* 元号名

** 素然

[28] 
[[嘉禎]]と書かれたとみられるものが[DFN[素然]]と読まれた事例が知られています。

*** 用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [10] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[奈良県]][[奈良市]]]] [[東大寺]] 所蔵 [CITE[天台宗一乗義秘要抄]]]]
-- [15] >>8 : 白黒写真 紀年部分 (中解像度)
-- [22] 
[DATA(.label)[内題下]]
「[V[[DATA(.text)[素然三年十一月]]  淨金剛院]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>21]]
--- [7] 
「[V[[DATA(.text)[素然三年十一月]]浄金剛院]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>8 ([CITE[[LINES(smaller)[昭和][現存]]天台宗書籍綜合目録]])]]
-- [23] 「[V[建長三年五月  以延曆寺智圓本  宗性寫]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>21]]
--- [14] 「[V[建長三年五月以延暦寺智円本宗性写]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>8 ([CITE[[LINES(smaller)[昭和][現存]]天台宗書籍綜合目録]])]]

]ITEMS]


[REFS[

- [21] 
[CITE@ja-JP[昭和現存天台書籍綜合目録 上巻]], [[渋谷亮泰]], [TIME[昭和15-18][1943]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-08-25T09:46:00.704Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1123635/1/143?keyword=%E7%B4%A0%E7%84%B6> (要登録)

]REFS]

*** 諸説

[29] 
[[昭和時代]]に目録の形で[[翻刻]]紹介されたときに[[素然]]と読まれましたが、
そのような[[元号]]は他に知られていません。

[30] 
その後[[昭和時代]]に[[嘉禎]]の誤読説が提唱されました。

[32] 
その他にはこれといった議論はみられません。

[31] 
[[素然]]と[[嘉禎]]ではまったく違うようにも思われますが、[[草書]]の崩れた[[字形]]では、
このような誤読もあり得ることなのでしょう。写真で見ると、[[嘉禎]]で妥当と思われます。

*** 研究史

[26] 
昭和18年の目録は、
>>10
を掲載して[[紀年]]を[[素然]]と読みました。
他の[[元号]]と違って比定[[皇紀年]]を記載していません。
[SRC[>>21]]

[11] 
昭和42年の
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
[[私年号]]でなく[[私年号的諸資料]]に
>>10
を紹介し、

- [12] [[私年号]]らしきもの
- [13] 建長3年以前
- [16] 実物によると[[素然]]とは読めない
- [17] おそらく[[嘉禎]]と読むべき
- [18] 他の[[智円]]本[[宗性]]写本の年代と接近
-- [19] 同年代で[[公年号]]のうち書体が最も近いのは[[嘉禎]]

としています。
[SRC[>>8]]

[25] 
[[中文]]版[CITE[维基百科]]の一覧は、
[[嘉禎]]の欄で
[CITE[日本私年号の研究]]
を出典に
[CITE[天台宗書籍綜合目錄·天台宗一乘義秘要抄]]が[[素然]]と誤るとしています。
[SRC[>>24]]

[REFS[

- [9] [CITE[日本私年号の研究]]
-- [8] pp.[V[四八七]]-[V[四八八]]
- [24] 
[CITE@zh[日本年號列表 - [[维基百科]],自由的百科全书]], [TIME[2026-08-21T05:11:48.000Z]], [TIME[2026-08-25T10:15:08.498Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B9%B4%E8%99%9F%E5%88%97%E8%A1%A8#%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3>

]REFS]

-*-*-

[27] 
これ以外に[[私年号研究]]の文脈で紹介した事例は見当たりません。


** 嘉貞

[57] 
[[嘉禎]]のことを[DFN[嘉貞]]と書いた事例がいくつか知られています。

-*-*-

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [45] [DATA(.label)[[CITE[神子禅師栄尊大和尚年譜]] [[刊本]]]]
-- [46] 
「[DATA(.text)[[V[嘉貞元年乙未]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>44]]
-- [47] 
「[DATA(.text)[[V[建治元年乙亥佛成道󠄃日[SNIP[]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>44]]
-- [48] 
「[DATA(.text)[[V[延寶八年庚申八月日]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>44]]

]ITEMS]

[51] 
[TIME[建治元(1275)年][1275]]成立 [SRC[>>50]] とされる[CITE[栄尊大和尚年譜]]。

[49] 
>>46 に[[嘉貞]]があります。前に[[文歴]],
後に[[宋嘉煕]]があります。 [SRC[>>44]]

[59] 
この位置と[[干支年]]から、同音の[[嘉禎]]と断定できます。

[58] 
[TIME[嘉禎元(1235)年乙未][1235]]から40年後の成立で、
その当時の[[字形]]がそのまま転写されているとするなら、
かなり同時代に近い用例であり、あるいは同時代的にも[[嘉貞]]と書かれていた可能性が出てきます。

[60] 実際この[[字形]]がどこまで遡れるものなのか、検討が待たれます。

[61] 
本書は[[日本]]と[[宋国]]の交流に関係するものであり、
そこに[[嘉貞]]の[[字形]]が出現するとなると、
あながち大陸側資料 (>>34) も単純な誤記と安易に片付けられるものでもなくなります。

[54] 
[TIME[平成26(2014)年][2014]]の論文は、 >>45 を紹介して、
特に注釈なく[[嘉禎]]と説明しています。
[SRC[>>53]]

[52] 
[TIME[平成27(2015)年][2015]]の論文は、 >>45 を紹介して、
「[L[嘉貞(禎ヵ)元年乙未]]」 ([[明朝体]])
と書いています。 [SRC[>>50]]



[REFS[

- [44] 
[CITE@ja[ビューア | [[神子禅師栄尊大和尚年譜]]]], [TIME[2026-08-25T12:35:12.000Z]] <https://www.digital.archives.go.jp/img/1208651#5>
- [53] 
[CITE@ja[駒澤大学学術機関リポジトリ]], [TIME[2026-08-25T12:47:22.000Z]] <https://komazawa-u.repo.nii.ac.jp/records/2001479>
#page=15
#Page=27
- [50] 
[CITE@ja[国際日本文化研究センター学術リポジトリ]], [TIME[2026-08-25T12:43:38.000Z]] <https://nichibun.repo.nii.ac.jp/records/1150>
#page=11


]REFS]

-*-*-

[34] 
[CITE[紀元類聚考]]に、[[嘉貞]]があります。
[SRC[>>37 ([CITE[紀元編]])]]

[40] 
[CITE[厯代建元考]]
は、
[[四條院天皇]]の1つ目の[[元号]]として[[嘉貞]]を掲載しています。
[SRC[>>39, >>41]]

[REFS[

- [39] 
[CITE@zh[厯代建元考 (四庫全書本)/卷10 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2026-08-23T14:00:30.000Z]], [TIME[2026-08-25T10:56:22.518Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8E%AF%E4%BB%A3%E5%BB%BA%E5%85%83%E8%80%83_(%E5%9B%9B%E5%BA%AB%E5%85%A8%E6%9B%B8%E6%9C%AC)/%E5%8D%B710>
- [41] 
[CITE@en[Lidai Jian Yuan Kao: 歷代建元考 : 卷十 - Chinese Text Project]], [[Donald Sturgeon]], [TIME[2026-08-25T10:58:55.000Z]] <https://ctext.org/wiki.pl?chapter=203124&if=en#p129>


]REFS]

[43] 
[TIME[昭和5(1930)年][1930]]の
[CITE[吾妻鏡]]
刊本は、
目次でのみ[[嘉禎]]を[V[嘉貞]] ([[明朝体]])
と書いています。
[SRC[>>42]]
本文になく[[誤植]]と思われます。

[REFS[

- [42] 
[CITE@ja-JP[吾妻鏡 第6]], [[正宗敦夫]], [TIME[昭和5][1930]], [TIME[2026-08-18T01:13:52.000Z]], [TIME[2026-08-25T11:09:22.309Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1110308/1/3?keyword=%E5%98%89%E8%B2%9E>

]REFS]


[35] 
[CITE[紀元編]]は、
>>34
を[[嘉禎]]の誤りとしています。
[SRC[>>37]]

[38] 
昭和42年の[CITE[日本私年号の研究]]は、
[[私年号]]でなく[[私年号的諸資料]]の本文中 (単独立項なし)
で、
>>37
を紹介しています。
[SRC[>>37]]
昭和39年の論文でも立項しないのは同じです。 [SRC[>>20]]

[33] 
[[中文]]版[CITE[维基百科]]の一覧は、
[[嘉禎]]の欄で
[CITE[歷代紀元編]]
を出典に、
[[鍾映淵]]の[CITE[建元考]]が[[嘉貞]]とする、
としています。
[SRC[>>24]]

[REFS[

- [20] [CITE[我が国の私年号に関する研究 (一) ―平安時代より南北朝まで―]]
- [36] [CITE[日本私年号の研究]]
-- [37] p.[V[四九四]]

]REFS]

-*-*-

[56] 
[TIME[令和元(2019)年][2019]]のブログ記事は、
[[嘉禎]]のことを[[嘉貞]]と書いています。
[SRC[>>55]]
誤記の可能性が高そうですが、記事の単純な[[誤変換]]なのか、
何らかの原資料から誤りを引き継いだのかは不明です。


[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[55] 
[CITE@ja[662.松虫塚(熊野街道): 古民家アンティークギャラリーカフェ なつめのブログ]], 
2019年07月10日,
[TIME[2026-08-25T12:48:54.000Z]] <https://natsumemomiji.seesaa.net/article/467821626.html>
]FIGCAPTION]

>松虫鈴虫は、法然の弟子の勧めで瀬戸内海の生口島(いくちじま)の光明坊(現広島県尾道市)で念仏三昧の余生を過ごし、松虫は(元仁元年(1224)36歳で、鈴虫は(嘉貞元年(1235)45歳で亡くなったといわれています。
]FIG]

]REFS]


* 関連

[1] 
[CITE@ja-JP[横浜緑区史 資料編 第1巻]], [[緑区史編集委員会]], [TIME[1985.3][1985]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-21T06:04:22.185Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9522894/1/87?keyword=%E5%98%89%E8%B2%9E> (要登録)

[2] >>1 「嘉貞禎四年五月廿日」、[CH[貞]]に[V[(衍)]]と注釈。

[3] [CITE@ja-JP[表現学論考 : 今井文男教授還暦記念論集]], [[今井文男教授還暦記念論集刊行委員会]], [TIME[1976]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-01T14:12:35.143Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12442638/1/115?keyword=%E8%B3%80%E7%A6%8E> (要登録)

[4] >>3 [CITE[消息耳底秘抄]], [V[賀禎二年林鐘]]

誤植か?

- [5] [CITE@ja[ビューア | 消息耳底秘抄]], [TIME[2026-06-01T14:16:28.000Z]] <https://www.digital.archives.go.jp/img/698953#20>

[6] >>5 の[CITE[群書類従]]本では[V[嘉禎二年林鐘廿日]]。

* メモ