[119] 
[DFN[元正]]は、[[日本の異年号]]の一種です。

[120] 
いくつかの異なる系統の用例が報告されています。

* 元正天皇即位紀年

[121] 
[[元正天皇]]は[[元号]]を制定していますから、
その治世は通常[[元号]]で[[紀年]]されますが、
後の時代の文献などで[[即位紀年]]を使った事例が、少数ながら存在します。

[SEE[ [[天皇即位紀年]] ]]

** 用例

[116] 
用例はいくつか知られていますが、少なくても2系統があります。

*** 単発の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [144] 
[CITE(.label)[菩薩戒綱要鈔]]
-- [115] 
「[SNIP[]]又[DATA(.text)[元正天皇即位二年丙辰]]。玄
昉入唐受學智周。智周入滅經三年。聖武天
皇聖暦七年歸朝。[SNIP[]]昔聖武天皇御宇天平十二歳庚辰十月
八日。[SNIP[]]」
[SRC[>>143]]
--- [146] [RUBYB[[[玄昉]]][?-[TIME[746]]]]の[[唐]]滞在:
[TIME[日本養老元(717)年][717]]-[TIME[天平7(735)年][735]]
---- [SEE[ [[天平聖暦]] ]]
--- [145] 元正天皇2年 = [TIME[日本霊亀2(716)年[LINES[丙][辰]]][716]]
--- [147] [TIME[天平11(740)年[LINES[庚][辰]]][740]],
[TIME[天平12(741)年[LINES[辛][巳]]][741]]
- [130] 
[CITE(.label)[わが郷土福知山]],
[DATA(.author)[[[福知山市郷土史教育研究会]]]],
[TIME(.published)[昭和28(1953)年][1953]]
-- [131] 
「[V[[SNIP[]]一二〇〇年前の元正四年に建つて]]」
[SRC[>>129]]

]ITEMS]

[132] 
>>131 は[[年表]]から[[天皇即位紀年]]を拾ったとしたら不自然で、
寺伝にそう書かれていた可能性があり要調査といえます。

[REFS[

- [143] [CITE[SAT DB]], [TIME[2021-03-06T08:20:51.000Z]] <https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&useid=2358B>
- [129] 
[CITE@ja-JP[わが郷土福知山 : 郷土読本]], [[福知山市郷土史教育研究会]], [TIME[1953]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-06T04:18:19.047Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2985161/1/25?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3> (要登録)

]REFS]

*** 複合的な用例

[SEE[ [[天皇即位紀年]] ]]

*** 養老と混同した用例

[114] [[元号名]]を[[元正天皇即位]]としながら、
[[干支年]]から実際には[[元正天皇]]の[[即位]]からではなく、
[[元正天皇]]の[[元号]]の1つである[[養老]]に過ぎない事例が1件知られています。
[SEE[ [[養老]] ]]

[117] 
[[即位]]に異説があるわけではありませんから、
「元正天皇養老[VAR[何]]年」
のようなものが何らかの誤りで変化したと見るのが妥当と思われます。

** 研究史

[118] 
>>114 の指摘など個別の紹介事例はあるものの、
[[日本の紀年法]]の1つとしての体系的な研究の事例は[[令和時代]]に至るまで見当たりません。

* 元正 (天正)

[5] 
[[天正]]のことを[DFN[元正]]と書いた事例が知られています。

** 用例

*** 前近代の用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [1] [DATA(.label)[[[西田長男]]所蔵[CITE[結鎮祭文]]]]
-- [2] 「[V[[RUBY[維][ ク]][RUBY[当来][(ママ)]]歳次[LINES(smaller)[某年月][某日]]吉日良辰撰定、[SNIP[]]]]」
[SRC[>>31]]
-- [3] 「[V[夫[DATA(.text)[[RUBY[元][(ママ)]]正元年]]之比、[SNIP[]]]]」
[SRC[>>31]]
-- [4] 「[V[文禄二年正月八日 [SNIP[]]]]」 [SRC[>>31]]
-- [7] 「[V[元禄元年[SUP(smaller inline)[戊]][SUB(smaller inline)[辰]]十二月吉日 [SNIP[]]]]」 [SRC[>>31]]
-- [8] 「[V[享保九年[SUP(smaller inline)[甲]][SUB(smaller inline)[辰]]五月十六日 [SNIP[]]]]」 [SRC[>>31]]

]ITEMS]

[35] 
>>1 は、[[昭和時代]]の研究者[[西田長男]]が収集したものです。 [SRC[>>31]]
現在の所蔵は不明です。

[9] 
>>1 は、媒体の状態より書写奥書通り[[享保]]のものと推定されます。 [SRC[>>31]]

[34] 
書写奥書や本文より、[[日本]][[大和国]]の寺社で[[戦国時代]]頃から[[近世]]にかけて使われたものであることが知られます。
[SRC[>>31]]


*** 誤植

[37] [CITE@ja-JP[戦国の山城]], [[馬場広幸]], [TIME[1991.10][1991]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-04T06:26:09.704Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13139010/1/59?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3> (要登録)

元正元年 (天正)

[83] 
[CITE@ja-JP[吉田町歴史的建造物調査 寺院建築]], [[吉田町教育委員会]], [TIME[1997.2][1997]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-05T09:16:54.688Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13089599/1/55?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3> (要登録)

元正元年 (1573)

[86] 
[CITE@ja-JP[水登ともに (230)]], [[水資源開発公団総務部広報課 監修]], [TIME[1983-02]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-05T09:19:30.463Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3213656/1/16?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3> (要登録)

元正元年 (一五七三)

[88] 
[CITE@ja-JP[磯並遺跡 : 静香苑進入道路第Ⅱ期工事に伴う埋蔵文化財緊急発掘調査報告書]], [[茅野市教育委員会]], [TIME[1987.3][1987]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-05T09:21:30.485Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12254880/1/52?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3%E5%85%83%E5%B9%B4> (要登録)

信濃史料第八巻元正元年十一月


[90] 
[CITE@ja-JP[堺市案内記]], [[第五回博覧会堺市協賛会]], [TIME[明36.1][1903]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-05T09:23:36.044Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/765699/1/28?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3>

元正元年

[91] 
[CITE@ja-JP[群馬文化 2(5)(17)]], [[群馬県地域文化研究協議会]], [TIME[1958-05]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-05T09:29:07.451Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/6048024/1/2?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3> (要登録)

元正二年

[126] 
[CITE@ja-JP[免田町史 第1巻]], [[免田町史編纂委員会]], [TIME[1986.3][1986]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-06T04:15:08.705Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9775501/1/353?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3> (要登録)

元正三年 (一五七五)。誤植と思われるが果たして?



[89] 
[CITE@ja-JP[近江国野洲郡野田村略史]], [[木村武則]], [TIME[1980.2][1980]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-05T09:22:21.661Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9570278/1/33?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3> (要登録)

[[手書き]] [[元号名]]の「[[天正]]」の横に「元正元年」

[133] 
[[天政]]の[CSECTION[研究史]]も参照。


*** その他

[84] [CITE@ja-JP[但馬城崎温泉案内記]], [[結城蓄堂 (琢)]], [TIME[明38.7][1905]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-05T09:18:09.725Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/765806/1/33?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3>

元正元年

[85] >>84 誤植の可能性も高いが、縁起からの引用と思われ、原典ママの可能性も。

[127] 
[CITE@ja-JP[東大寺文書目録 第6巻]], [[奈良国立文化財研究所]], [TIME[1984.3][1984]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-06T04:16:26.233Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12157534/1/113?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3> (要登録)

[128] 
>>127 [[天正]]が並ぶ中に1つだけ[[元正]]。誤植・・・だよね?


[87] 
[CITE@ja-JP[湘南五郷の史蹟を訪ねて]], [[足柄下郡教育会第五部研究会]], [TIME[昭和5][1930]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-05T09:20:20.514Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1095505/1/18?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3>

元正元年

** 研究史

[36] 
[TIME[昭和53(1978)年][1978]]の著書で[[西田長男]]は、
>>1
を紹介し、
[[元正]]という[[年号]]は存在せず、
[CH[天]]と[CH[元]]の誤写は多いことから、
[[元正]]は[[天正]]の誤りと推定しています。
[SRC[>>31]]


[122] 
[[令和時代]]に至るまで、[[私年号研究]]の文脈で紹介された事例は見当たりません。

[REFS[

- [31] 
[CITE@ja-JP[日本神道史研究 第3巻 (古代編 下)]], [[西田長男]], [TIME[1978.6][1978]], [TIME[2025-09-30T02:09:54.000Z]], [TIME[2025-10-17T06:43:18.518Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12265527/1/255?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3> (要登録)

]REFS]

* 元正鰐口

[72] 
[[元正]]と書かれているとされる[[鰐口]]が1点知られています。

** 用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [10] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[京都府]][[相楽郡]][[加茂町]][[大字西小]]]] [[浄瑠璃寺]] [[鰐口]]]]
-- [23] >>22 : [V[一八]]
-- [50] >>49 : [V[五五]]
-- [14] >>13 : [V[八 金皷刻銘]]
-- [26] [[日本]][[山城国]][[相楽郡]][[当尾村]][[大字西小田原]] [SRC[>>22]]
-- [47] >>44 : 拓本 白黒写真 (解像度中の下)
-- [54] >>53 : 拓本 白黒写真 (中解像度)
-- [74] 「[V[[DATA(.text)[元[正]元年[LINES(smaller)[□][酉]]六月二日]][SNIP[]]]]」
[SRC[>>54]]
--- [55] 「[V[[DATA(.text)[□□元年[LINES(smaller)[□][酉]]六月二日]][SNIP[]]]]」
[SRC[>>53]]
--- [29] 「[V[[SNIP[]][DATA(.text)[元□元年[LINES(smaller)[□][酉]]六月二日]][SNIP[]]]]」
[SRC[>>27]]
--- [45] 「[V[[SNIP[]][DATA(.text)[元□元年[LINES(smaller)[[辛__&&]&&__][酉]]六月二日]][SNIP[]]]]」
[SRC[>>44]]
--- [18] 「[V[[SNIP[]][DATA(.text)[元[享]元年[LINES(smaller)[[辛__&&]&&__][酉]]六月二日]][SNIP[]]]]」
[SRC[>>17]]
--- [51] 「[V[[DATA(.text)[元[享]元年[LINES(smaller)[辛][酉]]六月二日]][SNIP[]]]]」
[SRC[>>49]]
--- [66] 「[V[[SNIP[]][DATA(.text)[元[RUBY[□][(享)]]元年[LINES(smaller)[辛][酉]]六月二日]][SNIP[]]]]」
[SRC[>>65]]
--- [15] 「[V[[SNIP[]][DATA(.text)[元[RUBY[□][(亨カ)]]元年[LINES(smaller)[辛][酉]]六月二日]][SNIP[]]]]」
[SRC[>>13]]
--- [24] 「[V[[SNIP[]][DATA(.text)[元亨元年[LINES(smaller)[辛][酉]]六月二日]][SNIP[]]]]」
[SRC[>>22]]
--- [11] 「[V[[SNIP[]][DATA(.text)[元正元年刁六月二日]][SNIP[]]]]」
[SRC[>>6]]
--- [46] 「[DATA(.text)[[V[天[正]元年[LINES(smaller)[[癸__&&]&&__][酉]]]]]]」
[SRC[>>44]]


]ITEMS]

[68] 第1字は[CH[元]]と読むのが通説で、[CH[天]]と読む少数説があります。
拓本によれば[[字形]]は明らかに[CH[元]]であります [SRC[>>54]]。
[CH[天]]と解釈するとしたら、字形類似につき[CH[元]]に誤刻したと主張せざるを得ません。
第1字も不明とする読みもありますが、[[元号名]]として解釈不能であるためであり、
[[字形]]は容易に判読できます。

[75] 第1字の[CH[元]]と第3字の[CH[元]]とは、接触が微妙に異なるものの、
同一の文字を意図したと考えてまず間違いないと見えます。 [SRC[>>54]]

[69] 
第2字は、多くが判読不能としています。
[CH[正]]と解釈する説と[CH[亨]]と解釈する説があります。
銘文解読上[CH[正]]は少数説ですが、
実際には[CH[正]]と読めるが[[元号名]]として解釈できないので判読不能とした、
と注釈している実見者も多いです。

[70] 
拓本によれば、確かに[CH[正]]の[[楷書]]字形に近いものの、若干の不安も残ります [SRC[>>54]]。
あるいは実見すればまた感触も違ってきそうにも思われます。[[字形]]がどうにも掴みどころのない、
不明瞭というか[[漢字]]として形をなしていないような、説明しがたい違和感があります。
[CH[亨]]と読むのは無理で、[CH[亨]]と推定されるのは年代比定説に基づきます。

[71] 
[[十干]]は、多くが判読不能としています。
多数説は[CH[辛]]で少数説は[CH[癸]]です。
拓本によれば、不明瞭な縦横の字画が集まっており、[[十干]]の中で敢えていうなら
[CH[辛]]に最も近いものの、[[十干]]でなければまず[CH[辛]]とは読めない、
かといって他の何の文字とも断定しがたい形状です [SRC[>>54]]。
[CH[癸]]と読むのは更に難しいですが、これを[CH[辛]]と読む可能性があるなら、
同じくらい[CH[癸]]と読む可能性を認めても良い、とは思えます。
だとしたら[[十干]]の他の文字と読む可能性も捨てきれないとも思えます。

[73] 
[[干支]]を[CH[刁]]の1字と読む説がありますが、根拠は不明です。
拓本をどう見ても、そうは読めません [SRC[>>54]]。

** 諸説

[76] 
[[元号名]]は素朴には[[元正]]と読めると[[大正時代]]以来大方の見解が一致しています。

[77] 
ところが[[日本の公年号]]に[[元正]]が無いため、
[[十二支年]]などから[[元亨]]説と[[天正]]説があります。
一応[[元亨]]が通説となっているものの、第2字を[CH[亨]]と読むことに無理があります。
[[天正]]は第1字を[CH[元]]と読むことに無理があり、
[[媒体]]の時代感ともややずれがあります。

[79] 
[[媒体]]の様式による年代の絞り込みについては、各論者とも意識をしているものの、
本格的な研究には至っていないようです。

[78] 
[[銘文]]にある[[藤原友国]]は、他にもいくつか各地に用例が見られるようで、
ちょうど[[南北朝時代]]の者もいたようですが、同一人物かどうかは慎重な検討を要します。

[80] 
[[銘文]]内容や関係寺社の歴史・地域史も勘案した検討は、
これまで本格的には行われてきていないようです。

[81] 
[[銘文]]の[[文字]]のみからの検討には限界があり、それら諸方面からの議論の進展が今後期待されるところです。


** 研究史

[28] 
[TIME[大正2(1913)年][1913]]の論文は、
>>10
を紹介し、元□元年と読み、

- [30] [[元号]]をそのままみれば[[元正]]と読むべきだが、
- [32] [[日本]]には[[元正]]の[[元号]]がなく、
- [33] [[十干]]は[CH[辛]]に近く、[CH[癸]]とも解せるが、
- [38] [[日本]]の[[元号]]で第1字が[CH[元]]のものが15個、
-- [39] うち[[元年]]の[[十干]]が[[辛]]か[[癸]]で[[十二支]]が[[酉]]のものは、
元亨元年辛酉のみ
-[40] [CH[亨]]の略体と[CH[辛]]ではないだろうか
- [41] 様式はこの時代に近い
- [42] 同地域に鎌末足利初の[[金石]]が多い
- [43] この寺に対する寄進、帰依者も多かった

と推測しています。 [SRC[>>27]]

[52] 
[TIME[大正10(1921)年][1921]]の[CITE[大日本金石史]]は、
>>10
を紹介し、
元[亨]元年辛酉と読んでいます。
[[元号]]と[[干支]]は磨滅に近く断定できないとしながら、
>>28 が元亨元年辛酉とする説を紹介しています。
[SRC[>>49]]

[25] 
[TIME[大正12(1923)年][1923]]の史料集は、
>>10
を紹介し、
元亨元年と読んでいます。
[SRC[>>22]]

[48] 
[TIME[昭和16(1941)年][1941]]の史料集は、
>>10
を紹介し、
元□元年[辛]酉と読みつつ、
天正元年癸酉説の存在も紹介するものの、
[CH[元]]であること明らかだとし、
「[V[暫く]]」[[元亨]]として元亨元年の部に収録しています。
[SRC[>>44]]

[19] 
[TIME[昭和18(1943)年][1943]]の史料集は、
>>10
を紹介し、
元□元年□酉と読みつつ、
[[元亨]]と推定しています。
[SRC[>>17]]

[16] 
[TIME[昭和32(1957)年][1957]]の史料集は、
>>10
を紹介し、
元□元年辛酉と読みつつ、
[[元亨]]説を提示しています。
[SRC[>>13]]

[21] 
[TIME[昭和39(1964)年][1964]]の書籍は、
>>10
を紹介し、
「少し難解」ながら[TIME[元亨元(1321)年][1321]]と読まれる、
としています。
[SRC[>>20]]

[56] 
[TIME[昭和53(1978)年][1978]]の史料集は、
>>10
を紹介し、
□□元年□酉と読みつつ、

- [58] [[元号]]と[[干支]]の書体が不鮮明で確認できないなどから年代決定ができない
- [57] 素直に見ると「元正元年に見える」
- [63] 銘文に似た字体の元号で元年酉は[[天正]]しかないが、
-- [64] 7月28日[[改元日]]で[[遡及年号]]となってしまい認め難い
- [59] おおむね元亨元年辛酉説が踏襲されてきた
- [60] 様式は[[鎌倉時代]]の特徴があり元亨元年説を首肯するべき面もあるが、
- [61] [[室町時代]]以降流行した特徴もあり、
- [62] [[鰐口]]の[[形式編年]]は未だ不備な状況で今後の検討をまちたい


[12] 
[TIME[昭和54(1979)年][1979]]の史料集は、
>>10
を紹介し、
元正元年寅と読みつつ、
[[南北朝時代]]の[[藤原友国]]の作であり、
[[南北朝時代]]の様式だとしています。
[SRC[>>6]]

[67] 
[TIME[平成11(1999)年][1999]]の地域史は、
>>10
を紹介し、
元□元年辛酉と読みつつ、
天正元年癸酉説も紹介しつつ、
「[V[しばらく]]」
[TIME[元亨元(1321)年][1321]]に比定しています。
[SRC[>>65]]


[REFS[

- [27] 
[CITE@ja-JP[考古学雑誌 4(3)]], [[日本考古学会]], [TIME[1913-11]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-04T06:58:58.468Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3548185/1/24?keyword=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8F%8B%E5%9B%BD> (要登録)
- [49] 
[CITE@ja-JP[[[大日本金石史]] 第2巻]], [[木崎愛吉]], [TIME[大正10][1921]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-04T07:16:15.187Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/960209/1/151?keyword=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8F%8B%E5%9B%BD>
- [22] 
[CITE@ja-JP[金皷と鰐口]], [[香取秀真]], [TIME[大正12][1923]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-04T06:55:58.046Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/971698/1/66?keyword=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8F%8B%E5%9B%BD>
- [44] 
[CITE@ja-JP[京都古銘聚記]], [[川勝政太郎, 佐々木利三 共著]], [TIME[昭和16][1941]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-04T07:09:54.433Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1042167/1/69?keyword=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8F%8B%E5%9B%BD> (要登録)
- [17] 
[CITE@ja-JP[当尾と柳生の寺々 : 浄瑠璃寺・岩船寺・円成寺 其他]], [[黒田曻義]], [TIME[昭和18][1943]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-04T06:51:15.636Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1034372/1/19?keyword=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8F%8B%E5%9B%BD>
- [13] 
[CITE@ja-JP[浄瑠璃寺]], [[小林剛, 森蘊 共編]], [TIME[1957]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-04T06:43:58.621Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2483136/1/79?keyword=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8F%8B%E5%9B%BD> (要登録)
- [20] 
[CITE@ja-JP[南山城]], [[近畿日本鉄道株式会社近畿文化会]], [TIME[1964 3版][1964]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-04T06:54:04.731Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3009027/1/25?keyword=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8F%8B%E5%9B%BD> (要登録)
- [53] 
[CITE@ja-JP[大和古寺大観 第7巻 (海住山寺・岩船寺・浄瑠璃寺)]], [[岩波書店]], [TIME[1978.8][1978]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-04T07:35:14.697Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12634918/1/339?keyword=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8F%8B%E5%9B%BD> (要登録)
- [6] 
[CITE@ja-JP[京都の美術工芸 南山城編]], [[京都府文化財保護基金]], [TIME[1979.4][1979]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-04T06:39:18.253Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12710481/1/94?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3> (要登録)
- [65] 
[CITE@ja-JP[加茂町史 第5巻(資料編 2)]], [[加茂町史編さん委員会]], [TIME[1999.3][1999]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-05T08:29:25.567Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13164346/1/87?keyword=%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%8F%8B%E5%9B%BD> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[82] 
[[令和時代]]に至るまで、[[元号研究]]の文脈で紹介した事例は見当たりません。

* 元正2年戊午

[111] 
写本(?)に1例見えます。

** 用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [93] [DAA(.label)[[[曼殊院]]所蔵 [CITE[良恕聞書]]]],
[DATA(.author)[[[良恕法親王]]]]
-- [94] 
「[DATA(.text)[[V[于時元正二年[LINES(smaller)[戊][午]]三月十八日]]]]」
[SRC[>>92]]

]ITEMS]

[95] >>92 は[[明朝体]]の[[翻刻]]ですが、[[昭和時代]]後期の学術的な出版であり、
十分な確認を経て発行された[[誤植]]ではない用例だと信じたいところです。

[104] 
どこからどこまでがひとまとまりの文章なのかわかりにくいのですが、
[CITE[卅三所観音記]]
と題して三十三所観音と[[花山院]]の関係を記載した縁起文の末尾に
「花山院入覺」
の署名があり、その日付が元正2年戊午、
という[[文書]]のように見えます。

;; 
[105] 
[[花山院]]のご発心が云々という文書を[[花山院]]が発給するものなのかよくわかりませんが...



[REFS[

- [92] 
[CITE@ja-JP[良恕聞書 : 曼殊院蔵 下]], [[良恕法親王 '''['''記''']''']], [TIME[1984.4.][1984-04]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-05T09:31:00.738Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12454477/1/14?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3> (要登録)

]REFS]

** 諸説

[96] 
>>94 の前の行には「[V[花山院入覺]]」とあります。しかし[[花山天皇]]の生きた時代に[[戊午]]年はなく、
他の[[午]]年も関係ありそうな[[年]]はありません。

[97] 
[[花山院]]と[[良恕法親王]]の間の[[公年号]]の[[戊午]]年で2年のものは、

- [98] [TIME[天徳2(958)年][958]]
- [99] [TIME[寛仁2(1018)年][1018]]
- [100] [TIME[承暦2(1078)年][1078]]
- [101] [TIME[正嘉2(1258)年][1258]]
- [102] [TIME[文保2(1318)年][1318]]

で、どれも関係ありそうには見えません。

[103] 
[TIME[天正2(1574)年甲戌][1574]]は[[字形]]と時代が近いですが、
[[干支]]はまったく異なります。

[107] 
[[花山院]]と[[三十三所観音]]を絡めた伝承は各地に残りますが、
当用例に近いものは未発見です。

[108] 
>>106 は[[花山院]]と[[三十三所観音]]を結び付けた伝承ですが、
「寛和二年丙酉三月十七日」 / 「寛和二歳丙戌三月十七日」
という日付が登場し、[[元号名]]と[[干支]]は違いますが、2年3月17日で1日違いです。
([TIME[寛和2(986)年丙戌][986]]で[CH[戊]]と近い。)


[110] 
>>109 は[CITE[源平盛衰記]]を出典としていますが、
[TIME[永延2(988)年戊子][988]]に[[花山院]]と[[安倍晴明]]を邂逅させています。
[[元号名]]と[[十二支]]は違いますが、「2年戊」は一致しています。


[124] 
[[花山院]]関連の伝承の収集などを通した諸説の発展と「元正」の出現過程の解明が望まれるところです。

[125] 
現在知り得る限定的な情報から安易に断定することは憚られますが、
[[偽文書元号]]の可能性が否定しきれないとはいえるでしょう。


[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[106] 
[CITE@ja[秋田六郡三十三観音巡礼記]], [TIME[2022-01-22T05:06:43.000Z]], [TIME[2026-06-05T10:13:52.670Z]] <https://ayiva.sakura.ne.jp/text/folk/akita-rokugun33.html>
]FIGCAPTION]

>     西国巡禮記 
>
抑も順礼の由来を尋るに、爰に人皇六十五代の帝花山院御位を遁れさせ給ひ、御髪をおろして入覚法皇と申奉り、熊野権現の御夢の御告有りて、寛和二年丙酉三月十七日より那智山を打始め、六月一日に美濃国谷汲寺にて打納め給ふとかや(寛和二年より享保十四年まで七百四拾七年になる)。 

>     『秋田六郡三十三観音巡禮記 
>
抑順礼の由来を尋ねるに、人皇六十五代の帝をは花山院と申奉る。御即位の年故有て御位を遁れさせ給ふ。剰御装りをも落させましまして入覚法皇とならせ給ふ。或時熊野権現御夢の告をなし給ふによりて、寛和二歳丙戌三月十七日より、那智山を御札初として御巡国ましましけり。六月朔日美濃国谷汲寺 [p.3] にて御打納め給ふとかや。是より代々の貴賎都鄙遠国に至るまで年毎に怠轉なく心を運ふ事、誠に大慈の誓尽せぬ印ならんかし。 
]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[109] 
[CITE@ja[那智山と陰陽師安倍晴明の関わり - 株式会社クレアネット 和歌山県那智勝浦オフィス]], [[admin]], [TIME[2026-06-05T10:19:06.000Z]] <https://www.clarenet-nachikatsuura.com/2025/05/12/%E9%82%A3%E6%99%BA%E5%B1%B1%E3%81%A8%E9%99%B0%E9%99%BD%E5%B8%AB%E5%AE%89%E5%80%8D%E6%99%B4%E6%98%8E%E3%81%AE%E9%96%A2%E3%82%8F%E3%82%8A/>
]FIGCAPTION]

>平安中期の寛和2年(986)、第65代天皇として在位僅か2年で退位された花山天皇は、出家されたのち永延2年 (988) 那智の滝の上流にある二の滝近くに庵を結び千日修行をされました。
その修行中、天狗をはじめ多くの悪霊の妨害に遭われたため、京より陰陽師「安倍晴明」を召されたそうで、そこに駆けつけた晴明は、「多数の魔類を岩屋に祀って諭し、その後魔類は怠慢な行者を叱咤する存在に変わった」との逸話が14世紀に成立した 「源平盛衰記』 に収められています。

(現地案内看板の写真中にも同内容)

]FIG]

]REFS]

** 研究史

[123] 
[[令和時代]]に至るまで、本格的に研究された事例は見当たりません。


* 関連

[SEE[ [[元正天皇]] ]]

[112] [CITE@ja-JP[水聲 (44);8月號]], [[琵琶新聞社水聲発行部]], [TIME[1928-08]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-06-05T10:28:07.475Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/11207378/1/21?keyword=%E5%85%83%E6%AD%A3%E4%BA%8C%E5%B9%B4> (要登録)

[113] >>112 元正二年。直前に[[正嘉]]があり、[[正元]]の誤植と思われる。



* メモ