* 読み方

[1] [CITE@ja[null]], [TIME[2012-11-17T11:52:43.000Z]], [TIME[2023-05-25T09:40:43.568Z]] <http://www.yousun.sakura.ne.jp/public_html/ofude/ofu1-1.html>

>注)「稿本教祖伝」では、元治は、「がんじ」とルビが振られているが、社会一般的には、「げんじ」である。

* 改元

[3] 
[TIME[文久4(1864)年2月20日][kyuureki:1864-02-20]]に[[改元]]されました。

[4] 
[TIME[元治2(1865)年4月7日][kyuureki:1865-04-07]]に[[慶応]]に[[改元]]されました。

* 改元伝達

[78] 
[CITE@ja-JP[黒石地方誌]], [[佐藤耕次郎]], [TIME[昭和9][1934]], [TIME[2026-01-20T01:30:11.000Z]], [TIME[2026-02-13T09:24:36.140Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1232726/1/113?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83>

[79] 
[CITE@ja-JP[晴雨日記 : 史料編1]], [[坪田伊之右衛門]], [TIME[1986.3][1986]], [TIME[2026-01-20T01:30:11.000Z]], [TIME[2026-02-13T09:28:53.896Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13177048/1/108?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83> (要登録)

[80] 
[CITE@ja-JP[栃木県史料所在目録 第20集 (下都賀郡 1 大平町 上)]], [[栃木県立文書館]], [TIME[1991.3][1991]], [TIME[2026-01-20T01:30:11.000Z]], [TIME[2026-02-13T09:56:09.838Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12159306/1/72?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83> (要登録)


* 元治の延長年号


[213] [[元治]]から[[慶応]]の[[改元]]は、
[[長州藩]]が[[蛤御門の変]]で[[京都]]侵攻に失敗した後でした。
[[日本政府]] ([[江戸幕府]]) 首脳で[[長州藩]]にとっての仇敵に[[徳川慶喜]]がおり、
[[慶応]]は「[[慶喜]]に応じる」と解釈できるということで、
[[長州]]では[[改元]]されなかったといいます。

[132] 
[[朝廷]]に軍事侵攻し失敗した[[長州藩]]は、当時、[[朝敵]]でした。
新元号を奉じなかった[[長州藩]]の人々にも、その自認があったのでしょう。

[27] 
[[昭和時代]]初期の研究者の論文では、
[[関ヶ原]]以来の遺恨が元治元年の[[長州征伐]]で爆発し、
防長の諸記録に
「元治四年」
「元治五年」
とみられることがあるのはそのためだと説明されています (が具体例は示されていません)。
[SRC[>>26]]

[38] 
[[昭和時代]]初期の[[社会学者]]で[[日本国]][[山口県]]出身の[[河村只雄]]は、
[[延長年号]]事例 (>>34, >>37) を紹介し、
開戦前の意気や、
慶喜に応じることになるから気に喰わぬと殊更に意地張ったものだと推測しました。
[SRC[>>33]]

[51] 
[[昭和時代]]中期の地元の教育関係者は、
[[延長年号]]事例 (>>49) を紹介し、
[[慶応]]は慶喜に応ずる意味であるため、
意気盛んな様が窺われるものとしました。
[SRC[>>48]]

[70] 
[[美東町教育委員会]]の古戦場案内看板には、
時の将軍[[慶喜]]に応じないとの心意気が窺われるとあります。
[SRC[>>68]]

[73] 
[[昭和時代]]後期の地元の研究者は、
当時の将軍は[[慶喜]]で「慶喜に応ずる」のは気にくわぬために[[延長年号]]を使ったとしています。
[SRC[>>71]]




[61] 
[[平成時代]]のウェブページでも「慶喜に応じる」「慶喜に応じろ」
式の解釈は踏襲されています [SRC[>>214, >>215. >>7]]。

[74] 
どこも似たような記述なのは同系統の資料に基づいているのでしょう。
検索で見つからない郷土資料、郷土史教材のようなものにも同じような記述があるのかもしれません。

;; [160] 
[[令和改元]]のとき、ときの[[内閣総理大臣]]の[[安倍晋三]]を嫌う[[反アベ]]の人々は[[安倍晋三]]
([[山口県]]選出[[衆議院議員]]) の[[名前][人名]]の[[漢字]]が入った新元号なら使わないと騒いでいました。
[SEE[ [[安久]] ]]
不思議な因果です。

[62] 
「慶喜に応じる」との解釈はもっともらしいですが、
当事者の記録のような信頼できる出典が示されていないことには注意が必要です。

;; [63] 
[[徳川慶喜]]は[[幕府]]政権幹部で[[長州征伐]]の[[勅命]]を承けた立場でしたから、
[[慶応]]への[[改元]]の時点で[[長州藩]]と敵対関係にあったのは確かです。
ただし[[長州征伐]]時点の[[将軍]]は[[徳川家茂]]で、
[[徳川慶喜]]が[[将軍]]となったのは慶応2年の暮でした。

[75] 
地元関係者による論述が多く、通史的、全国的な視座の研究者や[[元号研究]]者による検討がなされていないのは気になります。

[2] 
[[中世]]の[[延長年号]]で指摘されているのと同様に[[朝敵]]には正式な[[改元伝達]]がなされなかった可能性もあり、検証が必要でしょう。

-*-*-

[34] 
開戦時に[[長州藩]]の幹部が制作した
[CITE[長防士臣民合議書]]
の[[日付]]が
「皇元治二年乙丑十有一月」
でした。
[SRC[>>32, >>33]]


[35] 
[[日本]]国内では省略されることが多い[[国名]]部に「皇」
と明示するのは異常な[[尊皇攘夷]]派だった[[長州藩]]の思想的背景が表れたものなのでしょう。

;; [36] [[近世]]後期から[[近代]]にかけてたまに見られる形式です。
[SEE[ [[元号名スロット]] ]]


[53] 
[[日本国]][[山口県]][[美彌郡]] [[金麗社]] 石灯籠に、

>
   国家多難数祈 公朝誅内奸
   攘外賊固非人力今慈丙寅八
   月落小倉城得諸延明命寺以徒
   大田駅奉祠前聊報 神助之萬分
            奇兵隊
    元治四年丁卯秋七月

とあります。 [SRC[>>52]]

[54] 
これは[[昭和時代]]から[[平成時代]]に

- 
[37] 
[[長州藩]]の軍部隊である[[奇兵隊]]が凱旋御礼と称して[[日本国]][[山口県]][[太田村]]金麗社に奉納した石灯篭に
「元治四年丁卯秋七月立」
とあります。
[SRC[>>33]]
-
[49] 
[[日本国]][[山口県]][[美彌郡]]
[[金麗社]]頭の1対の石灯篭に「元治四年建之奇兵隊」とあります。
第二回征長之役の際小倉延命寺よりこの地にうつし神助の万分の一に報いんためであるとしるされています。
[SRC[>>48]]
- [60] 
「元治3年 奇兵隊」
[SRC[>>214, >>7]]
- [69] 
[[美東町教育委員会]]の古戦場案内看板によると石灯篭の銘文に
「[V[元治四年丁卯秋七月立・・・]]」
とあります。
[SRC[>>68]]
- [72] 
石灯篭に 「[V[[SNIP[]]元治四年丁卯秋七月立]]」 とあります。
[SRC[>>71]]


と紹介されているものと、
銘文は少しずつ違っていてどれが正しいのかわかりませんが、
同じものを指しているようです。

[50] 
[[日付]]は[[延長年号]]と[[干支年]]ですが、本文中には[[干支年]]だけが使われています。


[55] 
>>49 では「うつし」と中立的な書き方をしていますが、銘文にある通り、
[[長州藩]]が[[小倉藩]]領[[小倉城]]に侵攻して城下を占拠し (占領地は[[長州藩]]領に編入して[[明治]]に至る)、
戦利品として奪取して持ち帰って自陣地の神社に奉納したものであります。

[56] 
銘文には国のため、朝廷のために戦ったようなことが書かれていますが、
事実は朝廷の定めた[[慶応]]の[[元号]]を奉じる[[小倉藩]]の[[石灯籠]]に、
[[朝敵]]の[[長州藩]]が[[朝廷]]の[[改元]]を無視した銘文を刻んで「上書き」
したもので、正反対です。

;; [57] 石灯籠の原状はよくわからないのですが、銘文はなかったのでしょうかね?


[58] 
[[戊辰戦争]]で[[勝って官軍][勝てば官軍]]になったとはいえ、
さすがに[[改元]]の無視を正当化するのは難しいからなのか、
どの時代でもこの[[延長年号]]の銘文を肯定的に紹介するものはあまりないみたいです。



[REFS[

- [32] 
[CITE[幕末維新関係資料データベース|維新史回廊構想推進協議会]], [TIME[2024-02-23T03:33:08.000Z]] <https://isinsi.jp/database/items/item_detail/46588/>
- [33] 
[CITE@ja-JP[融和事業研究 (55)]], [[中央融和事業協会]], [TIME[1939-06]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T03:33:46.924Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1495838/1/35> (要登録)
左下
- [26] 
[CITE@ja-JP[旧萩藩非常用貯蓄金穀]], [[三輪為一]], [TIME[昭13][1938]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T03:03:08.629Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1218677/1/11> (要登録)
-
[48] 
[CITE@ja-JP[[[教育広報]] 6(9)(69)]], [[山口県教育庁教育企画室]], [TIME[1954-09]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T05:43:30.458Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/6041477/1/30> (要登録)
-
[71] 
[CITE@ja-JP[維新の群像 : 金石に刻まれた防長の歴史]], [[山本武]], [TIME[1985.7][1985]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T06:58:30.397Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9575984/1/71> (要登録)
-
[68] 
[CITE@ja-JP[教育広報 (415)]], [[山口県教育庁教育企画室]], [TIME[1991-02]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T06:53:53.624Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/6041820/1/16> (要登録)
- [52] 
[CITE[大田・絵堂の戦い|大田・絵堂戦役150周年記念事業 公式サイト]], [TIME[2023-06-23T04:54:17.000Z]], [TIME[2024-02-23T05:54:38.400Z]] <http://morf.co.jp/oodaedou150/oodaedou.html>
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[214] [CITE[東行庵]]
([TIME[2015-05-09 16:53:00 +09:00]] 版)
<http://yoshiko2.web.fc2.com/tougyo.html>
]FIGCAPTION]

> 高杉晋作率いる奇兵隊が、慶応2年(1866年)8月、四境戦争(第二次長州征伐を山口県ではこう呼ぶ)小倉口の戦いで小倉城を攻略した際、城下の延命寺から戦利品として持ち帰った灯籠。 「元治3年 奇兵隊」と銘記されている。
>  実際には、「元治」は元年で終わり、「慶応」と改元されていたのだが、長州藩では、「慶応」を「慶喜に応じろ」の意味とし、「元治」の年号を使い続けた。

]FIG]
-- [5] 消滅確認 [TIME[2024-02-22T12:49:07.300Z]]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[215] [CITE@ja[平成3年、大政奉還。 - 長州に棲む日日]],
[[内藤昶]],
2011年01月12日,
[TIME[2016-01-13 16:19:53 +09:00]] 
<http://blog.goo.ne.jp/akiller_2006/e/0e211bf6b15b1dff38c766db4c2ad08b>
]FIGCAPTION]

> あん時、慶應じゃなく平成に決まってたら…。
> 長州に点在する「元治三年」とか「元治四年」とかの書類や石灯籠はなかったわけだなー。
> (もともとそういう意味ではなかったのですが、長州は「慶應」=「慶喜に応じる」として嫌い、元治を使い続けることも多かった。

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[7] [CITE@ja[長州旅行3日目(長府)|月虹徒然日記]],
2011-11-15 22:21:17,
[TIME[2016-01-13 16:22:51 +09:00]] 
<http://ameblo.jp/seuru/entry-11110882532.html>
]FIGCAPTION]

> 踊り場には石灯篭があって、これは高杉晋作率いる奇兵隊が、慶応2年8月、四境戦争の小倉口の戦いで小倉城を攻略した際、城下の延命寺から戦利品として持ち帰ったもので、灯篭には「元治3年 奇兵隊」と銘記されている。元治は本来は元年で終わり、「慶応」と改元されているが、長州藩では、「慶応」を「慶喜に応じる」の意味とし、「元治」の年号を使い続けたので、ここでは『元治3年』となってます。

]FIG]

]REFS]

-*-*-


[6] 
「元治三年」「元治四年」「元治五年」で検索するとやたらとたくさん出てきます。
OCRの誤読も多いようですが。
[[長州藩]]だけでは説明がつかない気がします。
他の時代の[[元号]]の誤記や、
[[幕末]]の[[元号]]の誤記が多く混ざっています。
[[改元]]しまくりの悪影響を[[明治]]以降も引きずって誤記が誘われてるのでしょうか。
分析が待たれます。




[31] 
[CITE@ja-JP[綜合美良布文化史]], [[美良布第一尋常高等小学校]], [TIME[昭11][1936]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T03:27:46.427Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1230813/1/155> (要登録)
左

「[V[孝明天皇の元治四年]]」


[21] 
[CITE@ja-JP[盛岡市史 第4分冊]], [[盛岡市史編纂委員会]], [TIME[1950]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T02:51:00.847Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3022995/1/90> (要登録)
左

「[V[元治五年]]」

[11] [CITE@ja-JP[都山流史]], [[都山流編輯部]], [TIME[昭和7][1932]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T02:27:00.603Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1212938/1/551> (要登録)

「[V[元治六年二月十日東京赤坂に生れ[SNIP[]]]]」


[59] 
[CITE@ja-JP[栃木県市町村誌]], [[栃木県町村会]], [TIME[1955]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T06:17:15.094Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2997332/1/467> (要登録)
右中

[[天狗党]]が元治4年に転身。元治年間? 慶応4年?


[65] [CITE@ja-JP[七ケ宿町史 資料編 別冊]], [[七ケ宿町史編纂委員会]], [TIME[1978]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T06:42:12.782Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9569968/1/105> (要登録)
左ページ右

「元治四年四月」御用留。目録のみで内容不明。


[77] 
[CITE@ja-JP[新聞研究 (413)]], [[日本新聞協会]], [TIME[1985-12]], [TIME[2026-01-20T01:30:11.000Z]], [TIME[2026-02-06T15:56:58.922Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3360972/1/4?keyword=%E5%85%83%E6%B2%BB> (要登録)


-*-*-


[23] 
[CITE@ja-JP[甲斐国社記・寺記 第1巻]], [[山梨県立図書館]], [TIME[1967]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T02:56:20.605Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2991215/1/374> (要登録)

- [24] 
/374 左
「[V[去る元治五年八月九日大風ニテ[SNIP[]]]]」
- [25] 
/375 左
「[V[去ル元治元子年八月九日大風ニテ[SNIP[]]]]」

「五」は「元」の誤記。



[8] 
[CITE@ja-JP[里のたより : 旭廓盛榮]], [['''['''出版者不明''']''']], [TIME['''['''18--''']'''][1800]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T02:03:28.164Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1085521/1/30> (要登録)
右

元治、文久、明治が並ぶ中で「[V[元治六年三月生]]」。

[9] >>8 元治元年の誤植か、明治六年の誤植か。


[10] [CITE@ja-JP[北陸史談会々報 (1)]], [[北陸史談会]], [TIME[1896-03]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T02:18:49.293Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1601998/1/16> (要登録)

[[金沢藩士]]の[[幕末]]の動向。文久3年9月の「[V[明年]]」が「[V[元治六年]]」の2月。
元治元年の誤植。

[30] [CITE@ja-JP[城南紳士録 : 城南郡区町村誌・城南代表会社録]], [[関西報知新聞社出版部]], [TIME[昭和7][1932]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T03:26:14.354Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1037008/1/108> (要登録)
左下

「[V[元治四年]]」に[[鳥羽伏見の戦い]]。慶應4年の誤り。

[39] [CITE@ja-JP[原田二郎翁小伝]], [[三重県社会事業協会]], [TIME[昭和15][1940]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T03:51:54.262Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1053238/1/21>

元治4年 = 慶応元年。実際には元治2年が慶応元年。

[40] [CITE@ja-JP[能久親王御遺蹟建碑志]], [[北白川宮能久親王御遺蹟保存会]], [TIME[昭15][1940]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T03:53:23.274Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1688076/1/55> (要登録)
右下

元治4年4月7日改元して慶応元年。実際には元治2年4月7日に改元。

[66] [CITE@ja-JP[ふるさとのかたりべ 第3集]], [[嘉瀬ふるさとを探る会]], [TIME[1983.7][1983]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T06:46:17.383Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9539151/1/51> (要登録)
左

[[弁慶]]の文治4年4月18日付けの借用書とされるものの写しを含む「子正月」付け文書
(白黒写真、翻刻)。

解説文では元治4年甲子年の正月としている。

[67] >>66 元治元年が甲子年。文久4年甲子からの[[改元]]であるための誤記。
[[文治]]が出てくるのがおもしろいところ。


* 元治4年庚申


[41] [CITE@ja-JP[古浄瑠璃の研究 第3巻 延寶・享保篇 下]], [[若月保治]], [TIME[昭和18-19][1944]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T03:56:27.314Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1125537/1/70>

「元治四年かのへさる七月七日」

[[三条院]]の時代、[[源頼義]]らの頃。

[42] 
>>41 注釈には「元治庚申四年」なるものはなく「長和乙卯四年」しかない、と。

[43] 
[[源頼朝]]との混同から混入した?
[TIME[正治2(1200)年庚申][1200]]。

[44] 
[[源頼義]]の時代のうちでは[TIME[寛仁4(1020)年庚申][1020]]。[[三条天皇]]の時代よりは少し早いです。
同じ4年なので原形はこれだった可能性があります。


* 元治 (文治)

[64] 
[[近代日本]]で[[文治]]のことを[[元治]]と書いたものがみられます。

[15] 
いくつか示しますが、この他にも相当数あります。
単発の[[誤植]]に留まらず誤った情報が流布していたと推測されます。

[13] 
[CITE@ja-JP[埼玉県誌 上巻]], [[埼玉県]], [TIME[大正1][1912]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T02:34:05.838Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/946515/1/184>

「[V[時に元治五年閏四月なり]]」

[[源平合戦]]で文治5年の誤り。

[12] [CITE@ja-JP[小樽港史 : 附・小樽岩内間九郡史]], [[高畑宜一]], [TIME[明32.11][1899]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T02:31:29.650Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/763030/1/28>

「[V[元治六年]]」が[TIME[西暦1190年][1190]]。文治6年の誤り。

2箇所あるので単発の[[誤植]]ではない誤り。

[14] [CITE@ja-JP[アーギュメント・セットラー 社会編]], [[福田東作]], [TIME[大正5][1916]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T02:36:23.596Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/950482/1/264>
右


「[V[[RUBY[元治][ぐわんぢ]]五[RUBY[年][ねん]][SNIP[]]]]」
に[[源頼朝]]が云々。
文治5年の誤り。


[22] [CITE@ja-JP[福島県史料集成 第1輯]], [[福島県史料集成編纂委員会]], [TIME[1952]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T02:53:01.888Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2998471/1/261> (要登録)
左

「[V[文治五年九月十三日鎌倉の大軍兵大島城に[SNIP[]]]]」

[28] [CITE@ja-JP[国史大系 第9巻 公卿補任前編]], [[経済雑誌社]], [TIME[明治31][1898]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T03:18:00.126Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/991099/1/282>
右上



* 元治 (元和)

[16] 
[CITE@ja-JP[広島県誌]], [[自治調査会]], [TIME[昭和7][1932]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T02:40:15.155Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1030141/1/108>
左下

「[V[元治五年七月]]」に[[徳川家康]]の[[娘]]と[[婚姻]]。[[元和]]の誤り。

[18] [CITE@ja-JP[現代展望・郷土誌 昭和10年度版 '''['''神奈川県,北海道,広島県,山口県,福岡県''']''']], [[帝国聯合通信社]], [TIME[昭和10][1935]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T02:43:51.752Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1033874/1/225>
右ページ左下

[19] >>16 >>18 ともに[[淺野長晨]]の記事。[[元号]]を誤った情報が広まっていたことがうかがえる。


[17] [CITE@ja-JP[国文鑒 : 教授参考書 2学年用]], [[垣内松三]], [TIME[昭和8][1933]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T02:41:44.250Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1442052/1/110> (要登録)
右上

[[熊沢蕃山]]、「[V[元治五年]]」生まれ。[[元和]]の誤り。

[20] [CITE@ja-JP[邑智郡誌]], [[森脇太一]], [TIME[昭12][1937]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T02:47:54.949Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1684351/1/706> (要登録)
左上

「[V[後水尾帝元治五年]]」。[[元和]]の誤り。


[29] [CITE@ja-JP[静岡案内]], [[勝見弥作]], [TIME[大正10][1921]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T03:22:57.946Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/963694/1/23>
左下


* 元治 (明治)

[76] 
[CITE@ja-JP[武州高麗郡中山村記録]], [[中藤栄祥]], [TIME[1966]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-17T06:54:41.851Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3010211/1/203?keyword=%E5%85%83%E6%B2%BB> (要登録)

* メモ

- [45] 
[CITE@ja-JP[日本考古学・人類学史 上巻]], [[清野謙次]], [TIME[1954]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T05:10:50.320Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2988012/1/227> (要登録)
右
- [46] [CITE@ja-JP[耽奇漫録 20巻 七]], [[滝沢解, 山崎美成]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-23T05:11:55.365Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/8942925/1/24>


[47] >>45 には「元治四年書写」とあるが、 >>46 だと明らかに「大治四年書写」。
>>45 編集に使った本の[CH[大]]の字形が紛らわしかったのか、
編集時の誤記ないし誤植か。




