* 元号名

[185] 
[[新字体]]は[[宝寿]]、[[旧字体]]は[[寶壽]]。
伝統的楷書の系統は[[寳壽]]。


-*-*-

[114] 
[[保寿]]の[[読み][元号名の読み方]]は
「ほうじゅ」
とされます。 
[SRC[>>113]]

* 用例

** 千葉県下の「宝寿」用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [231] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[千葉県]][[市原市]][[能満]]]] [[能満城跡]] [[宝篋印塔]]]] [SRC[>>230]]
-- [249] >>247 : 白黒写真 (低解像度) 銘文を知っていればなんとか字形の一部がわかる
-- [248] >>247 : [[明朝体]][[翻刻]]
-- [238] >>230 : [[明朝体]][[翻刻]]
-- [246] [DATA(.label)[銘文]] [SRC[>>247, >>230]]
--- [232] 「宝寿」
--- [233] 「正□□」
--- [234] 「十一月□日」

]ITEMS]

[241] 
この小型[[宝篋印塔]]は、基礎のみが現存します。 [SRC[>>247, >>230]]

[235] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]時点の情報によると、
もとは[[能満城跡]]にありましたが、その後井原家で保管されるようになりました。
[SRC[>>247]]

[242] 
[TIME[平成7(1995)年][1995]]の論文では、
能満城跡で出土した宝寿二年銘の[[宝篋印塔]]基礎部で、
読み取るのがかなり困難と説明されています。
[SRC[>>240]]
実見して書かれたものかは不明です。

;; [243] 「出土」ということは、元は土中に埋もれていたのでしょうか。

[244] 
>>242 を信じるなら[[元号年]]もがんばれば読み取れるということでしょうか。


[236] 地元の研究者らは[[宝寿]]を[[元号名]]と解釈していますが、
銘文を見ると[[元号年]]も[[年の字]]や[[干支年]]もなく、
配置の都合か他の[[行]]にわかれて[[月日]]があります。もう1行ありますが、
1文字しか判読されておらず、[[元号年]]や[[干支年]]では無さそうです。
果たしてこれが[[年表示]]なのかどうかには、議論の余地がありそうです。

[250] そこで >>249 の白黒写真を見ると、翻刻された銘文だけで伝わらない配置を知られます。
銘文の面は、左右2つの区に分かれています。その左下部分は崩壊しており、
一部は完全に判読不能です。

[251] 2区のうち、右の区の右上に、「宝寿」に当たると思われる凹凸の存在を確認できます。
実物を見ればおよその字形は読み取れそうです。
左の区の右上には「正」と思われる凹凸が、
左上には「十一月」と思われる凹凸が確認できますが、
各行の下部は不明瞭または破損しています。

[252] 
この配置をみると、右区には左側にあと1,2行は入れる余地がありそうですが、
文字が書かれていそうな凹凸は読み取れません。また、「宝寿」の下に文字が続くのかどうかも、
明確ではありません。直接観測した人達が銘文に何も書いていないので、
写真で判読できないだけでなく、実物にも文字はありそうに見えないのかもしれません。
が、非常に不自然な空白域が存在することになります。

[253] また、右区右行が[[年]]だとすると、
それに続く[[月日]]が左区左行にあるのも不自然に感じます。
いわゆる[[書字方向「小」]]は左右対称だから成り立つのであり、
この[[宝篋印塔]]のような配置ではあまり見られないのではないでしょうか。



** 信濃国の「宝寿」用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [145] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本]][[信濃國]][[佐久郡]][[上畑村]]]]の古い塚出土鍍金寶塔]]
-- [256] [[昭和時代]]: [DATA(.addr)[[[日本国]][[長野県]][[南佐久郡]][[八千穂村]]畑字上畑]] [SRC[>>254]]
-- [258] >>257 : 模写
-- [205] >>204 : 「[V[き]]」
-- [146] 「[V[奉納大乘妙典六十六部]]」 [SRC[>>148, >>254]]
-- [266] 「[V[雲州之住侶]]」 [SRC[>>148, >>254]]
-- [267] 「[V[周慶]]」 [SRC[>>148, >>254]]
-- [268] 「[DATA(.text)[[V[寶寿二年今月今日]]]]」 [SRC[>>254, >>148]]

]ITEMS]

[149] 
[TIME[天明2(1782)年壬寅3月11日][kyuureki:1782-03-11]]、
当地の地主が
>>145 
を掘り出しました。
[SRC[>>257]]

[151] 
同時に[[經筒]]も掘り出されましたが、
そちらには
「[V[信州住人順慶[BR[]]天文廿年[BR[]]今月今日]]」
とありました。
[SRC[>>254]]
(>>204 : 「[V[あ]]」)

[276] 
同じ場所に埋まっていたため、同時ないし同時期に埋められた可能性があると考えられていますが、
確固たる証拠はありません。
どの程度の近さにあったのかも、当時の報告 [SRC[>>257]] からは定かではありません。

[275] 
実物の現在の所在は不明です。
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]頃に[[長野県]]の文化財行政の関係者らに照会しても、
手がかりは得られたかったといいます。 [SRC[>>254]]




** 刀剣等銘文の「宝寿」用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [189] [DATA(.label)[[[關兼貞]]裏銘]] 「寶壽元年」 [SRC[>>255, >>187]]
- [190] [DATA(.label)[[[關兼房]]裏銘]] 「寶壽三年」 [SRC[>>187]]
- [191] [DATA(.label)[[[相州正真]]裏銘]] 「寶壽十二年」 [SRC[>>187]]

]ITEMS]

*** 明珍の「宝寿」用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [158] [DATA(.label)[[CITE[偽年号考]][CSECTION[附言]]所引[CITE[明珍家譜]]]]
-- [159] 「[DATA(.text)[寶壽二年甲午正月]]明珍信家」
- [215] [DATA(.label)[[CITE[鏨工譜畧]] [CSECTION[[V[信家]]]]条所引銘文]]
-- [216]  
「[V[[DATA(.text)[寳壽二年[LINES(smaller)[甲][午]]正月 日]] 明珍信家[ASIS[〓][花押 swc748]]]]」
[SRC[>>212]]
- [178] [DATA(.label)[[CITE[[[古今金工便覧]] 下]] [CSECTION[[V[信家]]]]条所引銘文]]
-- [179] 
「[V[[DATA(.text)[寳壽二年[LINES(smaller)[甲][午]]正月日]] 明珍信家[ASIS[〓][花押 swc748]]]]」
[SRC[>>176]]
- [214] [V(.label)[明珍信長ノ銘]]
-- [193] 
「[V[[DATA(.text)[寶壽二年[LINES(smaller)[甲][午]]正月日]] 信長花押]]」
[SRC[>>187]]
--- [192] 出典記載なく、「[V[明珍信長ノ銘]]」と説明されており、 >>179 の引用時の誤植か

]ITEMS]

[163] 
[[明珍信家]]
[WEAK[([TIME[文明18(1486)年][1486]]? - [TIME[永禄7(1564)年][1564]]?)]]
は、[[戦国時代]]の[[甲冑師]]です。
[[日本]][[越後国]]府中 [WEAK[(現在の[[日本国]][[新潟県]][[上越市]])]]
に居住していたとされます。
[[長尾憲景]]に寵愛されたとも、
[[武田晴'''信''']]の[[名前]]1字を賜った [SRC[>>176, >>162]] 
[WEAK[(ただし >>212 は反証を提示。)]]
ともされます。
[SRC[>>162]]


[160] 
[CITE[明珍家譜]]
に
>>159
と書かれていたとされます。 [SRC[>>157]]

[161] 
これは[TIME[天保10(1839)年][1839]]に[[山崎美成]]が引用したことで知られます。 [SRC[>>157]]
その[CITE[明珍家譜]]がどこの所蔵で、現在どこにあるのかは不明です。

[217] 
[TIME[天保15(1844)年][1844]]に編纂された[CITE[鏨工譜畧]]
に 
>>215
が掲載されています。[[明珍信家]]の人物紹介と共にいくつか銘文例が提示されているうちの1つです。
[SRC[>>212]]


[180] 
[TIME[弘化4(1847)年][1847]]に伊賀上野の[[西沢長兵衛]]が出版し[[著者]]は不明という
[CITE[古今金工便覧]]
に 
>>179
が掲載されています。[[明珍信家]]の人物紹介と共に2つ銘文例が提示されているうちの1つです。
[SRC[>>176]]

[181] 
>>215 >>179 
は[[花押]]があることから、ある程度実際の銘文の雰囲気を模したものと思われますが、
どれだけ忠実に再現されているのかは不明です。

[182] 
>>160 >>215 >>179 の関係は不明です。
いずれも直接の出典が実物なのか先行する別文献なのかは不明ですが、
何らかの情報源があっての記述と思われます。


[REFS[

- [177] 
[CITE@en[File:NAJDA-154-0107 古今金工便覧2.pdf - Wikimedia Commons]], [TIME[2026-04-12T07:50:30.000Z]], [TIME[2026-04-26T07:53:40.132Z]] <https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NAJDA-154-0107_%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E9%87%91%E5%B7%A5%E4%BE%BF%E8%A6%A72.pdf>
-- [176] 
[CITE@ja[NAJDA-154-0107_古今金工便覧2.pdf]], [TIME[2020-10-15T04:49:06.000Z]], [TIME[2026-04-26T07:52:09.840Z]] <https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/36/NAJDA-154-0107_%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E9%87%91%E5%B7%A5%E4%BE%BF%E8%A6%A72.pdf#page=32>
- [162] 
[CITE@ja[[[明珍信家]] - Wikipedia]], [TIME[2026-04-11T08:16:32.000Z]], [TIME[2026-04-26T06:10:50.353Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%8F%8D%E4%BF%A1%E5%AE%B6>

]REFS]

** 大和国の「保寿」用例

[34] 
用例が1点知られています。

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [35] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[奈良県]][[宇智郡]][[北宇智村]][[大字小和]]]] (現在の[[奈良県]][[五條市]][[小和町]]) [[小和鎮座御霊神社]] 御神体 木造御霊大明神坐像その一]]
--
[21] >>20 に写真と翻刻があります。
[[国立国会図書館デジタルコレクション]] (非公開)
の白黒複写だと銘文は文面を知っていても判読困難です。
--
[15] >>200 に写真と翻刻があります。
写真はかろうじて[[元号名]]などが知っていれば読み取れる程度で紀年の大部分が判読困難です。
実物ならはっきり読み取れそうな感じが見て取れます。
-- [37] [DATA(.label)[膝裏 (膝部底面) 墨書銘]]
「[V[[DATA(.text)[保寿元年[BR[]]九月三日]][BR[]]造立之]]」
[SRC[>>46, >>5, >>3 /32, >>3 /385]]
--- [48] 
「[V[[DATA(.text)[保寿元年九月三日]]建立之]]」
[SRC[>>4]]
--- [72]  
「[V[[DATA(.text)[保寿元年九月三日]]建立]]」
[SRC[>>7]]

]ITEMS]

[36] 
伝承によると、
[[小和鎮座御霊神社]]は[[御霊神社]]本宮
[WEAK[(現在の[[奈良県]][[五條市]][[霊安寺町]])]]
から[TIME[嘉禎4(1238)年][1238]]に分社しました。
分社の際、[[小和]]の[[氏子]]が御神体を背負って運搬し (他村と争っ) た逸話が残ります。
[SRC[>>4]]

[73] 
また、[[小和]]の[[御霊社]]の略縁起は[[久留野]]の吉田氏に近代の写本があり、
原本には[TIME[嘉暦3(1328)年][1328]]とあったとされますが、
それによれば、神像は[[霊安寺]]から移したものです。
[SRC[>>7]]
[[霊安寺]]は[[御霊神社]]本宮の[[神宮寺]]でしたが、[[神仏分離]]により廃寺となりました。

[41] 
[[鎌倉時代]]創建の[[神社]]は、[[昭和時代]]の所在地より下方の平地にありましたが、
水害を避けるため[TIME[明治元(1868)年][1868]]に移されました。 [SRC[>>4]]

[45] 
銘文の存在は、[TIME[昭和27(1952)年][1952]]の調査で知られるようになりました
(>>44)。


[REFS[

- [4] 
[CITE@ja-JP[北宇智村誌]], [[吉田寅蔵]], [TIME[1952]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T12:47:23.294Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3017356/1/62?keyword=%E4%BF%9D%E5%AF%BF> (要登録)

]REFS]

** 愛知県下の「保寿」用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [117] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[愛知県]][[瀬戸市]][[定光寺町]]]] (旧[[水野村]]) [[定光寺]]所蔵 [CITE[祠堂帳 卷二]]]]
-- [144] >>2 : [[明朝体]][[翻刻]]
-- [120] 
「[DATA(.text)[[V[保壽元年壬辰雪月十一日]]]]」
[SRC[>>2]]

]ITEMS]

[118] 
所蔵する[[定光寺]]は、その創建が建武3年とも暦応3年とも伝わります。 [SRC[>>2 /3]]

[119] 
[CITE[祠堂帳]]には、[[文明]]から[[天正]]の頃の日付が見えます。
後筆の端裏書には、寛政5年癸丑の修補と記載があります。
[SRC[>>2]]

[121] 
前後の主な[[年]]の記述を抜き出すと、次の通りです。

- [SNIP[]]
- [122] 文明16年甲辰                [TIME[西暦1484年][1484]]
- [SNIP[]]
- [133] 雪月7日
- [123] 享禄4年辛卯9月18日          [TIME[西暦1531年][1531]]
- [124] 享禄4年辛卯霜月日           [TIME[西暦1531年][1531]]
- [125] 享禄5年壬辰                 [TIME[西暦1532年][1532]]
- [126] 天文元年壬辰                [TIME[西暦1532年][1532]]
- [127] 保壽元年壬辰雪月11日        
- [128] 天文元年壬辰霜月日          [TIME[西暦1532年][1532]]
- [129] 霜月23日
- [130] 天文2年癸巳霜月24日         [TIME[西暦1533年][1533]]
- [131] 天文3年甲午                 [TIME[西暦1534年][1534]]
- [SNIP[]]
- [134] 永禄6年林鐘13日
- [135] 癸亥霜月
- [136] 永禄9年丙寅雪月日
- [137] 永禄11年戊辰霜月日
- [138] 永禄11年戊辰雪月8日
- [140] 永禄11年
- [139] 永禄12年己巳
- [141] 元亀2年辛未暮春日
- [SNIP[]]

[142] 各項目の順序は必ずしも時系列順と保証されていないとは考えられるものの、
おおよそ古いものから新しいもので並べられているようです。少なくても[[年]]単位では、
古い順とみて矛盾ありません。

[132] [[雪月]]を >>2 は[[11月]]と注釈しています。
現代の辞書では[[雪月]]は[[12月]]と説明されることがあります。

[REFS[

- [2] 
[CITE@ja-JP[愛知県史料叢刊 第7・8回 (瀬戸市内所在史料)]], [[愛知県史料叢刊刊行会]], [TIME[1969]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-26T03:09:53.164Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537287/1/39?keyword=%E4%BF%9D%E5%AF%BF> (要登録)

]REFS]

* 研究史


[155] 
[TIME[天明2(1782)年壬寅3月11日][kyuureki:1782-03-11]]、
[[日本]][[信濃国]]で >>145 と >>151 が出土しました。
[SRC[>>148]]
出土地の地主が掘り出した物です。
[SRC[>>257]]

[259] 
発見者は、[[宝寿]]の[[元号]]を不審に思って、[[吉澤好道]]に相談しました。 [SRC[>>257]]


[153] 
[[日本]][[信濃国]][[岩村田]] [WEAK[(現在の[[日本国]][[長野県]][[佐久市]][[岩村田]])]]
の研究者[[吉澤好道]]
[WEAK[(? - [TIME[享和3(1803)年][1803]]春, [[鶏山好謙]]こと[[吉沢好謙]]の子)]]
は、
>>145 >>151 の模写図を作成しました。
[SRC[>>257, >>148]]

[154] 
[[吉澤好道]]は、
>>145 >>151 
が同時に土中に埋められたものと考え、
[TIME[天文20(1551)年][1551]]を[[日本]][[出雲国]]では
「宝寿2年」
と別の[[僞年號]]を用いたのだろうか、と考えました。
[SRC[>>257, >>148]]

[260] 
[[吉澤好道]]は、
親交のあった[[日本]][[越後国]]の[[穂積保]]に模写図と見解を送付し、
[[穂積保]]の意見を求めました。
[SRC[>>257, >>148]]

[152] 
[[穂積保]]は[TIME[文化元(1804)年甲子][1803]]春序の[CITE[異年号考]]の
[CSECTION[[V[寶壽二年]]]]
の項でこの経緯を紹介しました。
[[穂積保]]は特に付け加えるべき所見を有しなかったようです。
[SRC[>>148]]


[171] 
[TIME[明治17(1884)年][1884]]の[[栗田寛]]による
[CITE[逸年號考]]
は、
[CSECTION[[V[寶壽二年]]]]
の項で、
[CITE[異年号考]]
の要約を掲載しています。
[SRC[>>170]]


[257] 
[[吉澤好道]]が[[穂積保]]に送付した模写図の実物は所在不明ですが、
>>254 の[L[第114図]]がその[[写本]]の白黒写真と考えられます。
低解像度ですが、雰囲気は把握できます。

[262] 
>>257 の図と添書の筆者は明記されていませんが、
[CITE[異年号考]]
とほぼ内容が一致することから、
[[吉澤好道]]である可能性が高いと考えられます。

[263] 
>>257 の第一の[[識語]]には、「浜白井」
が[[吉沢好[ASIS[通][翻刻による]]]]が自ら模写し送った、
と書いています。写真によれば原文は[[草書]]であり、[CH[白]]は[CH[甘]]と字形がよく似ているので、
[[甘井]]と号した[[穂積保]]の自署の誤読ではないかと思われます。
[[穂積保]]は[[浣華井]]とも称していたようであり、
[CH[浜]]と[CH[浣]]も字形が似そうですから、そのように書かれていた可能性もあります。

[264] 
>>257 の第二の[[識語]]には、
[TIME[文化7(1810)年[LINES(smaller)[庚][午]]4月3日][kyuureki:1810-04-03]]に[[松蘿館]]が[[越後甘井翁]]から借りて写した、
と書いています。
[[松蘿館]]は[[柳河藩]]士の[[西原一甫]]とされ、当時は[[江戸]]に居住していたと思われます。

[265] 
>>264 からも >>263 の推定が裏付けられます。
>>254 は「浜白井」と読んだために、
第一の識語から第二の識語の間に写本が浜白井から[[越後甘井翁]]の手に渡ったと推測しましたが、
「浜白井」 = 「越後甘井翁」
とすればもっと素直な解釈になります。

[273] 
第一の識語は、写本ではなく受け取った原本に加筆したものと推測するのが自然です。


[261] 
>>254 に写真が掲載された[[写本]]は、[[石田茂作]]所蔵とされます。
>>254 には「故」とありますが、[[石田茂作]]の生前に撮影されたのでしょうか。
死後の行方は不明です。

[271] 
>>254 は、[L[第114図]]は[[高橋健自]]の筆写にかかるもので、
>>204 で[[和田千吉]]の「[V[図によるとして本品が挙げられている]]」
と説明し、従って「[V[本図は[[和田千吉]]氏所蔵図の模写と考えられる]]」
としています。

[272] 
>>271 を読むと >>204 に[[和田千吉]]本の写本である[[高橋健自]]本が図示されていそうですが、
>>204 の[[国立国会図書館デジタルコレクション]]電子版にそれらしき図版はありません。
本文中で[[和田千吉]]が図を所蔵していると述べているに留まります。
それを >>254 が誤解したのでしょうか。それとも >>254 
の著者は[[石田茂作]]本が[[高橋健自]]による模写だという情報を得ていたのでしょうか。


[274] 
[[和田千吉]]本が[[松蘿館]]本なのか、更に転写されたものかは不明です。 [SRC[>>254]]



[REFS[

- [147] [CITE[異年号考]]
-- [148] [[[CITE[異年号考]]本文]]
- [169] [CITE[逸年号考]]
-- [170] [[[CITE[逸年号考]]本文]]

]REFS]

-*-*-

[164] 
[TIME[天保10(1839)年[LINES(smaller)[己][亥]]][1839]]、
[[山崎美成]]は
[CITE[僞年號考]][CSECTION[附言]]
に
[CSECTION[[V[寶壽]]]]
を収録しました。
[SRC[>>157]]

[166] 
この項目は[CITE[異年号考]]からの転載のようにも読める書き方をしていますが、
現在知られている[CITE[異年号考]]の記述とは出入りがあります。
[SRC[>>157]]
[CITE[異年号考]]に未知の異本があるので無ければ、
[[山崎美成]]が要約し按語を足したということになります。

[165] 
ここでは、
>>145 >>151
の出土のことを記述しています。これは[CITE[異年号考]]と共通です。 [SRC[>>157]]

[167] 
「按ずるに」、と
>>158
を紹介しています。これは[CITE[異年号考]]にありません。
>>158 により[TIME[天文3(1534)年[LINES(smaller)[甲][午]]][1534]]に比定でき、
>>151
の[TIME[天文20(1551)年][1551]]より[[天文]]であることは間違いないとしています。
[SRC[>>157]]

[REFS[

- [156] [CITE[偽年号考]][CSECTION[附言]]
-- [157] [[[CITE[偽年号考]]本文]]

]REFS]



-*-*-

[213] 
[TIME[天保15(1844)年][1844]]5月に[[栗原孫之丞]]が編纂した[CITE@ja-JP[鏨工譜畧]]
は、 >>215 を掲載しています。
[SRC[>>212]]

[218] 
そこでは、
[TIME[天文2(1533)年癸巳][1533]]を宝壽元年と関東では称したことが知られると注釈されています。
[SRC[>>212]]


[222] 
[TIME[安政3(1856)丙辰年][1856]]に[[尾關善兵衛永冨]]が編纂した
[CITE[掌中古刀銘鑑]]
の
[CSECTION[[[日本僞年号之事]]]]
は、
[CITE[僞年號考]]
を出典としつつも独自の解説を追加しています。
[CSECTION[[[寳壽]]]]
は独自と思われます。
[SRC[>>255]]

[223] 
それによると、
[[関兼貞]]が打った刀剣銘で寳壽元年のものがあり、
[[応永]]後の作品と考えられるようです。
それ以上の詳細の記述はありません。
[SRC[>>255]]

[224] 
[[日本国]][[石川県]]の歴史研究者[[森田平次]]
[WEAK[([TIME[文政6(1823)年][1823]] - [TIME[明治41(1908)年][1908]])]]
の遺稿である
[CITE[能登志徴]]
は、[[法徳]]と関係して[[僞年號]]の説明があり、
[[寶壽]]にも触れています。
[SRC[>>221]]

[225] 
[[宝寿]]の部分は[CITE[古刀銘鑑]]からの引用という形になっています。 [SRC[>>221]]
内容は >>223 と一致しています。

[228] 
[TIME[昭和37(1962)年][1962]]と[TIME[昭和41(1966)年][1966]]の[[すいけん]]こと[[福永酔剣]]の論文は、
[CITE[校正古刀銘鑑]]を引いて、
[[関兼貞]]の作刀に宝寿元年と切ったものがあると紹介しています。
[[私年号]]で、宝寿元年は天文2年と説明されています。
[SRC[>>226, >>227]]

[229] 
昭和41年の論文では、お芽出度い文字だから、
[[美濃]]地方が凶作のとき縁起直しに使用したものだろう、
としています。
[SRC[>>227]]
同稿では他の[[私年号]]にも縁起担ぎの意味付けをしています。


[REFS[

- [212] 
[CITE@ja-JP[鏨工譜畧]], [[栗原信充 輯]], [TIME[1917]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-26T09:32:05.727Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3440325/1/14?keyword=%E5%AE%9D%E5%AF%BF> (要登録)
- [255] 
[CSECTION[[[日本僞年号之事]]]]
- [221] 
[CITE@ja-JP[[[能登志徴]] : 森田平次遺稿 下編]], [[森田平次]], [TIME[1969]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-26T10:58:03.628Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536040/1/169?keyword=%E5%AE%9D%E5%AF%BF> (要登録)
- [226] 
[CITE@ja-JP[[[刀剣史料]] (46)]], [[南人社]], [TIME[1962-10]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-26T12:58:50.265Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/8099939/1/9?keyword=%E5%AE%9D%E5%AF%BF> (要登録)
- [227] 
[CITE@ja-JP[[[刀剣と歴史]] (431)]], [[日本刀剣保存会]], [TIME[1966-05]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-26T13:00:46.409Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7901125/1/22?keyword=%E5%AE%9D%E5%AF%BF> (要登録)


]REFS]



-*-*-

[168] 
[[伴信友]]の[CITE[逸号年表補考]]は、
[CSECTION[[V[寳壽二年]]]]
として
>>145
を掲載しています。
用例紹介だけで考察等はありません。
[SRC[>>172]]

[173] 
[[伴信友]]の[CITE[年号の論]]は、[[元号名]]のみ紹介しています。 [SRC[>>174]]

[203] 
[TIME[明治39(1906)年][1906]]の[[和田千吉]]の[[經筒]]についての論文は、
銘文を列挙する中で
>>151
と
「[[異年號]]」の >>145
を紹介しています。
[SRC[>>202]]

[206] 
[TIME[明治40(1907)年][1907]]の[[高橋健自]]の[[経筒]]についての論文は、
>>151
と
>>145
を紹介しています。
いずれも[[和田仙吉]]が図を所蔵しているとのことです。
[SRC[>>204]]

;; [207] [[和田仙吉]]は >>204 の出版者である[[考古学会]]の役員でもありました。 [SRC[>>204]]

[208] 
この論文では、
[[寶壽]]は[[異年號]]で、
天文21年 = 皇紀2212年に当たる、とされています。
[SRC[>>204 /11]] 
文脈より、宝寿2年は、ということと思われます。根拠は示されていません。

[211] 
それに先立つ[TIME[明治39(1906)年][1906]]の[[高橋健自]]の論文は、
他の[[経筒]]を主題にしつつ当[[經筒]]等も紹介していますが、
>>151
と
>>145
の銘文を掲載し、
[[寶壽]]は[[異年號]]で、
天文20年に当たる、とされています。
[SRC[>>210]]
文脈上不明瞭ですが、
>>208 と比べると宝寿元年は、ということと思われます。根拠は示されていません。

[220] 
大正時代の >>219 は、
[[經筒]]の一覧に
>>151
と
>>145
を掲載しています。
寶壽二年は[[異年號]]で、
[TIME[皇紀2212年][1552]]とされています。 [SRC[>>219]] 根拠は示されていません。

[REFS[

- [172] [CITE[[[逸号年表補考]]]]
- [174] [CITE[[[年号の論]]]]
- [202] 
[CITE@ja-JP[集古会誌 丙午(1)]], [[集古会]], [TIME[1906-01]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-26T08:56:03.803Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1588986/1/3?keyword=%E5%AE%9D%E5%AF%BF> (要登録)
- [210] 
[CITE@ja-JP[[[考古界]] 5(6)]], 
[[考古学会, 集成堂]], [TIME[1906-01]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-26T09:26:26.523Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/11185686/1/18?keyword=%E5%AE%9D%E5%AF%BF> (要登録)
- [204] 
[CITE@ja-JP[[[考古界]] 6(8)]], 
[[考古学会, 集成堂]], [TIME[1907-05]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-26T09:02:44.498Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/11185700/1/30?keyword=%E5%AF%B3%E5%AF%BF> (要登録)
- [219] 
[CITE@ja-JP[小県郡史 余編]], [[小県郡]], [TIME[大正12][1923]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-26T10:53:29.524Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3440461/1/312?keyword=%E5%AE%9D%E5%AF%BF> (要登録)



]REFS]


-*-*-

[188] 
[TIME[明治30(1897)年][1897]]、
[[關口老雲]]は[[僞年號]]についての[[論文]]で[[宝寿]]について検討しました。
[SRC[>>187]]

[194] 
ここでは、
>>189, >>190, >>191
を紹介し、[[干支年]]なく比定できないとし、一方で
>>193
から宝寿元年は天文2年であること明瞭だとしています。 
[SRC[>>187]]

[195] 
そして、宝寿12年は天文13年にあたり、
[[命祿]]元年が天文9年とすれば[[天文]]中に2つの[[僞年號]]があったこととなるものの、
もとから俗間に用いたものであれば、必ず1つに定まっていたとはいえないので、
俗に適宜用いたのだろうとしています。
[SRC[>>187]]

[REFS[

- [186] 
[CITE@ja-JP[[[骨董雑誌]] 2(4)]], [[骨董雑誌社]], [TIME[1897-07]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-26T08:28:30.293Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1506258/1/19?keyword=%E5%AE%9D%E5%AF%BF> (要登録)
-- [187] 
[CSECTION[[V[[[俗間僞年號考]]]]]],
[[[V[關口老雲]]]]

]REFS]


-*-*-


[183] 
[TIME[明治41(1908)年][1908]]に編纂された[CITE[古事類苑]]は、[[逸年号]]の[[寶壽]]について、
>>178
と
>>171
を掲載しています。 [SRC[>>175]]

[184] 
>>178 に対しては、甲午年は天文3年に当たると注釈しています。 [SRC[>>175]]
[[干支年]]と[CITE[古今金工便覧]]本文記載の[[明珍信家]]の経歴による推定と思われます。


[REFS[
- [175] 
[CITE@ja-JP[[[古事類苑]] 歳時部2]], [[神宮司庁古事類苑出版事務所]], [TIME['''['''明41''']'''][1908]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-26T07:38:40.690Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/897572/1/111?keyword=%E5%AE%9D%E5%AF%BF>

]REFS]




-*-*-

[42] 
[TIME[昭和27(1952)年][1952]]に編纂された[[地誌]]
[CITE@ja-JP[北宇智村誌]]
は、
>>35 を紹介し、[[保寿]]は[[異元号]]と考えられると注釈しています。
[SRC[>>4]]
それがいつであるかは述べていません。

[43] 
[TIME[1952-05-23]]、
[[奈良県]]文化財保存課主事の[[吉川政治]]を[[主任]]とし、
[[佐藤雅彦]]と2名により、
[CITE[北宇智村誌]]
編纂を契機とした[[北宇智村]]の第二回文化財調査が行われ、
>>35
が紹介されました。
[SRC[>>4]]

[44] 
銘文は「過般」の調査で発見されたとされており [SRC[>>4]]、 >>43 がそれと思われます。 

-*-*-

[49] 
[TIME[昭和28(1953)年][1953]]の報告では、
[[保寿]]という[[私年号]]の神像が祀られていることは「かなり早くから知られていた」
とされます。 [SRC[>>46]] 

[50] [[私年号]]が「かなり早く」から知られていたとすると、 >>44 と矛盾するようですが、
どうなのでしょうか。

[51] この記事によると、[[保寿]]を[TIME[天文元(1532)年][1532]]とし、
神像を[[室町時代]]の擬古作とする説が「かなり強かつた」そうです。
[SRC[>>46]]

[52] 
[TIME[1953-07-22]]、
[[奈良文化財研究所]]が調査し、
「きわめて明らかな[[藤原時代]]の特色」
があると報告しました。
[SRC[>>46]]

[53] 
また、銘文の書体は、「ほぼ藤原の末頃のものとも云われる」とされます。
[SRC[>>46]]

[54] 
銘文中の「仏師僧厳意」は他に所伝なく不明です。 [SRC[>>46]]

[55] 
銘文中の「願主伴久行」は、「きわめて近い名」の一族の者達が[TIME[寛治7(1093)年][1093]]に[[興善寺]]の釈迦如来像を造ったことが知られています。
[SRC[>>46]]


[REFS[

- [1] 
[CITE@ja-JP[大和文化研究 1(1)]], [[大和文化研究会]], 
[V[[TIME[昭和廿八年九月二十日][1953-10-20]]印刷]], 
[V[[TIME[昭和廿八年十月一日][1953-10-20]]発行]], 
[TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T13:36:21.215Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4418768/1/30?keyword=%E4%BF%9D%E5%AF%BF> (要登録)
-- [46] 
[CSECTION[[V[小和御霊神社の女神像]]]],
[[[V[岡本康子]]]]


]REFS]

-*-*-

[62] 
[TIME[昭和31(1956)年][1956]]の史料集で[[土井実]]は、
[[保寿]]像銘文に簡単な注釈を加えています。
[SRC[>>5]]

[47] 
それによると、

- [63] [CH[保]]がつくのは[[保安]], [[保延]], [[保元]]しかなく、[[保寿]]はない
- [64] 「[V[天文元年にあてるという考え方もあろうが]]」
- [65] 銘文の文字 : 天文より「[V[もつと古い]]」
- [66] 像の形式 : 「[V[藤原頃のものか]]」

... とのことです。 [SRC[>>5]]

[67] 
唐突に天文元年説が提示されています。銘文等の根拠からそう考えることも可能だが、
という仮定の話というよりは、天文元年説を唱える者もいるが、同意しない、
という趣旨と読むべきでしょうか。

[68] 
具体的な比定年は明言していませんが、
[ASIS[斎]]衡3年、
[[[ASIS[〓][⿸厂]]友治]]元年、
保寿元年、
嘉元3年の順に並べており、
[[藤原時代]]頃の想定とみられます。

[69] 
[TIME[昭和38(1963)年][1963]]の[[土井実]]の[[年表]]では、
保寿元年は天文2年と天文3年の間に配置されています。
[SRC[>>32]]
こちらには説明がなく、理由は不明です。



[REFS[

-
[5] 
[CITE@ja-JP[奈良県銘文集成]], [[土井実]], [TIME[1956]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T14:02:18.960Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2995180/1/362?keyword=%E4%BF%9D%E5%AF%BF> (要登録)
-
[32] 
[CITE@ja-JP[奈良県金石文年表]], [[土井実]], [TIME[1963]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T14:28:16.388Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3017363/1/176?keyword=%E4%BF%9D%E5%AF%BF> (要登録)

]REFS]

-*-*-


[75] 
[TIME[昭和33(1958)年][1958]]の自治体史は、
[[保寿]]を「[[私年号]]らし」いとしています。 [SRC[>>7]]

[76] 
また、造像は「中世の末と考える方がよいようである」としています。
[SRC[>>7]]

[77] 
編者の一人 [L[K]] は、次のように解説しています。 [SRC[>>3 /33]]

- [78] [[奈良]]で「まことに珍しく私年号をもったもの」と「かなり前々から一部」
でよく知られていた
- [79] 通説では、[[藤原時代]]の末頃のもの
-- [80] ちょっと見た所、いかにも藤原の神像らしく思われる
- [81] 彫刻の様式、手法を「すこし注意してみる」と
-- [82] 原像は古い
-- [83] この像の様式は「決して純粋なものではな」い
--- [84] 「所々にいわゆる転写による崩れ」
-- [85] 明らかに「模造的なもの」
-- [86] かなり後世に[[藤原時代]]の神像を模造したもの
--- [87] 「おそらく」[[室町時代]]半ば頃で「まず間違いないものと思われる」
- [88] [[保寿]]は、同じような[[私年号]]の[[宝寿]] ([TIME[天文2(1533)年][1533]])
とも考えられるが、よくわからない
- [89] 銘文の「仏師僧厳意」も「願主伴久行」もまったくわからない

[90] 
同書の別項では、

- [91] [[藤原時代]]の姿だが、
- [92] [[室町時代]]の中頃に古式を模造したもの
- [93] 保寿元年は[TIME[天文2(1533)年][1533]]の[[異年号]]である

... と断定しています。 [SRC[>>3 /91]]

;; [94] 断言しているだけでなく、[[異年号]]と言っているので、
[[私年号]]といっている [[K]] とは別の編集者が書いた可能性もあります。

[95] 更に別の項では、[[保寿]]を[[私年号]]と紹介しています。
[SRC[>>3 /361, /362]]
しかし、比定年は空欄としています。
[SRC[>>3 /369]]

[96] 
また別の項では、 [[中世]]の末尾に比定年なしで掲載しています。
その上で、次のように解説しています。
[SRC[>>3 /385]]

- [97] [[保寿]]は[[元号]]の表に見当たらない
-- [98] [CH[保]]は確か
-- [99] [CH[寿]]も一応明瞭
-- [100] [[藤原時代]]には[[保安]], [[保延]], [[保元]]があるが異なり、
時代を下げても無い
-- [101] [[私年号]]の1つとみなければならない
--- [102] [[宝寿]]があり、天文2年とされる
- [103] 彫刻様式
-- [104] 一見、藤原様式
-- [105] かなり強い刀の痕と摩耗の度合いなどから、とうてい藤原時代に上らない
-- [106] [[宝寿]] - [[保寿]]と「相通ずる」のを別にしても、
[[室町時代]]に比定するのが妥当ではないかと考えられる

[REFS[

- [7] 
[CITE@ja-JP[[[五条市史]] 上巻]], [[調査委員会]], [TIME[1958]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T14:33:15.152Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3020942/1/200?keyword=%E4%BF%9D%E5%AF%BF> (要登録)
- [3] 
[CITE@ja-JP[[[五条市史]] 下巻]], [[調査委員会]], [TIME[1958]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T14:42:43.255Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3020943/1/32?keyword=%E4%BF%9D%E5%AF%BF> (要登録)

]REFS]

-*-*-


[201] 
[[昭和時代]]の[[日本国]][[奈良県]]の歴史研究者[RUBYB[[[田村吉永]]][[TIME[1893]]-[TIME[1977]]]]は、
昭和32年と昭和47年の論文で、
[[日本国]][[奈良県]][[宇智郡]][[北宇智村]]大字小和 ([[昭和の大合併]]により[[五条市]]小和町)
御霊神社の女神像の墨書銘を紹介しています。
[SRC[>>20, >>200]]


[16] 墨書銘には

- [23] 「[V[保寿元年[BR[]]九月三日[BR[]]造立之]]」 [SRC[>>20]]
- [22] 「保壽元年九月三日造立之」[SRC[>>200]]

などとあります。 

[17] 
[CITE[国史辞典]]には「保寿元年継続一年後奈良天皇天文元年」とあります。
[SRC[>>20, >>200]]

[18] 
[CITE[古今便覧]]には

- [26] 「[V[宝寿二年[LINES(smaller)[甲][午]]正月吉日[BR[]]                 明珍信家]]」 [SRC[>>20]]
- [25] 「保寿二年[LINES(smaller)[甲][午]]正月吉日明珍信豪」 [SRC[>>200]]

とあります。

[24] 
[[明珍]]を天文弘治の頃とし、よって天文3年とする説があります。
[SRC[>>200]]

[27] 
[CITE[甲斐国志]]に[[明珍]]は[[天文]]・[[弘治]]の際に及ぶ人とあり、
[[明珍]]在世中の甲午年は天文3年なので、
宝寿元年は天文2年とされます。
[SRC[>>20 ([CITE[金石文に現はれたる異年号について]])]]


[28] 
[CITE[逸年号考]]によると[[信濃国]]佐久又郡上畑村宝塔に
「宝寿二年今月今日」
とあります。
[SRC[>>20]]

[29] 
[CITE[国史辞典]]の保寿元年 = 天文2年説は >>27 >>28 の宝寿との混同とも思われます。
何に依拠したか不明で、小和の女神像の墨書以外にもあるなら要検討です。
[SRC[>>20]]


[19] 
[[奈良国立文化財研究所]]の[[小林剛]]は[[藤原時代]]末の神像としています. [SRC[>>20, >>200]]

[30] 
[[田村吉永]]によると、
墨書そのものも決して天文まで下るものではありません。 [SRC[>>20]]

[31] 
[[田村吉永]]はいつに当たるかはわからないものの、
造像時期から[[藤原時代]]末と考えるより仕方がないとしています。
[SRC[>>20]]

[REFS[

- [20] [[私年号六題]]
- [199] [CITE[[[近畿文化]] (277)]],
[TIME[昭和47(1972)年12月][1972-12]]
-- [200] 
[CITE[[[[V[大和の私年号]]]]]],
[[[V[田村吉永]]]],
p.[L[3]]

]REFS]


-*-*-

[143] 
[TIME[昭和44(1969)年][1969]]に発行された史料集で、
>>117
が紹介されました [SRC[>>2]]。
「保寿」に何も注釈はなく、編者が[[私年号]]と認識していたかは不明です。

-*-*-


[269] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]の[[三宅敏之]]による[[経塚]]に関する研究書は、
>>257
を詳しく紹介しています。
[SRC[>>254]]

[270] 
>>257 が宝寿2年を天文20年に比定していることについて、
[CITE[日本私年号の研究]]を引いて天文3年の[[私年号]]であると訂正しています。
[SRC[>>254]]


[REFS[

- [254] 
[CITE@ja-JP[経塚論攷]], [[三宅敏之]], [TIME[1983.9][1983]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-10T12:02:40.387Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12239312/1/132?keyword=%E5%AE%9D%E5%AF%BF> (要登録)

]REFS]


-*-*-


[237] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]や[TIME[昭和61(1986)年][1986]]に[[日本国]][[千葉県]][[市原市]]が発行した書籍は、
>>231
を紹介しています (「宝寿」 (年無し) の銘文を掲載しています)。
[[宝寿]]は[[私年号]]であり、
[TIME[天文3(1534)年][1534]]に相当すると述べています。
[SRC[>>230]]
それ以上のことは説明されていません。

[245] 
[TIME[平成7(1995)年][1995]]のこの地方の石塔物を対象とした論文では、
>>231
について、
宝寿2年を[TIME[西暦1534年][1534]]としています。
[SRC[>>240]]
それ以上のことは説明されていません。


[REFS[

- [247] 
[CITE@ja-JP[市原の歴史と文化財]], [[市原市教育委員会]], [TIME[1983.3][1983]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-26T13:48:19.203Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9643018/1/29?keyword=%E5%AE%9D%E5%AF%BF> (要登録)
- [230] 
[CITE@ja-JP[[[市原市史]] 中巻]], [[市原市教育委員会]], [TIME[1986.3][1986]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-26T13:08:54.632Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9643783/1/104?keyword=%E5%AE%9D%E5%AF%BF> (要登録)
- [239] 
[CITE@ja[研究連絡誌 第43号の2]], 
[TIME[平成7(1995)年][1995]],
[TIME[2023-03-03T06:20:57.000Z]], [TIME[2026-04-26T13:35:36.979Z]] <https://www.echiba.org/wp-content/uploads/2022/12/kenrenshi_043_2.pdf#page=3>
-- [240] 
[CITE[[L[石塔のあり方から社会の一側面を探る[BR[]][WEAK(smaller)[―市原市を対象として―]]]]]],
[[[L[小高春雄]]]]


]REFS]

-*-*-

[108] 
[[保寿]]が[[私年号]]の代表例の1つとして紹介されることがあります。



- [111] [TIME[仁安2(1167)年][1167]]説 : >>12 >>113 (「頃」) >>10 (「?」)
- [112] [[平安時代]]末期説 : >>13
- [109] [TIME[天文元(1532)年][1532]]説 : >>6


[8] 
仁安説により(中世)私年号の最古のものとしばしば紹介されています


[116] 
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]の一覧表には[[保寿]]が初期から掲載されています。
当初は「仁安2年(1166年)?」だったものが、
[TIME[平成23(2011)年][2011]]に「仁安2年(1167年)?」
に訂正されています。
[SRC[>>115]]
[[元号年]]と[[西暦年]]の[[関係性][暦の換算]]は後者が正しいです。


[REFS[

-
[6] [CITE@ja-JP[法学紀要 = Journal of the Law Institute (6)]], [[日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所]], [TIME[1964-06]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-29T06:05:19.670Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/9> (要登録)
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[12] [CITE@ja[[[保寿]](ほうじゅ)とは? 意味や使い方 - コトバンク]], [[精選版 日本国語大辞典,普及版 字通,世界大百科事典内言及]], [TIME[2023-01-27T09:22:26.000Z]] <https://kotobank.jp/word/%E4%BF%9D%E5%AF%BF-1415591>
]FIGCAPTION]

>[世界大百科事典内の保寿の言及
>【異年号】より
>
>[SNIP[]],異年号が初めて現れるのは12世紀後半である。まず1167年(仁安2)に当たる保寿の年号は,平清盛の全盛時,平氏と藤原氏の対立を背景に,藤原氏の息災を願う者の使用するところ,
[SNIP[]]
]FIG]
-- [110] 「ほうじゅ」は他の語義の読み
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[13] [CITE@ja[私年号(しねんごう)とは? 意味や使い方 - コトバンク]], [[日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,精選版 日本国語大辞典,旺文社日本史事典 三訂版,デジタル大辞泉,世界大百科事典内言及]], [TIME[2023-01-27T09:26:16.000Z]] <https://kotobank.jp/word/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7-74617>
]FIGCAPTION]

>旺文社日本史事典 三訂版「私年号」の解説
>私年号
>しねんごう
>[SNIP[]]狭義の私年号としては,平安末期の保寿が最初とされる。[SNIP[]]
]FIG]
-- 
[FIG(quote)[ [113] [TIME[2026-04-26T02:55:58.00Z]]

>
[SNIP[]]平安末期の保寿(ほうじゅ)(1167年頃)が狭義の私年号の最初とされる。[SNIP[]]
>
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」[SNIP[]]

]FIG]
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[14] [CITE@ja[私年号(しねんごう)|日本史 -し-|ヒストリスト[Historist]−歴史と教科書の山川出版社の情報メディア−|Historist(ヒストリスト)]], [TIME[2023-01-27T09:27:59.000Z]] <http://www.historist.jp/word_j_shi/entry/034456/>
]FIGCAPTION]

>[SNIP[]]平安末期の保寿(ほうじゅ)(1167年頃)が狭義の私年号の最初とされる。[SNIP[]] (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
]FIG]
- [115] [[Wikipediaの私年号一覧表]]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,保寿 	,- 	,仁安2年(1167年)? 	,不明 	,奈良県五條市御霊神社神像銘
]FIG]

]REFS]


* 関連

[38] 時系列 :


- [59] [TIME[宝亀6(775)年][775]]、
[[日本]][[大和国]][[宇智郡]]に配流されていた[[井上内親王]]が薨去
- [60] [TIME[延暦19(800)年][800]]、
[[井上内親王]]を祭神とする[[御霊神社]]本宮が創建される
- [58] [TIME[寛治7(1093)年][1093]]、[[興善寺]]の釈迦如来像が造られる (>>55)
- [39] [TIME[文暦2(1235)年9月19日][kyuureki:1235-09-19]]、
[[嘉禎]]に[[改元]] ([[災異改元]])
- [61] [TIME[嘉禎4(1238)年][1238]]、
[[小和御霊神社]]が[[分社]]により創建
- [40] [TIME[嘉禎4(1238)年11月23日][kyuureki:1238-11-23]]、
[[暦仁]]に[[改元]]
- [74] [TIME[嘉暦3(1328)年][1328]]、
[[小和御霊神社]]の略縁起の原本の日付とされる年 (>>73)
- [56] [TIME[享禄5(1532)年[LINES(smaller)[壬][辰]]7月29日][kyuureki:1532-07-29]]、
[[天文]]に[[改元]] ([[災異改元]])
- [70] [TIME[天文2(1533)年[LINES(smaller)[癸][巳]]][1533]]
- [71] [TIME[天文3(1534)年[LINES(smaller)[甲][午]]][1534]]
- [198] [TIME[天文4(1535)年][1535]]: 天文2年説のとき「宝寿3年」
- [196] [TIME[天文9(1540)年][1540]]: [[命祿]]元年
- [197] [TIME[天文13(1544)年][1544]]: 天文2年説のとき「宝寿12年」
- [150] [TIME[天文20(1551)年 皇紀2211年][1551]]: >>151 の日付
- [209] [TIME[天文21(1552)年 皇紀2212年][1552]]: 一説の「宝寿2年」 (>>208)
- [57] [TIME[天文24(1555)年10月23日 皇紀2215年][kyuureki:1555-10-23]]、
[[弘治]]に[[改元]]


* メモ


[9] [CITE[日本私年号の研究]]

[11] [CITE[奈良県史 - Google ブックス]], 
[TIME[1987]],
[TIME[2022-12-29T06:18:32.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=alpMAQAAIAAJ&q=%22%E4%BF%9D%E5%AF%BF%22>

>57 ページ
>O 天文元年(一五三三)八月九日保寿元年 1870 瑞景寺五輪塔地輪奈良市法蓮町八月廿一 1872 五條市御靈神社神像銘 1871 松井寺一石五輪塔五條市須惠一丁目梵道性禅 願主件久行梵道春右為. 1869 春日大社石灯籠奈良市春日野町三輪神社登道北、花崗岩、 ...
>58 ページ
>五條市大野町 8 五、側面九·八造立之公師僧敬意天文元年寿殊致精誠 1875 造立如右敬白「保寿元年」は私年号とみる。保のつく古い年号は「保安」「保延」「保元」的名加、「保寿」士見当在 S。「宝寿」という私年号があって、「天文元年」に相当するので、 ...











-*-*-

[33] [CITE@ja-JP[奈良県大般若経調査報告書 1 /本文篇]], [[奈良県教育委員会事務局文化財保存課]], [TIME[1992.3.][1992-03]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-23T05:43:10.334Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12748404/1/32?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)

寿保




-*-*-




[107] 
銘文は[[中世]]らしさを感じますが、検討が必要です。

