* 徳寿 (日本)

[11] 
[DFN[徳壽]] ([[新字体]]: [[徳寿]], [[旧字体]]: [[德壽]])
は、
[[近代日本]]で[[日本中世の私年号]]と考えられたものの1つです。
現在では[[人名]]と考えられています。



[2] 
[[磬]]で針書銘が
「[V[徳壽十一月廿八󠄃日]]」
のものがあります。
[SRC[>>1, >>3, >>5]]

[6] 白黒写真: >>1 /36, >>5 /155

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [7] [DATA(.label)[[[小川白楊]]所蔵金銅孔雀文磬]]
「[DATA(.text)[[V[徳壽十一月__&&swc310(卄)&&__八󠄃日]]]]」 ([[楷書]])
[SRC[>>1 [V[四三]]]]


]ITEMS]

[16] 
[[德寿]]は[[元号]]のように見えなくもありませんが、
[[年数]]がないのが不審です。
これは[[極めて異例][東洋の日時表示]]です。

[4] 
[TIME[大正10(1921)年][1921]]の[[東洋美術学校]]の目録は、
様式は[[鎌倉時代]]のものだとしました。
[[私年号]]として[[德壽]]は知られておらず、
あるいは[[後二条天皇]][[德治]]だろうか、と書いていました。
[SRC[>>1]]

[8] 
[[昭和時代]]初期の[[磬]]の研究者[[広瀬都巽]]は、
[[德壽]]は[[私年号]]で纔に行われたもので[[年次]]を識すまでもなかったのだとしました。
他例なく時期がわからないものの、
様式および[[私年号]]流行時期から[[室町時代]]中期頃だとしました。
[SRC[>>3 [V[八󠄂六]], >>5 [V[第九九圖]]]]

[10] 
[[昭和時代]]の[[私年号]]の研究者[[久保常晴]]は、
[[年数]]も[[干支年]]も書かずに[[元号名]]だけを書く例は他にないことを踏まえ、
同時期の[[磬]]銘の構成要素を分析し、
他の用例が知られない限り、
[[徳寿]]は[[私年号]]ではなく[[人名]]と判断するのが妥当だとしました。
[SRC[>>9, pp.[V[四八󠄃四]]-[V[四八󠄃五]]]]


[14] 
その後現在まで他の説は提示されていないようです。

[13] 
[[私年号の一覧表の類][日本私年号一覧表]]でこれを掲載したものは見当たりません。



[12] 
銘文をよく見ると「壽」がやや右にそれて、[[月日]]とは連続しないようにも見えます。
(ただこの種の銘文の文字は元々原稿用紙のように綺麗に並ぶものでもありませんが。)


[15] 
[[德寿]]は[[元号]]ではないとするのが現時点での結論としてよさそうです。


[REFS[
-[1] [CITE@ja-JP[[[東京美術学校工芸史研究部研究報告]] 第2輯]], [[東京美術学校工芸美術会]], [TIME[大正10][1921]], [TIME[2023-01-06T06:14:39.000Z]], [TIME[2023-01-07T15:24:30.153Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/967722/1/9>
/36
-
[3] 
[CITE@ja-JP[[[仏教考古学講座]] 第九卷]], [[雄山閣]], [TIME[昭和12][1937]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-27T09:57:09.874Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1914089/1/89> (要登録)
-[5] 
[CITE@ja-JP[日本銅磬の研究]], [[広瀬都巽]], [TIME[昭和18][1943]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-27T09:46:20.829Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1125191/1/48> (要登録)
- [9] [CITE[[[日本私年号の研究]]]]

]REFS]

* メモ