[96] 
[DFN[正京]]は、
[[日本の私年号]]の1つです。

* 用例

[59] 
[[日時表示]]に実用した事例は知られていません。

** [CITE[勝山記]]

[60] 
[[日本]][[甲斐国]]の歴史書[CITE[勝山記]] ([CITE[妙法寺記]])
に[[改元]]の伝聞の記事があります。

[61] 
ただし、諸本で[[元号名]]を[[正京]]とするか[[正亨]]とするかの表記差があります。
文の表現にも若干の違いがあります。

[63] 
[[正亨]]表記の写本は、他の[[公年号]]の[CH[享]]字を[CH[亨]]と表記しています。
そのため[[正亨]]は[[正享]]の意という解釈が有り得ます。

[64] 
いずれが[[元号名]]の原形かは定かではありませんが、
少なくても、[CH[京]], [CH[亨]], [CH[享]]の違いを厳密に区別しない識字環境下で伝来してきた、
ということは間違いありません。

[62] 
更に、[[紀年]]が錯乱した部分に掛けられた記事であり、その解釈には多くの問題があります。
[SEE[ [[勝山記の日時]] ]]

[65] 
記事は、[[京都]]の[[改元]]の伝聞という形になっています。
当地で[[改元]]が施行されたかどうかは明言されていません。
わざわざそのような書き方ということは、当地では施行されなかったとも考えられますが、
当年には[[福徳]]も含めて何度も[[年号]]が変わった、との記述もあって、
そちらを素直に読めば、[[正京]]も当地で使われた[[年号]]の1つと考えられます。


[66] 
本書は、同時代的な何らかの記録に基づき、しばらく後になってから[[年代記]]の形にまとめられたものと推測されています。
当記事が実際にいつの時点でどのような情報から編纂著述されたものかはわかっていません。
[SEE[ [[勝山記]] ]]

* 諸説

** 元号名

[97] 
[[元号名]]は、

- [98] [[正京]]
- [99] [[正亨]]
- [100] [[正享]]

... の3種類があります。

[101] [[正京]]と[[正亨]]は、[CITE[勝山記]]の異本に由来するものです。
[[正享]]は直接[CITE[勝山記]]写本に出現するものではありませんが、
その表記傾向から[[再建]]されたものです。つまり、
この3種はいずれも同一の[[元号]]の異表記の関係にあります。

[102] 
[CITE[勝山記]]の系統の研究によれば、
[[正京]]と書かれた[[写本]]が比較的[[祖本]]に近いと考えられます。
とはいえ、
必ずしも[[正京]]が[[祖本]]の原表記 (に近い) とも限りません。
また、[CITE[勝山記]]の[[祖本]]の原表記が、この[[元号]]の本来表記 (というものがあるとして)
と一致するとも限りません。

[103] 
諸書は[[正亨]]のみを記載したり、これを主としたりする場合が多いようです。
これは[CITE[勝山記]]の[[近世]]以来の通行本 ([CITE[妙法寺記]])
の表記に由来すると考えられます。 

[104] 
[[正享]]表記は、おそらく[CITE[日本私年号の研究]]が初出かと思われます。
(もしかすると[CITE[勝山記]]の校訂系の研究でそれ以前からあるかもしれませんが。)
[CITE[勝山記]]が[CH[享]]を[CH[亨]]と表記していることや、
[[正京]]表記の存在から「きょう」音と考えられることによります (>>35, >>36)。
合理的な推定ではあるものの、歴史的にこの表記が存在したことの確証はありません。

[105] 
[CH[京]], [CH[亨]], [CH[享]]のどれが適切かという問題は、
現代の[[漢字]]の表記基準だけでなく、
むしろ当時の表記慣習をよく理解した上で検討しなければなりません。
他の[[元号]]の表記でも[CH[享]]を[CH[亨]]や[CH[京]]とした事例はみられるのであり、
それがどう受け止められていたか、は ([[元号名]]以外の語表記もあわせて)
十分に考えなければならないでしょう。

[106] 
[[元号名]]に[CH[京]]は使われていないから[CH[享]]であろうという推測 (>>36)
は、[[公年号]]にはいえても、特定の法則性に縛られない可能性ある[[私年号]]では、
少し心もとないと言わざるを得ません。

-*-*-

[110] 
[CITE[勝山記]]記事は、伝聞的ですが、それがどのような形の情報だったかは記述がありません。
もし通知書のような[[文書]]形式で届けられたのではなく、
口頭の噂だったとしたら、
[CITE[勝山記]]の原記録は聞いた人がそれらしい表記を想像して書いたに過ぎない可能性も否定できません。
そうでないとしても、より上流でそうした過程を経ている可能性は否定できません。

[111] 
しかし、[CITE[勝山記]]以外の記録が一切知られていない以上、
可能性があると想定しておくほかに出来ることはありません。

** 時期

[112] 
現在知られている唯一の史料である
[CITE[勝山記]]
は、該当部分で[[編年]]が甚だ錯乱しています。
そのために、
当該記事は延徳元年己酉に掛けられているとも、
延徳2年庚戌に掛けられているとも断定しづらい状況です。
延徳3年辛亥に掛けられるべき記事の錯簡と論じることも無理ではありません。
[SEE[ [[勝山記]] ]]

[113] 
[[伴信友]]はこれを[[延徳]]頃とだけ比定しています (>>73)。
[CITE[日本私年号の研究]]はその理由を錯乱のためとしています (>>40) が、
実の所[CITE[年号の論]]は他の[[私年号]]も「[VAR[元号]]頃」
としか書いていないのであり、錯乱とは関係なさそうです。

[114] 
[[久保常晴]]は昭和40年には[[元年]] = 延徳元年と解釈していました (>>58) が、
昭和42年には[[元年]] = 延徳2年説を取りつつ (>>39, >>69)、
旧説も一部残存していました (>>42)。

[115] 
この混乱はその後の一覧表類にも引き継がれていて、延徳元年説と延徳2年説がみられます
(>>70 >>68)。

[116] 
[CITE[勝山記]]当年条の成立過程が解明されるか、
他の史料が追加されない限り、比定年を確定させるのは難しいと考えられます。

** 利用状況

[117] 
現在知られている史料は[CITE[勝山記]]の諸本のみです。

[118] 
[CITE[勝山記]]当年条は当時からしばらく経過しての成立と考えられます。
何らかの同時代的な資料が編纂時の素材となったと推測されるものの、
それがどのようなもので、どれくらい正確な情報で、どの程度忠実に現行本文に反映されたか、
はまったく不明です。
[SEE[ [[勝山記]] ]]

[119] 
[CITE[勝山記]]は[[京都]]での[[改元]]の情報として書いています。
そもそも[[改元]]は[[京都]]で決定されるものですし、
[[京都]]の[[改元]]の情報が伝われば[[甲斐]]でも実施されるのが普通と考えられます。
にも関わらずわざわざ[[京都]]で[[改元]]と書いているのは不審であり、
[[甲斐]]では未施行という解釈の余地があります。
用例がまったく報告されていないのも、その傍証となります。

[120] 
一方で、当年は[[年号]]が何度も変わったとの記述もあるので、
当[[元号]]がそれに含まれるなら、実用されたと解釈できる書き方です。
つまり、当[[元号]]は実用されたとも、実用されなかったとも解釈可能で、
どちらの解釈も決定打に欠けます。

-*-*-

[121] 
[[京都]]で[[改元]]されたとの情報ですが、現時点で知られているのは[[甲斐]]での記録だけで、
[[京都]]でも、[[京都]]と[[甲斐]]の中間地点のどこでも、
それ以外の地域でも、それらしき記録は見つかっていません。
用例はもちろん、同様の[[改元]]情報も未発見です。

[122] 
たまたま[[甲斐]]でだけ記録が残ったのであって他にもこの情報は伝わっていた可能性もあれば、
[[甲斐]]だけでこの情報が流布されていた可能性もあります。
どちらとも断定できる情報がありません。

** 解釈

[123] 
[CITE[勝山記]]当記事によると、
[[京都]]で[[改元]]があったとのことです。ところが、
実際には[[京都]]でそのような[[改元]]が行われた記録はありません。

[124] 
これを最も素直に解釈すると、[[改元が行われていないのに改元が行われたとするデマが流布された][改元デマ]]ことになります。

-*-*-

[125] 
[[近世]]以来、当[[元号]]に言及するほとんどすべてが、
実際に用いられた[[私年号]]とみなしています。
(>>73, >>76, >>72)
その詳細は語られておらず、[[京都]]で、との記事をどう解釈したものか不明です。

[126] 
[CITE[日本私年号の研究]]は、[[私年号]]の1つと扱いつつも、
[[私年号]]の噂と留保しています (>>45)。
とはいえ[[甲斐国]]で発生した[[私年号]]と考え、
(本書の説くところの) この時代の[[私年号]]全般の発生理由 (天災) 
で説明しようとしている (>>48) のであり、やはり[[京都]]で、
との記事との整合性に欠けます。

[159] 
>>142 は、当記事は[[京都]]で、とするものの[[東国]]で主に使われたとしています。
しかし[[福徳]]と一括して記述されており、根拠も明示されていないので、
[[福徳]]の用例分布からの類推に過ぎないと思われます。

[127] 
いったん[[甲斐]] (あるいはその周辺) で[[私年号]]として成立したものの、
より尤もらしい形 (「京都で改元された」) に置き換えられて流布された、
と説明できないことはありません。

[128] 
ただ、実用された用例が未だに1つも報告されていないこと、
すぐに[[福徳]]が流布され、そちらは多くの用例が知られていること、
には問題が残ります。

[129] 
[[妙法寺]]建元説は、
[[妙法寺]]を[[改元]]の主体とするものです (>>1401)。
おそらく[CITE[妙法寺記]]の誤読によるものでしょう。
なお、[CITE[妙法寺記]]が当該時代の[[妙法寺]]の記録に基づいているかどうかには、
疑問が残るところです [SEE[ [[勝山記]] ]]。
史料的根拠が皆無であり、積極的に支持するべき理由がありません。

-*-*-

[19] 
[[正京]], [[正享]], [[正亨]]は[[長享]]の誤記から生じた[[幽霊元号]]とする説があります。
[SEE[ [[勝山記の日時]] ]]

** 終了

[130] 
[CITE[勝山記]]記事を素直に読むと、[[正京]]に続いて[[福徳]]への[[改元]]がありました。
したがって[[福徳]]への移行によって[[正京]]の利用 (あったとして) は終了したと取れます。

[131] 
>>76 は、[[正京]]や[[福徳]]が同時期に並行して使われたと解釈しています。
史料の解釈としてやや飛躍がないでもありませんが、現象としては有り得ないことでもなさそうです。

[132] 
>>130 説に従うなら、[[福徳]]の早期用例の時期を[[正京]]の終了時期と推定できます。
>>131 説に従うなら、厳密に終期を決めることはできません。ただ、
辛亥年には掛からないと見るのが穏当ではあります。


* 研究史

[107] 
[[近世]]後期の
[CITE[偽年号考]]
乙種本は
[CITE[妙法寺記]]
を主要な論拠に使っており、著者は当[[改元]]記事を読まなかったはずがありませんが、
[[正亨]]に言及していません。
[SEE[ [[私年号研究史]] ]]

[108] 
これを始めとして[[近世]]・[[近代]]の[[私年号研究者]]たちのほとんどは、
[[正亨]]に関心を持たなかったようです。

[73] 
[[江戸時代]]後期の研究者[[伴信友]]の
[CITE[年号の論]]
は、
[[妖僞年號]]の列挙の中で、
[[延徳]]時代に[[正亨]]があるとしています。
[SRC[>>71]]

-*-*-

[74] 
[TIME[昭和3(1928)年][1928]]の書籍は、
[[福徳]]に関連して、
次のように述べています。
[SRC[>>2]]

- [75] 長享3年に[[延徳]]と[[改元]]したが、[[元号名]]を非難する者もいた
- [76] 延徳2年正月早々[[足利義政]]の死去などがあり、
-- [77] 民間では勝手に[[年号]]を改めて[[正亨]]などというものもあった
-- [78] 同時に[[福︀德]]という[[年号]]を立てて直ちに2年とするものがあり、
-- [79] 福︀德の[[元年]]とするものがあった
-- [80] めいめい勝手にいろいろの年号を使った
- [81] [CITE[妙法寺記]]にこの間の消息を書いて
-- [82] 延徳2年庚戌年に [SNIP[]] [SEE[ [[勝山記の日時]] ]]
--- [85] [[王]]とは[[足利義政]]のこと
-- [83] 延徳3年辛亥に [SNIP[]]
--- [84] しかし一般には延徳2年庚戌を福︀德元年とするものが多かった

[86] 
この書き方だと前半は別の情報源があるようにも読めますが、
実際にはほぼ同じことを繰り返しているだけで、根本的には
[CITE[妙法寺記]]が唯一の情報源と思われます。

[87] 
ただし、 >>82 で「京ニテ」を含めて引用しておきながら、
>>77 では民間で勝手に、と述べています。なぜこのように言い換えたのかは謎で、
[[京都]]の (朝廷ではなく) 民間人が勝手に、という解釈なのでしょうか。

[88] 
この説は[[延徳]]の不評 (これは[CITE[妙法寺記]]にないので、また別の情報源由来)
を[[元号]]混乱の遠因とみているようで、しかも[CITE[妙法寺記]]では[[福︀德]]にのみ掛かっている
「王」死去を[[正亨]]の原因としています。

[REFS[

-
[2] [CITE@ja-JP[武蔵野歴史地理 第1冊]], [[高橋源一郎]], [TIME[昭和3][1928]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-01T12:51:16.898Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3432375/1/206> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[21] 
昭和40年の[[久保常晴]]の論文は、
次のように述べています。 [SRC[>>20]]

- [52] [[正亨]]
- [53] [CITE[甲斐妙法寺記]] 延徳元[LINES(smaller)[庚][戌]]条
「京ニテハ正亨二年ト延徳ヲ改玉フ也」
- [54] [CITE[甲斐妙法寺記]]紀年錯乱
- [55] [[干支]]からみて事実は延徳2年
- [56] この記事の混乱のため[[伴信友]]は[[正亨]]を「延徳頃」として年代決定に踏み切れていない
- [57] [CITE[隔搔録]], [[土井徳人]]は[[正亨]]を「元年当庚戌甲斐土民用之」とし、
延徳何年と明言していない
- [58] 正亨二年が庚戌、よって元年は延徳元年己酉


[23] 
昭和42年の
[CITE[日本私年号の研究]]
は、次のように述べています。
[SRC[>>22]]

- [24] [[正亨]] ([[正京]])
- [25] [CITE[甲斐妙法寺記]] 延徳元[LINES(smaller)[庚][戌]]条
「京ニテハ正亨二年ト延徳ヲ改玉フ也」
- [26] [CITE[甲斐妙法寺記]]紀年錯乱
-- [27] 文明19年に改元としながら「長享」に触れず、
翌年を「長享元戊申」とし、実際の[[長享]]から[[1年ずれ]]
-- [28] その翌年に「二」とし[[干支]]なし、
長享元年にあるべき「申年疫病流行」記事
-- [29] 次の「[V[三年[ASIS[配]]]]」に「三年にて改元」としながら、
翌年に「延徳元庚戌」、二年に干支なし、三年改元としながら翌年を[ASIS[延徳]]元年、
[[1年ずれ]]
-- [30] 延徳2年相当年を明応元年、「年号色々也」
-- [31] 次は明応2年となるはずが唐突に「延徳四[LINES(smaller)[壬][寅]]」
-- [32] 翌年「明応二年[LINES(smaller)[癸][丑]]」
- [33] [CITE[勝山日記]]
-- [34] 「延徳元、二庚戌」「開元京ニハ正京ト延徳ヲカエ玉ウナト[SNIP[]]此年一[ASIS[季]]中二三度[ASIS[季]]号[ASIS[貲]]ルナリ」
-- [35] [[永享]]、[[享徳]]は[CH[亨]]とされ[CH[享]]との区別も判然としない
-- [178] p.[V[図版第七]] : 拡大 白黒写真 (中解像度)
- [36] [[年号]]に[CH[京]]は見受けられないから、[[享正]]や[[享高]] (や[[永寧]]) などからすれば、
-- [37] あるいは「正享」で、
-- [38] 1は発音により文字を誤り、1は文字にあわせて文字を誤ったものだろう
- [39] [[干支]]からみて事実は延徳2年
- [40] この記事の混乱のため[[伴信友]]は[[正亨]]を「延徳頃」として年代決定に踏み切れていない
- [41] [CITE[隔搔録]], [[土井徳人]]は[[正亨]]を「元年当庚戌甲斐土民用之」とし、
延徳何年と明言していない
- [42] 正亨[ASIS[三]]年が庚戌、よって元年は延徳元年己酉
- [43] [[福徳]]
- [45] 
現段階では[[私年号]]の噂の記録と受け取らねばならぬ [SRC[>>44]]
--[46]  
ただし[[改元]]理由まで記すは珍しい
--[47] [[東海道]]筋に[[私年号]]の発生しないこと、
-- [48] [CITE[甲斐妙法寺記]]にみる災害の甚だしさ、
-- [49] これを裏付ける恵まれない盆地、
-- [50] よりこの[[甲斐国]]が[[私年号]]の発生の根源地と想定される
--- [51] [[福徳]]・[[弥勒]]によって明らかになる

[69] 
また、巻末の一覧表は
「正亨(正享 正京)」 を延徳2年としています。
[SRC[>>1]]

[161] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]の書籍は、
[CITE[日本私年号の研究]]を引いて、
[[正享]]や[[命禄]]は深刻な天変・飢饉の窮状から脱するための土着民の切実の願いから生まれたもの、
と解説しています。
[SRC[>>160]]

[REFS[

- [20] [CITE[[[我が国の私年号に関する研究(二)―室町時代―]]]]
- [1] [CITE[日本私年号の研究]]
-- [22] 
pp.[V[三一〇]]-[V[三一二]], p.[V[三七四]]
-- [44] 
p.[[三九一]]
- [160] 
[CITE@ja-JP[板碑の総合研究 1 (総論編)]], [[坂詰秀一]], [TIME[1983.2][1983]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-08-18T03:57:04.166Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12226011/1/162?keyword=%E6%AD%A3%E4%BA%AB> (要登録)


]REFS]

-*-*-

[109] 
[[昭和時代]]から[[平成時代]]にかけては
[CITE[勝山記]]/[CITE[妙法寺記]]
の諸本の系統とそれらの成立過程に関する論争がありました。
[SEE[ [[勝山記]] ]]
その関係の研究の中で当改元記事に特に言及したものも一応ありますが、
あまり中心的な議題とはなってこなかったようです。


[89] 
[TIME[昭和38(1963)年][1963]]の[[丸子亘]]の
[CITE[勝山日記と妙法寺記]]
は、[CITE[勝山記]]の諸本の異同を検討したものですが、
当元号記事に関しては、

- [94] 延徳元年己酉
- [95] 延徳2年庚戌
- [90] [CITE[勝山日記]]によれば、
-- [91] [[京都]]では[[延徳]] → 正享二年 → 福徳二年、と年号を替えたことになる
- [92] 二度改めれば3つの年号
-- [93] 「1年中に3度年号を替える」の意義不祥

... との解釈を述べています。
[SRC[>>3]]

[REFS[

-
[3] 
[CITE[[[勝山日記と妙法寺記]]]] #page=9

]REFS]

-*-*-

[134] 
[TIME[昭和57(1982)年][1982]]の書籍は、
次のように述べています。
[SRC[>>133]]

- [151] 永正3年
-- [152] 物価上昇、生活はいっそう追い詰められる
-- [153] [CITE[妙法寺記]] 「年号替ルナリ」
--- [154] [[改元]]になったのではない
--- [155] 民衆が救いと安穩との祈りをこめた「[RUBY[弥勒][ミロク]]」という[[私年号]]を使うように
--- [156] いいかえれば[[人民]]は生活の安楽を求め、
衣食住充足した「弥勒の世」の出現を乞い願った
--- [157] 災害、飢饉、疫病、戦乱の連続で、苦難を民衆と共に乗り越える神・[[弥勒信仰]]がこの年に[[甲斐]]を中心に[[関東]]一帯へ沸き起こった
- [135] [CITE[妙法寺記]]には[[弥勒]]のほか、
-- [136] 延徳元年庚戌条 
--- [137] 元年なら己酉であり、延徳2年の誤り
--- [138] 「京ニテハ「正享」2年ト延徳ヲ[RUBY[改][カ]]エ」たが、やがて間もなく「又京ニテ王崩御(?)トテ、「福徳」2庚戌ト年号を改エル也」
--- [139] 1年間に2つの[[私年号]] ([[正享]], [[福徳]]) の使用の事例
- [140] 文書・記録に現れなくもないが、金石文、経典奥書、寺社縁起など宗教的史料に現れる場合が多い
- [141] 現れるのは[[東国]]に多く、[[南北朝時代]]から[[戦国時代]]、とりわけ15-16世紀に集中
- [142] [[正享]]・[[福徳]]も「京ニテ」とあるが使用地域は[[東国]]が主といわれる
- [143] [CITE[金石文からみた中世の東国]], [[千々和到]]
-- [144] 背景は[[改元]]や[[代替わり]]による[[世直し]]の願望
-- [145] [[使われない私年号]]と[[使われる私年号]] ([[延徳]], [[福徳]], [[弥勒]], [[命禄]])
- [146] [[命禄]]は[[武田信虎]]も使用したことがよく知られる
- [147] [[弥勒]]は広く関東の民衆に確実に使われた[[私年号]]の1つ
-- [148] [[関東]]の紛乱、とくに[[甲斐国]]内の争乱に苦しむ民衆の藁にもすがる惨めな思いが現れている
-- [149] あきらかに[[弥勒]]の使用は[[都留郡]]はじめ[[甲斐]]全域・さらには[[東国]]の全民衆が期せずしてあげた絶望のうちに救済を求める祈りの声
-- [150] 同時に、封建制下の人民が飢えをもたらす政治の貧困に対して示し得る抵抗のぎりぎりの姿

;; [158] [[弥勒]]の解説が主ですが、当時の学説に依拠しつつもあまりに[[甲斐]]中心的な解釈で問題があります。
[SEE[ [[弥勒]] ]]
史料的根拠の疑わしい[[マルクス史観]]的修辞も過剰。

[1401] 
[TIME[平成12(2000)年][2000]]付[[Webページ]]は、
[[妙法寺]]が[[改元]]した、とあたかも主体であるかのように書いているが、おそらく[CITE[妙法寺記]]の記事のこと。記事によれば改元の理由は「王」の崩御なので、①に該当する。飢餓や流行病で「王」が死んだとは書かれていないので、③とはいえない。
[SRC[>>1400]]

[REFS[

- [133] 
[CITE@ja-JP[甲斐武田氏 : その社会経済史的考察 付録 2]], [[なかざわしんきち]], [TIME[1982.6][1982]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-08-18T03:32:10.714Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9538876/1/16?keyword=%E6%AD%A3%E4%BA%AB> (要登録)

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1400] 
[CITE[日本の私年号]], [TIME[2000-06-02T09:37:16.000Z]], [TIME[2026-08-10T11:15:01.954Z]] <https://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/018.htm>
]FIGCAPTION]

> 改元はその理由により、大別すると4通りに分類される。 ①代替わり ②祥瑞 ③災異 ④革命の年(辛酉や甲子)[SNIP[]]
> 私年号使用の直接的理由は、公的年号と同様に上記①~④のいずれかに求められるが、私年号の場合①の例はほとんどないようである。[SNIP[]]③の例としては、甲斐国妙法寺の私年号が挙げられる。妙法寺は1490年に延徳から正亨と改元したが、当時飢饉や流行病が甲斐国を襲っていたのである。[SNIP[]]

]FIG]

]REFS]

-*-*-

[163] 
[TIME[平成7(1995)年][1995]]の[[千々和到]]の論文は、
主に[[福徳]]に関連して当改元記事を引いていますが、
[[正京]]を主に、
異本では[[正享]]ともある、
としています。
[SRC[>>162]]

[165] 
[TIME[平成9(1997)年][1997]]の[[私年号]]に関する論文は、
当改元記事を引いて、
[[正京]]と[[福徳]]の2つの[[私年号]]が登場している、
と述べています。
[SRC[>>164]]

[REFS[

- [162] 
[CITE@ja-JP[講座・前近代の天皇 第4巻 (統治的諸機能と天皇観)]], [[永原慶二 '''['''ほか''']'''編]], [TIME[1995.6][1995]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-08-18T04:21:14.176Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13142711/1/91?keyword=%E6%AD%A3%E4%BA%AB> (要登録)
- [164] 
[CITE@ja-JP[信濃 '''['''第3次''']''' 49(12)(575)]], [[信濃史学会]], [TIME[1997-12]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-08-18T04:22:52.062Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/6070057/1/22?keyword=%E6%AD%A3%E4%BA%AC+%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[72] 
[[近代]]の一覧表の類には掲載されていませんでしたが、
[CITE[日本私年号の研究]]以後掲載されるようになりました。
[SRC[>>71]]

[70] 
[[千々和到]]の系統の表では、
「[[正亨]] ([[正享]] [[正京]])」、
ものによっては「正亨」
が掲載されています。
おおむね延徳2年ですが、延徳元年とするものもあります。
[[二次資料]]のみしかないと注記しているものもあります。
[SRC[>>71]]


[68] 
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]の一覧表には、
平成20年になって追加されています。
当初は[[正亨]]を正とし、
[[正京]]を別名としていましたが、
同年中に更に[[正享]]が追加されました。
延徳元年から継続年数不明とされています。
いずれも直接の根拠は不明です。
[SRC[>>67]]


[1766] 
[TIME[公元2018(平成30)年][2018]]の[[中文]] [[Webサイト]]の投稿記事は、
[CITE[妙法寺記]]
を引いて、
[[延徳]]改元時に[[甲斐]]では正京2年を用い、後に[[福徳]]に自行改用 (自ら変更した) と記載されている、
と述べています。
[SRC[>>1767]]

;; [166] [[私年号]]のことが[[中文]]圏の日本史愛好家にはあまり正確に伝わっていないことがうかがえる記事です。
[SEE[ [[弥勒]], [[古代年号研究史]] ]]


[REFS[

- [71] [[日本私年号一覧表]]
- [67] [[ウィキペディアの私年号一覧表]]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,正亨 	,正享・正京 	,延徳元年(1489年) 	,不明 	,『甲斐国妙法寺記』 
]FIG]
-- [321] 
[CITE@ja[「[[私年号]]」の版間の差分 - Wikipedia]], [TIME[2024-07-24T01:25:17.000Z]], [TIME[2024-07-26T14:01:03.449Z]] <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7&diff=prev&oldid=21472516>
--- [322] 
[CSECTION[2008年8月27日 (水) 17:42時点における版]],
[[可怜]]

]REFS]


* 関連

[SEE[ [[泰平]] ]]

-*-*-

[7] 
[[近世]]の[[元号]]の[[延享]]がたまに[[正享]]になっていることがあります。


[4] [CITE@ja-JP[山瀬町史]], [[徳島県麻植郡山瀬町]], [TIME[昭和5][1930]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-01T14:02:06.184Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1029943/1/270>
左下

[V[正享三年]] ([[明朝体]])。前後から延享3年のこと。

[5] [CITE@ja-JP[村上郷土史]], [[村上本町教育会]], [TIME[昭和6][1931]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-01T14:04:08.821Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1178732/1/63>
右ページ左


[V[正享三年]] ([[明朝体]])。前後からおそらく延享3年のこと。

[18] [CITE@ja-JP[温泉知識]], [[藤浪剛一]], [TIME[昭13][1938]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-01T14:53:26.789Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1072441/1/296>
右下

[V[正享二年]] ([[明朝体]])。おそらく延享。

[12] 
>>4 >>5 いずれも[[明朝体]]の[[翻刻]]で原文がどうなってわかりませんが、
「延」と「正」は誤植するとは考えにくい。
[[草書]]で「し」のような曖昧な形になった「廴」が書写時に見落とされたり、
ときには書き忘れたりすることもあったのかもしれません。


[15] [CITE@ja-JP[神奈川県図書館月報 (5月號)(51)]], [[神奈川県図書館協会]], [TIME[1938-05]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-01T14:22:16.808Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1470899/1/4> (要登録)
右

[V[正享元年(二四〇四)]] ([[明朝体]])。皇紀2404年は延享元年。

[16] [CITE@ja-JP[林業経済 5(1)(39);昭和27年1月号]], [[林業経済研究所]], [TIME[1952-01]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-01T14:26:57.651Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/11200631/1/17> (要登録)
左下

[V[正享元年]] ([[明朝体]])。おそらく延享。

[17] [CITE@ja-JP[中河内郡誌]], [[中河内郡役所]], [TIME[1972]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-01T14:31:14.375Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9572500/1/170> (要登録)
左下

[V[正[BR[]]享元年]] ([[明朝体]])。おそらく延享。


[13] 
[[元号名]]の「延」が「正」に変わっている事例は他にもあります。
[SEE[ [[勝山記の日時]] ]]

[8] 
[[OCR]] 誤認識と思われるものもたまにあります。
手書きのものもあれば、[[明朝体]]でも誤読していることがあります。


[6] [CITE@ja-JP[奥羽南部近世田中館文書集 第1巻]], [[田中庄一]], [TIME[1965]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-01T14:10:11.575Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3004993/1/126> (要登録)

[9] >>6 これは手書きの[[楷書]]で、原文を尊重したのか書いた人の癖が強いのか、
おそらく癖字のような気がしますが、
「延」の「廴」が「L」の左下を交差させるような形に書いています。
すぐ近くに「巡」もありますが、「辶」は「L」の横線が左に突き出す形にかいています。

[11] そして >>6 を[[国会図書館デジタル]]の [[OCR]] がまんまと騙されて「正」
と誤読しています。「L」を文字外の升目か何かにありがちなゴミと誤認してるのですかね?

[14] でもここまでおかしな形になっていない[[明朝体]]の「廴」でも誤読するのはどういうことなのでしょうね。

* メモ
