[32] 
[DFN[法徳]]は、
[[近世]]初期の[[日本]][[能登国]]で[[偽造][偽文書]]されたとみられる中世文書に出現する[[元号]]です。

[46] 
[[私年号]]の1つとして紹介されることがありますが、
[[偽文書]]以外で普通に利用された形跡は現時点で見つかっておらず、
一般的な[[元号]]とは[[区別される][偽文書元号]]べきものです。

* 元号名

[102] 
いくつかの説があります。

- [149] [[法徳]]
- [150] [DFN[□徳]]
-- [151] 1文字目[[判読不能]]
-- [165] [[判読不能]]とされたこと自体が不審と考えられます。
- [152] [DFN[清徳]]
-- [154] 誤読と推測されます。 [SRC[>>51]]
- [153] [DFN[宝徳]]
-- [155] [[宝暦]]年間に筆写したことによる誤写と推測されます。 [SRC[>>51]]


* 紀年法

[141] 
[[紀年法]]としてはいくつかの説があります。

- [142] 「[[法徳]]」は[[偽年号]]である (>>7, >>123)
-- [157] [[偽年号]]とは何を意味するか曖昧
- [143] 「[[法徳]]」とは[[公年号]]の[[宝徳]]
([TIME[宝徳元(1449)年][1449]]が[[元年]]) の[[異表記][元号名]]である (>>35)
-- [156] 用例は[[延長年号]]に当たる
-- [146] 文書の様式と時代が合わない
- [144] 「[[法徳]]」は[TIME[天正元(1573)年][1573]]が[[元年]]の[[私年号]]である (>>111)
-- [147] 根拠が弱い
- [145] 「[[法徳]]」 ([TIME[y~297]]) と異表記「[[宝徳]]」 ([TIME[y~4188]])
は[TIME[寛文元(1661)年][1661]]が[[元年]]の[[私年号]]である (>>10)
-- [148] 根拠がない、誤読の疑い

[159] 
後述の通り、[[現実世界]]の[[時間軸]]上の位置を明確にし得ない[[偽文書元号]]と理解するのが穏当と思われます。
この中で言えば >>142 が最も近いでしょうか。

* 用例

[119] [[日本国]][[石川県]][[能登]]地方に用例がいくつかありますが、
いずれも元は同じ[[文書]]を写したものです。

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [55] [[日本国]][[石川県]][[輪島市]] 上時国家文書 [SRC[>>51]]
-- [81] >>51 p.32 に白黒写真 (やや不明瞭)
-- [82] [[草書]] [SRC[>>51]]
-- [83] 「[DATA(.text)[法徳九年八月日]]」 [SRC[>>51]]
-- [56] [TIME[寛文5(1665)年][1665]]に珠洲郡堂ヶ村いせき家にあった文書を写したという。
[SRC[>>51]]
- [57] [[日本国]][[石川県]][[輪島市]]町野町 瀬野神主筆写文書 [SRC[>>51]]
-- [84] >>51 p.33 に白黒写真
-- [85] [[草書]] [SRC[>>51]]
-- [86] 「[DATA(.text)[宝徳九年八月六日]]」 [SRC[>>51]]
-- [59] 寛文6年に法住寺実取長兵衛より「此本紙を出し申候」とのこと。 [SRC[>>51]]
-- [58] [TIME[宝暦13(1763)年][1763]]に珠洲郡法住寺村実取(見鳥)長兵衛の所持する境界定書を写したという。
[SRC[>>51]]
- [62] [CITE[越登賀三州志]] [CSECTION[故墟考]] [CSECTION[[V[黑峯法立山]]]] [SRC[>>53]]
-- [63] [[日本]][[加賀藩]]の歴史研究者[[富田景周]]の[[地誌]]。
-- [94] [CSECTION[故墟考]]は[TIME[寛政13(1801)年][1801]]成立。
-- [64] 本件境界文書の研究史上の初出。 [SRC[>>51]]
-- [65] [[飯田村]] (一説[[南方村]]) [[庄右衛門]]家に伝わるという境界文書を引用。
[SRC[>>53, >>51]]
--- [74] [[飯田村]][[庄右衛門]]家伝来とするのは誤り。 [SRC[>>2]]
--- [66] [[庄右衛門]]はどちらの村にも見えるが、諸書からみて文書の所有者とするのは誤り。
[SRC[>>51]]
--- [68] 保存状態が悪いとのこと。 [SRC[>>53]]
-- [67] 「[DATA(.text)[□徳九年八月六日]]」 [SRC[>>53, >>51]]
- [54] [[伊予太郎]]家所蔵文書 [CITE[[V[覚]]]] [SRC[>>51]]
-- [87] >>51 p.34 に白黒写真 (不鮮明)
-- [25] >>24 白黒写真あり、低解像度で文字の判読は難しい
-- [17] >>16 掛け軸まで含めたカラー写真あり。解像度低めなので文字の読み取りはやや困難。
--- [136] どれの写真か明記されていないが、おそらくこの文書。
--- [139] 虫食い多く、 >>60 と一致。
-- [88] [[草書]] [SRC[>>51]]
-- [89] 「[DATA(.text)[法徳九年八月六日]]」 [SRC[>>51]]
-- [131] 上戸町北方の[[伊予太郎]]管理の家に保管されていた。 [SRC[>>18]]
-- [132] [[伊予太郎]]家は、[[南方村]]の豪農[[三盃助兵衛]]家の分家[[三盃助太郎]]家の末裔。
[SRC[>>18]]
-- [137] 平成10年代に[[珠洲市立珠洲焼資料館]]に移された。 [SRC[>>18]]
- [98] 
[CITE[能登日暦]]
[TIME[天保7(1836)年4月26日][kyuureki:1836-04-26]]条 所収 [CITE[[V[覚]]]]
[SRC[>>97]]
-- [99] 「[DATA(.text)[淸德九年八月六日]]」 [SRC[>>97]]
-- [100] [[助兵衛]]方の文書の写し。 [SRC[>>97]]
-- [101] [TIME[天明3(1783)年][1783]]に「金城へ御引上御覧」の上、返却したとのこと。 
[SRC[>>97]]
--- [138] 掛け軸にした旨の記載がある。 [SRC[>>97]]
- [60] [[日本国]][[石川県立図書館]]所蔵写本 [CITE[[V[覚]]]]
-- [135] >>21 に高解像度のカラー写真
-- [90] >>51 p.34 に白黒写真
-- [91] [[草書]] [SRC[>>51]]
-- [93] 虫食い箇所 (の模写) が多い。 [SRC[>>51]]
--- [95] [[紀年]]部分は明瞭。
-- [92] 「[DATA(.text)[法徳九年八月六日]]」 [SRC[>>51]]
-- [61] [TIME[嘉永7(1854)年4月29日][kyuureki:1854-04-29]]に[[日本]][[加賀藩]]の歴史研究者[RUBYB[[[森田平次]] ([[森田柿園]], [[森田良見]])][[TIME[1823]]-[TIME[1908]]]]
が[[三杯助兵衛]]方で写したという。
[SRC[>>51]]
-- [96] 瀬野神主筆写文書 (>>57) とよく似ている。 [SRC[>>51]]
- [70] [CITE[能登志徴]] [SRC[>>1, >>2]]
-- [71] [[明治時代]]の[[日本]][[石川県]]の歴史研究者[[森田平次]]の[[地誌]]。
-- [72] [[日本国]][[石川県]][[珠洲郡]][[南方村]]字三杯助兵衛の所蔵の境界文書を引用。
[SRC[>>2]]
--- [73] 「[DATA(.text)[法徳九年八月六日]]」 [SRC[>>2]]
- [77] [CITE[石川県史]] 所収 [CITE[[V[覺]]]] [SRC[>>41]]
-- [78] [TIME[寛文9(1669)年][1669]]に[[加賀藩]]に提出されて[[珠洲郡]]大町泥木村が勝訴することになったという文書。
[SRC[>>41]]
-- [79] [CITE[石川県史]]には「[V[珠洲郡文書]]」と注記がある。 [SRC[>>41]]
-- [80] 「[DATA(.text)[法徳九年八月六日]]」 [SRC[>>41]]

]ITEMS]

[126] 
諸本の書写の関係は >>51 に考察がありますが、
伝写過程を完全に解明できているわけではありません。

[127] 
1文字目が読めない「□徳」の状態の写本が未発見というのがどうにも不審です。

[140] 
>>17 >>135 を見比べると他の虫食い位置は似ているので >>54 こそ
>>62 の原本という気もしますが、でも >>17 の「法」は読めるのが謎です。



[REFS[

- [97] 
[CITE@ja-JP[[[能登路の旅]] 続]], [[日置謙 校訂]], [TIME[昭和9][1934]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-30T13:57:51.816Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1226241/1/103> (要登録)
- [16] 
[CITE@ja[珠洲・鳳至郡境文書と現地【[[珠洲市]]】【能登町】 - 能登のうみやまブシ(西山郷史)]], [TIME[2022-12-22T12:46:59.000Z]] <https://umiyamabusi.hatenadiary.org/entry/20100924/1285337659>
-- [128] 移転確認 [TIME[2023-12-31T02:26:04.200Z]]
-- [129] [CITE@ja[珠洲・鳳至郡境文書と現地【[[珠洲市]]】【能登町】 - 能登のうみやまブシ=西山郷史]], [TIME[2023-12-31T02:25:38.000Z]] <https://umiyamabusi.hatenadiary.com/entry/2010/09/24/231419>
-
[20] 
[CITE[16kaetsunou.pdf]], [TIME[2012-03-13T15:00:00.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:54:03.339Z]] <https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/16kaetsunou.pdf#page=18>
-- [133] 
[CITE[阿部判官能登珠洲郡堺定書]]
というものが所蔵されている、昭和後期。
-- [134] >>21 のことか。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[21] [CITE@ja[能登国阿部判官ノ古書等写 | SHOSHO | [[石川県立図書館]]]], [TIME[2022-12-22T12:55:44.000Z]] <https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/detail/orgn/B101001556>
]FIGCAPTION]

>
:タイトル 	:能登国阿部判官ノ古書等写
:解説 	:前半は,珠洲郡南方村の三杯助兵衛家所蔵で,法徳9年8月6日阿部某発給の珠洲郡分界の券書。後半は,山姥の手跡という「一盃一盃又一盃」の書を,嘉永7年4月29日,三杯助兵衛宅で,森田良見が写したもの。法徳なる公年号なく私年号である。印記●。落款●。
:出版/書写者 	:森田良見手写
:出版/作成年(西暦) 	:嘉永7年4月 1854-04-01

]FIG]


]REFS]

* 研究史

[120] 
この[[元号]]の用例は1系統の[[文書]]にしかなく、
[[元号]]の[[研究史]] ≒ この[[文書]]の[[研究史]]です。

** 近世の研究

[121] 
この[[文書]]の記録上の最古は[TIME[寛文5(1665)年][1665]]の書写 (>>56) で、
第3者による関与の最古は[TIME[寛文9(1669)年][1669]]の訴訟 (>>78) です。


[69] 
研究史上の初出は[TIME[寛政13(1801)年][1801]]成立の[[富田景周]]の引用
(>>94) です。
[[富田景周]]は、「徳」がついて9年まで続く[[元号]]はなく、不審だと指摘しました。
[SRC[>>53]]
不審としつつも、[[偽文書]]とまでは考えなかったようです。

[REFS[

- [53] [CITE@ja-JP[[[三州志]] 〔第5〕 故墟考,図譜村籍]], [[富田景周]], [TIME[1884]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-30T12:08:47.275Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/993830/1/125>
-
[44] 
[CITE@ja-JP[能登珠洲志]], [[和田文次郎]], [TIME[明43.11][1910]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-24T02:22:47.794Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/764645/1/16>
-- [75] >>53 を引用。


]REFS]

-*-*-

[3] 
[[森田平次]]によると、
「法德九年八月六日」付けの郡界を定める文書の古写本があったそうです。
[SRC[>>1]]
>>2 にはその写本についてもう少し詳しいことが書かれています。
そして「法德」の正体が考察されています。

[33] 
この[[元号]]がいつなのか、誰もわからずみな頭を悩ませていました。
[SRC[>>2]]
直接引用されているのは >>62 だけですが、「先達皆不審せり」
[SRC[>>2]]
というからには、 (考察を書き残したかはわかりませんが) 
他にも考えた人が[[近世]]の[[加賀藩]]あたりにいたのでしょう。

[6] 
[[宝德]] (3年まで) の誤記で、奥地ゆえの[[延長年号]]ではないかという説があったようです。
[SRC[>>2]]
「或云」 [SRC[>>2]] とあるので、 >>33 の「先達」の1説でしょうか。

[35] [[宝徳]]は[[日本の元号]]の1つで、
[TIME[宝徳元(1449)年己巳][1449]]、
[[延長年号]]で[TIME[宝徳9(1457)年][1457]]。
[[室町時代]]の[[足利義政]]の頃に当たります。


[7] >>2 の著者は「法」の字のある[[元号]]([[公年号]])はないのだから、
[[偽年号]]に違いないとしています。
ここでいう[[偽年号]]は、[[中世私年号]]の類を指しているようです。
何年に相当するものかは何も言っていません。

[34] >>2 の[[著者]]は[[偽文書]]だとまでは疑っていないようです。

[REFS[

-
[1] [CITE@ja-JP[[[能登志徴]] : 森田平次遺稿 下編 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-22T03:53:37.771Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536040/1/158>
-
[2] [CITE@ja-JP[[[能登志徴]] : 森田平次遺稿 下編 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-22T03:54:21.672Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536040/1/169>

]REFS]

** 近代の研究

[76] 
[[昭和時代]]の[[日本国]][[石川県]]の歴史研究者[[日置謙]]は
[CITE[石川県史]]
などを編纂しましたが、
[[法徳]]は他に見えない[[異年号]]、[[私年号]]だとしています。
[SRC[>>41, >>43 (どちらも同文)]]。

[9] >>8 は文書の著者は架空の人物で[[元号]]は他にない[[私年号]]で、
[[文書]]の体裁も怪しく、
真贋は来歴から察せ (≒ [[偽文書]]だ) としています。
[SRC[>>41]]

[REFS[

- [30] [CITE[jii_1.pdf]], [TIME[2015-03-28T15:00:00.000Z]], [TIME[2022-12-22T13:44:18.207Z]] <https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/jii/jii_1.pdf>
--[8] [CITE[jii_22.pdf]], [TIME[2015-03-28T15:00:00.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:31:55.298Z]] <https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/jii/jii_22.pdf>
-- [43] [CITE@ja-JP[加能郷土辞彙]], [[日置謙]], [TIME[昭和17][1942]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:34:28.861Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1123720/1/32>
-
[41] [CITE@ja-JP[[[石川県史]] 第壹編]], [[石川県]], [TIME[昭和2][1927]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:31:07.875Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1921042/1/503>

]REFS]

-*-*-

-
[40] [CITE@ja-JP[柳田村の集落誌]], [[原田正彰 編著]], [TIME[1977.10][1977]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:26:30.998Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537479/1/140> (要登録)
-
[42] [CITE@ja-JP[柳田村の集落誌]], [[原田正彰 編著]], [TIME[1977.10][1977]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:29:13.946Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537479/1/171> (要登録)

[123] 
>>40
[[偽年号]]であると断定し、そのため[[偽文書]]かどうかが問題になるとする。
ここでいう[[偽年号]]がどういう意味かは不明ながら、真贋に寄与するものらしい。

[124] 
>>42
こちらでは[[私年号]]と呼んでいる。

[122] 
文書本文の引用はありません。出典の明記もありませんが、
記載内容は >>2 や >>41 に基づくと思われます。

-*-*-

-[22] 
[CITE@ja-JP[珠洲市史 第4巻 (資料編 神社・製塩・民俗)]], [[珠洲市史編さん専門委員会]], [TIME[1979.2][1979]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-31T02:04:48.169Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537865/1/586> (要登録)
-- [24] /590

[5] >>22 は >>41 翻刻文を引用、 >>2 を参照。

[23] >>22 は[[宝徳]]の[[改元]]を[[知らなかった][延長年号]]のだとしても、
と[[宝徳]]説に触れつつも、
山論に使われたことから上限も定まる、と否定的 (しかしいつとは断言していない)。


- [18] [CITE[9f83c06041879f2a.pdf]], [TIME[2017-09-30T13:54:59.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:50:34.593Z]] <http://image01.wiki.livedoor.jp/i/i/iidamati/9f83c06041879f2a.pdf#page=4>

[19] 
>>18 当該文書の所蔵者とのエピソード、平成中期。 (紀年や内容には言及なし。)

[130] >>18 の著者は >>22 の筆者。平成11年に[[伊予太郎]]家文書を見たとのことで、
>>22 執筆時点では未見。


-*-*-

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[31] 
[CITE[日本歴史地名大系 - 平凡社. 地方資料センター - [[Google ブックス]]]], [TIME[2022-12-22T13:45:27.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=T_YUAQAAMAAJ&q=%22%E6%B3%95%E5%BE%B3%22>
]FIGCAPTION]


>902 ページ
>... 庁に提示されたという阿部判官文害に「鈴郡山さかひ、羽根のほほ内より、はなかけ堂、ごんしやくのごりん石、きりはたのとちの木を境」とあるというが( ^登志徴)、この文害の日付として記される法徳九年は偽年号もしくは私年号で、真偽は定かでない。
>903 ページ
>... 加賀籌に提出した「法徳九年八月六日阿部判 00 口」という私年号 8 年号)をもつ文害に、榜示の一として「ごんしやくのごりん石」(能 8 志徴)とあるとされるところから、少なくとも近世前期には中世以来の膀示としての認識があつたと推測される。


]FIG]




** 平成時代の研究

[104] 
[[和嶋俊二]]は、
研究史を整理し、引用元の写本を発掘して考察を進めました。
[SRC[>>51]]
[RUBYB[[[和嶋俊二]]][[TIME[1921]]-]]は、
[[昭和時代]]の[[日本国]][[石川県]][[能登]]地方で[[高等学校]]長などを務めながら、
地域史を研究しました。
[[法徳]]の他に[[慶喜]]にも寄与しています。

[105] 
[[和嶋俊二]]は近い地域の境界を定めた文書に
「天正□年八月六日」付のもの [SRC[>>103]] があると指摘しました。
この□は不明確なため慎重に□とされたものの、
[[和嶋俊二]]によれば
[WEAK[(後世の写本で「九」と誤読したものもあるとはいえ)]]
注意してみると「元」なのだそうです。
つまり「天正元年八月六日」で、[[元号名]]以外は[[法徳]]の境界文書と一致します。
「[V[あまりに安易すぎるであろうか]]」
と断りながらも関係の存在を推測しています。
[SRC[>>51]]

;; [106] [TIME[元亀4(1573)年7月28日][kyuureki:1573-07-28]]に[[改元]]して天正元年。
[[改元]]してから少々日が浅すぎる感もあります。

[107] 
[[和嶋俊二]]はこのように推測しています。
[SRC[>>51]]

- [108] 上に[CH[法]]がつくのは[[聖徳太子]]の[[時代][法興]]だけ。
- [109] 下に[CH[徳]]がつくのはあるが、9年も続くのはない。
- [110] 「元年」とみて[[印判状]]のようなものとすると[[戦国時代]]に[[延徳]]、
[[福徳]]があるが、政治的・社会的背景から15世紀は不適当。
- [111] [[私年号]]で天正元年に当たるか。
-- [112] [[室町幕府]]の崩壊という政治的大事件もあるが、
-- [113] 郷村の地縁的協同体の有力者クラスの合議決定の法に、
神仏の加護を期待した「法徳」ではないか。
- [114] 同じ[[奥能登]]で[[慶喜]]の[[私年号]]の事例がある。
-- [115] 「天正元年八月六日」文書 (>>105) の子孫でも用例あり。
- [116] 「法徳元年」文書は天正元年、中世末名主層間の「定書」を阿部判官に仮託したものでは。

[117] [[慶喜]]を引き合いに出しているのは、当時[[慶喜]]がこの[[奥能登]]だけのものだと思われており、
中世末から近世初期の連続性ある地域有力者グループがかつて[[法徳]]を使い、
その後[[慶喜]]を使ったという想定のようです。
ところが実は[[慶喜]]は全国で ([[薩摩]]でも!) 同時に使われたことが判明しており、
この論法は成り立たなくなりました。

[118] [[和嶋俊二]]は[[仮託]]した[[偽文書]]とはしながらも、
有力者間の同意そのものはあったと考えていたようです。

[REFS[

-
[103] 
[CITE@ja-JP[[[輪島市史]] : 資料編 第2巻 (村役人家文書)]], [[輪島市史編纂専門委員会]], [TIME[1972]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-30T14:16:32.282Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536980/1/188> (要登録)
- [49] 
[CITE[すずろ物語]]
-- [48] 
[CITE@ja[[[すずろものがたり]] (珠洲郷土史研究会): 1950|書誌詳細|国立国会図書館サーチ]], [TIME[2023-12-30T11:32:00.000Z]] <https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000012676-00>
-- [52] 
[CITE@ja[「[[すずろ物語]]」目次一覧 - 珠洲市ホームページ]], [TIME[2023-12-30T11:00:02.000Z]], [TIME[2023-12-30T11:35:27.898Z]] <https://www.city.suzu.lg.jp/site/suzuware-museum/1005.html>
-- [50] [CITE[60巻]], [TIME[平成11(1999)年8月][1999-08]]
--- [51] 
[CITE[[V[珠洲・鳳至郡界定書の考察[BR[]][B[[WEAK(smaller)[―伝阿部判官書―]]]]]]]],
[[[V[和嶋俊二]]]],
pp.28-37


]REFS]



[26] [CITE[歴史と民俗: 神奈川大学日本常民文化研究所論集 - Google ブックス]], [TIME[2022-12-22T13:14:11.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=kTMxAAAAIAAJ&dq=%22%E6%B3%95%E5%BE%B3%22>

>209 ページ
>... た「法徳九年八月阿部判官」の年紀を持つ「鈴々鳳至大堺之事」と題する文書として伝わっており、民俗班・文書班のともに大きな課題とすべき問題なので、この伝説・文書に見える「北山の木戸」と「言若の五輪塔」の実地調査を、今回、行うこととした。

- [38] [CITE[奥能登と時国家(神奈川大学日本常民文化研究所奥能登調査研究会編)奥能登と時国家 調査報告編1(文書・書籍) 1996.5 - mqgqct00000007ki.pdf]], [TIME[2016-10-28T07:34:42.000Z]], [TIME[2022-12-22T14:11:02.766Z]] <http://jominken.kanagawa-u.ac.jp/publication/mqgqct0000000329-att/mqgqct00000007ki.pdf>
-- [39] 目次のみ

[166] 
[CITE@ja-JP[奥能登と時国家 調査報告編 1 (文書・書籍)]], [[神奈川大学日本常民文化研究所奥能登調査研究会]], [TIME[1996.5][1996]], [TIME[2026-01-20T01:30:11.000Z]], [TIME[2026-02-06T14:32:25.181Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13243166/1/81?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)


[27] [CITE[奥能登と時国家調査報告編 1: 文書・書籍 - Google ブックス]], [TIME[2022-12-22T13:14:45.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=b11MAQAAIAAJ&q=%22%E6%B3%95%E5%BE%B3%22>

>70 ページ
>...
和嶋俊二氏には、今回もまた、調査のすべての面にわたって御援助いただいたが、同氏の長年の御研究に基づいた御教示による、珠洲・鳳至両郡の境の確定に関わる阿部判官の伝説は、上時国家第二次採訪文書にも、寛文五年(一六六五)に書写された「法徳九年八月阿部判官」の年紀を持つ「鈴々鳳至大堺之事」と題する文書として伝わっており、民俗班・文書班のともに大きな課題とすべき問題なので、
この伝説・文書に見える「北山の木戸」と「言若の五輪塔」の実地調査を、今回、行うこととした。
>154 ページ
>文書・書籍 神奈川大学日本常民文化研究所奥能登調査研究会 154 ついで、和嶋氏は「私年号『鳳珠郡界文書』の一考察」と題し、鳳至郡と珠洲郡の郡界の定書として古くから知られ、宝徳(法徳)九年八月六日の年紀と阿部判官の署名を持ち、日置謙氏によって偽文書と断定されて以来、余り関心を持たれていなかった文書について、上時国家文書の中に見出された寛文五(一六六五)に書写されこの文書第三日(五月四日)はまず、田島氏が、昨年度に行った安部屋での調査をはじめ、能登と松前との関係を追究するため、史料の探索を続けていること、現在のところ、未だ適当な史料を見出していないことを率直に報告、今後を期しているとのべた。
>155 ページ
>の写、及び粟蔵の白山神社の瀬野宮司による同文書の写に関連して、あらためて注目され、試論を展開された。
そして「向谷賢治郎家文書」の延宝七年(一六七九)の山論に関する文書により、勝訴した大町泥木村の提出した境界文書の作成年代が天正初年であり、「下補正行家文書」の寛永二年の山出入文書に「天正元年之山堺証文」の見えること、さらに「久保宝二家文書」に山の堺に関連する天正九年(一五八一)八月六日の文書があり、これが元号の違いをのぞくと、さきの阿部判官の偽文書と一致する点など、きわめて興味深い推論を展開され、能登における私年号、阿部判官の墓と伝えられる近世の石塔などにも言及された。
... 岩倉山に鎮座する式内社石倉比古神社の別当寺岩倉寺は、中世、広い信仰圏を持つ寺院として繁栄した時期があったと伝えられ、日置謙編『加能 ...
>167 ページ
>こうした点を考慮すると、ここに記された年紀・元号の「伝承」は、平時忠に関わる「伝承」とはレベルの全く異なる「伝承」であり、それが事実であるか否かについて、追究することは十分に意味のあることと、われわれは考えていた。
>196 ページ
>また、池田周三家文書についても、前回の作業を継続し、一点一点を封筒に入れ、年号を確定するなどの仕事を進め、ダンボール箱十三箱中八箱を完了、全体の半分ほどの整理を終えたものと思われる。その過程で、明治期の私年号「征露」二年付の文書を発見したなどの副産物があった。同じく、井池光夫家においても、襖下張文書を一点ごとに封筒に入れる作業を前回に続けて進行させた。[補註 1 ]だくことになっている。(脱アルカ) (一七○○ )のそれの中 ...

[29] [[日置謙]]は >>8 の編者。


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[28] 
[CITE[奥能登の研究: 歴史・民俗・宗教 - 和嶋俊二 - [[Google ブックス]]]], [TIME[2022-12-22T13:41:27.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=3V1MAQAAIAAJ&q=%22%E6%B3%95%E5%BE%B3%22>
]FIGCAPTION]

>21 ページ
>「言若」とは宝立山の黒峰城主であったという伝説上の人物、阿部判官義宗が、法徳九年八月六日、珠洲・鳳至の郡境を定めたという文書に「言若の五輪」とあるもので、郡界を示す塚上に五輪の塔(近代になって古い ...


]FIG]

-*-*-

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,(法徳) 	,宝徳 	,寛文元年(1661年) 	,不明 	,『能登志徴』 
]FIG]


- [160] 
[CITE@ja[「[[私年号]]」の版間の差分 - Wikipedia]], [TIME[2024-07-14T13:51:29.000Z]], [TIME[2024-07-15T12:40:39.331Z]] <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7&diff=prev&oldid=41377699>
-- [161] 
[CSECTION[2012年2月25日 (土) 04:36時点における版]],
[[Takanuka]]
- [162] 
[CITE@ja[「[[私年号]]」の版間の差分 - Wikipedia]], [TIME[2024-07-14T13:51:29.000Z]], [TIME[2024-07-15T12:41:15.864Z]] <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7&diff=prev&oldid=47690649>
-- [163] 
[CSECTION[2013年5月1日 (水) 18:22時点における版]],
[[文屋将監]]




[11] 
[CITE[Wikipedia]] の >>10 の記述は何を根拠にしているのか謎です。
出典に[CITE[能登志徴]]が挙げられていますが、
[CITE[能登志徴]]のどこにそのような記述があるのか謎。

[12] 
この表の[CH[(]], [CH[)]] が何を意味しているのか、がまず説明がなく謎です。

[13] 
[CITE[能登志徴]]によれば 「(法徳)」こそが本来の[[元号名]]。
異説とされる「宝徳」は相当する[[公年号]]の1説。

[14] 
相当年とされる「寛文」は、
寛文9年に初めて[[加賀藩]]当局に「法徳」文書が提出された [SRC[>>8]]
ことに由来するものでしょうか。

[45] 
[CITE[Wikipedia]] 編集者が[CITE[能登志徴]]を見ていたならこのような間違いは起こるはずがなく、
継続年数は「9年以上」となるはずです。そうなっていないということは孫引きなのでしょうか。

[164] 
[[法德]]は[TIME[2012-02-25]]に [SRC[>>161]]、[[宝徳]]は[TIME[2013-05-01]]に 
[SRC[>>163]]、別の編集者によって追加されました。どちらも変更理由の説明はなく、
出典は不明です。




[125] これに限らず[[[CITE[Wikipedia]]の日時関連記事]]は不審な記述が多く信用なりません。
[SEE[ [[日本私年号一覧表]] ]]


[158] 
定義上[[幽霊元号]]とはいえませんが、それに近いものというほかありません。


* メモ


[4] しかし境界を決める文書の写本というのが既に怪しい...

[15] 
[[山論]]用の証拠の[[偽文書]]だとするなら「法徳」が具体的にいつかはどうでもよくて、
「とにかく昔からそう決まっていたのだ」と言いたかっただけということに。
[SEE[ 類例: [[清保]] ]]


;; [47] [[清保]]もなぜか[[元号名]]だけ読めなくなっている[[文書]]が発見されてます。















[36] 
>>27 の調査によると[[偽文書]]確定ということで良さそう。

[37] 
すると[[偽文書]]の「偽造」性の構成要素である「法徳」がいつであるか、というのはもう意味のない問ということに。
「中世のなんかよくわからん昔」という以上の答えはないだろう。










