* 元和 (日本)

** 元咊, 元龢

[9] 
[[元号名]]は[[異体字]]により[DFN[元咊]], [DFN[元龢]]と表記することがままあります。


[REFS[
- 
[447] 
[CITE[中近世移行期の文化と古活字版]],
[[高木浩明]],
[TIME[二〇二〇年十二月十日][2020-12-10]] 初版発行
-- [448] [CITE@ja-jp[[[中近世移行期の文化と古活字版]] | [[高木浩明]] |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2021-02-23T02:24:57.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4585200770/wakaba1-22/>
]REFS]

- [2] 
[[内閣文庫]]蔵 [CITE[孔子家語]] [[古活字版]]
([[請求番号]]: [V[二九八―一六]])
-- [3] 
第二冊巻四
巻末[[識語]] (墨で消去)
「[V[元咊八󠄂年春二月十日[SNIP[]]]]」
[SRC[>>447 p.598]]
-- [4] 
第四冊巻八
巻末[[識語]] (墨で消去)
「[V[元咊捌秊仲春□[SNIP[]]]]」
[SRC[>>447 p.598]]
- [5] 
[[慶應義塾大学]]図書館所蔵 [CITE[北渓先生性理字義]] [[古活字版]]
([[請求番号]]: [V[一一〇X―一一六]])
上巻巻末識語
「[V[元龢四徒維敦牂季夏廿日]]」
[SRC[>>447 p.602]]
-- [6] 徒維 = 戊
-- [7] 敦牂 = 午

** 亢和

[43] 
[[元号名]]が[DFN[亢和]]のように読める[[板碑]]が1例あります。

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [44] 
[DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[宮崎県]][[日向市]][[大字財光寺]]]] [[定善寺]] 北壇北向き東から3基目 [[題目板碑]]]]
-- [45] 
「[DATA(.text)[[V[亢和二十年六月二]]]]」
[SRC[>>10]]
-- [46] >>10 に銘文カラー写真

]ITEMS]

[11] >>10 の写真によると、磨滅によりやや不明瞭な箇所がありながらも、
確かに「亢和」と彫られているように見えます。
第1画は垂直に近い。

[48] 
[[元和]]の異表記、癖字ないし誤字のようにも思われます。
ところが[[元和]]は10年で[[寛永]]に[[改元]]されています。
10年もの[[延長年号]]は異常です。

[49] そこで[[私年号]]とする説があります [SRC[>>10]]。

[47] 
この板碑群はある時期に近隣から集めたそうで、いろいろな時代のものが混在しています。

[40] >>39 は元和10年の[[題目板碑]]。これの1文字目は明確に[CH[元]]。
[CH[フ]]のような2画の書き方が[CH[亢]]と明らかに違う。
ただ1角目が垂直の[CH[亠]]に近いのはこちらも同じ。


;;
[41] 
[[久保常晴]]の[CITE[宮崎県の題目板碑]]という[[論文]]で[[定善寺]]の板碑も紹介していますけど
[SRC[>>42]]、
[[慶長]]までが対象で、当[[板碑]]に相当すると思われるものは掲載されていません。
[[定善寺]]板碑群は実見していなかったみたいです。
残念なニアミスですね。

;;
[76] 
地元[[文化財行政]]職員の[[緒方博文]]の
[CITE[[V[県北部の題目板碑について[BR[]][WEAK(smaller)[⸺本山定善寺の石塔群を中心に⸺]]]]]]
は[[定善寺]]関係の[[板碑]]を紹介していますが、
当[[板碑]]を含む[[板碑]]群は対象外で掲載されていません。
ここでもニアミスです...
ちなみにこの論文には調査対象の[[板碑]]がその後開発のため廃棄されたなどの残念な現実にも言及があります......

[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[

[10] [CITE[[[定善寺]](じょうぜんじ)題目板碑(北壇)]], [TIME[2015-09-01T02:07:00.000Z]], [TIME[2022-12-25T11:25:58.894Z]] <https://kawai24.sakura.ne.jp/miyazaki-hyuga-jyuzenji-24.html>

]FIGCAPTION]

>亢和(?)二十年という紀年銘がある題目板碑で、偈頌(げじゅ)は刻まれていない。

>
刻銘:「亢和(?)二十年六月二 、孝子」
>
年号は元和と思ったが、元和は十年で改元されている。本板碑群の造立された室町後期~江戸前期に
>
二十年まで続く年号は限られており、そのどれもにも該当しない。よって、私年号と思われる。

]FIG]


- [42] 
[TIME[2024-03-12T04:50:05.600Z]]
<https://rissho.repo.nii.ac.jp/record/5272/files/KJ00000161220.pdf>
- [39] 
[CITE[[[定善寺]](じょうぜんじ)元和十年銘 題目板碑]], [TIME[2015-09-01T02:06:00.000Z]], [TIME[2024-03-11T13:34:06.653Z]] <https://kawai24.sakura.ne.jp/miyazaki-hyuga-jyuzenji-19.html>


]REFS]

-*-*-

[50] 
[CH[元]]を[CH[亢]]のように書く事例があるのかどうかといえば、微妙なところです。

[12] 
[CITE[くずし字解読辞典  [WEAK(quarter)[普及版]]]], p.45 の
3050 (元)、
3052 (充)
は第1画が点の字形ながらも、写真の字形と似ています。
第2画と第3画はつながっている点は違いますが。

[51] ということはやはり写真の字形は[CH[元]]と読み得るのではないか。

[17] [CITE@ja-JP[南方文化 = Tenri Bulletin of South Asian Studies (13)]], [[天理南方文化研究会]], [TIME[1986-11]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T11:36:43.738Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7947642/1/76> (要登録)

行書「元和八年」。「元」は >>12 3050 に近い字形、
第2画と第3画の連なりは「フ」に近いという点は少し違う。
[[OCR]] は 「亢」と誤読。

[13] [CITE@ja-JP[日本刀研究便覧]], [[内田疎天]], [TIME[昭和9][1934]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T11:30:47.170Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1235416/1/289> (要登録)

刀銘の模写、「元和三年二月日」。「元」の第1画が点、[[OCR]] は「亢」と誤読。

[14] [CITE@ja-JP[張州雑志 第7巻]], [[内藤東甫]], [TIME[1976]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T11:32:17.767Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537303/1/267> (要登録)

手書き楷書「元和八  戌年」。「元」の第1画は点、第2画と第3画が「フ」と連なる点は件の字形とは違う。
[[OCR]] は 「亢」と誤読。

[15] [CITE@ja-JP[日本古典全集 古代數學集(上)]], [[正宗敦夫]], [TIME[昭和2][1927]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T11:34:01.871Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1912628/1/22> (要登録)

手書きやや崩れた楷書「元和八年初春」。「元」は >>14 と似た字形、
[[OCR]] は 「亢」と誤読。

[16] [CITE@ja-JP[図説福島県史]], [[福島県図書教材]], [TIME[1972]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T11:35:13.350Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536550/1/117> (要登録)

左ページ中央写真、手書き楷書「元和七年」。「元」は >>14 に近いがやや第1画が垂直に近い。
[[OCR]] は 「亢」と誤読。

-*-*-

[52] 
[[元和]]20年の[[延長年号]]の用例は少しだけあります。

[18] [CITE[12_omote.pdf]], [TIME[2020-08-25T08:08:39.000Z]], [TIME[2022-12-25T11:40:23.330Z]] <https://nagoyaengei.co.jp/osusume/201612/12_omote.pdf>

「元和二十」と翻刻。原文写真を見るとたしかにそう書かれているように見える。

他の行は年月日を「元和九十卄四」 (元和9年10月24日) のように略記している。
なら「元和二十」は元和2年10月の可能性がある。

[19] [CITE@ja-JP[白桃 : 歌集]], [[斎藤茂吉]], [TIME[昭和17][1942]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T11:47:41.977Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1128037/1/62>

[20] [CITE@ja[時制の変調 - 天野 翔のうた日記]], [TIME[2022-12-25T11:49:22.000Z]] <https://amanokakeru.hatenablog.jp/entry/2019/03/14/000901>

>元和二十年十月二日にみまかりし慈眼大師は長生(ながいき)をせり 

[21] 
[[斎藤茂吉]]の歌。
[[慈眼大師]][[天海]]は[TIME[寛永20(1643)年10月2日][kyuureki:1643-10-02]]没。
[[寛永]]は[TIME[元和10(1624)年][1624]]に改元。

[22] 
当時元和20年と書かれたとされるものは見当たらない。
[[近世]]に[[改元]]後10年も続く[[延長年号]]があったとは考えにくい。

[53] 
このように前後の[[元号]]を取り違える事例は他にもままある (すごく多い訳では無い)。

** 延長年号

[77] 
[CITE@ja-JP[九州史学 (94)]], [[九州史学研究会]], [TIME[1989-03]], [TIME[2025-10-29T01:48:45.000Z]], [TIME[2025-10-31T07:53:34.358Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4413093/1/18?keyword=%E6%94%B9%E5%85%83> (要登録)


*** 元和13年


[ITEMS[ [[日時事例]]

- [59] 
[DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[上落合]][RUBY[立場][たちんば]]]]近く [[大石五郎右衛門]]墓]]
-- [64] 
現在の[DATA(.addr)[[[日本国]][[静岡県]][[静岡市]][[葵区]][[上落合]]]]
-- [65] 
「[DATA(.text)[元和十三天十一月七日]]」 [SRC[>>63]]

]ITEMS]

[75] 
[[元和]]は10年までで、3年の[[延長年号]]に当たります。

[70] 
この墓は、
[[昭和時代]]にはあったようで [SRC[>>63]]、
[[平成時代]]にも言及があり [SRC[>>62]]、
現在も元の場所に残っているのではないかと思われますが、
ほとんど情報がなく現況は不明です。

[71] 
[[立場]]は立ったまま[[大石五郎右衛門]]が果てた地といわれています。
[SRC[>>63]]
地元で通用する[[通称地名]]だけなのか、[[小字]]でもあるのかは不明です。
どこなのかよくわかりません。

[72] 
この墓は死後に地元民が建てたものとされます。 [SRC[>>337]]
出典は不明です。そのような伝承があるのでしょうか。
いつ建てられたのかも不明です。

[60] 
実際の殺害は天正13年のことでした。 [SRC[>>337]]
出典は不明です。


[61] 
>>337 は[[偽年号]]の1つで、支配権力 ([[柿島]]の豪族[[朝倉]]氏) 
を憚って偽って記したものとしています。
[SEE[ [[偽年号]], [[縫武]] ]]

[66] 
[[朝倉]]氏が[[柿島]]に移ったのは[[元亀]]年間から天正元年と考えられます。
また、[[大石五郎右衛門]]の命日は8月7日と伝承されています。
[SRC[>>63]]

[69] 
[[柿島]]に移ってきた[[朝倉景高]]は天正6年に [SRC[>>63 /27]]、
[[朝倉在重]]は元和元年に死去しました [SRC[>>63 /27, >>67]]。

[73] 
[[天正]]は[[元和]]に容易に間違えそうな字面や音には見えません。
同じ頃の[[元号]]が取り違えられる事例はままありますので、
「天正13年」が何らかの誤りで「元和13年」に変わってしまうことは、
[[元和]]時代以後ならいつでもありそうとはいえますが、
引っ掛かりはあります。

[74] 
「天正」を「元和」に意図的に変更することがあるか、はそれ以上に疑問です。
隠蔽工作というにも不自然です。

[REFS[

- [63] 
[CITE@ja-JP[清らなる山河 : 新玉川村誌]], [[新玉川村誌編集委員会]], [TIME[1968]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-27T02:56:37.611Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3449205/1/29> (要登録)
- [337] 
[CITE@ja-JP[宗良親王信州大河原の三十年・東海信越南北朝編年史]], [[松尾四郎]], 
[V[発行  [TIME[昭和五十六年十二月][1981-12]]]], [TIME[2024-05-28T02:01:58.000Z]], [TIME[2024-07-26T14:42:52.271Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12270332/1/69> (要登録)

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[

[62] 
[CITE@ja[七騎のつぶやき:講演会(vol.235)]], 
2012年03月18日,
[TIME[2024-07-27T02:54:21.000Z]] <https://abeshichiki.eshizuoka.jp/e858733.html>
]FIGCAPTION]

>去る3月11日、静岡市議会の静友クラブ(代表:白鳥実先生)のお招きで講演(タイトル「郷土の歴史と地域の振興」)を行いました。200名ほどの方がおみえになり、安倍奥や奥藁科の地域振興活動の報告などを中心に、お話をすすめました。

> 〇 伝説にみる安倍七騎
>   ・ 代々アワビを祀る朝倉家(柿島村 / 葵区柿島)
>
>
>   ・ 謎めいた刻石「元和十三天」~ 大石五郎右衛門のお墓 ~(柿島村支村上落合 / 葵区上落合)
>[SNIP[]]

]FIG]


- [68] 
[CITE@ja[[[朝倉景高]] - Wikipedia]], [TIME[2024-07-20T09:15:21.000Z]], [TIME[2024-07-27T03:14:11.520Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E6%99%AF%E9%AB%98>
- [67] 
[CITE@ja[[[朝倉在重]] (河内守) - Wikipedia]], [TIME[2024-07-18T15:14:45.000Z]], [TIME[2024-07-27T03:13:35.270Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%9C%A8%E9%87%8D_(%E6%B2%B3%E5%86%85%E5%AE%88)>



]REFS]


** メモ

[8] [CITE[改元詔書]], [TIME[2022-02-20T05:36:50.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i04/i04_02478_0051/index.html>

[1] [CITE@ja[元和 (日本) - Wikipedia]]
([TIME[2018-02-06 19:22:30 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%92%8C_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)>


[33] 
[CITE@ja-JP[神武天皇紀元論 : 紀元節の正しい見方]], [[日本文化研究会]], [TIME[1958]], [TIME[2025-07-30T10:21:15.000Z]], [TIME[2025-08-20T09:38:05.705Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3013781/1/118> (要登録)



* 賢和

[ITEMS[ [[日時事例]]

- [27] 
[DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[神奈川県]][[川崎市]]鹿島田]]浄蓮寺 慈天清清霊位 墓碑]]
「[DATA(.text)[[V[賢和八正月十六日]]]]」
[SRC[>>26 p.[V[一七二]] [L[32]]]]
--
[29] 白黒写真と拓本が >>26 p.[V[一八󠄃二]] [L[挿図21]]
にあります。写真は文字判読困難。
拓本は文字がほぼ読み取れますが、
「賢」の字形の細部までは不明瞭です。

]ITEMS]



[28] 
[CITE[日本私年号の研究]]
はこれを[[元和]]の[[同音異字年号]]とし、
[TIME[元和8(1622)年][1622]]に比定しています。
出典は
「[V[実見、典籍なし]]」
とされており、
[[久保常晴]]が再発見したもののようです。


[30]
この銘文のある墓碑は、 
[[光背型墓碑]]で、
[[南関東]]では[[江戸時代]]初期の形態です。
また、
夫婦の名があって、
一方の[[紀年]]は[[慶長]]です。
そこで[[元和]]の異表記と判断されました。
[SRC[>>26 p.[V[一八󠄃三]]]]

[35] 
穏当な推測とは思われつつも、[[干支]]のような年次を確定させ得る情報に欠ける点には注意が必要です。

[31] 
[CITE[日本私年号の研究]]
ではこれは[[一字異音年号]]とも考えられるとしつつも
「[V[一応]]」
[[同音異字年号]]に分類されています。
[SRC[>>26 p.[V[一八󠄃三]]]]
[[元和]]と同じく「げんわ」と発音すると推測しつつも、
「けんわ」と発音する可能性も、ということでしょうか。

[36] 
[CITE[日本私年号の研究]]
はこのような異表記の発生を、
[CITE[武家諸法度]]
を強行し除封、減封で諸大名に威圧を加えたためだと説明しています。
[CITE[改元物語]]
に見える[[江戸時代]]当時の[[元号]]の揶揄諸例を紹介して、
大名や切支丹への弾圧や庶民生活の実情から生じた消極的反抗ではないかと推測し、
それを
「賢和」
発生の土壌だとしています。
[SRC[>>34]]

[37] 
ただ、現在まで[[賢和]]の用例は他に発見されておらず、
これがどの程度広範囲に用いられたかは不明です。
政治的、風刺的な異表記だとすると、それを敢えて墓碑に彫るものかは疑問があります。
被葬者がどのような立場の人物かもわかりませんし、
現状この1例からこれだけ推測を飛躍させるのも慎重にしておいたほうが良いとも思われます。

;; [38] 
[CITE[日本私年号の研究]]
は社会の歪みへの密かな抵抗が[[中世私年号]]をうみ、
[[近世]]にまでその風潮が残ったものと位置づけたために、
このように解釈したわけです。
[SEE[ [[私年号]], [[中世私年号]], [[大道]] ]]

[56] 
その後の研究でこれを扱ったものは見当たらず、
[[文化財]]などの指定もない模様で、
現状は不明です。

[57] 
[[私年号の表など][日本私年号一覧表]]にも掲載されていません。





[REFS[

- [23] [CITE[[[日本私年号の研究]]]]
-- [24] [CSECTION[[V[本論]]]]
--- [25] [CSECTION[[V[第二章 私年号発生に至る前段階]]]]
---- [26] [CSECTION[[V[第二節 同音異字の年号]]]]
--- [33] [CSECTION[[V[第六章 江戸時代以降の私年号]]]]
---- [34] [CSECTION[[V[第四節 小結]]]], pp.[V[四七〇]]-[V[四七二]]

]REFS]

-*-*-

[54] 
しかし8年にもなって[CH[元]]を[CH[賢]]に書き間違えるというのは無理があろうかとも思われますので、
何らかの意図を推察したくなるのはそうです。

[55] 
[CH[賢]]の[[略字]]に[CH[𫯝]]があります。
すると原稿に[V[上元]]のように書かれているように見える何かがあって、
[[略字]]か[[くずし字]]だと誤認して[CH[賢]]になおしてしまったとか、あり得ますかね?

[58] 
[[干支年]]がないのは悩ましいところで、
他の[[過去帳]]などの資料で確認できるといいのですが、
この寺は[TIME[昭和20(1945)年][1945]]に[[戦争][大東亜戦争]]で[[米軍]]に焼かれたそうで、
古い資料は残っていないのかもしれません。



* メモ