TIME[1845]]-[TIME[1921]]]])
が[TIME[1883-08-23]]に[[安南]]政府に提示した要求書
(の和訳) の末尾の[[日付]]で、
[[西暦]]と[[協和]]が併記されています。

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [42] 
[DATA(.label)[[TIME[西暦1883年8月23日][1883-08-23]]に仏国から安南国に手交された要求書 (の和訳)]],
[[ハルマン]]
[SRC[>>7 /116]]
-- [43] 
「[DATA(.text)[[V[千八󠄂百八󠄂十三年八󠄂月二十三日[BR[]]安南協和元年七月二十一日]]]]」
([[明朝体]])
[SRC[>>7 /120]]

]ITEMS]

[45] 
もう1つは、
[TIME[1883-08-25]]に締結された[CITE[[V[安南佛蘭西兩國條約]]]] (の和訳)
の[[署名]]の[[日付]]で、
[[大安南國]]側が[[協和]]、
[[大佛蘭西共和政府]]側が[[西歷]]です。

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [46] [DATA(.label)[[CITE[[V[安南佛蘭西兩國條約]]]] (の和訳)]]
[SRC[>>7 /120]]
-- [47] 
「[DATA(.text)[[V[大安南國協和元年七月[ASIS[二十五日]]]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>7 /126]]
-- [48] 
「[DATA(.text)[[V[西歷千八󠄂百八󠄂十三年八󠄂月二十五日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>7 /126]]

]ITEMS]


[49] 
更には、
[TIME[1883-11-28]]の記事本文中に、

>
[VRL[
[SNIP[]]實ニ千八󠄂百八󠄂十三年十一月二十八󠄂日安南協和二年[BR[]]十月二十九日ナリ
]VRL]

と[[西暦]]と[[協和]]を併記した箇所があります。
[SRC[>>50 /29]]

[NOTE[
[51] 
その少し後には

>
[VRL[
[SNIP[]]明日實ニ安南十一月一日即チ[BR[]]
西曆十一月三十日[SNIP[]]
]VRL]

とあって、「安南」「西曆」を[[月日]]の接頭辞として使った例があります。
[SRC[>>50 /30]]
[TIME[1883-11-30]]。


[52] 
その直後に

>
[VRL[
[SNIP[]]十月二十九日[LINES(smaller)[十][一]][BR[]]
[LINES(smaller)[月二十][八󠄂日]]ノ夜[SNIP[]]
]VRL]

と[[割注]]の形で併記した例もあります。
[SRC[>>50 /31]]
[TIME[1883-11-28]]。

]NOTE]

[53] 
そしてこの後10月30日 ([TIME[1883-11-29]])
に[[協和帝]]は[[退位]]し次の[[建福帝]]が[[即位]]するのですが、
[[建福帝]]を迎えて擁立して[[建󠄁福]]と[[改元]]した、
と記載されています。
[SRC[>>50 /33]]

[54] 
以上本書の記述をまとめると、

- [55] [[育徳帝]]: [TIME[西暦1883年][1883]]即位、[[得德]]と[[改元]]
- [56] [[協和帝]]: [TIME[西暦1883年][1883]]即位、[[協和]]と[[改元]]
-- [58] 外交文書 (の和訳) によれば協和元年が西暦1883年 [TIME[y~3821]]
-- [59] 本文によれば協和2年が西暦1883年
- [57] [[建福帝]]: [TIME[西暦1883年][1883]]即位、[[建福]]と[[改元]]

となります。

[131] 
事件からわずか5年後に出版された書籍であり、
[[阮朝]]自身による
[CITE[国朝史撮要]]
や
[CITE[大南寔録]]
とは異なる独自の情報源(?)の第三者による編集で、
和訳とはいえ当時の外交文書・条約の全文を収録しているのですから、
有力説としたいところです。
しかし現行説と大きく異なりますし、
自己矛盾も起こしています。
果たしてこの説は信じていいものでしょうか。

[60] 
各[[改元]]について、素直に解釈すれば即位と同時に同年 
(= [TIME[西暦1883年][1883]])
を新[[元号]]に改めたという意味になります。
強いて言えば、
[[元号]]を定めて次年
(= [TIME[西暦1884年][1884]])
始から適用することとしたという意味に解せないこともありません。
[[元年]]がいつなのかは明記されていないからで、
同様の例は他書にも無いでもありません。
それならば現行説と同等となります。
本書には2つも協和元年文書が収録されていて、
それが[TIME[西暦1883年][1883]]のものであることは動かせませんから、
やはり即位同時改元が本書著者の解釈だったとするのが妥当といえます。
すると[[阮朝]]の通例とは異なる方式の[[改元]]が行われたと主張していることになります。

[82] 
[[改元]]の情報や協和の3例目は[[地の文]]なので、
その情報源を明らかにするのは困難です。
それでは2つの協和文書の情報源はどこなのでしょうか。
[[和文]]が[[正文]]とは到底考えられませんが、
[[和文]]の翻訳元は[[仏文]]、[[漢文]]、
あるいはその他のどの[[言語]]の版だったのでしょうか。
本書掲載の和訳文はどれだけ原文に忠実なのでしょうか。

[83] 
2国間条約では両国の日付を併記することがよくあります。
[SEE[ [[外交文書の日時]] ]]
しかし要求書はどうでしょうか。
これは2国の同意文書ではなく[[仏国]]から[[安南国]]への通告なので、
[[仏国]]の[[日付]]が書かれるのが自然で、
併記されているのは違和感があります。
このまま信用するには不安が残りますが、
この文書を収録した他の資料が見当たらないので検証ができません。
(仏国や越南国のどこかに原文は残っているのでしょうか。)
条約については後ほど他の資料も見ていきましょう。

[REFS[

-
[7] [CITE@ja-JP[[[仏安関係始末]] 巻之中]], [[参謀本部陸軍部編纂課]], [TIME[明21.2][1888]], [TIME[2023-03-13T10:18:48.000Z]], [TIME[2023-03-27T08:15:39.913Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/776855/1/106>
-
[50] 
[CITE@ja-JP[[[仏安関係始末]] 巻之下]], [[参謀本部陸軍部編纂課]], [TIME[明21.2][1888]], [TIME[2023-03-13T10:18:48.000Z]], [TIME[2023-03-29T09:03:12.128Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/776856/1/29>


]REFS]


-*-*-

[132] 
[[育徳帝]]の[[元号]]とされる[[得徳]]について、
現在知られている初出は[[日本]]の[CITE[仏安関係始末]]です。
それ以前に[[越南]]、[[清国]]、[[仏国]]等の資料に出現する可能性はありますが、
未発見です。

[133] 
[CITE[仏安関係始末]]
に由来するのか他の情報源によるのか定かではありませんが、
その後しばらく[[日本]]の文献に皇帝の称号としての[[得徳帝]]と、
それによって暗示的に[[元号]]として示された[[得徳]]が出現します。


[62] 
[TIME[明治29(1896)年][1896]]に[[日本]]で出版された書籍は、
[[越南]]の歴代[[皇帝]]の称号は諸書いずれも[[元号]]によるものを載せているとして、

- [V[嗣徳帝]]
- [V[得徳帝]]
- [V[協和帝]]
- [V[建福帝]]

などと列挙していました。
[SRC[>>61]]

[64] 
[TIME[明治31(1898)年][1898]]に[[日本]]で出版された書籍は、
[[越南]]の歴代[[皇帝]]は[[一世一元]]なので[[元号]]を称号とするとして、

- [V[嗣徳帝]]
- [V[得徳帝]]
- [V[協和帝]]
- [V[建󠄁福帝]]

などと列挙していました。
[SRC[>>63]]

[66] 
[TIME[明治32(1899)年][1899]]に[[日本]]で出版された書籍は、
[[越南]]の歴代[[皇帝]]として、

- [V[嗣德帝]]
- [V[得德帝]]
- [V[協和帝]]
- [V[建󠄁福帝]]

などと列挙していました。
[SRC[>>63]]

[68] 
[TIME[大正10(1921)年][1921]]に[[日本]]で出版された書籍は、
[[越南]]の歴代[[皇帝]]として、

- [V[[RUBY[嗣][シ]][RUBY[德][トク]]帝]]
- [V[[RUBY[得][トク]][RUBY[德][トク]]帝]]
- [V[[RUBY[𠦢][ケウ]][RUBY[和][ワ]]帝]]
- [V[[RUBY[建][ケン]][RUBY[福][フク]]帝]]

などと列挙していました。
[SRC[>>67]]



[REFS[
- [61] 
[CITE@ja-JP[[[東洋分国史]] 巻下]], [[大槻如電]], [TIME[明29][1896]], [TIME[2023-03-13T10:18:48.000Z]], [TIME[2023-03-29T10:59:19.842Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/776103/1/42>
-[63] 
[CITE@ja-JP[中等東洋歴史]], [[敬業社編輯所, 高山栄一 校]], [TIME[明31.3][1898]], [TIME[2023-03-13T10:18:48.000Z]], [TIME[2023-03-29T11:03:11.956Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/775950/1/128>
-
[65] 
[CITE@ja-JP[新編東洋史教科書]], [[開成館編輯所, 桑原隲蔵 校]], [TIME[明32.11][1899]], [TIME[2023-03-13T10:18:48.000Z]], [TIME[2023-03-29T11:06:37.756Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/776066/1/113>
-
[67] 
[CITE@ja-JP[世界各国歴代王室興亡鑑]], [[大野法瑞]], [TIME[1921]], [TIME[2023-03-13T10:18:48.000Z]], [TIME[2023-03-29T11:09:16.262Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1078832/1/50> (要登録)




]REFS]

[70] 
[[日本]]で[[育徳帝]]を「育徳王」と呼ぶ書籍は[TIME[大正元(1912)年][1912]]以後
[SRC[>>144, >>69, >>71]]、
「育徳帝」と呼ぶ書籍は[TIME[昭和4(1929)年][1929]]以後
[SRC[>>72, >>73, >>74, >>77 /33, >>146]]
続々と出版され、現在に続く模様です。

[75] 
ただしこれらの文献は[[育徳]]を[[元号]]とは明記していません。
他の[[元号]]を称号する皇帝と同様に[[著者]]が[[元号]]と認識していた可能性はありますが、
その見解を明記したものは[[昭和時代]]初期にはまだ見つけられません。

[76] 
「育徳」と呼ぶ文献に「得德」への言及はなく、
得德から育徳への交替がどのような經緯で発生したものかは定かではありません。
何らかの誤りとの認識で改められたのかもしれませんし、
たまたま別系統の情報が入ってきて置き換わったにすぎないのかもしれません。

[145] 
[[育徳]]は居所[[育徳堂]]によるとされ由来が明らかですが、
[[得德]]の由来は不明です。
[[育徳]]から派生したものでしょうか、それとも独立して発生したものでしょうか。
「育」と「得」は、
[[日本語音]]でも[[越南語音]]でも、
まったく異なるとまでは言えませんが、
容易に混同され得ると言えるほどには似ていません。
[[文字]]もそれほど似ていません。
強いて言えば「育」をかなり崩した字形と「得」の旁を崩した字形なら似た形になることもありそうですが、
[[くずし字]]の辞書やデータベースで探してみても、
一般的な字形ではあまり混同しなさそうです。


[REFS[

-
[144] [CITE@ja-JP[東洋史要]], [[市村瓚次郎]], [TIME[大正1][1912]], [TIME[2023-03-28T13:58:31.000Z]], [TIME[2023-04-01T03:50:20.086Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/936761/1/188>
- [69] [CITE@ja-JP[東洋歴史通覧 下巻]], [[高桑駒吉]], [TIME[1923]], [TIME[2023-03-28T13:58:31.000Z]], [TIME[2023-03-30T08:34:50.570Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1919004/1/421>
- [71] [CITE@ja-JP[東洋史要]], [[市村瓚次郎]], [TIME[1925 6版][1925]], [TIME[2023-03-28T13:58:31.000Z]], [TIME[2023-03-30T08:36:20.766Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1918725/1/191>
- [72] [CITE@ja-JP[印度支那事情]], [[坂崎謙介]], [TIME[昭和4][1929]], [TIME[2023-03-28T13:58:31.000Z]], [TIME[2023-03-30T08:36:34.860Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1170485/1/27> (要登録)
- [73] [CITE@ja-JP[岩波講座東洋思潮 10 (東洋思潮の展開)]], [[岩波書店]], [TIME[1934.6-1936.7][1934]], [TIME[2023-03-28T13:58:31.000Z]], [TIME[2023-03-30T08:37:54.319Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1907909/1/214> (要登録)
- [74] [CITE@ja-JP[国際評論 3(5)]], [[日本外事協会]], [TIME[1934-05]], [TIME[2023-03-28T13:58:31.000Z]], [TIME[2023-03-30T08:38:43.176Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1477005/1/60> (要登録)
-
[146] 
[CITE@ja-JP[東洋史辞典]], [[京都大学文学部東洋史研究室]], [TIME[1961]], [TIME[2023-03-28T13:58:31.000Z]], [TIME[2023-04-01T05:49:59.039Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3020899/1/411> (要登録)


]REFS]


[78] 
[TIME[昭和16(1941)年][1941]]の[[日本]]で発行された[[越南史]]の書籍には、
皇帝ごとの章に翌年の[[改元]]を定めたとの記述があって、
[[協和帝]]や[[建福帝]]の章にも、
即位時に翌年の[TIME[西暦1884年甲申][1884]]が協和元年や建󠄁福元年と定められたと書かれています。
[SRC[>>77 /233, >>77 /234]]
[TIME[y~1248]]
[TIME[y~569]]

;;
[134] 
協和元年が実施されず建福元年となったことは丁寧に読んでいけばわかりますが、
その旨の注記が何もないのは少し不親切と思わないこともありません。

[79] 
ところが同じ書籍の別の章には、

>
[VRL[
[SNIP[]]協和元年七月二[BR[]]十三日卽ち西曆一八󠄂八󠄂三年八󠄂月二十五日[SNIP[]]
]VRL]

に[[仏国]]との仮条約が調印されたとあります。
[SRC[>>77 /263]]
同じ本なのにこちらの「協和元年」は1年ずれているのです。
[TIME[y~3821]]
これは協和元年の条約を掲載した、改元の説明とは別系統の資料から日付をそのまま引いたために不整合が発生したのかもしれません。

[80] 
[[育徳帝]]は独立した章がなく、前の[[嗣德帝]]の章の末尾に記述があります。
[[元号]]の記述はありません。
[SRC[>>77 /232]]
本書の系図等には「育徳」の称号も掲載されていますが
[SRC[>>77 /32, >>77 /185]]、
本文や帝王一覧表には記載がなく
[SRC[>>77 /232, >>77 /294]]、
一貫していません。

[81] 
なお帝王一覧表は

- [[嗣德帝]]: 嗣德元年 - 三十六年, 西暦1848年 - 西暦1883年
- [[育徳帝]]: (空欄), (空欄)
- [[協和帝]]: 協和元年, (空欄)
- [[建福帝]]: 嗣德三十六年, 西暦1883年
- [[建福帝]]: 建󠄁福元年, 西暦1884年

のように書いています。 [SRC[>>77 /294]]
[[建福帝]]が重複しているのは即位年が前帝の元号のためなのですが、
このような書き方は表中、[[建福帝]]と次の[[咸宜帝]]と次の[[同慶帝]]だけで、
その前後の時代は新元号だけしか書いていません。
それはこの時代が特殊だからゆえかもしれませんが、
「協和元年」
の扱いはどうにもおかしいです。
嗣德が一旦中断したようにも見えますが、
[[西暦年]]が無いのは謎です。

[REFS[

- [77] 
[CITE@ja-JP[安南通史]], [[岩村成允]], [TIME[1941]], [TIME[2023-03-28T13:58:31.000Z]], [TIME[2023-03-30T08:59:14.457Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3438497/1/233> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[85] 
[TIME[1883-08-25]]の[[条約]]は、
[[アルマン条約]],
[[ハルマン条約]],
[[フエ条約]],
[[ユエ条約]],
[[第一次順化条約]],
[[癸未和约]],
[[仏安同盟媾和条約]]といったような名称で知られています。

[135] 
[CITE[仏安関係始末]]にはこの条約とされる和文が収録されていて、
協和元年と西暦年が併記されていました (>>46)。

[86] 
[TIME[明治37(1904)年][1904]]に[[日本]]で発行された[[条約]]集に収録された条約文
(の和訳)
では、
両国の日付が併記されていました。

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [87] [DATA(.label)[[CITE[[V[佛安同盟媾和條約]]]] (の和訳)]]
-- [88] 
「[DATA(.text)[[V[大安南國協和元年七月二十三日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>84 /179]]
-- [89]  
「[DATA(.text)[[V[西歷千八󠄂百八󠄂十三年八󠄂月二十五日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>84 /179]]

]ITEMS]

[90] 
[CITE[仏安関係始末]]所収のものとは越南側の[[日]]が違いますが、
[[西暦]]の[[日]]と合うのはこちらです。
[CITE[仏安関係始末]]は[[西暦]]につられて誤ったものと思われます。

[91] 
本書の条約本文 (の和訳) の出典は[[引田利章]]の[CITE[佛安關係]]とされています。
[SRC[>>84 /177, >>84 /180]]
そのような書物は[[国立国会図書館]]に見当たらないのですが、
[[引田利章]]が編集した[CITE[仏安関係始末]]を指している可能性が高く、
そうでないとしても同じ出所ということになります。
しかし[[日付]]が訂正されているのは、
[[国立国会図書館]]所蔵の[CITE[仏安関係始末]]とは異なるものから引いたのか、
誤りに気づいて独自に訂正したのか、どちらでしょうか。

[92] 
両書は[[日付]]の他に[[署名]]も異なります。
[CITE[仏安関係始末]]に[[安南]]4人、[[仏蘭西]]6人の10人の名前があるのに対して、
本書では[[安南]]3人、[[仏蘭西]]2人の5人しかありません。
ちょうど頁末に当たるのですが、編集時に落としてしまったのでしょうか。
削られている部分には参判、参坐とあるので、
主たる署名調印者ではないということで意図的に削ったのかもしれません。
その他細部に違いがあるようですが、詳しくは未調査です。

[93] 
両書に掲載された和訳文はどのような経緯で[[日本]]にもたらされ[[日本語]]に訳されたのでしょうか。
原文はどの[[言語]]だったのでしょうか。
[[安南国]]の署名者を見ると、
[[越南人]]らしき[[人名]]のうち、
2人は[[漢字]]表記、
2人 (うち1人は参判) は[[片假名]]表記です。
ということは翻訳前の原文は[[漢字]]表記でなく、
[[日本]]側で原[[漢字]]表記が判明した2人だけを[[漢字]]に訳した可能性があります。
もしこの推測が正しいなら、[[日付]]に「協和元年」とあるのも、
果たして原文に書かれていたものなのか、疑問を抱かずにはいられません。

[95] 
[CITE[Wikipedia]]
には
[CITE[Treaty of Huế]]
の仏語原文とされるものと、
英訳が掲載されています。
仏語版は[TIME[西暦1888年][1888]]に[[仏国]][[パリ市]]で発行された書籍が出典とされています。
[SRC[>>94]]
英語版の出典は明記されていませんが、
仏語版と英語版はよく似ているので、
仏語版を翻訳したものが英語版と考えてよさそうです。

[96] 
[[引田利章]]版和訳には第28条まであるのに対し、
仏語版・英語版には第27条までしかありません。
末尾の附則的部分が仏語版では条に属さないのに、
和訳では条数が割り振られています。

[97] 
仏語版の最後は

>Fait à Hué, en la légation de France, le 25e jour du mois d'août 1883 (23e jour du 7e mois annamite).

となっていて、英語版の最後は

>Done at Huế, in the French Legation, on 25 August 1883 (the 23rd day of the 7th Annamese month). 

となっています。
[SRC[>>94]]
[[西暦]]・[[グレゴリオ暦]]の[[日付]]に、[[安南]]の[[月日]]が併記されています
(が[[安南]]の[[年]]は書かれていません)。
(仏語版の原書と比較すると、
[SUP[e]] を [CITE[Wikipedia]] が e としている点を除き、同文です。)

[98] 
仏語版・英語版には署名者がありません。
調印された[[条約]]に署名者がいないとは考えられませんから、
実際には署名があるのに掲載上は省かれてしまったと考えるのが妥当です。
(他の条約・媒体でもままあることです。)
[CITE[Wikipedia]]
だけでなくその出典の原書の時点で署名者は入っていません
[SRC[>>100 p.415]]。

[99] 
仏語版・英語版は日付と署名の表記が欧米風で調印地が [[Huế]] 
([[順化]]) 仏国公使館と明記されていますが、
和訳は東洋風で調印地の記載もありません。


[102] 
[TIME[明治39(1906)年][1906]]に[[日本]]で出版された書籍には、
この条約の仏語版と日本語版が収録されています。

[103] 
仏語版は、 
ほぼ [CITE[Wikipedia]] 所収仏語版と同じように見えますが (要検証)、
こちらには第28条があります。
[SRC[>>101 p.[L[16]]]]

[104] 
仏語版の末尾は

>Fait à Hué, en la légation de France, le 25[SUP[e]] jour du mois d'août 1883 (23[SUP[e]] jour du 7[SUP[e]] mois annamite).

で、仏国の書籍のもの [SRC[>>100]]と同文です。 
[SRC[>>101 p.16]]
やはり署名はありません。
(同書所収の他の条約にはある [SRC[>>101 p.[L[18]]]] のですが。)

[105] 
和訳は[[引田利章]]版と異なるところの多い独自版です。

[107] 
和訳にも第28条があります。
[SRC[>>101 p.[V[二七]]]]

[106] 
和訳の末尾には、

>
[VRL[
一八󠄂八󠄂三年八󠄂月二十五日順化󠄃府公󠄃使館ニ於テ調印ス 

[BOX(right)[
あるまん 

鄭󠄁丁德 

阮仲合 

ひん、けん、とん

]BOX]

]VRL]

とあります。
[SRC[>>101 p.[V[二七]]]]
この翻訳では[[地名]]が明記されており、
[[日付]]は[[西暦]]・[[グレゴリオ暦]]のものだけになっています。
(本書所収の他の[[条約]]でも併記の日付は訳していません。)

[108] 
不思議なことに本書の和訳には本書所収仏語版にない4人分の[[署名]]があります。
国名も肩書もない[[人名]]が4つ並んでいるのも謎です。
[[引田利章]]版と比較すると、
「あるまん」は仏国側筆頭の「ハルマン」で、
漢字の2人は安南国側の第2位、第3位です。
「ひん、けん、とん」は安南国の参判の
「[V[ヒユ[ASIS[井][仮名]]ンヒユ[ASIS[□□][汚損? 読めず]]ン]]」
と同一人物でしょうか。
人数が合わず、[[安南国]]の筆頭 (特命全件弁理大臣商船院大臣)
が欠けているのはおかしいですね。
この署名リストはどこから出てきたものなのでしょうか。

[110] 
[CITE[维基文库]]には[CITE[第一次顺化条约]]の[CSECTION[汉文原文]]とされるものがあります。
出典は

>
《清光绪朝中法交涉史料》第二〇五,廣西巡撫倪文蔚奏報法越已訂和約摺(光緒九年九月初九日到,光緒九年八月二十四日發)

とされています。
[SRC[>>109]]

[111] この[CITE[维基文库]]ページには

>大南嗣德三十六年七月二十三日
>1883年8月25日

と書かれています
[SRC[>>109]]。これは[CITE[维基文库]]の編集者の理解を表したものと考えられますが、
独自に決定したものか、
[CITE[清光绪朝中法交涉史料]]
ないし他の資料に基づいたものかはわかりません。

[112] 
この漢文版は第27条まであって、第28条はありません。
[SRC[>>109]]

[113] 
この漢文版の末尾には

> 癸未(嗣德)三十六年七月二十三日 

とあって、署名はありません。
[SRC[>>109]]
この[[日付]]を信じていいなら、「漢文原文」には[[越南]]側の[[日付]]だけで、
仏国側の[[西暦]]・[[グレゴリオ暦]]の[[日付]]は無かったことになります。
(そんなことはあるのでしょうか?)

[114] 
この頁には更に

>条约原文为《大南实录》所不载,仅在《清光绪朝中法交涉史料》,廣西巡撫倪文蔚奏報法越已訂和約摺中的附录中刊载了条约的汉文文本,因涉及中越宗藩关系,清朝方便在条约文本中已将不合规制的内容做了改动,如“大南皇帝”改为“大南国王”,未书越南嗣德年号,仅书“癸未”干支,第二十七款涉及货币单位的为喃字,无法输入,特此注明。 

と書かれています。
[SRC[>>109]]
これは原文・原書の記述ではなく、
[CITE[维基文库]]
の編集者が書いたものです。

[115] 
それによると当条約は
[CITE[大南实录]]
には掲載されていません。
[CITE[清光绪朝中法交涉史料]]
には[[清国]]側に届けられた[[漢文]]版が収録されていますが、
[[越南]]と[[清]]の関係のための改変が加わっているのだといいます。
当時の[[越南]]は国内向けには[[皇帝]]を戴き[[元号]]を建てた[[独立国]]でしたが、
[[清国]]との関係では[[清]]に[[冊封]]され[[正朔を奉じ]]る藩国の王でした。
そのため[[皇帝]]を称さず[[元号]]を書かなかったのだというのです。

;; [136] 
[CITE[大南寔録]]
は[[仏国]]との関係に作為性が見られるとのことなので、
意図的に省かれたのでしょうか。

[116] 
[CITE[维基文库]]
所収条約本文には

>[SNIP[]]大南國王(皇帝)該治國中[SNIP[]]

のような箇所があります。ということはこの括弧は、原資料に
「大南國王」
とあるものの実は
「大南皇帝」
だということなのでしょう。この括弧の注釈は、
[CITE[维基文库]]
編集者によるものなのでしょうか。それとも転載元の書籍にあるものなのでしょうか。
真の原本との違いをどのように確認したのでしょうか。
修正前後の差分も記録にあるのでしょうか。

[117] 括弧が真の原文との差異を表しているなら、[[日付]]の

>癸未(嗣德)三十六年七月二十三日

はどのような意味でしょうか。[[清国]]版が

>癸未三十六年七月二十三日

で[[越南]]原本が

>嗣德三十六年七月二十三日

でしょうか。
「癸未三十六年」
の[[ような表記][干支年元号年表示]]はどうにも不自然感が拭い去れません。
「癸未」
ではなく
「癸未三十六年」
とした理由はあるのでしょうか。
「三十六年」
を残したのは、
独自の[[元号]]は許されなくても[[諸侯王等即位紀年]]は許されるということなのでしょうか。


[118] 
この漢文原文とされるものでは、
[[越南]]は
「大南國」
と称しています。
それに対し、
和訳版は
「大安南國」
「安南國」
と書いていました。
もし[[越南]]版の真の原本でも「大南國」表記なのだとすると、
和訳版は[[越南]]を
「Annam」
と呼ぶ仏語版の影響下ということになります。

;; [125] 
なお和訳版は「安南國王」と書いています。
仏語版も「Roi d'Annam」 (安南國王) と書いています。
どちらも皇帝ではありません。

;; [137] 本条約に限らず当時の[[日本]]では[[越南]]を[[安南]]と呼んでいました。
[[阮朝]]は[[越南]]や[[大南]]と自称していましたが、
歴史的には長く[[安南]]とも称し、[[支那]]や[[日本]]では[[安南]]と知られていたようです。
[[仏国]]が[[安南]]と呼ぶのもそうした経緯によるものでしょうか。
原語がどうであれ和訳がこの国を[[安南]]と書いておかしいことはありませんが、
漢文からの和訳なら、もし原語が「大南」「越南」ならそのまま書きそうなものです。


[119] 
以上まとめると次のようになります。

- [120] [[仏国]]と[[越南]]の条約には[[正文]]の規定がありませんが、
[[仏語]]版と[[漢文]]版があったようです。
- [121] [[漢文]]版は[[清国]]に伝わりましたが、その過程で改変されているようです。
- [122] [[和訳]]版は少なくても2系統ありますが、
どちらも[[仏語]]版からの翻訳の可能性があります。
- [123] 各版、その細部、特に[[日付]]と[[署名]]に不一致が多く、
原本への忠実度には疑問があります。
- [124] [[和訳]]版のうち1系統には[[日付]]に
「協和元年」
と明記されていますが、
他の版にはこれに相当する記述が確認できません。

[126] 
従って本条約の和訳を根拠に「協和元年」が[[越南]]で実用されたと主張することは躊躇されます。

[REFS[

-
[109] 
[CITE@zh[[[第一次顺化条约]] - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2023-03-14T14:03:00.000Z]], [TIME[2023-03-30T13:36:35.214Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%80%E6%AC%A1%E9%A1%BA%E5%8C%96%E6%9D%A1%E7%BA%A6>
-
[100] 
[CITE@EN[L'affaire du Tonkin : histoire diplomatique de l'établissement de notre protectorat sur l'Annam et de notre conflit avec la Chine : 1882-1885 / par un diplomate | Gallica]], [TIME[2023-03-30T11:34:11.000Z]] <https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k763538/f424.item>
- [84] 
[CITE@ja-JP[東亜關係特種絛約彙纂]], [[東亜同文會 編纂]], [TIME[1904/5/25][1904-05-25]], [TIME[2023-03-28T10:25:00.000Z]], [TIME[2023-03-30T10:44:51.428Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2938191/1/179>
-
[101] 
[CITE[[[保護国論]] - 有賀長雄 - Google ブックス]], 
[TIME[1906]],
[TIME[2023-03-30T11:39:41.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=zp0vgjHSEEoC&pg=PP489>
- [94] 
[CITE@en[Treaty of Huế (1883) - [[Wikipedia]]]], [TIME[2023-03-26T19:51:34.000Z]], [TIME[2023-03-30T11:12:41.751Z]] <https://en.wikipedia.org/wiki/Treaty_of_Hu%E1%BA%BF_(1883)#Text_of_the_treaty_(original_French)>




]REFS]

-*-*-

[150] 
[TIME[清光緒30(1904)年][1904]]に[[張璜]]が編集した
[CITE[欧亜紀元合表]]
には、

- [[嗣德帝]]: [TIME[西暦1883年][1883]] 嗣德 36
- [[育徳帝]]: [TIME[西暦1883年][1883]] 育德 一作 欲德 1
-- [TIME[y~3822]]
- [[協和帝]]: [TIME[西暦1883年][1883]] 協和 一作 合和 1
-- [TIME[y~3821]], [TIME[y~3824]]
- [[建福帝]]: [TIME[西暦1884年][1884]] 建󠄁福 1

とあります。
[SRC[>>149]]

[151] 
本書は[[建福帝]]は即位翌年の改元としながら、
[[育徳帝]]と[[協和帝]]は即位当年の改元とするのが特徴です。
そして[[育徳帝]]と[[協和帝]]はそれぞれ2種類の表記を示していて、
それぞれ第1のものが現在知られている[[皇帝]]の称号と一致します。

[152] 
それぞれの2つの表記は、[[越南語]]や[[日本語]]では異なる漢字音ですが、
[[北京語]]や[[広東語]]では比較的近い音になっているようで、
[[漢人]]による伝達過程で発生した異表記かもしれません。

[153] 
[[元号]]としての[[育徳]]は本書が現在知られている最古の用例です。

[155] 
[TIME[昭和18(1943)年][1943]]に[[日本]]で出版された書籍には、

- [156] [V[西紀一八󠄂八󠄂三年七月一七日]]に[V[嗣德王]]が死去、
- [157] [V[欲德王]]が即位、[V[欲德]]と改元。
- [158] [V[四日の後]]、[V[合和王]]が即位。
- [159] [V[西紀一八󠄂八󠄂三年一一月二八󠄂日]]に[V[合和王]]が死去、
- [160] 新王が元を[V[建󠄁福]]に改める

とあります。
[SRC[>>154]]

[161] 
本書では[[育徳帝]]が即位と同時に[[改元]]したように書かれていて、
[[建福帝]]もそのように読めますが、
[[協和帝]]には[[改元]]の記述がなぜかありません。
[[育徳帝]]の[[元号]]と王号を欲徳、
[[協和帝]]の王号を合和とだけ書いていて、
[CITE@ja-JP[欧亜紀元合表]]
のいう「一作」の異説が単独で[[日本]]にも流通していたことがわかります。

[175] 
[TIME[公元1950年1月][1950-01]]に[[中華人民共和国]]で出版されたある書籍は、
初版が[TIME[公元1940年][1940]]、
その執筆が[TIME[公元1939年][1939]]とされますが、
[TIME[西暦1883年][1883]]7月に朗国公が即位して、
[[年号]]を[V[合和]]と名付けたとしています。
[SRC[>>174]]
出典は書かれていませんが、
当時[[中華民国]]または[[中華人民共和国]]で流通していた情報に基づくと思われます。



[170] 
[TIME[明治36(1903)年][1903]]に[[日本]]で出版された書籍の[[漢文]]による[[越南]]の略史には、
[TIME[西暦1902年][1902]]、一説[TIME[西暦1903年][1903]]に[V[欲德帝]]が即位し、
同年に[V[協 (或作合) 和帝]]が即位したとあります。
[SRC[>>169]]
この文書は[[阮朝]]初代まで[[元号]]が記述されていますが、
その後は[[一世一元]]のためか記述していません。
著者がこれらの[[皇帝]]名を[[元号]]とみなしていたかはわかりません。

[171] 
なおこの文章は[[清の元号]]に[[西暦]]を併記する形を取っていて、
例外的に[[明治]]を併記した箇所もあるものなので、
[[清国]]で流通した資料に基づくのかもしれません。

[173] 
この他[[近代日本]]の文献には欲德王、欲德帝、合和王、合和帝がたまに出現します。
[TIME[昭和6(1931)年][1931]]の書籍には、
協和帝の没後に弟の合和帝が即位したと書かれています
[SRC[>>172]]。

[REFS[
-
[169] 
[CITE@ja-JP[[[仏領印度支那]] : 一名仏国日南の新領土]], [[南条文雄, 高楠順次郎 述, 沢井常四郎]], [TIME[1903]], [TIME[2023-03-28T13:58:31.000Z]], [TIME[2023-04-01T08:03:28.245Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3441790/1/86> (要登録)
- [149] 
[CITE@ja-JP[欧亜紀元合表]], [[張璜 '''['''撰''']''']], [TIME[1968]], [TIME[2023-03-28T13:58:31.000Z]], [TIME[2023-04-01T06:34:35.093Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3449302/1/268> (要登録)
-
[172] 
[CITE@ja-JP[参考東洋歴史]], [[中山久四郎, 佐藤恵]], [TIME[昭和6][1931]], [TIME[2023-03-28T13:58:31.000Z]], [TIME[2023-04-01T08:17:45.853Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1176872/1/485>
-
[154] 
[CITE@ja-JP[[[東邦近世史]] 下卷]], [[田中萃一郎]], [TIME[昭和18][1943]], [TIME[2023-03-28T13:58:31.000Z]], [TIME[2023-04-01T06:57:46.305Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3440583/1/14> (要登録)
-
[174] 
[CITE@ja-JP[[[中国民族解放運動史]] 中]], [[華崗, 玉嶋信義 訳]], [TIME[1955]], [TIME[2023-03-28T13:58:31.000Z]], [TIME[2023-04-01T08:22:46.312Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2995163/1/55> (要登録)


]REFS]


-*-*-

[143] 
[[協和帝]]の即位年を[[元年]]とする[[協和]] ([TIME[y~3821]])
は、その後も20世紀、21世紀の歴史系の書籍等に出現しています。

[148] 
[TIME[昭和36(1961)年][1961]]に[[日本]]の[[京都大学]]が編集した歴史辞典では、
[[協和]]は[TIME[西暦1883年][1883]]とあります。
[SRC[>>147]]
[TIME[y~3821]]
系図に[[育徳帝]]という称号はありますが、[[育徳帝]]時代の[[元号]]はありません。



[18] 
[[越南語]]版[CITE[Wikipedia]]の[[越南の元号]]の[[一覧表][元号一覧]]には、

>
,Tự Đức 	,嗣德 	,1848–1883 	,Nguyễn Dực Tông
,[ASIS[][(同上)]],[ASIS[][(同上)]],[ASIS[][(同上)]],Nguyễn Cung Tông
,Hiệp Hòa 	,協和 	,1883–1883 	,Nguyễn Phúc Hồng Dật
,Kiến Phúc 	,建福 	,1883–1884 	,Nguyễn Giản Tông
,Hàm Nghi 	,咸宜 	,1885–1888 	,Nguyễn Phúc Ưng Lịch

とあります。
[SRC[>>16]]
[[育徳帝]]が[[嗣德]]になっていますが、
[[協和帝]]は[[嗣德]]でなく[[協和]]になっています。
[[協和]]は[TIME[西暦1883年][1883]]になっています ([[元年]]だとすれば [TIME[y~3821]])。
その次の[[建福]]もなぜか開始が[TIME[西暦1883年][1883]]になっています
([[元年]]だとすると [TIME[y~3833]])。
[[元号]]の期間と在位期間を混同したものでしょうか。

[28] 
[[中華民国台湾]]の事典サイト記事には、[[年号]]が

- 嗣德 Tự Đức 公元1847年-公元1883年
- (育德)公元1883年
- 協和 Hiệp Hoà 公元1883年
- 建福 Kiến Phúc 公元1883年-公元1884年
- 鹹宜 Hàm Nghi 公元1884年-公元1885年

とあります。 
[SRC[>>27]]
[[育德]]が括弧付きになっていますが、その意味は説明されていません。
[[国語]]表記も欠けています。
[[協和]]は[TIME[西暦1883年][1883]]になっています ([[元年]]だとすれば [TIME[y~3821]])。
[[建福]]と[[鹹宜]]はそれぞれ1年ずつ早くなっています。
[[元号]]の期間と在位期間を混同したものでしょうか。

;; [29] 
なお[[鹹]]の[[簡体字]]は[[咸]]で、
[[鹹宜]]は過剰に[[繁体字]]変換したものです。

[31] 
同サイト別記事に

>次年(1883年,嗣德三十六年、協和元年、建福元年)占領順安港,迫使阮朝簽訂《順化條約》,承認越南為法國保護國。[SNIP[]]

とあります。
[SRC[>>30]]
この[[協和]]と[[建福]]は >>28 の表と同じ数え方です。
[TIME[y~3821]]




[26] 
[TIME[公元2019年][2019]]の[[中華人民共和国]][[香港特別行政区]]で運営されていると思われるウェブサイトの記事には、

>嗣德三十五年(清光緒八年,1882年),法國再次出兵,攻打河內。
>
阮協和元年(清光緒九年,1883年),法軍佔領順安港,迫使阮朝簽訂《順化條約》,承認越南為法國保護國。
>[SNIP[]]
>又於阮協和二年(清光緒十年,1884年)控制整個越南,歸入法國在中南半島的殖民地之內,為此法國與越南的宗主國清朝爆發了清法戰爭(1883年至1885年);

とあります。
[SRC[>>25]]
[[協和]]が[TIME[西暦1883年][1883]]に始まるだけでなく、
その翌年まで協和2年としています。
[TIME[y~3821]]

[REFS[

-
[147] 
[CITE@ja-JP[東洋史辞典]], [[京都大学文学部東洋史研究室]], [TIME[1961]], [TIME[2023-03-28T13:58:31.000Z]], [TIME[2023-04-01T05:53:35.230Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3020899/1/418> (要登録)
-
[4] [CITE@vi[Niên hiệu Việt Nam – [[Wikipedia]] tiếng Việt]], [TIME[2023-03-11T09:58:43.000Z]], [TIME[2023-03-26T08:53:52.475Z]] <https://vi.wikipedia.org/wiki/Ni%C3%AAn_hi%E1%BB%87u_Vi%E1%BB%87t_Nam>
-
[27] 
[CITE@zh-TW[阮朝:阮朝(越南語:Nhà Nguyễn/家阮)是越南歷史上最後的朝代, -[[百科知識中文網]]]], [TIME[2023-03-27T13:21:03.000Z]], [TIME[2023-03-27T13:22:39.652Z]] <https://www.jendow.com.tw/wiki/%E9%98%AE%E6%9C%9D>
-
[30] 
[CITE@zh-TW[阮朝獨立時期:阮朝獨立時期(1802—1883年),是阮朝建立的前期,此 -[[百科知識中文網]]]], [TIME[2023-03-27T09:35:44.000Z]], [TIME[2023-03-27T13:29:45.340Z]] <https://www.jendow.com.tw/wiki/%E9%98%AE%E6%9C%9D%E7%8D%A8%E7%AB%8B%E6%99%82%E6%9C%9F>
-
[25] 
[CITE@zh-hk[法國是怎樣一步一步殖民越南的? - [[每日頭條]]]], 
2019-09-27,
[TIME[2023-03-27T13:13:46.000Z]] <https://kknews.cc/history/k4e3znr.html>



]REFS]

-*-*-

[177] 
[TIME[西暦1970年][1970]]出版以来[[越南]]の研究者がよく参照している
[CITE[Niên biểu Việt Nam]]
([CITE[年表越南]])
は、
Dục Đức (育徳)
と
Hiệp Hòa (協和)
を[[元号]]としています。
[SRC[>>176 2.]]




[3] 
[TIME[中華民国95(2006)年][2006]]の[[中華民国台湾]]の[[論文]]にまとめられた[[一覧表][元号一覧]]は、
[TIME[2001-10-10]]の[[日本]]の書籍
[CITE[角川世界史辞典]]
を元に作成されたと書かれていますが、

- [[育徳]] [TIME[西暦1883年][1883]]
[TIME[y~3822]]
- [[協和]] [TIME[西暦1883年][1883]]
[TIME[y~3821]]
- [[建福]] [TIME[西暦1884年][1884]]

としています。
[SRC[>>402]]
[[平成時代]]後期の[[日本]]の書籍
[CITE[日本年号史大事典]]
の一覧表もこれを踏襲しています。
[SRC[>>185]]

[2] 
[TIME[2005-05-19]]の[[日本]]の[[ブログ記事]]は、
[[越南の元号]]の[[一覧][元号一覧]]には必ず[[育徳]]と[[協和]]があると述べています。
[SRC[>>507]]
具体的にどこに掲載された表を指しているのか明らかにされていませんが、
そのような一覧が[[日本]]ではいくつも流通していたということなのでしょう。
ブログ著者はこれらの[[元号]]が実用されていないと推測しています。


[REFS[



[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[507] [CITE[使われなかった?[[年号]]: 年号迷路]],
2005年5月19日 (木),
[TIME[2016-02-08 22:43:06 +09:00]] 
<http://gaowei.cocolog-nifty.com/nengo/2005/05/post_6f2d.html>
]FIGCAPTION]

> 嗣徳36年(1883)7月嗣徳帝が死ぬと、養子(実は甥)の育徳帝が即位しますが、
> わずか三日で廃位。その後、嗣徳帝の弟の協和帝が即位するもの、11月末には毒
> を盛られ死亡。そして、やはり嗣徳帝の養子(甥)であった建福帝が即位します。と
> いうことで、この年は実に四人の皇帝が存在したわけです。
> 翌1884年が建福元年であったことは間違いないのですが、育徳元年・協和元年は
> 本当に存在したのか(育徳帝など、在位わずか三日間)。ここがよくわかりません。
> ベトナムの年号一覧には、かならず「育徳」「協和」年号があるのですが、実際には
> 使用されてはいないと考えるのが妥当ではないでしょうか。

]FIG]




-
[402] [CITE[[L[朝鮮とベトナムの年号についての一考察]]]],
[[[L[王福順]]]],
[TIME[民國九十五年九月][2006-09]],
[TIME[2016-01-25 12:41:21 +09:00]] 
<http://ir.hust.edu.tw/bitstream/310993100/395/1/7-06%20%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%92%8C%E8%B6%8A%E5%8D%97%E5%B9%B4%E8%99%9F%E5%88%B6%E5%BA%A6%E4%B9%8B%E6%8E%A2%E8%A8%8E.pdf#page=22>
-
[176] 
[CITE[[[Xây dựng các niên biểu lịch sử của Việt Nam]]]]
-
[184] 
[CITE[[[日本年号史大事典]]]]
--
[185] 
[CSECTION[[V[[WEAK(smaller)[コラム[YOKO[10]]]] 千年近く続いたベトナムの年号]]]],
[[[V[[YOKO[T]]]]]],
pp.206-207


]REFS]



-*-*-



[166] 
無から[[元号]]が湧いてきて増殖していく怪現象、怖いですね。

[167] 
[[古代年号]]なんかもそうですが、あるべきものがないせいで、
何かあったのだろうという意識が虚像を見せてしまうのでしょうね。
でもそれは実態のない虚構なので見る人によって違って見えてしまって、
正しいものに修正しようという力も働かないのでどんどん増殖しちゃう。

[168] 
「ない」ことが情報として伝わりにくく検証しにくいというのはまさに[[幽霊]]的性質。


