[262] 
[DFN[応治]] ([[旧字体]]: [DFN[應治]])
は、
[[日本の私年号]]の1つです。

* 元号名

[263] 
[[新字体]]は[[応治]]です。

[264] 
[[旧字体]]は[[應治]]です。

[266] 
[[読み][元号名の読み方]]は「おうじ」とされます。
[SRC[>>117]]

* 用例

[265] 1例のみ知られています。

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [24] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本]][[駿河国]]]][[久能山]] [[久能寺]]本堂旧蔵 [[懸仏]]]]
-- [104] >>19 : [V[五五九]]、[V[口絵[YOKO[69]]]]
-- [108] >>2 : [L[81]]
-- [144] >>143 : [L[69]]
-- [155] >>154 : [L[116]]
-- [124] >>16 : [V[八三]]
-- [65] >>64 : 白黒写真 日付部分 (中解像度) 銘文は読み取れるが字形の細部はわかりにくい
-- [68] >>66 : 白黒写真 日付部分 (解像度上の下)
-- [71] >>67 : 白黒写真 日付部分 (中解像度)
-- [123] >>16 : 白黒写真 銘文部分 (解像度中の下)
-- [86] [[丹治竹治郎]]旧蔵 [SRC[>>66, >>67]]
-- [85] [[細見良]]所蔵 [SRC[>>66, >>67, >>19]]
-- [128] [[細見実]]所蔵 [SRC[>>154, >>20]]
-- [107] [[細見家]]所蔵 [SRC[>>2]]
-- [139] [[細見美術財団]]所有・[[奈良国立博物館]]所蔵 [SRC[>>138]]
-- [136] [[細見美術館]]所蔵 [SRC[>>135]]
-- [69] 
[DATA(.label)[左側]]
「[DATA(.text)[[V[應治元[ASIS[𠦚][swc815]][LINES(smaller)[大歳][乚𮠕]]十二月  日]]]]」 ([[楷書]] [[篭文字]])
[SRC[>>68]]
--- [72] 
「[DATA(.text)[[V[応治元季[LINES(smaller)[大歳][乙酉]]十二月  日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>66, >>67]]
--- [148] 
「[DATA(.text)[[L[応治元季[LINES(smaller)[大歳][乙酉]]十二月日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>143]]
--- [105] 
「[DATA(.text)[[V[應治元[ASIS[𠡦][swc816]][LINES(smaller)[大歳][乙酉]]十二月日]]]]」
([[明朝体]]) [SRC[>>20, >>19]]
--- [156] 
「[DATA(.text)[[V[応治元[ASIS[𠡦][swc817]][LINES(smaller)[大歳][乙酉]]十二月  日]]]]」
([[明朝体]])
[SRC[>>154]]
--- [134] 
「[DATA(.text)[[V[応治元[ASIS[𠡦][swc816]][LINES(smaller)[大][乙]][BR[]][LINES(smaller)[歳][酉]]十二月日]]]]」
([[明朝体]]) [SRC[>>20]]
--- [25] 
「[V[奉安置久能山本堂[SNIP[]][DATA(.text)[応治元__&&swc531(𠦚)&&__大歳乙酉十二月日]]願主本阿弥陀仏]]」
([[篭字体]])
[SRC[>>23]]
--- [150] 
「[DATA(.text)[[V[応治元年[LINES(smaller)[大歳][乙酉]]十二月日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>149, >>153]]
--- [160] 
「[DATA(.text)[[V[応治元年[LINES(smaller)[[RUBY[大][たい]][RUBY[歳][さい]]][乙酉]]十二月日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>158]]
--- [122] 
「[DATA(.text)[[V[應治元年[LINES(smaller)[大歳][乙酉]]十二月  日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>16]]
--- [222] 
「[DATA(.text)[[V[應治元[BR[]]年[LINES(smaller)[大歳][乙酉]]十二月  日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>220]]
--- [109] 
「[DATA(.text)[[L[応治元年[LINES(smaller)[大歳][乙酉]]十二月  日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>2]]

]ITEMS]

[27] 
願主本阿弥陀仏については不祥。
[SRC[>>23]]

[26] 
銘文より、 >>24 は本来[[日本国]][[静岡県]][[静岡市]][[久能山]]本堂に置かれたことが知られます。
[SRC[>>66, >>67, >>23]]

[87] 
[[明治時代]]中頃、
[[久能山]]に務めた[[丹治竹治郎]]が、
>>24 を退職記念に譲り受けたとされています。
[SRC[>>66, >>67]]
が、 >>168 によればこれは事実かどうか疑わしいです。

[89] 
[TIME[昭和12(1937)年][1937]]、
[[香取秀真]]は[[丹治竹治郎]]所蔵の >>24
を雑誌記事で紹介しました。
[SRC[>>70]]
簡単な紹介のみで、銘文の[[元号]]への言及はありませんでした。
[SRC[>>66, >>67]]

[88] 
昭和13年頃、
[[大阪]]の[[細見良]]が人を介して[[丹治竹治郎]]から
>>24
を譲り受けたとされます。
[SRC[>>66, >>67]]

[161] 
[TIME[昭和18(1943)年][1943]]の雑誌記事は、
[[醍醐寺]]の所蔵品として
>>24
らしきものを紹介しています (>>18)。

[130] 
昭和24年、
[[重要美術品]]に指定されました。 [SRC[>>151]]

[129] 
昭和35年6月9日、[[重要文化財]]に指定されました。
[SRC[>>20]]

[REFS[

- [151] 
[CITE@ja-JP[史迹と美術 23(2)(230)]], [[史迹美術同攷会]], [TIME[1953-03]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T05:59:19.137Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/6067112/1/22?keyword=%E6%87%89%E6%B2%BB> (要登録)
- [70] 
[CITE@ja-JP[美術研究 = The journal of art studies 6(10)(70)]], [[東京文化財研究所文化財情報資料部]], [TIME[1937-10]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-12T12:28:40.006Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7964172/1/9?keyword=%E4%B8%B9%E6%B2%BB> (要登録)
-- [137] 
[CITE@ja[02613_阿弥陀三尊像_懸仏 :: 東文研アーカイブデータベース]], [TIME[2026-10-12T15:35:58.000Z]] <https://www.tobunken.go.jp/materials/glass/110585.html>
- [135] 
[CITE@ja[exhibition_s76.pdf]], [TIME[2026-04-15T10:27:19.000Z]], [TIME[2026-10-12T15:31:21.709Z]] <https://www.kyuhaku.jp/exhibition/img/s_76/exhibition_s76.pdf#page=1>

]REFS]

* 諸説

[234] 
現在まで知られているのは >>42 の一例のみです。

[235] 
>>42 は[[明治時代]]に出現して[[異年号]]史料として認知され、
[[昭和時代]]に至ってその比定年説もいくつか提示されたものです。

[236] 
銘文から[[久能寺]]の伝来と推定されていますが、[[久能寺]]から流出し[[昭和時代]]に収集家の手にわたるまでの経緯には、
曖昧な部分があり、究明が待たれます。流出が[[明治時代]]初期なのか[[近世]]なのかも不明瞭です。

[237] 
断片的に知られる[[近代]]の経緯 (>>224) からすれば、或いは贋作の可能性をも考慮に入れるべきかと思われますが、
これまでそうした検討は無されていないようです。一応、[[明治時代]]以来数多の仏教美術品研究者の観察の対象となっており、
そのいずれも疑問視はしていないので、現時点では疑わしいところは無いと理解しておくのが良いでしょうか。

-*-*-

[238] 
>>42 の様式から年代の推定が行われていますが、
どこに着目するかによって評価が変わるようで、
[[平安時代]]から[[室町時代]]まで、
様々な見解があります。

[239] 
総合的にみて[[鎌倉時代]]とする判断が有力なようです。

[240] 
銘文に[[干支年]]が[[乙酉]]と明記されていることから、

- [244] [TIME[永万元(1165)年乙酉][1165]]
- [241] [TIME[嘉禄元(1225)年乙酉][1225]]
- [242] [TIME[弘安8(1285)年乙酉][1285]]
- [243] [TIME[貞和元(1345)年乙酉 = 興国6年][1345]]
- [245] [TIME[応永12(1405)年乙酉][1405]]

... といった候補があるところです。

[246] 
貞和元年説は、昭和33年に美術史研究者[[景山春樹]]が提唱し、
昭和42年に[[私年号研究]]者[[久保常晴]]が発展させ、
[[元号研究]]の分野では現在まで通説となっています。
ところが[[景山春樹]]は昭和49年までに撤回しています。 (>>73, >>3)

[248] 
[[景山春樹]]は様式を根拠としていました。
[[久保常晴]]はそれに加えて[[銘文]]の用字の分析も根拠としています。

[247] 
美術史研究の分野では、おそらく昭和35年の[[重要文化財]]指定の頃、
遅くても昭和48年には、嘉禄元年または弘安8年の併記説が出現しました。 (>>125)
文化財系ではこちらが現在まで通説となっています。
様式を根拠としています。

[249] 
一部には嘉禄元年説を取るもの、弘安8年説を取るものもあります。
根拠が挙げられる場合は様式とされていて、二説のうち一方を選択した理由は明らかではないものが多いです。

-*-*-

[259] 
[[久能寺]]は嘉禄年間の火災以来衰微したとされますが、
それに関係して
[CITE[久能寺縁起]]
朱書は嘉禄乙酉年から享保18年までの[[経過年数表示]]を示しています。
[SRC[>>258]]

[260] 
乙酉がどこから出てきたのか明らかではありませんが、享保18年頃の朱書した時点で何らかの資料があったのでしょうか。
それとも単に嘉禄元年が乙酉だったというだけのことでしょうか。

[261] 
火災が嘉禄元年乙酉の出来事だったとしても、あるいはそうでないとしても、
>>42
の年代を考えるうえでは、[[久能寺]]自体の環境もよく検討しておく必要がありましょう。

[REFS[

- [258] 
[CITE@ja-JP[久能山叢書 第3篇 (資料集 中)]], [[久能山東照宮社務所]], [TIME[1973]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T12:20:55.788Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12266063/1/15?keyword=%E5%98%89%E7%A6%84> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[250] 
出現・利用の背景を論じたものは、それほど多くありません。

[251] 
[[景山春樹]]は[[私年号]]の一般論に留まっていて、
[[應治]]特有の事情にはあまり踏み込んでいません。ただ、
同年に[[白鹿]]があることを指摘しています (>>98)。

[253] 
それも簡単な指摘に留まっていますが、要するに[[私年号]]が同時に複数出現するような社会情勢の可能性、
ということでしょう。

[252] 
[[久保常晴]]は、
[[駿河国]]が[[南北朝]]の勢力の境界域であり、
[[白鹿]]の例もあるので、
[[應治]]は[[南朝]]系勢力の[[元号]]と推測しています (>>39)。

[254] 
[[北朝]]は[[改元]]したから[[南朝]] (>>51) という論理はよくわかりませんし、
[[南朝]]の'''治'''に'''応'''じるから[[應治]]というのも余りに安易な語呂合わせです。

[255] 
[[南朝]]に従うのに[[南朝の元号]]ではなく独自の[[元号]]を使うというのも、
謎です。[[白鹿]]の例があるから同様に他にもあり得る、という論理なのでしょうが、
一応[[白鹿]]は[[南朝]]の[[親王]]を奉じているという学説がありますが、
[[應治]]にはそうしたものがありません。

[256] 
[[白鹿]]を[[南朝]]方とする説はかなり古くからありますが、
史料的根拠は乏しく、再検証を必要としています。 [SEE[ [[白鹿]] ]]

[257] 
また、これらはいずれも興国6年説を大前提とした推測です。
当の[[景山春樹]]が興国6年説を撤回しています。
史料に乏しい分野ゆえにやむを得ないとはいえ、
史料的裏付けを欠いたままで想像から結論を導く危険性が現れている事案といえます。

* 研究史

** 丹治竹治郎

[224] 
[[明治時代]]から[[昭和時代]]初期にかけて、
>>42
は[[丹治竹治郎]] ([[丹治竹次郎]], [[丹治竹次]])
なる人物の所蔵でした。

[225] 
[[丹治竹次郎]]は[[日本国]][[大阪府]][[堺市]]の生まれで、
[[明治時代]]中頃まで[[日本国]][[大阪府]][[大阪市]]に住み、
その後[[日本国]][[東京府]][[東京市]]に移住し骨董商などを営んでいたようです。

[226] 
仏教美術品を扱う研究者や収集家と交友があったようで、
取引の一端が知られているほか、
この時期の史料集の所蔵者名としてもたまに登場します。

[231] 
その詳細は不明ですが、[[久能寺]]からの流出品を扱っていた他に、
[[醍醐寺]]とも縁があったようです。

[229] 
[[丹治竹次郎]]は研究者ではなく、
>>42
について学術的な記録を残しているわけではありません。現在知られている
>>42
の伝来過程には疑問もあります (>>87, >>88)。
[[丹治竹次郎]]に関する記述を集めると、その人物像を慎重に検討する必要がありそうです。

[219] 
[TIME[明治43(1910)年][1910]]の裁判記事によると、
[[収賄]]の[[被告人]]の一人で[[堺市]]の[[市会議員]]だった[[柴谷三次郎]]は、
賄賂として得た五百円を[[丹治竹次郎]]に渡したと申し立てたようです。
[SRC[>>218]]

[221] 
[TIME[明治44(1911)年][1911]]の雑誌記事によると、
[[丹治竹次郎]]は[[帝室博物館]]に
>>42
を出品しました。記事によると、
銘文から[[久能山]]にあったものとは知られるが、
[[應治]]という[[年号]]は見当たらず、
様式から[[鎌倉時代]]のものだろうとのことです。
[SRC[>>220]]

;; [230] 現在知られている中では、[[應治]]という[[元号]]に着目した最初です。

[217] 
[TIME[大正12(1923)年3月][1923-03]]、
[[丹治竹次郎]]の[[住所]]は[[下谷區]][[上野西黒門町]]13で、
[[考古学会]]に入会しました。
[SRC[>>216]]

[18] 
[TIME[昭和18(1943)年][1943]]の雑誌記事は、
[[醍醐寺]]所蔵の[[久能寺]]の[[掛仏]]に[[異年號]]がある、
と述べています。
具体的に[[異年号]]とは何かは書かれていませんが、
某阿彌陀佛と彫られているとあります。
[[掛仏]]の特徴の説明は >>24
と似ています。
[SRC[>>17]]

[162] 
この記事は、[[掛仏]]についてはそれ以上の説明をしていませんが、
次のように述べています。
[SRC[>>17]]

- [163] [[駿河国]][[久能山]] [[久能寺]]
-- [164] [[奈良時代]]創建
-- [166] [[明治時代]]に廃寺同様になり、宝物は散逸
-- [167] [[明治時代]]中頃、[[山岡鉄舟]]が[[鉄舟寺]]を建立、[[久能寺]]遺品を安置して再興
-- [165] [CITE[久能山縁起]]原本は大正12年の[[関東大震災]]で東京下谷で焼失
- [168] [[丹治竹治郎]]
-- [170] [[河内]]の名家の流れの[[堺市]]の[[丹治唯一郎]]の四男
-- [171] 若くして[[大阪]]の[[相場師]]の[[安倍彦]]の店で奉公
-- [180] 大阪時代、三度[[吉野大峯]]で修行
--- [182] [[真言宗]]の深い信者
--- [181] このきっかけで[[僧侶]]との交友多い
--- [183] そのため寺からの流出品を求めて拝んでいた
--- [184] かつては[[僧侶]]だったといわれていたが、そうではない
-- [172] [[明治時代]]中頃、[[東京]]で株式の仲買の店を開いて繁盛
-- [173] [[日露戦役]]の頃、仲買業に見切りをつけ、
下谷御成道の西側、昭和18年時点の小学校の地に骨董店を開く、
世にいう天平屋
--- [174] 珍品があって繁盛
--- [175] [[久能寺]]や[[醍醐寺]]のものなど
-- [176] 大正12年の[[関東大震災]]で丸焼け、
少数の珍品だけ持ち出して撤退
-- [177] [[湯島天神]]下男坂下の[[心誠院]]に入って助けられて数年過ごす
-- [178] 晩年は下谷中根岸に移る
-- [179] 昭和17年6月15日、根岸で死去、72歳
-- [169] [[醍醐寺]]の[[三宝印]]が[[明治時代]]初期に流出していたのを[[醍醐寺]]に還した

[186] 
昭和26年研究者[[田中親美]]の記事には、次のようにあります。
[SRC[>>215, >>185]]
[[田中親美]]は[[丹治竹治郎]] [SRC[>>214]]
と面識があったようです。

- [188] [[丹治竹次]]
-- [187] [[湯島天神]]の男坂の下の[[寺]]に住んでいた
-- [189] もと[[醍醐]]の[[山伏]]だったという
-- [190] 奇行
--- [191] [[辰巳]]の方角の土をこっそり採ってくると幸福になるといい、
--- [192] 夜間に邸宅の門前の土を採っていたら巡査に見つかり酷い目に遇ったと本人談
- [193] [[丹治竹次]]と[[久能山經]]
-- [202] [[大阪]]在住時
-- [194] [[夢]]の翌日には良いことがあると信じていた
-- [195] [[夢]]の翌日の訪問客との話の中で、未亡人の遺産の仏像の話
-- [196] 訪問して無理矢理仏像を持ち帰った
-- [197] 大した仏像ではなかったが、数日後に二百円持って行った
-- [198] すると[[未亡人]]がこんなものが、と経卷八本を出したのでもらってきた
-- [199] 苦労して工面して二百円払ったが、良いことはなし、女房には小言をいわれる
-- [200] 仏像は祭ると約束したから売れないが、経卷なら売れると、
-- [201] [[大阪]]の骨董屋の王様・山中に持ち込む
-- [203] 番頭は百円で買うというが、二百円が百円では損なので帰ろうとすると引き止められる、
値打ちがあると知った
-- [204] [[東京]]の[[博物館]]で[[今泉雄作]]に見せ、[[久能寺経]]とわかった
-- [205] 収集家や研究者 ([[田中親美]]含む) に分割で高額で売れた
- [206] 偽物の[[観音経]]
-- [207] 銀行家が[ASIS[買ってしまった]]
-- [208] 偽物と知ったらしく、嫌気がさして[[丹治竹次]]に[ASIS[渡してしまった]]
-- [209] [[丹治竹次]]が、
--- [210] [[博物館]]の[[溝口禎次郎]]に見せると、一言で却けられた
--- [211] 東京ではいけないと、[[京都]]へ持って行った
--- [213] [[京都大学]]で誰かがこれをよいといった
--- [212] 買わぬかというと[[奈良]]の有名な骨董屋の[[玉井]]が引き取った

[228] 
[TIME[昭和44(1969)年][1969]]の書籍は、
五大明王図には[[醍醐寺]]本と[[丹治竹治郎]]本の二本があると紹介しています。
[SRC[>>227]]
二本の関係性は不明ですが、ここでも[[丹治竹次郎]]と[[醍醐寺]]の繋がりが見えます。

[REFS[

- 
[220] 
[CITE@ja-JP[考古学雑誌 2(4)]], [[日本考古学会]], [TIME[1911-12]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T09:38:12.452Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3548162/1/33?keyword=%E4%B8%B9%E6%B2%BB%E7%AB%B9%E6%AC%A1> (要登録)
-
[218] 
[CITE@ja-JP[大阪経済雑誌 第18年(10)]], [[大阪経済社]], [TIME[1910-04]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T09:34:02.773Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1891715/1/5?keyword=%E4%B8%B9%E6%B2%BB%E7%AB%B9%E6%AC%A1> (要登録)
- 
[216] 
[CITE@ja-JP[考古学雑誌 13(7)(282)]], [[日本考古学会]], [TIME[1923-03]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T09:28:35.571Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3548297/1/3?keyword=%E4%B8%B9%E6%B2%BB> (要登録)
-
[17] [CITE@ja-JP[日本及日本人 (7月號)(422)]], [[政教社]], [TIME[1943-07]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-23T05:26:32.811Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1597357/1/52?keyword=%E7%95%B0%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)
- [215] 
[CITE@ja-JP[久能寺経]], [[名筆鑑賞会]], [TIME[1951]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T09:25:09.030Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2461081/1/20?keyword=%E4%B8%B9%E6%B2%BB%E7%AB%B9%E6%AC%A1> (要登録)
- [185] 
[CITE@ja-JP[田中親美 : 平安朝美の蘇生に捧げた百年の生涯]], [[名宝刊行会]], [TIME[c1985][1985]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T08:59:55.543Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12418332/1/108?keyword=%E4%B8%B9%E6%B2%BB> (要登録)
-- [214] 
[CITE@ja-JP[The骨董 第8集]], [[読売新聞社]], [TIME[1985.11][1985]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T09:23:08.240Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12424309/1/65?keyword=%E4%B8%B9%E6%B2%BB%E7%AB%B9%E6%B2%BB%E9%83%8E> (要登録)
-- [223] 
[CITE@ja-JP[墨香秘抄 : 二十四の古筆見聞記]], [[小松茂美]], [TIME[1986.1][1986]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T09:42:44.529Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12428526/1/63?keyword=%E4%B8%B9%E6%B2%BB%E7%AB%B9%E6%AC%A1> (要登録)
- [227] 
[CITE@ja-JP[岐阜県史 通史編 中世]], [[岐阜県]], [TIME[1969]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T09:49:30.290Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3018420/1/432?keyword=%E4%B8%B9%E6%B2%BB%E7%AB%B9%E6%B2%BB%E9%83%8E> (要登録)


]REFS]

** 景山春樹

[73] 
[TIME[昭和33(1958)年][1958]],
[TIME[昭和49(1974)年][1974]]の[[景山春樹]]の論文は、
>>24
を紹介して次のように述べています。
[SRC[>>66, >>67]]

- [74] 国の公称の年号に対して、民間で私に使用した[[私年号]]
-- [75] 特に中世は多くが信仰的な意味を含むもの多い
-- [76] [[中世]]の[[私年号]]は今後もまだいくつか発見される可能性
-- [77] [[久能山]]伝来の[[御正躰]]もそうした紀年資料の1つに加えられるべきものだろう
- [78] 銘文
-- [79] [[久能山]]の本堂に奉懸された、など明瞭に知れる
- [80] [[駿河国]][[安倍郡]][[久能山]]の[[久能寺]]本堂と考えねばなるまい
-- [81] [[奈良時代]]に開かれたと伝わる
-- [82] [[嘉禄]]年間罹災後次第に衰運
-- [83] [[近世]]に[[東照宮]]の敷地として没収、仏刹はことごとく取り払われる
-- [84] のち[[山岡鉄舟]]の特志で復興された[[鉄舟寺]]に法燈が継がれる
- >>87, >>88, >>89
- [90] [[応治]]は日本の公称年号になく、[[私年号]]と知られる
- [91] 製作年代
-- [92] [[鎌倉時代]]の特色 [SRC[>>66, >>67]]
-- [99] [[室町時代]]の特色 [SRC[>>66]]
-- [100] [[平安時代]]の特色 [SRC[>>67]]
-- [93] [[重要文化財]]指定しようとし、時代判定の学説が二派、
結局[[重要美術品]]に留まったという話も [SRC[>>66, >>67]]
-- [94] [[願主]]の本阿弥陀仏といった名前、よく中世の金石文に出てくる常例 [SRC[>>66, >>67]]
-- [95] 全体や作域などから、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代]]頃に置きたい [SRC[>>66]]
-- [101] 全体や作域などから、[[鎌倉時代]]はじめ頃に置きたい [SRC[>>67]]
-- [96] 乙酉 = [TIME[1345年][1345]] = 興国6年 = 貞和元年 [SRC[>>66]]
--- [97] [[白鹿]]も用いられていた
--- [98] 同時に別の[[私年号]]が別のところで用いられることはいくつか先例あり、
かえって興味深く考えさせられる
-- [102] 乙酉 = [TIME[1225年][1225]] = 嘉禄元年 [SRC[>>67]]

[103] 
初稿時と単著収録時とで120年も結論が変わっていることに注意が必要です。
16年間の学界の進歩や著者の知見の増加が反映されているのでしょう。

[REFS[

- [1] 
[CITE@ja-JP[Museum (88)]], [[東京国立博物館]], [TIME[1958-07]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-12T11:06:31.689Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4429480/1/6?keyword=%E5%BF%9C%E6%B2%BB> (要登録)
-- [66] 
[DFN[[CITE[[V[應治元年乙酉の久能山御正躰[BR[]][WEAK(smaller)[⸺中世私年号の一資料⸺]]]]]]]],
[[[V[景山春樹]]]]
- [21] 
[CITE@ja-JP[仏教考古とその周辺]], [[景山春樹]], [TIME[1974]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-12T11:18:26.649Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12286472/1/143?keyword=%E6%87%89%E6%B2%BB> (要登録)
-- [67] 
[CSECTION[[V[中世私年号の一資料]]]]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[4] 
[CITE[仏教考古とその周辺 - [[影山春樹]] - Google ブックス]], 
[TIME[1974]],
[TIME[2022-12-28T11:43:34.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=NrIwAAAAMAAJ&q=%E5%BF%9C%E6%B2%BB>
]FIGCAPTION]

>4 ページ
>影山春樹. 281 275 I 前後、第 3 図に堂本印象氏 目次 4 あとがき中世私年号の一資料六角堂の「かけぼとけ」
>14 ページ
>年号が弥勒 10 図石山寺巡礼納札(拓 昔高祖大師流,觀河州葛城 ... 甲斐国妙法寺日記にもこれと同じ弥勒の年号があるというが、この巡礼者も甲州巨麻郡の人第として今までに知られているものは、弥勒、承安元年 00 わゆる私年号の一つとして珍しい。
>148 ページ
>... の法会が行なわれ、そのための講料として田地を寄せたことは、極楽坊の有名な本堂刻銘に記されている。百日講は百日念仏講であって、このあたりから庶民的な信仰の色彩は濃厚となりはじめてくる。たくさん発見されている柿(こけら)経の紀年に嘉禄元年 ...
>274 ページ
>送ら 応治元季域十二月日願主本阿弥陀仏 III 攻古秒 274 へこの小考は昭和四四年六月に刊行された「史迹と美術」第三九七号に「攻古抄」第一一として掲載した。>れた塔の欠損部について文句を言った父に対する返信のようだが、この文中にあるごとく、私の ...
>275 ページ
>国で定めた公称の年号に対して、民間で私に使用した年号を私年号と呼んでいる。また異年号とか、偽年号とか、逸年号などとも呼ばれ、いずれもある一定の期間、ある一定の地域や社会で、それぞれ特殊の事実によって生まれ、また使用せられたものであった。
>278 ページ
>応治元季域十二月日願主本阿弥陀仏(右側の縁部に一行、籠字体) はかねて眠の間でもあったので III 攻古秒 278 のがある。そこで問題はまずこの久能山本堂であるが、これは駿河国安倍郡久能山の久能寺本堂であると考えねばなるまい。
...
しかし嘉禄年間の罹災後は次第に衰運に向い、近世に及んで東照宮創立の敷地として没収せられてからは、仏利はことごとく取り払われてしまったが、のち山岡鉄舟の特志によって復興せられいまは鉄舟寺としてその法灯が継がれてきている。
康永元年に作られた ...

]FIG]

]REFS]

** 久保常晴

[3] 
昭和42年の
[CITE[日本私年号の研究]]は、
[[応治]]について
>>24
を紹介して次のように述べています。
[SRC[>>23]]

- [30] [[久能寺]]は[[奈良時代]]開創と伝わり、
-- [32] [[嘉禄]]より衰退、
[[江戸時代]]に[[東照宮]]創建のため[[日本国]][[静岡県]][[清水市]][[鉄舟寺]]に引き継がれた
-- [31] 遺物より[[嘉禄]]年間以降も存続していたことが知られる
- [28] 仏像の様式は[[南北朝時代]]
- [35] 銘の篭字は、
[[鎌倉時代]]・[[南北朝時代]]に見られる
- [29] [[年の字]][CH[__&&swc531(𠦚)&&__]]は、
[[鎌倉時代]]末期から[[南北朝時代]]にかけてみられる
- [33] [[大歳]]は、[[平安時代]]末期に始まり[[鎌倉時代]]に多い、[[南北朝時代]]にも及ぶ
- [34] [[年の字]]が[CH[__&&swc531(𠦚)&&__]], [CH[季]], [CH[__&&swc15(䄵)&&__]]かつ[[大歳]]は、
およそ[[南北朝時代]]に比較的盛行
- [36] 以上を総括して[[南北朝時代]]
-- [37] [[干支年]]より、貞和元年しかない

[39] 
また、次のように考察しています。
[SRC[>>38]]

- [40] [[駿河国]]は[[延元]]の頃[[南朝]]方[[狩野貞長]]の支配下、まもなく勢力を失う
- [41] [[三嶋神社]]・[[伊豆山神社]]には正平6年・7年・10年の文書
-- [42] 正平6年・7年は[[足利直義]]と争う[[足利尊氏]]が[[南朝]]と和睦
-- [43] 正平10年は[[足利直冬]]と争う[[足利尊氏]]が[[南朝]]と和睦
-- [44] 全国的動乱を反映している
- [45] [[奈良県]][[吉野郡]][[川上村]][[東川]][[運川寺]]所蔵[[雲祥]]一筆奉写[CITE[大般若波羅蜜多経]]奥書: 正平14年、正平20年
- [46] [[薬師寺]]所蔵、[[河内国]][[茨田郡]][[大窪庄]][[安楽寺]][[奥書]]の[[亮貞]]一筆敬書[CITE[大般若波羅蜜多経]]奥書: 
延文5年、康安元年、正平17年、正平20年、正平21年、応安4年
-- [47] [[南北朝]]両勢力の接点地域
-- [48] 両勢力の消長を示し、両朝の[[正朔を奉じる]]ことで寺家の保全を計ったもの
- [49] 「[V[かく見て来る時]]」
-- [50] 応治 = 南朝興国6年・北朝貞和元年の12月
-- [51] [[北朝]]は10月21日に[[改元]]しているので、
--- [52] [[南朝]]に組したものが使用したと考えられる
-- [53] [[南朝]]は[[興国]]の他に北陸で[[白鹿]]を使用
-- [54] [[応治]]は[[南朝]]の治に応じるとの態度を表したものとも考えうる
--- [55] 旗色鮮明に[[南朝年号]]を掲げぬまでも、この行為には相当の決心を要したと思われる

[57] 
[[元号名]]については、次のように述べています。
[SRC[>>56]]

- [58] [CH[応]]は[[鎌倉時代]]末や[[北朝]]の[[公年号]]に例が多いが、
- [60] この時期で[CH[応]]を上に使うは[[応長]]のみ
- [59] [CH[治]]は[[鎌倉時代]]に6例あるが[[南北朝時代]]に少なく、
[[北朝]]の[[貞治]]のみ
- [61] おそらく用字は[[平安時代]]・[[鎌倉時代]]の例によったものであろう
- [62] 内容的には「南朝の治に応じる」あるいは「抗争を終え、よく治むべし」などに取れる
-- [63] [[南朝]]に心を寄せる、あるいは両朝・公家内部の抗争がやみ平和の訪れることを待望した心を率直に表明したと考え得る

[159] 
[TIME[昭和52(1977)年][1977]]の[[所功]]の書籍は、
[CITE[日本私年号の研究]]
を引いて、
その説を紹介して[TIME[貞和元(1345)年][1345]]としています。
[SRC[>>158]]

[REFS[

- [22] [CITE[[[日本私年号の研究]]]]
-- [64] 
p.[V[図版第三]]
-- [23] 
pp.[V[二二六]]-[V[二三一]]
-- [38] 
pp.[V[二六一]]-[V[二六二]]
-- [56] 
pp.[V[二七四]]-[V[二七五]]
- [158] 
[CITE@ja-JP[日本の年号 : 揺れ動く<元号>問題の原点]], [[所功]], [TIME[1977.2][1977]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T06:13:51.745Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12207409/1/86?keyword=%E6%87%89%E6%B2%BB> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[145] 
[TIME[昭和55(1980)年][1980]]の書籍は、
>>24
を紹介し、
次のように述べています。
[SRC[>>143]]

- [146] [[応治]]は[[私年号]]
- [147] [[干支]]より[TIME[興国6(1345)年][1345]]

[REFS[

-
[143] 
[CITE@ja-JP[大阪の名宝 : 開館20周年記念特別展]], [[大阪市立博物館]], [TIME[1980.10][1980]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T05:51:13.288Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12417118/1/32?page=left&keyword=%E6%87%89%E6%B2%BB> (要登録)

]REFS]

** 重要文化財

[125] 
[TIME[昭和48(1973)年][1973]]の書籍は、
>>24
を紹介して、
次のように述べています。
[SRC[>>16]]

- [126] [[應治]]は[[私年号]]
- [127] 様式から[TIME[嘉禄元(1225)年][1225]]か[TIME[弘安8(1285)年][1285]]が考えられる

[157] 
[TIME[昭和51(1976)年][1976]]の書籍は、
>>24
を紹介し、
[[干支]]と様式から、
[TIME[弘安8(1285)年][1285]]と近い点もあるが、
[TIME[嘉禄元(1225)年][1225]]の製作として差し支えないようだ、
としています。
[SRC[>>154]]


[131] 
[TIME[昭和51(1976)年][1976]]の書籍は、
>>24
を紹介し、
「[L[鎌倉時代(応治元年)]]」
と説明しています。
[SRC[>>152]]
[TIME[昭和56(1981)年][1981]]の書籍は、
>>24
を紹介し、
次のように述べています。
[SRC[>>20]]

- [132] [[應治]]は[[私年号]]
- [133] [[干支]]と様式から[TIME[嘉禄元(1225)年][1225]]か[TIME[弘安8(1285)年][1285]]

[106] 
[TIME[昭和60(1985)年][1985]]の書籍は、
>>24
を紹介し、
>>20
を引いて、様式と[[干支]]から[TIME[嘉禄元(1225)年][1225]]または[TIME[弘安8(1285)年][1285]]としています。
[SRC[>>19]]

[140] 
[[令和時代]]の文化財データベース (初出不明) は、
>>24
を紹介し、
次のように述べています。
[SRC[>>138]]

- [141] [[應治]]は[[私号]]
- [142] 様式と[[干支]]から嘉禄元年か弘安8年

[REFS[

- [16] 
[CITE@ja-JP[日本仏教美術秘宝 : 諸家愛蔵]], [[望月信成]], [TIME[1973]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-12T15:07:12.624Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12417032/1/158?keyword=%E5%BF%9C%E6%B2%BB> (要登録)
- [154] 
[CITE@ja-JP[平安鎌倉の金銅仏 : 目録]], [[奈良国立博物館]], [TIME[1976]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T06:06:34.191Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12709236/1/49?keyword=%E6%87%89%E6%B2%BB> (要登録)
- 
[152] [CITE@ja-JP[重要文化財 第24巻 (工芸品 1 金工)]], [[編集: 毎日新聞社「重要文化財」委員会事務局]], [TIME[1976]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T06:01:38.316Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12634806/1/47?keyword=%E6%87%89%E6%B2%BB> (要登録)
-
[20] [CITE@ja-JP[新指定重要文化財 : 解説版 4 (工芸品 1)]], [[「重要文化財」編纂委員会]], [TIME[1981.7][1981]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-27T06:03:38.176Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12418262/1/12?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)
-[19] [CITE@ja-JP[造像銘記集成]], [[久野健]], [TIME[1985.10][1985]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-27T06:01:59.608Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12424233/1/18?keyword=%E6%87%89%E6%B2%BB> (要登録)
-- 
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[14] [CITE[造像銘記集成 - Google ブックス]], 
[TIME[1985]],
[TIME[2022-12-28T12:31:43.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=k4gEAAAAMAAJ&q=%22%E5%BF%9C%E6%B2%BB%22>
]FIGCAPTION]

>.. 木造像高八二・五センチ弘安九年(三)三月(安藤精一編『和歌山県の文化財』第弘安九年三月十五日五六〇和歌山興国寺木造法灯国師坐像(像内納入経筒墨書銘の一部)大阪府泉大津市助松松ノ浜町( 14 銅造縦六一・二センチ、横六一・二センチ 3 応治元年(三三五もしくは三八五)十二月(『解説版 ...

]FIG]
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[138] 
[CITE@ja[文化遺産データベース]], [TIME[2026-10-12T15:36:38.000Z]] <https://online.bunka.go.jp/db/heritages/detail/210059>
]FIGCAPTION]

>[SNIP[]]銘文中の「應治」は私号で干支だけでは年を断定できないが、様式や技法から推して、嘉禄元年か弘安八年に比定できよう。
]FIG]

]REFS]

[12] [CITE[静岡県史: Chūsei I-IV - Google ブックス]], 
[TIME[1989]],
[TIME[2022-12-28T12:29:43.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=A5c0AQAAIAAJ&q=%22%E5%BF%9C%E6%B2%BB%22>

>801 ページ
>四亖懸仏銘細見閼氏所藏奉安置久能山本堂、金銅干体阿弥陀印仏一面、中尊阿弥陀、脇士干手地藏像各一体応治元年十二月日、願主本阿弥陀仏〇『解說版新指定重要文化財 4 』工芸品 IL 上为上、応治元年钛私年号飞、嘉禄元年(一二二五)加弘安八年(一二八五) ...


[110] 
[TIME[平成8(1996)年][1996]]の雑誌記事は、
>>24
を紹介して、
次のように述べています。
[SRC[>>2]]

- [111] >>66 >>67 >>16 >>20
- [112] [[応治]]は[[私年号]]
- [113] [TIME[弘安8(1285)年][1285]]
- [114] 様式と[[干支]]から、弘安8年の他に[TIME[嘉禄元(1225)年][1225]]説がある
- [115] [TIME[嘉禄元(1225)年][1225]]説の[[景山春樹]]は当初興国6年説

[REFS[

- [2] 
[CITE@ja-JP[滋賀県立琵琶湖文化館研究紀要 = The annual reports of the Biwako Bunkakan (13)]], [[滋賀県立琵琶湖文化館]], [TIME[1996-03]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-12T14:41:19.032Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4422827/1/12?keyword=%E6%87%89%E6%B2%BB> (要登録)

]REFS]

[13] [CITE[珠玉の日本美術: 細見コレクションの全貌と、 ボストン、クリ-ブランド、 サックラ- の話題作 : 開館 ... - Google ブックス]], 
[TIME[1996]],
[TIME[2022-12-28T12:30:48.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=n6qgWqHuRp8C&q=%22%E5%BF%9C%E6%B2%BB%22>

>54 ページ
>銘文により応治元年(干支は乙酉)に本阿弥陀仏が願主となって久能山本堂に奉納されたことがわかるが、応治という元号はなく私年号と考えられる。作風より鎌倉時代の前半の制作と推定される。 ERD SO 熊野十二尊本地懸仏一面.

-*-*-

[119] 
[CITE[日本私年号の研究]]以後の一覧表等は、
[[千々和到]]のものなど含め、
[CITE[日本私年号の研究]]
説により興国6年説を採っているようです。
[SRC[>>117]]

[120] 
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]の表も初期から興国6年説で掲載しています。
[SRC[>>10]]

[233] 
その他、
[CITE[日本私年号の研究]]説に基づく解説と思われるもの [SRC[>>15]]、
応治元年は[[私年号]]で[TIME[嘉禄元(1225)年][1225]]とするもの [SRC[>>149]]、
応治元年は[[私年号]]で[TIME[西暦1225年][1225]]または[TIME[西暦1285年][1285]]とするもの [SRC[>>9]]、
[[鎌倉時代]]とするもの [SRC[>>153]]


[232] 
大まかに言って[[元号研究]]の分野では[CITE[日本私年号の研究]]以後、
研究が進展することがなければ他分野の見解が取り込まれることもなく旧説が現在まで残っており、
美術史分野では[[重要文化財]]指定時の[[鎌倉時代]]2説が主に併記、
たまにどちらかが選ばれるものの、その後進展があるでもない、
といった状況です。



[REFS[

-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[15] [CITE@ja[[[白鹿]]とは - コトバンク]], [[__&&[&&__日本酒・本格焼酎・泡盛__&&]&&__銘柄コレクション,精選版 日本国語大辞典,デジタル大辞泉,普及版 字通,世界大百科事典内言及]], [TIME[2022-12-28T12:34:32.000Z]] <https://kotobank.jp/word/%E7%99%BD%E9%B9%BF-600612>
]FIGCAPTION]

>世界大百科事典内の白鹿の言及
>【異年号】より
>[SNIP[]]南北朝時代に入ると,1345年(興国6∥貞和1)能登に白鹿,駿河に応治の年号が現れ,いずれもそれぞれの地方における反北朝(南朝系)の人々の使用と考えられている。[SNIP[]]

]FIG]
-- [121] 
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[373] [CITE@ja[迎雲(げいうん)とは - コトバンク]]
([[,世界大百科事典内言及]] 著, [TIME[2016-01-23 22:33:14 +09:00]] 版)
<https://kotobank.jp/word/%E8%BF%8E%E9%9B%B2-1308471>
]FIGCAPTION]

> まず1167年(仁安2)に当たる保寿の年号は,平清盛の全盛時,平氏と藤原氏の対立を背景に,藤原氏の息災を願う者の使用するところ,また90年(建久1)に当たる和勝・迎雲の年号は,ともに源平争乱の終結(和勝にはより明示的に源氏の勝利の含意がある)による平和の再来をことほぐ者の使用するところであって,いずれも個別特定の願意や祝意を,正年号を拒否する政治的態度をもって表明したもので,異年号のもつ基本的性格の一つを示している。 南北朝時代に入ると,1345年(興国6∥貞和1)能登に白鹿,駿河に応治の年号が現れ,いずれもそれぞれの地方における反北朝(南朝系)の人々の使用と考えられている。

]FIG]
- [149] 
[CITE@ja-JP[近畿地方における千体仏の基礎的調査]], [[元興寺文化財研究所]], [TIME[1982.3][1982]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T05:54:54.969Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12221306/1/5?keyword=%E6%87%89%E6%B2%BB> (要登録)
- [153] 
[CITE@ja-JP[本地仏の総合的研究 : 成立と展開]], [['''['''清水善三''']''']], [TIME[1983.3][1983]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-13T06:04:48.194Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12424038/1/38?keyword=%E6%87%89%E6%B2%BB> (要登録)
- [9] 
[CITE@ja-JP[鹿島美術財団年報 別冊]], [[鹿島美術財団]], [TIME[1996-11]], [TIME[2026-09-15T01:13:48.000Z]], [TIME[2026-10-12T14:49:24.906Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4425294/1/48?keyword=%E5%BF%9C%E6%B2%BB> (要登録)
- [117] [[日本私年号一覧表]]
- [118] [[Wikipediaの私年号一覧表]]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,応治 	,- 	,興国6年/貞和元年(1345年) 	,不明 	,大阪府泉大津市細見実蔵懸仏銘 
]FIG]
-- [323] 
[CITE@ja[「[[私年号]]」の版間の差分 - Wikipedia]], [TIME[2024-07-24T01:25:17.000Z]], [TIME[2024-07-26T14:13:23.542Z]] <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7&diff=prev&oldid=21313544>
--- [324] 
[CSECTION[2008年8月18日 (月) 17:21時点における版]],
58.0.128.185

]REFS]

* 関連

[SEE[ [[南朝の元号]] ]]

-*-*-

[7] [CITE@ja-JP[大日本仏教全書 101]], [[仏書刊行会]], [TIME[明治45-大正11][1922]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-28T12:18:06.950Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/952805/1/266>

應治元年4月8日没

(誤植? 近くに書かれているのは長治、長和でいずれも平安時代後期)

[5] [CITE@ja-JP[平治物語新釈]], [[吉村重徳]], [TIME[昭和2][1927]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-28T12:12:58.368Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1107025/1/158> (要登録)

應治元年 

(誤植?)

[6] [CITE@ja-JP[大阪府史蹟名勝天然記念物 第4冊]], [[大阪府学務部]], [TIME[昭和4][1929]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-28T12:15:04.409Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1119859/1/57>

白河天皇承暦3年に来た人によって應治元年に創建。

(白河天皇時代とすると應徳の誤植?)

[11] [CITE@ja-JP[大阪府神社史資料]], [[大阪府]], [TIME[昭和8][1933]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-28T12:27:00.176Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1688263/1/712> (要登録)

>>6 同

-*-*-

[8] [CITE@ja-JP[高麗以前風俗関係資料撮要]], [[今村鞆]], [TIME[昭和16][1941]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-28T12:22:42.518Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1062546/1/468>

年表 應治元年 二年 1306 1307

(鎌倉時代 正しくは徳治、誤植?)

* メモ



