[75] 
[DFN[嘉政]], [DFN[改政]]は、
[[江戸時代]]の[[日本]]の[[改元デマ]]です。

[63] 
[TIME[天保15(1844)年][1844]]、
[[天保]]から[[弘化]]への[[公年号]]の[[改元]]と時を同じくして出現しました。

;;
[8] 
[[江戸時代]]には同様の[[改元デマ]]が多発していました。 [SEE[ [[改元デマ]] ]]

* 用例

** [CITE[続雨夜友]]

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [121] 
[DATA(.label)[天保15年辰12月4,5日夜頃販売 小紙]]
-- [122] 
「[DATA(.text)[[V[改政]]]]」
[SRC[>>515]]
- [126] 
[DATA(.label)[弘化元年辰12月13日販売 小紙]]
-- [127]  
「[DATA(.text)[[V[弘化]]]]」
[SRC[>>515]]

]ITEMS]

[123] 
[CITE[古事類苑]]
の
[CSECTION[逸年號]]
条に、
[CITE[續雨夜友]]
より
[DFN[[CSECTION[[V[年號改元以前紛敷年號市中賣歩行候聞書]]]]]]
なる同時代的な記録と思われるものが収録されています。
[SRC[>>15]]

[124] 
[CITE[續雨夜友]]
は[[江戸時代]]の日記的な記録と思われますが、
[CITE[古事類苑]]
で2箇所が引用されているのみで、
[[国立国会図書館デジタルコレクション]]の検索および
[[Web検索]]では詳しい情報が見当たりません。

[117] 
[CITE[国立国会図書館デジタルコレクション]]
や
[CITE[Google書籍検索]]
で検索すると、いくつかの目録に
[CITE[続雨夜友]]や[CITE[続雨夜之友]]の掲載があります。
しかし全文を掲載したウェブサイトは現時点で見つけられません。
[TIME[2025-08-13T09:42:51.700Z]]

[71] 
[CITE[雨夜之友]] や文化2年序[CITE[聞書雨夜の友]]との関係も情報がありません。


-*-*-

[125] 
[[弘化]]への[[改元]]からほどなく書かれたと思われる当文章の大意は次の通りです。
[SRC[>>515]]

- [132] 文政13年寅12月16日、[[天保]]改元のお触れがあって以来、全国で使ってきた
-- [133] その頃[[年号]]についていろいろな噂もあったが、
-- [134] 「天保」の[[元号名]]が世の中にかなっていたためだろうか、
この辰年まで15年間続き、
-- [135] その間には凶作の年もあったが、天保10年亥からは全国的に豊作で、
-- [28] [[保字金銀]]、[[天保通宝]]のような[[貨幣]]も鋳造されるほど、
[[天保]]という[[元号]]は世の中にかなったものだったのだろうということで、
- [136] もっとも、[[京都]]では御代が替わられたとの話もあって、
-- [138] この夏のうちから[[改元]]があると市中ではしきりに言い立てられていたが、
何の発表もなく、
-- [137] 既に翌巳年の新暦も天保16年で許諾が下りて印刷販売されており、
- [139] ところがこの辰12月になり、
いよいよ[[改元]]があるぞと市中に噂が流れ、
-- [140] この隙に乗じて誰が思いついたのか、
12/4, 12/5 の頃、日本橋あたり、伝馬町あたり、その他あちこちで、
どこの誰かもわからぬ者2,3人が申し合わせて、
-- [141] 
夜分に提灯も持たずに、「改まった年号が四文」と言って売っており、
-- [142] 
市民は何になったのかと買ってみると、
-- [143] 
「改政」
であると見せたので、まったくいかがわしい偽物、偽の書き物であり、
もらって貼っておいた
-- [144] 
文字さえ読みづらい小紙にあるのは、「[RUBY[改政][くわいせい]]」
とでもいうのだろうか
- [145] いずれにせよ、お触れがないうちは、正しい文字だとしても用いることが出来るものではないのであり、
-- [146] 大切な[[元号]]を作りこしらえて売り歩くような者は、不届き者だという評判であった
-- [147] しかし余りのことだったためか、その時に逮捕された様子もなく、
-- [148] この先どうなるのかと、当時の風評を書き留めていたところ、
- [149] 12月13日[[弘化]]と[[改元]]のお触れがあり[[年号]]がついに決まり、
-- [150] その触書の出た夜にも、早く知った者の思いつきで、
「弘化」と書いた小紙を隅々の知らせの行き届かない場所で売ったとのこと、
-- [151] これもまた不埒なことだといっているのを聞いた


[REFS[

[FIG(quote)[ [515] [CITE[[[續雨夜友]] 五]] [SRC[>>516, >>517]]

>
[VRLBOX[
年號改元以前紛敷年號市中賣歩行候聞書

去ル文政十三寅年十二月十六日、天保與改元有[SUB[レ]]之候御觸有[SUB[レ]]之候已後、右年號國中取用罷在候處、其頃年號之儀ニ付、種々風説も有[SUB[レ]]之候得共、天保與申文字世界ニ應じ候哉、今辰年迄十五年相續キ、右年數之内凶年も有[SUB[レ]]之候得共、天保十[SUP(smaller)[亥]]年ゟ諸國豐熟ニ相成、殊更世上通用之金銀も保字金銀通用之儀被[SUB[二]]仰出[SUB[一]]、又は天保通寶當百錢も新規御吹立被[SUB[二]]仰付[SUB[一]]候程ニ而、天保與申年號者世界ニ應じ候哉之由、尤京都者御代被[SUB[レ]]爲[SUB[レ]]替候由取沙汰有[SUB[レ]]之候故、當夏中より年號改元可[SUB[レ]]有[SUB[レ]]之旨、市中專ラ申觸シ候得共、何之御沙汰も無[SUB[レ]]之、旣ニ來ル巳年新暦も天保十六年與御免有[SUB[レ]]之、新暦開板ニ而賣出し候、然ル處當辰十二月ニ相成、彌年號改元有[SUB[レ]]之趣市中へ流申觸し候、右虚ニ乘じ、何者之存付ニ候哉、同月四日五日之頃、日本橋邊、傳馬町邊、其外辻々ニ而名住所不[SUB[レ]]知もの兩三人宛申合、夜分無挑灯ニ而、改まつた年號が四文與申立賣致候處、市中之者何と相成候哉與買候處、[RUBY[改][○]][RUBY[政][○]]之由爲[SUB[レ]]見候ニ付、全如何之贋物僞筆ニ付、貰ひ張置候、文字さへもよみ兼候小紙ニ有[SUB[レ]]之者、[RUBY[改][クワイ]][RUBY[政][セイ]]にも可[SUB[レ]]有[SUB[レ]]之哉、迚も御觸無[SUB[レ]]之内者正字ニ候共可[SUB[レ]]用儀ニ無[SUB[レ]]之處、太切之年號取拵もの賣歩行候と申者、不屆なる者之由風説有[SUB[レ]]之候、乍[SUB[レ]]然餘リ之事故歟、其節御捕ニ相成候樣子も不[SUB[レ]]承候、此上如何可[SUB[レ]]有[SUB[レ]]之哉與、其頃之風評書留候處、十二月十三日弘化與改元有[SUB[レ]]之旨御觸ニ而、年號彌治定致候、右御觸書出候夜も、早く承候もの之思ひ付ニ而、弘化與認申小紙、端々ニ而未ダ行屆不[SUB[レ]]申場所賣候由、是以不埒成由申候を承候、

]VRLBOX]

]FIG]

[FIG(quote)[ [522] [CITE[[[續雨夜友]] 五]] [SRC[>>516, >>521]]

>
[VRLBOX[

天保十五辰年十二月十三日、年號攺元御觸寫、

[BOX(indent)[
覺
]BOX]

年號弘化[SUP(smaller)[與]]改元被[SUB[二]]仰出[SUB[一]]候間、此旨町中不[SUB[レ]]殘可[SUB[二]]相觸[SUB[一]]候、

[BOX(indent)[

[BOX(set)[
[BOX(left)[
十二月十三日
]BOX]

[BOX(right)[
[SUP(smaller)[町年寄]]役所
]BOX]
]BOX]

]BOX]

譯書曰、右御觸出候ニ付、町中一統[SUP(smaller)[江]]觸達し、同日ゟ[RUBY[弘][コウ]][RUBY[化][クワ]]元年と相唱候、尤武家方并諸國[SUP(smaller)[江]]も夫々御觸相廻り候事、

]VRLBOX]

]FIG]

- [516] 
[CITE@ja-JP[[[古事類苑]] 歳時部2]], [[神宮司庁古事類苑出版事務所]], [TIME['''['''明41''']'''][1908]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-09-11T05:30:28.538Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/897572/1/112?keyword=%E6%94%B9%E6%94%BF>
- [521] 
[CITE@ja[歳時部/年號上 - [[Kojiruien]]]], [TIME[2026-09-11T05:36:41.000Z]] <https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E6%AD%B3%E6%99%82%E9%83%A8/%E5%B9%B4%E8%99%9F%E4%B8%8A#content_1_2146>
- [517] 
[CITE@ja[歳時部/年號下〈逸年號併入〉 - [[Kojiruien]]]], [TIME[2026-09-11T05:30:38.000Z]] <https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E6%AD%B3%E6%99%82%E9%83%A8/%E5%B9%B4%E8%99%9F%E4%B8%8B%E3%80%88%E9%80%B8%E5%B9%B4%E8%99%9F%E4%BD%B5%E5%85%A5%E3%80%89#content_1_354>

]REFS]


** [CITE[藤岡屋日記]]

[ITEMS[ [[日時事例]]

-[129] 
[DATA(.label)[天保15年辰12月6日販売 小紙]]
-- [130]  
「[DATA(.text)[[V[嘉政]]]]」
[SRC[>>106]]

]ITEMS]

[168] 
[CITE[藤岡屋日記]]
は、
[[藤岡屋由蔵]]
[WEAK[([TIME[寛政5(1793)年][1793]] - ?)]]
による[[日記]]で、
[[江戸]]市中の諸事件の情報が記録されています。

[169] 
[[藤岡屋由蔵]]は[[日本]][[武蔵国]][[江戸]][[神田]] (現在の[[秋葉原]]付近)
を拠点とした商人でしたが、[[情報屋]]として武家などに情報を販売していました。

[111] 
[CITE[藤岡屋日記]]
はこの時代の貴重で信頼できる史料として扱われています。
「嘉政」の事件も具体的な描写で、
これといって疑わしい点はありません。




[REFS[

- [106] 
[CITE[[[藤岡屋日記]]]]
-- [105] 
[CITE@ja-JP[[[日本都市生活史料集成]] 2 (三都篇 2)]], [[原田伴彦 '''['''等''']'''編集代表]], [TIME[1977.10][1977]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-03-16T03:55:10.859Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12282160/1/246> (要登録)
---
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[102] 
[CITE[[[日本都市生活史料集成]]: 三都篇 - [[Google ブックス]]]], [TIME[2022-12-22T09:41:05.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=b_M3AAAAMAAJ&dq=%E5%98%89%E6%94%BF>
]FIGCAPTION]

>485 ページ
>泰明院樣御法事紀付為伺御機煉、溜誌、高家、誌架、御奏者番登城、於席之認老中。一越前守不快忆付今日登城無之、尤見舞断。 1 今日より年号替りましたと市中を売あるくなり。小サキ紙に
嘉政と書付壱枚四文宛に売也。八日に弐人召捕茅場町大番屋江揚る也。追~六人迄召捕るゝ(改)也。先年天保政元の句も、年号永長と書付売あるき召捕るゝ也。十二月八日一御忌御日数中心付、上野俊明院樣、慈德院樣御靈前江御名代無之。


]FIG]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[103] 
[CITE[[[藤岡屋日記]] - Google ブックス]], [TIME[2022-12-22T09:37:26.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?newbks=1&newbks_redir=0&hl=ja&id=zSWNAAAAIAAJ&dq=%E6%B0%B8%E9%95%B7>
]FIGCAPTION]

>462 ページ
>... なり、小サキ紙嘉政と書付、一御據中為何御機煉、尾張殿·水戶殿始想出仕有之、於席、認老中。专枚四文宛二充也。一右同断二付、紀伊殿并御隐居方上的使者被差出之、於题踢間、謁八日二式人召捕、茅場町大番屋江揚儿也、追六人迄召捕石 A 也、先老中。年天保改元之も、年号永長と書付、売あるき召捕るゝ也。 0 十二月八日青蓮院蝦葬送、上野凌雲院江出儿也、文恭院樣御安市石 5 段也。一御忌御日数中二付、上野没明院樣:慈德院樣御靈前江御名代無之。 o 同六日御法事中二付、今朝增上寺泰明院樣御位牌所江 ...

]FIG]


]REFS]



* 諸説

** 経緯

[65] 
[[弘化]]度の[[改元]]と[[改元デマ]]の経緯は次の通りです。

= [29] [TIME[天保15(1844)年5月10日][kyuureki:1844-05-10]]、
[[日本]][[武蔵国]][[江戸]]の[[江戸城]]で火災が発生
[SRC[>>23, >>41]]
= [42] [TIME[天保15(1844)年5月18日][kyuureki:1844-05-18]]、
[[朝廷]]に[[江戸城]]火災の旨が到達
[SRC[>>41]]
= [30] [TIME[天保15(1844)年5月20日][kyuureki:1844-05-20]]、
[[朝廷]]で[[江戸城]]火災を理由に[[改元]]を協議
[SRC[>>41]]
= [43] [TIME[天保15(1844)年5月21日][kyuureki:1844-05-21]]、
[[武家伝奏]]と[[京都所司代]]で[[江戸城]]火災を理由に[[改元]]を協議
[SRC[>>41]]
= [157] 
[TIME[天保15(1844)年5月27日][kyuureki:1844-05-27]]、
[[関白]]と[[武家伝奏]]で[[仁孝天皇]]の[[譲位]]を協議
[SRC[>>156]]
= [158] 
[TIME[天保15(1844)年][1844]]夏、
[[江戸]]市中で、[[京都]]で[[皇位継承]]のため[[改元]]があるとの噂
(>>136)
= [31] [TIME[天保15(1844)年7月3日][kyuureki:1844-07-03]]、
[[朝廷]]に[[江戸幕府]]から[[改元]]実施に同意の旨返答される
[SRC[>>41]]
= [44] [TIME[天保15(1844)年7月11日][kyuureki:1844-07-11]]、
[[朝廷]]で[[改元]]を[TIME[天保15(1844)年][1844]][[冬]]に行う方針がまとまる
[SRC[>>41]]
= [45] [TIME[天保15(1844)年7月15日][kyuureki:1844-07-15]]、
[[関白]][[鷹司政通]]は[[武家伝奏]][[日野資愛]]に[[改元]]を[TIME[天保15(1844)年][1844]][[冬]]に行う旨[[京都所司代]]に伝達することを指示
[SRC[>>41]]
= [46] [TIME[天保15(1844)年7月18日][kyuureki:1844-07-18]]、
[[武家伝奏]][[日野資愛]]から[[京都所司代]]に[[改元]]を[TIME[天保15(1844)年][1844]][[冬]]に行う旨伝達
[SRC[>>41]]
= [47] [[幕府]]の同意
[SRC[>>41]]
= [32] [TIME[天保15(1844)年9月22日][kyuureki:1844-09-22]]、
[[朝廷]]内で[[改元]]実施を発表
[SRC[>>23, >>41]]
-- [49] [[勘者宣下]]を11月上旬に実施 [SRC[>>41]]
-- [48] [[改元]]を11月下旬から12月上旬に実施 [SRC[>>41]]
-- [50] [[一会伝送]] [[広橋基豊]] [SRC[>>41]]
-- [51] [[奉行]] [[烏丸光政]] [SRC[>>41]]
= [52] [[武家伝奏]]は[[京都所司代]]に伝達
[SRC[>>41]]
= [76] 
[[朝廷]]に提出された新元号案:
弘化、嘉德、万安、万延、文久、嘉永、嘉延、
万和、嘉政、永寧、大暦、嘉享、天秩、寛安、大寛、和平、享安
[SRC[>>75]]
= [34] [[朝廷]]で7候補 (弘化、嘉德、万安、万延、文久、嘉永、嘉延) を決定
[SRC[>>23]]
= [53] [TIME[天保15(1844)年10月11日][kyuureki:1844-10-11]]、
[[朝廷]]は[[元号]]案を[[江戸幕府]]に提示する書付を作成
[SRC[>>41]]
= [54] [TIME[天保15(1844)年10月13日][kyuureki:1844-10-13]]、
[[武家伝奏]]の[[徳大寺実堅]]と[[日野資愛]]は[[京都所司代]]の[[酒井忠義]]に新元号案を伝達
[SRC[>>41]]
-- [55] 7候補
--- [35] [[嘉德]]と[[弘化]]から選ぶよう指定
[SRC[>>23, >>41]]
--- [56] 特に[[弘化]]を推す
[SRC[>>41]]
--- [36] 但し、[[嘉德]]も良い案である
[SRC[>>23]]
--- [57] それ以外でも遠慮しなくていい
[SRC[>>23, >>41]]
-- [58] 
[[改元日]]を[TIME[天保15(1844)年12月2日][kyuureki:1844-12-02]]としたい
[SRC[>>41]]
---[66] 
返答を[TIME[天保15(1844)年11月20日][kyuureki:1844-11-20]]までに望む
[SRC[>>41]]
= [159] 
[TIME[天保15(1844)年10月30日][kyuureki:1844-10-30]]、
[[関白]]と[[東坊城聡長]]で[[仁孝天皇]]の[[譲位]]断念の協議
[SRC[>>156]]
= [33] [TIME[天保15(1844)年11月4日][kyuureki:1844-11-04]]、
[[朝廷]]は[[改元定]]を[TIME[天保15(1844)年12月2日][kyuureki:1844-12-02]]実施と決定、
[[武家伝奏]]から[[京都所司代]]に伝達
[SRC[>>23]]
--
;; [67] >>13, >>14 と整合しないがどういうことか?
= [37] [[江戸幕府]]は[[弘化]]がよいと返答
[SRC[>>23, >>41]]
= [59] [TIME[天保15(1844)年11月18日][kyuureki:1844-11-18]]、
[[京都所司代]]は[[改元日]]を[TIME[天保15(1844)年12月2日][kyuureki:1844-12-02]]でも延期でもよいと[[江戸幕府]]の返答を伝達
[SRC[>>41]]
= [60] [TIME[天保15(1844)年11月20日][kyuureki:1844-11-20]]、
[[朝廷]]は[[改元日]]を[TIME[天保15(1844)年12月2日][kyuureki:1844-12-02]]に決定と[[京都所司代]]に伝達
[SRC[>>41]]
= [152] この頃、
天保16年曆が発売 (>>137)
= [38] [TIME[天保15(1844)年12月2日][kyuureki:1844-12-02]]、
[[改元日]]。[[朝廷]]は[[改元定]]にて[[弘化]]と決定
[SRC[>>23]]
-- [39] [[京都所司代]]は[[改元定]]を見聞の後、新元号の書付を渡される。
[SRC[>>23]]
= [160] 
[TIME[天保15(1844)年][1844]]12月、
[[江戸]]市中でいよいよ[[改元]]との噂
(>>139)
=
[153] 
[TIME[天保15(1844)年12月4日][kyuureki:1844-12-04]]・5日の夜、
[[江戸]][[日本橋]]・[[伝馬町]]などで、
正体不明のグループが提灯も持たずに、
小さな紙に「改政」と書き付けて、
「改まった年号が四文」
と言って売っていました。
(>>140)
=
[26] 
[TIME[天保15(1844)年12月6日][kyuureki:1844-12-06]]、
[[江戸]]で、
「今日より年号替りました」
と市中を売り歩く者がありました。
小さな紙に「嘉政」と書き付けてあり、
1枚4[[文]]でした。
[SRC[>>105]]
--
[68] 
この事件では8人 [SRC[>>23]] ないし6人 [SRC[>>64]] 逮捕され[[入牢]]しました。
[SRC[>>40 p.599 ([CITE[藤岡屋日記]]), >>64]]
--- [108] これは >>104 と >>107 を指します。
>>104 の2人が >>107 の6人に含まれるか含まれないかで2説あるようです。
--
;; [109] 
[CITE[藤岡屋日記]]
の筆者は購入したのでしょうか、それとも購入した人から「嘉政」
と書かれていたと聞いたのでしょうか。
=
[104] 
[TIME[天保15(1844)年12月8日][kyuureki:1844-12-08]]、
[TIME[天保15(1844)年12月6日][kyuureki:1844-12-06]]に「嘉政」
を売り歩いた2人が[[逮捕]]され[[茅場町大番屋]]に勾留されました。
[SRC[>>105]]
=
[107] 
その後、
[TIME[天保15(1844)年12月6日][kyuureki:1844-12-06]]に「嘉政」
を売り歩いた6人が[[逮捕]]されました。
[SRC[>>105]]
--
;;
[110] 
[CITE[藤岡屋日記]]の12月6日条 (12月8日条の前)
にこの後日談まで書かれています。
後からまとめたのか追記したのかはわかりませんが、
12月6日条のすべてを12月6日に書いたわけではないということです。
= 
[62] 
[TIME[天保15(1844)年12月13日 = 弘化元年12月13日][kyuureki:1844-12-13]]、
[[江戸城]]において新[[元号]]が発表され、
[[江戸]]において[[施行]]されました。
諸藩国元へと送付されました。
[SRC[>>61]]
=
[154] 
[TIME[弘化元(1844)年12月13日][kyuureki:1844-12-13]]、
[[江戸]]市中へ[[弘化]]改元の[[触れ]]がありました (>>150)。
=
[155] 
[TIME[弘化元(1844)年12月13日][kyuureki:1844-12-13]]、
[[江戸]]で「弘化」の書き付けを販売した者がいました (>>150)。
=
[162] 
[TIME[弘化元(1844)年][1844]]12月頃、
現在の[[日本国]][[新潟県]][[新潟市]]では、 
[[改元]]されたとの噂がありましたが、 触がまだありませんでした。
[SRC[>>161]]
[NOTE[

[163] 
12月朔日から晦日までの記事の後にこの記事があります。 [SRC[>>161]]

]NOTE]

;; [95] 
有料で配って回る商売が成り立っていたということは、
お金を払ってもすぐに新元号情報がほしいと思った人がそれなりにいるということです。


[72] 
このスケジュールを見るとわかる通り、
[[朝廷]]と[[江戸幕府]]は[[天保]]から[[弘化]]への[[改元手続き]]を進めていました。
その最終段階で、[[朝廷]]で新元号が正式決定した後、
[[江戸幕府]]が新元号を公布する直前というタイミングで、
誤った改元情報が流布されました。

[164] 
[[江戸]]市中には、[[皇位継承]]の動きがあることが噂として届き、
それが[[改元]]の契機と認識されていることにも注意が必要です。
[[仁孝天皇]]の[[譲位]]は結局実現しませんでしたが、
その意向の表明が、当時どの程度の機密性で扱われたかは不明であるものの、
一般の国民の知る所となっていることは、[[改元]]に関する情報管理と直接関係しないものの、
当時の情報環境を知るうえで重要でしょう。

[165] 
現在知られている限りの関係者の動きと時系列によれば、
[[改元]]は[[譲位]]と全く別箇に進んでいた案件です。

[119] 
いざ[[改元]]となった折にも、正式な発表や具体的な新[[元号]]の情報より先に、
[[改元]]がいよいよ行われるとの情報が[[江戸]]にも[[越後]]にも伝わっていることにも注意されます。
記録がない (または未だ知られていない) だけで、他の諸国にも同様に伝わっていた可能性はあります。


[166] 
実際に流通したと記録が残る[[改元デマ]]は[[改政]]と[[嘉政]]の2系統があります。
両者は文字だけでなく、流布されたとされる日と販売者の身柄についての経過も異なります。
どちらかが不正確なのか、どちらも正確なのかは検討の余地があります。

[167] 
が、大きな流れはよく整合しており、同じ現象の部分部分を異なる観測者が記述したものと考えて良いでしょう。

[171] 
[CITE[続雨夜友]]は[[日本橋]]や[[伝馬町]]と具体的な地名を出しており、
しかも夜分の出来事も記述しており、その近辺で生活しながら仕入れた情報と考えられます。

[170] 
[CITE[藤岡屋日記]]の著者は[[神田]]を拠点に活動していましたから、
その方面の情報と考えられますが、情報屋であり広範囲の情報を仕入れられた可能性もあります。


[REFS[

- [161] 
[CITE@ja-JP[[[新潟市史]] 資料編 3 近世 2]], [[新潟市史編さん近世史部会]], [TIME[1992.3][1992]], [TIME[2026-01-20T01:30:11.000Z]], [TIME[2026-02-13T06:58:54.584Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13229749/1/312?keyword=%E5%B9%B4%E8%99%9F> (要登録)
- [156] 
[TIME[2026-09-11T07:33:25.300Z]]
<https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/server/api/core/bitstreams/9df03ba9-330d-4ef4-9a12-6e3a1c6682c8/content>
#page=11

]REFS]

** 発生

[77] 
当時の[[朝廷]]や[[幕府]]の情報管理がどのようなものだったか詳しくはわかりませんが、
[[改元]]に向けて準備している情報を半年間まったく外部に漏らさずに進められたか、
といえば疑わしいですし、秘匿する必要があることとも思えません。
[[改元]]が行われる、ということは社会の共通認識というほどではないかもしれませんが、
[[江戸]]の一般市民でそろそろ[[改元]]がありそうだ、と知っていた人はいたと考えていいのではないでしょうか。

;; [83] まったくの偶然で時期が重なった可能性も皆無ではありませんが、
偶然にしては良く出来すぎています。
[[代始改元]]なら予測もし易いですが、[[江戸城]]火災理由の[[改元]]の前例は多くありません。

[78] 
[[改元日]]が[TIME[天保15(1844)年12月2日][kyuureki:1844-12-02]]に決まったこと、
[[江戸城]]での新元号披露が[TIME[天保15(1844)年12月13日][kyuureki:1844-12-13]]に行われること、
新元号が[[弘化]]であること、
が事前にどれだけの人に知られていたのかもよくわかりません。
しかし[[朝廷]]での[[改元日]]は一般市民にとってさほど重要ではない情報だと思われますし、
[[江戸城]]での披露の日は[[朝廷]]の[[改元日]]ほどかっちりスケジュールを組まれているイメージもありません。
(イメージだけで裏付け資料はありませんが...)
[[冬]]頃に[[改元]]があるらしい、ということくらいは広まっていたとしても、
厳密な日取りまで知っている人はあまりいなかったのかもしれません。


[11] 
当時の[[京都]]と[[江戸]]の間の情報伝達は1週間程度、早ければ3日程とされます。
[TIME[天保15(1844)年12月2日][kyuureki:1844-12-02]]に決定した新元号の情報が[TIME[天保15(1844)年12月6日][kyuureki:1844-12-06]]に[[江戸]]に到達していたかどうかは、
微妙なラインです。
また、[[京都]]でも[[朝廷]]が直接一般市民に新元号を発表するわけではないでしょうし
[WEAK[([[公家]]から一般市民へと伝わることはあるでしょうが。)]]、
一般市民が独自に[[京都]]から[[江戸]]に速報で知らせる動機も考えにくいです
[WEAK[(速報といってもこの時代に公式ルートより早く[[江戸]]につくことはないでしょうし。)]]。
従って[[嘉政]]は新元号が正式に決定した[[改元日]]かそれ以後に[[京都]]から伝わった情報では''ない''可能性が高いということになります。

[79] 
といっても[[江戸幕府]]幹部はそれ以前の段階から決定に関わっていたので、
新元号が[[弘化]]であることは元々知っています。
また、
決定案以外の最終候補6案も[[朝廷]]から提示されています。
ただ、計7案以外の案を知っていたのかは不明です。
[[嘉政]]は7案には含まれていません。
ですので[[弘化]]度の候補だった[[嘉政]]が[[江戸]]で一般市民に伝わった可能性は低いのではないでしょうか。


[12] 
ということで、

- [80] [[弘化]]度の早い時期で落選した「嘉政」が[[京都]]の[[公家]]からなんやかんやで[[江戸]]まで届いた
- [81] 過去に落選した「嘉政」が何らかの理由で[[弘化]]度の新元号案と誤認された
- [84]  
他の候補である[[嘉德]]、[[嘉永]]、[[嘉延]]が何らかの理由で誤って「嘉政」
として伝わり[[弘化]]度の新元号案と誤認された
- [82] [[公年号]]案と無関係に誰かが考案した「嘉政」が何らかの理由で[[弘化]]度の新元号案と誤認された

といった可能性が考えられます。


[14] 不採用案から発生した[[改元デマ]]事案は何度かあります。
有力でもない候補が誤認されるのは不思議ですが、
他の事案でも実際そういうことが起こっているので、
可能性はあります。
[SEE[ [[改元デマ]] ]]

;; [85] 当時の未決定元号案が秘密情報だったのかはわかりませんが、
有力候補ほど上層部で慎重に扱われていると思われる一方、
不採用が決定した案はもはや重要な情報でもないので粗雑に扱われるような感じなのでしょうか。

[70] 
[[嘉政]]はこの前後の時期に何度も新元号案として提出されていました
[SRC[>>64]]
[SEE[ [[嘉政]] ]]。
既に世に出ていた過去の候補が[[弘化]]度の[[改元]]の動きに触発されて発掘されて誤解されて噂になった、
という可能性もあるのかもしれません。


[13] 
[[嘉政]]のうち[CH[政]]は[[天保]]の前の[[文政]]、そのしばらく前の[[寛政]]で使われていて、
当時の人にとって[[元号]]でいかにも使われそうな[[文字]]だったと思われます。
何らかの理由で独自の[[元号]]を作った人が[CH[政]]を使うというのも、
考えられないことではありません。

[87] 
他の候補が誤解されて[CH[政]]になったという可能性はどうでしょう。
どの候補の2文字目も[CH[政]]とは[[字形]]も[[音]]もあまり似ていません。
強いて言えば[CH[延]]の[[字形]]が似ることは考えてみてもいいのかもしれませんが...


[86] 
[CH[嘉]]は次の[[嘉永]]が[[江戸時代]]で唯一で、前は[[嘉吉]]まで遡ります。
[[江戸時代]]の一般人も歴史知識がある人は知っていたかもしれませんが、
[[元号名]]としてあまり馴染みがない[[文字]]だったかもしれません。
この時期の新元号案の候補にはしばしば使われているので、
[[京都]]の[[公家]] (のうち新元号の提案に関わる人々) 
の流行だったのかもしれませんが、
[[江戸]]で勝手に独自の新元号を作る人 (がいたとして。) にとっても使いたい文字だったかは疑問が残ります。


[88] 
以上まとめると新元号案だった「嘉政」がデマ化した可能性が (消去法で) 
最も高いと思われますが、物証はなく、
新元号案がどのような経路でデマとなったのか、
疑問は残ります。

** 伝播

[96] 
当時の[[江戸]]では[[合棟乞食]]が信憑性の疑わしい情報も含めて様々な情報を伝えていました。
[SRC[>>20]]
現在の[[ゴシップ誌]]に相当するような[[媒体]]でしょうか。

[97] 
[[合棟乞食]]は[[改元]]の情報も伝えており、
[[嘉政]]もその1つだったと考えられているようです。
[SRC[>>20, >>21]]
これが個別具体的な根拠あってのことなのか、
他の同様の情報伝達や事件と同様にそうであろうという推測なのかはよくわかりません。

[101] 
[[合棟乞食]]グループが自ら取材して入手した情報なのか、
どこか誰かから伝わった噂を広めたに過ぎないのかは検証が必要です。

-*-*-

[98] 
役人が新元号を[[嘉政]]とするべきかと協議しているのを、
[[合棟乞食]]の[[親方]]の[[仁太夫]]が聞きつけて[[スクープ]]したため、
先に報じられた[[嘉政]]を避けて別のものに変えたのだ、
とする説があります。
[SRC[>>21]]

[99] 
これが何を根拠とする説なのかは不明です。
[[改元手続き]]の時系列をみればこの説が成り立ち得ないのは明らかです。

;; [100] 
なぜか[[改元デマ]]にはこのような「漏れたから差し替え」説が[[近現代]]に出現しがちです。
[SEE[ [[改元デマ]] ]]


** 利用

[128] 
[[嘉政]]・[[改政]]の同時代的な用例は、これまで全く報告されていません。


;; [131] 
他の[[改元デマ]]では、
[[嘘情報][改元デマ]]を信じて使った事例も伝わっています。
[SEE[ [[改元デマ]] ]]
[[嘉政]]も「今日から」との触れ込みで伝えられた [SRC[>>64]]
というのですから、
その日のうちに使った人もいたかもしれません。


** 評価

[1] 
このような嘘改元情報の出現を政治への不満を背景にしたものとする説があります。
[SRC[>>40 p.599 ([CITE[藤岡屋日記]]), >>64, >>15]]

[69] 
歴史研究者の[[吉野健一]]は、
[[庶民]]に[[改元]]で新時代を期待する願望があったと解説しています。
[SRC[>>15]]
また、[[改元伝達]]の時間差の最中に起きた事件で、
[[改元]]が為政者の論理だけでなく世間の[[改元]]待望論と連動していたことを示唆しているとの解説もあります。
[SRC[>>64]]


[7] 
>>1 この推測の理由は明記されていませんが、
[[元号]]を偽造するという事自体や、
「嘉政」
という[[元号名]]からでしょうか。


[89] 
[[私年号]]と同じで[[改元デマ]]も

- [90] [[元号]]を作った人 (意図的に作られたものだとすると)
- [91] [[元号]]情報を流布した人
- [92] [[元号]]情報を受けとった一般市民
- [93] [[元号]]情報を流布した人を取り締まる政府機関

のそれぞれの思惑があるはずで、
いつ誰が何を考えてどう行動したのかを明らかにしないままでの雑な評価は実態を見誤る危険があります。

[94] 
「政治への不満」
が理由だといっても
「政治に不満があるのでそれを表現する嘘元号を作った」
と
「政治に不満があるので新元号を政府よりも早く流通させようとした」
と
「政治に不満があるので新元号情報が非正規ルートから届いても受け入れた」
とでは話がまったく変わってきます。







* 研究史

[118] 
[[明治時代]]の[[類書]]
[CITE[古事類苑]]
は、
[[逸年号]]条に
[CITE[続雨夜友]]
を収録しました。
(>>123)




-*-*-

[10] 
[TIME[昭和37(1962)年][1962]]の概説書に、
[[偽年号]]の1例として[[元号名]]が示されています (>>2)。
[SRC[>>1]]

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [3] 
[CITE(.label)[[V[日本の改元]]]],
[DATA(.author)[[[[V[大島延次郎]]]]]],
[TIME(.published)[昭和37(1962)年][1962]]
-- [2] 
「[V[結局、泰平が院政時代に起ってから、信友があげた文徳から永覚まで十四年号あったが、これまた総てを尽したもの[BR[]]でなく、その他に天靖・大道・永福・宝寿・改政・延寿・永然等二十を越えている。]]」
[SRC[>>1]]

]ITEMS]

[4] 
[[著者]]の[[大島延次郎]] 
[WEAK[([TIME[明治27(1894)年][1894]] - [TIME[昭和48(1973)年][1973]])]]
は、
[[東北大学]]所属の[[歴史研究者]]で、専門は[[日本交通史]]。

[5] 
当[[論文]]は[[日本の元号]]の概説で、[[元号]]に関する幅広い方面の基礎的知識が紹介されており、
>>2
はそのうち[[偽年号]]を説明する部分です。

[6] 
当[[論文]]は、昭和37年当時の歴史辞典の類で構成可能な一般的事項で構成されています。
[[大島延次郎]]に[[元号]]関連の業績は見当たらず、独自の研究成果と思しき内容は含まれていません。

[7] 
なお >>2 が[[伴信友]]が挙げたとして参照しているのは[CITE[長等の山風]]所収[CSECTION[[[年号の論]]]]。

[9] 
「その他」として挙げられた[[元号]]は、[CITE[古事類苑]]が収集したものから[[伴信友]]が挙げたものを除外した残りと似ています。
[[昭和時代]]中期までの既知の辞典類等で、[[改政]]を掲載したものは他に知られていません。
よって[CITE[古事類苑]]がこの部分の情報源の可能性が高そうです。
[SRC[>>13]]

[REFS[

-
[1] [CITE@ja-JP[石田・和田・竜・山中四先生頌寿記念史学論文集]], [[頌寿記念論文集刊行委員会]], [TIME[1962]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-08-20T04:17:41.862Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3006676/1/239?keyword=改政> (要登録)
- [13] [[日本私年号一覧表]]

]REFS]



-*-*-


[114] 
[TIME[昭和54(1979)年][1979]]の研究で[[嘉政]]が若干触れられています。
[SEE[ [[改元デマ]] ]]

[112] 
[[平成時代]]後期の
[CITE[日本年号史大事典]]
のコラムで[[嘉政]]が紹介されています。
[SRC[>>40]]


[REFS[

- [61] 
[CITE[[[弘前藩日記]]]]
- [27] 
[CITE@ja-jp[江戸の下層社会 | 塩見 鮮一郎, 朝野新聞 |本 | 通販 | [[Amazon]]]],
1993/2/15,
[TIME[2024-03-14T03:29:16.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4750304883/wakaba1-22/>
-- [16] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「【本棚登録】『江戸の下層社会』塩見 鮮一郎 https://t.co/1k3HlXaJ3G #booklog」 / [[X]]]], [TIME[午後9:30 · 2017年2月24日][2017-02-24T12:30:02.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/835104497256914944>
--
[25] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「さて乞食(本書では「乞丐」表記)といえば人家の前や街頭で食べ物を乞い求める個人であるが、江戸時代の乞食はまず親方なるものがいて、乞食たちを支配して物乞いできる区域を定めていた。したがってこの親方乞食もその生計は決して苦しくはなかった。」 / [[X]]]], [TIME[午後10:14 · 2017年3月3日][2017-03-03T13:14:15.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/837652339930472449>
--
[24] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「また乞食の中にも「合棟乞食」と「カブリ乞食」があって、親方も振舞いも異なり交際もなかった。合棟乞食は浅草、両国などにまとまって作られた長屋に集まり、お払いの真似事のような大道芸(独り相撲、願人坊主、阿房陀羅経など)を生業とし合棟の仁太夫を親方とした。」 / [[X]]]], [TIME[午後10:14 · 2017年3月3日][2017-03-03T13:14:31.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/837652405713936384>
-- [17] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「江戸時代の被差別階級に「穢多」「非人」があり、その呼称はよく知られているが実態については正直あまり知らなかった。「朝野新聞」という新聞に明治25年に連載された江戸時代についての記事から、下層社会に関するものを集めた本書からお勉強。」 / X]], [TIME[午後9:40 · 2017年2月24日][2017-02-24T12:40:19.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/835107085129936896>
-- [18] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「合棟乞食は、いわゆる香具師を起源とするらしく、薬売りが人々の気を引くために道化をし、その木戸銭を乞いつつ薬の営業をしていたという。香具師が廃れた後もその芝居芸で金銭を請うのである。」 / X]], [TIME[午後10:33 · 2017年3月6日][2017-03-06T13:33:31.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/838744352113319936>
-- [19] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「多くは大道芸のようなものであったが、興味深い業態として知らせ役、つまり新聞屋がある。火事と喧嘩は江戸の華とあるように、どこそこで火事があると、仁太夫は現場に人をやり、どの方向へ延焼しているなんて事を瓦版よりも早く知らせた。」 / X]], [TIME[午後10:33 · 2017年3月6日][2017-03-06T13:33:49.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/838744428743254016>
-- [20] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「他にも祭礼の状況、敵討ちがあればその実況、年号が改まれば新年号を、役人の異動があれば新旧の人名を伝えた。瓦版が新聞紙であれば、仁太夫は新聞記者とも言える。ただ正確性には難ありで、興味を引くために拙速で、誤報も多かった。」 / X]], [TIME[午後10:34 · 2017年3月6日][2017-03-06T13:34:00.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/838744475362942977>
-- [21] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「天保から弘化に改元した天保15年、「新年号は嘉政」と書き付けた紙を一枚四文で売り歩いた行商人が逮捕された。実は役人が新年号を「嘉政」とすべきか協議しているのを仁太夫が聞きつけてスクープしたのであるが、報道が早すぎて年号を別のものに変えたのである。」 / X]], [TIME[午後10:34 · 2017年3月6日][2017-03-06T13:34:11.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/838744522393694209>
-- [22] [CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「合棟乞食は廃物をリサイクルしたり、社会風刺の歌を歌ったり、狂言や踊りを演じたりと、一応は「乞食」に分類されていても、その実態は単なる物乞いではなく、今ではれっきとした職業とされているものも多い。」 / X]], [TIME[午後10:34 · 2017年3月6日][2017-03-06T13:34:21.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/838744561480421377>
- [41] 
[CITE@ja-JP[朝廷運営と近世朝幕関係]], [[久保貴子]], [TIME[1997]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-03-14T11:27:49.576Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3136730/1/251> (要登録)
- [40] [CITE[[[日本年号史大事典]]]] 普及版
-- [23] [CSECTION[[V[弘化]]]]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[15] [CITE@ja[庶民の世論が影響? 江戸時代の改元|[[日経BizGate]]]],
[[日本経済新聞社]], [TIME[2019-04-04 13:51:11 +09:00]],
<https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO4285708025032019000000?channel=DF150320194919&page=2>
]FIGCAPTION]

> 享和4年(1804年)に「文化」に代わる直前には「元明」と改元されたと売り歩いた者がいたという。文化14年(1817年)には改元していないのに「永長」(実際は翌年に「文政」)を、天保15年(44年)には「嘉政」(実際は翌年に「弘化」)と書いて売るなどのケースが続いた。吉野氏は「幕府はニセ元号に神経をとがらせ、どのケースも犯人を入牢や追放の処分にした」という。
>  特に「嘉政」は当時の幕政への不満も背景にあったようだ。吉野氏は「日常で元号を利用しながら生活している庶民に、改元で新時代を期待する願望があった」と話す。

]FIG]

;; [73] [TIME[天保15(1844)年][1844]]と[[弘化]]元年は同じ年。「翌年」は誤り。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[64] 
[CITE[[L[平成 30 年度(第 7 回)県立図書館・公文書館合同展示(平成 31 年 2 月 1 日~3 月 31 日)[BR[]]「改元漫遊」[BR[]]その1:江戸期の改元、または、改元あ・ら・かると Part1&2 [BR[]]解説パンフレット]]]],
Ver1.2_20190210,
[TIME[2022-12-21T14:30:58.000Z]], [TIME[2022-12-21T14:41:09.755Z]] <https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1552954521928/simple/2018_kaigen_pamphlet.pdf#page=18>
]FIGCAPTION]

>
[LEFT[
天保 15(1845)年の師走、江戸で改元に関する偽の情報が流れるという事件が起こりました。『藤岡[BR[]]
屋日記』の同年 12 月6日条によれば

>
今日から年号が替わりました、と紙切れに「嘉政」と書いて1枚4文で売[BR[]]
り歩いた輩がおり、都合6人が捕縛されたという。また、去る天保改元の[BR[]]
時も「永長」と書いた紙を売り歩いた事件があったとのこと[BR[]]

といったものでした。

[SNIP[]]

改元の時間差の最中に起きたこの事件は、改元が単に為政者の論理で行われるものではなく、世の中[BR[]]
の改元待望論とでもいうべきものと連動していた事を示唆している、と見ることも出来そうです。また、[BR[]]
偽の元号として流布された「嘉政」は、実際に元号に採用されたことこそ無いものの、文化・文政・弘[BR[]]
化・嘉永の各改元で元号候補として挙がったものであることも興味深い点です。

]LEFT]

]FIG]

;; [74] 
[TIME[天保15年は西暦1844年][1844]]。
天保15年12月の全体が[[グレゴリオ暦]]の[TIME[西暦1845年][1845]]に含まれるための[[誤り][暦の換算]]か。


]REFS]




-*-*-

[120] 
[[令和時代]]に至るまで、[[私年号研究]]の文脈で[[改政]]に言及したものは見当たりません。

[115] 
[[嘉政]]には言及がいくつかあるものの、
研究はあまり進んでいません。史料が少ないためでしょうか。

[113] 
[[私年号研究]]の多くは[[中世史]]の研究者によるもので、
[[近世]]の[[私年号]]は長らく視野に入っていなかったため、
[[近世]]の[[改元デマ]]は[[異年号]]の研究からこぼれ落ちていたと思われます。

[116] 
本書はその後の[[私年号研究]]でも多く参照されていると推測されるところですが、
なぜか以後の研究や辞書類の表には[[改政]]は収録されていません。
[CITE[日本私年号の研究]]
にもありません。
[[私年号]]として実用された[[元号]]でないために関係が薄いと判断されたのでしょうか、



* 関連

[SEE[ [[嘉政 (新元号候補)]] ]]


* メモ