[16] 
[DFN[光永]]は、[[戦国時代]]の[[日本の私年号]]の1つです。

* 元号名

[109] 
[[読み][元号名の読み方]]は、
「こうえい」
([[歴史的仮名遣]]: 「くわうえい」)
です。
[SRC[>>32, >>31]]

* 用例

** 北関東の用例

[187] 
[[昭和時代]]の年表[CITE[大日本年表]]に、[[光永]]は天正4年に相当する[[私年号]]とあります。
ただし、出典は不明です。

[188] 
昭和42年までに[[久保常晴]]が[CITE[大日本年表]]編集に関与した[[岡山泰四]]が尋ねたところ、
「北関東の金石文資料だったか」
との回答を得ました (>>71)。

[189] 
「だったか」との表現から推察できる通り、当人の記憶は曖昧になっており、物証は存在しないようです。

[190] 
[[昭和時代]]中後期に[[関東]]の石造物等の調査が盛んに行われましたが、
現在に至るまで再発見の報告はありません。記憶違いだったか、
実在したとしても既に失われてしまっている可能性が高そうです。


** 後藤家信関係文書の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]


- [46] [DATA(.label)[[CITE[永野御書キ物抜書]]所収[[上式部太輔守明]]起請文]]
-- [48] [[後藤家信]]宛 [SRC[>>3]]
-- [47] 光永元年八月六日
[SRC[>>3]]
- [41] [CITE(.label)[[DATA(.author)[後藤家信]]起請文]] [SRC[>>3]]
-- [43] >>2 : [[鶴田家文書]] [V[五四]]
--- [44] [V[甲四八]]
-- [40] 「[DATA(.text)[[V[光永元年[BR[]]  八月廿二日]]]]」 [SRC[>>2]]
- [49] [DATA(.label)[[CITE[永野御書キ物抜書]]所収[[龍造寺常陸介光則]]起請文]]
-- [51] [[後藤家信]]宛 [SRC[>>3]]
-- [50] 
「[DATA(.text)[[V[光永元年[WEAK(quarter)[つちのえ]][SUB[とら]]八月廿四日]]]]」
[SRC[>>3]]
- [52] [DATA(.label)[[CITE[後藤家戦功記]]所引[[後藤家信]]知行充行状]]
-- [53] 
光永弐年十二月十二日
[SRC[>>3]]

]ITEMS]

[54] 
[TIME[昭和47(1972)年][1972]]時点で、
[[光永]]文書は4点知られていました。
4通中2通は[[後藤家信]]発、2通は[[後藤家信]]着でした。
[SRC[>>3]]

[126] 
[[後藤家信]]
[WEAK[([TIME[永禄6(1563)年][1563]] - [TIME[元和8(1622)年][1622]])]]
は、[[龍造寺家]]に生まれましたが、[[養子]]として[[後藤家]]に入りました。
[[後藤家]]はその後[[佐賀鍋島藩]]で[[鍋島]]の[[名字]]を与えられ、
[[家老]]格で[[明治]]まで続きました。

[193] 
[[昭和時代]]中期頃の地元の研究者による記録が残り、
[[私年号]]として認識されたのはその頃と思われます。

[202] 
令和8年現在、 >>41 は全文翻刻がありますが、他の3つは [[Web]]
上で全文を確認できません。

[194] 
[[令和時代]]に至るまで、全国的な[[私年号研究]]の文脈で紹介された事例は知られていません。

** 佐賀県下の記録


[ITEMS[ [[日時事例]]

- [116] [CITE[[[直茂公譜]] 二]]
-- [117] 
「[V[一同五年[SUP(smaller inline)[丁]][SUB(smaller inline)[丑]]六月中旬、[SNIP[]]]]」
[SRC[>>113 /35]]
--- [118] 
[DATA(.label)[朱字]]
「[V[イニ、[BR[]]今年、[DATA(.text)[光永元年]]といふ、[BR[]]此年、空𛂌光ル物有之て、西東𛂌永くたなひく、時の人[BR[]]光永と唱候、古キ證文𛂌も書載有之なり]]」
[SRC[>>113 /36]]
- [119] [CITE[[[直茂公譜考補]] 二]]
-- [120] 
「[V[一同五年丁丑[LINES(smaller)[今年、光永][元年ト云、]][BR[]]    此年、空ニ光物有之テ、東西ニ永ク[RUBY[靉][(たなび)]]キ候、時ノ人[BR[]]    光永ト唱候、古キ證文ニモ光永ト書載有之、]]」
[SRC[>>113 /204]]
- [42] [CITE[北肥戦誌]]
-- [38] 「天正五年丁丑[LINES(smaller)[或旧記にいふ、今年[DATA(.text)[光永元年]]と唱][ふ。東西に光永く映く故と云々]][SNIP[]]」
[SRC[>>4, >>5]]

]ITEMS]


[127] 
[CITE[北肥戦誌]]
は、
[TIME[享保5(1720)年][1720]]に[[馬渡俊継]]が編纂した[[戦国時代]]の[[佐賀県]]近辺の歴史書です。


[121] 
[CITE[直茂公譜]]は、
[[日本]][[佐賀藩]]で[[江戸時代]]に編纂された[[鍋島直茂]]の伝記的な歴史書です。
厳密な成立時期は不明ですが、
[TIME[平成5(1993)年][1993]]刊本は[TIME[延享4(1747)年][1747]]付の[[奥書]]のある[[写本]]を底本としています
[SRC[>>113 /18]]。

[122] 
従って >>118 は延享4年本に[[朱書]]で注釈された異本の[[校合]]であり、
いくつか存在する[[写本]]の中に天正5年を光永元年と言った旨を追記したものがあったのか、
原本にあった注釈が延享4年本では脱落していたのか、のどちらかとなります。

[123] 
[[鍋島直茂]]は、もと[[龍造寺家]]に仕えていましたが、
[[龍造寺家]]にかわって現在の[[佐賀県]]下を領し、
[[佐賀鍋島藩]]の藩祖とされています。

[124] 
[CITE[直茂公譜考補]]
は、
[CITE[直茂公譜]]
の改訂版です。
[TIME[天保10(1839)年][1839]]春に編纂が開始され、
[TIME[天保12(1841)年辛丑][1841]]夏5月の紀年があります。
[SRC[>>113 /18]]

[125] 
該当部分は
[CITE[直茂公譜]]異本朱書と[CITE[直茂公譜考補]]で内容が一致しており、
[CITE[直茂公譜考補]]で参照した[CITE[直茂公譜]]がこの部分を有する本だったことがわかります。

[203] 
現在に伝わる写本はいくつかあるようで、該当部分の諸本の違いの検証が望まれます。

[199] 
[CITE[北肥戦誌]]所引「或旧記」が何を指すのかは不明です。[CITE[直茂公譜]]なら
「旧」記とはいわないように思われますが、どうでしょう。より古い記録があったのでしょうか。
[CITE[直茂公譜]]一本の出典もその旧記だったのでしょうか。

[200] 
「古き証文」が何なのか、どこかに現存するのか、もまったく不明です。

[195] 
[[平成時代]]に[CITE[北肥戦誌]]が[CITE[ウィキペディア]]に引用されたのを除き、
[[私年号研究]]の文脈でこれらを紹介した事例は知られていません。


[REFS[

- [37] [CITE[北肥戦誌]]
-- [4] 
[CITE@ja-JP[国史叢書]], [[国史研究会]], [TIME[大正7][1918]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-15T08:31:32.831Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3441746/1/81?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8>
-- [5] 
[CITE@ja-JP[肥前叢書 第2輯]], [[肥前史談会]], [TIME[昭14][1939]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-15T08:34:21.415Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1257500/1/156?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8> (要登録)
- [113] 
[CITE@ja-JP[佐賀県近世史料 第1編 第1巻]], [[佐賀県立図書館]], [TIME[1993.1][1993]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-15T12:07:12.224Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13275004/1/36?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8> (要登録)


]REFS]


** 熊本県下の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [78] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[熊本県]][[熊本市]][[小島上町]]]] [CITE[上野光永私年号板碑]]]]
-- [84] >>17 : [L[〔13〕]] [L[第3]]
-- [80] >>28 : [V[七二]]
-- [36] >>33 : [L[⑦]]
-- [22] [[日本国]][[熊本県]][[熊本市]]小島町上野家 塔 [SRC[>>23]]
-- [103] >>27 : 拓本 白黒写真 (低解像度) 判読は難しい
-- [34] >>33 : 拓本 白黒写真 (解像度中の下) 判読は難しい
-- [21] >>23 に拓本、翻刻。拓本は印刷のためか現物が既にそうなのか不鮮明で判読不能
-- [79] 
「[DATA(.text)[[V[旹光永二年[LINES(smaller)[辛][巳]]]]]]」
[SRC[>>80, >>23]]
-- [81] 下部欠損 [SRC[>>80]]
--- [101] 日付が更に続いていた可能性のある破断位置 [SRC[>>17]]

]ITEMS]

[191] 
[[昭和時代]]中期に学術的に初めて報告されました。
民間人宅敷地内にあり、地元住民はそれ以前から知っていたようです 
([[私年号]]との認識があったかまでは不明)。

[192] 
全国的な[[私年号研究]]の場で知られるようになったのは[[平成時代]]初期頃のことです。

[204] 
>>34 によると[[元号名]]の第1字は[CH[光]]であること明瞭で、
第2字も[CH[永]]の[[異体字]]の可能性がかなり高いと思われます。

[205] >>34 では[[元号年]]は不明瞭ですが、[CH[二]]とみて問題なさそうに思われます。

[206] 
>>34 では[[干支年]]の判読が困難で、なんとなく文字がありそうな気はしますが、
どんな字形なのかよくわかりません。 >>103 では[[干支年]]に薄い[[辛巳]]の字形を読み取れます。



** 鹿児島県下の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [129] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本]][[薩摩国]][[出水郡]][[高尾野郷]][[柴引村]]]] [[紫尾神社]] [[木面]]]]
-- [141] 現在の[[日本国]][[鹿児島県]][[出水市]][[高尾野町]][[唐笠木]] [SRC[>>140]]
-- [130] 「[SNIP[]][DATA(.text)[光永二年庚辰二月]]願主敬白、奈島作之」
[SRC[>>128]]

]ITEMS]

[131] 
情報なく現況不明です。

[142] 
[[紫尾神社]]は[[廃仏毀釈]]の被害により宝物は破壊されたといいます。 [SRC[>>140]]
>>129 なども現存しない可能性がありそうです。

[196] 
[[幕末]]に地元の歴史研究者によって検討されたのを除くと、
[[令和時代]]に至るまで、[[私年号研究]]の文脈で紹介された事例は知られていません。

[207] 
[[奈島]]については詳細不明ですが、 >>138 を参照。

[REFS[

- [140] 
[CITE@ja[紫尾神社 | 鹿児島県神社庁]], [TIME[2026-06-15T14:37:38.000Z]] <https://www.kagojinjacho.or.jp/shrine-search/area-hokusatsu/%E5%87%BA%E6%B0%B4%E5%B8%82/698/>

]REFS]

* 諸説

[14] 
[[関東]]と[[九州]]をつなぐ存在とされた当[[私年号]]ですが、
関東説は曖昧な証言しかありません。
再発見されない限りは保留とせざるを得ません。

[208] 
[[北関東]]を除いて数点の用例があります。
これら全てが同系統の[[元号]]であるか断定する材料はありませんが、
いずれも[[九州]]で、[[中世]]末期的な時代感がありますから、
ひとまず同時代と見て考察し、大きな矛盾がある用例は別系統と考えるのが良さそうです。

;;
[209] 
なお、
[[古代年号]] (>>9)
と[[令和]]度[[新元号予想]] (>>148)
にも[[光永]]がありますが、
無関係であること明らかと考えられます。

-*-*-

[210] 
ここで最も注目するべきは[[後藤家信]]関連文書、特に >>49
の光永元年戊寅です。
この文書が正しいとすれば、
[[後藤家信]]の生没年は[TIME[永禄6(1563)年][1563]] - [TIME[元和8(1622)年][1622]]ですから、
この間の唯一の[[戊寅年]]である[TIME[天正6(1578)年戊寅][1578]]
[WEAK[(16才、[TIME[天正5(1577)年][1577]]に養子となった翌年)]]
でしか有り得ません。

[211] 
これを基準に他の用例を見ると、次のようになります。

- [212] [TIME[天正4(1576)年丙子][1576]] : 北関東説元年 (>>187)
- [213] [TIME[天正5(1577)年丁丑][1577]] : 佐賀藩元年 (>>116)
- [214] [TIME[天正6(1578)年戊寅][1578]] : [[後藤家信]]元年8/6 (>>46), 元年8/22 (>>41), 元年戊寅8/24 (>>49)
- [215] [TIME[天正7(1579)年己卯][1579]] : 薩摩元年, [[後藤家信]]2年12/12 (>>52)
- [216] [TIME[天正8(1580)年庚辰][1580]] : 熊本元年, 薩摩2年庚辰2月 (>>129)
- [217] [TIME[天正9(1581)年辛巳][1581]] : 熊本2年辛巳 (>>78)

[15] 
すべての用例が正しいとすれば、5系統の[[光永]]が存在したということになってしまいます。

[218] 
これらのいくつかが何らかの誤りを含むと考えることもできましょうが、
明確に[[干支年]]を伴って同時代的に利用されている[[後藤家信]]元年、
薩摩元年、
熊本元年の3系統は実在した可能性が高いのではないでしょうか。

[219] 
同名で[[1,2年のずれ][1年ずれ]]がある[[私年号]]が利用される現象は、
[[中世関東私年号]]等でしばしば見られます。
だとすれば、いずれかの系統が1巡60年前後したとする説より、
すべて[[天正]]年間に使われたとする説の方が幾分説得力を持ちます。
が、それだけで完全に断定するだけの根拠とはできません。

-*-*-

[220] 
>>211 以外の比定説は次のものがあります。

- [232] 熊本2年辛巳 (>>78) を[TIME[永正18(1521)年辛巳][1521]]とし、
熊本元年を[TIME[永正17(1520)年庚辰][1520]]とする (>>82)
-- [233] [[熊本県]]下の他の[[私年号]]の集中期であること、
[[永正]]と[[1字違いである][1字置き換え説]]ことが根拠であり、
用例そのものに基づく説ではない
- [221] 薩摩2年庚辰 (>>129) を[TIME[弘治2(1556)年丙辰][1556]]の誤りとする (>>136)
-- [222] [[人名]]を根拠とするもの
-- [223] [[フルネーム]]ではない点と、[[十干]]の誤記を認めなければならない点が弱点
-- [224] 天正説と20年の差があり、[[同一人物]]とすると[[天正]]説は時代が開きすぎるが、
あり得ないほどではなく、優劣は決めがたい
- [229] [[後藤家信]]元年8月22日 (>>41) を天正4年頃とする (>>112)
-- [230] 根拠は不明、北関東説系辞典によるものか?
-- [231] 「[V[後藤善次郎[BR[]]家信]]」とあり、天正5年に[[後藤家信]]が[[後藤家]]に入った後でなければならず、矛盾する
- [225] [[後藤家信]]元年8月22日 (>>41) を天正5年とする (>>39)
-- [226] [[後藤家信]]元年戊寅8月24日 (>>49) が(おそらく)知られていない時代の説
-- [228] 根拠は不明、文書の内容によるものか、あるいは佐賀藩史書によるものか?
-- [227] 8/22と8/24の文書の内容次第で正否が決められる

[235] 
ところで[[後藤家信]]元年8月から[[後藤家信]]2年12月まで間が空きすぎていることも注意されます。
たまたま残存していないだけかもしれませんが、他の可能性も検討を要するかもしれません。

-*-*-

[236] 
佐賀藩史書には[[改元]]理由の記録が残ります。当時[[光永]]の[[元号]]と共に流布されたものか、
後から回想的に記録し説明が付加されたものか判断は付きませんが、
[[公年号]]でも[[私年号]]でも[[改元]]理由と共に記録が残るものは珍しく、貴重な史料です。

[237] その理由は次のように説明されます (>>116, >>119, >>42)。

- [238] この年、空に光るものがあった
- [239] 東西に永くたなびいていた
- [240] そこで時の人は、[[元号]]を[[光永]]と唱えた

[241] この説明は天正5年丁丑6月中旬に掛けられていますが、
ここは天正5年条のはじめであり、「この年」と説明が始まっているのですから、
6月とは関係あるともないとも主張していないと解釈されます。

[246] 
[[天正]]頃の天変の記録として、次のものが知られています。

- [254] [TIME[永正3(1506)年][1506]] [SRC[>>242]]
- [253] [TIME[享禄4(1531)年][1531]] [SRC[>>242]]
- [SNIP[]]
- [251] [TIME[弘治2(1556)年][1556]]1月から4月にかけて、[[彗星]]が観測されました [SRC[>>242]]
- [252] [TIME[永禄元(1558)年][1558]]閏6月から7月にかけて、[[彗星]]が観測されました [SRC[>>242]]
- [247] [TIME[天正5(1577)年][1577]]9月から天正6年1月頃にかけて、
全国的に大彗星が観測されました。 [SRC[>>242, >>243]]
-- [261] [[C/1577 V1]] [SRC[>>243]]
-- [248] 同時期に世界的にも記録が残されています。 [SRC[>>244]]
-- [257] [[越南]]では[[光興]]と[[改元]]されました。 [SRC[>>244]]
- [249] [TIME[天正8(1578)年][1578]]9月、[[彗星]]が観測されました [SRC[>>242]]
- [250] [TIME[天正10(1582)年][1582]]4月、[[彗星]]が観測されました [SRC[>>242, >>245]]
-- [255] 2月に[[京都]]や[[安土]]で[[赤気]] ([[オーロラ]]) が観測されました
[SRC[>>262, >>245]]
-- [256] 3月に[[光物]]が観測されました [SRC[>>262]]

[259] 
この中でも天正5年の[[彗星]]は特に記録が多いようで、
注目の高さが窺えます。

[260] 
天正5年の大彗星は、10月の[[松永久秀]]の滅亡と関連付けて語られました。
[SRC[>>243]]

[263] 
天正10年の彗星は、[[本能寺の変]]と関連付けて語られました。
[SRC[>>262]]

[258] 
[[公年号]]でも[[彗星]]が理由で[[改元]]されることは度々あります。

[264] 
こうした時代背景を考慮すると、
[[彗星]]出現により[[改元との風説][改元デマ]]が信憑性を帯びて流布されることは、
十二分に考えられます。

[265] 
天正5年の一度に留まらず、何度も繰り返し流布されることも有り得るでしょう。
[[彗星]]記録の中で時系列が合致するのは天正5年のみですが、
もともと[[デマ]]は繰り返し流布される傾向にあるものですし、
一度衝撃的な光り物が観察されると、過敏になって目撃証言が増加した可能性は考えられるでしょう。

[268] 
天正5年の諸記録によって日本で彗星が観測されたと確認できることは、
佐賀藩史書の注釈の信憑性の裏付けとして極めて重要です。
少なくても光物目撃という天文現象は実在のもので、事実を正しく伝えていると確定できます。

[266] 
もし天正5年の[[彗星]]が[[私年号]]「[[光永]]」発生の決定的要因だとすると、
天正4年の北関東説は誤りだった可能性が相当に高い、
少なくても比定年は間違いと考えられます。

[267] 
逆に、[[光永]]という[[私年号]]が最初にあって、
あとから天正5年(など)の[[彗星]]と結び付けられた可能性も一応考えられます。
その場合でも、天正5年か、それに極めて近い時期に、
[[光永]]と[[彗星]]を結び付けた噂が広まったことは間違いなさそうです。

[269] 
天正5年彗星は天正6年になってもまだ見えていたといいます。
すると天正6年正月が光永元年だ、とする説が広まった可能性はあります。
[[後藤家信]]元年はこれで説明が付きます。
それとは別に天正5年を元年とする噂 (佐賀藩元年) があったのか、
佐賀藩元年は彗星目撃の始まった年に佐賀藩史書が記事を掛けた結果に過ぎないのか、
はどちらも有り得ます。

[286] 
なお、佐賀藩修史担当者が史書にわざわざ[[光永]]を注釈した理由としては、
[[彗星]]による[[天意]]と、
[[龍造寺家]]から[[鍋島家]]への「継承」を結び付けた正当化、
といった側面も考慮するべきかもしれません。ただし、
本文ではなく注釈に過ぎないことにも注意するべきとは思われます。
天文現象を前面に押し出して説話的に記述するスタイルを取っているわけでは''ありません''。

[REFS[

- [242] 
[CITE@ja-JP[日本天文史料 下 (惑星現象・星昼見・彗星・流星・雑象)]], [[神田茂]], [TIME[1978.11][1978]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-16T15:46:55.834Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12624009/1/127> (要登録)
- [244] 
[CITE@en[Great Comet of 1577 - Wikipedia]], [TIME[2026-06-16T02:00:08.000Z]], [TIME[2026-06-16T15:47:13.211Z]] <https://en.wikipedia.org/wiki/Great_Comet_of_1577>
- [243] 
[CITE@ja[見たか家康 徹底解説5 弾正星 – 博物館日記]], [TIME[2026-06-16T15:47:06.000Z]] <https://www.hirahaku.jp/blog/?p=4218>
- [262] 
[CITE@ja[見たか家康 徹底解説3 運命の天正十年 – 博物館日記]], [TIME[2026-06-16T16:04:19.000Z]] <https://www.hirahaku.jp/blog/?p=4143>
- [245] [CITE@ja[天正十年の天変1 | 京都千年天文街道]], [TIME[2026-06-16T15:47:20.000Z]] <https://www.tenmon.org/?tubuyaki=%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%8D%81%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%A4%A9%E5%A4%89%EF%BC%91>

]REFS]

-*-*-

[270] 
[[建元]]の趣意や使用者について、次のような説がありました。

- [275] 薩摩用例を[[元号名]]と[[十干]]の誤りとするもの (>>139)
-- [276] 他紀年銘との[[人名]]の類似による推測
-- [277] 「光永」と「弘治」でまったく類似していないが、どのように誤ったか説明できていない
-- [279] 薩摩用例のみが知られており、それのみから考察したもの
- [271] [[後藤家信]]元年が[[後藤家信]]の家督相続の時期であるため、
[[後藤家]]の新時代を画したものであるとする説 (>>55)
-- [272] [[後藤家信]]系用例のみが知られており、それのみから考察したもの
- [273] 熊本用例の所在地から、地元豪族説と地元寺社説を検討したものの、
どちらも不適格と判断したもの (>>93, >>95)
-- [274] 熊本用例のみが知られており、それのみから考察したもの

[278] 
これらの説はいずれも単独系統の用例だけが知られていた当時に提唱されたものです。
複数系統の用例が知られている現在となっては、
他の系統とまったく無関係に生じた蓋然性が高いと説明できない限りは、
こうした説は支持し難いと考えられます。

[280] 
特定勢力との結び付きを唱える説は、
[[私年号]]の制定者と使用者を暗黙に同一視する[[昭和時代]]頃の[[私年号研究]]の[[風潮][現存最古を発生と誤認した事案]]から生じたと思われます。

[281] 
[[後藤家信]]については、[[龍造寺家]]/[[鍋島家]]との関係を抜きに[[後藤家]]だけで結論を出すのは適切とはいえません。
[[後藤家]]に、あるいは当時の武家に家督相続で[[私年号]]を建てる風習でもあったなら別ですが、
当説自体が珍しいことだと主張しています (>>62)。

[282] 
主家で出身家でもある[[龍造寺家]]が[[私年号]]を制定したとするならまだ理屈は通りそうですし、
佐賀藩史書に記録が残ったこととも整合します。しかし、もしそうだとすると、
佐賀藩史書が逆に簡単な注釈だけ、それも第三者的な立ち位置であり、
[[龍造寺家]]や[[鍋島家]]の関与を窺わせない書き方をしていることと矛盾する、
というより大きな問題に発展します。

-*-*-

[283] 
すべての系統が同一起源で伝播したと仮定すると、時系列は
([[佐賀藩]]史書 →) [[後藤家信]] → 薩摩 → 熊本、
の順となります。

[284] 
もし薩摩と熊本が逆だったなら、[[九州]]を北から南へ伝播した、と単純な話になるのですが、
そうもいかないようです。

[285] 
現在知られている確実な記録はすべて[[九州]]のものですが、
これが[[九州]]で発生したことを意味するのか、それとも[[中国地方]]、
もしかすると[[畿内]]あたりから伝わってきたものなのか、
は決めかねるところです。しかし現状の史料では肯定も否定もしようがありません。

* 研究史

[197] 
[[江戸時代]]半ば頃の[[日本国]][[佐賀藩]]で行われた歴史書
[CITE[北肥戦誌]]
や
[CITE[直茂公譜]]一本の編纂で、
[[公年号]]とは異なる[[光永]]の[[元号]]が用いられたことが記録されました
(>>116, >>119, >>42)。

[198] 
歴史書本文には直接関係しない注釈ですが、
[[光永]]を使った「古き証文」があったとも書かれており、
編纂事業の過程でそうしたものを参照することもあって、
記述する必要性を感じたのでしょう。

-*-*-

[132] 
[[幕末]]頃成立と思われる[[日本国]][[薩摩藩]]の研究者[[伊地知季安]]の
[CITE[寺社巡詣録]]
は、
>>129
を紹介しています。
[SRC[>>128]]

[133] 
文久2年から3年に[[伊地知季安]]は藩内寺社を巡見しており、
その成果と考えられています。
[SRC[>>128 PDF1つ目 #page=5]]

[134] 
本書には次のようにあります。
[SRC[>>128]]

- >>129 面 : [[光永]]2年庚辰、奈島
- [135] [[光永]]という[[年号]]はない
- [136] [[上知識村]][[箱崎社]]に、[[奈島軍兵衛尉]]が奉納した面がある
-- [137] 弘治三年丁巳三月
- [138] もしこれらの奈島が同一人物なら、
- [139] 「光永二年庚辰」は「弘治二年丙辰」の誤りの可能性がある



[REFS[

- [128] 
[CITE@ja-JP[鹿児島県史料 旧記雑録拾遺伊地知季安著作史料集五]], [[鹿児島県歴史資料センター黎明館]], [TIME[2004-01-31]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:12:40.120Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13590161/1/2>
(PDF2つめ)
#page=115

]REFS]

-*-*-

[182]
[[昭和時代]]頃、一部[[平成時代]]の[[私年号]]の一覧表の類は、
すべてではないものの、多くが[[光永]]を掲載し、
[TIME[天正4(1576)年][1576]]としています。
[SRC[>>180]]

[184] 
昭和16年の[CITE[大日本年表]]が現在知られる最古です。
[SRC[>>180]]

[185] しかし出典の記載なく、どこから採録されたものか不明です。
関係者の証言はあるものの (>>71)、曖昧です。

[186] 
[CITE[大日本年表]]の著者[[辻善之助]]は[[史料編纂所]]幹部です。
[CITE[大日本年表]]が[[私年号]]一覧の初出である[[私年号]]として他に[[永傳]]があり、
こちらは[[薩摩藩]]系の史料から[[史料編纂所]]で検出されたものと推測されます。
[SEE[ [[永傳]] ]]
[[光永]]も同様に[[九州]]由来の可能性が考えられますが、
[[永傳]]とは異なり、[[光永]]は令和8年現在[[史料編纂所]]の公開データベースの検索で1件も発見できません。




[108] 
[TIME[昭和34(1959)年][1959]]の[CITE[日本歴史大辞典]]は、
[[光永]]を[TIME[天正4(1576)年][1576]]の[[私年号]]で、
継続年数等不明としています。
[SRC[>>32, >>31]]

[REFS[

- [32] 
[CITE@ja-JP[日本歴史大辞典 第19巻 (よーわ,補遺)]], [[河出書房新社]], [TIME[1959]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-02T07:14:27.276Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2999837/1/171?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8> (要登録)
--[31] 
[CITE@ja-JP[日本歴史大辞典 第10巻 (補遺・索引)]], [[日本歴史大辞典編集委員会]], [TIME[1985.12][1985]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-18T15:16:12.889Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12192280/1/38?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[39] 
[TIME[昭和38(1963)年][1963]]の史料集は、
>>41
を収録しています。
「[V[[RUBY[光永元年][(天正五年カ)]][BR[]]  八月廿二日]]」 
と注釈しています。 
[SRC[>>2]]

[45] [[後藤家信]]発給文書で、
[[年]]がなく天正5年と推定されるものなど数点があります。
[SRC[>>2]]
本書では前後に配置されており、日付も近く時系列的関係が想定されます。

[55] 
[TIME[昭和47(1972)年][1972]]の地域史は、
>>46 >>41 >>49 >>52
を紹介し、
次のように述べました。
[SRC[>>3]]

- [56] [[光永]]は4点知られているが、[[後藤家信]]に直接関係ある文書にのみ見られる
- [57] 公的に制定された年号でなく、私的に部分的に用いられた、いわゆる[[私年号]]である
- [58] >>50 の[[干支年]]より、天正6年戊寅が光永元年
-- [59] [[後藤家信]]が後藤家に入った (竜造寺家からの養子) 翌年
-- [60] [[後藤貴明]]が家督を実質[[後藤家信]]に譲った時期と推測される
- [61] 家督を継いで後藤氏が新時代に入るという抱負の私年号か
-- [62] 満15歳だから本人主導でないにせよ周囲の期待が、
私年号使用という中世以降全国的にも例の少ないことを行わせたのでは、と思う

[REFS[

- [2] 
[CITE@ja-JP[佐賀県史料集成 第7巻]], [[佐賀県立図書館]], [TIME[1963]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-15T08:35:24.092Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9769654/1/221?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8> (要登録)
- [3] 
[CITE@ja-JP[武雄市史 上巻]], [[武雄市史編纂委員会]], [TIME[1972]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-15T08:42:48.549Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9769753/1/260?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8> (要登録)
-- [114] 
[CITE@ja-JP[武雄市史 上]], [[武雄市史編纂委員会]], [TIME[1981]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-15T12:28:44.942Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9773876/1/261?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[12] 
昭和時代後期頃の研究者が[[私年号]]を数個挙げるときに、
[[光永]]が選ばれることがままあったようです。
[CITE[Google Books]] の検索などから伺えます。
>>6 もその類。なぜこれが選ばれたのかは謎です。

[63] 
[TIME[昭和39(1964)年][1964]]の論文は、
[[私年号]]の代表例で時期を「[V[推定し得るもの]]」をいくつか挙げるうちの1つとして、
光永元年は[TIME[天正4(1576)年][1576]]と「[V[なるようである]]」
と述べています。
[SRC[>>6]]

;; [64] この論文は「[V[[[弥勒]] ([[美禄]])]]」
のように[[中世]]の実用例がみつかっていない[[美禄]]をわざわざ挙げる [SRC[>>6]] など、
例示の基準が謎です。

[REFS[

- [6] [CITE@ja-JP[法学紀要 (6)]], [[日本大学法学部法学研究所, 日本大学法学部政経研究所]], [TIME[1964-06]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-15T08:59:08.088Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2805065/1/9?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8> (要登録)

]REFS]

-*-*-


[11] 
昭和42年の[CITE[日本私年号の研究]]は、
次のように述べています。
[SRC[>>66]]

- [70] [[光永]]の根拠資料は、公にされたことがなく、今日も知られない
-- [67] [CITE[大日本年表]], [[辻善之助]]は、
[[光永]]を天正4年相当とする
--- [68] [[年表]]なので根拠は記載なし
--- [71] 
[CITE[大日本年表]]執筆に参加した[[岡山泰四]]の教示によれば、
「北関東の金石文資料だったか」とのこと
-- [69] [CITE[国史辞典]], [[冨山房]]は、
辞典中もっとも新しくすぐれた集成を行ったものだが、
[[光永]]のみ根拠が示されていない
- [72] この年代の[[北関東]]の[[私年号]]は、[[永喜]]などの例からも首肯し得る
-- [73] 資料皆無ながら、[CITE[大日本年表]]に従って[[私年号]]として挙げておく
- [75] 天正4年 [SRC[>>74]]

[288] 
それに先立つ昭和40年の論文では、
[CITE[大日本年表]]
に天正4年とあることのみ記載していました。
[SRC[>>287]]

[REFS[

- [287] [CITE[[[我が国の私年号に関する研究(二)―室町時代―]]]]
- [65] [CITE[日本私年号の研究]]
-- [66] pp.[V[三七三]]-[V[三七四]]
-- [74] p.[V[五三二]]

]REFS]

-*-*-

[112] 
[TIME[昭和51(1976)年][1976]]の書籍は、
>>41
を起請文の事例一覧に掲載しています。
[[光永]]元年は[[異年号]]で、天正4年頃にあたるものだ、
と注釈しています。
[SRC[>>111]]

[REFS[

- [111] 
[CITE@ja-JP[日本古文書学の諸問題]], [[相田二郎]], [TIME[1976.10][1976]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-15T12:03:23.934Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12208515/1/115?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[85] 
[TIME[昭和53(1978)年][1978]],
[TIME[昭和57(1982)年][1982]]の文化財報告書では、
>>78
について、次のように述べられています。
[SRC[>>27, >>17]]

- [102] 昭和49年3月3日に[[坂]]氏が調査
-- [104] 
[[橋本]]氏が存在を知っていて案内した
[SRC[>>27]]
-- [105] 
ブロック塀の敷地内にあって、知らなければ発見できなかった
[SRC[>>27]]
- [86] [[光永]]は、[[朝廷]]で公式に制定された年号 ([[公年号]]) ではなく、
民間で私に使用された[[私年号]]
-- [87] 光永元年は[TIME[天正4(1576)年][1576]]に比定されている
- [88] [[私年号]]使用の理由を[CITE[[[日本歴史大辞典]] 9巻]],
[[河出書房新社]], 昭和33年は、
-- [89] [[中世]]以後に明らかに民間で[[公年号]]と併用された[[年号]]を[[私年号]]と呼ぶことが一応妥当であろう
-- [90] [[中世]]以後内乱その他で支配権力が動揺、強力な政治的統一を失った時期に地方豪族・社寺などが使用
-- [91] 主として寺社の縁起、碑文、銘文などに伝えられる
-- [92] 仏教などの宗教思想に基づき定められたと考えられる
- [93] [[天文]]年間から[[天正]]年間に当地で勢力を持った豪族は[[鹿子木氏]]
-- [94] しかし[[鹿子木氏]]が[[私年号]]を使用した跡も見受けられない
- [95] [[私年号]]を使用するほど大勢力の寺社の伝承もない
- [96] [[光永]]の[[私年号]]の使用者は定かでない
-- [97] 破損紛失した板碑断片の発見に期待
- [98] 光永2年辛巳は[TIME[天正5(1577)年][1577]]と思われるが、
-- [99] 天正5年は丁丑
-- [100] [TIME[天正9(1581)年辛巳][1581]]
- [106] 天正9年に相当する [SRC[>>27]]
-- [107] [[熊本県]]内に他に[[私年号]]用例は知られておらず、
中世史の貴重な史料
[SRC[>>27]]


[18] 
[[平成時代]]初期、
[[日本国]][[熊本県]]で活動する[[金石文]]研究者の[[前川清一]]は、
>>78
を[[熊本県]]の[[私年号]]用例の1つとして紹介しました。
光永元年は[[干支]]より[TIME[天正8(1580)年][1580]]とされました。
[SRC[>>513 pp.31-32, >>23]]



[82] 
[TIME[平成5(1993)年][1993]]の史料集は、
>>78
を紹介し、
[[光永]]は[[私年号]]であり、
[[干支]]や[[種子]]から[TIME[永正18(1521)年][1521]]もしくは[TIME[天正9(1581)年][1581]]とみられる、
と説明しています。
[SRC[>>28]]


[35] 
[TIME[平成6(1994)年][1994]]の書籍で[[前川清一]]は、
>>78
を紹介し、
(2年を)[TIME[1521]]もしくは[TIME[1581]]としています。
[SRC[>>33]]


[83] 
その続刊で[TIME[平成8(1996)年][1996]]の地域史は、[[前川清一]]の執筆において、
>>78
を紹介し、
[[天皇]]が定めた[[公年号]]ではなくそれ以外で定めた[[私年号]]であり貴重であるとし、
[[熊本県]]内の他の[[私年号]]が16世紀前半に集中することから、
[TIME[大永元(1521)年][1521]]と推測される、
と述べています。
[SRC[>>30]]


[20] 
[CITE[大日本年表]] 
は天正4年としていること、
[CITE[日本私年号の研究]]
によれば関東の板碑が出典かといわれていることを引きながらも、
その実物が確認不能となっているために、
[[熊本県]]では[[干支]]により天正9年、よって[[元年]]は天正8年だとされました。
[SRC[>>513 pp.31-32, >>23]]

[24] 
天正とするのは旧説の時代に従ったものであるようです。
60年遡って大永元年とし、よって[[元年]]は永正17年となる可能性もあり、
その場合[[子平]]や[[加平]]とも同時代になるとも指摘しています
[SRC[>>23]]。

[25] 
[[千々和到]]の指摘によると、同時代の[[公年号]]に近い文字が使われる傾向がみられますから、
その場合永正説が有力となります。ただし関東の[[私年号]]の法則性が適用できるかはわかりません。
[SRC[>>23]]

;; [234] 
要するに[[千々和到]]の[[1字置き換え説]]が駆動力となって熊本の[[光永]]の比定説が60年ずらされたような構図に見えます。



[REFS[

-
[27] 
[CITE@ja-JP[熊本市中央南地区文化財調査報告書 : 昭和50年度~昭和51年度]], [[熊本市文化財調査委員会]], [TIME[1978.3][1978]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-16T12:28:42.319Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12706886/1/142?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8> (要登録)
-[17] 
[CITE@ja-JP[「奥村方板碑群」調査報告書 : 白川河川改修工事に伴う文化財調査]], [[熊本市教育委員会文化課]], [TIME[1982.3][1982]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-16T12:11:34.189Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12273147/1/32?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8> (要登録)
- [30] 
[CITE@ja-JP[新熊本市史 史料編 第1巻 (考古資料)]], [[新熊本市史編纂委員会]], [TIME[1996.3][1996]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-06T09:53:49.020Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12688359/1/648?page=right&keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8> (要登録)
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[8] 
[CITE[新熊本市史: 史料編 - 新熊本市史編纂委員会 - [[Google ブックス]]]], [TIME[2022-12-24T12:18:52.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=wHYNAQAAMAAJ&q=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>1253 ページ
>板碑は、天文 4 年(は3ら) 9 月吉大明辰銘の釈迦坐像線刻板碑、永禄 10 年(は6?)の追善塔、光永 2 年の阿弥陀種子板碑がある。特に、光永 2 年塔については天皇が定めた公年号ではなく、それ以外で定められた私年号であり貴重である。全長 51001、厚さ 8010 のもので、主要部を残して他は紛失している。熊本県内には他に、子平 5 年(永正 2 年: 1505〕、永政元年(永正 2 年: 1505〕、加平元年(永正 14 年: 1517〕、神治元年(慶応 3 年: 1867〕がある。
]FIG]
-
[28] 
[CITE@ja-JP[新熊本市史 史料編 第2巻 (古代・中世)]], [[新熊本市史編纂委員会]], [TIME[1993.3][1993]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-15T09:54:29.975Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12694954/1/515?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8%E4%BA%8C%E5%B9%B4> (要登録)
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[7] [CITE[[L[『新熊本市史』史料編第2巻古代・中世 目次④]]]], [TIME[2022-12-24T12:12:55.000Z]] <https://www.city.kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=5&id=3436&sub_id=60&flid=174295>
]FIGCAPTION]

>
,*史料番号 ,*日付 ,*表題 ,*頁
,72 ,光永二年 ,上町光永私年号板碑 ,935
]FIG]
--- [76] 消滅確認 [TIME[2026-06-15T09:48:50.300Z]]
--- [77] 
[CITE[Wayback Machine]], [TIME[2026-06-15T09:48:17.000Z]] <https://web.archive.org/web/20190921151101/http://www.city.kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=5&id=3436&sub_id=60&flid=174295#page=2>
- [33] 
[CITE@ja-JP[荒尾の石造物]], [[肥後金石研究会, 荒尾市教育委員会]], [TIME[1994.3][1994]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-13T09:12:13.430Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13240318/1/47?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8> (要登録)
- [26] [CITE[[[熊本県下の私年号考]]]]
-- [115] 
[CITE@ja-JP[歴史考古学 (8)]], [[歴史考古学研究会]], [TIME[1982-03]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-15T12:29:09.880Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7951456/1/38?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8> (要登録)
- [19] [CITE[[[肥後の金石論集.I]]]]
-- [23] [CSECTION[[[熊本県の私年号小考]]]]
- [513] [CITE[[[郷土調査の手引き]]・1 三訂版]]
]REFS]

-*-*-

[13] 
[[前川清一]]によって[[熊本]]の[[私年号]]の事例(の1つ)として報告され、
[[関東]]中心と考えられてきた私年号研究に一石を投じることになりました。
[CITE[日本私年号の研究]]には間に合いませんでしたが、
[[千々和到]]の表には途中から反映されています。


[181] 
[[千々和到]]の系統の一覧表の多くでは、
[[光永]]は[TIME[天正4(1576)年][1576]]または[TIME[天正8(1581)年][1581]]の2説併記となっています。
それに17年を加えた3説併記、[TIME[西暦1576年][1576]]「頃」としたものもあります。
[SRC[>>180]]

[201] 
[CITE[国史大辞典]]版の表が3つ目の候補に17年を加えた理由は不明で、
天正17年の意としか取れないのですが、
[TIME[永正17(1520)年][1520]]説 (>>25) が本来かもしれません。


[146] 
[TIME[平成13(2001)年][2001]]付 [[Webサイト]]の[CITE[私年号一覧表]]は、
[[光永]]を[TIME[天正4(1576)年][1576]]に相当し、使用実例が「1・2年」であるとしています。
[SRC[>>145]]

[172] 
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]の一覧表は初期から[[光永]]を掲載していますが、
記載事項は少しずつ変化しています。
[SRC[>>171]]

- [173] 初期から[TIME[天正4(1576)年][1576]]、継続1年としていました。
- [174] 平成20年に >>78 が典拠として追加されました。
- [176] 継続年数は不明に変更されました。
- [175] 平成23年に >>42 と、それによると天正5年に当たる旨が追記されました。

[177] いずれも出典は不明です。

[179] 
[CITE[ウィキペディア]]は[TIME[西暦1576年][1576]]の記事にも、
この年が[[私年号]]の光永元年だと記載しています。
[SRC[>>1]]

[178] 
[TIME[平成30(2018)年][2018]]の [[SNS]] 投稿は、
出典不明ですが、
内容からみて[CITE[ウィキペディア]]の改変転載と思われます。
[SRC[>>166]]
[[明智'''光'''秀]]と関連付けていることは、著者自身も「関係ない」とはしていますが、
[CITE[ウィキペディア]]に無いので著者の独自の発想でしょう。

[144] 
[[中文]]版[CITE[维基百科]]は、
[CITE[日本私年号の研究]]
を出典に、
[[光永]]は[CITE[大日本年表]]にあるものの出所不明の[[私年号]]であり、
[TIME[天正4(1576)年][1576]]から継続年数不明、
としています。
[SRC[>>143]]


[183] 
その他、[[中世]]の[[私年号]]の紹介などで[[元号名]]等を列挙するときに、
代表例の1つとして[[光永]]を選んだ事例が散見されます。
必ず選ばれる超代表的な[[私年号]]では無いものの、
[[中世]]末期に当たることや、[[九州]]で用例が見つかっているということで、
目につきやすいのでしょうか。
比定年まで示されるとすると天正4年とする場合が多いようです。

[REFS[

- [180] [[日本私年号一覧表]]
- [145] 
[CITE[私年号一覧表]], [TIME[2001-01-16T18:06:39.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:44:32.043Z]] <https://kitabatake.world.coocan.jp/rekishi12.html>
- [171] [[Wikipediaの私年号一覧表]]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,光永 	,- 	,天正4年(1576年) 	,不明 	,熊本県熊本市西区上野家蔵板碑、『北肥戦誌』(但し元年を天正5年とする[SUP[__&&[&&__4__&&]&&__]]) 

>『北肥戦誌』に、「或旧記(詳細不明)にいふ、今年光永元年と唱ふ。東西に光り永く映く故と云々」 との記述がある。
]FIG]
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1] [CITE@ja[1576年 - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T09:10:05.000Z]], [TIME[2022-12-24T11:37:46.303Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/1576%E5%B9%B4>
]FIGCAPTION]

>
-日本
--    天正4年
---        光永元年(私年号)
--    皇紀2236年
]FIG]
- [166] 
[CITE@ja[Xユーザーの大森博子 Hiroko Ohmori🔍📚さん: 「【元号】364 光永-天正4年(1576年)期間不明 熊本市小島町上野家蔵板碑、『北肥戦誌』(←但し元年を天正5年とする) 天正といえば信長の時代。天正の元号決定は信長の圧力があったとされる。「光永」の意味は不明だが、明智光秀の「光」があるのは関係ないとはいえ暗示的。」 / X]], [TIME[午前6:01 · 2018年11月16日][2018-11-15T21:01:57.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/11111hiromorinn/status/1063175294826102784>
- [143] 
[CITE@zh[日本年號列表 - [[维基百科]],自由的百科全书]], [TIME[2026-06-09T10:31:47.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:41:53.075Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B9%B4%E8%99%9F%E5%88%97%E8%A1%A8#%E5%AE%89%E5%9C%9F%E6%A1%83%E5%B1%B1%E6%99%82%E4%BB%A3>

]REFS]

* 関連


[9] 
[CITE[日本私年号の研究]]によると[[古代年号]]の[[光元]]の異説で[CITE[塩尻]]に[[光永]]があるとのこと。

-*-*-

[148] [[令和改元]]時の[[新元号予想]]で[[光永]]を推した者もいました。 かなり多いので一部を挙げると:

[REFS[

- [147] 
[CITE@ja[「新しい元号を本気で予想する会」答え合わせ :: デイリーポータルZ]], [[西村まさゆき]], [TIME[2026-06-15T14:46:39.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:46:45.885Z]] <https://dailyportalz.jp/kiji/11020>
- [149] 
[CITE[『新元号』予想しましょう! | ガールズちゃんねる - Girls Channel -]], [TIME[2026-06-15T14:48:18.000Z]] <https://girlschannel.net/topics/2082914/>
- [153] 
[CITE@ja[Xユーザーのメガこまいぬ🐨さん: 「#平成終わるらしいんで新しい年号予想しようぜ 色々考察した結果、光永とか? 永劫光輝くような、みたいな。 少し古臭い気もするけども。」 / X]], [TIME[午後7:55 · 2016年7月13日][2016-07-13T10:55:49.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/umixhime/status/753181130463981568>
- [170] 
[CITE@ja[Xユーザーのラック꒰(๑´•.̫ • `๑)꒱さん: 「@unknown_keyword では、光という字を使いたいので光永 コウエイなんてどうでしょう?笑 一般公募して採用者にはその元号の間毎月10万支給される。なんて事になったらおもしろい( ˊ̱˂˃ˋ̱ )」 / X]], [TIME[午前6:44 · 2017年1月12日][2017-01-11T21:44:37.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/Lanpu_kun/status/819298996325740544>
- [152] 
[CITE@ja[Xユーザーのスーパーマンさん: 「@_minnanokoe_ 新しい年号は光永がいくかも。」 / X]], [TIME[午前7:57 · 2017年1月12日][2017-01-11T22:57:36.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/JF2LTL7080/status/819317363753390080>
- [169] 
[CITE@ja[Xユーザーのhappy.u_u.さん: 「新元号。『光永(こうえい)』とかどうかなー?アルファベットもKで被らないし、書くのも割と簡単だし。東京オリンピックもあるし、海外の方にも人気の『美』とか使うのもいいなって思うけど。私的には今のところコレ! #新元号を考える #新元号」 / X]], [TIME[午後3:58 · 2017年12月2日][2017-12-02T06:58:41.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/yacchin_h/status/936852099664568320>
- [168] 
[CITE@ja[Xユーザーのカメイナホコさん: 「グラタン光永君と次の元号は何かな?って話してたら 「うわあー光永だったらどうしよう」と不安がり始めて、 調べてみたらたしかに永の字は今までで一番使われてるそう。 でも明治のMとカブるから大丈夫じゃない?と言ったら 「こうえいだったら…?」 と音読みまでしてすごく心配してた。」 / X]], [TIME[午前0:36 · 2018年6月16日][2018-06-15T15:36:50.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/nahokokamei/status/1007648130379100160>
- [167] 
[CITE@ja[Xユーザーのことりさん: 「次の元号、「光永」ってどう? 読みは「こうえい」。光が永遠に続くよ? かっくいいー!」 / X]], [TIME[午後9:20 · 2018年10月25日][2018-10-25T12:20:58.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/ko1Oriiin_/status/1055434038540824576>
- [165] 
[CITE@ja[Xユーザーの上松範康ElementsGardenさん: 「勝手に平成の後の元号予想 ✩⃛( ͒ ु•·̫• ू ͒) 「光永」 光輝く世界が 永遠に続きますように って意味で さて作曲と作詞するぞ〜! (•̀ᴗ•́)و ̑̑」 / X]], [TIME[午前11:04 · 2019年1月6日][2019-01-06T02:04:24.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/agematsu/status/1081733187905024000>
- [151] 
[CITE@ja[Xユーザーのくーちゃんさん: 「新しい年号は『光永』 こうえい 光が永く続きますように! 塾は通ったことがありません。 #ジュクサガス元号予想」 / X]], [TIME[午後1:45 · 2019年1月18日][2019-01-18T04:45:13.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] 
<https://x.com/h23n13/status/1086122314909900802>
- [150] 
[CITE@ja[Xユーザーの花モモさん: 「栄もいいね。 光栄とかは? だけど、似たようなのはしないか?また年号予想。 ・永光(一応入れとく) ・光永 ・光栄 ・希翔 ・希律(希立) ・光希 ・吉翔 ・永徳 ・徳永」 / X]], [TIME[午後9:56 · 2019年3月31日][2019-03-31T12:56:24.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/againdaily/status/1112337848831598594>
- [164] 
[CITE@ja[Xユーザーの神園さやか@アルバム「Antique」制作・クラファンにて仲間募集中!さん: 「母と帰りの車の中でやってみました、 #新元号予想 😆✋🏻 私は【光永(コウエイ)】 「光」って文字が入ってると明るいかなぁと♪ 母は【良世(リョウセイ)】だそうです✨ 頭文字のアルファベットが「R」なのではないか、まるっこいし柔らかい感じしない?…だそうです(笑) #新元号予想してみた」 / X]], [TIME[午後10:39 · 2019年3月31日][2019-03-31T13:39:27.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/Kamizonosayaka/status/1112348683939414016>
- [163] 
[CITE@ja[XユーザーのHiLoyuki. PYGMYさん: 「新元号の妄想してたら眠れなくなった‥😑 なんとなーく『光永』って浮かんだんだけど調べてみたら南北朝時代の持明院統に『康永』って同音異字の元号があるからなしかね🤔 きりがないので1文字めは『光』で固定するとして、 ◎『光永』○『光久』▲『光文』☆『光安』あたりでファイナルアンサー🤟」 / X]], [TIME[午前5:21 · 2019年4月1日][2019-03-31T20:21:34.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/PYGMY_HIROYUKI/status/1112449882105610240>
- [162] 
[CITE@ja[Xユーザーの( ・ε・ )ぉちびさん: 「新元号予想 【光永(こうえい)】 もしくは 【光永(ペカ)】 11時半が楽しみだ。w」 / X]], [TIME[午前7:14 · 2019年4月1日][2019-03-31T22:14:24.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/ViMi_orange/status/1112478277816377344>
- [161] 
[CITE@ja[Xユーザーのずけさん: 「【新元号 ガチ予想】 本命…安永 次点…安久 ダークホース...永信 大穴…光永 もしかしたら...タピオカ 絶対にない…板東英二」 / X]], [TIME[午前11:35 · 2019年4月1日][2019-04-01T02:35:13.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/zzzuke/status/1112543914353819649>
- [160] 
[CITE@ja[Xユーザーのおだんごさん: 「新元号、僕は「光永」だと思います‼️ いけーーーー‼️‼️」 / X]], [TIME[午前11:38 · 2019年4月1日][2019-04-01T02:38:19.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/pIcqZ2V88DC8QCj/status/1112544694725046275>
- [159] 
[CITE@ja[Xユーザーの新三︙エ糸泉馬寄士團❗さん: 「光永(こうえい) 興元(こうげん) 秀恩(しゅうおん) 寛陽(かんよう) 大新(たいしん) ………こう見えても学はあるからさ、もっと良いの考えられるよ。今、一分で思い浮かんだ。 #新元号」 / X]], [TIME[午後0:01 · 2019年4月1日][2019-04-01T03:01:53.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/YukyuTaigaGo/status/1112550623071789057>
- [158] 
[CITE@ja[Xユーザーのワープ(SnowMan、お笑い)さん: 「ニュース見てたら新元号の候補の中に 「光永」の文字が! 「こうえい」と読むらしいけど、ついつい「ひなた」と読んじゃう私(笑)😓」 / X]], [TIME[午後1:03 · 2019年4月1日][2019-04-01T04:03:09.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/ns_and_5up/status/1112566043115831296>
- [157] 
[CITE@ja[Xユーザーのかなんさん: 「元号、光永(こうえい)って予想してたの家族に言ったら「みつなが」って言われた。たしかにみつなが」 / X]], [TIME[午後1:10 · 2019年4月1日][2019-04-01T04:10:09.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/kakurehunter27/status/1112567804467638272>
- [154] 
[CITE@ja[Xユーザーの眞伊 チニ 公式番長さん: 「@teruko_JMYG_bot 前の元号が決まった時、私は高一でしたが、私が立てた予測は『光永(こうえい)』でした。 結果平成だったのですが、その時既に光が永くあることを願っていたのですね😊」 / X]], [TIME[午後8:21 · 2021年10月24日][2021-10-24T11:21:56.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/JKS_antkate/status/1452233895773044738>
- [156] 
[CITE@ja[Xユーザーのケムんパシーさん: 「新元号が『光永』でも無く『永光』でも無くて良かったですね😊大人は良いけど、お子さんがそれでイジられるってのも可愛そうかな…って思うとホント良かった良かった😁 ということで、おはようございます🙇‍♂️本日も楽しい放送お願いしますね✌️😁 #パワーベイ」 / X]], [TIME[午前5:16 · 2019年4月2日][2019-04-01T20:16:10.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/pekopekopeni51/status/1112810910760894465>
- [155] 
[CITE@ja[Xユーザーのぶちょー🍒さん: 「「英弘」「久化」「広至」「万和」「万保」 新元号原案の全6案判明(毎日新聞) - Yahoo!ニュース https://t.co/Z1hmlAaVQD @YahooNewsTopics おかしいなぁ、光永のこの字も入ってないぞ?大見得切ってたジャガー横田の旦那?」 / X]], [TIME[午後0:20 · 2019年4月2日][2019-04-02T03:20:51.000Z]], [TIME[2026-06-15T14:19:38.000Z]] <https://x.com/SeifukuBuBucho/status/1112917784902590470>



]REFS]

-*-*-

[29] 
[CITE@ja-JP[土佐派絵画資料目録 7 (画帖 1)]], [[京都市立芸術大学芸術資料館]], [TIME[1997.3][1997]], [TIME[2026-03-18T03:11:57.000Z]], [TIME[2026-04-03T15:39:47.770Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13323758/1/15?keyword=%E5%85%89%E6%B0%B8> (要登録)

[110] 
>>29 は「光永十二才」と[[年齢]]で、[[光永]]は[[人名]]と思われる。

-*-*-

[SEE[ [[永光]] ]]

* メモ