[14] 
[DFN[正見]]は[[鎌倉時代]]の[[日本の私年号]]とされるものの1つです。

* 用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [28] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[愛知県]][[知多郡]][[武豊町]][[富貴]]]] [[中田池A1号窯]] 焼成室 出土 陶硯]]
-- [29] >>27 : [L[C]]
-- [52] >>48 /4 : カラー写真 (高解像度)
-- [85] >>8 #page=174 : カラー写真 (低解像度) 判読不可
-- [47] >>1 #page=44 白黒写真 (高解像度)
-- [86] >>8 #page=179 : 拓影 (低解像度) 判読困難
-- [75] >>49 /134 : 模写図
-- [50] >>48 /29, >>48 /120, >>49 /136, >>8 #page=163, >>12 : [[明朝体]][[翻刻]]
-- [30] 
「[V[[SNIP[]][DATA(.text)[正見元年[BR[]]正月二十七日]]]]」
[SRC[>>1 #page=16, >>50]]

]ITEMS]

[31] 
[TIME[昭和62(1987)年][1987]]出土。
[SRC[>>27 #page=16]]

[53] 
[[銘文]]は[[楷書]]をやや崩した字形ですが、[[媒体]]の特性ゆえでしょうが、
少々癖のある[[字形]]となっています。 [SRC[>>52]]

[3] 
写真だと確かに「寛」とするべきか「正見」とするべきか迷う。


[54] 
[[元号名]]の部分は、[CH[正]]のようにも見える部分と[CH[見]]のように見える部分が非常に近接しています。
他の文字間と比較すると、1字とも2字とも判断に困ります。

[95] 
実見して解読している >>62 に写真観察だけで異見するのは躊躇されますが、
隣の「正月」は[CH[月]]の上横画が不明瞭なものの、
[CH[正]]と[CH[見]]の間よりは隙間が大きいように感じられ、
安易に[CH[正]]と[CH[見]]が別字と結論付けられないようにも思われるのです。


[55] 
真横に「正月」の[CH[正]]があります。[[元号名]]の[CH[正]]のように見える部分は、
非常によく似た字形です。

[56] 
[[元号名]]の部分は、[CH[寛]]の1字がやや崩れたものと見れないこともありません。
ただ、右上部分の欠如は[CH[宀]]としては不自然です。


[96] 
[CH[元]]は、縦画のようなものが見えて判断に困ります。
報告書はそれを指摘しつつも、[CH[元]]と読むことに問題ないと判断しています (>>60)。
全体にひび割れのような縦線がいくつも見えるので、これもその1つのようにも思われますが、
実見に基づく報告書がそう判断していないのは気がかりです。

[97] 
この縦画の存在に基づき、「元年」の辻褄が合わないものを「二年」と読み替える解釈 (>>73)
が提示されていますが、論理が謎です。到底[CH[二]]とは読めません。

* 諸説

[15] 
出土品の銘文に1例知られていますが、[[釈読]]には異説もあります。


[18] 
判読と比定には、次の説があります。

- [123] [[正見]]元年と読む説 / 通説
-- [20] '''[TIME[正元元年 = 正嘉3年 (西暦1269年)][1269]]''' 説
-- [124] '''[TIME[正元2(1270)年][1260]]'''説
-- [127] '''[[正元]]年間'''説
-- [132] '''鎌倉時代'''説
- [40] [[正見]]光年と読む説 : >>102
- [125] [[寛]]元年と読む説
-- [128] '''[TIME[寛元元年 = 仁治4年 (西暦1243年)][1243]]''' 説
-- [126] '''[[寛元]]年間'''説
- [131] '''13世紀中葉から後期'''説 : >>74


[16] 
[[字形]]は著しく不明瞭とまでは言えないものの、
2字として読めば一致する[[元号]]がなく、
1字として読めなくもないものの[[元号]]の通例に反するため、
2説あって決着を見ていません。

[17] 
[[年番号]]の[[文字]]もやや不明瞭なため、
[CH[元]]と読む通説の他に[CH[二]]説と[CH[光]]説があります。
しかし[CH[二]]は[[遡及年号]]であることから無理に読み換えたもので無理があり、
[CH[光]]は[[年表示]]の方法として無理があります。

[133] 
[CH[寛]]と読む説は、年を不定とみる説と、
「元元」の短縮とみる説があります。

[4] 
「寛元年」だとすると寛元元(1243)年か。「元元」がこのように省略されることは
(意図的かどうかはともかく) ないでもない。この時代にあるのか、
文献でなく刻銘でもあるのかは不明。

[134] 
[[元年]]説は、どちらで読むにせよ、[[遡及年号]]となることにやや問題があります。

[5] 
[TIME[仁治4年2月26日][1243-02-26]]に[[寛元]]改元なのでそちらの解釈でも[[遡及年号]]になって
[SRC[>>19]] 不審なのは変わらず。

[135] 
読みが確定されないため、年も確定できず、曖昧な範囲表現のバリエーションがあります。

-*-*-

[136] 利用目的については、宗教や呪術の意図で[[公年号]]の1字を換えた、
[[仏教語]]と符合させた、といった説明がなされています。
比定年と利用者の属性などからの推測ですが、確実な根拠はありません。

[137] 
誤記説もありますが、その根拠は示されていません。

[138] 
[[私年号]]の一般論として、[[改元デマ]]説も検討されるべきでしょうが、
これまで議論された形跡はありません。

-*-*-

[139] 
1例しか報告がなく、利用者層の広がり、利用期間、伝播のありさまなどは検討が困難です。

[140] 
なお、[[寛七年]]は現時点で積極的に同じ[[元号]]と考えるべき理由がありませんが、
これまで議論の対象となっておらず、検討を要します。

* 研究史

[51] 
[TIME[昭和62(1987)年][1987]]、
>>28 
が遺跡調査により出土しました。
[SRC[>>48 /29, >>27 #page=16]]

[57] 
[TIME[平成2(1990)年][1990]]の報告書は、次のように述べています。
[SRC[>>48 /120]]

- [58] [[元号名]]部分の上を[CH[正]]の行体とみなし、「正見」の2字とみなす
-- [61] [CH[正]]は[[月]]の[CH[正]]に結構、運筆とも酷似する
-- [62] 接近した2字の配列具合も共通していて問題なさそう
-- [66] [[元号]]にも[[私年号]]にも見当たらない
-- [67] 前後から[[元号]]に間違いない
-- [68] 文字の結構、力強い運筆、文面の奥に感じられる信仰に裏打ちされた知性から、
書き損じと思われない
-- [69] 伴出遺物の考古学的知見から、13-14世紀代、[CH[正]]がつき同音の[[元号]]を探すと、
[[正元]]
--- [70] 硯に銘文を刻み願いを達成しようとする願主の信仰心に基づくもの
--- [71] 誰もが仏門に入って実践徳目とする[[八正道]]の筆頭「正見」を当てたと考える
-- [72] 正元元年には正月がない
--- [73] 縦画を伴う[CH[元]]が読みきれず、正元2年と読み替え、正元2年1月27日としておく (1260年)
- [59] 1字で[CH[寛]]の行体とする解読もある
-- [63] [CH[寛]]の[CH[宀]]に続く横画、縦画のくずしが[CH[寛]]の行体に近似していて、
捨てがたい
--- [64] (2例参考提示)
-- [65] 「寛元年」: 後嵯峨天皇[[寛元]] (1243-1247の間の1月)
- [60] その次は短い縦画が気になるが[CH[元]]と読む
- [74] いずれにしても13世紀中葉から後期へかけての時期

[76] 
2説併記しつつ、[[正見]]説を優先させています。解説以外の銘文の提示は「正見」としています。
後続の報告書も、両説を提示しつつ[[正元]]に当てるのをより妥当としたと要約しています
[SRC[>>49 /137]]。

[77] 
後続報告書は、次のように述べています。
[SRC[>>49 /137]]

- [78] [[改元後は遡って記す中世によくある表記法][遡及年号]]とみたい、
とする説 ([[福岡猛志]]1990) によれば、[[正元]]改元前の[TIME[正嘉3(1259)年1月27日][kyuureki:1259-01-27]]
- [79] >>32 はいずれも[[公年号]]の1字を置き換え、[[元年]]とする事例で、興味深い
- [80] [[私年号]]に選ばれた寿(嘉)字ないし信仰に関する字句に続く「元」(はじめ)の意味を考え、
もともと正元2年正月(1260)に当てたとするのも1つの見方
- [81] あらためて、正嘉3年ないし正元2年の正月としたい

[82] >>80 はやや意味不明ですが、縁起や信仰で[[元年]]を選んだだけで年数は気にしないということでしょうか。




[89] 
[TIME[平成11(1999)年][1999]]に[[安藤義弘]]は、
>>28
を紹介し、
[[正見]]は実在しない[[年号]]で議論の多いところであるものの、
[TIME[正嘉3(1259)年][1259]]または[TIME[正元2(1260)年][1260]]と想定され、
[[[ASIS[歴]]年代]]を知る資料として研究が飛躍的に進展した、
と解説しています。
[SRC[>>9 /13]]

;; [90] 
[[安藤義弘]]は当時[[愛知県]]の文化財行政担当者で、
昭和62年から平成2年に行われた調査に参加していた可能性があります。

[10] 
[TIME[平成11(1999)年][1999]]の同じ雑誌で、
>>28
の発見者である[[奥川弘成]]も回想しています。
[SRC[>>9 /14]]

[91] 
それによれば、
昭和62年4月の調査3日目、
[[奥川弘成]]の作業中に[[硯]]が出現し、
正見元年と直感しましたが、
寛元年とも読めたので、
現場はあれやこれやの大騒ぎとなりました。
[SRC[>>9 /14]]

[92] 
[[奥川弘成]]は、硯を[[武豊町歴史民俗資料館]]に持ち帰り、
辞書や年表を傍らに解読を進めましたが、
[[正見]]が見当たりません。
[SRC[>>9 /14]]

[93] 
いまだ確証はありませんが、
[[正見]]を[[正元]]と読み替える[[私年号]]説が有力で、
[[寛元]]説も捨てきれない、
とする考えでまとまっている、
と説明されています。
[SRC[>>9 /14]]

[94] 
この発見で、[[知多]]の中世陶器の編年、全国の中世遺跡の年代決定のものさしの1つがこれで修正されることになった、
とのことです。
[SRC[>>9 /14]]

[22] 
金石文研究者の[[愛甲昇寛]]は、「寛元年」と読んで、「寛元元年」
の[CH[元]]の重複を省いたものと解釈しました。
[SRC[>>19]] この説の提唱の時期や発表の媒体は不明ですが、
>>19 の書き方を考えると、
[[愛甲昇寛]]も発掘調査に参画していた可能性があり、
「寛」説を提唱した当人かもしれません。



[REFS[

- [48] 
[CITE@ja-JP[中田池古窯址群 その1]], [[武豊町教育委員会]], [TIME[1990.3][1990]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-04-30T07:23:10.205Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13307840/1/120?keyword=%E6%AD%A3%E8%A6%8B> (要登録)
- [49] 
[CITE@ja-JP[中田池古窯址群 その2]], [[武豊町教育委員会]], [TIME[1992.3][1992]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-04-30T07:24:51.707Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13307841/1/137?keyword=%E6%AD%A3%E8%A6%8B> (要登録)
- [9] 
[CITE@ja-JP[教育愛知 47(2)(552)]], [[愛知県教育委員会]], [TIME[1999-05]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-04-30T08:23:54.278Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/6034638/1/13> (要登録)


]REFS]


-*-*-

[98] 
[TIME[平成3(1991)年][1991]]の[[自治体史]]は、
>>28
の銘文を紹介し、[[正見]]元年は

- [99] 同音の[[正元]]年間説、
- [100] [[寛元]]年間説

の2説があるものの、13世紀中頃だとしています。
[SRC[>>12]]




[32] 
[TIME[平成3(1991)年][1991]]の[[吉岡康暢]]の論文は、
中世の陶器の[[私年号]]銘を扱ったもので、
>>28 について次のように述べています。
[SRC[>>1]]



- [33] [[私年号]] [TIME[正元2(1260)年][1260]] [SRC[>>1 #page=16]]
- [34] [[正元]]改元は3月26日だから、2年のこと。 [SRC[>>1 #page=17]]
-- [35] 当該銘文に誤字が目立つので当字にもみえるが、
-- [36] 2年を元年とするから、
- [37] [[磯部幸男]]の指摘のように[[文殊信仰]]で[[正元]]を仏語の[[正見]] (八正道の1つ)
に置き換えた
[SRC[>>1 #page=17]]
-- [38] 仏語という点で[[私年号]]の[[弥勒]]等に通ずる
-- [44] [[公年号]]の1字置き換え
- [43] 在地小寺庵の住僧ないし土豪の案文を工人が忠実に刻記したか
[SRC[>>1 #page=17]]
- [39] 正元元年に諸国飢饉疫病、2年にも続いているので世直し、改元願望の伏線かも 
[SRC[>>1 #page=17]]
-- [41] 社会不安と結び付く可能性
- [42] [[千々和到]]のいう「使われない私年号」に属する [SRC[>>1 #page=17]]

[118] 
[TIME[平成3(1991)年][1991]]に[[福岡猛志]]は、
次のように述べています。
[SRC[>>117]]

- [119] [[絶対年代]]の決定に意義が大きい
- [120] [[改元前の日付を後から記すとき改元後の年号で遡って記す中世によくある表記法][遡及年号]]と見ておきたい
- [121] [[行基信仰]]を持つ[[律宗]]の[[沙弥]]によるものなので、
-- [122] [[行基]]墓所の[[大林寺]]の子院[[往生院]]の[[宝篋印塔]]の「正元元年」を思い出す

[110] 
[TIME[平成8(1996)年][1996]]の[[自治体史]]は、
次のように述べています。
[SRC[>>108]]

- [111] 正見元年が[[正元]]年間なら、編年観が1世紀以上も短縮される
- [112] [[正見]]は[[私年号]]ともみられるが、照合できる史料がない
- [113] 「正''元元''年」の重複を避け、音通で「見」に当てたと見ることもできる
- [114] [[遡及年号]]である
-- [115] [TIME[正嘉3(1259)年1月27日][kyuureki:1259-01-27]]に受注し、
[[改元]]の3月26日以降に制作したと推察される
- [116] [[正元]]年間を定点とする資料とみて間違いないと思われる


[REFS[

- [12] [CITE@ja-JP[南知多町誌 本文編]], [[南知多町誌編さん委員会]], [TIME[1991.3][1991]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-04-30T08:46:27.101Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9540826/1/79> (要登録)
- [117] 
[CITE@ja-JP[知多の歴史]], [[福岡猛志]], [TIME[1991.3][1991]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-04-30T09:35:55.070Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13322706/1/50?keyword=%E6%AD%A3%E8%A6%8B> (要登録)
- [1] 
[CITE@ja[刻銘を有する中世陶器(Ⅳ. 政治史と生活史)]], [[吉岡康暢]], [TIME[1991-11-11]], [TIME[2016-04-01]], [TIME[2022-12-24T08:32:05.000Z]] <https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=41&item_id=528&item_no=1>
-- [25] 移転確認 [TIME[2026-04-30T06:32:28.800Z]]
-- [26] 
[CITE@ja[国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ]], [TIME[2026-04-30T06:32:14.000Z]] <https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/528>
--- [27] 
[TIME[2026-04-30T06:32:41.200Z]]
<https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/record/528/files/kenkyuhokoku_036_02.pdf>
-- [45] 引用:
[CITE[中田池古窯祉群]] 1,
[[磯部幸男]], [[奥川弘成]]
[[武豊町教育委員会]],
[TIME[1990]]
-- 
[FIG(quote)[ [46] >>1 #page=22 (>>45)

>
[LEFT[
[SNIP[]]「正見」=「寛」とみて「寛
元年の判読も考慮されるが次行の「[RUBY[正][・]]月」の運筆から「[RUBY[正][・]]見」とみる。
]LEFT]

]FIG]
- 
[108] 
[CITE@ja-JP[[[綾瀬市史]] 9 (別編 考古)]], [[綾瀬市]], [TIME[1996.3][1996]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-04-30T09:30:06.236Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13141612/1/414?keyword=%E6%AD%A3%E8%A6%8B> (要登録)




]REFS]

-*-*-

[83] 
その後の論文等は、推定をそのまま引き継いでいます。

- [84] [TIME[正元元(1259)年][1259]]または[TIME[正元2(1260)年][1260]] : >>6
- [109] [[正元]]年間 : >>108

[87] 
>>8 は銘文を掲載し、その解釈は示していませんが、
銘文を[[編年]]資料として利用可能な「良質な資料」と主張する先行研究の存在を紹介しています。

;; [88] 不明な[[紀年]]を「良質」とは不審ですが、内容未確認。

[REFS[

-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[6] 
[CITE[中世東濃窯の研究 - 44-3.pdf]], [TIME[2020-11-04T04:57:49.000Z]], [TIME[2022-12-24T09:41:47.106Z]] <https://www.agu.ac.jp/pdf/graduate/thesis/letters1/44-3.pdf#page=20>
]FIGCAPTION]

>
[LEFT[
第6型式期の実年代を特定する良好な資料はみられないが、第7型式期の年代を比定した上で年代を
推定している。第7型式は、尾張型第6型式終末から第7型式の山茶碗を生産した知多の中田池A1号
窯の窯内から「正見元年正月二十七日」等の刻銘をもつ陶硯が出土し、これは「正見」を「正元」と読
み替え正元元年(1259)あるいは正元2年の製作とされる。また、東濃の小滝9号窯から出土した「文
永三年(1266)」の刻銘をもつ山茶碗の蓋が東濃型第7型式期に比定される。以上から、第7型式期は
13 世紀中葉に比定され、第6型式期は 13 世紀初頭を除く前葉に位置付けられる。
]LEFT]
]FIG]
--
[11] [CITE@ja-JP[中世東濃窯の研究]], [[山本, 智子]], [TIME[2020]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-24T09:59:54.451Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/11570706/1/2>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[8] 
[TIME[2022-12-24T09:44:36.200Z]]
<https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/36/36362/70686_1_%E7%80%AC%E6%88%B8B%E5%8F%A4%E7%AA%AF%E8%B7%A1%E7%BE%A4%E3%83%BB%E5%A5%A5%E8%B0%B7%E5%8F%A4%E7%AA%AF%E8%B7%A1.pdf>
]FIGCAPTION]

#page=163

>中田池A地点第 1号窯〔現:中田池 B古窯群〕(第 66図 6) (写真 79, 5)


>
[LEFT[
この銘文については、常滑窯の生産地編年資料[SUB(quarter)[⑫]]としての利用可能な良質な資料であるとか、
窯業生産の統括者に関するもの[SUB(quarter)[⑬]]など様々な議論があるが、今回はそこには触れず紹介するに留
めておく 。 土器の生産地編年で 6a型 式 (1250~1275) とさ れる時期の窯である。 なお、遺跡名
が調査時の名称が中田池 B古窯群に改名されていることに注意。
]LEFT]

#page=172

>⑫赤羽一郎 ・中野晴久「中世常滑焼の生産地編年」(『常滑焼と中世社会』小学館 1995年)
>⑬石井進「中世考古学と歴史学」(『常沿焼と中世社会』小学館 1995年)
]FIG]

]REFS]

-*-*-

[101] 
[TIME[2013-09-13]]の[[中野晴久]]の論文は、
>>28
の判読の問題が依然未解決であることを説明しています。
[SRC[>>19]]

[102] 
[[中野晴久]]およびその[[博士論文]]審査の質問者は、
[CH[元]]とされる文字を[CH[光]]と読み、
「正見光年」
として仏教的意義を読み解こうと試みています。
[SRC[>>19]]


[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[19] [CITE@ja[[L[中世常滑窯の研究]]]],
[[[L[中野晴久]]]], 
2013 年 9 月 13 日,
[TIME[2019-10-09T01:46:16.000Z]], [TIME[2024-07-30T08:16:21.778Z]] <https://www.agu.ac.jp/pdf/graduate/thesis/letters1/31-3.pdf#page=234>
]FIGCAPTION]

#page=59

>
[LEFT[
6a 型式の山茶碗は尾張型山茶碗の第7型式と共通する特徴を有している。その所属時期は 13[BR[]]
世紀の中頃から後半であるが、13 世紀末には尾張型第 8 型式が成立している。中世常滑窯では[BR[]]
高 台 を 省 略 し た 山 茶 碗 は あ る が、 そ れ の み が 量 産 さ れ る 尾 張 型 第 8 型 式 の様 相 を も った 窯 跡 は[BR[]]
存在しない。従って、13 世紀の第 3 四半期あたりが想定される時期になる。そして、中田池 A[BR[]]
‐1 号 窯 か ら 出 土 し た 陶 硯 の 銘 文 に 刻 ま れ た 年 号 が 正 元 年 間(1259 ~ 1260) と 判 断 さ れ る こ[BR[]]
と も、 そ の 年 代 を 裏 付 け る こ と に な る。 こ の 正 元 は 銘 文 で は 正 見 と な っ て お り、 そ れ に 続 く 文[BR[]]
字は元年と読めば読めるが、刻まれた文字は光年のように短い縦線があるように見える。また、[BR[]]
正 元 は 正 嘉 3 年 の 3 月 26 日 に 改 元 さ れ て 正 元 元 年 と な っ て い る。 硯 の 銘 文 は 年 に 続 い て 正 月[BR[]]
二十七日と刻まれており、正元元年にはない月が刻まれているのである。愛甲昇寛は正見を寛と[BR[]]
読 み、 寛 元 元 年 の 元 は 重 複 の た め 1 文 字 で 表 し た と す る 見 解 を 示 し て い る。寛 元 元 年(1243)[BR[]]
も2月 26 日の改元で 1 月 27 日は存在しない。この問題の厳密な解決には至っていないが、尾[BR[]]
張型第 7 型式は 13 世紀の中葉を含む型式期であることからすれば、一応その範囲の中に包摂さ[BR[]]
れていることになる。
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#page=234

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[LEFT[
[SNIP[]]編年の指標として位置づけている武豊町の中田池 A -1号窯の陶硯底に刻[BR[]]
まれた年号を「寛元元年」と読めば 6a 型式の年代が 1243 年ころとなり 1252 年を契機にして[BR[]]
生産量も減少するという展開を説明できるのであるが、銘文の年号の読み方は、福島先生のご[BR[]]
指摘もあった通り寛元よりは正元(正見)1259 の方が妥当性を持っていると見られる。[SNIP[]]
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[LEFT[
(質問)[BR[]]
年号には「私年号」というものもあり、他に服部英雄氏が「彦山流記」に関連して指摘して[BR[]]
いる「未来年号」というものもある。[SNIP[]]中田池の正見と年の間の文字は元ではなく光[BR[]]
年である可能性もあろう。[BR[]]
(中野)[BR[]]
正見という語には釈迦が最初の説法で説いた涅槃に至る修行の八正道の最初にある正見(正[BR[]]
思 惟、 正 語、 正 業、 正 命、 正 精 進、 正 念、 正 定 ) の 意 味 が 含 ま れ て い る と い う 意 見 も あ り、 光[BR[]]
年という読みも、それと合わせて考えると意味が出てくるかもしれない。
]LEFT]

]FIG]


]REFS]

-*-*-

[106] 
報告が[[平成時代]]初期と新しいためか、
[[私年号]]として紹介されることは多くありません。

[104] 
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]には、
[TIME[2008-08-27]]に追加されました。
[[正元]]の「誤記か」
と注釈しています。
時代は[[鎌倉時代]]としていて、特定していません。
[SRC[>>13]]

[105] 
「誤記」説が存在するのか、[CITE[ウィキペディア]]編集者の見解なのかは不明です。

[107] 
同時にいくつか追加・変更されているので、何らかの資料に基づく編集とも考えられますが、
不明です。


[REFS[

- [103] [[Wikipediaの私年号一覧表]]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[13] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,正見 	,- 	,鎌倉時代 	,不明 	,愛知県武豊町出土陶硯銘。公年号「正元」の誤記か。 

]FIG]
-- [321] 
[CITE@ja[「[[私年号]]」の版間の差分 - Wikipedia]], [TIME[2024-07-24T01:25:17.000Z]], [TIME[2024-07-26T14:01:03.449Z]] <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7&diff=prev&oldid=21472516>
--- [322] 
[CSECTION[2008年8月27日 (水) 17:42時点における版]],
[[可怜]]

]REFS]

* 関連

[SEE[ [[寛七年]] ]]

[21] 時系列 :

- [129] [TIME[仁治4(1243)年2月26日][kyuureki:1243-02-26]]、
[[寛元]]に[[改元]] ([[代始改元]])
- [130] [TIME[寛元5(1247)年2月28日][kyuureki:1247-02-28]]、
[[宝治]]に[[改元]]
- [23] [TIME[正嘉3(1259)年3月26日][kyuureki:1259-03-26]]、
[[正元]]に[[改元]]
- [24] [TIME[正元2(1260)年4月13日][kyuureki:1260-04-13]]、
[[文応]]に[[改元]]

* メモ



[2] 
[[正元]]に比定する理由が同音であること以外に見えないのが不安点。
様式による編年のようなものはないのだろうか。

[7] 
探してみたら >>6 のように本来[[実年代]]不明とするべき当事例が型式編年に使われてる。
>>108 >>89 >>94 >>119 でも[[暦年代]]を決定できる画期的発見として扱われている。



