[2] 
[DFN[延寿]] ([[旧字体]]: [DFN[延壽]]) や[DFN[大政]]は、
[[奥羽越列藩同盟]]の[[元号]]だったといわれる[[私年号]]です。

[3] 
[[奥羽越列藩同盟]]が[[改元]]したとする確実な根拠は見つかっていません。
実在の[[公年号]]か、
[[改元デマ]]から生じた[[私年号]]か、
判断が難しいものです。

[4] 
しかし当時一部でこうした[[元号]]が使われたことは事実のようです。

* 元号名

[328] 
[[延寿]]は「えんじゅ」と[[読み][元号の読み方]]ます。
[SRC[>>326 >>243 >>251]]

[329] [[現代日本語]]では他に妥当な読み方がないとはいえ、
根拠を明示したものは見つかりません。

* 紀年法

[278] 実利用例があるもの:

- [279] [[延寿]] [TIME[慶応3(1867)年][1867]]が[[元年]]
- [280] [[延寿]] [TIME[慶応4(1868)年][1868]]が[[元年]]

[281] [[改元]]されたという日付の記述例があるもの:

- [282] [[大政]] [TIME[慶応4(1868)年][1868]]が[[元年]]

[283] [[改元]]されたという伝聞があるもの:

- [282] [[大化]] [TIME[慶応4(1868)年][1868]]が[[元年]]

* 新元号候補の「延寿」

[207] 
[[日本の元号]]の候補として中世頃に[[延寿]]はたびたび提案されていましたが、
一度も採用はされませんでした。

** 幕府新元号案説

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[346] [CITE@ja-JP[明治天皇の弟の玄孫さん(地家やすお氏)からのメール。 - 田布施 おいで屋]], [TIME[2024-01-04T04:13:38.000Z]] <https://www.tabuse-oideya.com/%E4%BD%93%E9%A8%93-%E7%B4%A0%E6%95%B5%E6%83%85%E5%A0%B1/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E5%BC%9F%E3%81%AE%E7%8E%84%E5%AD%AB%E3%81%95%E3%82%93/>
]FIGCAPTION]

>
[BOX[
山口県萩市の萩八幡宮の「延命寺燈篭」には、「万治参年・・・大室寅助」の名前が
刻まれている。ただ、万治3年と言う年は本来存在しない。計算上は慶応3年という事
になるが。西円寺にも「延命寺石灯篭」あったで。

__&&>&&__>万治(慶応)3年は西暦1867年に該当。

万治3年は「慶喜に応じる」という意味にも取れるので、長州では慶応の前の年号で
ある「万治」を使用していた。延命寺(えんみょうじ)は天台宗東叡山寛永寺の末寺
だったので、慶応3年5月に倒幕派によって焼失。 ちなみに幕府が慶応の次に決めて
いた年号は「延寿」。出典は『後漢書』「王允伝」より。
]BOX]

> 大政元(1868)年 6月15日 輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)、諱
(いみな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東
武皇帝」に即位。
>
> 慶応4年6月15日を以て、「大政」元年と改元。
> 8月に慶喜と中川宮(1863年にすりかわった水戸斉昭の息子の中川宮朝彦)が大室
寅之祐明治天皇新政府に対しクーデターを計画したが失敗。


]FIG]

;; [347] [[明治天皇すり替え陰謀論]]のサイト。



* 「延寿」元年丑

@@
[404] 
[CITE@ja-JP[東葛戊辰録 : 維新を駆けた人々]], [[山形紘]], [TIME[1988.10][1988]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T09:02:55.210Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13183152/1/91?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%BF> (要登録)


* 慶応3年12月 入間の「延寿」

[219] 
[[日本国]][[埼玉県]][[入間市]]に[[延寿]]銘墓石が2基確認されています。
[SRC[>>217]]

[220] 
[DFN[私年号「延寿」を刻む墓石(1)]]
は、
[[日本]][[武蔵国]][[入間郡]][[黒須村]] [WEAK[(現在の[[入間市]])]]
の[[医師]]・[[寺子屋]]師匠の[RUBYB[[[小嶋一斎]] ([[小島一斎]])][[TIME[1811]]-[TIME[1867]]]] 
の墓石です。
[SRC[>>218]]
[[平成時代]]の[[市史]]は子と弟子が[[蓮花院]]に建てたと説明していました [SRC[>>218]]
が、[[令和時代]]の資料では[[黒須公民館北側]]の旧[[大行寺]]の墓地にあったものが[[蓮花院]]に移転されて無縁塚の中にある、
となっています [SRC[>>217]]。

[222] 
[[私年号「延寿」を刻む墓石(1)]]
の左側面に「延寿元年」の文字があります。
[SRC[>>217]]

[221] 
[DFN[私年号「延寿」を刻む墓石(2)]]
は、
[[入間市]]の[[鍵山墓地]]の繁田家の墓域にある[[森田みつ]]の墓石です。
[SRC[>>217]]

[223] 
[[私年号「延寿」を刻む墓石(2)]]
に「延寿元年」の文字があります。
[SRC[>>217]]

[224] 
[[森田みつ]]がどのような人物かは情報がなくよくわかりません。
両墓石とも銘文の詳細も不明です。

[225] 
[[小嶋一斎]]は[TIME[延寿元(1867)年11月28日][kyuureki:1867-11-28]]没とされます。
[SRC[>>218]]
「延寿元年」までは銘文にあるようですが、月日も銘文にあるのか、
それとも[[過去帳]]など他の情報から補っているのかはわかりません。
また、延寿元年を[TIME[西暦1867年][1867]]に比定した理由も不明です。
しかし[[平成時代]]の市史と[[令和時代]]の資料のどちらもこれを断言していて、
一切の疑問を挟んでいません [SRC[>>218, >>217]]。
[[干支年]]があるのか、あるいは他にも確実な情報源があるのでしょうか。

[226] 
墓石がいつ作られたのか、つまり「延寿元年」
が使われたのが死去の日からどれだけ経過していたのかも不明です。
(同じ地域の慶応3年、慶応4年銘の墓石が他にあるのか知りたいですね。)

[227] 
この2つの墓石のうち、[[私年号「延寿」を刻む墓石(1)]]は[TIME[平成6(1994)年][1994]]の
[CITE[入間市史]]
に掲載されていて、[[平成時代]]初期に少なくてもこちらは再発見されていたことがわかります。
[[延寿]]が[[私年号]]であるとも明記されています。
ところがこれらの墓石は[[令和時代]]に至るまで[[元号]]関係の[[論文]]や[[ウェブサイト]]で一切紹介されてこなかったようです。

[228] 
つまり[[元号研究]]者らはこの発見を見落としてきたのであり、
[[入間市]]側にも[[元号]]に詳しい人がおらず持て余してきたようなのです。
[[平成時代]]の
[CITE[入間市史]]
の「延寿」の解説はどう見ても ([[私年号]]としてでなく) 一般論としての「延寿」という語の説明に、
[[私年号]]全般の説明を足したもので [SRC[>>218]]、
「私年号の延寿」の説明として頓珍漢なことになっています。
[[令和時代]]の審議会も、
よくわかっていない人達同士で議論になっていません [SRC[>>217]]。

[229] 
令和3年の審議会では、調査が不十分であるとして継続審議になり、
文化財には指定されませんでした。
[SRC[>>217]]
そして令和5年の第1回審議会までの時点で文化財指定の再提案は行われていないようです。

[230] 
令和3年の審議会で委員長は、

>
私年号の研究が進んでいった際に珍しいものではなくなること
も考えられるため、詳細な調査をしていくべきだと思います。

とまとめています。 [SRC[>>217]]
一般論としてはまあその通りですし、詳細な調査は是非とも行っていただきたいのですが、
前段は重大な認識ミスと言わざるを得ません。

[231] 
なぜなら、[[延寿]]の[[金石文]]用例は令和5年末時点でもこの2件だけです。
この報告以前はまったく知られておらず、[[延寿]]の[[私年号]]の実在も疑われていました。
この2件の墓石はそれを実証する貴重な史料です。

[232] 
しかもこの2例の[[延寿]]は従来説の[TIME[西暦1868年][1868]]ではなく[TIME[西暦1867年][1867]]とされています。
[[紀年法]]が[[1年ずれる][1年ずれ]]のは、
それ単体でも重大な新発見であるのは言うまでもないのですが、
[[延寿]]についてはとりわけ重要な意味を持ちます。
[TIME[慶応3(1867)年10月14日][kyuureki:1867-10-14]]の[[大政奉還]]の奏上、
[TIME[慶応3年12月9日][kyuureki:1867-12-09]]の[[王政復古]]、
[TIME[慶応4(1868)年1月3日][kyuureki:1868-01-03]]という時代の流れの中で、
慶応3年11月に既に[[延寿]]が使われていたとすると、
慶応4年5月成立の[[奥羽越列藩同盟]]と関係づけた従来説は全面的な見直しを迫られます。
ひいては[[戊辰戦争]]や[[東北政権]]の政治思想史的解釈にも新たな材料を提供することになりそうです。

[233] 
こうした「延寿」研究史上の転換点となり得るこの2件の墓石の重要性は、
たとえこの先新たな資料が追加されていくとしても、
決して減じるものではないはずです。

;; [236] なのでこれを文化財指定候補に選んだセンスはとてもよくて、
[[私年号]]をよくわかっていないのにいい勘をしているのです。

[234] 
[[入間市]]の関係各位におかれましては、
この貴重な文化財の保護と本格的な学術調査のため適切な措置を講じられるよう、
よろしくお取り計らい願いたいものです。

;; [237] 
また、[[入間市]]域に限らず周辺地域に「延寿」
銘の[[金石文]]が現存する可能性が出てきたということでもあります。
周辺の自治体でも是非とも調査していただきたいところです。


[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[218] 
[CITE@ja-JP[[[入間市史]] 通史編]], [[入間市史編さん室]], [TIME[1994.8][1994]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-16T11:02:35.602Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9644772/1/332> (要登録)
]FIGCAPTION]

>
[VRLBOX[
[SNIP[]][RUBY[延][*]]寿[BR[]]元年(一八󠄃六七)十一月二十八󠄃日亡くなった。[SNIP[]]

:延寿:
寿命を延ばすことの意。[BR[]]朝廷で正式に制定され[BR[]]た年号に対して、私的[BR[]]に用いられた私年号。[BR[]]金石文、社寺縁起など[BR[]]にみられる。嘉祥の文[BR[]]字を使ったものが多い。
]VRLBOX]

[CSECTION[[L[[B[写真5―52]] 小嶋一斎墓石]]]]:
墓石の白黒写真。正面の字形がある程度読み取れるが、
[[紀年]]部分はみえない。


]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[

[217] [CITE[会 議 録 - 2021-1kaigiroku.pdf]], [TIME[2022-12-26T05:26:46.000Z]], [TIME[2023-12-16T10:47:15.964Z]] <https://www.city.iruma.saitama.jp/material/files/group/86/2021-1kaigiroku.pdf#page=4>

]FIGCAPTION]

>
[BOX(center)[
[B[会 議 録(1)]]
]BOX]
>
,会 議 の 名 称, 令和3年度 第1回入間市文化財保護審議委員会
,開 催 日 時, 令和3年10月1日(金)[BR[]]午前10時開会・ 午前11時45分閉会
,開 催 場 所 ,入間市博物館 会議室
,議 長 氏 名 ,鹿島 英明
,出席委員(者)氏名 ,鹿島 英明 枝窪 邦茂 栁澤 かほる 梅津 久昭 [BR[]]荒牧 澄多 小峰 孝男 児玉 俊雄
,[SNIP[]],[SNIP[]]
,説明者の職氏名 ,博物館主幹 大久保 卓
,[SNIP[]],[SNIP[]]
,事 務 局 職 員[BR[]]職 氏 名,・教育部部長 浅見 嘉之 ・教育部次長 片寄 貴之[BR[]]・博物館館長 加藤 保夫 ・博物館副館長 澤田 和也[BR[]]・同主幹 大久保 卓 ・同主事 中村 祐太


>
,決 定 事 項,3 議 題[BR[]](1)新規指定文化財の候補について[BR[]]前回の書面開催の際に推薦のあった4件の候補に、新たに2件を加え[BR[]]た計6件の文化財について審議を行った。継続審議となっている「出雲[BR[]]祝神社本殿」と併せて、引き続き調査を行っていくこととなった。


>
№2「私年号「延寿」を刻む墓石(1)」[BR[]]
№3「私年号「延寿」を刻む墓石(2)」
>
[TALK[ 事務局

(1)は元々黒須公民館北側の旧大行寺の墓地にあったものですが、蓮花[BR[]]
院に移転され、今は無縁塚の中にあります。墓石は、小島一斎という人[BR[]]
物のもので、左側面に延寿元年の文字が確認されます。(2)は鍵山墓地の[BR[]]
繁田家の墓域の中にあり、森田みつという人物の墓石に延寿元年の文字[BR[]]
が確認できます。繁田家と森田みつとの関係性は今のところ分かってお[BR[]]
りません。延寿元年は慶応3年(1867年)だと考えられます。なお、[BR[]]
私年号の研究はそれほど進んでいないため、現時点で「延寿」という私[BR[]]
年号がどの程度波及していたのかも分かっていません。

]TALK]
[TALK[ 枝窪委員

私年号の位置づけを教えてください。

]TALK]
[TALK[ 事務局

私年号とは国家とは違った思想を持っていた人が使っていたと考え[BR[]]
られますが、延寿はそもそも研究自体進んでおりません。一説には幕末[BR[]]
から明治にかけての奥羽列藩同盟の支持者が刻んでいたという説もあ[BR[]]
りますが、明確なことは分かっておりません。

]TALK]
[TALK[ 小峰委員

中世、特に南北朝時代の金石文には私年号が散見することもあります[BR[]]
が、近世ではあまり例が多くないため、近隣地域の研究や例をもう少し[BR[]]
調べてみてはどうでしょうか。

]TALK]
[TALK[ 鹿島委員長

後に私年号の研究が進んでいった際に珍しいものではなくなること[BR[]]
も考えられるため、詳細な調査をしていくべきだと思います。

]TALK]

]FIG]

;; [235] >>230 以外にもこれらの発言には問題があって、
「国家とは違った思想を持っていた人が使っていた」
というのは古典的理解で、今ではそうとも限らないといわれています。
また、[[南北朝時代]]の[[金石文]]に[[私年号]]はそこまで多くなく、
用例数が圧倒的なのは[[戦国時代]]です。



]REFS]

@@
[411] 
[CITE@ja-JP[入間市史 中世史料・金石文編]], [[入間市]], [TIME[1983.3][1983]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T09:36:55.251Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9642926/1/381?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%BF> (要登録)


* 慶応4年3月 広島藩神機隊の「延寿」

[253] 
[[広島藩]]の公認武装グループで[[戊辰戦争]]に[[明治政府]]側で参戦した[[神機隊]]の構成員[[清原源作]]の
[CITE[関東征日記]]
の表紙に、

>
[VRLBOX[
干時 延寿元年

関東征旧記

戊辰 三月十五日
]VRLBOX]

と書かれていました [SRC[>>248, >>240]]。

[254] 
この資料は[TIME[令和2(2020)年][2020]]に再発見されたとされ [SRC[>>250]]、
[[日本国]][[広島県]]の郷土史家が所蔵するとされています [SRC[>>248]]。
[[表紙]]、[[裏表紙]]と思われる写真が [[Web]] で公表されています [SRC[>>248, >>240]]。
[[表紙]]と思われる写真が >>326 に収録されています (がサイズはそれほど大きくありません)。
一般公開されたことがあるかは不明で、
少なくても令和5年現在[[ウェブ]]上で内容の詳細な情報は見当たりません。
[CITE[ウィキペディア]]でこれを参考文献に挙げる記事もありますが、
入手方法は記載がありません。

[NOTE[

[409] 
[TIME[昭和61(1986)年][1986]]に出版された[[翻刻]]では、表紙に「于時明治元年」
と書かれていることになっており、[[延寿]]には何の言及もありません。 [SRC[>>408]]
こちらの原本と >>254 は異本でしょうか。


]NOTE]


[255] 
この
[CITE[関東征旧記]]
に関するウェブ上の情報は、
専ら小説家の[RUBYB[[[穂高健一]]][[TIME[1943]]-]]や、
[[穂高健一]]と親密な[[広島]]の歴史愛好家グループの関連サイト・[[SNS]]
にあります。
[[神機隊]]についての情報も、[CITE[ウィキペディア]]のものも含め、
このグループの関係者によるか、その著作を参考にした記述と思しきものが大量に見つかります。
([CITE[国会図書館デジタル]]で検索すればそれより古い、
他の研究者によると思われる記述も見つかりますが。)

[256] 
このグループは[[戊辰戦争]]前後の[[広島藩]]関係者の活躍の顕彰に強い関心を持っているようです。
そしていわゆる[[薩長史観]]と[[明治政府]]に対してはあまり好ましく思ってはいないようです。
かといって[[江戸幕府]]や[[奥羽越列藩同盟]]に心を寄せるわけではなく、
[[薩長]]の影に隠された[[広島]]の活躍を良しとするのを基本に、
そのため必要なら[[佐幕派]]にも注目し[[薩長]]は非難するという立ち位置にみえます。
[[穂高史観]]と称する[[穂高健一]]の独創的な世界観の[[歴史小説]]は、
このグループの活動を精神的に取りまとめているようです。
[CITE[関東征旧記]]
を所蔵するという郷土史家も、このグループのメンバーなのでしょうか。

[330] 
[[穂高健一]]らはなぜか[[元号名]]を[[旧字体]]の[[延壽]]表記にしています。
[[ウェブページ]]だけでなく[[小説]]でもです。
他の語は[[新字体]]なのに、[[延寿]]だけを[[旧字体]]にする理由は不明です。
[CITE[関東征旧記]]
表紙の「延寿」の「寿」は[[楷書]]よりやや崩れた[[字形]]ですが、
あえて言うなら[[新字体]]の「寿」に近いように思われ、
わざわざ[[旧字体]]にする必要性は感じられません。



[257] 
[CITE[関東征旧記]]
は貴重な史料と見受けられ、
このグループもそれは認識しているようです [SRC[>>247, >>238, >>249]] が、
内容が写真などの形で広く一般公開されていないとすると、
第3者が独立に検証できません。
この史料が活用されないまま埋もれていくのはこのグループの活動目的にもそぐわないでしょうから、
早期の状況改善を期待したいものです。

[259] 
さて、
[CITE[ウィキペディア]]によると[[神機隊]]は慶応4年の3月15日ないし17日に[[広島]]を出発し、
5月の[[上野戦争]]に参戦しました。
[SRC[>>258]]
先述 (>>255) の通り[CITE[ウィキペディア]]の記事の内容が他の独立した史料で確認し得るものなのかは不明ですが、
一応件の日記表紙の紀年はこの出発の日を表しているとみなせます。
この表紙の日付が出陣の際に書かれたものなのか、
それともその後のいつかの時点で遡って書かれたものなのかはわかりません。
[CITE[関東征旧記]]
には3月15日の[[志和]] ([[東広島市]]) 出陣とあるようです [SRC[>>326]]。
ともかく慶応4年のある時期が延寿元年だという認識が、
[[明治政府]]側勢力の中に一時は存在していたということにはなります。
(日記の内容が分析できれば、もう少し断定的なことも言えるでしょうか?)

[260] 
[[神機隊]]が慶応4年3月に延寿を使ったとすると、
これは何を意味するでしょうか。
このとき[[広島藩]]は[[戊辰戦争]]に直接参戦しませんでしたが、
藩が設立した[[神機隊]]が私費で参戦することは認めました。
5月に[[神機隊]]は[[明治政府]]側と連携して[[上野戦争]]に参戦しました。
この間[[神機隊]]が[[明治天皇]]を奉じて[[明治政府]]に賛同する立場で公然と活動したのは明白で、
[[佐幕派]]の[[私年号]]を使ったり、独自の[[私年号]]を建てたりするとは考えられません。

[261] 
[[穂高健一]]の歴史小説とブログでは、
[[即位礼]]も[[元服]]もしていない[[明治天皇]]は正式な[[天皇]]として認められず、
その間に[[東日本]]で[[東武皇帝]]が[[即位]]し[[延壽]]の[[元号]]が使われており、
[[明治政府]]はこの歴史的事実を隠蔽した、
ということになっています。
[[穂高健一]]の歴史小説
[CITE[紅紫の館]]
の
[CSECTION[あとがき]]
では、
[[穂高健一]]のウェブサイト記事とほぼ同内容の執筆の経緯等がまとめられています。
[SRC[>>326]]

[327] 
これは作中設定ではなく史実だと主張しているように見えます。
[[奥州]]、[[関東]]、[[広島]]で使われていたのだから、
全国に共通する[[元号]]だったと主張しています
[SRC[>>326]]。
[[明治政府]]側で参戦した[[広島]]の[[神機隊]]ですら[[延壽]]を使っているのがその証拠となっています
[SRC[>>248]]。
そして[[明治時代]]に意図的に[[延寿]]が消されたことに
「[V[私はそこに歴史の捏造をおぼえた]]」
のだといい、
「[V[官製幕末史という歴史が軍国教育に使われた事実がある]]」
ので
「[V[歪曲された歴史は事実に戻したい]]」
のが小説の
「[V[強い執筆の動機]]」
だったのだそうです
[SRC[>>326]]。


[262] 
この独創的な[[歴史観][陰謀論]]の中で[[延寿]]と[[東武皇帝]]や[[奥羽越列藩同盟]]を結びつけた根拠はよくわかりません。
[[奥羽越列藩同盟]]が[[延寿]]と[[改元]]した(噂がある)という従来説だけがその根拠だとすれば、
[[歴史小説]]の設定の根拠には十分でも、
学説の根拠というには脆弱です。

[263] 
[[鳥羽伏見の戦い]]の後とはいえ、[[江戸城]]もまだ開城するかしないかの3月というタイミングで既に[[広島]]に[[延寿]]があったなら、
例えば慶応3年の[[私年号]] ([[改元デマ]]) の[[天政]]のように[[京都]]が発信源の可能性すら出てきます。

[REFS[


- [408] 
[CITE@ja-JP[木原適処と神機隊の人びと]], [[武田正視]], [TIME[1986.5][1986]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T09:21:49.712Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12283843/1/101> (要登録)


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[242] 
[CITE@ja[芸州藩の幕末史|[[幕末芸州広島藩研究会]]]], 
2020年2月8日 18:39,
[TIME[2023-12-16T12:39:39.000Z]] <https://note.com/geisyuhiroshima/n/n47bb93ebb290>
]FIGCAPTION]

>[B[慶応2年 芸州藩ダイジェスト]]
>[SNIP[]]
>[B[慶応4年 芸州藩ダイジェスト]]
>[SNIP[]]
>・神機隊が一旦芸州に帰還
>・神機隊が自費で関東征討に出発
>
[B[延寿元年 芸州藩ダイジェスト]]
>・神機隊が上野戦争・飯能戦争・甲府警固に参加
>[SNIP[]]



]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[247] 
[CITE@ja[【新事実】(上)幕末の元号は、慶応・延壽・明治だった=西軍の従軍日記にも表記|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]], 
更新日:2020年9月27日,
[TIME[2023-12-16T12:54:48.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/history/2020/09/27075539.php>
]FIGCAPTION]

> 孝明天皇の崩御(慶応2年12月25日)のあと、睦仁(むつひと)親王は践祚(せんそ)しているが、元服していない。つまり、天皇ではない。摂政として二条斉敬(にじょうなりゆき)がついていた。摂政は天皇の代行ができる。
>
> ところが、慶応3年12月9日の小御所会議で「王政復古の大号令」が出された。天皇親政をうたう。かたや、摂政・関白が廃止されたのだ。
> なぜ、廃止したのか。これでは京都において天皇の執務がまったくなくなる。
>
>                  *
>
> 東日本の叡智ある人物たちは、ここに目をつけたのだ。「天皇親政ならば、われわれは輪王寺宮(りんのうじのみや)を天皇に擁立しよう」と動きだしたのだ。
> 睦仁親王は元服するまで天皇になれないのだから。
>[SNIP[]]

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[248] 
[CITE@ja[【新事実】(下)幕末の元号は、慶応・延壽・明治だった=西軍の従軍日記にも表記|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]], 
更新日:2020年9月27日,
[TIME[2023-12-16T12:57:56.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/history/2020/09/27190335.php>
]FIGCAPTION]

> 江戸の元幕臣と奥州列藩は、ここに手を結び、慶応4年3月15日に、「東武天皇」として奉り、元号を慶応から『延壽』(えいじゅ)として布告したのである。


> かつて孝明天皇は八月十八日の変で、これまでの勅書、詔書は毛利家による偽書であり無効とした。これと同様に、睦仁親王が天皇の即位するまで、すべてが無効である、とした。
> こうなると、東征軍としては、江戸侵攻の大義が無くなる。
>
> 上野山にこもる彰義隊を撃つ。それは名目であり、輪王寺宮をいっしょに葬る必要があったのだ。それが刻々と近づいてきた。

>京都で、明治天皇が即位したのが慶応年4年8月27日で、大嘗祭は11月18日である。延壽は同年9月7日で終わっている。
>
> 慶応時代、延壽時代、明治時代、と歴史の順番のなかに書き加えても、別に問題ないのではないか。延壽時代は約半年間だが、幕末には一年未満の元号は他にもある。
>
> その方が戊辰戦争はわかりやすい。
> 後醍醐天皇のときに南北朝時代があり、幕末の延壽に東西朝時代があった、とすればよい。
>
> 広島・神機隊の隊士の「関東征日記」の表紙には、延壽元年・3月15日と表記されている。いま広島の郷土史家の手元にある。
> 西側の資料からでも、『延壽元年』が出てくるのである。
>
> 鎌倉時代の年号が変わったり、聖徳太子の像が紙幣になりながらも違っていたりする。
> 戊辰戦争が従来の「新政府と旧幕府の戦い」とするのはご誤認であり、延壽元年の東西朝時代に関東・奥羽越の広い範囲を戦場にした大戦争が起きたとしても、決して不合理ではない。すべて人間がやることだから。

>写真(2枚)=広島・神機隊 二番中隊 伍長・清原源作さんの従軍日記 (上野戦争に参加) 

>>240 と同じ「日記」の写真


]FIG]


- [239] 
[CITE@ja[Xユーザーの幕末芸州広島藩研究会広報室さん: 「干時 延寿元年 関東征旧記 戊辰 三月十五日 https://t.co/JFdwktzUbA」 / [[X]]]], [TIME[午後0:22 · 2020年12月10日][2020-12-10T03:22:16.000Z]], [TIME[2023-12-16T09:00:54.000Z]] <https://twitter.com/geisyuhiroshima/status/1336873843651067904>
-- [241] [CITE@ja[Xユーザーの幕末芸州広島藩研究会広報室さん: 「神機隊 三百弐拾四人人数 弐百拾弐人外五人 弐百拾七人帰国 (英文) 清原源作 神機隊二番中隊 https://t.co/KzDbNNp6kC」 / [[X]]]], [TIME[午後0:22 · 2020年12月10日][2020-12-10T03:22:18.000Z]], [TIME[2023-12-16T09:00:54.000Z]] <https://twitter.com/geisyuhiroshima/status/1336873849569198081>
-- [240] >>239, >>241 にそれぞれ写真
- [238] [CITE@ja[Xユーザーの幕末芸州広島藩研究会広報室さん: 「@geihanshi 今回の執筆中に出てきた神機隊の延寿元年と明記された関東征旧記が出てきたのは奇跡だった。と 穂高先生は言われてました。」 / [[X]]]], [TIME[午後11:31 · 2020年12月27日][2020-12-27T14:31:33.000Z]], [TIME[2023-12-16T09:00:42.000Z]] <https://twitter.com/geisyuhiroshima/status/1343202867021135876>

- [325] 
[CITE[紅紫の館]],
[[[V[穂高健一]]]],
[V[二〇二〇年十二月二十五日印刷]],
[V[二〇二一年一月十五日発行]] [WEAK[([TIME[2021-01-15]])]],
-- [252] [CITE@ja-jp[[[紅紫の館]] | [[穂高健一]] |本 | 通販 | [[Amazon]]]], 
2020/12/23,
[TIME[2023-12-16T13:09:58.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4896426282/wakaba1-22/>
-- [326] 
[CSECTION[[V[あとがき]]]],
pp.[L[265]]-[L[268]]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[251] 
[CITE@ja[【新刊】 穂高健一著「紅紫の館」(郷士・日比谷健次郎の幕末)|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]], 
更新日:2020年12月25日,
[TIME[2023-12-16T13:08:02.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/Novelist/2020/12/25172931.php>
]FIGCAPTION]

>発売日 = 2020年12月25日
>
>【あらすじ】
>[SNIP[]] 
> 新政府軍が上野戦争を仕掛けてきた。戦火のなか、日比谷健次郎たち三家は命がけで、寛永寺貫主の輪王寺宮を救出する。奥州に逃げ延びた輪王寺宮は『東武天皇』として即位し、『延壽』(えんじゅ)という元号を発布した。
>
> 西側の幼帝と東側の東武天皇という、南北朝に似た国家分断の戦いになった。新政府軍が勝利し、元号『延壽』が歴史から消された。
> 戊辰戦争が終わると、桜田門外の変で消えた5段ひな人形が、悲劇の皇女・和宮にからむ意外な展開をみせた。
>
> 薩長政権がねつ造した幕末史を暴く歴史小説である。



]FIG]

- [249] 
[CITE@ja[「紅紫の館」は幕末史を変えるか。新発見の連続は偶然の出会いから生まれた (上)|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]], 
更新日:2020年12月27日,
[TIME[2023-12-16T13:03:23.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/history/2020/12/27122629.php>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[250] 
[CITE@ja[「紅紫の館」は幕末史を変えるか。新発見の連続は偶然の出会いから生まれた(下)|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]], 
更新日:2020年12月27日,
[TIME[2023-12-16T13:03:55.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/history/2020/12/27191420.php>
]FIGCAPTION]

> 東武天皇が慶応3(1868)年3月に、元号として「延壽」を発布していたのだ。(明治の元号は慶応4年9月8日からである。この間は「延壽」であった)。
> こうした新発見の連続になった。
>
>           *  
>
> 日比谷健次郎を追求するほどに、德川側の視点からみた幕末歴史小説が斬新な作品になっていく。執筆中に、芸州広島藩・新機隊の隊士の史料から、えっと驚くべき、歴史的事実が出てきた。
> 東武天皇が発布した元号「延壽」が一般にも使われていたのだ。それも西側の、広島からである。こんな偶然は、神がかりにしか思えなかった。
> 歴史的な事実として認めれば、慶応、延壽、明治と元号の書き換えが起きるかもしれない。
>
>「紅紫の館」の「あとがき」を書く段になり、神機隊の隊員が記した「関東征旧記・延壽元年」を証拠(エビデンス)写真として載せた。
> 思うに、明治時代の薩長政権とすれば、徹底して抹消した元号『延壽』だったはずだろうが、こんな偶然から令和2(2020)年によみがえるとは口惜しいだろう。政治上の巧妙な隠ぺい策はどこかで残っているものだ。
>
>「穂高健一ならば、掘り下げた取材をするから、とてつもない掘り出し物がでてくるよ。きっと」
>(高橋克典さんという作家の勘が当たったな)
> この仕事を当初は断ったという経緯が、私の脳裏によみがえってきた。これはエッセイとして書き残しておこうと考え、ここに記した。



]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[244] 
[CITE@ja[【歴史から学ぶ】日本人は既成事実に甘い。遷都のない首都・東京から考える。(上)|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]], 
更新日:2021年1月18日,
[TIME[2023-12-16T12:45:36.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/history/2021/01/18113323.php>
]FIGCAPTION]

> ところが新政府を快く思わない旧幕臣、関東一円、奥羽越列藩同盟の諸藩は、小御所会議で決まった「天皇親政」を逆手に取った。
>「ならば、天皇による東日本政府をつくろう」
> 上野寛永寺の貫主・輪王寺宮能久(よしひさ)を東武天皇として奉じ、元号・延壽(えんじゅ)を発布したのだ。
>
> 輪王寺宮は孝明天皇の義弟で、21才であり、皇位継承権がある。江戸市中では、もともと東叡山(上野)の人柄のよい親王だと評判だった。
>
> 東武天皇とは、東の武(やまとたける)から命名したのかもしれない。江戸から東北まで、東武天皇や元号・延壽がしだいに庶民にまで浸透してきた。
>[SNIP[]]

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[245] 
[CITE@ja[【歴史から学ぶ】日本人は既成事実に甘い。遷都のない首都・東京から考える。(下)|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]], 
更新日:2021年1月18日,
[TIME[2023-12-16T12:47:52.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/history/2021/01/18141037.php>
]FIGCAPTION]

> 慶応4(1868)年に、江戸城は無血開城し、德川慶喜が水戸に下った。
>
> 新政府は次なる攻撃目標として、東武天皇(輪王寺宮)と元号・延壽の抹殺だ。同年5月15日に上野戦争を仕掛ける。
> 危機一髪、巧妙に脱出した東武天皇は、江戸湾から榎本武揚海軍の軍艦で平潟(福島県)へ、そして仙台藩領・会津藩領に入っていく。

> 太平洋戦争をはさんで、天皇制は大きく変わった。皇室も変わった。一世一元も平成天皇の譲位で終わってしまった。
>
> 一千年の歴史から見れば、天皇制は親しみであったり、政略に使われたり、日本史には欠かせない存在であることだけは確かだ。
> 長い歴史のなかで、わずか半年だった東武天皇と元号・延壽(えんじゅ)がどう扱われていくのだろうか。

]FIG]

;; [246] この著者は歴史的概念の独創的な解釈が多いが、ここにも1つ。
[[譲位]]があると[[一世一元]]でないというのは[[漢土]]でも[[日本]]でも一般的な解釈ではない。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[243] 
[CITE@ja[「広島藩・神機隊」 歴史は後からつくられる、真実は後から消される=上野戦争|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]], 
更新日:2021年8月 7日,
[TIME[2023-12-16T12:43:45.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/geisyu/2021/08/07182332.php>
]FIGCAPTION]

>[L[「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより]]

>④ 上野戦争で、彰義隊は賊徒として壊滅された。その実、新政府軍は東武天皇(元号・延壽えんじゅ)に擁された輪王寺宮をつぶしたかったのだ。
> 私は近著「紅紫の館」(こうしのやかた)で、上野戦争の本来の目的が掘り起しができた。江戸城が無血開城したにもかかわらず、2か月後に、あえて東京・上野で大規模な戦争を仕掛けたのだ。幼帝(のちの明治天皇)を擁した大久保、西郷、岩倉たちの腹の底が鮮明にみえてきた。
> 薩長閥の明治御用学者らは、南北朝時代と同様に、京都に幼帝(のちの明治天皇)、東に東武天皇(輪王寺宮)とという国家分断があったと認めたくなかった。
> 南北朝時代の正当性はあいまいにし、慶応四年の延壽という元号、東武天皇の存在は歴史から抹殺して今日に至っている。
>[SNIP[]]



]FIG]

- [258] 
[CITE@ja[[[神機隊]] - Wikipedia]], [TIME[2023-12-02T13:37:12.000Z]], [TIME[2023-12-17T01:17:46.525Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%A9%9F%E9%9A%8A>



]REFS]



* 慶応4年4月 「文応」

@@
[412] 
[CITE@ja-JP[飯塚兵左衛門一代記 : 1・2・4]], [[飯塚兵左衛門, 飯塚兵太郎, 藤枝市郷土博物館]], [TIME[1993.3][1993]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T09:52:06.521Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13163859/1/27?keyword=%E6%96%87%E5%BF%9C> (要登録)

[SEE[ 公年号: [[文応]] ]]

* 慶応4年5月 下総の「延寿」

[6] 
[[日本]][[下総国]][[相馬郡]][[柴崎村]] (現在の[[千葉県]][[我孫子市]]) 
で慶應4年閏4月から5月に領主の[[旗本]][[新見]]氏に宛てられた願書4通に、
「延寿元年」
とありました。 
[SRC[>>60]]


[356] 
[[柴崎村]]は[[江戸]]と[[水戸]]を結ぶ[[水戸街道]]に面し、
[[利根川]]近くに位置していました。
[[下総国]]のこの地域一帯 (現在の[[千葉県]]北部) 
は[[幕府]]領、[[旗本]]領や[[藩]]領[[飛地]]などが混在していました。
[[柴崎村]]は[[旗本]]の[[新見]]家、[[初鹿野]]家、[[代官所]]の[[分郷支配]]でした。
[SRC[>>273]]

[357]
[[幕末]]には、
[[天狗党の乱]] 
[WEAK[([[水戸藩]]領を中心とした[[尊王攘夷]]派の武装蜂起事件)]] 
や[[江戸開城]]前後に[[江戸]]から脱出した旧幕臣など多くの勢力が[[水戸街道]]を行き交いました。
沿線の村々は[[助郷役]]や[[天狗党]]の資金徴収などで経済的負担を強いられるとともに、
治安も悪化の一途をたどりました。
[SRC[>>273]]

[358] 
そうした中、[[柴崎村]]では村政運営を巡った対立が続いていました。
領主の[[新見]]氏の仲介による和解交渉も難航しました。
[[延寿]]が使われた一連の[[文書]]は、示談の合意を村役人らから領主へ提出する形で記述したものでした。
[SRC[>>273]]


[359] 
1通目は村内対立で発生した[[助郷]]拒否問題で関係者が[[江戸]]に出府した際に、
帰村の許しを願ったものです。
慶応4年閏4月18日から27日のものと推定されます。
[SRC[>>273]]

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [360] [CITE(.label)[差上申済口一礼之事]],
金左衛門 ([[百姓代]]),
惣兵衛 ([[組頭差添]]),
茂八 ([[組頭]]),
磯右衛門 ([[名主]]),
[DATA(.text)[延寿元年戊辰閏四月日]] [WEAK[([TIME(.value)[1868-04]])]]
[SRC[>>273 (翻刻あり)]]
-- [361] 「御地頭所様御役人中様」宛



]ITEMS]

[362] 
2通目は慶応4年閏4月28日に[[名主]]の[[磯右衛門]]が帰村した後、
示談内容をまとめて[[村役人]][[小前]]一同に連印を求めたものの、
過半数に拒否されたものです。
[SRC[>>273]]

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [363] [CITE(.label)[差上申奉歎願候]],
[DATA(.text)[延寿元辰年閏四月日]] [WEAK[([TIME(.value)[1868-04]])]]
[SRC[>>273 (翻刻あり)]]
-- [364] 「御地頭所様御役人中様」宛


]ITEMS]

[365] 
3通目は合意がまとまらないことを村役人[[百姓代]]連名で領主に報告したものです。
4通目は[[名主]]らが領主に提出したものです。
[SRC[>>273]]

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [366] [CITE(.label)[乍恐以書付御届ケ奏申上候]],
[DATA(.text)[延寿元辰年五月日]] [WEAK[([TIME(.value)[1868-05]])]]
[SRC[>>273 (抜粋のみ)]]
-- [368] [[川村正信]]家文書 No.五五七
- [367] [CITE(.label)[乍恐以書付奉願上候]],
[DATA(.text)[延寿元辰年五月日]] [WEAK[([TIME(.value)[1868-05]])]]
[SRC[>>273 (翻刻あり)]]



]ITEMS]

[369] 
[[延寿]]が使われたのはこの4通だけのようですが、
その後いつ慶応ないし明治に変わったのかは不明です。
慶応4年5月28日付けで[[新見]]家用人から[[磯右衛門]]への書簡がありましたが、
まだ折衝の不調は知らなかった (>>366 >>367 が未達だった) ようです
[SRC[>>273]]。
その後も[[新見]]家と[[柴崎村]]のやり取りや、
他と[[柴崎村]]とのやり取りの記録は残っているようです
(がどのような[[紀年]]なのかは論文にありません)。


[375] 
これら4通の用例は、
[TIME[昭和59(1984)年][1984]]に[[日本国]][[千葉県]][[我孫子市]]の歴史研究者で[[地方公務員]]の[[高木繁吉]]によって報告されました。
[SRC[>>273]]

[377] 
[[高木繁吉]]は、
[CITE[日本私年号の研究]]
の[[延寿]]の解釈をベースに、
当時よく知られるようになってきていた[[大政]]
[SRC[>>320 >>336 >>335 >>376]]
も鑑みて、

>
[VRL[
[SNIP[]]輪王寺宮を[ASIS[奥州越]]同盟の[BR[]]
盟主としてむかえた情勢の展開をふまえて「延寿」をより[BR[]]
一段高度に発展させたといえる私年号が「大政」とみてよ[BR[]]
いことになるだろう。
]VRL]

と理解していました。 [SRC[>>273]]

;; [378] ちょっと何言っているのかよくわかりませんが、
当時知られていた研究成果をつなぎ合わせるとこうならざるを得ません。


[380] 
そしてこの前提のもとに、[[柴崎村]]の新出資料は

>
[VRLBOX[

奥羽で発見されず、江戸周辺の旗本領名主が領主に宛て[BR[]]
た、閏四月から五月の、しかも村方騒動についての願書の[BR[]]
中に記録されていたことは、ともかく重要である。当時の[BR[]]
関東情勢の、特に民衆レベルもふくめたより具体的な把握[BR[]]
のなかで「延寿」の検討が求められることになるからであ[BR[]]
る。

閏四月から五月にかけ奥羽の最大関心事は会津の処遇で[BR[]]
あったろうが、一方、関東の最大の関心はやはり徳川家の[BR[]]
処分問題である。この奥羽と関東の二様の情勢のなかで、[BR[]]
私年号「延寿」の究明を今後、民衆史的手法をももって具[BR[]]
体的に検討してみることは、久保教授の結論をより豊かに[BR[]]
肉付けし、発展できるように思える。また、それは関東奥[BR[]]
羽の維新史解明にとっても意味あるべきことと考える。

]VRLBOX]

と問題提起しています [SRC[>>273]]。
この資料の[[私年号]]研究上的な意義はまさにこの一文に集約されるのであって、
その後[[平成時代]]を通じて未着手のまま放置されたのは遺憾の極みであります。


[HISTORY[

[370] 
[[平成時代]]の古賀市文化財保護審議会の資料は、
[[高木繁吉]]は[[延寿]]への[[改元]]という風聞を基に使用されたと考えたとしています
[SRC[>>60]]
が、これは[CITE[日本私年号の研究]]から誤引用しています。


]HISTORY]

[NOTE[

[373] 
ところで、本件とは無関係ですが、
[[自由自治]]の[[私年号]]史に関係する[[色川大吉]]と[[高木繁吉]]とは学派的なつながりがありました。
[SRC[>>374]]

[REFS[

- [374] [CITE@ja[『機』2002年10月号:「民衆史の同志として」 [[色川大吉]] | 藤原書店オフィシャルサイト]], [TIME[2024-01-04T08:13:22.000Z]] <http://www.fujiwara-shoten.co.jp/whatsnew/ki_200210-05/>

]REFS]

]NOTE]

[382] 
[TIME[平成11(1999)年][1999]]に[[日本国]][[千葉県]]の歴史研究者[[筑紫敏夫]]は、
[[延寿]]は奥羽諸藩の[[改元]]の風聞をもとに幕府直臣の[[旗本]]あてに使用したものとみられ、
[[大政]]と共に旧権力側が新政府側に対抗して用いた[[私年号]]であって、
農民層にも浸透していたのが興味深いと紹介しました。
[SRC[>>381]]
新資料の紹介のない、根拠の説明もない簡単な紹介に過ぎないのですが、
風聞であっても旧幕府側で実在したものが武家から農民にも広まったと理解していたようです。
農民が旗本相手だからと意識的に使用したかのようなニュアンスも感じられる紹介です。

[272] 
[TIME[平成29(2017)年][2017]]に[[日本国]][[福岡県]][[古河市]]の文化財行政担当の[[井英明]]業務主査は、
農民の[[延寿]]用例の出現から、[[昭和時代]]の反政府的な[[私年号]]のイメージとは違う
「素朴」な利用像が想定されると指摘しました。
[SRC[>>273]]

;; [274] [[平成時代]]の研究の進展で[[中世私年号]]もこの方向でイメージが修正されてきています。


[REFS[

- [354] 
[CITE[[[我孫子市史研究]] 第8号]],
[TIME[昭和59(1984)年][1984]]
-- [355] 
[CITE[[V[「延寿」元年の北総村方騒動[BR[]][WEAK(smaller)[⸺幕末維新期における水戸街道柴崎村農民諸相の動向⸺]]]]]],
[[[V[高木繁吉]]]],
pp.[L[224]]-[L[252]]
--- [371] [CITE@ja[水戸街道柴崎村と川村磯右衛門家 (川村正信): 1985-06|書誌詳細|国立国会図書館サーチ]], [TIME[2024-01-04T08:06:42.000Z]] <https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I062516235-00>
---- [372] これにも収録されているとのこと。
-
[381] 
[CITE[[[私年号「神徳」と木更津船の船持]]]]
-[60] 
[CITE[「亀光元年」を彫る墓石に関する調査報告]] ([TIME[2017-08-31 14:45:43 +09:00]]) <https://www.city.koga.fukuoka.jp/uploads/files/somu/222.pdf#page=8>


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[273] [CITE[平成28年度第1回古賀市文化財保護審議会会議録]],
平成29年1月26日(木)
([TIME[2017-08-31 14:44:13 +09:00]])
<https://www.city.koga.fukuoka.jp/uploads/files/somu/111.pdf>
]FIGCAPTION]


>
[LEFT[
[SNIP[]]大政・延寿などは、対抗的な感じで建てられていると言われている。神治についても、前川氏は中央政権に対抗意識的なものを持っていたのではないかと考えているようだが、私は、素朴に使用されていたのではないかと考える。また、延寿・大政についても、延寿私年号は二次資料だけだが、近年実際に使用されている例が判明し、使っている方々が農民層であることからやはり素朴に使われていたのではないかと思う。
]LEFT]

]FIG]



]REFS]



* 慶応4年5月 江戸の「延寿」改元の噂

[71] 
[TIME[慶応4(1868)年5月17日][kyuureki:1868-05-17]]付
[CITE[中外新聞]]
第37号に、

> 年號延壽と改元ありしとの風聞盛なりと雖も未確証を得ず

とあります。 [SRC[>>64]]

[78] 
そしてその直前の段落には仙台藩関係の記事が、
直後の段落には5月1日の[[白河城]]方面の戦況の噂の記事があります。
[SRC[>>64]]


[72] 
[CITE[日本私年号の研究]]
は、この3つの記事と、その直前に

>
[VRL[
元号を延寿に改めらるゝとの噂󠄁
]VRL]

と[[見出し]]があるのを引いています。
[SRC[>>56 pp.[V[四五七]]-[V[四五八󠄃]]]]

[79] >>64 の本にはこの見出しがなく、3つの段落となっています。
[SRC[>>64]]
一方[CITE[日本私年号の研究]]の引用には見出しがあって、
仙台藩記事と改元噂記事が合わせて1つの段落になっています。
[SRC[>>56 pp.[V[四五七]]-[V[四五八󠄃]]]]
[CITE[日本私年号の研究]]
の引用元がどの本なのかは定かではありませんが、
その参照した写本または刊本でそのようなものがあったのでしょうか。




[73] 
[CITE[中外新聞]]
は[TIME[慶応4(1868)年2月24日][kyuureki:1868-02-24]]に幕臣により[[江戸]]で創刊された日本初の民間新聞でした。
[CITE[別段中外新聞]]
は[[号外]]のはじまりとされています。
しかし[TIME[慶応4年6月8日][kyuureki:1868-06-08]]に[[明治政府]]により発禁となりました。
(翌年復刊。)

[74] 
[[江戸]]の開城が4月、
[[上野戦争]]が[TIME[5月15日][kyuureki:1868-05-15]]のことでした。
5月は未だ[[明治政府]]の[[江戸]]の民政を掌握しきっていない時期ゆえに発行が続けられていたということでしょうか。

[75] 
[[改元]]の噂が掲載されたのは[TIME[5月17日][kyuureki:1868-05-17]]付号で、
[[上野戦争]]で[[彰義隊]]が敗北して軍事的に[[明治政府]]が[[江戸]]を制圧したまさに直後となります。
「噂」が広まったのは[[上野戦争]]の前後、どちらのことだったのでしょう。
噂の「改元」の主体はどこだったのでしょう。

[80] 
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
[CITE[中外新聞]]
を引いて、
[TIME[5月17日][kyuureki:1968-05-17]]以前に改元の風説が仙台方面にあったものか、と推測しています。
[SRC[>>56 pp.[V[四五七]]-[V[四五八󠄃]]]]
これは直前の仙台藩記事の続きと判断してのことと思われます。
しかし >>64 のように仙台藩記事と改元噂記事が別段落だと、
改元の噂と仙台藩の関係は不明ということになります。

[81] 
仙台藩記事の冒頭は[TIME[慶応4年5月12日][kyuureki:1868-05-12]]付[CITE[遠近新聞]]を引いています。
参照されている[CITE[遠近新聞]]記事 [SRC[>>77]] 
には[[改元]]に繋がりそうな記述はありません。
[CITE[中外新聞]]はそこから話を展開していて、
すべてが[CITE[遠近新聞]]からの引用ではないようですから、
断定はできませんが、
しかし話のつながりからも改元の噂は独立した記事のようにも読めます。

[82] 
直後の段落が5月1日の白河方面の戦況の風聞の記事です。
時代が時代、しかも内戦中で、遠隔地の正確な情報は伝わりにくいことには注意が必要です。
前段の仙台藩記事も噂の出所は江戸の藩屋敷です。
仮に仙台方面から改元の噂が伝わってきたとするなら、
それもかなり日が経っているとみなければなりません。


[70] 
早稲田大学がウェブ公開している
[CITE[中外新聞]]
資料のほとんどはこの日と同じように[[慶応]]の[[年月日]]を書いていますが、
[[上野戦争]]翌日の
[CITE[別段中外新聞]] [SRC[>>69]]
の1件だけ
「戊辰五月十六日」
と[[干支年]]表記になっています。
これはたまたまでしょうか、あるいは「別段」なので他と違うのでしょうか。
それとも思う所あってのことでしょうか。


[REFS[


- [66] [CITE[中外新聞]]
-- [63] 
[CITE@ja[[[中外新聞]] 第31号~第43号 別段中外新聞 江戸東京博物館デジタルアーカイブス]], [[江戸東京博物館]], [TIME[2023-12-11T13:29:28.000Z]] <https://www.edohakuarchives.jp/detail-32730.html>
--- [65] 第三十七號 慶応四年五月十七日
---- [64] 
[CITE[1069697-L.jpg (JPEG 画像, 1000 × 709 px)]], [TIME[2023-03-05T01:35:50.000Z]], [TIME[2023-12-11T13:29:57.851Z]] <https://www.edohakuarchives.jp/image_files/1070/1069697-L.jpg>
-- [67] [CITE[古典籍総合データベース]], [TIME[2023-12-11T13:39:01.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%E4%B8%AD%E5%A4%96%E6%96%B0%E8%81%9E>
--- [69] [CITE[[[別段中外新聞]]. 戊辰五月十六日 / '''['''柳川春三''']''' [編]]], [TIME[2023-12-11T13:40:13.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko10/bunko10_07330/index.html>
---- [68] [CITE[bunko10_07330_p0002.jpg (JPEG 画像, 2592 × 1724 px) — 表示倍率 (33%)]], [TIME[2011-10-28T07:30:27.000Z]], [TIME[2023-12-11T13:39:49.136Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_07330/bunko10_07330_p0002.jpg>
- [76] 
[CITE[[[遠近新聞]]. 第1-20号]], [TIME[2023-12-12T12:39:42.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i08/i08_00017/index.html>
-- [77] 
[CITE[i08_00017.pdf]], [TIME[2010-03-17T01:41:06.000Z]], [TIME[2023-12-12T12:39:53.487Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i08/i08_00017/i08_00017.pdf#page=81>



]REFS]


[83] 
[TIME[明治2(1869)年][1869]]に編纂され[TIME[明治16(1883)年][1883]]に刊行された[[編年史書]]
[CITE[嘉永明治年間録]]
の[TIME[慶応4(1868)年][1868]]5月条の[[日]]あり記事の後の日なし記事で、

>
[VRL[
奧羽ニ於テ攺元ノ說

年號延󠄅壽と攺元ありしとの風聞盛なりと雖も未だ確證を得𛁏゙
]VRL]

とあります。 
[SRC[>>57, >>58]]

[86] 
本書は明治2年に稿本が成立しましたが、
明治3年に編者が死去しました。
明治4年に勅命により浄書献上されたものの、[[宮城]]の火災により焼失。
草稿の写本がいくつかあったといいます。
そして唯一刊行されたのが、後に昭和43年に再刊されたものだとのことです。
[SRC[>>62]]
それが[[国会図書館デジタル]]所蔵の明治16年本 [SRC[>>57]] ということになります。


[84] 
[TIME[昭和43(1968)年][1968]]に再刊された際の[[解題]]は、
本書が原資料をできるだけそのまま収録していることを指摘し、
しかも偏向なく幅広く採録していることを称賛しています。
その具体例として、この[[延寿]]の記事を紹介しています。
[SRC[>>62]]

;; [96] 偏っていないというのは、
敗者の旧[[江戸幕府]]側、[[奥羽越列藩同盟]]側の資料が残りにくい、残しにくい状況下で、
公式記録が残っていない列藩同盟の[[改元]]のような情報までしっかり拾っていてすばらしい、
ということを言っているのでしょう。


[88] 
[[著者]]の[[吉野真保]]は[[日本]][[武蔵国]][[埼玉郡]]の生まれで、
資料を収集と本書の編纂に人生を費やしました。
[SRC[>>62]]
[[吉野真保]]が[TIME[慶応4(1868)年][1868]]当時どこで何をしていたのかは定かではありません。
少なくても[[江戸]]の情報をよく入手できる環境にあったのは確かですが、
[[改元]]の噂に自ら接したのか、資料によってのみ知り得たのかはわかりません。

[89] 
本書の[[改元]]噂記事のうち、
本文は
[CITE[中外新聞]] (>>71)
とまったく同じです。
従って、
本書には明記されていませんが、
[CITE[中外新聞]]
が本文の出典と考えて間違いないでしょう。

[90] 
見出しは
[CITE[中外新聞]]
にはありません。
「奥羽において」
とはいかなる根拠で書かれたものでしょうか。
[CITE[中外新聞]]
以外の資料にあったのでしょうか。
あるいは編者が自ら聞いた噂なのでしょうか。
それとも
[CITE[中外新聞]]
の記事から奥羽の話だと推測したのでしょうか。


[87] 
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
「[V[吉野真保の『嘉永明治年間録』一七]]」
から次の文章を引用しています。
[SRC[>>56 p.[V[四五七]]]]

>
[VRL[
慶応四年五月二十四日奥羽ニテ改元セリトノ風説アリ
]VRL]

[91] 
ところが >>87 は
[CITE[嘉永明治年間録]]
と明らかに違います。
同趣旨ですが短く要約された形になっています。
そして
[CITE[嘉永明治年間録]]
には月までで日がありません。

[93] 
[CITE[嘉永明治年間録]]
には日が明記された記事と、そうでない記事があります。
改元噂記事の場合は月末ですが、日あり記事と日あり記事の間でも日がない記事があります。
同じ日が書かれた記事がないように見えるので、
日なし記事は直前の日あり記事と同じ日の記事であるとも考えられますが、
どうもそうとばかり言えなそうな記事もあります。
月初から日なし記事の月もあります。
従って日なし記事が直前に書かれた日と同じかどうかはケースバイケースで判断が必要と思われます。
そして改元噂記事の場合、直前が24日です。ということは
>>87 
は
[CITE[嘉永明治年間録]]
の改元噂記事を直前の日付である24日の出来事と判断した結果の可能性が高いといえます。



[92] 
果たしてこれはどういうことでしょう。
[CITE[日本私年号の研究]]
は昭和42年の刊行なので、
[[久保常晴]]はその時点で昭和43年の再刊本を見れていません。
昭和43年以前は明治刊本といくつかの写本があったようですが、
入手は困難だったと思われます [SRC[>>62]]。
しかし[[久保常晴]]が在籍していた[[立正大学]]の図書館 [[OPAC]] 
によると同館は現在、明治刊本を所蔵しています。
昭和42年当時も所蔵していたかは不明ですが、
他の大学等にも所蔵はありますから、
存在を知っていればいずれかは閲覧できた可能性が高いといえます。
ところがそこには >>87 はないのです。
では明治刊本と内容が違う >>87 のような写本(抄本?)があったのでしょうか。

[8] 
この >>87 の文章は、現在の所[[国会図書館デジタル]]、
[[Google検索]]、
[[Google Books]]
のいずれで検索しても
[CITE[日本私年号の研究]]
の[[孫引き]]以外を発見できません。


[94] 
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
>>87
を紹介し、それに「[V[この件については]]」
[SRC[>>56 p.[V[四五七]]]]
と付け加える形で
[CITE[中外新聞]]
を紹介しています。
そして5月17日の
[CITE[中外新聞]]
と5月24日の
>>87
を踏まえて5月17日以前に風説があったとみています。
[SRC[>>56 p.[V[四五八󠄃]]]]
両者をよく関係する別の情報と考えたのではないでしょうか。
両者の文章が完全に一致することを知っていれば、
もう少し違った書き方になっていそうなものです。

[95] 
[CITE[日本私年号の研究]]
が仙台方面で改元の噂があったと判断した (>>80) のは、
>>87 の影響も大きいと考えられます。
しかし記事本文の出典は明らかで見出しの出典は不明となると、
見出しにしかない「奥羽で」改元という情報を信頼して良いのかどうか、
不安が出てきます。
「改元あり」の噂が慶応4年の[[江戸]]にあったという所まではよいとして、
「仙台ないし奥羽で改元あり」の噂があったのかは他の材料を加えて慎重に判断した方が良さそうです。


[107] 
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
この[[延寿]]の発生の理由を、

- [109] [[戊辰戦争]]の混乱で[[改元]]の噂が生まれた。
- [108] [[明治天皇]]の[[践祚]]翌年、慣例から[[代始改元]]が予想されたことが、
朝廷に対抗するものにも[[元号]]を建てることを考えつかせた。

と2つ挙げています。 [SRC[>>56 p.[V[四六一]]]]

;; [106] [[孝明天皇]]が[[崩御]]したのは慶応2年の12月
([[グレゴリオ暦]]だと翌年1月)、
[[明治天皇]]が[[践祚]]したのが慶応3年1月9日で、
慶応4年が[[践祚]]翌年となります。
([[即位礼]]は慶応4年8月27日。)


[105] 
理由の1つ目は「噂」であるとしており、
2つ目は[[奥羽越列藩同盟]]が[[建元]]したと言っているので、
両立しません。これについては、

>
[VRL[
これは単なる噂󠄁であって、しかも噂󠄁発生のもとは東北地方である。しかしもし事実であれば、[SNIP[]]
]VRL]

とある [SRC[>>56 p.[V[四六五]]]] ため、
架空説と実在説の両方を想定していたようです。
ただ後の節では

>
[VRL[
「延寿」は奥羽地方で建元された噂󠄁に止まるが、その建元者は明治維新の際の旧幕府軍であり、[SNIP[]]
]VRL]

とまとめられ
[SRC[>>56 p.[V[四六九]]]]、
更に後の節では

>
[VRL[
「延寿」は明治維新の際、官軍と一戦を交えんとした幕府方=奥羽諸藩の同盟軍の指導者たちの間で採択され[BR[]]
たもので、[SNIP[]]
]VRL]

とまで書かれていて
[SRC[>>56 p.[V[四七一]]]]、
かなり実在説側に傾いています。

[111] 
これは

>
[VRL[
[SNIP[]]資料的にはあくまで噂󠄁の域を出ないことは留意すべきである。[SNIP[]]
]VRL]

と釘を差しつつも、

>
[VRL[
[SNIP[]]ただ、敗者の資料は隠滅される場合が[BR[]]
多いこと、榎本武揚らによる共和国宣言のことや戊辰の役の諸事情を考えるとき、会津藩を中心とうる奥州諸藩の連[BR[]]
盟軍の間に年号改元のことがあったとしても、無理なく理解されるのである。
]VRL]

という理由から来る判断のようです。
[SRC[>>56 p.[V[四七二]]]]



[1] 
[CITE[日本私年号の研究]]
は実在説を取る場合に、
[[東北地方]]での噂ゆえ、
[[建元]]し利用したのは[[奥羽越列藩同盟]]と推定してほぼ誤りあるまいとしています。
[SRC[>>56 pp.[V[四六五]]-[V[四六六]]]]

[110] 
[CITE[日本私年号の研究]]
はまた、
[[江戸時代の元号]]で「延」は4回も使用されているのに対し、
「寿」は1回もないことから、
「延」は慣用例を受けたものとも考えられるのに対し、
「寿」は建元者の理想を率直に示したものと受け取れると分析します。
そして「延寿」には
「徳川幕府の寿命を伸ばす」、
「幕府の永続」、
「徳川幕府の永続・延命」 [SRC[>>56 p.[V[四六九]]]]、
「徳川の天下永続」 [SRC[>>56 p.[V[四七二]]]]
といった[[奥羽越列藩同盟]]の願望が表れているとしています。
[SRC[>>56 p.[V[四六六]]]]

[206]
[[平成時代]]後半の
[CITE[近代諸元号現象]]は、
[CITE[日本私年号の研究]]
を引いて[[延寿]]の[[改元]]の噂があったとしながら、
徳川将軍に代わる正統性を確保せねばとの列藩同盟の焦りが組織の末端や噂にまでにじみ出たものであるとし、
旧幕勢力の寿命が延びるようにとの願望がストレートに表現されたと解釈しています。
[SRC[>>187 #page=676, >>188 #page=4]]

;;
[389] 
このように[[徳川幕府]]に関連付けた解釈は、後に[[長徳]]に対する考察でも踏襲されました。
しかしどちらの場合も史料的根拠のない推測に過ぎず、検証のしようがないことには注意が必要です。


[HISTORY[

[85] 
昭和再刊本の[[解題]]は、
奥羽2州では慶応4年に延寿の年号を使用していたとの高い風聞があることが記載されているとしています。
そして[[延寿]]は短期間の[[私年号]]にせよ、奥羽諸藩が朝命に抗拒する意思はなく、
君側の奸を除いた暁には奏請して[[公年号]]にしようと考えていたのかもしれない、
または[[明治]]は薩長および同調諸藩が奏請して採用されたものとしか考えていなかったのかもしれない、
との見解を示しています。
[SRC[>>62]]

[97] 
面白い説ですが、
[[私年号]]を勝手に使い始めて[[公年号]]採用を目指すというのは[[東アジア]]の歴史上前例がないのではないでしょうか。
なお、[[明治]]は9月の[[改元]]なので[[延寿]]の噂の時点では存在せず、後段は成り立ちません。

]HISTORY]


[388] 
[TIME[昭和54(1979)年][1979]]に[[瓦版]]研究者の[[平井隆太郎]]は[[改元デマ]]事例集の記事を雑誌に掲載しましたが、
[CITE[中外新聞]]
から
「年号延寿と改元ありしとの風聞盛なり」
を引いて、[[明治改元]]から4ヶ月も前に[[デマ]]があったとしています。
この[[デマ]]は[[瓦版]]にはならなかったとも書いています。
[SRC[>>394]]

;; [395] この記事は[[江戸時代]]の[[改元デマ]]が主題で、
実際の[[改元]]の直前に[[瓦版屋]]が流したデマを紹介した並びのため、
このような書き方になっています。
近代新聞に近い
[CITE[中外新聞]]
は[[瓦版]]と区別されています。

;; [396] なぜその続きの「と雖も未確証を得ず」をわざわざ省いて引用したのかは謎です。

;; [397] [[瓦版]]にならなかった断言していますが、
どの程度の確度でいえることなのでしょうか。
専門家の発言であるからには、
既知の[[瓦版]]や[[瓦版]]に関する情報にはまったく残されていないと思っていいのでしょうか。

[REFS[
- [59] 
[CITE[嘉永明治年間録]], [[吉野真保]]
-- [57] 
[CITE@ja-JP[[[嘉永明治年間録]] 巻17下 明治紀元戌辰]], [[吉野真保]], [TIME[明16.12][1883]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-11T12:33:50.723Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/772621/1/18>
右
-- [58] 
[CITE@ja-JP[[[嘉永明治年間録]] 下]], [[吉野真保]], [[布施弥平治]] [[解題]], [TIME[1968]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-11T12:40:23.575Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2990564/1/457> (要登録)
右
-- [62] 
[CSECTION[[V[解題]]]],
[[[V[布施弥平治]]]]
--- [61] 
[CITE@ja-JP[嘉永明治年間録 上]], [[吉野真保]], [[布施弥平治]] [[解題]], [TIME[1968]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-11T12:41:16.030Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2987953/1/21> (要登録)
左
--
[407] 
[CITE@ja-JP[古事類苑 第2冊]], [[神宮司庁]], [TIME[昭和3][1928]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T09:08:42.453Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1873317/1/381?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%BF>
- [54] [CITE[[[日本私年号の研究]]]]
-- [55] [CSECTION[[V[本論]]]]
--- [56] [CSECTION[[V[第六章 江戸時代以降の私年号]]]]
-
[387] 
[CITE@ja-JP[[[新聞研究]] [L[1978年8月号]]]] (337), 
[[日本新聞協会]], 
[V[[TIME[昭和五十四年八月一日][1979-08-01]]発行]],
[TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-21T10:14:03.374Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3360896/1/6> (要登録)
-- [394] 
[CSECTION[[[[V[江戸時代の改元誤報]]]]]],
[[[V[平井隆太郎]]]]

]REFS]


@@
[BOX[


[399] 
[CITE@ja-JP[元号考証]], [[滝川政次郎]], [TIME[1974]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-09T09:58:51.385Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12206745/1/68> (要登録)


[400] 
[CITE@ja-JP[明治初期の茨城]], [[山本秋広]], [TIME[1967]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-09T10:56:11.737Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3448841/1/94?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83> (要登録)


[401] 
[CITE@ja-JP[幕末明治新聞全集 第3巻 慶應4年、明治元年]], [[明治文化研究会]], [TIME[昭和9][1934]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-09T10:57:01.310Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1155061/1/135?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83> (要登録)

]BOX]


-*-*-

[99] 
慶応4年閏4月末頃の時点で、[[上野]]の[[彰義隊]]の方面では[[輪王寺宮]]を[[擁立][東武皇帝]]する構想があったとされます
[SRC[>>98]]。

[100] 
[[改元]]の噂がちょうど[[上野戦争]]と同時期に流れているのは、
[[輪王寺宮]]の即位の噂とも無関係ではないかもしれません。

[101] 
逆に、未だ[[輪王寺宮]]が[[上野]]にいる5月初めの段階で[[仙台]]なり[[奥羽]]なりで[[改元]]するというのも、
何の大義名分もなく不審です。
まあ「噂」なのですから細かい辻褄は合っていなくてもいつの間にか流れているものなのかもしれませんが、
噂の信憑性を高める背景が整っている方が広がりやすそうなものです。


[REFS[

- [98] [CITE@ja[[[北白川宮能久親王]] - Wikipedia]], [TIME[2023-12-08T23:12:49.000Z]], [TIME[2023-12-13T13:50:28.606Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B#cite_note-kaishu-6>

]REFS]



* 慶応4年8月 大館戦争の「延寿」改元説


[112] 
大正6年に編纂された
[CITE[大館戊辰戦史]]
は、
[[戊辰戦争]]中、[[奥羽越列藩同盟]]を裏切った[[秋田藩]] ([[久保田藩]]) 
領の[[大館]]に[[盛岡藩]] ([[南部藩]]) 軍が侵攻した[[大館戦争]]を記述した箇所で、
[[大館城]]落城
[WEAK[(慶応4年8月22日)]]
の際に城内にいたという[[秋田藩]]兵[[山本八十吉]]の話
[WEAK[(おそらく本書編纂時の聞き取り)]]
を掲載しています。
[SRC[>>20]]

[138] 
それによると、
[[盛岡藩]]将[[楢山佐渡]]は[[扇田村]]において、
今より延壽元年と年号が改まるなどと伝達した(という情報が流れてきた?)のだそうです。
[SRC[>>20]]

[113] 
[RUBYB[[[楢山佐渡]]][[TIME[1831]]-[TIME[1869]]]]は[[南部藩]]の[[家老]]で、
[[戊辰戦争]]では[[南部藩]]軍の指揮を取り、
[[大館戦争]]でも[[大館城]]へと進軍していました。
([[戊辰戦争]]の敗戦後に処刑されました。)

[114] 
[[秋田藩]]領[[扇田村]]は[[南部藩]]領から[[大館城]]へ向かう途中にあり、
[[南部藩]]軍は[TIME[慶応4年8月20日][kyuureki:1868-08-20]] [SRC[>>124]]
ないし[TIME[11日][kyuureki:1868-08-11]] [SRC[>>19]]
に占領したとされます。
するとその[[改元]]の布告があったのも、その頃ということになるのでしょうか。
それとも文脈に従って落城後に[[扇田村]]でそう布告したと解釈するべきなのでしょうか。

[115] 
本書は現在知られている中で[[延寿]]の[[東北地方]]における初出です。
そして現在知られている唯一の[[大日本帝国]]期の[[東北地方]]における[[延寿]]への言及です。
東北諸藩を裏切って[[明治政府]]側に付き勝者となった[[秋田藩]]側の戦史が最古で唯一の記録というのは、
考えさせられる点であります。

[116] 
[TIME[昭和53(1978)年][1978]]の[CITE[大館市史]]にもこの[[改元]]の記述があります。
この[CITE[大館市史]]は[[史書]]を称しながらも[[物語調]]で不安を感じますが、
それによると、

- [117] 南部方の記録によると (この出典がこれ以降どこまでなのか不明)、
[[大館城]]の落城後13時に大館郷中の諸役をできるだけ集めて
([[楢山佐渡]]が?)
布告書を発表した。読み上げ後に配布された。
- [118] [CITE[大館戊辰戦史]]によると本日から慶応を廃して延寿元年と改めるなどの布告だった。
- [119] 同じ時刻に扇田でも目付[[沢出善平]]
[WEAK[([[盛岡藩士]])]]
から改元などが布告された。
布告書には「延寿元年八月二二日」などとあった。

のだそうです。
[SRC[>>16]]
[CITE[大館戊辰戦史]]
以外の出典は曖昧で、にも関わらず情景が目に浮かぶように丁寧に描写され、
「[V[耳目を疑うような内容だった]]」
「[V[当時の郷民[SNIP[]]ただ信じる態度をとるよりなかったであろう]]」
など感想も挟まれていて、どこまでが資料的根拠をもって書かれているのかよくわかりません。

;; [123] また、[[大館市]]の史書であるため不可避なのでしょうが、
どう見ても[[秋田藩]]側に偏って執筆されています。
[[大館戦争]]はじめ一連の戦闘で両地域間にはかなりの禍根が残ったそうで、
無理もないことではあるのですが...

[120] 
「延寿元年八月二二日」の「二二」は本書の編纂方針による[[漢数字]]表記と思われ、
布告書の原文表記ではないと考えられます。

[121] 
[CITE[大館戊辰戦史]]
では[[扇田村]]で[[布告]]されたという内容が本書では城下と扇田で同時に同内容が布告されたとなっています。
根拠があってのことなのかはわかりません。

[122] 
[CITE[大館戊辰戦史]]
によると[[山本八十吉]]は落城の際城から脱出したというだけで、
その後どこに行ったのか定かではありません。
そのため[[扇田村]]での布告をいつどこで知ったのかは不明です。
ただ、[[扇田村]]で布告したと証言し、[[大館城]]で布告したとは言っていないことには注意が必要でしょう。

[134] 
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]は、この[[改元]]の[[布告]]に関して
[CITE[大館市史]]
を全面的に採用して解説しています。
ただし、

>改元の件は『大館戊辰戦記』に記述があるが、これは伝聞であり、盛岡藩の国元でも改元の形跡はなく本当の話か疑問であるとする意見もある。『ほくろく戊辰戦記』より。

と注釈しています。
[SRC[>>124]]

;;
[135] 
この
[CITE[ほくろく戊辰戦記]]
は、
[[秋田県]]の[[北鹿新聞社]]が[TIME[平成21(2009)年12月][2009-12]]に発行した
176
ページの書籍だそうです。
地元のいくつかの[[図書館]]に所蔵されているようですが、
[[国立国会図書館]]には所蔵されていません。




[125] 
[TIME[昭和62(1987)年][1987]]の[CITE[比内町史]]には、
[[扇田]]郷での[[南部藩]]軍の動向が詳しく記述されています。 [SRC[>>19]]
[[比内町]]は当時の[[扇田]]の領域を含んでいて、
[[平成の大合併]]後は[[大館市]]に属します。
[CITE[比内町史]]
も物語調で出典がよくわからない記述が多いですが、
出典が明記された史料も時折挟んでいて、
その部分はいくぶん信頼できそうな感じがあります。
しかし改元関係の部分は残念ながら出典がよくわからない記述に属します。
「[V[村役たちは呆然とした。]]」と見てきたようなことも書いてあります。

[126] 
[CITE[比内町史]]
によると、
慶応4年8月10日 (の夕7つより後?)、
[[楢山佐渡]]は、目付参謀[[藤根直機]]に扇田郷中の村役を集め、
布告書を朗読させ、
[[高札]]として主要箇所に立てることを命じました。その布告書には、
「[V[[SNIP[]]本日より慶応の年号を廃し、延寿元年とする、[SNIP[]]]]」
などとありました。
[SRC[>>19]]
続く文によると朗読したのは[[南部藩]]側のようですが、
[[高札]]を立てるよう指示されたのが誰なのかはよく読み取れない文です。

[127] 
[CITE[比内町史]]
は[[改元]]について少し注釈を加えています。
[[奥羽越列藩同盟]]の成立以前から[[大政]]を用いる藩はあったものの、
[[延寿]]は[[南部藩]]だけのものかもしれないのだそうです。
しかし誰の発案でどんな経過なのかは明らかではないのだそうです。
[SRC[>>19]]
そしてこの記述が何を根拠として書かれたものかも明らかではありません!

[128] 
[[奥羽越列藩同盟]]の成立は、
慶応4年の[TIME[5月3日][kyuureki:1868-05-03]]の盟約成立ないし
[TIME[6日][kyuureki:1868-05-06]]の追加の藩の加入とされているようです。
それ以前に[[大政]]を使った[[藩]]があったとする説は他書に見えません。

[129] 
[[延寿]]が[[南部藩]]だけかもしれないという記述から、
この筆者は[CITE[日本私年号の研究]]の仙台方面説は知らなかったと考えられます。

[130] 
[CITE[比内町史こぼればなし]]は、
[CITE[比内町史]]
と同じ町史の編纂室が同じ年のうちに発行したものです。
[SRC[>>15]]
こちらは完全に[[歴史物語]] ([[歴史小説]]) の体裁になっており、
どこまで根拠があるものか大変怪しいものです。
しかも内容は
[CITE[比内町史]]
と微妙に矛盾するようにも思われます。

[131] 
[CITE[比内町史こぼればなし]]
によると、
慶応4年8月11日に[[南部藩]]軍は[[扇田]]郷の者に対し、
高札用の文面を手渡して掲示を指示しました。
漢字に少しだけ仮名が混じった[[変体漢文]]のそれっぽい具体的な文面が掲載されていますが 
(原典あってのものかは不明)、
[CITE[大館市史]]
や
[CITE[比内町史]]
のいう布告とは違って免税だけで改元には触れていません。
[SRC[>>15]]

[132] 
そしてその指示とちょうど同じ時刻に南部藩軍の本隊が山崎
[WEAK[([[扇田]]の地名)]]
まで進軍していたとされます。
沿道には「南部領地」と大書きした標木を打ち建て、
「延寿元年八月十一日」
と書かれていたのだそうです。
[SRC[>>15]]
この書き方ではいまいちよくわからないのですが、
南部藩の本隊が標木を打ちながら進軍していたということでしょうか。

[133] 
「南部領地」
の標木については
[CITE[比内町史]]
にも記述がありますが、
紀年は本書独自の記述で、根拠はやはり不明です。
住民は[[年号が変わっている]]と驚いたようなことも書いてあります [SRC[>>15]]。
この世界では[[改元]]の布告がなく突然新元号が登場していたということでしょうか。

[136] 
これらの史書がいうように[[改元]]の布告書が配布されたというなら、
一時は各村に布告書の原本や写本があったはずですから、
そのうちのいくつかは現存していてもよさそうなものです。
その後しばらくの[[南部藩]]統治下で作成された[[村方文書]]にも、
延寿元年と書かれたものがあったでしょうから、
少しくらいは現存していてもよさそうなものです。
しかしそうした情報がどこにもないのはどうしたことでしょうか。
すべてその後の戦闘で焼かれたというのでしょうか?

[137] 
また、布告の内容と発せられた場所・時期が各書まったくばらばらなのはなぜでしょうか。
さすがに何の根拠もなく好き勝手に足りない情報を補って文章を盛ったということはないと思いたいのですが...

[157] 
常識的に考えて市史、町史の編纂時に地元の旧家などに残存する文書を精査しているはずで、
そこに「延寿元年」と書かれたものがあったなら、
それが「延寿」の根拠となる貴重な資料として掲載されているはずです。
それが何もなく、市史・町史の編纂後も現在まで他の研究者による報告も一切でてこない、
という現状は深刻に受け止める必要があります。

[158] 
また、 >>134 に指摘がある通り、
[[大館]]地域に限らず[[南部藩]]領内でも「延寿」は発見されていません。
[[南部藩]]から[[南部藩]]軍本隊が侵攻してきて占領地を[[南部藩]]領に編入したというとき、
[[南部藩]]本土で実施されていない新元号を新領地でだけ施行する理由はあるでしょうか。

[159] 
今後何らかの信頼できる資料が新たに発見されない限りは、
[[南部藩]][[延寿]][[改元]]説は[[改元デマ]]と理解せざるを得ません。

[160] 
[[大正]]年間に[[笹島定治]]や[[山本八十吉]]がこのような[[改元デマ]]を流布する動機はなく、
[[大館戦争]]で混乱した状況で広まった[[改元デマ]]と考えていいのではないでしょうか。

[161] 
[[延寿]]という[[元号名]]がどこから出てきたのかは問題です。
[[江戸]]の[[延寿]]の噂とまったく無関係とも思われませんが、
地理的にも時間的にも離れすぎています。
自然に徐々に広まったにしてはやや不自然感があり、
中間を埋めるような新史料の発見が望まれます。

[162] 
[[改元]]の噂だけがあった、または[[元号名]]は別なものだったのが、
[[戊辰戦争]]終結後の[[明治時代]]から[[大正時代]]の間に[[山本八十吉]]が何らかの形で[[江戸]]の[[延寿]]の噂を知って、
記憶が書き換わってしまった、という線も考えられないことではありません。
ただ[[江戸]]の[[延寿]]の噂を収録した書籍は当時それほど広まらなかったと思われ、
そのような機会があったかは疑問が残ります。



[REFS[

-
[20] [CITE@ja-JP[[[大館戊辰戦史]] : 附・沿革史]], [[紫峰笹島定治]], [TIME[大正7][1918]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:19:05.487Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/953170/1/77> (要登録)
-
[16] [CITE@ja-JP[[[大館市史]] 第2巻]], [[大館市史編さん委員会]], [TIME[1978.3][1978]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:08:38.955Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537567/1/210> (要登録)
-
[19] [CITE@ja-JP[比内町史]], [[比内町史編さん委員会]], [TIME[1987.3][1987]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:12:37.602Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9571867/1/211> (要登録)
-
[15] [CITE@ja-JP[比内町史こぼればなし]], [[比内町史資料編さん室]], [TIME[1987.6][1987]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:42:02.361Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9571933/1/18> (要登録)
-
[216] 
[CITE[広報大饜⣿屢平成2年7杜拿ᇿᙥ屴 - 009_1990071608.pdf]], [TIME[2020-03-06T07:25:59.000Z]], [TIME[2023-12-16T09:01:07.301Z]] <https://www.city.odate.lg.jp/uploads/public/pages_0000001289_00/009_1990071608.pdf>
- [124] 
[CITE@ja[[[大館城攻城戦]] - Wikipedia]], [TIME[2023-11-30T12:42:19.000Z]], [TIME[2023-12-14T13:59:18.364Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A4%A8%E5%9F%8E%E6%94%BB%E5%9F%8E%E6%88%A6>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[271] [CITE@ja[江戸時代最後の元号は「延壽」? | [[書肆犀]]]],
[[sai-tetu]],
投稿日: 2015年1月23日,
[TIME[2016-01-13 16:34:57 +09:00]] 
<http://syoshi-sai.com/2015/01/23/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E5%85%83%E5%8F%B7%E3%81%AF%E3%80%8C%E5%BB%B6%E5%A3%BD%E3%80%8D%EF%BC%9F/>
]FIGCAPTION]

> 新しい帝・輪王寺宮が即位し、元号を「延壽」としたという記録が残されている。[B[「大館戊辰戦記」]](大正8年刊)。史実ならまさに驚きである。
> 慶応4年(1868)8月22日の出来事、つまり盛岡藩(南部藩)と秋田藩の戦闘に関わる秋田藩側(新政府軍側)からの二人の口述筆記のようである。
> 「【山本八十吉翁談話】…略…大館落城し、比内は敵の蹂躙する所となりぬ、敵将、楢山佐渡(盛岡藩家老・最高司令官—引用者註)は扇田村に於いて、今より『延寿元年』と年号の改まり、且つ向かう三カ年間の貢租を免ずる旨を伝達せられしとぞ…略…(文中の「比内」「扇田村」はいずれも現在は大館市に属している。—引用者註)」

]FIG]


]REFS]

@@
[405] 
[CITE@ja-JP[大館城太平記]], [[三村雄吉]], [TIME[1968]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T09:06:02.021Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12537395/1/94?keyword=%E5%BB%B6%E5%AF%BF> (要登録)


* 慶応4年6月 奥羽越列藩同盟「大政」改元(案)

[166] [TIME[慶応4(1868)年][1868]]6月に[[奥羽越列藩同盟]]が[DFN[大政]]と[[改元]]した、
または[[改元]]する構想があった、とする記録があります。

[104] 
[[読み][元号の読み方]]は「たいせい」 [SRC[>>28, >>7]]
([DFN[Taisei]] [SRC[>>352]])
とされます。その根拠は不明です。
[[大政奉還]]からの類推でしょうか。

[167] 
この説は[[昭和時代]]中期から[[平成時代]]にかけて発見が続く[[東北朝廷閣僚名簿]]と呼ばれる資料群に
「大政」
の[[元号]]が書かれていることによるものです。
[SRC[>>151]]
資料によって微妙に異なりますが、
6月15日か16日の日付があって、
[[大政]]と[[改元]]するとの記述があります。


[342] 
[TIME[昭和27(1952)年][1952]]に[[武者小路穣]]が[[菊池容齊文書]] (>>320)
を紹介して世に知られるようになりました。
[TIME[昭和30(1955)年][1955]]に[[遠藤進之介]] [SRC[>>25]]
が初めて学問的評価を与えました [SRC[>>335]]。


[146] 
孤立した史料ゆえしばらく持て余されていたともいわれますが [SRC[>>331]]、
[TIME[昭和40(1965)年][1965]]に異本が[[蜂須賀家文書]] (>>336)
で発見され、
史料の重要性が広まりました。

;; [144] 
昭和42年の[CITE[日本私年号の研究]]が[[延寿]]を収録しながら[[大政]]を収録していない
(>>193)
のも、
[[大政]]が歴史研究者の間ですら十分に知名度を得ていなかったためなのでしょう。

[143] 
[[蜂須賀家文書]]を報告した[[鎌田永吉]]は、
昭和40年時点では
「[V[大政元年六月十五日]]」をもって政府樹立の構想があったとする一方、
[[偽作]]の可能性もあるものの他史料の時系列とあわせて一蹴できない、
と慎重さも見せていました [SRC[>>343]]。
昭和42年段階では詳細な検討が進められていて、
[[仙台藩]]の構想が[[会津藩]]および[[輪王寺宮]]の関与で変化したものだと考察しています
[SRC[>>335]]。
しかしその後構想は更なる変質を余儀なくされ実現しなかったと考えています
[SRC[>>335]]。



-*-*-

[320] 
[[菊池容齊文書]] ([RUBYB[[[菊池容齊]]][[TIME[1788]]-[TIME[1878]]]]筆録の幕末関係文書)
に[[東北朝廷閣僚名簿]]の1種があります。
半紙2枚に墨書したものが[[袋綴じ]]されています。
[SRC[>>139]]

[321] 
[[昭和時代]]中期に歴史研究者[RUBYB[[[武者小路穣]]][[TIME[1921]]-[TIME[2010]]]]が再発見し
[SRC[>>139]]、
[[大政]]の[[元号]]が学界に知られることになりました。

[322] 
[[武者小路穣]]の報告には[[翻刻]]が次のようにあります [SRC[>>139]]。

>
[VRL[
慶応四辰六月十六日於奥州[BR[]]
      改元 大政元年ト成[BR[]][SNIP[]]

]VRL]

[NOTE[

[140] >>25 が >>139 を引用。
>>25 に引用された[[翻刻]]:
「[V[慶応四辰六月十六日於奥州[BR[]]   改元 大政元年ト成]]」

]NOTE]

[141] 
第2丁裏に、「[V[戊辰八月十五日写]]」とあります。
[SRC[>>139]]

[324] 
[[改元日]]とされる日から約2ヶ月後の[TIME[慶応4(1868)年8月15日][kyuureki:1868-08-15]]までにこの資料を閲覧して書き写したということになります。


[323] 
[[菊池容齊]]は[[日本]][[武蔵国]][[江戸]]で[[下級武士]]の家に生まれましたが、
[[江戸時代]]後期に[[画家]]に転じました。尊王派の歴史画家として知られます。
[[戊辰戦争]]当時どこでどのようにこの資料を得たのかは定かではありません。


;; [142] 
[[武者小路穣]]は資料紹介と概要説明だけで、深く考察はしていません。

;; [148] 
[[武者小路穣]]は菊池家所蔵の文書を閲覧したようです。
現在[[菊池容齊文書]]は[[東京国立博物館]]に所蔵されているものがあるようですが、
本文書も含まれるのかは不明です。

-*-*-


[336] 
[[日本]]の[[文部省史料館]]所蔵[[蜂須賀家文書]]に[[東北朝廷閣僚名簿]]の1つが収録されています。
[SRC[>>335]]
[[改組]]により現在は[[国文学研究資料館]]の阿波国徳島蜂須賀家文書に収録されていると思われます。

;; [340] 
しかしウェブサイトで公開されている目録 [SRC[>>339]]
ではそれを見つけることができません...

[338] 
蜂須賀家史編集資料の1つとして作成されたと思われる仮和綴じ本に5頁にわたり記載されています。
[SRC[>>335]]



[337] 
歴史研究者[[鎌田永吉]]の論文に全文の[[翻刻]]があります。
冒頭に次のようにあります。
[SRC[>>335]]

>
[VRL[
奥州改元[BR[]]
大政元年六月十五日[BR[]]
御即位上野御宮事[BR[]]
[SNIP[]]
]VRL]

[345]
[[鎌田永吉]]は[TIME[昭和40(1965)年][1965]]の論文でこれを紹介しましたが、
>>25 を引用しつつ差異だけを指摘していました。
[SRC[>>343]]
[TIME[昭和42(1967)年][1967]]に改めて全文と考察を発表しました。
[SRC[>>335]]



[341] 
[[蜂須賀]]家は[[徳島藩]]主の[[外様大名]]です。
[[養子]]のため血統上は[[徳川家]]の子孫でした。
[[戊辰戦争]]は[[明治政府]]方で参戦しました。
[[蜂須賀]]家が[[東北朝廷閣僚名簿]]をいつどこでどのように入手したのかは不明です。



-*-*-

[295] 
[[日本国]][[埼玉県]][[鶴ヶ島市]]大字上広谷の[[長峰栄市]]家に伝わる[[日光屋文書]]の仮称
[CSECTION[戊辰戦争資料]] 
[SRC[>>296]]
は、
[[東北朝廷閣僚名簿]]の1つです。[[草書]]漢字文で、その冒頭に次のようにあります
[SRC[>>296]]。

>
[VRL[

 奥州年号改元

大政元年[SUP(normal)[戊]][SUB(smaller)[辰]]六月十五日

日光御門主様御事

[SNIP[]]

]VRL]

[297] この資料は昭和時代後期に[[日本国]][[埼玉県]][[入間郡]][[鶴ヶ島町]]町史編さん室が実施した家別の文書目録作成の予備調査で発見され、
[TIME[昭和61(1986)年][1986]]の[[紀要]]で報告されました。
包紙は失われて差出人や宛先は不明です。
[SRC[>>296]]

[298] [[長峰栄市]]家の[[屋号]]は[[日光屋]]で、
祖先が日光[[輪王寺宮]]に仕える青侍だったという伝承があります。
[SRC[>>296 (>>299 p.43)]]

-*-*-


@@
[353] 
>>352 #page=32。
おそらく >>22 も同じ。




-*-*-

[307]
[[日本]]の[[国立公文書館]]所蔵 
[CITE[記録材料・新聞鈔・完]]
は「[V[[[太政官]]]]」と書かれた用紙に[[日付]]と共に記事があり、
慶応4年当時の[[太政官]]が入手した情報が書かれたものと思われますが、
ここにも[[東北朝廷閣僚名簿]]の写しがあります。
[SRC[>>303, >>306]]

[308] 
冒頭に

>
[VRL[
辰七月廿二日奥州ヨリ傳聞[BR[]] 改元 大政元年六月十五日 御即位[BR[]] [SNIP[]]
]VRL]

([[行書]]) とあります。
[SRC[>>303]]


[309] 
[TIME[慶応4(1868)年][1868]]の[[太政官]]は[[京都]]に置かれていました。
これも[[京都]]の[[太政官]]の記録でしょうか。

[310] 
慶応4年6月15日の即位改元の情報が、
慶応4年7月22日に[[太政官]]に伝わったということになります。

[311] 
どこからの「伝聞」かは不明です。
[[奥州]]の[[明治政府]]側勢力から伝えられたのでしょうか。
それとも[[バケツリレー]]式に噂が伝わってきたのでしょうか。

[NOTE[

[312] この資料は[TIME[令和元(2019)年][2019]]の記事で
「[V[最近]]」発見されたとされます。 [SRC[>>306]]
この記事は個別の出典がなくまとめて参考文献が示されているのみで、
いつどこで報告されたのかよくわかりません。

[313] 
[TIME[平成30(2018)年][2018]]は[[戊辰戦争]]から150年で各地で展示会がありました。
[[国立公文書館]]でも企画展
[CITE[戊辰戦争―菊と葵の500日―]]
が開催されました [SRC[>>314]]。
そこで
[CITE[記録材料・新聞鈔・完]] [SRC[>>303]]
も出展されていたそうです [SRC[>>315]]。

[316] 
該当部分が展示されたかは不明ですが、
担当の学芸員は全体を見ているでしょうから、
遅くてもその時までには再発見されていたものと思われます。



[REFS[

- [314] [CITE@ja[平成30年度「戊辰戦争―菊と葵の500日―」]], [TIME[2023-12-31T11:54:00.000Z]] <https://www.archives.go.jp/exhibition/jousetsu_30_05.html>
- [315] 
[CITE@ja[南柯の夢・閑話 - やっぱり新政府軍はロクなもんじゃなかった]], 
[[岩槻はるか]],
2018/06/27 15:36,
2018/06/29 08:35 改稿,
[TIME[2023-12-31T11:54:43.000Z]] <https://ncode.syosetu.com/n1077cc/24/>



]REFS]

]NOTE]

-*-*-

[174] 
[[昭和時代]]中期から[[平成時代]]にかけて、
[[東武皇帝]]の[[即位]]説と[[改元]]説を含む政権構想はセットでしばしば紹介されてきたようです。
ただ多くは先行研究が紹介したその概要を繰り返すのみにとどまっていて、
資料の信憑性や実情の解明は、そのような研究も皆無ではないとはいえ
[WEAK[(他の[[私年号]]と比べればむしろ多い方ではあるのですが)]]、
あまり進んでいないのが実情のようです。






[168] 
この[[改元]]説は[[東武皇帝]]の[[即位]]とセットになっています。
ところで[[奈良時代]]には[[即位同時改元]]が普通でしたが、
その後長らく[[改元]]は[[践祚]]の翌年とする慣習でした。
ただ王朝交代や権力闘争による王位奪取が頻繁にあった[[東アジア]]諸国の例をみると、
正統的な王位交替が行えないときは即座に[[改元]]を行い正当性を主張する傾向があるとされます。

[172] 
[[日本]]の先例では、

- [169] [[後鳥羽天皇]]
[TIME[寿永2(1183)年8月20日][kyuureki:1183-08-20]][[践祚]],
[TIME[寿永3(1184)年4月16日][kyuureki:1184-04-16]][[元暦]]改元,
[TIME[元暦元(1184)年7月28日][kyuureki:1184-07-28]][[即位礼]] 
- [170] [[光明天皇]]
[TIME[建武3(1336)年8月15日][kyuureki:1336-08-15]][[践祚]],
[TIME[建武4(1337)年12月28日][kyuureki:1337-12-28]][[即位礼]],
[TIME[建武5(1338)年8月28日][kyuureki:1338-08-28]][[暦応]]改元
- [171] [[後光厳天皇]]
[TIME[観応3(1352)年8月17日][kyuureki:1352-08-17]][[践祚]],
[TIME[観応3(1352)年9月27日][kyuureki:1352-09-27]][[文和]]改元,
[TIME[文和2(1354)年12月27日][kyuureki:1354-12-27]][[即位礼]]

と[[後鳥羽天皇]]や[[光明天皇]]のケースでは慣例通りに1年置いていますが、
史上最も強引な方法で[[即位]]にこぎつけた[[後光厳天皇]]は[[践祚]]の1ヶ月後に早々に[[改元]]していることがわかります。

[173] 
[[武家]]中心の[[奥羽越列藩同盟]]がこのような慣例と先例にどれだけ気を配っていたかは定かではありませんが
(ゆっくり調査できる状況でもなかったでしょう)、
[[三種の神器]]なしで[[即位]]した[[後光厳天皇]]の先例は心強いものとなりそうです。

[156] [[奥羽越列藩同盟]]成立以前に使っていた[[藩]]があったとする説があります (>>128)
が、根拠は不明です。

[175] 
現在の所[[大政]]は政権構想で記述された例があるだけで、
実用した事例は発見されていません。


[300] 
[[昭和時代]]後期の研究者[[山下守昭]]は、
[[日光屋文書]]閣僚名簿の再発見に際して初出の論文 (>>139) を引いて、
その説が補強されたとし、[[輪王寺宮]]に関係あるとされる家で発見されたのも偶然ではないと指摘しました。
[SRC[>>296]]

[301] 
また、[[日光屋文書]]の逐語解説で、
「[V[自慶応四年六月十六日[BR[]]至明治元年九月八日の私称]]」
としました。
[SRC[>>296]]

[302] 
本文に6月15日とあるのに16日を始期とした理由は不明ですが、
先行研究に従ったものでしょうか。
本文に情報のない終期を[[明治改元]]の日としていることや、
[[私年号]]扱いしていることも引っかかります。



[176] 
もし[[改元]]が実施され広く布告されていたとするなら、
その後の戦況と勝利した[[明治政府]]の統治を考慮にいれたとしても、
「大政元年」表記の文書がまったく発見されず、
改元されたという情報もほとんど世に出ていない現状とはずれが大きいように思われます。
新規の資料が見つからない限りは、
[[改元]]の構想があったとしても、実施にまでは至らなかったとみておくのが穏当でしょう。

[203] 
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]は慶応4年の6月から9月に利用されたとしています
[SRC[>>7, >>44]]。この期間の根拠は特に書かれていませんが、
[[奥羽越列藩同盟]]の滅亡まで使われたと推定しての記述と思われます。

[205] 
[[平成時代]]後半の
[CITE[近代諸元号現象]]
は[[郷右近馨]]所蔵閣僚名簿の白黒写真を掲載しています。
[SRC[>>187 #page=674]]
そして大政 = 政権担当の正統は旧幕府を奉じる東北諸藩にあると主張する意図があるが、
それは慶応3年の[[大政奉還]]を否定するもので受け入れられなかったと分析しています。
[SRC[>>187 #page=676, >>188 #page=4]]

;; [383] 
>>187 p.[L[672]] に白黒写真。[[郷右近馨]]所蔵。
本来某仙台藩士の家に伝わったとされる原本は行方不明で、
コピーのみが現存とのこと。


[317] 
[[令和時代]]初期の同人誌記事 [SRC[>>306]] は、
最新発見[[東北朝廷閣僚名簿]] [SRC[>>303]]
を紹介しています。そして[[東北朝廷]]構想があったが実現しなかったものとし、
[[大政]]は[[私年号]]であるとしています。
[[延寿]]は異説があると簡単に触れるのみです。

[391] 
[[令和時代]]初期の[[オカルト雑誌]][CITE[ムー]]でもおもしろおかしく紹介されました
[SRC[>>390]]。

[REFS[

- [303] 
[CITE@jp[記録材料・新聞鈔・完]], 
[[独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN]], [TIME[2023-12-31T11:20:10.000Z]] <https://www.digital.archives.go.jp/img.pdf/1796976>
#page=14
- [319] 
[CITE[[[史学雑誌]] 61(8)]]], [TIME[1952-08]], ppp.760-761
-- [139] 
[CITE[[V[戊辰役の一資料]]]],
[[[V[むしやこうじ・みのる]]]]
--- [318] [CITE@ja[[[戊辰役の一資料]]|書誌詳細|国立国会図書館オンライン]], [TIME[2023-05-17T10:19:26.000Z]], [TIME[2023-12-15T06:52:27.283Z]] <https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I5032068-00>
--- [333] >>332 pp.3-7 に引用あり
-[25] [CITE@ja-JP[東北史の新研究]], [[古田良一博士還暦記念会]], [TIME[1955]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:24:42.221Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2997467/1/159> (要登録)
-
[43] [CITE@ja-JP[青森県市町村合併誌]], [[青森県総務部地方課]], [TIME[1961]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:40:11.325Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3027626/1/26> (要登録)
-- [149] 引用なし。
-
[37] [CITE@ja-JP[日本史の問題点]], [[日本歴史学会]], 
[V[[TIME[昭和四十年十月二十日][1965-10-20]]印刷]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:35:46.426Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2971978/1/147> (要登録)
-- [343] 
[CITE[戊辰戦争―その歴史的意義―]],
[[鎌田永吉]]
-- [344] >>335 は[V[一九六〇年]]とする。誤りか。
-
[31] [CITE@ja-JP[会津若松史 第5巻]], [[会津若松史出版委員会]], [TIME[1966]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:30:39.913Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3048620/1/87> (要登録)
-- [147] >>139 を引用。
-
[36] [CITE@ja-JP[会津若松史 第9巻]], [[会津若松史出版委員会]], [TIME[1967]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:34:55.065Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3015522/1/164> (要登録)
-
[334] 
[CITE[秋大史学]] (14),
[TIME[1967-02]]
--
[335] 
[CITE@ja[[V[いわゆる大政改元史󠄃料をめぐって]]]],
[[[V[鎌田永吉]]]],
pp.68-73
---
[153] 
[CITE@ja[いわゆる大政改元史料をめぐって|書誌詳細|[[国立国会図書館オンライン]]]], [TIME[2023-05-17T10:19:26.000Z]], [TIME[2023-12-15T07:18:32.399Z]] <https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I9376955-00>

]REFS]

[30] [CITE@ja-JP[会津史談会誌 (46)]], [[会津史談会]], [TIME[1972-05]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:29:42.140Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2260622/1/76> (要登録)

[32] [CITE@ja-JP[新評 20(11)]], [[新評社]], [TIME[1973-11]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:31:40.519Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1807993/1/129> (要登録)

[39] [CITE@ja-JP[生駒藩史 : 讃岐・出羽]], [[姉崎岩蔵]], [TIME[1976.12][1976]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:37:18.369Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9569718/1/338> (要登録)

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[376] 
[CITE[戊辰戦争: 敗者の明治維新 - [[佐々木克]] - Google ブックス]], 
[TIME[1977]],
[TIME[2024-01-04T08:22:02.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?newbks=1&newbks_redir=0&redir_esc=y&hl=ja&id=PXhOAAAAMAAJ&dq=%E5%A4%A7%E6%94%BF>
]FIGCAPTION]

>132 ページ
>... 大政元年と改元し、輪王寺宮を即位させて東武皇帝とする、九条道孝を関白太政大臣に醍醐忠敬を執柄職、仙台藩主を権征夷大将軍、会津藩主が副将軍総裁兼任、米沢藩主は越後ロ奸賊防禦を任務とする、他諸大名を各戦局の指揮者に配また〈同盟管轄>は、当初 ...
]FIG]


[42] [CITE@ja-JP[福岡県警察史 明治大正編]], [[福岡県警察史編さん委員会]], [TIME[1978.3][1978]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:39:29.702Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9770228/1/74> (要登録)

[41] [CITE@ja-JP[温海町史 上巻]], [[温海町史編さん委員会]], [TIME[1978.4][1978]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:38:45.586Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537597/1/299> (要登録)

[35] [CITE@ja-JP[現代の眼 19(7)]], [[現代評論社]], [TIME[1978-07]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:34:18.259Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1771583/1/44> (要登録)

- [299] [CITE@ja[[[日光街道と並木]] (鶴ヶ島町町史編纂室): 1978|書誌詳細|国立国会図書館サーチ]], [TIME[2023-12-30T08:53:48.000Z]] <https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000008014010-00>


[40] [CITE@ja-JP[大郷町史]], [[大郷町史編纂委員会]], [TIME[1980.7][1980]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:37:58.990Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9570303/1/320> (要登録)

[29] [CITE@ja-JP[紙碑・東京の中の会津]], [[牧野登]], [TIME[1980.12][1980]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:28:35.727Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9538489/1/38> (要登録)

[38] [CITE@ja-JP[与板藩史 下巻]], [[池上大一]], [TIME[1982]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:36:46.149Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9538862/1/85> (要登録)

[27] [CITE@ja-JP[郷土史事典宮城県]], [[佐々久]], [TIME[1982.9][1982]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:26:27.784Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9539038/1/88> (要登録)

[28] [CITE@ja-JP[郷土史事典秋田県]], [[国安寛, 柴田次雄]], [TIME[1982.10][1982]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:27:23.350Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9539039/1/85> (要登録)

[24] [CITE@ja-JP[宮城県の昭和史 : 近代百年の記録 上]], [[毎日新聞社]], [TIME[1983]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:23:30.321Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9570947/1/40> (要登録)

[26] [CITE@ja-JP[川越街道 : 宿場をいろどる歴史の残照]], [[笹沼正巳 '''['''ほか''']'''著]], [TIME[1984.3][1984]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:25:28.215Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9643063/1/79> (要登録)

[34] [CITE@ja-JP[市史ふるさと登別 上巻]], [[登別市史編さん委員会]], [TIME[1985]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:33:33.129Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9571582/1/105> (要登録)

[REFS[

- [154] [CITE[鶴ヶ島研究]] 三, [TIME[1986]]
-- [294] [CITE@ja[[[鶴ヶ島研究]] (鶴ケ島町史編さん室): 1986|書誌詳細|国立国会図書館サーチ]], [TIME[2023-12-30T08:38:40.000Z]] <https://iss.ndl.go.jp/books/R100000001-I089399041-00>
-- [296]  
[CITE[[L[日光屋文書の戊辰戦争資料]]]],
[L[町史編さん室<山>]] ([[山下守昭]]),
p.31 および折込頁 (白黒写真と翻刻文)

]REFS]

[33] [CITE@ja-JP[多賀城市史 第2巻 (近世・近現代)]], [[多賀城市史編纂委員会]], [TIME[1993.3][1993]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:32:34.747Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9540943/1/120> (要登録)


[21] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7947600> (非公開)

>60: 六月十六日於奥州改元大政元年ト成上野宮様御事御即位東武皇帝御諱睦運皇后光仙台慶邦公養女実ハ条関白ノ御女也九条殿関白大政
>61: とし、年号も慶応から大政元年と改めるという戦略を誰が立案したのかである。輪王寺宮が榎本武揚の計らいで軍艦長
>62: 的だった。東武皇帝も大政元年も歴史の彼方に埋没した。輪王寺宮は戦争終了後、東京に戻り謹慎後、伏見

[22] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7947569> (非公開)

>43: 暦八月東武皇帝御守衛大政元年六月十〓御即位凍武帝御妃戯台女御慶邪養女御詳陸運孰拙〓ゴミー直九條関白大政大臣〓米案封醍醐澤右大
>23: 固なもので日をもって大政元年とし、輪王寺宮を東武皇帝とする構なかったともみられる。想などがあっ

[23] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7939172> (非公開)

>12: 武皇帝とし、元号も「大政元年」と改元しようとまでした。しかし、新政府軍に対し、幕藩制的秩序を守ろ


[413] 
[CITE@ja-JP[図説日本の歴史 4]], [[河出書房新社]], [TIME[1988.6][1988]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T09:57:09.251Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12206756/1/137?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83> (要登録)



[REFS[

- [352] [CITE@ja[Microsoft Word - Aizupaper - Armen_Bakalian_Not_for_the_Shogun_Aizu's_Personal_Motives_in_the_Bakumatsu.pdf]], 
December 2005,
[TIME[2014-03-21T08:12:17.000Z]], [TIME[2024-01-04T05:45:38.444Z]] <http://www.bakumatsu.ru/lib/Armen_Bakalian_Not_for_the_Shogun_Aizu%27s_Personal_Motives_in_the_Bakumatsu.pdf#page=30>

]REFS]

- [155] 
[CITE[明治元年・東北朝廷処分の一考察]],
[[藤井徳行]],
[CITE[現代政治学の課題]], [TIME[2006]]
- [184] 
[TIME[2023-12-15T15:43:20.200Z]]
<https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00224504-19950928-0213.pdf?file_id=115628>
#page=9

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[210] [CITE[『親王・諸王略傳』 能[能久__&&]&&__]], [[ahmadjan aqsaqal]], 
更新日時: 2006.06.15.,
公開日時: 2005.08.21.,
[TIME[2019-04-19T07:01:52.000Z]], [TIME[2023-12-16T08:37:41.257Z]] <http://nss.o.oo7.jp/ssr/4n5/no010001.html>
]FIGCAPTION]

>
-●	慶應四年(一八六八)六月十六日、奧羽越列藩盟主となり、「東武皇帝」(諱は陸運)として即位、「大政元年」と改元した、という。
--◎	『菊地容齋所藏文書』
[PRE[
慶應四辰六月十六日於奧州
      改元 大政元年卜成
上野宮樣御事御即位東武皇帝御諱陸
運 皇后光仙台慶邸【伊達慶邦】公養女實は
一條關白ノ御女也
九條殿        關白太政大臣
執柄職        醍醐左大臣
・・・・・
   戊辰八月十五日寫
]PRE]
--◎	『蜂須賀家文書』
[PRE[
奧州改元
大政元年六月十五日
御即位上野御宮事
東武皇帝御諱陸運
      御后
一條關白御女仙台慶邦養女
九條關白太政大臣
           醍醐大臣
執柄職        澤大納言
・・・・・
]PRE]
--※	瀧川政次郎「公現法親王の即位」(瀧川政次郎『日本歴史解禁』所收)
--※	むしやこうじ・みのる(武者小路穰)「戊辰役の一資料」(『史學雜誌』第六十一編第八号、昭和二十七年(一九五二)八月、七一(七六〇)~七二(七六一)頁)


]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[7] [CITE@ja[大政 (私年号) - [[Wikipedia]]]], [TIME[2020-09-11T11:58:00.000Z]], [TIME[2020-09-25T11:58:28.579Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF_(%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7)>
]FIGCAPTION]

>[B[大政]](たいせい)は、幕末に使用された私年号。1868年旧6月 - 旧9月。 

>
-『日本史辞典』(角川文庫)
]FIG]

;; [150] [[延寿]]は一覧掲載のみで記事なし。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[151] [CITE@ja[大正大学機関リポジトリ]], [TIME[2023-12-15T07:11:45.000Z]] <https://tais.repo.nii.ac.jp/records/303>
]FIGCAPTION]

>
[VRL[
[SNIP[]]そして、その典拠となっているのが、慶応四年六月一五日または一六日[BR[]]
に元号を「大政」に改元し、法親王を「東部皇帝」とするのをはじめとして、同盟の[BR[]]
関係者達の役職やそれぞれの攻略地の担当者を定めた、名簿形式の史料の存在である[BR[]]
(「菊池容斎史[RUBY[料][([YOKO[11]])]]」「蜂須賀家史[RUBY[料][([YOKO[12]])]]」「鶴ヶ島・日光屋史[RUBY[料][([YOKO[13]])]]」「旧仙台藩士資[RUBY[料][([YOKO[14]])]]」の四点。
これらを藤井氏は「東北朝廷閣僚名[RUBY[簿][([YOKO[15]])]]」と表現している)。
]VRL]

;; [152] 
(11) >>139,
(12) >>153,
(13) >>154,
(14) >>155 pp.268-269,
(15) >>155 pp.269




]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[9] [CITE@ja[[[奥羽越列藩同盟]] - Wikipedia]]
([TIME[2020-09-15T03:49:45.000Z]], [TIME[2020-09-25T12:03:15.326Z]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E7%BE%BD%E8%B6%8A%E5%88%97%E8%97%A9%E5%90%8C%E7%9B%9F#%E7%9B%9F%E4%B8%BB%E3%83%BB%E8%BC%AA%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E5%AE%AE>
]FIGCAPTION]

>「菊池容斎史料」「蜂須賀家史料」 「日光屋史料・鶴ヶ島」 「旧仙台藩士資料」 これらを藤井徳行は東北朝廷閣僚名簿と表現している(熊野秀一 2013, p. 40)

;; 参照されているのは >>151。
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[45] [CITE@ja[[[大政奉還]] - Uyopedia]], [TIME[2019-11-22T07:24:14.000Z]], [TIME[2023-01-19T08:48:00.092Z]] <http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%A5%89%E9%82%84>
]FIGCAPTION]

>
1868年とその前後に起こった日本史及び世界史上のエポックメーキングな事件の総称。薩長英雄史観(徳川封建停滞史観)において「明治維新」と称される概念とほぼ同じであるが、まったく同一なわけではなく、戊辰戦争ほかの政治抗争を主とする。
>
紛らわしい概念として、慶応三年(1867年)の徳川慶喜の政権返上を「大政奉還[B[の奏上]]」というが、それは大政奉還の序章を飾る前夜祭のようなものにすぎない。それと異なり、Uyopediaでいう「大政奉還」は國體原理主義の用語であり、その大政は単に政権の意味ではなく、年号の大政(1868年~)である。 
]FIG]


[REFS[

- [390] 
[CITE[ムー: 2019年7月号 - [[Google ブックス]]]], [TIME[2024-03-08T13:20:45.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=N7ibDwAAQBAJ&pg=PA86>
- [305] 
[CITE[[V[天皇を旅する本 令和元年 夏 弐号]]]],
[[[V[ミサンザイ]]]],
[V[令和元年[YOKO[8]]月[YOKO[11]]日  初版]]
-- [306] [CSECTION[「大政」改元[YOKO[?]][BR[]][WEAK(smaller)[〜新発見・「東武皇帝」の一級資料〜]]]],
[[[V[じとうさん]]]],
pp.[L[32]]-[L[37]]
- [214] [CITE@ja[Xユーザーのミサンザイ 同人誌 「天皇を旅する本」「天皇を旅する地図」ほか BOOTHはじめましたさん: 「この「東武皇帝の閣僚名簿」をみますと、右から4行目のところに 「改元 大政元年六月十五日」とあるのがわかります。 もしも戊辰の戦争で幕府軍が勝利をおさめていたとしたら、慶応のつぎは明治ではなく「大政」だったかもしれないのだ!! https://t.co/qKsuzVGTXI」 / X]], [TIME[午後2:16 · 2020年4月21日][2020-04-21T05:16:28.000Z]], [TIME[2023-12-16T08:55:47.000Z]] <https://twitter.com/katsunomisanzai/status/1252466207195672576>
-- [215] 写真
「辰七月廿二日奥州ヨリ伝聞[BR[]]改元 大政元年六月十五日 御即位」
--- [304] >>303 の一部分。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[275] [CITE@ja[天皇を旅する本 弐号 - ミサンザイ - [[BOOTH]]]]
([TIME[2023-12-17T11:58:22.000Z]])
<https://booth.pm/ja/items/4737604>
]FIGCAPTION]

> [SNIP[]]また近現代を研究する「じとうさん」には、幕末~明治最初期に誕生したとされる幻の「東武皇帝」と私元号「大政」についての新発見の紹介を、[SNIP[]]ご寄稿いただきました。
> 2019年8月11日発行

]FIG]

- [276] [CITE@ja[Xユーザーのミサンザイ 同人誌 「天皇を旅する本」「天皇を旅する地図」ほか BOOTHはじめましたさん: 「④文学フリマ東京 ニ-31 『天皇を旅する本』2号(新刊) 「「大政」改元?〜新発見「東武皇帝」の一級史料〜」 幕末、皇族を新しい「天皇」に立て、慶応を「大政」に改元しようという計画が勧められていた…? 新発見の史料をふまえて「東武皇帝」擁立計画を考察した歴史レポートです(寄稿)。 https://t.co/UziA679QcJ」 / [[X]]]], [TIME[午後2:20 · 2019年11月23日][2019-11-23T05:20:59.000Z]], [TIME[2023-12-17T11:56:16.000Z]] <https://twitter.com/katsunomisanzai/status/1198109164502999040>

-*-*-

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[145] [CITE@ja[[[德川記念財団]] |出品協力「戊辰戦争150年」]], 
2018年,
[TIME[2018-08-22T06:36:00.000Z]], [TIME[2024-01-04T04:04:53.440Z]] <http://www.tokugawa.ne.jp/2018boshin.htm>
]FIGCAPTION]

>*当財団から下記資料を出品いたします。
>
-[SNIP[]]
-    奥州改元大政元年資料(東武皇帝の閣僚名簿)(徳川宗家文書)
-[SNIP[]]
]FIG]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[208] 
[CITE@ja[伊達慶邦を将軍にすると記した奥州改元大政元年資料 | [[ミライハック]]]], 
2019年7月12日,
2020年9月22日,
[TIME[2023-12-16T08:20:23.000Z]] <https://www.geek.sc/archives/2506>
]FIGCAPTION]

>
奥羽越列藩同盟に迎えられた輪王寺宮は1868年(慶応3年)6月15日に東武皇帝として即位し、元号を大政に改元したとする説があります。
>
その事を裏付ける史料が徳川宗家に伝わる『徳川宗家文書補遺』(徳川記念財団所蔵)に収められています。この史料では輪王寺宮を中心に九条や沢などの東北鎮撫軍の公卿、征夷大将軍として伊達慶邦、総副軍総裁に松平容保が名を連ねているいわば東北版朝廷の閣僚名簿となっています。仙台市博物館の戊辰戦争150年の特別展でこの史料を見る機会がありました。特別展は撮影禁止でしたが、この史料自体は仙台市博物館の[ASIS[パンフレット][リンク]]でも紹介されています。
>以下、その奥州改元大政元年資料の書き起こしです。
>>
[B[奥州改元大政元年資料]]
>>
奥州改元[BR[]]
大政元年六月十五日[BR[]]
[B[御即位]][BR[]]
[B[上野宮御事]][BR[]]
東武皇帝[BR[]]
御諱[BR[]]
御后[BR[]]
>>
[SNIP[]]

]FIG]

;; [209] 
リンク先は既に存在せず、 [[Internet Archive]] にも [[WARP]] にも所蔵されていません。
そして[[仙台市博物館]]の[[ウェブサイト]]でも当時はこの特別展の情報が掲載されていたようですが、
最新のものにどんどん上書きされていく形式のようで、
現在は見当たりません。
[[Internet Archive]] に開催前の予告がわずかに保存されているだけで、
開催中のページは [[Internet Archive]] にも [[WARP]] にも保存されていません。
公立の歴史博物館の公開情報は[[公文書]]という意味でも歴史記録という意味でも、
恒久的に保存されるべきなのに、あんまりです。
歴史を次世代につないでいく歴史展覧会の意義を何だと思っているのでしょうか?
(ここで紹介されている史料自体は、当時販売されていた[[図録]]に掲載されています
[SRC[>>211]]。)

- [211] [CITE@ja[Xユーザーの漢学要塞研究所(旧・岩手漢文同好会)さん: 「@Hekmatya 手元の最新の資料、昨年新潟県立歴史博物館、福島県立博物館、仙台市博物館を巡回した「戊辰戦争一五〇年」の図録。「『東北朝廷』の閣僚名簿」として「139 奥州改元大政元年資料」が載っている。真偽については特に触れていない。巻頭の特別寄稿や巻末の年表には「[[即位]]」とは書いていない。 https://t.co/mwCAeWOPhf」 / X]], [TIME[午前1:20 · 2019年10月24日][2019-10-23T16:20:19.000Z]], [TIME[2023-12-16T08:39:36.000Z]] <https://twitter.com/iwatekanbun/status/1187041067046076416>

]REFS]



[51] [CITE[catalogue_rev2_R3.pdf]], [TIME[2021-11-15T09:58:23.000Z]], [TIME[2023-11-07T09:42:07.197Z]] <https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/2021/images/catalogue_rev2_R3.pdf#page=21>

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[14] [CITE[歴史学者が語る“眞子さん騒動”と皇族の国際結婚…ドイツ人女性と婚約した北白川宮能久]]
([TIME[2022-01-29T03:03:11.000Z]], [TIME[2022-01-29T03:11:24.553Z]])
<https://biz-journal.jp/2022/01/post_276041.html>
]FIGCAPTION]

> この盟主就任にあたり、1868年(慶応4)6月16日を大政元年と改元し、公現を「東武(とうぶ)天皇」とする案もあったという。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[182] 
[CITE@ja[[[薩土密約]] - Wikipedia]], [TIME[2023-12-04T09:02:57.000Z]], [TIME[2023-12-15T14:51:29.484Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E5%9C%9F%E5%AF%86%E7%B4%84>
]FIGCAPTION]

>[B[東武皇帝(偽帝)即位事件]]
>
6月16日(1868年8月4日)、彰義隊に拉致された輪王寺宮が、東北の盟主・東武皇帝として即位を強要される[SUP[__&&[&&__53__&&]&&__]]。年号は「大政」。(ただし三種神器を保持しない偽帝である) 


]FIG]

;; [183] >>182 の記事は[[薩摩藩]]と[[土佐藩]]の密約の解説のはずなのに、
なぜかそれと直接関係しない[[戊辰戦争]]の出来事の記述が相当な分量を占めている上に、
>>182 の引用部を始めとして薩長側に著しく偏った一方的な史観に基づく、
出典の不明瞭な記述が散見される。
なぜ[CITE[ウィキペディア]]の編纂方針のもとでこのような記事が存続しているのか、
理解に苦しむ。

-*-*-

- [331] [CITE@ja[PW_PLUS: 有馬頼義の「北白川宮生涯」について]], [TIME[2020-10-28T07:46:17.000Z]], [TIME[2024-01-03T08:26:00.383Z]] <http://www.ctt.ne.jp/~okamura/058.html>
- [332] [CITE@en[「東武皇帝」即位説の真相 もしくはあてどないペーパー・ディテクティヴの軌跡]], [TIME[2024-01-03T08:25:15.000Z]], [TIME[2024-01-03T08:26:31.626Z]] <https://www.calameo.com/read/00559704319ae78d8b113>

-*-*-

- [339] [CITE[阿波国徳島蜂須賀家文書 //国文学研究資料館]], [[国文学研究資料館]], [TIME[2023-07-18T07:33:01.000Z]], [TIME[2024-01-03T09:20:55.932Z]] <https://base5.nijl.ac.jp/~archicol/eachpage/07/01/ac1952001.01/index.html>

]REFS]


-*-*-


[348] 
[[平成時代]]中頃に[[ウェブ]]で流行した[[明治天皇すり替え陰謀論]]にも、
[[東武皇帝]]の[[大政]]改元は組み込まれています。
[SRC[>>346, >>212, >>349]]


[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[212] 
[CITE[「明治天皇」は暗殺されていた!!(追補・訂正)]], 
追補・訂正 2003.6.7,
[TIME[2012-04-08T12:55:29.000Z]], [TIME[2023-12-16T08:45:13.521Z]] <http://www.teikoku-denmo.jp/history/honbun/nanboku4-3.html>
]FIGCAPTION]

>
幕末維新期の関連年表を下記に掲載します。[WEAK[(年表作成:匿名希望「G氏」)]]

>
,慶応4(1868)年[BR[]]大政元(1868)年 	,6月15日 	,輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)、諱(いみな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇帝」に即位。慶応4年6月15日を以て、「大政」元年と改元。

;; [213] ちなみにこのサイトでは[[九州年号]]も肯定的に紹介している。

]FIG]

- [349] [CITE[靖国神社の御祭神、御神体について]], 
最新見直し2005.7.3日,
[TIME[2024-01-04T04:24:58.000Z]], [TIME[2019-11-21T13:49:28.541Z]] <https://web.archive.org/web/20191121134605/http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/sengodemocracy_yasukuni._goshintai.htm>

;; [350] >>349 のサイトでは独自[[私年号]]の[[栄和]]も使われています。

- [351] [CITE@ja[ビアヘロ035 忘れ去られた明治の北白川宮能久親王の石碑について ”熊本県山都町長崎”: ひぼろぎ逍遥(跡宮)Sympathy for the Devil]], 
[[古川清久]],
23:19,
[TIME[2024-01-04T04:19:39.000Z]], [TIME[2024-01-04T04:31:01.931Z]] <http://hiborogi.sblo.jp/article/182424355.html>




]REFS]



* 慶応4年9月 奥羽越列藩同盟「大化」改元説

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[12] [CITE[2018_kaigen_pamphlet.pdf]], [TIME[2021-04-28T12:00:55.000Z]], [TIME[2021-04-28T12:08:37.163Z]] <https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1552954521928/simple/2018_kaigen_pamphlet.pdf#page=19>
]FIGCAPTION]

>
[BOX(set)[

[BOX(left)[
[ASIS[[B[維新期における元号の並立]]][四角囲み]]

「慶応四辰八月留記」は「明王太郎日記」と総称される相模[BR[]]
大山(伊勢原市)の宮大工であった手中景元(1819~1906)の[BR[]]
残した膨大な日記の一つです。慶応4(1868)年 10 月 9 日の記[BR[]]
事には奥州国(奥羽越列藩同盟)が「大化」(大政の誤伝)、西[BR[]]
国筋(維新政府)が「明治」と改元を行ったとの記述があり、[BR[]]
元号が並立するのは「南皇北皇」すなわち南北朝時代以来の出[BR[]]
来事であるとしています。

→「明王太郎日記」については『明王太郎日記』上 堂宮大工が見た幕末維[BR[]]
新 【 神 奈 川 県 立 公 文 書 館 所 蔵 行 政 刊 行 物 ・ 図 書 K25-6.4-3-[BR[]]
1/ID:3201307597】もご参照ください。

]BOX]

[BOX(left)[

[VRLBOX[

[B[「慶応四辰八月留記」]][BR[]]
[B[慶応四([YOKO[1]][YOKO[8]][YOKO[6]][YOKO[8]])年十月九日条]]

九日(中略)[BR[]]
九月年暦改ル、奥州国大化と[BR[]]
改ル、西国筋明治と改ル、右様弐ツ[BR[]]
ニ相成候事、其古ヘ南皇北皇之[BR[]]
後ヨリ外、日本建始リ候て無之筈、
[BR[]](後略)

]VRLBOX]

]BOX]

]BOX]
>
[B[→展示資料 2-8:「慶応四辰八月留記」]] 慶応4(1868)年【神奈川県立公文書館寄託 相模国大住郡大山[BR[]]
手中家文書 ID:2199700779】



]FIG]

[177] 
これを収録した[CITE[明王太郎日記 上]]の刊行は[TIME[平成29(2017)年][2017]]。
他にこの改元記事への言及も見当たらないので、
平成末期に発見された新出資料と思われます。

[178] 
この改元記事は慶応4年9月の[[明治改元]]をうけて書かれたもののようで、
それと対比して奥州の大化を挙げていますが、いつ改元されたのか、
いつそれを知ったのかまでは明らかではありません。

[179] 
解説ではこの大化を大政の誤りとしています。
穏当な推測とは思われるものの、
音も字形も似ていない「政」が「化」にいかに変化したのか、
腑に落ちないところではあります。

[180] 
また、政権構想を除けば[[東北地方]]にほとんど痕跡が残っていない大政の噂が、
[[相模国]]まで伝わっていたとすると驚くべきことです。
6月から9月ないし10月までのうちにどのような経路で、
どのような速度で広まったのか気になりますし、
それだけ長期間、広範囲に伝播していたとするなら今後思わぬ所で新資料が発掘されるかもしれないと期待が持てます。

;; [181] 
ちなみに[CITE[日本書紀]]によると[TIME[皇極天皇4(645)年6月19日][kyuureki:645-06-19]]かそれ以後に[[大化]]に[[改元]]がされていて、
偶然にも非常に近い[[月日]]です。


* 研究史・言及史

[201] 
[[延寿]]は[TIME[慶応4(1868)年][1868]]にリアルタイムに新聞に捕捉され (>>71)、
[TIME[明治16(1883)年][1883]]には史書で刊行されました (>>83) が、
注目されることなく埋もれていました。

[190] 
この[[江戸]]の[[延寿]]は昭和42年の[CITE[日本私年号の研究]]で再発見され (>>87 >>72)、
広く知られるようになりました。

@@ [385] 其れ以前に >>384 >>386 で紹介されていたことが判明しました。

- [384] [CITE@ja-JP[国民百科大辞典 3]], [[富山房百科辞典編纂部]], [TIME[昭和9][1934]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-13T12:30:50.202Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1801901/1/425> (要登録)
- [386] 
[CITE@ja-JP[日本百科大辞典 第5巻]], [[三省堂編輯所]], 
[V[明治四十四年十二月一日印刷]],
[V[明治四十四年十二月五日發行]] [WEAK[([TIME[1911-12-05]])]],
[TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-13T12:40:59.159Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/898069/1/122> (要登録)



[191] 
[[大館]]の[[延寿]]は大正6年に史書に収録されていました (>>112) が、
地元の史書などで語り継がれたものの、
[[元号研究]]の方面に捕捉されることなく[[令和時代]]まで埋もれていました。

[192] 
[[大政]]は[TIME[昭和27(1952)年][1952]]に再発見され (>>139)、
その後数十年かけて少しずつ研究が進んでいます。
[[大政]]の資料は[[東武皇帝]]の[[即位]]と[[東北政権]]の構想に絡むため、
純粋な歴史研究に政治思想的な方面も加わって少量ながらコンスタントに言及され続けてきたようです。

[193] 
タイミング的には[CITE[日本私年号の研究]]の出版時点で[[大政]]は発見されていましたが、
たまたま[[久保常晴]]の知るところになかったようで (>>144)、
[CITE[日本私年号の研究]]には[[延寿]]だけが収録されました。
その影響もあるのか、
[[延寿]]だけに言及するもの、[[大政]]だけに言及するものが、
現在に至るまで多いです。
どちらも[[奥羽越列藩同盟]]と関係あるといわれていますが、
1つの政権に2つの[[元号]]があるのは異常で、その関係が研究されなければなりませんが、
両者同時に言及したものはさほど多くありません。

[379] 
[[昭和時代]]後期の[[高木繁吉]]の論文は両方に言及した早い例ですが、
論文のテーマ的にあまり深く踏み込んで検討していないので、
よくわからないことになっています (>>377)。


[398] 
[TIME[昭和52(1977)年][1977]]の論文によると、それから遠くない昔に[[延寿]]の用例が[[石川県]]下で見つかったようです。
[SEE[ [[日本の私年号]] ]]
詳細不明です。


[195] 
[[昭和時代]]末期の[CITE[板碑とその時代]]の一覧表は、
[[中世私年号]]のリストですが、
「[L[参考]]」
として

- [196] [[延寿]] : 慶応4年 「[L[官軍江戸入城直後の風聞]]」
- [197] [[大政]] : 明治元年 「[L[奥羽列藩同盟の年号という]]」

を挙げています。 [SRC[>>194]]
[SEE[ [[日本私年号一覧表]] ]]

;; [198] 同じ[TIME[西暦1868年][1868]]を慶応4年、明治元年と書き分けていますが、
[[明治改元]]を基準にするならどちらも慶応4年とするべきで、
何らかの誤解による誤りと思われます。

[199] 
[CITE[板碑とその時代]]など[[千々和到]]の仕事以来、
多くの一覧表で[[延寿]]と[[大政]]の両方が掲載されるようになりました。
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]が[[延寿]]と[[大政]]を掲載する
[SRC[>>44]]
のもその系統と思われます。

[204] 
[[平成時代]]後半の
[CITE[近代諸元号現象]]
は[[大政]]を[[奥羽越列藩同盟]]の[[元号]]として紹介した上で、
[CITE[日本私年号の研究]]
から引いて[[延寿]]を[[奥羽越列藩同盟]]の[[改元]]の噂として紹介しています。
[SRC[>>187 #page=674, >>188 #page=4]]



[202] 
しかし[[平成時代]]後期の
[CITE[日本年号史大事典]]
のように
[CITE[日本私年号の研究]]
を引いて[[延寿]]だけを紹介するものも残っています [SRC[>>200, >>189]]。


;; [269] 
[[平成時代]]の[CITE[ウィキペディア]]の記事のようにいっときは[[大政]]説と[[延寿]]説を比較していた
[SRC[>>266]]
のに、たまたま[[延寿]]説の出典が[[自費出版]]だったという意味不明な理由で削除された事案
[SRC[>>265]]
もあります。
削除前に参照されていた書籍は >>270。
(一方で >>254 は入手方法不明の史料の参照がずっと残っている事例。)

[264] 
[[平成時代]]後期から[[令和時代]]にかけて、

- 入間 慶応3年の延寿 >>219
- 広島藩 慶応4年3月の延寿 >>253
- 下総 慶応4年閏4月・5月の延寿 >>6 
- 相模 大化改元説 >>12

と従来説の大幅な見直しを迫る新資料が続々と再発見されました。
今後も新発見が期待されます。


[REFS[

- [194] [CITE[[[板碑とその時代]]]]
- [17] [CITE[[[近代諸元号現象]]]]
-- [18] 
[CITE[[[修訂 絹と立方体]]]]
--- [187] [CSECTION[附章2 近代諸元号現象・改 近代漢熟語新作の一側面]]
-- [188] [CITE[[[三訂 近代諸元号現象]]]]
- [188] [CITE[[[日本年号史大事典]]]] 普及版
-- [200] 
[CSECTION[おもな私年号]], p.227
-- [189] 
[CSECTION[[V[[WEAK(smaller)[コラム[YOKO[39]]]]  幕末の「延寿」、明治の「征露」]]]],
[[K]],
p.610

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[44] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,延寿 	,- 	,慶応4年(1868年) 	,1 	,『中外新聞』慶応4年5月17日付など。奥羽列藩同盟が使用。
,大政 	,- 	,慶応4年(1868年)6月-9月 ,	1 	,『蜂須賀家文書』、『菊池容斎所蔵文書』。奥羽列藩同盟が使用。 
]FIG]



[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[266] [CITE@ja[[[北白川宮能久親王]] - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-10 22:01:08 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B>
]FIGCAPTION]

> 佐々木克によると、奥羽列藩同盟の盟主となった輪王寺宮を天皇に推戴し年号を「大政元年」とする構想があったにすぎないとする。これに対し、中山吉弘は輪王寺宮は即位して東武天皇と通称されて、年号は「延寿元年」だったという。
> 「延寿」の年号はすでにこの年の四月頃から奥羽を中心に流布していたことが当時の新聞で確認できる。「大政」は蜂須賀家資料と郷右近馨氏資料には即位は六月十五日(8月3日)とある部分でこの時すでに「大政」と改元されているかのように読めるが、菊池容斎資料では六月十六日に「大政」と改元したとある。

]FIG]

- [265] [CITE@ja[「[[北白川宮能久親王]]」の版間の差分 - Wikipedia]], [TIME[2023-12-08T23:12:49.000Z]], [TIME[2023-12-17T06:39:57.555Z]] <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B&diff=prev&oldid=70370067>
-- [267] 
[CSECTION[2018年10月22日 (月) 13:55時点における版]],
126.24.151.110
--- [268] 
「奥羽越列藩同盟2018年10月22日 (月) 12:50‎ 版より一部修正して転記。中山吉弘氏の本は自費出版だったため削除」
- [270] 
[CITE@ja-jp[明治維新と名参謀前山清一郎 | 中山 吉弘 |本 | 通販 | [[Amazon]]]], [TIME[2023-12-17T06:52:48.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4434013491/wakaba1-22/>





]REFS]



[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[50] [CITE@ja[ノート:東武天皇 - [[Uyopedia]]]], 
[TIME[2014-01-29T08:22:37.000Z]], [TIME[2023-04-12T09:23:19.588Z]] <http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%9D%B1%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87>
]FIGCAPTION]

>[SNIP[]]六月十五日には会津において奥羽越三十三藩に推戴され即位して「東武皇帝(また は東武天皇)」と称され、諱(いみな)も能久を改め陸運(むつとき)とした。この即位は明治天皇の 即位より2ヵ月早いものである。(明治天皇の即位は慶応四年八月二十七日即位(翌月八日「明治」改 元)。当時は践祚と即位は別であった。明治天皇は慶応三年正月九日践祚。陸運天皇は不明だが状況証 拠から慶応四年四月十一日の践祚と推測される。東武皇帝については即位と改元を十五日とする資料が 2種、十六日とする史料が1種存在するので、単純に十六日説は誤りとみるべきだが、あるいは即位が十 五日で改元が翌日だったのかも知れぬ。)この東武皇帝即位の慶応四年六月十五日とは、現行グレゴリ オ暦1868年8月3日となる。[SNIP[]]

>3)「大政」紀元
>
その年すなわち慶応四年四月の新聞で、奥羽で「延寿」の私年号が流布していることが報道された。中 山吉弘の説によればこの「延寿」年号も東武皇帝の年号だという。おそらく彰義隊の上野戦争やその時 に擁立された輪王寺宮の践祚に関係するのであろう。年号といえば、鎌倉幕府が独自の年号を建てなか ったのは、井沢元彦が「朝廷は会社の経営陣、幕府は労働組合」とたとえているようにもともと独立す るつもりがなかったからで、「鎌倉幕府東国独立王国論」はかなり苦しいように思われる。一説による と網野善彦が「新皇と称した平将門も独自に年号を建てた」といっていたらしいが私は網野の著書をす べて読破したわけではないのでなんともコメントできない。(東武皇帝の政権は通俗的に「北日本政府 」または「東北朝廷」といわれる。これは正式名称ではないが以下通称として使用。)東北朝廷はすで に述べた通り勿論年号を立てている。明治改元より3ヵ月も早く改元して「大政」元年とした。ただ東 北朝廷の場合は即位改元でもあるので、彼らの頭の中では改元が当然のことだったろう。南朝年号と北 朝年号のようなものと思えばいい。ちなみに今年平成十七年(西暦2005年)は「延寿138年=大政138年 =明治138年」となる。 

>(本稿は別名で平成10年(1998)にニフティサーブの「関曠野読書会パティオ」(パティオとはPC通信 時代のニフティ内部の会員制会議室のこと)に投稿したものと平成11年(1999)に鐵扇會の歴史認識板 (旧「時流」、現・鐵乃歩武)に投稿したものとを合成、リライトしたものである。前者は、平成11年 には憂国掲示板(http://www.ptweb.co.jp/〜outlaw/minibbs.cgi)に、平成12年には日本論・思想の十 字架(アドレスは前回紹介済み)の議論掲示板(現在なし)にと、毎年どこかの掲示板に転載した。当 時は東武皇帝の存在はほとんど知られていなかったからである。今でも知名度が高いとはいえないが、 それでも7年の歳月は情況をいくらか変えたらしく今ネットで検索すればかなりの件数がヒットする。慶 応四年六月十五日をグレゴリオ暦8月4日とするサイトが散見されるが、この誤りは平成10年〜13年の間 の私の各所での投稿が出所である。この日付の換算ミスを発見したのはつい数日前であった。伏してお 詫び申し上げたい。今回は8月3日に訂正したが、これで正しいはずである。) 

]FIG]

[287] [CITE@en[Prince Kitashirakawa Yoshihisa - Wikipedia]], [TIME[2023-12-17T23:50:41.000Z]], [TIME[2023-12-18T07:38:55.954Z]] <https://en.wikipedia.org/wiki/Prince_Kitashirakawa_Yoshihisa#Bakumatsu_period>

>[SNIP[]]Depending on the source, Prince Yoshihisa's planned era name ([I[nengō]]) is believed to have been either [I[Taisei]] (大政) or [I[Enju]] (延寿). 

;; [288] これの翻訳と思われるものが他の言語の版の[CITE[Wikipedia]]にもあります。

- [392] 
[CITE@ja[「[[私年号]]」の版間の差分 - Wikipedia]], [TIME[2024-07-24T01:25:17.000Z]], [TIME[2024-07-26T14:01:03.449Z]] <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7&diff=prev&oldid=21472516>
-- [393] 
[CSECTION[2008年8月27日 (水) 17:42時点における版]],
[[可怜]]



-*-*-

[46] [CITE@ja[中には公式より有名なものも?日本史の非公認「私年号」8選を紹介! | 歴史屋]], [TIME[2023-01-27T08:49:14.000Z]] <https://rekishiya.com/shinengou/>

>延寿とは、幕府の滅亡を認めない、あるいはその復活を願っているのか、そして大政とは「幕府だ官軍だと争っていないで、政治の大義を取り戻すべき」という思いが込められているのでしょう。
>
しかし、新政府が新たに「明治」と改元するや、一気に世が改まったことを全国民が実感したのか、抵抗の機運も立ち消えてしまいました。


[47] 
歴史の専門サイトを称しているのにどうしてこんな謎の歴史観を披露してしまうのかが謎。
[[戊辰戦争]]の顛末って義務教育の教科書レベルではないの?

[48] 
地域によっては[[戊辰戦争]]の因縁が未だに解消してないのに、よくこんな無神経なこと平気で書けますね。
それも素人のチラ裏ではなく歴史サイトで。

[49] 記事中の他の[[私年号]]の解説もこれと似たりよったりレベル。

[52] 歴史というのは知識の羅列ではない。歴史になにを学ぶのか。

[102] 
日本史真面目に学んだ人がこんなこと書くはずないし、
あえてやってるという可能性も。もし炎上したらPV増えてラッキーとか。
[[時事ネタ]]でそういう[[炎上商法]]やってるのが[[まとめサイト]]だから、
歴史ネタで対立煽りしようと思うのが出てきても不思議ではないわな。


[103] 
でも[[大政]]の解釈が[[大河ドラマ]]にでてきそうな[[反戦平和]]史観なのが草


@@
[402] 
[CITE@ja-JP[近代日本史の新研究 1]], [[手塚豊 編著]], [TIME[1981.10][1981]], [TIME[2026-01-20T01:30:11.000Z]], [TIME[2026-02-13T04:55:05.583Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12228573/1/151?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83> (要登録)


* 南朝大政天皇 (陰謀論説)

[289] 
[[東武皇帝]]をその[[元号]]から[[大政天皇]]と呼ぶのも[[東アジア]]歴史学的には有り得そうなものですが、
そういう呼び方はしないようです。

[290] 
[[ウェブ検索]]で出てくる[[大政天皇]]の用例のほとんどは、
自称[[南朝]]後裔系[[自称天皇]]の一種と関係しています。

[292] 
その界隈では、[[大政天皇]] = [[東武皇帝]]は[[仙台藩]]が奉じた南朝天皇で、
[TIME[西暦1868年6月15日][kyuureki:1868-06-15]]
[WEAK[(東北政権の閣僚名簿に出現する日付)]]
即位で、[[会津藩]]の奉じた[[輪王寺宮]] [WEAK[(史実の[[東武皇帝]])]]
とは別人、ということになっているようです。
[SRC[>>291, >>293]]

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[291] [CITE@ja-jp[もうひとりの天皇 南朝111代主が語る歴史の真実 | 小野寺 直 |本 | 通販 | [[Amazon]]]], [TIME[2023-12-18T07:57:29.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4880863246/wakaba1-22/>
]FIGCAPTION]

>[B[著者について]]
>小野寺 直
>南朝111代主。明治元年([ASIS[1866]])6月15日に即位した大政天皇(通称・東武皇帝。後醍醐天皇の正裔)の曾孫として昭和20年(1945)に生まれる。現在、宗教法人太平教団代表理事、一般財団法人大日本国国体府代表理事。本書は南朝正裔である著者が、特定宗教団体からの圧力、ネットを使った攻撃にも屈せず、「正統天皇家の歴史」「三種の神器の意味と真実」「立憲君主国家としての天皇の継承問題」を明らかにし、明治以降の捏造された「通説」を根本から覆すものである。 
>
[B[著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)]]
>小野寺/直
>南朝111代主。明治元年(1868)6月15日に即位した大政天皇(通称・東武皇帝。後醍醐天皇の正裔)の曾孫として昭和20年(1945)に生まれる。現在、宗教法人太平教団代表理事、一般財団法人大日本国国体府代表理事(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


]FIG]

- [293] [CITE[Taro-健康平和研究14年度毎月 - jomaca_kenkyu_141015toku.pdf]], [TIME[2014-10-14T23:55:07.000Z]], [TIME[2023-12-18T08:01:47.742Z]] <http://www.jomaca.join-us.jp/jomaca_kenkyu_141015toku.pdf#page=5>



]REFS]

* 関連

[5] 
この時代には他にも私年号が使われました。
[SEE[ [[幕末維新期の日時]] ]]

[164] 
[[明治改元]]については[[幕末維新期の日時]]参照。

[163] 
[[函館政権]]は[[明治]]を使いました。
[SEE[ [[北日本の日時]] ]]

[165] 
[[暦]]については[[北日本の日時]]参照。

[10] 
[[西国]]の「[[天政]]」との関係は一応気にした方がいいかもしれない。

[403] 
>>10 
令和8年2月報告の新出用例で、この検討の重要性が高まりました。

[13] 
[[延寿]]は他にもありました。
[SEE[ [[延寿 (高句麗)]] ]]

[11] 
この[[私年号]]とは別に[[太政]]もありました。

[53] [[自由自治]]

* メモ

[277] 
[[延寿]]の痕跡の近くにはわりとよく[[延寿院]]という寺院があったりするんですが、
「延寿」って今も昔も[[固有名詞]]に頻出なので、あまり関係ないかもしれません。

[285] 
[[戊辰戦争]]当時の[[仙台藩]]主[[伊達慶邦]]の母親が[[延寿院]] [SRC[>>284]]
と呼ばれていた。

[286] 
これは[[延寿]]が[[奥羽越列藩同盟]]の[[元号]]ではない決定的証拠なのでは?
[[奥羽越列藩同盟]]内のパワーバランス問題があるときにこんな[[元号名]]を使うはずがない。

[410] 
[[八月十八日の政変]]で追放された公卿のうち5人が居住していたのが[[延寿王院]]。


- [284] 
[TIME[2023-12-18T07:32:26.400Z]]
<https://tohoku-gakuin.repo.nii.ac.jp/record/24265/files/20201023_kikuchikeiko%20.pdf>
#page=5


[185] [CITE[南華大學數位論文 - 101NHU05356015-001.pdf]], [TIME[2023-12-15T15:50:35.000Z]] <http://nhuir.nhu.edu.tw/retrieve/21073/101NHU05356015-001.pdf#page=48>

[186] >>185 この大政は大正の誤り。


[406] 王朝末期に改元されたとする[[逸年号]]伝説は大陸の方にもしばしばあるのが大変興味深いですね [TIME[2026-04-06T09:07:20.965Z]]