[1] 
[DFN[永鎮]]
([[旧字体]]: [DFN[永鎭]])
は、
[[日本の元号]]とされた不明な[[元号]]の一つです。


*元号名

[3] 
[[新字体]]は[[永鎮]]です。

[4] 
[[旧字体]]は[[永鎭]]です。


* 用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [5] 
[DATA(.label)[[TIME(.published)[明正徳7(1512)年壬申][1512]]の[[日本]]から[[明国]]を訪問した使節の発言]]
-- [2] 
[DATA(.text)[永鎮八年]] [SRC[>>77]]

]ITEMS]

[6] >>77 によると、
[TIME[明正徳7(1512)年壬申][1512]]に[[日本]]が[[明]]に派遣した使節との宴の場で、
[[武進]]出身の[[明]]国人で[[南京]]禮部の司務を務めていた[[陳端甫]]が、
[[日本]]使節に対して[[国号]]を尋ねました。  
それに対して[[日本]]使節は永鎭8年と回答しました。

[7] 
[[国号]]を尋ねて[[元号年]]を回答するのは不審ですが、
[[国]]の[[年号]]は何かという意味で尋ねたのでしょうか。

* 諸説

[40] 
[[永鎭]]は[[永正]]の誤りと考えられていますが、
どのようにその誤りが発生したかは説明されていません。
また、両者には[[1年ずれ]]があります。

,* [[明]]      ,* [[日本]] (誤)   ,* [[日本]] (正)
,              ,                  ,[TIME[永正元(1504)年甲子][1504]]
,[TIME[弘治18(1505)年乙丑][1505]],永鎭元年乙丑,[TIME[永正2(1505)年乙丑][1505]]
, , ,
,[TIME[正德6(1511)年辛未][1511]], ,[TIME[永正8(1511)年辛未][1511]]
,[TIME[正德7(1512)年壬申][1512]],永鎭8年,[TIME[永正9(1512)年壬申][1512]]


-*-*-

[9] 
[CITE[明史]]には、
[TIME[明正德7(1512)年壬申][1512]]に[[日本]]から入貢があったこと、
治安が理由で[[南京]]で饗宴し帰国させたことが記載されています。
[SRC[>>8]]

[17] 
[[明]]側が使節を帰国と宴の実施を決めたことは、
明正德7(1512)年壬申2月癸卯の記録があります。 [SRC[>>16]]
しかし、宴の実施日は不明です。

[19] 
[[日本]]側の外交記録には、
[TIME[正德6(1511)年][1511]]6月から
[TIME[正德7(1512)年壬申][1512]]5月までの4件の文書が収録されており、
[[明]]への滞在と[[明]]國政府側との交渉がこの期間を含む長期間続いていたことがわかります。
[SRC[>>18]]

[20] 
[[南京]]滞在期間の正確な記録は見当たりませんが、
正德7年4月下旬から正德7年5月の頃と推測されているようです。

[24] 
この推測に間違いがなければ、4月から5月の間に[[南京]]で宴が開催され、
その場で[[国号]]は「永鎮8年」と[[日本人]]が答えた、ということになります。

[REFS[

- [8] 
[CITE@zh[[[明史]]/卷322 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2026-10-15T04:14:26.000Z]], [TIME[2026-10-29T04:15:15.803Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%98%8E%E5%8F%B2/%E5%8D%B7322>
- [16] 
[CITE@zh-TW[明實錄武宗實錄 : 明武宗毅皇帝實錄卷之八十四 - 中國哲學書電子化計劃]], [[Donald Sturgeon]], [TIME[2026-10-29T04:36:58.000Z]] <https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=706758>
- [18] 
[CITE@zh-Hant[[[異國出契]] - 維基文庫,自由的圖書館]], [TIME[2026-10-15T04:39:28.000Z]], [TIME[2026-10-29T04:39:26.592Z]] <https://zh.wikisource.org/zh-hant/%E7%95%B0%E5%9C%8B%E5%87%BA%E5%A5%91>

]REFS]

-*-*-

[41] 
本来「永正9年」であるべきところが「永鎭8年」となった変化は、

- [45] [[元号名]]の違い
- [46] [[元号年]]の[[1年ずれ]]

... の二つの違いがありますが、それぞれ

- [42] [[日本人]]が何らかの理由 (誤って、または何らかの作為) で違って答えた
- [43] [[日本人]]は正しく答えたが、[[明国]]人が聞き間違えた 
- [44] [[明国]]人は現場では正しく理解したが、現存記録までの間に変化した

... といった可能性が想定されます。しかし、そのいずれかであるか確定させられる史料に欠けます。

[47] 
[[日本人]]使節団は明正德7年壬申時点で、年をまたいで二年目の滞在です。
その間現地人とのやり取りが必要となれば[[明の元号]]を使ったでしょう。
[[日本人]]同士または自身の記録などで[[年の表現][年表示]]が必要なら[[日本の元号]]や[[干支年]]を使ったと考えられますが、
そうした場面は[[日本国内]]にいた頃より少なくなっていたかもしれません。

[48] 
もしそうだとすると、四月、五月という段階になっても尚、新年の永正九年という[[年号]]に慣れておらず、
うっかり旧年の永正八年と言ってしまう、ということもあり得るやもしれません。

[49] 
仮に[[年数]]がそれで説明できるとしても、八年間使い続けた[[元号名]]を間違えたり、
忘れたりするとは思えませんから、[[元号年]]の違いまでは説明できません。

[50] 
[CH[正]]と[CH[鎮]]では[[字形]]はまったく似ていませんし、
[[日本語音]]も[[漢語音]]も大違いです。
単純な誤解・誤読による変化とは考えにくいです。

* 研究史

[11] 
[[明]]の[[徐充]] ([[江陰]]出身, [TIME[明嘉靖32年(1553)][1553]]没) の
[CITE[暖姝由筆]]
に、

>
[VRL[
正徳七年壬申日本入貢武進陳端甫為南京[BR[]]
禮部司無時值宴勞來使問其國號乃是永[BR[]]
鎮八年
]VRL]

... とあります。
[SRC[>>10]]

[12] 
[TIME[明万暦34(1606)年][1606]]、
[[明]]の[[李如一]]が
[CITE[藏說小萃]]
に
[CITE[暖姝由筆]]
を収録して刊行しました。
[SRC[>>13]]

[14] 
[[李如一]]による
[CITE[暖姝由筆]]
序文には、著者の死後に書物が人々の手に分散して散逸し、断片しか見つからなかったこと、
[[徐充]]の子の協力で写本を探し、誤字・脱落を含む複数の写本を校訂したことが記されています。
[SRC[>>13]]


[REFS[

- [13] 
[CITE@en[[[暖姝由笔]]卷一-藏说小萃全文原文-识典古籍]], [TIME[2026-10-29T04:07:25.000Z]] <https://www.shidianguji.com/ens/book/CADAL02038781/chapter/1l7joi2bay496>
- [10] 
[CITE@en[[[暖姝由笔]]卷之二-藏说小萃十集十一种全文原文-识典古籍]], [TIME[2026-10-29T03:59:40.000Z]] <https://www.shidianguji.com/ens/book/NGJ89241199901990771130/chapter/1lnokg5buvzls>
86

]REFS]

-*-*-

[77] 
[[清]]の[[鍾淵映]]の[CITE[歷代建元考]]に、

>
[VRL[
乙丑日本國改元永鎮[LINES(smaller)[明孝宗𢎞][治十八年]]

正徳七年壬申日本入貢武進陳端甫為南京禮部司[BR[]]務時値宴勞來使問其國號乃是永鎮八年
]VRL]

... とあります。
[SRC[>>76]]
>>11 とほぼ同文です。

[78] 
すなわち[TIME[日本永正2(1505)年乙丑 = 明弘治18年][1505]]に[[日本]]が[[永鎮]]に[[改元]]したとされます。

[308] 
[CITE[歷代建元考]]の清光緒15年本では、

>
[VRL[
正德七年壬申日本入貢武進陳瑞甫爲南京禮部司[BR[]]務時値宴勞來使問其國號乃是永鎭八年 
]VRL]

となっています。「陳''瑞''甫」が以前の本と違います。
[SRC[>>307]]

;; [309] 
この本は以前の本と他にも細かい違いがあります。
どちらが著者の意図に近いかは不明。光緒本には[CITE[四庫全書提要]]が引かれており、
[CITE[四庫全書]]本の影響を受けています。


[15] 
[CITE[歷代建元考]]
は出典を明記していませんが、
[CITE[暖姝由筆]]
とほぼ同文であることから、
それに直接または間接に由来していると考えられます。
乙丑年の[[改元]]とするのは、そこから遡って求めたものでしょう。


[82] 
[[清]]の[CITE[元号略]]本編に、
[[永鎭]]があり、注釈として
>>82
とほぼ同文、
>>21 
のようなことがあります。
[SRC[>>81]]

[52] 
[[明治時代]]の[CITE[古事類苑]]は、
[[逸年號]]の部で
[CITE[元号略]]
から引いています。
[SRC[>>51]]

[84] 
[[清]]の[CITE[元号略]][CSECTION[補遺]]は、
永[ASIS[正][swc824]]に注釈して、
鍾續攷が[[永鎭]]に作る、としています。
[SRC[>>83]]

[86] 
[[清]]の[CITE[元号略]]の[CSECTION[補遺]]内増補部分は、

>
補遺日本百五代  永正謂卽永鎭則正德七年爲永鎭九年與卷二載貢使所答差一歳

と書いています。 [SRC[>>79]]

[80] 
[CITE[紀元編]]は、
[[永正]]に注釈して、
鍾は永鎭に作る、
としています。
[SRC[>>193]]


[35] 
昭和42年の
[CITE[日本私年号の研究]]は、
[CITE[紀元編]]は、
[CITE[紀元類聚考]]に[[永鎮]]とあるが[[永正]]の誤りとしている、
と説明しています。
[SRC[>>33, >>37]]

[34] 
鍾を[CITE[紀元類聚考]]としたことは[CITE[紀元編]]の解釈として間違ってはいませんが、
その参照先の
[CITE[紀元類聚考]]
には疑問があります。
[SEE[ [CITE[紀元類聚考]] ]]

[39] 
昭和39年の論文は、 >>35 を紹介していますが、
単独で[[私年号]]として立項してはいません。
[SRC[>>33]]

[38] 
昭和42年の[CITE[日本私年号の研究]]は、
[[私年号]]でなく[[私年号的諸資料]]の1つとして、
次のように述べています。
[SRC[>>37]]

- >>35
- [21] [CITE[清白士集]]に、
-- [22] [[日本の元号]]、
-- [23] [[君主]]不明、
-- [25] 明正徳7年に[[日本]]が入貢した時[[南京]]の担当官が[[年号]]を尋ねたら、
永鎮八年と回答
-- [26] 明弘治18年の[[改元]]
- [27] 実際には日本の永正9年
-- [28] [[1字違い][一字異音年号]]、[[1年ずれ]]
-- [29] [[永正]]の誤りと思われる
- [30] [[清]]の[CITE[歴代年号考]]に、[[永正]]を[[永鎮]]に作る、と
-- [31] [[日本]]でそのような例なく、誤りである
-- [32] 当時[[清]]国でそう考えられていたことを示す



[REFS[
- [76] 
[CITE@zh[[[歷代建元考]]卷十秀水鍾淵映撰-歷代建元考全文原文及譯文-識典古籍]], [TIME[2026-10-22T04:20:25.000Z]] <https://www.shidianguji.com/zh/book/SK1177/chapter/1llo6o5jktesi?version=8>
- [79] 
[CITE@zh[[[歷代建元考]]卷一秀水鍾淵映撰-歷代建元考全文原文及譯文-識典古籍]], [TIME[2026-10-22T05:33:10.000Z]] <https://www.shidianguji.com/zh/book/SK1177/chapter/1llo6nmef10kj?version=8>
- [307] 
[CITE@zh[歷代建元考外編二-歷代建元考全文原文-識典古籍]], [TIME[2026-10-29T03:50:51.000Z]] <https://www.shidianguji.com/zh/book/CADAL01036308/chapter/1l1w68ihd1hkj>
21
- [81]  
[CITE@zh[清白士集卷十三-清白士集全文原文-識典古籍]], [TIME[2026-10-26T11:29:05.000Z]] <https://www.shidianguji.com/zh/book/CADAL01025783/chapter/1l456pkh6eioc>
19
- [83] 
[CITE@ja[ビューア | 元号略4補1]], [TIME[2026-10-27T05:49:58.000Z]] <https://www.digital.archives.go.jp/img/596004#19>
- [85] 
[CITE@ja[ビューア | 元号略4補1]], [TIME[2026-10-27T07:08:39.000Z]] <https://www.digital.archives.go.jp/img/596004#37>
- [193] 
[CITE@ja[NAJDA-295-0019_[[紀元編]]2.pdf]], [TIME[2020-08-26T01:19:07.000Z]], [TIME[2026-10-24T11:59:06.452Z]] <https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/02/NAJDA-295-0019_%E7%B4%80%E5%85%83%E7%B7%A82.pdf?utm_source=commons.wikimedia.org&utm_campaign=index&utm_content=original#page=20>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[51] 
[CITE@ja[歳時部/年號下〈[[逸年號]]併入〉 - Kojiruien]], [TIME[2026-10-29T09:55:09.000Z]] <https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E6%AD%B3%E6%99%82%E9%83%A8/%E5%B9%B4%E8%99%9F%E4%B8%8B%E3%80%88%E9%80%B8%E5%B9%B4%E8%99%9F%E4%BD%B5%E5%85%A5%E3%80%89#content_1_358>
]FIGCAPTION]

>永鎭(○○) 日本〈未[SUB[レ]]知[SUB[二]]何主[SUB[一]]、明正徳七年、日本入貢、南京禮部司務陳瑞甫問[SUB[二]]其年號[SUB[一]]、乃是永鎭八年、其改元當[SUB[二]]弘治十八年[SUB[一]]、〉
>◯按ズルニ、明ノ弘治十八年ハ、我ガ永正二年ニ當レリ、
]FIG]

- [33] [CITE[我が国の私年号に関する研究 (一) ―平安時代より南北朝まで―]]
- [36] [CITE[日本私年号の研究]]
-- [37] pp.[V[四九四]]-[V[四九五]]

]REFS]

* 関連

[SEE[ [[永正]] ]]


[SEE[ [[幽霊元号]] ]]

* メモ