[23] 
[DFN[太政]]は、[[日本]]の[[架空の元号]]の1つです。

* 用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [14] [CITE(.label)[日蔵夢記]]
-- [7] >>6 PDF 26ページ: 写本の写真
-- [8] >>6 PDF 33ページ: [[翻刻]]
-- [15] 
[VRL[
[SNIP[]]又改天慶三年為[DATA(.text)[太[BR[]]政元年]]改大臣号永為摂政大臣延喜通寶為太政大寶一天[BR[]]
下大政天之心也一切王法不違傾式[SNIP[]]
]VRL]
[SRC[>>8]]
- [16] [CITE(.label)[吉祥院天満宮詳細録]], [TIME(.published)[昭和4(1928)年][1928]]
-- [17] 所引[CITE(.label)[北野文叢紀文部道賢上人冥途記]]
--- [13] 
「[SNIP[]]又改[SUB[二]]天慶三年[SUB[一]]為[SUB[二]]太政元年[SUB[一]][SNIP[]]」
[SRC[>>10]]

]ITEMS]


[1] 
[CITE[[[日蔵夢記]]]]には、
[[満徳法主天]] ([[宇多法皇]])
が[[道賢上人日蔵]]に
「[TIME[天慶三年][year:0940]]を太政元年に[[改元]]せよ」
と伝えた、
とあります。 [SRC[>>2 PDF 14頁]]


[24] 
[CITE[日蔵夢記]]
は[[中世]]の成立と見られますが、具体的な時期については様々な問題を孕んでいます [SRC[>>11]]。


[REFS[
- [2] [CITE[[[『道賢上人冥途記』・『日蔵夢記』備考 ― 史実との関係、ならびに登場人物、全体構成、表現の相違等をめぐって ―]]]]
- [6] 
[CITE[[[〔資 料〕 示水遺影本『日蔵夢記』--解題と影印・翻刻--]]]]
-
[10] [CITE@ja[京の霊場 [[吉祥院天満宮詳細録]] 第七章]], [TIME[2023-03-30T20:49:00.000Z]], [TIME[2024-01-01T13:57:30.435Z]] <https://kyonoreijo.sakura.ne.jp/kkr/kts/kkrkts-07_07n.htm>


]REFS]


* 諸説

[3] 
史実になく、[[天神信仰]]形成過程の[[創作][架空の元号]]とされています [SRC[>>4]]。

[12] 
[[延長改元]]説話との関連も示唆されます。

* 研究史

[18] 
[CITE[[[日蔵夢記]]]]
関連は[[平成時代]]に研究が進められており、
その中には[[太政元年]]に言及するものもあります [SRC[>>11]]。
ただ、[[太政元年]]自体が主たる論題にはなっていません。

[REFS[


[FIG(quote)[ 
[FIGCAPTION[
[11] [CITE@ja[HYOUSI6-71_43000.pdf - 671_1.pdf]], [TIME[2024-01-01T14:01:41.000Z]] <https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonshikenkyu/671/0/671_1/_pdf/-char/ja#page=11>
]FIGCAPTION]

>
[VRLBOX[
[SNIP[]][BR[]]
じわい異界訪問を行ったとされるのであるが、その時期[BR[]]
が、[YOKO[A]]『日蔵夢記」と[YOKO[B]]『道賢上人冥途記』とでは、以下[BR[]]
に示すごとく微妙に異なるのである。 [BR[]]
[YOKO[A]]では、その時期を入峯以降「十六箇年」とするので、[BR[]]
延喜一六(九一六)年+一六年=承平元(九三一)年こそが、 [BR[]]
臨死体験の時期となる。これに対して、[YOKO[B]]では、その時期[BR[]]
を入峯以降「廿六ヶ年」とするので、延喜一六(九一六) [BR[]]
年十二六年=天慶四(九四一)年が、臨死体験の時期とな[BR[]]
る。 [BR[]]
従来、この両説は[YOKO[A]]『日蔵夢記』の方が書写の誤りをう[BR[]]
けたものとされてきた。その最大の理由は、[YOKO[(8)]]のところ[BR[]]
で、太政天が天慶三(九四○)年を「太政元年」とせよと述[BR[]]
べる点にあった。[YOKO[(1)]]と[YOKO[(8)]]の記述が連動するものとすれば、 [BR[]]
[YOKO[A]][YOKO[(1)]]のごとく臨死体験の時期を承平元(九三一)年とするこ[BR[]]
とはできなくなる。しかし、前節でも述べたごとく[YOKO[A]]・[YOKO[B]][BR[]]
ともに「秘事・口伝」の体系的集成であるから、これら所[BR[]]
伝の全体を必ずしも一貫したものと理解する必要はない。 [BR[]]
[YOKO[(8)]]に天慶三年の記述があったとて、[YOKO[(1)]]はそれが付加される[BR[]]
以前に成立したものだから、「十六箇年」であった可能性 [BR[]]
もこのままではすてきれない。 [BR[]]
そこで注目されるのは、道賢の臨死体験の時期を承平四[BR[]]
(九三四)年のこととする所伝の存在であ[RUBY[る][[YOKO[(12)]]]]。このように承[BR[]]
[SNIP[]][BR[]]
らに[YOKO[(8)]]で天慶三年を太政元年とする所伝が成立すると、逆[BR[]]
に道賢の臨死体験を天慶年間に結びつける必要が出てく[BR[]]
る。それは、当然、道賢の入峯修行を「十六箇年」から[BR[]]
「廿六ヶ年」に再解釈することで、彼の臨死体験を「天慶[BR[]]
四年」にもってくることを必然とする。 [BR[]]
天神信仰の要素を初期的な所伝に付加してゆく中で、天 [BR[]]
慶三年を太政元年とせよという所伝も現れる。こうなる[BR[]]
と、道賢の臨死体験自体が天慶年間以降に行われたものと[BR[]]
せざるを得なくなってくる。それに合わせて、所伝自体の[BR[]]
再解釈がなされ、修行期間を「廿六ヶ年」、入峯の時期を[BR[]]
「天慶四年」とする言説が生み出されてきたのではないだ[BR[]]
ろうか。ちなみに太政元年とされた天慶三年は、将門誅殺 [BR[]]
を転機に承平天慶の乱の転換点となった年である。翌年に[BR[]]
は純友も追討され、その翌天慶五年には、北野鎮座のきっ[BR[]]
かけとなる多治比奇子への託宣が起こったとされ[RUBY[る][[YOKO[(13)]]]]。荒ぶ[BR[]]
る火雷天神の威力が統御神化して祭りあげられてゆくのに[BR[]]
ふさわしい画期となる年といえる。 [BR[]]
本来は、道賢の臨死体験とその夢想は延喜十六年から[BR[]]
「十六箇年」をへた承平元年に起こったものと考えられて[BR[]]
おり、これをもとに誤写を通じて承平四年説も唱えられ [BR[]]
た。その一方、前項で述べたように、十一世紀以降、道賢[BR[]]
の臨死体験に天神信仰が習合させられてくると、承平元年[BR[]]
[SNIP[]]



]VRLBOX]


]FIG]

]REFS]

-*-*-

[22] 
史実にないためなのか、[[元号研究]]の分野ではほとんど取り上げられたことが無いようです。
わずかに次の事例が知られています。

[20] 
[[平成時代]]の[CITE[日本年号史大事典]]は、
[[コラム]]において
>>19
を出典に
[CITE[日蔵夢記]]
の[[太政]]改元の物語を紹介しています。
[SRC[>>4]]

[REFS[

- [21] [CITE[[[日本年号史大事典]]]], 普及版 189ページ
-- [4] [CSECTION[[V[[WEAK(smaller)[コラム[YOKO[8]]]] 天神信仰と「延長の例」「太政改元」]]]],
[[[V[[YOKO[K]]]]]],
p.[L[189]]
--- [19] 引用: 
[CITE[永久寺本『道賢上人冥土記』に関する二、三の問題]],
[[竹居明男]],
[CITE[[[古代文化]] 三九巻一号]], 昭和62年

]REFS]

* 関連

[9] 
[[説話]]の真偽がどうであれ、
[[夢]]で[[改元]]するよう告げられただけで、
それに従い[[改元]]されたと記録したものではありません。
現実世界の[[年]]との対応関係が定まっているとはいえ、
実在する(した)[[元号]]とはいえないものです。



[SEE[ 類例は[[架空の元号]] ]]

[5] なお別に[[日本の私年号]]の1つ[[大政]]がありました。

* メモ



