[22] 
[DFN[安仁年]]は、[[元号年]]のようなものの1つです。

* 用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [4] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[山形県]][[鶴岡市]][[大字寺田]][[字後田]]]] [[後田遺跡]] 出土 [[板塔婆]] [L[(1)]]]]
-- [8] >>129 : [L[(1)]]
-- [15] >>133 出典 : 木研19-140頁-(1)
-- [7] >>129 : 模写
-- [6] >>129 : [[明朝体]] [[翻刻]]
-- [5] 
「[V[𑖤𑖽[DATA(.text)[安仁年二月九日]]]]」
[SRC[>>6]]

]ITEMS]

[9] 
[TIME[平成6(1994)年][1994]]の5月から9月に[[財団法人山形県埋蔵文化財センター]]が行った発掘調査で出土しました。
[SRC[>>129, >>3]]

[10] 
>>4 が出土した溝が機能していた時期は判然としないものの、
12世紀末から14世紀が中心と推定されています。
[SRC[>>129]]

[11] 
第1字は[[梵字]]の[CH[𑖤𑖽]]と読まれています。 >>7 
を見る分には何らかの[[漢字]]である可能性も排除しきれない[[字形]]であるものの、
反対面にも同じ[[文字]]があり、そちらの面は全4字がすべて[[梵字]]として読まれています。

[12] 
また、 >>7 によれば第1字[CH[𑖤𑖽]]と第2字[CH[安]]の間には微妙な間が置かれているようにも見えます。

[13] 
第2字[CH[安]]以後は、 >>7 によれば、少々崩れているものの比較的わかりやすい[[字形]]で書かれています。

[REFS[

- [3] 
[CITE@ja-JP[後田遺跡・大道下遺跡 : 調査説明資料 第2次]], [[山形県埋蔵文化財センター]], [TIME[1994.9][1994]], [TIME[2025-12-18T02:09:35.000Z]], [TIME[2026-01-05T08:46:53.009Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13315549/1/5?keyword=%E5%AE%89%E4%BB%81%E5%B9%B4> (要登録)

]REFS]

* 諸説

[23] 
第1字は[[梵字]]とし、残りを[[漢字]]の[[日付]]として読むことは、
この読み方の妥当性が議論された記録は見当たらないものの、通説となっています。

[24] 
この種のものを見慣れているであろう調査担当者や地元研究者の[[釈読]]であり、
尊重し信用して良いと考えられます。

[25] 
しかし、だとすると[[年]]が3文字だけになって、[[元号名]]と[[元号年]]として不自然です。
先頭2字は既知の[[公年号]]と[[私年号]]のいずれとも一致しません。

;; [26] 唯一 >>18 が知られていますが、つながりは薄そうです。

[27] 
従って、現在まで通説といえるものが成立していません。
地元の研究者らの間では議論がなされているのではないかと思われますが (>>134)、
[[Web]] 上で記録が残るものはごくわずかです。

[28] 
「安仁」
を[[元号名]]とみなす解釈 (>>21) がありますが、その場合は「安仁年」
がどのような構造で、なぜそう書かれたかを考える必要が生じます。

[29] 
[[安貞]]の[[省略形][元号略号]]とする説 (>>16) は、現在知られている中で唯一、
一つの説として成立している解釈です。
有力説といえますが、
今後補強材料に恵まれることを期待したいものです。

[30] 
[[令和時代]]に至るまで、[[私年号研究]]の文脈で紹介された事例は知られていません。


* 研究史

[130] 
[TIME[平成9(1997)年][1997]]に調査担当者の一人でもある[[丸山晶子]]が記述した報告では、
>>4
について、
「安仁年」は
「[V[年号には実在せず、私年号にも今のところ認められ[BR[]]ない。あるいは書き間違ったものと思われる]]」
としています。
[SRC[>>129]]

[31] 
しかし書き間違いだとしても、何を間違えたのか候補がないことには、どうとも評価が困難です。

[14] 
[CITE[木簡庫]]
は、
>>4
を収録し、

>
,*和暦 	,安仁年2月9日
,*西暦 	,"2(月), 9(日)"

... としています。 [SRC[>>1133]]

[32] 何らかの年表記ではある、との解釈でしょう。

[REFS[

-
[129] [CITE@ja-JP[[[木簡研究]] (19)]], [[木簡学会]], [TIME[1997-11]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-16T08:31:15.201Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4424304/1/83?keyword=%E5%AE%89%E4%BB%81> (要登録)
- [133] 
[CITE@ja[[[木簡庫]] [[奈良文化財研究所]]:詳細]], [TIME[2026-01-05T08:37:17.000Z]] <https://mokkanko.nabunken.go.jp/ja/MK019140000001>


]REFS]

-*-*-

[21] 
[[佐藤圭]]の論文では、
「[V[「安仁」という年号が存在しない]]」など検討の余地があるとしつつ、
共伴遺物から13世紀・14世紀に分類しています。
[SRC[>>20]]

[REFS[

- [2] 
[TIME[2026-01-05T08:41:08.100Z]]
<https://air.repo.nii.ac.jp/record/5754/files/akishi67(1).pdf>
#page=6
-- [20] 
[CITE[Wayback Machine]], [TIME[2026-05-17T13:43:39.000Z]] <https://web.archive.org/web/20260305084121/https://air.repo.nii.ac.jp/record/5754/files/akishi67%281%29.pdf>

]REFS]

-*-*-

[16] 
[TIME[2011-10-28]]開催の研究会で発表され、
[TIME[平成24(2012)年3月][2012-03]]に発行された[[山口博之]]の論文では、
>>4
は様式と[[月日]]から、
[TIME[安貞2(1228)年][1228]]の[[安貞]]が[[安]]と[[1字に省略][元号略号]]されたものと推定されています。
[SRC[>>134]]



[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[134] 
[CITE@ja[[L[東北地方の塔婆類と野々江本江寺遺跡出土塔婆]]]],
[[[L[山口博之]]]],
[L[2012年3月]],
[TIME[2022-10-26T07:10:21.000Z]], [TIME[2026-01-05T08:38:34.652Z]] <https://www.ishikawa-maibun.jp/wp-content/uploads/2019/05/jouhou_27.pdf#page=46>
]FIGCAPTION]

>
[LEFT[
後田遺跡の年代であるが確実な紀年銘に恵まれないのだが、笹塔婆の一部に「安仁年二月九日」と[BR[]]
記されている資料がある。この文言をどう読むかについては議論の分かれるところであり明確な結論[BR[]]
は出されていない。私案ではあるが「安仁年二月九日」は、「安貞二年二月九日」を略したものと見[BR[]]
ておきたい。この資料自体笹塔婆としては大型であり、鎌倉時代までさかのぼる古い様相を持ってい[BR[]]
ること。また日本の年号で安を配するものは鎌倉時代では安貞のみであること。二月九日はおそらく[BR[]]
時正であり彼岸をあらわし、時正は鎌倉時代から板碑など石造物に記されることが多くなること。さ[BR[]]
らに紀年には慶長五年を慶五と年号2文字目を略す場合などがあること。などによる。こうした推定[BR[]]
により木簡の紀年を安貞二年と見れば1228年ということになる。これ以前の安元二年(1176)も考察[BR[]]
の対象ではあったが、12世紀代の遺物はまったく見ることができなかったため除外している。
]LEFT]

]FIG]

]REFS]

* 関連

[18] 
[[日本国]][[京都府]][[京都市]][[左京区]][[静原]]の[[琴平神社]]の社殿に、
「安仁」年中云々とあります。
[SRC[>>17, >>1]]

[19] 
記載内容からみて、[[仁安]]あるいは[[安元]]の誤りと考えられます。

[REFS[

- [17] 
[CITE@ja-JP[京都府愛宕郡村志]], [[京都府愛宕郡]], [TIME[明44.1][1911]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-17T13:25:00.544Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/765593/1/212?keyword=%E5%AE%89%E4%BB%81>
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1] [CITE@ja[金毘羅山の三壺大神とヒカゲツツジ 京都北山 大原の里10名山]], [[Maro@きょうのまなざし]], [TIME[2026-01-05T07:47:27.000Z]], [TIME[2026-01-05T08:39:42.790Z]] <https://www.kyotocity.net/diary/2014/0508-kyotokitayama-konpirayama-hikagetsutsuji/>
]FIGCAPTION]

> 1911年(明治44年)の『京都府愛宕郡村志』における「静市野村志」には、
>>    琴平神社
>>    字靜原 小字堂ノ峰
>>[SNIP[]]
>>    社傳には崇德天皇讃岐國にて崩御の後兵衞佐局か天皇の御遺旨により御遺物を集め京都に歸り此地を相し安仁年中創立せしものなりとあり未た如何を知らす境內四百坪民有地第一種
]FIG]

]REFS]

* メモ





