[76] 
[DFN[近宝]],
[DFN[承運]],
[DFN[慶観]],
[DFN[養保]],
[DFN[弘治]]は、
[[日本]]の[[江戸時代]]に存在した[[絵画]]に見られる[[元号]]です。
[[偽銘][偽書]]の[[捏造元号][架空の元号]]の疑いが強いです。

-*-*-

[15] 
[[江戸時代]]の[[日本国]][[山城国]][[京都]]の[[儒学者]][RUBYB[[[伊藤長胤]]][[TIME[1670]]-[TIME[1736]]]] ([[伊藤東涯]])
の
[CITE[盍簪録]]
によると、
ある人の家の絵の題名で、

[ITEMS[ [[日時事例]]
-
[16] [DATA(.label)[古画傍題]]
「[DATA(.text)[[V[近宝第五丙辰歳]]]]」
(「[DATA(.text)[[V[近寶第五丙辰歳]]]]」)
[SRC[>>11, >>13]]
]ITEMS]

とありました。
[[盃玉端]]という[[人名]]らしきものがありました。
[[安南国]]のものと推測されました。
[SRC[>>12]]

[17] 
推測の根拠は不明ですが、[[日本]]や[[漢土]]の[[元号]]や[[人名]]らしくなかったためでしょうか。

[REFS[
-[12] [CITE[盍簪録]]
--[11] 
[CITE[新日本古典籍総合データベース]], [[国文学研究資料館 | National Institute of Japanese Literature]], [TIME[2020-10-20T04:54:00.000Z]], [TIME[2023-01-23T05:01:00.918Z]] <https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100259934/viewer/117>
-- [13] [CITE[盍簪録: 4巻 - Google ブックス]], [TIME[2023-01-23T05:20:57.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=4a9f2z5pmf0C&pg=PP5>
]REFS]

-*-*-

[18] 
[[江戸時代]]の[[日本国]]の研究者[RUBYB[[[藤貞幹]]][[TIME[1732]]-[TIME[1797]]]]の[CITE[好古目録]]によると、
古画の[[落款]]に、

[ITEMS[ [[日時事例]]
- [19] 
[DATA(.label)[古画落款]]
「[DATA(.text)[[V[承運第六丙辰葉月仲□陸朱碩姓隣寫]]]]」
[SRC[>>6]]

]ITEMS]

とありました。[[承運]]の[[元号]]は華夷に聞かないもので、[[葉月]]や陸朱云々もわからないとしていました。
[SRC[>>6]]

[20] 
後に、[[葉月]]は8月の[[異名][月名]]だと指摘されています [SRC[>>2]]。
[[葉月]]は項見出しにもなっていて [SRC[>>6]]、
[[承運]]よりも注目されていたようですが、
[[藤貞幹]]は知らなかったのでしょうか?
現在は有名でも当時は知られていなかったのでしょうか?

[22] 
仲□は[[中旬]]または[[中旬]]の何日かを書いていたものと思われます。
[SEE[ [[東洋の日時表示]] ]]


;; [21] >>2 は□を口としていますが、[[誤植]]と思われます。





[REFS[
-[7] [CITE[好古目錄]]
--[6] [CITE@ja-JP[日本随筆大成 巻十一]], [[日本随筆大成編輯部]], [TIME[昭和3][1928]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-22T14:51:49.463Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1914138/1/295> (要登録)
]REFS]


[23] 
[[江戸時代]]の[[画家]]で[[田安家]] ([[松平定信]]) 
に仕えた[RUBYB[[[谷文晁]]][[TIME[1763]]-[TIME[1841]]]]の
[CITE[文晁画談]]
[WEAK[([TIME[文化8(1811)年][1811]]成立)]]
によると、
絵の[[落款]]に

[ITEMS[ [[日時事例]]
-
[24] 
[DATA(.label)[画[[落款]]]]
「[DATA(.text)[[V[承運元年癸酉仲春仲日画之]]]]」
[SRC[>>1]]

]ITEMS]

とありました。 [SRC[>>1]]

[25] 
次のように書いていました。
[SRC[>>1]]

- [27] 書体は和習があり、後人が題したものである。
- [26] [[承運]]は[CITE[紀元通考]]にもどの書にもない。
- [28] [CITE[紀元通考]]にいつの間にか朱書した[[元号]]と暗合、ただし[[干支]]は違う。
-- [29] 師匠方から聞いたことを書き込んでいるが詳細不明。
-- [30] 古画落款 「[V[承運第六丙辰葉月仲□陸朱碩姓隣寫]]」

[32] 
[[落款]]が「後人」のものなら絵も疑わしいはずですが、それには何も言及がありません。

[31] [CITE[紀元通考]]は[[松井甚五郎]] ([[松井羅洲]]) の著書
[WEAK[([TIME[寛政8(1796)年][1796]]序)]]
でしょう。

[33] 
朱書されたという[[落款]]は
>>18
と同じで、同書またはそれと同内容を聞き及んでいたのでしょう。


[REFS[
- [14] [CITE[文晁画談]]
--[1] [CITE@ja-JP[百万塔 第8巻]], [[中根淑 校]], [TIME[明25][1892]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-22T14:36:16.286Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/899100/1/238>
--[4] [CITE@ja-JP[日本画談大観 上・中・下編]], [[坂崎坦]], [TIME[大正6][1917]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-22T14:48:55.110Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/954090/1/418>
--[5] [CITE@ja-JP[文晁画談]], [[写山谷文晁]], [TIME[大正9][1920]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-22T14:49:38.969Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1183021/1/50>
]REFS]


[102] 
[CITE[勝山古記]] [[b-3]] 本冒頭に、

>
[BOX[

一承運元癸酉年仲夏中日図之ト古画落款ニ有之、年号
詳ナラズ、我画ト相見ユ之由ナリ、好古目録ニ曰、
[LINES(smaller)[藤貞幹著述也、字子冬、][江州人也、人呼云藤祝蔵、]]承運第六丙辰葉月仲□陸朱碩
姓隣写ト古画落款也、承運年号華夷ニ聞サル所也、
葉月以下不可解トアリ、

[BOX(indent)[

按ニ、葉月謂八月、下学抄等ニ見タリ、
癸酉丙辰ハ其間四十二年ナリ、何カ書損ナリヤ、
第六年ハ戊寅ニ当ヘシ、

]BOX]

]BOX]

とあります。
[SRC[>>103]]

[106] この本はその後に[[法興]]の記事があります。
ここまでは他の写本にない [[b-3]] 固有の特徴です。
その後b系統写本共通して[[天平勝宝]]の注釈があります ([SEE[ [[勝山記]] ]])。
その後にようやく[CITE[勝山記]]写本部分に入ります。
[SRC[>>104]]

[107] 
[[承運]]と[[法興]]は明らかに[CITE[勝山記]]と無関係で、
まったく別個の覚書などが混入したものと考えられます。
[[天平勝宝]]もb系統写本には含まれない時代で、やはり無関係の可能性がありますが、
[[天平勝宝]]はb系統に共通するのに[[承運]]と[[法興]]は [[b-3]]
固有なのは不思議です。


[108] 
[[承運]]の項は >>18 と >>23 と同情報ですが、よくみると細部に違いがあります。
微妙な違いは誤読・誤写かもしれませんが、
>>23
にある
[CITE[紀元通考]]
への言及は皆無である (逆に >>23 には >>18 への言及がない) ことを見るに、
>>23 とこの[[承運]]の項は独立して書かれたものかもしれません。



[REFS[

- [104] [CITE[[[「勝山記」・「妙法寺記」の諸本について]]]]
-- [103] [[b-3]]
--- [105] 冒頭部分の[[翻刻]]が収録されている。

]REFS]

-*-*-

[38] 
[[江戸時代]]の[[日本国]][[武蔵国]][[江戸]]の[[旗本]]で[[画家]]の[RUBYB[[[朝岡興禎]]][[TIME[1800]]-[TIME[1856]]]]の
[CITE[古画備考]]
の外国画の巻
[WEAK[([TIME[弘化2(1845)年3月3日][kyuureki:1845-03-03]]起筆)]]
に、
未知の[[元号]]の記述があります。
[SRC[>>36, >>37]]

[39] [[近宝]]は >>12 を引用しています。 [SRC[>>35]] 特にコメントはしていません。

[40] [[承運]]は >>19 と同じ銘文です。[[元号]]や[[人名]]は聞かないもので、
[[外国人]]かと書いています。
[SRC[>>35]]
出典は不明です。実見したのでしょうか、それとも伝聞でしょうか。

[41] 
これらは末尾の[[安南]]の章に収録されています。
前者は引用元で[[安南国]]かとしているのに従ったのでしょう。
後者はまったく不明ですが、わざわざ章立てすることなく巻末に収録したのでしょうか。

[42] 
本書は[TIME[明治36(1903)年][1903]]から[[太田謹]]が増訂した版があり、
巻末に更に増補されています。 [SRC[>>37]]

[43] 
増訂版では[[承運]]について >>14 を引用しています。
[SRC[>>9]]

[44] 
増訂版によると、明治30年に寶物取調局で見た慶長、元和の画風の絵に、

[ITEMS[ [[日時事例]]
-
[45] 
[DATA(.label)[落款]]
「[DATA(.text)[[V[養保元丁巳歳[BR[]] 葉月下旬]]]]」 ([[草書]])
[SRC[>>35]]

]ITEMS]

と書いてありました。
[SRC[>>35 (模写あり)]]

[46]
[[日本政府]]の[[宮内省]]系組織[[臨時全国宝物取調局]]は[TIME[明治21(1888)年][1888]]に発足し、
[TIME[明治30(1897)年][1897]]に事業終了しました。
全国各地の美術品を調査しました。
残務は[[帝国博物館]]に引き継がれ、
[[東京国立博物館]]に資料が残るとのことです。
[SRC[>>47]]
ということはその終了間際に、日本の何処かから持ってこられた絵を見たのでしょうか。
現物は返却されたのでしょうか。それとも博物館に収蔵されたのでしょうか。

[49] 
当時目録が作られ収録されたのかもしれませんが、現物も目録も、
ウェブ検索や[[東京国立博物館]]のウェブサイトのデータベース検索では見つけることができません。

[50] 
増補版によると、[TIME[明治31(1898)年][1898]]に池内で見た絵に、

[ITEMS[ [[日時事例]]
-
[51] 
[DATA(.label)[落款]]
「[DATA(.text)[[V[慶觀[BR[]]第四癸酉年[BR[]]晩夏仲旬圖之]]]]」
([[草書]])
[SRC[>>35]]
]ITEMS]

と書いてありました。
[SRC[>>35 (模写あり)]]

;; [52] 池内はどこ (誰?)  でしょうか。

[54] 
増補版によると、
[[福井樓]]の展観で見た絵に

[ITEMS[ [[日時事例]]
-
[55] 
[DATA(.label)[落款]]
「[DATA(.text)[[V[弘治丙辰歳葉月仲旬始圖之]]]]」
[SRC[>>35]]
]ITEMS]

と書いてありました。
[SRC[>>35]]

;;
[56] 
[[福井楼]]は[[日本国]][[東京府]][[東京市]][[日本橋]]近くの料亭でした。
[[大東亜戦争]]で[[米軍]]に[[空襲]]で焼かれて廃業したようです。
それ以前に[[関東大震災]]でこの地域はほぼ焼失したようです。
[[福井楼]]の所蔵だったとすると、現存しないのかもしれません。


[53] 
[[養保]]と[[慶観]]は諸書に見当たらず、
両者どちらも書風から同一人物によるもので、
しかも外国風味は無いとされます。
[SRC[>>35]]

[57] 
[[慶觀]]と[[弘治]]は[[人名]]の下の[[印]]が同じでした。
[SRC[>>35]]

[48] 
[[弘治]]は和漢どちらにもあるものの、もとより明画でなく、
[TIME[日本弘治2(1556)年丙辰][1556]]と見るべきでもなく、
何とも合点がいかないとされています。
[SRC[>>35]]
ここで明画ではないと言っているのは和漢どちらかはっきりしないということでしょうか、
それとも「弘治」と読むべきかもはっきりしていないのでしょうか。
弘治2年でないというのは、画風や書風の判定でしょうか。

[58] 
増訂版では、
[[養保]]、
[[慶觀]]、
[[弘治]]の3品を同一人物による[[日本画]]と判定しています。
他にももう1品同筆のものを見たとのことですが、
銘文は紹介していません。
[[近宝]]と[[承運]]も同筆だろうと推測しています。
[SRC[>>35]]


[REFS[
- [36] [CITE[古画備考]] (原著)
-- [35] 
[CITE@ja-JP[[[古画備考]] 50巻 '''['''48''']''']], [[朝岡, 興禎, 朝岡興禎]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-23T06:55:09.627Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2591634/1/35>
- [37] [CITE[古画備考]] 増訂版
-- [9] [CITE@ja-JP[古画備考 巻17]], [[朝岡興禎, 太田謹 増訂]], [TIME[明治36-37][1904]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-23T04:44:46.993Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1239287/1/65> (要登録)
--[10] [CITE@ja-JP[古画備考 下(32-51)]], [[朝岡興禎, 太田謹 増訂]], [TIME[明治36-38][1905]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-23T04:45:10.172Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1088111/1/453> (要登録)
--[3] [CITE@ja-JP[古画備考 五十]], [[朝岡興禎, 太田謹 補]], [TIME[明36-37][1904]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-22T14:36:58.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/850519/1/64> (要登録)
--- [8] [CSECTION[第五十一巻 高麗朝鮮書画伝下 附琉球安南]],
弘化2年3月3日起筆
- [47] 
[CITE@ja[[[東京国立博物館]] - 展示・催し物 総合文化展一覧 日本美術(本館) 臨時全国宝物取調局の活動―明治中期の文化財調査―]], [[東京国立博物館 -トーハク-]], [TIME[2023-01-23T08:11:54.000Z]], [TIME[2023-01-23T08:20:40.531Z]] <https://www.tnm.jp/modules/r_free_page/index.php?id=1835>
]REFS]


[59] 
[[昭和時代]]中期の[CITE[日本私年号の研究]]は、
[[中国]]で[[日本の元号]]として紹介される[[幽霊元号]]の1つ[[貞運]]の説明で、
[[音通]]する不明な[[元号]]として紹介しています。
[CITE[好古目錄]]の[[承運]]の節を引用して、
[[承運]]はどの国にも無く、
年数干支が一致する[[元号]]もみあたらない、
筆者の国籍は不明だ、と書いています。
[SRC[>>2]]
[[承運]]自体を[[私年号]]ないし[[私年号的なもの][私年号的諸資料]]として立項していないのは、
[[日本]]のものかわからないためなのでしょう。

[109] 
これら6例は、以上示した[[近世]]から[[近代]]初期にかけての言及と
>>59 を除けば[[異年号]]の研究の対象とならなかったようです。
多くの人が言及するような興味の対象にはなっていたものの、
[[日本の私年号]]の研究が始まったばかりの[[近世日本]]では、
[[日本]]のものではなさそうと判明した時点でそれ以上は追求のしようがなかったのが大きな要因と考えられます。

[110] 
[[昭和時代]]に至っても尚[[越南の元号]]の情報を得るのは困難でした
([SEE[ [[越南の元号]] ]])。
[CITE[日本私年号の研究]]は >>59 の言及があるのを除けば、
[[越南の元号]]にはまったく触れていませんでした。
[[日本の私年号]]への導入として[[日本]]、[[朝鮮]]、[[漢土]]の[[公年号]]と反乱政権の[[元号]]の概略は検討対象としているのですが、
[[日本]]への文化伝播ルートにない[[越南]]の事情はまったく議論すらされていません。
[[日本の元号]]でもなく[[漢土]]や[[朝鮮]]の[[公年号]]でもない謎の[[元号]]まで調査の手を伸ばすのはさすがに難しかったようです。

[111] 
それ以後も[[令和時代]]に至るまでこうした
「[[公年号]]でも[[日本の私年号]]でもないその他の[[異年号]]」
というカテゴリーに着目した研究はほとんど皆無で、
存在自体が忘れられていたようです。
銘文が書かれていたはずの実物がいずれも行方不明で、
[[文化財]]指定のための調査などもされていないようです。



[REFS[
- [2] [CITE[日本私年号の研究]]
]REFS]


[34] 
これら6例の[[紀年][東洋の日時表示]]は偶然にしてはよく似ています。

- [60] 必ず[[干支年]]を書く
- [95] [[年数]]を「第[VAR[何]]」式で書きがち
- [96] 丙辰年が多い
- [97] 「葉月」が多い
- [98] 「旬」を使いがち
- [99] 「仲」を使いがち

という類似性があります。
当時の[[紀年]]の慣習や日本画[[落款]]の慣習も検討の必要がありますから直ちに特定人物の癖のようなものとも断定しかねますが、
同一人物説の傍証くらいにはなるかもしれません。


[61] [[近世]]だとして[[干支年]]が該当する[[年]]の一覧:

- [67] 丙辰年 (近宝5年、承運6年、弘治丙辰年)
-- [TIME[日本弘治2(1556)年][1556]]
-- [TIME[西暦1616年][1616]]
-- [TIME[西暦1676年][1676]]
-- [TIME[西暦1736年][1736]] ← [[伊藤長胤]]在命中はここまで
-- [TIME[西暦1796年][1796]] ← [[藤貞幹]]在命中はここまで
-- [TIME[西暦1856年][1856]]
- [68] 丁巳年 (養保元年)
-- [TIME[西暦1557年][1557]]
-- [TIME[西暦1617年][1617]]
-- [TIME[西暦1677年][1677]]
-- [TIME[西暦1737年][1737]]
-- [TIME[西暦1797年][1797]]
-- [TIME[西暦1857年][1857]]
- [69] 癸酉年 (承運元年、慶觀4年)
-- [TIME[西暦1573年][1573]]
-- [TIME[西暦1633年][1633]]
-- [TIME[西暦1693年][1693]]
-- [TIME[西暦1753年][1753]] ← [CITE[文晁画談]]成立前はここまで
-- [TIME[西暦1813年][1813]]
-- [TIME[西暦1873年][1873]]

[62] 
6例もありながらいずれも現所在が不明なのは遺憾です。

[63] 
最初に[[安南国]]ではないかと判断された理由はよくわかりません。
[[近世]]初期には[[越南]]とも人の行き来がありましたが、
[[鎖国]]により途絶し、あまり情報が入ってこなくなっていたようです。
東洋風でありながら[[日本]]とも大陸とも違うとなると、
残りは[[越南]]辺りだろうという具合なのでしょうか。

[64] 
南方で「承運」といえば、[[南支]]以南に多い[[天運]]紀年が連想されますが
(「運」と入っているのも[[道教]]臭があります)、
あまり関係なさそうです。

[65] 
断片的な情報と各時代の専門家の判断をつなぎ合わせると、
[[日本]]の[[近世]]初期にとある同一の[[日本人]]が描いた絵と[[落款]]であって、
富裕層に売られて伝来してきたと推定するのが妥当そうです。

[66] 
承運の元年と6年の干支が矛盾しますから、[[紀年]]はまったくのデタラメの可能性も高いです。
それでも[[干支年]]がある程度の情報を持っていると仮定するなら、
[TIME[西暦1616年][1616]]から[TIME[西暦1633年][1633]]の頃に作られたと考えるのがいいでしょうか。
その60年後もあり得ます。
[[伊藤長胤]]の時代に近接しすぎているように思われますが、
似た[[元号名]]が実在しているのは60年後の方です。

[70] 
[[弘治]]は実在の[[日本の公年号]] ([TIME[1555]]-[TIME[1558]]) 
ですが、それ以外の4つは実在が確認できません。
なぜ1つだけ実在[[元号]]としたのでしょうか。
[[弘治]]だけ[[年数]]がないことと関係するのでしょうか。
途中から[[元号]]も[[創作][架空の元号]]し始めたのでしょうか。

[72] 
[[近宝]]は[[延宝]] ([TIME[1673]]-[TIME[1681]]) 
からの連想でしょうか。
近宝5年丙辰と[TIME[延宝4(1676)年丙辰][1676]]はよく似ています。

[74] 
[[承運]]は[[承応]] ([TIME[1652]]-[TIME[1655]])
からの連想でしょうか。
強いて言えば、
承運6年丙辰は[TIME[承応元(1652)年壬辰][1652]]、
承運元年癸酉は[TIME[承応2(1653)年癸巳][1653]]と似ていないこともありません。

[73] 
[[養保]]は[[正保]] ([TIME[1644]]-[TIME[1648]])
からの連想でしょうか。
強いて言えば、
養保元年丁巳は[TIME[正保4(1647)年丁亥][1647]]に近いでしょうか。

[71] 
[[慶觀]]の慶は[[慶長]] ([TIME[1596]]-[TIME[1615]]) 
や[[慶安]] ([TIME[1648]]-[TIME[1652]])
からの連想でしょうか。
強いて言えば、
慶觀4年癸酉は[TIME[慶長8(1603)年癸卯][1603]]、
[TIME[慶長14(1609)年己酉][1609]]、
[TIME[慶長18(1613)年癸丑][1613]]に近いでしょうか。
慶安には近いものがありません。

[75] 
それならば[[弘治]]も[[万治]] ([TIME[1658]]-[TIME[1661]])
からの連想でしょうか。しかし[[干支]]が似た年はありません。

-*-*-

[85] [CITE@ja-JP[北宇智村誌]], [[吉田寅蔵]], [TIME[1952]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-23T12:37:44.232Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3017356/1/97> (要登録)
左

丁寧な手書きの楷書、「近宝」8年。誤記なのか引用元ママなのか。


[79] [CITE@ja-JP[美保関町史料]], [[美保関町]], [TIME[1979.3][1979]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-23T12:09:42.330Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9574282/1/115> (要登録)

「[V[近寳五年二月六日]]」 ([[明朝体]])

延宝五年。誤植でなく原文ママ?

[81] [CITE@ja-JP[吉備郡史 巻中]], [[永山卯三郎]], [TIME[昭12至13][1938]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-23T12:21:25.881Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1218699/1/629>
左

「[V[[SNIP[]]近寶二年[SNIP[]]]]」 ([[明朝体]])

誤植なのか原文ママなのか。


[80] [CITE@ja-JP[鴎外 (61)]], [[森鴎外記念会]], [TIME[1997-07]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-23T12:15:58.473Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4436819/1/193> (要登録)
左上

平成の「通信」 (私信?) の引用、明朝体「[V[近宝四年以来の津[BR[]]和野地震[SNIP[]]]]」。
誤植なのか原文ママなのか。

[83] [CITE@ja-JP[市町村別国土総攬 上巻]], [[日本国土協会]], [TIME[1952]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-23T12:26:08.002Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3022546/1/351> (要登録)
左上

近宝二年の検地帳、明朝体。誤植か。

[82] [CITE@ja-JP[馬政学]], [[橘高林助]], [TIME[昭和16][1941]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-23T12:23:42.163Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1067244/1/33> (要登録)
右

近宝2年、3年と明朝体である。誤植か。

[84] [CITE@ja-JP[匝瑳郡誌]], [[千葉県匝瑳郡教育会]], [TIME[大正10][1921]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-23T12:33:39.561Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/965693/1/120>
右

明朝体、1箇所正しく延、1箇所誤植で近。

[77] [CITE@ja-JP[櫨紅葉 第8巻 文集]], [[三田葆光, 三田佶]], [TIME[明45.6][1912]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-23T12:05:50.676Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/873961/1/33>

草書「延寶元年」、[[OCR]]は「近寶元年」と誤読

[78] 他にも[[昭和時代]]までの[[楷書]]手書きで「延宝」を「近宝」と [[OCR]] 誤読した例が多々。
[[明朝体]]でも誤読した例が結構ある。



[86] [CITE@ja[第87回国会 衆議院 予算委員会 第12号 昭和54年2月16日 | テキスト表示 | 国会会議録検索システム]], [TIME[2022-11-24T09:32:40.000Z]], [TIME[2023-01-23T12:46:29.755Z]] <https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=108705261X01219790216&spkNum=330&current=5>

>[SNIP[]]ちょっと伺いますが、養和三年、それから延宝九年、大平元年、これを古い順に並べてください。

>[SNIP[]]養和というのは私の調べた限りでは三年はなくて二年しかないのです。しかし、こう聞かれればわからないでしょう。延宝九年はそうですけれども、大平元年というのはこれは日本の年号の歴史にはありません。強いて言えば去年の十二月かもしれません。[SNIP[]]

[88] この不誠実な質問をした者は[[日本社会党]]の国会議員。このときのことが、

-[87] [CITE@ja-JP[[[月刊社会党]] (431)]], [[日本社会党中央本部機関紙局]], [TIME[1991-08]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-23T12:47:43.116Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1408658/1/80> (要登録)

この[[日本社会党]]の機関誌に掲載されている回顧録の引用では「近宝九年」
([[明朝体]]) になっている。
なぜか国会議事録ではなく[CITE[朝日新聞]]が (正気なのか皮肉なのか) 「ユーモアたっぷり」と評した記事から引いている。
国会議事録が正しいだろうから、

- [89] [CITE[朝日新聞]]の誤植
- [90] 元議員の誤引用
- [91] 機関誌の誤植

のいずれか。


[92] ちなみにこの質問を真似たのかこの後3人の議員が国会で「大平元年」発言をしている。
この時期、[CITE[元号法]]案審議当時の[[内閣総理大臣]]が[[大平正芳]]。

[93] すると発音は「おおひら」か。

;; [100] [[国会]]で[[クイズ]]大会をして国民の顰蹙を買うといえば[[民主党]]が有名。
[[昭和]]の頃からこんな調子だったのか...

;; [101] [[内閣総理大臣]]の名前と[[元号名]]を絡めて遊ぶので連想するのは[[安久]]。
時代が変わっても人がやることは全然変わらんのね。

-*-*-

[94] [CITE@ja-JP[今日の歴史]], [[小林鶯里]], [TIME[昭和2][1927]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-23T13:57:57.779Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1225287/1/34>
右

慶觀三年、と明朝体。慶応3年の誤植。

