[163] 
[DFN[正久]]は、[[日本の私年号]]の1つです。


[REFS[
- [2] [CITE@en[[[正久]] (Era) - SuikaWiki Data]] ([TIME[2016-09-10 00:51:08 +09:00]]) <https://data.suikawiki.org/era/%E6%AD%A3%E4%B9%85>
]REFS]

* 元号名

[127] 
[[読み][元号名の読み方]]は、
「しょうきゅう」
とされます。
[SRC[>>20, >>132]]


* 用例

** 埼玉県下の用例


[ITEMS[ [[日時事例]]

- [30] [DATA(.label)[[[日本国]][[埼玉県]][[飯能市]][[原市場]] [[板碑]]]]
-- [84] >>83 : 白黒写真 (低解像度) 判読不可
-- [110] >>251 : 白黒写真 (低解像度) 判読不可
-- [85] >>83 : [[拓本]] 白黒写真 (低解像度) 字形はほとんど判読困難
-- [109] >>251 : [[拓本]] 白黒写真 (中解像度) 字形がおおむね読み取れる
-- [28] >>19 : [[拓本]] 白黒写真 (中解像度) 字形がおおむね読み取れる
-- [29] 
「[V[[DATA(.text)[正久二年[LINES(smaller)[庚][申]]二月六日]]]]」 ([[楷書]])
[SRC[>>19]]
--- [191] 
「[DATA(.text)[[V[正久二年[SUP(normal)[庚]][SUB(normal)[申]]二月六日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>408 ([CITE[日本私年号の研究]])]]

]ITEMS]

[31] 
[CITE[新編武蔵風土記稿]] [SRC[>>81]],
[CITE[入間郡誌]] [SRC[>>82]]
には、[TIME[承久2(1220)年][1220]]の[[板碑]]があると書かれています。 
後者は前者が出典と推測されます。
[SRC[>>19]]

[34] 
[[昭和時代]]頃の現地調査では承久2年の[[板碑]]は見つかっていません。
現在知られる日本最古の[[板碑]]よりも古く、疑わしいと考えられます。
[SRC[>>19]]

[36] 
音声情報による伝達から生じた誤解ではないかと推測されています。

[80] 
[[昭和時代]]初期の現地調査では、[[弘長]]より古いと判断されています。
改竄は見られません。 (>>73)

[39] 
[[昭和時代]]頃の現地調査では、「間違いなく鎌倉時代」と判断されています。
[SRC[>>19]]

[107] 
[[昭和時代]]中後期頃の[[板碑]]研究者らは、[[鎌倉時代]]後期頃と判断しています。
(>>88 >>25)

[REFS[

- [81] 
[CITE@ja-JP[[[新編武蔵風土記稿]] 巻之176 高麗郡之1,巻之177 高麗郡之2,巻之178 高麗郡之3,巻之179 高麗郡之4,巻之180 高麗郡之5,巻之181 高麗郡之6]], [[内務省地理局]], [TIME[明17.6][1884]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-03T02:51:20.557Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/764004/1/20?keyword=%E6%89%BF%E4%B9%85%E4%BA%8C%E5%B9%B4>
- [82] 
[CITE@ja-JP[入間郡誌]], [[安部立郎]], [TIME[大正2][1913]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-03T02:52:49.764Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/950559/1/278?keyword=%E6%89%BF%E4%B9%85%E4%BA%8C%E5%B9%B4>
- [408] [CITE[[[私年号板碑仮年表]]]]


]REFS]

** 千葉県下の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [128] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[千葉県]][[山武郡]][[芝山町]]]][[田向城跡]][[板碑]]]]
-- [130] >>20 : カラー写真 (低解像度) 判読不可
-- [166] >>164 : [L[第83図]] [L[2]] : 拓影 白黒写真 (低解像度) 判読困難
-- [129] 「[DATA(.text)[正久二年]]」

]ITEMS]

[131] 
[[田向城跡]]で出土した板碑のうち1つとされます。 [SRC[>>20]]

[165] 
[[田向城跡]]は[[平成初期]]に[[ゴルフ場]]建設に先立ち発掘調査が行われています。 
[TIME[平成6(1994)年][1994]]当時の報告書掲載の[[板碑]]断片の拓影 [SRC[>>166]] と、
自治体広報誌の[[私年号]]板碑写真 [SRC[>>130]] とで形状が酷似しており、
同じものを指していると考えられます。

[167] 
報告書発行元となっている[[山武郡市文化財センター]]は既に解散しています。
[[板碑]]が現在どこに所蔵されているのか、 [[Web]] には情報が皆無です。

[168] 
報告書によると、[[板碑]]は[[曲輪]]の[[盛土]]中から出土しました。
[[紀年銘]]が含まれるものが2点と、小片がいくつかあったようですが、
報告書や広報誌で見られるのは大きな2点だけです。
2点のいずれも[[残欠]]です。

[169] 
2点のうち1つ ([L[第83図]] [L[1]]) は、2つの破片に分かれているように見えます。
報告書は「康永元年」銘が読めるとしています。
掲載拓影ではやや不明瞭ながらも、比較的用容易に「[V[康永元年]]」と読み取れます。
上下に他の[[文字]]はありません。
その左側に[[花瓶]]が描かれており、現存しない更に左側に月日があったと推測できます。

[171] もう1つ [SRC[>>166]] は紀年銘があるとしつつも、判読不能と報告書は述べています。
[SRC[>>164]]
[[蓮台]]らしきものの下に銘文らしきものが見えます。
残欠であり全体が見えないため判断が難しいものの、
およそ中央、しかし[[蓮台]]と比べてわずかに右寄りに、
1行配置されているように見えます。

[172] 
平成6年の報告書は判読困難としていますが、平成17年の広報誌は[[私年号]]だとしており、
11年間のうちに新たに研究者が判読に取り組んだ成果でしょうか。

[173] 
広報誌には「正久二年」としかありませんが、これを手掛かりに報告書の拓影を読むと、
「正久二年二月日」あたりでしょうか。[CH[年]]とその上下に当たる線画は、
どこからどこまでがどの[[文字]]か判断が困難です。上下が本当に[CH[二]]なのかどうか、
よくわかりません。

[174] 第1字は[CH[正]]と読まれていますが、[CH[日]]とも[CH[白]]とも取れます。
報告書では判断困難です。

[175] 第2字は[CH[久]]と読まれていますが、[CH[文]]のようにも見え、しかし[CH[\]]はよく見ると
[CH[ノ]]を貫く線ではなく左右で途切れていて、左側は別画ないし錯覚のようにも思われ、
よくわかりません。

[176] 上下左右に他の文字は無いように見えます。

[177] 
限られた断片ながら、様式から幾らかは時代を絞れそうに思われますが、不明です。

[178] 
[[板碑]]出土の盛土と同じかどうかは不明ですが、盛土中から鉄砲玉が出土しており、
築城は[TIME[天文12(1543)年][1543]]の[[鉄砲伝来]]を遡らないと推定されています。
[[江戸時代]]の記録では[TIME[天文14(1545)年][1545]]の築城と伝えられます。
[SRC[>>164 /120]]



[REFS[
- 
[164] 
[CITE@ja-JP[田向城跡]], [[山武郡市文化財センター]], [TIME[1994.3][1994]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-03T05:28:21.867Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13206942/1/113> (要登録)

]REFS]


** 熊野本宮大社文書の用例

[151] 
[[熊野本宮大社]]文書に[[正久]]が使われたものがあるようです。詳細は不明です。

[152] 
正久の何年かの1月3日付け文書なのでしょうか。それとも本文中に[[正久]]が出現するのでしょうか。

[188] 
[[令和時代]]に至るまで、[[私年号研究]]で取り上げられた記録は見当たりません。

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[26] 
[CITE[日本古文書ユニオンカタログ - 詳細]], [TIME[2024-07-30T13:39:32.000Z]] <https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w21/detail/20150331000327?dispid=disp01>
]FIGCAPTION]

> 【管理番号】
66503703232497
>【和暦年月日】
(年未詳)正月3日(55550010030) 
>
【文書名】
武蔵国・相模国入峯人願文
[SNIP[]]
>
【底本】
写真帳 熊野本宮大社文書(62660030) 6171.66-25

>
【差出】
武蔵国小机保鳥山住僧越前■弁・治部隆賢・少弐阿■仁(花押)・相模国尾板郡飯田住僧式部秀海(花押)・大師直海・備前律師(花押) 

> 【詳細内容】
「正久」は私年号

]FIG]

]REFS]

** 備中国の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [189] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[備中國]][[賀陽郡]][[黒尾村]]]] [[新山寺]] [CITE[惣社應永三十三年造營帳]]]]
-- [190] 「[SNIP[]][DATA(.text)[正久元年九月廿四日]]棟上之時[SNIP[]]」
[SRC[>>15]]

]ITEMS]

[188] 
[[令和時代]]に至るまで、[[私年号研究]]で取り上げられた記録は見当たりません。


[REFS[

- [15] 
[CITE@ja-JP[備中誌 下編]], [[日本文教出版]], [TIME[1961]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-03T04:13:20.086Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3012359/1/254?keyword=%E6%AD%A3%E4%B9%85> (要登録)

]REFS]


** 和田家文書の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [143] [CITE(.label)[東日流外三郡誌]]
-- [144] 「[DATA(.label)[[V[[DATA(.text)[正久元年]]東日流地頭来る]]]]」
[SRC[>>157, >>7]]
-- [145] 「[V[北条義時、平広忠を[SNIP[]]更に[DATA(.text)[正久四年三月]][SNIP[]]]]」
[SRC[>>157, >>7]]

]ITEMS]

[146] 
[[昭和時代]]に出現した[[偽書]]群[[和田家文書]]の中核である[CITE[東日流外三郡誌]]にあります。

[147] 
[[鎌倉時代]]の出来事を後から記載したような体裁になっています。

[150] 
[[北条義時]]の時代には[[元久]]がありますが、3年までです。

[REFS[

- [157] 
[CITE@ja-JP[市浦村史資料編 : 東日流外三郡誌 下巻]], [[市浦村史編纂委員会]], [TIME[1977.7][1977]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-03T04:26:54.233Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537329/1/90?keyword=%E6%AD%A3%E4%B9%85> (要登録)
- [7] 
[CITE@ja-JP[[[東日流外三郡誌]] 第3巻 (中世編 2)]], [[小館衷三, 藤本光幸]], [TIME[1984.11][1984]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-03T03:58:34.528Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9571399/1/94?keyword=%E6%AD%A3%E4%B9%85> (要登録)

]REFS]

* 諸説

[179] 
いくつかの用例が知られていますが、
全体を横断した研究は未だほとんど手つかずのまま[[令和時代]]に至っています。

[180] 
少なくても[[和田家文書]]の用例は他と大きく性質が異なると考えられます。
それ以外の用例が同じ[[元号]]なのか、複数の系統に分けられるのかは検討を要します。
>>30
以外は[[元号名]]が[[正久]]かどうかも不明瞭であり再検討を要します。

[181] 
>>30 については

- [182] [[承久]]説
- [183] [[元応]]説 / [[平成時代]]の有力説
- [184] [[正元]]説 / [[昭和時代]]の有力説

がありますが、[[承久]]説は誤解によって生じたもので成立し難いと考えられ、
残る2説が有力です。

[185] 
>>30 の[[板碑]]の様式に基づき2説どちらも支持があるものの、
研究の蓄積があるより新しい時代の研究者の判断によるなら[[元応]]がやや優勢と思われます。
ただ[[平成時代]]の有名な[[板碑]]研究者である[[千々和到]]が[[正元]]説を捨てきれなかった、
という程度の優勢であり、決め手に欠けるのが実情でしょう。

[186] 
>>30 は[CH[久]]の字形が明らかであるものの、より前段階の情報伝達で混同があったとすると、
[CH[元]]と[CH[久]]の字形類似の指摘も捨て置けません。ただ、[[改元]]直後ならともかく、
2年2月というタイミングでの誤字には疑問が残ります。

[187] 
[[朝幕関係]]と結び付ける仮説もありますが、[[元応]]説を前提に推測を重ねたもので、
物証はありません。比定年の確実性に欠けるままこの種の推測説を前提に語るのは、
時期尚早と思われます。

* 研究史


[48] 
[TIME[1935-08-04]]開催の[[埼玉郷土会]]第71回見学旅行は、
[[日本国]][[埼玉県]][[入間郡]][[原市場村]]・[[名栗村]]で実施されました。
[SRC[>>27, >>16]]

[49] 
[TIME[7月][1935-07]]に提示された予定には、
[[原市場]][[西光寺]]阯の[[板碑]]に[[正久]]の[[異年號]]があると明記されています。
[SRC[>>27]]

[50] 
「[V[先年]]」、川口幹事が[[西光寺]]を訪問していました。 [SRC[>>16]]
その時に把握していたのでしょうか。

[51] 
道中で[[西光寺]]の所在を尋ねたものの、誰も知る者がいませんでした。
小学校前で尋ねると、 >>50 の案内をした者が見つかりました。 [SRC[>>16]]

[52] 
現地は、人家から相当の距離のある畑の中に荒廃した堂宇がありました。
知られていないのも納得の有様だったそうです。
それでも本尊は残っていました。 [SRC[>>16]]

[53] 
堂に向かって右側の丘陵の裾に、墓石と共に[[板碑]]4基が並んでいました。
そのうちの1つが >>30 でした。他に

- [54] 弘長元年9月13日
- [55] 正和4年乙卯2月26日
- [56] 正和元年壬子[ASIS[に]]八月時正

... がありました。
[SRC[>>16]]


[64] 
>>30 については次のような考察があります。 [SRC[>>16]]

- [65] [[異年号]]の一種である同音異字 ([CH[正]] = [CH[承]]) だとすると、
-- [66] 承久2年庚辰、[[干支年]]不一致
-- [67] 音通するが、他例なし
--- [68] 古人は[[元号年]]より[[干支年]]を重視していた
---- [69] [[元号名干支年表示]]のごとく
---- [70] 古人が同音異字の濫用に慣れていたとて、有り得ない
- [71] 2年庚申、[[鎌倉時代]]、現存最古の[[板碑]]の嘉禄3年以後、
[CH[正]]または[CH[久]]、の条件、
-- [72] 該当するのは[[正元]]だけ
- [73] [[板碑]]様式
-- [74] 他の3基より古い
-- [77] [[江戸時代]]の改竄には見えない
--- [78] 明らかに造立当時のまま
- [75] [CH[久]]と[CH[元]]は似ている
-- [76] 見た目明らかに[CH[久]]で間違いない
- [79] [[承久]]なら[[干支]]が、[[正久]]なら[CH[久]]が疑問で、このどちらなのか?


[REFS[

- [27] 
[CITE@ja-JP[[[埼玉史談]] 6(6)]], [[埼玉郷土会]], [TIME[1935-07]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-03T02:08:21.469Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1477722/1/43?keyword=%E6%AD%A3%E4%B9%85> (要登録)
- [16] 
[CITE@ja-JP[[[埼玉史談]] 7(1)]], [[埼玉郷土会]], [TIME[1935-09]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-03T02:13:38.421Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1477723/1/38?keyword=%E6%AD%A3%E4%B9%85> (要登録)


]REFS]







-*-*-

[35] [TIME[昭和57(1982)年][1982]]の[[自治体史]]には、次のようにあります。
[SRC[>>19]]

- [37] 承久2年[[板碑]] (>>31) の実地調査を行ったが見つからず (>>34)
- [38] かわりに >>30 があった
-- [40] 「正久」と読め、[[拓本]]でもそうであった
-- [41] [[承久]]を誤ったなら[[干支年]]は[[庚辰]]のはず、実際には[[庚申]] (どちらも「こうしん」)
- [42] [CH[久]]と[CH[元]]は書き方によっては判別しがたい
-- [43] 正元2年庚申
- [44] [CITE[新編武蔵風土記稿]]は実見せず現地人の報告によったのだろう
-- [45] 「しょうきゅう二年こうしん」


[REFS[

- [19] 
[CITE@ja-JP[[[狭山市史]] 中世資料編]], [[狭山市]], [TIME[1982.3][1982]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-03T01:36:29.932Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9642490/1/203?keyword=%E6%AD%A3%E4%B9%85> (要登録)

]REFS]


-*-*-

[88] 
昭和42年の[CITE[日本私年号の研究]]は、
[[板碑]]の様式から、

- [89] 貞永2年
- [90] 元亨2年10月
- [91] 文保3年
- [92] 建長7年、延慶2年

などの[[板碑]]と同系統とし、[[弘長]]や[[正和]]の[[板碑]]と共存していることも考慮し、
この時代前後の造立とし、
庚申年であることから元応2年に当たり、
従って[[元年]]は元応元年と推定しました。
[SRC[>>86]]

[93] 
これについて、次のように考察しています. [SRC[>>87]]

- [96] これ以前の[[私年号]]は畿内か、畿内とつながりがあった
-- [97] [[正久]]は[[武蔵国]]であることに注意
- [98] [[板碑]]、したがって使用者は僧侶
- [94] 元応元年 = 文保3年2月6日
-- [95] [[鎌倉時代]]末期、[[元応]]は[[後醍醐天皇]]の[[代始改元]]
-- [99] [[両統迭立]]問題、[[後醍醐天皇]]の[[践祚]]前
-- [100] 関東の一角にある = 幕府方の意向を反映
--- [101] [[持明院統]]の[[花園天皇]]の在位の久しいことへの不満を持つ者か
--- [102] 幕府とこの地方、この寺院とを結び付ける資料に欠き、
[[大覚寺統]]/[[南朝]]の資料にも恵まれず、
あくまで想像の域
- [103] 「正しいことが永久に行われる」という理想を示しているか

[156] 
なおそれに先立つ昭和39年の論文の時点では、
>>16
の見解を紹介するに留まり、正元元年説に従い、
[[私年号]]と[[異年号]]の別は[[異年号]]としていました。
或いは誤認だとしても、同じ地域の次の[[私年号]]の発生の母胎となったと受け取れないこともないとも指摘していました。
[SRC[>>155]]

[162] 
他に、[[年号]]に言及のみした論文もあります。 [SRC[>>161]]

[108] 
[[千々和到]]は[[久保常晴]]の[CITE[日本私年号の研究]]の判定に同意しています。

- [22] 
[[日本国]][[埼玉県]][[飯能市]] [[板碑]] 「正久二年[LINES(smaller)[庚][申]]二月六日」
[SRC[>>21]]
-
[23] 
[[鎌倉時代]]の[[関東]]の唯一の[[私年号]]現存例とされてました。
[SRC[>>21]]
-
[25] 
[[板碑]]は[[鎌倉時代]]後期の形状です。 [SRC[>>21]]
-
[24] 
[[久保常晴]]は正久2年を[TIME[元応2(1320)年][1320]]としました。
[SRC[>>21]]
[[千々和到]]もこれを妥当としました。[SRC[>>21]]


[123] 
[[千々和到]]の系譜の一覧表は[[正久]]について、
[[元応]]説を主としながらも[[正元]]説も掲載し、
その誤りかとしています。
[SRC[>>122]]

[124] 
[[千々和到]]は[[公年号]]の1文字を置き換えた[[私年号]]に注目しているので、
[[正元]]説を捨てきれなかったと思われます。


[REFS[

- [155] [CITE[我が国の私年号に関する研究 (一) ―平安時代より南北朝まで―]]
- [3] 
[CITE[日本私年号の研究]]
-- [83] 
p.[V[図版第二]] [L[(2)]], [L[(3)]]
-- [86] 
pp.[V[二一〇]]-[V[二二四]], p.[V[二四三]]
-- [87] 
pp.[V[二五五]]-[V[二五九]]
- [161] 
[CITE@ja-JP[日本歴史考古学論叢]], [[日本歴史考古学会]], [TIME[1966]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-03T04:38:09.524Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3007094/1/213?keyword=%E6%AD%A3%E4%B9%85> (要登録)
- [21] 
[CITE[[[中世東国の「私年号」]]]]
- [122] [[日本私年号一覧表]]


]REFS]

-*-*-

[111] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]の[CITE[板碑の総合研究]]
は、次のように解説しています。
[SRC[>>251]]

- [112] 4基ともほぼ同年代と想定される
-- [113] 庚申年は文応元年か元応2年
-- [114] おそらく[[正和]]より下降しない
--- [115] 従って文応元年とみなされる
- [116] [[正久]]の[[私年号]]でなく[[正元]]の[[公年号]]とするものもあるが、
-- [117] 明瞭に楷書体で[CH[久]]であり、[CH[元]]と読めない
-- [118] [[私年号]]である点に変わるところはない
- [119] 幕府方の朝廷への不満を反映か
-- [120] [[花園天皇]]譲位絡みか
-- [121] [[僧]]が利用

[140] >>1 は[CITE[板碑の総合研究]]が[[正元]]説であるかのような書き方になっています。
>>251 とは相反するため謎です。

[REFS[

-
[250] 
[CITE@ja-JP[[[板碑の総合研究]] 1 (総論編)]], [[坂詰秀一]], [TIME[1983.2][1983]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-03T03:15:26.713Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12226011/1/156?keyword=%E6%AD%A3%E4%B9%85> (要登録)
--
[251] 
[CSECTION[[V[私年号板碑]]]],
[[[V[石村喜英]]]]

]REFS]

-*-*-

[159] 
[TIME[昭和56(1981)年][1981]]に[[和田家文書]]を真作とする立場で編纂された[[年表]]は、
>>144
を承久元年に比定しています。
[SRC[>>158]]
根拠は示していません。


[REFS[

- [158] 
[CITE@ja-JP[東日流外三郡誌年表]], [[豊島勝蔵]], [TIME[1981.3][1981]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-03T04:27:48.786Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9570477/1/91?keyword=%E6%AD%A3%E4%B9%85> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[134] 
平成17年3月の[[自治体]]広報誌は、
>>128
を紹介しています。次のように述べています。
[SRC[>>20]]

- [136] 田向城跡で出土
- [135] 「[RUBY[正][しょう]][RUBY[久][きゅう]]」という[[年号]]は「実在しません」
-- [138] [[朝廷]]に従わない勢力がその意志を示すために、正式とは違う年号を使用した私年号
- [139] [[埼玉県]]でも発見
-- [137] [[鎌倉時代]]末期に[[持明院統]]と[[大覚寺統]]に分裂した政治状況下によるものと考えられる


[141] 
平成17年の[[ブログ]]記事は、
>>30 >>128
を紹介した上で、
[[公年号]]の1字を置き換えた[[私年号]]の例があるので、
[[正元]]の妥当性が高いという見解を示しました。
[SRC[>>1]]
>>128 の新出を踏まえての記事ですが、 >>128 から考察に資する新情報を得たわけではありません。

[142] 
その後[[令和時代]]に至るまで、[[私年号研究]]の文脈で
>>128
が紹介されたことを確認できるのはこれらだけです。

[REFS[

-
[20] 
[CITE[Wayback Machine]], [TIME[2022-12-28T14:07:16.000Z]] <https://web.archive.org/web/20061006181344/http://www.town.shibayama.chiba.jp/kouhou/h16kouhou/3gatu/pdf/p19.pdf#page=1>


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1] [CITE[正久: 年号迷路]],
2005年4月28日 (木),
[TIME[2016-02-08 22:39:56 +09:00]] 
<http://gaowei.cocolog-nifty.com/nengo/2005/04/post_098b.html>
]FIGCAPTION]

> これまで「正久」の使用例としては、埼玉県飯能市の正光寺墓地の板碑が
あるのみでした。しかし、昨日ネット上で発見した千葉県芝山町の「広報
しばやまH17.3」によれば、同町の田向城跡で発見された板碑にも「正久」
年号(正久二年の紀年銘)が刻まれているようです。
「正久」元年が何年に相当するかについては、上記の正光寺板碑に「正久
二年庚申」とあることから、その干支と板碑の形式により、1259年(正元
元年:『板碑の総合研究』)、もしくは1319年(元応元年:『日本私年号の
研究』)とされています。ただ、公年号の一字を別の字に替えた私年号が
他にも数例ありますので、1219年(正“元”→正“久”)の妥当性が高いよう
に思います。

]FIG]

]REFS]



-*-*-

[125] 
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]は比較的早い時期から[[正久]]を掲載しています。
当初は[[正元]]説でしたが、
[TIME[平成20(2008)年][2008]]に[[元応]]説に変更されました。
[SRC[>>126]]
いずれも根拠は不明です。

[133] 
[TIME[平成30(2018)年][2018]]の [[SNS]] 投稿で、
[[元応]]説により、
僧侶が使用し、[[公年号]]を拒否したのではなく内輪で用いたと解説するものがあります。
[SRC[>>132]]
根拠は不明です。

[REFS[

- [126] [[Wikipediaの私年号一覧表]]
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,正久 	,- 	,元応元年(1319年) 	,不明 	,埼玉県飯能市西光寺(廃寺)墓地板碑 
]FIG]
- 
[132] 
[CITE@ja[Xユーザーの大森博子 Hiroko Ohmori🔍📚さん: 「【元号】334 正久 しょうきゅう 元応元年(1319年)期間不明 埼玉県飯能市西光寺(廃寺)墓地板碑 これも僧侶が使用したという。公年号を拒否したり否定したわけではなく、あくまで内輪でのもの。」 / X]], [TIME[午後10:13 · 2018年10月27日][2018-10-27T13:13:47.000Z]], [TIME[2026-05-03T01:24:52.000Z]] <https://x.com/11111hiromorinn/status/1056172104616337408>


]REFS]






* 関連

[32] 時系列 :

- [148] [TIME[建仁4(1204)年2月20日][kyuureki:1204-02-20]]、
[[元久]]に[[改元]] ([[甲子年]])
- [149] [TIME[元久3(1206)年4月27日][kyuureki:1206-04-27]]、
[[建永]]に[[改元]]
- [33] [TIME[承久2(1220)年庚辰][1220]]
- [46] [TIME[正嘉3(1259)年3月26日][kyuureki:1259-03-26]]、
[[正元]]に[[改元]]
- [47] [TIME[正元2(1260)年庚申4月13日][kyuureki:1260-04-13]]、
[[文応]]に[[改元]]
- [57] [TIME[文応2(1261)年辛酉2月20日][kyuureki:1261-02-20]]、
[[弘長]]に[[改元]] ([[辛酉年]])
- [58] [TIME[弘長元(1261)年9月13日][kyuureki:1261-09-13]]: >>54
- [59] [TIME[弘長4(1264)年2月28日][kyuureki:1264-02-28]]、
[[文永]]に[[改元]]
- [60] [TIME[応長2(1312)年3月20日][kyuureki:1312-03-20]]、
[[正和]]に[[改元]] ([[災異改元]])
- [62] [TIME[正和元(1312)年壬子][1312]]8月時正: >>56
- [63] [TIME[正和4(1315)年乙卯2月26日][kyuureki:1315-02-26]]: >>55
- [61] [TIME[正和6(1317)年2月3日][kyuureki:1317-02-03]]、
[[文保]]に[[改元]]
- [106] [TIME[文保元(1317)年][1317]]、
[[文保の和談]]
- [104] [TIME[文保3(1319)年4月28日][kyuureki:1319-04-28]]、
[[元応]]に[[改元]] ([[代始改元]])
- [105] [TIME[元応3(1321)年2月23日][kyuureki:1321-02-23]]、
[[元亨]]に[[改元]]
- [170] [TIME[康永元(1342)年][1342]]


-*-*-

[9] [CITE@ja-JP[小学校掲示資料]], [[教育実際社]], [TIME[明43.2][1910]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-28T13:39:33.253Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/808849/1/91>

正久元年閏 記録所設置

(誤植? 正しくは延久)

[11] 
手書きの「延久」が[[OCR]]で「正久」と誤読された事例あり。

[18] [CITE@ja-JP[時宗教学年報 10]], [[時宗教学研究所]], [TIME[1982-03]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-28T13:53:35.352Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4424041/1/42> (要登録)

正八幡神社 明治40年作成の由緒 正久2年 1070

(正しくは延久)

-*-*-

- [12] [CITE@ja-JP[続群書類従 第壹輯下]], [[塙保己一, 続群書類従完成会 校]], [TIME[昭和14][1939]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-28T13:41:30.623Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1768030/1/19> (要登録)
-- [153] なぜか非公開にされている [TIME[2026-05-03T04:14:47.500Z]]

正久元年11月12日甲辰

([[平安時代]]頃? 誤植か、原典の誤写か?)

- [13] [CITE@ja-JP[伊勢大神宮纂記 : 正続群書類従 第3]], [[塙保己一]], [TIME[昭和4][1929]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-28T13:43:08.105Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1186799/1/20> (要登録)
-- [154] なぜか非公開にされている [TIME[2026-05-03T04:15:07.300Z]]

(同文、ということは誤植ではなく共通祖本の誤写?)

-*-*-

[6] [CITE@ja-JP[伊豆の郷土研究 第10集]], [[田文協編集委員会]], [TIME[1985.3][1985]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-28T13:30:05.781Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9539818/1/18> (要登録)

正久元年七月一八日 [[源頼家]]没

(正しくは[[元久]])

[8] [CITE@ja-JP[日本の刀剣]], [[佐藤貫一]], [TIME[1961]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-28T13:35:32.490Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2493950/1/51> (要登録)

九条家伝来の刀 正久元(1204)年

(誤植か?)

- [14] [CITE@ja-JP[石清水八幡宮史 史料 第4輯]], [[石清水八幡宮社務所]], [TIME[昭和9][1934]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-28T13:44:42.380Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1240468/1/88> (要登録)
-- [160] 
[CITE@ja-JP[石清水八幡宮史 史料 第4輯]], [[石清水八幡宮]], [TIME[1994.10][1994]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-03T04:33:13.887Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13288208/1/90?keyword=%E6%AD%A3%E4%B9%85%E5%85%83%E5%B9%B4> (要登録)


正久元年8月

[[ママ注]]あり

(近くに元久元年3月あり)

[17] [CITE@ja-JP[冬柏 11(2)]], [[冬柏発行所]], [TIME[1940-01-28]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-28T13:51:49.078Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/10987234/1/33> (要登録)

正久2年 新古今和歌集成立

(正しくは元久2年)

-*-*-

[4] [CITE@ja-JP[鎌倉国宝館図録 第3集 (彫刻篇 第3)]], [[鎌倉市教育委員会'''['''ほか''']''']], [TIME[1955]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-28T13:27:19.101Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2476561/1/33> (要登録)

霊鷲山極楽寺 正久元(1259)年 開山


[5] [CITE[霊鷲山 感応院 極楽寺 鎌倉]], [TIME[2020-07-08T12:24:34.000Z]], [TIME[2022-12-28T13:28:24.244Z]] <http://www.izumi-loc.com/kamakura/gokurakuji/index.html>

> 北条重時(ほうじょうしげとき)が良観房忍性(りょうかんぼうにんしょう)を開山(かいざん)に正元元年(1259)に創建したといいます。 




* メモ