[231] 
[DFN[白鹿]]は、[[日本の私年号]]の1つです。
[[南北朝時代]]頃に使われたと考えられています。

* 元号名


[230] [[元号名]]は[[白鹿]]です。

[287] 
[[読み][元号の読み方]]は
「はくろく」 [SRC[>>300, >>43, >>36]]
「はくか」 [SRC[>>9 /59]]
とされます。



@@
[344] 
[CITE@ja-JP[岩手の懸仏]], [[岩手県立博物館]], [TIME[1984.3][1984]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-22T12:58:50.170Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12424053/1/40> (要登録)

** 白禄

[195] [DFN[白禄]] ([[旧字体]]: [DFN[白祿]])
は、
[[近代日本]]で[[私年号]]の1つと紹介されていた[[元号]]です。
[[白鹿]]の誤記または[[誤植]]で発生したと推測されます。

[288] 
[[読み][元号の読み方]]は「はくろく」
[SRC[>>9]]
とされます。

[180] 
次の辞典・年表は、[[白禄]]を延元2年としていました。 [SRC[>>172]]

- [173] 重田定一氏など編 [CITE[国史便覧]] 明治33年 
- [174] 吉川弘文館 [CITE[国史大辞典]] 明治41年 
- [175] [ASIS[冨山房]] [CITE[日本百科大辞典]] 明治44年
- [176] 冨山房 [CITE[国史辞典]] 昭和18年 
- [177] 創元社 [CITE[日本史辞典]] 昭和29年 
- [178] 河出書房新社 [CITE[日本歴史大辞典]] 昭和33年 
- [179] 稲村坦元氏 [CITE[日本史巡見の手引]] 昭和37年 

[197] 
[CITE[日本百科大辞典]]の一覧表には掲載がなく [SRC[>>45]]、
[CITE[日本私年号の研究]]の誤植と思われます。

[181] このうち[CITE[国史便覧]]以外は[[白鹿]]も興国2年説または興国6年説を掲載していました。
[SRC[>>172]]

[192] 
明治33年の[CITE[国史便覧]]には、
[[白禄]]が延元元年の[[私年號]]で2年継続したと掲載されています。
[SRC[>>190]]

;; [193] 明治33年は改訂3版ですが、明治31年の版には[[白禄]]や[[白鹿]]は掲載されていません。
[SRC[>>189]]


[56] 
[TIME[明治41(1908)年][1908]]の
[CITE@ja-JP[国民百科辞典]]
は、
[[白祿]]を[[後醍醐天皇]]の時代の[[私年號]]としました。
[SRC[>>44]]

[139] 
昭和5年の[[石田茂作]]の論文の[[私年号]]リストでは、
[[白祿]]を[TIME[西暦1336年][1336]]、
[[白鹿]]を[TIME[西暦1341年][1341]]としていました。
[SEE[ [[日本私年号一覧表]] ]]
当時のいずれかの辞典類に基づき作成したものなのでしょう。


[130] 
[[昭和時代]]中期の
[CITE[日本歴史大辞典]]
は、
[RUBY[[[白祿]]][はくろく]]を[[南朝]]の[[私年号]]としました。
[[得江文書]]の記載を根拠に[[元年]]は[TIME[延元元(1336)年][1336]]に当たり、
継続期間は不明としました。
[SRC[>>9]]

[185] 
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
[[白禄]]が示された辞典類を紹介し (>>180)、ほとんどの書に延元元年説が紹介されながら、
これに関する資料の所在を明示したものはないとしています。
[SRC[>>184]]

[186] 
[CITE[日本私年号の研究]]は、
わずかに[[冨山房]]の[CITE[国史辞典]]が[[白鹿]]に関して[[得江文書]]を挙げているものの、
[[得江文書]]には[[白鹿]]のみで[[白禄]]しかないとします。
[SRC[>>184]]
これはちょっと意味が取りづらいので[CITE[国史辞典]]を参照すると、
[[白祿]]には[[得江文書]]が、
[[白鹿]]には[[得江文書]]と[[西源院]]本[CITE[太平記]]が備考として挙げられています。
[SRC[>>187]]
実は他にも[[得江文書]]を出典に示したものはあります (>>130)。

[188] 
また、
[CITE[日本私年号の研究]]は[[黒板勝美]]の[CITE[更訂国史の研究]]に白鹿2年を従来延元2年としたのは誤りらしいと書かれているのを引いて、
現状[[白禄]]は[[私年号]]から除外するべきと思うと述べています。
[[白禄]]は[[白鹿]]の誤りで、
延元2年を[[元年]]とする[[白鹿]]の旧説と結びついたものにすぎず、
[[白禄]]が[[私年号]]として実用されたものとする根拠はない、ということです。
[SRC[>>187]]

[133] 
[[得江文書]]から延元元年と確定させるのは無理で、
そもそも[[白鹿]]なので、
[[白禄]]を[[得江文書]]から引いている[[辞典]]類の筆者が信頼できる出典を確認していないのは確実です。
[[伝言ゲーム]]が発生しています。


[194] 
現在知られている最古は明治33年で (>>192)、
これが初出かどうかは不明ながら、
その頃[[白鹿]]から誤って[[白禄]]に転じた可能性が高いと考えられます。
以後の辞書類は先行する辞書類に掲載された[[白禄]]をそのまま転載したと考えられます。
また、[[白鹿]]が延元説から興国説に改められた後に、
[[白禄]]が[[白鹿]]の誤りであることに気付かずに両方掲載する辞書類が出てきたと考えられます。

[198] 
しかし
[CITE[国史辞典]]が[[得江文書]]を出典に挙げているのは謎です。
それ以前の表には出典の記載がありません。
現在知られていない資料で「白禄の出典が得江文書」と書いて[[白鹿]]は書いていないものが
[CITE[国史辞典]]以前にもあるのでしょうか。
それとも[CITE[国史辞典]]の編集者が雑に書き足したのでしょうか (そんなことあるでしょうか)。



[REFS[

-
[189] 
[CITE@ja-JP[国史便覧]], [[重田定一 等編]], [TIME[明31.3][1898]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-16T08:54:15.863Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/769393/1/77>
- [190] 
[CITE@ja-JP[国史便覧]], [[重田定一 等編]], [TIME[明33.11][1900]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-16T08:55:49.534Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/769394/1/20>
-- [191] 改訂3版
-
[44] 
[CITE@ja-JP[国民百科辞典]], [[富山房編輯局]], [TIME[明41.12][1908]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-13T12:14:43.346Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/897520/1/417> (要登録)
-
[196] 
[CITE@ja-JP[[[国史大辞典]] __&&[&&__本編__&&]&&__]], [[八代国治, 早川純三郎, 井野辺茂雄]], [TIME[1908]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-16T09:12:59.391Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/992408/1/670>
- [187] 
[CITE@ja-JP[[[国史辞典]] 第4]], [[富山房国史辞典編纂部]], [TIME[昭和18][1943]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-16T08:40:56.660Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3431611/1/416> (要登録)
-
[9] [CITE@ja-JP[[[日本歴史大辞典]] 第15巻 (ぬーひり)]], 
[[河出書房新社]], [TIME[1959]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-29T08:34:06.032Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2999852/1/61> (要登録)
- [11] [CITE[日本私年号の研究]]
-- [172] pp.[V[一九八󠄃]]-[V[二〇〇]]
-- [184] pp.[V[二二四]]-[V[二二五]], p.[V[二四三]]
-- [218] pp.[V[二五九]]-[V[二六一]], pp.[V[二六九]]-[V[二七五]]

]REFS]


[326] 
[CITE@ja[youryou_koten.pdf]], [TIME[2018-04-20T03:19:01.000Z]], [TIME[2024-02-29T14:05:41.901Z]] <https://www.nijl.ac.jp/pages/images/youryou_koten.pdf#page=64>

[327] 
>>327 平成2年改訂、平成16年発行。

- 白禄 興国6年 - 
- 白鹿 興国6年 - 興国7年? -





** 元号名の意味

[259] 
制定の記録がなく意味は不明です。

[260] 
[[白鹿]]は他の[[私年号]]の多くと違って仏教的色彩を感じません。 [SRC[>>218]]

[261] 
「白」は[[白雉]]、[[白鳳]]等[[奈良時代]]以前の用例があります。
[[讖緯説]]では[[吉]]を表します。
[SRC[>>218]]

[262] 
「鹿」は他の[[元号名]]にほとんどありません ([[私年号]]で[[弥鹿]]があります)。
[[亀]]などのように[[祥瑞]]を表すとも考えられます。
武運の神として[[八幡社]]との関係も考えられます。
[SRC[>>218]]

[263] 
[CITE[日本私年号の研究]]はこの用字から復古的なものを感じたり、
[[和勝]]や[[迎雲]]などと一連の性格を持つとしています。
[SRC[>>218]]

[264] 
しかし[CITE[日本私年号の研究]]はこの時期の[[私年号]]を公家的、儒教的な性格の強いものと非公家的、武家的な内容のものに2分していて、
[[白鹿]]は後者に入れています。
[SRC[>>218]]
これは[[建武政権]]の性格や[[北陸朝廷]]説との整合性を考えるとき違和感がないでもありません。


* 紀年法

[222] 
[[白鹿]]の[[元年]]について、

- [223] 延元元年説
- [224] 興国2年説
- [225] 興国6年説

の3説があります。

[FIG(table)[

:ad:[[西暦]]
:k:[[干支年]]
:n:北朝
:s:南朝 (現行説)
:so:南朝旧説
:rn:竜安寺本[CITE[太平記]]京
:rs:竜安寺本[CITE[太平記]]南
:1:延元元年説
:2:興国6年説
:3:興国2年説
:e:出来事

:ad:[TIME[1336]]
:s:建武3/延元1
:k:丙子
:n:建武3
:e:[[恒良親王]]北行
:1:延元1/'''白鹿1'''

:ad:[TIME[1337]]
:k:丁丑
:s:延元2
:n:建武4
:e:[[金ヶ崎]]落城
:1:'''白鹿2'''

:ad:[TIME[1338]]
:k:戊寅
:s:延元3
:n:建武5/暦応1

:ad:[TIME[1339]]
:k:己卯
:s:延元4
:n:暦応2
:so:興国1
:rn:暦応2
:rs:興国1

:ad:[TIME[1340]]
:k:庚辰
:n:暦応3
:s:延元5/興国1
:so:興国2

:ad:[TIME[1341]]
:k:辛巳
:n:暦応4
:s:興国2
:so:興国3
:3:'''白鹿1'''

:ad:[TIME[1342]]
:k:壬午
:n:暦応5/康永1
:s:興国3
:so:興国4
:rn:康永1
:rs:興国5
:3:'''白鹿2'''

:ad:[TIME[1343]]
:s:興国4
:k:癸未
:n:康永2
:so:興国5

:ad:[TIME[1344]]
:s:興国5
:k:甲申
:n:康永3
:so:興国6

:ad:[TIME[1345]]
:s:興国6
:k:乙酉
:n:康永4/貞和1
:so:興国7
:rn:貞和1
:rs:'''白鹿1'''
:2:'''白鹿1'''

:ad:[TIME[1346]]
:k:丙戌
:n:貞和2
:s:興国7/正平1
:rn:貞和2
:rs:正平1
:2:'''白鹿2'''

:ad:[TIME[1347]]
:k:丁亥
:s:正平2
:n:貞和3

:ad:[TIME[1348]]
:k:戊子
:s:正平3
:n:貞和4

:ad:[TIME[1349]]
:k:己丑
:s:正平4
:n:貞和5

:ad:[TIME[1350]]
:k:庚寅
:n:貞和6/観応1
:s:正平5
:rn:観応1
:rs:正平5


]FIG]

** 延元元年

[228] 
[[白鹿]]の元年を南朝延元元年、2年を延元2年に比定する説があります。

[229] 
[[明治時代]]中頃に提唱されました。現在では支持されていません。 (>>74)


** 興国2年説

[226] 
[[白鹿]]の元年を南朝興国2年、2年を興国3年に比定する説があります。

[183] 次の辞典類は[[白鹿]]の興国2年説を掲載していたとされます。 [SRC[>>172]]

- [56] 吉川弘文館 [CITE[国史大辞典]] 明治41年
- [58] 平凡社 [CITE[大百科辞典]] 昭和7年
- [62] 創元社 [CITE[日本史辞典]] 昭和29年 [SRC[>>289]]

[219] 
興国2年説が何を根拠とするのか不明です。

[220] 
現在知られている初出が明治41年です [SRC[>>196]] が、
明治40年に[CITE[大日本史料]]が出版されています (>>52)。
[CITE[大日本史料]]で興国2年状に白鹿2年文書が掛けられたことによるのかもしれません。


[REFS[

- [289] 
[CITE@ja-JP[日本史辞典]], [[京都大学文学部国史研究室]], [TIME[1954]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-16T14:12:10.530Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3020238/1/405> (要登録)

]REFS]

** 興国6年説


[227] 
[[白鹿]]の元年を南朝興国6年、2年を興国7年 = 正平元年に比定する説があります。

[302] 
[[明治時代]]末期から現在までの通説です。

[304] 
この説の現在知られる最古の記録は[[竜安寺]]本[CITE[太平記]]奥書で、
[[白鹿]]の[[元年]]が興国6年に当たる年として、
その翌年が[[正平]]に[[改元]]された年としています
(>>59)。

[305] 
この説が再発見されたのが[[明治時代]]末期でした。
正確な時期は不明ですが、明治44年には早くも出版されています。


[55] 
明治44年の
[CITE[日本百科大辞典]]
は、
白鹿2年を興国6年にあたる[[私年號]]とし、出典に[[得江文書]]、
[CITE[天寧寺本年代記]]、
[ASIS[淸]]源院本[CITE[太平記]]を挙げていました。
[SRC[>>45]]

;; [71] 
[TIME[興国6(1345)年][1345]]は正確には白鹿元年に当たるべきで、
表の書き方がわかりにくいのです。

[57] 
[TIME[昭和6(1931)年][1931]]、
歴史研究者として高名な[[黒板勝美]]は、
[[私年號]]の実例として[[得江文書]]の白鹿2年を紹介しました。
[ASIS[生]]源院本[CITE[太平記]]から正平元年と推定され、
従来の延元2年は誤りらしいと述べています。
なお、[[近世]]の研究者の[[私年号一覧][日本私年号一覧表]]に漏れていたことにも言及しています。
[SRC[>>8]]

[58] 
[TIME[昭和13(1938)年][1938]]の
[CITE[石川県史]]
は、
白鹿2年が正平元年の[[異年號]]であるのは世に知られる所だと述べています。
[SRC[>>6 /412, >>7]]

[99] 
>>30 には[[西源院]]本[CITE[太平記]]の解説があり、
[[得江文書]]に触れつつ、
正平元年の[[逸年號]]でおそらく北陸方面の官軍が使ったのだとしています。

[182] 次の辞典類は[[白鹿]]の興国6年説を掲載していました。 [SRC[>>172]]

- [57] [ASIS[冨山房]] [CITE[日本百科大辞典]] 明治44年
- [59] 黒板勝美氏 [CITE[更訂国史研究年表]] 昭和11年
- [60] 辻󠄁善之助氏 [CITE[大日本年表]] 昭和16年
- [61] 冨山房 [CITE[国史辞典]] 昭和18年


[291] 
[CITE[日本歴史大辞典]]は興国6年としています
[SRC[>>290, >>9 /59]]。

[NOTE[

[292] [CITE[日本私年号の研究]]の表では

- [64] 河出書房新社 [CITE[日本歴史大辞典]] 昭和33年
- [65] 稲村坦元氏 [CITE[日本史巡見の手引]] 昭和37年

を興国2年説かのように表示しています [SRC[>>172]]。
しかも本文中と巻末の表で違いもあって、巻末の表では
[CITE[日本史辞典]]
が興国6年説かのように表示しています
[SRC[>>172 p.[V[五三一]]]]。

[293] 
これはおそらく「[V[〃]]」記号で同上を表した表に後から同上ではない項目を追加したことと、
しかも巻末の表で同上ではない「[V[興国二]]」を挿入する位置を誤ってしまったという2つのミスが重なった結果と思われます。

[294] 
この推測が正しいなら[CITE[日本史巡見の手引]]も興国2年説のように見えて実は興国6年説と考えられますが、
未見です。



]NOTE]

[301] >>300 は興国6年説としています。


[199] 
[[昭和時代]]中期の[CITE[日本私年号の研究]]
は、

- [200] [[得江文書]]から[[菅政友]]が延元説を唱えたこと (>>74)
- [201] 誤って[[白禄]]が生じたこと  (>>185)
- [202] [[竜安寺]]本[CITE[太平記]]により興国6年と判明したこと
- [203] [[天寧寺本[CITE[年代記]]]]にあるといわれること (>>206)
- [204] 興国2年説もあること (>>183)

を紹介して、
興国6年説を採用しています。
[SRC[>>184]]

[216] 
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
この他に[[弥鹿]]について、
[[弥勒]]と発音は一致するものの[[干支年]]は一致せず、
[[白鹿]]の貞和元年説とすれば[[干支年]]が一致すると紹介しています。
しかし書体や内容など検討を要するともしていて、注釈にとどめています。
[SRC[>>184]]

;; [217] これはおそらく[[干支年]]の一致に加えて「鹿」
という[[元号名]]で珍しい文字の一致も鑑みているのでしょう。
しかしながら「白鹿」と「弥鹿」では1文字目の発音も字形もまったく異なります。
それで[[白鹿]]と関連付けるのも躊躇されたのでしょう。
「弥鹿」は単独で[[私年号]]として立項しても良さそうなものなのに、
なぜか注釈止まりになっています。そのためなのか後続の研究者も特に注意を払っていません。
時代的には60年後とし[[弥勒]]系[[私年号]]の一種とする方が良さそうに思われます。
[SEE[ [[弥鹿]] ]]

[349] 
>>348 は[[昭和時代]]後期の辞典で、
[[白鹿]]は[TIME[西暦1345年][1345]]と[TIME[西暦1346年][1346]]としています。

[138] 
>>40 は[[平成時代]]前半の[[能登]]の歴史解説サイトで、
[[白鹿]]を[[南朝]]の[[私年号]]としていて、
興国6年説を採用しているようです。

[140] 
[[平成時代]]の[[千々和到]]の表や[CITE[日本年号史大事典]]や[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]
[SRC[>>10]] は、
興国6年説を採用しています。
[SEE[ [[日本私年号一覧表]] ]]

[205] >>47 は[CITE[日本私年号の研究]]から3資料を紹介しています。

[325] >>373 も[CITE[日本私年号の研究]]系統と思われます。

[REFS[

-
[45] 
[CITE@ja-JP[日本百科大辞典 第5巻]], [[三省堂編輯所]], 
[V[明治四十四年十二月一日印刷]],
[V[明治四十四年十二月五日發行]] [WEAK[([TIME[1911-12-05]])]],
[TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-13T12:40:59.159Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/898069/1/122> (要登録)
-
[8] [CITE@ja-JP[[[国史の研究]] 総説]], [[黒板勝美]], [TIME[昭和6][1931]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-29T03:49:56.980Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1075909/1/86>
-
[7] 
[CITE@ja-JP[加能郷土辞彙]], [[日置謙]], [TIME[昭和17][1942]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:34:28.861Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1123720/1/32>
右
-
[30] [CITE@ja-JP[日本文学講座 苐三巻]], [[新潮社]], [TIME[1927-1928][1928]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-05T09:03:41.251Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1884955/1/269> (要登録)
- 
[290] 
[CITE@ja-JP[[[日本歴史大辞典]] 第9巻 (さかーしは)]], [[河出書房新社]], [TIME[1958]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-16T14:16:09.756Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2998379/1/169> (要登録)
-
[300] 
[CITE@ja-JP[[[日本の歴史]] 第5巻 (北朝と南朝)]], [[岡田章雄, 豊田武, 和歌森太郎]], [TIME[1959]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-16T15:36:47.786Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3004397/1/170> (要登録)
-
[348] 
[CITE@ja-JP[年表日本歴史 3]], [[井上光貞 '''['''ほか''']'''編集]], [TIME[1981.11][1981]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T12:45:06.088Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12193825/1/89?keyword=%E7%99%BD%E9%B9%BF> (要登録)


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[40] [CITE[得江氏]], 
2001年3月14日作成,
[TIME[2024-02-13T09:47:36.000Z]] <http://geo.d51498.com/CollegeLife-Labo/6989/TheTokues.htm>
]FIGCAPTION]

>
暦応2年(1339)[B[得江九郎頼員(よりかず)]]は、越前国に出陣し、越前守護斯波高経(しばたかつね)に軍忠の証判を受けています。また暦応3年(1340)には、得江頼員は能登守護吉見頼隆やその一族吉見十郎三郎に属し、越前に出陣し、頼隆に軍忠の証判を受け、高経には感状を得ています。翌年宮方の越中国司中院良定(なかのいんよしさだ)から頼員に対し、軍勢の督促が行われたが、応じた様子はみられず、吉見頼隆に属し越前に出陣した。康永4年(1345)から翌年にかけ、前越中守護井上俊清らとの戦いでも頼隆、氏頼に従って越中に出陣しました。この間、宮方の私年号(白鹿)を持つ感状が中院から頼員に発給されている。

]FIG]

-
[47] [CITE[越前の新田義貞考(上): ~歴史研究学習資料~ - 福井・新田塚郷土歴史研究会 - Google ブックス]], 
[TIME[2013]],
[TIME[2024-02-13T13:11:27.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=Sa1EAgAAQBAJ&pg=PT68>



[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,白鹿 	,- 	,興国6年/貞和元年(1345年) 	,不明 	,『得江文書』、竜安寺蔵『太平記』奥書
]FIG]



[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[373] [CITE@ja[[[迎雲]](げいうん)とは - [[コトバンク]]]]
([[,世界大百科事典内言及]] 著, [TIME[2016-01-23 22:33:14 +09:00]] 版)
<https://kotobank.jp/word/%E8%BF%8E%E9%9B%B2-1308471>
]FIGCAPTION]

> まず1167年(仁安2)に当たる保寿の年号は,平清盛の全盛時,平氏と藤原氏の対立を背景に,藤原氏の息災を願う者の使用するところ,また90年(建久1)に当たる和勝・迎雲の年号は,ともに源平争乱の終結(和勝にはより明示的に源氏の勝利の含意がある)による平和の再来をことほぐ者の使用するところであって,いずれも個別特定の願意や祝意を,正年号を拒否する政治的態度をもって表明したもので,異年号のもつ基本的性格の一つを示している。 南北朝時代に入ると,1345年(興国6∥貞和1)能登に白鹿,駿河に応治の年号が現れ,いずれもそれぞれの地方における反北朝(南朝系)の人々の使用と考えられている。

]FIG]




]REFS]

@@
[BOX[

[345] 
[CITE@ja-JP[羽咋市史 中世・社寺編]], [[編集: 羽咋市史編さん委員会]], [TIME[1975]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-03T15:57:01.041Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536989/1/56?keyword=%E7%99%BD%E9%B9%BF> (要登録)

]BOX]



* 資料

[221] 
現在までに文書1件、板碑1件、年表類2件が知られています。

** 得江文書

[51] 
[[得江文書]]に「白鹿二年」付[[文書]]があります。
また、文中に「中院右中将」の名がある点など共通する興国2年付[[文書]]があります。

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [49] [DATA(.label)[[[得江文書]]]]
-- [48] 「[DATA(.text)[[V[興國二年三月二日]]]]」
[SRC[>>46 /381, >>6 /196]]
-- [53] >>46 /382 に白黒写真あり、不鮮明
- [49] [DATA(.label)[[[得江文書]]]]
-- [50] 「[DATA(.text)[[V[白鹿二年卯月廿日]]]]」
[SRC[>>46 /381, >>6 /197]]
-- [54] >>46 /382 に白黒写真あり、不鮮明

]ITEMS]

[52] 
[TIME[明治40(1907)年][1907]]の
[CITE[大日本史料]]は、
南朝興国2年北朝暦応4年の3月2日己酉条にこの2文書を掛けています。
[SRC[>>46 /381]]
[[白鹿]]の[[年号]]は他に徴証なく何年に当たるか定かではないため、
関連すると思われる興国2年文書と共に掲載したと注釈があります。
[SRC[>>46 /383]]


[REFS[

- [46] 
[CITE@ja-JP[大日本史料 第6編之6]], [[東京大学史料編纂所]], 
[V[明治四十年三月十五日印刷]],
[V[明治四十年三月十六日發行]] [WEAK[([TIME[1907-03-16]])]],
[TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-13T12:54:02.306Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/782844/1/381>
/382
/383
-
[6] [CITE@ja-JP[[[石川県史]] 第1編]], [[石川県]], 
[V[昭和十三年三月二十五日印刷]],
[V[昭和十三年三月三十一日發行]] [WEAK[([TIME[1938-03-31]])]],
[TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:32:52.724Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1184419/1/412>


]REFS]

[341] 
[CITE[花押データベース - 詳細]], [TIME[2024-07-30T13:44:32.000Z]] <https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w19/detail/00001462?dispid=disp02>

> 【和暦年月日】
白鹿2年卯月20日(13460040200)

> 【備考】
袖判。白鹿ハ北陸ノ南朝方ノ使用セル私年号。

** 白鹿3年板碑


[ITEMS[ [[日時事例]]

- [142] 
[DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[群馬県]][[多野郡]][[上野村]][[楢原]]]] [[浜平観音堂]] [[板碑]]]]
-- [143] 
「[DATA(.text)[[V[白鹿三年]]]]」「[DATA(.text)[[V[二月]]]]」
[SRC[>>141 [V[九三九]], >>145]] 
--- [146] >>141 は「[V[鹿]]」に「[V[(カ)]]」と注釈[[右ルビ]]。

]ITEMS]

[144] 
>>141 は[[白鹿]]は[[私年号]]で貞和元年としています。つまり興国6年説です。
特に根拠はなく通説に従ったまでと思われます。
なお同書中に同地域同時代の他の[[板碑]]は見当たりません。

[147] 
>>143 は[[私年号]]としています。康永4年に排列しています。つまり興国6年説です。
特に根拠はなく通説に従ったまでと思われます。

[148] 
この[[板碑]]は[[昭和時代]]末期 [SRC[>>141]] 
に初めて報告されたとみられます。
[[私年号研究]]や[[南朝]]研究では[[平成時代]]を通じて見落とされてきたようで、
論文やウェブサイトから参照された例は見当たりません。

[149] 
2文字目が正しく読まれているのか不安はありますが、
その辺を深く検討した記録も見当たりません。

[328] 
[[紀年]]以外の[[板碑]]の様式等による年代が検討されたのかは不明です。

[29] 
[[群馬県]]域にあるこの[[板碑]]がまさしく「白鹿」であるなら、
[[北陸]]で[[得江文書]]が発見されたことを唯一の根拠とする[[北陸王朝]]元号説は再検討を[[余儀なくされます][現存最古を発生と誤認した事案]]。

[303] 
白鹿2年に[[正平]]に[[改元]]されたとする[[竜安寺]]本[CITE[太平記]]奥書説からすると1年の[[延長年号]]に当たります。


[REFS[

- [141] 
[CITE@ja-JP[[[群馬県史]] 資料編 8 (中世 4 金石文)]], [[群馬県史編さん委員会]], [TIME[1988.3][1988]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-15T12:39:50.357Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9644240/1/298> (要登録)
- [145] 
[CITE@ja-JP[歴史考古学 (31)]], [[歴史考古学研究会]], [TIME[1992-12]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-15T12:45:19.718Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7951479/1/54> (要登録)


]REFS]



** 竜安寺本[CITE[太平記]]

[59] 
[[竜安寺]]本[CITE[太平記]]卷廿五の[[奥書]]に、

>
[VRL[

京方貞和元年乙酉、南方號白鹿元年、同京方貞和二年丙戌、南方移正平、

]VRL]

とあります。 [SRC[>>18, >>13]]

[88] >>17 /40 に白黒写真があります。焼けた後の状態です。

[100] >>30, >>33 に白黒写真があります。焼ける前です。

[60] 
つまり[TIME[北朝貞和元(1345)年乙酉 (通説では南朝興国6年)][1345]] 
が[[南朝]]では白鹿元年で、
[TIME[北朝貞和2(1346)年丙戌][1346]]が[[南朝]]では正平元年に[[改元]]された[[年]]とのことです。


[86] 
この部分の後には「天龍寺焼失」の日付が3つ
(延文3年戊戌正月4日夜、
貞治6年丁未3月29日夜、
応安6年癸丑9月28日夜)
書かれています。
[SRC[>>17 /40]]


[89] 
似たような記述は他の巻末にもあります。

- [90] 
19巻末
「[V[京方年號曆應二年己卯、南方年號興國元年也、[SNIP[]]]]」
[SRC[>>18 /638]]
-- [93] 興国は[[1年ずれ]]旧説。現行説では興国0年 = 延元4年 [SEE[ [[興国]] ]]
- [91] 
21巻末手前
「[V[京方年號康永改元壬午、宮方興國五年也、]]」
[SRC[>>18 /696]]
-- [94] 興国旧説なら興国4年、現行説なら興国3年のはず
- [92] 
28巻末手前
「[V[京方年號觀應改元庚寅、南方年號正平󠄃五年也、]]」
[SRC[>>18 /868]]
-- [95] [TIME[1350]]


[96] 
なお、「延元」「正平」は本文中にも用例あるのに対して「興国」「白鹿」は本文中に出現しません。


[73] 
[[昭和時代]]初期の翻刻本出版時の解説によると、
これら巻末の記述は[CITE[太平記]]作者ではなく後人の注記と推測されながら、
本文と[[同筆]]であり、
西源院本の原本たる応永本に既に存在したと考えられます。
[SRC[>>18 /21]]



[70] 
[TIME[1913-11-01]]から[TIME[1913-11-03]]に[[東京帝国大学]]資料編纂掛が開催した第六囘史料展覧會で、
竜安寺所蔵西源院本[CITE[太平記]]が展示されました。
[CITE[考古学雑誌]]の報告では、
25巻奥書が「[V[殊に研究に資すべき條項]]」だと特に言及されました。
[SRC[>>12]]

[72] [[西源院]]は[[竜安寺]]の[[塔頭]]で、
かつて[[西源院]]所蔵だったことから西源院本といわれていました。
[SRC[>>12, >>33]]

[31] 
伝来は明らかではなく、[[細川勝元]]が所持したものかもしれないともいわれます。
足利時代中期を下るものではなかろうといわれます。
[SRC[>>33]]

[87] この写本は火災により周辺が損失していますが、該当部分は焼け残った部分にあります。
[SRC[>>17 /40]]
焼けたのは昭和3年のことで、昭和4年に修復作業がありました [SRC[>>150]]。

;; [151] [[白鹿]]の記載部分が綺麗に残ったのは不幸中の幸いです。

[REFS[

-
[33] 
[CITE@ja-JP[[[新釈日本文学叢書]] 第六巻]], [[日本文学叢書刊行会]], [TIME[昭和3][1928]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-10T03:29:33.908Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1884217/1/7> (要登録)
-
[34] [CITE@ja-JP[[[新釈日本文学叢書]] 第七巻]], [[日本文学叢書刊行会]], [TIME[昭和5][1930]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-10T03:30:46.524Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1884227/1/13> (要登録)
-
[18] [CITE@ja-JP[[[太平記]] : 西源院本]], [[鷲尾順敬 校訂]], [TIME[昭11][1936]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:43:13.113Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1230899/1/761> (要登録)
-
[12] [CITE@ja-JP[[[考古学雑誌]] = Journal of the Archaeological Society of Nippon 4(4)]], [[日本考古学会]], [TIME[1913-12]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:37:49.219Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3548186/1/35> (要登録)
-
[17] 
[CITE@ja-JP[軍戦記展覧会目録]], [[石川県図書館協会]], [TIME[昭10][1935]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:42:12.554Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1218703/1/63>
/40
- [150] 
[CITE@ja-JP[田山方南先生華甲記念論文集]], [[田山方南先生華甲記念会]], [TIME[1963]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-15T12:58:56.664Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3020249/1/394> (要登録)


]REFS]

** 天寧寺本[CITE[年代記]]

[206] 
明治44年の[CITE[日本百科大辞典]]は、
[[白鹿]]の出典の1つに[[天寧寺本[CITE[年代記]]]]を挙げています。
[SRC[>>45]]


[208] 
[[天寧寺本[CITE[年代記]]]]は[[東京大学]][[史料編纂所]]に影写本が所蔵されているようです [SRC[>>210, >>215]]。
[CITE[大日本史料]]がいくつか引用しています。
しかし[[白鹿]]は含まれません。
おそらく[[年代記]]としての年号記述部分で使われているので引用対象には入っていないのでしょう。

[209] 
現在ウェブ上に画像や翻刻は見当たりません。

[211] 
[[天寧寺本[CITE[年代記]]]]は[[丹波国]][[天田郡]]の[[天寧寺]]の所蔵です。
四条天皇寛喜元年から後水尾天皇寛永3年までが現存します。
[[真福寺]]所蔵[CITE[和漢年代暦]]の系統の[[年代記類]]と推測されています。
[SRC[>>210]]

[207] 
[[昭和時代]]中期の[CITE[日本私年号の研究]]はこれを紹介しつつも
(ただし[ASIS[冨山房]]の[CITE[日本百科大辞典]]とするのは誤り)、
掲載されているらしいと伝聞だけで詳細を示していません。
[SRC[>>184]]

;; [258] 
[[久保常晴]]は[[天寧寺本[CITE[年代記]]]]を実見できなかったようです。
[CITE[日本私年号の研究]]は所在を[[京都市]]としてますが [SRC[>>218]]、
[[天寧寺]]は[[京都市]]と[[福知山市]]にあり、
[[丹波]]なので後者を指すと考えるべきです。
[CITE[日本私年号の研究]]では[[天寧寺本[CITE[年代記]]]]の「[V[白鹿]]」
を興国6年に当たると一覧表では掲載していますが [SRC[>>218]]、
[CITE[日本百科大辞典]]の記述をそのまま表に載せただけと思われます。


[212] 
他の研究者はなぜか本書に触れていません。

[213] 
[[年代記]]であればいつからいつまでが[[白鹿]]とされているのかなど、
もう少し情報がありそうなものですが...

[214] 
現状では情報がまったくなく、
他の[[白鹿]]の用例と整合しているのかすら不明とせざるを得ません。

[REFS[
- [210] 
[CITE@ja-JP[日本古典の成立の研究]], [[平田俊春]], [TIME[1959]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-16T09:53:48.023Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3006623/1/594> (要登録)
- [215] 
[CITE[所蔵史料目録データベース(Hi-CAT) - 詳細(全表示)]], [TIME[2024-02-16T10:05:40.000Z]] <https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w01/detail/full-disp/00000651>

]REFS]



* 仏教私年号説

[153] 
>>34 は[CITE[[[魚魚平家]]]]という物語に使われた[[魚鳥]]元年について、
僧侶が使った[[私年號]]であるとしています。そして[[私年號]]の説明のために[[西源院]]本[CITE[太平記]]の奥書を引いて、
[[白鹿]]の[[私年號]]と同じくまったく緇衣者 (僧侶) によるものだろうとしています。

[154] 
>>34 は >>33 と同じシリーズですが、担当者は違うと見え
(>>34 の解説執筆者は[[内海弘蔵]],
>>33 の筆者は不明ながら解説執筆者は[[武島又二郎]])、
[[白鹿]]を >>33 は[[北陸朝廷]]の[[元号]]としていたのに対して
>>34 は[[僧侶]]の[[私年号]]としています。

[155] 
[[私年号]]を[[僧侶]]によるものとするのは、
[[日本の私年号]]全体に対する一般論として長く通説化している説で、
多くの[[私年号]]用例が仏教関連遺物にあることや、
仏教的色彩を持った[[元号名]]が散見されることによります。
[SEE[ [[日本の私年号]] ]]
ここではそれを個別の検討を経ることなく[[魚鳥]]と[[白鹿]]に当てはめているわけです。

[156] [[白鹿]]は僧侶によって語られた[CITE[太平記]]という[[媒体]]に記載され、
現に[[竜安寺]]という仏教寺院に伝来するのであり、
[[得江文書]]という先入観がなければこれは本来当然に検討されるべき仮説といえます。
(ただし[[白鹿]]という[[元号名]]には仏教色がありません (>>260)。)

[158] 
[RUBYB[[[内海弘蔵]]][[TIME[1872]]-[TIME[1935]]]]は[[近代日本]]の[[国文学者]]でした。
国史は専門ではなく特別な知識がなかったことで客観視できたのでしょう。


;; [157]
ただし、あきらかに[[仮想の世界][仮想世界]]を記述した[[作中元号]]の[[魚鳥]]をこれと同レベルの存在として議論するのは無理があります。
[SEE[ [[魚鳥]] ]]
しかし動物名という共通項は偶然かもしれませんが興味深いですね。
例示のために数ある[[私年号]]から敢えて[[白鹿]]が選ばれたのもそれが理由かもしれません。

;; [159] でも[[西源院]]本[CITE[太平記]]奥書に思いっきり[[南方]]の[[元号]]だと書かれているのを引いておきながら、
完全スルーして僧侶のものだろうとするのはどうなんでしょうね。
[[年代記類]]には[[古代年号]]が普通に古代の[[天皇]]の[[公年号]]であるかのように載っていて、
僧侶が勝手に作って使っていたのだろうと考えられていたのを知っていて、
それと同じようなものだと判断したのですかね。

* 北陸朝廷説

[80] 
[[北陸朝廷]]説は、
[[後醍醐天皇]]から[[譲位]]された[[恒良親王]]が[[北陸朝廷]]ともいうべき政権を樹立した、
またはその構想を持っていた、とする説です。

[81] 
[[白鹿]]はその政権の[[元号]]とされ、[[北陸朝廷]]説の重要な根拠の1つとなっています。


[82] 
[[北陸朝廷]]説は過去に有力研究者が主張してきたものの、
[[天皇]]への[[即位]]の事実があったかどうかは確証を欠いています。

[83] 
また、[[白鹿]]がその[[元号]]であるかどうかは、[[即位]]の事実の有無とは別個に検証が必要な問題です。

[232] 
[[北朝朝廷]]によるものかどうかはともかく、多くの研究者は[[白鹿]]を[[南朝]]勢力と関連付けて考えています。
それは

- [329] [[得江文書]]の発給者が[[南朝]]勢力であることと、
- [330] [[竜安寺]]本[CITE[太平記]]に南方の元号との記載があること、
- [331] 有力研究者が[[北陸王朝]]説を支持してきた研究史的背景、

に基づいていると考えられます。

** 延元元年北陸朝廷改元説



[74] 
[[明治時代]]の歴史研究者[RUBYB[[[菅政友]]][[TIME[1824]]-[TIME[1897]]]]の
[CITE[南山皇胤譜]]
[CSECTION[恒良親王]]
条は、
末尾、延元2年3月の越前金ヶ崎落城よりも後に白鹿2年文書を掲載しています。
[SRC[>>105]]

[75] 
その按語および別稿で、
中院右中将は北国へ東宮[[恒良親王]]に随行の公卿で、
得江九郎は頼貞であり、
白鹿は他になくいつか不明ながら、
金崎城中で11月後に定められたもので、
白鹿を獲たようなことがあって[[白雉]]、[[朱鳥]]のような古例に倣ったものであろうかとしています。
[SRC[>>105, >>27 /334]]

[76] 
[[菅政友]]は[CITE[太平記]]の[[後醍醐天皇]]から[[恒良親王]]への[[譲位]]記事について、
[[綸旨]] (への言及) の存在や白鹿2年文書の存在から、
[[即位]]と[[改元]]があったのは疑いないと考えました。
[SRC[>>27 /334]]

[84] 
[[改元]]は延元元年11月以降としていましたが、
これは延元元年11月12日付[[文書]]が延元を使っている
[SRC[>>27 /333]]
のでそれ以降ということと思われます。

[103] 
明治36年の[[近藤鑛造]]の講義録は、
[[恒良親王]]の[[即位]]説と共に、
白鹿2年文書があり越前で改元したものだろうと紹介しています。
[SRC[>>26]]
出典は明記されていませんが、[[菅政友]]説に基づいているのでしょう。

[REFS[

-
[26] 
[CITE@ja-JP[東京歴史及地理講義録 国史講義]], [[歴史及地理講習会]], [TIME[明35.8][1902]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T14:01:44.886Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/768417/1/187> (要登録)
-
[27] [CITE@ja-JP[菅政友全集]], [[国書刊行会]], [TIME[明40.11][1907]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T14:02:31.718Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/898703/1/74>
-- [104] 
[CITE[南山皇胤譜]]
--- [111] [CSECTION[[V[卷三之下]]]]
---- [105] /74
--- [107] [CSECTION[[V[卷六]]]]
---- [108] 最終巻
---- [109] [V[明治廿一年八月三日再稿]] [WEAK[([TIME[1888-08-03]])]] [SRC[>>27 /146]]
-- [106] 
/334

]REFS]

-*-*-

[69] 
[TIME[大正4(1915)年][1915]]の[[新田義貞]]に関係した論考は、
白鹿2年文書に基づき、
中ノ院右中将は東宮随行の公卿であるから、
東宮[[恒良親王]]は疾くに即位して[[白鹿]]に[[改元]]していたのだと述べています。
[SRC[>>28]]
「疾くに」とは具体的には示されていませんが、
[[比叡山]]で[[後醍醐天皇]]から[[譲位]]されたとする[CITE[太平記]]の記述をベースにしていますから、
それとそう変わらない説と思われます。
明記されていませんが、
[[菅政友]]説そのものと思われます。

[98] 
[TIME[昭和17(1942)年][1942]]の論考は、
ほぼ[[菅政友]]説そのままに白鹿2年を延元2年としていますが、
同時に西源院本[CITE[太平記]]の記述も引用しています。
しかし取ってつけたような注釈で、
西源院本[CITE[太平記]]が「貞和元年乙酉」と書いていることを引用しながら何の説明も加えていません。
[SRC[>>20]]


[REFS[

-
[28] [CITE@ja-JP[新田氏郷土史論]], [[日本歴史地理学会]], [TIME[大正4][1915]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T14:07:15.842Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/980720/1/132> (要登録)
-
[20] [CITE@ja-JP[北畠親房文書輯考]], [[横井金男]], [TIME[昭和17][1942]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:44:56.240Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1043626/1/242> (要登録)


]REFS]

-*-*-


[112] 
[TIME[昭和25(1950)年][1950]]、
法制史学者として有名な[[滝川政次郎]]の
[CITE@ja-JP[日本歴史解禁]]
は、
[[親王]]が[[天皇]]の身替りとなった場合は国法上[[天皇]]と扱うべきだとし、
[[恒良親王]]がこれに当たると述べました。
[SRC[>>110]]

[113] 
その根拠は
[CITE[太平記]]
およびそれを証明する綸旨状文書と白鹿2年文書としています。
[SRC[>>110]]
明言はありませんが、[[後醍醐天皇]]から譲位されてすぐに[[改元]]したと考えていたようです。
明記されていませんが、 [[菅政友]]説そのものと思われます。

[114] 
また、明治の歴史家たちは「金甌無欠の国体」を護持しようとして
[CITE[太平記]]に記載されたこの事実を否定してきたのだと非難しています。
[SRC[>>110]]
本書は[[日本史]]を自由に論じられなくなった戦時下の風潮が一掃された機会に[[日本史]]を再検討しようとしたもので、
戦後史学の再出発の土台となったような書籍です。
従ってこのような戦時下やそれ以前の史学界の学説や学問態度への批判的見解が含まれています。

;; [115] といっても、
戦後に一斉を風靡した[[記紀]]完全否定説のような、
[[皇国史観]]の反動で正反対に向かった過激派もいた時代にあって、
[[滝川政次郎]]の論説はそれらとは一線を画しています。


[116] 
ただし本件についての[[滝川政次郎]]の説は無理があり、
[[西源院]]本[CITE[太平記]]が発見される前の明治の学説に依拠していますし、
[[北陸朝廷]]説は主流説ではなかったのかもしれませんが、
戦時下でも発表され続けていて禁忌扱いはされていませんでした。

;; [117] [[南北朝正閏論]]に関わってきそうな問題なので、
影響力の大きなメディアや有名研究者はもしかすると昭和初期には触れづらい領域だったのかもしれませんが...

;; [118] 明治の研究者は学術的観点で[CITE[太平記]]に疑問を持ち、
[[菅政友]]のような有名研究者が[CITE[太平記]]の肯定説を出しているのですから、
明治の研究者に対し本件の責任を追求するのは[[冤罪]]感があります。
昭和初期の人なら国体のためにこの問題に蓋をする動機はあったかもしれませんが、
明治の人はそうでもないのではないでしょうか。

[119] 
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]は、
近年の説、古い説、史料的根拠の乏しい独創的な説などいろいろな出典から雑多に文章を組み立てていて必ずしも一貫した記述となっていない上に、
大きく改変する編集が加えられることもあるようですが、
令和6年時点での[CSECTION[北陸朝廷]]記事は[[北陸朝廷]] ([[北陸王朝]])
の存在、少なくても構想の存在にはかなり肯定的な態度で紹介しています。
[[白鹿]]については、
[[恒良親王]]が[[天皇]]として北陸に君臨したことは否定できないとする[[滝川政次郎]]説を引いています。
[SRC[>>1]]

[REFS[

- [110] 
[CITE@ja-JP[日本歴史解禁]], [[滝川政次郎]], [TIME[1950]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-15T09:23:24.734Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2972350/1/69> (要登録)

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1] [CITE@ja[[[北陸朝廷]] - Wikipedia]]
([TIME[2016-10-14 15:24:57 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%99%B8%E6%9C%9D%E5%BB%B7>
]FIGCAPTION]

> 1346年に私年号「白鹿2年」が用いられた越前国司中院良定から得江九郎頼員へ当てられた「感状」が残っている(得江文書・白鹿二年行貞奉執達状)。これらのことから、当時北陸・東北に南朝方武将の擁立する「朝廷」が存在したとされる。

]FIG]

]REFS]

-*-*-

[126] 
>>127 は[[平成時代]]の歴史小説、
>>41 はその著者による紹介文ですが、
[[白鹿]]を使った[[北陸王朝]]のことを「白鹿王朝」と呼んで書名にもしています。

[128] 
この小説は延文2年説に基づいた設定になっているようです。
譲位後、北陸で[[改元]]したことになっています。
[SRC[>>125]]

[129] 
>>125 は[[令和時代]]に書かれた感想文ですが、
その古い説を知らなかったようで、
[[森茂暁]]の説 (>>67) を引きつつ、
[[通説]]と異なる設定にしない方がいいと苦言を呈しています
[SRC[>>125]]。
なおその感想文著者の見解は >>43 にあります。

[REFS[

- [127] 
[CITE@ja-jp[金ケ崎城―幻の白鹿王朝 | 村田 武 |本 | 通販 | [[Amazon]]]], [TIME[2024-02-15T10:19:00.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4886299709/wakaba1-22/>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[41] 
[CITE@ja[書評|[[鳥影社]]]], [TIME[2024-01-09T02:26:09.000Z]], [TIME[2024-02-13T09:57:54.543Z]] <https://www.choeisha.com/kiji_4886299709.htm>
]FIGCAPTION]


>[B[『幻の白鹿王朝 金ヶ崎城』村田 武 著]]
>[B[「歴史研究」第542号2006年7月号 平成18年(2006年)7月10日]]
>
>[B[わが著書を語る 村田 武]]
>[SNIP[]]
> 本書は正史から消えたこの朝廷の実体をこの時期重要な役割を果たした、後醍醐天皇の御料であった気比神宮の側から描いています。軍記物である『太平記』の記述には、歴史的資料価値が問題視されてきましたが、本書では現地調査を重ねながら数箇所を訂正して物語を構成しています。
> ストーリーは、鎌倉幕府の滅亡から足利尊氏が幕府を開く前年までを、新田義貞の軍勢と足利尊氏の大軍との攻防とともに、「白鹿」の年号を称した北陸朝廷の誕生から滅亡までを描いたものです。
> 「白鹿」年号は、越中国司中院良定から能登の武士得江九郎頼員に発給された感状に「白鹿二年卯月十日」と記されており、宮方によって実際に使用されています。
>[SNIP[]]

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[125] 
[CITE@ja[[[南朝]](34): 越天楽]], 
[[gagaku]],
2021年04月11日,
12:10,
[TIME[2024-02-15T10:12:31.000Z]] <http://manoeriwagner.seesaa.net/article/480945072.html>
]FIGCAPTION]

>
当小説では 恒良親王・尊良親王と新田軍諸将が敦賀
金ヶ崎城の麓の観音堂に集まり、北陸に朝廷を開き
元号を「白鹿元年」と宣言する。
>金ヶ崎城に到着したのは同月10日と思われる。
>そして翌年03月06日に金ヶ崎城が落城するが、小説では
この時をもって「白鹿の年号を称した北陸朝廷は消滅」
と記載されている。
>
>この小説は実際の記録と異なった「白鹿」年号の扱いを
しているのが、気になる。ある程度は史実に基づいた
方が、誤解を招かないと思うのだが、、、。
>史実に於いて「白鹿」の年号は、白鹿元年は吉野朝年号
では興国6年、北朝年号では貞和元年にあたり、西暦では
1345年になるということである。つまり金ヶ崎城が落城
して尊良親王が自害したのが延元2(1337)年であるから、
それから8年後にも南朝の年号を独自に使った勢力が
北陸路に存在していたことになるのだ。
>[SNIP[]]
>
恒良天皇の帝位は、後醍醐天皇が京から吉野へ脱出し
吉野朝を延元元年(1336)12月21日に開いた時点で消滅
したが、その後何年も経っても北陸朝廷に組した人々に
よって南朝年号が使われたことは、注目に値しよう。
>
>添付写真の書籍ではなく、森茂暁氏著【皇子たちの南北朝】
(中公新書)をみると、金ヶ崎城で新田義顕らと自刃した
尊良親王には妻との間に男子が居たというが、その男子が
従軍していたのかこの書籍には記載が無く不明だ。
>[SNIP[]]
>正史の記録からは抹殺されているが、あるいはこの皇子を
奉じる南朝勢力が「白鹿年号」を使ったのかもしれない。
[SNIP[]]
>
>ともあれ添付写真の小説では「白鹿」という年号の時代設定
が通説とは異なるが、マイナーな年号、そして北陸朝が存在
したという史実にスポットライトを当てたのは興味深い
小説であった。




]FIG]


]REFS]

-*-*-

[342] [CITE@ja[Xユーザーの積読、大河実況、エンジニアさん: 「@dongame108 「日本の建国はいつですか?」 「……年……日。」 「ん?もっと大きな声で!」 「…白鹿元年(西暦1336年)10月10日。」 「……後醍醐天皇の五宮、恒良親王が今日を発った日……。こ、こいつ南朝の、しかもマイナーな北陸王朝の方の…!」」 / X]], [TIME[午後1:58 · 2024年10月14日][2024-10-14T04:58:59.000Z]], [TIME[2024-10-15T02:47:19.000Z]] <https://x.com/sh1n_sem1ya/status/1845690742779572335>


[343] >>342 これは [CITE[Twitter]] のネタ投稿なのだが、
この説が未だに一部で素朴に信じられていることが窺われる。



** 興国6年北陸朝廷改元説





[61] 
[TIME[大正11(1922)年][1922]]、
[[近代日本]]の歴史研究者[RUBYB[[[田中義成]]][[TIME[1860]]-[TIME[1919]]]]は、
[CITE[太平記]]と[[綸旨]]状[[文書]]の存在を根拠に[[後醍醐天皇]]が[RUBYB[[[恒良親王]]][[TIME[1325]]-[TIME[1338]]]]に[[譲位]]し、
[[恒良親王]]は[[北陸朝廷]]を立てることを視野に[[北国]]に向かったと主張しました。
[SRC[>>13]]

[62] 
そして白鹿2年文書について、
[[中院定平]]かその系統の人と考えられる中院右中将から、
北国の人である[[得江九郎]]に宛てたもので、
北陸の[[文書]]と言えることから、
北陸の[[南朝]]方が[[白鹿]]を使ったものであるとしました。
[SRC[>>13]]

[63] 
そして竜安寺本[CITE[太平記]]奥書より、
白鹿2年は[TIME[北朝貞和2年・南朝正平元年 (西暦1346年)][1346]] であるとしました。
[SRC[>>13]]

[64] 
[[興国]]があるにも関わらず[[白鹿]]を使った理由については、
[[恒良親王]]は[[元号]]を建てられなかったものの、
その後[[宗良親王]]が北国に下ったのであり、
[[北陸朝廷]]の構想が継続していて[[宗良親王]]を擁する勢力が使ったのではないかと考えました。
[SRC[>>13]]

[77] 
これは基本なロジックは[[菅政友]]説そのものですが、
白鹿の年次が修正されたために、
[[建元]]者を[[宗良親王]]に変更せざるを得なくなり無理が生じています。

[85] 
>>15, >>16 は田中説を引いてそのまま踏襲しています。


[152] 
[TIME[昭和3(1928)年][1927]]に出版された[CITE[太平記]]の解説は、
[[白鹿]]は[[得江文書]]にもあるので[[恒良親王]]が[[北陸朝廷]]で定めた[[元号]]と思われ、
正平元年に当たる[[私年號]]だと述べています。
[SRC[>>33]]
出典は明記されていませんし、解説であって論考ではないため簡単な記述に留まっているのですが、
当時の新しい通説にそのまま従ったものと考えられます。



[97] 
[TIME[昭和11(1936)年]]に出版された西源院本[CITE[太平記]]の解説は、
[[白鹿]]は延元元年の[[恒良親王]]下向以後に北陸の宮方で用いられたものらしく、
白鹿2年文書があり、
西源院本[CITE[太平記]]にこれがあるのも根拠があるはずだと述べています。
[SRC[>>18 /21]]
出典は明記されていませんし、解説であって論考ではないため簡単な記述に留まっているのですが、
当時の新しい通説にそのまま従ったものと考えられます。

[101] 
>>24 は田中説などを引いて基本的にそのまま従いつつ、疑問もあるとしながら、
即位は事実でも吉野朝が成立したので幻の朝廷に終わったとまとめています。
一応両論併記の体ではありながら、[CITE[敦賀市史]]という媒体ゆえか、
[[北陸朝廷]]の存在はほぼ確実視しているように読めます。

[137] 
なお、 >>24 は得江氏を南朝にくみした能登の武士と説明しています。

[102] 
>>25 は諸説あるとしつつ簡単に田中説を紹介しています。

[257] 
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
田中説 (>>13)
を紹介し、
[[魚澄惣五郎]] [SRC[>>15]]、
[[鷲尾順敬]] [SRC[>>18]]
もそれを肯定していると述べ、
それ以上の検討を加えませんでした。
[SRC[>>218]]

[REFS[
-
[13] [CITE@ja-JP[南北朝時代史]], [[田中義成]], [TIME[大正11][1922]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:38:49.828Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/965780/1/91>
-
[15] [CITE@ja-JP[綜合日本史大系 第6巻 (南北朝)]], [[魚澄惣五郎]], [TIME[1927]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:40:28.281Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1920188/1/179>
-
[16] [CITE@ja-JP[[[大日本史講座]] 第4巻]], [[雄山閣]], [TIME[昭和4][1929]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:41:25.569Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1918152/1/85> (要登録)
-[24] 
[CITE@ja-JP[[[敦賀市史]] 通史編 上巻]], [[敦賀市史編さん委員会]], [TIME[1985.6][1985]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:59:47.240Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9539789/1/185> (要登録)
-
[25] [CITE@ja-JP[世紀 40(463)]], [[世紀編集室]], [TIME[1988-12]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T14:00:31.289Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2346210/1/46> (要登録)



]REFS]

-*-*-

[67] 
[[平成時代]]の歴史研究者で[[南朝]]研究で有名な[[森茂暁]]は、
[TIME[延元3(1338)年][1338]]に[[恒良親王]]が殺害されたとする通説は疑問であるとしました。
そして、
白鹿2年文書より権威を持つ人物が北陸にいたことがわかるとして、
[[恒良親王]]と[[白鹿]]を関連付ける確証はないものの、
[[恒良親王]]が[[北陸]]で生存していたか威光が残っていた可能性があり、
[[北陸王朝]]がこの時期にはある程度実を結んでいた可能性があるとしました。
[SRC[>>66]]

;; [68] ただ、それだけの大物の動向が10年近く残っていないというのは不審ですよね。

[78] 
[[恒良親王]]の死亡時期が曖昧な点を突いて[[建元]]者問題を解決していますが、
ならばなぜこのタイミングで[[恒良親王]]が[[建元]]したのかと新たな問題を発生させてしまっています。
また、
そもそもこの説は[CITE[太平記]]の譲位説の説明から始まっているのに、
[CITE[太平記]]に基づく[[恒良親王]]の死亡年をずらさなければならないという矛盾を抱えています。

;;
[79] 
[CITE[太平記]]の中にも信用できる部分とそうでない部分があるし、[CITE[太平記]]に[[恒良親王]]の死亡が明記されているわけではないから、矛盾にはならない、というのはまあそうなのですが。

[252] 
[[森茂暁]]は
[CITE[太平記の群像]]
で、
[[白鹿]]と[[恒良親王]]を関連付ける確たる証拠はないとしつつも、
白鹿2年文書に一統の暁には云々とあることから、発給者はどちらかといえば[[南朝]]系統らしいと書いています。
[SRC[>>42]]


[120] 
>>2 は[[平成時代]]のウェブサイトの解説記事ですが、
[[恒良親王]]が[[即位]]して[[白鹿]]を使った[[北陸王朝]]が一時樹立されたことは間違いないと断定しています。
[[参考文献]]に
[CITE[皇子たちの南北朝]],
[[森茂暁]]が挙げられていますが、
それがこの部分の根拠なのかは不明です。
[SRC[>>2]]

[131] 
>>3
は[[森茂暁]]の著書の感想。

[136] 
>>5
は
>>13
も[[森茂暁]]も参考文献に載せていて直接的な出典は明記していませんが、
白鹿2年文書を[[北陸朝廷]]の名残の可能性があるとしています。


[REFS[

-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[5] [CITE[[[新田義貞]] ――れきけん・とらっしゅばすけっと]]
([TIME[2008-02-01 15:44:13 +09:00]])
<http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshisada.html>
]FIGCAPTION]

> ところで、この時期に義貞が恒良を天皇とする北陸朝廷を擁立していたという説が唱えられている。現在となっては証拠は明らかでないが、南朝興国七年(北朝貞和二年、1346)に越前で「白鹿」元号を用いた南朝方と思われる文書が見られている事は「北陸朝廷」の名残である可能性を思わせ興味深い。

]FIG]
-- [134] 消滅確認 [TIME[2024-02-15T12:12:16.700Z]]
- [135] 
[CITE[[[新田義貞]] ――れきけん・とらっしゅばすけっと]], 
2008.02.01公開,
2008.02.01最終更新,
[TIME[2024-02-15T12:11:58.000Z]], [TIME[2008-12-08T12:18:56.705Z]] <https://web.archive.org/web/20081208121620/http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshisada.html>
- [65] 
[CITE@ja[[[恒良親王]] - Wikipedia]], [TIME[2024-01-31T01:46:24.000Z]], [TIME[2024-02-14T13:17:26.533Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B>
-- [66] 
引用:
[CITE[太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々]],
[[森茂暁]],
[TIME[2013-12-25]] (オリジナル: [TIME[1991-10-24]])

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2] [CITE@ja[つ]]
([TIME[2016-02-06 09:40:00 +09:00]])
<http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/jiten/tu.html>
]FIGCAPTION]

> しかし建武政権は足利尊氏の反乱により短期で崩壊、後醍醐側は比叡山に立てこもって足利軍とたたかったが、建武3年(延元元、1336)10月に和睦が成立し後醍醐は比叡山を降りた。このとき全く蚊帳の外に置かれていた新田義貞が和睦に抗議して後醍醐に詰め寄ったため、後醍醐は12歳の皇太子・恒良に皇位を譲って異母兄・尊良や義貞と共に北陸へ向かうよう指示する。これが後醍醐の深謀遠慮だったのか、義貞に詰め寄られての一時の急場しのぎだったのか、あるいは義貞が事実上のクーデターを起こして恒良を奪い取ったのか(そう記す史料もある)明確ではない。またこのとき後醍醐が三種の神器を恒良に渡して皇位を継承させたことが事実なのかどうかについても議論があるが、少なくとも義貞たちは恒良が「天皇」になったと認識し、「白鹿」という独自年号を使った[B[「北陸王朝」]]を一時的に樹立したことは間違いない。恒良自身が天皇として「綸旨」を発行していることも確認されている。
>  ところがその年の暮に父・後醍醐は京を脱出して吉野に入り、恒良に渡した神器は偽物であり自身が本物を所持している、自身が正統な天皇であると主張し始める。これは北朝の否定と同時に「北陸王朝」の否定でもあった。それに対して恒良や義貞たちがどう思ったかは定かではない。

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[3] [CITE[たんめん老人のたんたん日記 森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』(4)]],
[[tangmianlaoren]],
2014-03-26,
[TIME[2016-10-28 15:28:02 +09:00]]
<http://tangmianlaoren.blog.fc2.com/blog-entry-491.html>
]FIGCAPTION]

> 「北陸王朝」の拠点とされた金崎城はほどなく陥落し、義貞も戦死したが、少なくとも10年間は北陸地方に独立の勢力が存在し、一種の地域国家を存続させ、一時は「白鹿」という年号までも使用していたことが確認できるという。

]FIG]

]REFS]

-*-*-

[164] 
>>163, >>162 は[[令和時代]]に書かれた[[ウェブページ]]です。
このサイトでは怪しげな説も含めて[[南北朝]]関係の遺構を紹介しています。
[[森茂暁]]を含め研究者の書籍から怪しげな書籍まで幅広く参照しているようです
[SRC[>>163, >>162]]。

[165] 
>>163 では[[北陸朝廷]]の存在を確定的なものと説明しています。
[[白鹿]]は興国6年に北陸で用いられた私号で、
何らかの[[南朝]]勢力が存在していたとするにとどめて、
両者の関係は断言していません (が文脈上、強い関係は示唆しています)。

[166] 
>>162 では[[尊良親王]]の子の勢力が[[白鹿]]を使ったのではないかと書いています。

;;
[167] 
記録はないと明言しているので単なる想像のようですが、
[[白鹿]] = 興国6年説と[[北陸朝廷]]を結びつけつつ、
[[恒良親王]]は死亡済みとするなら、
消去法でもうそれくらいしかないのでしょう。

[168] 
>>43 は[[令和時代]]に書かれたブログ記事です。 
(>>125 の歴史小説の感想記事と同じブログです。)
>>163 にリンクしており、それが主な情報源と思われますが、
>>163 にない情報も書いているのでいろいろ調べているのでしょう。

[169] 
>>43 は[[北陸朝廷]]で[[恒良親王]]が譲位した者の[[元号]]が[[白鹿]]とかなり断定的に考えているようです。
[[私年号]]は[[偽年号]]とも呼ばれインチキ臭がするので、
[[私年号]]でなく正式な[[元号]]といえる[[白鹿]]が[[私年号]]扱いされるのは残念だとも書いています。

;; [170] これは[[私年号]]の用語が歴史的経緯で混乱しているためなので、
まあ確かにそんな感じのイメージもついちゃってるのは確かではあるのですが、
[[白鹿]]が[[私年号]]扱いなのはあくまでもそれが[[公年号]]たる証拠を誰も示せていないからなので、
残念がるべきは[[私年号]]扱いされることではなく、[[公年号]]であると証明できないことの方です。

[171] 
>>43 の著者は[[得江頼員]]の領地を訪問したそうで、
[[白鹿]]が通用していたであろう地だと書いています [SRC[>>43]]。
念願の訪問に水を差すようで申し訳ないですが、
[[得江頼員]]は基本的に北朝方なので、
[[白鹿]]文書が届いたからといってこの地で[[白鹿]]が使われたかはよくわからないとするべきでしょう。
でもこの地で使われなかったとしても「「白鹿」の所縁の地」 [SRC[>>43]]
には違いないのでまあいいのではないでしょうか。

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[163] 
[CITE[舞!組曲 <日本! 118 南朝(新田義貞・北陸朝廷Ⅰ.)>]], 
Last Updated  2022-01-07,
[TIME[2024-02-15T14:57:36.000Z]] <http://www.photoland-aris.com/myanmar/near/n118/>
]FIGCAPTION]

> 金ヶ崎城に着いた恒良天皇は、さっそく諸国に参陣を促す「綸旨」を発している。 「綸旨」とは天皇が命令を伝える文書であるから、恒良親王は天皇として行動してい る。 叡山で後醍醐天皇が北陸に向かう恒良親王に禅譲(譲位)を行ったのは、確実と思わ れる。
>
よって敦賀に「北陸朝廷」が樹立していたのだ。 

>北陸では「白鹿」という私号が興国六年(1345)にも用いられていたことから、何ら かの 南朝勢力が存在していたのだろう。 

]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[162] [CITE[舞!組曲 <日本! 南北朝 - 8 南朝(新田義貞・北陸朝廷ⅡⅠ.)>]], 
Last Updated  2022-04-20,
[TIME[2024-02-15T14:50:00.000Z]] <http://www.photoland-aris.com/myanmar/chou/8/>
]FIGCAPTION]

> 森茂暁氏著【皇子たちの南北朝】(中公新書)をみると、金ヶ崎城で新田義顕らと自 刃した尊良親王には 妻との間に男子が居たというが、その男子が従軍していたのかこの書籍には記載が無 く不明だ。
>
新田義貞と脇屋義助、そして公卿ら7人は02月05日(敦賀市史)に金ヶ崎城を出て、 瓜生氏の杣山城に 移動している。
>
将が自軍を離れることは通常は無いので、その男子を助けるべく奉じて杣山城へ赴い ている間に金ヶ崎城が 落城したという説もあり、これは説得力が有るように思う。 正史の記録には残っていないが、あるいはこの皇子を奉じる南朝勢力が「白鹿年号」 を使ったのかもしれない。
>
「Ⅹファイル」的だが、在野の南朝研究家になるが藤原石山氏は、後醍醐天皇が比叡 山で譲位されたのは 尊良親王の皇子の守永親王であり、新田義貞が奉じて金ヶ崎城を脱出したとの考えを 【尾三遠南朝史論】の中で 書いておられる。この守永親王が Ⅹファイルの「三河南朝」の祖となっていくので ある。
>
この説はユニークだが、後醍醐天皇から恒良親王ではなく尊良親王の子へ譲位された 説など 無理だろう。
>
落城が近いことを知った 恒良天皇はまだ皇子が無かったので、尊良親王の皇子に譲 位して新田義貞に託した、 と私なら想像する(100%の想像だが)。 
]FIG]




[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[43] 
[CITE@ja[元号「白鹿」: [[越天楽]]]], 
2021年10月15日,
[TIME[2024-02-13T10:01:47.000Z]] <http://manoeriwagner.seesaa.net/article/483911887.html>
]FIGCAPTION]

>[SNIP[]]
>改元は天皇の元で斎行されるもので、それ以外は朝廷の
定めたものでないから「[B[私年号]]」と呼ばれる。私年号は
偽年号とも云われるから、どうしてもインチキっぽい
雰囲気が漂うのが惜しい。
>
>ところで「三日城」の将である 得江頼員には 「[B[白鹿]]
(はくろく)」の元号の付いた書状が南朝側から
送られて残っている。
>吉野朝(南朝)の元号の 興国七年(正平元年)、北朝の
元号の 貞和二年(1346年)に、「[B[白鹿二年卯月二十日]]」
付けの行貞奉書が中院右中将から発せられた。南朝に与した
場合の恩賞を約した内容である。
>
>新田義貞が後醍醐天皇皇子の恒良親王と尊良親王を奉じて
敦賀(福井県)で陣を敷いた時、恒良親王は受禅しており
天皇として在位し、敦賀に於いて「北陸朝廷」を開いて
「白鹿」と改元したという説もある。これは1336年であり、
その翌年(1337年)に拠点だった金ヶ崎城は落城して
恒良親王(天皇)は足利賊軍に拉致されて京へ連行されて
いるから、その9年も後に「白鹿」という北陸朝廷の元号
が翻ってきているのだ。南朝の勢力が生きながらえていて
恒良親王(天皇)が譲位していたのなら、これは私年号では
なく正式な元号と云えるのだ。
>つまり当時の日本には 吉野朝(南朝)が用いた「興国・正平」、
北朝が用いた「貞和」、北陸朝廷が用いた「白鹿」という[B[3つの]]
[B[元号が存在していた]]ことになる。
>ただし「白鹿」は「私年号」扱いなのが残念である。
>
>そんな「白鹿」の元号が通用していたであろう、得江頼員の
所領地が、[B[添付写真]]の場所である。
>南朝ファンでも超マニアックかもしれないが、新田義貞の
繋がりで「白鹿」の所縁の地はどうしても訪問したかったのだ。
]FIG]



]REFS]


-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[4] [CITE[太平記について熱く語るスレ]]
([TIME[2016-10-28 15:29:48 +09:00]])
<http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1059646052/172>
]FIGCAPTION]

> ただ、恒良親王は「白鹿」だか「白禄」だかいう元号を使用していたって説もあるんですよね。 
> その説がどれほど有力なのかは知らないけど、もし真実なら内定どころか明らかに一度は即位してたってことになる。 

]FIG]
-- [132] 消滅確認 [TIME[2024-02-15T12:04:19.900Z]]


** 三河吉野朝説

[233] 
[[三河吉野朝]]説は[[三河]]に[[南朝]]の[[朝廷]]があったとする説です。
信頼できる史料に基づく説ではありませんが、[[昭和時代]]初期に出現し、
今も一部で信仰されているようです。

[234] 
[[三河吉野朝]]説では田中説 (>>61) から[[北陸朝廷]]の[[白鹿]]の例が引かれています。
[SRC[>>23 /9, >>23 /15]]
[CITE[南北朝論]] [SRC[>>236]] もそれに賛同するものとして引かれています。
[SRC[>>23 /15]]

;; [253] 
田中説は重視されているらしく、ブログにわざわざ全文転載されています
[SRC[>>38]]。

[241] 
[[白鹿]]は[[得江文書]]と[[西源院]]本[CITE[太平記]]にしかない特異な[[私年号]]で、
北陸の[[得江氏]]が使用しているので北陸の宮方の年号だとしています。
[[南朝の元号]]を使わず[[白鹿]]を使っているので[[北陸朝廷]]が存在し[[天皇]]の資格を備えた王子を奉じていたとしています。
[SRC[>>23 /37]]

;; [242] [[得江氏]]が[[南朝]]方であるとする根拠は特に示されていません。

[237] 
ただし田中説の[[宗良親王]]は[[即位]]の証拠がないとして否定し、
[[後醍醐天皇]]が[[譲位]]したのは[[守永親王]]だったとしています。
[SRC[>>23 /15]]

;; [238] 
[[守永親王]]である理由はよくわかりません。
[[守永親王]]は系譜不明で、こういう説で都合よく使えるようです。
[[三河吉野朝]]説では[[尊良親王]]の子とされます [SRC[>>23 /23]]。

[239] 
[[三河吉野朝]]説では[[南朝]]に正統・正朝と副統・偽朝の2つの系統があって、
[[守永親王]]は正統の初代の[[興国天皇]]であるとされます。
その[[元号]]が[[白鹿]]と説明されています。
[SRC[>>23 /23]]

;; [240] そしてその正統の系譜に連なるのが[[三浦天皇]]とされています。

;; [243] 例によってなぜそう結論づけられるのかはよくわかりません。

;; [245] 
[[三河吉野朝]]説でも[[昭和時代]]初期のものには[[北陸朝廷]]が出てきません。
[SRC[>>244]]
[[三河吉野朝]]説がどのように形成され、[[白鹿]]がどう影響したのか、
も興味深い問題です。

[246] 
>>32, >>323 もこの説を踏襲しています。

[247] 
[[令和時代]]のブログ記事は、
白鹿2年文書を[[興国天皇]]が発行した文書であるとし、
白鹿2年を[TIME[西暦1346年][1346]]としています
[SRC[>>35, >>249]]。

;; [251] 
ただし[[興国天皇]]はそのとき[[福島県]]東部にいたことになっていて [SRC[>>250]]、
「北陸」にはあまりこだわっていないようです。



[248] 
なお[[令和時代]]のブログ記事は、
田中説に加えて[[森茂暁]]説も根拠として使っています。
[SRC[>>35, >>250, >>42]]


[324] 
[[三河吉野朝]]での次の[[元号]]は[[弥勒]]と思われます。


;; [322] 
なぜ[[白鹿]]時代の[[天皇]]が[[興国天皇]]と呼ばれているのか謎です。
どこかで理由が説明されているのかもしれませんが、
こういう独創的な界隈の情報を探すのは精神力を消費するので辛いんですよねえ...


[REFS[

- 
[244] 
[CITE@ja-JP[大楠公秘史]], [[八板千尋]], [TIME[昭和17][1942]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-16T12:31:54.308Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1041757/1/108> (要登録)
-
[23] 
[CITE@ja-JP[南朝正統皇位継承論 : 日本史の盲点南北朝時代の謎を解く]], [[南朝史学会]], [TIME[1966]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:57:02.691Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3044313/1/16> (要登録)
/37
-
[323] 
[CITE@ja-JP[三河玉川御所と広福寺 : 南朝の秘史を伝える]], [[松井勉]], [TIME[1979.1][1979]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-17T08:57:22.403Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537874/1/31> (要登録)
-
[32] 
[CITE@ja-JP[三河に於ける長慶天皇伝説考 : 民族学の視点から南朝の史蹟と伝説を探る 本編]], [[藤原石山, 南朝史学会]], [TIME[1979]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-09T13:38:44.461Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537843/1/41> (要登録)
右
-
[35] 
[CITE@ja[北陸朝廷について(串哲№19)|[[鈴木超世志]]]], 
[[鈴木超世志]],
2019年12月14日 12:18,
[TIME[2024-02-11T08:10:19.000Z]] <https://note.com/quanro/n/nd5aaa6612b2e>
-
[249] 
[CITE@ja[興国天皇(守永親王)|[[鈴木超世志]]]], 
[[鈴木超世志]],
2020年1月29日 21:37,
[TIME[2024-02-16T12:43:50.000Z]] <https://note.com/quanro/n/n8762109b6264>
-
[38] 
[CITE@ja[『南北朝時代史』第四十三章 後醍醐天皇尊氏と御和睦|[[鈴木超世志]]]], 
[[鈴木超世志]],
2020年9月19日 20:33,
[TIME[2024-02-12T11:04:42.000Z]] <https://note.com/quanro/n/n4b94f8a34ebc>
- 
[250] 
[CITE@ja[白河結城文書・白鹿二年行貞奉執達状(得江文書)|[[鈴木超世志]]]], 
[[鈴木超世志]],
2020年9月23日 17:03,
[TIME[2024-02-16T12:45:06.000Z]] <https://note.com/quanro/n/n8d6a66ecb79b>
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[36] [CITE@ja[[[三浦芳聖]]著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』デジタル復刻版 出版のご案内|串呂哲学研究会]], 
[[串呂哲学研究会]],
2022年8月24日 00:25,
[TIME[2024-02-11T08:22:07.000Z]] <https://note.com/shinpukanro/n/nae5406ab0b85>
]FIGCAPTION]

>[SNIP[]]
>[RUBY[興国][こうこく]]天皇の富士の皇居と各地転戦
>南朝の[RUBY[白鹿][はくろく]]年号と北陸王朝
>[SNIP[]]
>後醍醐天皇の[RUBY[秘蔵子][ひぞっこ]]「守永親王」と[RUBY[九星気学][きゅうせいきがく]](干支学)
]FIG]
--
[37] [CITE@ja[三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 №9 第三章 興国天皇顕彰の神風串呂(第1分冊)|[[串呂哲学研究会]]]], [TIME[2024-02-11T08:26:22.000Z]] <https://note.com/shinpukanro/n/n6821855e7910?magazine_key=m97d61c498c90>
(有料)
-
[42] 
[CITE@ja[神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(第4分冊) 発行 串呂哲学研究会|[[串呂哲学研究会]]]], 
[[串呂哲学研究会]],
2022年9月17日 00:15,
[TIME[2024-02-13T10:00:25.000Z]] <https://note.com/shinpukanro/n/nff0b4716e85a?magazine_key=mbdba6945a6ca>
(有料)



]REFS]




** メモ

[306] 
[[白鹿]]を[[北陸朝廷]]元号とする説は、[[得江文書]]しか知られていなかった時期に、
[[北陸朝廷]]の存在を実証する根拠として持ち出されたものでした。

[307] 
もし[[竜安寺]]本[CITE[太平記]]奥書が先に知られていたなら、
時期も地域も[[恒良親王]]と一致しない[[得江文書]]を[[北陸朝廷]]説の根拠に使わなかったのではないでしょうか。

[308] 
[[竜安寺]]本[CITE[太平記]]奥書は[[南朝]]としか書いていません。
[[竜安寺]]も[[天寧寺]]も[[北陸]]と関係が深いとは言えません。
白鹿3年板碑も[[関東]]です。
これらの資料を客観的に捉えるなら、[[白鹿]]を[[北陸朝廷]]の[[元号]]だとそう簡単に云うことはできません。

[309] 
思うに、[[竜安寺]]本[CITE[太平記]]奥書の存在がわかった時点で[[北陸朝廷]]説と[[白鹿]]の関係はいったんリセットしなければならなかったのではないでしょうか。
それをしないで無理なこじつけで旧説の延命をはかったために、
無駄なロマンを歴史ファンに与え、
よくわからない独創的な史観の宗教(?)の人々を引き寄せることになってしまったのです。

* 白鹿2年文書の時期


[255] 
[[菅政友]]は時期がはっきりしない[[南朝]]方の[[元号]]ということで[[恒良親王]]に結びつけて延元元年説を唱えたのでしょうし、
興国6年説は[[竜安寺]]本[CITE[太平記]]奥書にそのまま従ったまでです。
[[白鹿]]の年代の決定において白鹿2年文書そのものはまったく検討されていません。


[256] 
[[私年号]]の唯一の当時の[[文書]]の用例なのに扱いが軽すぎる感があります。

-*-*-

[278] 
ちょうど >>254 にわかりやすい関連[[文書]]の一覧があるので、
そこから[[得江頼員]]関連を抜き出すと、次の通りです。

;; [279] なお、この時期に得江氏は[[得江頼員]]だけです。また、[[中院良定]]関連は
>>254 内でここに挙げたものだけです。

- [265] 286   能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して斯波高経の証判を求む。(得江文書) 	延元4年、暦応2年12月 
- [266] 292   能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) 	延元5年、興国元年、暦応3年7月 
- [267] 	295   能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) 	延元5年、興国元年、暦応3年9月 
- [268] 299   斯波高経、能登の士得江頼員に感状を与ふ。(得江文書) 	延元5年、興国元年、暦応3年11月8日 	
- [269] 	300   能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) 	延元5年、興国元年、暦応3年11月 	
- [270] 	301   能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して証判を求む。(得田文書) 	延元5年、興国元年、暦応3年11月 
- [271] 303   中院良定、武家方を討たんとして能登の士得江頼員の従軍を促す。(得江文書) 	興国2年、暦応4年3月2日 
- [272] 305   能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) 	興国2年、暦応4年7月
- [273] 307   能登の士得江頼員、越前に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書)	興国2年、暦応4年9月 
- [274] 318   能登守護吉見頼隆、越中の宮方を伐たんとし得江頼員の従軍を促す。(得江文書) 興国5年、康永3年11月16日 
- [275] 322   能登の士得江頼員、越中に於ける軍忠を具申して吉見頼隆の証判を求む。(得江文書) 	興国6年、康永4年、貞和元年8月 
- [276] 327   中院良定、能登の士得江頼員の宮方に党するを賞す。(得江文書) 	興国7年、正平元年、貞和2年4月20日 	
-- [280] これが白鹿2年文書。
- [277] 	328   能登の士得江頼員、同国に於ける軍忠を具申して吉見氏頼の証判を求む。(得江文書) 	興国7年、正平元年、貞和2年5月 


[281] 
ここに現れる人物のうち[[斯波高経]]と[[吉見頼隆]]は[[北朝]]方です。
[[得江頼員]]は前半には[[越前]]において、後半において[[越中]]や[[能登]]において、
[[北朝]]方で参戦しています。

[282] 
そこに2通だけ混じっているのが[[南朝]]方の[[中院良定]]で、
1度目は興国2年3月で従軍を求めるもので、
2度目は白鹿2年4月で従軍を賞するものです。

[283] 
興国2年は越前で[[北朝]]方で参戦中です。
[[南朝]]方からの切り崩し工作だったのかもしれませんが、
成功しませんでした [SRC[>>254]]。

[284] 
白鹿2年を興国7年とするなら、
5年後に再び[[南朝]]へと勧誘してきたということになるのでしょうか。
この5年間の[[中院良定]]の動向はよくわかりませんが、
状況は大いに変化し戦場も[[越前]]から[[能登]]に移っており、
その間一貫して[[北朝]]方で転戦してきた[[得江頼員]]への働きかけとして違和感はあります。
敵味方が容易に入れ替わり得る時代なので、あり得ることかもしれませんが...

[285] 
もし白鹿2年を興国2年とすることが許されるなら、
1通目は興国2年3月、2通目は興国2年4月で、
[[越前]]で戦闘が続く中で積極的にアプローチを続けてきたが靡かなかったという単純な話になりそうですが...

[286] 
ただこの場合は興国2年3月から4月までの1ヶ月の間に「白鹿2年」へと切り替えたことになって、
不自然さは拭えません。

[313] 
[[中院良定]]がいつどこにいたのかもよくわからないっぽいんですよねえ。
越前国司だの越中国司だのと解説されているのもどれだけ信憑性があるのかよくわからないですし、
前線にいたのか後方にいたのか、それが具体的にどこなのか、
ずっと任地なり戦地なりにいたのか、他所に行ってたこともあるのかどうか。
興国2年や興国6年にはどこにいたのか、それは北陸なのか。
その頃吉野や他の地域の[[南朝]]勢力とどれだけ強固な連携を取っていたのか。
そういうのが全然謎なのに、[[得江文書]]の宛先が[[能登]]の人だから北陸にいたのだろうとされていて、
だから[[白鹿]]は北陸の[[元号]]なのだといわれているので、
[[白鹿]]と[[北陸]]の結びつきはとても脆弱なのですよねえ。

[314] 
発信者は南朝方らしいことしかわからない文書が、
宛先が北朝方の北陸の武士だからと、
南朝方の北陸の元号であるという証拠に使われるというのも面白い話で、
だから得江氏は南朝方で北陸王朝の勢力だという誤解も出てきてるのですよね。

[318] 
中院右中将を誰と見るかにも問題があります [SRC[>>317]]。

[REFS[

- [39] 
[CITE@ja-JP[石川県志雄町史]], [[石川県志雄町史編纂専門委員会]], [TIME[1974]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-16T12:59:38.896Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536530/1/71> (要登録)
- [254] 
[CITE@ja[加能古文書]], [TIME[2023-11-21T07:54:23.000Z]], [TIME[2024-02-16T13:00:48.909Z]] <https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/komonjo.htm>
- [317] 
[CITE@ja[[[中院定平]] - Wikipedia]], [TIME[2024-02-03T06:17:18.000Z]], [TIME[2024-02-17T06:21:44.748Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E5%AE%9A%E5%B9%B3>


]REFS]


* 竜安寺本[CITE[太平記]]奥書の出所


[160] 
[[西源院]]本[CITE[太平記]]の奥書がどのように成立して、その記述がどこから来たもので、
どれだけ信頼できるものなのか、ちゃんと検討していない研究者ばかりなのは一体どうしたことか。

[161] 
[[西源院]]本[CITE[太平記]]は[[南朝]]の[[公年号]]だと主張しているのに、
それを完全無視して[[北陸王朝]]の[[公年号]]だと主張するなら、
その齟齬をどう解釈するのかは最低限説明がほしい。




[121] 
>>21 は[CITE[太平記]]の本文の[[北朝の元号]]が元は[[南朝の元号]]で、
それを書き直した時のメモが奥書の年号なのではないかと推測しています。
そしていくつかある年号のずれは換算時ミスなのだとしています。

;; [122] これはどうなのでしょうね。おもしろい説ですが...

;; [123] [[白鹿]]が何であるのかには言及がありません。


[295] 
[[竜安寺]]本[CITE[太平記]]の[[奥書]]のいくつかの[[北朝]]と[[南朝]]の[[元号]]の情報は、
後から書き加えたものだろうと言われていますから、
普通に考えれば何らかの資料があってそこから転記したことになるでしょう。
その何らかの資料というのが、
書き加えた当時に使われていた[[年代記類]]という可能性は十分にあります。

[296] 
すると気になるのは[[天寧寺本[CITE[年代記]]]]との関係です。
[[竜安寺]]は[[京都盆地]]の北端近くにあり、
[[天寧寺]]は[[丹波]]ですから、
地理的にはそう離れていません。
[[竜安寺]]で使われた[[年代記]]と[[[CITE[天寧寺]]本年代記]]に直接の関係を見出すのは難しいかもしれませんが、
検討は必要になるでしょう。

[297] 
[[竜安寺]]本[CITE[太平記]]奥書の信憑性も今一度検討されるべきです。
[[興国]]は現行説と[[1年ずれ]]がある上に、
自己矛盾しています。
このような史料のみを根拠に[[白鹿]]の年代を決定した現行説は脆弱と言わざるを得ません。

;; [299] [[興国]]の[[1年ずれ]]説は[[興国]]を参照。

[298] 
もしこれがある程度信頼していい史料だということになれば、
逆に[[白鹿]]は[[北陸朝廷]]なるものの[[元号]]ではなく、
[[吉野]]の[[南朝]]の[[元号]]だった可能性も考えなければならなくなります。


[332] 
奥書筆者ないしその原典の筆者が「白鹿」を南朝元号と考えたのはなぜでしょうね。
1つ考えられるのは

- [333] 事実として南朝の公年号だった

説で、一見単純に説明が付きそうですが、奥書筆者が知り得た事実がなぜ他でまったく記録されなかったのかという疑問が生じます。
また、

- [334] 南朝の一部勢力が使ったものが南朝公年号と誤認された

説もあり得ます。北陸王朝説がこのタイプですが、北陸王朝以外の南朝勢力という可能性もあり得ます。
これもなぜここでだけ記録が残ったのか疑問ではあるのですが、
そこまで大きな勢力ではなかったと説明が付きます。
他に考えるべきなのは

- [335] 何らかの独立勢力が使ったものが南朝公年号と誤認された
- [336] 何らかの理由で発生した存在しない元号が南朝公年号と誤認された

という説でしょう。[[南北朝時代]]に[[元号]]が2つあったのは周知の事実ですが、
[[南朝の元号]]の情報が正確に知られていない状態で、
未知の[[元号]]があれば[[南朝の元号]]と推定してしまう、というのはありそうなことです。
この場合、

- [337] 何が誤認されたのか
- [338] なぜこの年に比定されたのか
- [339] 比定したのは誰なのか (同時代なのか、後世なのか)

が問題となります。

[340] なお南朝一部勢力説や独自勢力説を採る場合は、
独自に建元という日本史上ほとんど例がないことをやるような勢力が両朝廷以外に出現したのに、
その記録がほとんど残らず、すぐに南朝本体と誤認されるまでに落ちぶれた事情の説明も必要となります。



[REFS[

-
[21] [CITE@ja-JP[共立女子大学短期大学部紀要 (4)]], [[共立女子大学短期大学部]], [TIME[1960-12]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:46:20.578Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1776351/1/17> (要登録)

]REFS]


* 研究史

[310] 
[[中世]]後期頃の[[日本]]には、
[[白鹿]]を[[南朝の元号]]の1つとし、
[TIME[興国6(1345)年][1345]]を[[元年]]、
継続年数を1年 + 弱 ([[改元]]まで)
とする説があったことが[[竜安寺]]本[CITE[太平記]]奥書に残る痕跡 (>>59) 
からわかります。

[311] 
しかしこの説を記した書物がほとんどないことから、
あまり普及した説ではなかったようです。
[[白鹿]]という[[元号]]自体がそのまましばらく忘れられていました。

[312] 
明治時代中頃、
[[得江文書]]の白鹿2年文書 (>>51)
によって[[白鹿]]が再発見され、
[[北陸朝廷]]説の根拠に使われました。
[[白鹿]]は[[恒良親王]]の[[元号]]で、
[TIME[建武3(1336)年][1336]]に[[改元]]されて建武4年 (延元2年) 
頃まで[[北陸朝廷]]に属する[[北陸]]の[[南朝]]勢力によって使われたと考えられました
(>>74)。

[315] 
明治時代末期、
[[竜安寺]]本[CITE[太平記]]奥書が再発見され、
[[白鹿]]は[TIME[興国6(1345)年][1345]]を[[元年]]とする旧説が復活しました
(>>305)。

[316] 
それによって[[北陸朝廷]]元号説は全面的な見直しが必要になるはずでした (>>309)
が、
[[大正時代]]に[[恒良親王]]でなく[[宗良親王]]に置き換えた説が提出され (>>61) て延命され、
確たる根拠もないまま広く行われるようになりました。
より根拠の怪しげな説まで含め、いくつかの派生説が生じて現在に至っています。

[319] 
[[明治時代]]後期頃には[[白鹿]]を[[白禄]]と誤って辞書に掲載され、
[[昭和時代]]頃まで[[白鹿]]と[[白禄]]が別の[[元号]]とされる事態が続いていました
(>>195)。

[321] 
同じ頃、[[白鹿]]は興国2年を[[元年]]とする説が出現しましたが、根拠は不明です (>>226)。


[320] 
この間、新史料が出現していますが (>>206, >>142)、
十分に検討されていないのが現状です。

@@
-[346] 
[CITE@ja-JP[日本歴史大辞典 第8巻 (はーま)]], [[日本歴史大辞典編集委員会]], [TIME[1985.9][1985]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-18T15:47:16.672Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12195954/1/27?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)
-[347] [CITE@ja-JP[日本歴史大辞典 第8巻 (はーま)]], [[日本歴史大辞典編集委員会]], [TIME[1985.9][1985]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-18T15:48:19.874Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12195954/1/29?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)


* メモ








[14] 
[TIME[2023-01-24T13:39:36.400Z]]
<https://dl.ndl.go.jp/pid/3566480>
(非公開)

>歴史地理 32(6)(231)
>雑誌
>日本歴史地理学会 編 (吉川弘文館, 1918-12)
>49: 方の軍を締率せし事、白鹿元年は即ち京方貞和元年に京都龍安寺常る。而して吉野朝廷は興國六年なり。之

[19] 
[TIME[2023-01-24T13:43:55.800Z]]
<https://dl.ndl.go.jp/pid/11185302/1/31>
(非公開)

>上方 (107)
>雑誌
>(上方郷土研究会, 1939-11)
>31: た點が窺はれる。但し白鹿元年は比叡山偶想南朝正平元年北朝貞和二年に當るとも說かれるから、之を


[235] 
[TIME[2024-02-16T12:04:24.900Z]]
<https://dl.ndl.go.jp/pid/2985802/1/188>
(非公開)

>南北朝史論
>図書
>村田正志 著 中央公論社, 1949
>188 コマ: 興國二年三月二日及び白鹿二年卯月廿日の中院右中將某の御〓書があり、越前の得江賴員に宛て、朝敵對治のため急ぎ御方に參向


[236] 
[TIME[2024-02-16T12:04:39.900Z]]
<https://dl.ndl.go.jp/pid/2985767/1/46>
(非公開)

>南北朝論 : 史実と思想 (日本歴史新書)
>図書
>村田正志 著 至文社, 1959
>46 コマ: 拠がある。得江文書に白鹿二年卯月廿日中院右中将某の御教書がそれである。これは同地


- [22] [CITE@ja-JP[足利尊氏]], [[高柳光寿]], [TIME[1966]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:56:09.526Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3003475/1/151> (要登録)
-- [124] 非公開になっている [TIME[2024-02-15T10:07:50.400Z]]



