*  元徳


[68] 
[CITE@ja-JP[栗原郡の板碑]], [[栗原郡郷土史研究会]], [TIME[1982.12][1982]], [TIME[2025-07-29T01:46:14.000Z]], [TIME[2025-07-30T09:33:44.695Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12221636/1/14?keyword=%E5%85%83%E5%BE%B3> (要登録)

元徳六年 [[延長年号]]

[70] 
[CITE@ja-JP[習志野市史 第1巻 (通史編)]], [[習志野市教育委員会]], [TIME[1995.3][1995]], [TIME[2025-10-29T01:48:45.000Z]], [TIME[2025-11-28T09:13:58.858Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9644794/1/161?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)

元徳5年

[69] [CITE@ja-JP[甲斐国の板碑 1 (郡内地方の基礎調査)]], [[持田友宏]], [TIME[1988.11][1988]], [TIME[2025-10-29T01:48:45.000Z]], [TIME[2025-11-28T09:09:12.151Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13199069/1/23?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)

元徳4年、[CH[元]]は不明瞭で[[私年号]]の可能性もあるが[CH[元]]としておく

* 元真


- [44] [[私年号]]説
-- [[寺島祐]] S35 >>3
-- [[久保常晴]] S42 >>2
-- [[石村喜英]] S58 >>251
- [45] [[元徳]]に比定する説
-- [[千々石実]] S43 >>32
-- [47] [[元悳]] (= [[元徳]]) 説
--- [[中英夫]] S41 >>19
--- [CITE[板碑]] S56 >>36
--- [CITE[嵐山町の板石塔婆]] H2 >>42
-- [64] [[元悳]] (= [[元徳]]), [[元真]]の可能性を孕みつつも, 説
--- [[伊藤宏之]] H13 >>49 
-- [48] [[私年号]]とし、あるいは[[元徳]]かとする説
--- [[千々和到]] S58 >>12, >>43
--- [CITE[ウィキペディア]] 平成 >>10



[1] [CITE@ja-JP[集古 戊寅(3)]], [[集古会]], [TIME[1938-05]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-28T12:57:49.966Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1890795/1/11> (要登録)

異年号 元眞元年五月日


-[31] 
[CITE@ja-JP[武蔵国板碑集録 : 板碑発生最密集地域精査 第2 (旧比企郡)]], [[千々和実]], [TIME[1968]], [TIME[2025-04-22T02:57:30.000Z]], [TIME[2025-05-10T09:12:35.592Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2998370/1/147?keyword=%E4%B9%9D%E6%9C%88%E5%BB%BF%E4%B8%89%E6%97%A5> (要登録)


[32] 
>>31 は[V[元]]と[V[元年]]の間になんとも言い難い字形らしきものを書き、
その右側に[V[([YOKO[徳?]])]]と注釈を入れています。
西暦年を[V[一三二九]]としています。

[33] 
>>15 は >>31 を引用して、[[千々和実]]は「元真」とみなしながらも
「真」に「徳?」と注釈して疑問を表していると紹介しています。

[34] 
しかし >>15 の表現から[CH[真]]と読むのは難しいように思われ、[[千々和実]]が[[元真]]と読んだかどうか
>>15 からは判断しかねます。


[2] 
[CITE[日本私年号の研究]]



[12] 
[[千々和到]]は[[元真]]は[[鎌倉時代]]の[[年号]]ではないかと考えている ([[南北朝時代]]ではない)
と述べています。
[SRC[>>11]] (根拠は記載なし。)

[43] 
[[千々和到]]の[[私年号]]の一覧表等には掲載しつつも、
備考欄であるいは[[元徳]]かと注釈しています。
[SEE[ [[日本私年号一覧表]] ]]

[REFS[

- [11] [CITE[[[中世東国の「私年号」]]]]

]REFS]

-
[250] [CITE@ja-JP[[[板碑の総合研究]] 1 (総論編)]], [[坂詰秀一]], [TIME[1983.2][1983]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-14T08:15:37.343Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12226011/1/155> (要登録)
--
[251] 
[CSECTION[[V[私年号板碑]]]],
[[[V[石村喜英]]]]


- [38] 
[CITE@ja-JP[板碑 : 埼玉県板石塔婆調査報告書 1]], [[埼玉県立歴史資料館 編集]], [TIME[1981.3][1981]], [TIME[2025-04-22T02:57:30.000Z]], [TIME[2025-05-10T09:38:35.609Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12286288/1/108?keyword=36-16> (要登録)
- [35] 
[CITE@ja-JP[板碑 : 埼玉県板石塔婆調査報告書 3]], [[埼玉県立歴史資料館 編集]], [TIME[1981.3][1981]], [TIME[2025-04-22T02:57:30.000Z]], [TIME[2025-05-10T09:26:06.770Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12221354/1/56> (要登録)

[36] >>35 は
「元悳元年九月廿三日」
とし、
[CH[悳]]は[CH[徳]]の[[古字]]と注釈し、
[TIME[西暦1329年][1329]]に比定しています。



[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,元真 	,- 	,14世紀半ば 	,不明 	,埼玉県小川町発見板碑。公年号「元徳」の異表記か。 




- [319] 
[CITE@ja[「[[私年号]]」の版間の差分 - Wikipedia]], [TIME[2024-07-24T01:25:17.000Z]], [TIME[2024-07-26T14:00:16.087Z]] <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7&diff=prev&oldid=12991145>
-- [320] 
[CSECTION[2007年6月7日 (木) 19:38時点における版]],
124.25.210.158
- [321] 
[CITE@ja[「[[私年号]]」の版間の差分 - Wikipedia]], [TIME[2024-07-24T01:25:17.000Z]], [TIME[2024-07-26T14:01:03.449Z]] <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7&diff=prev&oldid=21472516>
-- [322] 
[CSECTION[2008年8月27日 (水) 17:42時点における版]],
[[可怜]]


-*-*-

[3] [CITE@ja[杉山城址の碑が建てられる 1953年 - 嵐山石造物調査会]], [TIME[2022-12-28T13:03:49.000Z]] <https://blog.goo.ne.jp/sekizoubutu/e/a905ce494e8ebdd4e068b844304d523b>

>[B[杉山城址と特殊私年号青石塔婆に就いて 寺島祐]]
>[SNIP[]]
> [B[◇特殊私年号青石塔婆]]
> 僕が杉山城址を発見した日は詢に多幸な日で、ここに掲げる「特殊私年号青石塔婆」もその同じ道に発見したものであった。その場所は、武蔵嵐山駅から宝城寺への途中の県道の傍で、そこにあった個人墓地のような処にあった。
>[SNIP[]]
> 併し此日僕がそこに発見した梵字弥陀三尊に梵字光明真言を刻んだ青石塔婆は僕の記憶にない珍らしい年号が刻まれていた。それは
>  「元真元年九月廿三日」
>というもので、干子がないのが些か気になるが、その「元真」の年号は将に特殊な私年号であると観じたので、直ちに至近距離にあった曹洞宗の大谷山宝城寺の住職にその保管を依頼したものである。結局これは、それまで誰も気着かなかった新たな私年号の一つを、僕がこの日この所に新たに発見した訳で、それは小事ながら史学界に於ける一つの新発見といえよう。
>[SNIP[]]
>『関東史蹟会報』第195号 1960年(昭和35)9月11日


[4] [CITE[仏教考古学研究 - 石村喜英 - Google ブックス]], 
[TIME[1993]],
[TIME[2022-12-28T13:09:28.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=NbIwAAAAMAAJ&q=%22%E5%85%83%E7%9C%9F%22>

>373 ページ
>これらはカッコ内の公年号を誤って記したか、異字にそれほど違和感や正誤感をもたなかったための表記であったものと思われる。ゆえに、私年号からはここでは除外し、同音異字年号として扱っておく。また片仮名交り私文で表示した「永ワ」(永和)なども、 ...
>374 ページ
>... 鎌倉末期)、元真・至大・致得・永幻(以上南北朝)、徳昌・享正・延徳・福徳・徳応・弥勒・命禄(以上室町時代)の一例であるが、これらの板碑所在地をはじめ、これを公年号に比定すると、それぞれどの年代に該当するかを、以下簡明に明らかにしたい。
>375 ページ
>た(註 9 )が、埼玉県で調査の『板碑』でもこれを「元悳(徳)」とし( # 10 )て、同様の観点に立っている私年号板 埼玉鼻比企郡嵐山町志賀高崎武治氏 表示された(註)が、久保常晴氏はこれを「元真」と見做し、私年号として解明を加えている( # 12 )。
...
ところが千々和実氏坂は「元真元年九月廿三日」として、「元真」とはしながらも真字のかたわらに「徳?」とし、「元徳」への疑問を併せて銘文中、年号の二字目がやや不明確ながら、大沢氏はこれを「元悳(徳)元年」と見て、「元徳」の同音異字年号と ...
>379 ページ
>板 私年号板図 130 弥勒 2 年 9 月 され、しかも「如」件」の用例からみれば、恐らく康永(一二~一四)前後のものであろうと ... 熟知の一基であるが、あるいは一般的といえるかどうか、これを同音異字の「至徳元年甲子(三四)」とすることが行われている。




[18] [[昭和時代]]の[[日本国]][[埼玉県]][[浦和市]]の歴史研究者[[中英夫]]は、
[[埼玉県]]内に

- [17] (1) 元悳元年十月廿三日 (1329) 比企郡菅谷村志賀 宝城寺
- [120] (2) 元得三年四月日 (1331) 比企郡菅谷村平沢 平沢寺

があると紹介しました。いずれも実見しているようです。
[SRC[>>117]]

[19] [[延真]]の類例を挙げて、[[元徳]]のことだと判断しています。

[8] [[中英夫]]は後に[CITE[日本私年号の研究]]が >>17 を[[元真]]と判断したことを
「[V[参考までに[BR[]]申しあげておこう]]」
と注釈しています。
[SRC[>>7]]

;; [9] よくわからない表現ですが、納得しないものの反対するほどの材料も持ち合わせていないというところでしょうか。


[REFS[

- [116] [CITE[埼玉史談]] 13(2), [TIME[昭和41(1966)年7月][1966-07]]
-- [117] [CITE[[[[V[県内における私年号板碑]]]]]],
[[[V[中英夫]]]],
pp.[V[二四]]-[V[二六]]
- [5] [CITE[埼玉史談]] 17(4), [TIME[昭和46(1971)年1月][1971-01]]
-- [7] [CITE[[V[「永章」の私年号板碑について]]]],
[[[V[中英夫]]]],
p.[V[四三]]
- [16] [CITE@ja-JP[板碑入門]], [[小沢国平]], [TIME[1967]], [TIME[2024-01-04T08:37:58.000Z]], [TIME[2024-01-04T09:01:51.935Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2980023/1/78> (要登録)

]REFS]


[6] [CITE@ja-JP[川口市史 古代・中世資料編]], [[川口市]], [TIME[1978.12][1978]], [TIME[2024-01-04T10:11:04.000Z]], [TIME[2024-01-04T13:15:16.463Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9641575/1/242> (要登録)
左下

[[延長年号]]


[13] [CITE@ja[神奈川大学 学術機関リポジトリ]], [TIME[2024-02-17T14:57:07.000Z]] <https://kanagawa-u.repo.nii.ac.jp/records/14171>
#page=64

[[延長年号]]





-*-*-


[14] 
>>46 は元得3年4月日板碑を >>117 を出典に掲載しています。
「[V[[SNIP[]]中秀夫氏は元徳[ASIS[[YOKO[?]]か]]としている。]]」
と説明しています。

[REFS[

- [46] [CITE[[V[私年号板碑仮年表]]]],
[[[V[中山正義]]]]

]REFS]


-*-*-



[ITEMS[ [[日時事例]]

- [22] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[東京都]][[台東区]][[今戸]]二丁目]] [[蓮窓寺]] [[板碑]]]]
-- [26] 
「[DATA(.text)[[V[元真元年七月日]]]]」
[SRC[>>15]]
-- [23] >>15 : 白黒写真 (銘文判読不可)
-- [24] >>15 : 拓影 (銘文判読ぎりぎり可能)
-- [40] >>15 : 紀年部分拡大拓影 (判読できるがやや不鮮明)
-- [25] [[日本国]][[埼玉県]][[東松山市]]の寺院から「最近」 (平成13年時点) 移設 [SRC[>>15]]
- [27] 
[DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[埼玉県]][[比企郡]][[嵐山町]][[志賀]]]] [[板碑]]]]
--
[28] 
「[DATA(.text)[[V[元真元年九月廿三日]]]]」
[SRC[>>15]]
--- [37] 「[DATA(.text)[[V[元悳元年九月廿三日]]]]」 [SRC[>>35]]
-- [39] >>38 : 拓影 (銘文判読可能)
-- [30] >>15 : 拓影 (銘文判読ぎりぎり可能)
-- [41] >>15 : 紀年部分拡大拓影 (判読可能)
--
[29] 
元は附近の所蔵家墓地に所在していたが、盗難防止のため同家敷地内に移動しコンクリートで固定されている。
[SRC[>>15]]


]ITEMS]



[21] 
[TIME[平成12(2000)年][2000]]春、
[[伊藤宏之]]は未報告の[[板碑]]で[[元真]]銘を確認しました。
[TIME[平成13(2001)年][2001]]の[[論文]]で報告しました。
[SRC[>>15]]

[49] 
[[伊藤宏之]]は2つの[[板碑]]の第2字を比較し、これを[CH[悳]]と結論付けました。
[SRC[>>15]]

- [50] 2つの[[板碑]]の第2字はよく似ている
-- [51] A : ともに[CH[亠]]。
-- [52] B : [CH[日]] ([CH[目]]ではない) の下に[CH[一]]。
-- [54] C : 左下。嵐山町板碑では左上から右下へ。
蓮窓寺板碑では点を打つ様に刻まれる。
-- [55] D : 右下。点を打った後右に曲げられている。
嵐山町板碑では[CH[乙]]状。
蓮窓寺板碑では[CH[L]]状、点を打った後右へ移動し、更に左下で次の[CH[元]]へ続くように流れる。
- [56] [CH[悳]]ならば C, D は[CH[心]]でなければないが、
[CH[心]]でない、このため[CH[悳]]説を認めない見解がある
- [57] 両板碑をよく観察すると、 C, D は明らかに文字の一部として刻まれており、
傷や剥落であない
- [58] [CH[真]]の[[草書体]]なら C, D は[CH[ハ]]や[CH[い]]のようになり、
特に D は[CH[L]]や[CH[乙]]のようにはならない
- [59] [CH[心]]の[[草書体]]は[CH[ル]]のようになることがある
- [61] 多くの共通点を持つから、同一人物もしくは同系列の書体を書く2人の文字をもとに別個の石工により刻まれた可能性がある
- [63] 
元徳元年7月日は[[遡及年号]]、
元徳元年9月23日は[[改元]]1ヶ月以内であるが、
造立日を表すとは限らず、刻まれたのが改元後で新年号を使用したに過ぎない可能性があるから、
不審とはいえない
- [65] 
なぜ2基だけ[CH[悳]]が使われたのかは課題として残る
- [66] 
嵐山町と東松山市は10kmも離れていない。
同系列の書体の板碑があるということは、
嵐山町南部から東松山市西部一帯に所在する中世寺院、おそらくは同一僧の関与の可能性
- [67] 
[[板碑]]形態からの分析も必要


;; [62] 
字形の分析は妥当に感じられますが、 >>61 についてはどうでしょうね。第2字については確かに似ているように感じますが、
[CH[元]]や[CH[年]]は違いが大きいです。同一人物でもこの程度の字形の揺れはあるでしょうが、
第2字が似ているだけに違いが際立ちます。これだけを材料に同一の系列か否かを判断するのは難しいと思われます。

[REFS[

- [20] 
[CITE[鴨台史学]] (2),
[[大正大学史学会]],
[TIME[2001-03]]
-- [15] 
[DFN[[CITE[[V[台東区蓮窓寺所在の板碑[BR[]]―私年号「元真」再考―]]]]]],
[[[V[伊藤宏之]]]],
pp.[L[53]]-[L[60]]
--- [42] 
引用:
[CITE[嵐山町の板石塔婆]],
[TIME[1990]],
p.33

]REFS]




* メモ