[1] 
[DFN[永寧]],
[DFN[文命]]は、
[[日本の異年号]]
の1つです。

* 用例

** 文命

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [9] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[千葉県]][[市川市]][[曽谷]]]] [[安国寺]] [[板碑]]]]
-- [14] >>13 : [[同音異字年号]] [L[23]]
-- [10] 
「[DATA(.text)[[V[文命十三年辛丑二月四日]]]]」
[SRC[>>13, >>408]]
--- [35] [[文命]]十三年 [SRC[>>48]]

]ITEMS]

[8] 
後述 (>>6) の通り出典に問題があります。

[25] 
[[安国寺]]自体は現存しますが、この[[板碑]](群)についての情報は、
本項に記述したもの以外まったく見当たりません。

[REFS[

- [408] [CITE[[[私年号板碑仮年表]]]]

]REFS]


** 永寧

[2] 
1系統のみ知られています。

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [40] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[宮城県]][[栗原郡]][[三迫]][[普賢堂]]]] 出土 石碑]]
-- [42] >>312 : [[一字異音年号]] [L[4]]
-- [53] 亡失 [SRC[>>312]]
-- [41] 
「[DATA(.text)[[V[永寧二年二月十日]]]]」
[SRC[>>312 ([CITE[封内名跡志]] ([[普賢堂]] 所蔵 [[過去帳]] 明和七年七月二十一日))]]
-- [48] 同時発掘:
文永六年、康安□年、文明九年、[[文命]]十三年、永正九年、永正十二年 [SRC[>>312]]

]ITEMS]

[3] 
後述 (>>6) の通り出典に問題があります。

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [43] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[宮城県]][[栗原郡]][[三迫]][[普賢堂]]]] 所蔵 [[鰐口]]]]
-- [44] >>312 : [[一字異音年号]] [L[5]]
-- [119] 
[[普賢堂村]] [[普賢堂]] 傍 [[熊野社]] [[鰐口]] [SRC[>>115]]
-- [123] 
「永寧十二年四月廿二日」
[SRC[>>122, >>136, >>90]]
--- [129] 
「永寧十二年四月廿二日」
の[CH[寧]]に[[朱筆]]訂正で[CH[享]] [SRC[>>126]]
--- [45] 
「[DATA(.text)[[V[永寧十二年四月二十二日]]]]」
[SRC[>>115 ([CITE[名跡志]]・[CITE[観跡志]]), >>124, >>312 ([CITE[封内名跡志]]), >>130]]
--- [135] 
「[DATA(.text)[[V[永寧十三年四月廿二日]]]]」 ([[草書]])
[SRC[>>133]]
--- [104] 
「[DATA(.text)[[V[永寧十二年、四月廿二日]]]]」 [[明朝体]]
[SRC[>>103 (佐久間氏[CITE[観聞誌]])]]
--- [143] 
「[DATA(.text)[[V[永寧十二年]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>142]]
--- [141] 
「[DATA(.text)[[V[永亨十二年四[BR[]]月__&&swc310(卄)&&__二日]]]]」 ([[楷書]])
[SRC[>>138]]
--- [80] 
「[DATA(.text)[[V[永亨十二[RUBY[月][ママ]]四月二十二日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>78]]
- [120] 
[DATA(.label)[[CITE[奥羽観蹟聞老志]]]]
-- [121] 
[DATA(.label)[[[普賢堂]]]]
後花園帝永寧中平低重所建 [SRC[>>122, >>115 ([CITE[名跡志]]・[CITE[観跡志]])]]
--- [134] 
(天皇名なし) 「[V[永寧中[SNIP[]]]]」 ([[草書]]) [SRC[>>133]]
--- [105] 
(天皇名なし) 「[V[永寧中[SNIP[]]]]」 ([[明朝体]]) [SRC[>>103 (佐久間氏[CITE[観聞誌]])]]
--- [137] 
「[V[後花園帝永寧中]]」 ([[明朝体]]) [SRC[>>136, >>90]]
--- [128] 
「[V[永寧中]]」の[CH[寧]]に[[朱筆]]訂正で[CH[享]] [SRC[>>126]]
--- [131] 
「[V[永寧年中]]」 [SRC[>>130]]
--- [125] 
「[V[永享中]]」 [SRC[>>124]]
--- [139] 
「[V[後衣[ASIS[〓][swc797]]永宣ノ中[SNIP[]]]]」
[SRC[>>138]]
---- [140] [CH[[ASIS[〓][swc797]]]]はよくわからない文字、書写者も迷ったらしく注釈あり
--- [89] 
「[V[後花園院御宇永亨年中]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>78]]
- [94] [DATA(.label)[[CITE[金成町史]]]]
-- [95] 
「[V[平[RUBY[低][チカ]]重永亨二年勧請祭日六月十四日]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>93]]

]ITEMS]


[144] 
[CITE[奥羽観蹟聞老志]]は、
[TIME[享保4(1719)年][1719]]成立の[[仙台藩]]の[[地誌]]。

[145] 
[CITE[封内名跡志]]は、
[TIME[寛保元(1741)年][1741]]成立で郡奉行の[[萱場高寿]]が[[佐藤信要]]に編纂させた[[地誌]]。
[CITE[観蹟聞老志]]
の改訂。

[146] 
[CITE[通俗封内名跡志]]
は、
[CITE[封内名跡志]]
を簡略化したもの。

[147] 
[CITE[封内風土記]]
は、
[TIME[安永元(1772)年][1772]]成立の[[仙台藩]]の[[地誌]]。

[79] 
[CITE[封内風土記 安永書上]]
は、
[CITE[封内風土記]]
を更に改訂するための準備資料。

[148] 
当条については
[CITE[観蹟聞老志]]
の記述が後続の地誌でも継承されています。

[96] 
なお、[[平低重]]については、当条由来と思われるもの以外の情報が皆無です。

[REFS[

- [91] [CITE[奥羽観蹟聞老志]]
-- [90] [CITE@ja-JP[仙台叢書 第15巻]], [[宝文堂出版販売]], [TIME[1972]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-09-02T12:12:16.541Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12405552/1/181?keyword=%E6%B0%B8%E5%AF%A7> (要登録)
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[122] 
[CITE[[[奥羽観蹟聞老志]]巻之八]], [[roehi]], [TIME[2026-09-01T06:04:08.000Z]], [TIME[2003-01-10T17:00:27.530Z]] <https://web.archive.org/web/20030109193003/http://www.st.rim.or.jp/~success/ouu8_3.html>
]FIGCAPTION]

>[B[白象峯(ザウカミネ)普賢堂]]
>在普賢堂村。後花園帝、永寧中、平低重、所建有寺。號白象山洞雲寺。傍有熊野叢祠。鰐口記銘曰、永寧十二年四月廿二日、平低重納之。 

]FIG]
- [127] [CITE[封内名跡志]]
-- [126] 
[CITE@ja[国書データベース]], [TIME[2026-09-01T09:18:12.000Z]] <https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100307569/135?ln=ja>
-- [130] 
[CITE@ja[封内名蹟志 21巻 | 東北大学総合知デジタルアーカイブポータル]], [TIME[2026-09-01T09:22:02.000Z]] <https://touda.tohoku.ac.jp/portal/item/10050020000682>
205
-- [133] 
[CITE@ja[通俗封内名跡志 3巻 | 東北大学総合知デジタルアーカイブポータル]], [TIME[2026-09-01T09:28:05.000Z]] <https://touda.tohoku.ac.jp/portal/item/10050010002600>
95
-- [136] 
[CITE@ja-JP[仙台叢書 第八巻]], [[仙台叢書刊行会]], [TIME[大正14][1925]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-09-01T09:29:49.626Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1912930/1/185?keyword=%E6%B0%B8%E5%AF%A7> (要登録)
--- [92] 
[CITE@ja-JP[仙台叢書 第8巻]], [[宝文堂出版]], [TIME[1972]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-09-02T12:16:56.187Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12405547/1/186?keyword=%E6%B0%B8%E5%AF%A7> (要登録)
-- [138] 
[CITE@ja[NAJDA-175-0072_封内名跡志5.pdf]], [TIME[2020-09-29T20:49:14.000Z]], [TIME[2026-09-01T09:32:05.843Z]] <https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/79/NAJDA-175-0072_%E5%B0%81%E5%86%85%E5%90%8D%E8%B7%A1%E5%BF%975.pdf#page=20>
- [115] 
[CITE@ja-JP[[[封内風土記]] 巻之15−19]], [[田辺希文, 鈴木省三 校]], [TIME[明26][1893]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-09-01T05:57:53.018Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/763472/1/79?keyword=%E6%B0%B8%E5%AF%A7>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[124] 
[CITE[封内風土記旧葛西大崎領内編]], [TIME[2021-08-20T02:16:20.000Z]], [TIME[2026-09-01T06:08:31.189Z]] <https://tamura0930.web.fc2.com/ofunai4000.html>
]FIGCAPTION]

>仏宇 一、普賢堂、名跡志・観迹聞老志共曰、後花園帝、永享中、[RUBY[平低重][たいらのちかしげ]]所[SUB[レ]]建、寺號[SUB[二]]白象山洞雲寺[SUB[一]]、傍有[SUB[二]]熊野社[SUB[一]]、有[SUB[二]]鰐口[SUB[一]]、記曰、永寧十二年四月ニ十二日、[RUBY[平低重][たいらのちかしげ]]納[SUB[レ]]之。

]FIG]

- [78] 
[CITE@ja-JP[普賢堂の民俗 : 宮城県栗原郡金成町普賢堂]], [[東京女子大学史学科民俗調査団]], [TIME[1976]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-09-02T12:07:54.393Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536581/1/14?keyword=%E6%B0%B8%E4%BA%A8+%E5%B9%B4%E4%B8%AD> (要登録)
- [103] 
[CITE@ja-JP[大日本地名辞書 下巻]], [[吉田東伍]], [TIME[明治40][1907]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-09-02T14:26:56.041Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/990350/1/566?keyword=%E6%B0%B8%E5%AF%A7> (要登録)
- [142] 
[CITE@ja-JP[緑筠軒詩鈔 第1集]], [[大須賀次郎]], [TIME[大正1][1912]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-09-01T09:59:43.883Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1182431/1/80?keyword=%E6%B0%B8%E5%AF%A7> (要登録)
- [93] 
[CITE@ja-JP[金成町史]], [[金成町史編纂委員会]], [TIME[1973]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-09-02T12:18:11.855Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9569277/1/203?keyword=%E6%B0%B8%E4%BA%A8> (要登録)
- [7] 
[CITE@jp[宮城県神社庁は、宮城県内の神社(931社)を包括しています — 宮城県神社庁]], [TIME[2026-09-01T11:35:28.000Z]] <https://miyagi-jinjacho.or.jp/jinja-search/detail.php?code=310020594>

]REFS]



* 諸説

[27] 
[[文命]], [[永寧]]ともほとんど紹介すらされていません。

[31] 
いくらかの言及はありますが、それ自体にも問題があります。

[32] 
これまでに4組の用例が知られています。

- [71] >>9 : 文命13年辛丑 [[板碑]]
- [72] >>40 : 永寧2年 [[板碑]]
- [73] >>43 : 永寧12年 [[鰐口]]
- [74] >>120 : 永寧中 創建(伝承?)

[38] 
このうち、
>>73 >>74
は実物の現存を確認できないものの、
[[仙台藩]]の[[地誌]]に記述があります。

[33] 
>>71 >>72 は昭和42年の
[CITE[日本私年号の研究]]
に記載がありますが、実物も、それに先行する資料も現時点では見つかっていません。
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
>>71 を[[千葉県]]の[[安国寺]]のもので実見につき典拠なしとしています (>>15)。
また、 >>72 を[[宮城県]]の[[普賢堂]]の[[過去帳]]に記載のものとしながらも、
[[安国寺]]のものと説明しています (>>46)。
[[過去帳]]によれば[[明和]]年間にまとまって出土した[[板碑]]とされる (>>48)
ものの、昭和42年時点で既に実物は存在せず確認ができない (>>52) とのことです。
[[過去帳]]の出典は[CITE[封内名跡志]]とされますが、
翻刻本の全文検索では記載を確認できません。
要するに
[CITE[日本私年号の研究]]
の記述が錯乱していて、何が正しいのかわかりません。

-*-*-

[34] 
[[永寧]]については、いったん不明な >>72 を除外し、
>>73 >>74 のみから考察する必要がありそうです。

[36] 
[[永寧]]は[[永享]]に比定するのが通説となっています。
その理由とされるのが、

- [81] [[地誌]]一部写本の修正
- [82] [CITE[日本私年号の研究]]の推定
-- [83] >>71 & >>72 [[板碑]]群による時代絞り込み (>>54)
-- [84] 12年続く
-- [85] 「永○」 (>>54)
-- [86] [CH[享]]/[CH[寧]]の[[字形]]類似 (>>55)
-- [87] [[永享]]の第2字の表記揺れ (>>62)

... です。

[60] このうち >>81 は修正の根拠が不明です。 >>83 は >>33 のため根拠としてここでは使えません
(すると[[永禄]] (や[[文永]]) が候補に入ってきます)。
>>84 >>85 >>86 は既知[[公年号]]に比定可能との前提では有力な傍証となりますが、
それが保証されなければ決定打となし得ません。

[37] 
これ以外に

- [88] >>74 に「後花園帝永寧中」とある

... は重要な情報です。これは[TIME[享保4(1719)年][1719]]成立の
[CITE[奥羽観蹟聞老志]]
が現存最古の[[普賢堂]]建立時期の情報で、
諸本で微妙に表現に揺れがあるため、原形を慎重に確認する必要があるとはいえ、
おそらく当初から同様の表現があると推測されます。

[39] 
その前提のもと、ここで「永寧」と[[後花園天皇]]とを結び付けたのが
[CITE[奥羽観蹟聞老志]]
なのか、原伝承の段階で既にそうだったのかは不明ですが、
いずれにしても「永寧」
という不明な[[元号]]に[[後花園天皇]]と修飾語を付けることはないでしょうから、
当初は「後花園院永享中」のように書かれていた可能性が高いと言えます。
これは[[永寧]]が[[永享]]の転訛であることの強い根拠となります。

[67] 
[[金石文]]では[[天皇]]名を書かないものが多く、
>>73 でも実際[[天皇]]名が書かれていたとはされていません。
縁起や地誌のような[[媒体]]ではじめて[[天皇]]名付きとされることが多いです。
だとすると、
この「作業」をした人が[[後花園天皇]]と[[元号]]との関係を知っていたということになります。
それは、

- [68] 同時代的知識で[[後花園天皇]]の[[元号]]に[[永寧]]があると理解していたか、
- [69] 後世的に何らかの資料からそう理解したか、
- [70] 結び付けの時点ではまだ[[永享]]だったか、

... のいずれかのはずです。 >>70 なら、[[永寧]]は記録の文字列上での転訛に過ぎないということになります。
>>68 >>69 なら、何らかの理由で誤情報が伝わり、
「[[公年号]]だと思い込んだそうでない[[元号]]」
が実用された時期があったことになります。

;; [76] 
そうでない可能性、例えば[[後花園天皇]]と[[永寧]]は別個の創建伝承に由来し、
地誌またはその前段階で接合されたと考えると、両者は本来無関係ということになります。
あるいは、その段階の編纂者もまた「永寧」の解釈に悩んだものの、
同じように[[永享]] = [[後花園天皇]]時代ではないかと推測に至りつつ、
その悩みを明かさず[[永寧]]に[[後花園天皇]]と付加した、
という可能性も理論上は排除できません。


[66] 
[[干支年]]の情報がないのは、[[永享]]との同定を確定させる上でのネックと言えます。

[77] 
[[鰐口]]などの実物が所在不明なので、[[媒体]]の様式などの[[編年]]知識も使えません。

[56] 
また、 >>74 と >>73 (鰐口) は共に
[CITE[奥羽観蹟聞老志]]
が現存最古の記録です。本書編纂時の取材に基づくのか、
先行する縁起類からの引用なのかは不明ですが、
[[鰐口]]の紀年と創建年に深い関係があると当時認識されていたことを示唆します。

;; [75] 
理論上は >>73 の[[永寧]]と >>74 の[[永寧]]が別[[元号]]という可能性もないわけではありませんが、
そうであると示唆するものが皆無なので、とりあえず同じ[[元号]]と仮定してよいでしょう。

[57] 
ここで参考にできるのが
>>134 >>135
で、[[草書]]で書かれているため、[[永寧]]の[CH[寧]]が[CH[享]]のように読めないこともありません。
これ自体は比較的新しい写本ですし、[CH[寧]]らしさの方が強いので、
[[永享]]から[[永寧]]への変化に直接関係する史料ではありませんが、
これに近い書かれ方がされていたとすれば、[[永享]]が[[永寧]]に変化することも、
あながち有り得ないことではないと感じさせられます。


[59] 
いずれにせよ既知[[公年号]]・[[永享]]と仮定すれば各傍証は整合しており、
その前提を許してしまえば、この比定には問題ないといえます。
問題は、その前提そのものが[[近世]]の[[地誌]]一つの記録に依存し、
独立に担保されないことにあります。


[61] 
なお、
もし[[鰐口]]に合わせて永寧12年頃の創建とすると、
>>72 (永寧2年)
は同じ永寧年間とはいえ、少し時期が早すぎることには注意せざるを得なくなります。
その他にも、これを遡る[[板碑]]群が (もし[[安国寺]]でなく[[普賢堂]]付近に)
存在していたとすると、少々考える必要が出てきます。
というのが当時の建築物の建設時期であって寺院としての創建ではないとか、
元々信仰の場だったとか、成立後に周辺から集められたとか、
説明のしようはありますが。

-*-*-

[97] 
>>71 (文命)、 >>72 (永寧) を含む[[板碑]]群について、
[CITE[日本私年号の研究]]
の記述は錯乱しています (>>33)。

[98] 
>>72 と >>43 の2件は共に[CITE[封内名跡志]]が出典とされていますが、
そのうち >>43 は昭和40年の先行論文で既に掲載があり、
昭和43年の[CITE[日本私年号の研究]]にも掲載されています。
一方で >>72 は昭和43年の[CITE[日本私年号の研究]]にのみ掲載があります。

[99] 
すると >>72 は昭和40年から43年の間に[[久保常晴]]の知る所になったと推測され、
同じ[CITE[封内名跡志]]が出典とは少々不審に感じられます。

[100] 
>>72 (永寧) の出典が[CITE[封内名跡志]]とするのは誤りで、
実は[[安国寺]]の[[過去帳]]だったとすれば、 >>71 / >>72 [[板碑]]群に関する問題は解消します。

[101] 
ただし、現存しない可能性が高い当[[板碑]]群を[[久保常晴]]が「実見」
したとの記述は不審です。[[板碑]]自体を「実見」したのではなく、
[[過去帳]]を「実見」したという意味だとすれば、極めて不親切な記述ですが、
他の掲載資料が見当たらない現状とも整合します。

[102] 
この推測が正しいとすると、[[普賢堂]]系の[[永寧]]の他に[[安国寺]]系の[[永寧]]が存在したことになり、
両系統がいかなる関係にあったか、という新たな問題が生じてきます。

-*-*-


[28] 
[[文命]]は、[[干支]]・[[音通]]から[[文明]]に比定されています。

[29] 
ところが、実見したとの説明が疑わしい (>>33) となると、少々不安が残る所です。

[30] 
意図については、供養のため[CH[命]]に置き換えたとの推測があります。が、
[[日付]]をそのような表現の場として使う事例はあまり無いと思われ、
慎重に判断したいところです。

[58] 
現存するか不明な史料を唯一の典拠とするものであり、
実物の文字列が忠実に伝わっていない可能性も含めて改めて検討するべきでしょう。

* 研究史

** 近世

[150] 
[TIME[享保4(1719)年][1719]]、
[[仙台藩]]の[[地誌]]
[CITE[奥羽観蹟聞老志]]が成立しましたが、
>>43
>>120
の記載があります。

[149] 
[TIME[明和7(1770)年7月21日][kyuureki:1770-07-21]]、
[CITE[過去帳]]
によると
>>40
などの[[石碑]] ([[板碑]]) が出土しました。

[151] 
[[近世]]、[[近代]]の[[仙台藩]][[地誌]]の編纂や書写による諸本の系統を詳しく確認する必要はありますが、
>>43
>>120
の大多数が「永寧」で一部が[CH[享]], [CH[亨]]となっている状況から見ると、
書写・校訂者の一部は[CH[寧]]字を不審に思って訂正したものと推測できます。

** [CITE[日本私年号の研究]]

[15] 
昭和42年の
[CITE[日本私年号の研究]]は、
>>9 ([[文命]])
を実見したとしています (実見につき典拠なしとして掲載されています)。
[SRC[>>13]]

[16] 
それによると、所在地の[[安国寺]]の[[板碑]]は、
詳しくは[[永寧]]の項で触れる (>>26) もののの、
[[文永]]から[[永正]]が出土しており、
その間13年があり、
[[干支年]]が一致し、
[[元号名]]が同音なのは[[文明]]しかなく、
従って[[文命]]は[[文明]]であると結論付けられています。
[SRC[>>13]]

[17] 
また、
死者供養の塔婆であり、
[CH[明]]を[CH[命]]に代えたのは地方農民の単なる機智から生まれたものであろう、
と推測しています。
[SRC[>>13]]

[19] 
[CITE[日本私年号の研究]]の分類では、
[[文命]]は[[異年号]]のうち、[[私年号]]ではない分類の1つである[[同音異字年号]]とされています。
[SRC[>>13]]


[11] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]の[[板碑]]の書籍は、
[[私年号]]の解説において他のいくつかの事例と共に
>>9
を簡単に取り上げ、
[[公年号]]の[[文明]]を表すとし、
[[公年号]]を誤ったか異字にそれほど違和感や正誤感を持たなかったための表記と思われる[[同音異字年号]]であって、
[[私年号]]からここでは除外する、
という扱いとしています。
[SRC[>>251]]

-*-*-

[46] 
昭和42年の
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
[[異年号]]のうち[[私年号]]ではなく[[一字異音年号]]に属するものの1つとして、
>>40 >>43
([[永寧]]) を挙げて、
それぞれ[TIME[1430年][1430]]、
[TIME[144[ASIS[7]]年][1447]]であるとし、

- [12] [[曽谷]][[安国寺]]は、領主[[曽谷氏]]が帰依、[[法蓮]]開基、[[日蓮宗]]、
開山[[日礼上人]]
- [47] [[江戸時代]]にいう石碑の多くは[[板碑]]
-- [51] 当寺に観応、延文5、應安6、応永12、嘉吉3、長禄5、応仁2、文明13の[[板碑]]が保存されている
-- [52] >>48 は >>53 であり実物で確認できないが、
- [54] この期間で12年以上あり、[CH[永]]を冠するのは[[永享]]と[[永正]]
-- [55] [[字体]]からすればむしろ[[永享]]
-- [62] [CH[享]]の発音がしばしば誤られた ([[永亨]], [[ゑいかう]]) 点もこれを支持
- [50] [[金石文]]であり、同時代の利用とみられる。
- [49] 単に誤ったのか、[[同音異字年号]]にみられるよう特定の意志で変更したか、
他に資料なく判断できない
- [65] [[正亨]]の事例のような誤りかもしれない [SRC[>>312 pp.[V[三一一]]-[V[三一二]]]]

... と述べて、[[永享]]に比定しています。 [SRC[>>312]]

[6] 
ここで、用例の出典はいずれも[CITE[封内名跡志]]で所在地は宮城県の普賢堂としながら、
説明では[[曽谷]]の[[安国寺]]の解説から始まるという齟齬が見られます (>>31)。

[26] 
[[文命]]の所在地と解説が[[安国寺]]となっており、
[[永寧]]の解説を参照しています (>>16)。

[64] 先行する昭和40年の論文では、
>>43
を[[同音異字の異年号]]表に[[永享]]として収録していましたが、
詳細な説明はありませんでした。
[SRC[>>63]]


[REFS[

- [63] [CITE[[[我が国の私年号に関する研究(二)―室町時代―]]]]
- [311] [CITE[[[日本私年号の研究]]]]
-- [13] 
p.[V[一七一]], p.[V[一八一]], p.[V[一八六]]
-- [312] pp.[V[一八八]]-[V[一九五]]
-
[250] 
[CITE@ja-JP[板碑の総合研究 1 (総論編)]], [[坂詰秀一]], [TIME[1983.2][1983]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-07-04T13:33:15.758Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12226011/1/155?keyword=%E6%96%87%E5%91%BD> (要登録)
--
[251] 
[CSECTION[[V[私年号板碑]]]],
[[[V[石村喜英]]]]

]REFS]

** 現代

[21] 
[[私年号]]ではないと分類されたためなのか、
一覧表の類への掲載例はほとんどありません。
[SRC[>>20]]

[22] 
[[中文]]版[CITE[维基百科]]の表は、
[[公年号]]の[[文明]]の注釈として、
[CITE[日本私年号の研究]]を出典に、
>>9
が[[文命]]と表記する、
「宮城縣三迫普賢堂所藏過去帳及鰐口銘」
が[[永寧]]と表記する、
としています。
[SRC[>>18]]

[24] 
なお、「千葉縣市川市曾公安國寺板牌有作「文命」」 [SRC[>>18]]
の[CH[公]]は[CH[谷]]の誤認と思われます。

[REFS[

- [20] [[日本私年号一覧表]]
- [18] 
[CITE@zh[日本年號列表 - [[维基百科]],自由的百科全书]], [TIME[2026-06-20T14:17:50.000Z]], [TIME[2026-07-04T14:18:14.068Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B9%B4%E8%99%9F%E5%88%97%E8%A1%A8#%E5%AE%A4%E7%94%BA%E6%99%82%E4%BB%A3>

]REFS]



* メモ