[28] 
[DFN[嘉政]]は、[[元号名]]状の語の1つです。

* 嘉政 (新元号候補)

[9] 
[[嘉政]]は、
[[文化]]度、
[[文政]]度、
[[弘化]]度、
[[嘉永]]度の[[元号名]]候補でした。
[SRC[>>64, >>75]]

[10] 
[[嘉政]]の噂 (>>2)
が摘発されているにも関わらず、
[[弘化]]の次の[[嘉永]]度にも構わず提案されていることは興味深いです。
[[江戸]]での事件は些事に過ぎず[[京都]]の[[公家]]には伝わらなかったのでしょうか。
それとも気にしなかったのでしょうか。


[REFS[
- [75] 
[CITE@ja-JP[日本年号大観]], [[森本角蔵]], [TIME[昭和8][1933]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-03-14T13:01:51.179Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1688696/1/192>
]REFS]


* 嘉政 (改元デマ)

[2] 
[DFN[嘉政]]は、
[[江戸時代]]の[[日本]]の[[改元デマ]]の1つです。

[63] 
[TIME[天保15(1844)年][1844]]、
[[天保]]から[[弘化]]への[[公年号]]の[[改元]]と時を同じくして出現しました。

;;
[8] 
[[江戸時代]]には同様の[[改元デマ]]が多発していました。 [SEE[ [[改元デマ]] ]]

** 経緯

[65] 
[[弘化]]度の[[改元]]と[[嘉政]]の[[改元デマ]]の経緯は次の通りです。

= [29] [TIME[天保15(1844)年5月10日][kyuureki:1844-05-10]]、
[[日本]][[武蔵国]][[江戸]]の[[江戸城]]で火災が発生
[SRC[>>23, >>41]]
= [42] [TIME[天保15(1844)年5月18日][kyuureki:1844-05-18]]、
[[朝廷]]に[[江戸城]]火災の旨が到達
[SRC[>>41]]
= [30] [TIME[天保15(1844)年5月20日][kyuureki:1844-05-20]]、
[[朝廷]]で[[江戸城]]火災を理由に[[改元]]を協議
[SRC[>>41]]
= [43] [TIME[天保15(1844)年5月21日][kyuureki:1844-05-21]]、
[[武家伝奏]]と[[京都所司代]]で[[江戸城]]火災を理由に[[改元]]を協議
[SRC[>>41]]
= [31] [TIME[天保15(1844)年7月3日][kyuureki:1844-07-03]]、
[[朝廷]]に[[江戸幕府]]から[[改元]]実施に同意の旨返答される
[SRC[>>41]]
= [44] [TIME[天保15(1844)年7月11日][kyuureki:1844-07-11]]、
[[朝廷]]で[[改元]]を[TIME[天保15(1844)年][1844]][[冬]]に行う方針がまとまる
[SRC[>>41]]
= [45] [TIME[天保15(1844)年7月15日][kyuureki:1844-07-15]]、
[[関白]][[鷹司政通]]は[[武家伝奏]][[日野資愛]]に[[改元]]を[TIME[天保15(1844)年][1844]][[冬]]に行う旨[[京都所司代]]に伝達することを指示
[SRC[>>41]]
= [46] [TIME[天保15(1844)年7月18日][kyuureki:1844-07-18]]、
[[武家伝奏]][[日野資愛]]から[[京都所司代]]に[[改元]]を[TIME[天保15(1844)年][1844]][[冬]]に行う旨伝達
[SRC[>>41]]
= [47] [[幕府]]の同意
[SRC[>>41]]
= [32] [TIME[天保15(1844)年9月22日][kyuureki:1844-09-22]]、
[[朝廷]]内で[[改元]]実施を発表
[SRC[>>23, >>41]]
-- [49] [[勘者宣下]]を11月上旬に実施 [SRC[>>41]]
-- [48] [[改元]]を11月下旬から12月上旬に実施 [SRC[>>41]]
-- [50] [[一会伝送]] [[広橋基豊]] [SRC[>>41]]
-- [51] [[奉行]] [[烏丸光政]] [SRC[>>41]]
= [52] [[武家伝奏]]は[[京都所司代]]に伝達
[SRC[>>41]]
= [76] 
[[朝廷]]に提出された新元号案:
弘化、嘉德、万安、万延、文久、嘉永、嘉延、
万和、嘉政、永寧、大暦、嘉享、天秩、寛安、大寛、和平、享安
[SRC[>>75]]
= [34] [[朝廷]]で7候補 (弘化、嘉德、万安、万延、文久、嘉永、嘉延) を決定
[SRC[>>23]]
= [53] [TIME[天保15(1844)年10月11日][kyuureki:1844-10-11]]、
[[朝廷]]は[[元号]]案を[[江戸幕府]]に提示する書付を作成
[SRC[>>41]]
= [54] [TIME[天保15(1844)年10月13日][kyuureki:1844-10-13]]、
[[武家伝奏]]の[[徳大寺実堅]]と[[日野資愛]]は[[京都所司代]]の[[酒井忠義]]に新元号案を伝達
[SRC[>>41]]
-- [55] 7候補
--- [35] [[嘉德]]と[[弘化]]から選ぶよう指定
[SRC[>>23, >>41]]
--- [56] 特に[[弘化]]を推す
[SRC[>>41]]
--- [36] 但し、[[嘉德]]も良い案である
[SRC[>>23]]
--- [57] それ以外でも遠慮しなくていい
[SRC[>>23, >>41]]
-- [58] 
[[改元日]]を[TIME[天保15(1844)年12月2日][kyuureki:1844-12-02]]としたい
[SRC[>>41]]
---[66] 
返答を[TIME[天保15(1844)年11月20日][kyuureki:1844-11-20]]までに望む
[SRC[>>41]]
= [33] [TIME[天保15(1844)年11月4日][kyuureki:1844-11-04]]、
[[朝廷]]は[[改元定]]を[TIME[天保15(1844)年12月2日][kyuureki:1844-12-02]]実施と決定、
[[武家伝奏]]から[[京都所司代]]に伝達
[SRC[>>23]]
--
;; [67] >>13, >>14 と整合しないがどういうことか?
= [37] [[江戸幕府]]は[[弘化]]がよいと返答
[SRC[>>23, >>41]]
= [59] [TIME[天保15(1844)年11月18日][kyuureki:1844-11-18]]、
[[京都所司代]]は[[改元日]]を[TIME[天保15(1844)年12月2日][kyuureki:1844-12-02]]でも延期でもよいと[[江戸幕府]]の返答を伝達
[SRC[>>41]]
= [60] [TIME[天保15(1844)年11月20日][kyuureki:1844-11-20]]、
[[朝廷]]は[[改元日]]を[TIME[天保15(1844)年12月2日][kyuureki:1844-12-02]]に決定と[[京都所司代]]に伝達
[SRC[>>41]]
= [38] [TIME[天保15(1844)年12月2日][kyuureki:1844-12-02]]、
[[改元日]]。[[朝廷]]は[[改元定]]にて[[弘化]]と決定
[SRC[>>23]]
-- [39] [[京都所司代]]は[[改元定]]を見聞の後、新元号の書付を渡される。
[SRC[>>23]]
=
[26] 
[TIME[天保15(1844)年12月6日][kyuureki:1844-12-06]]、
[[日本]][[武蔵国]][[江戸]]で、
「今日より年号替りました」
と市中を売り歩く者がありました。
小さな紙に「嘉政」と書き付けてあり、
1枚4[[文]]でした。
[SRC[>>105]]
--
[68] 
この事件では8人 [SRC[>>23]] ないし6人 [SRC[>>64]] 逮捕され[[入牢]]しました。
[SRC[>>40 p.599 ([CITE[藤岡屋日記]]), >>64]]
--- [108] これは >>104 と >>107 を指します。
>>104 の2人が >>107 の6人に含まれるか含まれないかで2説あるようです。
--
;; [109] 
[CITE[藤岡屋日記]]
の筆者は購入したのでしょうか、それとも購入した人から「嘉政」
と書かれていたと聞いたのでしょうか。
=
[104] 
[TIME[天保15(1844)年12月8日][kyuureki:1844-12-08]]、
[TIME[天保15(1844)年12月6日][kyuureki:1844-12-06]]に「嘉政」
を売り歩いた2人が[[逮捕]]され[[茅場町大番屋]]に勾留されました。
[SRC[>>105]]
=
[107] 
その後、
[TIME[天保15(1844)年12月6日][kyuureki:1844-12-06]]に「嘉政」
を売り歩いた6人が[[逮捕]]されました。
[SRC[>>105]]
--
;;
[110] 
[CITE[藤岡屋日記]]の12月6日条 (12月8日条の前)
にこの後日談まで書かれています。
後からまとめたのか追記したのかはわかりませんが、
12月6日条のすべてを12月6日に書いたわけではないということです。
= 
[62] 
[TIME[天保15(1844)年12月13日 = 弘化元年12月13日][kyuureki:1844-12-13]]、
[[江戸城]]において新[[元号]]が発表され、
[[江戸]]において[[施行]]されました。
諸藩国元へと送付されました。
[SRC[>>61]]


[3] 
この[[嘉政]]という嘘情報の新[[元号]]を信じて実用した事例は見つかっておらず、利用されたかは不明です。

;; [71] 
他の[[改元デマ]]で信じて使った事例も伝わっています。
[SEE[ [[改元デマ]] ]]
[[嘉政]]も「今日から」との触れ込みで伝えられた [SRC[>>64]]
というのですから、
その日のうちに使った人もいたかもしれません。

;; [95] 
有料で配って回る商売が成り立っていたということは、
お金を払ってもすぐに新元号情報がほしいと思った人がそれなりにいるということです。


[72] 
このスケジュールを見るとわかる通り、
[[朝廷]]と[[江戸幕府]]は[[天保]]から[[弘化]]への[[改元手続き]]を進めていました。
その最終段階で、[[朝廷]]で新元号が正式決定した後、
[[江戸幕府]]が新元号を公布する直前というタイミングで、
誤った改元情報が流布されました。

;; [111] 
[CITE[藤岡屋日記]]
はこの時代の貴重で信頼できる史料として扱われています。
「嘉政」の事件も具体的な描写で、
これといって疑わしい点はありません。
ただ現時点で知られているこの事件への言及は本書のみなので、
できれば裏付けとなる独立した史料もほしいですね。
取り締まった[[幕府]]側の記録がどこかに残っていればいいのですが... どうでしょう。




[REFS[

- [106] 
[CITE[[[藤岡屋日記]]]]
-- [105] 
[CITE@ja-JP[[[日本都市生活史料集成]] 2 (三都篇 2)]], [[原田伴彦 '''['''等''']'''編集代表]], [TIME[1977.10][1977]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-03-16T03:55:10.859Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12282160/1/246> (要登録)
---
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[102] 
[CITE[[[日本都市生活史料集成]]: 三都篇 - [[Google ブックス]]]], [TIME[2022-12-22T09:41:05.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=b_M3AAAAMAAJ&dq=%E5%98%89%E6%94%BF>
]FIGCAPTION]

>485 ページ
>泰明院樣御法事紀付為伺御機煉、溜誌、高家、誌架、御奏者番登城、於席之認老中。一越前守不快忆付今日登城無之、尤見舞断。 1 今日より年号替りましたと市中を売あるくなり。小サキ紙に
嘉政と書付壱枚四文宛に売也。八日に弐人召捕茅場町大番屋江揚る也。追~六人迄召捕るゝ(改)也。先年天保政元の句も、年号永長と書付売あるき召捕るゝ也。十二月八日一御忌御日数中心付、上野俊明院樣、慈德院樣御靈前江御名代無之。


]FIG]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[103] 
[CITE[[[藤岡屋日記]] - Google ブックス]], [TIME[2022-12-22T09:37:26.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?newbks=1&newbks_redir=0&hl=ja&id=zSWNAAAAIAAJ&dq=%E6%B0%B8%E9%95%B7>
]FIGCAPTION]

>462 ページ
>... なり、小サキ紙嘉政と書付、一御據中為何御機煉、尾張殿·水戶殿始想出仕有之、於席、認老中。专枚四文宛二充也。一右同断二付、紀伊殿并御隐居方上的使者被差出之、於题踢間、謁八日二式人召捕、茅場町大番屋江揚儿也、追六人迄召捕石 A 也、先老中。年天保改元之も、年号永長と書付、売あるき召捕るゝ也。 0 十二月八日青蓮院蝦葬送、上野凌雲院江出儿也、文恭院樣御安市石 5 段也。一御忌御日数中二付、上野没明院樣:慈德院樣御靈前江御名代無之。 o 同六日御法事中二付、今朝增上寺泰明院樣御位牌所江 ...

]FIG]


]REFS]


** 発生

[77] 
当時の[[朝廷]]や[[幕府]]の情報管理がどのようなものだったか詳しくはわかりませんが、
[[改元]]に向けて準備している情報を半年間まったく外部に漏らさずに進められたか、
といえば疑わしいですし、秘匿する必要があることとも思えません。
[[改元]]が行われる、ということは社会の共通認識というほどではないかもしれませんが、
[[江戸]]の一般市民でそろそろ[[改元]]がありそうだ、と知っていた人はいたと考えていいのではないでしょうか。

;; [83] まったくの偶然で時期が重なった可能性も皆無ではありませんが、
偶然にしては良く出来すぎています。
[[代始改元]]なら予測もし易いですが、[[江戸城]]火災理由の[[改元]]の前例は多くありません。

[78] 
[[改元日]]が[TIME[天保15(1844)年12月2日][kyuureki:1844-12-02]]に決まったこと、
[[江戸城]]での新元号披露が[TIME[天保15(1844)年12月13日][kyuureki:1844-12-13]]に行われること、
新元号が[[弘化]]であること、
が事前にどれだけの人に知られていたのかもよくわかりません。
しかし[[朝廷]]での[[改元日]]は一般市民にとってさほど重要ではない情報だと思われますし、
[[江戸城]]での披露の日は[[朝廷]]の[[改元日]]ほどかっちりスケジュールを組まれているイメージもありません。
(イメージだけで裏付け資料はありませんが...)
[[冬]]頃に[[改元]]があるらしい、ということくらいは広まっていたとしても、
厳密な日取りまで知っている人はあまりいなかったのかもしれません。


[11] 
当時の[[京都]]と[[江戸]]の間の情報伝達は1週間程度、早ければ3日程とされます。
[TIME[天保15(1844)年12月2日][kyuureki:1844-12-02]]に決定した新元号の情報が[TIME[天保15(1844)年12月6日][kyuureki:1844-12-06]]に[[江戸]]に到達していたかどうかは、
微妙なラインです。
また、[[京都]]でも[[朝廷]]が直接一般市民に新元号を発表するわけではないでしょうし
[WEAK[([[公家]]から一般市民へと伝わることはあるでしょうが。)]]、
一般市民が独自に[[京都]]から[[江戸]]に速報で知らせる動機も考えにくいです
[WEAK[(速報といってもこの時代に公式ルートより早く[[江戸]]につくことはないでしょうし。)]]。
従って[[嘉政]]は新元号が正式に決定した[[改元日]]かそれ以後に[[京都]]から伝わった情報では''ない''可能性が高いということになります。

[79] 
といっても[[江戸幕府]]はそれ以前から決定に関わっていたので新元号が[[弘化]]であることは知っています。
また、
それ以外の6案も[[朝廷]]から提示されています。
ただ、計7案以外の案を知っていたのかは不明です。
[[嘉政]]は7案には含まれていません。
ですので[[弘化]]度の候補だった[[嘉政]]が[[江戸]]で一般市民に伝わった可能性は低いのではないでしょうか。


[12] 
ということで、

- [80] [[弘化]]度の早い時期で落選した「嘉政」が[[京都]]の[[公家]]からなんやかんやで[[江戸]]まで届いた
- [81] 過去に落選した「嘉政」が何らかの理由で[[弘化]]度の新元号案と誤認された
- [84]  
他の候補である[[嘉德]]、[[嘉永]]、[[嘉延]]が何らかの理由で誤って「嘉政」
として伝わり[[弘化]]度の新元号案と誤認された
- [82] [[公年号]]案と無関係に誰かが考案した「嘉政」が何らかの理由で[[弘化]]度の新元号案と誤認された

といった可能性が考えられます。


[14] 不採用案から発生した[[改元デマ]]事案は何度かあります。
有力でもない候補が誤認されるのは不思議ですが、
他の事案でも実際そういうことが起こっているので、
可能性はあります。
[SEE[ [[改元デマ]] ]]

;; [85] 当時の未決定元号案が秘密情報だったのかはわかりませんが、
有力候補ほど上層部で慎重に扱われていると思われる一方、
不採用が決定した案はもはや重要な情報でもないので粗雑に扱われるような感じなのでしょうか。

[70] 
[[嘉政]]はこの前後の時期に何度も新元号案として提出されていました
[SRC[>>64]]
(>>9)。
既に世に出ていた過去の候補が[[弘化]]度の[[改元]]の動きに触発されて発掘されて誤解されて噂になった、
という可能性もあるのかもしれません。


[13] 
[[嘉政]]のうち[CH[政]]は[[天保]]の前の[[文政]]、そのしばらく前の[[寛政]]で使われていて、
当時の人にとって[[元号]]でいかにも使われそうな[[文字]]だったと思われます。
何らかの理由で独自の[[元号]]を作った人が[CH[政]]を使うというのも、
考えられないことではありません。

[87] 
他の候補が誤解されて[CH[政]]になったという可能性はどうでしょう。
どの候補の2文字目も[CH[政]]とは[[字形]]も[[音]]もあまり似ていません。
強いて言えば[CH[延]]の[[字形]]が似ることは考えてみてもいいのかもしれませんが...


[86] 
[CH[嘉]]は次の[[嘉永]]が[[江戸時代]]で唯一で、前は[[嘉吉]]まで遡ります。
[[江戸時代]]の一般人も歴史知識がある人は知っていたかもしれませんが、
[[元号名]]としてあまり馴染みがない[[文字]]だったかもしれません。
この時期の新元号案の候補にはしばしば使われているので、
[[京都]]の[[公家]] (のうち新元号の提案に関わる人々) 
の流行だったのかもしれませんが、
[[江戸]]で勝手に独自の新元号を作る人 (がいたとして。) にとっても使いたい文字だったかは疑問が残ります。


[88] 
以上まとめると新元号案だった「嘉政」がデマ化した可能性が (消去法で) 
最も高いと思われますが、物証はなく、
新元号案がどのような経路でデマとなったのか、
疑問は残ります。

** 伝播

[96] 
当時の[[江戸]]では[[合棟乞食]]が信憑性の疑わしい情報も含めて様々な情報を伝えていました。
[SRC[>>20]]
現在の[[ゴシップ誌]]に相当するような[[媒体]]でしょうか。

[97] 
[[合棟乞食]]は[[改元]]の情報も伝えており、
[[嘉政]]もその1つだったと考えられているようです。
[SRC[>>20, >>21]]
これが個別具体的な根拠あってのことなのか、
他の同様の情報伝達や事件と同様にそうであろうという推測なのかはよくわかりません。

[101] 
[[合棟乞食]]グループが自ら取材して入手した情報なのか、
どこか誰かから伝わった噂を広めたに過ぎないのかは検証が必要です。

-*-*-

[98] 
役人が新元号を[[嘉政]]とするべきかと協議しているのを、
[[合棟乞食]]の[[親方]]の[[仁太夫]]が聞きつけて[[スクープ]]したため、
先に報じられた[[嘉政]]を避けて別のものに変えたのだ、
とする説があります。
[SRC[>>21]]

[99] 
これが何を根拠とする説なのかは不明です。
[[改元手続き]]の時系列をみればこの説が成り立ち得ないのは明らかです。

;; [100] 
なぜか[[改元デマ]]にはこのような「漏れたから差し替え」説が[[近現代]]に出現しがちです。
[SEE[ [[改元デマ]] ]]



** 評価

[1] 
このような嘘改元情報の出現を政治への不満を背景にしたものとする説があります。
[SRC[>>40 p.599 ([CITE[藤岡屋日記]]), >>64, >>15]]

[69] 
歴史研究者の[[吉野健一]]は、
[[庶民]]に[[改元]]で新時代を期待する願望があったと解説しています。
[SRC[>>15]]
また、[[改元伝達]]の時間差の最中に起きた事件で、
[[改元]]が為政者の論理だけでなく世間の[[改元]]待望論と連動していたことを示唆しているとの解説もあります。
[SRC[>>64]]


[7] 
>>1 この推測の理由は明記されていませんが、
[[元号]]を偽造するという事自体や、
「嘉政」
という[[元号名]]からでしょうか。


[89] 
[[私年号]]と同じで[[改元デマ]]も

- [90] [[元号]]を作った人 (意図的に作られたものだとすると)
- [91] [[元号]]情報を流布した人
- [92] [[元号]]情報を受けとった一般市民
- [93] [[元号]]情報を流布した人を取り締まる政府機関

のそれぞれの思惑があるはずで、
いつ誰が何を考えてどう行動したのかを明らかにしないままでの雑な評価は実態を見誤る危険があります。

[94] 
「政治への不満」
が理由だといっても
「政治に不満があるのでそれを表現する嘘元号を作った」
と
「政治に不満があるので新元号を政府よりも早く流通させようとした」
と
「政治に不満があるので新元号情報が非正規ルートから届いても受け入れた」
とでは話がまったく変わってきます。

** 研究史

[116] 
[CITE[古事類苑]]所引[CITE[續雨夜友]]に、[[天保]]改元前後の[[改元]]関係の怪情報流布についての同時代の記録があります。
[SRC[>>184]]

[117] 
[CITE[国立国会図書館デジタルコレクション]]
や
[CITE[Google書籍検索]]
で検索すると、いくつかの目録に
[CITE[続雨夜友]]や[CITE[続雨夜之友]]の掲載があります。
しかし全文を掲載したウェブサイトは現時点で見つけられません。
[TIME[2025-08-13T09:42:51.700Z]]



@@


;;
[118] 
この記録は[[嘉政]]事件と事実関係の違いもあり、同一の事件を指すのか明らかではありません。
より精密な分析が必要です。

[REFS[

-
[184] 
[CITE@ja[歳時部/年號下〈逸年號併入〉 - Kojiruien]], [TIME[2024-10-31T05:41:27.000Z]] <https://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E6%AD%B3%E6%99%82%E9%83%A8/%E5%B9%B4%E8%99%9F%E4%B8%8B%E3%80%88%E9%80%B8%E5%B9%B4%E8%99%9F%E4%BD%B5%E5%85%A5%E3%80%89#content_1_354>

]REFS]


-*-*-


[114] 
[TIME[昭和54(1979)年][1979]]の研究で若干触れられています。
[SEE[ [[改元デマ]] ]]

[112] 
[[平成時代]]後期の
[CITE[日本年号史大事典]]
のコラムで紹介されています。
[SRC[>>40]]

[115] 
研究はあまり進んでいません。史料が少ないためでしょうか。

[113] 
[[私年号研究]]の多くは[[中世史]]の研究者によるもので、
[[近世]]の[[私年号]]は長らく視野に入っていなかったため、
[[近世]]の[[改元デマ]]は[[異年号]]の研究からこぼれ落ちていたと思われます。

[119] 
>>116 の記録も[CITE[古事類苑]]に収録されたものであり、
[CITE[古事類苑]]
の当該部分は[[久保常晴]]も参照していた可能性が高いですが、
[CITE[日本私年号の研究]]
では言及されていません。
[[異年号]]に関する記事と理解しなかったものでしょう。

[REFS[

- [61] 
[CITE[[[弘前藩日記]]]]
- [27] 
[CITE@ja-jp[江戸の下層社会 | 塩見 鮮一郎, 朝野新聞 |本 | 通販 | [[Amazon]]]],
1993/2/15,
[TIME[2024-03-14T03:29:16.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4750304883/wakaba1-22/>
-- [16] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「【本棚登録】『江戸の下層社会』塩見 鮮一郎 https://t.co/1k3HlXaJ3G #booklog」 / [[X]]]], [TIME[午後9:30 · 2017年2月24日][2017-02-24T12:30:02.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/835104497256914944>
--
[25] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「さて乞食(本書では「乞丐」表記)といえば人家の前や街頭で食べ物を乞い求める個人であるが、江戸時代の乞食はまず親方なるものがいて、乞食たちを支配して物乞いできる区域を定めていた。したがってこの親方乞食もその生計は決して苦しくはなかった。」 / [[X]]]], [TIME[午後10:14 · 2017年3月3日][2017-03-03T13:14:15.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/837652339930472449>
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[24] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「また乞食の中にも「合棟乞食」と「カブリ乞食」があって、親方も振舞いも異なり交際もなかった。合棟乞食は浅草、両国などにまとまって作られた長屋に集まり、お払いの真似事のような大道芸(独り相撲、願人坊主、阿房陀羅経など)を生業とし合棟の仁太夫を親方とした。」 / [[X]]]], [TIME[午後10:14 · 2017年3月3日][2017-03-03T13:14:31.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/837652405713936384>
-- [17] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「江戸時代の被差別階級に「穢多」「非人」があり、その呼称はよく知られているが実態については正直あまり知らなかった。「朝野新聞」という新聞に明治25年に連載された江戸時代についての記事から、下層社会に関するものを集めた本書からお勉強。」 / X]], [TIME[午後9:40 · 2017年2月24日][2017-02-24T12:40:19.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/835107085129936896>
-- [18] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「合棟乞食は、いわゆる香具師を起源とするらしく、薬売りが人々の気を引くために道化をし、その木戸銭を乞いつつ薬の営業をしていたという。香具師が廃れた後もその芝居芸で金銭を請うのである。」 / X]], [TIME[午後10:33 · 2017年3月6日][2017-03-06T13:33:31.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/838744352113319936>
-- [19] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「多くは大道芸のようなものであったが、興味深い業態として知らせ役、つまり新聞屋がある。火事と喧嘩は江戸の華とあるように、どこそこで火事があると、仁太夫は現場に人をやり、どの方向へ延焼しているなんて事を瓦版よりも早く知らせた。」 / X]], [TIME[午後10:33 · 2017年3月6日][2017-03-06T13:33:49.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/838744428743254016>
-- [20] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「他にも祭礼の状況、敵討ちがあればその実況、年号が改まれば新年号を、役人の異動があれば新旧の人名を伝えた。瓦版が新聞紙であれば、仁太夫は新聞記者とも言える。ただ正確性には難ありで、興味を引くために拙速で、誤報も多かった。」 / X]], [TIME[午後10:34 · 2017年3月6日][2017-03-06T13:34:00.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/838744475362942977>
-- [21] 
[CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「天保から弘化に改元した天保15年、「新年号は嘉政」と書き付けた紙を一枚四文で売り歩いた行商人が逮捕された。実は役人が新年号を「嘉政」とすべきか協議しているのを仁太夫が聞きつけてスクープしたのであるが、報道が早すぎて年号を別のものに変えたのである。」 / X]], [TIME[午後10:34 · 2017年3月6日][2017-03-06T13:34:11.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/838744522393694209>
-- [22] [CITE@ja[Xユーザーの波島想太さん: 「合棟乞食は廃物をリサイクルしたり、社会風刺の歌を歌ったり、狂言や踊りを演じたりと、一応は「乞食」に分類されていても、その実態は単なる物乞いではなく、今ではれっきとした職業とされているものも多い。」 / X]], [TIME[午後10:34 · 2017年3月6日][2017-03-06T13:34:21.000Z]], [TIME[2024-03-14T03:06:54.000Z]] <https://twitter.com/ele_cat_namy/status/838744561480421377>
- [41] 
[CITE@ja-JP[朝廷運営と近世朝幕関係]], [[久保貴子]], [TIME[1997]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-03-14T11:27:49.576Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3136730/1/251> (要登録)
- [40] [CITE[[[日本年号史大事典]]]] 普及版
-- [23] [CSECTION[[V[弘化]]]]


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[15] [CITE@ja[庶民の世論が影響? 江戸時代の改元|[[日経BizGate]]]],
[[日本経済新聞社]], [TIME[2019-04-04 13:51:11 +09:00]],
<https://bizgate.nikkei.co.jp/article/DGXMZO4285708025032019000000?channel=DF150320194919&page=2>
]FIGCAPTION]

> 享和4年(1804年)に「文化」に代わる直前には「元明」と改元されたと売り歩いた者がいたという。文化14年(1817年)には改元していないのに「永長」(実際は翌年に「文政」)を、天保15年(44年)には「嘉政」(実際は翌年に「弘化」)と書いて売るなどのケースが続いた。吉野氏は「幕府はニセ元号に神経をとがらせ、どのケースも犯人を入牢や追放の処分にした」という。
>  特に「嘉政」は当時の幕政への不満も背景にあったようだ。吉野氏は「日常で元号を利用しながら生活している庶民に、改元で新時代を期待する願望があった」と話す。

]FIG]

;; [73] [TIME[天保15(1844)年][1844]]と[[弘化]]元年は同じ年。「翌年」は誤り。

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[64] 
[CITE[[L[平成 30 年度(第 7 回)県立図書館・公文書館合同展示(平成 31 年 2 月 1 日~3 月 31 日)[BR[]]「改元漫遊」[BR[]]その1:江戸期の改元、または、改元あ・ら・かると Part1&2 [BR[]]解説パンフレット]]]],
Ver1.2_20190210,
[TIME[2022-12-21T14:30:58.000Z]], [TIME[2022-12-21T14:41:09.755Z]] <https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1552954521928/simple/2018_kaigen_pamphlet.pdf#page=18>
]FIGCAPTION]

>
[LEFT[
天保 15(1845)年の師走、江戸で改元に関する偽の情報が流れるという事件が起こりました。『藤岡[BR[]]
屋日記』の同年 12 月6日条によれば

>
今日から年号が替わりました、と紙切れに「嘉政」と書いて1枚4文で売[BR[]]
り歩いた輩がおり、都合6人が捕縛されたという。また、去る天保改元の[BR[]]
時も「永長」と書いた紙を売り歩いた事件があったとのこと[BR[]]

といったものでした。

[SNIP[]]

改元の時間差の最中に起きたこの事件は、改元が単に為政者の論理で行われるものではなく、世の中[BR[]]
の改元待望論とでもいうべきものと連動していた事を示唆している、と見ることも出来そうです。また、[BR[]]
偽の元号として流布された「嘉政」は、実際に元号に採用されたことこそ無いものの、文化・文政・弘[BR[]]
化・嘉永の各改元で元号候補として挙がったものであることも興味深い点です。

]LEFT]

]FIG]

;; [74] 
[TIME[天保15年は西暦1844年][1844]]。
天保15年12月の全体が[[グレゴリオ暦]]の[TIME[西暦1845年][1845]]に含まれるための[[誤り][暦の換算]]か。


]REFS]





* メモ


[4] [CITE@ja-JP[改正戸籍法註解]], [[沢野民治]], [TIME[大正3][1914]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-21T09:42:39.601Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/952377/1/188>

[5] >>4 「[V[嘉政元年壹月四日生]]」。その隣 (妻) は
「[V[嘉永參年四月八日生]]」
なので、[[嘉永]]の[[誤植]]か。


[6] 
[TIME[弘化5(1848)年2月28日][kyuureki:1848-02-28]]に[[嘉永]]と[[改元]]されているので1月4日は[[遡及年号]]だが、
後から書かれたものだから嘉永元年と書かれてもおかしくはない。



