[234] 
[DFN[天将]]や[DFN[天政]]は、
[[天正]]の異表記とされる[[異年号]]です。

* 用例

** 天將の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [82] [DATA(.label)[[CITE[[V[[[松藩捜古]] 下]]]] 所収 [DATA(.addr)[[[日本]][[陸奥国]][[安積郡]][[駒屋村]]]]百姓[[彦八]]所蔵文書]]
-- [81] >>80 : [L[50]] [[駒屋村]]百姓[[彦八]]所蔵
-- [89] >>92, >>88 : [L[293]] [CITE[[V[宗祐判物]]]]
-- [235] 現在の[[日本国]][[福島県]][[郡山市]][[三穂田町]][[駒屋]] ([[岩代国]])
-- [83] 
「[DATA(.text)[[V[[RUBYB[天[RUBY[将][(正)]]二年霜][本書ノママ]]月吉日]]]]」
[SRC[>>81]]
--- [90] 
「[DATA(.text)[[V[天[RUBY[将][(正)]]二年[RUBY[霜月吉][(十一月)]]日]]]]」
[SRC[>>89]]
--- [94] 
「[DATA(.text)[[V[天[RUBY[將][ママ]]二年霜月吉日]]]]」
[SRC[>>93]]

]ITEMS]

[84] 
「本書ノママ」は[CITE[松藩捜古]]編者の注釈と思われます。
「(正)」は[CITE[二本松市史]]/[CITE[郡山市史]]編者の注釈と思われます。

[236] 
現況不明。

[REFS[

- [80] 
[CITE@ja-JP[二本松市史 第3巻 (資料編 1 原始・古代・中世)]], [[二本松市]], [TIME[1981.3][1981]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-10T11:42:08.526Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9642219/1/353?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87> (要登録)
- [92] 
[CITE@ja-JP[郡山市史 第8巻 (資料 上)]], [[郡山市]], [TIME[1973]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-11T08:40:53.603Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9569387/1/136?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87> (要登録)
-- [88] 
[CITE@ja-JP[[[郡山市史]] 第8巻 (資料 上)]], [[郡山市 編集]], [TIME[1981.12][1981]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-11T08:34:37.913Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9642402/1/136?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [1] [CITE(.label)[会津塔寺八幡宮長帳]]
-- [3] >>5 : 白黒写真 (解像度中の下)
-- [7] >>5 : [[明朝体]] [[翻刻]]
-- [2] 
「[V[[DATA(.text)[亍時天将三稔乚亥   正月大𠮷日]]]]」
[SRC[>>3]]
--- [47] >>44 : [[同音異字年号]] [L[29]]
--- [57] >>44 : 白黒写真 (低解像度)
--- [4]  
「[V[[DATA(.text)[干時天將三稔[SUP(smaller inline)[乚亥]]   正月大吉日]]]]」
[SRC[>>7]]
--- [46] 
「[V[[DATA(.text)[天将三稔[LINES(smaller)[乙][亥]]正月大吉日]]]]」
[SRC[>>44]]
--- [127] 
「[V[[DATA(.text)[天將三稔[SUP(smaller inline)[乙]][SUB(smaller inline)[亥]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>124]]
- [35] [DATA(.label)[[[帝国図書館]]本[CITE[塔寺日記]]]]
-- [36] 
[DATA(.label)[第二跋語後朱書]]
「[V[此所前記ニ録セシ[DATA(.text)[天將三年 [SUP(smaller inline)[乙]][SUB(smaller inline)[亥]]]] ノ記ナリ]]」
[SRC[>>7]]


]ITEMS]

[8] 
>>3 によると、
[CH[天]]の左側あたり、 [CH[稔]]の右側あたりが損傷しています [SRC[>>3]] が、
判読は問題ないと思われます。

[9] 
概ね文字の形ははっきりし、それぞれ独立しているものの、点画が明瞭でないところもあります。

[31] 
[CH[将]]は[[新字体]]と同形とも、他の[[異体字]]とも解釈でき、
いずれであるかを議論する意味は無さそうです。

[34] 
[CH[稔]]は[[偏]]が[CH[禾]]であるかは議論の余地がありそうです。
[[旁]]が損傷で一部しか見えないのも問題ですが、[[旁]]左側残画から[CH[念]]である可能性は高く、
[[年の字]]である[CH[稔]]と考えることに問題は無さそうです。

[41] 
[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]
は毎年分の記事が長年続いたものであり、
天正3年が他に無いことと[[干支年]]から、
天将3年が天正3年であると容易に断定できます。

[37] 
[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]のうち、[CH[将]]は天正3年相当だけであり、
他は天正2年、天正4年など[CH[正]]が使われています。
[SRC[>>5]]

[38] 
>>36 は[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]の一写本の奥書であり、
原文の「天将」を書き写したものと考えられます。

[39] 
>>5 は[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]の[[翻刻]]本ですが、
全編通して[[旧字体]]の[[明朝体]]を用いており、
「[V[天將]]」
の表記となっています。
>>2 は >>3 に原本写真がありますが、
>>36 の原表記は確認を要します。


[REFS[

- [5] 
[CITE@ja-JP[重要文化財[[会津塔寺八幡宮長帳]]]], [[是沢恭三]], [TIME[1958]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-10T06:39:26.894Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3001042/1/35?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%86> (要登録)

]REFS]


-*-*-

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [85] [DATA(.label)[秋田藩家蔵文書 [CITE[某起請文写]]]]
-- [188] >>187 : [V[家藏文書 二五]] [V[五〇]]
-- [86] >>78 : F8001-25-50
--
[79] 
「[DATA(.text)[[V[天將五年二月廿二日]]]]」
[SRC[>>187]]

]ITEMS]

[238] 
[[秋田藩家蔵文書]]は、[[関ヶ原の戦い]]の後に[[常陸]]から[[秋田]]へ移封された[[佐竹家]]で、
[[近世]]に編纂された文書群です。

[239] 
>>85 の[[宛所]]に[[舟山]]とあり、[[船尾山城守昭直]]と解されています。 [SRC[>>187]]
[[船尾昭直]]は[[陸奥国]]南部に勢力を有し、
[TIME[天文22(1553)年][1553]]には[[佐竹氏]]の配下に入りました。

[240] 
発給者の素性は不明ですが、[[福島県]]下近辺で書かれた可能性が高いと考えられます。


[REFS[

- [187] 
[CITE@ja-JP[茨城県史料 中世編 4]], [[茨城県立歴史館]], [TIME[1991.3][1991]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T07:51:11.235Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9644613/1/209?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87> (要登録)

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[78] 
[CITE@ja[[L[秋田藩家蔵文書]]]], 
[TIME[2022-03-11T04:58:46.000Z]], [TIME[2026-06-10T11:31:32.492Z]] <https://rekishikan-ibk.jp/cms/wp-content/uploads/2022/03/satake-mokuroku03.pdf#page=25>
]FIGCAPTION]

>
[LEFT[

>
,F8001 ,25 ,50 ,某起請文写 ,天将05 ,1577, 2 ,22 ,片次義□(花押影) ,舟山, 竪 ,1 ,A280-69-25-[BR[]]50, 県史料Ⅳ25-50

]LEFT]
]FIG]

]REFS]

-*-*-

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [95] 
[DATA(.label)[[[日本]][[陸奥国]][[耶麻郡]][[小荒井組]][[長尾村]] [[長福寺]] 涅槃掛軸]]
-- [96] 
[DATA(.label)[裏書]]
「[DATA(.text)[[V[天將五季丁丑五月三日]]]]」
[SRC[>>93 /154]]
--- [232] 
「[DATA(.text)[[V[天将五季[SUP(smaller)[丁]][SUB(smaller)[丑]]五月三日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>231]]

]ITEMS]

[97] [CITE[新編会津風土記]]に記録があります [SRC[>>93, >>231]]。

[233] 
[[日本国]][[福島県]][[喜多方市]][[豊川町]][[長尾]]に[[長福寺]]は現存するようですが、
掛軸の現況は [[Web]] 上に情報が見当たらず不明です。




** 天政の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [53] 
[DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[福島県]][[南会津郡]][[田島町]]]] [[徳昌寺]] [[長沼盛秀]]供養 [[五輪塔]]]]
-- [55] >>44 : [[同音異字年号]] [L[31]]
-- [207] >>206 : [V[四二]]
-- [209] >>206, >>218 : 白黒写真 (低解像度) 判読困難
-- [208] 
「[DATA(.text)[[V[干時天政十八年[SUP(smaller inline)[庚]][SUB(smaller inline)[刁]][BR[]]三月□二日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>207]]
--- [204] 
「[DATA(.text)[[V[于時天政十八年三月二日[SNIP[]]]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>203, >>93 /26]]
--- [213] 
「[DATA(.text)[[V[干時天政十八年三月二日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>211]]
--- [215] 
「[DATA(.text)[[V[于時天政十八年[LINES(normal)[庚][□]]    三月□二日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>214]]
--- [54] 
「[DATA(.text)[[V[天政十八年三月二日]]]]」
[SRC[>>70 ([CITE[大日本地名辞書]]), >>55 ([CITE[大日本地名辞書]])]]

]ITEMS]

[243] 
>>53 は[[長沼盛秀]]の墓であると伝承され広く信じられていますが、銘文にそのことなく、
詳細は不明です。[[紀年]]も直接的には供養の[[日付]]であって、
必ずしも[[命日]]と解せるものではありません。

[244] 
所在地が長沼家の所縁の寺であり、伝承はそのことと関係しているのでしょう。

[245] 
長沼家はこの地の支配勢力でしたが、[[中近世移行期]]の政治状況の中で程なく没落しました。
天正18年は[[長沼盛秀]]の没した時期に当たるとされるものの、厳密な年月日は不明であり、
この年を没年とする説は当墓碑を主要な根拠と1つとしていると思われます。

[246] 
永正18年に既に死去しているとする記録がある (>>230) 一方、
天正年間の天正18年より前、あるいは後にも発給文書があるとする説もあるようですが、
人定に不確実性を抱えており、決定打に欠けるようです。

[247] 
[[五輪塔]]の様式から時代を推定したものは見当たりません。

[248] 
現在 [[Web]] 上で見つけられる銘文部分の写真は[[昭和時代]]に撮影された >>209
のみですが、石造物の横面に文字が刻まれている雰囲気は把握できるものの、
[[文字]]として読むのは至難の業です。

[249] 
写真と、同時掲載されている[[昭和時代]]の解読を見比べると、
全体的に風化が進んで磨滅しているということではなく、
読めそうで読めない謎の字形だったり、部分的な損傷のようなもののため、
飛び飛びにしか判読できていないように見えます。

[250] 
また、左上部分が大きく削り取られたような形で欠損しています。
普通に考えると[[五輪塔]]として制作された直後は[[直方体]]に整形されていたはずです。
ところが、[[文字]]は削れた斜めの面から横面へと連続しているように見えます。
写真は不鮮明でわかりにくいのですが、解読された銘文の文字数と文字の大きさを考えると、
斜め面の凹凸も文字として読んでいるはずです。[[紀年]]のうちだと、
おそらく「[V[于時]]」の2字は斜め部分に彫られていると思われます。

[251] 
もしその通りだとすると、銘文は欠損が発生した後から刻まれたのか、
元々あった銘文の一部が失われてから補刻したか、のどちらかと理解せざるを得ません。
実物の詳細な観察が望まれます。

[252] 
不明瞭な写真だけで安易な判断を下すのは危険ですが、
[CH[天]]と読まれる第3字らしき部分は、
通説の通り[CH[天]]と読むべきかは肯定よりの疑問といったところで、
明確に[CH[天]]と断言するのは憚られる雰囲気があり、
かといって他の字とも言いかねます。上部が欠損部分に掛かっていそうなのは要注意です。
[CH[永]]と読むべき可能性は否定しきれないまでも、あまり肯定できないでしょうか。
[CH[亅]]の画が見えません。

[253] 
[CH[政]]と読まれる第4字らしきものは、
輪郭だけで細かい構造が消失または元から無かったのではないかとも思えるのですが、
確かに[CH[政]]のように見える形はしています。
しかしそれは[CH[政]]と思ってがんばって見ているからで、
字形は極めて不明瞭です。[[旁]]の部分もどうなっているのかほぼわかりません。
石刻ですから全体的に字画は明確で、流暢な[[草書]]の崩しは見られないのですが、
この位置に[[楷書]]の整った[CH[政]]があったとは思えません。
[[草書]]の[CH[政]]の字形の可能性は排除されませんが...
[CH[正]]の可能性はあまり無さそうに思われます。

[254] 
その下には「[V[十八年]]」と読まれた部分がありますが、
正直なところどこをどう読んだものか凝視してもわかりません。

[255] 
更に下、この[[行]]の下端には、右上と左下に斜めに
[CH[庚]]、[CH[刁]]があるとされます。
[CH[刁]]はそれらしき字形が見えますが、読みづらく、半ば[CH[日]]のようにも思えます。
この位置は[[十二支]]が来るという知識がなければ[CH[刁]]とは読めないかもしれません。
[CH[庚]]は更にハードルが高く、意識して見れば[CH[广]]のようにも見える痕跡がありますが、
右下に字形が続いているのかはよくわかりません。あるいは[CH[庚]]の[[略字]]としての
[CH[广]]しか無いのかも知れません。

[285] 
[[干支]]が確かに「庚寅」であるなら、この[[天政]]は[[天正]]である可能性がかなり高くなります。
しかし、この画像状況では肯定にも否定にも断定的に判断することが困難です。

-*-*-

[114] 
[[近現代]]の「天政」は[[天正]]の[[誤植]]、[[誤変換]]が多い。

- [190] 
[CITE@ja-JP[江戸の栄華を支えた佐渡奉行たち 第4集]], [[中川三代治 著・編]], [TIME[1995.3][1995]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:02:40.073Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13248265/1/202?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF> (要登録)
- [193] 
[CITE@ja-JP[郷土発達史と人物及家 : 諸侯及諸家系図紋章入]], [[税田古処]], [TIME[昭和15][1940]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:05:26.594Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1053401/1/78?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF> (要登録)
- [194] 
[CITE@ja-JP[東宇和郡地理歴史]], [[愛媛教育協会東宇和部会]], [TIME[明38.1][1905]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:06:08.518Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/766522/1/22?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF>
- [195] 
[CITE@ja-JP[下伊那郡町村自治要覧]], [[金井太郎]], [TIME[明43.9][1910]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:07:10.814Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/784644/1/76?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF>
- [196] 
[CITE@ja-JP[風の子 : 綴方集]], [[山本映佑]], [TIME[昭和24][1949]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:09:32.817Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1338710/1/94?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF> (要登録)
-- [197] 「維時天政三年辰二月道益之図」
--- [198] [TIME[文政3(1820)年庚辰][1820]]か
- [201] 
[CITE@ja-JP[いしい乃昔話・藍と農業史]], [[上田利夫]], [TIME[1987.5][1987]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:17:46.852Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13196743/1/58?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF> (要登録)
- [202] 
[CITE@ja-JP[鶴ケ島町郷土史資料集 第1・2集]], [[鶴ケ島町史編纂室]], [TIME[1979.3][1979]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:22:16.517Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9641703/1/9?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF> (要登録)


[191] 
正体不明(要検討)の「天政」

- [192] 
[CITE@ja-JP[日蓮宗大観]], [[西村慈珖]], [TIME[大正7][1918]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:04:19.557Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/943970/1/240?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF>
- [199] [CITE@ja-JP[鹿島町史 第4巻 資料編 3]], [[鹿島町史編纂委員会]], [TIME[1993.3][1993]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:14:29.956Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13197776/1/356?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF%E5%9B%9B%E5%B9%B4> (要登録)
-- [200] 隣に「天保」があるので[[天保]]が正解?





** 天□の用例

[103] 
[CITE[新編会津風土記]]によると、
[[大町]]の有力者である[[梁田仙右衛門]]家の日記に、[[元和]]の頃記録されたものとして、
いくつかの[[文書]]があるそうです。
[CITE[新編会津風土記]]にそれらが収録されています。
[SRC[>>109, >>100 /437]]

[130] 
[[平成時代]]初期の論文では、
>>48
を含む[[天正]]年間とされる4点の文書は、
いずれも焼損しており、
焼け焦げた状況、
文字の字体、
紙質などから、
一連のもので同じ意図をもって[[近世]]に作成された可能性が高いと評されています。
[SRC[>>128]]
筆者の実見による判定のように読めます。

[6] 
[TIME[昭和56(1981)年][1981]]の史料集に、白黒写真が収録されています。
[SRC[>>133]]

[REFS[

- [133] 
[CITE@ja-JP[簗田氏家譜と古文書 〔本編〕]], [[簗田英雄]], [TIME[1981.9][1981]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-11T14:35:55.928Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12253055/1/16?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87> (要登録)

]REFS]


[ITEMS[ [[日時事例]]

- [48] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[福島県]][[北会津郡]][[大町]]]] 簗田家文書]]
-- [134] >>133 : 簗田家古文書 [V[[YOKO[(六)]] 第七号 巳 蘆名盛隆(袖判、朱印)掟書]]
-- [50] >>44 : [[同音異字年号]] [L[30]]
-- [137] >>133 : 白黒写真 (解像度中の下)
-- [185] >>184 : 白黒写真 (低解像度) 年部分は薄くてほぼ読めない
-- [167] >>164 : 白黒写真 (低解像度)
-- [173] >>171 : 白黒写真 (低解像度)
-- [142] 
「[DATA(.text)[[V[天□四年[BR[]]    九月十六日]]]]」 ([[草書]])
[SRC[>>137]]
--- [186] 
「[DATA(.text)[[V[天將四年[BR[]]    九月十六日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>184]]
--- [129] 
「[DATA(.text)[[V[天将四年[BR[]]    九月十六日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>128, >>162, >>179]]
--- [172]  
「[DATA(.text)[[V[天将四年九月十六日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>171]]
--- [176]  
「[DATA(.text)[[V[天將四年九月十六日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>175]]
--- [102] 
「[DATA(.text)[[V[天將四年五月十六日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>109, >>100 /437]]
--- [71] 
「[DATA(.text)[[V[天将四年五月十六日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>70 ([CITE[大日本地名辞書]])]]
--- [49] 
「[DATA(.text)[[V[天[ASIS[〓][冫厂并]]四年九月十六日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>50 ([CITE[[[日本の古文書]] 上巻]], [[相田二郎]])]]
--- [136] 「[DATA(.text)[[V[天将四年九月十六日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>134]]

]ITEMS]

;; [135] 
[CITE[新編会津風土記]]では[CH[簗]]と[CH[梁]]が混ざっています [SRC[>>100]] が、
[[昭和時代]]の簗田家公式史料集は[CH[簗]]に統一しています [SRC[>>133]]。


[155] 
>>137 の写真によると、ちょうど[[年]]の[[行]]と[[月日]]の[[行]]の間が焼損しています。
[[年]]の[[行]]の左端がわずかに失われた可能性があり、
左側の一部分が見づらくなっている上に、
>>137 が白黒で低解像度かつ印刷の関係で非常に見づらいです。

[156] 
そのため[[字形]]は非常にわかりにくいのですが、第2字は敢えて喩えるなら[CH[わ]]のような[[字形]]で、
非常に崩れていて容易に判読しがたい状態です。
[[草書]]を常用していた且つ[[古文書]]の判読に慣れていた[[江戸時代]]の研究者が[CH[将]]と読んだという事実は尊重したいところですが、
[CH[将]]と断定することに大きな不安が残るのもまた事実です。
[CH[将]]の字形事例を見ると確かに当字形の如くもなりそうに思われるものの、
ここまで簡略化された字形例で採録されたものは見当たりません。
しかも、[[天政]]の[CH[政]]と読まれているものにも似ている[[字形]]です (>>157)。

[271] 
[[翻刻]]は[[旧字体]]の[CH[將]]とするものと、
[[新字体]]の[CH[将]]とするものがあります。
基本的には出版時の[[通用字体]]が選択されたに過ぎないと考えられ、
原字形と乖離していますから、この区別には意味がありません。

[51] 
[CH[[ASIS[〓][冫厂并]]]]
は令和8年現在 [[Unicode]] にない文字です。
[[CHISE]] データベースの [[IDS]] 検索でも見つかりません。
[CITE[GlyphWiki]] の[CH[将]]にもこれに近い字形は登録されていません。
[CITE[新装版異体字解読字典]] (令和3年) にも見当たりません。

[52] 
[CITE[日本私年号の研究]]では[[明朝体]]で印刷されており、
[[作字]]と思われる若干の違和感があります。
[SRC[>>50]]

[272] 
[[翻刻]]に
[CH[[ASIS[〓][冫厂并]]]]
が使われていることを確認できるのは、
[CITE[日本私年号の研究]]
のみです。
同じ[[久保常晴]]の昭和9年の論文には銘文の記載がありません。
昭和39年の論文は「天将」ですが、引用元が違います (>>71)。
昭和42年の[CITE[日本私年号の研究]]までの間に、
より新しい[CITE[日本の古文書]]を出典に切り替えたようです。

[263] 
ところが、[CITE[日本の古文書]]の[[翻刻]]は「天將」です
(>>186)。少なくても[[国立国会図書館デジタルコレクション]]に収録されている版には
[CH[[ASIS[〓][冫厂并]]]]
は見当たりません。実物の白黒写真も掲載されていますが、
極めて不鮮明で、ここから
[CH[[ASIS[〓][冫厂并]]]]
の[[字形]]を導くことも困難です。

[273] 
念のため
[CITE[大日本地名辞書]]
の[[国立国会図書館デジタルコレクション]]所蔵諸本を確認しましたが、
[CH[[ASIS[〓][冫厂并]]]]
を使った版は見当たりません。

[274] 
[CITE[日本私年号の研究]]
の本文がこの[[文字]]に全く触れておらず、
当然[[天将]]と同じものであるかのように扱っているので、
出版過程の何らかの誤りで生じた誤字形とも考えられます。
[CH[将]]と[CH[[ASIS[〓][冫厂并]]]]は遠目に似てないこともありませんから、
手書きの曖昧な字形が誤認されたのかもしれません。

[275] 
しかしながら、似た他の常用字との誤認ならともかく、
わざわざ[[作字]]してまで誤字が発生するものかは疑問があります。
仮に手書き原稿の字形が印刷担当者に読めなかったなら、
[[作字]]する前に著者か編集者に確認するのではないでしょうか。
[CITE[日本私年号の研究]]
は細かな[[字形]]差を[[明朝体]]で表現するタイプの書籍ではないので、
[[作字]]は稀な例外です。

[276] 
実物の写真を掲載した書籍がいくつかあります。
いずれも低画質低解像度で字形は不明瞭で、
そのための誤読は発生し得るところですが、
[CH[[ASIS[〓][冫厂并]]]]
と読むことが出来るかは大いに疑問です。
[[草書]]から[[楷書]]への変換の一般則を適用したとしても、
[CH[[ASIS[〓][冫厂并]]]]
のように成り得る他の文字の類似例は思い当たりません。


[ITEMS[ [[日時事例]]

- [116] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[福島県]][[北会津郡]][[大町]]]] 簗田家文書]]
-- [139] >>133 : 簗田家古文書 [V[[YOKO[(六)]] 第七号 庚 平田氏(蘆名亀王丸家老)掟書]]
-- [140] >>133 : 白黒写真 (解像度中の下)
-- [166] >>164 : 白黒写真 (低解像度)
-- [143] 
「[DATA(.text)[[V[天□四年[SUP(smaller inline)[丙子]][BR[]]        霜月拾七日]]]]」 ([[草書]])
[SRC[>>140]]
--- [181] 
「[DATA(.text)[[V[天政四年[SUP(quarter)[丙子]][BR[]]      霜月拾七日]]]]」
[SRC[>>179]]
--- [117] 
「[DATA(.text)[[V[天政四年丙子[BR[]]   霜月十七日]]]]」
[SRC[>>115]]
--- [141] 
「[DATA(.text)[[V[天政四年[SUP(smaller inline)[丙]][SUB(smaller inline)[子]][BR[]]       霜月拾七日]]]]」
[SRC[>>139]]
--- [119] 
「[DATA(.text)[[V[天政四年丙子霜月十七日]]]]」
[SRC[>>118, >>124, >>109]]

]ITEMS]


[158] 
>>146 が白黒で低解像度のため非常に見づらいです。
そのため[[字形]]は非常にわかりにくいのですが、
第2字は敢えて喩えるなら[CH[ね]]の縦線抜きのような[[字形]]で、
非常に崩れていて容易に判読しがたい状態です。
[[草書]]を常用していた且つ[[古文書]]の判読に慣れていた[[江戸時代]]の研究者が[CH[政]]と読んだという事実は尊重したいところですが、
[CH[政]]と断定することに大きな不安が残るのもまた事実です。
[CH[政]]の字形事例を見ると確かに当字形の如くもなりそうに思われるものの、
ここまで簡略化された字形例で採録されたものは見当たりません。

[157] 
しかも、[[天将]]の[CH[将]]と読まれているものにも似ている[[字形]]です (>>156)。
確かに[CH[将]]と読まれる[[字形]]に比べると[[偏]]部分が[CH[政]]のようにも思えてきますが、
[CH[将]]の左側は焼損しているため、
構造がわかりにくい。また、
[CH[将]]の右下が[CH[わ]]のように処理されているのと比べると[CH[政]]の右下は[CH[ね]]のように丸めてあるようにも思われますが、
不明瞭です。

[159] 
ただ1つだけ言えるのは、[[明朝体]]では明らかに異なる[CH[政]]と[CH[将]]が、
手書き原本ではそこまで違って見えない[[字形]]となっていることです。

[160] 
なお、いずれの字形も、[CH[正]]の[[字形]]と考えるのは無理だと思われます。
筆者が[CH[正]]ではない何かを書こうとしたことは断定して良さそうです。

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [144] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[福島県]][[北会津郡]][[大町]]]] 簗田家文書]]
-- [145] >>133 : 簗田家古文書 [V[[YOKO[(六)]] 第七号 戊 蘆名盛満(花押)掟書]]
-- [146] >>133 : 白黒写真 (解像度中の下)
-- [169] >>164 : 白黒写真 (低解像度)
-- [147] 
「[DATA(.text)[[V[□天正十一年[LINES(smaller)[关][未]]夘月十四丶]]]]」 ([[行書]])
[SRC[>>146]]
--- [148] 
「[DATA(.text)[[V[市天正十一年[SUP(smaller inline)[癸]][SUB(smaller inline)[未]]卯月十四日]]]]」
([[明朝体]]) [SRC[>>145]]
--- [161] 
「[DATA(.text)[[V[古天正十一年亥未卯月十四日]]]]」
([[明朝体]]) [SRC[>>109]]
--- [177] 
「[DATA(.text)[[V[旹天正十一年[LINES(smaller)[亥][未]]卯月十四日]]]]」
([[明朝体]]) [SRC[>>175]]
--- [183] 
「[DATA(.text)[[V[峕天正十一年[LINES(quarter)[癸][未]]卯月十四日]]]]」
([[明朝体]]) [SRC[>>179 /129]]
--- [149] 
「[DATA(.text)[[V[□天正十一年[LINES(smaller)[癸][未]][BR[]]   卯月十四日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>111]]

]ITEMS]


[151] 
第1字は不明であり、諸書が異なる読み方をしています。
上部は焼損していますが、周囲の配置と焦げた部分の様子から見て、
読めなくなった部分字形は存在しない可能性が高いと考えられます。
また、[CH[天]]と読まれる第2字と連続しているともしていないとも取れ、
第1字と第2字とされる部分合わせて1字の可能性もありますが、
運筆上の勢いで軽く接触しただけの別字と解するのが妥当と思われます。

[152] 
なぜか第1字の解釈 (または読めないという事情) について諸書で論じているものはなく、
みな当然に[[天正]]の[[日付]]とみなすのみです。

[153] 
>>177 は[CH[旹]]と読んでいます。
この種の[[文書]]の紀年には似つかわしくありませんが、
当[[文書]]群が同時に作られた[[偽文書]]の可能性を指摘されていることを鑑みた時、
[[崩し]]の程度や[[干支]]の書き方などに意図的にバリエーションを入れたのではないかとも思われるところがあり、
1つの試みで[[紀年接頭辞]]を書いてみたのではないでしょうか。

[154] 
あるいは単なる誤字とも考えられるところですが、[[日付]]の先頭という奇妙な位置で、
しかも訂正もなくそのまま発給する、
というのはあまり例がないのではと思われます。


[ITEMS[ [[日時事例]]

- [10] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[福島県]][[北会津郡]][[大町]]]] 簗田家文書]]
-- [11] >>133 : 簗田家古文書 [V[[YOKO[(六)]] 第七号 丁 蘆名盛満(花押)掟書]]
-- [12] >>133 : 白黒写真 (解像度中の下)
-- [165] >>164 : 白黒写真 (低解像度)
-- [24] 
「[DATA(.text)[[V[天正四年[SUP(smaller)[丙子]][BR[]]       十一月十𫝀日]]]]」 ([[行書]])
[SRC[>>12]]
--- [180] 
「[DATA(.text)[[V[天正四年[SUP(quarter)[丙子]][BR[]]  十一月十五日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>179]]
--- [23] 
「[DATA(.text)[[V[天正四年[SUP(smaller inline)[丙]][SUB(smaller inline)[子]]十一月十五日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>11]]
--- [13]  
「[DATA(.text)[[V[天正四年[LINES(smaller)[丙][子]]十一月十九日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>111]]
--- [91] 
「[DATA(.text)[[V[天正四年丙子十一月十九日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>109]]

]ITEMS]

[25] 
>>12 の写真によると、第1字は[[楷書]]の[[字形]]とはかなり違いますが、[[崩し字]]の
[CH[天]]ではあり得る[[字形]]の範囲内と思われます。

[26] 
第2字は[CH[正]]の伝統的字形とみて間違いないでしょう。

[27] 
[CH[日]]の前は[CH[五]]と断定してよいと思われます。[CH[九]]とは読めません。
[[手書き]]の[CH[五]]と[CH[九]]はやや似た[[字形]]になることがあるので、
直接の誤読ではなく、メモ書きなどを経由したのでしょうか。




[ITEMS[ [[日時事例]]

- [14] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[福島県]][[北会津郡]][[大町]]]] 簗田家文書]]
-- [15] >>133 : 簗田家古文書 [V[[YOKO[(六)]] 第七号 丙 蘆名盛氏(袖判)掟書]]
-- [16] >>133 : 白黒写真 (解像度中の下)
-- [168] >>164 : 白黒写真 (低解像度)
-- [18] 
「[DATA(.text)[[V[天正五年[LINES[[WEAK(smaller)[丁刄]]][][拾[月__&&]&&__]]]]]]」 ([[行書]])
[SRC[>>16]]
--- [17]  
「[DATA(.text)[[V[天正五年[LINES(smaller)[丁][丑]]拾月]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>111, >>175]]
--- [150] 
「[DATA(.text)[[V[天正五年丁丑拾月]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>109]]
--- [182]  
「[DATA(.text)[[V[天正五年[SUP(quarter)[丁丑]][BR[]]        拾月[     __&&]&&__]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>179]]

]ITEMS]

[19] >>16 の写真によると、[CH[正]]は伝統的字形の系統、
[CH[五]]や[CH[丑]]は現行[[楷書]]字形とは違いが大きな字形であるものの、
通説の読み方で何ら問題ないと思われます。

[20] 
[[月日]]の第1字は、 >>16 の写真だと細部がわかりづらいものの、この位置でこの字形になるものは消去法で
[CH[拾]]と読むことに異論ないものと思われます。

[21] 
第2字は焼損部分に掛かりますが、残画が[CH[冂]]状となっており、通説の[CH[月]]の可能性が高いと思われます。

[22] 
第2字の下部分は完全に失われており、第3字以後 ([[日番号]]) があったのかどうか不明です。


* 諸説

[277] 
多くの用例が報告されているものの、
[[元号名]]の正確な字形が不明なものが多く、
議論がほとんどないまま最初の読み方が引き継がれているのが実情です。
すべての議論の基礎として、正確な銘文の字形を確認する作業が必要です。

[278] 
特に、

- [279] 
「天□」
のうち[CH[政]]と読まれる >>116 
と[CH[将]]と読まれる >>48
- [280] 
「天政」
と読まれる >>53

... の[[字形]]に関する疑問点は、[[異年号]]としての検討の根幹に関わるものです。

[281] 
更に、それぞれの史料の性質を明らかにすることが必要です。中でも、

- [282] 不可解に焼かれた痕があって[[偽文書]]説も提示されている「天□」文書群
- [283] 銘文が部分的にしか読まれておらず[[長沼盛秀]]伝承との関係も解明不十分な >>53

... は取り扱いに細心の注意を要するところです。

-*-*-

[284] 
[[天政]]は、[[天正]] (あるいは他の[[公年号]]) の[[誤植]]であること明らかな近現代の用例を除くと、
「天□」文書群の1例と >>53 の1例しか報告されていません。
前者は4年、後者は18年と時期が大きく離れており、
同じ[[会津]]地方で地理的には近接しているものの、
両者が同系統の用例と言えるかどうかは慎重な判断を要します。
前者は字形の判読に疑義がある上に[[偽文書]]の疑いが掛けられています。
後者も字形判読に疑義がある上に[[永正]]説が提示されていて、
[[天正]]説も[[永正]]説も安易に肯定も否定もできない状況です。
要するに、
「天政」
が[[天正]]時代に同時代的に存在したかどうか、
確証に欠けます。


[286] 
[[天将]]は、 
>>1
の写真から[CH[将]]の文字であることを確認でき、しかも >>1
の前後関係から[[天正]]を意味していると断定できます。
他の「天将」用例 (「天□」を除く。) も、それと矛盾しません。
[[天将]]は[[天正]]時代に同時代的に使われることがあったと断言できます。

-*-*-

[287] 
[[近世]]以来、多くの文献が[[天将]]や[[天政]]に言及し、
その多くが[[天正]]と推定または断定しています。
ほとんどは、深い議論を展開しておらず、[[音通]]や先行説の踏襲に基づく素朴な理解と思われます。

[288] 
[[天将]]を[[天正]]に比定する説は、
[CITE[新編会津風土記]]に遡ります。
[CITE[新編会津風土記]]は、
「古文書」や[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]が[[天正]]を[[天将]]と表記している、
と注釈していて、これを当時の一般的風潮と理解している節があります。
[CITE[新編会津風土記]]は「天□」の[[天政]]と[[天将]]の性格は推測していませんが、
類似内容の[[天正]]文書と共伴する文書群であることから、
編集者が[[天正]]と理解した可能性は高いといえます。
[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]とは異なる他の「古文書」とは、
消去法で「天□」文書群のことと考えられます。

[289] 
[[天政]]を[[天正]]に比定する説を明言した最初は、
[CITE[新編会津風土記]]の昭和8年刊本注釈 (>>121)
と思われます。
「天□」文書群からの推測と考えられます。

-*-*-

[290] 
現在知られている前近代のすべての「天将」「天政」「天□」の用例は、
[[福島県]]下、[[会津]]地方近辺に所在します。
[[天正]]時代頃のこの地域は主に[[蘆名氏]]の統治下でしたが、
いくつかの小勢力も割拠していたと思われます。

[291] 
[[近世]]は[[会津藩]]や[[二本松藩]]の所領で、両藩の[[地誌]]編纂事業を通じて用例が収集され、
現在に伝えられました。
従って用例の偏在の直接的な理由は収集作業の実施範囲に由来するものといえます。

[292] 
それでは、他の地域で「天將」や「天政」は使われたのでしょうか。
使われたとして、現存するのでしょうか。
[[令和時代]]に至るまで、この地域的な偏りを考察した研究は見当たりません。

[294] 
現在 [[Web検索]]や[[国立国会図書館デジタルコレクション]]では、
[[会津]]周辺や近現代のものを除いた、他地域の用例は見つかっていません。
他地域の[[地誌]]等でも全く拾われていないようなのです。
当時全国で広く使われていたなら、
ここまで全く用例が出てこないとは考えにくいので、
[[会津]]以外で使われなかったとは断言できないとしても、
あまり一般的ではなかったと考えられます。

[295] 
もし[[天將]]が[[会津]]でのみ使われたのだとすると、
[CH[將]]と[CH[正]]の[[音通]]だとしても全国で同時多発的に見られた普遍的な現象ではなく、
[[改元デマ]]と似たような特殊な現象の可能性を考える必要が生じます。

[296] 
しかし、
[[年数]]にばらつきがあり、
同地域内に[[天將]]でなく[[天正]]と書いた用例が多数現存することは、
[[改元デマ]]説ではうまく説明できません。
[[会津]]でも多くの[[天正]]紀年文書は[CH[正]]と表記しています。


[297] 
[[偽文書]]を疑われる「天□」文書群も、
地域と時期がちょうど[[天將]]の流通地域・時期と一致していることは無視できません。
もし[[近世]]に入ってからの完全な偽造であれば、
敢えて[[天正]]初期だけ不審な字形につくる理由がありません。


* 研究史

[237] 
[TIME[文化元(1804)年][1804]]に[[日本国]][[二本松藩]]の[[成田頼直]]が編纂した
[CITE[松藩捜古]]
は、
>>82
を紹介しています。
[[ママ注]]以外は特に注釈していません。
[SRC[>>83]]

[98] 
[TIME[文化6(1809)年][1809]]に[[日本国]][[会津藩]]が編纂した
[CITE[新編会津風土記]]は、
次の記述を含みます。

- [258] 
>>2
を参照して、
「[SNIP[]]天將 (古文書往往天正を天將に作る者あり) 三年[SNIP[]]」
と書いています。
[SRC[>>93 /219]]
- 
[99] 
>>95
を紹介して、
「[SNIP[]]天將 (長帳にも天正を天將に作るものあり) 五季[SNIP[]]」
と書いています。
[SRC[>>93 /154, >>231]]
-
[104] 
>>103
を紹介していますが、
特に注釈していません。
[SRC[>>109]]
--
[113]
[TIME[昭和8(1933)年][1933]][CITE[大日本地誌大系]]本は、
「[V[天[RUBY[將][(正)]]四年五月十六日]]」
と注釈を加えています。
[SRC[>>111 /126]]
-
[110] 
>>1
を「[V[天將三年乙亥]]」
と紹介していますが、
特に注釈していません。
[SRC[>>109 /77]]
--
[112] 
[TIME[昭和8(1933)年][1933]][CITE[大日本地誌大系]]本は、
「[V[天[RUBY[將][(正)]]三年乙亥]]」
と注釈を加えています。
[SRC[>>111 /85]]
-
[205] 
>>53
を紹介していますが、
特に注記はありません。
[SRC[>>203, >>93 /26]]
-
[120] 
>>103
と共に
>>116
を紹介していますが、
特に注釈していません。
[SRC[>>118]]
--
[121] 
[TIME[昭和8(1933)年][1933]][CITE[大日本地誌大系]]本は、
「[V[[RUBY[天政四年][(正カ)]]丙子]]」
と注釈を加えています。
[SRC[>>115]]


[268] 
これ以後の多くの研究・言及は
[CITE[松藩捜古]]
や
[CITE[新編会津風土記]]
からの[[孫引き]]であり、
用例の実物を確認したものは少数と見られます。



[101] 
[TIME[明治40(1907)年][1907]]の
[CITE[大日本地名辞書]]
は、
次の記述を含みます。

- [259] 
[CITE[松藩捜古]]
から
>>82
を紹介し、
「[SNIP[]](天將は天正の謬か)[SNIP[]]」
と注釈しています。
[SRC[>>100 /378]]
-
[105] 
>>103 を紹介していますが、特に注釈していません。
-
[106] 
[CITE[新編会津風土記]]から >>98 を引用しています。
[SRC[>>100 /443]]
-
[230] 
[[長沼盛秀]]について、
[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]
に永正18年の戦死のことがあると注記しつつ、
>>53
を紹介し、
この時 (天政18年) に滅びたのだと述べています。
[SRC[>>100 /418]]




[108] >>107 は[CITE[新編会津風土記]]から「天將三年」云々を引用して使っていますが、
[CH[將]]に対する注釈は引かず言及もしていません。

[229] 
>>228
は
>>53
を紹介しています。先行書籍からの孫引きでしょう。

[REFS[

- [203] 
[CITE@ja-JP[新編会津風土記 第35−47]], [[会津藩地誌局]], [TIME[明26-34][1901]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:23:58.394Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/763344/1/49?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF>
- [111] 
[CITE@ja-JP[[[大日本地誌大系]] 第30巻]], [[花見朔巳 校訂]], [TIME[昭7-8][1933]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-11T09:50:28.995Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1179191/1/85?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87>
-- [115] 
[CITE@ja-JP[[[大日本地誌大系]] 第30巻]], [[花見朔巳 校訂]], [TIME[昭7-8][1933]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-11T09:54:04.329Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1179191/1/126?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF>
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[76] 
[CITE@ja[大沼郡高田組屋敷村 - 会津風土記 - atwiki(アットウィキ)]], [TIME[2026-06-10T11:26:33.000Z]] <https://w.atwiki.jp/aizufudoki/pages/467.html>
]FIGCAPTION]

>
[B[船岡館跡]]
>[SNIP[]]
>塔寺村八幡宮長帳に、天将(古文書往々天正を天将に作る者あり)3年(1575年)松本図書助安積郡にて討死せし由見ゆ。
>その子太郎同12年(1584年)16歳にて聊恨の仔細ありて葦名家を乱さんと企て、その頃男色の知音なる河沼郡笈川の地頭栗村下総を語い、葦名盛隆城東羽黒山にて舞楽の遊覧ありし隙を伺い、松本と栗村と800余人を引卒し黒川の館へ討入りしが、事成らずしてそれに討るという。 
]FIG]
- [109] 
[CITE@ja-JP[福島県史料集成 第1輯]], [[福島県史料集成編纂委員会]], [TIME[1952]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-11T09:40:37.383Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2998471/1/77?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87> (要登録)
-- [118] 
[CITE@ja-JP[[[福島県史料集成]] 第1輯]], [[福島県史料集成編纂委員会]], [TIME[1952]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-11T09:55:35.647Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2998471/1/105?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF> (要登録)
-- [93] 
[CITE@ja-JP[福島県史料集成 第2輯]], [[福島県史料集成編纂委員会]], [TIME[1952]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-11T08:41:48.013Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2998472/1/268?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87> (要登録)
- [231] 
[CITE@ja-JP[喜多方市史 第2巻(通史編 2) (近世)]], [[喜多方市史編纂委員会]], [TIME[1997.6][1997]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T09:09:18.676Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13211535/1/381?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87> (要登録)
- [100] 
[CITE@ja-JP[[[大日本地名辞書]] 下巻 二版]], [[吉田東伍]], [TIME[1907/10/17][1907-10-17]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-11T09:17:31.420Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2937059/1/378?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87>
- [107] 
[CITE@ja-JP[姓氏家系大辞典 第3巻]], [[太田亮]], [TIME[昭和9-11][1936]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-11T09:35:53.160Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1131019/1/801?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87>
- [228] 
[CITE@ja-JP[市町村別日本国勢総覧 1]], [[日本図書センター]], [TIME[1985.12][1985]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T09:01:43.961Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12190373/1/225?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF> (要登録)


]REFS]

-*-*-

[212] 
大正3年の地方史は、
>>53
を紹介していますが、
特に注釈はありません。
[SRC[>>227, >>211]]


[123] 
[[大正時代]]の研究者による
[CITE[蘆名家由緒考証]]
[WEAK[(古伝に注釈を加えたものですが、ここで関係するのは[[大正時代]]執筆の注釈部分。)]]
は、
>>1
の天將3年乙亥の記事を引いて、
「[V[天將ハ天正ナリ]]」
と注釈しつつ、
天正3年乙亥の他書記事と一致することを紹介しています。
[SRC[>>122]]

[178] 
[TIME[昭和19(1944)年][1944]]の書籍は、
>>48
>>144
>>14
を紹介し、 >>44 には「[V[[RUBY[將][ママ]]]]」と注釈していますが、
それ以上には説明していません。
[SRC[>>175]]

[REFS[

- [227] 
[CITE@ja-JP[南会津郡誌]], [[福島県南会津郡]], [TIME[大正3][1914]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:58:25.630Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/949529/1/60?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF>
-- [211] 
[CITE@ja-JP[南会津郡誌]], [[福島県南会津郡]], [TIME[1987.11][1987]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:35:49.819Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13317855/1/62?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF> (要登録)
- [122] 
[CITE@ja-JP[会津資料叢書 第6]], [[菊池研介]], [TIME[大正8][1919]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-11T09:58:53.474Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/926594/1/34?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87>
- [175] 
[CITE@ja-JP[中世日本商業史の研究]], [[豊田武]], [TIME[昭和19][1944]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T06:34:05.756Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1067803/1/187?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[222] 
[TIME[昭和19(1944)年][1944]]の書籍は、
[CITE[新編会津風土記]]
から
>>53
を紹介しています。

- [223] [[天政]]は[[天正]]の当て字か否か、合点のいかぬものである
- [224] [CITE[新編会津風土記]]所収明応3年[[棟札]]に[[長沼盛秀]]
- [225] [CITE[新編会津風土記]]所収太永6年寄進札に盛秀
- [226] [[天政]]はおそらくは[[永正]]の誤り

と推測しています。
[SRC[>>221]]


[REFS[

- [221] 
[CITE@ja-JP[郷土史研究の調査と方法]], [[日本歴史地理学会]], [TIME[昭和19][1944]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:50:59.772Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1041316/1/9?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF> (要登録)

]REFS]


-*-*-


[163] 
[TIME[昭和24(1949)年][1949]],
[TIME[昭和56(1980)年][1980]]の書籍は、
>>48
を紹介し、
「[V[天[RUBY[将][(正)]]四年]]」
のように注釈していますが、
それ以上には説明していません。
[SRC[>>184, >>162]]

[260] 
これらは[[古文書学]]の[[教科書]]的な書籍であり、
>>48
は[[古文書]]の形式の1つの典型例として紹介されています。

[REFS[

- [184] 
[CITE@ja-JP[日本の古文書 上]], [[相田二郎]], [TIME[1949]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T06:58:06.949Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3007198/1/368?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87> (要登録)
- [162] 
[CITE@ja-JP[日本古文書学講座 4 (中世編 1)]], [[雄山閣出版]], [TIME[1980.4][1980]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T05:50:16.992Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12209582/1/121?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%86> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[125] 
[TIME[昭和25(1950)年][1950]]の
[CITE@ja-JP[年号読方考証稿]]
は、
[[元号名の読み方]]の検討に資する史料の集成ですが、

- [261] >>1
を引いて元亀4年の後で文禄3年の前かつ[[干支年]]が天正3年であることを注釈しています。
- [262] 
>>102
を
[CITE[新編会津風土記]]から引いています。
[SRC[>>124]]
- [126] 
>>119
を
[CITE[新編会津風土記]]から引いています。
[SRC[>>124]]




[REFS[

- [124] 
[CITE@ja-JP[年号読方考証稿]], [[山田孝雄]], [TIME[1950]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-11T14:16:20.444Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2987540/1/82?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87> (要登録)

]REFS]

-*-*-


[40] 
[TIME[昭和33(1958)年][1958]]の翻刻本では、
>>2
>>36
を収録していますが、
>>2 の[CH[將]]に「[V[(正)]]」と注釈しています。
また、[[年表]]で天正3年の欄に「[V[(天將三)]]」と併記しています。
[SRC[>>5]]

[170] 
[TIME[昭和36(1961)年][1961]]の地域史では、
>>48 >>116 >>144 >>10 >>14
の写真と概要が紹介されています。
「[V[天[RUBY[将][(正)]]四年(一五七六)]]」
「[V[天[RUBY[政][(正)]]四年(一五七六)]]」
のように注釈されていますが、
それ以上には説明していません。
[SRC[>>164]]

[216] 
[TIME[昭和38(1963)年][1963]]の地域史では、
>>53
が紹介されています。
[TIME[天正18(1590)年][1590]]とされていますが、
それ以上には説明していません。
[SRC[>>124]]


[174] 
[TIME[昭和42(1967)年][1967]]の地域史では、
>>48
の写真と概要が紹介されています。
「[V[天[RUBY[将][(正)]]四年]]」
のように注釈されていますが、
それ以上には説明していません。
[SRC[>>171]]
その別巻では、
>>48 >>116 >>144 >>10 >>14
の翻刻が掲載されています。
「[V[天[RUBY[将][(正)]]四年]]」
「[V[天[RUBY[政][(正)]]四年]]」
のように注釈し、
[[天正]]4年に配置していますが、
それ以上には説明していません。
[SRC[>>179]]


[REFS[

- [164] 
[CITE@ja-JP[図説会津若松の歴史]], [[会津若松市市制施行六十周年記念編纂委員会]], [TIME[1961 2版][1961]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T05:52:06.689Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3008948/1/32?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87> (要登録)
- [214] 
[CITE@ja-JP[会津文化史]], [[二瓶清]], [TIME[1963]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:39:56.071Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3453580/1/147?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF> (要登録)
--
[217] 
[CITE@ja-JP[会津文化史]], [[二瓶清]], [TIME[1980.7][1980]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:44:44.752Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9642010/1/148?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF%E5%8D%81%E5%85%AB> (要登録)
- [171] 
[CITE@ja-JP[会津若松史 第1巻]], [[会津若松史出版委員会]], [TIME[1967]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T05:59:17.665Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3048618/1/119?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87> (要登録)
-- [179] 
[CITE@ja-JP[会津若松史 第8巻]], [[会津若松史出版委員会]], [TIME[1967]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T06:46:53.753Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3015521/1/119?keyword=%E8%97%A4%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80> (要登録)

]REFS]

-*-*-



[42] 
[TIME[昭和9(1934)年][1934]]の[[久保常晴]]の初期の論文では、
[[異年号]]のその他のものの紹介の中で、
[[公年号]]の[[異字同音][同音異字年号]]の表記の事例として、

- [33] 
[[天正]]を[[天將]]/[[天政]]としたものが
[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]/[CITE[新編会津風土記]]
にある

と一括して簡単に触れています。
[SRC[>>32]]
(引用は無し。)



[72] 
昭和40年の[[久保常晴]]の論文では、
[[同音異字の異年号]]として

- [264] 
>>71
を掲載し、
[[天将]]は[[天正]]であるとしています。
[SRC[>>70]]
- [73] 
>>74
を掲載し、
[[天政]]は[[[V[[ASIS[元]]正]]]]であるとしています。
[SRC[>>54]]
[CH[元]]は[CH[天]]の[[誤植]]と考えられます。
[SEE[ [[元正]] ]]


[45] 
昭和42年の
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
[[異年号]]のうち[[私年号]]でない分類の1つである[[同音異字年号]]として、
>>46
>>48
を紹介しています。
[SRC[>>44]]

[58] 
この両者に対して、
[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]
で[[元亀]]の次、[[文禄]]の前にあるので、
[[天将]]は[[天正]]であることが一目瞭然だと述べています。
[SRC[>>44]]

[59] 双方の説明でありながら、
なぜか >>48 のことも[CH[[ASIS[〓][冫厂并]]]]の字のことも何の言及もありません。

[60] 
また、 >>58 の論理は
[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]
の構成に対して証明として不十分です。

[56] 
また、[[異年号]]のうち[[私年号]]でない分類の1つである[[同音異字年号]]として、
>>53
を紹介しています。
[SRC[>>44]]

[61] 
次のように述べています。 [SRC[>>44]]

- [62] [[墓碑]]は[[長沼盛秀]]のものだが、
-- [63] 大永6年文書、永禄元年文書があり、
-- [64] [[天政]] = [[天正]]説 [SRC[[CITE[大日本地名辞書]]]] 
- [65] [CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]によると、
-- [66] [[長沼盛秀]]は永正18年に黒川の葦名氏を攻めようとして檜玉峠に出兵し戦死
-- [67] であれば永正18年銘、[[天政]] = [[永正]]
--- [68] [[同音異字年号]]ではなく[[一字異音年号]]
- [69] 一応、[CITE[大日本地名辞書]]説に従う


[270] 
[CITE[日本私年号の研究]]
が[[私年号]]ではないと分類した影響なのか、
以後の (以前もですが) [[私年号]]の一覧表などで紹介した事例はほぼ見当たりません。
[SRC[>>269]]
[[異年号研究]]の文脈で取り上げた事例もほぼありません。


[77] 
[[中文]]版[CITE[维基百科]]の一覧表は、

- [265] [CITE[日本私年号の研究]]
を出典に、
[CITE[大日本地名辭書]]所引[[長沼盛秀]]墓碑の[[天政]]を[[天正]]の異表記としています。
[SRC[>>74]]
- [75] [CITE[日本私年号の研究]]
を出典に、
[CITE[會津塔寺八幡宮長帳]]
の[[天將]]を[[天正]]の異表記としています。
[SRC[>>74]]




[REFS[

-
[32] 
[CITE@ja-JP[考古学雑誌 24(12)]], [[日本考古学会]], [TIME[1934-12]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-03T09:05:02.728Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3548437/1/9?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF> (要登録)
- 
[70] 
[CITE[[[我が国の私年号に関する研究(二)―室町時代―]]]]
-
[43] 
[CITE[[[日本私年号の研究]]]]
--
[44] 
pp.[V[一七一]]-[V[一七二]],
pp.[V[一八二]]-[V[一八三]]
- [74] 
[CITE@zh[日本年號列表 - [[维基百科]],自由的百科全书]], [TIME[2026-06-09T10:31:47.000Z]], [TIME[2026-06-10T11:22:44.095Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B9%B4%E8%99%9F%E5%88%97%E8%A1%A8#%E5%AE%89%E5%9C%9F%E6%A1%83%E5%B1%B1%E6%99%82%E4%BB%A3>
- [269] [[日本私年号一覧表]]

]REFS]

-*-*-

[257] 
[TIME[昭和48(1973)年][1973]]の史料集は、
>>82
を紹介し、
「[V[天[RUBY[将][(正)]]四年]]」
のように注釈していますが、
それ以上には説明していません。
[SRC[>>92]]

[242] 
[TIME[昭和55(1980)年][1980]]の書籍は、
>>53
を「[V[天政 (正) 十八[BR[]]年三月二日]]」
と紹介していますが、
それ以上には説明していません。
[SRC[>>241]]

[138] 
[TIME[昭和56(1981)年][1981]]の史料集は、

- [266] 
>>48
を紹介し、
「[V[天[RUBY[将][(正)]]四年]]」
のように注釈していますが、
それ以上には説明していません。
[SRC[>>133]]
- [267] 
>>116
を紹介し、
「[V[天[RUBY[政][(正)]]四年]]」
のように注釈していますが、
それ以上には説明していません。
[SRC[>>133]]


[256] 
[TIME[昭和56(1981)年][1981]]の史料集は、
>>82
を紹介し、
「[V[天[RUBY[将][(正)]]四年]]」
のように注釈していますが、
それ以上には説明していません。
[SRC[>>80]]




[210] 
[TIME[昭和56(1981)年][1981]]の地方史は、
>>53
を紹介し、
[CITE[新編会津風土記]]の引用と独自の写真・銘文を示し、
「[V[天[RUBY[政][(正)]]]]」
のように注釈していますが、
それ以上には説明していません。
[SRC[>>206]]

[219] 
その別巻で[TIME[昭和60(1950)年][1950]]のものは、
>>53
の同じ写真を掲載し、
[CITE[新編会津風土記]]を引用しており、
「[V[[RUBY[天政][(ママ)]]]]」
のように注釈していますが、
それ以上には説明していません。
[SRC[>>218]]

;; [220] >>210 で銘文を再判読した成果がなぜか >>219 では無視されています。


[87] 
[TIME[平成3(1991)年][1991]]の史料集は、
>>85
を紹介し、
「[V[天[RUBY[將][正]]]]」
と注釈していますが、
それ以上には説明していません。
[SRC[>>187]]

[189] 
[TIME[令和4(2022)年][2022]]付けで [[Web]] 公開されている目録 (初出不明)
は、
>>85
を紹介し、
[[西暦年]]を
[TIME[[L[1577]]]]
としていますが、
それ以上には説明していません。
[SRC[>>78]]



[REFS[

- [241] 
[CITE@ja-JP[会津・仙道・海道地方諸城の研究]], [[沼館愛三 編著]], [TIME[1980.11][1980]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T14:34:24.218Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9538585/1/28?keyword=%E9%95%B7%E6%B2%BC%E7%9B%9B%E7%A7%80> (要登録)
- [206] 
[CITE@ja-JP[田島町史 第5巻 (自然・原始・古代・中世史料)]], [[田島町史編纂委員会]], [TIME[1981.3][1981]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:26:16.892Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9642230/1/254?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF> (要登録)
-- [218] 
[CITE@ja-JP[田島町史 第1巻 (通史 1 原始・古代・中世・近世初期)]], [[田島町史編纂委員会]], [TIME[1985.8][1985]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-12T08:45:17.503Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9643545/1/186?keyword=%E5%A4%A9%E6%94%BF> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[131] 
[TIME[平成9(1997)年][1997]]の論文は、
>>48
を紹介し、
[[偽文書]]の可能性が高いと判定しています。
物理的な不審点 (>>130) の他、内容の疑問点も指摘しています。
[SRC[>>128]]

[132] 
[[天将]]は[[天正]]の当て字であろう、との見解を示しています。
[SRC[>>128]]
しかし、他の[[天正]]文書と同時に[[偽文書]]として作られたのだとしたとき、
なぜ2点だけが[[天将]]/[[天政]]と表記されたのか、には検討が及んでいません。

[REFS[

- [128] 
[CITE@ja-JP[日本史研究 (417);1997・5]], [[日本史研究会]], [TIME[1997-05]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-11T14:24:31.410Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13007109/1/37?keyword=%E5%A4%A9%E5%B0%87> (要登録)

]REFS]




* 関連

[28] 
他の[[天政]] : [SEE[ [[天晴]], [[文政]] ]]

[SEE[ [[永政]] ]]

* メモ