[491] 
[DFN[享正]]は、[[日本の私年号]]の1つです。
他に、同時期の関連が示唆される[[異年号]]がいくつかあります。


* 年表



[FIG(table)[

:ad:[[西暦]]
:k:[[干支年]]
:1496:[[宝徳]] [TIME[y~1496]]
:336:[[享徳]] [TIME[y~336]]
:832:[[康正]] [TIME[y~832]]
:213:[[長禄]] [TIME[y~213]]
:536:[[延徳]] ([[私年号]]) [TIME[y~536]]
:k1:[[1年ずれ康正]]
:k2:逆[[1年ずれ康正]]
:kiu:[[きう正]]
:□正:□正
:享正:[[享正]]
:享康正:[DEL[享]]康正
:kiutoku:[[きうとく]]
:keutoku:[[けうとく]]

:ad:[TIME[1450]]
:k:[[庚午]]
:1496:2
:keutoku:(2)

:ad:[TIME[1451]]
:k:[[辛未]]
:1496:3
:keutoku:(3)

:ad:[TIME[1452]]
:k:[[壬申]]
:336:1
:1496:4
:kiutoku:(1)
:keutoku:(4)

:ad:[TIME[1453]]
:k:[[癸酉]]
:336:2
:1496:(5)
:kiutoku:(2)
:keutoku:5

:ad:[TIME[1454]]
:k:[[甲戌]]
:336:3
:k2:(1)
:□正:(1)
:享正:(1)
:kiutoku:(3)

:ad:[TIME[1455]]
:k:[[乙亥]]
:832:1
:336:4
:k2:(2)
:kiu:(1)
:□正:(2)
:享正:(2)
:享康正:(1)
:kiutoku:4

:ad:[TIME[1456]]
:k:[[丙子]]
:832:2
:336:(5)
:k1:1
:k2:3
:kiu:(2)
:□正:3
:享正:3
:kiutoku:(5)
:享康正:(2)

:ad:[TIME[1457]]
:k:[[丁丑]]
:832:3
:213:1
:336:(6)
:kiu:3
:享正:(4)
:k1:(2)
:享康正:3

:ad:[TIME[1458]]
:k:[[戊寅]]
:213:2
:336:(7)
:k1:(3)
:享正:(5)

:ad:[TIME[1459]]
:k:[[己卯]]
:213:3
:336:(8)

:ad:[TIME[1460]]
:k:[[庚辰]]
:536:1
:213:4
:336:(9)

:ad:[TIME[1461]]
:k:[[辛巳]]
:536:2
:336:(10)

]FIG]

* 諸説 (総論)

[492] 
[[享正]]なる[[私年号]]は、
[[埼玉県]]下と[[福島県]]下の2系統の報告があります。
両者は想定される時代がまったく異なり、
[[干支年]]も離れていますから、
同名別[[元号]]と考えるのが妥当と思われます。
[SEE[ [[享正 (日本奥州)]] ]]

-*-*-

[48] 
[[享正]]やそれと地域や時代が近い[[異年号]]たちは、
[[異年号]]研究の歴史の中で、様々なモデルで理解が試みられてきました。
[SEE[ [[私年号研究史]] ]]

[51] 
[[江戸時代]]の研究者らは既に[[関東の延長年号]]の存在を把握していました。

[52] 
[[江戸時代]]の[CITE[偽年号考]]は、
[[足利成氏]]の[[関東の延長年号]]によって生み出された素地に[[延徳]]などの[[私年号]]が生じたと考えました。

[53] 
[[昭和時代]]中期の[CITE[日本私年号の研究]]は、
このモデルを[[近代]]に知られるようになった[[私年号]]に拡張し、
[[延徳]]だけでなく[[享正]]も[[足利成氏]]の勢力圏下で使われたことに着目しました。

[54] 
[CITE[日本私年号の研究]]は、
[[仮名書年号]]と[[私年号]]とを別の区分に属し、
[[公年号]]からの乖離の程度の異なる段階と考えましたが、
その一方で不明な[[仮名書年号]]である[[きやうせん]]と[[きう正]]を[[享正]]の仮名表記と理解しようとしました。

[55] 
また、[CITE[日本私年号の研究]]は、
[[享正]]が同時代の[[公年号]]である[['''享'''徳]]や[[康'''正''']]と[[元号名]]が酷似していることにも注意を促しました。

[56] 
[[昭和時代]]後期から[[平成時代]]初期の[[千々和到]]は、
一般に[[私年号]]と同時期の[[公年号]]には[[元号名]]の文字の類似性が多く見られることを指摘し、
多くの[[私年号]]に共通して見られる法則性として理解しようとしました
([[1字置き換え説]])。
[[享正]]と[['''享'''徳]]や[[康'''正''']]との関係性ももちろん指摘されています。
おそらく立論のきっかけの1つだったと推測されます。

[57] 
[[平成時代]]中期の何人かの中世史研究者らは、
[[1年ずれ康正]]の用例を[[東国]]の他の[[紀年]]の混乱する事例や[[私年号]]とも関連付け、
中世東国に特殊な「元年」概念が存在したと主張しました。
[SEE[ [[元二年]], [[1年ずれ康正]] ]]

[58] 
これらの諸モデルは、いずれもそれぞれが対象とする史料の解釈については一定の納得感を与えていますし、
互いに必ずしも矛盾するものではありませんが、それぞれに限界を持ち、
同じような時代の同じような地域のすべての現象を十分にうまく説明できているとはいえません。

- [59] [[足利成氏]]勢力説は、[[足利成氏]]自身が[[延長年号]]を使い、
支配地域の一部が[[私年号]]を使う (一部は[[1年ずれ康正]]を使い、残余は[[公年号]]を使う)
という一貫性のなさを説明できていません。
- [60] [[1字置き換え説]]は、前後2つの[[元号名]]の合体という特殊性が、
他の多くの[[私年号]]を含めた一般化
(「1字を縁起の良い文字に置き換えた」のような) には却って邪魔になります。
- [504] [[私年号]]は[[元年]]や2年が多く長続きしないという[[千々和到]]説も、
3年と4年の用例しか知られていない[[享正]]には当てはまりません。
- [61] [[元二年説]]は、根拠とされる史料の性格 (同時代 vs 歴史記録、など)
も、外形的な表出の方法も、事象ごとにバラバラである上、
かかる特殊な観念と、
その他ほとんど全ての紀年用例で見られる一般的な観念がどのように共存していたのかを一切説明できていません。
- [62] [[仮名書年号]]の漢字表記[[公年号]]等への比定については、
一部を除いて明確に検討されてきていません。どのような誤り・音韻変化・方言音、
あるいは表記法の違いによって生じたのか、再確認が必要です。
- [63] 判読が不明瞭な紀年史料や、書き直しの痕跡が残る紀年史料など、
重要と思われながら各モデルの検討に組み込まれてきていない史料がいくつか報告されています。

-*-*-

[64] 
注目するべきことに、
[TIME[西暦1456年丙子][1456]]には特異な紀年が集中しています。すなわち、

- [65] 康正2年 ([[公年号]])
- [69] 康正元年丙子 ([[1年ずれ康正]])
- [70] □正3年丙子
- [71] 享正3年丙子
- [490] 享徳5年 ([[延長年号]])
- [493] きやうとく5年
- [494] きうとく5年

... はすべて同じ年を表しています。中でも特に4月が多く見られます。

[502] 近接する比企郡で享正3年丙子4月24日、川越で康正元年丙子4月が使われていることに注意したいです。

[503] また、[[関東平野]]の西側にあたる[[比企郡]]あたりは[[足利成氏]]の地盤とされますが、
同じく[[足利成氏]]方の[[上野]]の[[岩松持国]]が (現在確認されている中では)
4月から[[1年ずれ康正]]を使い始めるのも興味深く思われます。
[[岩松持国]]は正月時点では享徳5年を使っていました。
[SEE[ [[1年ずれ康正]] ]]


[495] 
[TIME[西暦1457年丁丑][1457]]も多く、

- [497] 康正3年 ([[公年号]])
- [496] [DEL[享]]康正3年丁丑
- [501] きう正3年丁丑
- [500] 享正4年
- [498] 長禄元年 ([[公年号]])
- [499] 享徳6年 ([[延長年号]])

... は同じ年です。

[505] 
[CH[享]]から[CH[康]]への訂正事例については、
[[足利成氏]]の勢力圏とそうでない当地との接触が原因で、
誤りやすい状態だったのではないかとの説があります (>>42)。

[506] 
もしそうだとすると、この考え方は他の多くの用例にも当てはまり得るのかもしれません。

[507] 
ここで考えなければならないのは、
当時の[[東国]]の人々はどのように[[公年号]]の[[改元]]を知ったか、です。

[508] 
[[室町幕府]]が十分に統制をきかせられていた時代の[[東国]]では、
少なくても武家に関しては、[[京都]]の[[幕府]]から[[鎌倉公方]]へと[[伝達][改元伝達]]され、
そこから諸勢力へと伝達されていたのではないかと思われます。

[509] 
ところが[[足利成氏]]が[[享徳]]を使い続けたとなると、
[[足利成氏]]はこの[[改元伝達]]網を機能させる理由がありません。
自ら積極的に新元号の情報を伝播させることはなかったはずです。

[510] 
一方これに対抗する上杉方は[[足利成氏]]を通らない[[京都]]からの連絡ルートでこれを知り、
配下の武将や支配地域に伝達させることもあったかもしれません。
すると[[関東平野]]はどちらの勢力に属するかによって、
[[改元]]の正確な情報が自然と伝わってくることもあれば、
そうでないこともあったのではないか、と推測できます。

[514] 
しかし、両陣営の支配地域は壁で隔てられているわけではありませんし、
2勢力のどちらに付くか、旗色を明確にし二度と変えてはいけない、
という決まりもありません。
一般民衆の行き来も頻繁にあったはずです。
[[足利成氏]]支配地域にも[[改元]]情報はきっと伝わったことでしょう。
[[寺社]]なども[[朝廷]]から、
または[[寺社]]系の独自ルートで[[改元伝達]]を受けることがあったかもしれません。

[515] 
[[足利成氏]]は自ら[[延長年号]]を使い続けても、
支配地域にそれを強制することは無かったのかもしれません。
支配地域に[[延長年号]]は多いですが、
支配地域だからといって[[公年号]]がまったく使われないということもありません。

[516] 
ただし、信頼できる情報源から順番に安定して通知が到来する情報伝送路はそこにはありません。
正式な[[改元]]情報は来ない。しかし[[改元]]されたという噂は方々から届く。
隣の地域は違う[[元号]]を使っているらしい。
もう[[改元]]されてから時間がたっているらしい。
ではなぜ連絡が来ていないのか。
誰の情報が正しいのかわからない。
そういった情報環境が出現していたなら、
不思議な紀年があちこちで実用されるに至っても不思議では無いのかもしれません。


* 享正 (日本東国)

** 元号名

[89] 
[[読み][元号名の読み方]]は、
「きょうしょう」 
[SRC[>>50, >>277, >>74]]
([[歴史的仮名遣い]]: 「きやうしやう」 [SRC[>>50]])
とされます。

** 用例

*** 入間郡の享正

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [79] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本]][[武蔵国]][[入間郡]][[大家村]][[森戸]]]] [[大德氏]]所蔵 [[板碑]]]]
-- [91] >>117 : (15) 入間郡坂戸町大家 大戸氏 未調査
-- [26] >>289 : [V[[YOKO[5]]]]
-- [149] >>143 : [V[資料[YOKO[2]]]]
-- [98] >>14 : [V[[YOKO[362]]号板碑]]
-- [126] >>11, >>290 : SHI1978-044-25
-- [292] >>290 : [L[37]] [DFN[[V[享正四年(一四五七)銘阿弥陀一尊種子板碑]]]]
-- [133] >>132, >>290 [L[板石塔婆調査カード]] : 26-94-25
-- [139] >>76 : [L[136]] [CITE[[V[享正四年銘阿弥陀一尊種子板碑]]]]
-- [101] [[日本国]][[埼玉県]][[坂戸市]][[森戸]] 大徳氏所蔵 [SRC[>>14 /107]]
-- [127] [[日本国]][[埼玉県]][[比企郡]][[嵐山町]][[菅谷]] [[埼玉県立嵐山史跡の博物館]]所蔵
[[旧大徳家所蔵板石塔婆]] [CITE[享正四年銘阿弥陀一尊種子板碑]] [SRC[>>126]]
-- [355] >>390 : [L[23]]
-- [346] >>390 : カラー写真 (解像度上の下) 高精細だが大きくないので細部の観察には向かない
-- [294] >>290 : カラー写真 (低解像度)
-- [99] >>14 /107 : 白黒写真 (中解像度)
-- [84] 
>>12, >>8 /310 : 拓本 白黒写真 (中解像度) : 字形はおおむね読み取れるがややわかりづらい
-- [138] >>76 : 拓本 白黒写真 (中解像度)
-- [146] >>144 : 拓本 白黒写真 (中解像度)
-- [293] >>290 : 拓本 白黒写真 (低解像度)
--
[81] 
「[DATA(.text)[[V[享正[LINES(quarter)[二][二]]年四月十三日]]]]」 ([[楷書]])
[SRC[>>13, >>97, >>98, >>133, >>139, >>149, >>292, >>417]]
---
[82] 
「[DATA(.text)[[V[享正四年四月十三日]]]]」
[SRC[>>8]]

]ITEMS]

[85] 
第1字は[CH[享]]の伝統的楷書字形。 [SRC[>>84]]

[125] 
第2字は現在の通用字形に近い[CH[正]]ですが、
不明瞭でよくわからない部分があります。 [SRC[>>84]]

[86] 
第3字は[CH[[TATE[[LINES(quarter)[二][二]]]]]]。
切れ目ははっきりしています ([CH[二]]ではありません)。 [SRC[>>84]]

[87] 
第4字は[CH[年]]の草書系の字形。 [SRC[>>84]]

[260] 
様式は[[室町時代]]の特徴を持ちます。 [SRC[>>149]]

[27] 
[[坂戸市]]は[[足利成氏]]の古戦場に近かったり、
[[足利成氏]]方の勢力範囲に近かったりします。
[SRC[>>289]]

*** 比企郡の享正

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [93] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[埼玉県]][[比企郡]][[玉川村]][[一ト市]]]] [[板碑]]]]
-- [92] >>117 : (14) 比企郡玉川町一ト市 高山氏墓地
-- [131] >>130 : 39-12-1
-- [96] >>289 : [V[[YOKO[4]]]]
-- [147] >>143 : [V[資料[YOKO[1]]]] [[埼玉県]][[比企郡]][[玉川村]]一太市
-- [308] >>390 : [L[22]]
-- [307] >>390 : カラー写真 (解像度上の下) 高精細だが大きくないので細部の観察には向かない
-- [102] >>14 /241 : 現地白黒写真 (中解像度) 細部はよくわからない
-- [145] >>144 : 拓本 白黒写真 (中解像度)
-- [420] >>419 : 拓本 白黒写真 (中解像度)
-- [122]  
「[DATA(.text)[[V[享正三年[LINES(normal)[丙][  ][子]]四月廿四日]]]]」 ([[楷書]])
[SRC[>>102, >>131]]
--- [94] 
「[DATA(.text)[[V[享正三丙子四月廿四日]]]]」
[SRC[>>92]]
--- [95] 
「[DATA(.text)[[V[享正三年[LINES(smaller)[丙][子]]四月廿七日]]]]
[SRC[>>96, >>147]]
--- [387] 
「[DATA(.text)[[V[享正三年[LINES(normal)[丙][][子]]四月廿日]]]]」
[SRC[>>49]]

]ITEMS]

[123] 
第1字は現在の通用字形に近い[CH[享]]。 [SRC[>>102]]

[124] 
第2字は現在の通用字形に近い[CH[正]]。 [SRC[>>102]]

[356] 
[[日]]の第2字は[CH[四]]と[CH[七]]の2説 (+ なし) があって、現在では[CH[四]]が通説となっています。

[357] 
写真を見ると、ちょうど窪みになっていて、その内部の字画があるのかどうかよくわかりません。
くぼんだ部分の形は[CH[四]]のように思われ、そう思って見ると内部の画もあるように見えないこともありません。
[SRC[>>307]]

[358] 
写真で凹凸のような影が比較的はっきりわかる線を拾うと、[CH[七]]のように見えます。
[CH[七]]だと思って眺めると、確かに左上は左と上に突き出ているように思えてきますし、
右側は実線では無いようにも思えてきます。
[SRC[>>307]]

[360] が、写真を見て総合的に判断するなら、[CH[七]]とは違いそうに思えます。

[25] [[玉川村]]の近くには、
[[足利成氏]]方の勢力があったり、
[[享徳]]の[[延長年号]]の用例が見つかったりしています。
[SRC[>>289]]


** 諸説

[461] 
[[享正]]については、
明らかに[[享正]]だと考えられている[[板碑]]が2例知られている他、
これに関連付けて議論されている用例がいくつかあります。
ただ、それらは何かと問題があって容易に結論を得られるものではなく、
ひとまず確実な2例だけを中心に検討するのが妥当と思われます。

[465] 
比定年については、[[享正]]板碑2例中1例に[[干支年]]があり、
[[板碑]]の様式と合わせて[TIME[享徳3(1454)年][1454]]を[[元年]]とすることで諸説一致しています。

[466] 
[[干支年]]のない第1例の時点で[[室町時代]]と推定され、これに起因すると見られるいろいろな表現
([[室町時代]]前期、[[室町時代]]後期、[[後北条氏]]時代など) も近年まで使われていますが、
古い情報を引きずっているだけで、通説に異論があるものでは無さそうです。

[467] 
[[板碑]]の様式に基づく年代決定については、念のため近年までの[[板碑]]の研究成果を踏まえて、
[[私年号]]の知識を抜きにして、改めて精密に検証されるべきと考えられます。
結論を大きく動かすものでもないと予想されるものの、
[[後北条氏]]時代という初期説を否定する十分な根拠がその後の研究で明示されていないように思われ、
通説の「穴」は塞いでおかねばならないでしょう。

[468] 
時間的分布は、これまで3年と4年だけが報告されており、
他の[[私年号]]が[[元年]]や2年に集中するところから外れてます。
何らかの特殊性があり、説明が必要と思われますが、これまでの諸研究は何も語りません。

[469] 
地域的分布は、[[埼玉県]]下[[武蔵国]]の[[入間郡]]と[[比企郡]]という比較的近い地域であり、
2つの用例に何らかのつながりがある可能性が極めて高いといえます。

[472] 
ただし2つの用例の石工の違いが指摘されており (>>115)、
特定の誰かが使ったというよりは、地域内である程度の広がりが想定されます。
今後、同時期の[[公年号]]板碑も含めた制作工程に着目した分析が期待される領域です。



[470] 
利用者層については、
[CITE[日本私年号の研究]]
以来[[足利成氏]]勢力下の者とする見解が通説的になっています。
そもそもこの説は、
[[江戸時代]]の[CITE[偽年号考]]が[[足利成氏]]らの[[関東の延長年号]]を下地に、
[[私年号]][[延徳]]その他の[[中世関東私年号]]が作られるようになった、
とする学説を、[[近代]]になって知られるようになった[[享正]]にも拡張したものです。
[SEE[ [[偽年号考本文]], [[私年号研究史]] ]]

[471] 
ただし、[[足利成氏]]本人が[[私年号]]を使っていないことは、
早くから注意されてきました。
[[私年号]]専門の研究者'''以外'''では[[足利成氏]]が作ったかのような言説も見られるものの、
これを積極的に肯定するべき材料はありません。
また、実の所、[[足利成氏]]の勢力圏と[[私年号]]用例の所在地に重なりがあるというだけで、
[[足利成氏]]配下の勢力が[[享正]]や他の[[私年号]]を作った、使ったという物証があるわけでもありません。

[473] 
[[享正]]という[[元号名]]については、
同時期[[公年号]]との共通性を指摘しがちな[[千々和到]]だけでなく、
[[元号名]]の意味を推測しがちな[[久保常晴]]も、
意味を見出し難いとして[[公年号]]の[[享徳]]や[[康正]]とのつながりを指摘しています。

[474] 
[[享正]]を[[康正]]の誤りではないかとまで踏み込んだ説はあるものの、
音のつながり以上の根拠を示したものはなく、
[[干支年]]が一致しない以上、そのまま採用できる見解とはいえません。

[478] 
なお、2つの[[板碑]]の月は同じで日もかなり近いことも注目されます。
通常の[[元号]]なら考えにくいことですが、両者がどちらも同じ丙子年である可能性も、
一応考慮してみても良いのかもしれません。


** 研究史

[80] 
[TIME[昭和8(1933)年][1933]]の書籍は、
[[板碑]]の[[私年号]]の説明において、
>>79
を紹介し、
[[享正]]はいまだ知られていない[[私年號]]であり、
[[室町時代]]後期であることは確かであるものの、
[[干支年]]がなく「該当記号を見出し得ない」 
としています。
(相当[[公年号]]を決められない、
の意か。)
[SRC[>>13]]

[83] 
[TIME[昭和9(1934)年][1934]]の地域史は、
[[板碑]]の[[私年号]]の説明において、
[[私年号]]はいずれも祥瑞福徳を表したものであるとして実例の1つで
>>79
を紹介し、
[[享正]]は[[干支年]]がないため相当年代を知ることができないものの、
様式から[[小田原北条氏]]の頃と思われる、
としています。
[SRC[>>8]]


[454] 
昭和18年の
[CITE[国史辞典]]
は、
>>80
を引いて
>>79
を掲載しています。
時期は[[室町時代]]としています。
辞典類の掲載の中では最古の事例と思われます。
[SRC[>>369]]


[88] 
[TIME[昭和11(1936)年][1936]],
[TIME[昭和30(1955)年][1955]],
[TIME[昭和34(1959)年][1959]]ほかの論文は、
[[板碑]]の[[私年号]]の説明において、
>>79
を紹介しています。
[SRC[>>12, >>620, >>77]]
>>83 と同系統の説明文ですが、比定年の記載がないなど簡略化されています。

[90] 
[TIME[昭和32(1957)年][1957]]の辞典は、
[[享正]]を[[室町時代]]の[[私年号]]とし、
[[干支年]]がないため相当年代を知ることができないものの、
>>79
があり、
様式から[[小田原北条氏]]の頃であったことが確認できる、
としています。
[SRC[>>50]]
>>83 と同系統の説明文ですが、推測から断定に転じています。

[97] 
[TIME[昭和42(1973)年][1973]]の書籍は、
[[金石文]]で使われる[[私年号]]の事例として
>>79
を紹介し、
様式から[[室町時代]]後期と思われる、
としています。
[SRC[>>78]]

[REFS[

- [13] 
[CITE@ja-JP[板碑概説]], [[服部清五郎]], [TIME[1933]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-29T05:36:29.802Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1918330/1/389?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
- [8] 
[CITE@ja-JP[埼玉県史 第四巻]], [[埼玉県]], [TIME[昭和9][1934]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-29T05:40:56.862Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3439275/1/309?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
- [12] 
[CITE@ja-JP[仏教考古学講座 第五卷]], [[雄山閣]], [TIME[昭和11][1936]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-29T05:57:13.854Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1914064/1/82?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
-- [620]  
[CITE@ja-JP[東京都文化財調査報告書 第2]], [[東京都教育委員会]], [TIME[1955]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-31T06:30:12.427Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2515336/1/22?keyword=享正> (要登録)
--[77] 
[CITE@ja-JP[武蔵野の青石塔婆]], [[稲村坦元]], [TIME[1959]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-31T05:54:08.723Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2979986/1/23?keyword=享正> (要登録)
-- [435] 
[CITE@ja-JP[武蔵野の青石塔婆]], [[稲村坦元]], [TIME[1964]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T13:18:42.772Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2979985/1/24?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
-- [437] 
[CITE@ja-JP[仏教考古学講座 2 (塔婆編)]], [[雄山閣編集部]], [TIME[1970]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T13:20:24.580Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12223270/1/98?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
- [50] 
[CITE@ja-JP[日本歴史大辞典 第6巻 (きなーくよ)]], [[河出書房]], [TIME[1957]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-29T05:52:37.819Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2998373/1/49?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
-- [68] 
[CITE@ja-JP[日本歴史大辞典 第3巻 (かたーき)]], [[日本歴史大辞典編集委員会]], [TIME[1985.3][1985]], [TIME[2026-04-07T01:12:04.000Z]], [TIME[2026-04-18T15:34:32.888Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12196002/1/296?keyword=%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7> (要登録)
-
[78] 
[CITE@ja-JP[中世史ハンドブック]], [[永原慶二 '''['''等''']'''編]], [TIME[1973]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-31T07:36:14.576Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12156456/1/135?keyword=享正> (要登録)


]REFS]

-*-*-


[18] [[昭和時代]]の[[日本国]][[埼玉県]][[浦和市]]の歴史研究者[[中英夫]]は、
[[埼玉県]]内に

- [136](14) 享正三丙子四月廿四日 比企郡玉川町一ト市 高山氏墓地 >>93
- [274] (15) 享正四年四月十三日 入間郡坂戸町大家 大戸氏 未調査 >>79

があると紹介しました。 >>136 は実見しているようです。
[SRC[>>117]]

- [141] (14) (15) 従来 (15) しかなく板碑形態から室町後期といわれていた。
- [17] [[中英夫]]が「[V[数年前]]」に[[比企郡]][[菅谷村]]の[[郷土史家]]の[[大沢喜一]]に教えられて調査して
(14) に[[干支年]]を発見。
- [19] [[室町時代]]のうち、応永3年[[板碑]]とは思われず、
康正2年、永正13年、天正4年。形態からいずれでもよさそう。
- [20] 断定できないが[[中英夫]]の推測では康正。
(14) と同時に発掘された板碑に時代が近い宝徳、寛正などがあること、
「享」と読めば[[音通]]。

と判断しています。 [SRC[>>117]]

[21] 
後に[CITE[日本私年号の研究]]も[[享正]]が[[康正]]だと判断し、
[[中英夫]]もそれを紹介しています [SRC[>>3]]。
[[久保常晴]]は[[中英夫]]の報告 [SRC[>>117]] をみていなかったようで
[WEAK[([CITE[日本私年号の研究]]には[[永章]]がありません。)]]、
独立の判断と考えられます。


[30] 
[[香取文書]]に「きう正三年丁丑」があります。[[康正]]3年丁丑とされます。
[SEE[ [[きう正]] ]]


[75] 
[TIME[昭和42(1967)年][1967]]の[[板碑]]の書籍は、
[[板碑]]で使われる[[私年号]]の1つとして[[享正]]を挙げ、
事例として
>>79 >>93
を紹介し、
[[室町時代]]後期という、としています。
出典は >>117 とされています。
[SRC[>>16]]


[REFS[

- [116] [CITE[埼玉史談]] 13(2), [TIME[昭和41(1966)年7月][1966-07]]
-- [117] [CITE[[[[V[県内における私年号板碑]]]]]],
[[[V[中英夫]]]],
pp.[V[二四]]-[V[二六]]
- [2] [CITE[埼玉史談]] 17(4), [TIME[昭和46(1971)年1月][1971-01]]
-- [3] [CITE[[V[「永章」の私年号板碑について]]]],
[[[V[中英夫]]]],
p.[V[四三]]
- [16] 
[CITE@ja-JP[板碑入門]], [[小沢国平]], [TIME[1967]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-31T03:08:05.885Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2980023/1/78?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)

]REFS]


-*-*-

[418] 
昭和9年の[[久保常晴]]の初期の論文は、
>>79
を、
用例が1件のみでそれ以上の情報がない[[異年號]]として一括して掲載されるに留まっています。
[SRC[>>417]]

[456] 
昭和40年の[[久保常晴]]の論文は、
後の[CITE[日本私年号の研究]]の母胎となったものであり、
>>79 >>93 と[[きう正]]を紹介し[[きやうせん]]は含まないこと、
[[きう正]]を[[享正]]に比定する論証が少し簡潔であることを除けば、
比定年に関して[CITE[日本私年号の研究]]と同様の記述があります。
[SRC[>>433]]

[457] 
分布については、3郡にあり、およそ[[比企郡]]から[[入間郡]]を経て[[香取郡]]に入った、
としています。
[SRC[>>433]]

[458] 
[[建元]]の理由については、[CITE[日本私年号の研究]]とほぼ同じ(やや簡潔)で、
[[足利成氏]]の勢力圏であることを指摘しています。
[SRC[>>433]]


[151] 
昭和42年の
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
次のように述べています。

- [258] 資料 [SRC[>>143]]
-- >>79
-- >>93
--- [24] 様式から[[室町時代]]
--- [247] [[室町時代]]の[[丙子年]]は、応永5年、康正2年、永正13年、天正4年
--- [246] [[私年号]]の盛行期より[[応永]]と[[天正]]はまず省かねばならない
--- [155] [[享正]]は[[康正]]か[[永正]]
-- [202] [[きようせん]]2年
--- >>200
--- [249] おそらく[[享正]]ではなかろうか
-- [152] [[きう正]]3丁之(丑)
--- [SNIP[]]
--- [160] 「きやう正」すなわち[[享正]]とも考えられる
-- [248] [[きやうせん]]3年
--- [SNIP[]]
--- [161] 同じく[[享正]]と見られる
- [162] [[享正]]は[[享徳]]頃とみてほぼ誤りあるまい [SRC[>>143]]
- [163] [[干支年]]から、享正元年は享徳3年 [SRC[>>143]]
- [165] 分布 [SRC[>>164]]
-- [168] [[享正]]
--- [166] 享正2年から4年
--- [167] 南関東、ことに埼玉県比企郡・入間郡と千葉県香取神宮
-- [169] [[延徳]]
--- [SNIP[]]
-- [170] [[足利成氏]]の勢力圏内、部下ないし支持者たちと何らかのつながりを持つ
--- [171] [[足利成氏]]の[[延長年号][関東の延長年号]]
-- [172] [[香取文書]]では2年のみ、其れ以前と其れ以後は[[公年号]]
--- [173] なぜこの1年間のみ、は資料不足
-- [174] [[比企郡]][[玉川村]]
--- [175] 隣村の[[比企郡]][[鳩山村]]
---- [177] 永享18年の[[延長年号]] [[板碑]]
----- [176] 根強い[[足利持氏]]の勢力地盤が察せられる
---- [178] 享徳8年の[[延長年号]] [[板碑]]
----- [179] [[足利成氏]]の時代も強い地盤
--- [180] [[東松山市]] ([[比企郡]]) [[松山城]]
---- [181] [[足利成氏]]の勢力下
--- [182] その中間、[[足利成氏]]の強固な地盤と推定
-- [183] [[入間郡]][[坂戸町]]
--- [184] [[入間郡]]は[[足利成氏]]との深い関係
---- [SNIP[]]
- [185] [[建元]]者、使用者やその階層 : 不明 [SRC[>>164]]
-- [186] [[足利成氏]]自身は[[享徳]]を使い、[[私年号]]不使用
-- [187] [[享正]]/[[延徳]]の媒体や銘文は仏教的色彩
--- [188] 使用者は[[香取神宮]]や[[本土寺]]の社僧、社家、僧侶といえよう
---- [189] [[足利成氏]]の支配下にあり何らかの関連をもっていた者
- [190] 名称に深い意味付けもなされていないように思われる [SRC[>>164]]
-- [191] [[享徳]]の[CH[享]]と[[康正]]の[CH[正]]を単に組み合わせたものと受け取れる
-- [192] 同時期の[[享正]], [[延徳]], [[享高]]は[[足利成氏]]が実権掌握していた時代[[享徳]]から1字だけ異音異字にしたもの、[[享徳]]が名称上の母胎と考えられる
--- [193] 偶然の一致とも考えられるが、
--- [196] 単なる時代の嗜好と見過ごすことはできない、
--- [194] 使用者が基本的には長く[[享徳]]を使用した[[足利成氏]]の支配下の人々との考察を支持するといえる
-- [195] この地方に[[私年号]]の知識が存在したことを母胎に、
[[室町幕府]]の関与した[[公年号]]を使用しない[[足利成氏]]の態度を契機としたものだろう

;; [434] 「私年号の盛行期」という論法は若干危険ですが...
[[私年号]]板碑の多い時期、という観点で[[板碑]]の[[型式編年]]に絡めて論じるならギリOKでしょうか...

;; [459] 
その後の[CITE[日本私年号の研究]]の引用で、
[[享正]]は[[康正]]とする説であると説明するものがあります
(>>432 >>21)。
ところが[CITE[日本私年号の研究]]は享徳3年を享正元年としていて、
康正元年と同じとはしていません。おそらく、
>>227 
を誤認したのではないでしょうか。


[421] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]の[[板碑]]の書籍は、
[[私年号]]の解説で[[享正]]を紹介しています。
[SRC[>>419]]

- [422] [[板碑]] >>79 >>93
-- [423] 様式から[[室町時代]]を遡るとは考えられない
-- [424] [[干支年]]が手掛かりになっている
- [425] [CITE[日本私年号の研究]]
-- [426] [[私年号]]の盛行期の丙子年で康正3年、永正13年
-- [427] [[香取文書]]検討より
--- [428] きう正3年 (享正) 文書は康正2(1456)年丙子文書と同一
--- [429] きょうせん2年 (享正) はきうとく4年 (享徳) と同年の可能性が強い
-- [430] よって享正3年丙子は[TIME[康正2(1456)年丙子][1456]]
-- [431] [[足利成氏]]との関係による所産か、その勢力圏に多い
-- [432] 享正は康正の誤りの可能性も強い

[281] 
[TIME[昭和60(1985)年][1985]]の地方史は、
おおむね[CITE[日本私年号の研究]]をなぞった解説を掲載しています。
[SRC[>>279]]

[282] 
年表では享徳3年を享正1年とし、4年まで記載し、その後を点線で[[私年号]]の[[延徳]]につなげています。
[SRC[>>279]]

[283] 
用例がなくても[[私年号]]を使う主体や意識(?)が継続していたことを主張しているのでしょうか。
[CITE[日本私年号の研究]]はそこまでは言っておらず、
[[享正]]と[[延徳]]で地理的分布が重なりつつ異なりがあることを指摘しています。

[47] 
なお、
「「享正」の使用範囲は香取文書三例と埼玉県の板碑二基」
と書いていますが [SRC[>>46, >>279]]、
[CITE[日本私年号の研究]]が[[享正]]の2例の他に、
[[香取文書]]の3例 (実際は2例) の[[仮名書年号]]を[[享正]]に同定したものを数えているようです。
間違ってはいないのですが、誤解を招く要約方法です。


[285] 
[TIME[平成17(2005)年][2005]]付のメモ書きは、
[CITE[日本私年号の研究]]
から非常に簡潔に要約して紹介しています。 [SRC[>>284]]

[288] 
口頭発表用の覚書なのか、十分な説明のない、誤解を招きかねない書き方になっています。
[[足利成氏]]が「享徳使用続行→支配地域に独自年号享正~4 延徳~5 も伝播」
と書かれているので、まるで[[足利成氏]]が統治下で独自元号を施行したように読めます。
その直後に[[足利成氏]]自身は使用していないと矛盾する説明が
[CITE[日本私年号の研究]]
からの引用という形で記載されていて、これだけを読むと意味不明で混乱しそうです。

[415] 
他にも[CITE[日本私年号の研究]]から[[私年号]]の代表的な事例として引用するものがあります。
[SRC[>>436, >>414, >>416, >>442]]

[REFS[

- [417] 
[CITE@ja-JP[考古学雑誌 24(12)]], [[日本考古学会]], [TIME[1934-12]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T12:50:55.564Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3548437/1/8?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
- [433] 
[CITE[[[我が国の私年号に関する研究(二)―室町時代―]]]]
- [9] 
[CITE[日本私年号の研究]]
-- [144] 
p.[V[図版第五]]
-- [143] 
pp.[V[二七八]]-[V[二八四]]
-- [164] 
pp.[V[二九六]]-[V[三〇七]]
- 
[436] 
[CITE@ja-JP[立正史学 (33)]], [[立正大学史学会]], [TIME[1969-03]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T13:22:46.454Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7937870/1/32?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3+> (要登録)
-
[414] 
[CITE@ja-JP[失われた九州王朝 : 天皇家以前の古代史]], [[古田武彦]], [TIME[1973]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T12:48:32.769Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12241219/1/210?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
-- [416] 
[CITE@ja-JP[土着の思想と行動を : 桑原正雄教育論集]], [[桑原正雄, 郷土教育全国協議会 編集]], [TIME[1982.8][1982]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T12:49:50.587Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12157361/1/68?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
-- [444] 
[CITE@ja-JP[仏教史学研究 26(2)]], [[仏教史学会]], [TIME[1984-03]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T13:29:26.391Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4422667/1/22?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
- [419] 
[CITE@ja-JP[板碑の総合研究 1 (総論編)]], [[坂詰秀一]], [TIME[1983.2][1983]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T12:54:35.554Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12226011/1/155?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
-
[46] [CITE@ja-JP[多古町史 上巻]], [[多古町史編さん委員会]], [TIME[1985.7][1985]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-20T14:02:04.901Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9643568/1/118> (要登録)
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[279] 
[CITE@ja[多古(たこ)町-多古町デジタルアーカイブ:多古町史]], [TIME[2026-06-30T08:58:01.000Z]] <https://adeac.jp/tako-town/texthtml/d100010/mp000010-100010/ht000580>
]FIGCAPTION]

> 胤直の敗死から七年後の一四六二年に建てられた板碑が北中の浄妙寺にある。それには延徳二年壬午(みずのえうま)正月六日と記されているが、公年号の延徳二年は庚戌(かのえいぬ)(一四九〇)であって壬午ではない。壬午はそれより二八年さかのぼり公年号の寛正三年(一四六二)に該当する年である。このような年号は私年号といわれるもので、中央政府が公式に制定した公の年号に従わず、地方の有力者などが独自に制定して、その勢力圏で使用したり、僧侶などが私的に使ったりしたものである。しかし広く一般に使われたわけではなく、政治的な意味はないといわれている。
>[SNIP[]]
> この浄妙寺板碑の「延徳」年号は、足利成氏の勢力圏で成氏の部下または支持者の豪族たちによって建元され使用されたものである。成氏の勢力圏ではこのほかに「享正」も用いられている。享正元年は公年号の享徳三年に、享正二年は康正元年に対応している。康正元年は千葉胤直の敗死した年である。
> 「延徳」の使用例は香取文書に五例見られるほか、松戸市小金井の本土寺過去帳、茨城県高萩市赤浜の妙法寺過去帳、栃木県日光市の輪王寺文書にも見られる。また八千代市米本長福寺の武蔵板碑(断碑)が延徳と推定されている。それに対して「享正」の使用範囲は香取文書三例と埼玉県の板碑二基にとどまっている。
> 足利持氏は、幕府に対立した永享(一四二九~四一)のころ、公年号が嘉元に改元されて後も永享をそのまま使用し続けたが、その子の成氏もまた改元を無視して旧年号である享徳(一四五二~五五)を長く使っていた。享徳は四年で終わっているが、成氏は享徳十七年正月十六日付の香取大禰宜からの祈祷巻数(かんじゅ(ず))を受け取っており、配下の千葉孝胤は享徳二十年八月付で香取神領の葛原・小野・織幡に安堵状を出している。中央にそむいた成氏の勢力圏でその私年号が使用され、長く持続していたことがわかる。
> 「延徳」の私年号が使用されていた松戸市小金井は御所方の原胤房が城を築いて拠点とした所であり、日光も成氏を支持した宇都宮氏の支配圏であったが、「享正」使用圏よりも「延徳」使用圏の方が広範囲であり、浄妙寺の板碑もその範囲にあったものと理解される。ただし成氏自身は公年号の享徳を使い「延徳」は用いていないので、この私年号はその配下と支持者の間で建元され使用されたものである。そして香取神宮や輪王寺を始め宗教者の間で使われ、特に妙法寺・本土寺は北中の浄妙寺と同じ日蓮宗の寺であった。民間における改元の情報は、行政のルートとは別に宗教者の間にもあったらしいといわれている。
> 「享正・延徳」という私年号の考案にあたっては公年号の享徳を母胎にしたものと見られている。しかも享徳を成氏が長く使用したことと関係がありそうで、享に正を、徳に延の字を結びつけた意図が感じられよう。要するにこれらの私年号は、成氏が関東公方を僣称していたころの公年号である享徳を、成氏自身が二十数年も使用し続け、中央で改元されていた康正・長禄・寛正・文正・応仁・文明などの公年号を拒否していたところからその勢力圏で生まれたのであった。
> 以上、久保常晴著『日本私年号の研究』(吉川弘文館)などを参考にして述べてきたが、同書によれば、関東には鎌倉時代末期から私年号の知識と、使用の伝統があり、それが室町時代、「享正・延徳」などの私年号を生み出す母胎となっている。そしてこの地方の文書などで干支(えと)を欠く「延徳」年号の記されたものには注意を要するとされている。

;; [280] [[年表]]もあり。

]FIG]

- [442] 
[CITE@ja-JP[栃木史学 = The Tochigi journal of Japanese history (2)]], [[国学院大学栃木短期大学史学会]], [TIME[1988-03]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T13:27:02.532Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4424952/1/86?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[284] 
[TIME[2026-06-30T09:08:23.000Z]]
<https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/16907/files/hirayama-kaigen.pdf#page=1>
]FIGCAPTION]

>
[LEFT[
鎌倉公方持氏は永享 3.8.18 にはじめて永享(『鎌倉九代記』)、それまで改元無視して正長を使用[BR[]]
古河公方成氏も、1455 康正改元を認めず、享徳使用続行→支配地域に独自年号享正~4 延徳~5 も伝播[BR[]]
頼朝は平家、関東公方は幕府に対抗:天皇権威に挑戦する意図はない。「足利成氏自身は、自己が正[BR[]]
しく関東管領であったころの公年号『享徳』を長く用い、私年号を使用していない」(久保、303[BR[]]
頁)
]LEFT]

]FIG]


]REFS]

-*-*-



[386] 
[TIME[昭和43(1968)年][1968]]の調査報告書は、
>>93
を掲載し、
[[西暦年]]を
「[V[一五四六[YOKO[?]][BR[]]    ー七[YOKO[?]]]]」
とし、

>
[VRL[
享正二年が丙子にして、[BR[]]
三年は丁丑なり、誤刻か
]VRL]

... と注記しています。
[SRC[>>49]]

[453] 
[[康正]]の2年が丙子ですが、その誤刻と推測した上で享正2年が丙子と誤植したものでしょうか?
よくわかりません。

[REFS[

- [49] 
[CITE@ja-JP[武蔵国板碑集録 : 板碑発生最密集地域精査 第2 (旧比企郡)]], [[千々和実]], [TIME[1968]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T10:27:21.845Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2998370/1/98?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)

]REFS]

-*-*-


[28] 
[[昭和時代]]の研究者[[浅沼徳久]]は、
これら (>>25 >>27) を[[足利成氏]]と[[享正]]との関係性を表すものと理解しました。
[SEE[ [[中世私年号]] ]]

[REFS[

- [286] [CITE[[[日本の石仏]] 4号]],
[TIME[1977-12]]
-- [287] 
[CSECTION[小特集 中世板碑]]
--- [289] 
[CITE[[[[V[中世私年号と板碑[WEAK(smaller)[―私年号伝播者および足利成氏との関係を中心に―]]]]]]]],
[[[V[浅沼徳久]]]],
pp.[L[17]]-[L[23]]

]REFS]


-*-*-

[100] 
[TIME[昭和55(1980)年][1980]]の史料集は、
>>79
を紹介し、
[[私年号]]であるとして、
[[西暦年]]を [L[1457ヵ]]
[SRC[>>14 /107]]、
[V[享正三年 (一四五七)]]
にあたると思われる
[SRC[>>14 /241]]、
としています。

[103] 
次のように説明されています。
[SRC[>>14 /242]]

- >>79
-- [104] [[戦前]]から[[稲村坦元]]や[[服部清道]]などにより紹介されていた
-- [105] [[干支年]]なく他に用例がないため[[室町時代]]後期とされていたにすぎない
- [106] [[戦後]]に[[中英夫]]が1基を報告した  (>>93)
-- [107] [[干支年]]から享正三年 = 康正二年丙子
-- [108] 本書もこれに追随
- [109] 形式のうえでこれを一応みておく
-- [110] 364号板碑 : 長禄元年5月14日
--- [111] 9月28日改元、[[遡及年号]]
--- [112] 改元後の製作に間違いない
-- [113] (他の例)
-- [114] [TIME[西暦1457年][1457]]前後として大過ない
- [115] >>79 と >>93
-- [118] 様式が全く違う
--- [119] 石工が違い、年号の書風も違う
-- [120] 導師が別人かも、居なかったとも
-- [121] [[享正]]の普及を考える時おもしろい命題

[135] 
[TIME[昭和56(1981)年][1981]]の[[板碑]]調査報告書は、
>>79 と >>93
を掲載し、
[[私年号]]であり、[[康正]]年間か、
としています。
[SRC[>>134, >>132, >>130]]

[REFS[

- [14] 
[CITE@ja-JP[坂戸市史 中世史料編 2]], [[坂戸市教育委員会]], [TIME[1980.4][1980]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-29T06:16:23.828Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9642035/1/107?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
/32 /107 /241 /242 /250 /271 
-
[134] 
[CITE@ja-JP[埼玉県板石塔婆調査報告書 本文・図版編]], [[埼玉県立歴史資料館]], [TIME[1981.3.][1981]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-29T07:13:18.232Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12261363/1/22?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
-- [132] 
[CITE@ja-JP[板碑 : 埼玉県板石塔婆調査報告書 2]], [[埼玉県立歴史資料館 編集]], [TIME[1981.3][1981]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-29T07:11:43.430Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12220942/1/439> (要登録)
-- [130] 
[CITE@ja-JP[板碑 : 埼玉県板石塔婆調査報告書 3]], [[埼玉県立歴史資料館 編集]], [TIME[1981.3][1981]], [TIME[2026-06-17T01:09:14.000Z]], [TIME[2026-06-29T07:08:11.354Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12221354/1/98> (要登録)

]REFS]

-*-*-

[128] 
[TIME[令和4(2020)年][2020]]現在の[[埼玉県立嵐山史跡の博物館]]の
[[Webページ]]に、
>>79
が掲載されています。
「享正4年(私年号)・(1457)・室町時代」
と説明されています。
[SRC[>>11]]

[129] 
もと大徳家所蔵の[[板碑]]とあり、
資料番号が「SHI'''1978'''-044-25」
であること
[SRC[>>11]]
からも推察される通り、
[TIME[昭和53(1978)年][1978]]に大徳家から[[埼玉県立嵐山史跡の博物館]]に寄贈されました
[SRC[>>290 #page=2]]。

[140] 
[TIME[昭和57(1982)年][1982]]の展示会図録に掲載されています。
なお、この時点で既に大徳家旧在となっています。
[SRC[>>76]]

[446] 
また、展示会では[[峰岸純夫]]の講演がありました (>>142)。


[291] 
[TIME[令和6(2024)年][2024]]の[[埼玉県立嵐山史跡の博物館]]の図録に掲載があります。
「[L[享正4年(私年号)[BR[]]康正三年ヵ]]」「[L[1457]]」、
「[V[※私年号、康正三年(一四五七)に比定]]」
と説明されています。
[SRC[>>290]]




[REFS[

- [76] 
[CITE@ja-JP[板碑 : 特別展図録]], [[埼玉県立博物館]], [TIME[1982.3][1982]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-31T05:50:08.840Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12261498/1/60?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[11] [CITE@ja[実物資料(1)館有資料 - [[埼玉県立嵐山史跡の博物館]]]], [[埼玉県教育局]], [TIME[2022-12-26T12:33:49.000Z]] <https://ranzan-shiseki.spec.ed.jp/%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%83%BB%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E8%B3%87%E6%96%99%E7%B4%B9%E4%BB%8B/%E5%AE%9F%E7%89%A9%E8%B3%87%E6%96%99-1-%E9%A4%A8%E6%9C%89%E8%B3%87%E6%96%99>
]FIGCAPTION]

>
,SHI1978-044-25	,享正四年銘阿弥陀一尊種子板碑	,旧大徳家所蔵板石塔婆	,享正4年(私年号)・(1457)・室町時代	, 	,大徳家	,《注2》26-94-25

]FIG]

- [290] 
[TIME[2026-06-30T09:16:28.900Z]]
<https://ranzan-shiseki.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/2046#page=30>

]REFS]

-*-*-


[23] 
[[昭和時代]]後期から[[平成時代]]の[[板碑]]研究者[[千々和到]]は、
[[享正]]は[[公年号]]の[[享徳]]の[[1字置き換え][1字置き換え説]]と考えました。
[SRC[>>22, >>445]]
[SEE[ [[中世私年号]] ]]

[67] 
[[千々和到]]は[[康正]]の[[音通]]ともしています。
[SEE[ [[日本私年号一覧表]] ]]



[142] 
[TIME[昭和57(1982)年][1982]]の展示会 (>>140)
では[[峰岸純夫]]の講演があり、その記録によると、
[[板碑]]による[[私年号]]の研究について、
[[千々和到]]の仕事を紹介して、
戦乱が多い年だったので[[年号]]が悪いと考え、
[[享徳]]を[[享正]]にしようと考え、
[[享正]]をはやらせる、
のような[[元号]]の呪術性を使った[[1字置き換え]]による災厄防除があった、
と述べました。
[SRC[>>76]]


[REFS[

- [445] 
[CITE@ja-JP[富士見市史 資料編 3 (古代・中世)]], [[富士見市総務部市史編さん室]], [TIME[1985.3][1985]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T13:30:38.207Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9643536/1/112?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
- [22] [CITE[[[中世東国の「私年号」]]]]

]REFS]

-*-*-

[298] 
[[足利成氏]]が使用したと断言するものもありますが、根拠は不明です。
[SRC[>>295]]

[302] 
>>300 は >>298 のおかしな記述のせいで混乱させられた事例。

[45] >>44 [[宮代町]]に「享正」板碑があるとは書かれていないが、「付近」とは?
比企郡玉川町と入間郡坂戸町と川越市は同じ県内だが (この3箇所は近い)、「付近」かなあ?
それ以外にも発見例があるのだろうか?


[REFS[

-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[295] [CITE@ja[ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム]], [TIME[2021-01-28T09:01:15.000Z]] <https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1144205100/1144205100100010/ht200510>
]FIGCAPTION]

> 宮代町付近では、下総の古河に移動し、幕府に敵対した足利成氏が使用した「享正」「延徳」の私年号をみることができる。
]FIG]
-- [296] 消滅確認 [TIME[2026-06-30T09:27:49.600Z]]
-- [297] 
[CITE@ja[ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム]], [TIME[2026-06-30T09:25:49.000Z]], [TIME[2019-09-21T09:58:45.541Z]] <https://web.archive.org/web/20190921095831/https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1144205100/1144205100100010/ht200510>
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[44] 
[CITE@ja[テキスト / コラム 板碑に刻まれた私年号]], [TIME[2024-01-20T13:42:03.000Z]] <https://adeac.jp/miyashiro-lib/text-list/d100010/ht200510>
]FIGCAPTION]

>宮代町における私年号は、西光院にある板碑に刻まれた「福徳元年□月三日」銘である。
[SNIP[]]
> 宮代町付近では、下総の古河に移動し、幕府に敵対した足利成氏が使用した「享正」「延徳」の私年号をみることができる。
]FIG]
-[300] 
[CITE@ja[太田資正と中世太田領の研究(資正研)さんはTwitterを使っています 「古河公方は「享徳」を使い続けたことで有名ですが、金石文については私年号「寛正」等を使わせた? と読める記述に出会いました。 https://t.co/Gkzstvtv51 情報量が足りない。 久保常晴(1967)『日本私年号の研究』か? これを読めばいいのか?! https://t.co/YT86gxJKPd」 / Twitter]], 午後6:36 · 2020年8月2日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-01-28T08:47:30.000Z]] <https://twitter.com/medieval_oota/status/1289857528369541120>
-- [301] >>295 を参照している
-- [3] [CITE@ja[太田資正と中世太田領の研究(資正研)さんはTwitterを使っています 「すみません。 寛正でなく、享正でした!」 / Twitter]], 午後6:59 · 2020年8月2日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-01-28T08:47:30.000Z]] <https://twitter.com/medieval_oota/status/1289863369709588480>
- [4] [CITE@ja[太田資正と中世太田領の研究(資正研)さんはTwitterを使っています 「肝心の古河市域には、私年号「享正」を用いた板碑は確認されず。 “ところが、古河の板碑を調査してみると、長禄年板碑、寛正四年板碑、応仁二年板碑、文明二年板碑など、古河公方足利氏が使用を拒んだはずの年紀銘をもっとものがみられ、注目される” 古河市史資料中世編 757頁」 / Twitter]], 午前8:16 · 2020年8月3日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-01-28T06:55:24.000Z]] <https://twitter.com/medieval_oota/status/1290063877208588289>
-- [5] [CITE@ja[太田資正と中世太田領の研究(資正研)さんはTwitterを使っています 「宮代町史通史編には、 “宮代町付近では、下総の古河に移動し、幕府に敵対した足利成氏が使用した「享正」「延徳」の私年号をみることができる。” とあるけれど、古河公方の本拠古河ではこれがみられない。 なんとも不思議。」 / Twitter]], 午前8:19 · 2020年8月3日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-01-28T06:55:24.000Z]] <https://twitter.com/medieval_oota/status/1290064657445564416>
-- [7] [CITE@ja[東行斎さんはTwitterを使っています 「@medieval_oota 二つ考えられます。一つは、成氏自身の独断専行で、成氏のみ私年号を用いていて、その他は公用年号を用いていたのか、二つめは、この板碑は元々古河にあったのではなく、別のところから移動して、古河にあり、私年号の板碑は埋没してしまい、災害等で失われて存在しないのかが考えられます。」 / Twitter]], 午前9:23 · 2020年8月3日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-01-28T09:02:16.000Z]] <https://twitter.com/5X4nBy3lIDmBLSZ/status/1290080775828672519>
- [6] [CITE@ja[太田資正と中世太田領の研究(資正研)さんはTwitterを使っています 「久保常晴『日本私年号の研究』が少し残念なのは、私年号「享正」「延徳」について、板碑の調査がないこと。 宮代町の私年号「享正」「延徳」を銘した板碑の情報は得られません。 そこは残念。」 / Twitter]], 午後1:13 · 2020年8月4日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-01-28T06:55:33.000Z]] <https://twitter.com/medieval_oota/status/1290501035954298881>




]REFS]

-*-*-

[29] 
[TIME[令和3(2021)年][2021]]の図録は、
次のように書いています。
[SRC[>>390 p.[L[28]]]]

- [299] 埼玉県ときがわ町玉川 個人蔵 板碑
享正三年[LINES(smaller)[丙][子]]四月廿四日
-- [303] カラー写真
- [304] 
埼玉県坂戸市森戸旧在 板碑 ([[埼玉県立嵐山史跡の博物館]]所蔵)
享正[LINES(smaller)[二][二]]年四月十三日
- [305] 
旧案主家文書「きょうせん二年」の「ん」を「い」の誤記とする説もあるが当否は判断できない。
- [306] 
干支から康正2(1456)年。
公年号の1文字違い。
板碑様式15世紀中頃で問題なし。


[REFS[

- [390] [CITE[[[中世東国と年号]]]]

]REFS]



-*-*-

[278] 
[CITE[世界大百科事典]]では[[足利成氏]]の治下で使われた[[異年号]]の説明に出現し、
正年号を拒否し[[室町幕府]]に反抗する意志を表すとされています。
[SRC[>>277]]

[365] 
[TIME[昭和41(1966)年][1966]]の辞典は、
[[享正]]を[[室町時代]]の[[私年号]]とし、
継続期間は不明としています。
[SRC[>>73]]

[361] 
[TIME[昭和56(1981)年][1981]]の書籍は、
[[中世]]の[[私年号]]を列挙して紹介する中で、
なぜか[[享正]]を2つ重複して掲載し、

- [363] [V[一四五六、五七]]
- [364] [V[室町時代]]

... と比定年を説明しています。
[SRC[>>27]]

[367] 
[TIME[昭和59(1984)年][1984]]の書籍 (>>361 が出典) は、
>>361 に加えて、読みを「きょうしょう」としています。
[SRC[>>74]]

[439] 
[[享正]]を[[室町時代]]の時期不明の[[私年号]]とするもの [SRC[>>438]]
は、この類の資料からの引用でしょうか。

[455] 
[[千々和到]]の系統の一覧表は、
[[享正]]を[[元年]]が享徳3年に相当するものとしています。
また、
[['''享'''徳]]と[['''享'''正]]の[[共通性を指摘][1字置き換え説]]すると共に、
[[康正]]との[[音通]]ではないかとも指摘しています。
典拠として >>79 >>93 の他に、[[香取文書]]も含めています。
[SRC[>>369]]


[370] 
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]の一覧表は、
初期から[[享正]]を掲載しています。
比定年は初期
「1455年~1457年」
となっていましたが、
[TIME[平成19(2007)年][2007]]に
「1455年」の継続3年に変更されました。
継続年数はその後不明に変更されました。
典拠として[[板碑]]のうちの1つと[[香取文書]]と「など」
というよくわからない形にしています。
[SRC[>>368]]
いずれも根拠は不明です。

[372] 
[[中文]]版[CITE[维基百科]]の一覧表は、
[[享正]]を[[私年号]]として掲載しています。

- [373] [[元年]]は「享德三年(1454年)」
- [374] 継続年数は「5年」
- [375] 「見於埼玉縣相關板碑及《舊案主家文書》[66]。」 ([66] は[CITE[日本私年号の研究]])
- [376] 「關東地區使用的私年號。」

... と説明しています。
[SRC[>>371]]
いずれも根拠は不明です。

[385] 中でも特に5年まで継続というのは独特の説です。


[441] 
その他、[[私年号]]の代表例の1つとして紹介するもの : >>440 >>443

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[277] 
[CITE@ja[享正(きょうしょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク]], [[,世界大百科事典内言及]], [TIME[2026-06-30T08:51:35.000Z]] <https://kotobank.jp/word/%E4%BA%AB%E6%AD%A3-1301208>
]FIGCAPTION]

>[SNIP[]]15世紀後半には関東公方足利成氏の治下で享正・延徳の年号が現れる。いずれも正年号を拒否することで室町幕府に反抗する政治意思がこめられている。[SNIP[]]
>出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

(読みの出典は記載なし)

]FIG]

- [438] 
[CITE@ja-JP[刀剣と歴史 (431)]], [[日本刀剣保存会]], [TIME[1966-05]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T13:23:46.291Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7901125/1/21?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
- [73] 
[CITE@ja-JP[角川日本史辞典]], [[高柳光寿 等編]], [TIME[1966]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-18T08:47:54.900Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2973861/1/499> (要登録)
- [74] 
[CITE@ja-JP[岩手の懸仏]], [[岩手県立博物館]], [TIME[1984.3][1984]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-18T08:48:08.734Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12424053/1/40?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
-
[443] 
[CITE@ja-JP[羽村町の板碑・石仏]], [[羽村町教育委員会]], [TIME[1976]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T13:27:55.267Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12286421/1/29?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
-
[72] 
[CITE@ja-JP[年表日本歴史 3]], [[井上光貞 '''['''ほか''']'''編集]], [TIME[1981.11][1981]], [TIME[2026-04-28T01:12:07.000Z]], [TIME[2026-05-08T12:52:59.929Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12193825/1/89?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
-
[440] 
[CITE@ja-JP[石仏散歩 : ふるさとの信仰をたずねて30コース 埼玉支部15年のあゆみ]], [[日本石仏協会埼玉支部]], [TIME[1994.11][1994]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T13:25:25.318Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13214988/1/6?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
- [369] [[日本私年号一覧表]]
- [368] [[Wikipediaの私年号一覧表]]
--
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]

>
,*私年号 	,*異説 	,*元年相当公年号(西暦) 	,*継続年数 	,*典拠・備考 
,享正 	,- 	,康正元年(1455年) 	,不明 	,埼玉県ときがわ町発見板碑、『旧案主家文書』(『香取文書』)など 
]FIG]
- [371] 
[CITE@zh[日本年號列表 - [[维基百科]],自由的百科全书]], [TIME[2026-06-16T09:29:46.000Z]], [TIME[2026-06-30T10:19:50.255Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B9%B4%E8%99%9F%E5%88%97%E8%A1%A8#%E5%AE%A4%E7%94%BA%E6%99%82%E4%BB%A3>

]REFS]

* □正

[463] 
[[享正]]と関係があるかもしれないとされる「□正」が1例知られています。

** 用例

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [388] [DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[埼玉県]][[川越市]][[大東地区]][[大袋本村]]]] [[大袋東陽寺]] [[板碑]]]]
-- [776] >>15 : [V[[YOKO[776]]号]]
-- [464] [[日本]][[武蔵国]][[入間郡]]
-- [391] >>15 : 白黒写真 (中解像度)
-- [389] 
「[DATA(.text)[[V[□正三年[LINES(smaller)[丙][][[子__&&]&&__]]七月廿五日]]]]」
[SRC[>>15]]

]ITEMS]

[409] 
第1字は磨滅が激しく、字形が不明瞭です。
写真では、他の字と比べても不自然とも思えるくらいに薄くなっています。 [SRC[>>391]]

[412] 
写真や拓本の検討だと[CH[享]]よりは[CH[康]]と判断されます。
[SRC[>>15]]

[411] 
>>391 の白黒写真は大変不明瞭で、どちらとも判断できませんが、
うっすら[CH[享]]と読めるようにも見えます。[CH[广]]の[CH[ノ]]部分が見えません。

[413] 
[CH[子]]と推定される文字の部分も、なんtなく[CH[子]]のような輪郭に見えますが、
字画がない部分もまるで削られたかのような凹みがある風にも見えます。
とはいえ不鮮明な写真では何とも言えません。
[SRC[>>391]]

[392] 
495号板碑 ([TIME[康正3(1457)年][1457]]) と同系とされます。
[SRC[>>15]]

[408] 
様式からこの時代であることは間違いないとされます。
[SRC[>>15]]

** 諸説

[479] 
この[[板碑]]は、[[干支年]]によれば[[享正]]の3つ目の用例かとも思われましたが、
第1字が不明瞭で、[CH[享]]とも[CH[康]]とも考えられています。

[480] [[板碑]]の様式はこの時期で間違いないとされます。

[481] [[享正]]の2つの用例と同じ地域 ([[入間郡]]) 
であることは、容易に無視できません。


** 研究史

[393]
[TIME[昭和60(1985)年][1985]]の史料集は、
>>388
を紹介し、
次のように書いています。
[SRC[>>15]]

- [397] [[年号]]不明としたが、[TIME[享正3(1456)年][1456]]の[[私年号]]板碑のようである
- [396] [[西暦年]]は[FENCED[(][[LINES[1456][〜57]]][)]]
- [395] [TIME[康正3(1457)年][1457]]は丁丑、[[私年号]][TIME[享正3(1456)年][1456]]は丙子
- [398] [[型式]]から[TIME[康正3(1457)年][1457]]は適切な年代
- [399] しかし丙子は康正2年で[[1年ずれ]]
-- [400] [[板碑]]末期にはこういうこともままあるが、
- [401] この頃[[享正]]という[[私年号]]あり
-- >>93 : 享正3年丙子
--- [402] [[干支]]や碑形式から[TIME[康正2(1456)年][1456]]
-- [403] 享正3年とすれば >>388 も[[干支年]]が合うが、
-- [404] [CH[康]]か[CH[享]]か拓本や写真で再検討すると、
--- [405] [CH[康]]に少しばかり分がありそう
- [406] [TIME[1456年][1456]]か[TIME[1457年][1457]]は確かだが、あえて年代不明とした
- [407] ほかに >>79 もある
- [410]  
495号板碑 ([TIME[康正3(1457)年][1457]]) と同系

[REFS[

-
[15] 
[CITE@ja-JP[川越市史 第2巻 別巻 (中世編 板碑)]], [[川越市'''['''総務部''']'''庶務課市史編纂室]], [TIME[1985.3][1985]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T12:16:44.740Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9643550/1/60?keyword=%E4%BA%AB%E6%AD%A3> (要登録)
/61
/235

]REFS]

-*-*-

[462] 
銘文が不明であるためなのか、[[私年号研究]]の文脈で紹介された事例は知られていません。



* きう正

[520] [DFN[きう正]]は、
[[仮名まじり年号]]の1つです。

** 用例

- >>159

** 諸説

[482] 
用例は1例だけ知られています。

[483] 
[[康正]]を表すとの説と[[享正]]を表すとの説があります。[[干支年]]を信じるなら前者ですが、
[[音]]なら後者にやや分があります。

[484] 
[[享正]]の用例検出地域と離れていることや、
[[干支年]]は無視できないことから、
[[康正]]説の妥当性が強いとは思われるものの、
いかなる理由で「きう」と表記されるに至ったのか、何らか穏当な解釈は必要です。

** 研究史

[519] 
[TIME[明治41(1908)年][1908]]の
[CITE[香取文書纂]]の翻刻は「きう正年丁丑」としており、
[[頭注]]に[[きう正]]は[[康正]]なるべし (康正3年丁丑 = 長禄元年) とあります
[SRC[>>378 /18]]。
康正3年5月10日と長禄3年の間に排列されています。

-*-*-


[259] 
昭和42年の
[CITE[日本私年号の研究]]は、
[[仮名まじり年号]]の1つとして[[きう正]]を紹介し、
[[室町時代]]としています。 [SRC[>>9 p.[V[一八󠄃五]]]]

[207] 
また、
>>197
を[[享正]]の資料として紹介し、
[[きようせん]]と共に、次のように述べています。
[SRC[>>143]]

- [208] 「きう」は「こう」の誤りで[[康正]]とも考えられるが、
- [209] 「きやう正」すなわち[[享正]]とも考えられ、検討が必要
- >>210 : 「きうとく」 = [[享徳]]
-- [216] よって、[[きう正]]は[[享正]]にあたると考えられる
- [217] [[大畠村]]関係文書の内容の比較により、
-- [218] 1: きうとく4年 → きょうせん2年、ただし逆の可能性もある
-- [219] 2: きう正3年 ≒ 康正2年
-- [220] 3: きうとく4年 → きう正3年/康正2年, きゃうとく5年 → きう正3年/康正2年
-- [221] 4: きょうせん2年 = きうとく4年
-- [222] 5: きやうとく(享徳)5年 = 康正2年 = 丙子年、
--- [223] 4よりきようせん(享正)2年 = きうとく(享徳)4年とすれば、
享正元年 = 享徳3年
--- [224] 資料1より享正3年 = 康正2年丙子と仮定すれば、
享正元年 = 享徳3年
- [225] 2, 3, 5 からきう正3年 = 享正3年 = 康正2年とも考えられるが、
-- [226] きう正3年丁丑と康正2年丙子は[[1年ずれ]]
- [227] 「きう正」 = 「きゃう正」 = 享正ではなく、
[[公年号]]の康正の誤りの可能性も強い

-*-*-

[447] 
[[香取文書]]の注釈等と[CITE[日本私年号の研究]]とその引用を除くと、ほとんど言及すら見当たりません。


* 享徳あらため・・・


[ITEMS[ [[日時事例]]

- [31] 
[DATA(.label)[[[香取社新福寺文書]] [CITE[多田延家寄進状写]]]]
-- [32] 
「[DATA(.text)[[V[[DEL[享]] 康正三年[SUP(smaller)[丁]][SUB(smaller)[丑]]九月廿一日]]]]」
([[草書]])
[SRC[>>148]]
--- [33] 「康正」の上に「享」と書いて打ち消している。
--- [34] >>148 に
[[色川三中]]の影写 ([[静嘉堂文庫]]所蔵) の写真あり。
--- [36] >>35 に[[明治時代]]の[[翻刻]]があるが、「享」については記載なし。

]ITEMS]


[37] 
[[平成時代]]の歴史研究者[[山田邦明]]は、
[[香取]]地域の政治情勢と結びつけ ([SEE[ [[関東の延長年号]] ]])、
近隣の[[古河公方]][[足利成氏]]方では[[享徳]]を使っていたために、
つい「享」と書いたものの、[[上杉]]方の[[香取]]で使われていた[[康正]]に書き直したと考えました。
[SRC[>>148]]

;; [460] 
ところでこの指摘の通り当時の[[香取郡]]が[[上杉]]方勢力圏だったとすると、
[[香取文書]]の[[仮名書年号]]を[[享正]]と関連付け、
[[足利成氏]]関連の[[私年号]]と結論付ける従来説は再検討せざるを得なくなります。

-*-*-

[ITEMS[ [[日時事例]]

-[512] 
[DATA(.label)[[[香取田所家文書]]]]
「[DATA(.text)[[V[くわん正四年八月廿二日]]]]」 ([[草書]])
[SRC[>>511 /51]]
-- [39] 
>>148 に写真あり
-- [513] 
[TIME(.value)[日本寛正4(1463)年癸未8月22日][kyuureki:1463-08-22]]
- [38] 「くわん正五年」「くわん正六年」 [SEE[ [[仮名書き年号]] ]]

]ITEMS]

[40] 
>>512 の[[元号名]]の前半は[[仮名]]らしき3文字くらいの文字塊がありますが、
>>148 の写真では字形の判別がなかなか難しい状態です。
>>148 は、「くわん」と3文字がかなり太く書かれていて、
その奥に細めの文字があり、よく判読できないものの、
「きやう」と書かれていたようだとしています。
(>>511 には注釈もなし。)

[41] 
[[平成時代]]の歴史研究者[[山田邦明]]は、
「きやう徳」 ([[享徳]]) と書こうとして、誤りに気づいて「くわん正」
に直したと考えました。
[SRC[>>148]]

[42] 
[[山田邦明]]は、これら (>>31 >>512) の事例から、[[香取]]では[[公年号]]が使われていたものの、
周辺の[[古河公方]]の勢力圏の[[享徳]]の[[延長年号]]の影響を受けていた、
[[享徳]]が一定の影響力を持ち続けた、
としました。
[SRC[>>148]]

[43] 
前者 (>>31) の康正3年9月は、この地域では享徳5年11月まで[[享徳]]が使われていたことが知られており
([SEE[ [[享徳]], [[康正]] ]])、康正3年はその翌年に当たりますから、
つい癖で旧年号を書いてしまっただけとも受け取れます。
新元号切り替えから半年以上経過していてちょっと時間が経ちすぎている感はありますが、
ままあり得る範囲でしょう。
しかし寛正4年はそれからあまりに時間が経ちすぎていますから、
それだけでは説明がつきません。 


[REFS[

-
[511] 
[CITE@ja-JP[[[香取文書纂]] 巻之8]], [[伊藤泰歳, 村岡良弼 校]], [TIME[明39-41][1908]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-17T13:41:59.208Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/815206/1/51> (要登録)
- [35] 
[CITE@ja-JP[[[香取文書纂]] 巻之17,18]], [[伊藤泰歳, 村岡良弼 校]], [TIME[明39-41][1908]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-20T12:43:10.696Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/815214/1/29> (要登録)
- [148] 
[CITE[[[香取文書にみる中世の年号意識]]]]

]REFS]



* きやうせん

[394] 
[DFN[きやうせん]] ([TIME[y~2237]])
は、
[[仮名書き年号]]の1つです。

** 用例

- >>380

** 諸説

[485] 
1例のみ知られています。

[486] 
[[享徳]]説と[[享正]]説があります。

[487] 
[[享徳]]説の主な根拠は類似文書の存在ですが、
なぜ2つあるのか (案? なぜこれだけ?) 説明が必要なのと、
後半の音も文字も類似せず、
なぜ誤った(?)のか説明が必要です。

[488] 
[[享正]]説の主な根拠は音の類似ですが、
[CH[い]]を[CH[ん]]と誤ったとする説明が妥当かどうか、
不安なところがあります。また、
[[享正]]の用例が報告されている地域と[[香取郡]]は距離があります。

[489] 
[[干支年]]も他の用例もなく、現時点では断定的なことを述べるのは困難です。



** 研究史

[382] 
[TIME[明治41(1908)年][1908]]の
[CITE[香取文書纂]]
の注釈は、
「きやうせん」
はどんな[[漢字]]か未だ不明であり、
[[福徳]]、[[弥勒]]のような[[異年號]]だ、
としました。
[SRC[>>378, >>289 /232]]

[383] 
同書で[[色川三中]]は、
[[異年号]]の説明の流れで触れて、
[[漢字]]表記もわからないため年不明に配列したと述べていました。
[SRC[>>379]]

[REFS[

-
[377] 
[CITE@ja-JP[[[香取文書纂]] 巻之1,2]], [[伊藤泰歳, 村岡良弼 校]], [TIME[明39-41][1908]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-22T00:19:58.289Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/815200/1/10> (要登録)
--
[379] 
[CSECTION[[V[凡例]]]], [[[V[色川三中]]]]

]REFS]

[333] 
[TIME[昭和32(1957)年][1957]]の
[CIT[千葉県史料]]は、
単独で掲載せずに
>>141
の注釈で触れて、

- [250] >>380 について日付「きやうせん二年卯月廿六日」と >>141 との差分のみを書き、
- [251] [CITE[香取文書纂]]の編者[[伊藤泰歳]]が「きやうせん」は[[異年号]]とするが、
- [252] 恐らく「きやうとく」の誤字だろう

... と述べています。
[SRC[>>289 /232]]


[384] 
その根拠は明記されていませんが、
享徳2年 (>>141) とほぼ同文であることや、
同村の「きやうとく二年卯月廿六日」文書があるためでしょうか。




-*-*-

[200] 
昭和42年の
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
>>197
を[[享正]]の[V[資料[YOKO[3]]]]として紹介し、
[[公年号]]にも[[私年号]]にも「きようせん」はなく、
年号名としても不適当であり、
おそらく[CH[ん]]は[CH[い]]の誤りで、
[[享正]]ではなかろうか、
としています。
また、
>>207
で[[きう正]]と共に検討されています。
[SRC[>>143]]

;; [201] 「年号名としても不適当」とはどういうことか、よくわかりません。

[236] 
また、
[[享正]]の[V[資料[YOKO[5]]]]として、

- [237] [CITE[香取文書]]の >>141 の次に書かれている :
-- [238] >>380 について日付「きやうせん三年卯月廿六日」と >>141 との差分のみを書き、
-- [239] [CITE[香取文書纂]]の編者[[伊藤泰歳]]が「きやうせん」は[[異年号]]とするが、
-- [240] 恐らく「きやうとく」の誤字だろう

... を紹介しています。 [SRC[>>143]]

[241] 
それについて、[[伊藤泰歳]]の見解を評価して[CITE[香取文書]]編者の見解は否定し、
[[享徳]]とは認められず、 >>200 >>207 と同じで[[享正]]とみられる、
としています。
[SRC[>>143]]

[199] 
[CITE[日本私年号の研究]]は >>197 で「きようせん二年」とし、
>>238 で「きやうせん三年」としていますが、
おそらくどちらも同じ >>380 の「きやうせん二年」
を指すと思われます。


[244] 
[[久保常晴]]が[[香取文書]]の情報をいつの何から引いたのかは不明ですが、
>>237 に該当する注釈が
>>1289 /232
にあり、ここでは「きやうせん二年」となっています。
[CITE[香取文書纂]]でも「きやうせん二年」となっています (>>380)。

-*-*-

[268] 
[TIME[令和6(2024)年][2024]]の[[香取文書]]目録は、
>>380
について、

>
[LEFT[
「きやうせん二年」は私年号か。新53の注[BR[]]
記を見よ。
]LEFT]

と注釈しています。 [SRC[>>566]]

[REFS[

-
[566] 
[TIME[2025-11-19T10:07:15.000Z]]
<https://tsuru.repo.nii.ac.jp/record/2000111/files/%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%96%87%E6%9B%B8%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8%E3%80%80%E9%A6%99%E5%8F%96%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E4%BF%9D%E5%AD%98%E3%81%AB%E5%90%91%E3%81%91%E3%81%9F%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E7%9A%84%E7%A0%94%E7%A9%B6%20.pdf>
#page=23

]REFS]


-*-*-

[448] 
[[香取文書]]の注釈等と[CITE[日本私年号の研究]]とその引用を除くと、ほとんど言及すら見当たりません。


* ほうとく、きやうとく、きうとく、けうとく

[235] 
[DFN[𛂰うとく]] ([DFN[ほうとく]]),
[DFN[きやうとく]],
[DFN[きうとく]],
[DFN[けうとく]],
[DFN[九うとく]]は、
[[香取文書]]に用例のある[[仮名書年号]]です。

** 用例


[ITEMS[ [[日時事例]]

-
[309] 
[[旧案主文書]] 一二四 [CITE(.label)[丁古村麦畠検注取帳]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]𛂰うとく二年卯月廿日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /227]]
-
[310] 
[[旧案主文書]] 一二五 [CITE(.label)[大畠村麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]𛂰うとく二年卯月廿三日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /227]]
-
[311] 
[[旧案主文書]] 一二六 [CITE(.label)[大畠村麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]𛂰うとく二年卯月廿[ASIS[□][2字分,開]]    [ASIS[□][2字分,閉]]]]]]」
[SRC[>>1289 /227]]
-
[312] 
[[旧案主文書]] 一二七 [CITE(.label)[津宮村麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]𛂰うとく二年卯月廿四日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /228]]
-
[313] 
[[旧案主文書]] 一二八 [CITE(.label)[大畠村水喰麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]𛂰うとく二年五月十二日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /228]]
-
[314] 
[[旧案主文書]] 一二九 [CITE(.label)[大畠村横宇麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]𛂰うとく二年五月十二日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /228]]
-- [338] 端裏書「[V[庚午[SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /228]]
-
[315] 
[[旧案主文書]] 一三〇 [CITE(.label)[吉原村麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]𛂰うとく二年五月十九日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /229]]
-
[316] 
[[旧案主文書]] 一三一 [CITE(.label)[津宮村司早田検注取帳]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]寶德二年[LINES(smaller)[庚][午]]八󠄂月廿六日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /229]]
-- [317] 
[TIME(.value)[日本宝徳2(1450)年庚午8月26日][kyuureki:1450-08-26]]
-- [339] 端裏書「[V[庚午[SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /229]]
-
[318] 
[[旧案主文書]] 一三二 [CITE(.label)[津宮村麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]𛂰うとく[RUBY[二年][(三カ)]]卯月□□[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /229]]
-- [340] 端裏書「[V[かのとのひつし[SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /229]]
-
[319] 
[[旧案主文書]] 一三三 [CITE(.label)[大畠村麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]𛂰うとく三年卯月廿九日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /229]]
-- [341] 端裏書「[V[かのとのひつし[SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /229]]
-
[320] 
[[旧案主文書]] 一三四 [CITE(.label)[津宮村麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]□□□□[RUBY[二年][(三カ)]]卯月卅日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /230]]
-- [342] 端裏書「[V[かのと𛂛ひつし[SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /230]]
-
[321] 
[[旧案主文書]] 一三五 [CITE(.label)[大畠村水喰麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]𛂰うとく三年五月十七日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /230]]
-- [343] 端裏書「[V[かのとのひつし[SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /230]]
-
[322] 
[[旧案主文書]] 一三六 [CITE(.label)[新部村麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]□□□□□年五月□□日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /230]]
-- [344] 端裏書「[V[かのとのひつし[SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /230]]
-
[137] 
[[旧案主文書]] 一三七 [CITE(.label)[相根村麦畠検注取帳案]]
-- [323] 
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]𛂰うとく[LINES(smaller)[二][二]]年八󠄂[RUBY[月四][ミつのへ][さる]]日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /230]]
---
[324] 
[TIME(.value)[日本宝徳4(1252)年壬申8月4日][kyuureki:1252-08-04]]
---[325] 
[TIME[宝徳4年7月25日][1252-07-25]][[改元]] [[延長年号]] +1月
-
[326] 
[[旧案主文書]] 一三八 [CITE(.label)[佐原村司早田検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]𛂰うとく[LINES(smaller)[二][二]]年八󠄂月六日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /231]]
--
[327] 
[TIME(.value)[日本宝徳4(1252)年8月6日][kyuureki:1252-08-06]]
---[328] [[延長年号]] +1月
-
[329] 
[[旧案主文書]] 一三九 [CITE(.label)[津宮村早田検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]𛂰うとく[LINES(smaller)[二][二]]年八󠄂月十三日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /231]]
-- [345] 端裏書「[V[ミつのへさる[SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /231]]
--
[330] 
[TIME(.value)[日本宝徳4(1252)年8月13日][kyuureki:1252-08-13]]
---[331] [[延長年号]] +1月
-
[141] 
[[旧案主文書]] 一四一 [CITE(.label)[大畠村横宇麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]享德二年[LINES(smaller)[ミつのとの][と__&&swc42(り)&&__]]卯月廿四日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /231]]
-- [347] 端裏書「[V[[LINES(smaller)[ミつのとの][と__&&swc42(り)&&__]][SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /231]]
-
[380] 
[DATA(.label)[[[旧案主文書]] [CITE[きやうせん二年卯月廿六日大畠村麦畠検注取帳]]]]
-- [265] >>566 : [L[6-38]]
-- [266] >>566 県史 : [L[新53]]
--
[381] 「[DATA(.text)[[V[きやうせん二年卯月廿六日]]]]」
[SRC[>>378]]
--- [267] きやうせん2年4月26日 [SRC[>>265]]
--- [197] 
[DATA(.label)[[[旧案主家文書]] [CITE[大畠村麦畠検注取帳]]]]
「[DATA(.text)[[V[きようせん二年]]]]」
[SRC[>>143]]
---- [198] >>143 : [V[資料[YOKO[3]]]]
--- [242] 
[DATA(.label)[[[旧案主家文書]] [[大畠村]] 検注帳]]
「[DATA(.text)[きやうせん三年卯月廿六日]]」
[SRC[>>143]]
---- [243] >>143 : [V[資料[YOKO[5]]]] 引用文内
--- >>199
-
[332] 
[[旧案主文書]] 一四二 [CITE(.label)[大畠村麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]きやうとく二年卯月廿六日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>289 /232]]
-- [348] 端裏書「[V[ミつのとのと__&&swc42(り)&&__[SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /232]]
-
[334] 
[[旧案主文書]] 一四五 [CITE(.label)[津宮村麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]きやうとく三年五月十一日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>289 /232]]
-- [228] 端裏書「[V[きのへいぬ[SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /232]]
-
[335] 
[[旧案主文書]] 一四六 [CITE(.label)[新部村司新田検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]][RUBY[□□][享德カ)]]三年九月十三日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /232]]
-
[336] 
[[旧案主文書]] 一四七 [CITE(.label)[丁吉村麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]きうとく四年卯月十三日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /233]]
-
[337] 
[[旧案主文書]] 一四八 [CITE(.label)[大畠村麦畠検注取帳断簡]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]きうとく四年卯月十六日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /233]]
-- [229] 端裏書「[V[□□□の井[SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /233]]
-
[350] 
[[旧案主文書]] 一四九 [CITE(.label)[大畠村横宇麦畠検注取帳案]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]きうとく四年卯月十七日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /233]]
-- [349] [DATA(.label)[端裏書]]「[V[きのとの井[SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /233]]
-
[150]
[[旧案主文書]] 一五〇 [CITE(.label)[返田村麦畠検注取帳断簡]]
-- [351] 
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]きうとく四年卯月十八󠄂日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /234, >>378 /15]]
-- [230] 端裏書「[V[□□□の井[SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /234]]
-
[153]
[[旧案主文書]] 一五三 [CITE(.label)[津宮村麦畠検注取帳案]]
-- [353] 
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]きうとく五年四月廿一日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /234, >>378 /15]]
-
[154]
[[旧案主文書]] 一五四 [CITE(.label)[大畠村横宇麦畠検注取帳案]]
-- [354] 
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]きやうとく五年五月十二日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /234, >>378 /15]]
-
[155] 
[[旧案主文書]] 一五五 [CITE(.label)[新部村麦畠検注取帳案]]
-- [256] 
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]きうとく五年五月十五日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /235, >>378 /16]]
-
[156] 
[[旧案主文書]] 一五六 [CITE(.label)[相根村麦畠検注取帳断簡]]
-- [253] 
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]][RUBY[九][(けヵ)]]うとく五年关酉七月廿八󠄂日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /235]]
--- [255] 
「[DATA(.text)[[V[けうとく五年癸酉七月廿八日]]]]」
[SRC[>>378 /16]]
-- [352] 端裏書「[V[[LINES(smaller)[癸][酉]][SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /235]]
-- [231] 
[CH[九]]は誤記か、それとも[[変体仮名]][CH[𛀭]] (通常は「く」) か。
-- [232] [DATA(.label)[[CITE[日本私年号の研究]]本文]]「[DATA(.text)[九うとく]]」
[SRC[>>9 p.[V[一八󠄃五]]]]
--- [233] [[室町時代]] [SRC[>>6 p.[V[一八󠄃五]]]]
--- [366] 具体例・出典は明記されていない。
-
[157] 
[[旧案主文書]] 一五七 [CITE(.label)[相根村麦畠検注取帳案]]
-- [254] 
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]けうとく五年[LINES(smaller)[みつのとの][と__&&swc42(り)&&__]]七月廿八󠄂日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /235, >>378 /17]]
-
[158] 
[[旧案主文書]] 一五八 [CITE(.label)[津宮村麦畠検注取帳案]]
-- [257] 
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]康正二年[LINES(smaller)[丁][丑]]五月十日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /236]]
-- [261] 
「[DATA(.text)[[V[康正三年[LINES(smaller)[丁][丑]]五月十日]]]]」
[SRC[>>378 /18]]
-- [245] 「二年」説と「三年」説があり、正誤表もあって混沌としている [SEE[ [[1年ずれ康正]] ]]
-- [359] 端裏書「[V[[LINES(smaller)[丁][丑]][SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /236]]
-
[159] [DATA(.label)[[[旧案主文書]] 一五九 [CITE[大畠村横宇麦畠検注取帳案]]]]
-- [205] >>1289 : [[旧案主文書]] 一五九
-- [206] >>143 : [V[資料[YOKO[4]]]]
-- [203] 
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]きう正三年[RUBYB[[LINES(smaller)[丁][之]]][(丑)]]五月十四日[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>1289 /236]]
--- [204] 
「[DATA(.text)[[V[きう正三[LINES(smaller)[丁][之(丑)]]]]]]」
[SRC[>>206]]
--- [518] 
「[V[きう正年[LINES(smaller)[丁][丑]]五月十四日]]」
[SRC[>>378 /18]]
-- [362] 端裏書「[V[[RUBYB[[LINES(smaller)[丁][之]]][(丑)]][SNIP[]]]]」
[SRC[>>1289 /236]]

]ITEMS]

[REFS[

-
[378] 
[CITE@ja-JP[[[香取文書纂]] 巻之11]], [[伊藤泰歳, 村岡良弼 校]], [TIME[明39-41][1908]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-22T00:20:32.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/815209/1/32> (要登録)
-
[1289] 
[CITE@ja-JP[[[千葉県史料]] 中世篇 香取文書]], [[千葉県史編纂審議会]], [TIME[1957]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-21T14:17:55.433Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3450860/1/236> (要登録)

]REFS]

** 諸説

[269] 
本項の[[仮名書年号]] (や[[長禄]]など) は、[[香取文書]]に用例がまとまって出現します。
一見容易に[[公年号]]の[[漢字]]表記と対応付けられそうですが、
少々不安のあるものも混じっています。

[270] 
一応、通説的解釈は

- [[寶徳]]
-- [[𛂰うとく]] ●
- [[享徳]]
-- [[きやうとく]] ○
-- [[きうとく]] ○
-- [[けうとく]] ×
-- [[九うとく]] ×
- [[長禄]]
-- [[ちやう六く]] ○
- 要検討
-- [[きう正]]
-- [[きやうせん]]

... という対応付けと思われます。

[271] 
明示的な論証は多くないですが (例: >>234)、
改めて[[干支年]]で確認すると、
[CH[●]]
は文中[[干支年]]付きの例があって一致し、
[CH[○]]
は[[端裏書]]に[[干支年]]のある例があって一致し、
[CH[×]]
は文中[[干支年]]の例があって一致しません。

[272] 
[[けうとく]]・[[九うとく]]の5年は計2例あり、いずれも[[癸酉]]と文中に明記されています。
一応[TIME[享徳5(1456)年丙子][1456]]と解釈されているものの、
[[干支]]不一致に疑問もあります (>>264)。

[273] 
[[癸酉]]年は享徳2年ですが、[[延長年号]]でちょうど[TIME[宝徳5(1453)年癸酉][1453]]です。
これらを宝徳5年とみなしたとき矛盾する別文書も存在していません。
だとすると、[CH[け]]や[CH[九]]と読まれていた文字は、
[CH[ほ]]の[[異体字]]の誤読だったか、あるいは当時の誤記か発音の揺れのようなものだったか、
という可能性が出てきます。
(>>137 に[V[𛂰うとく四年]]があるので、発音違い説の蓋然性は低いかもしれません。)

[275] 
もし[[けうとく]]が[[宝徳]]なら、[[けうとく]]もそうである可能性は、
ということになりますが、[[けうとく]]は[[干支年]]が[[享徳]]と一致しています。
ただし、こちらは[[端裏書]]だけです。[[端裏書]]が正しいか、同時代的に書かれたものか、
が問題となってきます。偶然なのか、[[きうとく]]も4年と5年しかなく、
[[宝徳]]だとしても別文書と直ちには矛盾しません (が、
記載内容の増減が自然かどうかは検討が必要です)。

[276] 
[[きうとく]]も[[宝徳]]だと考えることができれば、
[[きやうとく]]と[[きうとく]]の2表記の混在の問題を解消できます。
しかし、その場合は[[𛂰うとく]]と[[きうとく]]の2表記の混在の問題が新たに生じます。
[CH[き]]と読まれたものが誤記または誤読で実際は[CH[ほ]]なのか、
といったことを考える必要が出てきます。


** 研究史

[262] 
[TIME[明治41(1908)年][1908]]の
[CITE[香取文書纂]]
は、
特に説明を加えていませんが、

- [[寶徳]]
- [[ほうとく]]

... を同一とし、

- [[享徳]]
- [[きやうとく]]
- [[きうとく]]
- [[けうとく]]

... を同一として配列しています
[SRC[>>378]]。

[263] 
[TIME[昭和32(1957)年][1957]]の
[CITE[千葉県史料]]
版
[CITE[香取文書]]
は、
>>262
の判定を踏襲しているようです。文字の読み方が一部違うため、

- [[𛂰うとく]]

... を前者に含め、

- [[九うとく]]

... を後者に含めています。
[SRC[>>1289]]

[264] 
ただし、
>>156
の「九うとく五年癸酉」について、[CH[九]]に[V[(けヵ)]]と注釈しつつ、
享徳5年 = 康正2年丙子と[[干支]]が異なり、
癸酉は享徳2年である、
と注釈しています。
[SRC[>>1289 /235]]


-*-*-

[450] 
[TIME[昭和25(1950)年]]の[CITE[年号読方考証稿]]は、
「きやうとく三年」 (と「くわん正」)
を掲載していますが、
それ以外のこの近辺の時期には[[香取文書]]から掲載していません。
[SRC[>>449]]

[451] 
[[元号名の読み方]]の検討には絶好の材料のはずで、
ほかの[[仮名書年号]]を見なかったとも考えにくいのですが、
漢字[[公年号]]との同定に問題があり材料として不適当と考えたのでしょうか。

[452] 
[[𛂰うとく]]もほかの文書から採集して[[香取文書]]からは掲載していないのは、
どういうことでしょう。


[REFS[

- [449] 
[CITE@ja-JP[年号読方考証稿]], [[山田孝雄]], [TIME[1950]], [TIME[2026-06-30T01:10:51.000Z]], [TIME[2026-06-30T13:38:57.264Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2987540/1/76?keyword=%E9%A6%99%E5%8F%96> (要登録)

]REFS]

-*-*-



[234] 
昭和42年の
[CITE[日本私年号の研究]]
の[[享正]]の考察において、
次のようにあります。
[SRC[>>143]]

- [210] [[旧案主家文書]]中「きう」の年号名を持つもの、 
「きうとく四年」4例、「きうとく五年」2例
-- [211] うち1つの端裏書に「きのとの井」 = 乙亥
-- [212] [[旧案主家文書]]の[[仮名書年号]]は[[室町時代]]に多く、
-- [213] [[乙亥年]]は応永2年、康正元年、享徳4年、永正12年、天正3年
-- [214] 4年乙亥は[[享徳]]のみ
-- [215] 「きうとく」 = [[享徳]]、「きう」は「きやう」の[CH[や]]を省略した[CH[享]]


* 1年ずれ康正

[SEE[ [[1年ずれ康正]] ]]


* 関連

[SEE[ [[享正 (日本奥州)]] ]]


[475] 時系列:

- [476] [TIME[享徳4(1455)年7月25日乙亥][kyuureki:1455-07-25]]、[[康正]]に[[改元]]
- [477] [TIME[康正3(1457)年9月28日丁丑][kyuureki:1457-09-28]]、[[長禄]]に[[改元]]



* メモ