* 元号名

[57] 
読みは「えいほう」とされます。
[SRC[>>58, >>32]]

* 用例

** 大和国の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [92] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[奈良県]][[山辺郡]][[山辺郡]][[都介野村]][[針]]]] [[観音寺]] 所蔵 [CITE[大般若波羅蜜多経]]]]
-- [102] [[昭和の大合併]]により[[都祁村]]
-- [103] [[平成の大合併]]により[[奈良市]]
-- [104] 
[DATA(.label)[卷四百八十 [[奥書]]]]
「[DATA(.text)[[V[永宝元年[LINES(quarter)[戊][辰]]三月廿四日]]]]」
[SRC[>>26, >>200, >>34]]
--- [107] 
「[DATA(.text)[[L[永宝元年戊辰三月廿四日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>22]]
---
[HISTORY[

[27] >>200 は巻四百四十としています。
>>200 の誤植で >>26, >>34 の巻四百八十が正しいと考えられます。

]HISTORY]
-- [105] 
[DATA(.label)[巻四百七十九 [[奥書]]]]
「[V[嘉慶二年[LINES(quarter)[戊][辰]]三月廿日]]」
[SRC[>>26, >>200, >>34]]
--- [108] 
「[L[嘉慶二年[LINES(normal)[戊][辰]]三月二十日]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>22]]
-- [106] 
[DATA(.label)[巻四百九十四 [[奥書]]]]
「[V[嘉慶二年[LINES(quarter)[戊][辰]]三月廿五日]]」
[SRC[>>26, >>200]]
--- [109] 
同三月二十五日
[SRC[>>22]]

]ITEMS]


** 河内国の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [77] [DATA(.label)[[[観心寺文書]] [CITE[右馬次郎・孫小法連署契約状]]]]
-- [318] >>76 : [V[三一八]]
-- [81] >>11 : [V[一四三]]
-- [4] 
「[DATA(.text)[[V[永寶元年[LINES(smaller)[丁][卯]]十二月廿日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>76]]
--- [82] 
「[DATA(.text)[[V[永宝元年[LINES(smaller)[丁][卯]]十二月廿日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>11]]

]ITEMS]

[79] 
明治41年2月16日史学研究会例会陳列目録に、
国史研究室所蔵永寶元年契約状写真なるものがあります。
[SRC[>>12]]
>>77 の写真と思われます。
>>76 の出版につながる調査で撮影されたものでしょうか。

[REFS[

- [76] 
[CITE@ja-JP[大日本古文書 家わけ第6 (観心寺文書)]], [[東京帝国大学文学部史料編纂所]], [TIME[1917]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-14T14:43:56.886Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1915624/1/180?keyword=%E6%B0%B8%E5%AF%B6>
- [12] 
[CITE@ja-JP[史学研究会講演集 第1冊]], [[史学研究会]], [TIME[明治41][1908]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-14T14:52:11.023Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/768323/1/90?keyword=%E6%B0%B8%E5%AF%B6>

]REFS]




* 研究史

[78] 
[TIME[大正6(1917)年][1917]]の史料集は、
>>77
を紹介しています。特に注釈などはありませんが、
至徳3年丙寅と応永3年丙子の間に配置しています。
[SRC[>>76]]

-*-*-

[88] [TIME[大正7(1918)年][1918]]の[[年表]]は、
[[永寶]]元年を[[異年號]]とし、皇紀2047年丁卯 = 元中4年 = 嘉慶2年 としています。
[SRC[>>85]]
出典などの記載はありません。[[昭和]]時代の改訂版にはこの記述がありません。
[SRC[>>87, >>86]]

[REFS[

- [85] 
[CITE@ja-JP[国史研究年表]], [[黒板勝美]], [TIME[大正7][1918]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-14T15:25:52.954Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/953191/1/31?page=left&keyword=%E7%95%B0%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
- [87] 
[CITE@ja-JP[国史研究年表]], [[黒板勝美]], [TIME[1936]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-14T15:26:14.177Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1918441/1/95>
- [86] 
[CITE@ja-JP[国史研究年表]], [[黒板勝美, 丸山二郎 増補]], [TIME[1950]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-14T15:26:06.830Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2985413/1/96?keyword=%E6%B0%B8%E5%AE%9D> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[201] 
[TIME[1950-09-09]]、
[[昭和時代]]の[[日本国]][[奈良県]]の歴史研究者[RUBYB[[[田村吉永]]][[TIME[1893]]-[TIME[1977]]]]は、
[[日本国]][[奈良県]][[山辺郡]][[山辺郡]][[都介野村]][[針]]の[[観音寺]]の[CITE[大般若経]]
(>>92) 巻四百八十の奥書に

- [35] [V[永宝元年[LINES(quarter)[戊][辰]]三月廿四日]]
[SRC[>>26, >>200, >>34]]

... とあるのに気づきました。
[SRC[>>26, >>200]]



[23] 
巻四百七十九の奥書には

- [36] [V[嘉慶二年[LINES(quarter)[戊][辰]]三月廿日]]
[SRC[>>26, >>200, >>34]]

巻四百九十四の奥書には

- [37] [V[嘉慶二年[LINES(quarter)[戊][辰]]三月廿五日]]
[SRC[>>26, >>200]]

とあり、
永宝元年が[TIME[嘉慶2(1388)年戊辰][1388]]であるのは明らかです。
[SRC[>>26, >>200]]

[60] 
[TIME[昭和25(1950)年12月][1950-12]]の雑誌は、
[TIME[昭和25(1950)年10月5日][1950-10-05]]の[CITE[大和タイムス]]を出典に、
次のように述べています。
[SRC[>>2]]

- [61] [[奈良県]][[山辺郡]][[針ケ別所村]][[針観音寺]]の[CITE[大般若経]]五百九十九卷を調査中の[[田村吉永]]は、
- [62] [[永寶]]元年という[[奥書]]を見出した。
- [63] これらの経卷には[[永和]]から[[嘉慶]]の[[奥書]]が多く、
- [64] 永寶元年は嘉慶2年に相当する[[私年號]]と考えられた

[98] 
また、
[TIME[昭和26(1951)年][1951]]の雑誌は、
次のように述べています。
[SRC[>>29]]

- [99] [[山辺郡]][[都介野村]]に対する[[奈良県綜合文化調査団]]の第一回調査は、
- [100] 「[V[永寳六年 (北朝系の私年[BR[]]號) 銘ある大般若經]]」などを発見し、
- [101] 7月27日終了

[110] 
[TIME[昭和27(1952)年][1952]]の報告書は、
>>92
について次のように述べています。
[SRC[>>22]]

- >>104
-- [112] [[永宝]]はこれ1つのみ
- >>105, >>106
- [111] [[永宝]]は我が国の[[年号]]にない
- [113] [[私年号]]かどうかはなお研究の余地



[24] 
なお巻四百八十奥書には
「和州平群[ASIS[郡][>>26 では[CH[〻]]]]目安里春日大明神末代重宝也」
とあります。
[[奈良県]][[生駒郡]][[竜田町]]大字目安里の[[春日大明神]]にあたります。
[[法隆寺]]の南約2km、大和川南岸近くです。
[SRC[>>26, >>200]]
[[法隆寺]]との関係も注目されます。 [SEE[ [[大和の私年号]] ]]

;; [28] 
>>26 では「大字目安」、 >>200 では「大字目安里」。
[[Web]]検索によると現在の所在地は「大字目安」。
「里」が[[小字]]や[[通称地名]]なのか、「目安里」で旧地名や異称なのか不明。

[25] 
>>26 で[[田村吉永]]が、
昭和26年夏の観音寺経を調査した[[奈良女子大学]]教授[[岩城隆利]]の見解を引いていますが、
それが
>>22
です。
[[岩城隆利]]はまだ1例だけなので[[私年号]]かどうか研究の余地があるとしましたが、
[[田村吉永]]は1例だけでも[[私年号]]とされてきた前例があるなどと論じました。
[SEE[ [[私年号六題]] ]]

[114] 
調査チームが情報源であろう当時の文献で、 >>64 は[[私年号]]だと断定的に述べ、
>>100 は[[北朝]]系の[[私年号]]と延べ、 >>113 は[[私年号]]かどうか判断を保留しており、
いろいろな意見があってまとまらなかったのでしょう。



[REFS[

- [2] 
[CITE@ja-JP[史迹と美術 20(9)(208)]], [[史迹美術同攷会]], [TIME[1950-12]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-14T14:24:16.950Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/6067091/1/22?keyword=%E6%B0%B8%E5%AE%9D> (要登録)
- [29] [CITE@ja-JP[日本美術工芸 (155)]], [[日本美術工芸社]], [TIME[1951-09]], [TIME[2025-07-02T03:11:48.000Z]], [TIME[2025-07-22T13:35:52.730Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2281607/1/35?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7+> (要登録)
- [22] 
[CITE@ja-JP[奈良県綜合文化調査報告書 '''['''第1''']''' (都介野地区)]], [[奈良県教育委員会]], [TIME[1952]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-14T16:00:16.430Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3020186/1/258?keyword=%E6%B0%B8%E5%AE%9D> (要登録)
- [26] [CITE[[[私年号六題]]]]
- [199] [CITE[[[近畿文化]] (277)]],
[TIME[昭和47(1972)年12月][1972-12]]
-- [200] 
[CITE[[[[V[大和の私年号]]]]]],
[[[V[田村吉永]]]],
p.[L[3]]

]REFS]



-*-*-

[83] 
[TIME[昭和47(1972)年][1972]]の史料集は、
>>77
を紹介しています。特に注釈などはありませんが、
元中3年と元中4年の間に配置しています。
[SRC[>>11]]

[65] 
[TIME[平成9(1997)年][1997]]の地域史は、
[[興徳]]に関連して次のように述べています。
[SRC[>>1]]

- [66] [[日野観音寺]][CITE[大般若経]]奥書に[TIME[応永2(1395)年][1395]]に当たる「興徳元年乙亥」という[[私年号]]
- [67] 施主は[[阿波国]][[三浦]]の[[広覚]]だが、
- [68] [[健才]]が嶽山城中で書写しているから、当地方 ([[河内長野市]]) で行われた年号
-- [69] [[南朝]]余党が往時を追慕して用いたともいえるが、
-- [70] [[健才]]が嶽山城中で記しているから不可解
- [71] [[観心寺文書]]には[TIME[元中4(1387)年][1387]]の「永宝元年丁卯」の[[私年号]]
--[72] [[小西見郷]]の[[在家]]の[[公事]] ([[年貢]]) の契約状 = 当地方で用いられたとわかる
-- [73] [[南朝]]党の[[私年号]]らしいが、
- [74] 当地方で[[私年号]]が相次いで生まれた = 一面では辺隅地化が示される
- [75] 政争から戦争を惹起する当代政治を憎悪し、平和願望をこめてこれを生んだといえそう


[REFS[

- [11] 
[CITE@ja-JP[[[河内長野市史]] 第4巻 (史料編 1)]], [[河内長野市]], [TIME[1972]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-14T15:04:26.727Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9573326/1/129?keyword=%E6%B0%B8%E5%AF%B6> (要登録)
- [1] 
[CITE@ja-JP[[[河内長野市史]] 第1巻 下 (本文編 古代・中世)]], [[河内長野市史編修委員会]], [TIME[1997.3][1997]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-14T14:39:24.604Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9576795/1/310?keyword=%E6%B0%B8%E5%AF%B6> (要登録)


]REFS]







[50] 
昭和39年の論文は、
次のように述べています。
[SRC[>>33]]

- [51] [CITE[国史研究年表]], [[黒板勝美]]に嘉慶元年の[[私年号]]と
-- [52] その直接の資料は未見
- [53] この改元度の[[藤原仲光]]案
-- [54] 別度に[[藤原宗業]], [[藤原嗣光]]も候補とするが、[[藤原仲光]]が妥当だろう
- [55] まさしく使用したとすれば[[藤原仲光]]自身か関連ある者の[[私年号]]だろう
- [80] 噂に過ぎず、[[私年号]]から除かねばならない
- [56] [CITE[国史研究年表]]の更訂版では消えている


[38] 
昭和42年の
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
次のように述べています。

- [39] >>26 より >>35 >>36  [SRC[>>34]]
-- [40] 書写日時の近接と干支一致より、同年
-- [41] 永宝元年は嘉慶2年
- [43] [[永宝]]は[[嘉慶]]度の[[改元]]で[[藤原仲光]]が[[奏申、落選][公年号不採用案]]
[SRC[>>42]]
-- [44] 前後の[[改元]]事情から、[[公年号]]採用をめぐる対立と[[藤原仲光]]の不満が想定される
-- [45] 不遇から[[藤原仲光]]は応永2年に辞任、応永3年出家
-- [46] 候補の[[永宝]]を仄聞して使用したものがあるか、
意識して[[藤原仲光]]ないしその側の者の中で使用したのではないか
-- [47] 表面的だが公家内部の対立が感じられる
- [48] 関連: [[弘徳]]


[REFS[

- [33] [CITE[我が国の私年号に関する研究 (一) ―平安時代より南北朝まで―]]
- [7] 
[CITE[日本私年号の研究]]
-- [34] 
pp.[V[二三一]]-[V[二三二]]
-- [42] 
pp.[V[二六七]]-[V[二七〇]]
-- [49] 
p.[V[二七四]]

]REFS]


-*-*-


[14] [CITE@ja-JP[会津坂下町の伝説と史話]], [[井関敬嗣]], [TIME[1973]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-27T12:05:04.814Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536402/1/66> (要登録)

「えーほうがーんねん (永宝元年)」

[[役行者]]による開山伝説

[15] [CITE@ja-JP[大塚村史]], [[那須信一]], [TIME[1975]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-27T12:07:35.162Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536680/1/164> (要登録)

飯豊山 永宝元年 創立

(大同2年の開山伝承と並んでいる [SEE[ [[大同]] ]])


-*-*-








[30] [CITE@ja-JP[奈良県大般若経調査報告書 1 /本文篇]], [[奈良県教育委員会事務局文化財保存課]], [TIME[1992.3.][1992-03]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-10T11:29:25.132Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12748404/1/39?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)

-*-*-

[96] 
[[大正時代]]の[[黒板勝美]]のもの (>>88) を除き、[[近代]]の[[年表]]類に掲載事例はほとんど見られません。

[95] 
昭和12年に初版、昭和35年に増訂版が出版された[[年表]]は、
[[異年号]]として嘉慶元年丁卯に永宝元年と記載しています。
[SRC[>>31]] 増訂版への記載は昭和62年復刻版により確認できますが、
昭和12年初版にあったかは不明です。

[97] 本書は[[丹波]]史で地元の史料を使っていると思われますが、
[[異年号]]は「[V[国史]]」欄であり、一般の歴史資料が出典と想像されます。
ただ、本書で[[異年号]]として掲載されているのは[[永宝]]の他に[[福徳]]だけで、
どのような資料からどのような基準で選出したのか気になります。


[59] 
[CITE[日本私年号の研究]]以後、
[[千々和到]]の表をはじめ多くの表に[[永宝]]が掲載されていますが、
その多くが[[元年]]を[TIME[嘉慶2(1388)年][1388]]としています。
[SRC[>>58]]

[93] 
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]の表には当初から掲載があり、
はじめは[TIME[西暦1388年][1388]]となっていましたが、
平成19年の改訂で[TIME[嘉慶元(1387)年][1387]]に訂正されています。
[SRC[>>84]]
どちらも根拠は不明です。

[94] 
[TIME[平成30(2018)年][2018]]の[[SNS]]投稿は、出典不明ながら[TIME[嘉慶元(1387)年][1387]]とするなど、
[CITE[ウィキペディア]]系の情報源と思われますが、同時に[[北朝]]系[[公家]]対立説を採っており、
[CITE[日本私年号の研究]]由来の情報も混じっていると推測されます。
[SRC[>>32]]

[REFS[

- [31] 
[CITE@ja-JP[増訂丹波史年表]], [[松井拳堂]], [TIME[1987.5][1987]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-14T15:49:59.101Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12188164/1/70?keyword=%E7%95%B0%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)
- [58] [[日本私年号一覧表]]
- [84] [[Wikipediaの私年号一覧表]]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,永宝 	,- 	,元中4年/嘉慶元年(1387年) 	,不明 	,奈良県奈良市針町観音寺蔵『大般若経』巻480奥書 
]FIG]
-
[32] [CITE@ja[Xユーザーの大森博子 Hiroko Ohmori🔍📚さん: 「【元号】342 永宝 えいほう 元中4年/嘉慶元年(1387年)期間不明 奈良市針町観音寺蔵『大般若経』巻480奥書 これも北朝の公家の一部(対立する公家が勘申した公年号をよしとしない者たち)が使用したものらしい。」 / X]], [TIME[午前5:42 · 2018年11月1日][2018-10-31T20:42:02.000Z]], [TIME[2026-07-02T13:11:40.000Z]] <https://x.com/11111hiromorinn/status/1057734462480371712>

]REFS]

* 関連

[91] 
[TIME[北朝至徳4(1387)年8月23日][kyuureki:1387-08-23]]、
[[嘉慶]]に[[改元]]。


- [89] [[北朝]]嘉慶元年 = [[南朝]]元中4年 = [TIME[西暦1387年丁卯][1387]]
- [90] [[北朝]]嘉慶二年 = [[南朝]]元中5年 = [TIME[西暦1388年戊辰][1388]]

-*-*-

[5] [CITE@ja-JP[保護時報 21(1)]], [[輔成会]], [TIME[1937-01]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-27T11:54:48.396Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1494110/1/11> (要登録)

白河天皇 永寶元(1057)年

[6] 
[TIME[西暦1057年][1057]]は[[白河天皇]]即位前。
白河天皇永保か何かの誤記?

[CITE[帥記]]の引用の日付(未調査)

-*-*-

[8] [CITE@ja-JP[芭蕉精神の現代観]], [[山本四方]], [TIME[1962]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-27T11:57:53.751Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1360180/1/68> (要登録)

(手書き) 永宝元年

[9] 宝永の誤記か

[13] 
この例以外にも宝永の誤記らしいものが近現代に一定数ある。


[16] [CITE@ja-JP[焼津市誌 上巻]], [[焼津市誌編纂委員会]], [TIME[1955]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-27T12:09:44.779Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3006096/1/207> (要登録)

永宝元年

;; [18] 並んでいるのが「宝[ASIS[歴]]元年」「永[ASIS[録]]四年」
など

[19] 誤記か現物ママかわからない


[17] [CITE@ja-JP[北方町史]], [[北方町史編纂委員会]], [TIME[1972]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-27T12:12:53.090Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9769816/1/27> (要登録)

昭和11年「永宝元年」 昭和27年「永宝6年」 同じ事項なのに一致しない、出典不明

永宝は宝永の誤記か?

[20] 
昭和のうちに混乱が起こっている。本件誤記の起源はより遡る可能性もあるか?

[21] 
派生と思われる他資料も数点誤記




* メモ