* 略歴

- [58] 慶応元年、後の[[日本国]][[長野県]][[佐久市]][[前山]]で[[茂木恒太郎]]の次男として生まれる
[SRC[>>48 /5]]
- [59] のち、小山家の[[養子]]となる
[SRC[>>48 /5]]
- [60] 明治18年、後の[[日本国]][[長野県]][[南佐久郡]][[野沢町]]に[[私立日曜義塾]]を創立する
[SRC[>>48 /5]]
- [61] 明治19年、[[東京専門学校]]に入学する
[SRC[>>48 /5]]
- [81] 
明治20年9月、
[[日本国]][[東京]]に移住する
[SRC[>>41 /5]]
- [62] [[東京専門学校]]を首席卒業する
[SRC[>>48 /5]]
- [63] [[弁護士]]となる
[SRC[>>48 /5]]
- [64] 明治30年、[[長野県会議員]]となる
[SRC[>>48 /5]]
- [65] 明治33年、群馬県高崎区裁判所判事となる
[SRC[>>48 /5]]
- [66] 明治33年、退官し弁護士を開業する
[SRC[>>48 /5]]
- [84] 大正3年、
[[満洲]]の独立援助を政府に建言
[SRC[>>41 /5]]
- [82] 大正8年、
[[弁護士]]業務を休業する
[SRC[>>41 /5]]
- [85] 昭和6年8月24日、
[[満洲]]の独立を改めて政府に建言
[SRC[>>41 /5]]
- [67] 昭和18年、[[日本国]][[東京]]において死去する
[SRC[>>48 /5]]


[83] 
>>41 /5 に自身による半生の概略説明あり。


* 著作

[REFS[

- [6] 
[CITE@ja-JP[[[正訓東洋史地人名日漢満同文辞林]] 上巻(人名ノ部)]], [[小山愛司]], [TIME[昭和9][1934]], [TIME[2025-07-30T10:21:15.000Z]], [TIME[2025-08-06T14:02:57.279Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1190112/1/9> (要登録)
-- [23] /57 正誤表
- [27] 
[CITE@ja-JP[[[正訓東洋史地人名日漢満同文辞林]] 下巻(地名ノ部)]], [[小山愛司]], [TIME[昭和9][1934]], [TIME[2025-07-30T10:21:15.000Z]], [TIME[2025-08-07T13:18:26.182Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1190131/1/8> (要登録)
- [350] 
[CITE@ja-JP[満洲地之略沿革記・満洲文研究録 : 附・音韻及反切考 上巻]], [[小山愛司]], [TIME[1935]], [TIME[2025-07-30T10:21:15.000Z]], [TIME[2025-08-05T11:27:30.189Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1885133/1/12> (要登録)
-- [663] 
[CITE@ja-JP[満洲地之略沿革記]], [[小山愛司]], [TIME[昭和10][1935]], [TIME[2025-07-30T10:21:15.000Z]], [TIME[2025-08-05T10:37:00.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1146556/1/11> (要登録)
-
[33] 
[CITE@ja-JP[音韻及反切考]], [[小山愛司]], [TIME[昭和10][1935]], [TIME[2025-07-30T10:21:15.000Z]], [TIME[2025-08-07T14:10:42.828Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1123691/1/5> (要登録)
-
[34] 
[CITE@ja-JP[満洲文研究録]], [[小山愛司]], [TIME[昭和10][1935]], [TIME[2025-07-30T10:21:15.000Z]], [TIME[2025-08-07T14:19:43.645Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1133240/1/31> (要登録)
-
[29] 
[CITE@ja-JP[和漢満三合易経 下巻]], [[小山愛司]], [TIME[昭和14][1939]], [TIME[2025-07-30T10:21:15.000Z]], [TIME[2025-08-07T13:25:55.875Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1105296/1/5> (要登録)
- [49] 
[DFN[[CITE[信濃史源考]]]]
-- [50] 
原著
---
[41] 
[CITE@ja-JP[信濃史源考 巻1]], [[中央学会]], [TIME[昭15][1940]], [TIME[2025-07-30T10:21:15.000Z]], [TIME[2025-08-09T01:47:58.061Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1148455/1/11> (要登録)
---
[44] 
[CITE@ja-JP[信濃史源考 巻2]], [[中央学会]], [TIME[昭15][1940]], [TIME[2025-07-30T10:21:15.000Z]], [TIME[2025-08-09T02:11:35.197Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1148471/1/3> (要登録)
--- [47] 
[CITE@ja-JP[信濃史源考 巻5]], [[中央学会]], [TIME[昭15][1940]], [TIME[2025-07-30T10:21:15.000Z]], [TIME[2025-08-09T02:25:36.244Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1148514/1/122> (要登録)
--- [56] 
[CITE@ja[歴史書 買取 荒川区 |小山愛司 限定版 信濃史源考 巻1~4、9~12を高価買取しました。 | BOOK RIVER]], [TIME[2025-08-09T03:06:06.000Z]] <https://bookriver.jp/results/aiji-koyama-limited-edition-shinano-history-sources-volumes-1-4-9-12/>
---- [57] [CITE[[V[出版に就て]]]] (出版時の挨拶状?)
-- [51] 
翻刻本
--- [48] 
[CITE@ja-JP[信濃史源考 第2巻 (巻3・4)]], [[小山愛司 編纂]], [TIME[1976]], [TIME[2025-07-30T10:21:15.000Z]], [TIME[2025-08-09T02:26:23.935Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537206/1/102> (要登録)



]REFS]

[9] 
いずれも[[手書き]]です。[[満洲文字]]など複雑な内容のためにそうせざるを得なかったと説明されています。
[[日本]]の印刷会社に[[活字]]がなさそうな[[文字]]が相当数使われていますし、
[[組み方][組版]]も相当に複雑です。

[10] 
[[国立国会図書館デジタルコレクション]]の画像では[[解像度]]の関係で細部がはっきりしないところなどが散見されるのが残念なところです。

[11] 
各書それぞれ一応[[凡例]]はありますが、説明が不十分な箇所も多く、他の書籍の説明を読むとすっきり理解できるようなところもあります。
面倒でも全書一通り軽く目を通しておくとよいでしょう。

-*-*-

[68] 
[CITE[信濃史源考]] の巻一、巻二は、[CITE[日本上古史考]]
として単独でも発行されたものです。
[SRC[>>48 /4]]

[70] 
「日本上古史」という通り、[[信濃]]に限定されない内容となっています。

[69] 
[CITE[信濃史源考]]
の原本は[[手書き]]でしたが、[[昭和時代]]後期になって[[明朝体]][[翻刻]]出版されています。
しかしなぜか >>68 部分は「[V[本葬書では除く=編集部]]」とだけ注釈されて除外された、
不完全な状態での再出版です
[SRC[>>48 /4]]。

[71] 
本書は[[信濃]]の研究者には重宝されていたようですが、
「上古史」は[CITE[上記]]に基づく史観などなかなかに刺激的な内容であり、
[[昭和時代]]後期になると需要もないというか、
時世柄出版が憚られるようになっていたのでしょう。

[72] 
不完全な再版は著者の遺志に背くものでしょうし、遺憾なことでしょうが、
オリジナル版はおそらく再版当時に既に入手困難となっていたのでしょうから、
一部分だけでもアクセスが確保されたことは喜ぶべきかもしれません。

;; [73] 現代となってはむしろ省略された「上古史」の方が昭和思想史の一次資料としての価値を見出だせますから、
わからないものです。

[74] 
ただ再版は省略部分を除いても、不満が多いものです。
原著の[[手書き]]の情報量が[[明朝体]]となって相当に削られてしまうことはやむを得ないとしても、
そのことに何の説明もないのは如何なものでしょう。

[75] 
例えば原本ではほぼ全編にわたってほとんどの[[固有名詞]]に[[振り仮名]][[ルビ]]がありますが、
再版では大部分が削られ、選択基準が不明確な一部のもののみが本文中に括弧付きで挿入される形に改められています。
また、[[割書]]なども括弧付き本文に改められています。

[76] 
>>47 と >>48 は同じ部分ですが、原本に大量にある[[満洲文字]]は何の断りもなく再版でばっさりカットされています。

[77] 
再版には原本の凡例そのままに[CH[亠]]を使うとの旨があります [SRC[>>48 /4]] (>>13) が、
実際の本文では[CH[亠]]は使わず通常の[[片仮名]]が使われています [SRC[>>48]]。 

[78] 
再版凡例は[CH[リ゙]]も原本に基づき記述していますが、肝心の[CH[リ゙]]の字が誤って[CH[リ]]になっており、
意味が通りません [SRC[>>48 /4]]。 
(なお、本文中で[CH[リ゙]]を使った箇所があるかどうかは不明。)
また、文中の[[満洲文字]]が不自然な形で省略されています。

* 文字

[SEE[ [[女真文字]], [[契丹文字]], [[満洲文字]] ]]

[28] >>27 /165, >>33 /16 : [[印度系文字]]各種

** 片仮名

[18] >>6 /15 [[片仮名]]、[[満洲文字]]等による音表記の一覧表

-*-*-

[13] 
[CH[ネ]] = [CH[子]]は繁を避けて [SRC[>>6 /11]]
[[上古字]] [SRC[>>6 /11, >>41 /8]]
ないし[[形仮名]]
[SRC[>>350 /12]]
の[CH[亠]]を使うと説明されています。

[39] 
[[上古字]], [[形仮名]]とは何を指すのか明言されていませんが、
他書の記述や[CH[ネ]]が[CH[亠]]と表されることから、
これが[CITE[上記]]系統の[[形仮名]]と呼ばれる[[神代文字]]の一種を意味していることがわかります。

[14] 
なぜそれを選んだのかどうにも要領を得ません。
見慣れた[CH[ネ]]や[CH[子]]を使わない理由には不十分と思われますし、
かといって他の[[神代文字]]は使っていませんし。
単に使いたかったからという理由が一番しっくりきます。

[19] >>18 の表には他の[[神代文字]]も出てきますが、[CH[亠]]以外はみな通常の[[片仮名]]との併記であり、
本文中には (おそらく) 併記の[[神代文字]]は使われていません。

[15] [CH[亠]]の実利用例:

- >>6 /14 中央付近
- >>27 /173 上
- >>33 /15
- >>350 /19 右中央
- >>44 /56 右頁左寄
- >>47 左上段右寄

[79] >>48 には[[明朝体]]の[[翻刻]]がありますが、[CH[亠]]は[CH[T]]を上下反転させたもののように見えます。

-*-*-

[12] 
[[j]] 音の表記に[CH[リ゙]]を使っています。 
[SRC[>>6 /11, >>350 /12, >>41 /8]]

- >>6 /20 一覧表
- >>6 /277 左頁右側
- >>27 /195 上


[38] 
>>350 /12 だと[CH[㣺]]のような独特の新規文字のようにも見えてしまいますが、
[CH[リ]]と見比べるとそれに[CH[゛]]を付けただけであることがはっきりします。

[80] 
>>48 には[[明朝体]]の[[翻刻]]があります。

-*-*-

[20] 
[[や行え]]に[CH[𛄡]]を使っています。

- >>6 /16 一覧表
- >>6 /188 右
- >>27 /187 上
- >>33 /15

** 神代文字

[16] [CITE[上記]]系統の[[神代文字]]説を信じているようです。
[SRC[>>6 /14, >>33 /5, >>29 /9]]
[SEE[ [[上記]], [[形仮名]] ]]

[17] 
[CH[亠]] (>>13)
やその他の文字 (>>19)
は[CITE[上記]]に出現する[[神代文字]]です。

[35] 
>>34 /31 では神代数字ありし説として13字を示し、[RUBY[[[形仮名]]][カタカナ]]と行われた、
と述べつつも、証拠の遺物が未発見だと述べています。

;; [36] >>35 だけ見ると実証主義的な精神もあるのかと思わされるのですが、
>>16 とは整合しません。

[43] 
>>41 /48 から数ページにわたって[CITE[上記]]のものを含む[[神代文字]]を肯定的に紹介しています。

* 書字方向


[4] 
基本的には一般的な[[右上縦書き]]が使われていますが、
[[満洲文字]]が多いためか[[日本語]]部分も含め全体が[[左上縦書き]]で書かれている本もあります
[SRC[>>34]]。
[SEE[ [[左上縦書き]] ]]



* 正訓

[7] 
>>6 は[[東洋]]の[[固有名詞]]の[[読み]]を[DFN[正訓]]として示したものです。

[8] 
[[日本]]では[[東洋]]の[[人名]]や[[地名]]を[[漢字]]の[[日本語読み]]で各人それぞれ好き勝手に読んでいることが、
正しい理解ではないというのが問題意識でした。 [SRC[>>6 /9]]

[40] 
>>27 /6 はこれについて[[日本]]の[[国号]]を [[japan でなく nippon と呼ばせるべきではないかという当時の政治問題][日本国号問題]]と絡めて説明しています。

-*-*-

[664] 
どの著作でもそうですが、例えば
>>350 は、
本文は[[日本語]] ([[片仮名漢字交じり文]]) ですが、
[[漢文]]、
[[書き下し文]]、
[[日本語文]]、
その他の引用を多数含んでいます。

[1] 
地の文も引用文も、和文の引用も含め、
大陸・半島の固有名詞には発音を[[片仮名]]表記したらしい[[ルビ]]が振られています
(例えば >>350 /72 には[[和書]]中の[[渤海]]の[[固有名詞]]に振った事例)。

[2] 
[[日本]]の固有名詞は[[和語]]や[[日本漢字音]]の[[ルビ]]が振られています。

[3] 
大陸の[[漢文]]であっても原則として[[返点]]や[[振り仮名]]、[[送り仮名]]があり、
漢字語でも一般名詞は[[和語]]の[[振り仮名]]があったりします。

-*-*-

[665] 
[[元号名]]に読みを付けるかどうかは一定していないようです。
>>6 は[[正訓]]を示す目的の書物であるためか基本的に[[振り仮名]]が付けられていますが、
>>350 では[[元号名]]には[[振り仮名]]がないことの方が多いです。

[37] >>350 でも[[即位紀年]]を構成する[[君主名]]には基本的に[[振り仮名]]があります。

[24] [[元号名]]の[[振り仮名]]の例 :

- >>350 /102
- >>350 /106
- >>6 /64
- >>6 /86
- >>6 /155
- >>34 /6
- >>34 /47

-*-*-

[21] 
[[満洲文字]]も重視しているようで、
[[右ルビ]]に[[片仮名]]を書き、
[[左ルビ]]に[[満洲文字]]を書くのが基本スタイルになっています。

[25] 
>>6 /77 右側 : [[片仮名]]が[[親文字]]で[[右ルビ]]の位置に[[圏点]][CH[◦]]、
[[左ルビ]]の位置に[[満洲文字]]

-*-*-

[26] 
>>6 /154 : [[元]]の[[皇帝]]の[[尊号]] ([[漢字]]) の[[右ルビ]]が音ではなく[[和語]]に訳した[[漢字片仮名漢字交じり文]]になっています。
>>6 /188, /214
なども同様です。[[漢民族]]以外の[[皇帝]]の[[漢語]]の称号はこうする方針なのでしょうか。

-*-*-

[22] 
[[漢文]]には基本的に[[送り仮名]]も付されています。
[[振り仮名]]と[[送り仮名]]のどちらも[[片仮名]]ですが、
[[振り仮名]]が[[右ルビ]]の位置にあるのに対し、
[[送り仮名]]は[[親文字]]の右下、[[ルビ]]よりも左側 (内側) に寄せられており、
明確に区別できます。
なお、[[送り仮名]]のみが存在するときは[[右ルビ]]に近い位置に配置されることもありますが
([[手書き]]のため曖昧)、
上下位置が[[親文字]]の下寄りになるため[[振り仮名]]と明確に区別できます。

* 満州語

[52] 
[TIME[2025-08-09T02:28:06.900Z]]
<https://sit.repo.nii.ac.jp/record/465/files/Contexture06_1988_01_ueno.pdf>

[53] 
>>52 昭和63年の研究者の評価。酷評。その評価自体は妥当と言わざるを得ないのだけれども、

>
[LEFT[
従来この書について言及されたもののあるのを知らない故に,一応取り[BR[]]
上げてみたが, 要するに, 満州語研究史の一端を担うものとするには躊躇[BR[]]
される種類のものであると結論せざるを得ない。
]LEFT]

と「研究史の一端」の地位すら奪おうとするのはこの時代の研究者の傲慢さの現れというべきか。
質の善し悪しも引っ括めて、後続研究の有無を問わずすべて含めた知的環境こそ「研究史」
ではないのか。成功した上澄みの研究だけを集めた「研究史」に価値はあるのか。

[54] 
ただ「従来」「言及されたもの」が無かったのは先行する[[昭和時代]]の研究者達もまたこうした価値観のもと無視してきたのかもしれないと考えると、
こうした留保がありつつも紹介したこの研究者のせめてもの良心が垣間見えるところであろうか。

[55] 
>>52 も言及はしているのだけど、[[小山愛司]]がやりたかったのは「正訓」
を決めることなんだから、 >>52 が l と r の区別もできない[[片仮名]]表記を批判するのは失当なんだよな。
[[小山愛司]]は[CH[リ゙]]を「新字」として追加しているけど「新字」が増えすぎるのはよくないので他は控えたとも書いているのだし、
[[音節文字]]の[[片仮名]]を採用したのが良くないと批判しても仕方がない。
「正訓」は[[満州語]]発音記号ではなく[[日本語]]における読みなのだから、
これでいいと考えたのだろう。 (その方針に対する当否の議論は当然あるだろうし、
現実に誰も「正訓」を採用しなかったのが「答え」ではあるのだけれども。)



* 日時制度

[42] >>41 /42 に[[上古]]の[[日時制度]]の説明があります。
[CITE[上記]]説の派生と思われます。
[SEE[ [[上記の日時]] ]]

* 皇紀と建国


[351] >>350 /12
は、紀年を示すものは皆神武天皇即位紀年を用いる、と述べ、実際にそうしています。
耶蘇教の紀年を用いず、とも述べており、[[キリスト紀元]]でないことを特に断っています。

;; [353] ここまでならこの時代によくある表記法です。

[352] >>351 前段には、建国にあらず、と注釈があります。これだけでは意味がわかりにくいですが、
/54
に

- [354] [[日本]]は2尊 ([[イザナギ]], [[イザナミ]]) から[[天照大神]]が[[高天原]]統治の勅令を受け建国された。
- [355] 紀元は紀年の[RUBY[元][はじめ]]であり、建国と混同してはいけない。
-- [358] さもなくば、
--- [356] [[漢土]]で[[榆罔]]を倒して[[黄帝]]が建国即位したのと同じになってしまう。
--- [357] [[天皇機関説]]が生じてしまう。
- [359] [[神武天皇]]が[[天照大神]]から勅令を受けた記録はない。
-- [360] 「立為太子」とあるのを重視し継承の天皇としてのみ祭ることにしなければ、
--- [361] 将来恐るべき学説の変化を生じることになる。
--- [362] 学説が変化すれば思想も変化する。

などといった記述があります。つまり[[天皇機関説]]を否定し[[国体明徴]]を唱える立場の中でも過激な主張であって、
[[神武天皇]]は通過点に過ぎないという立場から過度に神聖化することに釘を差しているのです。
ただし、そうであっても[[皇紀]]を否定するものではなく、積極的に使っています。

[363] 
[[黄帝]]と比較しているのも、
[[易姓革命]]の伝統を持つ[[中華世界]]との差別化であり、
[[神武天皇]]以前と以後との不連続性を否定することを目的とするのでしょうが、
だからといって[[天孫紀元]]のようなより古くに遡った[[紀年法]]を採用してはいないことには注意したいです。

[364] 
[[国粋主義]]や[[皇国史観]]に属しうる思想の中でもかなり踏み込んだ主張でありますが、
「紀元と建国は異なる」と論じた点は優れています。
近代には思想家も学術研究者も「紀元 ([[元期]])」「紀年法」「建国」
を混同して論じる傾向が見られます。この類の主張は現代にすら残っており、
「皇紀は史実ではないから使ってはいけない」というのもその残滓といえます。
それらに比べれば幾分理性的といえます。

[30] 
なお、 >>29 /9 は更に先鋭化しており、
[CITE[日本書紀]]
の立太子記事は錯簡であると
[CITE[上記]]
[[五瀬命]]記事を根拠に主張しています。
そして
[CITE[日本書紀]]
によれば[[神武天皇]]は建国ではなく[[遷都]]の天皇だと述べています。

[31] 
紀元と建国の混同に対しては、虚名時流に乗る輩は[[天照大神]]への[[不敬罪]]に当たるとまで述べています。
[SRC[>>29 /10]]

[32] 
当時はちょうど[[紀元2600年]]が全国的に祝われた時代ですが、
[[小山愛司]]は神武天皇の即位を秦始皇7年 [SRC[>>44 /55]] 
と修正して推定していました [SRC[>>44 /28]]。
これによると昭和15年 (皇紀2600年) は神武天皇即位紀元2180年でした。
[SRC[>>44 /55]]
その世情について、
平常は[[耶蘇紀年]]を慣用しながら思いつきのように2600年を唱えるのは虚栄の妄動だと厳しく非難しています。
[SRC[>>29 /10]]




[5] 
関連:
[[皇紀]],
[[紀年論]]


* 神代の年数

[45] >>44 /56 : [CITE[上記]]や近世の諸説などを使った考察

[46] 関連: [[神代の年数]]


* メモ
