* 元号名

[19] 
[[読み][元号名の読み方]]は
「とくおう」
とされます。
[SRC[>>11, >>18, >>390, >>178]]

* 用例

** 茨城県下の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [101] 
[DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[茨城県]][[猿島郡]][[総和町]][[大字下大野]]]] [DFN[[CITE[徳応元年銘私年号板碑]]]]]]
-- [103] >>4 : [L[81]]
-- [143] 8-2-2 [SRC[>>16]]
-- [142] >>16 : [L[261]]
-- [104] >>4 : [L[歴史資料]] [L[第9号]]
-- [145] [[日本国]][[茨城県]][[猿島郡]][[総和町]][[女沼]] [[永塚家]] [SRC[>>16]]
-- [106] [[平成の大合併]]で[[茨城県]][[古河市]][[下大野]]
-- [102] 
「[DATA(.text)[[V[徳応元年]]]]」
[SRC[>>90, >>4, >>16]]
-- [150] 
「[DATA(.text)[[V[十月十八日]]]]」
[SRC[>>16]]

]ITEMS]


** 埼玉県下の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [65] 
[DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[埼玉県]][[狭山市]][[入間川]]]] [[慈眼寺]]墓地 [[板碑]]]]
-- [133] >>25 : 22-3-6
-- [204] >>202 : [L[185]]
-- [126] >>251 : [L[(2)]]
-- [69] >>411 : ⑨
-- [26] >>6 /81 : 拓 [L[22-9]] : 拓本 白黒写真 (低解像度)
-- [108] >>251 : 拓本 白黒写真 (解像度中の下)
-- [205] >>200 : 拓本 白黒写真 (解像度中の下)
-- [70] >>411 ⑨ : 拓本 白黒写真
-- [134] 
[VRLBOX[
[PRE[
      妙心
徳応元年七月日
      禅尼
]PRE]
]VRLBOX]
[SRC[>>25]]
--- [109] 
「[DATA(.text)[[V[徳應元年七月 日]]]]」 [SRC[>>108]]
--- [66] 
「[DATA(.text)[[V[徳応元年七月  日]]]]」
[SRC[>>409 ([CITE[狭山市文化財調査報告[YOKO[VI]]狭山市の青石塔婆]], 昭和52年3月)]]
--- [110] 
「[DATA(.text)[[V[徳応元歳七月  日]]]]」
[SRC[>>251 (実見)]]
---- [125] 
徳応元歳七月日 [SRC[>>251]]
--- [68] 
「[DATA(.text)[[V[徳應年号七月  日]]]]」
[SRC[>>411]]
]ITEMS]

[206] 
拓本は文字が不明瞭です。

[207] 
第1字は[CH[徳]]と読まれており、確かにそう読める字形ではありつつ、明確ではありません。

[208] 
第2字は[CH[應]]のように読めます。

[209] 
残りは目を凝らすと「[V[七月 日]]」のように読めますが、周囲のノイズに飲まれてわかりにくいです。


[ITEMS[ [[日時事例]]
- [97] 
[DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[埼玉県]][[熊谷市]][[宮前町]]]] [[加藤朝男]]家 [[板碑]]]]
-- [192] >>191 : 59-3-9
-- [127] >>251 : [L[(3)]]
-- [189] >>6 /130 : 拓59-4 : 拓本 白黒写真 (解像度中の下)
--- [190] >>188 : 拓本 白黒写真 (解像度中の下)
-- [128] 
「[DATA(.text)[[V[徳广四年正月七日]]]]」
[SRC[>>251 (実見)]]
--- [98] 
徳応四年正月七日
[SRC[>>191]]
]ITEMS]

[193] 
拓本によると、字形は比較的明瞭な部分が多いですが、よくわからない文字が多いです。

[194] 第1字は一応[CH[德]]と読まれていますが、他の文字より摩滅が激しいのか、
元々[[字画]]がひどく崩れているのか、[[字形]]がはっきりしません。
ぱっとみの印象では[CH[堀]]のようにも感じますが、そう当てはめてみると線と一致しません。
[SRC[>>189]]

[195] 第2字は[CH[广]]であり、内側には元々何もなかったように見えます。
[SRC[>>189]]

[196] 
第3字は[CH[四]]と読まれていますが、内側が横線のように見えていますし、
[CH[四]]にしては横幅が狭く感じられます。[CH[日]]ないし[CH[白]]のように感じますが、
文脈的に無理があります。
[SRC[>>189]]

[197] 
第4字は[CH[年]]の[[草書]]系の[[字形]]として一応問題ないでしょうか。
[SRC[>>189]]

[198] 
残りは「正月七日」で問題ないと思われますが、[CH[七]]と[CH[日]]の間が他よりも広めに空いています。
[SRC[>>189]]

[199] 
徳応四年の判読が通説化しているものの、必ずしも確定とは言えないように思われ、検討が必要です。

[ITEMS[ [[日時事例]]
- [99] 
[DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[埼玉県]][[鴻巣市]][[鴻巣]]]] [[神戸章二]]家 [[板碑]]]]
-- [216] >>210 : [L[150]]
-- [214] >>210 : 拓本 白黒写真 (解像度中の下)
-- [215] >>213 : 拓本 白黒写真 (解像度中の下)
-- [100] 
「[DATA(.text)[[V[徳応二年四□]]]]」
[SRC[>>210]]

]ITEMS]





** 東京都下の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [29] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[東京都]][[板橋区]][[上赤塚町]]]] [[薬師堂]] ([[ドウザンガ山]]) 出土 [[板碑]]]]
-- 
[81] >>5 : [L[h-19]]
-- [86] >>82 : 板碑 [L[2]]
-- [173] >>172 : [L[122]]
-- [95] 
『目録』中野区15 [SRC[>>90]]
-- [96] 
『中野区報告書』12 [SRC[>>90]]
-- [123] >>251 : [L[(1)]]
--
[91] >>90 : [L[227]]
-- [63] 
[DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[東京都]][[中野区]][[江古田]]]] [[板碑]]]]
--- [78] [[江古田]]は[[堀野家]]と[[歴史民俗資料館]]の所在地
-- [111] [[中野区文化センター]]内[[郷土資料室]]所蔵 [SRC[>>251]]
-- [83] [[中野区歴史民俗資料館]]所蔵
-- [176] >>175 : カラー写真 (中解像度)
-- [139] >>390 : カラー写真 字形の細部は読取り困難
-- [74] >>7 /22 : 拓本 白黒写真 (解像度中の下)
-- [152] >>17 : 拓本 白黒写真 (解像度下の上)
-- [87] >>82 : 拓本 白黒写真 (低解像度)
-- [93] >>90 : 拓本 白黒写真 (低解像度)
-- [75] 
[VRLBOX[
[PRE[
        逆正妙
     辛
徳□元年[十]月  日
     酉
       修 禅尼
]PRE]
]VRLBOX]
[SRC[>>74]]
--- [71] 
「[DATA(.text)[[V[德応 [LINES(normal)[辛][元年][酉]]十月 [LINES(normal)[逆][  ][修]]日[LINES(normal)[正妙][    ][禪尼]]]]]]」
[SRC[>>7]]
--- [30] 
「[DATA(.text)[[V[徳[LINES(normal)[辛][応][酉]]元年七月日]]]]」
[SRC[>>28]]
--- [62] 
「[DATA(.text)[[V[徳応元年七月  日]]]]」
[SRC[>>408 ([CITE[日本私年号の研究]])]]
--- [124] 
「[DATA(.text)[[V[徳應元年[LINES(smaller)[辛][酉]]十月  日]]]]」
[SRC[>>251 (実見)]]
--- [112] 
「[DATA(.text)[[V[徳應元年十月日]]]]」
[SRC[>>251]]
--- [131] 
「[DATA(.text)[[V[徳応元年辛酉十月日]]]]」
[SRC[>>620, >>14]]
--- [64] 
「[DATA(.text)[[V[徳応元年[SUP(normal)[辛]][SUB(normal)[酉]]十月  日]]]]」
[SRC[>>408 ([CITE[板碑入門]], [[小沢国平]])]]
--- [138] 
「[DATA(.text)[[V[徳応元年[LINES(smaller)[辛][酉]]十月  日]]]]」
[SRC[>>390]]
--- [113] 
[VRLBOX[
[PRE[
        逆  正妙
      辛
徳応元年十月    日
      酉
        修  禅尼
]PRE]
]VRLBOX]
[SRC[>>251 ([CITE[板橋区史]])]]
--- [92] 
[VRLBOX[
[PRE[
        逆正妙
      辛
徳応元年十月  日
      酉
        修禅尼
]PRE]
]VRLBOX]
[SRC[>>90]]
--- [217] 徳応1年10月 
[SRC[>>186]]
--- [220] 徳応1年十月日 辛酉
[SRC[>>186]]

]ITEMS]

[79] 
>>29 は、[[板橋区]]で出土し、
發見者である[[中野区]][[江古田]]の名士で郷土史研究者の[[堀野良之助]]の所蔵となりました
[SRC[>>251]]。
その後[[中野区]]に他の所蔵品と共に寄託されました。

[72] 
第2字は摩滅して判然としませんが、大体[CH[応]]であろうと推定、
あるいは[CH[慈]]かもしれない、とされます。 [SRC[>>7]]

[76] 
拓本を見ただけの印象では、第2字は摩滅というには字形が明瞭に見えますが、
それがどの文字を表しているのかよくわからない字形です。
[CH[応]]とも違うように思われ、苦肉で[CH[慈]]と読まれた理由もわからないでもないのですが、
それも異なるように思われます。
[SRC[>>74]]

[77] 
[[月番号]]は[CH[十]]の部分が鮮明に見えるのですが、
次の[CH[月]]の第1画の字画が長く伸びており、
両者のつながり方を見ると[CH[七]]のように思われます。
ただ、[CH[十]]と[CH[七]]の差分の下横線部分は不明瞭です。
[SRC[>>74]]

[31] 
他に貞和4年、
宝徳2年、
永正2年 [SRC[>>28]] / 永正5年 [SRC[>>251]] の[[板碑]]が混在して出土しました。
[SRC[>>28, >>251]]




* 研究史

[73] 
[TIME[昭和29(1954)年][1954]]の地域史は、
>>29
を紹介し、
判読を示し (>>72)、
[[私年号]]であって他にまったく類例のない[[異年号]]であり、
従って時代は判定できないものの、[[板橋区]]の地域である時代にこのような[[私年号]]を作って利用したことが知られる、
と説明しています。 [SRC[>>7]]

[174] 
それを参照した[TIME[昭和53(1978)年][1978]]の再調査では、
>>29
は所在不明とされています。 [SRC[>>172]]
実際には[[中野区]]に現存しているのですが、
[[板橋区]]では誰もそのことを知る人がいなくなっていたようです。

[REFS[

- [7] 
[CITE@ja-JP[板橋区史]], [[板橋区史編纂委員会]], [TIME[1954]], [TIME[2026-07-28T01:09:38.000Z]], [TIME[2026-08-10T04:14:59.605Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3010277/1/154?keyword=%E5%BE%B3%E5%BF%9C> (要登録)
/22
- [172] 
[CITE@ja-JP[板碑]], [['''['''東京都''']'''板橋区教育委員会事務局社会教育課]], [TIME[1978.3][1978]], [TIME[2026-07-28T01:09:38.000Z]], [TIME[2026-08-10T11:46:20.718Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12423952/1/80?keyword=%E5%BE%B3%E5%BF%9C> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[130] 
[TIME[昭和30(1955)年][1955]]の書籍は、
[[私年号]][[板碑]]の事例の1つとして
>>29
を紹介しています。
[[足利時代]]の様式ながら年代不明としています。
[SRC[>>620, >>619]]

[REFS[

- [620]  
[CITE@ja-JP[東京都文化財調査報告書 第2]], [[東京都教育委員会]], [TIME[1955]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-31T06:30:12.427Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2515336/1/22?keyword=徳応> (要登録)
--
[619] 
[CITE@ja-JP[武蔵野の青石塔婆]], [[稲村坦元]], [TIME[1959]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-31T05:54:08.723Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2979986/1/23?keyword=徳応> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[51] 昭和40年の[[久保常晴]]の論文は、次のように述べています。
[SRC[>>27]]

- >>29
- [52] 様式から[[室町時代]]、初頭ではない
- [53] [[干支年]]から嘉吉元年、
文亀元年、
永禄4年
-- [54] 永禄は板碑の衰退期で可能性は薄い
- [55] 当時の[[私年号]]は天変地異による場合多いが、該当記録なし
- [56] 嘉吉の[[天靖]]のような発生理由は[[東国]]には未だ適応しかねる
- [57] 強いて求めれば様式から文亀元年に可能性高い
- [58] 文亀元年とすれば、
-- [59] [CITE[妙法寺記]]明応十[LINES(smaller)[辛][酉]]条 大水、凶作
-- [60] [CITE[会津塔寺八幡宮長帳]] 旱魃
-- [61] [[私年号]]発生の理由ともなろう


[32] 
昭和42年の
[CITE[日本私年号の研究]]
は、次のように述べています。
[SRC[>>28]]

- >>29
- [33] 様式から[[室町時代]]
- [34] [[干支年]]から嘉吉元年、
文亀元年、
永禄4年
-- [35] 永禄は板碑の衰退期で可能性は薄い
- [36] 文安4年板碑と類似点あるが、
- [37] 明応板碑と似た点もあり、
- [38] 書体は文亀元年[[板碑]]と似ている
- [39] 当時の[[私年号]]は天変地異による場合多く、
-- [40] 嘉吉元年前後、わずかに享和元年に寛正辛巳の疾疫の記録あるに過ぎず
-- [41] 疾疫より飢饉が大きく私年号の使用の根拠となるので、該当すると思われず
- [42] 総合して強いて求めれば、文亀元年の妥当性が強く感じられる
- [44] この推測によれば [SRC[>>43]]
-- [46] [[武蔵国]]の[[板碑]]1件のみで[[武蔵国]]の資料も不足するが、
-- [45] [CITE[妙法寺記]]明応十[LINES(smaller)[辛][酉]]条
「此年作毛草生八十年廿年にも無並吉。但六月土用の内夜昼大雨降大水出て、作り悉水に成る」
-- [47] [CITE[会津旧事雑考]]「八月岩代早霜」
-- [48] [CITE[会津塔寺八幡宮長帳]] 明応10年辛酉条 旱魃記事
-- [49] 中間の[[武蔵国]]も同様と考えて大過なかろう
-- [50] [[徳応]]は旱魃・飢饉の克服願望から生まれたか


[REFS[

- [27] [CITE[[[我が国の私年号に関する研究(二)―室町時代―]]]]
- [2] 
[CITE[日本私年号の研究]]
-- [28] 
pp.[V[三四二]]-[V[三四四]]
-- [43] 
pp.[V[三八二]]-[V[三八三]]

]REFS]

-*-*-


[80] 
[TIME[昭和42(1967)年][1967]]の[[中野区史料館]]の所蔵目録には、
>>29
をはじめ次の[[板碑]]が掲載されています。
[SRC[>>5]]

- [20] [[堀野良助]]寄託 
-- [21] h-21 [[永門]]5年3月
-- [22] h-19 徳応元年9月27日
-- [23] h-20 私年号板碑
-- [24] h-33 実正?6年

;; [12] 他の3基の情報は出て来ないが今も中野区にある?

[88] 
[DFN[実正]]?はこれ以外に情報のない[[異年号]]です。

;; [13] 「実正?6年」は[TIME[寛正6(1465)年乙酉][1465]]?
[CH[實]]と[CH[寛]]は[[字形]]が似ており、 [[OCR]] の誤読例もままある。

[89] 「私年号板碑」も[[元号名]]すら不明です。

[84] 
平成6年7月、
徳応元年([TIME[1441]])
の[[板碑]]として[[文化財]]登録されました。
[SRC[>>82]]

[REFS[

- [5]
[CITE@ja-JP[資料総目録]], [[東京都中野区教育委員会中野区史料館]], [TIME[1967]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-07T05:34:42.281Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3448981/1/19?keyword=%E6%B0%B8%E9%96%80> (要登録)
- [3] [CITE[shiteic.pdf]], [TIME[2022-09-20T11:12:18.000Z]], [TIME[2022-12-25T12:00:55.422Z]] <https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/211500/d012939_d/fil/shiteic.pdf#page=3>
- [85] 移転確認 [TIME[2026-08-10T05:05:39.700Z]]
-- [82] 
[CITE@ja[shiteic.pdf]], [TIME[2022-09-20T11:12:18.000Z]], [TIME[2026-08-10T05:02:29.479Z]] <https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/kurashi/bunka/bunka/torokubunkazai/torokubunkazai.files/shiteic.pdf#page=3>

]REFS]

-*-*-

[151] 
[TIME[昭和42(1967)年][1967]]の書籍は、
[[板碑]]の[[私年号]]の事例の1つとして
>>29
を紹介し、
[[室町時代]]か、としています。
[SRC[>>14]]



[REFS[

- [14] 
[CITE@ja-JP[板碑入門]], [[小沢国平]], [TIME[1967]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-31T03:09:26.290Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2980023/1/78?keyword=%E5%BE%B3%E5%BF%9C> (要登録)

]REFS]





-*-*-

[135] 
[TIME[昭和53(1978)年][1978]]の史料集は、
>>29
を掲載しています。
[SRC[>>408]]

[67] 
ただし重複があって後に訂正されています [SRC[>>410]]。

>
[VRL[
「野仏」(第一〇集) に徳応元年二基としたが、板橋区出土[BR[]]
現中野区文化センターの一基と訂正したい。
]VRL]

(第10集 =​ >>408)

[137] 
資料によって[[翻刻]]が異なるために2基と誤認されたようです。
[[板碑]]資料ではこの種の問題が非常によく発生します。

[136] 
昭和54年の追加分が
>>65
を掲載しています。
[SRC[>>410]]
[TIME[平成20(2008)年][2008]]に拓本も掲載されています。
[SRC[>>411]]

[REFS[

- [408] [CITE[[[私年号板碑仮年表]]]]
- [409] [CITE[[[私年号板碑仮年表追加・訂正・削除]]]]
- [410] [CITE[[[私年号板碑仮年表 (その三)]]]]
- [411] [CITE[[[私が出会った私年号板碑]]]]


]REFS]


-*-*-

[132] 
[TIME[昭和56(1981)年][1981]]の報告書は、
>>65
を紹介し、
[[私年号]]で[[文亀]]年間か、
としています。
[SRC[>>6]]

[114] 
一覧にはありませんが、
>>97
も紹介されており、[[私年号]]としています。
[SRC[>>191]]

[203] 
[TIME[昭和57(1982)年][1982]]の史料集は、
>>65
を紹介し、
[[私年号]]で[[文亀]]、[TIME[西暦1501年][1501]]としています。
[SRC[>>202]]


[REFS[

- [6] 
[CITE@ja-JP[埼玉県板石塔婆調査報告書 本文・図版編]], [[埼玉県立歴史資料館]], [TIME[1981.3.][1981]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-29T07:32:30.359Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12261363/1/22?keyword=%E6%96%87%E4%BA%80> (要登録)
-- [25] 
[CITE@ja-JP[板碑 : 埼玉県板石塔婆調査報告書 2]], [[埼玉県立歴史資料館 編集]], [TIME[1981.3][1981]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-29T07:34:04.107Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12220942/1/371> (要登録)
-- [191] 
[CITE@ja-JP[板碑 : 埼玉県板石塔婆調査報告書 3]], [[埼玉県立歴史資料館 編集]], [TIME[1981.3][1981]], [TIME[2026-07-28T01:09:38.000Z]], [TIME[2026-08-11T01:27:05.715Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12221354/1/194> (要登録)
- [202] 
[CITE@ja-JP[狭山市史 中世資料編]], [[狭山市]], [TIME[1982.3][1982]], [TIME[2026-07-28T01:09:38.000Z]], [TIME[2026-08-11T01:45:41.424Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9642490/1/278?keyword=%E5%BE%B3%E5%BF%9C> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[115] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]の書籍は、
次のように述べています。
[SRC[>>251]]

- [116] >>31 の範囲に属する
- [117] >>97 が中形だが、残り2例は小形で、[[室町時代]]以前に遡らない
- [118] >>97 様式が[[室町時代]]後期 ([TIME[1484]]-[TIME[1573]]) 以前
-- [119] 盛行期はほぼ応安初年から文明初年のころまで
- [120] [[干支年]]
- [121] [TIME[嘉吉元(1441)年][1441]]が極めて適切、おそらくまずほとんど誤りないと思われる
- [122] 旱魃、飢餓からの脱出願望、[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]], [CITE[甲斐妙法寺記]]など

;; [129] 
[CITE[日本私年号の研究]]と比定年を変更しておきながら、
[CITE[日本私年号の研究]]の建元理由をそのまま引いているので、
矛盾が生じています。

[153] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]の書籍は、
[[板碑]]の[[私年号]]の事例として次のように述べています。
[SRC[>>17]]

- >>29
-- [154] [[干支]]から文亀元年か嘉吉元年が有力
-- [155] 様式から嘉吉をとりたい
- [156] [[久保常晴]]が[[至大]]や[[天靖]] ([[嘉吉の乱]]の2年後) を[[南朝]]関連としながら、
[[嘉吉の乱]]の年にあたる[[徳応]]を天災原因とし[[文亀]]に比定したのはうなずけない
- >>65
-- [157] 15世紀とみえる
- >>97
-- [158] [[板碑]]そのものの様式は14世紀も前半
-- [159] 再利用(改ざん)でなければ時期を異にするのだろう




[REFS[

-
[250] 
[CITE@ja-JP[板碑の総合研究 1 (総論編)]], [[坂詰秀一]], [TIME[1983.2][1983]], [TIME[2026-07-28T01:09:38.000Z]], [TIME[2026-08-10T07:04:06.455Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12226011/1/160?keyword=%E5%BE%B3%E5%BF%9C> (要登録)
--
[251] 
[CSECTION[[V[私年号板碑]]]],
[[[V[石村喜英]]]]
- [17] 
[CITE@ja-JP[板碑の総合研究 2 (地域編)]], [[坂詰秀一]], [TIME[1983.11][1983]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-04T12:33:28.075Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12285158/1/72?keyword=%E5%BE%B3%E5%BF%9C> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[179] 
[TIME[平成元(1978)年][1978]]の書籍は、
次のように述べています。
[SRC[>>178]]

- [180] 文亀元年に使われたといわれている
- [181] 不明の部分が多い
- [182] [[甲斐国]]や[[武蔵国]]では飢餓
- [183] この地域では[[飢餓]]の克服の願いがことさら強く、[[徳応]]の[[私年号]]が生まれたといえよう

[184] 
本書は[[私年号]]の例示に[DFN[福応]]を挙げていますが、
[[私年号]]の解説本文にありません。 [SRC[>>178 /141]]
文脈からして[[徳応]]の誤りの可能性がある[[幽霊元号]]です。

[REFS[

- [178] 
[CITE@ja-JP[元号事典]], [[川口謙二, 池田政弘]], [TIME[1989.2][1989]], [TIME[2026-07-28T01:09:38.000Z]], [TIME[2026-08-10T12:14:41.943Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13246881/1/146?keyword=%E5%BE%B3%E5%BF%9C> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[144] 
[TIME[平成4(1992)年][1992]]の書籍は、
>>101
を紹介して、
次のように述べています。
[SRC[>>16]]

- [146] [[久保常晴]]と[[千々和到]]の研究
- [147] 嘉吉元年と明応10年=文亀元年のいずれかと考えられる
- [148] [[私年号]]は[[公年号]]の[[1字を使用する場合が多いので][1字置き換え説]]、
-- [149] 現段階では[TIME[明応10(1501)年][1501]]説が有力


[REFS[

- [16] 
[CITE@ja-JP[そうわの板碑]], [[総和町教育委員会社会教育課]], [TIME[1992.3][1992]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-10T11:23:58.606Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13202822/1/95?keyword=%E5%BE%B3%E5%BF%9C> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[211] 
平成3年の史料集は、
>>99
を紹介し、
[[私年号]]で徳応2年は文亀2年としています。
[SRC[>>210]]


[105] 
[TIME[1992-06-01]]、
>>101
が文化財指定されました。
[SRC[>>4]]

[94] 
[TIME[平成6(1994)年][1994]]の史料集は、
>>29
を紹介して、
[[私年号]]であり、現在の所[[干支]]から[TIME[嘉吉元(1441)年][1441]]か[TIME[文亀元(1501)年][1501]]のいずれかだが未確定で、
「[V[ここではとりあえず]]」文亀元年とされています。
[SRC[>>90]]

[107] 
[TIME[平成8(1996)年][1996]]の地域史は、
>>65
を紹介し、
[TIME[文亀元(1501)年][1501]]の[[私年号]]としています。
[SRC[>>11]]

[REFS[

- [210] 
[CITE@ja-JP[鴻巣市史 資料編 2]], [[鴻巣市史編さん調査会]], [TIME[1991.3][1991]], [TIME[2026-07-28T01:09:38.000Z]], [TIME[2026-08-11T02:02:38.824Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13134169/1/446?keyword=%E5%BE%B3%E5%BF%9C> (要登録)
-
[4] [CITE[27.5.pdf]], [TIME[2017-12-23T06:08:46.000Z]], [TIME[2022-12-25T12:03:02.097Z]] <https://www.city.ibaraki-koga.lg.jp/material/files/group/4/27.5.pdf#page=10>
- [90] 
[CITE@ja-JP[板橋区史 資料編 2 (古代・中世)]], [[板橋区史編さん調査会]], [TIME[1994.3][1994]], [TIME[2026-07-28T01:09:38.000Z]], [TIME[2026-08-10T05:24:43.174Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13128460/1/423?keyword=%E5%BE%B3%E5%BF%9C> (要登録)
- [11] 
[CITE@ja-JP[狭山市史 通史編 1]], [[狭山市]], [TIME[1996.3][1996]], [TIME[2026-07-28T01:09:38.000Z]], [TIME[2026-08-10T06:48:11.435Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9644852/1/213?keyword=%E5%BE%B3%E5%BF%9C> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[177]
[TIME[平成10(1998)年][1998]]の地域史は、
>>29 
を紹介し、
[[私年号]]で[[干支年]]から嘉吉元年か文亀元年のいずれか確定できていないとしています。
[SRC[>>175]]



[REFS[

- [175] 
[CITE@ja-JP[板橋区史 通史編 上巻]], [[板橋区史編さん調査会]], [TIME[1998.3][1998]], [TIME[2026-07-28T01:09:38.000Z]], [TIME[2026-08-10T11:49:02.756Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13180027/1/175?keyword=%E5%BE%B3%E5%BF%9C> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[166] 
[TIME[平成12(2000)年][2000]]付の [[Webページ]]の解説は、
[[私年号]]にも[[公年号]]の[[改元]]理由が援用できるとし、
[[徳応]]を[[革命改元]]の事例と説明しています。
[SRC[>>165]]

[167] 
筆者の独自説なのか、このような説の解説書か何かが存在するのかは不明です。
[[私年号研究]]の世界では見かけない解釈です。

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[165] 
[CITE[日本の私年号]], [TIME[2000-06-02T09:37:16.000Z]], [TIME[2026-08-10T11:08:09.527Z]] <https://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/018.htm>
]FIGCAPTION]

> 改元はその理由により、大別すると4通りに分類される。 ①代替わり ②祥瑞 ③災異 ④革命の年(辛酉や甲子)
>[SNIP[]]
> 私年号使用の直接的理由は、公的年号と同様に上記①~④のいずれかに求められるが、[SNIP[]]④の例としては、1441年に東日本で用いられた徳応が挙げられる。この年の干支は革命の辛酉で、朝廷でも永享から嘉吉に改元されている。

]FIG]

]REFS]

-*-*-

[187] 
[TIME[平成20(2008)年][2008]]の[[国立歴史民俗博物館]]
[CITE[東国板碑データベース]]
は、
5件の[[徳応]]銘[[板碑]]を収録しています。
[SRC[>>186]]

- >>97
- >>65
-- [201] [[私年号]]
- >>99
-- [212] [[私年号]]で徳応2年は文亀2年
- >>29
-- [218] [[私年号]]で嘉吉元年
-- [219] 出典文献なし、記入者は[[小林央]]
- >>29
-- [221] [TIME[西暦1501年][1501]]
-- [222] >>29 と思われるものが2件重複登録

[REFS[

- [186] 
[CITE[database(ita2)]], 
2008年 3月,
[TIME[2026-08-11T01:09:43.000Z]] <https://www.rekihaku.ac.jp/up-cgi/login.pl?p=param/ita2/db_param>
「徳応」で検索
-- [188] 
[TIME[2005-01-28T09:25:13.000Z]], [TIME[2026-08-11T01:11:50.225Z]] <https://www.rekihaku.ac.jp/GAZO/itabi/new/11202_0003_0009.jpg>
-- [200] 
[CITE[11215_0005_0006.jpg (JPEG 画像, 260 × 697 px)]], [TIME[2005-01-28T09:22:20.000Z]], [TIME[2026-08-11T01:43:18.874Z]] <https://www.rekihaku.ac.jp/GAZO/itabi/new/11215_0005_0006.jpg>
-- [213] 
[CITE[11217_0050_0001.jpg (JPEG 画像, 227 × 444 px)]], [TIME[2005-01-28T09:22:35.000Z]], [TIME[2026-08-11T02:04:22.484Z]] <https://www.rekihaku.ac.jp/GAZO/itabi/new/11217_0050_0001.jpg>

]REFS]

-*-*-

[171] 
[TIME[令和元(2019)年][2019]]の展覧会では、
>>29
が出展されました。

[140] 
その図録である[TIME[令和3(2021)年][2021]]の書籍は、
>>29
を紹介すると共に、
>>101,
>>65
に[[干支]]なき用例があることを紹介し、

- [15] 板碑編年から15世紀以降、嘉吉元(1441)年か文亀元(1501)年と考えられてきた。
- [141] 近年の板碑編年から1450年代。よって嘉吉元(1441)年の可能性の方が大きい。

... と説明しています。
[SRC[>>390]]

[REFS[

- [18] 
[CITE@ja[東京新聞:「私年号」の板碑など展示 府中で元号企画展 天文との関係も紹介:東京(TOKYO Web)]], [TIME[2026-05-04T13:07:07.000Z]], [TIME[2019-10-07T01:16:35.981Z]] <https://web.archive.org/web/20191007011335/https://www.tokyo-np.co.jp/article/tokyo/list/201910/CK2019100602000110.html>
- [168] 
[CITE@ja[Xユーザーの今福 匡さん: 「私年号、多すぎでしょw #中世東国と改元 https://t.co/azwLyhSctb」 / X]], [TIME[午後5:57 · 2019年8月30日][2019-08-30T08:57:50.000Z]], [TIME[2026-08-10T10:54:32.000Z]] <https://x.com/Tadashi_Imafuku/status/1167360769844887552/photo/1>
- [169] 
[CITE@ja[Xユーザーの可怜小汀さん: 「板碑から中世東国の人々の年号や改元に対する意識を探る。私年号では東国で最も流布した「福徳」をはじめ、「徳応」「弥勒」「至大」各銘の板碑を展示する。特に「至大」銘板碑は展示品が唯一の史料であり貴重だ。また鎌倉公方による不改年号の例として、同市安養寺所蔵の「正長三年」銘板碑を紹介する https://t.co/3MjGumw2KP」 / X]], [TIME[午前2:29 · 2019年8月14日][2019-08-13T17:29:30.000Z]], [TIME[2026-08-10T11:38:47.000Z]] <https://x.com/iokhicjnoakn/status/1161328940851453952>
- [170] 
[CITE@ja[Xユーザーの宇治の瀧屋さん: 「「至大」「徳応」「福徳」私年号三兄弟? いえこんなにあります。 https://t.co/dZXCyIjMlQ」 / X]], [TIME[午後3:46 · 2019年8月4日][2019-08-04T06:46:23.000Z]], [TIME[2026-08-10T11:38:47.000Z]] <https://x.com/UYE6bd8Np9Necw1/status/1157905602665779200/photo/2>
-[1] [CITE@ja[あゆこさんはTwitterを使っています 「私年号とは…元号は天皇の思想を反映させたもので災厄の度に改元。社会不安を一掃する呪術的な意味合いも。けれども伝搬は人。期待を込めて〈私年号〉のデマが流布することもあったそうです。 府中市郷土の森博物館企画展 〈中世東国と改元〉より https://t.co/0Ydj506pOI」 / Twitter]], 午前8:52 · 2019年12月31日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-01-28T06:55:20.000Z]] <https://twitter.com/thankyoueveryon/status/1211797229339435011/photo/4>
- [390] [CITE[[[中世東国と年号]]]]

]REFS]

-*-*-

[162] 
一覧表の類には、
おおむね[[千々和到]]以後掲載されるようになったようです。
[SRC[>>163]]

[164] 
[[千々和到]]の系譜の表は初期は文亀元年か、としていましたが、
その後文亀元年か、とする説と嘉吉元年か、とする説の併記のものが出てきています。
[SRC[>>163]]


[161] 
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]の一覧表は、
初期から[[徳応]]を掲載し、
文亀元年から1年継続としています。
[SRC[>>160]]
根拠は不明です。

[REFS[


- [163] [[日本私年号一覧表]]
- [160] [CITE[[[ウィキペディアの私年号一覧表]]]]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,徳応 	,- 	,文亀元年(1501年) 	,1 	,東京都中野区立文化センター蔵板碑など 

]FIG]

]REFS]



* 関連


[185] 
[CITE[嘉吉物語]]の[[徳応][徳応 (嘉吉物語)]]との関係は現在のところ知られていません。

-*-*-

[8] [CITE@ja-JP[新日本歴史 '''['''第7''']''' (天皇史)]], [[新日本歴史学会]], [TIME[1953]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T12:11:16.559Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2986852/1/108> (要登録)

堀河天皇 徳応元年 1086

[9] 応徳の誤植? 応徳元年 1084

* メモ
