[101] [DFN[[L[和勝]]]] ([[旧字体]]: [DFN[[L[和勝󠄃]]]])
は、[[日本の私年号]]の1つです。

* 元号名

[98] [[元号名]]は、[[新字体]]で[[[L[和勝]]]]、[[旧字体]]で[[[L[和勝󠄃]]]]です。

[99] [CH[勝]]は、原典では比較的整った[[楷書]]ですが、現在の[[新字体]]とも[[旧字体]]とも異なる[[字形]]になっています
[SRC[>>50]]。

[100] [[江戸時代]]に広く紹介した[CITE[紀伊国名所図会]]本では、
現在の[[新字体]]に近い[[楷書]]の[[字形]]になっています。
[SRC[>>85]]


-*-*-

[97] 
[[読み][元号の読み方]]は
「わしょう」 [SRC[>>157, >>257, >>259, >>288, >>298, >>299, >>305, >>3163]]
([[歴史的仮名遣]] [SRC[>>30]] / [[振り仮名]]表記 [SRC[>>296]]: 「わしよう」) 
とされます。

* 紀年法

[418] 
[[元年]]は、[TIME[日本建久2(1191)年[LINES(smaller)[辛][亥]]]]です。

[HISTORY[

[419] 
[TIME[日本建久元(1190)年][1190]]を[[元年]]とする説が通説となっていますが、
実際の用例と整合しません。

]HISTORY]

* 用例

[420] 
現在までに2系統4点の用例が報告されています。

** 高野山文書の用例

[69] 
[[高野山文書]]に用例が1点知られています。

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [46] [DATA(.label)[[[高野山文書]] 一三一 [CITE[僧︀鑁阿天野宮八講米寄進状案]]]],
[DATA(.author)[[[鑁阿]]]]
-- [50] >>154 [CITE[宝簡集]]原本 カラー写真 (中解像度) [[手印]]部分判読可能
-- [58] >>56 [CITE[大日本古文書]]所収[CITE[宝簡集]]十八 : [V[二一四]]
--- [107] 白黒写真 (高解像度) [[手印]]部分判読可能
--- [108] [[明朝体]][[翻刻]]
-- [64] >>61 [[東京大学史料編纂所]]影写本 白黒写真 (高解像度) [[手印]]部分判読困難
-- [205] >>202 [CITE[宝簡集]]白黒写真 (中解像度) [[手印]]部分判読困難
-- [117] >>35 白黒写真 (低解像度) / [[明朝体]][[翻刻]]
-- [120] >>38 白黒写真 (低解像度) / [[明朝体]][[翻刻]]
-- [109] >>85 : 全文転載 [[版本]] / [[明朝体]][[翻刻]]
-- [127] >>36 /128 : 全文転載 [[明朝体]][[翻刻]]
-- [134] >>4, >>11, >>17, >>13 : [[明朝体]][[翻刻]]
-- [143] >>22 [V[二一四]] : [[明朝体]][[翻刻]]
-- [145] >>3 [V[三七]] : [[明朝体]][[翻刻]]
-- [106] >>104 : [V[三〇]] [[明朝体]][[翻刻]]
-- [146] >>14 : [V[一六五]] [[明朝体]][[翻刻]]
-- [135] 
[DATA(.label)[本文中]] 「[V[[SNIP[]][DATA(.text)[文治三年五月一日]][SNIP[]]]]」
--- [136] [TIME[日本文治3(1187)年[LINES(smaller)[丁][未]]5月1日][kyuureki:1187-05-01]]
-- [47] 
[DATA(.label)[末尾日付]]
「[DATA(.text)[[V[和勝元年󠄂六月卄五日]]]]」
[SRC[>>50]]
--- [75] 「六月」以下[[手印]] (朱色) と重なる

]ITEMS]

[70] 
[[高野山]]に伝来する文書を[[江戸時代]]に装幀した
[CITE[宝簡集]]
に収録されています。
[[高野山]][[金剛峯寺]]の宝物を収蔵する[[高野山霊宝館]]の平成28年の機関誌は、
当資料のカラー写真を掲載していますが、それによると
[CITE[宝簡集]]
は[[霊宝館]]に収蔵されています [SRC[>>154]]。

[76] 
[CITE[宝簡集]]本には[[手印]]もあり、写本ではなく原本そのものでしょうか。

[71] 
[CITE[宝簡集]]本は、
[CITE[大日本古文書]]
に[[白黒写真]]と[[明朝体]][[翻刻]]が収録されています。 [SRC[>>56]]
また、
[[東京大学史料編纂所]]ウェブサイトで[[影写本]]白黒画像が公開されています。 [SRC[>>62]]

[72] 
他にもいくつか写本があるようで、うち[[宮内庁書陵部]]本 [SRC[>>110]]
はウェブで公開されています。 [SRC[>>65]]

[74] 
[CITE[紀伊国名所図会]]は、全文を掲載しています。 [SRC[>>23]]
[[近世]]や[[近代]]に一部または全部を引用した書物の多くは、
この系統と思われます。


[73] 
これら、ウェブ公開されている諸本はいずれも同系統と思われ、少なくても[[日付]]部分は同一内容です。

[78] 
当文書は一般的な[[寄進状]]案です。
[[差出人]]は[[鑁阿]]とあります。
[[和勝]]紀年は当該文書の[[日付]]として記載されています。
文書の本文と[[和勝]]には特段の関係性は見出だせません。

[REFS[

-
[5] [CITE@ja-JP[[[高野山文書]] 第2卷]], [[高野山史編纂所]], [TIME[昭12至14][1939]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-29T03:57:18.903Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1219213/1/143>
--
[33] 
[CITE@ja-JP[[[高野山文書]] 第1巻]], [[総本山金剛峯寺]], [TIME[1973]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T07:58:35.956Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12227783/1/138?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D%E5%85%83%E5%B9%B4> (要登録)
- [57] [CITE[宝簡集]]
-- [56] 
[CITE@ja-JP[[[大日本古文書]] 家わけ第1ノ1 (高野山文書之1)]], [[東京帝国大学文学部史料編纂所]], [TIME[1904]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-23T08:58:10.492Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12986609/1/147?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-- [62] 
[CITE[日本古文書ユニオンカタログ - 詳細]], [TIME[2026-04-23T09:36:49.000Z]] <https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w21/detail/20001211000213?dispid=disp01>
--- [63] [[影写本]]
--- [61] 
[CITE@ja[画像表示 - SHIPS Image Viewer]], [TIME[2026-04-23T09:36:26.000Z]] <https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/300/3071.66/1/8/00000021?m=limit&f=00000021,00000022,00000023,00000024,>
- [65] 
[CITE@ja[国書データベース]], [TIME[2026-04-23T09:39:26.000Z]] <https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100234751/12?ln=ja>
-- [66] 影写本
- [67] [CITE[日本古文書ユニオンカタログ - 詳細]], [TIME[2026-04-23T09:40:31.000Z]] <https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w21/detail/20170127000088?dispid=disp01>
-- [68] [[丹生文書]]写本 (非公開)
- [60] 
[CITE[横断検索]], [TIME[2026-04-23T09:35:38.000Z]] <https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/cross/search?keyword=%E9%91%81%E9%98%BF%E5%A4%A9%E9%87%8E&page=1&itemsperpage=200&sortby=score&sortdesc=false&sortitem=%E9%96%A2%E9%80%A3%E5%BA%A6%E9%A0%86>
- [252] 
[CITE[所蔵史料目録データベース(Hi-CAT) - 詳細]], [TIME[2026-04-24T14:56:42.000Z]] <https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w01/detail/0S0/58/326>
-- [253] 目録のみ
- [110] 
[CITE@ja[[V[水野忠央旧蔵本 展示目録]]]],
[[[V[宮内庁書陵部]]]],
[V[昭和四十九年十一月七日~九日]],
[TIME[2026-04-23T02:21:36.000Z]], [TIME[2026-04-23T14:52:42.052Z]] <https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Publication/PDF/900/900197411000.pdf#page=12>
-- [111] 
この目録では「[V[[RUBY[和][﹅]][RUBY[勝][﹅]]元・六・二五]]」
と[[元号名]]に注意が促されていますが、それ以上の注釈はありません。
- [265] [CITE@ja-JP[丹生都比売神社誌]], [[丹生都比売神社奉讃会]], [TIME[1980.4][1980]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:38:46.893Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12267863/1/37?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-- [266] [[丹生家文書]] 目録のみ
-- [267] [CITE@ja-JP[丹生神社と丹生氏の研究 : 伊都国王の盛衰と丹生氏の出自についての一考察]], [[丹生広良]], [TIME[1977.12][1977]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:39:49.962Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12267695/1/126?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- [309] 
[TIME[2026-04-25T03:26:01.800Z]]
<https://www.lib.wakayama-c.ed.jp/monjyo/archive/komonjyo/niuke/doc/niu_zenken.xlsx>
-- [310] 目録のみ

]REFS]

[79] 
[[鑁阿]] 
[WEAK[(? - [TIME[承元元(1207)年][1207]])]]
は、[[高野山]]の[[僧侶]]です。
[TIME[文治2(1186)年][1186]]、
[[後白河法皇]]から旧[[平家]]領[[備後国]][[大田荘]]を寄進され、これを経営しました。
[SRC[>>77]]

[80] 
[[下野国]][[鑁阿寺]]の開基である[[足利義兼]] ([[法号]]: [[鑁阿]])
とは同一人物説と別人説があります。 
[SRC[>>85, >>77, >>11, >>38, >>40, >>204, >>14, >>15, >>151, >>154]]

[81] 
[CITE[宝簡集]]には、用例文書以外にも[[鑁阿]]に関係する[[文書]]が多数収録されています。
[SRC[>>59, >>4, >>7, >>54, >>55, >>53]]


[113] 
特に、[[鑁阿]]による年のない6月24日付け[[文書]]があり、関連が指摘されています。 [SRC[>>17]]

[REFS[

- [59] [CITE[横断検索]], [TIME[2026-04-23T09:34:49.000Z]] <https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/cross/search?keyword=%E5%83%A7%E9%91%81%E9%98%BF&page=1&itemsperpage=200&sortby=score&sortdesc=false&sortitem=%E9%96%A2%E9%80%A3%E5%BA%A6%E9%A0%86>
- [54] 
[CITE@ja-JP[宝簡集 20巻 '''['''1''']''']], [[写]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-23T08:42:30.011Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2578882/1/29>
- [55] 
[CITE@ja-JP[大日本古文書 家わけ第1ノ1 (高野山文書之1)]], [[東京帝国大学文学部史料編纂所]], [TIME[1904]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-23T08:55:12.885Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12986609/1/38> (要登録)
- [53] 
[CITE@ja-JP[宝簡集 20巻 '''['''12''']''']], [[写]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-23T07:52:21.746Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2578893/1/60>
- [77] 
[CITE@ja[[[鑁阿]](ばんな)とは? 意味や使い方 - コトバンク]], [[改訂新版 世界大百科事典,百科事典マイペディア,日本大百科全書(ニッポニカ),デジタル版 日本人名大辞典+Plus,世界大百科事典内言及]], [TIME[2026-04-23T13:25:41.000Z]] <https://kotobank.jp/word/%E9%91%81%E9%98%BF-862322>

]REFS]

-*-*-

[421] 
[[高野山]]系の用例は、[[高野山]]や[[紀伊藩]]では[[江戸時代]]中に研究対象となっていました。

[422] 
[[幕末]]までには中央の[[私年号研究者]]にも知られるようになりました。
[[私年号]]全体の中では早い時期ですが、[[近世]]に研究対象となった[[私年号]]の中では遅い部類です。

[423] 
[[紀伊国]]での研究成果が[[近世]]末期から[[近代]]に中央の[[私年号研究]]の体系に取り込まれる形で、
通説の形成に寄与しました。

** 宗像色定法師の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [139] [DATA(.label)[[[色定法師]][[一切経]]]]
-- [182] [CITE(.label)[[[阿惟越致遮經]] 巻四]] [SRC[>>29]]
--- [184] [DATA(.label)[書写奥書]]
「[DATA(.text)[[V[和勝元年[LINES(smaller)[辛][亥]]七月卅日書之了]]」 [SRC[>>28, >>270]]
-- [183] [CITE(.label)[不必定入定入印經飜譯之記]]
--- [185] [DATA(.label)[書写奥書]] [SRC[>>29, >>187]]
「[DATA(.text)[[V[和勝元年[LINES(smaller)[辛][亥]]八月三日書之]]]]」 [SRC[>>270]]
-- [176] [CITE(.label)[[[仏説広博厳浄不退転輪經]] 巻四]]
[SRC[>>21, >>29]]
--- [175] [DATA(.label)[書写奥書]]
「[DATA(.text)[[V[和勝元年[LINES(smaller)[辛][亥]]八月二十三日]]]]」 [SRC[>>27, >>270]]





]ITEMS]


[159] 
[[鎌倉時代]]の初め頃に[[色定法師]]が書写した数千卷の[[一切経]]は、
もと[[宗像神社]] 
[WEAK[(現在の所在地: [[日本国]][[福岡県]][[宗像市]])]]
境内の經庫に収められていたとされますが、
[[近代]]には[[日本国]][[福岡県]][[宗像郡]][[田島村]]
[WEAK[(現在の[[日本国]][[福岡県]][[宗像市]][[田島]])]]
[[興聖寺]]の倉庫に所蔵されていました。
[[明治時代]]末期に調査が行われました。
[SRC[>>170]]

;; [321] [[興聖寺]]は[[宗像大社]]の[[大宮司]]の[[宗像氏国]]の建立とされ、
[[色定法師]]の墓が現存します。

[173] 
この[[一切経]]書写は、40年以上にわたって行われました。
[[宗像神社]]やその近辺で作業され、
基本的には同一人物によって書かれたものであるものの、
他者による[[校合]]の記録が残るものもあります。
[SRC[>>21]]

[177] 
>>174 によれば、1月から7月8日までと12月3日から閏12月までに建久2年の日付が確認されています。
>>29 によれば11月の日付もあります。
建久元年は1月から12月まで、月に1つ以上の日付が確認されています。
[SRC[>>21]]

[319] 
[[色定法師]]の[[一切経]]は、その一部の画像が文化財紹介などの形で [[Web]] 上にあるものの、
「和勝元年」の画像は見当たりません。

[320] 
[[色定法師]]の[[一切経]]の多くは現在[[宗像大社]]神宝館に所蔵されています。
「和勝元年」の巻もこれに含まれるのかは不明です。

[REFS[

-
[270] 
[CITE@ja-JP[[[宗像市史]] 史料編 第1巻 古代・中世 1]], [[宗像市史編纂委員会]], [TIME[1995.4][1995]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:43:18.797Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13282293/1/227?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[28] [CITE[色定法師一筆一切経 | khirin]], [TIME[2022-12-29T04:46:31.000Z]] <https://khirin-ld.rekihaku.ac.jp/rdf/nmjh_kaken_medInterNationalExcange/E237>
]FIGCAPTION]

>自一交畢、 他一交了、/和勝元年〈辛亥〉七月卅日書之了、一切経一筆行人僧□□〔良祐〕/本経主綱首張成 墨助成綱首李栄 筆勤覚□□〔成房カ〕
]FIG]
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[27] [CITE[色定法師一筆一切経 | khirin]], [TIME[2022-12-29T04:45:47.000Z]] <https://khirin-ld.rekihaku.ac.jp/rdf/nmjh_kaken_medInterNationalExcange/E236>
]FIGCAPTION]

>自一交畢、 他一交了、/和勝元年〈辛亥〉八月二十三日、一切経一筆書写行人僧良祐/本経主綱首張成 墨助成綱首李栄 筆勤覚成房
]FIG]
-
[186] >>27 >>28 消滅確認 [[Internet Archive]] / [[WARP]] になし [TIME[2026-04-24T10:23:33.000Z]]

]REFS]

-*-*-

[424] 
[[宗像]]系の用例は、[[明治時代]]に入ってから研究対象として認知されました。

[425] 
その存在は[[昭和時代]]には全国的に知られるようになったものの、
中央の[[私年号研究者]]には断片的な情報しか伝わりませんでした。

[426] 
[[宗像]]系の用例やその研究成果は、大局的な[[私年号研究]]に取り込まれることのないまま、
[[令和時代]]の現在に至っています。

* 諸説


[336] 
[[和勝]]の用例は高野山系と宗像系の2つの系統が知られています。
両者が同じ[[元号]]であるか明確に議論したものは見当たりませんが、
両者に触れたものはいずれも同じ[[元号]]であることを暗黙裡に前提としています。
両者に大きな矛盾が確認されない限りは、一応'''単一元号説'''に從うのが妥当と考えられます。

[337] 
[[和勝]]の発生機序については、二説が提出されています。

- [338] α説: '''源平合戦終戦祝賀説''': [[源平合戦]]の終結による平和の到来の祝意が、
「和勝」という名称を生み、実用されたとする。
- [381] β説: '''乱世反抗説''': 乱世への義憤から、反抗の意思の表示として
「和勝」という名称を生み、実用されたとする。
- [376] γ説: '''「公武ともに僭称した」説''': 諸勢力が勝手に[[元号]]を制定し、
利用したうちの1つだとする。
- [339] δ説: '''改元デマ説''': [[改元デマ]]によって「和勝」という名称が流布され、
実用されたとする。 



[340] 
他に、[[私年号]]の一般論として、次の諸説も検討するべきと考えられます。

[341] まず、'''単純誤記説'''については、「和勝」と誤記または誤読され得る他の[[公年号]]、
外国[[元号]]、[[元号]]以外の[[固有名詞]]等が知られていません。
>>46 の[[字形]]は比較的明瞭で、しかも[[元号名]]であることは明らかです。

[342] 次に、'''偽文書偽造元号説'''については、 >>46 
は[[寄進状]]という性格上[[偽文書]]の可能性が皆無とまでは断言できないものの、
>>139 は[[仏典]]の[[書写奥書]]であり、偽造の動機に乏しいと考えられます。

-*-*-

[343] 
'''いつを表すか'''について、次の説があります。

- [346] '''[[文治]]の終わりか[[建久]]の始め頃'''説: >>92
- [352] '''[[文治]]・[[建久]]の頃'''説: >>102
- [351] '''[TIME[建久元(1190)年][1190]]頃'''説 : >>251 >>289
- [344] '''[TIME[建久元(1190)年][1190]]'''説 : >>82 >>95 >>124 >>130 >>138 >>115
>>116 >>140 >>209/>>210 >>141 >>142 >>119 >>105 >>148 >>255 >>249 >>149 / 通説
- [348] '''[TIME[建久2(1191)年[LINES(smaller)[辛][亥]]][1191]]'''説 : >>172 >>174 >>272

[345] >>344 は通説となっていますが、その根拠は[[江戸時代]]中期の >>82 に遡ります。
ところが >>82 は根拠を明示していません。
>>130 >>115 >>116 は >>82 の解釈に従い建久元年説を採用する旨を記述していますが、
時代が下って >>209 >>152 >>158 は >>82 を建久元年説の根拠とみなしており、
>>82 が >>46 と独立した建久元年説の傍証たり得る史料であると誤認した疑いが持たれます。

[350] >>209/>>210 は、高野山系と宗像系の両系統に言及した、確認されている最古の研究です。
ところが宗像系に[[干支年]]が併記されている情報を得ていなかったらしく、
>>348 説を検討せずに >>344 説が双方に妥当と判定しています。
これは情報不足に起因する誤判定であり、採用できません。

[347] 
>>346 >>352 >>351 は >>344 >>348 を含みつつ、それらに限定しない説です。
原型は >>346 であり、その根拠は >>46
に記述された事実関係の分析です。[[年]]単位で特定できる史料が存在しないため、
曖昧な範囲指定に留まっています。

[358] 
なお、 >>46 の本文には[TIME[文治3(1187)年5月1日][kyuureki:1187-05-01]]とあり (>>135)、
和勝元年はこの日よりも後に当たると解するのが妥当です。

[349] >>172 は[[一切経]]奥書に併記された[[干支年]]を根拠とする説です。

[387] なお >>187 は[[一切経]]報告直後の見物録であり、
[[正治]]から[[嘉禄]]までの[[一切経]]の時代範囲に混ざって[[私年号]]の[[和勝]]が見られることを指摘しています。


[353] 総括するに、明確な史料的根拠を有するのは宗像系の建久2年説 >>348 のみです。
高野山系は史料の分析から文治の終わりから建久の始め頃 >>346 まで狭められますが、
それ以上に狭めた諸説は[[伝言ゲーム]]による劣化、
いわゆる[[留保の剥奪]]によって生じた[[幻説][ハルシネーション]]に過ぎません。

[354] 
もし宗像系が先に注目されていれば、建久2年説が普及し、
高野山系もそれに基づき解釈されていたはずです。
[[東洋の日時表示]]の一般論に基づけば、[[干支年]]は年次比定の強い根拠となり、
他に矛盾する情報がない限り断定できるほどのものです。

[355] 
従って、建久2年説に基づき高野山の史料を改めて分析し、
時系列に矛盾が生じないか確認する作業が必要とされています。

[356] 
'''いつ使われたか'''について、諸説ともそれが表す年と同じと想定していると思われます。
高野山系、宗像系とも文書の[[日付]]としての利用であり、
妥当な解釈と考えられます。

[357] 
継続期間については、1年とするものと不明とするものがあります。1年とするのは、 
[[元年]]の用例があるというだけの理由と考えられ、これといった根拠は見られません。
年より細かな時期については諸説沈黙しています。

[367] 
宗像系の用例を見ると、[[和勝]]の利用中には[[公年号]]の利用が見られません。
前後の[[公年号]]の用例から、

- [368] [TIME[建久2(1191)年7月9日][kyuureki:1191-07-09]]から[TIME[建久2(1191)年7月30日][kyuureki:1191-07-30]]の間に[[和勝]]を利用開始し、
- [369] [TIME[建久2(1191)年8月23日][kyuureki:1191-08-23]]から[TIME[建久2(1191)年12月3日][kyuureki:1191-12-03]]の間に[[和勝]]を利用終了した

... ことがわかります (>>177)。 

[370] 
高野山系では6月25日であり、 >>367 の期間の外となります。両者が同系統の[[元号]]だとした場合、
地域その他の要因によって利用期間にずれが存在したことになります。
一般論でいえば、高野山系の方が情報源に近く、より古い時期に利用を開始したのでしょう。

[371] 
'''なぜこの時期に使われたか'''について、
α説系の >>221 は[[源平合戦]]の終結と[[源頼朝]]の覇権を関連付けています。
比定年の出来事や利用者の人脈を根拠としています。

[372] 
δ説系の >>93 は、建久元年説により、[[建久]]への[[改元]]が4月だったにも関わらず、
6月でも[[改元伝達]]がないところに[[和勝]]の[[改元デマ]]が流れていたのではないかと推測しました。
これは[[建久]]の[[改元時期]]との辻褄を合わせるための仮説に過ぎず、
物証は提示されていません。

-*-*-

[373] 
'''誰がどこで使ったか'''について、
用例そのものは >>46 が[[鑁阿]]、
>>139 が[[色定]]によるものとするのが定説であり、
異論はほとんどありません。
ただし、
[[鑁阿]]の人定には長年の論争があります (>>80)。
また、
>>139 の全体が[[色定]]本人によるものかに異説があるものの、
説得力ある根拠は提示されていません (>>200)。

[374] 
>>46 は[[高野山]]に現存しますが、
[[鑁阿]]がどこで発給した文書であるのかは定かではありません。
当文書に関係するのは、
[[高野山]][[根本大塔]],
[[天野宮]] 
[WEAK[(現在の[[日本国]][[和歌山県]][[伊都郡]][[かつらぎ町]][[上天野]]の[[丹生都比売神社]])]],
[[備後国]][[大田庄]] [WEAK[(現在の[[日本国]][[広島県]])]]
です。[[鑁阿]]は現地で荘園経営に関わっており、
当時どこに滞在していたか検討する必要があります。
現在では否定的見解が有力視されている (>>80) とはいえ、[[下野]]説も要検討です。

[377] 
>>139 は[[宗像大社]]に伝来したもので、[[奥書]]で[[宗像大社]]およびその周辺で書かれたことが知られます
(>>173)。
[[色定]]は[[宗像大社]]近辺を拠点としつつも、[[京都]]などに出向くこともあったとされ、
「和勝元年」前後の所在や動向が確定できるのか、調査を要します。

[378] 
どちらもよく研究されている人物ではあるものの、「和勝元年」
の行動はほとんど検討が進められていません。

[380] 
利用者層について、
α説系の >>221 は[[源家]]や[[源頼朝]]の勢力の者、
それも[[公年号]]に満足できない者が使ったと推測しています。
>>258 >>160 も同様です。
利用者の人脈や[[元号名]]から推測したものですが、物証に欠けます。

[385] 
>>156 は、[[鑁阿]]の人脈の再検討により >>380 はそのままでは成り立たない可能性があると指摘しつつも、
[[鑁阿]]の思いをよく表す[[元号]]であると推測しています。すなわち、
人的つながりを否定しながら利用集団の性格は旧説を継承するものですが、
その根拠は何ら示されていません。

[379] 
>>215 >>318 は畿内および九州北部を分布地としていますが、これは現所在の説明であって、
どこで使われたかの説明ではありません。

[382] 
β説系の >>119 は、
乱世の現況に義憤を感じた[[鑁阿]]が反抗の意思表示として[[和勝]]を用いたとしています。
[[鑁阿]]が考案者かどうかは明言していませんが、
[[鑁阿]]個人またはその同志らが利用者という説なのでしょう。
説得力ある根拠は提示されていません。

[375] 
γ説系の
>>130 は「公武ともに僭称した」説を掲げています。具体的に特定しない一般論的性格の議論とはいえ、
[[朝廷]]を蔑ろにする何らかの勢力の主体性を主張しています。
しかし、その根拠は何ら提示されていません。

[383] 
'''誰が考案したか'''について、
α説、β説、γ説の諸説は必ずしも明確に述べていませんが、
利用者と考案者が同一または近しいと想定していると考えられます。

[384] 
α説系の >>290 は、[[鎌倉幕府]]の尊厳の誇示のため、
[[朝廷]]の手続きを待たずに作られ使われたと主張しています。
具体的に誰かは述べていないものの、[[鎌倉幕府]]の中枢に近い者を想定しているのではないかと思われます。
しかし、何ら物証を示していません。

[386] 
δ説すなわち[[改元デマ]]説は、その出所を論じていません。
この説が正しいとすると、偶発的に発生したにせよ、
最初の考案者は居たにせよ、その特定は困難でしょう。

-*-*-

[388] 
いつどのように'''伝播'''したかについて、諸説積極的には主張していません。
[[高野山]]と[[宗像]]という遠隔の地で同じ[[元号名]]が見つかっている以上、
これを地理的、時間的、人脈的に説明できるモデルが必要ですが、
用例の2つの系統に同時に言及している文献すら数えるほどしかないのが現状です。

[389] 
α説を取るのであれば、
[[源氏]]方の勢力内部の情報伝達や情報交換のネットワークを通じて流布したと主張するのでしょう。

[390] 
δ説を取るのであれば、
日常の情報伝達・情報交換の媒体や[[公年号]]の[[改元伝達]]のルートを通ったと主張するのでしょう。

[391] 
時間軸でいえば[[高野山]]系が先行しています。これが[[高野山]]で書かれたものか、
[[大田庄]]で書かれたものかは定かではありませんが、いずれにしても[[宗像]]よりは[[京都]]に近く、
[[畿内]]方面で発生した[[元号]]が一月後には[[宗像]]まで到達したと考えることは可能です。
しかし、これもあくまで可能性であり、物証は存在していません。

-*-*-

[392] 
'''元号名の意味'''とその利用の'''意図'''について、
α説系の >>221
は、
和平を願い理想とし、
[[源頼朝]]の勝利を祝う意図があったと説明しています。
この説は、[[元号名]]の文字と時代背景からの推測です。
>>258, >>290, >>160 もこれと同様の主張です。

[401] 
>>290 は更に一歩踏み込んで、[[鎌倉幕府]]の尊厳の誇示であると主張しています。

[398] 
[[源頼朝]]が覇権を得た時期、[[源頼朝]]と[[朝廷]]の間に大きな対立はありません。
[[源頼朝]]自身も[[公年号]]を用いていたと考えられます。
にも関わらず[[源頼朝]]の勢力の者が[[公年号]]を用いず[[私年号]]を用いるのは不自然に感じられます。

[399] 
α説系の >>221 は、[[平氏政権]]時代に[[源頼朝]]が[[延長年号]]を用いていたことを指摘し、
[[和勝]]の頃にも[[公年号]]に満足できない者が[[源氏]]方がいたのだろうと主張します。

[434] 
しかし、[[源頼朝]]に属し称賛する者が[[源頼朝]]も使わない[[私年号]]を進んで使うことがあり得るのか、
依然として疑問は残ります。[[江戸時代]]以来、[[関東の延長年号]]が[[私年号]]を誘発した説はあり、
[[源頼朝]]の[[延長年号]]を指摘する当説もそれと同型とはいえますが、
[[関東の延長年号]]を[[足利成氏]]の配下の者が考案し利用したとする説は近年では否定傾向です。



[400] 
β説系の >>119 は、乱世への義憤から、反抗的な態度の表示として利用したと説明します。
しかし、この説明は寄進状本文の曲解であり、周辺環境の分析が不十分なまま結論を急いでいます
(>>121)。


[395] 
γ説系の >>130 は、「公武ともに僭称した」と説明しています。
すなわち、諸勢力が[[公年号]]と異なる[[元号]]を好きに建てる環境があったと主張しています。
この説に從い利用者の意図を推し量るなら、

- [396] 積極的に評価するなら: 当該勢力への従属を表明するため
- [397] 消極的に評価するなら: 平時に一般国民が[[公年号]]を使うのと同様、
自身の属する勢力の[[元号]]を日常利用していたのであり、個別の利用行為自体に意図はない

... のいずれかとなるでしょう。
もっとも、実際には同時期にそのような環境が存在した兆候は確認されていません。


[393] 
δ説系の >>93 は、[[改元デマ]]だと主張するので、利用の意図は無く、
[[公年号]]と誤認したことになります。
物証はなく、[[改元デマ]]が他に実在したとの記録が傍証として提示されています。

[394] 
[[寄進状]]と書写奥書の[[日付]]という、まったく性質の異なる、
しかし特殊な性格を持たないありふれた種類の文献の[[年表記]]に「普通」
に用いられていることも、δ説の一つの根拠として良いでしょう。

[427] 
[[公年号]]とその候補において、

- [428] [CH[和]]は頻出字であるものの、
- [429] [CH[和]]が1文字目に来る[[公年号]]は[[和銅]]だけで、候補も数個のみで、
- [430] [CH[勝]]は[[北朝の元号]]の候補に1例あるだけで、ほとんど使われていない

... のであり、「和勝」の組み合わせ方は珍しいといえます。

[431] 
現代の視点からすると、[CH[和]]は[[元号名]]として非常に馴染みがあり、
[CH[勝]]には違和感が強いものの「しょう」という音には慣れており、
順序を逆にした[[昭和]]はよく知っていますから、
初見で違和感を持ちつつも納得感は強いといったところでしょうか。
当時の人はどう感じたのでしょう。

[432] 
α説はこの2字の組み合わせの意味は解釈するものの、その必然性は説明しようとしません。
β説やγ説も、なぜこの2字を組み合わせたのか説明を要します。

[433] 
説明を要するのはδ説も同じであり、何らかの誤りで発生したとしても、
それは[[公年号]]や候補では無さそうです。

-*-*-

[402] 
'''どのような形態'''で使われたかについて、諸説積極的には主張していません。

[403] 
宗像系は宗教的文脈で使われており、
高野山系も宗教的儀式に関係する文書です。従って、 
何らかの宗教的意味を持って使われたと主張することも可能でしょう。 

[407] 
しかし、

- [404] 用例文書中で本文と元号名に特段の結び付きは見られないこと
- [405] 宗像系の用例は[[一切経]]のごく一部に限って使われていること
- [406] 高野山系の用例は運営経費に関する寄進状であり、それ自体の宗教的意味は薄いこと

... は否定的要素です。

[408] 
たまたま現存する用例が宗教的要素のあるものであっただけで、 
この[[元号]]自体は広く一般的、実務的に使われたと主張することも可能であり、
こちらの方が説得力はありそうです。

[409] 
[[寄進状]]という他者に見られる前提の[[文書]]で使われていること、
他者の校合が行われ得る書写で用いられていること、
から見ると、
少なくても筆者らが属するコミュニティーに於いては、 
これを特に秘密にするべきものとも見ていなかったと考えられます。

[410] 
[[公年号]]との使い分けについては、諸説積極的に議論していません。

[411] 
宗像系の用例については、
[[一切経]]の中で[[公年号]]と[[和勝]]の利用期間が重ならないことがわかっています (>>367)。
δ説など、特殊な性格を想定しない説に有利な状況といえます。

-*-*-

[412] 
'''なぜ使われなくなったか'''について、諸説積極的には主張していません。

[413] 
α説、β説、γ説は利用者の[[私年号]]を利用する強い意志を想定するものですから、
なぜそれを停止したのか、説得力ある理由を提示する必要がありますが、
いずれも沈黙しています。

[414] 
δ説では、[[改元デマ]]であることが認識され、元の[[公年号]]に復帰したと考えるのが自然です。



* 研究史

[322] 
高野山系では、
[[鑁阿]]を差出人とする寄進状案の末尾に「和勝元年六月廿五日」が見えます。
この文書は[CITE[宝簡集]]に収められ、さらに近世の地誌や編年史書に引用されました。
ところが、それらの文献は十分な根拠を提供しないまま、
しばしばこれを[TIME[建久元(1190)年][1190]]の記事として配置します。[CITE[高野春秋]]、
[CITE[紀伊国名所図会]]、
[CITE[紀伊続風土記]]などがその流れを形作り、
近代以降の[CITE[大日本史料]]、[CITE[古事類苑]]、各種辞典・概説書も、
おおむねその比定を前提として継承しました。すなわち、
建久元年説は原史料の自明な読解結果というより、
[[近世]]以来の整理が累積して定説化した面を強く持っています。

[323] 
これに対して宗像の[[色定法師]]の[[一切経]]奥書では、
「和勝元年辛亥七月三十日」「和勝元年辛亥八月三日」「和勝元年辛亥八月二十三日」
のように、年号とともに[[干支年]]が記されています。この辛亥年は、
当該の書写事業の年代の中では[TIME[建久2(1191)年][1191]]に当たるため、
こちらは建久二年説がかなり強く支持されます。実際、明治末から昭和初年にかけての調査報告や、
[TIME[平成7(1995)年][1995]]の[CITE[宗像市史]]でも、和勝元年辛亥を建久二年と注記しています。

[325] 
すると、高野山文書系から導かれた建久元年説と、
宗像資料の辛亥に基づく建久二年説とが併存することになりますが、
両説は不思議と交わらず、詳細な検討がされることなく現在に至っています。

[324] 
[[久保常晴]]などの研究が、[[和勝]]を源氏の勝利と和平の到来を寿ぐ年号とみる解釈を提示しています。
[[鑁阿]]と[[色定]]がともに真言系の有力僧であり、
しかも[[源頼朝]]方と接点を持つ勢力圏で活動したことから、
[[和勝]]を源家の勝利を祝う[[私年号]]とみる推測です。
しかし、これは史料から直接に読み取れる事実というより、
用例の分布と時代状況から組み立てた解釈です。

** 高野山系研究のはじまり

[82] 
[[高野山]]の[[僧侶]]である[[春潮房懐英]]
[WEAK[([TIME[寛永19(1642)年][1642]] - [TIME[享保12(1727)年][1727]])]]
が編纂し[TIME[享保4(1719)年][1719]]に成立した[[高野山]]の[[編年体]]史書である
[CITE[高野春秋]]
は、
>>46
と同内容の記事を[TIME[建久元(1190)年庚戌夏6月25日][kyuureki:1190-06-25]]に掛けています。
[[置文]]が[CITE[宝簡集]]にあると注釈しています。
[SRC[>>51]]
すなわち >>46 が出典そのものであると考えられます。

[83] 
[CITE[高野春秋]]
には[[和勝]]の[[私年号]]の記載はありませんし、なぜこれを建久元年に置いたのかも何も語りませんが、
[[著者]]がこの年が適切であると判断したのでしょう。


[REFS[

- [52] [CITE[高野春秋]]
-- [51] 
[CITE@ja-JP[大日本仏教全書 131]], [[仏書刊行会]], [TIME[明治45-大正11][1922]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-23T13:48:14.996Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/952835/1/68?keyword=%E5%85%AD%E6%9C%88%E5%BB%BF%E4%BA%94%E6%97%A5>

]REFS]

-*-*-

[84] 
[[日本]][[紀伊藩]]の[[国学者]]である[[加納諸平]]
[WEAK[([TIME[文化3(1806)年][1806]] - [TIME[安政4(1857)年][1857]])]]
が編纂した
[CITE[[[紀伊国名所図会]]三編]]
[WEAK[([TIME[天保8(1837)年][1837]]1月序、[TIME[天保9(1838)年][1838]]9月出版)]]
は、
>>46
を全文収録すると共に、
注釈を掲載しています。
[SRC[>>85]]

[87] それによると、次のようにあります。 [SRC[>>85]]

- [415] 「某云」、
- [88] [[異年号]]は多いが、[[和勝]]は他に見当たらない
- [89] 天野八講理趣三昧並神事等用途米のことが書かれている
-- [90] [[文治]]年間の文書には無い
-- [91] 建久5年7月の文書には「天野八講理趣三昧配当」と書いたものがある
- [92] よって[[文治]]の終わりか[[建久]]の始めの頃だろう
- [416] 「といへり」
- [93] 「今按ずるに」
- [94] [[建久]]改元のころ、[[和勝]]と改元するという流言などがあったのを、
事実と思って書いたものだろう
- [95] [[建久]]は4月の[[改元]]なのに、6月とあるのは、
まだ本当の[[改元]]を知らなかった間の出来事だろう
- [96] [CITE[百錬抄]]に[[泰平]]の[[改元デマ]]の件があることを参照されたい

[86] 
「某」は不明です。どこまでが「某」の見解かも不明瞭です。
後半の[[按語]]は「某」の見解なのか、そうでないのか。
そうでないとすれば、編者の見解ということになります。

[417] 
>>92 は史料から慎重に範囲を狭めていますが、
>>95 は[TIME[建久元(1190)年][1190]]を前提としているようで、
若干の見解の相違が見られます。

[102] 
[[伴信友]]の
[CITE[逸號年表補考]]
は、
[[加納諸平]]の出版物に[[高野山]]に「和勝元年」があり、
[[文治]]・[[建久]]の頃だろうか、と書かれているとしています。
[SRC[>>103]]
[CITE[紀伊国名所図会]]
のことを指しているようです。

;; [248] 
[[伴信友]]の[CITE[年号の論]]には、[[元号名]]のみが掲載されています。
[SRC[>>247]]

[123] 
[[日本]][[紀伊藩]]で編纂され[TIME[天保10(1839)年][1839]]に成立した[[地誌]]
[CITE[紀伊続風土記]]
には、
[[和勝]]に関連する記述が2個所あります。

[128] 
1つは、 >>46 と同内容の記事を掲載しています。 [SRC[>>19 /48, >>36]]

[124] 
この記事は、「建久元年庚戌」に「古文書作和勝元年」と注釈しています。
また、「寄進状在宝庫」とも注釈があり、出典は[[高野山]]の宝庫に所蔵されていた >>46
そのものと考えられます。
[SRC[>>19 /48, >>36]]

[126] 
これ以上の説明はなく、なぜ[[和勝]]元年をちょうど建久元年に比定したのかは不明です。
記事の文面は >>82 と酷似しており、記事の直接的な由来は[CITE[高野春秋]]である可能性があります。

[129] もう1つは、 >>46 の全文を掲載し、その記述内容を検討しています。 
本文は[CITE[宝簡集]]丹生御位記卷を出典としています。 [SRC[>>36 /128]]

[130] 
こちらでは、[[和勝]]は「諸文に逸す」と述べて[[逸年号]]であるとの認識を示した上で、
「謂ふに」、戦争の世で公武ともに僭称したためであろう、と[[私年号]]であるとの見解も示しています。
そして「山史」は建久元年と考えて記している、と述べています。
[CITE[高野春秋]]を指すと考えられます。

[132] 「公武ともに僭称した」というのは[[南北朝時代]]のような状況を想定しているのでしょうか。
[[私年号]]の生じた世相を一般的に説明しているだけであって、
[[和勝]]という具体的な[[私年号]]を誰が作ったかまでは特定していません。

[131] 
また、本文の他の記述も他の文書等を引きながら検討しており、明記していないものの、
建久元年説で矛盾が生じないことを確認する形になっています。


[125] なお、[CITE[紀伊続風土記]]は[[加納諸平]]も編纂に関与しています。


[REFS[

- [85] [CITE[紀伊国名所図会]]
-- [42] 版本
--- [23] 
[CITE@ja[国書データベース]], [TIME[2026-04-23T05:31:38.000Z]] <https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200017812/314?ln=ja>
--- [8] 
[CITE@ja-JP[紀伊国伊都郡名所図会]], [[世界聖典刊行協会]], [TIME[1978.5][1978]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-23T04:31:14.917Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9574327/1/210?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-- [43] 大正版本 明朝体
---
[30] 
[CITE@ja-JP[大日本名所図会 第2輯 第9編]], [[大日本名所図会刊行会]], [TIME[大正10][1921]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-23T04:30:13.223Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/959922/1/286?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D>
---- [41] 
[CITE@ja-JP[紀伊名所図会 第3巻]], [['''['''高市志友''']''', 加納諸平, [高市志直] 編述]], [TIME[1970]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-23T04:29:17.925Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9573504/1/33?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-- [44] [CITE@ja-JP[広文庫 第1冊]], [[物集高見]], [TIME[大正5-7][1918]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-23T04:32:40.004Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/969095/1/233?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D>
--- [45] [[翻刻]] [[明朝体]]
-- [280] 
[CITE@ja-JP[大日本地名辞書 上巻 二版]], [[吉田東伍]], [TIME[1907/10/17][1907-10-17]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:58:17.255Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2937057/1/366?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D>
--- [281] [[翻刻]] [[明朝体]]
- [122] 
[CITE[紀伊続風土記]]
--
[19] 
[CITE@ja-JP[紀伊続風土記 第5輯 高野山部 下]], [[仁井田好古 等編]], [TIME[明治44][1911]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T03:22:29.317Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/765521/1/48?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D>
-- [277] 
[CITE@ja-JP[紀伊続風土記 第5輯]], [[仁井田好古]], [TIME[1970]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:54:22.680Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9573498/1/136?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-- [36] [CITE@ja-JP[[[続真言宗全書]] 第39]], [[続真言宗全書刊行会 編纂]], [TIME[1982.11][1982]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T08:01:47.788Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13267873/1/214?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D%E5%85%83%E5%B9%B4> (要登録)
-- [11] 
[CITE@ja-JP[[[六大新報]] (945)]], [[六大新報社]], [TIME[1922-01]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T04:59:29.180Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7941873/1/11?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
--- [20] 当該部分引用
--- [112] 1箇所「[V[勝󠄃和]]」と誤植している。
-- [40] 
[CITE@ja-JP[水原尭栄全集 第10巻]], [[中川善教]], [TIME[1982.4][1982]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T08:15:50.748Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12683700/1/214?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
--- [133] 当該部分引用
- [247] [CITE[[[年号の論]]]]
-- [246] 
[CITE@ja-JP[伴信友全集 第4]], [[国書刊行会]], [TIME[明治40][1907]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T14:41:59.327Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/991315/1/304?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D>
- [103] [CITE[[[[CITE[逸號年表補考]]]]]] コマ27

]REFS]

-*-*-


[137] 
[TIME[明治30(1987)年][1987]]に[[鑁阿寺]]が発行した寺史は、
>>46
を掲載し、

>
[VRL[
(和勝󠄃と云ふ年號な[ASIS[し][2画連続]]尙ほ考ふべ[ASIS[し][2画連続]])
]VRL]

と注釈しています。 [SRC[>>4]]

[138] 
[TIME[明治36(1903)年][1903]]の[[鑁阿]]に関する論文は、
>>46
に言及し
「[V[[SNIP[]]和勝󠄃元年(建󠄁久元年)六月二十五日[SNIP[]]]]」
と書いています。
[SRC[>>7]]
それ以外の説明はありませんが、前後の記述から考えて、
[[高野山]]系の先行文献の比定年に従ったものと思われます。

[REFS[

-
[4] [CITE@ja-JP[鑁阿寺小史]], [[山越忍空]], [TIME[明30.10][1897]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-29T03:56:22.817Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/819734/1/18>
-
[7] 
[CITE@ja-JP[[[國學院雜誌]] 9(3)(101)]], [[國學院大學]], [TIME[1903-03]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T04:48:56.558Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3364743/1/16?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)

]REFS]


-*-*-

[114] 
[TIME[明治38(1905)年][1905]]の
[CITE[大日本史料]]
は、[CSECTION[建久元年雜載]]
に
[CITE[宝簡集]]
から
>>46 >>113、
[CITE[高野春秋]]
から
>>82
を続けて掲載しています。 [SRC[>>17]]

[115] 
[CITE[大日本史料]]
は、[CITE[高野春秋]]
が和勝元年をもって建久元年としているので、今これによりて姑く建久元年に収めたと注釈しています。
[SRC[>>17]]

[116] 
[TIME[明治41(1908)年][1908]]の
[CITE[古事類苑]]は、
[[逸年号]]の部に
>>46 
の一部を掲載しています。[CITE[高野春秋]]
が[[和勝]]元年をもって建久元年としていると注釈しています。
[SRC[>>6]]

[REFS[

- [17] 
[CITE@ja-JP[[[大日本史料]] 第4編之3]], [[東京帝国大学文学部史料編纂所]], 
[V[[TIME[明治三十八年一月六日][1905-01-06]]印刷]],
[V[[TIME[明治三十八年一月七日][1905-01-07]]發行]],
[TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-23T06:28:22.489Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/782830/1/206?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D>
- [276] 
[CITE@ja-JP[大日本史料 第4編之10]], [[東京帝国大学文学部史料編纂所]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:53:21.560Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/782837/1/108?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D>
-
[6] [CITE@ja-JP[[[古事類苑]] 歳時部2]], [[神宮司庁古事類苑出版事務所]], [TIME[明29-大3][1914]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-29T03:58:03.639Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/897572/1/108>
--
[39] 
[CITE@ja-JP[[[古事類苑]] 第2冊]], [[神宮司庁]], [TIME[昭和3][1928]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T08:05:51.132Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1873317/1/377?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D%E5%85%83%E5%B9%B4>
- [279] 
[CITE@ja-JP[古事類苑 第15冊]], [[神宮司庁]], [TIME[明治42][1909]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:57:08.110Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1873806/1/309?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D%E5%85%83%E5%B9%B4>
- [268] 
[CITE@ja-JP[古事類苑 政治部3]], [[神宮司庁古事類苑出版事務所]], [TIME['''['''明44''']'''][1911]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:40:25.169Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/897668/1/68?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D>

]REFS]


** 宗像系研究のはじまり

[169] 
[TIME[明治44(1911)年][1911]]に[[色定]]の[[一切経]]を調査 (>>159) した[[山崎宗雄]]の報告では、
書写奥書の[[日付]]が[[元号]]ごとに集計されています。
[SRC[>>170]]

[171] 
それによると、[[和勝]]のものが3件ありました。 [SRC[>>170]]

[172] 
これについて、[[和勝]]の[[年号]]はなく不審であるものの、
元年辛亥とあり、辛亥は建久2年に相当する、と注釈があります。 [SRC[>>170]]
[[一切経]]の書写時期の辛亥年が[TIME[建久2(1191)年[LINES(smaller)[辛][亥]]][1191]]しかなく、
断定できるという意味です。


[174] 
[TIME[昭和2(1927)年][1927]]に[[一切経]]を調査した[[伊東尾四郎]]は、
>>176 が和勝元年辛亥の8月23日であることについて、
辛亥に相当する写経の年号は建久2年しかない、
として建久2年に含めています。
[SRC[>>29, >>21]]

[178] 
[TIME[昭和3(1928)年][1928]]の報告には

- [179] 和勝元年7月30日
- [180] 和勝元年8月3日
- [181] 和勝元年8月23日

の3点が掲載されています [SRC[>>29]] が、
なぜかその後の報告には和勝元年8月23日だけしか掲載されていません [SRC[>>21, >>16]]。


[187] 
なお、
[TIME[1928-10-20]]に[[京都帝国大学]]の史学の学生らが研修旅行で[[福岡県立図書館]]を訪問しました。
館長の[[伊東尾四郎]]が案内しました。[[京都帝国大学]]側の記録によると、
田島の彦山三所権現で発見された一人一字一切蔵が収蔵展示されていたようで、
正治から嘉禄の頃のものであるところ、
和勝元年8月3日の[[私年号]]が注意されると指摘しています。
[SRC[>>12]]

[308] 
[TIME[1927-02-15]]に[[関西大学]]講師の[[新町德之]]が執筆した
[CITE[改元考]]
には、「[V[民間私用の僞年號]]」の一例として、
[[福岡県立図書館]]にある[[彦山三所権現]]で発見された[CITE[一人一字一切経]]に和勝元年八月三日なる日付があることが記載されています。
[SRC[>>2036]]


[271] 
[TIME[平成7(1995)年][1995]]に発行された[CITE[宗像市史]]は、
和勝元年の3件を含む諸[[奥書]]を収録しています。
[SRC[>>139]]

[272] 
和勝元年[LINES(smaller)[辛][亥]]については、建久2年との注釈を加えています。
[SRC[>>139]]
根拠等は示されていません。


[REFS[

-
[12] 
[CITE@ja-JP[史林 12(1)(45)]], [[史学研究会]], [TIME[1927-01-01]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T10:26:59.541Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/11005213/1/86?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- [2036] 
[CITE@ja[[[千里山學報]] 第四十六號]],
[R[[TIME[昭和二年二月十五日][1927-02-15]]發行]],
[TIME[2013-03-30T06:03:43.000Z]], [TIME[2026-04-25T03:10:10.756Z]] <https://www.kansai-u.ac.jp/nenshi/sys_img/article_2_8.pdf#page=3>
-- [2037] 
[CITE[[V[改元考]]]],
[[[V[新町德之]]]]
- [29] [CITE[史蹟名勝天然記念物調査報告書: 第3輯 - [[Google ブックス]]]], 
[TIME[1928]],
[TIME[2022-12-29T04:49:07.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=uB2SrmBU_wMC&pg=PP137&dq=%E5%92%8C%E5%8B%9D>
- [21] 
[CITE@ja-JP[宗像郡誌 下編]], [[伊東尾四郎]], [TIME[昭和7][1932]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T09:15:51.811Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1214482/1/132?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D>
-- [170] 収録: [CITE[[V[[LINES(quarter)[色定法師][一筆書寫]]一切經跋文集記]]]],
[V[明治四十四年一月]],
[[[V[山崎宗雄]]]]
-- [37] 
[CITE@ja-JP[福岡県宗像郡誌 下巻]], [[伊東尾四郎 編纂]], [TIME[1972]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T09:16:44.631Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9768999/1/128?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-- [275] 
[CITE@ja-JP[福岡県史資料 第1輯]], [[福岡県]], [TIME[昭和7-10][1935]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:52:23.637Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1213832/1/55?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D>
--- [274] 
[CITE@ja-JP[福岡県史資料 第1輯]], [[名著出版]], [TIME[1972]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:51:33.841Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9769785/1/55?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-
[16] 
[CITE@ja-JP[仏教文化大講座 第1回]], [[東方仏教協会]], [TIME[昭和8][1933]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T10:03:37.411Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1106093/1/120?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)



]REFS]


** [CITE[日本私年号の研究]]


[206] 
[[久保常晴]]の昭和39年の論文および昭和42年の[CITE[日本私年号の研究]]に[[和勝]]が収録されています。

[207] 
[CITE[日本私年号の研究]]
は、 >>46
の全体の白黒写真 [SRC[>>202]] と一部の[[明朝体]][[翻刻]] [SRC[>>203]] を掲載しています。
>>82 の該当部分を引用しています [SRC[>>203]]。
(ただし >>82 の[[割書]]が正しく反映されていません。)

[208] 
また、 
>>139
に言及しています [SRC[>>203]]。

[209] 
[CITE[日本私年号の研究]]は、
[[近代]]の諸辞書等の多くが建久元年説を取っていることを確認し [SEE[ [[日本私年号一覧表]] ]]
た上で、
>>46 について >>82 は信頼できる書物であるから、
客観的に見て和勝元年を建久元年と「決定しうるものと思う」としています。
[SRC[>>203]]
昭和39年論文も大筋において同様です。 [SRC[>>3114]]

[210] 
加えて、 
>>139
は文治3年、建久6年、建暦3年の奥書のものがあるため、
[[和勝]]を建久元年とする推定に抵触しない、としています。
[SRC[>>203, >>3114]]

[211] >>210 については、

- [212] [CITE[筑前国続風土記]], [[貝原益軒]] - [CSECTION[宗像郡下]] : >>220 か
- [213] [CITE[太宰管内志]] - [CSECTION[筑前宗像郡]] : >>217
- [214] [CITE[宗像の一筆一切経]], [[伊東尾四郎]] : >>29 か

... を出典とし、19個の[[建久]] - [[嘉暦]]の[[奥書]]が引用されています。

[215] 
しかし >>211 には[[和勝]]の日付は含まれません。
また、[[私年号]]資料一覧表には
「[V[和勝]]」
と[[元号名]]のみが示され、分布地も「[V[(北九州ヵ)]]」
と曖昧に記述されており、
その詳細情報が入手できなかったことがわかります。

[216] >>214 は >>29 ではないかと思われますが、 >>29 には[[和勝]]の年月日が3例記述されており、
>>215 とは符合しません。
なお >>220 >>217 には奥書日付の記載がなく、消去法で >>214
が奥書の出典となります。


[221] 
[CITE[日本私年号の研究]]および先行論文は、
[[和勝]]の使用者と[[元号名]]の意味について、次のように考察しています。
[SRC[>>204, >>3114]]

- [222] [[鑁阿]]
-- [226] 壽永2年の国家安泰祈祷([[後白河法皇]]関連)、
文治2年の[[高野山]]源平戦没将兵追善供養、
建久元年の国家安泰祈願([[後白河法皇]]関連)、
[[和泉]]開発などで平和への祈願に徹した
-- [227] 建久元年、
[[東大寺]]戒壇院で[[足利義兼]]の薙髪
--- [228] [[源頼朝]]の従母妹の子
--- [229] 源氏方で諸戦闘で活躍
--- [230] 建久7年、[[下野国]]で願主となり[[鑁阿]]を迎えて寺を草創
--- [245] ただし同一人物説と別人説あり
- [223] [[色定]]
-- [231] 
[[宗像神社]]の[[鎮国寺]]の座主[[兼祐]]の子といわれる
-- [232] 
文治3年に[[源頼朝]]が[[宗像神社]]大宮司[[氏実]]の所領安堵
-- [233] 
文治5年に[[氏実]]から[[氏国]]に宮司職が譲られる
--- [234] [[氏国]]は[[宇多源氏]]
-- [224] [[和勝]]を用いた場所や聞知した場所は正確には不明、
[[宗像]]を本拠に諸国行脚、建久元年に彦山、建久6年に[[都]]
- [225] [[鑁阿]]/[[色定]]とも[[真言宗]]、入宋僧、当代の高僧、
現実世界を直視して国家安泰を祈念し社会的に活躍した僧侶
- [235] [[足利義兼]]/[[氏国]]とも[[源頼朝]]方
-- [236] [[源頼朝]]は[[養和]]以後の[[元号]]を[[平氏]]のものとして不使用
--- [237] かかる態度は[[私年号]]の発生を促すことになると思われる
-- [240] [[奥州藤原氏]]を滅ぼした時期
- [238] [[建久]]は変異ならびに[[三合]]御慎を改元理由とする
-- [239] この理由に飽き足らない[[源家]]ないし家臣もあったであろう
- [241] 「和勝」の語義や時期から考えると、[[源家]]/[[源頼朝]]の勝利と、
それに伴う平和の到来を礼讃した者が使用したのではないかと推考される
-- [243] 和平を願い理想とする意味
-- [242] 儒教思想より導かれたのではなく、現実世界の要求やその成就を寿ぐものである

[244] すなわち、[[源頼朝]]による天下統一の喜びを祝うものというのが結論とされます。

[312] 
昭和39年論文は、次のことも書いています。 [SRC[>>3114]]

- [313] >>225 であり、[[私年号]]の実際生活に直結したものであって、その追求も意義を見出だせる
- [314] [[源氏]]や[[源頼朝]]とのつながりが見出され、その支配地域に使用されている
- [315] 公家的名称であるか: 非
- [316] 仏教的色彩: 有
- [317] 理由根拠: 戦勝
- [318] 地域: 畿内(高野山)、北九州

;; [435] >>237 は[[関東の延長年号]]と同型であり、[CITE[日本私年号の研究]]が全編通じて主張する[[公年号軽視の風潮]]論です。

[REFS[

- [220] 
[CITE@ja-JP[筑前国続風土記拾遺 中巻]], [[青柳種信 編著, 福岡古文書を読む会 校訂]], [TIME[1993.5][1993]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T12:38:56.897Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13279036/1/258?keyword=%E4%B8%80%E5%88%87%E7%B5%8C> (要登録)
- [218] 
[CITE@ja-JP[益軒全集 巻7]], [[貝原益軒, 益軒会]], [TIME[明治44][1911]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T12:37:10.503Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/992416/1/253?keyword=%E4%B8%80%E5%88%87%E7%B5%8C> (要登録)
-- [219] 参考
- [217] 
[CITE@ja-JP[[[太宰管内志]] 上巻]], [[伊藤常足]], [TIME[明41-43][1910]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T12:35:01.727Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/766660/1/252?keyword=%E4%B8%80%E5%88%87%E7%B5%8C>
- [3114] 
[CITE[[[我が国の私年号に関する研究 (一) ―平安時代より南北朝まで―]]]]
- [1] 
[CITE[日本私年号の研究]]
-- [202] p.[V[図版第一]] [L[(3)]]
-- [203] pp.[V[二〇五]]-[V[二〇七]], [V[二四二]]-[V[二四三]]
-- [204] pp.[V[二四五]]-[V[二五四]]

]REFS]


** 私年号としての「普及」


[140] 
[TIME[昭和6(1931)年][1931]]に[[近代日本]]の代表的な日本史研究者である[[黒板勝美]]
[WEAK[([TIME[明治7(1874)年][1874]] - [TIME[昭和21(1946)年][1946]])]]
が出版した[[日本史]]概説書
[CITE[国史の研究]]
は、
>>46,
>>139
に言及しつつ[[和勝󠄃]]を最古の[[私年号]]として紹介しています。
和勝󠄃元年は建久元年に当たるとしていますが、その根拠は説明していません。
[SRC[>>2]]

[REFS[

- [2] 
[CITE@ja-JP[[[国史の研究]] 総説]], [[黒板勝美]], [TIME[昭和6][1931]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T04:59:50.647Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1075909/1/86?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D>

]REFS]


-*-*-

[118] 
>>46 は日本中世史の重要史料として、多くの歴史系の文献等に掲載、参照されています。
その多くは建久元年の[[私年号]]であることを所与の前提であるかのように扱っています。

[141] >>18 >>22 >>13 >>3 >>15 >>34 >>278 >>311 は、
和勝元年を[TIME[建久元(1190)年 (皇紀1850年)][1190]]としています。
>>282 >>283 >>284 も同様で、[CITE[日本私年号の研究]]系です。

[142] >>9 >>257 は和勝元年を建久元年を意味する[[私年号]]としています。

[119] 
[[昭和時代]]の日本中世史研究者の[[中村直勝]]
[WEAK[([TIME[明治23(1890)年][1890]] - [TIME[昭和51(1976)年][1976]])]]
は、
[TIME[昭和49(1974)年][1974]]の著書で[[和勝]]を[TIME[建久元(1190)年][1190]]の[[私年号]]と説明しています [SRC[>>35]]。
[TIME[昭和55(1980)年][1980]]の著書では、
乱世で「[V[万民滅亡の現況に義憤を感じ]]」、「[V[反抗的な姿を示さんとして]]」
寄進をしたかもしれないと推測した上で、「[V[その一つの表示]]」
として[[建久]]への[[改元]]を無視して[[和勝]]の[[私年号]]を用いたのではないかと述べています。
[SRC[>>38]]

[121] 
しかしこれらはいずれも客観的な根拠の提示されない論者の推測に過ぎないのであります。
乱世で「万民滅亡」云々というのは >>49 の本文、寄進の趣意説明に出現しますが、
義憤以下は論者の「かもしれない」です。
[[後白河法皇]]との関係などは検討どころか言及もされていません。
建久元年に比定されるべき理由の説明すらありません。


[105] 
[TIME[昭和55(1980)年][1980]]の[CITE[広島県史]]は、
>>46 の[[明朝体]][[翻刻]]を掲載していますが、
[[和勝]]に[[右ルビ]]で「[V[(建久)]]」としています。
[SRC[>>104]]
それ以上の説明は何もありません。


[147] 
[TIME[平成元(1989)年][1989]]の[CITE[和歌山県史]]は、
>>46 の[[明朝体]][[翻刻]]と、
[CITE[高野春秋]]の該当部分 (>>82) の[[明朝体]][[翻刻]]を掲載しています。
[SRC[>>14]]

[148] 
ここで、
>>46 には、[[和勝]]が[[私年号]]であり、和勝元年は建久元年に当たるとみられると注釈があります。
>>82 には、 >>46 の[[私年号]]和勝元年を建久元年とみていると注釈があります。
[SRC[>>14]]


[152] 
[TIME[昭和43(1968)年][1968]]の書籍[CITE[秘宝]]は、
>>46
を紹介し、[[和勝]]という[[私年号]]は他の文書によれば[TIME[建久元(1190)年][1190]]に当たると解説しています。
[SRC[>>151]]
具体的に何によりどのように求められたのかは説明されていません。


[255] 
>>254 は出所不明の [[PDF]] ファイルですが、
[CITE[宝簡集]]
所収文書の目録のようです。
ここでは
>>46
が

>
,*CDNo.,* 文書No.,* 名称,* 題 目,* 年月日,* 西暦
,01, 214 ,宝簡集018 ,僧鑁阿天野宮八請米寄進状 ,和勝元年六月二十五日 ,1190

となっています。



[REFS[

-
[311] 
[CITE@ja[ntul-tj-0061_19431100_0421.pdf]], [TIME[2021-08-18T07:30:43.000Z]], [TIME[2026-04-25T03:30:30.268Z]] <https://dl.lib.ntu.edu.tw/files/original/1172664/ntul-tj-0061_19431100_0421.pdf#page=6>
-
[18] 
[CITE@ja-JP[重源上人の研究]], [[南都仏教研究会]], [TIME[1955]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T05:36:13.203Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2941809/1/165?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
--
[273] 
[CITE@ja-JP[日本名僧論集 第5巻]], [[吉川弘文館]], [TIME[1983.2][1983]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:49:24.799Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12223221/1/27?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-
[9] 
[CITE@ja-JP[日本中世古文書の研究]], [[荻野三七彦]], [TIME[1964]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T06:44:46.330Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2972328/1/26?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
--
[31] [CITE@ja-JP[日本古文書学論集 2]], [[日本古文書学会]], [TIME[1987.5][1987]], [TIME[2025-02-25T01:55:51.000Z]], [TIME[2025-03-27T09:03:17.793Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12206628/1/116?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- [32] 
[CITE@ja-JP[秘宝 第7巻]], [[浅野長武 等編]], [TIME[1968]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T07:56:48.731Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/8798625/1/404?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)
-- [151] 423
-
[22] 
[CITE@ja-JP[[[尾道市史]] : 新修 第1巻]], [[青木茂 編著]], [TIME[1971]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T06:47:23.364Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9573750/1/323?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-
[35] 
[CITE@ja-JP[日本古文書学 中]], [[中村直勝]], [TIME[1974]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T08:00:39.384Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12212333/1/133?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D%E5%85%83%E5%B9%B4> (要登録)
- 
[283] 
[CITE@ja-JP[日本の年号 : 揺れ動く<元号>問題の原点]], [[所功]], [TIME[1977.2][1977]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T16:00:38.630Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12207409/1/85?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-
[38] 
[CITE@ja-JP[日本古文書学 下]], [[中村直勝]], [TIME[1977.4][1977]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T08:04:17.914Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12207586/1/308?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D%E5%85%83%E5%B9%B4> (要登録)
- [278] 
[CITE@ja-JP[古筆大辞典]], [[春名好重 編著]], [TIME[1979.11][1979]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:56:13.812Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12428646/1/242?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- [104] 
[CITE@ja-JP[広島県史 古代中世資料編 5]], [[広島県]], [TIME[1980.3][1980]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-23T14:45:39.955Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9574623/1/529?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- [13] 
[CITE@ja-JP[仏教史学研究 25(2)]], [[仏教史学会]], [TIME[1983-03]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T06:49:27.308Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4422665/1/25?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- [282] 
[CITE@ja-JP[肥後の金石論集 : 民俗宗教研究 1]], [[前川清一]], [TIME[1984.11][1984]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:59:16.457Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12205950/1/13?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- [3] [CITE@ja-JP[備後国大田荘史料 1]], [[瀬野精一郎]], [TIME[1986.1][1986]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-29T03:55:15.763Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9575887/1/31> (要登録)
-- [144] なぜか非公開にされています [TIME[2026-04-24T06:53:53.700Z]]
-
[284] 
[CITE@ja-JP[栃木史学 = The Tochigi journal of Japanese history (2)]], [[国学院大学栃木短期大学史学会]], [TIME[1988-03]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T16:01:57.753Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4424952/1/83?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-
[14] 
[CITE@ja-JP[[[和歌山県史]] 古代史料 2]], [[和歌山県史編さん委員会]], [TIME[1989.3][1989]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T07:57:58.588Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9576523/1/399?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-
[34] 
[CITE@ja-JP[神仏融合・歴史の旅]], [[松田文夫]], [TIME[1990.5][1990]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T07:59:14.313Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13265552/1/15?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D%E5%85%83%E5%B9%B4> (要登録)
--[263] 
[CITE@ja-JP[紀州史の社寺勢力 : 熊野三山・天野社・日前宮・金剛峯寺・粉河寺・根来寺の歴史]], [[松田文夫]], [TIME[1992.1][1992]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:36:56.251Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13274008/1/69?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D%E5%85%83%E5%B9%B4> (要登録)
--[269] 
[CITE@ja-JP[紀州史のはなし : 紀州・古代・中世・近世史の四十九話]], [[松田文夫]], [TIME[1993.6][1993]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:41:18.204Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13226781/1/179?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
--[264] 
[CITE@ja-JP[紀州・鎌倉時代 : 鎌倉時代の紀州史]], [[松田文夫]], [TIME[1995.2][1995]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T15:37:24.298Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13226920/1/18?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-
[15] 
[CITE@ja-JP[中世関東寺院史の基礎的研究]], [[小此木輝之]], [TIME['''['''2001''']'''][2001]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-24T08:30:53.675Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3183735/1/148?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-
[256] 
[CITE@ja[01 65 宝簡集 006 室町将軍家御教書 永和四年三月二十一日 宝簡集 006 室町将軍家御教書 永和四年三月二十一日 宝簡集 006 室町将軍家御教書 永和四年七月十日 宝簡集 006 室町将軍家御教書 永和四年八月二十五日 1]], 
学年: 2021,
[TIME[2026-04-24T15:17:58.000Z]] <https://123deta.com/document/q0508nly-%E5%AE%9D%E7%B0%A1%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%AE%B6%E5%BE%A1%E6%95%99%E6%9B%B8%E6%B0%B8%E5%92%8C%E4%B8%89%E6%9C%88%E5%AE%9D%E7%B0%A1%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B0%86%E8%BB%8D%E6%95%99%E6%9B%B8%E6%B0%B8%E5%92%8C%E4%B8%83%E6%9C%88%E5%AE%9D%E7%B0%A1%E5%AE%A4%E7%94%BA.html>
--
[254] 
[TIME[2026-04-24T15:18:23.800Z]]
<https://web.archive.org/web/20260424150454id_/https://node1.123dok.com/dt04pdf/123deta/000/661/661235.pdf.pdf?response-content-disposition=attachment%3B%20filename%3D%22[123deta.com]%20%E5%AE%9D%E7%B0%A1%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%AE%B6%E5%BE%A1%E6%95%99%E6%9B%B8%E6%B0%B8%E5%92%8C%E4%B8%89%E6%9C%88%E5%AE%9D%E7%B0%A1%E5%AE%A4%E7%94%BA%E5%B0%86%E8%BB%8D%E6%95%99%E6%9B%B8%E6%B0%B8%E5%92%8C%E4%B8%83%E6%9C%88%E5%AE%9D%E7%B0%A1%E5%AE%A4%E7%94%BA.pdf%22%3Bfilename*%3DUTF-8%27%27%255B123deta.com%255D%252001%252065%2520%25E5%25AE%259D%25E7%25B0%25A1%25E9%259B%2586%2520006%2520%25E5%25AE%25A4%25E7%2594%25BA%25E5%25B0%2586%25E8%25BB%258D%25E5%25AE%25B6%25E5%25BE%25A1%25E6%2595%2599%25E6%259B%25B8%2520%25E6%25B0%25B8%25E5%2592%258C%25E5%259B%259B%25E5%25B9%25B4%25E4%25B8%2589%25E6%259C%2588%25E4%25BA%258C%25E5%258D%2581%25E4%25B8%2580%25E6%2597%25A5%2520%25E5%25AE%259D%25E7%25B0%25A1%25E9%259B%2586%2520006%2520%25E5%25AE%25A4%25E7%2594%25BA%25E5%25B0%2586%25E8%25BB%258D%25E5%25AE%25B6%25E5%25BE%25A1%25E6%2595%2599%25E6%259B%25B8%2520%25E6%25B0%25B8%25E5%2592%258C%25E5%259B%259B%25E5%25B9%25B4%25E4%25B8%2589%25E6%259C%2588%25E4%25BA%258C%25E5%258D%2581.pdf&X-Amz-Content-Sha256=UNSIGNED-PAYLOAD&X-Amz-Algorithm=AWS4-HMAC-SHA256&X-Amz-Credential=7PKKQ3DUV8RG19BL%2F20260424%2Fdc%2Fs3%2Faws4_request&X-Amz-Date=20260424T150040Z&X-Amz-SignedHeaders=host&X-Amz-Expires=600&X-Amz-Signature=e2c3ca5bc6217e36a745a8aaf1f1c2683163cf942198087e14ebbb7f4e85a40b>

]REFS]



-*-*-

[249] 
[[明治時代]]以来多くの辞書、[[年表]]、歴史系の書籍などが[[私年号]]の情報を掲載していますが、
その大部分が[[和勝]]元年を[TIME[建久元(1190)年][1190]]に比定しています。
典拠を示すものもありますが、その多くが >>46 のみを典拠としています。
[SRC[>>250, >>257, >>296, >>298, >>299, >>302, >>305, >>306]]

[251] 
例外は少数であり、[[所功]]の一覧表 [SRC[>>250]] と
[CITE[中世の元号]] の一覧表 [SRC[>>250]]、
[CITE[山川 日本史小辞典 改訂新版]] [SRC[>>259]]
が[TIME[建久元(1190)年][1190]]頃と曖昧性を持たせています。 
典拠については [CITE[中世の元号]] が >>46 「など」と含みを持たせ、
>>10 が >>139 をも掲げています。
[SRC[>>250]]

[260] もっとも、
[CITE[山川 日本史小辞典 改訂新版]]
は異説のない[[建教]]も[TIME[西暦1225年][1225]]の「頃」と含みを持たせています。
[SRC[>>259]]
[[令和時代]]の雑学系[[ブログ]]サイトが
「1190年頃には「和勝」というのも存[BR[]]
在しました。」
と書く事例 [SRC[>>262]] も、他の[[私年号]]にも「頃」があり、
[[和勝]]だけ厳選して「頃」としているわけではありません。
[[AI]] 生成と思われる[[ブログ]]記事の「頃」の事例
[SRC[>>3163]]
も同様でしょう。


[258] 
[[平凡社]]の[CITE[世界大百科事典(旧版)]]は、
[[和勝]]を[[源平騒乱]]の終結による平和を寿ぐ者が、
祝意を[[公年号]]を拒否する政治的態度で表明した[[私年号]]と解説しています。
[SRC[>>257]]

[286] 
[TIME[昭和61(1986)年][1986]]の[CIET[元号事典]]は、
[CITE[日本私年号の研究]]
を参照しながらも、根拠不明の独自色をかなり盛り込んだ[[私年号]]の解説を有しています。
[SRC[>>285]]

[287] [CITE[元号事典]]には、次のようにあります。 [SRC[>>285]]

- [288] [RUBY[和勝][わしょう]]
- [289] [[建久]]年代 ([TIME[1190]]頃) 使用されたといわれる
-- [290] [[源頼朝]]の開幕の時期であるとともに和平を願うことから使用されたのではないかといわれる
--- [291] [[源頼朝]]は[[養和]]・[[寿永]]を使用せず[[治承]]を[[使っている][延長年号]]
[SRC[[CITE[頼朝と年号]], [[平泉澄]]]]
--- [292] [[朝廷]]の[[年号]]を[[源頼朝]]が否定
--- [293] 制覇直後は公的な年号の改正が手続き上、早急にはできなかったためであろうか
---- [294] それが[[私年号]]の発生を促したと考えられる
- [295] [[鎌倉幕府]]の尊厳の誇示のためつけられたものといってよかろう

[149] 
[CITE[ウィキペディア]]はその初期から建久元年説を断定的に記載しています。
>>46 >>139 と典拠としています。
[SRC[>>10, >>150]]

[297] 
[[私年号]]の中では古いものの1つであり、[[私年号]]をいくつか例示するとき代表例の1つに選ばれることがしばしばあります。
[SRC[>>296, >>259, >>300, >>301, >>302, >>303, >>306, >>3168, >>3163, >>3165, >>436]]

[REFS[

- [250] [[日本私年号一覧表]]
- [299] 
[CITE@ja-JP[地理実習]], [[谷岡武雄 等著]], [TIME[1957]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T02:44:13.958Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2976339/1/145?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- 
[306] [CITE@ja-JP[世界原色百科事典 第4]], [[小学館]], [TIME[1966]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T03:01:50.740Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3000171/1/141?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- [436] 
[CITE@ja-JP[角川日本史辞典]], [[高柳光寿 等編]], [TIME[1966]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-18T08:16:54.935Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2973861/1/499?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-
[302] 
[CITE@ja-JP[原色百科事典 5]], [[小学館]], [TIME[1971.][1971]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T02:56:00.833Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12404523/1/81?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- [303] [CITE@ja-JP[万有百科大事典 5 (日本歴史 あーす)]], [[小学館]], [TIME[1973]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T02:57:24.492Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12404889/1/271?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
-- [304] 筆者は[[久保常晴]]
- [301] 
[CITE@ja-JP[犬馬は難し]], [[中村祐三]], [TIME[1977.8][1977]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T02:48:59.949Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/11974162/1/322?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- [300] 
[CITE@ja-JP[歴史と責任]], [[家永三郎]], [TIME[1979.8][1979]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T02:46:17.603Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12209236/1/225?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- [296] 
[CITE@ja-JP[図説歴史散歩事典]], [[人見春雄 '''['''ほか''']'''編集・執筆]], [TIME[1983.4][1983]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T02:38:57.246Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12193161/1/22?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- [298] 
[CITE@ja-JP[岩手の懸仏]], [[岩手県立博物館]], [TIME[1984.3][1984]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T02:43:18.584Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12424053/1/40?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- [285] 
[CITE@ja-JP[元号事典]], [[川口謙二, 池田政弘]], [TIME[1986.8][1986]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T02:28:06.127Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12206705/1/143?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- [305] 
[CITE@ja-JP[言泉 : 国語大辞典]], [[尚学図書言語研究所]], [TIME[1986.12][1986]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T03:00:30.480Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12446475/1/1268?keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
- [150] [[ウィキペディアの私年号一覧表]]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,和勝 	,- 	,建久元年(1190年) 	,不明 	,『高野山文書』宝簡集18、宗像色定法師一筆書写一切経 
]FIG]
-
[307] 
[CITE@ja-JP[平凡社大百科事典 1 (アーイワ)]], [[平凡社]], [TIME[1984.11][1984]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-25T03:03:08.892Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12405211/1/589?page=left&keyword=%E5%92%8C%E5%8B%9D> (要登録)
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[257] 
[CITE@ja[和勝(わしょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク]], [[精選版 日本国語大辞典,普及版 字通,世界大百科事典内言及]], [TIME[2026-04-24T15:19:51.000Z]] <https://kotobank.jp/word/%E5%92%8C%E5%8B%9D-1442267>
]FIGCAPTION]


>[B[わしょう【和勝】]]
>    鎌倉時代の私年号。元年が建久元年(一一九〇)にあたる。
>        [初出の実例]「和勝元年六月廿五日」(出典:高野山文書‐僧鑁阿天野宮八講米寄進状)
>出典 精選版 日本国語大辞典 [SNIP[]]

>[SNIP[]]また90年(建久1)に当たる和勝・迎雲の年号は,ともに源平争乱の終結(和勝にはより明示的に源氏の勝利の含意がある)による平和の再来をことほぐ者の使用するところであって,いずれも個別特定の願意や祝意を,正年号を拒否する政治的態度をもって表明したもので,異年号のもつ基本的性格の一つを示している。[SNIP[]]
>出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

]FIG]
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[259] 
[CITE@ja[私年号(シネンゴウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク]], [[デジタル大辞泉,精選版 日本国語大辞典,日本大百科全書(ニッポニカ),山川 日本史小辞典 改訂新版,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,旺文社日本史事典 三訂版,改訂新版 世界大百科事典,世界大百科事典内言及]], [TIME[2026-04-24T15:24:39.000Z]] <https://kotobank.jp/word/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7-74617>
]FIGCAPTION]

>[SNIP[]]中世前期には和勝(わしょう)(1190年頃)や建教(けんきょう)(1225年頃)などが用いられたが,使用された階層や範囲はごく限られていた。[SNIP[]]
>出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」[SNIP[]]

]FIG]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[261] 
[CITE@ja[私年号(しねんごう)|Historist(ヒストリスト)]], [TIME[2026-04-24T15:29:05.000Z]] <https://www.historist.jp/word_j_shi/entry/034456/>
]FIGCAPTION]

>[SNIP[]]中世前期には和勝(わしょう)(1190年頃)や建教(けんきょう)(1225年頃)などが用いられたが,使用された階層や範囲はごく限られていた。[SNIP[]](山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)


]FIG]
-
[262] 
[CITE@ja[国が決めた「元号」とは別にかつてしばしば存在していた「私年号」とは? | 山科薫マニアックな世界を楽しみましょう]], 
[[ミスターマニアック山科です]],
2026-02-25 06:23:43,
[TIME[2026-04-24T15:31:10.000Z]] <https://ameblo.jp/k-714-yamasiina/entry-12953461555.html>
-
[3168] 
[CITE@ja-JP[【新年の目標ハック】"私年号"のすゝめ|KANTOKU@創作の設定を垂れ流す人]], 
[[KANTOKU@創作の設定を垂れ流す人]],
2024年12月24日 17:17,
[TIME[2026-04-22T06:58:15.000Z]] <https://note.com/gegenseitig4649/n/ned6fc0f46c5d>
- [3163] 
[CITE@ja-JP[【私年号はもう一つの歴史—人はなぜ勝手に年を名付けたくなるのか】私年号は“もう一つの歴史”—人はなぜ勝手に年を名付けたくなるのか|とまとの気分次第研究所]], 
[[とまとの気分次第研究所]],
2026年1月2日 17:15,
[TIME[2026-04-21T16:27:07.000Z]] <https://note.com/lyco_pene/n/n6e044d776079>
-- [3164] AI生成の低品質記事
- [3165] 
[CITE@ja[私年号とは? 意味をやさしく解説 - サードペディア百科事典]], [TIME[2026-04-21T16:29:42.000Z]] <https://pedia.3rd-in.co.jp/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
-- [3166] AI生成と噂される記事信憑性の疑わしいサイト



]REFS]


** 平成時代

[193] 
[TIME[平成17(2005)年][2005]]、
[[平成時代]]の歴史研究者の[[服部英雄]]は、
[CITE[毎日新聞]]
に寄稿した連載記事中で[[和勝]]について記述したようです。
しかし、その後誤りだとして「削除訂正」して「おわび」しました。 [SRC[>>24]]

[194] 
本人の [[Webサイト]]で公開されている記事は、[TIME[2005-12-30]]付けで訂正されており、
[[和勝]]に関する記述がありません。 [SRC[>>25]]

[195] 
現在公開されている記事は、
>>139
について扱ったものであり、
正治元年六月二十四日の後に建久十年六月二十五日があり、
[[改元]]を知って使った直後に[[旧年号を使う][延長年号]]のは不自然だとの記述が残されています。 [SRC[>>25]]
これは「削除訂正」の範囲外と思われます。

;; [196] なお[[服部英雄]]には[[未来年号]]についての論文があります。


[197] 
事情の詳細は説明がなく不明です。記事本文は、[[一切経]]が通説のように一人で書いたものではなく、
複数人の手による「誇大キャンペーン」だったと主張していたようです [SRC[>>25]]。 

[198] 
ところが、その根拠は「数点の写真」の「印象」だけのようです。
新聞記事という[[媒体]]の制約もあったのかもしれませんが、
自身の研究報告を参照しているわけでもなければ、先行研究による分析への言及もありません。
[SRC[>>192]]

[199] 
[CSECTION[日本史を読み直す]] [SRC[>>25]]
と題した連載で専門外の読者に対しては歴史を塗り替える新発見のような見せ方をしておきながら、
実際には調査すらしておらず [SRC[>>24]]、
わずかな例示写真を見た個人的な「印象」に過ぎない推測を強い調子で新説として宣伝していたのだとすれば、
郷土の偉人への冒涜と取られても致し方ないのであり、相応の反発も受けたのでしょう。

[200] 
実見によって当初の「印象」は実態と大きく異なることを認めたようですが、
なおも複数人説へのこだわりを滲ませています。 [SRC[>>24]]
その後本件について本格的な研究成果が発表されたのかどうかは不明です。

[201] 
[[和勝]]と[[建久]]の「混同」も、複数人説の根拠として提示され、後に誤りと判明したものでしょうか。
どのような主張がなされていたのか気になるところです。


[REFS[

- [192] 
[CITE[服部英雄のホームページ]], [TIME[2022-11-03T14:22:51.000Z]], [TIME[2026-04-24T10:55:23.447Z]] <https://hattorihideo.org/gys91.html>
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[25] [CITE[服部英雄のホームページ]], [TIME[2007-08-06T02:31:34.000Z]], [TIME[2022-12-29T04:38:36.218Z]] <https://isgs.kyushu-u.ac.jp/~hatt/skij.html>
]FIGCAPTION]


>「色定法師一筆一切経」の伝説
−−巨大プロジェクトには誇大キャンペーンが必要
>                                                  服部英雄 
>[SNIP[]]
> 『宗像市史』や『チャイナタウン展』図録(福岡市立博物館)に数点の写真がある。比
較してみたが、同筆という印象を受けない。別人が書いたのではないか。お経は長いもの
の代名詞である。一巻平均一〇メートルの長さはある。広い畳の上で、投げるようにひろ
げる。これまでの解釈のように一人で五千巻を筆写したとすると、四十年間、毎日毎日、
一日も休まずに、三日ごとにあの長大な経巻一巻を書き上げていったことになる。あり得
ないと思う。
> 建久十年は四月二十七日に改元され、正治となった。奥書に「正治元年六月二十四日書
之畢」とあるが、続いて「建久十年六月二十五日始之」とある。改元後の新年号を使用し
た人間が、ふたたび旧年号を使用することはない。正治年号を知る人間と知らない人間が
別の場所で作業していたのではないか。
>[SNIP[]](05/12/30訂正)。
]FIG]
--- [189] [CITE[服部英雄のホームページ]], [TIME[2022-11-03T14:23:17.000Z]], [TIME[2026-04-24T10:43:14.560Z]] <https://www.hattorihideo.org/skij.html>
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[24] [CITE[服部英雄のホームページ]], [TIME[2007-08-06T02:31:49.000Z]], [TIME[2022-12-29T04:34:40.399Z]] <https://isgs.kyushu-u.ac.jp/~hatt/teiseisiki.html>
]FIGCAPTION]

>
毎日新聞・色定法師一筆一切経の伝説の中で、和勝年号と、建久年号の混同を
述べた部分は誤りでしたので削除訂正し、各位におわびいたします。
なおそののち宗像大社神宝館のご好意により、一切経を拝読する機会を得まし
た。
>[SNIP[]]
>
初期のものと末期のものでは筆跡に異なる印象を受けました。あとのものに装
飾文字的な印象を受けた箇所もあります。しかしこの点は種々のご意見があろ
うかと思います。

]FIG]
--- [190] [CITE[服部英雄のホームページ]], [TIME[2022-11-03T14:26:33.000Z]], [TIME[2026-04-24T10:44:28.273Z]] <https://www.hattorihideo.org/teiseisiki.html>
-- [188] >>25 >>21 消滅確認、 [[Internet Archive]] や [[WARP]]
にもなし [TIME[2026-04-24T10:36:42.500Z]]
--- [191] 移転先の存在を確認 [TIME[2026-04-24T10:44:45.800Z]]

]REFS]


-*-*-

[153] 
[TIME[2016-03-04]]に[[高野山霊宝館]]が発行した機関誌に、
>>46 を紹介する記事があります。
[SRC[>>154]]

[155] 
[[高野山霊宝館]]は >>46 を所蔵しており、そのカラー写真が掲載されています。 [SRC[>>154]]
ただし [[PDF]] ファイル中の画像の解像度はそれほど高くありません。

[156] 
この記事は、 >>46 の概要に加えて、[[和勝]]について次のように説明しています。
[SRC[>>154]]

- [157] 「[V[[RUBY[和][わ]][RUBY[勝][しょう]]]]」は朝廷が認めていない[[私年号]]
- [158] [CITE[高野春秋]]によると[TIME[建久元(1190)年][1190]]に寄進。
月日と内容が一致するので、和勝元年は建久元年といわれている。
- [160] 従来研究: [[源氏]]ないし[[源頼朝]]に近い立場のため[[和勝]]を使った
-- [161] 前年に[[奥州藤原氏]]が滅亡し[[源頼朝]]に敵対する勢力がなくなったことを祝う
-- [162] 「和勝」 = 平和と勝利
- [163] [CITE[高野春秋]]や[CITE[宝簡集]]付箋によれば[[鑁阿]] = [[足利義兼]]
-- [164] [[源頼朝]]の従兄弟で、[[平氏]]との戦いで功績あり
- [165] 今日の研究では、[[鑁阿]] ≠ [[足利義兼]]
-- [166] >>160 は再検討を要するが、 >>162 は否めず、[[鑁阿]]の思いをよく表す
「といえるのではないでしょうか」
- [167] [[高野山]]や[[天野社]]が争乱後の秩序回復を宗教的に担ったことがわかる

;; [168] >>158 は要注意で、 >>82 を >>46 と独立した史料と誤認しているようにみえます。

[REFS[

-[26] [CITE[no-117.pdf]], [TIME[2017-06-24T08:32:31.000Z]], [TIME[2022-12-29T04:41:16.413Z]] <https://www.reihokan.or.jp/magazine/pdf/no-117.pdf#page=10>
-- [49] 移転確認 [TIME[2026-04-23T06:32:45.000Z]]
-- [48] 
[CITE@ja[[[霊宝館だより]] 第117号]], 
[V[平成[YOKO[28]]年[YOKO[3]]月[YOKO[4]]日発行]],
[[[V[高野山霊宝館]]]],
[TIME[2025-04-04T06:12:26.000Z]], [TIME[2026-04-23T06:32:33.552Z]] <https://reihokan.or.jp/files/libs/1486/202504041512262502.pdf#page=10>
--- [154] 
[CSECTION[[V[高野山の文書  (七)[BR[]][DFN[「[RUBY[僧][そう]][RUBY[鑁][ばん]][RUBY[阿][ま]][RUBY[天][あま]][RUBY[野][の]][RUBY[宮][ぐう]][RUBY[八][はっ]][RUBY[講][こう]][RUBY[米][まい]][RUBY[寄][き]][RUBY[進][しん]][RUBY[状][じょう]]」の年号について]]]]]],
[[[V[研谷昌志]]]]


]REFS]

* 関連

[SEE[ [[保寿]], [[迎雲]] ]]

-*-*-

[326] 
同時代の出来事 :

- [334] [TIME[文治元(1185)年11月28日][kyuureki:1185-11-28]]、
[[守護]]・[[地頭]]の設置の勅許
- [359] [TIME[文治3(1187)年5月1日][kyuureki:1187-05-01]]: 
>>46 の本文中にある日付 (>>135)
- [335] [TIME[文治5(1189)年][1189]]7月、
[[源頼朝]]が[[奥州藤原氏]]を滅ぼす
- [327] [TIME[文治6(1190)年4月11日][kyuureki:1190-04-11]]、
[[建久]]に[[改元]] (理由は[[三合]])
- [360] [TIME[建久元(1190)年6月25日][kyuureki:1190-06-25]]:
>>46 の建久元年説による解釈
- [361] [TIME[建久2(1191)年[LINES(smaller)[辛][亥]]6月25日][kyuureki:1191-06-25]]:
>>46 の建久2年説による解釈
- [365] [TIME[建久2(1191)年[LINES(smaller)[辛][亥]]7月9日][kyuureki:1191-07-09]]:
>>139 で確認できる建久2年紀年 (>>177)
- [362] [TIME[建久2(1191)年[LINES(smaller)[辛][亥]]7月30日][kyuureki:1191-07-30]]:
>>184 の建久2年説による解釈
- [363] [TIME[建久2(1191)年[LINES(smaller)[辛][亥]]8月3日][kyuureki:1191-08-03]]:
>>185 の建久2年説による解釈
- [364] [TIME[建久2(1191)年[LINES(smaller)[辛][亥]]8月23日][kyuureki:1191-08-23]]:
>>175 の建久2年説による解釈
- [366] [TIME[建久2(1191)年[LINES(smaller)[辛][亥]]12月3日][kyuureki:1191-07-09]]:
>>139 で確認できる建久2年紀年 (>>177)
- [329] [TIME[建久3(1192)年3月13日][kyuureki:1192-03-13]]、
[[後白河法皇]]が[[崩御]]
- [330] [TIME[建久3(1192)年7月12日][kyuureki:1192-07-12]]、
[[源頼朝]]が[[征夷大将軍]]に就任
- [331] [TIME[建久9(1198)年1月11日][kyuureki:1198-01-11]]、
[[後鳥羽天皇]]が[[土御門天皇]]に[[譲位]]
- [332] [TIME[建久10(1199)年1月13日][kyuureki:1199-01-13]]、
[[源頼朝]]が死去
- [333] [TIME[建久10(1199)年1月26日][kyuureki:1199-01-26]]、
[[源頼家]]が家督を相続
- [328] [TIME[建久10(1199)年4月27日][kyuureki:1199-04-27]]、
[[正治]]に[[改元]]





* メモ







