[72] 
[DFN[慶喜]]
([TIME[y~609]])
は、
[[江戸時代]]の[[寛永]]年間に用いられた[[日本の私年号]] ([[改元デマ]]) の1つです。


* 元号名

[382] 
[[元号名]]は[[慶喜]]です。
[CH[喜]]は[[草書]]に由来する[[異体字]][CH[㐂]]で[DFN[慶㐂]]と[[翻刻]]されることもあります。


[381] 
[DFN[慶貴]]の用例が1つあります (>>90)。しかし[[写真]]などがなく詳細は不明です。
同[[音]]で[[字形]]も似ていて容易に混同され得たと考えられますが、
どの程度の広がりを持っていたのかなど、今後の検証が期待されます。

[383] [[慶貴]]は[[ラジオ]]番組で「けいき」と読まれた事例があります (>>90)。

-*-*-

[94] 
>>1 >>105 
の写真見ると[[草書]]の[CH[喜]] ([CH[㐂]]) は[CH[長]]と[[字形]]が似ていますね。
[[元号名]]の元ネタは[[慶長]]そのものの可能性、[[あると思います]]。


* 紀年法

[384]
[[元年]]は、
[TIME[日本寛永20(1643)年][1643]]です。


-*-*-

[396] 
[[元年]]が[TIME[寛永20(1643)年][1643]]、
2年が[TIME[寛永21(1644)年][1644]]であることは、

- [407] 用例中、紙質や書体が[[近世]]初期とみられるもの (>>252)
- [403] 用例中、[[元和]]時代以後の制度に言及するもの (>>214, >>260)
- [401] 用例中、作者が[[寛永]]・[[正保]]時代に活動したもの (>>280)
- [402] 用例中、[[寛永]]時代の作品と推測されるもの (>>300)
- [404] 用例中、[[人名]]が[[寛永]]時代と推測されるもの (>>215, >>25, >>261)
- [405] 用例中、[TIME[寛永19(1642)年][1642]]と明記され、
その1,2年後が慶喜2年と推測されるもの (>>217)
- [408] 用例中、[TIME[寛永20(1643)年][1643]]と明記されたもの (>>219)
- [406] 用例中、裏書に「申正月」とあるもの (>>218)
- [400] 現在進行系の現象として[[慶喜]]に言及した「申」年の文書: >>349
- [398] [TIME[寛永14(1637)年][1637]]からの[[月]]数を明記した用例 (>>38)
- [397] 「2年申」と[[十二支年]]を明記した用例: >>269, >>270, >>328
- [399] 現在進行系の現象として[[慶喜]]に言及した[TIME[寛永21(1644)年][1644]]の文書
(>>28)

から決定できます。

* 経緯

[409] 
[[奥能登]]では、
[TIME[寛永21(1644)年][1644]]1月初め頃から少なくても2月終わり頃まで使われました
(>>122)。
[[農民]]や[[藩]]役人の用例が見つかっています。

[410] 
[[静岡県]]下では、
少なくても[TIME[寛永21(1644)年][1644]]2月初め頃に使われました [SRC[>>117]]。
[[農民]]の用例が見つかっています。

[411] 
[[薩摩藩]]では少なくても[TIME[寛永21(1644)年][1644]]2月頃から3月頃まで、
おそらく1月頃から4月頃まで使われました。
[[藩]]役人の用例が見つかっていますが、
住民も含め広く使われていた可能性があります。
4月の中頃に江戸藩屋敷で発覚し5月の初め頃に[[鹿児島]]に連絡がありました
(>>361, >>374)。

[412] 
これらより、
[TIME[寛永20(1643)年][1643]] (= 慶喜元年) 末頃に[[改元]]情報が発生し、
[[年末年始]]に[[全国各地]]に伝播し、
[TIME[寛永21(1644)年][1644]] (= 慶喜2年) 
の初めのうちにしばらく信じた地域があったと推測できます。
現在知られていない地域でも使われたことがあったかもしれません。

-*-*-

[47] 
[[福井県]]下の短刀銘は「慶喜元年正月大吉日」で (>>227)、
唯一辻褄が合わない用例です。

[67] 
[[改元]]は年中に行われるので、
「元年正月」
銘がリアルタイムで作られることはあまりありません
(1月中に[[改元]]があり、1月中にそれが伝わった場合のみです)。

[413] 
「正月大吉日」もそうであるように、刀剣銘は縁起を重視することがあり (>>286)、
[[月日]]単位の正確性はさほど重要とは思われません。
[[慶喜]]への[[改元]](というデマ)を知ったのがいつであれ、
[[遡って][遡及年号]]「元年正月大吉日」とめでたそうな表記を選ぶのは、
ありそうなことです。

[414] 
あるいは[[年末年始]]をまたいで[[改元]]情報が伝わったため、
新年[TIME[寛永21(1644)年][1644]] (= 慶喜2年) 
を「慶喜元年」
とする説が一部で行われた可能性もあります。

;; [415] そのような[[1年ずれ]]の事例は[[中世東国私年号]]でみられます。

-*-*-

[71] 
この[TIME[寛永21(1644)年][1644]]の[[年始]]という時期に[[改元デマ]]が広まったのは、
[[火のない所に煙は立たぬ]]、まったくの出鱈目ともいえません。

[70] 
[[後光明天皇]]は、
[TIME[寛永20(1643)年10月3日][kyuureki:1643-10-03]]に[[践祚]]、
[TIME[寛永20(1643)年10月21日][kyuureki:1643-10-21]]に[[即位礼]]がありました。
そして[TIME[寛永21(1644)年12月16日][kyuureki:1644-12-16]]に[[正保]]改元がありました。
[[改元デマ]]はちょうどこれらの間です。

[69] 
この間[[改元]]に向けた具体的な動きはありませんでした (>>367)。
先代の[[明正天皇]]は[[代始改元]]がなく、
3代にわたって[[寛永]]が20年以上も続くことになっていました。
これは前例がないと[[朝廷]]から要求があって結局[[改元]]が決まったのが[TIME[寛永21(1644)年][1644]]の後半でした。

[424] 
[[中世東国私年号]]は「改元のあるべきところにない」とき[[改元デマ]]として発生することが指摘されています。
[[慶喜]]も、「代始改元があるべきなのにない」状況で生じたものといえます。

-*-*-

[425] 
[[江戸時代]]の[[改元]]は、
[[朝廷]]から[[江戸幕府]]へ、[[江戸幕府]]から諸[[大名]]へ、
初藩[[江戸]]屋敷から[[国元]]へ、
[[藩]]庁から一般庶民へ、
と伝えられました。
[SEE[ [[改元手続き]] ]]

[426] 
それ故に本来なら[[江戸]]屋敷が把握しているはずの[[改元]]を知らないうちに[[薩摩藩]]が実施していたことに驚愕し困惑することになるのです
(>>37)。

[427] 
[[近世]]的な[[改元伝達]]機構が未成熟の[[近世]]初期にあって[[中世]]的な[[改元伝達]]の旧習が[[藩]]役人まで巻き込むレベルで残存していたと見ることもでき、
[[改元伝達]]の実態解明のためにも大変興味深い事案といえます。


* 用例

[385] 
これまでに[[日本国内]]で

- [386] [[福井県]]で[[金石文]]1件 : 1年1月      : >>227
- [387] [[石川県]]で[[文書]]9件   : 2年1月, 2月 : >>392
- [388] [[静岡県]]で[[文書]]2件   : 2年2月      : >>117
- [389] [[鹿児島県]]で[[文書]](日付)1件、[[文書]](本文中)1件 : 2年2月, 3月 : >>239
- [390] [[鹿児島県]]で[[金石文]] ([[慶貴]]) 1件 : ?年 : >>90

の合計15件の用例が知られています。

[391] 
また、同時代の記録が3件、[[江戸時代]]の考察が1件残されています (>>239)。


** 福井県下の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [227] 
[DATA(.label)[[[越前]][[敦賀]][[気比神社]]奉納短刀銘]]
-- [289] 
[DATA(.label)[本文中引用]]
「[DATA(.text)[[V[慶喜元年正月大吉日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>46]]
-- [288] 
[DATA(.label)[全文[[翻刻]]]]  
[SRC[>>46 /392 [V[一〇五]]]]
--- [290] 「[DATA(.text)[[V[慶喜元季正月大吉日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>46 /392 [V[一〇五]]]]
-- [291] 
[DATA(.label)[[[拓影]]]] [SRC[>>46 /393]]
--- [292]  「[DATA(.text)[[V[慶㐂󠄂元秊正月大吉日]]]]」 ([[楷書]])
[SRC[>>46 /393]]




]ITEMS]

[280] 
慶喜元年銘短刀 (>>227) 
には「[V[以南蛮鉄越前康継]]」とあります。
2代[[下坂康継]]の作刀と知られます。
2代康継は寛永元年や正保元年の作刀事例がありますが、
慶安元年には既に死去していました。
[SRC[>>46]]

[281] 
銘文には
「[V[敦賀気比大神宮奉掛御宝前[SNIP[]]尾張住人杉江長七]]」
とあります。
[[日本]][[尾張国]]に住む[[杉江長七]]が[[気比大神宮]]に奉納したことが知られます。
[SRC[>>46]]

[285] 
つまり[[尾張]]の住人が発注し[[越前]]の刀工が制作して[[越前]]の[[神社]]に奉納した刀の銘文に
「慶喜元年」が使われていることになります。


[353] 
この[[短刀]]が文化財指定等されているとの情報は見当たらず、現状は不明です。
[[氣比神宮]]の所蔵でしょうか。

;; [354] 
[[氣比神宮]]は[TIME[昭和20(1945)年][1945]]の[[米軍]]の空襲により焼かれてしまいましたが、
[TIME[昭和35(1960)年][1960]]に詳しく紹介されたものである (>>46)
からには無事だったのでしょうか。





** 石川県下の用例


[ITEMS[ [[日時事例]]

- [113] [DATA(.label)[[[延武文書]]]], 
[DATA(.addr)[[[日本国]][[石川県]][[珠洲市]]]]  
-- [112] [CITE(.label)[寛永拾九年若山与御収納方請払之事]] [SRC[>>164 [V[[YOKO[(F)]]]]]]
--- [132] 
[DATA(.text)[慶喜弐年正月九日]] [SRC[>>164]]
- [170] [DATA(.label)[[[上梶家文書]]]],
[DATA(.addr)[[[日本国]][[石川県]][[輪島市]]]]
-- [171] [CITE(.label)[指上申名舟与借塩釜賃銀之事]] [SRC[>>17 /30 L—50, >>164 [V[[YOKO[(A)]]]]]]
--- [105] 白黒写真 (解像度低く判読困難)
[SRC[>>41 /144]]
--- [93] 白黒写真 あまり解像度は高くない
[SRC[>>1]]
---- [44] 
[DATA(.label)[[[上梶家文書]]  慶喜2年  名舟組借塩釜賃銀指上証文]]
----- [106] 
「[DATA(.text)[[V[慶喜弐年[BR[]]     正月[ASIS[□][十?]]□日]]]]」 ([[草書]])
--- [172] 白黒写真 >>166
--- [182] [DATA(.text)[慶喜弐年正月廿日]] [SRC[>>164]]
-- [96] 
[CITE(.label)[[V[御法度立書之御事]]]],
[[太郎左衛門]]
--- [95] 
[DATA(.label)[[CITE[輪島市史]] [[上梶家文書]]二の一 [CITE[慶長二年  山林御法度立書の事]]]]
---- [187] 全文翻刻 [SRC[>>3]]
----- [181] 
「[DATA(.text)[[V[[RUBY[慶喜弐][長[WEAK(smaller)[カ]]]]年正月廿一日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>3]]
---- [257] 全文引用 [SRC[>>144]]
----- [258] 
「[DATA(.text)[[V[慶喜弐年正月廿一日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>144]]
--- [193] 
[CITE(.label)[名舟組太郎左衛門法度書立写]]
[SRC[>>18 [V[二一]]]]
---- [195] 全文翻刻 [SRC[>>18]]
----- [196] 
「[DATA(.text)[[V[慶長弐年正月廿一日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>18]]
--- [194] 
[CITE(.label)[[V[御法度定書之事]]]]
[SRC[>>17 /13 A—10, >>164 [V[[YOKO[(B)]]]]]]
--- [138] 
>>137 に白黒写真、
字形は一応ぎりぎりおおむね読み取れるかどうかの解像度
---- [139] 
「[L[慶喜 2 年 2 月の文書 御法度定書之事]]」 [SRC[>>137]]
と紹介されているが、どう見ても「[V[正月]]」 ([[草書]])。
[CITE[輪島市史]]の[[翻刻]]と文面が一致するように見える。
-- [176] [CITE[川除普請に付与中人足願]] [SRC[>>17 /25 J—16, >>164]]
--- [183] [DATA(.text)[慶喜弐年正月廿二日]] [SRC[>>164]]
--- [131] [DATA(.label)[慶喜二年正月 [CITE[里村川除人足仰付願]]]]
[SRC[>>130, >>42]]
--- [245] 
>>40 に[CSECTION[慶喜二年正月 里村川除人足仰付願]]
として収録されているとのこと (未見)
-- [173] [CITE[用水川崩に付与中人足願]] [SRC[>>17 /25 J—17, >>164]]
--- [184] [DATA(.text)[慶喜弐年正月廿二日]] [SRC[>>164]]
-- [177] >>164 内で >>176, >>173 の情報が混乱している:
--- [174] 白黒写真 [L[J—17]] [SRC[>>167]]
---- [180] 「[DATA(.text)[[V[慶喜弐年正月廿二日]]]]」 ([[草書]])
--- [178] 「[V[[YOKO[(C)]]  慶喜弐年正月廿二日  「川除普請に付与中人足願」 [WEAK(smaller)[([YOKO[H]]—[YOKO[16]]・口絵写真参照・裏書「申正月廿二日」)]]]]」 [SRC[>>164]]
--- [179] 「[V[[YOKO[(D)]]  慶喜弐年正月廿二日  「用水川崩に付与中人足願」 [WEAK(smaller)[([YOKO[H]]—[YOKO[16]]・裏書「申正月廿三日」)]]]]」 [SRC[>>164]]
-- [185] 
[CITE(.label)[永代立申田中屋敷之事]]
[SRC[>>3 [[二の二]], >>17 /14 B—28, >>164 [V[[YOKO[(E)]]]]]]
--- [97] 
[DATA(.label)[[CITE[輪島市史]] [[上梶家文書]]二の二 [CITE[慶長二年  里村次郎兵衛請屋敷証文]]]]
---- [188] 全文翻刻 [SRC[>>3]]
----- [98] 
[CITE(.label)[永代立申[ASIS[用]]中屋敷之事]],
[[次郎兵衛]],
[DATA(.text)[[V[慶喜弐年  月廿七日]]]]
[SRC[>>3]]
--- [197] 
[CITE(.label)[里村次郎兵衛証文写]]
[SRC[>>18 [V[二二]]]]
---- [199] 全文翻刻
----- [198] 
[CITE(.label)[[V[永代立申用中屋敷之事]]]]
------ [200] 
「[DATA(.text)[[V[慶長弐年□月廿七日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>18]]
--- [186] [DATA(.text)[慶喜二年正月廿七日]] [SRC[>>164]]
- [115] [CITE[[V[寛永弐拾年[SUP(smaller inline)[ニ]]御数寄屋炭指上ル事]]]]
[SRC[>>4 ([CITE[能登国古文書]]), >>164 [V[[YOKO[(H)]]]] ([CITE[能登国文書]]二)]]
-- [192] 
[DATA(.text)[[V[[RUBY[慶喜弐年正][(寛永二十一年)]]月十五日]]]]
[SRC[>>4 ([CITE[能登国古文書]])]]
- [114] 
[DATA(.label)[[[尾間谷文書]]]],
[DATA(.addr)[[[日本国]][[石川県]][[珠洲市]]]] 
-- [189] 
[CITE(.label)[北山・南山下人使役に付願]]
--- [250] 
「[DATA(.text)[[V[慶[RUBY[喜弐][(ママ)]]年正月廿一日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>247]]
--- [25] [DATA(.label)[[[尾間谷利行家文書]]54 [CITE[慶喜2年 北山・南山下人使役に付願]]]]
[SRC[>>110]]
---- [125] 白黒写真、文字判読可能 [SRC[>>11 /7]]
---- [126] [[翻刻]] [SRC[>>11 /220]]
---- [127] 「[DATA(.text)[[V[慶喜弐年正月廿一日]]]]」 ([[草書]])
--- [190] [CITE(.label)[下人共人なみの百姓取立願]]
[SRC[>>164 [V[[YOKO[(G)]]]] ([[珠洲市]][[尾間谷文書]], [CITE[北陸史学]]創刊号)]]
---- [191] 慶喜弐年正月廿一日
- [116] [DATA(.label)[[[山下又太郎家文書]]3 慶喜2年 [CITE[秋吉村組頭御請状]]]],
[DATA(.text)[[V[慶喜弐年二月廿一日]]]],
[DATA(.addr)[[[日本国]][[石川県]][[珠洲郡]][[内浦町]][[秋吉]]]] 

]ITEMS]

[392] 
[[日本国]][[石川県]][[奥能登]]地域 (旧[[加賀藩]]領)
の旧家などに多くの用例が残されています。


[99] 
[[日本国]][[石川県]][[輪島市]]に残された[[上梶家文書]]に属する[[文書]]に用例があります
(>>170)。
[[上梶家]]は[[寛永]]期から[[加賀藩]]の[[十村役]]を務めた有力農家です [SRC[>>1]]。

[119] 
[[加賀藩]]の地方統治機関である[[奥郡御算用場]]が発行した受領書に用例があります
(>>115)。[[藩]]役人から地元の農民に対して発行したものです。

** 静岡県下の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [117] [DATA(.label)[[[増参寺文書]]]],
[DATA(.addr)[[[日本国]][[静岡県]][[磐田市]]]]
([[磐田郡]][[岩田村]])
[[増参寺]]所蔵
-- 
[269] 
[CITE(.label)[向笠村勘右衛門外四名連署手形]]
---
[272] [CITE(.label)[向笠村勘右衛門外四名連署手形]]
全文翻刻 [SRC[>>62 ([[史料編纂所]][[影写本]])]]
----
[268] 
「[DATA(.text)[[V[[RUBY[慶__&&swc663(㐂)&&__][ (マヽ)]]二年[SUP(smaller inline)[申ノ]]二月一日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>62 ([[史料編纂所]][[影写本]])]]
---
[274] [CITE(.label)[向笠村勘右衛門外四名連署状]]
全文翻刻 [SRC[>>61 [V[一三五〇]]]]
----
[275] 
「[DATA(.text)[[V[慶[RUBY[㐂貳][(ママ)]]年[LINES(smaller)[申ノ][二月一日]]]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>61 [V[一三五〇]]]]
--
[270] 
[CITE(.label)[上気賀村甚左衛門外二名連署手形]]
---
[273] [CITE(.label)[気賀村甚左衛門外二名連署手形]]
全文翻刻 [SRC[>>62 ([[史料編纂所]][[影写本]])]]
---- 
[271] 
「[DATA(.text)[[V[[RUBY[慶__&&swc663(㐂)&&__][ (マヽ)]]二年[BR[]]    [SUP(smaller inline)[申ノ]]二月二日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>62 [V[二]] ([[史料編纂所]][[影写本]])]]
---
[276] [CITE(.label)[上気賀村甚左衛門外二名連署手形]]
全文翻刻 [SRC[>>61 [V[一三五一]]]]
---- 
[277] 
「[DATA(.text)[[V[慶[RUBY[㐂二][(ママ)]]年[BR[]]    [SUP(smaller inline)[申ノ]]二月二日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>61 [V[一三五一]]]]


]ITEMS]

[REFS[

- 
[62] 
[CITE@ja-JP[静岡県史料 第5輯]], [[静岡県]], [TIME[昭和16][1941]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T10:15:21.021Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1220975/1/215>
-
[61] 
[CITE@ja-JP[[[曹洞宗古文書]] 下巻]], [[大久保道舟]], [TIME[1962]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T10:08:08.961Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2987494/1/200> (要登録)

]REFS]


** 薩摩藩領の用例




[ITEMS[ [[日時事例]]

- [324] 
[DATA(.label)[巻102 377]]
-- [325] [DATA(.label)[全文翻刻]]
[SRC[>>33]]
--- [326] 
「[V[御文庫貳拾番箱四拾卷中]]」
[SRC[>>33]]
--- [327] 
「[V[[SNIP[]]寬永十四年十二月ゟ[RUBY[慶喜二年二月迄󠄃][「朱カキ」「正保元年歟」]]、月數七拾[BR[]]七ケ月潤月籠[SNIP[]]]]」
[SRC[>>33]]
- [340] 
[DATA(.label)[寛永軍徴巻20 558]]
-- [341] [DATA(.label)[全文翻刻]]
[SRC[>>306]]
--- [342] 
「[V[[SNIP[]]寛永十四年十二月よ[RUBY[り慶喜二年][『正保元年欤󠄄』]]二月迄󠄃、月数[BR[]]七拾一ケ月、潤月籠、[SNIP[]]]]」
[SRC[>>306]]
--- [343] 
後編6 377号 (>>324) と同一文書なるべし
[SRC[>>306]]
---- [344] 
よく見ると月数が違います。
- [328] 
[DATA(.label)[卷102 384]]
-- [331] [DATA(.label)[全文翻刻]]
--- [329] 
「[V[「御文庫廿番箱四拾卷中」]]」
[SRC[>>35]]
--- [330] 
[[根占七郎重永]]著
[SRC[>>35]]
--- [332] 
「[DATA(.text)[[V[慶喜二年[SUP(smaller inline)[申]]三月吉祥日]]]]」
[SRC[>>35]]
--- [333] 
「[V[「右慶喜ノ年號ハ當時ノ誤󠄄ニテ正保元年ノ申ニ當ル」]]」
[SRC[>>35]]
- [334] 
[DATA(.label)[卷102 385]]
-- [335] [DATA(.label)[全文翻刻]]
--- [336] 
「[V[「綱久公御譜中」]]」
[SRC[>>35]]
--- [337] 
「[V[改年之爲吉慶、使者殊太刀一腰󠄃・馬一匹到來、[SNIP[]]]]」
---[338] 
「[DATA(.text)[[V[[SUP(smaller inline)[[RUBY(normal)[ 「寬永二][「朱カキ」]]十一年」]]三月十二日]]]]」
[SRC[>>35]]
--- [339] 
[[島津綱久]]発[[種子嶋左近大夫]]宛
[SRC[>>35]]
- [314] 
[DATA(.label)[巻100 307]]
[SRC[>>29]]
-- [315] [DATA(.label)[全文翻刻]]
--- [316] 「[V[「御文庫拾九番箱三拾九卷中」]]」「[V[「光久公御譜中ニ在リ」]]」
[SRC[>>29]]
--- [317] 
「[DATA(.text)[[V[[SUP(smaller)[[RUBY(normal)[ 「寛永廿][「朱カキ」]]年」]]卯月十二日]]]]」
[SRC[>>29]]
- [318] 
[DATA(.label)[巻100 308]]
[SRC[>>29]]
-- [319] [DATA(.label)[全文翻刻]]
--- [320] 「[V[「御文庫拾九番箱三拾九卷中」]]」「[V[「光久公御譜中ニ無之」]]」
[SRC[>>29]]
--- [321] 
「[DATA(.text)[[V[卯月十三日]]]]」
[SRC[>>29]]
--- [323] 「[V[五月五日]]」に届いて云々 [SRC[>>29]]
-- [322] 追録1 622号と同文 [SRC[>>29]]
- [622] 
[DATA(.label)[巻6 622]]
[SRC[>>20, >>39]]
-- [311] [DATA(.label)[全文翻刻]]
--- [313] 「[V[光久公御譜中]]」「[V[正文在文庫]]」
[SRC[>>39]]
--- [312] 
「[DATA(.text)[[V[[LINES(normal)[[RUBY(quarter)[ 明暦][朱カキ]]二年][ ]]卯月十三日]]]]」
([[明朝体]])
[SRC[>>39]]
- [345] 
[DATA(.label)[寛永軍徴巻20 559の1]]
-- [346] [DATA(.label)[全文翻刻]]
「[V[右書付之内[SUP(smaller inline)[ニ]]慶喜二年と有之者偽説之由、加久藤古帳[SUP(smaller inline)[ニ]][BR[]]見當為考左[SUP(smaller inline)[ニ]]注置也、正保改元之前と被考候、]]」
[SRC[>>306]]
--- [347] 「右」 >>340
--- [348] 「左」 >>349
- [349] 
[DATA(.label)[寛永軍徴巻20 559の2]]
-- [350] [DATA(.label)[全文翻刻]]
[SRC[>>306]]
--- [351] 
「[DATA(.text)[[V[[LINES(smaller)[『正保元年』][     申ノ]][BR[]]         五月十日]]]]」
[SRC[>>306]]
--- [352] 
[[種子嶋左近丞]]・[[伊集院右衛門佑]]発
[SRC[>>306]]


]ITEMS]

[239] 
旧[[薩摩藩]]領関係で[[慶喜]]を使った[[文書]]や[[慶喜]]に関する議論の記録があります。



[355] 
[CITE[旧記雑録]]
は、[[薩摩藩]]内の[[古文書]]等を集成したものです。
[[薩摩藩]][[記録奉行]][RUBYB[[[伊地知季安]]][[TIME[1782]]-[TIME[1867]]]]が[[文政]]時代の頃から作業を開始し、
[[子]]の[[伊地知季安]]によって[[明治時代]]まで編纂が続けられました。
[[昭和時代]]に[[鹿児島県]]より[CITE[鹿児島県史料]]として刊行が開始され、
[[令和時代]]現在も続いています [SRC[>>307]]。

[356] 
現在ウェブ公開されている範囲の
[CITE[旧記雑録]]
中には[[慶喜]]関連文書が数点含まれています。
うちいくつかは藩内での書写に由来するらしい重複です。
各文書には
[CITE[旧記雑録]]
編者によるらしい注釈の他に[[別筆]]や[[朱書]]の注釈も加わっていますが、
どれがいつ誰による注釈なのかは検討が必要です。

-*-*-

[38] 
>>324 >>340 は[[利息]]に関する書付と、それを写して注釈を付けたものです。
いつのものかは定かではありませんが、本文中[[字下げ]]された部分に、
[TIME[寛永14(1637)年][1637]]12月から慶喜2年2月まで、月数77ヶ月 
([[閏月]]込み) とあります。
(ただし >>340 は71ヶ月となっています。)

- 寛永14年 12月     :  1ヶ月
- 寛永15年          : 12ヶ月
- 寛永16年 閏月あり : 13ヶ月
- 寛永17年          : 12ヶ月
- 寛永18年          : 12ヶ月
- 寛永19年 閏月あり : 13ヶ月
- 寛永20年          : 12ヶ月
- 寛永21年 1月, 2月 :  2ヶ月

で合計77ヶ月であり、慶喜2年とは[TIME[寛永21(1644)年][1644]]を指すことがわかります。

[27] 
>>324 >>340 とも慶喜2年に[TIME[正保元(1644)年][1644]]を意味すると注釈があり、
計算と一致しています。

-*-*-

[357] 
>>328 は[[薩摩藩]]士の[RUBYB[[[根占重永]]][[TIME[1622]]-[TIME[1688]]]] 
([[禰寝重永]], 藩主[[島津忠恒]]の[[子]]) による[[文書]]ですが、
日付が慶喜2年申3月となっています。

[358] 
>>328 の注釈には、[[慶喜]]は当時の誤りで[TIME[正保元(1644)年申][1644]]に当たるとあります。

[359] 
残念ながら近い時期に[[根占重永]]発給文書は他に収録されていませんが、
他者のものでは寛永21年2月22日 (378番)、寛永21年4月2日 (391番, 392番),
寛永21年4月5日 (394番),
寛永21年4月大吉祥日 (395番、文中に[[根占重永]]言及あり)
など[[寛永]]と明記した[[文書]]があります。

[360] 
>>334
は藩主[[島津光久]]の子[RUBYB[[[島津綱久]]][[TIME[1632]]-[TIME[1673]]]]から[[薩摩藩]]士[RUBYB[[[種子島忠時]]][[TIME[1612]]-[TIME[1654]]]]に宛てた[[文書]]です。
日付は3月12日で、[[朱書]]で[TIME[寛永21(1644)年][1644]]とされています。
>>334 本文には「改年」云々とあります。
これが[[改元]]を指すのか[[新年]]を指すのか、あるいは他の意味なのかは検討が必要ですが、
いかにもな時期なので一応紹介しておきます。

-*-*-

[361] 
>>314 は[[林鵞峰]]から[[島津久通]]への4月12日付[[文書]]です。
>>318 >>622 は[[新納久詮]]と[[島津久通]]から[[北郷佐渡守]]、[[山田有栄]]らへの4月13日付け[[文書]]です。
>>622 は[[写本]]です。

[362] 
[RUBYB[[[林羅山]] ([[道春]])][[TIME[1583]]-[TIME[1657]]]],
[RUBYB[[[林鵞峰]] ([[春斎]])][[TIME[1618]]-[TIME[1680]]]]
親子は[[江戸幕府]]の[[儒学者]]でした。
[[正保]]度を含む[[改元]]にも[[江戸幕府]]方で関与し、
[[春斎]]が子孫のために[[改元]]の事情を記録したという[CITE[改元物語]]は現在では当時の[[改元手続き]]の基礎的な史料となっています。
当時は[[日本]][[武蔵国]][[江戸]]に居住していたと思われます。

[363] 
[[新納久詮]]は[[薩摩藩]]の[[家老]]でした。
[RUBYB[[[島津久通]]][[TIME[1605]]-[TIME[1674]]]]は[[薩摩藩]]士で、
後に[[家老]]となりました。
この2人は当時は[[日本]][[武蔵国]][[江戸]]の藩邸に居住していたと思われます。
[[島津久通]]は[[江戸]]滞在中に[[春斎]]の門人となりました。

[364] 
[[北郷佐渡守]]は[[薩摩藩]]士でした。
[RUBYB[[[山田有栄]]][[TIME[1578]]-[TIME[1668]]]]は[[薩摩藩]]の[[家老]]でした。
この2人は当時は[[日本]][[薩摩国]][[鹿児島]]に居住していたと思われます。

[31] 
>>314 には寛永20年と[[朱書]]があり、
[TIME[寛永20(1643)年][1643]]に配置されています。
>>318 には年がありませんが、 >>314 の次に配置されています。
>>622 は明暦2年と[[朱書]]があり、
[TIME[明暦2(1656)年丙申][1656]]に配置されています。

[26] 
>>318 >>622 は明らかに同文です。
>>318 文中に[[春斎]]への照会の旨があり、 
>>314 はその[[春斎]]からの返答であることが明らかです。
>>318 末尾には、4月13日の書状が5月5日に届いた旨が書かれています。
また、[[春斎]]の書状にも言及があります。
>>318 >>314 は同じ年に書かれ、
セットで[[鹿児島]]に届いて保管されたと解釈するのが自然です。

[28] 
>>314 >>318 とも、
[[林羅山]]と[[林鵞峰]]が「御即位」につき上洛した旨の記載があります。
>>314 に「去年」とあります。
[[後光明天皇]]が[TIME[寛永20(1643)年10月3日][kyuureki:1643-10-03]]に[[践祚]]、
[TIME[寛永20(1643)年10月21日][kyuureki:1643-10-21]]に[[即位礼]]で、
これに関係しているのだとすると、
[TIME[寛永21(1644)年][1644]]4月と解釈しなければなりません。

[32] 
[TIME[寛永20(1643)年][1643]]説、
[TIME[明暦2(1656)年][1656]]説はどちらも誤りで、
年月が経過してから整理した際に誤認したのでしょう。

[37] 
>>314 >>318 には次のような記述があります。

- [24] 御代官[[宇都長兵衛尉]]や[[川元源八左衛門尉]]が[[江戸]]藩邸に来たが、
送状に「慶喜二年」とあったり、
[[札改]]の[[元号]]が変わっていたりしている。
- [365] どこからの通知で[[薩摩藩]]国元が[[改元]]しているのかおかしなことだ。
[[京都]]で[[改元]]があったなら[[御蔵衆]]から連絡があるはずでやはりおかしい。
- [366] [[川元源八左衛門尉]]に何の根拠で[[改元]]しているのかと問えば、
新年の暦にそう印刷されていたようなことをいう。
- [367] [[林鵞峰]]にも確認したがやはり[[改元]]はない。
-- [369] [[林羅山]]と[[林鵞峰]]は[[後光明天皇]]の[[即位]]の折[[上洛]]していた。
-- [370] その際より[[改元]]のことを、
[[上方]]でも[[江戸]]でも、[[公家]]でも[[武家]]でも、
下々に沙汰があってもこれまで[[改元]]はされていない。
-- [371] 今度公家衆が[[江戸]]に来て[[改元]]の話があるのかないのかも知らないが、
[[改元]]になるまでは[[寛永]]の[[元号]]を使うものである。
-- [372] [[慶喜]]と[[改元]]が決まったことはない。
-- [373] [[代始改元]]はする事例も多いし、しない事例も多く、
今次どうすると決まったかも知らない。
- [368] [[薩摩]]は辺境で[[改元]]があっても一両月は旧[[元号]]のままなのがいつものことでしょう。


;; [416] 
この時代の[[薩摩]]でどのような[[暦]]が使われたのかはよくわかりません。
[[藩]]の[[薩摩暦]]の創始は[[貞享暦]]の頃とされます。

-*-*-

[374] 
>>349
は[[種子嶋左近丞]]と[[伊集院右衛門佑]]から申5月10日付で発出された[[文書]]で、
春の[[札改]]で[[改元]]があったからと[[改札]]に[[慶喜]]と書いていたものを、
[[改元デマ]]だったため[[寛永]]に書き直すかどうかの話になっていたことが書かれています。

[375] 
>>349 の[[日付]]は申年としかありませんでしたが、
[TIME[正保元(1644)年][1644]]と書き入れがあります。
>>345 によると >>349 は[[加久藤古帳]]に書かれていたもので、
>>340 に書かれた「慶喜二年」の解釈に使われました。

;; [376] [[加久藤古帳]]は他に用例が見つからず不明ですが、
[[薩摩藩]]領[[加久藤]]地域でそのような記録があったのでしょう。

[377] 
>>345 は[[伊地知季安]]の記述なのでしょうか、それとも更に古い記録の引用でしょうか。
時期不明ですが、これが[[慶喜]]の研究史上の初出と考えられます。


[REFS[

- [307] 
[CITE@ja[鹿児島県/[[鹿児島県史料]]]], [[鹿児島県]], [TIME[2024-04-04T09:01:10.000Z]], [TIME[2024-07-20T12:50:52.495Z]] <https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/kensi.html>
-- [308] 
[CITE[旧記雑録]]追録一
---[20] 
[CITE@ja-JP[[[鹿児島県史料]] 旧記雑録追録 第1巻]], [[鹿児島県維新史料編さん所]], [TIME[1971]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-20T12:37:09.647Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9769736/1/158> (要登録)
---[39] [CITE[6756_20221006172556-1.pdf]], [TIME[2022-11-15T01:00:10.000Z]], [TIME[2022-12-23T08:46:09.073Z]] <http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6756_20221006172556-1.pdf#page=124>
-- [309] 
[CITE[旧記雑録]]後編六・附録一
--- [29] [CITE[6756_20221202140631-1.pdf]], [TIME[2022-12-13T06:00:54.000Z]], [TIME[2022-12-23T08:19:03.816Z]] <http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6756_20221202140631-1.pdf#page=50>
---- [30] >>21 の pp.234-235 と同じもの
--- [33] [CITE[6756_20221202140631-1.pdf]], [TIME[2022-12-13T06:00:54.000Z]], [TIME[2022-12-23T08:29:35.249Z]] <http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6756_20221202140631-1.pdf#page=142>
---- [34] >>21 の p.325
--- [35] [CITE[6756_20221202140631-1.pdf]], [TIME[2022-12-13T06:00:54.000Z]], [TIME[2022-12-23T08:30:37.785Z]] <http://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6756_20221202140631-1.pdf#page=144>
---- [36] >>21 の p.327
---
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[21] 
[CITE[[[旧記雑錄]]: 後編, 付錄 1 - Google ブックス]], [TIME[2022-12-23T07:43:57.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=1rFlAAAAIAAJ&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22>
]FIGCAPTION]


>234 ページ
>... 兵衛尉被參候、其送狀慶喜二年と有之候、何方より改元之由御到來候て、御國中改候哉、希代不思儀成仕合候、天下之改元之刻者仰出有之候間、右之樣子承候、拙者共前よりも可中下、申出候人之御糺明被成へく候、御油断有間敷候、乍重言爲御存候、以上、
>235 ページ
山田民部少輔樣北鄉佐渡守樣久通嶋津圖書頭新納右衛門佐© ( + » )卯月十三日之狀五月五日二屆、但西目表面高 ㄑ [川上〕、川上後藤兵衛受取被持下由候、一慶喜年號無之儀候問、其御心得可有由候、一春齋/狀被差下候事、(張紙)「光久公御譜中二無之」(本 ...
>325 ページ
>五匁三分ツ、利銀拾貫二百八拾三匁三分五厘「朱力 + 」「正保元年」右者寬永十四年十二月慶喜二年二月迄、月數七拾七夕月潤月籠但一三百目二二利本利合十四貫七百三十八匁三分五厘一毛「御文庫番箱四拾卷中」覺一志布志大慈寺事、昔東福寺派之儀無別儀侯 ...
>327 ページ
>... 大小神祇別者當國鎮守新田八幡大菩薩開聞正一位大隅正八幡大菩薩霧嶋山大權現當所鎮守五社大明神愛岩山大天狗小天狗天滿大自在天神、神罸冥罸可蒙罷身上者也、仍起請文如件、根占七郎(花押)慶喜二年申三月吉祥日重「右慶喜 2 年號八當時/誤二亍正保元 ...
>346 ページ
>... 長次郎」「此御書四拾八番箱御卷物中二在之」御返報又三郎投 N 「上包」 843 御返報又三郎般霜月十六日◎ (花押)日新疆御判〕 2 就實名下〈字改替、使者賀札其外種~慶喜不少候、仍從是茂太刀一腰・青銅二百疋令表祝儀候、恐 z 謹言、御返報又三郎殿谷軒.


]FIG]
--
[310] 
[CITE[旧記雑録]]伊地知季安著作史料集二
--- [306] 
[CITE@ja[6756_20230112152637-1.pdf]], [TIME[2023-01-19T01:00:32.000Z]], [TIME[2024-07-20T12:49:48.965Z]] <https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6756_20230112152637-1.pdf#page=92>
---
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[22] 
[CITE[[[旧記雑錄]]: 拾遺. 伊地知季安著作史料集 - 伊地知季安 - Google ブックス]], [TIME[2022-12-23T07:45:37.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=BUD5kNabzWAC&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22>
]FIGCAPTION]


>443 ページ
>... 二五三分》、二但京都三午一之賦人林披官并夫八万五千四百六十人出水·阿久根·高尾野架一人数专万五千九百六十五人利銀拾貫式百八十三红三分五 9 ( ?? )右者、寬永十四年十二月上少慶喜二年二月迄月数七右(閏)十七午月、王月籠、但它今月二百目二式分?
>446 ページ
>558 NN 一人二付专 5 月二五三分銀子四貫四百五拾五久一/賦 y 、、但京都三分所賦利銀拾貫二百八拾三三分五厘『正保元年软』右者、寬永十四年十二月上 5 慶喜二年二月迄月数七拾一个月、潤月籠、但一夕月百目二二红》、、菁之利、本利合十四貫七百三十八 ...

]FIG]
---
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[23] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9639989/1/237> (非公開)
]FIGCAPTION]

>慶喜と被書付候、然處慶喜年号風説之由候間、寛永ニ被書直候様ニ我〓前より可申渡由、御家老衆より被
]FIG]

]REFS]


*** 慶貴


[90] 
[[日本国]][[鹿児島県]][[薩摩川内市]]で[RUBY[[ASIS[慶][一部欠損]]貴][けいき]]2年 
(おそらく[[没年]]) 
の[[墓]] ([[五輪塔]]) を
「つい最近」
みたという証言があります。
中世末期 (西暦1500年代) から近世初期頃の[[墓]]だといいます。
[SRC[>>91 40分頃]]


[378] 
[TIME[2023-12-29]]に[[日本国]][[鹿児島県]][[姶良市]]の[[ラジオ局]][[あいらびゅーFM]]で放送され、
[TIME[2024-01-02]]に [[YouTube]] で配信開始された
[CITE[たっつぁんのテラバナシ]]
で[[川田達也]]が紹介しました。

[380] 
[RUBYB[[[川田達也]]][[TIME[1988]]-]]は[[ブログ]]で10年以上にわたって[[鹿児島県]]下の石造物の写真を公開しています
[SRC[>>379]]。
しかし慶貴2年墓は掲載されていません。

[REFS[

- [91] [CITE@ja-JP[たっつぁんのテラバナシ2023年12月29日【私年号の世界】 - [[YouTube]]]], 
[[あいらびゅーエフエム]],
[[たっつぁん]] ([[川田達也]]),
2024/01/02,
[TIME[2024-01-03T04:17:55.000Z]] <https://www.youtube.com/watch?v=YHAznsGUXJ8>
- [379] 
[CITE@ja[薩摩旧跡巡礼]], [[rinzo]], [TIME[2024-07-21T05:53:43.000Z]], [TIME[2024-07-21T06:12:20.740Z]] <http://nicool0813.blog.fc2.com/>


]REFS]


* 研究史

[417] 
正体が不明となっていた[[昭和時代]]に色々な説が提出されました。

- [419] [[改元デマ]]説: [[デマ]]を信じて使ったとする : >>393, >>221
- [420] [[私年号]]説:                                  >>264
-- [421] [[慶長]]に着想を得たとする                  : >>296
-- [423] [[加賀藩]]継嗣誕生祝とする                  : >>222
- [422] 誤記説: [[慶長]]の誤記とする                 : >>204
- [418] [[慶祝年紀]]説: 縁起の良い文句だとする       : >>286


** 改元デマ説

[393] 
[[江戸時代]]末期の[[日本]][[薩摩藩]]の歴史研究者[[伊地知季安]]の記録中 (>>345)
に、
文書中の「慶喜二年」を当時の[[薩摩藩]]公文書を引いて[[正保]]改元時の[[改元デマ]]と考察したものがあります
(>>377)。

[394] 
これが当時の用例そのものや同時代の[[公文書]]等を除いた研究史上の[[慶喜]]の初出といえます。
同時代記録にアクセスできたことで[[改元デマ]]という「正解」に初めからたどり着けていました。

[395] 
しかし残念ながらこの考察は[[平成時代]]まで広く刊行されることがなく、
他地域の研究者は独立した検討を重ねることになります。


[279] 
[[日本国]][[静岡県]]下の用例 (>>269 >>270) は昭和10年代が研究史上の初見でしたが、
[[ママ注]]のみで年代の比定は行われていませんでした。
[[日本国]][[石川県]]下の用例は昭和20年代が研究史上の初見でした (>>254)。
これらはしばらく埋もれていました。


** 慶祝年紀説


[233] 
[RUBYB[[[佐藤貫一]]][[TIME[1907]]-[TIME[1978]]]]は、
[[昭和時代]]の[[日本刀]]研究の権威として知られ、
[TIME[昭和35(1960)年][1960]]には[[東京国立博物館]]刀剣室に勤めていましたが、
著書
[CITE[康継大鑑]]
で多くの刀剣類の1つとして慶喜元年銘短刀 (>>227) を紹介しました。
[SRC[>>46]]



[282] 
本書がこの短刀の現在知られている初見ですが、これ以前から知られていた可能性はあります。

[283] 
本書によれば、銘文は「慶喜」としか読めません。
しかし[[日本]]、[[支那]]、[[朝鮮]]の[[元号]]にはありません。
古くは[[私年号]]というものがありましたが、それも[[鎌倉時代]]以後にはありません。
[SRC[>>46]]

;; [293] 
[[私年号]]が[[鎌倉時代]]以後にないという事実はなく、何らかの誤解と思われます。


[286] 
そこで本書は
「元年」「正月」「大吉日」と共に「最上のよい日」を意味する
「慶祝年紀」だと推定しました。
それが奉納者の創案なのか、作刀者が奉納者の意を察したものなのかは不明としました。
[SRC[>>46]]

[48] 
ただ本書は
「[V[慶喜元年正月大吉日]]」は「慶祝年紀」だと断定しながらも、
こうした例は[[康継]]にも他にもないと書いています。
[SRC[>>46 /392]]



;; [49] 
刀剣の専門家である筆者がこう推測するのは、
銘文に目出度い文句を書く事例が多いからでしょう。
古くは[[五月丙午]]のような例があります。
が、[[元号名]]の事例はなかなかみません。
「元年正月大吉日」に目出度さを感じた可能性は確かにありますし、
[CH[慶]], [CH[喜]]がいかにも目出度い文字ではあります。
しかし類例がない限りは慎重になりたいところですね。
「慶喜」に[[改元]]して目出度いのに合わせて
「元年正月大吉日」
という日付を選んで書いたという逆向きの可能性もあるでしょう。


[45] 
本書は二代康継は「[V[余程の洒落者]]」だったとみて銘文の事例を3つ挙げていて、
そのうちの1つが
「[V[慶喜元年正月大吉日]]」のようなものは「慶祝年紀」です。
他の1つは[CH[鏗]]の字で、「[V[如何なる辞書にもなく]]」
訓みを推測しています。
[SRC[>>46 /103]]

[287] 
ところがその[CH[鏗]]は[CITE[康煕字典]]にも[CITE[大漢和辞典]]にもあり、
現在は[[JIS第2水準漢字]]にもなっています。
[[昭和時代]]当時は見つけることが難しかったのかもしれませんが、
実は普通の[[漢字]]として用いられているものですから、再考が必要でしょう。
洒落者という評価も例示の[FRAC[2][3]]が疑わしいとなれば怪しくなってきます。




[REFS[

- [46] 
[CITE@ja-JP[康継大鑑]], [[佐藤貫一]], 
[V[[TIME[昭和卅五年十一月二十三日][1960-11-23]]発行]], 
[TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-20T09:12:02.300Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/8799602/1/181> (要登録)

]REFS]

** 刀剣研究者の私年号説


[295] 
[TIME[昭和37(1962)年][1962]]に刊行された講演記録で[[日本]]の刀剣研究者[RUBYB[[[福永酔剣]]][[TIME[1914]]-?]]は、
刀剣銘文の[[日時表示]]の解釈をめぐって[[私年号]]をいくつか紹介しています。
[SRC[>>50]]

[296] 
[[慶喜]]は「[V[私年号と見るべきもの]]」であるとし、
当時[[私年号]]空白期とされていた[[近世]]の[[私年号]]の存在を実証する貴重な資料と指摘しました。
[SRC[>>50]]
しかしその判断の根拠は示していません。

[299] 
[TIME[昭和42(1966)年][1966]]、[[日本]]の刀剣研究者[[すいけん]]は、
刀剣銘文にみられる[[私年号]]をいくつか紹介しています。
[SRC[>>297]]

[300] 
[[慶喜]]を「慶祝年紀」とする[CITE[康継大鑑]]説 (>>286) に対して、
[[慶喜]]は[[永喜]]のように[[私年号]]だとしています。
そして「[V[作品からみて]]」[[寛永]]年間と断定し、
[[近世]]に[[私年号]]がないとする定説を覆す貴重な資料と指摘しました。
[SRC[>>297]]

[303] 
[TIME[昭和47(1972)年][1972]]、
[[日本]]の刀剣研究者[[福永酔剣]]は、
慶喜元年銘短刀 (>>227)
の銘文を検討しました。
[SRC[>>302]]

[294] 
[[慶喜]]を「慶祝年紀」とする[CITE[康継大鑑]]説 (>>286) に対して、

- [304] [[私年号]]は[[鎌倉時代]]以後ないとするのは誤りであること。
- [305] [[門守]]という[[私年号]]を切った[[刀銘]]の前例があること。

を挙げて、[[慶喜]]は[[慶長]]にヒントを得た[[私年号]]と見るべきだとしました。
[SRC[>>302]]




;; [301] >>52 中で[V[福永酔剣]], [V[すいけん]], [V[酔剣]]の3名義が登場し、
[[国立国会図書館]]目次データでは[[福永醉剣]]とも表記されていますが、
いずれも同一人物でしょう。



[REFS[

- 
[53] [CITE@ja-JP[[[刀剣史料]] (46)]], [[南人社]], [TIME[1962-10]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T09:48:39.143Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/8099939/1/9> (要登録)
-- [50] 
[CITE[刀剣古文書学(一〇)]],
[[福永酔剣]]
- [52] 
[CITE@ja-JP[[[刀剣と歴史]] (431)]], [[日本刀剣保存会]], [TIME[1966-05]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-20T10:20:36.982Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7901125/1/22> (要登録)
-- [297] 
[CITE[刀銘の私年号について]],
[[すいけん]]
- [51] 
[CITE@ja-JP[[[刀剣と歴史]] (465)]], [[日本刀剣保存会]], [TIME[1972-01]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-20T11:51:59.177Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7901159/1/29> (要登録)
-- [302] 
[CITE[添え銘の話(上)]],
[[福永酔剣]]

]REFS]




** 慶長説

[204] 
[[日本国]][[石川県]][[能登]]地方の用例は昭和20年代が研究史上の初見で (>>254)、
昭和40年代になって存在がよく知られるようになりましたが、
当初は時代と字形が近い[[慶長]]と誤認されていました。

[100] 
[TIME[昭和46(1971)年][1971]]の[CITE[輪島市史]]資料編は、
[[上梶家文書]]から[[慶喜]]の用例2件を収録しました (>>181 >>98)。
[[慶喜]]を[[慶長]]の誤りではないかと疑い、
慶長2年の見出しをつけて配置しました。 [SRC[>>3]]

[201] 
[TIME[昭和48(1973)年][1973]]刊行の
[CITE[加能古文書]]
の補遺は、
[[上梶家文書]]から[[慶喜]]の用例2件を収録しました (>>196 >>200)。
[[慶喜]]は[[慶長]]と[[翻刻]]されて、何の注釈もありませんでした。
[SRC[>>18]]

[202] 
[CITE[輪島市史]]と[CITE[加能古文書]]の収録する2件は同一のものです。
両者に参照関係なり、同じ調査結果からの書籍化なりの関係性があるのかどうかは不明です。
[[田川捷一]]は[CITE[加能古文書]]は[CITE[輪島市史]]を引いたと思えると書いています
[SRC[>>164]]。



[203] 
[CITE[加能古文書]]
が注釈もなしに[CH[長]]と読んだ理由も不明で、
誤読の可能性もありますし、
[[草書]][CH[㐂󠄂]]が[CH[長]]のように見えなくもないので、
敢えて注釈するまでもない軽微な誤字として暗黙に校訂した可能性もあるでしょうか。
いずれにせよ[[翻刻]]にはこうした「[[正規化]]」が紛れ込んでいるケースが他にもあろうこと、
注意が必要です。

[208] 
[CITE[加能古文書]]
の補遺は、[TIME[昭和21(1946)年][1946]]の原編者死去以後に編集されたものとのことで、
少なくてもその頃までには[[慶喜]]の存在も研究者に知られていなかったと考えられます。

[209] 
[TIME[昭和46(1971)年][1971]]に刊行された[CITE[輪島市史]]の編集のための調査
(やそれと前後した頃であろう[CITE[加能古文書]]補遺のための調査)
で[[慶喜]]が初めて見出された可能性が高そうですが、
単純な誤記と片付けられて重視されなかったと思われます。


** 能登地域史研究者の私年号説


[92] 
[[石川県]]で見出された[[慶喜]]が[[慶長]]の誤記ではなく[[私年号]]であることは、
昭和50年代の調査研究で[[田川捷一]]らによって明らかにされました。
[RUBYB[[[田川捷一]]][[TIME[1931]]-]]は[[昭和時代]]の[[能登]]近世史の研究者です。
[[日本国]][[石川県]][[七尾市]]で[[小学校長]]を務めたほか、
[[能登地方]]各地の[[自治体史]]の編纂にも関わりました。
[[私年号]]関係では他に[[久宝]]の再発見にも寄与しました。
昭和50年代に続々と刊行された自治体史等に、
新発見を通じて[[私年号]]説が発展していく様子が残されています。


- [101] 
[TIME[昭和51(1976)年][1976]]の[CITE[輪島市史]]通史編は、
[[上梶家文書]]に[[慶喜]]の用例が5件あるとし、
うち1件 (>>95) を説明に使いました。
[SRC[>>41]]
--
[102] 
[[慶喜]]は編集委員の[[田川捷一]]の考証によれば[TIME[寛永21(1644)年][1644]]に相当するのではないかと紹介しました。
また、[[越前]]に「慶喜元年」があるとしました。
[SRC[>>41]]
[NOTE[

[43] 
資料編 [SRC[>>3]] を引きながらその慶長2年との解釈には何も触れていません。
考証によって見解が更新されたということなのでしょうが。。。

]NOTE]
- [206] 
[TIME[昭和52(1977)年3月][1977-03]]、
[[田川捷一]]を代表とする[[上梶家文書]]調査団によって[[上梶家文書]]の目録が刊行されました。
[[解題]]には[[田川捷一]]による[[慶喜]]の詳細な検討が収録されました。
[SRC[>>17]]
-- [210] 
本書は「昭和51年度古文書等緊急調査報告書」を称しており [SRC[>>17]]、
[TIME[昭和51(1976)年][1976]]度の事業を年度末までにまとめたものとみられます。
-
[12] 
[TIME[昭和54(1978)年][1978]]の[[日本国]][[石川県]][[珠洲市]]の
[CITE[珠洲市史]]
には[[尾間谷利行家文書]]の慶喜2年文書1点が掲載されました (>>25)。
その注釈で[[慶喜]]は[[私年号]]であるとし、
[[田川捷一]]により慶喜2年は[TIME[寛永21(1644)年][1644]]と推定されていると述べています。
[SRC[>>11]]
-
[133] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]の[[日本国]][[石川県]][[珠洲郡]][[内浦町]]
[WEAK[([[平成の大合併]]により[[鳳珠郡]][[能登町]])]] 
の
[CITE[内浦町史]]
には[[山下家文書]]の慶喜2年文書1点が掲載されました (>>116)。
その注釈で[[慶喜]]は[[私年号]]であるとし、
慶喜2年は[TIME[寛永21(1644)年][1644]]と断定しています。
根拠は示されていません。
[SRC[>>64]]
[NOTE[

[134] [[田川捷一]]が関わったかは不明です。

]NOTE]
-
[107] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]の[[日本国]][[石川県]][[鳳至郡]][[能都町]]
[WEAK[([[平成の大合併]]により[[鳳至郡]][[能登町]])]]
の
[CITE[能都町史]]
は、慶喜2年文書を紹介し、[[慶喜]]について説明しています。
該当部分を執筆した「私」は[[田川捷一]]です。 [SRC[>>4]]


@@
[BOX[

[439] [CITE@ja-JP[石川県年表 昭和篇 5]], [[石川県史編さん室]], [TIME[1993.3][1993]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-27T05:54:00.932Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12193694/1/19?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)

[440] 昭和55年7月9日に内浦町で[[私年号]]古文書が発見。 [SRC[>>439]]
どの[[私年号]]なのか不明なるも、発見地と時期から見て本件か。


]BOX]


[108] 
[[田川捷一]]は、
[[上梶家文書]]の調査で慶喜2年文書を再発見しました。 [SRC[>>4]]
ところがその本文は[CITE[輪島市史]]の[TIME[慶長2(1597)年][1597]]説では時代が合わないことに疑問を持ちました。 
[SRC[>>4]]

[207] 
[[田川捷一]]は昭和51年度の[[上梶家文書]]調査を率い、
昭和52年刊行の報告書で私年号説を発表しましたが、
それに先立ち昭和51年1月印刷の市史にもその見解が反映されています。
市史編集のためか他の事業か個人でかはわかりませんが、
昭和51年度になる前にも調査を行っていたのでしょう。
市史の慶長説に疑問を持ち私年号説に至ったのはおおよそ[TIME[昭和46(1971)年][1971]]から[TIME[昭和50(1975)年][1975]]の間と思われます。
[TIME[昭和51(1976)年][1976]]時点で[[慶喜]]の考察が公表されていたのか、
関係者間の情報交換に留まっていたのかは不明です。

[212] 
[[田川捷一]]によると、
[[年表]]にない[[慶喜]]を[[慶長]]の「[V[間違いと想うのは当然]]」で、
[CITE[輪島市史]]資料編や[CITE[増訂加能古文書]]は
「[V[間違えて掲載してあり]]」ます。
[SRC[>>164]]

[213] ところが、慶喜2年文書(B) (>>96) には

- [214] 
「七木」 ([[七木制]] [TIME[元和2(1616)年][1616]]創設)、
「十村」 ([[十村制]] [TIME[慶長9(1604)年][1604]]創設) とあり、
[CITE[輪島市史]]の[TIME[慶長2(1597)年][1597]]説では時代が合いません。 
[SRC[>>164, >>4]]
- [215] 
[[宛所]]に[[寛永]]時代の[[郡奉行]]名があり、
とても[[慶長]]時代とは考えられません。
[SRC[>>164]]

との問題があり、
[TIME[慶長2(1597)年][1597]]説では通説の再考を要します。
[SRC[>>164]]

[216] そこで他の文書を参照すると、

- [217] 
慶喜2年文書(A) (>>171)
に寛永19年とあります。
史料の性格から、[TIME[寛永19(1642)年][1642]]の1,2年後のものと考えられます。
[SRC[>>164]]
- [218] 
慶喜2年文書(C) (>>178),
慶喜2年文書(D) (>>179)
の[[裏書]]に申正月とあります。
[SRC[>>1644]]

であることから、これらを総合して慶喜2年の[[実年代]]は[TIME[寛永21(1644)年甲申][1644]]と判明します。
[SRC[>>164, >>4]]

[219] 
「[V[その後]]」昭和52年の報告書までに、[[石川県]]下で慶喜文書(F) (>>112),
慶喜文書(G) (>>189),
慶喜文書(H) (>>115)
が知られるようになりました。 
[SRC[>>164]]
慶喜文書(F) (>>112)
は[TIME[寛永19(1642)年][1642]]、
慶喜文書(H) (>>115)
は[TIME[寛永20(1643)年][1643]]のことが書かれており、
慶喜2年を[TIME[寛永21(1644)年甲申][1644]]とする結論を強化するものといえます。


[110] [TIME[昭和58(1983)年][1983]]の[CITE[能都町史]]によると、
次の用例が知られていました。
[SRC[>>4]]

- [5] [[日本国]][[石川県]][[輪島市]] [[上梶家文書]] 5点 (1月)
- [6] [[日本国]][[石川県]][[珠洲市]] [[延武文書]] 1点  (1月)
- [7] [[日本国]][[石川県]][[珠洲市]] [[尾間谷文書]] 1点 (1月)
- [8] [CITE[能登国古文書]]所収文書 1点 (>>115) (1月)
- [9] [[日本国]][[石川県]][[珠洲郡]][[内浦町]] [WEAK[([[平成の大合併]]により[[鳳珠郡]][[能登町]])]] 秋吉 [[山下家文書]] 1点  (2月)
- [10] [[日本国]][[静岡県]][[磐田市]][[増参寺文書]] ([CITE[曹洞宗古文書]]下巻p.369所収) 2点  (2月)

[121] >>9 >>10 は「その後」判明したとのことです。 [SRC[>>4]]
具体的にいつかは不明なのですが、
昭和50年代中頃でしょうか。


[278] [[増参寺文書]]慶喜文書 (>>269 >>270) は慶喜2年申と[[十二支年]]が明記されており、
慶喜2年を[TIME[寛永21(1644)年甲申][1644]]とする結論を強化するものといえます。





[211] 
[CITE[輪島市史]]通史編は、
[[慶喜]]は「[V[正式のものではない]]」「[[[V[私年号]]]]」
であると説明していました。
[SRC[>>41]]
目録解題は、
[[慶喜]]は[[年表]]にない「[V[いわゆる「私[BR[]]年号」]]」
だと説明していました。
[SRC[>>164]]

[120] 
その[[私年号]]というものは、
「[V[年号は朝廷で決められ、みだりに私年号を使用することは禁じられていた]]」
[SRC[>>164]]、
「[V[私年号は勝手に使用できなかったのである]]」
[SRC[>>4]]
と説明されていました。
しかしその根拠は何も示していませんでした。

;; [143] 
[[朝廷]]なり幕藩なりが「禁止」するというからには、
市井にそのような発想があった、
禁止しなければ[[私年号]]が濫りに用いられる実態ないし現実性があった、
ということになりますが、
果たしてそのような社会だったのでしょうか。
[[私年号]]禁止説については[[日本の私年号]]も参照。




[205] 
[TIME[昭和51(1976)年][1976]]の[CITE[輪島市史]]通史編は、
「[V[幕藩体制づくりも延びなやみ何となく行きづまりからの脱出[BR[]]を願う気持ちが原因]]」
で生じた[[私年号]]と推測しました。
[SRC[>>41]]
これも[[田川捷一]]の見解のうちなのかは定かではありませんが、
この時点ではまだ[[田川捷一]]もこの見解に少なくても反対ではなかったと思われます。

;; [103] 
理由の説明は意味がいまいちよくわかりません。
[[能登]]の農民が[[幕藩体制]]づくりに挑戦していたのでしょうか!?
理由の推測にいい考えに及ばない行き詰まりの気持ちが表れているようなw

;; [104] 
マジレスすると[[私年号]]にはその時代の政治情勢が現れてくるという
[CITE[日本私年号の研究]]
の推測説を[[慶喜]]の場合に当てはめようとしたのでしょうね...

[66] 
ところが、
慶喜文書(F) (>>112)
と慶喜文書(H) (>>115)
の差出人は[[加賀藩]]の[[御算用所]]の役人や[[郡奉行]]で、
つまりこれらは[[藩]]の[[公文書]]であるにも関わらず[[私年号]]を使っています。
当時の[[加賀藩]]は反幕の姿勢を疑われ[[寛永の危機]]とも言われた時期に当たり、
敢えて[[私年号]]を使って[[江戸幕府]]の反目を買う必要もありません。
[SRC[>>164, >>4]]

[118] 
[TIME[昭和52(1977)年][1977]]の報告書では、

- [220] [CITE[改元物語]]によると[[正保]]度は、
[TIME[寛永20(1643)年][1643]]冬の[[後光明天皇]]の[[即位]]があり、
1つの[[元号]]で3[[天皇]]にわたる例がないとして、
[TIME[寛永21(1644)年][1644]]12月に[[改元]]があったとのこと。
- [221] 説1:
[CITE[改元物語]]の例から[[慶喜]]と[[改元されたと誤報][改元デマ]]があり、
[TIME[寛永21(1644)年][1644]]1月の1ヶ月間だけ使われたが、
誤報と判明して使わなくなった。
- [222] 説2:
[CITE[改元物語]]の古例により、わざわざ[[加賀藩]]が[[慶喜]]というめでたい[[元号]]を正月1ヶ月間のみ[[祥瑞]]記念で使った。
-- [223] 
[[加賀藩]]5代藩主[[前田綱紀]]が[TIME[寛永20(1643)年11月16日][kyuureki:1643-11-16]]誕生。
-- [234] 
[[前田綱紀]]の[[親]]は4代藩主[[前田光高]]・[[大姫]]。[[大姫]]は[[徳川家光]]の[[養女]]。
[[前田光高]]の[[母親]]は[[珠姫]]。[[珠姫]]は[[徳川秀忠]]の[[娘]]。
--- [235] 
[[江戸幕府]]へのおもねりが見える。
「[V[私年号のもつ性格を大きくかえてしまっている]]」。
「[V[私年号の特異な使用例として留意すべき]]」。
-- [224] 
ただし現存するのは[[奥能登]]だけで、[[藩]]の記録にもない。
--- [225] 
[[奥能登]][[御算用場]]でだけ使ったのかもしれない。
-- [236] 
藩主[[前田利常]]の[[江戸幕府]]への恭順の意が末端機関にも伝わり[[私年号]]に現れている
「[V[ような気もしてくる]]」。
- [226] 説3:
[[気比神社]]奉納短刀銘 (>>227)。「[V[この辺から出たもの]]」とも。

と3説提示していました。
[SRC[>>164]]




[NOTE[

[228] 
筆者も断定を避けていますが、どうにもしっくり来ないですね。

[229] 
[CITE[改元物語]]の「例」「古例」というのもよくわかりません。
[CITE[改元物語]]自体は[[近世]]初期の[[改元]]について[[江戸時代]]初期の幕閣が記録したものです。
[CITE[改元物語]]に記録された「1元号で3天皇にまたがらない」
慣例を指すようにも思われますが、
説1の「例」はそうだとしても、説2の「古例」はよくわかりません。

[230] 
説2の正月だけ特別な[[元号]]を使うというのは他で聞いたことがない風習です。
[[藩]]が[[元号]]を作るというのも聞いたことがありません。
([[私大]]の例もありますし、他にないからあり得ないとは言い切れず、
検討するのはいいことですが、説得力に欠けます。)

[231] 
[[藩]]どころか出先機関でだけ祝賀のために使ったという説もかなり無理を感じます。

[232] 
[CITE[改元物語]]の「古例」から出た説2がなぜ藩主の子供の誕生祝いになるのかもよくわかりません。

[237] 
[[私年号]]の性格を大きく変えてしまっているというのもよくわかりませんが、
反政府とまでいかずとも社会不満・不安の現れという[[昭和時代]]当時の通説的(中世)[[私年号]]感と乖離しているということを言っているのでしょう。
ちなみにこの祝賀説を採るなら、類例は[[征露]]ですかね。

[238] 
この時点では説2が一番有力と考えていたように文章からは感じられます。

]NOTE]

[109] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]の[CITE[能都町史]]は、
[TIME[寛永20(1643)年][1643]]の[[後光明天皇]]の[[即位]]があったこと、
1つの[[元号]]で3代の[[天皇]]にわたる例がなかったことから、
[[代始改元]]の[[誤報][改元デマ]]があったと推測しました。
[SRC[>>4]]
つまり報告書3説のうち説1 (>>221) のみが残りました。
これはこの間に新たに[[静岡県]]の用例が報告されて説2 (>>222)
が成立し得なくなったためと考えられます。


;; [124] [[私年号]]として実用されたものが実は[[改元デマ]]だったと考えた早い例です。
[[中世東国私年号]]では[TIME[昭和56(1981)年][1981]]に[[千々和到]]が唱えたのが初めでした。
[SEE[ [[千々和到]] ]]


;; [123] ただ、消去法で残った説で、
[[改元デマ]]と判断するべき確証に欠けるのは残念です。


[122] 
用例から、「慶喜2年」の1月から2月の頃に[[誤報][改元デマ]]が伝わったものと推測され、
[[奥能登]]と[[静岡]]に分布するため今後の各地からの発見が期待されるとしていました。
[SRC[>>4]]
果たしてその後[[薩摩]]でも発見されることになります (>>239)。


[111] 
なお[[上梶家文書]]には

- [240] >>17 /22 左 寛永20年12月2日 ([[御算用所]]発)
- [241] >>17 /17 右 寛永20年12月26日 ([[名舟与十村太郎左衛門]]他発)
- [242] >>17 /18 右 寛永20年12月25日 ([[誤算用所]]発)
- [243] >>17 /21 右 寛永20年12月29日 ([[十村太郎左衛門]]発)
- [244] >>17 /13 右 寛永21年4月2日

の文書があり、完全に時期を絞り込むには至らないまでも、
[[慶喜]]が通用した期間が短かったことが確かめられます。



[NOTE[

[284] 
[[越前]]の刀銘用例 (>>227) 
は[TIME[昭和51(1976)年][1976]]の時点で既に知られていたにも関わらず (>>102)、
[TIME[昭和52(1977)年][1977]]の報告書でも一応申し訳程度に関係を示唆する程度で (>>226)、
関係性を十分検討し切れず、
[[静岡]]の用例が知られるに至って[[加賀藩]]独自説を破棄することになりましたが、
その後も説明に組み込まれていません。

[298] 
[[干支]]がなく[[静岡]]の用例と違って時期の確定に直結しなかったことや、
「慶祝年紀」説は知っても刀剣研究者の[[私年号]]説は知らなかった (引用されていない)
こと、
[[前田藩]]領と同じ[[北陸]]ながらも[[能登]]から遠い[[小浜藩]] (藩主[[酒井忠勝]]) 領の[[敦賀]]所在で[[尾張]]人の奉納という微妙な扱いにくさ、
そして「元年正月」という[[改元デマ]]説と矛盾する日付のため、
扱いあぐねていたのでしょうか。


]NOTE]




-*-*-


[141] 
[TIME[令和5(2023)年][2023]]の[[輪島市]]の広報誌の[[上梶家文書]]の紹介では、
わずかな紙面で[[慶喜]]文書が代表例として取り上げられており、
今なお地元で高く評価されていることがわかります。
[SRC[>>137]]

[142] 
しかしよく見ると[[図題]]はまったく間違っています (>>139)。
「[L[「慶喜」など公的に用いられない私[BR[]]年号の文書]]」
[SRC[>>137]]
と説明された「など」は何を指しているのか気になります。
「[L[慶喜 2 年は私年号で公的に禁止されていた。[BR[]]実際は、寛永 21 年(1644)に比定される。]]」
[SRC[>>137]]
というわかるようなわからないような説明は、
先行する解説 (>>120) を踏襲したものでしょうか。





[REFS[

- [3] 
[CITE@ja-JP[[[輪島市史]] : 資料編 第1巻 (奥能登十村土筆)]], [[輪島市史編纂専門委員会]], [TIME[1971]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-16T11:03:12.876Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536979/1/85> (要登録)
- [17] 
[CITE@ja-JP[[[能登輪島上梶家文書目録]] : 昭和51年度古文書等緊急調査報告書]], 
[[上梶家文書調査団]] (代表 [[田川捷一]]) 編集,
[[石川県立図書館]] 発行,
[L[[TIME[昭和52年3月25日][1977-03-25]]  発行]], 
[TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-20T01:09:00.404Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12159627/1/51> (要登録)
-- [165] [CSECTION[[V[口絵写真]]]]
--- [175] 白黒写真, 字形がほぼ判別できる解像度
--- [166] 
[CSECTION[[L[慶喜2年    指上申名舟与借塩釜賃銀之事    (L—50)]]]] [SRC[/9]]
--- [167] 
[CSECTION[[L[慶喜2年    用水川崩に付与中人足願    (J—17)]]
-- [168] [CSECTION[[V[凡例]]]] [SRC[/12]]
-- [162] 
[CSECTION[[V[五  能登輪島上梶家文書解題]]]]
--- [163] 
[CSECTION[[V[一  上梶家と文書の概要]]]]
---- [169] 
[[上梶家文書]]調査団主任調査員の[[田川捷一]]が中心にまとめたとのこと。 [SRC[>>168]]
---- [164] 
[CSECTION[[V[慶喜弐年の[BR[]]文      書]]]] [SRC[/51]]
-
[18]
[CITE@ja-JP[[[加能古文書]] 増訂 松本三都正増訂]], 
[[日置謙 編纂]], [TIME[1973]], 
[TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-20T02:38:37.663Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536229/1/516> (要登録)
-
[41] [CITE@ja-JP[[[輪島市史]] 第7巻 (通史・民俗編) - 国立国会図書館デジタルコレクション]], 
[V[[TIME[昭和五十一年一月三十一日][1976-01-31]]  印刷]],
[V[[TIME[昭和五十一年二月一日][1976-02-01]]  発行]],
[TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T09:00:18.819Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536984/1/138>
中央
- [11] 
[CITE@ja-JP[[[珠洲市史]] 第3巻 (資料編 近世古文書)]], [[珠洲市史編さん専門委員会]], [TIME[1978.8][1978]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-16T13:03:31.156Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537697/1/220> (要登録)
左
-
[64] 
[CITE@ja-JP[[[内浦町史]] 第2巻 (資料編 近世・近現代・民俗)]], [[内浦町]], [TIME[1982.10][1982]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T10:21:43.717Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9538948/1/130> (要登録)
- [4] 
[CITE@ja-JP[[[能都町史]] 第5巻 (通史・人物誌編)]], [[能都町史編集専門委員会]], [TIME[1983.3][1983]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-16T11:33:04.045Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9539070/1/161> (要登録)

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1] [CITE@ja[[[石川県]]/上梶家文書・平家文書]]
([[石川県]]著, [TIME[2019-05-17 21:10:38 +09:00]])
<https://www.pref.ishikawa.lg.jp/kyoiku/bunkazai/komonjyo/k-16.html>
]FIGCAPTION]

>[SNIP[]]特異な文書として、「慶喜2年」(寛永21年《1644》の私年号使用の文書や、「急々如律令」の文言をもつ呪符、さらに、承応4年(1655)より明治3年(1870)にいたる161点の暦の伝蔵は、県下に類例はみられない。
>昭和60年「石川の文化財」より
]FIG]

- [40] [CITE@ja[[[加越能近世史研究必携]]/2011.7. | テーマ別データベース | リサーチ・ナビ | 国立国会図書館]], [TIME[2022-12-23T08:46:55.000Z]] <https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/023118259.html>
-- [128] 消滅確認 [TIME[2024-07-16T13:15:06.500Z]]
-- [129] 
[CITE@ja[[[加越能近世史研究必携]]/2011.7.]], [TIME[2024-07-16T13:14:41.000Z]] <https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11485446/rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/023118259.html>
--
[FIG(quote)[ [130] >>40

>
-    15寛永十八年六月 鳳至郡東印内村人改211
-    16慶喜二年正月 里村川除人足仰付願212
-    17承応二年三月 間改人など御尋ねに付書上213

]FIG]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[42] [CITE[[[加越能近世史研究必携]] - [[田川捷一]] - [[Google ブックス]]]], 
[TIME[1995]],
[TIME[2022-12-23T08:48:45.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=91D1hgng-rAC&dq=%E6%85%B6%E5%96%9C>
]FIGCAPTION]

>2 ページ
>16 慶喜 2 年正月,鳳至郡里村川除人足付願. 该乡南知 WM77 15 寬永 8 年 6 月鳳至郡東印内村人改合今 is hozha Stegovo 年 2 Cli . ...等名人色 G's 行为中内江分行為过 2 49 ( :东杂集各為多重一年差分. 公分對多设てる{ " PU 在”之 MJ6zt NAAA24 3 5 9 ...
>6 ページ
>202 六月十六日前田利家朱印狀天正十四年三月羽咋郡藏島村校地打渡状天正十五年六月珠洲郡折戶村年貢皆济状慶長五年七月前田利長禁制慶長 w H 寬永十三年七月年貢皆济前借金銀返济停止中渡 b 寬永十八年六月凤至郡東印內村人改 b 慶喜二年正月里村川除人 ...
>212 ページ
>一 16 慶喜二年正月鳳至郡里村川除人足仰付願乍恐申上候一、里村本用地之内取分住吉川原辻/うしろ弐ヶ所、事ノ外川崩ニ罷成申候、就其川ょけ仕申度奉存候間、人足三百人与中「被仰付可被下候御事一、最前御うら判被下候私新開川よけ人足百人可被下候、 ...
「慶喜」と記されたこの私年号は、単に庶民の間で使用されたばかりで 役人は比較的大きな間に十村や村肝煎 212 〔解説 5 ] ...
]FIG]
- [140] 
[CITE[[[広報わじま]] [LINES[Jun.2023][6][No.209]]]],
編集=[[輪島市企画振興部企画課]], 
発行=令和5年6月1日,
[TIME[2024-07-05T01:02:42.000Z]], [TIME[2024-07-17T14:09:35.207Z]]
-- [137] 
[CSECTION[[V[文化財紹介[BR[]]~輪島の歴史を学び、[BR[]]地元に誇りを持とう~]]]]
<https://www.city.wajima.ishikawa.jp/docs/2018110100020/file_contents/2023-6.pdf#page=20>


]REFS]

-*-*-

[248] 
[RUBYB[[[和嶋俊二]]][[TIME[1921]]-]]は、
[[昭和時代]]の[[日本国]][[石川県]][[能登]]地方で[[高等学校]]長などを務めながら、
地域史を研究しました。
[[慶喜]]の他に[[法徳]]にも寄与しています。

[249] 
[TIME[昭和27(1952)年][1952]]夏、[[高等学校]]教員だった[[和嶋俊二]]は、
[[民俗学]]や[[社会学]]など9学会の[[能登]]調査の際に偶然、
[[尾間谷家文書]]を調査することができ、
[[翻刻]]文を[TIME[昭和28(1953)年][1953]]に発表しました。
[SRC[>>247]]


[251] 
そのうちの1つが慶喜2年文書でした (>>189)。
[[元号名]]には[[ママ注]]が付されていました。
また、

- [25] 宛名の人々は[[寛永]]の文書などに出ているので、
あるいは[[慶長]]か
- [252] 紙質、[[書体]]ともにその頃のものと考えられる

と注釈していました。 [SRC[>>247]]

[253] 
つまり[[寛永]]に近い[[慶長]]ではないかと考えたものの、断定までは避けています。
誤記と誤読のどちらを疑ったのかはっきりしませんが、
[[慶喜]]と書いて[[ママ注]]を付けているので誤記と考えたのでしょうか。

[254] 
従って[[慶喜]]という[[元号名]]も、[[慶長]]比定説も、
実はこの[[論文]]が近代史学的な初出ということになります。
[[寛永]]時代と見抜いたのも慧眼です。
しかしこの成果はしばらく埋もれていました。


[75] 
時代は下って[[平成時代]]、
[[和嶋俊二]]は[[法徳]]に絡めて[[慶喜]]も簡単に考察しています。
[SRC[>>151]]
この間の新たな発見を踏まえて[[私年号]]説となっています。

- [76] 慶喜2年 = 寛永21年 = 正保元年 = [TIME[西暦1644年][1644]]
- [77] [[珠洲市]]南山 尾間谷家文書
-- [81] 「慶喜弐年正月廿一日」
-- [80] [[法徳]]に関連して参照された「天正元年八月六日」文書の[[南山九郎兵衛]]の末孫の文書。
-- [84] 郡奉行3人宛。
- [78] 延武文書
-- [83] 「慶喜弐年正月九日」
-- [82] 寛永19年分年貢の件
-- [86] 御算用所奉行5人連署
--- [87] うち3人は尾間谷文書の郡奉行3人
--- [88] 他文書より、珠洲郡の飯田御算用場。
-- [85] 藩主側用人?宛
- [79] 輪島市上梶文書
- [89] 「慶喜」は[[奥能登]]だけ、正月1ヶ月だけ通用した[[私年号]]だろう.

[REFS[

- [246] 
[CITE@ja-JP[[[北陸史学]] (1)]], [[北陸史学会]], [TIME[1953-03]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-20T06:34:37.523Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4418196/1/29> (要登録)
-- [247] 
[CITE[能登若山荘の土豪「南山氏」]],
[[和島俊二]]
- [149] 
[CITE[すずろ物語]]
-- [148] 
[CITE@ja[[[すずろものがたり]] (珠洲郷土史研究会): 1950|書誌詳細|国立国会図書館サーチ]], [TIME[2023-12-30T11:32:00.000Z]] <https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000000012676-00>
-- [152] 
[CITE@ja[「[[すずろ物語]]」目次一覧 - 珠洲市ホームページ]], [TIME[2023-12-30T11:00:02.000Z]], [TIME[2023-12-30T11:35:27.898Z]] <https://www.city.suzu.lg.jp/site/suzuware-museum/1005.html>
-- [150] [CITE[60巻]], [TIME[平成11(1999)年8月][1999-08]]
--- [151] 
[CITE[[V[珠洲・鳳至郡界定書の考察[BR[]][B[[WEAK(smaller)[―伝阿部判官書―]]]]]]]],
[[[V[和嶋俊二]]]],
pp.28-37

]REFS]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[19] [CITE[奥能登の研究: 歴史・民俗・宗教 - [[和嶋俊二]] - [[Google ブックス]]]], [TIME[2022-12-23T07:04:18.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=3V1MAQAAIAAJ&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22>
]FIGCAPTION]

>203 ページ
>... をしたいう出つ迄罷越、最前被仰出之ことく御請可申上之由申候へとも、一度御仰付を背申付而于今相延申候、此上ハ御けちろんとおほしめし人なみ之御百姓ニ罷成申候様ニ御相談ヲ以被為仰付被下候ハゞ難有森可奉存候、以上若山与之内(ママ)慶喜弐年正月 ...
>204 ページ
>言 204 ニもにその頃のものと考えられる文書) [追記、慶喜二年=寛永二十一年]すなわち前田藩は天正十一年から、元和六年にかけて検地を行っているが、これはその間における有様であろうか。この検地を通して過去の中世的な勢力がほとんど一掃されるので ...
]FIG]






-*-*-

[58] 
<https://dl.ndl.go.jp/pid/2246681/1/28> (非公開)
[TIME[2024-07-19T13:35:30.500Z]]

>歴史手帖 3(7)(21)
>雑誌
>名著出版 [編] (名著出版, 1975-07)

>28 コマ: 間を示すその年号は「慶喜」。(北国新聞金沢5/5)奥能登初の繩文前期の土器繩文中期と見られていた

[160] 
<https://dl.ndl.go.jp/pid/2246700/1/30> (非公開)
[TIME[2024-07-19T13:35:50.000Z]]

>歴史手帖 5(2)(40)
>雑誌
>名著出版 [編] (名著出版, 1977-02)
>30 コマ: 。例えば「久宝」や「慶喜」など、県立図書館の調査で明らかにされた。(読売新聞高岡12/12)▽徳


[161] 
<https://dl.ndl.go.jp/pid/2246743/1/28> (非公開)
[TIME[2024-07-19T13:36:35.900Z]]

>歴史手帖 8(9)(83)
>雑誌
>名著出版 [編] (名著出版, 1980-09)
>28 コマ: 前が連署された後に「慶喜二年二月二十一日」と年号と日付けが記されている。「慶喜」という年号は







-*-*-

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[73] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], 
[TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,慶喜 	,- 	,寛永20年(1643年) 	,不明 	,『上梶家文書』 
]FIG]

- [431] 
[CITE@ja[「私年号」の版間の差分 - [[Wikipedia]]]], [TIME[2024-07-20T06:30:36.000Z]], [TIME[2024-07-21T08:59:06.548Z]] <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7&diff=prev&oldid=41377699>
-- [432] 
[CSECTION[2012年2月25日 (土) 04:36時点における版]],
[[Takanuka]]


[74] 
>>73
なぜ継続年数が「2年以上」となっていないのか謎。
筆者が[[上梶家文書]]を直接参照したとは思えず、何かしらからの孫引きと思われる。



** 林業史研究者の私年号説

[255] 
[RUBYB[[[山口隆治]]][[TIME[1948]]-]]は[[日本国]][[石川県]]の歴史研究者で、
近世地域史を研究しています。
[[前田藩]]の[[林業]]政策[[七木の制]]の研究の前提として慶長2年説の当否は重大な関心事であり、
当該慶喜2年文書 (>>96) 
について検討しています。

[256] 
[TIME[昭和52(1977)年][1977]]の[[論文]] [SRC[>>154]] が最初の言及です。
翌[TIME[昭和53(1978)年][1978]]に続編[[論文]] [SRC[>>155]] があります。

[REFS[
- [153] [CITE[[[えぬのくに]] 第22号]],
[TIME[昭和52年(1977)][1977]],
[[江沼地方史研究会]]
-- [154] [CSECTION[[V[「慶喜」年代文書と七木の制度について]]]],
[[[V[山口隆治]]]]
- [155] [CITE[[[えぬのくに]] 第23号]],
[TIME[昭和53年(1978)][1978]],
[[江沼地方史研究会]]
-- [156] [CSECTION[[V[享和元年「七木の制」の緩和について]]]],
[[[V[山口隆治]]]]
]REFS]

[145] 
これらに関係して、
[TIME[昭和63(1987)年][1987]]の[[山口隆治]]の単著では、

[REFS[
- [157] 
[CSECTION[慶喜年代文書と七木の制度について]],
[[山口隆治]],
[CITE[[[えぬのくに]] 23号]]
]REFS]

を引用しています。 [SRC[>>144 /52 左 [V[([YOKO[6]])]]]]

[158] 
ところが、
発行元の[[江沼地方史研究会]]の公式サイト上でも、
所蔵[[図書館]]の書誌情報でも、
この題名の論文は第22号に収録されています。 [SRC[>>146, >>147]]
第23号には[[山口隆治]]の後続の論文が収録されていることになっています。
[SRC[>>146]]

[159] 
明記されていませんが、
[[山口隆治]]の単著のうち[V[第三章]] [SRC[>>144 /35]]
はこの2つの[[論文]]を統合再構成したもののように思われます。
そのために[[著者]]本人も混同して誤引用してしまったのではないでしょうか。

[437] 
2つの先行[[論文]]と[V[第三章]]を比較すると、
[V[第三章]]のうち[V[一]]が昭和52年の論文に、
[V[二]]が昭和53年の論文にほぼ相当していますが、
細かい表現などに加筆修正が加えられています。

-*-*-

[259] 
さて、その[TIME[昭和62(1987)年][1987]]の単著では、

- [260] 
「七木」 ([[七木制]] [TIME[元和2(1616)年][1616]]創設)、
「十村」 ([[十村制]] [TIME[慶長9(1604)年][1604]]創設) とあり、
[CITE[輪島市史]]の[TIME[慶長2(1597)年][1597]]説では時代が合いません。 
[SRC[>>164, >>4]]
- [261] 
文書末の[[郡奉行]]名から[TIME[寛永19(1642)年][1642]],
[TIME[寛永20(1643)年][1643]]頃に位置すると考えられます。

と指摘して、
[TIME[慶長2(1597)年][1597]]説の再考を促しています。
[SRC[>>144]]

[262] 
この2点は初出論文刊行と同じ[TIME[昭和52(1977)年][1977]]の報告書が指摘した[TIME[慶長2(1597)年][1597]]説の問題点
(>>213) と同じです。
報告書サイドと本書サイドで独立して同じ課題を検出したのか、
参照ないし情報交換があったのかはわかりません。
(この程度なら独立して一致しても偶然とは言い難いでしょう。)

[438] 
昭和62年の単著版は注釈[V[([YOKO[9]])]]で「[V[最近刊行された]]」
として報告書を引いてその[[私年号]]説を紹介しています
[SRC[>>144 /43]]
が、
本文はそれに言及していません。
昭和52年の初出論文にはこの部分がなく、
初出論文刊行後に報告書を読んだものと思われます。


[16] 
注釈[V[([YOKO[9]])]]では[[山口隆治]]が師事した研究者[[所三男]]の見解も示されています。
[SRC[>>144 /43]]

[63] 
[[所三男]]は、[[加賀藩]]の慶喜2年文書に関係して (>>16)、

- [263] [[慶喜]]文書は[[木曽]]・[[天竜]]地方にも2,3点ある
- [264] [[私年号]]であろう
- [265] [[寛永]]末から[[正保]]頃だ

との見解を示しました。 [SRC[>>154, >>144 /43]]

[266] 
[RUBYB[[[所三男]]][[TIME[1900]]-[TIME[1989]]]]は、
日本[[林業史]]研究の草分け的な研究者でした。
特に[[尾張藩]]が専門でしたので、
[[木曽]]、[[天竜]]という地域にも馴染みが深かったと考えられます。

[65] 
[[所三男]]の弟子に当たる[[山口隆治]]が伝聞で記したもので、
[[山口隆治]]の研究に関する助言ですから、
[[所三男]]の論著にあるとか研究していたとかいうことでもなさそうで、
研究上たまたま得た知識なのでしょう。

[267] 
そうなると[[木曽]]・[[天竜]]に2,3点というのもどれだけ正確なのかわかりません。
[[磐田]]の用例 (>>117) と同じものなのか、別にあるのか、どうなのでしょうか。
[[磐田]]を指して[[木曽]]・[[天竜]]というのかどうかは絶妙なラインです。






[REFS[

- [144] [CITE@ja-JP[加賀藩林制史の研究]], [[山口隆治]], [TIME[1987.5][1987]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-19T13:13:48.028Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12009989/1/35> (要登録)
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[13] [CITE[加賀藩林制史の研究 - [[山口隆治]] - Google ブックス]], 
[TIME[1987]],
[TIME[2022-12-23T06:35:28.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=bb8eAAAAMAAJ&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22>
]FIGCAPTION]

>8 ページ
>寛政九年の十村役列は、左の如く九階層に区分されていた。 ... 両人の「由緒書」にも「寛( 6 )一、無組御扶持人之始は、山本清三郎等四人、寛文元年改作奉行被仰付、存寄可申上旨被仰出候処、一郡一人宛成とも、縮 ... 
>しかし、慶喜二年(三章一節を参照)の山林縮に関する定書の一条には「一、在々脇之者家作り申時分致吟味、七木少も遣申候者有様=村肝煎方十村かたへ理り可申御事」とあ既に慶喜二年に「十村」の名称を見ることができる。後述するが、この十村の上には、承 ...
>59 ページ
>山口隆治 59 第三章加賀藩の七木の制について 右の御立書は、「輪島市史資料編第一巻』所収の「上梶家文書」に慶長二年のものとして掲載されたものである。右の御立書の日付では「慶喜弐年正月廿一日」と明記するものを、『右書』において「慶長」の誤記 ...
>73 ページ
>山口隆治 73 333 第三章加賀藩の七木の制について ( 9 )所三男氏の御意見では、「慶喜」年代の文書は木曽・天竜地方でも二・三点見られ、「私年号」であろう。また、その年代的位置としては、寛永末から正保頃とのことであった。最近刊行された『能登輪島上梶家文書目録』(石川県立図書館)には、次の八点の慶喜年代文書を紹介している。( 8 )『史料二』三六頁( 7 )『輪島市史・資料編第一巻』一一一頁( 6 )前掲「徳川時代に於ける林野制度の大要」(『山林彙報』三二ー三)一五五頁( 5 ) ...
>74 ページ
>( 2 )『資料』六〇〇頁( 11 )『資料』四三四頁( 10 )『資料』一二九頁同書では、この中の F と H が加賀藩の御算用所と郡奉行より出された藩の公文書であることを指摘しながら、「慶喜弐年」の実代年代は寛永二一年であるとしている。
>そして、加賀藩が慶喜の私年号を使用した理由として「『改元格』の例から慶喜と改元されたと誤って伝えられた。それで、慶喜年号は正月の一と月だけで、誤りが判明した後、使用したかったと思える。また、逆に『改元格』の古例により、
わざわざ加賀藩が『慶喜』というめでたい年号を正月のみ使用したとも思える。
その理由の一つに、五代藩主となった綱紀が寛永二十年十一月十六日に生まれたので、寛永二十年を慶喜元年として、二十一年正月だけを祥瑞記念として使用したのかも知れない。しかし、これも問題がある。それは、慶喜年号の遺存があるのは現在のところ奥能登だけで、それ以外の地では発見されていない。
>ページ
>116 , 126 , 133 , 135 七郎右衛門(小泉村) 120 ..34 私年号: .73 119 柴山 93 , 106 , 147 , 150 107 , 116 柴山割· 103 40 , 44 島崎丞 49 • 47 嶋田久次郎... 141 .46 御鷹山 28 , 49 鎌留山· .36 iii 五兵衛(田井村) .96 11 下鳥越村(鳳至)

]FIG]
- [146] [CITE@ja-JP[第21号 昭和51年(1976) - enumatihousi2 ページ!]], [TIME[2024-07-19T13:15:17.000Z]] <https://enumatihousi2.jimdofree.com/%E3%81%88%E3%81%AC%E3%81%AE%E3%81%8F%E3%81%AB%E7%9B%AE%E6%AC%A1/21%E5%8F%B7-30%E5%8F%B7/>
- [147] [CITE@ja[「慶喜」年代文書と七木の制度について | SHOSHO | [[石川県立図書館]]]], [TIME[2024-07-19T13:16:53.000Z]] <https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/detail/orgn/E000001110>

]REFS]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[14] [CITE[加賀藩山廻役の研究 - [[山口隆治]] - Google ブックス]], 
[TIME[1998]],
[TIME[2022-12-23T06:40:33.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=tFw6AQAAIAAJ&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22>
]FIGCAPTION]

>17 ページ
>ところで、『増訂加能古文書」「輪島市史」には慶喜二年(一六四四)の山林縮に関する御法度書を、慶長二年(一五九七)の誤記として収載する。その一部を左記しよう。御法度立書之御事一、七木之儀者不申上及御事一、唐竹戴之御事一、野竹數之御事一、薙畑仕 ...
>18 ページ
>右之趣私共与中へ堅申付、御誕之通相背候者御聞御見付被成次第急度可被仰付候、其時一儀之子細申上間敷候、仍後日之書付如件慶喜関年正月廿一日名舟与太郎左衛門嶋田勘右衛門樣小森又兵衛様三吉佐助様(故人)は慶喜年号の文書が木曽・天竜地方にも三点ほど ... 「慶喜」は私年号(偽年号・異年号・逸年号)であり、現在、能登国奥郡(珠洲・鳳至郡)に限って「慶喜二年 ...
加賀藩主五代前田綱紀は寛永二〇年一一月一六日に誕生しており、寛永二〇年一二月を慶喜元年とすると共に、翌年正月だけを祥瑞記念として使使用したとも考えられよう。ただ、これは能登国奥郡に限って使用された説明にならず、また所三男氏 討を必要と ...
>79 ページ
>「指上申名舟与借塩釜貨銀之事」(慶喜式年正月廿日)「御法度定書之事」(慶喜式年正月廿一日)「川除普請心付与中人足願」(慶喜式年正月廿一「用水川崩心付与中人足願」(慶喜式年正月廿二「永代立申田中屋敷之事」(慶喜式年正月廿七日)「寬永拾九年若山与御 ...
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[15] 
[CITE[加賀藩林野制度の研究 - [[山口隆治]] - Google ブックス]], [TIME[2022-12-23T06:43:16.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=A9cxAAAAMAAJ&q=%22%E6%85%B6%E5%96%9C%22>
]FIGCAPTION]

>48 ページ
>( 2 )ところで、「増訂加能古文書」「輪島市史」は慶喜二年(一六四四)の山林縮に関する御法度書を、慶長二年(一五檜・栗(七樹)が、同一一年(一七二六)に松・杉・桐・樫・槻・檜(六樹)が七木であった。なお、加賀国でも天明六年(一七八六)に石川・河北両郡が ...
>49 ページ
>慶喜弐年正月嶋田 た林制は、ここに至って一本 49 第 2 章留木制度の設定 七木制度は能登国奥郡で創始され、その後能登国口郡および加賀・越中両国でも施行されたものの、七木の種類は用されていた。( 5 ) ( 1 )保」と改元した。
五代綱紀は寛永二〇年一一月一六日に誕生しており、寛永二〇年一二月を慶喜元年とすると共に、翌年正月だけを祥瑞記念として使用したとも考えられよう。ただ、これは能登国奥郡に限って使用された説明にならず、また所三男氏は慶喜年号の文書が木曾・天竜 ...
>66 ページ
>山口隆治 66 「指上申名舟与借塩釜賃銀之事」(慶喜弐年正月廿日)「御法度定書之事」(慶喜弐年正月廿一日)「川除普請に付与中人足願」(慶喜弐年正月廿二日)「用水川崩に付与中人足願」(慶喜弐年正月廿二日)「永代立申田中屋敷之事」(慶喜弐年正月廿七 ...

]FIG]

** 現代

[428] 
[[昭和時代]]に提出された諸説は、
[[石川県]]の研究者によって[[石川県]]の用例の解釈に組み込まれたものの、
全国的な視点で詳細に再検討されることはないままでした。

[429] 
前項までに示したように[[平成時代]]にもいくつかの論考は発表されていますが、
ほとんど既発表論文の再刊行や既存説の再紹介の域を出ていませんでした。

[430] 
[[私年号研究者]]による収集にも漏れて、一覧表等にも掲載されていませんでした。
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]には[TIME[2012-02-25]]に追加されました
[SRC[>>432]] が、
出典は不明です (>>74)。

[433] 
[[令和時代]]になって、
[[薩摩藩]]の用例と研究 (>>239)
や刀剣類研究者の説 (>>295)
が再発見されました。
[[国立国会図書館デジタルコレクション]]や[CITE[鹿児島県史料]]の電子版公開によって全文検索が可能になったことで得られた成果です。

[434] 
今後は全国各地に未だ眠っているかもしれない用例の発掘や、
[[改元デマ]]情報の発生、伝播過程の解明が期待されます。

[435] 
特に、[[薩摩藩]]近世史の専門家による精細な検討や、
旧[[薩摩藩]]領地域の[[金石文]]用例の検出が待たれます。



* 関連

[SEE[ [[永伝]] ]]

[68] 
[[徳川慶喜]]とは無関係ですが、検索ではよく引っかかります。

* メモ

[2] 
慶応や慶暦が [[OCR]] の誤読で[[慶喜]]になる事例がままみられます。


-*-*-



[59] 
[CITE@ja-JP[日本の古建築]], [[太田静六]], [TIME[昭和18]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T10:01:37.925Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1058829/1/102> (要登録)

松本城が慶喜二年頃完成とある。隣には慶長何年が並んでいる。[[誤植]]か。

[60] 松本城天守の完成時期は諸説あり、しかし正保元年だと遅すぎる?


-*-*-

[54] [CITE@ja-JP[日本大観 第19号]], [[世界文化社]], [TIME[1955]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T09:55:03.291Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3042334/1/25> (要登録)

[[日本国]][[岩手県]][[台温泉]]の説明中に「[L[慶喜元年]]」発見とある。

- [55] [CITE@ja[[[台温泉]]の歴史 | 台温泉旅館組合]], [TIME[2022-12-23T09:55:53.000Z]] <http://daionsen-iwate.com/history/>

[56] 公式サイト説明によると1200年前、大同年間の[[坂上田村麻呂]]が発見したという伝承があるとのこと。

[57] 誤りだとしてもどこから「慶喜」が出てきたのか謎。[[慶雲]]は時代が古すぎる。
[[延喜]]は新しすぎる。

-*-*-

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[135] [CITE@ja[丹後観光]], [TIME[2024-05-05T06:15:42.000Z]], [TIME[2024-07-17T03:49:41.365Z]] <https://obase-kijikanko.jp/A28-tango-kankou.html>
]FIGCAPTION]

>成相寺

>西国最北端の札所
>慶喜元年(704年)創立
]FIG]

[136] >>135 [[慶雲]]が正しい。

-*-*-

[436] [CITE[鎌倉遺文フルテキストデータベース - 検索]], [TIME[2024-07-30T13:58:53.000Z]] <https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w11/search?keyword=%E6%85%B6%E5%96%9C%E5%85%83%E5%B9%B4&resultoption=%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9%E8%A1%A8%E7%A4%BA&page=1&itemsperpage=200&sortby=jc_date&sortdesc=false&sortitem=%E5%B9%B4%E6%9C%88%E6%97%A5%EF%BC%9A%E6%98%87%E9%A0%86>

>延慶元年12月27日

>延慶[RUBY[喜][〃]]元年十二月廿七日

>23494
>	内閣文庫蔵摂津国古文書


