* 享正 (日本の私年号)

[13] [CITE@ja-JP[板碑概説]], [[服部清五郎]], [TIME[1933]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-29T08:22:31.359Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1918330/1/389> (要登録)

享正[LINES[二][二]]年4月13日 板碑

室町後期 私年号

[8] [CITE@ja-JP[埼玉県史 第四巻]], [[埼玉県]], [TIME[昭和9][1934]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-24T07:02:13.798Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3439275/1/309> (要登録)

入間郡大家村 塔婆 享正4年4月13日 私年号 後北条氏の頃

[50] 
[CITE@ja-JP[日本歴史大辞典 第6巻 (きなーくよ)]], [[河出書房]], [TIME[1957]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-20T14:19:08.285Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2998373/1/49> (要登録)

[12] [CITE@ja-JP[仏教考古学講座 第五卷]], [[雄山閣]], [TIME[1936-1937][1937]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-29T08:08:03.381Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1914064/1/82> (要登録)

享正4年4月13日 私年号 室町時代

[14] [CITE@ja-JP[坂戸市史 中世史料編 2]], [[坂戸市教育委員会]], [TIME[1980.4][1980]], [TIME[2023-01-06T06:14:39.000Z]], [TIME[2023-01-08T03:51:33.049Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9642035/1/107> (要登録)
/241 /242

/32 /107 /250 /271

享正4年4月13日 私年号 1457か

様式および比企郡玉川村一ト市の享正3年丙子4月24日板碑の干支による

[11] [CITE@ja[実物資料(1)館有資料 - 埼玉県立嵐山史跡の博物館]], [[埼玉県教育局]], [TIME[2022-12-26T12:33:49.000Z]] <https://ranzan-shiseki.spec.ed.jp/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%83%BB%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E8%B3%87%E6%96%99%E7%B4%B9%E4%BB%8B/%E5%AE%9F%E7%89%A9%E8%B3%87%E6%96%99-1-%E9%A4%A8%E6%9C%89%E8%B3%87%E6%96%99>

>
,SHI1978-044-25	,享正四年銘阿弥陀一尊種子板碑	,旧大徳家所蔵板石塔婆	,享正4年(私年号)・(1457)・室町時代	, 	,大徳家	,《注2》26-94-25



[9] 
[CITE[日本私年号の研究]]


[23] 
[[千々和到]]は、[[公年号]]の[[享徳]]の1字置き換えと考えました。
[SRC[>>22]]
[SEE[ [[中世私年号]] ]]

[67] 
[[千々和到]]は[[康正]]の[[音通]]ともしています。
[SEE[ [[日本私年号一覧表]] ]]

[REFS[

- [22] [CITE[[[中世東国の「私年号」]]]]

]REFS]


[68] 
[CITE@ja-JP[日本歴史大辞典 第3巻 (かたーき)]], [[日本歴史大辞典編集委員会]], [TIME[1985.3][1985]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-18T15:34:32.888Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12196002/1/296?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)


[1] [CITE@ja[ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム]], [TIME[2021-01-28T09:01:15.000Z]] <https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1144205100/1144205100100010/ht200510>

> 宮代町付近では、下総の古河に移動し、幕府に敵対した足利成氏が使用した「享正」「延徳」の私年号をみることができる。

[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,享正 	,- 	,康正元年(1455年) 	,不明 	,埼玉県ときがわ町発見板碑、『旧案主家文書』(『香取文書』)など 


-[2] [CITE@ja[太田資正と中世太田領の研究(資正研)さんはTwitterを使っています 「古河公方は「享徳」を使い続けたことで有名ですが、金石文については私年号「寛正」等を使わせた? と読める記述に出会いました。 https://t.co/Gkzstvtv51 情報量が足りない。 久保常晴(1967)『日本私年号の研究』か? これを読めばいいのか?! https://t.co/YT86gxJKPd」 / Twitter]], 午後6:36 · 2020年8月2日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-01-28T08:47:30.000Z]] <https://twitter.com/medieval_oota/status/1289857528369541120>
-- [3] [CITE@ja[太田資正と中世太田領の研究(資正研)さんはTwitterを使っています 「すみません。 寛正でなく、享正でした!」 / Twitter]], 午後6:59 · 2020年8月2日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-01-28T08:47:30.000Z]] <https://twitter.com/medieval_oota/status/1289863369709588480>
- [4] [CITE@ja[太田資正と中世太田領の研究(資正研)さんはTwitterを使っています 「肝心の古河市域には、私年号「享正」を用いた板碑は確認されず。 “ところが、古河の板碑を調査してみると、長禄年板碑、寛正四年板碑、応仁二年板碑、文明二年板碑など、古河公方足利氏が使用を拒んだはずの年紀銘をもっとものがみられ、注目される” 古河市史資料中世編 757頁」 / Twitter]], 午前8:16 · 2020年8月3日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-01-28T06:55:24.000Z]] <https://twitter.com/medieval_oota/status/1290063877208588289>
-- [5] [CITE@ja[太田資正と中世太田領の研究(資正研)さんはTwitterを使っています 「宮代町史通史編には、 “宮代町付近では、下総の古河に移動し、幕府に敵対した足利成氏が使用した「享正」「延徳」の私年号をみることができる。” とあるけれど、古河公方の本拠古河ではこれがみられない。 なんとも不思議。」 / Twitter]], 午前8:19 · 2020年8月3日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-01-28T06:55:24.000Z]] <https://twitter.com/medieval_oota/status/1290064657445564416>
-- [7] [CITE@ja[東行斎さんはTwitterを使っています 「@medieval_oota 二つ考えられます。一つは、成氏自身の独断専行で、成氏のみ私年号を用いていて、その他は公用年号を用いていたのか、二つめは、この板碑は元々古河にあったのではなく、別のところから移動して、古河にあり、私年号の板碑は埋没してしまい、災害等で失われて存在しないのかが考えられます。」 / Twitter]], 午前9:23 · 2020年8月3日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-01-28T09:02:16.000Z]] <https://twitter.com/5X4nBy3lIDmBLSZ/status/1290080775828672519>
- [6] [CITE@ja[太田資正と中世太田領の研究(資正研)さんはTwitterを使っています 「久保常晴『日本私年号の研究』が少し残念なのは、私年号「享正」「延徳」について、板碑の調査がないこと。 宮代町の私年号「享正」「延徳」を銘した板碑の情報は得られません。 そこは残念。」 / Twitter]], 午後1:13 · 2020年8月4日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-01-28T06:55:33.000Z]] <https://twitter.com/medieval_oota/status/1290501035954298881>


[44] 
[CITE@ja[テキスト / コラム 板碑に刻まれた私年号]], [TIME[2024-01-20T13:42:03.000Z]] <https://adeac.jp/miyashiro-lib/text-list/d100010/ht200510>

>宮代町における私年号は、西光院にある板碑に刻まれた「福徳元年□月三日」銘である。
[SNIP[]]
> 宮代町付近では、下総の古河に移動し、幕府に敵対した足利成氏が使用した「享正」「延徳」の私年号をみることができる。

[45] [[宮代町]]に「享正」板碑があるとは書かれていないが、「付近」とは?
比企郡玉川町と入間郡坂戸町と川越市は同じ県内だが (この3箇所は近い)、「付近」かなあ?
それ以外にも発見例があるのだろうか?


[15] [CITE@ja-JP[川越市史 第2巻 別巻 (中世編 板碑)]], [[川越市'''['''総務部''']'''庶務課市史編纂室]], [TIME[1985.3][1985]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-21T09:52:07.584Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9643550/1/60> (要登録)
/61
/235

[18] [[昭和時代]]の[[日本国]][[埼玉県]][[浦和市]]の歴史研究者[[中英夫]]は、
[[埼玉県]]内に

- [136](14) 享正三丙子四月廿四日 比企郡玉川町一ト市 高山氏墓地
- [137](15) 享正四年四月十三日 入間郡坂戸町大家 大戸氏 未調査

があると紹介しました。 >>136 は実見しているようです。
[SRC[>>117]]

- [141] (14) (15) 従来 (15) しかなく板碑形態から室町後期といわれていた。
- [17] [[中英夫]]が「[V[数年前]]」に[[比企郡]][[菅谷村]]の[[郷土史家]]の[[大沢喜一]]に教えられて調査して
(14) に[[干支年]]を発見。
- [19] [[室町時代]]のうち、応永3年[[板碑]]とは思われず、
康正2年、永正13年、天正4年。形態からいずれでもよさそう。
- [20] 断定できないが[[中英夫]]の推測では康正。
(14) と同時に発掘された板碑に時代が近い宝徳、寛正などがあること、
「享」と読めば[[音通]]。

と判断しています。 [SRC[>>117]]

[21] 
後に[CITE[日本私年号の研究]]も[[享正]]が[[康正]]だと判断し、
[[中英夫]]もそれを紹介しています [SRC[>>3]]。
[[久保常晴]]は[[中英夫]]の報告 [SRC[>>117]] をみていなかったようで
[WEAK[([CITE[日本私年号の研究]]には[[永章]]がありません。)]]、
独立の判断と考えられます。


[30] 
[[香取文書]]に「きう正三年丁丑」があります。[[康正]]3年丁丑とされます。
[SEE[ [[きう正]] ]]


[REFS[

- [116] [CITE[埼玉史談]] 13(2), [TIME[昭和41(1966)年7月][1966-07]]
-- [117] [CITE[[[[V[県内における私年号板碑]]]]]],
[[[V[中英夫]]]],
pp.[V[二四]]-[V[二六]]
- [2] [CITE[埼玉史談]] 17(4), [TIME[昭和46(1971)年1月][1971-01]]
-- [3] [CITE[[V[「永章」の私年号板碑について]]]],
[[[V[中英夫]]]],
p.[V[四三]]
- [16] [CITE@ja-JP[板碑入門]], [[小沢国平]], [TIME[1967]], [TIME[2024-01-04T08:37:58.000Z]], [TIME[2024-01-04T09:01:51.935Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2980023/1/78> (要登録)

]REFS]








[24] 
[[日本国]][[埼玉県]][[比企郡]][[玉川村]]
[[板碑]]
享正三年[LINES(smaller)[丙][子]]四月廿七日
[SRC[>>289 [V[[YOKO[4]]]]]]

[25] [[玉川村]]の近くには、
[[足利成氏]]方の勢力があったり、
[[享徳]]の[[延長年号]]の用例が見つかったりしています。
[SRC[>>289]]


[26] 
[[日本国]][[埼玉県]][[坂戸市]]
[[板碑]]
享正[LINES(smaller)[二][二]]年四月十三日
[SRC[>>289 [V[[YOKO[5]]]]]]

[27] 
[[坂戸市]]は[[足利成氏]]の古戦場に近かったり、
[[足利成氏]]方の勢力範囲に近かったりします。
[SRC[>>289]]

[28] 
[[浅沼徳久]]はこれら (>>25 >>27) を[[足利成氏]]と[[享正]]との関係性を表すものと理解しました。
[SEE[ [[中世私年号]] ]]

[REFS[

- [286] [CITE[[[日本の石仏]] 4号]],
[TIME[1977-12]]
-- [287] 
[CSECTION[小特集 中世板碑]]
--- [289] 
[CITE[[[[V[中世私年号と板碑[WEAK(smaller)[―私年号伝播者および足利成氏との関係を中心に―]]]]]]]],
[[[V[浅沼徳久]]]],
pp.[L[17]]-[L[23]]


]REFS]


[49] [CITE@ja-JP[武蔵国板碑集録 : 板碑発生最密集地域精査 第2 (旧比企郡)]], [[千々和実]], [TIME[1968]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-20T14:15:50.330Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2998370/1/98> (要登録)



[29] 
>>390 p.[L[28]]

埼玉県ときがわ町玉川 個人蔵 板碑
享正三年[LINES(smaller)[丙][子]]四月廿四日

カラー写真

埼玉県坂戸市森戸旧在 板碑 ([[埼玉県立嵐山史跡の博物館]]所蔵)
享正[LINES(smaller)[二][二]]年四月十三日

旧案主家文書「きょうせん二年」の「ん」を「い」の誤記とする説もあるが当否は判断できない。
[SEE[ [[きやうせん]] ]]

干支から康正2(1456)年。
公年号の1文字違い。
板碑様式15世紀中頃で問題なし。


[REFS[

- [390] [CITE[[[中世東国と年号]]]]

]REFS]


[ITEMS[ [[日時事例]]

- [31] 
[DATA(.label)[[[香取社新福寺文書]] [CITE[多田延家寄進状写]]]]
-- [32] 
「[DATA(.text)[[V[[DEL[享]] 康正三年[SUP(smaller)[丁]][SUB(smaller)[丑]]九月廿一日]]]]」
([[草書]])
[SRC[>>148]]
--- [33] 「康正」の上に「享」と書いて打ち消している。
--- [34] >>148 に
[[色川三中]]の影写 ([[静嘉堂文庫]]所蔵) の写真あり。
--- [36] >>35 に[[明治時代]]の[[翻刻]]があるが、「享」については記載なし。

]ITEMS]


[37] 
[[平成時代]]の歴史研究者[[山田邦明]]は、
[[香取]]地域の政治情勢と結びつけ ([SEE[ [[関東の延長年号]] ]])、
近隣の[[古河公方]][[足利成氏]]方では[[享徳]]を使っていたために、
つい「享」と書いたものの、[[上杉]]方の[[香取]]で使われていた[[康正]]に書き直したと考えました。
[SRC[>>148]]

[ITEMS[ [[日時事例]]

-[512] 
[DATA(.label)[[[香取田所家文書]]]]
「[DATA(.text)[[V[くわん正四年八月廿二日]]]]」 ([[草書]])
[SRC[>>511 /51]]
-- [39] 
>>148 に写真あり
-- [513] 
[TIME(.value)[日本寛正4(1463)年癸未8月22日][kyuureki:1463-08-22]]
- [38] 「くわん正五年」「くわん正六年」 [SEE[ [[仮名書き年号]] ]]

]ITEMS]

[40] 
>>512 の[[元号名]]の前半は[[仮名]]らしき3文字くらいの文字塊がありますが、
>>148 の写真では字形の判別がなかなか難しい状態です。
>>148 は、「くわん」と3文字がかなり太く書かれていて、
その奥に細めの文字があり、よく判読できないものの、
「きやう」と書かれていたようだとしています。
(>>511 には注釈もなし。)

[41] 
[[平成時代]]の歴史研究者[[山田邦明]]は、
「きやう徳」 ([[享徳]]) と書こうとして、誤りに気づいて「くわん正」
に直したと考えました。
[SRC[>>148]]

[42] 
[[山田邦明]]は、これら (>>31 >>512) の事例から、[[香取]]では[[公年号]]が使われていたものの、
周辺の[[古河公方]]の勢力圏の[[享徳]]の[[延長年号]]の影響を受けていた、
[[享徳]]が一定の影響力を持ち続けた、
としました。
[SRC[>>148]]

[43] 
前者 (>>31) の康正3年9月は、この地域では享徳5年11月まで[[享徳]]が使われていたことが知られており
([SEE[ [[享徳]], [[康正]] ]])、康正3年はその翌年に当たりますから、
つい癖で旧年号を書いてしまっただけとも受け取れます。
新元号切り替えから半年以上経過していてちょっと時間が経ちすぎている感はありますが、
ままあり得る範囲でしょう。
しかし寛正4年はそれからあまりに時間が経ちすぎていますから、
それだけでは説明がつきません。 


[REFS[

-
[511] 
[CITE@ja-JP[[[香取文書纂]] 巻之8]], [[伊藤泰歳, 村岡良弼 校]], [TIME[明39-41][1908]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-17T13:41:59.208Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/815206/1/51> (要登録)
- [35] 
[CITE@ja-JP[[[香取文書纂]] 巻之17,18]], [[伊藤泰歳, 村岡良弼 校]], [TIME[明39-41][1908]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-20T12:43:10.696Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/815214/1/29> (要登録)
- [148] 
[CITE[[[香取文書にみる中世の年号意識]]]]

]REFS]

[46] [CITE@ja-JP[多古町史 上巻]], [[多古町史編さん委員会]], [TIME[1985.7][1985]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-20T14:02:04.901Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9643568/1/118> (要登録)

[47] >>46 [[享正]]の用例が香取文書3例、埼玉県の板碑2基としている。
これは[CITE[日本私年号の研究]]に従ったものと思われる。

[72] 
[CITE@ja-JP[年表日本歴史 3]], [[井上光貞 '''['''ほか''']'''編集]], [TIME[1981.11][1981]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T12:52:59.929Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12193825/1/89?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)


* 享正三年乙未

** 用例

[51] 
[[日本]][[相馬藩]]が安政4年から明治4年にかけて編纂した[[地誌]]
[CITE[[[奥相志]]]]
の[[日本]][[陸奥国]][[行方郡]][[牛越村]] 
[WEAK[([[明治時代]]の[[日本国]][[福島県]]下[[磐城国]][[相馬郡]][[牛越村]], [[昭和の大合併]]後は[[日本国]][[福島県]][[原町市]], [[平成の大合併]]後は[[日本国]][[福島県]][[南相馬市]])]]
条に、

>
[VRLBOX[
釈迦堂[SUP(smaller)[方三間]]  館下山の中央泉竜寺境内跡に在り。[SNIP[]][BR[]]
古記に曰く、右は遠古徳尼御と称する人の開基なり。[BR[]]
釈迦の像の胸中に徳尼菩提の為めに造立す、享正三年[BR[]]
乙未六月晦日と銘あり [SUP(smaller)[享正の年号は伝写の誤りか、考知せ[BR[]]ず。]]徳尼御は奥州岩城の領主海東小太郎平成衡の後[BR[]]
室、源頼義の女、母は多気権守宗基の女なり。前九年[BR[]]
の戦に奥州に生る。後三年の戦に源義家義子と為し亘[BR[]]
権守清衡に頂く。[SNIP[]][BR[]]
[SNIP[]]徳尼御百廿余歳の寿を保ち右大将頼朝と恒に音信[BR[]]
を通ず。是より先、頼朝伊豆に在り。時に徳尼百余歳[BR[]]
自筆の寿量品所望の事伊豆日記に見ゆ。或は記する[BR[]]
に、尼御を以て秀衡の妹と為すは誤りなり。
]VRLBOX]

とあります。
[SRC[>>48]]

[53] 
明治3年に牛越の白王山泉竜寺は新田村 
[WEAK[([[日本]][[陸奥国]][[行方郡]][[北新田村]], [[平成の大合併]]で[[日本国]][[福島県]][[南相馬市]])]]
の新田山新善光寺と合寺し、
[[北新田村]]に所在する新田山泉竜寺となりました。
釈迦堂も移されました。
[SRC[>>52]]

;; [55] 
>>56 に令和2年投稿の釈迦堂の外観写真が、
>>54 に令和4年時点の釈迦堂の外観写真があります。

[64] 
銘文の有る釈迦像は
[CITE[奥相志]]
以後どうなったのか記録が見当たりません。
[TIME[令和2(2020)年][2020]]時点で釈迦堂に釈迦像が現存するようで [SRC[>>56]]、
これがそれと考えていいのでしょうか。

** 諸説

[70] 
この[[享正]]については、これまで比定年等の説が提唱された記録が見当たりません。


[58] 
[[徳尼]]と呼ばれる人物については[[東北地方]]の各地に、
少しずつ違う伝承があるようです。
[SRC[>>57]]
百歳を超えたという点も含め、現在に伝わるこれらの伝承の史実性は低そうに思われます。

[59] 
[CITE[奥相志]]が採集した当地の伝承では[[徳尼]]は[[前九年の役]]
([TIME[永承6(1051)年][1051]] - [TIME[康平5(1062)年][1062]])
の時の生まれとあります。
[[父]]は[[前九年の役]]に参戦した[[源頼義]]とされていますが、
生年は[TIME[永延2(988)年][988]]、一説[TIME[正暦5(994)年][994]]、
没年は[TIME[承保2(1075)年][1075]]、一説[TIME[永保2(1082)年][1082]]です
[SRC[>>60]]。

[61] 
当地の伝承では[[徳尼]]の[[没年齢]]が120歳あまりとされています。
[[数え年]]で [120, 129] 歳とすると、[[没年]]は
[ [TIME[嘉応2(1170)年][1170]], 
[TIME[文治6(1190)年 = 建久元(1190)年][1190]] ]
の範囲ということになります。
[[前九年の役]]と[[源頼朝]]の両方に縁があると設定したために、
かくも無理な寿命となってしまったのでしょう。

[62] 
さて、銘文を信じると乙未年に[[菩提]]のため造像したとのことで、
一応[[没年]]からそれほど離れていないとすると

- [TIME[西暦1055年][1055]]
- [TIME[永久3年(1115)年][1155]]
- [TIME[承安5/安元元(1175)年][1175]]
- [TIME[文暦2/嘉禎元(1235)年][1235]]
- [TIME[西暦1295年][1295]]

などが候補となります。[TIME[西暦1175年][1175]]がちょうど[[没年]]想定範囲に入っています。

[63] 
しかし[CITE[奥相志]]の筆者が注釈した通り、これらに (そしてこれの前後の他の乙未年にも)
「享正」という[[元号]]はありませんし、それと誤りそうな他の[[元号]]もありません。
既知の[[私年号]]の[[享正]]とは[[干支]]があいませんし、時代がまったく異なります。


[65] 
この種の[[説話]]に出てくるいつかわからない謎[[元号]]は他にも[[長本]]など例があります。
時期は一応わかるものの史実性の疑わしい[[東北地方]]の[[説話]]に頻出する[[元号]]は[[大同]]があります。

[71] 
何らかの実在の[[元号]]の転訛の可能性も、説話の要素として仮作された可能性も、
どちらも検討を要することでしょう。

** 研究史


[69] 
[[江戸時代]]末期から[[明治時代]]初期に編纂された
[CITE[[[奥相志]]]]
は、
[[享正]]は不明であり誤伝か、と注釈しています。 [SRC[>>51]]
調査時に[[公年号]]に該当するものがなく、
どう解釈するべきか決めかねたのでしょう。


[66] この「享正」は、[[令和時代]]に至るまで[[私年号研究]]分野では気づかれず見落とされてきました。


[REFS[

- 
[52] 
[CITE@ja-JP[原町市史]], [[原町市史編纂委員会]], [TIME[1968]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-21T02:06:35.936Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3449102/1/815> (要登録)
-
[48] 
[CITE@ja-JP[[[相馬市史]] 4]], [[相馬市]], [TIME[1969]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-21T01:41:11.715Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536823/1/369> (要登録)

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[56] 
[CITE@ja[泉龍寺のお釈迦様。 釈迦堂には、現在 弘法大師・釈迦如来・閻魔大王が安置されていますが 釈迦堂の本尊、釈迦如来は 詳しい縁起は残っていないものの 源頼義(998-1082)の娘、徳尼の開建と言い伝えられています。 また、当時の泉龍寺は今の場所とは違う「牛越」の地にあり 「白王… | [[Instagram]]]], 
[[泉龍寺]],
[TIME[2020年9月9日][2020-09-09T06:57:37.000Z]],
[TIME[2024-01-21T02:21:46.000Z]] <https://www.instagram.com/p/CE6BNrjHlhi/>
]FIGCAPTION]

>
釈迦堂には、現在
弘法大師・釈迦如来・閻魔大王が安置されていますが
釈迦堂の本尊、釈迦如来は
詳しい縁起は残っていないものの
源頼義(998-1082)の娘、徳尼の開建と言い伝えられています。
また、当時の泉龍寺は今の場所とは違う「牛越」の地にあり
「白王山泉龍寺」という名前でした。

]FIG]

-
[54] 
[CITE[[[泉龍寺]] 見どころ - 南相馬市/福島県 | Omairi(おまいり)]], [TIME[2024-01-21T02:18:18.000Z]] <https://omairi.club/spots/115101/point>
-
[57] 
[CITE@ja[[[徳尼公]] - Wikipedia]], [TIME[2024-01-11T09:20:06.000Z]], [TIME[2024-01-21T02:27:07.274Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B0%BC%E5%85%AC>
-
[60] 
[CITE@ja[[[源頼義]] - Wikipedia]], [TIME[2024-01-20T06:03:34.000Z]], [TIME[2024-01-21T02:39:41.503Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E7%BE%A9>



]REFS]


* メモ