[18] 
[DFN[大延]]
([TIME[y~1294]])
は、
[[昭和時代]]の[[日本の私年号]]です。
[[自称天皇]]の[RUBYB[[[熊沢寛道]]][[TIME[1889][year:1889]]-[TIME[1966][year:1966]]]]
([[熊沢天皇]], [[大延天皇]])
が使っていました。

* 元号名

[12] 
養父で先代に当たる[RUBYB[[[熊沢大然]]][-[TIME[1915][year:1915]]]]と同じく[[南朝]]の後裔を自称した[[熊沢寛道]]は、
[[大東亜戦争前]]から既に
「大延天皇」
と称した[[名刺]]を持ち歩いていました。
[SRC[>>2, >>25]]
[WEAK[([[熊沢寛道]]は分家からの[[養子]]でした [SRC[>>25]]。)]]


[29] 
[[熊沢寛道]]の[[著書]]に
[CITE[大延文叢]],
[TIME[日本昭和28(1953)年][year:1953]]がありました。
[SRC[>>1]]

[30] 
[[大延]]の[[元号名]]は[[天皇]]の名前と同じとしたのでしょう。
どちらが先なのか同時なのか不明です。

[23] [[大延]]の[[元号名]]は血統の連続性を強く喚起主張するものと評されています。
[SRC[>>2, >>25]]

[67] 
[[大延]]の[[私年号]]が使われ始めた時期や[[大延天皇]]の号を名乗り始めた時期がいつなのかはっきりしませんが、
「[[皇位継承]]」や[[元年]]は[[大正時代]]。
過去の[[私年号]]は同時期の[[公年号]]に近い字が使われる傾向がみられますし、
[[公年号]]も近い過去の[[公年号]]の用字に引きづられがちです。
[SEE[ [[元号らしさ]] ]]
[[大延]]という[[元号名]]にも[[大正]]の影響があったかもしれません。

[68] 
[[Google検索]]によると、若干数ですが、
原文に「[[大正]]」とあるのが [[OCR]] によって「大延」
と誤読された事例が独立に複数発生しています。
なるほど字面も案外似ています。

* 紀年法

[17] 
[[元年]]は、
[TIME[大正4(1915)年][year:1915]]です。
[SRC[>>2, >>25, >>7]]

[19] 
[TIME[大正4年][year:1915]]は先代の[[熊沢大然]]の[[没年]]です。
[SRC[>>2, >>25, >>20]]
[TIME[大正4年][year:1915]]に[[熊沢寛道]]が[[即位]] [SRC[>>2, >>25]]
(ないし[[践祚]] [SRC[>>5]]) 
したことに始まる[[一世一元]] [SRC[>>2, >>25]] の[[元号]]と思われます。

[26] ただし[[熊沢寛道]]が家督を相続したのは[TIME[西暦1919年][year:1919]]ともされます。
[SRC[>>25]]


[HISTORY[
[22] 
[CITE[Wikipedia]]
は[TIME[大正9(1920)年][year:1920]]に[[熊沢寛道]]が[[即位]]したとしています。
[SRC[>>1]]
根拠は不明です。
]HISTORY]

[REFS[
- [20] [CITE[[[南朝]](偽帝)御系譜]], [TIME[2018-10-31T10:53:36.000Z]], [TIME[2021-01-31T09:57:08.851Z]] <http://www.eonet.ne.jp/~academy-web/keifu/keifu-kouto-japan-south.html>
]REFS]

* 後醍醐天皇遺詔

[15] 
[TIME[昭和24(1949)年][year:1949]]、
[[日本]]の[[法学者]]で今では[[後南朝]]研究の第一人者としても知られる[RUBYB[[[瀧川政次郎]]][[TIME[1897][year:1897]]-[TIME[1992][year:1992]]]]は、
[[熊沢寛道]]の[[南朝]]に対する認識を調べるため、
共に[[日本国]][[奈良県]][[吉野]]の[[南朝]]遺跡を巡りました。
[SRC[>>72, >>14, >>27]]
というのも[[滝川政次郎]]は[[後南朝]]研究のため現地調査を望んでいましたが、
昭和23年秋に[[京都]]で[[熊沢寛道]]に会った際、
[[熊沢寛道]]がしばしば[[吉野]]を訪れていたことを知ったので、
案内を求めたのでした。
[SRC[>>72]]

;; [74] 
この[[吉野]]訪問をどこかで聞きつけた[[奈良県]]下の新聞は一斉にこれを報じました。
[SRC[>>72]]
当時の世間の関心のほどがうかがえます。

;; [75] 
[[滝川政次郎]]は、
[[後南朝]]の後裔だという[[熊沢寛道]]の主張は研究しないことには歴史学的に肯定も否定もできず、
[[熊沢寛道]]がどれだけの材料を持っているのか知るために同行を求めたのだと書いています。
それと同時に、たとえまさしく[[南朝]]の後裔と証明されることがあろうとも、
[[皇位継承権]]の主張には法学者として反対するとも書いています。
[SRC[>>72]]



[16] 
[TIME[1949-10-29]]、
[[熊沢寛道]]と[[瀧川政次郎]]は、
[[日本国]][[奈良県]][[吉野郡]][[川上村]]の旅館[[朝日館]]に宿泊しました
[SRC[>>38, >>72]]。
主人が画帳に揮毫を求めたところ、
[[熊沢寛道]]は、

>
[VRL[
後醍醐天皇遺詔

朕が六百年の後、世は火の海泥の海となりて、日本天皇危し

[BOX(indent)[
大延三十五年十月[ASIS[廿][>>38 では二十]]九日
]BOX]
]VRL]


... と書きました
[SRC[>>72, >>14, >>27, >>38]]。

;; [42] 
[TIME[令和2(2020)年][year:2020]]の[[週刊誌]] [[Webサイト]]記事は
「大延35年10月29日」
と表記していました [SRC[>>6]]。

[76] 
その場に居合わせた[[川上村]]の住川村長は、苦笑いしながら黙って見ていました。
[SRC[>>72]]

[77] 
[[滝川政次郎]]は、黙っていられなくなり、
[[熊沢寛道]]にその「御遺詔」がどんな書物にあるのかと尋ねました。
[[熊沢寛道]]は、
「どんな書物に見えているか知りませんが、
ある書物にあるということです。その真偽は知りません。」
と言葉を濁しました。
[[滝川政次郎]]は[[後醍醐天皇]]が英明だろうが600年後を見透かすはずがなく、
[[現代文]]で書かれるはずもないと詰問しましたが、
[[熊沢寛道]]は
「文章は私が現代風に改めたのです。」
と弁解しました。
[SRC[>>72]]

[78] 
[[滝川政次郎]]は[[熊沢寛道]]と2人になってから、
このような出鱈目を今後決して口にするなと説教しました。
[SRC[>>72]]

[79] 
[[滝川政次郎]]は、こんなインチキな偽遺詔で今の人間がごまかされると考えるのは、
文化国日本の国民を侮辱するものであると述べています。
[SRC[>>72]]



[39] 
[[瀧川政次郎]]は、
[[昭和]]を奉ぜず[[大延]]の[[私年号]]を奉じても、
人は相手にしないので世に害を及ぼさないから良いが、
[[後醍醐天皇]]の後遺詔などと偽るのは国法的にも道徳的にも許されないと述べています。
[SRC[>>72, >>38]]

;; [80] 
[[滝川政次郎]]は[[熊沢寛道]]との同行が[[後南朝]]研究の役に立てばと考えていましたが、
この一件で相当に失望し、怒りを感じていたようです。


[41] 
この画帳は、
[TIME[2007-10-20]]時点で尚も[[朝日館]]に現存していました。
[SRC[>>40]]

[43] 
現在 [[Web]] 上に見ることが出来る[[大延]]に関する情報のほとんどは、
この[[瀧川政次郎]]の記事から派生したもののようです。

[47] 
なお[[後醍醐天皇]]遺詔の出典は[[明治時代]]以降成立とされる[[偽書]]の[[富士宮下文献]]とされます。
[SRC[>>25 ([CITE[吾輩は天皇なり 熊沢天皇事件]])]]
[[熊沢寛道]]らはそうした文献を理論武装に使っていたようです。
こういった状況で提示できるように予め調べていたのでしょう。

[48] 
[[大延]]云々の[[日付]]は、当然ながら遺詔に属するものではなく、
画帳に[[熊沢寛道]]が揮毫した日という意味でしょう。
(その部分だけ引用したために文書を書いた日のようにも見えてしまいますが。)
([[熊沢寛道]]は自分の[[名前]]は[[署名]]しなかったのでしょうか。)
その場で咄嗟に[[元号]]を建てることを思いつくとも考えにくいですから
(あり得ないことではないかもしれませんが...)、
それ以前から使っていたのではないでしょうか。

[REFS[

- [73] [CITE[[[文藝春秋]] 昭和二十五年一月号]]
-- [72] 
[CITE[[V[熊沢天皇[BR[]]吉野巡󠄃幸記]]]],
[[[V[瀧󠄆川政次󠄄郞]]]]
- [70] 
[CITE@ja-JP[日本歴史解禁]], [[滝川政次郎]], [TIME[1950]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-24T06:20:26.945Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2972350/1/119> (要登録)
-- [69] 
[CITE@ja-JP[日本歴史解禁]], [[滝川政次郎]], [TIME[1951]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-24T06:18:29.494Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2972351/1/115> (要登録)
-- [71] 雑誌版と同文と思われます。
- [54] 
[CITE[[[ドキュメント日本人]]: 虛人列伝 - Google ブックス]], 
[TIME[1968][year:1968]],
[TIME[2021-02-01T12:10:10.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=UiJJAAAAMAAJ&q=%22%E5%A4%A7%E5%BB%B6%22>
-- [56] [CITE@ja-jp[ドキュメント日本人〈第9〉虚人列伝 (1969年) | |本 | 通販 | [[Amazon]]]], [TIME[2021-02-01T03:18:22.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000J9IIWO/wakaba1-22/>
-- [55] [[瀧川政次郎]]の記事が再録されている。
- [59] 
[CITE[[[歴史読本]] - Google ブックス]], 
[TIME[2007][year:2007]],
[TIME[2021-02-01T12:16:25.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=2FwzAQAAIAAJ&q=%22%E5%A4%A7%E5%BB%B6%22>
-- [61] [CITE@ja-jp[[[歴史読本]] 2007年 07月号 '''['''雑誌''']''' | |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2021-02-01T03:13:59.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000QBYDUQ/wakaba1-22/>
-- [60] [[瀧川政次郎]]の記事が再録されている。
- [57] 
[CITE[日本の百年: 廃墟の中から (1945-52) - [[Google ブックス]]]], 
[TIME[1961][year:1961]],
[TIME[2021-02-01T12:14:28.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=NopKAAAAMAAJ&q=%22%E5%A4%A7%E5%BB%B6%E2%80%9D>
-- [58] [[瀧川政次郎]]の記事が引用されているっぽい。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[8] [CITE[蔣介石評伝 - Isshū Yō, [[楊逸舟]] - Google ブックス]],
[TIME[1979][year:1979]],
[TIME[2020-07-11 18:47:15 +09:00]]
<https://books.google.co.jp/books?id=Y1VNAAAAMAAJ&q=%E2%80%9D%E5%A4%A7%E5%BB%B6%E2%80%9D>
]FIGCAPTION]

> 141 ページ
> 天理教と白く染めぬいたハッピを着て庭掃除を遊ばされた御姿は、いとも畏れ多ところが
、大延三九年(昭和二十八年)五月、みどりの風が薰るころ、熊沢天皇は丹波市の
天理教大ハ—グの国際司法裁判所に提訴したこともある。統領になった、と自称して
就任式 ...

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[33] [CITE[[[文藝春秋]] - Google ブックス]], 
[TIME[1987][year:1987]],
[TIME[2021-01-31T10:20:27.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=UdAPAAAAYAAJ&q=%E7%86%8A%E6%B2%A2%20%E5%A4%A7%E5%BB%B6>
]FIGCAPTION]

>141 ページ
>Isshū Yō, 楊逸舟 141 生い立ちと教育 ところが、大延三九年(昭和二十八年)五月、
みどりの風が薫るころ、熊沢天皇は丹波市の天理教大学に亡命し給うた。天理教
と白く染めぬいたハッピを着て庭掃除を遊ばされた御姿は、いとも畏れ多蒋介石が、一九四九年から六九年まで二十年間、国連で蔣は合法的に国民
によって選挙された大総統で、七億の人民を代表しており、毛朗集団は、不法に
中国を占拠している偽政権だ、と告訴しているのを彷彿させるものがある
。

>141 ページ
>熊沢天皇は即位したのち、大阪の場末にある安料理屋の離れを借りて仮皇居と
した。しかし、よく人とケンカするので、寛道は全身に八カ所の刀傷を受けた
こともある。大延三七年(昭和二十六年)二月、熊沢天皇は東京地裁に現天皇裕仁を
~ ...

;; [51] という結果が一時表示されていたが、出なくなった。
本来 >>8 の内容のように見える。現在 >>33 で「熊沢天皇」
で検索するとヒットするが、別の記事」。
[TIME[2021-02-01T07:48:24.500Z]]

]FIG]


- [40] [CITE[ちょっとよってんけぇ~!かわかみブログ ─ 奈良県吉野郡川上村:もりみず探険隊「[[後南朝]]ハイキング」 - livedoor Blog(ブログ)]], 
[[成瀬]],
2007年10月20日,
[TIME[2021-01-31T12:43:48.000Z]] <http://blog.livedoor.jp/kawakamimura/archives/51179979.html>
- [5] [CITE[天皇の暗号: 明治維新140年の玉手箱 - [[大野芳]] - Google ブックス]],
2011/06/14,
[TIME[2020-07-11 18:22:01 +09:00]]
<https://books.google.co.jp/books?id=qnZWBAAAQBAJ&pg=PT29&lpg=PT29&dq=%E5%A4%A7%E5%BB%B6>
-- [38] [[引用]]:
[CITE[[V[熊沢天皇吉野巡幸記]]]],
[[瀧川政次郎]],
[CITE[[V[文藝春秋]]]] [V[昭和二十五年一月号]]
- [28] [CITE[[[近代諸元号現象]]]]
-- [2] [CITE[修訂 [[絹と立方体]]]], pp.[L[682]]-[L[683]]
--- [14] [[引用]]:
[CITE[熊沢天皇吉野巡幸]],
[[瀧川政次郎]],
[CITE[文藝春秋]] [TIME[1950年1月][1950-01]]号
-- [13] 
[CITE@ja[. - 木村 守一 | [[パブー]]]] ([TIME[2019-06-23 11:51:29 +09:00]]) <http://p.booklog.jp/book/120409/page/3256864>
--- 移転確認 [TIME[2020-07-10T02:09:25.400Z]]
--- [24] [CITE[三訂 [[近代諸元号現象]] - 木村 守一 | Published with Bibi]], [TIME[2020-07-10 11:09:11 +09:00]] <https://puboo.jp/bib/i/?book=126808.epub>
41ページ
--- [25] PDF pp.17-18
---- [27] [[引用]]:
[CITE[熊沢天皇吉野巡幸]],
[[瀧川政次郎]],
[CITE[文藝春秋]] [TIME[一九五〇年一月][1950-01]]号

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[6] [CITE@ja[[[熊沢天皇]]のブレーン、昭和天皇を訴える暴挙に!(2020/07/04 17:00)|サイゾーウーマン(2ページ目)]]
[[堀江宏樹]],
2020/07/04 17:00,
[TIME[2020-07-11 18:25:15 +09:00]]
<https://www.cyzowoman.com/2020/07/post_291617_2.html>
]FIGCAPTION]

>[B[堀江宏樹(以下、堀江)]][SNIP[]]
> 翌年のお正月、「文藝春秋」(昭和25年1月号)に瀧川の名前で発表された「熊沢天皇吉野巡幸記」は熊沢天皇を真正面から攻撃、バカにしたアンチ記事でした。

>[B[堀江]] そう。すると熊沢天皇は調子にのってしまって、(熊沢の先祖にあたるということになっている)「後醍醐天皇遺詔」……つまり、後醍醐天皇ラストメッセージとして、次のようなポエムを書いたのでした。
>
[B[『朕が六百年の後、世は火の海泥の海となりて、日本天皇危し  大延35年10月29日』]]
> 大延という年号は、熊沢天皇の正式名である大延天皇由来の偽元号で、かってに年号を作って、それを自分で使っちゃってるわけです(笑)。[SNIP[]]

]FIG]


]REFS]

@@
[84] 
[CITE@ja-JP[昭和日本史 別巻 1 (皇室の半世紀)]], [[暁教育図書]], [TIME[1977.12][1977]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-04-08T07:14:09.971Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12395970/1/74?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)


* 利用

[32] 
いつからいつまで、どの程度使われたものかわかりません。


[49] 
吉野の宿の一件以前から既に使っていたのだとしても、
即位の時から用意していたのかどうかはわかりません。
あるいは[[終戦][大東亜戦争の終戦]]後の改元の提案に着想を得たのかもしれません。
[SEE[ [[昭和の元号危機]], [[昭和時代の日時]] ]]


[31] 
いつまで使われたのかも不明です。
[TIME[昭和32(1957)年][year:1957]]の[[譲位]] [SRC[>>1]]、
あるいは[TIME[昭和41(1966)年][year:1966]]の死去 [SRC[>>1]]
の頃まで使っていたのでしょうか。

[46] 
[CITE[Wikipedia]] は、大延43年まで継続したとしました。 [SRC[>>7]]
根拠は不明です。
43年は[TIME[昭和32(1957)年][year:1957]]に当たります。

[52] 
[TIME[昭和25(1950)年][year:1950]]の雑誌記事は、
熊沢天皇一派が[[大延]]を使っていることに言及していました
[SRC[>>10]]。
[CITE[Google Books]] で確認可能な範囲ではその出典が書かれているか不明です。
[[瀧川政次郎]]の記事の出版後と思われますから、
それが出典でしょうか。
あるいは他にも情報源があったのでしょうか。
なおこの記事は、当時社会問題化していた[[元号]]廃止と[[西暦]]採用について扱ったものだったようです。
[SEE[ [[昭和の元号危機]] ]]

[50] 
[CITE[Wikipedia]]
は、
[[熊沢寛道]]の他に、支持者も使用したとしました。
[SRC[>>7]]
出典は不明です。

[62] 
[[熊沢寛道]]は、
[[大東亜戦争の終戦]]後の混乱期に一時注目を集めたものの、
同時期に[[私年号]]を建てた他の宗教指導者達とは違って、
大規模な支持者組織を作り(れ?)ませんでした。
そのためもあるのか、
[[大延]]が支持者によって使われたという実例は見つけることができません。
それどころか本人の用例も全然知られていません。
[[瀧川政次郎]]が出会った頃をピークに自然消滅した可能性すらあります。

[81] 
[[滝川政次郎]]の論文が紹介する[[熊沢寛道]]自身の言によると、
[[京都]]の同志が支援するといいながら反故にされ、
[[大阪]]の支持者組織は官憲の圧力で解散させられ、
かつての雑貨屋の事業資金も底をつき、
困り果てていたといいます。
[SRC[>>72]]
熱心な支持者の[[吉田長蔵]]がいたものの、
知名度のわりに大した支持者組織は作れなかったようです。


[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE[[[朝日評論]] - Google ブックス]],
[TIME[1950][year:1950]],
[TIME[2020-07-11 18:48:21 +09:00]]
<https://books.google.co.jp/books?id=YH_sAAAAIAAJ&q=%E2%80%9D%E5%A4%A7%E5%BB%B6%E2%80%9D>
]FIGCAPTION]

>41 ページ
>元号廃止是か非かより情が伴う、両キリスト教徒によっはしがき問題の所在て
初めて用いられたやつであることは、忘うさる二月二十二日、参議院の文教委員
会に記年の方法は、 ... 故にこの問題は、又これを国民元号廃止に関する法案が
提出されてから、参係をもつものである。 ... 従つて日本人は元号に対しては
ならい?元号の家元というべき中国に於する材料を
提供しておきたいと思う)さる一濃淡の差こそあれ、いずれも愛語をもっていては
、記年に民国紀元を採用し、元号は現在月二十五、六両口に言つて行われた朝日
...

>42 ページ
>一たとすれば、世界のキリスト改徒はどうす汲んだ流の水が酒にな居たからと
いつては世一元の制となれば、年号は三つ乃季四つをるであろうか。そこの
ところよく考えてみ老と改元し、武蔵の国から自然銅が産出した覚えていれば事
足る ...

>それでも改元の年の不便は免れなって、天変地異が起ると繰起なおしに改元しい
。大正十五年は同時に昭和元年であるか利便の問題た。明和九年(西暦一七七二)江
戶に大火がら、改元の年には年号が二つある。御は後記年の利便という面から ...

>43 ページ
>ないから、元号でも大体間に合うが、史学故に中国の学者はこれを西ドといわず
に公た。今後日本 ... 日本のことと西洋のこととの用と同じ程度に日本人の国際
社会進出の一助国の民国紀元、豪古の徳王が用いていた成吉関速かつかまれない
。
... 紀元である。西暦を用いれば、日本旅史上の事件いうわけには行か
なくなる。西暦採用は外資には国紀元と宗教的紀元との二価がある。と西洋史
乃至 ... ある。国民の中には元号に対して何の感縁由によつて今なお西暦を用いて
いる。

>44 ページ
>徳川時代の価者達も 前朝の元号を添した。世人はかかる士を伯英叔質の前に
として外し、王号を!とを悟しとしない処士は、社役が亡んだ後も者を反逆未遂罪
に問うた。偽朝の豚を食むこ反逆換備罪に問い、偽朝国の元号を奉ずるに亡命し
て元 ...


> 46 ページ
> 現に南朝の正系を以て自任している熊沢天皇一派の人々は、今も昭和の元号を奉ぜず
、熊沢氏の建てた大延の年号を用いている。徳川時代の儒者達も宋学の影響を受けて
元号に対する考え方は厳格であったが、水戸学派に於ては特にそれが強い。又元号の


>46 ページ
>徳川時代の価者達も宋学の影響を受摘しているように、元号廃止反対論者の脳裡
日本人にとっては元号の制は漢士からの借けて元号に対する考え方は厳格であっ
たが、に国粋保存的思想が成存していることは事実物であるから、元号に対して
... 
しかし元号を深ぜざ文字は、歴代文章博士の物中によって定めらめ世界市民権の
無得に向つて語進したいといる者を反逆換備罪とし、外国の元号を奉ずるれた
もので、多く三史五経の古典から採られう意欲のあることも確かである。頭迷
固陋な者を反逆未務とする刑法の条文は、我が大ている。 
... 思想の問題てる
つ感情は抑圧し得ても、この中国人の元いる熊沢天皇一派の人々は、
今も昭和の元号号に対してもつ思想感情は払拭することはで
を ... の建てた大延の年号
を用いさる二月二日の朝日新聞の論說が正しく指ではなくなって、
アメリカ合衆国の一州となの年号をし、元号に対する感情は相当
尖鋭から俺は噂だと言っている者もある。ったと思うに違いない。日本人の元号
に対し化し ... 現に南朝の正系を以て自任して 1
たったら、中国の大都は日本はもはや独立国南朝の年号を添じ、北朝に味方する
者は北朝室者が ...

>46 ページ
>森鷗外の『元号考』や森本角蔵氏いが、急進的意見もまた圧抑されねばならぬ。
が現行法として行われた歴史をもつている。の『日本年号大観』は何れも元号の
文字の出われわれ現代日本人の思想は、戦後
制定せら朝廷の年号を率ぜずに私年号を ... 建てた大延の年号を用いさる二月二日
の朝日新聞の論說が正しく指ではなくなって、アメリカ合衆国の一州となの年号
...


>47 ページ
>一、二の新聞吐では既にこの問題についれているのである。 ... しさうだとすれば
、元条には元号に関する規定があつたが、現行のつを想念に学べてこの条文を
書いたに相違号を廃止して門を採用しようとする思想亜説にはそれがないという
のである ... 史料編 の對決佐藤春夫東西詩 E ・ブランデン 「昭程の年号のもと
太平洋戦争が敗戦に終い期は国民感情の間である ... の時はちうは所の田岡鹿之助
氏は、以上に述べた二つの円の中で、一将大きでめるっちう少し国民にこの問題
を考える ...



]FIG]

]REFS]

-*-*-

[34] 
[TIME[昭和54(1979)年][year:1979]]の書籍に、
「大延三九年(昭和二十八年)」
など[[大延]]に[[昭和]]を併記して[[熊沢寛道]]の生涯を説明した記事があったようです。
[SRC[>>8]]

;; [35] 「十」が入ったり入らなかったりするのが気になりますが...

[44] 
[TIME[2013-05-02]]、
[CITE[Wikipedia]]
は[[私年号]]の一覧表に括弧付きで掲載しました
[SRC[>>45]]。
[[括弧]]は一覧表中のいくつかの[[私年号]]に付されています [SRC[>>7]] が、
その意味ははっきりしません。
また
[CITE[Wikipedia]]
の頼った[[出典も不明][Wikipediaの日時関連記事]]です。

[82] 
[CITE[Wikipedia]]は本人のほか支持者も使用したと書いていますが [SRC[>>7]]、
具体的には不明です。

[63] 
その他辞典類が[[熊沢寛道]]を紹介する時に[[大延]]に触れることがままあるようです
[SRC[>>9, >>4]]。

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[7] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]]
([TIME[2020-07-08 08:19:10 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,(大延)	,-	,大正4年(1915年)	,43	,自称天皇熊沢寛道(大延天皇)とその支持者が使用

]FIG]

- [45] [CITE@ja[「[[私年号]]」の版間の差分 - Wikipedia]], [TIME[2021-01-18T07:13:47.000Z]], [TIME[2021-02-01T07:18:28.157Z]] <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7&diff=47696898&oldid=47690649>

]REFS]

* 関連

[36] 
[[熊沢寛道]]は[[天理教]]とも関係していたようですが、
知られているのはかなり遅い時代です [SRC[>>8]]。
[[天理教]]の[[私年号]]の[[立教]]を[[熊沢寛道]]が知っていたのかは不明です。

[11] [[大新]]とは無関係.

[64] 同時期他にも[[私年号]]が建てられました。
[SEE[ [[昭和時代の日時]] ]]

[83] 
[[後南朝の元号]]も参照。


[65] [[太延]]が[[大延]]と表記されることもありましたが、関係はないと思われます。
[SEE[ [[太延]] ]]

[66] [[天延]]が[[大延]]と誤記されることもありました。
[SEE[ [[天延]] ]]


* メモ


[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[9] [CITE[[[コンサイス人名辞典]]: 日本編 - Google ブックス]],
[TIME[1976][year:1976]],
[TIME[2020-07-11 18:47:53 +09:00]]
<https://books.google.co.jp/books?id=laLTAAAAMAAJ&q=%E2%80%9D%E5%A4%A7%E5%BB%B6%E2%80%9D>
]FIGCAPTION]

> 409 ページ
> ... し明治政府に上奏した。彼も名古屋で雑貨商を営み再三政府に上奏文を送る。敗戦
後 1946 (昭和 21 )米占領軍機関紙「星条旗」に取材されて一躍有名になり、全国を
講演旅行。世間から(熊沢天皇)とよばれた。昭和の年号を用いず、私年号(大延)を
称する。

]FIG]



[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[4] [CITE[占領期のキーワード100 1945-1952 - [[谷川建司]] - Google ブックス]],
2011/08/24,
[TIME[2020-07-11 18:20:40 +09:00]]
<https://books.google.co.jp/books?id=lJRwDgAAQBAJ&pg=PT143&lpg=PT143&dq=%E5%A4%A7%E5%BB%B6>
]FIGCAPTION]

>
[VRL[
熊沢寛道は養父が死んだ一九一四年 (大正四年) に年号を「大延」と改めていたが、五七年には「退位」した。[SNIP[]]その死後は、正当な皇室の慣例に準じて[B[大延天皇]]と呼称されることもある。
]VRL]

]FIG]

;; [37] 
[TIME[西暦1914年は大正3年][year:1914]]。
[TIME[大正4年は西暦1915年][year:1915]]。
他資料が
「大延天皇」
とは生前から自称していたと説明しており (>>12)、
「正当な皇室の慣例に準じ」
たとする根拠は不明。
(そもそも皇室にも明文化された制度はないし、
当時はまだ[[明治天皇]]と[[大正天皇]]の2例しかないので、
慣例といえるか厳しい。
[SEE[ [[一世一元]] ]])



[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1] [CITE@ja[[[熊沢寛道]] - Wikipedia]]
([TIME[2020-07-07 15:08:40 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%B2%A2%E5%AF%9B%E9%81%93>
]FIGCAPTION]

> 大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。

> 著書'''['''編集''']'''
> 『大延文叢』(日本国体明徴会、1953年(昭和28年))

]FIG]

;; [3] ここまで書いて[[元号]]に触れない
[CITE[Wikipedia]] は不親切だ。




]REFS]

[53] 
[CITE[日本私年号の研究]]
未収録。

[21] 
[[Web]] や [[SNS]] で検索すると[[熊沢寛道]]は知名度が高く毎年相当な頻度で言及される[[自称天皇]]の代表格であることがわかるが、
それに比して[[大延]]の知名度が低い。
[[熊沢寛道]]が大延何年と書いたものを積極的に残していたなら、
もっとそれへの言及があったはずだ。
[TIME[2021-02-02T03:51:01.900Z]]






[85] 
[CITE@ja-JP[東京の戦後誌]], [['''['''東京都''']'''台東区立下町風俗資料館]], [TIME[1987.11][1987]], [TIME[2025-07-02T03:11:48.000Z]], [TIME[2025-07-22T13:13:55.730Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13214022/1/46?keyword=%E5%A4%A7%E5%BB%B6> (要登録)
