[9] 
[DFN[延承]]あるいは[DFN[延永]]は、[[日本の私年号]]の1つです。

* 用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [26] [DATA(.label)[[[大宮国盛]] 刀銘]]
-- [27] 「[V[[DATA(.text)[延承(永)二二年七月]]國盛]]」
[SRC[>>1]]
--- [31] 「[V[[DATA(.text)[延承廿二年七月]]國盛]]」
[SRC[>>5]]
- [45] [DATA(.label)[[[元守]]]]
-- [46] 「[DATA(.text)[延永二年]]」
[SRC[>>44]]

]ITEMS]

[28] 
>>26 は[[昭和時代]]の書籍に言及があります。 [SRC[>>1, >>5]] 

[29] 
>>26 の現在の所在は不明です。 [[Web]] の検索では見つかりません。

[3] >>27 の「延承(永)」は「[CH[承]]と読めるが[CH[永]]の可能性もある」という意味でしょうか。
>>31 は[CH[承]]とだけ書いています。
これらが実見による判断なのか、先行文献からの引用なのかは不明です。

[32] >>27 が[V[二二]]とするところを >>31 は[V[廿二]]とします。
しかし >>31 の注釈は[V[延承四年]]と書いています [SRC[>>5]]
ので、[[誤植]]と思われます。

[30] 
[[大宮国盛]]は、[[京都]]から[[備前]]に移った刀工で、
備前大宮物の創始者とされています。
しかしその詳細には不明な点が多いようです。

[4] >>1 は[[大宮]]で[[國盛]]と名乗る者が何人いたのかはわからないとし、
系図の年代を訂正すると:
「國盛 [[仁治]] → [LINES[助盛 [[延長]], [[文永]]][[[盛助]] [[弘安]]]] → [SNIP[]]」
としています。現在の資料でも、おおむね[[鎌倉時代]]頃の人とされています。

[47] >>45 は[[昭和時代]]の書籍に言及があります。

[48] 
[[備前長船]]の刀工である[[元守]]に「延永二年」銘があるということのようですが、
それ以上は不明です。


[REFS[

- [44] 
[CITE@ja-JP[刀工総覧]], [[川口陟, 飯田一雄 校訂]], [TIME[1968]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-02T07:05:25.935Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2518402/1/331?keyword=%E5%BB%B6%E6%B0%B8> (要登録)

]REFS]

* 諸説

[50] 
一応[[延応]]説があるものの、これまでほとんど[[私年号]]としての研究対象になっていません。

[52] 
[[延応]]とした場合、+2年の[[延長年号]]になります。

[54] 
[[元号名]]も2通りがあり、どちらが本来の語形か不明なままです。
実物が所在不明であり、検討困難です。

[53] 
偽作等でないとすれば、[[鎌倉時代]]頃となるのでしょうか。


* 研究史

[10] 
近世の刀剣銘関係の文献に出現する可能性はありますが、現在のところ知られていません。

[2] 
[[昭和時代]]の書籍は、
>>26
を紹介し、
延承(永)は[[私製年號]]だろう、
[V[二二年]]は4年だろう、
いつかはわからない、
としています。
ただし作者の系図 (>>4) を示しており、その時代とみているようです。
[SRC[>>1]]



[6] [[昭和時代]]の書籍は、
>>26
を紹介し、
「延承四年は延應四年なるべしとの註あるも延應には四年なし。」
[SRC[>>5]]
と注釈しています。

[51] 
先行する文献が[[延応]]説を唱えていたようです。[[字形]]の類似によるものでしょうか。
しかしそれでは[[延長年号]]になります。

[REFS[

-
[1] [CITE@ja-JP[刀剣之新研究]], [[清水孝教]], [TIME[昭和4][1929]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-06-21T13:19:07.543Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1224936/1/285> (要登録)
- [5] 
[CITE@ja-JP[刀匠銘集録]], [[高瀬梧堂 編著]], [TIME[昭14][1939]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-02T06:45:40.224Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1686897/1/214?keyword=%E5%BB%B6%E6%89%BF> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[49] 
[[令和時代]]に至るまで、[[私年号研究者]]に知られることなく埋もれていました。


* 関連


[16] 
[CITE@ja-JP[日本歴史シリーズ 第6巻]], [[遠藤元男 等編]], [TIME[1967]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-06-21T13:56:35.798Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3023435/1/117> (要登録)

「[L[延󠄁永二年]]」

[17] >>16
[[法然]]と[[親鸞]]の別離の年であり、
[TIME[建永2(1207)年][1207]]が正しい。


-*-*-

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[7] 
[CITE@ja-JP[八坂誌 坤]], [[八坂神社]], [TIME[明39.7][1906]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-06-21T13:26:56.498Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/904399/1/26>
]FIGCAPTION]

>
[VRL[
[SNIP[]]其後承安二年よ[BR[]]り延󠄅承四年に至て五百七十年也
]VRL]

([[明朝体]])
]FIG]

[8] 
[TIME[承安2(1172)年][1172]] + 570 = [TIME[1742(寛保2)年][1742]],
正しくは[TIME[延享4(1747)年][1747]]か。


** 永延󠄅を誤った延󠄅永

[11] [CITE@ja-JP[大日本史料 第2編之1]], [[東京帝国大学文学部史料編纂掛 編纂]], [TIME[昭和3][1928]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-06-21T13:42:19.634Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1029928/1/187>
右 [[柱]]

「[V[永延󠄅二年]]」とあるべき箇所がここ1箇所だけ「[V[延󠄅永二年]]」と[[誤植]]。

[12] 
[CITE@ja-JP[大日本史料 第2編之2]], [[東京大学史料編纂所]], [TIME[昭和5][1930]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-06-21T13:44:46.811Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3450170/1/318>
左 本文中

[CITE[[V[長德二年大間書]]]]中、
「[V[延󠄅永二年]]」 ([[明朝体]])

[13] [CITE@ja[国書データベース]], [TIME[2024-06-21T13:53:54.000Z]] <https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100044526/26?ln=ja>

[14] [[宮内庁書陵部]]所蔵[CITE[続群書類従]]本では「永延二年」 ([[草書]]) [SRC[>>13]]。 
なお諸本の系統について >>15 も参照。

- [15] [CITE@ja[untitled - kiyo0019-hirose.pdf]], [TIME[2018-08-07T09:59:39.000Z]], [TIME[2024-06-21T13:55:15.263Z]] <https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/kiyo/19/kiyo0019-hirose.pdf>


[18] [CITE@ja-JP[東山をあるく]], [[近藤徹称]], [TIME[1969]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-06-21T14:02:45.693Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9572577/1/78> (要登録)

>原為光が建てた寺で、延永二年(九八八)に供養したことが『大鏡』に記されている。

(明朝体)

[19] >>18 永延2年の誤植。

[20] [CITE@ja-JP[大鏡詳解 月]], [[落合直文, 池辺義象]], [TIME[明29][1896]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-06-21T14:04:54.131Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/877418/1/57>

>恒徳公は爲光。裏書に延永。二年三月二十六日癸未右大臣爲光供養法成寺一院公卿辨少納言吏皆參

([[明朝体]])

[21] >>20 [[元号名]]と[[元号年]]の間の[CH[[V[。]]]] が気になりつつも、
>>18 の誤植は >>20 にまで (もしかするともっと前まで) 遡る?

[22] 
でも >>18 は[[西暦年]]が付与されているので、その時に間違いに気づきそうなものだけど。
[[西暦年]]を付与した後に発生した誤植がたまたま >>20 と一致しただけ?

[23] [CITE@ja-JP[高等国文講義]], [[山内二郎]], [TIME[明42.11][1909]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-06-21T14:09:19.351Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/868019/1/265>
右ページ左

>なり法作寺殿といヘり延永二年藤原爲光の創建なり大鏡中卷爲光の傳に「法住寺をぞいといかめ


[24] [CITE@ja-JP[日本 38(12)(453);12月号]], [[日本学協会]], [TIME[1988-12]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-06-21T14:10:29.401Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/11397309/1/6> (要登録)

>しい。『栄花物語』(延永二年条)には、「今のうへ、わらはにおはしませば、つ

[25] >>24 この直前には「[V[天武天皇の慶雲三年]]」云々とも書かれている。正しくは[[文武天皇]]。

* 関連

- [42] [TIME[寛和3(987)年4月5日][kyuureki:987-04-05]]、
[[永延]]に[[改元]] ([[代始改元]])
- [43] [TIME[永延3(989)年8月8日][kyuureki:989-08-08]]、
[[永祚]]に[[改元]]
- [37] [TIME[長寛3(1165)年6月5日][kyuureki:1165-06-05]]、
[[永万]]に[[改元]]
- [38] [TIME[永万2(1166)年8月27日][kyuureki:1166-08-27]]、
[[仁安]]に[[改元]]
- [33] [TIME[暦仁2(1239)年2月7日][kyuureki:1239-02-07]]、
[[延応]]に[[改元]]
- [34] [TIME[延応2(1240)年7月16日][kyuureki:1240-07-16]]、
[[仁治]]に[[改元]] ([[災異改元]])
- [39] [TIME[仁治4(1243)年2月26日][kyuureki:1243-02-26]]、
[[寛元]]に[[改元]]
- [35] [TIME[正元2(1260)年4月13日][kyuureki:1260-04-13]]、
[[文応]]に[[改元]] ([[代始改元]])
- [36] [TIME[文応2(1261)年2月20日][kyuureki:1261-02-20]]、
[[弘長]]に[[改元]]
- [40] [TIME[徳治3(1308)年10月9日][kyuureki:1308-10-09]]、
[[延慶]]に[[改元]]
- [41] [TIME[延慶4(1311)年4月28日][kyuureki:1311-04-28]]、
[[応長]]に[[改元]]

* メモ
