[17] 
[DFN[源久]]は、
[[日本の中世私年号]]の1つです。


* 用例

[5] 
広安寺文書に用例が見えるとされます。
[TIME[文化2(1805)年][1805]]に[[掛川藩]]主[[太田資順]]の指示で編纂が開始された[[地誌]]
[CITE[掛川誌稾]]
に言及があります。
[SRC[>>1, >>12]]



[2] 
[[広安寺]]は、
[[日本]][[掛川藩]]領[[遠江国]][[佐野郡]][[日根下鄕]][[増田村]]
([[昭和時代]]の[[静岡県]][[小笠郡]][[掛川町]][[大字仁藤]][[字益田]] [SRC[>>3]])
にありました。
[SRC[>>1]]

[4] 
[[増田村]]の正確な位置がどこに当たるのか、 [[Web]] 上では資料が見つけられません。
[LAT[34.776167]], [LON[138.027012]]
からそう遠くはない場所ではないかと思われます。
[[村]]ではありながらも[[掛川城]]から近く、
[[近世]]から[[近代]]にかけて[[市街地]]化が進んだ地域のようです。

[6] 
[[広安寺]]は何度かの変遷を経ており、この名称は[TIME[文化元(1804)年][1804]]からです。
所在地も[TIME[寛永20(1643)年][1643]]までは「[[仁藤村]]八幡宮の西」でした。
[SRC[>>1]]
[[仁藤村]]八幡宮は、現在[[八幡神社]]と呼ばれている
[LAT[34.775424]], [LON[138.023199]]
付近の[[神社]]でしょうか。

[7] 
[[広安寺]]は[[修験道]]・[[陰陽道]]の[[寺]]で[[掛川藩]]との関係が深かったようです。
[SRC[>>1]] [[明治時代]]以後の状態について記述された文献は見つけられません。
現在 [[Web]] で検索しても[[地図]]を見ても、その後継らしき寺社は出てきません。
そこに伝わったとされる文書の行方も不明です。

[8] 
[CITE[掛川誌]]
によると、
[[広安寺]]には延喜2年、
源久2年、
観応2年の[[文書]]の[[写本]]が伝えられていました。
[SRC[>>1]]

[9] 
また
[CITE[掛川誌]]
によると、
[[広安寺]]には永禄六年[LINES(smaller)[癸][亥]]十月十九日の文書が伝えられていました。
その文中で >>8 の3つの文書に言及があります。
[SRC[>>1]]

[10] 
[CITE[掛川誌]]
はこのうち[[延喜]]2年文書は怪しく[[偽書]]だろうと推定しています。
また、[[源久]]は[[鎌倉]]の偽号だろうと注釈しています。
永禄6年文書は紙や墨の色が古く永禄の物で間違いないと断定しています。
>>8 の3つの文書は永禄6年文書から参照されているので、
その頃には原本が伝わっていたのだろうとしています。
[SRC[>>1]]


[11] 
[CITE[掛川誌]]
は永禄6年文書の全文を掲載しているものの、残念なことに
>>8 の3つの文書の本文は省略しています。
[SRC[>>1]]

[14] 
[TIME[平成12(2000)年][2000]]の
[CITE[掛川市史]]
は、
[CITE[掛川誌稿]]
を出典に「広安寺文書」から永禄6年文書だけを収録しています。
[SRC[>>13]]
それ以上の説明はありませんが、
[CITE[掛川誌稿]]
以後文書の実物を参照できなくなっている可能性があります。

[15] 
源久2年文書は、
[CITE[掛川誌]]
によると高氏公より観長という者に賜った証文です。
永禄6年文書には、「尊氏将軍御判形」とあります。
[SRC[>>1]]

[16] 
つまり[[足利尊氏]]が[[広安寺]]の祖先の観長に[[陰陽師]]としての活動に関係して「源久2年」
に発給した文書ということのようです。



[REFS[

- [1] 
[CITE@ja-JP[掛川誌 乙篇]], [[静岡郷土研究会]], [TIME[昭和3][1928]], [TIME[2025-12-18T02:09:35.000Z]], [TIME[2025-12-19T14:15:45.782Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1214826/1/20?keyword=%E6%BA%90%E4%B9%85>
- [12] 
[CITE@ja-JP[掛川誌稿]], [[斎田茂先, 山本忠英]], [TIME[1972]], [TIME[2025-12-18T02:09:35.000Z]], [TIME[2025-12-21T13:35:59.868Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9568974/1/76?keyword=%E4%BA%8C%E5%B9%B4> (要登録)
- [3] 
[CITE@ja-JP[星占い星祭り]], [[金指正三]], [TIME[1974]], [TIME[2025-12-18T02:09:35.000Z]], [TIME[2025-12-21T12:13:59.038Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12278895/1/140?keyword=%E7%9B%8A%E7%94%B0> (要登録)
- [13] 
[CITE@ja-JP[[[掛川市史]] 資料編(古代・中世)]], [[掛川市史編纂委員会]], [TIME[2000.3][2000]], [TIME[2025-12-18T02:09:35.000Z]], [TIME[2025-12-21T13:38:40.722Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9541162/1/304?keyword=%E5%BA%83%E5%AE%89%E5%AF%BA> (要登録)


]REFS]

[NOTE[

- [28] [CITE@ja-JP[穢多族に関する研究]], [[菊池山哉]], [TIME[大正12][1923]], [TIME[2025-12-18T02:09:35.000Z]], [TIME[2025-12-21T14:15:50.877Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/978676/1/78?keyword=%E5%BA%83%E5%AE%89%E5%AF%BA> (要登録)

[29] >>28 に
[CITE[掛川志稿]]
を引いた地名辞書からの引用がありますが、
源久2年文書などの部分がなぜか省かれています。

]NOTE]

* 研究史

[18] 
[[日本]]の[[江戸時代]]、[[文化]]年間頃の
[CITE[掛川誌]]
で紹介されました。
[CITE[掛川誌]]
は「鎌倉の偽号」と推測しました (>>10)。

[19] 
「鎌倉の偽号」とは何か説明がありませんが、当時いくつか知られ始めていた[[中世東国私年号]]の一種というくらいの意味なのでしょう。

[20] 
その後[[令和時代]]に至るまで[[私年号研究者]]に捕捉されることなく忘れられていました。

* メモ

[22] 
類似する[[元号名]]として[[建久]]が想起されますが、あまり関係ないかもしれません。

[23] 
[[建久]]は[[鎌倉幕府]]初代の[[源頼朝]]の時代なので、似ているのはあながち偶然とも言い切れないかもしれません。

-*-*-

[24] 
[[高氏]]・[[尊氏]]が確かに[[足利尊氏]]を指すのだとすると、
[[源久]]と誤読、誤写しそうな[[元号]]は見当たりません。

[25] 
[[延喜]]の[[偽文書]]らしきものがあること、
権利主張の材料として使われたらしい[[文書]]であること、
[[室町幕府]]初代といういかにもな有名人であることを考えると、
これも[[偽文書]]である可能性は当然疑うべきでしょうな。

[21] 
[[偽文書元号]]の一種、広義の[[秘伝書の日時]]といってもいいのかもしれません。

-*-*-

[26] 
[TIME[永禄6(1563)年[LINES(smaller)[癸][亥]]][1563]]文書も[[偽文書]]であるのかどうかは、
判断が難しそうです。

[27] 
[CITE[掛川誌]] 
の推測通り永禄6年時点で3つの文書の「原本」が存在したのかどうかも考えてみる必要がありそうです。

