[8] 
[DFN[弘徳]] ([[旧字体]]: [DFN[弘德]]) は、[[日本の私年号]]の1つです。

* 元号名

[19] 
[[元号名]]は[[新字体]]が[[弘徳]], [[旧字体]]が[[弘德]]です。

[153] 
[[読み][元号名の読み方]]は
「こうとく」
とされます。
[SRC[>>148]]

* 用例

[154] 
用例が2点報告されています。

[155] 
関係するかもしれない用例が1点報告されてます。

** 大和国の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [31] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[奈良県]][[生駒郡]][[富雄村]][[大字中]]]] [[霊山寺]] [[十六所神社]]本殿棟木下端墨書]]
-- [65] >>30 : [V[資料[YOKO[1]]]]
-- [42] >>1 /29 : 模写
-- [50] >>15 : 銘文 [[明朝体]] [[翻刻]]
--- [49] 大正元年11月1日に「調べた」とし、[[霊山寺]]文書との異同を示す
-- [43] >>1 /29 : 銘文 [[明朝体]] [[翻刻]]
-- [41] [DATA(.label)[[CITE[霊山寺諸事記録]] [CSECTION[貞享二年]]]]
--- [52] >>1 /21 : 白黒写真 (低解像度) 一部字形が把握できるが本文大部分は判読困難
--- [40] >>5 : 銘文 [[明朝体]] [[翻刻]]
--- [57] >>1 /31 : [[明朝体]] [[翻刻]]
-- [32] 「[V[[DATA(.text)[弘德元年[SUP(smaller inline)[甲]][SUB(smaller inline)[子]]六月十三日]][SNIP[]]]]」 [SRC[>>10, >>5, >>52, >>43, >>57]]
--- [47] 「[V[[DATA(.text)[弘德元年[LINES(smaller)[甲][子]]六月十三日]][SNIP[]]]]」 [SRC[>>15, >>14]]
--- [64] 「[V[[DATA(.text)[弘徳元年[LINES(smaller)[甲][□]]六月十三日]]]]」 [SRC[>>201, >>30]]
--- [32] 「[V[[DATA(.text)[弘德元年甲子六月]][SNIP[]]]]」 [SRC[>>12, >>9, >>13]]

]ITEMS]

[44] 
[[大正時代]]や[[昭和時代]]初期の諸書は日付部分だけの部分引用であり、
果たして実見した者がどれだけ居たのかは不明です。 (元々誰か見て伝えた人はいるはずですが。)

[53] 
銘文の全体が紹介されたのは、おそらく >>40 が最初です。ただし記録からの引用で、
実見したのかは不明です。

[54] 
実見の明確な記録は >>50 が最初です。

[55] 
[[十六所神社]]内の[[住吉社]]には、至德三年銘があります。 [SRC[>>1 /29]]

-*-*-

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [74] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[奈良県]][[奈良市]]]] [[伝香寺]] 地蔵箱型石仏]]
-- [76] >>30 : [V[資料[YOKO[3]]]]
-- [75] 
「[DATA(.text)[[V[弘□元年]]]]」
[SRC[>>30]]

]ITEMS]

[77] 
[[元号名]]は[DFN[弘□]]と読まれ、2字目は不明ですが、
[CITE[日本私年号の研究]]が[[弘德]]の資料として議論しています。


** 京都市内の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [160] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[京都府]][[京都市]]]] [[東寺]][[観智院]]金剛蔵聖教 別第二箱 114 [CITE[曼荼羅供法則私記]]]]
-- [161] 
[DATA(.label)[奥書]]
「[DATA(.text)[[V[弘徳元年六月廿七日]]]]」
[SRC[>>159]]

]ITEMS]

[21] 
[[令和時代]]に至るまで、[[私年号研究]]の文脈で紹介された事例が見当たりません。

[REFS[

- [159] 
[CITE@ja-JP[東寺観智院金剛蔵聖教目録 21 (古文書篇 2)]], [[京都府立総合資料館]], [TIME[1986.2][1986]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T11:58:50.462Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12266603/1/106?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7> (要登録)

]REFS]

** 比叡山の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [66] [DATA(.label)[[[叡山文庫]] [[天海僧正]]旧蔵 [CITE[[[般若心経秘鍵抄]]]]]],
[DATA(.author)[[[宝性院宥快]]]]
-- [68] >>30 : [V[資料[YOKO[2]]]]
-- [67] [DATA(.label)[巻三]]
--- [71] [DATA(.label)[題下]]
「[V[[DATA(.text)[弘徳元年八月八日]] 於宝性院]]」 [SRC[>>102, >>30]]
-- [72] [DATA(.label)[巻八]]
--- [73] [DATA(.label)[題下]]
「[V[[DATA(.text)[永徳四年]] 宝性院談之]]」 [SRC[>>102, >>30]]

]ITEMS]

[69] 
[[宝性院宥快]]は、
貞和元年から応永23年にかけて活躍した人物です。 [SRC[>>30]]

[70] 
[[叡山文庫]]本[CITE[吽字義聰抄]]奥書に「宝性院融快談」とあります。
一般的に学問僧は高僧となる頃講説が多くなります。 [SRC[>>30]]

[REFS[

- [102] 
[CITE@ja-JP[昭和現存天台書籍綜合目録 下卷]], [[渋谷亮泰]], [TIME[昭和18][1943]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T08:27:46.116Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1920701/1/257?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7> (要登録)

]REFS]

* 諸説

[20] 
[[大正時代]]以来、至德元年に比定する説が通説となっています。
[[干支年]]、[[著者]]の年代、媒体の様式が根拠となっています。

[23] 
異説はあるものの、通説を覆すだけの説得力はありません。

[114] 
ただし、十分に研究し尽くされているとは言えず、
用例の徹底的な調査や最新の編年学説に基づく年代推定などを通して、
通説を固めていく作業が今後求められるところです。

[115] 
発生理由については、[[公年号不採用案]]流出説、[[改元デマ]]説などがあるものの、
いずれも物証に欠けます。不採用案が発信源だとしても、
決定した[[公年号]]に不満を持つ者が意図的に[[私年号]]として使ったことがあり得るのかなど、
議論の尽くされていない論点は多々あります。

[116] 
[[月日]]まで特定された用例が[[京都]]と[[奈良]]という[[畿内]]の寺院でいくつも検出されている、
という貴重な事例であり、発生と伝播、利用者層の広がりなども考察の甲斐がありそうです。

[122] 
[[南北朝時代]]の政情不安定な情勢下とはいえ、[[京都]]周辺で少なくても2ヶ月にわたって用例が見られる点は、
慎重に考える必要がありそうです。

* 研究史

[158] 
[TIME[大正10(1921)年][1921]]の[[奈良県]]の一覧表は、
>>31
を紹介して[[弘德]]は[[至德]]の誤りだろうとしています。
[SRC[>>157]]

[33] 
[[大正時代]]の複数の書籍は、
>>31
を紹介して[[弘德]]は[[至德]]の誤りだとし [SRC[>>12, >>9]]、
[[室町時代]]初期の大修理の際のものだと説明しています [SRC[>>12]]。
推定の根拠は述べられていません。


[63] 
大正14年の書籍に、
棟木銘「[V[至德元年六月云々]]」とあります。 [SRC[>>62]]
>>31 を指すと思われます。

[61] 
[CITE[日本私年号の研究]]所引[CITE[国宝目録]]が「[V[至德元年六月]]」
としているとのことです [SRC[>>60]] が、[CITE[国宝目録]]
の書誌情報がなく詳細不明です。本書を指すのかもしれません。


[34] 
昭和2年の論文は、
>>31
を紹介して[[弘德]]は[[室町時代]]初期の[[至德]]の修繕を意味するのではないか、
研究を要する、と述べています。
[SRC[>>4]]
断定せず留保していますが、[[弘德]]と[[至德]]の関係が説明なく唐突に結び付けられるのは、
先行する書籍と同じです。

[36] あるいは先行文献による通説が念頭にあるため、
飛躍したやや不自然な説明になっているとも思われます。
なお、[[鎌倉時代]]の様式の建築であることも述べられています。

[35] 
昭和4年の論文は、
>>31
を紹介しておそらくは[[至德]]の誤りだろうと述べています。
[SRC[>>11]]
そのこと自体の根拠は示していませんが、
[[鎌倉時代]]末期の建築で[[室町時代]]の特徴も見られ、
[[至德]]前後そのものの様式だとしています。

[37] 
もっとも、[[鎌倉時代]]から[[室町時代]]との判定はともかく、
[[至德]]前後そのものという判断は[[弘德]] = [[至德]]説に引きづられているようにも感じられます。

[38] 
昭和6年の書籍は、
>>31
を紹介して[[至德]]の誤りだろうと述べています。
[[吉野]]からも[[京都]]からも離れた辺境で、
[[改元]]直後なので、[[誤って伝えられた][改元デマ]]と考えられ、
前後の[[甲子年]]では[[字]]が違うし時代も離れすぎている、
としています。
[SRC[>>13]]

[39] 
昭和8年の複数の書籍は、
>>31
を紹介し、その時の再建だろうとしています。
[SRC[>>10, >>167]]
それがいつを指すかの説明はありません。

[45] 
昭和15年の[[黒田昇議]]の論文は、
>>31 
とその
>>40
の銘文を紹介し、
[[弘德]]という[[年号]]は存在しないものの、
本殿の様式が[[鎌倉時代]]末期であるので、
[[至德]]と解するべきと思われる、
としています。
[SRC[>>5]]

[46] 
昭和16年の辞典は、
>>31
を紹介し、銘文がよく造営年代を示す、としていますが、
肝心の造営年代がいつ頃なのかの解説がありません。 [SRC[>>17]]

[48] 
昭和19年の書籍は、
>>31
を紹介し、その時の再建と思われるとしていますが、
それがいつかは述べていません。 [SRC[>>14]]

[51] 
昭和21年の[[天沼俊一]]の書籍は、
>>31
を紹介し、[[弘德]]という[[年号]]はないが、[[元年]]が[[甲子年]]なのは[[至德]]だから、
そう仮定して[[吉野時代]]としておいた、様式と差し支えない、
と説明しています。なお大正元年11月1日に「調べた」とのことです (>>49)。 
[SRC[>>15]]


[REFS[

- [157] 
[CITE@ja-JP[奈良縣社寺一斑]], [[奈良縣]], [TIME[1921.4][1921]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T11:55:02.824Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/11618665/1/69?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7> (要登録)
- [12] 
[CITE@ja-JP[日本古建築菁華 [第1冊上冊]], [[岩井武俊]], [TIME[大正8-11][1922]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T05:34:03.305Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/967472/1/52?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B3> (要登録)
- [9] 
[CITE@ja-JP[古美術行脚大和]], [[足立源一郎 等著]], [TIME[大正12][1923]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T05:37:37.528Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/977442/1/178?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7>
- [62] 
[CITE@ja-JP[傍註国寳目録 近畿之部]], [[岩井富蔵, 米山徳馬]], [TIME[大正14][1925]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T07:20:19.899Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1017102/1/179?keyword=%E8%87%B3%E5%BE%B7%E5%85%83%E5%B9%B4%E5%85%AD%E6%9C%88>
- [59]  
[CITE@ja-JP[[[寧楽]] (1)]], [[寧楽発行所]], [TIME[1927-05]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T05:40:51.135Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1517257/1/20?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7> (要登録)
-- [4] 
[CITE[[V[生駒富尾の古刹]]]],
[[[V[佐藤佐]]]]
- [11] 
[CITE@ja-JP[奈良県下国建見学提要]], [[京大建築会奈良研究所]], [TIME[昭和4][1929]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T05:45:17.575Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1176397/1/75?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7>
- [13] 
[CITE@ja-JP[宝雲抄]], [[東伏見邦英]], [TIME[昭和6][1931]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T05:49:49.310Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1181160/1/80?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7> (要登録)
- [167] 
[CITE@ja-JP[国宝建造物略説目録]], [[古建築及庭園研究会]], [TIME[昭和8][1933]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T12:15:31.711Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1188587/1/102?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7>
- [10] 
[CITE@ja-JP[国宝解説 建造物之部]], [[入江軍児, 宝鏡会 補]], [TIME[昭和8][1933]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T05:54:52.342Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1176060/1/88?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7> (要登録)
- [5] 
[CITE@ja-JP[考古学 11(7)]], [[東京考古学会]], [TIME[1940-07]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T05:58:02.556Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3548140/1/16?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7> (要登録)
- [17] 
[CITE@ja-JP[神道大辞典 : 3巻 第二卷]], [[平凡社]], [TIME[1941]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T06:19:53.125Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1913348/1/107?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7>
- [14] 
[CITE@ja-JP[生駒山脈 : その地理と歴史を語る]], [[立命館大学地理学同好会]], [TIME[昭和19][1944]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T06:21:52.725Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1043784/1/134?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7> (要登録)
- [15] 
[CITE@ja-JP[成虫樓随筆 続]], [[天沼俊一]], [TIME[昭和21][1946]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T06:24:14.466Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1058800/1/245?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7>

]REFS]

-*-*-

[103] 
昭和18年の目録は、
>>66
を掲載しています。 [SRC[>>102]]
他の[[元号年]]には比定年を付けていますが、
[[弘德]]には何も書かれていません。

-*-*-

[2] 
昭和28年、大規模な解体修理が行われました。詳細な調査が行われて報告書が作られました。
[SRC[>>1]]

[56] 
>>31
については、[[弘德]]と読めるが、そのような[[年号]]はなく、[[干支年]]から[[至德]]の誤記と考えたい、
としています。
[SRC[>>1 /29]]

[REFS[

-
[1] [CITE@ja-JP[重要文化財十六所神社社殿修理工事報告書]], [[奈良県教育委員会事務局文化財保存課]], [TIME[1953]], [TIME[2022-12-27T12:44:39.000Z]], [TIME[2022-12-28T05:21:36.154Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2426822/1/29> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[201] 
[[昭和時代]]の[[日本国]][[奈良県]]の歴史研究者[RUBYB[[[田村吉永]]][[TIME[1893]]-[TIME[1977]]]]は、
[[日本國]][[奈良県]][[生駒郡]][[富雄村]][[大字中]]
([[昭和の大合併]]により[[奈良市]][[中町]])
の雲仙寺裏山の十六所神社中央社殿の棟木の墨書に
「棟上雲仙寺十六所造[ASIS[替][>>200 では[CH[営]]]]弘徳元年[LINES(smaller)[甲][□]]六月十三日」
などとあるものを紹介しています。
[SRC[>>18, >>200]]

[24] 
解体修理の際に見出されました。 [SRC[>>18]]

[26] 
[[田村吉永]]は「勿論」[SRC[>>18]] [[私年号]]だとしています。 [SRC[>>18, >>200]]

[25] 
天沼工学博士は、この社殿の調査の記録で、
弘徳元年とし、至徳の誤かとしました。
[SRC[>>18]]

[27] 
そのためか国宝目録でも建立が至徳となっています。 [SRC[>>18]]

[28] 
社殿の[[蟇股]]に「文安五年[LINES(smaller)[タツノ][トシ]]」の建立とあります。
現扉の右縁に「天正四年九月上旬造供成就」、
左に「天正二年[LINES(smaller)[甲][戌]]卯月吉日」とあります。
天正二年に造替があったことが知られます。
[SRC[>>18]]

[29] 
[[田村吉永]]は、[TIME[文安5(1448)年][1448]]より前の至徳([TIME[1384]])では絶対になく、
[TIME[天正2(1574)年][1574]]だと考えて良いとしています。
[SRC[>>18]]

[REFS[

- [18] 
[CITE[[[私年号六題]]]],
[[田村吉永]]
- [199] [CITE[[[近畿文化]] (277)]],
[TIME[昭和47(1972)年12月][1972-12]]
-- [200] 
[CITE[[[[V[大和の私年号]]]]]],
[[[V[田村吉永]]]],
p.[L[3]]

]REFS]

-*-*-

[79] 
昭和42年の[CITE[日本私年号の研究]]は、
次のように述べています。
[SRC[>>30]]

- [80] >>31 (出典: >>201 等)
-- [84] 干支年
-- [99] >>28 説は、
--- [100] 棟木の取り替えはほとんど解体に近い
--- [101] 部分的に取り替え可能なものの紀年と同時としなくてよい
- [81] >>66
-- [98] [[著者]]の活躍時期 (>>69)
-- [82] 巻8奥書より、永徳4年かそれ以前で、あまり離れていない時期
- [83] >>84 >>98 >>82 より、西暦1384年が弘德元年
- [85] >>74 
-- [90] 出典: >>78
--- [86] [[法隆寺]]北の池端「応永十九年」五輪塔婆の様式に似ている
---- [87] 「ほぼ南北朝時代のもの」
--- [88] もし[[弘和]]なら、
---- [89] 元中元年甲子4月28日入滅の[[興福寺]]松院尊寛賢慶房のため造立したものらしい
-- [91] 石仏に4月28日銘はない
-- [92] [[弘和]] → [[元中]]だから、[[逆修]]でない限りは、成立しない
-- [93] 賢慶房入滅時を明らかにした資料が提示されていない
-- [94] >>31 銘文によると賢慶房は十六所神社修理に参加している
--- [95] 元中元年死去なら、弘□は元中元年以後であり、応永前後までには[[弘德]]しかない
--- [96] 弘德だとし、4月28日死去とすると、6月に修理参加は一見矛盾するが、
---- [97] 死去まで奉行職、その後 >>31 銘文にある円□房が継承したと理解すれば、
約1ヶ月半で近接しており、問題視することもない

[105] 
また、次のように述べています。 [SRC[>>104]]

- [106] [[比叡山]]や[[南都]]の大寺で僧侶により利用
- [107] [[北朝]]で[[至德]]と[[改元]]
-- [108] [CITE[迎陽記]]は典拠引文に[CH[亡]]が含まれることに不満が[[公家]]中にあったことを記録
-- [109] 近接して[[公年号不採用案]]の[[永宝]]が[[私年号]]として使われた事例
- [110] [[元号]]の勘進家の抗争や、 >>106 からすれば[[至德]]の選定不満に関連するか
- [113] [CH[弘]]は[[南朝]]の[[弘和]]があり、
[CH[徳]]は[[北朝]]の南北朝時代末期に多く、
総じて公家的性格が強い、
発想者の立場を公家と解した点の裏付けとなる [SRC[>>112]]

;; [111] [[公家]]の抗争がどう僧侶につながるのかがいまいちよく説明されていません

[REFS[

- 
[3] 
[CITE[日本私年号の研究]]
-- [30] 
pp.[V[二三四]]-[V[二三六]], p.[V[二四四]]
--- [60] 引用: [CITE[国宝目録]]
--- [78] 引用:
[CITE[続大和の石仏]],
[[[ASIS[大]]田古朴]],
[CITE[[[石仏]] 第二号]]
-- [104] pp.[V[二六六]]-[V[二六七]]
-- [112] p.[V[二七五]]
-- [7] p.[V[五三三]]

]REFS]

-*-*-

[6] 
[[昭和50年代]]には、[[好德]]を[[弘德]]の異表記と考える説が提唱されました。
[SEE[ [[好德]] ]]

-*-*-

[58] 
昭和49年の書籍は、
>>31
を紹介し、
[[弘徳]]は[[私年号]]で、[[至徳]]の誤りか、と説明しています。
本殿は[[吉野朝時代]]としています。
[SRC[>>16]]

[141] 
[CITE[日本私年号の研究]]巻末一覧表は、
[[弘徳]]の比定年を[[至徳]]元年 = 元中21年としていました。
[SRC[>>7]]
正しくは元中元年です。
この誤りを[[千々和到]]系の一覧表の初期のものは引き継いでいますが、
後のものは訂正されています。
[SRC[>>142]]

[123] [[千々和到]]は、[[公年号]]の1字置き換え[[私年号]]の実例の1つともしています。
[SRC[>>142]]

[144] [[所功]]の一覧表は1384年頃としています。なぜ曖昧にしたのかは不明です。
[SRC[>>142]]

[145] 
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]の表には初期から掲載されています。 [SRC[>>143]]

[152] 
その他、辞書類や一般で[[私年号]]として、あるいは[[弘德]]銘の紹介の一部で、
[[至德]]説が言及される事例がしばしば見られます。
[SRC[>>146, >>147, >>149, >>148, >>176, >>177]]

[156] 
[TIME[平成30(2018)年][2018]]の [[SNS]] の投稿で、
[[弘徳]]は
「徳を弘める」
の意味だとするものがあります。 [SRC[>>148]]
根拠は不明です。断定的に書かれていますが、
[[漢字]]の字義に基づく投稿者の個人的な見解の可能性があります。

[REFS[

- [16] 
[CITE@ja-JP[奈良歴史案内]], [[松本俊吉]], [TIME[1974]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T07:06:02.244Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9573475/1/54?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7> (要登録)
-
[177] 
[CITE@ja-JP[日本歴史地名大系 第30巻 (奈良県の地名)]], [[平凡社]], [TIME[1981.6][1981]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T13:01:42.940Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12196700/1/311?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7> (要登録)
-
[176] 
[CITE@ja-JP[年表日本歴史 3]], [[井上光貞 '''['''ほか''']'''編集]], [TIME[1981.11][1981]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T12:41:52.421Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12193825/1/89?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B3> (要登録)
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[146] 
[CITE@ja[十六所神社(じゆうろくしよじんじや)とは? 意味や使い方 - コトバンク]], [[日本歴史地名大系]], [TIME[2026-05-08T09:50:28.000Z]] <https://kotobank.jp/word/%E5%8D%81%E5%85%AD%E6%89%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE-3082464>
]FIGCAPTION]

>
[SNIP[]]本殿の棟木銘に「上棟弘徳元年
甲子
十月十三日」とあり、弘徳は私年号で至徳元年(一三八四)にあたる。蟇股には文安五年(一四四八)の墨書があるものもあり、住吉神社にも至徳三年の棟木銘がある。

>
出典 平凡社「日本歴史地名大系」[SNIP[]]

]FIG]
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[147] 
[CITE@ja[弘徳(こうとく)とは? 意味や使い方 - コトバンク]], [[普及版 字通,世界大百科事典内言及]], [TIME[2026-05-08T09:51:45.000Z]] <https://kotobank.jp/word/%E5%BC%98%E5%BE%B3-1315077>
]FIGCAPTION]

(読みは他の項目から)

>[SNIP[]]ついで84年(元中1∥至徳1)叡山・南都の一部僧侶の使用にかかる弘徳,88年(元中5∥嘉慶2)大和の一部に見られた永宝はいずれも,北朝において年号勘申を担当した公家たちの対立を背景として,正年号に対する不満から生まれたものと推測されている。[SNIP[]]

>出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」 [SNIP[]]



]FIG]
-- [178] 
[CITE@ja-JP[平凡社大百科事典 1 (アーイワ)]], [[平凡社]], [TIME[1984.11][1984]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T13:03:49.428Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12405211/1/589?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7> (要登録)
- [142] [[日本私年号一覧表]]
- [143] [[Wikipediaの私年号一覧表]]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[22] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,弘徳 	- 	,元中元年/至徳元年(1384年) 	,不明 	,奈良市十六所神社棟木銘、叡山文庫蔵『般若心経秘鍵抄』奥書 
]FIG]
- [149] 
[CITE@ja[Xユーザーの歴史塵2th(汁・ビルヌーブ改)さん: 「@RibbonChieko 弘徳って、南北朝時代に地方で勝手に独自元号を決めてた地域があるらしいwww 個人的には文承あたりが奥ゆかしい感じがあって好きかなw https://t.co/5NFlEm7Cw4」 / X]], [TIME[午前11:30 · 2018年1月3日][2018-01-03T02:30:13.000Z]], [TIME[2026-05-08T07:56:22.000Z]] <https://x.com/NoReply_2022/status/948380950160850946>
- [148] 
[CITE@ja[Xユーザーの大森博子 Hiroko Ohmori🔍📚さん: 「【元号】341 弘徳 こうとく 元中元年/至徳元年(1384年)期間不明 奈良市十六所神社棟木銘、叡山文庫蔵『般若心経秘鍵抄』奥書 これは北朝方の私年号。北朝の場合は公家間の対立が激しく、公年号をよしとしない人が使ったという。「徳を弘める」という意味とは裏腹に我欲から使われたもの。」 / X]], [TIME[午前6:02 · 2018年10月31日][2018-10-30T21:02:33.000Z]], [TIME[2026-05-08T07:56:22.000Z]] <https://x.com/11111hiromorinn/status/1057377238893522944>

]REFS]


* 関連

[117] 
時系列 : 

- [118] [TIME[永徳4(1384)年甲子2月27日][kyuureki:1384-02-27]]、
[[至德]]に[[改元]] (甲子年)
- [120] [TIME[弘和4(1384)年甲子4月28日][kyuureki:1384-04-28]]、
[[元中]]に[[改元]] ([[代始改元]])
- [119] [TIME[至徳4(1387)年8月23日][kyuureki:1387-08-23]]、
[[嘉慶]]に[[改元]]
- [121] [TIME[元中9(1392)年閏10月5日][kyuureki:1392-10'-05]]、
[[明徳の和約]]


-*-*-

[150] 
[[公年号不採用案]]で[[弘徳]]の提案例があるようです。

[151] 
[[令和]]度の[[新年号予想]]で[[弘徳]]が挙げられることもわりとあったようです。




-*-*-

[171] 
[[児島高徳]]の没年について、 >>168 は一説に弘徳二年十一月の説があると書いています。

[172] 
これがその出典通りなのか、誤植なのか不明です。

[173] 
[[児島高徳]]については、 >>168 の時代には非実在説が有力になってきていましたが、
その後また実在説が通説化しています。 [SRC[>>170]] しかし生没年には諸説があります。

[174] 
[CITE[三宅氏正伝記]]等は[TIME[弘和2(1382)年11月24日][kyuureki:1382-11-24]]死去としているとのことです。
[SRC[>>169, >>170]]

[175] 
[[南朝]]の[['''弘'''和]]と[[北朝]]の[[永'''徳''']]は[[元年]]が同じですし、
あるいは高'''徳'''に引きづられた誤記または誤植なのかもしれませんが、
[[至德]]とも近接しているのは気になります。

[REFS[

- [168] 
[CITE@ja-JP[緑の季節 : 随筆]], [[桑田茂]], [TIME[1966]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T12:30:30.495Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2933389/1/96?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7> (要登録)
- [169] 
[CITE@ja-JP[南朝児島高徳]], [[入内島一崇]], [TIME[1990.10][1990]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T12:31:00.008Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13238408/1/491?keyword=%E4%B8%89%E5%AE%85%E6%B0%8F%E6%AD%A3%E4%BC%9D%E8%A8%98> (要登録)
- [170] 
[CITE@ja[児島高徳 - Wikipedia]], [TIME[2026-04-30T13:55:25.000Z]], [TIME[2026-05-08T12:31:22.889Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E5%B3%B6%E9%AB%98%E5%BE%B3#%E7%94%9F%E6%B2%A1%E5%B9%B4>

]REFS]

-*-*-

[162] 
[CITE@ja-JP[神国島根 : 島根の観光資料]], [[岡山俊信]], [TIME[昭和15][1940]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T12:06:39.421Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1034743/1/18?keyword=%E5%BC%98%E5%BE%B7> (要登録)


[163] >>162 は[[毛利元就]]が弘德元年に[[白鹿城]]を攻めた時に[[洗合山]]に陣営を築いた、
と書いています。

[164] 
現在の通説では[[洗合城]]は[TIME[永禄5(1562)年][1562]]の築城とされます。
[SRC[>>165]]
[[白鹿城の戦い]]は[TIME[永禄6(1563)年][1563]]の出来事とされます。

[166] 
この付近では1つ前の[[元号]]で[TIME[弘治元(1555)年][1555]]が先頭文字で共通していますが、
単純な誤記・誤植でも混入でも説明が付きません。


[REFS[

- [165] [TIME[2015-08-18T01:12:03.000Z]], [TIME[2026-05-08T12:11:51.124Z]] <http://masayama.justhpbs.jp/arawaijouato.html>

]REFS]



* メモ

