[7] 
[DFN[光徳]] ([[旧字体]]: [DFN[光德]], [TIME[y~844]])
は、
[[高麗]]の[[元号]]の1つです。

[ITEMS[ [[日時事例]]

-
[4] 
[CITE(.label)[谷城大安寺広慈大師碑]]
-- [3] 
「[DATA(.text)[光徳二年歳次庚戌十月十五日]]」
[SRC[>>2]]
--- [9] 
[TIME(.value)[光德2(950)年庚戌][950]]10月15日 ([TIME[y~844]])
-
[19] 
[CITE[静真大師円悟之塔碑記]]
--
[20] 「[DATA(.text)[[SNIP[]]聖朝光徳二年[SNIP[]]]]」
[SRC[>>16 #page=14]]
---
[24] 
[TIME[光德2(950)年庚戌][950]] ([TIME[y~844]])?
---
[23] [TIME[光德2(951)年辛亥][951]] ([TIME[y~2195]])?
-- 
[21] 
「[DATA(.text)[[SNIP[]]周廣順三年秋[SNIP[]]]]」
[SRC[>>16 #page=16]]
---
[22] [TIME[广顺3(953)年癸丑][953]] ([TIME[y~945]])
--
[25] 
碑文成立:
[TIME[乾德3(965)年乙丑][965]] ([TIME[y~261]]) 6月
[SRC[>>16 #page=18]]
--- [26] [TIME[光宗16(965)年乙丑][965]] ([TIME[y~4044]])
-
[43] 
[DATA(.label)[瀋陽叢書本[CITE[遼東行部志]]所引[CITE[大般若波羅蜜多経]]写跋]],
[[王昭]]
--
[44] 
「[DATA(.text)[我国光德四年歳在壬子秋[SNIP[]]]]」
[SRC[>>7862]]
---
[45] [TIME(.value)[高麗光德4(952)年壬子][952]] ([TIME[y~844]])
- [28] 
[CITE[三重大師塔碑記]]
--
[29] 「[DATA(.text)[[SNIP[]]光宗御宇四年春[SNIP[]]]]」
[SRC[>>16 #page=23]]
--- [37] 
[TIME[西暦952年][952]]?
--- [32] 
[TIME[光宗4(953)年癸丑][953]] ([TIME[y~4044]])?
--
[30] 「[DATA(.text)[[SNIP[]]顕徳二年夏[SNIP[]]]]」
[SRC[>>16 #page=23]]
---
[33] [TIME[显德2(955)年乙卯][955]] ([TIME[y~618]])
--
[31] 
「[DATA(.text)[太平興国三年龍集攝提四月□日立[SNIP[]]]]」
[SRC[>>16 #page=28]]
---
[34] [[攝提]]: [[寅]]
---
[35] [TIME[太平兴国3(978)年戊寅][978]] ([TIME[y~929]]) 4月


]ITEMS]

[10] 
[CITE[高麗史]]
[WEAK[([TIME[西暦1451年][1451]]成立)]]
は、
[[光宗]]の[[即位紀年]]
([TIME[y~4044]])
と[[光徳]]
([TIME[y~2195]])
の[[元年]]を[TIME[西暦950年][950]]としていました。
[SRC[>>6]]


[11] 
ところが[[明治時代]]の[[日本]]の研究者により光徳2年庚戌碑文が再発見され、
[[1年ずれ]]ていたことが判明しました。
[SRC[>>5]]

[12] 
[[高麗]]時代の初期には[[即位]]の当年を[[元年]]とする方式が一般的だったのが、
[[高麗]]時代の後期以後には翌年を[[元年]]とする方式が一般的となり、
誤解されるようになったと推測されています。
[SRC[>>5]]
[SEE[ [[改元踰年問題]] ]]


[13] 
[[高麗]]時代の[[即位紀年]]でもこの種の[[1年ずれ]]が発見されています。
[SEE[ [[朝鮮半島の即位紀年]] ]]

[27] 
同じ[[光宗]]の時代の撰文とされる碑文に光徳2年と広順3年が同時に使われており、
[TIME[西暦953年][953]]に既に[[光徳]]が使われていないことが知られます。
[SRC[>>17]]

[36] 
[[光宗]]の死後3年の碑文に光宗即位4年とあり、
第4年には[[光徳]]が使われていなかった
(が[[後周の元号]]も使われていなかった) と推測されます。
[SRC[>>17]]


[38] 
[CITE[高麗史]]によれば光宗4年が広順3年ですが、
[[元年]]の決め方の違いで光宗4年は実は広順2年だとするなら、
独自元号 → 独自元号を停止して即位紀年 → 後唐の元号、
と切り替えられたと整理できます。
[SRC[>>17]]


[40] 
その場合[CITE[高麗史]]にある辛亥年12月の後周元号施行の記事が問題となります。
[CITE[旧五代史]]、
[CITE[新五代史]]
から、[[高麗]]の使者が広順元年辛亥12月に出発し、
広順3年癸丑に冊封使が[[高麗]]に到着したものと推測されます。
そこで辛亥12月に[[光徳]]を廃止し、癸丑に[[広順]]を施行したというのが[[今西竜]]の推測です。
[SRC[>>17]]


;; [39] がこの説が弱いのは、光宗4年春と広順3年秋が同じ年だとしても大きく矛盾しない
([[元年]]が違うとする根拠になり難い)
ところでしょうか。

[42] 
停止期間を想定せず光徳4年まで続いてから後唐の元号に改めたとするのが
>>41
の説です。

[46] 
その後[[光宗]]による写本跋に光德4年と[[干支]]付きで書かれたもの (>>43)
が[[藤田亮策]]により発見され、
[[元年]]は[[1年ずれ]]であることは再確認され、
1年の空白を想定した説は誤りで[[広順]]に直接接続することが明らかとされました。
[SRC[>>7862]]



[REFS[

-
[15] 
[CITE[[[海東金石苑]]. 巻1-4 / [[劉燕庭]] 著録]], [TIME[2023-05-07T03:47:52.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi10/chi10_03853/index.html>
--
[16] 
[CITE[chi10_03853_0004.pdf]], [TIME[2008-09-05T02:55:39.000Z]], [TIME[2023-05-07T03:48:15.949Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi10/chi10_03853/chi10_03853_0004/chi10_03853_0004.pdf#page=14>
- [1] [CITE[[[[V[朝󠄃鮮半󠄃島國の年號[SUP(quarter)[附]]事大主義一斑]]]]]]
-
[5] 
[CITE@ja-JP[[[考古学雑誌]] = Journal of the Archaeological Society of Nippon 3(1)]], [[日本考古学会]], [TIME[1912-09]], [TIME[2023-04-25T10:11:41.000Z]], [TIME[2023-05-07T07:14:17.593Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3548171/1/13> (要登録)
--
[6] 
[DFN[[CITE[[V[高麗の年號「光德」の年代[LINES(smaller)[高麗史󠄃紀󠄂年に][錯誤󠄄あるの疑]]]]]]]],
[[[V[今西龍]]]],
[TIME[[V[大正元年八󠄂月六日]]][1912-08-06]]
---
[8] 
[CITE@ja-JP[高麗及李朝史研究]], [[今西竜, 今西春秋]], [TIME[1974]], [TIME[2023-04-25T10:11:41.000Z]], [TIME[2023-05-07T07:21:31.468Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12172160/1/64> (要登録)
-
[14] 
[CITE@ja-JP[[[考古学雑誌]] = Journal of the Archaeological Society of Nippon 3(3)]], [[日本考古学会]], [TIME[1912-11]], [TIME[2023-04-25T10:11:41.000Z]], [TIME[2023-05-07T07:54:01.308Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3548173/1/8> (要登録)
--
[17] 
[DFN[[CITE[光德年代考補]]]],
[[[V[今西龍]]]]
---
[18] 
[CITE@ja-JP[高麗及李朝史研究]], [[今西竜, 今西春秋]], [TIME[1974]], [TIME[2023-04-25T10:11:41.000Z]], [TIME[2023-05-07T07:54:49.949Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12172160/1/66> (要登録)
- [2] 
[CITE@ja-JP[[[朝鮮金石総覧]] 上]], [[朝鮮総督府]], [TIME[大正8-12][1923]], [TIME[2023-04-25T10:11:41.000Z]], [TIME[2023-05-07T03:37:38.054Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/946079/1/130>
- [74] [CITE[[[朝鮮の年号と紀年]]]]
-- [7862] [CITE@ja[[[朝鮮の年号と紀年]](上)]],
[[藤田亮策]],
[TIME[1958-09]],
[TIME[2019-04-06 21:05:42 +09:00]]
<https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4748&item_no=1&page_id=25&block_id=47>
#page=21


]REFS]

[47] 
[[元号名]]は君主の輝かしい徳を施して人民を教化するの意味とする説があります。
[SRC[>>1555 (王光錫1991、韓政洙2012)]]

[REFS[

- [1553] [CITE[[[日本語学]]]]
-- [1554] [CSECTION[[[年号を考える]]]]
--- [1555] [CITE[[[韓国の年号]]]], [[吉本一]], p.[L[83]]

]REFS]

[41] [CITE@ja-JP[[[青丘学叢]] (12)]], [[青丘学会]], [TIME[1933-05]], [TIME[2023-04-25T10:11:41.000Z]], [TIME[2023-05-14T12:39:43.375Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1544535/1/61> (要登録)



