* 用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [2] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本]][[信濃国]][[岩村田]]]]出土鍍金寶塔銘]]
-- [3] 「[V[奉納三十幡神武州國圓藏坊也尾州住人吉左衛門作[DATA(.text)[寛七年六月吉日]]]]」
[SRC[>>23]]

]ITEMS]

[10] 
[[銘文]]は銅に彫られています。 [SRC[>>23]]

[6] 
[ASIS[七][swc742]]の字は、縁取りのように二重で中空に彫られています。
[SRC[>>23]]


[7] 
[CITE[異年号考]]
によると、
この[[寶塔]]は[[穂積保]]の所蔵でした。
[SRC[>>23]]

[8] 
その後の所在は不明です。

[9] 
[[寶塔]]の中には[[銅像]]が1つありました。[[仏像]]ではなく、
何の像か[[穂積保]]にはわかりませんでしたが、
[CITE[房總志料]]
掲載の[[上総国]][[夷灊郡]][[山田村]]の[[時雨臺]]で発掘された銅像で[[惠美子]]の像であると断定されるものに、
似ているのだといいます。 [SRC[>>23]]



* 研究史

[4] 
[[江戸時代]]の研究者[[穂積保]]の
[CITE[異年号考]]
[WEAK[([TIME[文化元(1804)年][1804]]序)]]
[CSECTION[[V[寛七年]]]]
が現在知られる初出です。
[SRC[>>23]]

[5] 
それによると、
[[信濃国]][[岩村田]]での出土です。
出土の経緯は不明ですが、
[[穂積保]]は[[岩村田]]の研究者[[吉澤好道]]と親交があり、
[[私年号]]に関する情報交換を行っていましたから、
そのルートと思われます。
[SEE[ [[宝寿]] ]]

[11] [CITE[異年号考]]は、この[[元号]]は不明で、
銅に彫られているので脱字があるとも思われないとしつつも、

- [12] [CH[寛]]が上にある[[元号]]で7年まで続くのは、
[[寛平]]、[[寛弘]]、[[寛治]]、[[寛正]]、[[寛永]]、[[寛文]]
- [13] [CH[寛]]が下にある[[元号]]で7年まで続くのはない
- [14] [[寛平]]、[[寛弘]]、[[寛治]]の古物ではない
- [15] [[寛永]]、[[寛文]]ほど新しくもない

とし、寛正七年丙戌のときだろうか、不明である、としています。
[SRC[>>23]]

[17] 
[[江戸時代]]の研究者[[伴信友]]の[CITE[逸号年表補考]]は、
[CSECTION[[V[作寛七年]]]]
として立項しつつも、
[CH[作]]は作ったという意味で[[元号名]]の一部ではないとし、
[CH[寛]]の後に1字が欠けているのだろうとしています。
[SRC[>>16]]


[22] 
[[明治時代]]の研究者[[栗田寛]]の[CITE[逸年号考]]
[WEAK[([TIME[明治17(1884)年][1884]]稿)]]
[CSECTION[[V[寛七年]]]]
は、
[CITE[異年号考]]
を踏まえた上で、
[[元号略号]]の事例を紹介し、
同様に1字に省略したものではないかとしています。
[SRC[>>19]]

[26] 
[CITE[古事類苑]]は、[CITE[逸年号考]]を引用しています。 [SRC[>>25]]


[REFS[

- [23] [CITE[[[異年号考]]]]
-- [20] 
[CITE@ja-JP[百家叢説 : 珍書文庫 第1編]], [[田辺勝哉, 井上頼圀 校]], [TIME[明44][1911]], [TIME[2024-10-01T09:05:02.000Z]], [TIME[2024-11-25T11:14:45.598Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/899104/1/45> (要登録)
左上
-- [23] [[[CITE[異年号考]]本文]]
- [16] [CITE[[[逸号年表補考]]]]
- [24] [CITE[[[逸年号考]]]]
-- [21] [CITE@ja-JP[栗里先生雑著 : 一五巻 下]], [[栗田寛, 栗田勤]], [TIME[明治34][1901]], [TIME[2024-10-01T09:05:02.000Z]], [TIME[2024-11-25T12:56:17.257Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1087995/1/221>
-- [19] [[[CITE[逸年号考]]本文]]
- [25] 
[CITE@ja-JP[[[古事類苑]] 歳時部2]], [[神宮司庁古事類苑出版事務所]], [TIME['''['''明41''']'''][1908]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-04-30T13:08:59.568Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/897572/1/92?keyword=%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4>
--
[18] [CITE[古事類苑]], [CSECTION[歳時部四]], [CSECTION[年號下]], [CSECTION[年號文字]], [TIME[2014-08-09T14:32:04.000Z]], [TIME[2022-12-25T02:35:58.124Z]] <http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000333.html>, 第 1 巻 333 頁
「寛七年」
--- [1] 消滅確認 [TIME[2026-04-30T12:35:05.800Z]]

]REFS]

-*-*-

[29] 
明治41年の[CITE[国史大辞典]]は、
[[私年号]]の1つとして[[寛]]を掲載し、
[[寛正]]の略か、として[[寛正]]元年に比定しています。
[SRC[>>30]]

[31] 
その後も[[近代]]のいくつかの辞典類には掲載されるものの、
掲載されないものが増えていきます。 [SRC[>>30]]

[32] 
理由が明確に語られることはありませんが、
[[公年号]]の省略形に過ぎないと判断されたのか、
[[私年号研究]]の場では取り扱われないようになっていきました。

[REFS[

- [30] [[日本私年号一覧表]]

]REFS]


* 関連

[SEE[ [[正見]] ]]

[35] 
時系列 :

- [38] [[寛平]]
- [39] [[寛弘]]
- [40] [[寛治]]
- [36] [TIME[寛正7(1466)年丙戌][1466]]
- [37] [TIME[寛正7(1466)年2月28日][kyuureki:1466-02-28]]、
[[文正]]に[[改元]]
- [44] [TIME[寛正7(1466)年][1466]]6月
- [41] [[寛永]]
- [42] [[寛文]]
- [43] [TIME[文化元(1804)年][1804]]、[CITE[異年号考]]序


* メモ

[33] 
[[三十番神]]信仰の盛んな時期ということも[[寛正]]説には有利なのでしょうが、
それにしてもヒントが少なすぎで、根拠が不安定に思われます。

[34] 
実物が行方不明なので、様式論からの[[編年]]が困難なのも問題。

[45] 
寛正7年6月とすると4ヶ月の[[延長年号]]になるのも、悩ましいポイントです。
この時代ならないとも言い切れず。

-*-*-

[27] [CITE@ja-JP[野村宗貞と楯無堰 : 楯無堰開削者野村宗貞の復権]], [[浅原勝芳, 楯無堰土地改良区 共著]], [TIME[1985.5][1985]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-04-30T13:18:33.853Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/11993634/1/33?keyword=%E5%AF%9B%E4%B8%83%E5%B9%B4> (要登録)

[28] >>27 現代の誤植でたまたま「寛七年」となったもの

