[82] 
[DFN[宝明]]と[DFN[宝力]]は、[[元号名]]の2種です。

* 宝明、宝力 (私年号)

[1] 
[DFN[宝明]]と[DFN[宝力]]は、
[[江戸時代]]の[[日本の私年号]]の2つです。

[2] 
[[日本]][[陸奥国]]の一部 (現在の[[日本国]][[福島県]]の一部)
で使われました。

** 紀年法

[53] 
[[元年]]は、
[TIME[天保5(1834)年][1834]]です。

** 用例

*** 栃木県下の伝承

[95] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]に出版された[[日本国]][[栃木県]][[塩谷郡]][[氏家町]]
[WEAK[([[平成の大合併]]で[[さくら市]])]] の自治体史によると、
天保5年、
[[江戸]]の[[米相場]]の大暴落という経済変動のため[[寶力]]と[[改元]]される、
との[[根拠のない流言][改元デマ]]が[[江戸]]から[[氏家]]地方まで伝えられたとのことです。
[SRC[>>93]]

[96] 
残念ながらこの記述の根拠は明記されていませんが、
本書の他の部分は史料を引いて丁寧に地域史を記述するスタイルですから、
この部分も当地に残された何らかの史料に基づき執筆されたと推測されます。
ただ、 >>95 の記述のうちどこまでが史料の記録で、
どこからが著者の解釈であるのかは定かではありません。

;; [97] 氏家は[[奥州街道]]の[[宿場町]]で、[[宇都宮藩]]領でした。

[116] 
天保4年までの凶作から転じて天保5年は豊作だったようで (>>109)、
それに伴う米価の下落を指すとすれば、秋頃のものでしょうか。


*** 会津の用例

[73] [[宝力]]の用例は2点知られています。

[ITEMS[ [[日時事例]]
- [40] 
[DATA(.label)[[CITE[三世相写]] (馬場新家文書(その二)八三一)]],
[[馬場近右衛門]]の子[[佐内]],
[DATA(.addr)[[[日本]][[陸奥国]][[会津郡]][[鴇巣村]]]]
-- [41] 現在の[DATA(.addr)[[[日本国]][[福島県]][[南会津町]]]]
-- [42] 
[DATA(.label)[[[識語]]]]
「甲午二月十三日書之」
[SRC[>>3]]
--- [43] 
「天保五年」を消し「[DATA(.text)[宝力元年]]」と加筆
- [44] 
[DATA(.label)[[CITE[質畑証文之事]] (庄司家文書(その二)一九九九)]],
[DATA(.addr)[[[日本]][[陸奥国]][[会津郡]][[楢原村]]]]
--
[45] 現在の[DATA(.addr)[[[日本国]][[福島県]][[下郷町]]]]
--
[46] 
[DATA(.label)[後世の補記]]
「[DATA(.text)[宝力元年午ノ三月]]」
[SRC[>>3]]
]ITEMS]

[74] [[宝明]]の用例は1点知られています。

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [47] 
[DATA(.label)[[CITE[寸志見込勧諭帳]] (馬場新家文書(その一)七)]],
[DATA(.published)[天保五年二月]],
[DATA(.addr)[[[日本]][[陸奥国]][[会津郡]][[鴇巣村]]]]
-- [75] 現在の[DATA(.addr)[[[日本国]][[福島県]][[南会津町]]]]
-- [48] 
[DATA(.label)[表紙]]
「[DATA(.text)[[V[[LINES[寳明元年][[SNIP[]]][[SUP[午]]二月]]]]]]」 ([[草書]])
[SRC[>>3]]
--- [72] >>3 にカラー写真
-- [49] [[馬場近右衛門]]が関与 [SRC[>>3]]
-- [50] 
[DATA(.label)[袋]]
「[DATA(.text)[天保五年午四月]]」
---
[51] 
[DATA(.label)[他筆]]
「[DATA(.text)[宝明元年]]」
[SRC[>>3]]

]ITEMS]

[90] 
天保5年を宝力元年に修正していること (>>43)、
天保5年の袋に宝明元年の文書が入っていること (>>47)、
天保5年と宝明元年が併記されていること (>>50)、
午年と併記されていることから、
天保5年 = 宝力元年 = 宝明元年であることは確実と考えられます。


[62] 
「天保5年」、宝力、宝明の修正と他筆の順序関係はどう並べるべきだろう?

= [63] 鴇巣村 天保5年2月13日 >>43
= [85] 鴇巣村 宝明元年2月 >>48
= [86] 鴇巣村 天保5年4月 >>50
= [87] 楢原村 宝力元年4月 >>46
- [88] 鴇巣村 宝明元年 >>51 [>>86 より後]
- [89] 鴇巣村 宝力元年 >>43 [>>63 より後]

** 研究史

[94] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]に出版された[[日本国]][[栃木県]][[塩谷郡]][[氏家町]]
[WEAK[([[平成の大合併]]で[[さくら市]])]] の自治体史で紹介された
[SRC[>>93]]
のが、
現在知られている研究史上の[[寶力]]の初見です。

[98] 
この記載の元となる資料は不明で、どこまでが記録でどこからが推測か不明ですが (>>97)、
自治体史は次のように説明しています。

- [99] 江戸の米相場の大暴落という経済変動のため
- [100] 寶力と改元される、
- [101] との根拠のない流言が
- [102] 江戸から氏家地方まで伝えられた

[103] 
氏家で[[寶力]]を実用した事例があったのか、
改元見込みとの情報に留まったのかはここからは不明ですが、
自治体史が断定しているからには流言だったと判明したことまで記録されているのでしょうか。
(そうでなければ他の[[私年号]]のように、不明な[[元号]]の用例であり[[私年号]]だろうかと考察されていた可能性が高いです。)

[104] 
[[氏家宿]]は[[奥州街道]]の宿場町であり、[[江戸]]から[[改元デマ]]が北上したとする説には説得力があります。
実際に[[江戸]]からの情報伝達の記録が残っているのか、状況からの推測なのかは不明です。
通常の[[改元]]も[[江戸]]から[[藩]]を経由して[[氏家]]まで伝えられたでしょうし、
非公式に[[江戸]]から直接伝わることもあったかもしれませんから、
[[江戸]]から来たと理解するのは当然のことかもしれず、実際の情報源かどうかは慎重に検討が必要です。

[105] 
しかし[[江戸]]から[[奥州街道]]を[[宇都宮藩]]領まで北上したという情報伝達経路は、
その後[[会津]]地方から用例が発見されることと整合します。

[117] 
ただ時系列には疑問があります。元から滞留していた[[改元デマ]]に米価変動という「根拠」
が付与された可能性もあるでしょう。その場合[[江戸]]が発信源とも言い切れなくなります。

[106] 
残念ながらこの報告は、[[私年号]]や[[改元デマ]]の研究者の目に留まることがなく、
[TIME[令和7(2025)年][2025]]まで知られず埋もれていました。

[REFS[

- [93] 
[CITE@ja-JP[氏家町史 上巻]], [[氏家町]], [TIME[1983]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-07T14:30:32.709Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9642786/1/218?keyword=%E5%AE%9D%E5%8A%9B> (要登録)

]REFS]


[NOTE[

[109] 
[[天保の大飢饉]]については研究も多いようですが、
天保5年の[[江戸]]の[[米価]]の暴落について明確に説明しているものは
[[Web]] 上では見つけられません。

[110] 
米価の変遷の資料によると、[[会津]]その他の[[米価]]が天保4年から天保5年で半額になっています。
一方、[[江戸]]では天保4年の価格が約2倍の幅で上昇したと思われ、
天保5年はその高値の範囲に留まっています。
[SRC[>>108]]
しかし[[年]]単位でまとめた資料であり年内の変動はよくわかりません。

[112] 
天保元年から3年に既に[[全国]]的に[[米]]が不作でしたが、
天保4年は大凶作となりました。
これによって米価は高騰しました。
[SRC[>>113, >>111]]
しかし天保5年は豊作で米価は落ち着きました。
[SRC[>>113]]

[114] 
[[越前]]では天保2,3年に1俵が銀32.3匁だったのが、
天保4年には45.6匁、
天保5年夏には52.3匁と上がり続けましたが、
天保5年11月末には25.6匁まで下がりました。
[SRC[>>113]]

[115] 
天保5年1月に[[江戸幕府]]から発出され天保5年4月に[[関東取締出役]]から各村へ伝達されたという[[触]]によると、
天保4年の奥羽の凶作により[[江戸]]の[[米]]の供給は不安定化し、
[[江戸]]や各地の米価は高騰していました。
[SRC[>>111]]


[REFS[

- [108] 
[CITE@ja-JP[日本史総覧 4 (近世 1)]], [[今井尭 '''['''ほか''']'''編集]], [TIME[1984.5][1984]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-08T03:55:08.301Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12193249/1/308> (要登録)
- [113] 
[CITE@ja[『福井県史』通史編4 近世二]], [TIME[2019-03-28T03:12:50.000Z]], [TIME[2025-10-08T04:05:44.904Z]] <https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T4/T4-4-01-01-03-07.htm>
- [111] 
[CITE@ja[【7 天保大飢饉の先駆】]], [TIME[2025-10-08T04:05:19.000Z]] <https://adeac.jp/nagara-town/text-list/d100010/ht040790>



]REFS]

]NOTE]


-*-*-

[76] 
[TIME[令和4(2022)年][2022]]に[[日本国]][[福島県]]の地域史研究者[[小野孝太郎]]が[[宝力]]と[[宝明]]の用例を紹介しました
[SRC[>>3]]。これが[[宝明]]の研究史上の初見です。
次のように解説しています
[SRC[>>3]]。

- [54] >>48 には
「惣民安全」「百姓飢人御救心願」「五穀豊年」「一粒万倍」
と並んでいる。
- [56] [[私年号]]の除災招福
-- [57] 豊かさを意味する「宝」
-- [58] 強さ・勢いを象徴する「力」
-- [59] あかるく照らす「明」
- [55] [[天明飢饉]]以来の大凶作を乗り越えようとしたもの。
- [64] 「福島県域の
近世私年号は、凶作と関連して発生
し、対極的な「宝」を頻用する傾向
が一つにある」
- [65] 
「私年
号は、支配者層の目を忍んで使用さ
れ、その使用が秘匿される制約性が
あるにもかかわらず、豊富な私年号
が伝存する点は、福島県史の注目す
べき特徴」

;;
[66] 
この論調、他の[[私年号]]でも[[見たような][現存最古を発生と誤認した事案]]...? 
(「秘かに」説の他の事例は[[日本の私年号]]参照。)
新出[[私年号]]は最初は1つ、2つしか用例がないのでこのような推理をしがち。
ところが数年後に遠く離れた別地域で新用例が出てきたりするので、
初出用例の利用者や利用地域と深く関連付けて理由付けするのには慎重になった方がいいような。


[HISTORY[

[77] 
なお、これを紹介した出版社の論文目録には「宝刀」とあります [SRC[>>5]] が、
[[誤植]]です。

]HISTORY]

[7] 
[TIME[2023-02-08]]の[[日本国]][[福島県]]で発行されている[[新聞]]
[CITE[[[福島民報]]]]
のコラムは、
[[宝力]]を紹介しました。
出典はなくあたかも独自の見解かのように書かれていますが、
>>3 の説とほぼ同内容です。
[SRC[>>6]]

;; [78] 
このコラムは前年に[[自由自治元年]]も取り上げています。
[[私年号]]にこだわりのある記者がいるのでしょうか。

[91] 
[[令和時代]]に入って初めて認識された[[私年号]]で、
[[一覧表][日本私年号一覧表]]に掲載されたり、
全国的規模の研究で取り扱われたりはされていませんでした。


[92] 
[[令和時代]]に入って全国各地でいろいろな近世私年号の新報告が相次いでいます。
[[宝力]]や[[宝明]]はまったく新規の[[私年号]]の報告ですが、
既知の[[私年号]]が従来の報告例と違う地域で報告されるケースも多数あります。
[[宝力]]や[[宝明]]も未だ見ぬ用例が眠っているかもしれないという前提で史料捜索と分析を継続していく必要がありましょう。

[107] 
と書いていたら、[[昭和時代]]に既に[[栃木県]]で[[宝力]]が発見されていたことが判明しました。
独自[[私年号]]説はやはり全面的な見直しを迫られることでしょう。

[REFS[
- [52] [CITE[『[[福島県史料情報]]』第62号 - shiryojoho62.pdf]], [TIME[2022-06-06T03:24:38.000Z]], [TIME[2022-12-21T14:26:57.795Z]] <https://www.fcp.or.jp/history/uploads/2022/02/shiryojoho62.pdf#page=2>
--
[3] 
[CSECTION[[V[私年号「宝力」「宝明」[BR[]]使用例の発見]]]],
[[[V[小野孝太郎]]]]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[5] [CITE[[[新地方史情報]]155_02.indd - local-info_155.pdf]], [TIME[2022-10-07T11:49:30.000Z]], [TIME[2022-12-22T03:15:35.385Z]] <http://www.iwata-shoin.co.jp/local/local-info_155.pdf#page=6>
]FIGCAPTION]

>
[LEFT[
私年号「宝[ASIS[刀]]」「宝明」使用例の発見 小野孝太郎
]LEFT]

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[6] [CITE@ja[庶民の願い(2月8日) | [[福島民報]]]], 
2023/02/08 09:48,
[TIME[2023-02-09T03:13:33.000Z]] <https://www.minpo.jp/news/moredetail/20230208104649>
]FIGCAPTION]

>[SNIP[]]江戸時代の天保年間、現在の南会津地方の農民は畑を質入れする証文に「宝力元年」と記した。当時は洪水や冷害による大飢饉[ききん]に見舞われていた。「宝」は豊かさ、「力」は強さを象徴する言葉として用いたようだ。他に旧会津郡や伊達郡で「宝久」「宝明」「永長」などがある▼元号は明治以降、天皇一代に一つとする「一世一元」が踏襲された。それ以前は天変地異や伝染病といった災いを断ち切る目的で改元された例もある。私年号はそれにならい、苦境を脱しようとして編み出されたのだろう。願掛けにとどまらず、自助や共助で盛り返そうとする民のしたたかさも垣間見える[SNIP[]]
]FIG]

]REFS]

** メモ

[60] 
「宝力」「宝明」の異なる2つの[[元号]]が狭い範囲、同じ村の同じ人物
(名主[[馬場近右衛門]])
の周囲で発見されている (>>40, >>48) のは重要な点。
しかもどちらも2月。

[61] 
新元号が何か、同時に2つの情報が流通していた?




[67] 
[[私年号]]は同時代の[[公年号]]の文字を使う傾向が知られています。
[[私年号]]の発生原理が同時代の人々にとっての「[[元号らしさ]]」
の支配下にあるためなのでしょう。
[[江戸時代]]には「宝」が入った[[宝永]]、[[宝暦]]があり、
同音の「保」が入った[[元号]]も多数あります。
「明」が入った[[明暦]]、[[明和]]、[[天明]]があります。
従って[[宝明]]は当時の人にとってとても自然に感じられた[[元号名]]だったはずです。

[68] 
ところが「力」は[[江戸時代]]どころか[[東アジア]]史を通しても他に例がありません。
「宝力」はあまり[[元号]]らしく見えませんが、当時の人にとっても新奇に感じられたのではないでしょうか。
ただし「明暦」「宝暦」の「暦」との音の響きの類似には注意するべきかもしれません。
あるいは[[方言]]音も考慮が必要かもしれません。

[36] 
唐の宝暦が宝力と書かれる例があるが (誤記? >>25)、日本の宝暦は天保5年より前で時期が合わず、
誤記とは考えられない。




[4] [[久宝]]も同じ年の3月。地域は遠く離れていても、
まったく同じ月に「宝」が入った[[元号名]]。
偶然と片付けていいものか?

[71] [[永長]]の例があるので、この距離でも無関係とは言い切れない。

[70] [[宝久]]も参照。


* 宝明 (宝治)

[83] 
[[宝治]]の[[誤記]]が疑われる[[宝明]]がいくつかあります。

-*-*-

[8] [CITE@ja-JP[[[人吉市史]] 第2巻 上]], [[種元勝弘 編著, 人吉市史編纂審議会 編さん]], [TIME[1990]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-02-09T03:21:29.225Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9776277/1/126> (要登録)

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [9] [CITE(.label)@ja-JP[[[人吉市史]] 第2巻 上]]
-- [10] [CSECTION(.label)[球磨郡村誌]]
--- [11] [CSECTION(.label)[[V[中棚八󠄂幡神社]]]]
---- [12] 
「[DATA(.text)[[V[宝明元年丁未八󠄂月十五日[SNIP[]]]]]]」 ([[明朝体]])
に[[鎌倉鶴岡八󠄂幡宮]]を勧請
[SRC[>>8]]

]ITEMS]


- [13] [TIME['''宝'''治1(1247)年'''丁未'''][1247]] ([TIME[y~1189]])
- [14] [TIME['''宝'''暦1(1751)年辛'''未'''][1751]] ([TIME[y~1199]])
-- [18] 次の[[元号]]:
[TIME['''明'''和1(1764)年甲申][1764]]
([TIME[y~1406]])
- [15] [TIME['''宝'''寿1(1533)年癸巳][1533]] ([TIME[y~776]] [[私年号]]) : 2年が乙'''未'''
- [16] 
[TIME[永'''宝'''1(1387)年'''丁'''卯][1387]] ([TIME[y~1483]] [[私年号]])
- [17]  [TIME['''明'''暦1(1655)年乙'''未'''][1655]] ([TIME[y~808]])
- [32] 
[TIME[天保6(1835)年乙'''未'''][1835]] : 天保5年が >>2


[24] この中なら宝治が最もそれっぽいがしっくりこない。

[35] 明はどこから来たのか。

- [69] [CITE@ja-JP[肥後国求麻郡村誌]], [[卯野木盈二 校訂]], [TIME[1976]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-03-17T03:41:53.638Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9769803/1/61> (要登録)
右下

[79] こちらでは「[V[寳治元年丁未八月十五[BR[]]日]]」 ([[明朝体]])。

[80] >>69 >>10 は同じもののはずなので、 >>69 が[[誤植]]?

[81] 
[CITE[球磨郡村誌]]は[[明治時代]]の成立らしい。
もし活字本なら >>69 の[[誤植]]は当時の本に遡る可能性が。


[33] 
同じ人吉市域の他の八幡社でも

- [34] [CITE@ja[[[井口八幡神社]] | 人吉球磨ガイド]], [TIME[2023-02-09T04:18:53.000Z]] <https://hitoyoshikuma-guide.com/2019/12/12/inokuchihachimanjinjya/>

>相良氏の”戦の神”として信仰を集めた八幡宮。宝治元年(1247)、2代相良頼親が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建したといわれる。現存の建物は江戸時代中期の元禄12年(1699)の再建時のもの。[SNIP[]]

と[[宝治]]。


-*-*-

- [19] 
[CITE@ja-JP[沛雨遺書]], [[吉岡呵成 稿]], [TIME[大正3][1914]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-02-09T03:46:08.559Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/914589/1/52>

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [20] 
[DATA(.label)[[CITE@ja-JP[沛雨遺書]], [[吉岡呵成]]]], 
[TIME(.published)[大正3][1914]]
-- [21] 
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]寳明二年の春[SNIP[]]]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>19]]

]ITEMS]


[22] 直前に嘉禎2年、直後に建治2年とあるので、その中間で[[宝治]]か。


[23] 明はどこから来た?

-*-*-

[84] 
どちらも[[活字]]の出版物に遡るとすると、
よく一緒に使われるので[CH[明]], [CH[治]]の[[活字]]がセットで用意されていて、
間違えて違う方を使ってしまったのかもしれません。
他にも類例があります。 [SEE[ [[誤植]] ]]


* 宝力 (宝暦)

[25] [CITE[[[元稹]]简介_虚阁网]], [TIME[2022-05-08T18:27:59.000Z]], [TIME[2023-02-09T03:58:44.003Z]] <https://www.xuges.com/mj/y/yuanzhen/000.htm>

>唐敬宗宝力元年(825年),元稹命所属七州筑陂塘,兴修水利,发展农业,深得百姓拥戴。

[26] 
宝历 (宝暦) [TIME[y~822]]。

[27] [[中華人民共和国]]のウェブページで他にも元年、2年などでこのような例あり。


[28] [CITE[在博物馆里 文雅过年 ——大唐宝船里的风物(上)_华语环球]], [[ck 465]], [TIME[2023-02-09T04:03:26.000Z]] <https://chinese.cri.cn/media/album/zdfw/4486/20210209/619079.html>

>长沙窑青釉褐绿彩“宝力二年”铭花草纹碗
>
新加坡亚洲文明博物馆藏
>
本器为“黑石号”沉船出水器物中非常重要的一件,因器外壁在入窑烧造之前刻有“宝力二年七月十六日”铭记,这为判断“黑石号”沉没的年代以及船上装载货物的制作年代提供了可靠的依据。宝力二年为公元826年,以此为依据可以确定,“黑石号”沉没的年代不会早于公元826年。


[29] 写真があるが「宝力」の部分の字形はわかりにくい。

- [37] [CITE[一只粗瓷碗为沉船断代_凤凰艺术]], [TIME[2023-02-09T06:24:58.000Z]] <http://wap.art.ifeng.com/?app=system&controller=artmobile&action=content&contentid=3510038>
-- [38] [CITE[1604042740759.jpg (JPEG 画像, 347 × 550 px) — 表示倍率 (97%)]], [TIME[2020-10-30T07:25:40.000Z]], [TIME[2023-02-09T06:25:18.927Z]] <http://upload.art.ifeng.com/2020/1030/1604042740759.jpg>

[39] こちらの写真のほうがまだ見やすいが、「宝暦」部分がどういう字形なのかはっきりしない。


[30] [CITE@ja[「沈没船文化財展」が伝える1200年前の世界 中国と中東を結んだ海のシルクロード 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News]], [TIME[2023-02-09T04:05:24.000Z]] <https://www.afpbb.com/articles/-/3306229>

>船の材木はアフリカ産で、アラビア商人が中国の産品を中東に運ぼうとしたとみられる。西暦826年にあたる「宝暦二年七月十六日」と記された磁器があり、年代が特定された。船からは陶磁器、金銀器、銅器、鉄器、銭、ガラス、香料など6万点が見つかり、「まるで1200年近く前のタイムカプセル」と大きなニュースとなった。

[31] [CITE[从出土的陶瓷看唐宋时期中国与马来西亚的关系_杂志论文_文史博览(理论)杂志]], [TIME[2023-02-09T04:06:26.000Z]] <https://www.zz-news.com/com/wenshibolanlilun/news/itemid-580215.html>

>船上有一件外侧下腹刻有“宝曆二年七月十六日”字样的长沙窑阿拉伯碗。[8]

>[8] 陈克伦. 唐代“黑石号”沉船出水白釉绿彩瓷研究[J].上海博物馆季刊,2012.

* メモ