[230] 
[[満洲]]には、[DFN[寛永]]の[[元号]]とそれにまつわる様々な伝承がありました。

* 用例

[231] 
[[外満洲]]のいくつかの地域に、[[寛永]]に関係するとされる遺物と伝説がありました。

** 寛永13年碑

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [9] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[ロシア帝国占領][ロシアの極東侵略]]下[[外満州]][[雙城子]]西城]] 東南 里許 (約1里) 德商火磨房 (ドイツ人経営製粉工場) 院內 (敷地内) 古碑]]
-- [12] [[ロシア]]名: [[沿海州]][[ウスリースク]]
-- [8] 「[DATA(.text)[寬永十三年]]湖北進馬三千匹」
[SRC[>>1]]
--- [13]  「[DATA(.text)[寬永十三年]]湖北進馬」
[SRC[>>1]]

]ITEMS]

[11] 
この地域は元来[[清国]]領でしたが、
[TIME[清咸豊10年/西暦1860年][1860]]の[[北京条約]]により、
[[清国]]から[[ロシア帝国]]に割譲させられていました。

[10] 
[TIME[清光緒11(1885)年 (明治18年)][1885]]、
[[清国]]政府の指示により[[曹廷杰]]は[[外満州]]地域の秘密調査を行いました。
この報告書が、
>>9 
についての現存最古の記録です。
[SRC[>>7]]

[14] 
[[曹廷杰]]の報告によると、当時既に 
>>9
は[[ロシア人]]による破壊を受け、一部は階段敷石と化していました。
また、磨滅が激しく、
銘文は >>8 であるとの伝承がありましたが、
それを踏まえても読めたのは >>13 だけでした。
[SRC[>>1]]

;; [15] 伝承というのが誰の情報なのか不明です。
[[ロシア]]領となっても居住し続けていた現地の[[漢人]]の知識でしょうか。
銘文は誰かが暗記していたのでしょうか、それともメモか何かが残っていたのでしょうか。
いつ誰が読んだのでしょう。
読めなくなった原因はロシア人の破壊ではなく自然の磨滅のような書き方ですが、
だとすると数十年かそれ以上の古い情報の可能性もあります。


[16] 
[[昭和時代]]初期の[[日本人]]研究者の情報によると、
>>9
残欠はその後[[ソビエト連邦]]占領下[[ハバロフスク]]に持ちされれたといいます。
[SRC[>>6, >>2]]

[17] 
[[昭和時代]]後期の[[日本人]]研究者の友人 (おそらく[[日本人]]) の研究者の情報によると、
[[ソビエト連邦]]占領下[[ハバロフスク]]で調査したところ、
[[ハバロフスク]]市の博物館に現存していましたが、
碑面に[[漆喰]]が塗られており、銘文は読めない状態だといいます。
[SRC[>>2]]
この友人が実見して読めなかったのか、読めないという情報を得たのかはよくわかりません。

[18] 
漆喰処理が博物館で行われたのか、其れ以前に既に行われていたのかは不明です。
博物館に所蔵されているとしたら、研究対象に不可逆的な加工を行うのは不審です。
あるいは博物館に存在するとしても、建材や庭園装飾として使われているのでしょうか。

[163] 
その他、[[沿海州]]から[[ハバロフスク]]に持ちされられたとされる石造物等を[[昭和時代]]頃の[[日本人]]が目撃した記録がいくつかあるようで、
中には製粉所敷地から持ち込まれたとされるものもあるようです。
[SRC[>>45 #page=64, #page=146]]

[244] 
[[西暦1950年代]]に[[ソビエト連邦]]の研究者は当地の石造物が[[ハバロフスク]]の博物館にあるとし、
[[公元1990年代]]に[[中華人民共和国]]の研究者はそれを引いて[[寛永墓碑]]は[[ハバロフスク]]の博物館に現存するものと同定しています。
[SRC[>>233]]

[243] 
しかしながら、どの報告がどの遺物を指すのか一読しただけでは判じ兼ねる難しい状況です。
同じ製粉所敷地近辺の遺物も複数のものがある(あった)ようです。


[21] 
[[曹廷杰]]の報告では、石碑 ([[寛永]] = [[日本の元号]]との認識) 
および周囲の遺構の様子から、これを[[日本人]]の[[墓]]と判断しています。
[SRC[>>1]]

[19] 
石碑、古墓とも、現地の現在の状態は情報がなく不明です。


** 寛永政権伝承

[46] 
[TIME[明治9(1876)年][1876]]、
[[日本人]]の[[瀬脇壽人]]は、
[[ロシア帝国]]占領下[[浦塩]]港に滞在していましたが、
[[源義経]]が大陸へ渡ったとする[[近世]]の学説に関係する現地情報を集めていました。
[SRC[>>45 #page=20]]
その過程で、現地住民から[[寛永国]]伝説の情報が得られました。

- [48] 
[TIME[1876-11-30]]、
調査を依頼していた[[斉藤七郎平衛]]が、
[[瀬脇壽人]]を訪問し、
[[蘇城]]の者で、
[[浦塩]]港に寄留していた[[清国]][[山東]][[登州]][[黄邑城]]人[[劉鵬程]]からの聞き取り結果を報告しました。
[SRC[>>45 #page=20]]
-- [50] 北50里余りの地を[[蘇城]]という
-- [51] [[蘇城]]とは[[源義経]]が渡来して築城して蘇生したことによる
-- [52] [[日本]]の名将が亡命してきた
-- [53] [[蘇城]]の側に墳墓がある
--- [54] 渡来当初の暫定住居の穴
--- [55] この穴に入れば祟りがあると、現地人は近づかない
--- [56] 15,6年前に[[支那人]]が7名やってきて、祟など無いと一泊しようとしたが、
夜半に7名とも穴の外に出された
-- [57] 名将の子孫と称する民家で三百年前の[[寛永通宝]]と題する銭を鋳造している
--- [58] 今も[[蘇城]]内近辺数十村で通用する
--
[NOTE[
[59] 
[[瀬脇壽人]]から本国への報告の形になっているので、
どこまでが[[劉鵬程]]の証言で、
どこからが[[斉藤七郎平衛]]や[[瀬脇壽人]]の情報なのか境目がよくわかりません。
]NOTE]
-
[60] 
[TIME[1876-12-03]]夜半、
[[斉藤七郎兵衛]]は、
[[清国]][[山東]][[登州]]人[[王鎮九]]を[[瀬脇壽人]]の元へ連れてきました。
-- [49] [[王鎮九]]は、[[蘇城]]に20年居住したといい、
その時の原住民に聞いたとして、
次のように説明しました。
[SRC[>>45 #page=21]]
--- [61] [[金烏諸]]と[[寛永]]という2人が[[日本国]]から渡来し、
当地に築城し[[蘇城]]と称したと、古来[[原住民]]の口碑に伝わる
---- [62] [[寛永]]が先に来たのか、[[金烏諸]]が先に来たのか、
また時代も、不明
--- [63] [[寛永]]は[[蘇城]]の王に即位し、子孫が280年余り在位したという
--- [64] [[寛永]]の墳墓は[[蘇城]]にあり、[[碑文]]もある
--- [65] [[金烏諸]]の娘の[[紅羅女]]は、[[東京城]]を作ったという
---- [66] [CITE[明史]]に[[紅羅]]という者があり、検討を要する
--- [67] この二人の[[棺槨]]が[[杜丹]]近辺にあり、
靈榧具に桴樞なりという
---- [68] >>45 注: 貴人の榧を埋葬するのではなく、樹上や地上に浮置する
--
[69] 
また、
[[王鎮九]]は、
[[蘇城]]居留中、しばしば[[寛永銭]]が現に通用するのを目撃しました。
これは[[日本]]より来た[[寛永]]が鋳造した銭と聞いていました。
[SRC[>>45 #page=21]]
--
[70] 
この場で通訳を務めた[[秋田]]の[[文吉]]その他の[[日本人]]も、
みな[[寛永銭]]を見たといいます。
[SRC[>>45 #page=21]]
--
[72] 
[[王鎮九]]は、
[[瀬脇壽人]]に対して、[[日本人]]の墳墓を探しているのは、旧領回復の意図があるのか、
[[寛永]]は[[日本人]]なのだから回復するべきではないか、と尋ねました。
[[瀬脇壽人]]は、既に[[ロシア]]領土であり[[日本]]にその意志なしと回答しました。
後に[[斉藤七郎兵衛]]が推測するに、
そもそも当地の[[満州人]]などは[[ロシア]]の支配に服しておらず、
英国船の来襲を期待しているような状況で、ゆえに[[日本]]の意志を尋ねたと考えられます。
[SRC[>>45 #page=22]]
--
[71] 
[[瀬脇壽人]]の観察では、これらの情報提供について、
[[王鎮九]]が虚偽を述べているようには思いませんでした。
[SRC[>>45 #page=21]]
-
[73] 
[[瀬脇壽人]]は、[[金烏諸]]と[[寛永]]についての書物があるなら入手したい、
と[[王鎮九]]に伝えました。
[TIME[1876-12-09]]、[[王鎮九]]は、[[寧古塔]]まで行かなければ見つからないから旅費が欲しい、
と言ってきましたが、お金を欲しがっているように見えたので、
[[瀬脇壽人]]は酒だけ飲ませて帰しました。
[NOTE[

[141] 
[[寧古塔]]は、現在の[[中華人民共和国]]占領下[[内満洲]][[黒龍江省]][[寧安市]]。

]NOTE]
-- [129] 
また、
[TIME[1876-12-25]]、[[文吉]]が[[蘇城]]に所用があるというので、
[[瀬脇壽人]]は[[文吉]]に金を出すから[[寛永]]の墳墓の本を購入してくるよう頼みましたが、
金額がわからないということで、結局金は払いませんでした。
[SRC[>>45 #page=22]]
--
[NOTE[
[74] 
その後も[[瀬脇壽人]]は目当ての書籍を入手できていないと思われます。
[[瀬脇壽人]]はそうしたものが存在する可能性をまだいくらか信じていたように思えますが、
[[王鎮九]]はそのようなものが存在する可能性を感じていたのか、
判断が難しいところです。
]NOTE]
-
[90] 
明治10年の3月から6月の間に書かれたと推定されている[[瀬脇壽人]]の文章は、
次のように書いています。
[SRC[>>34 #page=23, #page=24]]
-- [91] [[斉藤七郎平衛]]が[[満州人]]から、[[日本人]]の[[寛永]]の時代に[[蘇城]]で鋳造された銭一文を入手してきた
--- [92] 日本銭より少し小さいが、[[文字]]形状は日本の[[寛永銭]]と同じ
-- [93] [[斉藤七郎平衛]]が[[蘇城]]の人から聞いたところでは、
--- [94] [[寛永]]は[[日本人]]で、
--- [95] 渡来し、王となり、
--- [96] [[蘇城]]の付近五、六十里は領地であると告げ、
--- [97] その城址と石碑がある
--- [98] 当時鋳造した[[寛永銭]]は今もあって通用する
--- [99] [[寛永]]の事績を載せた書籍が4,5冊ある
--- [100] この話を聞いた[[瀬脇壽人]]: [[王鎮九]]の証言と一致する
-- [101] [[斉藤七郎平衛]]が[[満州人]]と筆談したところでは、
--- [102] [[満州人]] : [[日本]]と[[清]]はもと1国だったが、[[寛永]]年間に分かれた。
[[清]]に[[寛永銭]]がある。
--- [103] Q: [[寛永]]さんのことを書いた書籍はあるか?
---- [104] [[満州人]] : 見たことない。[[清]]と[[日本]]と[[朝鮮]]は同じ[[儒教]]の徒だが、
[[西洋人]]は違う。
-- [105] [[貿易商]]の妻の[[王]]さんから聞いた所では、
--- [106] [[蘇城]]の原住民の知り合いから話を聞いている
--- [107] [[浦塩]]港から100里余りで[[韃靼]]
--- [108] [[韃靼]]より以南すなわち[[浦塩]]港より[[蘇城]]以北は、
昔は[[日本]]の領土だった
---- [109] [[日本人]]が渡来して[[蘇城]]に一城を築き、
[[タービンホー]] ([[刀氷墟]]あるいは[[怒爾哈]]か)
の城将に勝ち、以来ずっと[[日本領]]だったが、長い年月の後に[[支那]]領となり、
最近[[ロシア]]領となった
--- [110] [[蘇城]]に日本将の古墳があったが、
[[ロシア]]領となったとき、
[[ロシア皇帝]]の指示で、
この地域の古祠・古寺の古墳記録、[[蘇城]]にあった日本将の墳墓など多くは、
[[ロシア]]の[[首都]]に運ばれたと、
世人の口碑に残る
--- [111] 日本将の墳墓の地を耕作すれば祟りがあると、今でも誰も近寄らない
--- [112] [[日本人]]が古跡古墳を探るとなれば、
[[蘇城]]より以北、[[浦塩]]港まで、
140、50里を探索すれば、
日本人の墳墓や古跡は、一郷一村毎に多く有るはずだ
-
[122] 
[TIME[1878-05-19]]に明治10年の出来事として[[瀬脇壽人]]が書いたものによると、
[SRC[>>34 #page=25]]
-- [123] [[朝鮮人]]の[[申先郁]]が言うには、
--- [124] 昔、[[日本]]の将が[[蘇城]]に渡って城を作り、
--- [125] 近隣を支配し、[[支那]]地まで入った
--- [126] この将の事跡を書いた書物がある
-- [127] [[瀬脇壽人]]は[[申先郁]]に、[[蘇城]]地方の人に連絡してこの書物を入手するよう頼んだ
-- [128] しかし[[瀬脇壽人]]は、[[朝鮮人]]の[[申先郁]]に[[蘇城]]の伝があるのか疑問に思った
- [130] 
[TIME[1878-05-25]]に得た[[日本人]]の[[忠蔵]]の情報によると、
[SRC[>>34 #page=25]]
-- [131] 
[TIME[1874-11-14]], [TIME[1874-11-15]]に[[蘇城]]で休憩した。
--- [132] [[満州人]]200戸ほど、[[ロシア人]]20戸ほど
--- [133] 原住民は、[[忠蔵]]らが[[日本人]]と聞いて話したところでは、
---- [134] 昔この土地は[[日本人]]が開いたところであり、
---- [135] ここから20町あまりの所に[[日本人]]の墓地があり、
---- [136] また、[[日本人]]の開いた道もあり、
---- [137] そこへ行ってみたら、
--- [138] と云われたが、みな疲れていたので行かなかった

;; [172] 
明治18年和訳[CITE[義経再興記]]におけるこの要約: >>45 #page=90

;; [173] 
明治26年日本人[[鵜沢正徳]]によるこの要約: >>45 #page=97



[219] 
なお、これらの情報収集の過程で[[寛永]]がどのように伝えられたのかは不明です。
収集者の[[日本人]]の相手方は[[漢人]]、
[[満洲人]]、
[[朝鮮人]]がいます。
当地の[[東洋人]]の共通語は[[漢語]]だったように思われます。
[[満州人]]とは筆談したと記録されていますが、
[[漢語]]の単語は理解できても会話は出来なかったのでしょうか。
[[寛永]]やその他の[[固有名詞]]はどのように読まれていたのでしょう。
原住民の原伝承も[[漢語]]だったのでしょうか、
それとも[[漢人]]が媒介した時点で[[漢語]]化されているのでしょうか。


[NOTE[

[139] 
要するに、[[日本人]]が聞いて回ったところ、多くの人が日本人旧支配者の伝承を知っていた、
概ね証言は一致するが、細部はそれぞれ違う、
正確にいつ誰が何をしたかはよくわからない、
書物がありそうだという話はあるが実物は見当たらない、
証言者はそれぞれの思惑があって、大嘘つきではなさそうだがどこまで本当かもわからない、
といったところでしょうか。

[140] 
[[日本人]]絡みの伝承が広く信じられているらしいこと、
[[寛永通宝]] (の模造?) が一部で通行していること、
の2点はどうやら事実とみて良さそうです。

]NOTE]



-*-*-

[24] 
[TIME[清光緒11(1885)年 (明治18年)][1885]]の報告書で[[曹廷杰]]は、

> 蘇城溝長七百餘里寬百數十里不等內有古城曰蘇城
相傳為寬永建都之所

などと書いております [SRC[>>1]]。

[25] 
すなわち、[[蘇城溝]]地域に[[蘇城]]と呼ばれる古城があって、
[[寛永]]が都城を建設したとの伝承があったそうです。

;; [30] 
誰から採集したのかは不明ですが、現地在住の[[漢人]]あるいは原住民でしょうか。

[31] 
[[曹廷杰]]は、
記録が無いことに注意しつつも、
>>9
の存在や[[済勒弥人]] (原住民) が[[日本]]に入貢した伝承を踏まえ、
信用できるものだろうと判断しています。
[SRC[>>1]]


-*-*-

[26] 
[[蘇城溝]]は、
[[外満州]]に所在し[[ロシア]]名
[[Сучанская долина]]
と呼ばれる[[盆地]]/[[谷]]地形を指すのではないかと思われます。

[27] 
この地域が[[ロシア]]領となってから、
[TIME[西暦1883年 (明治16年)][1883]]
に炭鉱が見つかり、
[[Сучан]] ([[スーチャン]], [[蘇城]])
という町が作られました。
その後、
町名は
[[Гамарник]] ([[ガマールニク]]) →
[[スーチャン]] →
[[Партиза́нск]] ([[パルチザンスク]])
と変遷しました。
[SRC[>>28]]

[29] 
[[Сучан]]
と[[清国人]]に[[蘇城]]と呼ばれた古城の関係はわかりませんが、
おおよそ同じような地域と思われます。


[47] 
[[瀬脇壽人]]は、

> 蘇城マデモ行程50里余、奥地ハ2、3百里モアル由ナレバ容易ニ行コト能ハズ。

と記しています。これは[[蘇城]]のことを知る者達からの伝聞情報らしく、
本人は[[浦塩]]港にいて[[蘇城]]を訪れていません。
[SRC[>>45 #page=20]]

[43] 
[TIME[昭和18(1943)年][1943]]の[[洞富雄]]の論文では、

>[SNIP[]]ウラジウェストックの東北約五十邦里、蘇城河畔の蘇城に在住する中国人や原住民のあいだに日本武将築城の伝説があり[SNIP[]]

と説明されています。[SRC[>>2]]

[253] 
>>195 によると[TIME[公元1973年][1973]]に[[中華人民共和国]]の研究者が[[中華人民共和国]]占領下[[内満洲]][[吉林省]][[琿春市]]で老人から[[寛永王]]の故事を聞き取りました。
[SRC[>>208 /12]]

[REFS[

- [28] 
[CITE@ja[パルチザンスク - Wikipedia]], [TIME[2026-06-18T05:14:09.000Z]], [TIME[2026-06-22T08:41:15.400Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AB%E3%83%81%E3%82%B6%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF>

]REFS]

-*-*-

[220] 
それらの伝承がその後どうなったのかはわかりません。
当地の[[漢人]]コミュニティーは、その後の歴史の荒波の中で実質的に消滅したと思われます。
原住民も[[ロシア]]と[[ソ連]]の過酷な統治に翻弄された中で、
果たしてこの伝承がどこかでひっそりと生き残っているのかどうか。


*** Куань-Юн (クアンユン) 王伝承

[159] 
[TIME[西暦1894年][1894]]に[[ロシア帝国]]の軍部隊が[[ロシア帝国]]占領下[[外満州]][[沿海州]]に派遣されました。
[TIME[西暦1895年][1895]]、
подполковник [[Альфтан]] ([[アルフタン中佐]])
が報告を
[CITE[Приамурским ведомостям]] ([[アムール地方新聞]])
別冊として刊行しました。
ここには[[オロチ族]]の伝承が収録されました。
[SRC[>>142]]

[143] 
20世紀初頭、
[[ロシア帝国]]の研究者
[[Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев]]
は、
[[ロシア帝国]]占領下[[外満州]]の調査を行い伝承を収集しました。
[SRC[>>142]]


[145] 
>>142 
は[TIME[西暦1912年 (大正元年)][1912]]
頃に書かれた論文が、
[TIME[西暦1947年 (昭和22年)][1947]]
に出版されたものを底本に、
[TIME[西暦2016年 (平成28年)][2016]]
に再出版 ([[Web]] 公開?) された版です。


[144] 
[[Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев]]
は、
[TIME[西暦1906年][1906]]およびその後、
この地域の異なる地の二人の[[満州人]]からそれぞれ、
[[Сучан]]
等を舞台とする、
[[Куань-Юн]],
[[Чин-я-тай-цзы]],
[[Хун-лэ-нюй]]
らの物語を聞きました。
[SRC[>>142]]

[160] 
[[Альфтан]]
らの[[オロチ族]]伝承の前半は、この物語と同系統と判断されます。
[SRC[>>142]]
この時点で同系統の伝承の合計3つの変種が収集されたことになります。

[182] 
[[Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев]]
は
[[Куань-Юн]]
王についての書物を探したものの、見つけられなかったようです。
[SRC[>>142]]

[146] 
[[Сучан]]
は[[蘇城]]と解されます。

[147] 
[[Куань-Юн]]
を
[[Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев]]
は自身が発掘した[[寛永通宝]]と関連すると考えました。
ところが、[[寛永通宝]]は[[日本]]の[[貨幣]]と判明し、
[[Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев]]
はこの解釈を断念したようです。
[SRC[>>142]]

[148] 
[[日本人]]が収集した[[寛永]]政権の伝承と、
[[ロシア人]]が収集した
[[Куань-Юн]]
政権の伝承は、舞台が近く、[[寛永]]等の[[人名]]に発音が似た者があるため、
その関係性が注目されます。ただし、
両物語はそうした類似点があるもののの、地理関係、人物相関、
物語の展開の大部分が違っています。

[252] 
>>195 で[[中華人民共和国]]の研究者が[CITE[遼東之珠]]から引用している伝承は、
[[Куань-Юн]]
と同系統と思われますが、[[寛永王]]の[[寛永国]]となっています。
[SRC[>>208 /12]] 


[181] 
[TIME[平成17(2005)年][2005]]の日本の研究者の論文では、

>
[LEFT[
[SNIP[]]アルセーニエフが収集した「寛永王伝説」は、蘇城の君主寛永王と寧古塔の金牙太子との間で行われた戦[BR[]]
いの物語であり、蘇城河の河口付近に並ぶ兄弟山(大仍山・小仍山)や龍王廟などに関わるエピソードが含まれ[BR[]]
る(アルセニエフ:金生 1943)。[SNIP[]]
]LEFT]

と紹介されています。 [SRC[>>180]]
[[Куань-Юн]]
が[[寛永王]]と訳されています。

[REFS[

- [142] 
[CITE@ru[Материалы по изучению древнейшей истории Уссурийского края | Словесница Искусств]], [TIME[2026-06-22T10:06:06.000Z]], [TIME[2026-06-23T08:31:10.632Z]] <https://www.slovoart.ru/node/2222>
- [180] 
[CITE@ja[2005報告.indd - houkoku.pdf]], [TIME[2009-02-09T05:39:28.000Z]], [TIME[2026-06-23T11:47:04.547Z]] <https://pub.sgu.ac.jp/~siberia/pdf/2005/houkoku.pdf#page=16>

]REFS]

** 寛永通宝

[157] 
[[寛永通宝]]は、[[日本]]の[[貨幣]]ですが、 ([[日本]]で鋳造されたか定かでないものを含め)
[[内満洲]] [SRC[>>45, >>185 #page=4]]、[[外満洲]] [SRC[>>149]]、
[[カムチャッカ]] [SRC[>>185 #page=30]] 
など[[北日本]]の周辺諸国で広範囲で検出されています。
交易などで流通拡散したものと推測されています。

[158] 
明治9年・10年頃に[[日本人]]が[[浦塩]]近辺で収集した情報によると、
[[外満州]]の[[蘇城]]近辺にはその時点で[[寛永通宝]]が依然流通しており、
[[日本人]]が入手した報告もありました。
現地人の間には、これを鋳造した[[外満州]]所在の[[日本人]]政権があったとの伝承も広まってました。
(>>46)

[149] 
[TIME[西暦1907年][1907]]、
[[Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев]]
は
[[Тахобе]] ([[タホベ]]) 川で[[寛永通宝]]を発掘しました。
[SRC[>>142]]

[150] 
[[Тахобе]] 川は、
[[ロシア連邦]]占領下[[外満州]][[沿海地方]][[テルネイ地区]]にあり、
[TIME[西暦1972][1972]]に改称されて
[[Соболевка]] ([[ソボレフカ]]) 川となりました。

[44] 
[TIME[昭和18(1943)年][1943]]の[[洞富雄]]の論文では、
>>43 を承けつつ、

> [SNIP[]]その城内や附近の村々で、明治十年前後ごろまでも、日本武将の鋳造と伝える寛永通宝(日本のものよりやや小形)が流通していたことも事実らしい。[SNIP[]]

と説明されています。
[SRC[>>2]]

[228] 
なお、[[清国]]統治下の[[漢土]]での流通については、[[寛永通宝]]を参照。


* 諸説

[289] 
この領域には各国各時代で非常に多くの言説があります。
言説史をまとめたタイプの論文もいくつかあるものの、
全体をカバーできているものはありません。

[290] 
各国各時代の論者がそれぞれアクセスできた範囲の材料しか使えないのはやむを得ないことですが、
遺物や論考が諸国にばらばらに残された当事案では、
諸説が何を知って何を知らずにどんな結論を導いたのかを注意深く読み解く必要があります。

-*-*-

[291] 
[[寛永通宝]]については、
[[日本]]説と当地政権説があります。

[292] 
[[日本]]の[[寛永通宝]]は、
[[日本]]周辺の相当に広い範囲で流通したことが知られています。
また、当地の[[寛永通宝]]は[[日本]]の[[寛永通宝]]と非常によく似ているとされます。
当地の独自貨幣とする説は成立が難しそうです。

[293] 
ただし、模造私鋳銭説は成立の余地があり、肯定にせよ否定にせよ、
十分な検討が必要です。

-*-*-

[294] 
[[寛永王]]伝承については、
史実説と非史実説があります。
史実説でもどの時代と見るか、
どんな勢力と見るか、にいくつかの説があります。
学説としてこれまでに検討されてきていない時代や勢力の可能性も提示し得るのではないかと思われます。

[295] 
[[寛永王]]/[[寛永国]]とされる伝承は、
非常にバリエーションが多く、
「寛永」
というキーワードを除くとまったく違うストーリーがあり、
それぞれに末裔伝承など枝葉もあります。
その全貌を調査し整理した研究はまだ行われていないように見えます。

[298] 
現在記録に残る[[寛永王]]/[[寛永国]]伝承は相互に矛盾すると考えられ、
全てが史実であることは有り得ないとみられます。仮にその一部に史実が含まれるとしても、
[[寛永王]]/[[寛永国]]という名称の一部または全部は後から付加されたものと思われます。

[296] 
あくまで全体の雰囲気からの想像ですが、
現地でもともと色々に語られていた様々な伝承に、
「寛永」
という音と文字の一方または両方が何かのタイミングで結びつき、
近代の各国の研究者が聞き回ったことで雪だるま式に膨張し、
現在記録に残されるような形にまで発展したのではないでしょうか。

[297] 
もしこの想像が正しいのなら、
「寛永」
という語形と結び付いていない同様の伝承群もどこかに記録・記憶されている可能性もあり、
それらも含めた全体像を探っていき、そこから逆算して解きほぐして原形を求める作業が必要となりそうです。

[299] 
原伝承には「寛永」と音や文字が同一または類似のものが含まれていたこともあるかもしれませんし、
まったく異なっていた可能性もあります。

[300] 
ただ、現段階では[[寛永国]]/[[寛永王]]が (たとえ史実だったとしても)
「寛永」なる独自の[[元号]]を使ったと考えるべき根拠はなく、
そのような史実は無かった可能性がかなり高いのではないかと思われます。

-*-*-

[301] 
寛永13年碑および墓については、
まず何より現況が不明なことが問題です。
正確な原所在位置とその現状、
遺物の種類・原配置とその目撃および移動の履歴、現所在地を確定される基礎的な作業が、
これまで十分に行われないまま現在に至っているようにみえます。

[302] 
次に、当該石碑の碑文の解読が必要です。
寛永13年云々、
「其台」、
神道碑、
「門」
など様々な解読が行われていますが、これらが同一の石造物なのかも定かではありませんし、
[[漆喰]]や[[コンクリート]]で固められて判読不能という説と、
神道碑などと読めたという説が時系列入り乱れて行われており、
石造物の同定と解読案の整理が急務です。

[303] 
更に、当該石造物(群)とその原所在地にあったという墳墓の関係も検討を要します。


[304] 
寛永13年云々の銘文は、実際に存在したとする説と、他の「寛永」に引きづられたとする説があります。
実物があれば科学的測定により再検証することもできるでしょうが、現状では困難です。

[305] 後者説は理屈の上では成り立ちますが、
どのように寛永13年云々の銘文伝承が生じたのかの説明を提示する必要があるでしょう。
何らかの類似文字を誤読したのか、
それとも文字でない凹凸が読めてしまったのか、
あるいは関係ない伝承が混線したのか。
寛永13年が[[寛永通宝]]の鋳造開始年であることと関連付ける論もありますが、
鋳造開始年の情報を知り得た者は限られていると思われ、
如何にして銘文と誤認され得たと考えるのか、説明が困難です。

[313] また、当初、寛永十三年云々の銘文が読めたのに、神道碑云々は読めなかった、
ということにも、両者同一石碑説を採るなら説明が必要となります。

[306] 前者説は[[寛永]]の正体を説明する必要があります。
[[日本の元号]]説と独自政権[[元号]]説があります。

[307] 
[[日本の元号]]説の場合、なぜそれが[[外満州]]に所在するのかを説明する必要があります。
これまでの多くの論は[[寛永王]]と関連付け、[[日本人]]の渡来と説明しています。
[[寛永王]]とは別個に[[日本人]]の渡来に帰着させる説明もあります。
いずれにしても[[外満洲]]と[[日本]]の交易を根本要因とする説明であり、
[[寛永通宝]]の存在はその傍証となり得ます (が、[[寛永通宝]]の流入は[[寛永]]年間に限らないことには要注意)。

[308] 
独自政権[[元号]]説は[[寛永国]]伝承や[[寛永通宝]]に結び付けるものが多いです。
貨幣名は[[元号名]]であることが多く ([SEE[ [[年号銭]] ]])、
通称[[寛永王]]の[[元号]]が[[寛永]]で貨幣が[[寛永通宝]]というのは理が通っています。
しかし、[[寛永通宝]]の独自貨幣説が成り立ちにくいとすれば、
これを根拠とは出来ません。

[309] 
独自政権諸説は[[満洲]]地域の政権を想定しています。
それは主に[[寛永国]]伝承の影響ではないかと思われますが、
理屈の上ではより広範囲ないし遠方の政権も想定可能です。
ただその場合、文献史料に記録が残っていないことの説明がより難しくなりそうです。

[310] 
もっとも、文献史料の不在をただちに否定の決定的材料とし辛いこともまた事実です。
[[渤海国の元号]]で[[逸年号]]が報告されていますし、
[[渤海国]]の末期の[[元号]]も[[中国史書]]には残っていません。

[311] 
他に史料 (文献、金石文) が報告されていないことなど総合的に考えて、現段階では独自[[元号]]の存在の可能性は高くなく、
[[日本の元号]]説または誤読説が優位と考えられるところでしょう。

[314] 
寛永十三年云々の銘文がどのような意味のものかも説明を要します。
どのような文字配置だったのか情報がありませんが、寛永十三年が全体の[[紀年]]のようには見えず、
文章の一部としての日付のように見えます。
これまでの諸説は湖の比定や[CITE[旧唐書]]との関連の指摘はあっても、
石碑がどのような趣旨で、そのうちどのような記述が残存部分なのか、
といった本格的な推測に至っていません。

-*-*-

[315] 
諸論の分析には、それぞれの時代と思想の背景を意識し、その影響の有無を点検する必要があります。具体的には、

- [316] [[ロシア帝国]]の[[満洲]]進出
- [317] [[清]]の[[満洲]]防衛
- [327] [[ロシア帝国]]と[[清]]の狭間で翻弄される[[外満州]]の現地住民の思惑
- [318] [[日本]]の[[満洲]]進出
- [331] [[冷戦]]終結
- [328] [[日本]]の学界の戦後左翼思想的傾向
- [319] [[東北工程]]
- [329] 金銭的利益や[[承認欲求]]
- [330] 所属国によって異なる史料や研究へのアクセス可能性

といったものが含まれますが、その他にもあるでしょう。

* 研究史

[75] 
[TIME[1877-02-26]]、
[[ロシア帝国]]占領下[[外満州]][[沿海州]][[浦塩]]在住[[日本人]]の[[瀬脇壽人]]
[WEAK[(- [TIME[明治11(1878)年][1878]])]]
は、
前年に現地人から収集した情報 (>>46) に基づき考察しました。
[SRC[>>45 #page=22, #page=24, #page=25]]

- [76] [[寛永]]という[[日本人]]が[[蘇城]]に住んで[[酋長]]となったという
- [77] [[源義経]]だろうと考えたが、
-- [80] [[寛永]]は[[日本の元号]]、
-- [79] [[源義経]]と時代が遠く、どうしたものかと考えていた
- [78] [[新井白石]]の[CITE[蝦夷誌]]によると、
-- [81] [[寛永]]年間、[[日本]][[越前国]][[新保]]の人が、
-- [82] [[韃靼]]地に漂着し、[[韃靼]]の[[奴兒干]]に滞在し、
[[燕京]]、[[朝鮮]]を経由して[[日本]]に帰った
- [83] [[蘇城]]の[[日本人]]の[[寛永]]なる者で、
当時の[[国王]]と尊崇されている、
この[[越前]]人だろう
-- [84] [[奴兒干]]は今の[[蘇城]]の辺りだろう
-- [85] [[朝鮮]]の[[地図]]を見ると、[[吹風川]]と[[黒龍江]]の間に[[奴兒干]]という[[地名]]がある
-- [86] >>45 著者注: [[奴兒干都司]]は、14世紀前半に[[元]]が[[アムール]]河口の[[ティル村]]に設置した軍政都司
- [113] 多数の証言が一致する
-- [114] [[蘇城]]の王となった日本人というのが[[源義経]]か他の誰かはわからないが、
-- [115] 虚言ではないだろう
-- [116] [[蘇城]]の[[日本]]の古記録を入手できればはっきりするはず
- [117] [[満州人]]が[[寛永]]年間に[[清]]と[[日本]]が分かれたと言っているので、
-- [118] [[寛永]]年間に[[日本人]]が[[浦塩]]港あたりにやってきて、
-- [119] 独立して酋長となり、
-- [120] [[年号]]を[[寛永]]とし、
-- [121] この地方を領有したことが明らかだ


[89] 
[RUBY[[[奴兒干]]][ヌルカン]]は、
[[黒竜江]]の下流域、[[ロシア連邦]]占領下[[ハバロフスク地方]][[ティル]] ([[Тыр]])
に当たると考えられます。[[元]]の時代には[[東征元帥府]]が、
[[明]]初には[[奴児干都司]]が設置され、この地を統治しようとしました。
[SRC[>>87, >>88]]
[[蘇城]]とはかなり離れています。


[174] 
[TIME[1877-01-06]]の[[日本]]の
[CITE[読売新聞]]
の記事は、

- [175] [[蘇城]]に[[源義経]]の墓がある
- [176] [[源義経]]の子孫という家が今もあり、古い軍書もある
-- [177] この家で[[寛永通宝]]を鋳造し、[[満洲]]あたりに出しているという
- [178] ある人の説: [[寛永]]と[[源義経]]とは時代が離れているが、
[[寛永]]の頃に誰かがこの国に渡来し、
[[寛永通宝]]を[[源義経]]後裔に与えたのだろう

としています。 [SRC[>>45 #page=108]]


[179] 
[[瀬脇壽人]]の明治10年初時点の情報に近く、
[[瀬脇壽人]]から[[日本]]本国に送られた情報に由来するのでしょうが、
少し違いもあります。記者が誇張したのか、他の噂と統合したのか、どうなのでしょう。



[REFS[

- [87] 
[CITE@ja[明東北疆域弁誤附奴児干永寧寺碑記 - Wikisource]], [TIME[2026-06-08T14:51:08.000Z]], [TIME[2026-06-22T14:54:14.051Z]] <https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%98%8E%E6%9D%B1%E5%8C%97%E7%96%86%E5%9F%9F%E5%BC%81%E8%AA%A4%E9%99%84%E5%A5%B4%E5%85%90%E5%B9%B2%E6%B0%B8%E5%AF%A7%E5%AF%BA%E7%A2%91%E8%A8%98>
- [88] 
[CITE@ja[新発見の「重建永寧寺碑」拓本をめぐって - 函館日ロ交流史研究会 | 函館日ロ交流史研究会]], [TIME[2012-04-25T09:42:09.000Z]], [TIME[2026-06-22T14:54:25.256Z]] <https://hakodate-russia.com/main/letter/23/23-01.html>

]REFS]


-*-*-

[22] 
[TIME[清光緒11(1885)年 (明治18年)][1885]]、
[[清国]]政府の[[曹廷杰]]は[[外満州]]の現地調査を行い (>>10)、
考察しました。

[23] 
[[曹廷杰]]は、
>>9
および墓について、
[[寛永]]は[[日本の元号]]であり、
[[日本]]がかつてこの地域を掌握していた (竊據) のではなかろうか、
と推測しました。
[SRC[>>1]]


;; [332] 
なぜ[[清国]]が既に失陥した[[外満洲]]にわざわざ秘密調査隊を送り込んだのか、
というのも考えてみる必要がありそうです。


[REFS[

- [7] [CITE[西伯利東偏紀要]] / [CITE[俄界情形]]
-- [1] 
[CITE@zh[[[西伯利東偏紀要]] - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2026-06-08T06:58:37.000Z]], [TIME[2026-06-22T06:58:52.721Z]] <https://zh.wikisource.org/zh/%E8%A5%BF%E4%BC%AF%E5%88%A9%E6%9D%B1%E5%81%8F%E7%B4%80%E8%A6%81>
-- [20] 
[CITE[俄界情形]] [SRC[>>4]]
- [254] 
[CITE@ja-JP[北大史学 (30)]], [[北大史学会]], [TIME[1990-08]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-24T07:20:30.386Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7928519/1/33?keyword=%E6%B9%96%E5%8C%97%E9%80%B2%E9%A6%AC> (要登録)
-- [255] [[曹廷杰]]の伝記の書評であり、 >>9 も未解決問題と紹介している

]REFS]

-*-*-

[161] 
明治21年、
[[日本人]]研究者の[[深堀順蔵]]は[[蘇城]]郡を調査しました。
[SRC[>>45 #page=58]]

[162] 
明治25年に[[日本]]で発行された
[CITE[西伯利地誌]]
は、
[[蘇城]]地域について解説しています。
[[蘇城]]の遺跡は[[金]]の時代のものとしています。
[SRC[>>45 #page=61]]

-*-*-

[164] 
明治40年8月4日に行われた[[日本]]の研究者[[内藤虎次郎]]の講演
[WEAK[(明治40年11月10日出版)]]
では、
次のように述べられました。
[SRC[>>45 #page=66]]

- [165] 近頃[[満洲]]に[[日本人]]がいくとそこら中に[[源義経]]の遺跡をこしらえてくる
- [166] 最初は[[ニコリスク]]の墳墓を[[源義経]]の墓だという
-- [167] 寛永13年と書かれている
--- [169] 新しい
-- [168] 「湖北馬三千匹を進む」ということが書いてある
-- [170] よくわからない墓、日本人の墓かもというので、[[源義経]]の墓と決めていろんな説を付けた
- [171] 自分の見た所、[[源義経]]のことは、どれも確かなものではない




-*-*-

[151] 
[[20世紀]]初頭、
[[ロシア帝国]]の研究者
[[Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев]]
[WEAK[([[ウラジーミル・クラヴジエヴィチ・アルセーニエフ]], [TIME[西暦1872年][1872]] - [TIME[西暦1930年][1930]])]]
は、
[[ロシア帝国]]占領下[[外満州]]の調査を行い伝承を収集しました。
[SRC[>>142]]

[152] 
[[Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев]]
は、[[満州人]]の伝承 (>>144) から [[Куань-Юн]] 政権が過去に存在したと考えました。
[SRC[>>142]]

[153] 
[[Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев]]
が[[外満州]]で発掘していたところ、
[[寛永通宝]]が出土しました (>>149)。
ところが
[[Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев]]
は[[漢字]]を読めなかったので、帰宅してから[[支那人]]や[[東洋学]]研究者に尋ねました。
それは
「Куань-Юн тун бао」
と読むことを知りました。
[SRC[>>142]]

[154] 
[[Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев]]
はこれを
「драгоценность Куань-Юна」
(クアンユンの宝)
とし、
[[クアンユン]]王の宝物を意味していると理解しました。従って、
[[クアンユン]]王が伝承のみでなく史実の存在である物証になると考えました。
[SRC[>>142]]

[155] 
ところが、その後
[[Влади́мир Кла́вдиевич Арсе́ньев]]
は[[寛永通宝]]が[[日本]]の[[貨幣]]であることを知りました。
[SRC[>>142]]

;; [156] 
なお、当該[[寛永通宝]]出土地と[[クアンユン]]王の本拠地[[蘇城]]とは距離があります。

-*-*-


[267] 
[TIME[明治42(1909)年][1909]]に[[日本人]]の[[東洋学者]]として有名な[[白鳥庫吉]]は、
[[ロシア帝国]]占領下[[外満州]][[沿海州]][[浦塩]]の[[東洋学校]][[博物館]]を訪問しました。
[SRC[>>266]]

[268] 
[[白鳥庫吉]]は
>>9
であるとされる石碑を目撃しました。
博物館の[[ミハイロフスキー]]によると、
それは20年前に[[ニコリスク]]より持ち出したもので、
当時は「湖北進馬三千」の6字を読めたとのことです。
[SRC[>>266]]

[269] 
しかし「完顔公神道碑」などとあって、[[金]]の碑であることが明らかで、
[[曹廷杰]]の[[日本人]]説云々は成立し難いと[[白鳥庫吉]]は評しています。
その時点で既に磨滅して碑面の文字は読み難くなっていたものの、
20年前にはまだ字形が残っており、[[ミハイロフスキー]]が撮影した写真ではかすかに読み取れた、
と[[白鳥庫吉]]は書き記しています。
[SRC[>>266]]

;; [270] しかしそれなら[[曹廷杰]]の時代には神道碑云々はもっとはっきり読めたはずで、
[[曹廷杰]]が見たものがこれなのかどうか、疑問が残ります。

;; [271] [[白鳥庫吉]]はこのとき[[ハバロフスク]]には行けなかったと書いており、
目撃地は[[浦塩]]となっています。現在は[[ハバロフスク]]にこれらしきものがあるようで、
この後になって移動されたのでしょうか。


[REFS[

- [266] 
[CITE@ja-JP[むうざ (18)]], [[ロシア・ソヴェート文学研究会]], [TIME[1999-10]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-24T07:32:05.660Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4423357/1/70> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[237] 
[TIME[中華民国2(1913)年 (大正2年)][1913]]、
[[中華民国]]人 (おそらく[[漢民族]]) [[魏聲龢]]は[[地誌]]
[CITE[雞林舊聞錄]]
で、
>>9
を紹介しました。
[SRC[>>236]]

[238] 
その状況説明は >>22 と変わらないので、
新情報はなく >>22 の他の新情報は含まれないと思われます。

[239] 
>>22 は[[寛永]]を[[日本]]の[[国号]]と書いていましたが、
こちらでは[[日本]]の[[後水尾天皇]]の[[元号]]とより正確に認識しています。
[SRC[>>236]]

[240] 
また、[[蘇城溝]]の古城は[[寬永帝]]の将軍の本営
(寬永帝時大將建牙之所)
と解しています。
[SRC[>>236]]
>>22 の首都説とは少し違う解釈になっています。

[241] 
信憑性の評価は疑問がある (存疑) となっており [SRC[>>236]]、
>>22 より少し後退しているように取れます。



[REFS[

- [236] [CITE[雞林舊聞錄]]
-- [235] 
[CITE@zh[正文-吉林地志全文原文-識典古籍]], [TIME[2026-06-24T05:59:03.000Z]] <https://www.shidianguji.com/zh/book/LG2JLDZ/chapter/1lxuh6gndkug6?keywords=%E5%AF%AC%E6%B0%B8&refreshId=1782280033651&isSearchCurChapter=1>

]REFS]


-*-*-

[259] 
[TIME[昭和7(1932)年][1932]]の[[日本]]の書籍は、
[[外満州]][[雙城子]]の古跡を紹介する中で、次のように書いています。
[SRC[>>258]]

- [260] [ASIS[東]]城の古碑「寛永十三年湖北進馬三千匹」の字は読むことができる
-- [261] [[寛永]]はおそらく[[渤海]]の[[年号]]
-- [264] [CITE[旧唐書]]に符合
-- [262] [[ハバロフスク]]に持ち去られた
- [263] 当地在住者の伝説: 昔日本の武将来住
- [265] 当地在住日本人は、[[源義経]]がここに来たと考え、古碑は[[源義経]]の碑と称していた

[288] 
独自情報はなく、先行文献からの[[孫引き]]と思われます。

[REFS[

- [258] 
[CITE@ja-JP[吉林省を中心として見たる満洲民族変遷史]], [[峯籏良充]], [TIME[1932]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-24T07:24:56.488Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1919120/1/93?keyword=%E6%B9%96%E5%8C%97%E9%80%B2%E9%A6%AC> (要登録)

]REFS]



-*-*-

[32] 
[TIME[昭和10(1935)年][1935]]、
[[島田好]]は
>>20
を紹介しました。
[SRC[>>4]]

[33] 
>>9 について、[[寛永]]が[[日本の元号]]であるかは非常疑わしいとし、

- [34] [[渤海の元号]]だという人があり、
- [35] [[蒲鮮萬奴]]の[[東眞國]]の[[元号]]だという人があり、

... しかしいずれも立証されていない、と述べています。 [SRC[>>4]]

[REFS[

-
[4] [CITE@ja-JP[[[満蒙]] 16(9)(185)]], [[満蒙社]], [TIME[1935-09]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-21T08:55:00.568Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3564741/1/180?keyword=%E5%AF%9B%E6%B0%B8> (要登録)

]REFS]


-*-*-




[REFS[

- [273] [CITE@ja-JP[満洲風雲録]], [[金丸精哉]], [TIME[1941]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-24T07:56:35.573Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1708179/1/192?keyword=%E5%AF%9B%E6%B0%B8> (要登録)
-- [274] 年表の寛永13年で >>9 を紹介
- [256] 
[CITE@ja-JP[聖雄日持と豊太閤 : 一名護国本尊の啓示する日本建国の大理想]], [[高鍋日統]], [TIME[昭和17][1942]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-24T07:22:51.091Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1025714/1/51?keyword=%E6%B9%96%E5%8C%97%E9%80%B2%E9%A6%AC>
-- [257] >>9 碑文紹介のみで、解釈は提示していない

]REFS]

-*-*-

[284] 
[TIME[昭和18(1943)年][1943]]の[[日本]]の[[岩崎克己]]の書籍は、
[[源義経]]関連の言説を収集したものです。
[SRC[>>272]]


- [275] /19 : 寛永21年の[[日本]][[越前国]][[竹内藤右衛門]]ら遭難事案
-- [276] 建夷奴兒部 (建州奴兒干部) の家々の門戸で[[源義経]]と[[弁慶]]らしい図像が貼られていたとの証言
-- [277] 著者の推測: 錯覚
- [278] /41, /165-, /181 : [[瀬脇壽人]]の調査
- [279] /45, /192 : [[曹廷杰]]の調査
- [281] /220 : [CITE[満洲地誌]], 明治39年
-- [282] [[寛永王]]伝説
- [280] /221 : >>164
- [283] その他、[[竹内藤右衛門]]遭難事案関連多数


[REFS[

- [272] 
[CITE@ja-JP[義経入夷渡満説書誌]], [[岩崎克己]], [TIME[1943]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-24T07:57:32.431Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1908820/1/11?keyword=%E5%AF%9B%E6%B0%B8> (要登録)

]REFS]


-*-*-

[36] 
[TIME[昭和18(1943)年][1943]]、
[[日本]]の[[洞富雄]]は、
>>9 
について、

- [37] [TIME[寛永13(1636)年][1636]]は[[日本人]]の海外進出が進んだ後に渡航が禁止された年であり、
-- [38] [[日本人]]が[[満洲]]の一角に領土を開いた可能性は完全には否定できないが、
-- [41] [[蘇城]]の日本人築城伝説や
-- [42] [[寛永通宝]]の流通もあるが、
- [39] 「湖北進馬三千匹」と[CITE[新唐書]][CSECTION[渤海国伝]]「率賓之馬」との対応から、
- [40] [[寛永]]は[[渤海国]] (あるいは[[万奴]]の[[大直国]]あるいは[[東真国]]) の[[元号]]だろう

... と主張しました。
[SRC[>>2]]


[REFS[
- [6] 
[CITE@ja-JP[浮田和民博士紀念史学論文集]], [[早稲田大学史学会]], [TIME[昭和18][1943]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-21T08:58:10.390Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1041263/1/48?keyword=%E5%AF%9B%E6%B0%B8> (要登録)
-- [5] [CITE@ja-JP[史学論文集 : 浮田和民博士記念]], [[早稲田大学史学会]], [TIME[1943]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-21T08:57:27.823Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1918030/1/50?keyword=%E5%AF%9B%E6%B0%B8> (要登録)
-- [232] 
[CITE@ja-JP[樺太史研究 : 唐太と山丹]], [[洞富雄]], [TIME[1956]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-24T05:02:05.362Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3024852/1/33> (要登録)
-- [2] [CITE@ja-JP[北方領土の歴史と将来]], [[洞富雄]], [TIME[1973]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-21T08:47:55.442Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9490575/1/29?keyword=%E5%AF%9B%E6%B0%B8> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[184] 
[[西暦20世紀]]末頃、
[[中華人民共和国]]の研究者らは、
[[満洲]]の[[寛永通宝]]と[[寛永国]]の実態について論争しました。
[SRC[>>185 #page=3]]


- [186] [CITE[寛永通宝銭]], [[羅継祖]], [TIME[公元1984年][1984]]
-- [187] [[寛永国]]は、[[金]]末[[元]]初の地方割拠政権
-- [188] [[寛永通宝]]は、当政権が鋳造
- [189] [CITE[“寛永國”假説]], [[王崇時]], [TIME[公元1985年][1985]]
-- [190] [[寛永]][[元号]]は、[[寛永国]]の[[元号]]
-- [193] [[寛永国]]は、[[沿海州]]南部にあったこと確実
-- [194] [[寛永国]]は、[[渤海国]]後期の割拠政権
- [191] [CITE[再談“竟永通宝”]], [[羅継祖]], [TIME[公元1987年][1987]]
-- [192] >>194 を否定し、[[東夏]]滅亡後の遺民の[[女真人]]か、
[[元]]滅亡後の[[女真族]]の政権
- [195] [CITE[寛永墓碑和寛永通宝]], [[李健纔]], [TIME[公元1989年][1989]]
-- [196] [[寛永]]元号は、[[日本の元号]]
-- [199] [[満洲]]の[[寛永通宝]]は、[[日本]]の貨幣
-- [197] [[寛永王]]は、[[金]]末の[[女真人]]の大族の割拠政権
-- [198] [[寛永墓碑]]は、[[寛永王]]政権の遺物
-- [200] 未発見の[[寛永王]]の[[寛永通宝]]は、[[日本]]の[[寛永通宝]]とは別物
- [201] [CITE[寛永通宝与明清時期中日貿易]], [[付彤]], [TIME[公元1991年][1991]]
-- [202] [[清]]国の貨幣政策と[[樺太]]や[[満洲]]の諸部族との朝貢交易を検討
-- [203] [[福建]]の[[寛永通宝]]は日清貿易船由来
-- [204] [[満洲]]の[[寛永通宝]]は[[山丹交易]]由来
- [205] [CITE[“寛永國”考辨]], [[陳春霞]]・[[劉院東]], [TIME[公元1993年][1993]]
-- [234] 和訳: [TIME[平成6(1994)年][1994]] [SRC[>>233]]
-- [207] [[寛永墓碑]]は[[金]]の[[完顔忠神道碑]]である
--- [242] [[寛永墓碑]]を寛永13年云々と読むのはこじつけ
--- [245] [[寛永]]の文字は確認されておらず、時代も合わない
--- [246] 寛永13年は[[寛永通宝]]の鋳造開始年である
-- [206] [[満洲]]の[[寛永通宝]]はすべて[[日本]]の貨幣
--- [247] [[寛永]]年間の当地と[[日本]]は密接な往来の可能性
--- [248] 寛永21年、[[日本]][[越前国]]の[[竹内藤右衛門]]ら58人が遭難漂着、
現地人と戦闘で43人が殺害され、15人は当地で強制労働させられた後、
[[盛京]]、[[北京]]、[[朝鮮]]を経て[[日本]]に送還
--- [249] [[寛永]]時代の往来があったこと、当地に[[寛永帝]]の伝説が発生し伝播する契機を提供
-- [209] [[寛永国]]・[[寛永政権]]は、おそらく架空のもの
- [210] [CITE[寛永国是民間誤伝、不是史実]], [[李健纔]], [TIME[公元1995年][1995]]
-- [211] [[寛永国]]伝承の[[地名]]は[[明]]末[[清]]初に出現するので、
[[渤海国]]や[[金]]の時代ではない
-- [212] [[寛永墓碑]]は[[金]]の時代の墓と碑で、
[[寛永国]]伝説と関係ない
-- [213] [[寛永通宝]]は[[日本]]の貨幣で、
[[寛永国]]/[[寛永王]]と関係ない
-- [214] 時代が一致せず[[寛永国]]伝説には矛盾が多い
--- [215] 民間の誤伝
-- [216] [[寛永国]]は歴史上存在しなかった


[217] 
[TIME[公元1998(平成10)年9月7日][1998-09-07]]、
[[日本人]]の[[榎森進]]は、
[[中華人民共和国]]占領下[[内満洲]][[哈爾浜市]]で、
[[満洲]]の[[寛永通宝]]についての研究成果を発表しました。
[TIME[平成11(1999)年][1999]]に[[日本]]の[[大学]]から公表されました。
[SRC[>>185]]

[218] 
この研究は、
その時点までの[[寛永国]]に関する[[中華人民共和国]]での研究を踏まえ、
[[寛永国]]伝説は完全に否定されたと理解した上で、
[[榎森進]]が[TIME[公元1997(平成9)年][1997]]に[[内満洲]]所在の[[寛永通宝]]を実見して調査し、
[[清国]]と[[満洲]]や[[樺太]]の諸部族との交易網の中で位置付けたものです。
[SRC[>>185]]

;; [333] 
[[寛永通宝]]についての独自の調査結果は含まれますが、
[[寛永国]]関連は[[中華人民共和国]]の研究のまとめであり、
その結論 (特に >>205 >>210) をほぼそのまま受け入れているだけに過ぎないことには注意が必要です。
[[著者]]は[[日本人]]ですが、研究の流れとしては[[中華人民共和国]]のものに属します。


[221] 
[TIME[公元2000(平成12)年1月][2000-01]]、
[[中華人民共和国]]の[[王崇实]]と[[李红光]]は
[CITE[宽永王传说的再思考]]
で、

- [222] [[寛永国]]伝説と[[完颜公]]伝説と[[完颜忠神道碑]]を結び付け、
- [223] [[寛永]]は[[日本の元号]]で[[寛永通宝]]は[[日本]]の貨幣とし、
- [224] [[寛永王]]伝説、[[寛永碑]]の付会、[[寛永]]の[[元号]]と[[寛永通宝]]を使ってこの地で活動した[[日本人]]、
の関連性を推論できる

としました。
[SRC[>>225]]

[226] 
[TIME[公元2020(令和2)年][2020]]に[[中華人民共和国]]の [[Webサイト]]に掲載された記事は、
[[中華人民共和国]]を中心に[[寛永国]]の研究史を >>221 まで説明し、
最後に学界の議論として、
[[宽永碑]]に[[宽永]]とは書かれていなかったのではないかとの説を紹介しています。
[SRC[>>227]]





[REFS[

-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[285] 
[CITE@en[再谈“宽永通宝”钱]], [TIME[2026-06-24T09:55:57.000Z]] <https://aipub.cn/Q0aM5>
]FIGCAPTION]

(要約のみ)

>我在《枫窗脞语》(1984年,中华书局版)里写过一篇“宽永通宝”钱短文.我于1958年去农安普查文物时见到不少宽永钱,初以为是日本钱,日本宽永钱流行到中国很多,这次见到的,有人认为和日本钱不同,当是中国自造,但中国史上不见有用宽永两字作年号的.后来在曹廷杰《西伯利亚东偏纪要》里见所记珲春双城子东南里许德商火磨房内有古碑,字迹剥蚀,相传原文有“宽永十三年,湖北进马二千匹”语,今惟“宽永十三年,湖北进马”九字可识,“二千匹”字已乌有.我认为曹氏的说法有得有失,得的是解释“湖北”是兴凯湖北,而不是今天的湖北省;失的是日本宽永年,当

]FIG]
- [286] 
[CITE@en[宽永通宝与明清时期的中日贸易]], [TIME[2026-06-24T09:58:23.000Z]] <https://aipub.cn/1emb0>
(要約のみ)
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[287] 
[CITE@en[“宽永国”考辨]], [TIME[2026-06-24T09:59:09.000Z]] <https://aipub.cn/1ep4Z>
]FIGCAPTION]

(要約のみ)

>一、引言清光绪十一年(1885年),著名学者曹廷杰实地考察了黑龙江下游及乌苏里江以东的滨海区域之后,写出了东北历史地理方面的权威性著作——《西伯利东偏纪要》一书。该书第62条记有“宽永残碑”,第61条记有“宽永建都”的苏城。按曹廷杰在俄界计129天,往返道路1.6万余华里,撰成《西伯利东偏纪要》共计118条,其中竟有两条记述的是相传与“宽

]FIG]
- [233] 
[CITE@ja-JP[北の歴史・文化交流研究事業 : 中間報告 1993年度]], [[北海道開拓記念館]], [TIME[1994.3][1994]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-24T05:03:25.370Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13316431/1/51> (要登録)
- [250] 次のものは、おおむね同じだが、少しずつ内容が違う
-- [208] 
[CITE@ja-JP[満族史研究通信 (7)]], [[東洋文庫清代史研究室満族史研究会]], [TIME[1998-04]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-24T06:48:48.433Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4428765/1/10> (要登録)
-- [185] 
[TIME[平成11(1999)年][1999]],
[TIME[2026-06-23T13:44:57.00Z]]
<https://tohoku-gakuin.repo.nii.ac.jp/record/24322/files/20201119_emorisusumu.pdf>
-- [251] 
[CITE[松花江流域出土的宽永通宝及其历史背景 - 道客巴巴]], [[道客巴巴]], 
[TIME[公元2000(平成12)年][2000]],
[TIME[2026-06-24T06:50:06.000Z]] <https://www.doc88.com/p-0901392614920.html>
- [227] 
[CITE[日本钱在中国:小话宽永通宝]], [[旅途终焉]], 
2020年5月22日 09:42,
[TIME[2026-06-23T15:56:24.000Z]] <https://mp.weixin.qq.com/s?__biz=MzIyMjc1NjAzOQ==&mid=100006906&idx=1&sn=ec092dbd1df9508999a7912decc53189&chksm=6829f6525f5e7f44f2a9008cb6a436c5c57fbf4f2f923734b75987d9105ef93e9286593dfab7#rd>
-- [225] 
[CITE[日本钱在中国:小话宽永通宝_百科TA说]], [TIME[2026-06-23T15:55:18.000Z]] <https://wapbaike.baidu.com/tashuo/browse/content?id=045b9b900d7576890832d8b2>

]REFS]

-*-*-

[183] 
[TIME[平成25(2013)年][2013]]、
[[日本]]の[[池田勝宣]]は、
[[ジンギスカン]] = [[源義経]]説を調査しました。
その中には[[寛永]]に関する伝承がいかに[[源義経]]と結び付けられていったかの過程も含まれます。
[SRC[>>45]]

[REFS[

- [45] 
[CITE@ja[“ジンギスカン即源義経説”[RUBY[流布][る ふ]]の[RUBY[顛末][てんまつ]]]], 
[[[L[池田勝宣]]]],
[[[L[2013年4月8日]]]],
[TIME[2023-11-02T07:14:00.000Z]], [TIME[2026-06-22T09:05:24.575Z]] <http://www.i-promotion.biz/book/book_3/download/book3.pdf>

]REFS]

-*-*-

[324] 
[TIME[平成30(2018)年][2018]]には、
[[日本]]の [[SNS]] 利用者に
>>185
が紹介され、それなりの反響があったようです。

[326] 
その中には、 
>>185 に記載された[[日本]]の[[アイヌ人]]が[[寛永通宝]]を装飾具として使った事例と[[外満州]]の[[寛永国]]伝承が雑に溶接され、
原住民の心情まで付加された[[ハルシネーション]]
[SRC[>>321]]
や、
>>185 と異なる主張をする研究者を嘲笑う陰湿な投稿 [SRC[>>325]]
も見られました。
(最初と思われる >>320 の時点で事実関係の認識が少々怪しい。)

[229] 
ここに、 [[SNS]] で[[承認欲求]]を満たすためのおもしろネタ素材に成り下がった、
と言えるわけですが、よく考えると[[明治]]の時点で 
([[瀬脇壽人]]が慎重に判断している & その後の研究者が否定的に判定しているにも関わらず)
低俗なタイプの[[源義経]] = [[ジンギスカン]]説のおもちゃと化していたわけで...

[REFS[

- [320] 
[CITE@ja[Xユーザーのまんじゅさん: 「かつてアムール川下流域から「寛永」の銘が入った古銭が発見された。 現地の研究者はアムール川下流域に「寛永国」があったことを主張した論文を相次いで発表した(事実です)😚」 / X]], [TIME[午後9:18 · 2018年6月29日][2018-06-29T12:18:14.000Z]], [TIME[2026-06-23T07:15:27.000Z]] <https://x.com/manju1635/status/1012671582454439936>
- [321] 
[CITE@ja[Xユーザーの巫俊(ふしゅん)さん: 「アムール川下流域の「寛永国」「寛永帝」「寛永王」伝説は、日本で大量に生産された「寛永通宝」が現地にまで伝わり、高貴な人物が帯びるタカラガイのような装身具として利用されたことで、偉大な帝王の名前が彫られていると理解され、人々の間で語り継がれる「寛永王」の伝説が形成されたらしいです。」 / X]], [TIME[午前2:38 · 2018年6月30日][2018-06-29T17:38:39.000Z]], [TIME[2026-06-23T07:15:27.000Z]] <https://x.com/fushunia/status/1012752219001634816>
-- [322] 
[CITE@ja[Xユーザーの巫俊(ふしゅん)さん: 「実際に出土した「寛永通宝」が、どの程度、貴重な品物だったかによりますが、流通量によって価値が増減するので、偉大な帝王の伝説が付属していた方が価格も安定し、清朝に朝貢する辺境地方の首長たちも争って「寛永通宝」を求めた(方が取引者にとっては望ましかった)ということでしょうか。」 / X]], [TIME[午前2:49 · 2018年6月30日][2018-06-29T17:49:23.000Z]], [TIME[2026-06-23T07:15:27.000Z]] <https://x.com/fushunia/status/1012754917734297600>
-- [323] 
[CITE@ja[Xユーザーの巫俊(ふしゅん)さん: 「@onoyuji_daye @manju1635 軽く一読しただけなのですが、現地で装身具などとして使用された「寛永通宝」が、現地の人々が期待を込めて「そうであってほしい」と信仰する帝王に関わる宝具だとされ、「寛永」はその帝王の名前であり、大切なものに違いないと考えれていたということでしょうか。」 / X]], [TIME[午前2:24 · 2018年6月30日][2018-06-29T17:24:44.000Z]], [TIME[2026-06-23T07:15:27.000Z]] <https://x.com/fushunia/status/1012748717533720576>
- [325] 
[CITE@ja[Xユーザーのしろさん: 「寛永国主張してた学者さん、是非とも専門家に指摘されててほしい… 素人の日本人に、「寛永通宝? ああ、江戸時代によくあるお金だよねーうちの庭からも出るよー、そんなとこまで流通してたんだね」とか言われてた日には……かわいそうすぎる……」 / X]], [TIME[午後9:37 · 2018年6月30日][2018-06-30T12:37:19.000Z]], [TIME[2026-06-23T07:15:27.000Z]] <https://x.com/2TXkgXwtlXUsMWW/status/1013038775000129536>

]REFS]




* 関連

[3] [[渤海の元号]]

* メモ

[312] 
[[ジンギスカン]]=[[源義経]]説が人気だった[[日本]]には、これ絡みの怪しげな俗説は探せばまだまだ出てきそうな気がします。


