[3] [[日本国]][[滋賀県]][[蒲生郡]][[日野町]][[[RUBY[小][こ]][RUBY[野][の]]][小野]]304に、
[DFN[鬼室神社]]があります。

[15] 
[[白村江の戦い]]の折[[日本]]に[[帰化]]した[[百済人]]王族の[[鬼室集斯]]が合祀されています。

* 呼称

[649] 
[[江戸時代]]には[DFN[西宮]] [SRC[>>41, >>670]]、
[DFN[不動]] [SRC[>>41]] ([DFN[不動の祠]] [SRC[>>670]],
[DFN[不動堂]] [SRC[>>2124]]) と呼ばれていました。

;;
[1192] 
[[江戸時代]]後期の[[伴信友]]によると、
[[本地仏]]として[[不動明王]]を祭っていたので、
[[不動]]というのが普通になっていました。
[SRC[>>41]]


[679] 
[[明治時代]]の[[神仏分離]]により[DFN[西宮神社]]と改称しました。 [SRC[>>670, >>2124]]

[798] 
[TIME[昭和30(1955)年11月][1955-11]]、
[[鬼室神社]]に改称しました。
[SRC[>>2124, >>23]]

* 立地

[1146] 
[[小野]]の中心集落から西方に少し離れた位置にあります。

[NOTE[

[642] 
現在の[[日野町]]は、
[[昭和の大合併]]で旧[[日野町]]、
[[西大路村]]、
[[東桜谷村]]などが統合されて成立しました。
[[東桜谷村]]は、
[[藩政村]]の[[小野村]]、[[中之郷村]]などが[[明治時代]]に統合されたものでした。

[643] 
[[江戸時代]]、
この地域は多くの[[藩]]に分割されて統治されていました。

- [645] [[西大路村]]には[[西大路藩]]がありました。
[[西大路]]は、
[TIME[文久2(1862)年][1862]]の改称までは、
[[仁正寺]]と呼ばれていました。
- [646] [[小野村]]は、
[[伴信友]]の時代 [SRC[>>41]] および[[幕末]] [SRC[>>644]] に[[宮津藩]]領でした。
-- [648] 
[TIME[天正4(1576)年][1576]]に[[西明寺村]]から分かれました [SEE[ [[小野村]] ]]。
[[西明寺村]]は[[明治時代]]に[[西大路村]]に統合されました。
- [769] 
[[中之郷村]]は、
[[明治時代]]に[[桜谷村]]を経て[[東桜谷村]]に統合されました。
[[幕末]]時点で幕府領 ([[大津代官所]]管下) でした。
[SRC[>>644]]
- [647] 
[CITE[江漢西遊日記]]は人魚塚の地を[[仙台藩]]領と書いていました [SRC[>>572]] 
が、その次に訪れた[[石塔村]]と取り違えたのかもしれません。



[REFS[
- [644] [CITE@ja[[[蒲生郡]] - Wikipedia]], [TIME[2021-04-04T04:29:06.000Z]], [TIME[2021-04-04T12:16:02.612Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E9%83%A1#%E8%BF%91%E4%B8%96%E4%BB%A5%E9%99%8D%E3%81%AE%E6%B2%BF%E9%9D%A9>
]REFS]

]NOTE]

- [1254] [TIME[平成27(2015)年][2015]]付[[ブログ]]記事の写真:
境内の森の遠景 [SRC[>>1250]]

-*-*-

[191] 
[[小野]]の集落形成については[[小野村]]参照。


[375] 
[[奈良時代]]前後の墳墓地は、
丘陵の末端に位置し、
前面に広い平地を望み、
左右は丘陵に擁せられ、
後方に山を負っているのが通例で、
しかも前面が南方に当たる場合が多いとされます。
[SRC[>>360 ([CITE[日本古代遺跡の研究]] 論考編, [[斉藤忠]], [TIME[[V[一九七六年]]][1976]])]]

[376] 
一方で当地は、
山間の小[[扇状地]]の田地の中央で、[[前川]]に望んでおり、
社殿および[[鬼室集斯墓碑]]は、集落との関係か、東方を向いています。
そのため[[奈良時代]]前のものとするには不自然と考えられています。
[SRC[>>360]]

-*-*-

[244] 
[[日野町]][[小野]]の[[[RUBY[石][いし]][RUBY[小][こ]][RUBY[山][やま]]][石小山]]は、
[[鬼室神社]]のある谷の南側にある[[山]]です。
北側中腹、[[鬼室神社]]から見て南東側に通称「石切場」
なる地があり、採掘跡が残されていました。
[SRC[>>224, >>2124 ([CITE[東櫻谷志]])]]
(>>224, >>2124 に[[地図]]あり。)

-*-*-

[1102] 
この近辺には[[人魚伝説]]の他、
[[聖徳太子]]、
[[鬼室集斯]]、
[[菅原道真]]、
[[惟喬親王]]、
[[蓮如]]といった貴人に纏わる伝承が多いようです。

[1103] 
しかも[[聖徳太子]]、
[[鬼室集斯]]、
[[菅原道真]]という[[日本]]を代表する学者達が[[小野村]]を訪れたことになっているのは、
大変興味深いものです。

** 周辺の地名

[404] 
[[江戸時代]]の[[西生懐忠]]は、
所在地を
「[V[小野村西明王寺林]]」
と書いていました。
[SRC[>>625]]


[652] 
[[江戸時代]]時点で、
[[封戸]]が1烟あったと言われていましたが、
「封戸屋敷」という[[地名]]が残るだけでした。
[SRC[>>41]]

[665] 
[CITE[東桜谷志]] [SRC[>>76]] の地図によると、
[[鬼室神社]]から見て南西側に少し離れた山の麓の当たりを指すようです。

[1147] 
[TIME[昭和30(1955)年][1955]]頃の由緒が引く創建の沿革は、
御鎮座一帯を佐平海道(一名西海道)といい、
集斯田(神主田)の神田もあると書いていました。
[SRC[>>1133]]
([[佐平]]は[[鬼室集斯]]の[[百済]]官位。)

[688] 
[CITE[東桜谷志]] [SRC[>>76]] の地図によると、
[[鬼室神社]]から見て北東側が
「[V[西ノ海道]]」、
西側が「[V[堂後]]」、
南東側が「[V[堂前]]」
と呼ばれていました。
堂前より更に東側、集落の南西に「[V[堂田]]」がありました。
[V[堂後]]より更に西側、
封戸屋敷から見て北西に「[V[佛生]]」がありました。


;; [726] [[小野]]の集落中心側、上流側が「前」だったようです。
社殿の向きと合致します。

;; [728] 同地図によると、同じ[[東桜谷]]地域の少し離れた[[杉村]]にも
「[L[西海道]]」がありました。
そちらの近くには「[L[陸海道]]」や「[L[朝鮮屋敷]]」
という小地名もありました。


** 近隣の案内

[872] 
[[平成時代]]時点で、
付近に[[近江鉄道]] (バス) の[DFN[鬼室神社前]][[バス停]]がありました
[SRC[>>22]]。


[824] 
神社近くの[[村道]]には、
「[L[鬼室神社]]」
と[[日本語]]と[[韓国語]]を併記し方向を示した看板がありました。
[[平成時代]]初頭の姉妹都市締結以後の設置と思われます。

- [876] [TIME[平成18(2006)年][2006]]時点の写真 [SRC[>>20]]
- [1251] [TIME[平成27(2015)年][2015]]付[[ブログ]]記事写真 [SRC[>>1250]]
- [880] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>23]]
- [877] [TIME[平成31(2019)年][2019]]時点の写真 [SRC[>>841]]

[904] 他の位置にもあったようです。

- [905] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>79]]

[1018] 他の位置にもあったようです。

- [1019] [TIME[平成17(2005)年][2005]]頃の写真 [SRC[>>1017]]


[878] 
近くの道路には、
「[L[鬼室神社]]」
と[[日本語]]と[[韓国語]]を併記し方向を示した[[道路看板]]がありました。
[[平成時代]]初頭の姉妹都市締結以後の[[道路管理者]]による設置と思われます。

- [879] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>23]]
- [1013] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>1010]]
- [903] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>79]]

[970] 
[[平成時代]]時点で、道中に
「老若男女[ASIS[で][>>1017 が]]気さくに話が弾む鬼室様の里」
の看板がありました。
[SRC[>>969, >>1017]]



* 入口

[464] 
神社入口の右側には、
「[V[鬼室神社]]」の石碑がありました。
[SRC[>>89, >>20]]
社名変更時に設置されました (>>891)。

- [1020] [TIME[平成17(2005)年][2005]]頃の写真 [SRC[>>1017]]
- [852] [TIME[平成21(2009)年][2009]]時点の写真 [SRC[>>25]]
- [881] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>23]]
- [906] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>79]]
- [1014] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の入口付近全体写真 [SRC[>>1010]]
- [874] [TIME[平成28(2016)年][2016]]時点の写真 [SRC[>>22]]
- [912] [TIME[平成30(2018)年][2018]]時点の写真 [SRC[>>901]]
- [851] [TIME[平成31(2019)年][2019]]時点の写真, 東屋との位置関係がわかる [SRC[>>841]]

-*-*-

[823] 
神社入口の左側には、
[CITE[鬼室神社]]
と題した[[日本語]]と[[韓国語]]の併記の案内看板がありました。
[[日野町国際親善協会]]名の看板でした。
[[姉妹都市]]交流について記載があり、
[[平成時代]]初頭の締結以後の設置です。

- [853] [TIME[平成18(2006)年][2006]]時点の写真 [SRC[>>20]]
- [854] [TIME[平成21(2009)年][2009]]時点の写真 [SRC[>>25]]
- [911] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>79]]
- [882] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点のテキスト [SRC[>>23]]
- [874] [TIME[平成28(2016)年][2016]]時点の写真 [SRC[>>22]]
- [914] [TIME[平成30(2018)年][2018]]時点の写真 [SRC[>>901]]
- [867] [TIME[令和元(2019)年][2019]]時点の引きの写真 [SRC[>>32]]


** 国際交流広場

[937] 
神社横には
「国際交流広場」
と称する空間があります。
[[大韓民国]]の建築様式の[[東屋]]が設置されています。
[[平成時代]]に[[姉妹都市]]交流の関係で整備されました (>>1095)。

-*-*-

[1094] 
[[東屋]]には、
「[R[集斯𠅘[TATE[百済後人]]]]」
の扁額が掲げられていました [SRC[>>841]]。

[902] 屋根内側に寄付者の名前がありました。
[SRC[>>79]]


[843] 
[[百済後人]]は何者か不明です。
「その名のとおり、朝鮮半島にルーツを持つ人物でしょう」
と書く [[Webページ]]もありますが [SRC[>>841]]、
その根拠は不明です。

- [850] 未建設の[TIME[平成21(2009)年][2009]]時点の様子がわかる写真 [SRC[>>25]]
- [1303] [TIME[平成21(2009)年][2009]]の竣工直後のアップ写真 [SRC[>>51]]
- [847] [TIME[平成25(2013)年][2013]]時点の写真 [SRC[>>735]]
- [883] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>23]]
- [907] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>79]]
- [1093] [TIME[2015-08]]に[[大韓民国]]から訪問した中学生の写真 [SRC[>>1090]]
- [908] [TIME[平成28(2016)年][2016]]時点の写真 [SRC[>>22]]
- [848] [[平成時代]]の写真 [SRC[>>846]]
- [913] [TIME[平成30(2018)年][2018]]時点の写真 [SRC[>>901]]
- [849] [TIME[平成31(2019)年][2019]]時点の写真 [SRC[>>841]]

[REFS[
- [735] [CITE@ja[[[日本書紀]]に記された日本初の[[人魚伝説]]を追え!]], 
2013年6月24日,
[TIME[2017-06-17T10:17:24.000Z]], [TIME[2021-04-09T09:40:04.004Z]] <http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_225.html>
- [1090] [CITE[201509yuukounowa45.pdf]], [TIME[2018-04-03T09:16:21.000Z]], [TIME[2021-05-17T07:29:16.395Z]] <http://www.town.shiga-hino.lg.jp/cmsfiles/contents/0000002/2155/201509yuukounowa45.pdf#page=2>
]REFS]


-*-*-

[885] 
広場には、
「日野町国際親善協会・大字小野」名の解説看板がありました (>>1011)。
[SRC[>>884]]

- [884] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点のテキスト [SRC[>>23]]


-*-*-

[836] 
広場かその近辺と思われる場所に、
「[V[姉妹都市提携]]」の「[V[記念植樹]]」
として、
「[V[大韓民国国花]]」の「[V[ムクゲ]]」
とそれを案内する木製看板がありました。
[SRC[>>27]]
国際交流広場設置時 (>>1095) のものでしょうか。

[844] 
境内と見られる場所に、
「[V[滋賀県韓国商工会議所]]
[V[西紀一九九八年十一月吉日]]」
銘の記念碑がありました。
[SRC[>>841]]
[WEAK[([TIME[平成10(1998)年11月][1998-11]])]]

;;
[845] 
[[西紀]]は[[西暦]]の意味で、
[[韓国語]]では現役ですが[[平成時代]]の[[日本語]]としては不自然さが拭い去れません。
当時の[[在日韓国人]]の間では[[西紀]]が普通に使われていたのでしょうか。

- [1004] [TIME[平成31(2019)年][2019]]時点の写真 [SRC[>>841]]


* 石灯篭

[1126] 
社殿前に[[江戸時代]]の石灯篭が2基、
石祠横 (>>709) に[[明治時代]]の石灯篭が1基あるようです。
各時代の記録はどれも断片的で、
増減がわかりにくいです
(何々があったと書いても、それ以外にないとは書かれていないことに注意)。

-
[706] 
[[江戸時代]]、
[[石灯篭]]が1基ありました [SRC[>>249]]。
-
[658] 
[[江戸時代]]後期、
普通の石灯篭が1基ありました。
「奉寄室徒中元禄四辛未年五月吉日」
とありました。
[SRC[>>41]]
-
[682] 
[[大正時代]]、
「元禄四辛未年五月吉日」
銘の石灯篭がありました。
[SRC[>>670]]
-
[211] 
[[昭和時代]]、
社殿の前に石灯篭が2基ありました。
うち1基の竿部裏面に
「[V[奉寄進室徒中]]」 [SRC[>>113, >>90]]、
左に
「[V[元禄四[SUP[辛]][SUB[未]]年]]」、
右に
「[V[五月吉日]]」
とありました。
[SRC[>>90]]
-- [TIME[元禄4(1691)年[LINES[辛][未]]][1691]]5月。
- [1128] 
[[昭和時代]]後期、
元禄4年建立の2基があり、
「[V[元禄四辛未年五月吉日  奉寄進室徒中]]」
とありました。
[SRC[>>76 pp.323-324]]
-- [1148] 「[V[元禄四辛未年五[ASIS[日]]]]」 [SRC[>>76 p.571]]
-- [1129] 
[[小野]]の氏神[[天神社]]にも元禄4年建立の2基があり、
「[V[元禄辛未年五月吉日  室徒中]]」
とありました。
[SRC[>>76 pp.323-324]]
-
[806] 
[[平成時代]]初期、
「元禄四辛未年五月吉日」
銘の石灯篭、
「明治四十一年」
銘の石灯篭がありました。
[SRC[>>2124]]

[855] 
[[平成時代]]の写真によると、
境内には社殿の他に手水舎、鳥居、石灯篭2基などがありました。

- [1130] [CITE[東桜谷志]]所収白黒写真: 灯篭のみ, 銘文見えない [SRC[>>76 p.322]]
- [1131] [CITE[東桜谷志]]所収白黒写真: 社殿一部、石灯篭1基、鳥居一部 [SRC[>>76 p.569]]
- [873] [TIME[平成21(2009)年][2009]]時点の写真 [SRC[>>25]]
- [1253] [TIME[平成27(2015)年][2015]]付[[ブログ]]記事の写真:
鳥居、灯篭1基、社殿 [SRC[>>1250]]




* 社殿

[820] 
[[社殿]] ([[拝殿]] [SRC[>>113]]) は[[江戸時代]]中期頃には既に存在し、
現在も存在します。
その間少なくても1度は建て替えられたようです。
([[棟札]] >>194)

-*-*-

[582] 
[[江戸時代]]、
草葺の不動堂 (社殿) がありました [SRC[>>549]]。
草葺で、
2間四方ないし2間×1間半でした
[SRC[>>2124 ([CITE[江漢西遊日記]], >>795)]]。

-*-*-

[707] 
[[昭和時代]]中期、
東面した社殿がありました。
[[鬼室集斯]]の廟とされていました。
[SRC[>>2104]]

[799] [[平成時代]]初期時点で社殿は瓦葺、
2間半四方でした。
[SRC[>>2124]]

[888] 
[[平成時代]]時点で、
社殿内部には写真が2枚掲げられていました。
[[大韓民国]][[国立扶餘博物館]]所蔵の
[CSECTION[韓国扶餘陵山里出土 百済金銅大香爐]],
[CSECTION[金銅弥勒菩薩半跏思惟像]]
とされていました。
[SRC[>>889]]

[758] 
[[平成時代]]時点で、
社殿には[[芳名帳]]が置かれていました (>>971)。

- [1021] [TIME[平成17(2005)年][2005]]頃の写真、社殿や鳥居や石灯篭の位置関係がわかる [SRC[>>1017]]
- [952] 社殿前で[[大韓民国]]との交流イベントの写真、[[平成時代]]中頃か [SRC[>>949]]
- [974] [TIME[平成18(2006)年][2006]]頃の社殿前の写真、鳥居や石灯篭の位置関係がわかる
[SRC[>>973]]
- [934] [[平成時代]]中頃社殿周辺の写真 (団体訪問客?) [SRC[>>933]]
- [889] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の社殿内掲示パネルの写真 [SRC[>>23]]
- [910] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の正面写真 [SRC[>>79]]
- [863] [[平成時代]]時点の内側の写真 [SRC[>>29]]
- [862] [TIME[平成31(2019)年][2019]]時点の写真, 外側・内側 [SRC[>>841]]


* 祭神と祭礼

[678] 
[TIME[正長2(1429)年][1429]]の不動堂建設以来 (>>655)、
[[明治時代]]の[[神仏分離]]まで、
[[不動明王]] ([[不動尊]] [SRC[>>113]]) を祭っていました。
[SRC[>>670, >>2124]]。
[[江戸時代]]に当神社・社殿を[[不動堂]]・[[不動]]と呼んでいたのはそれによります。

[1193] 
[[不動明王]]像が祀られていたともされますが (>>887)、
[[神仏分離]]後の所在は不明です。

-*-*-

[680] 
[[明治時代]]初期の[[神仏分離]]で[[西宮神社]]となってから[[昭和時代]]中期の社名改称まで、
[[軻遇突智命]]を[[祭神]]としました
[SRC[>>670]]。

[1194] 
当神社の真の[[祭神]]が[[軻遇突智命]]で[[本地仏]]が[[不動明王]]という設定が以前からあったのか、
分離時に決められたのかは不明です。

[938] 
[[昭和時代]]中期の改称以後、
[[訶遇突智命]]は[[祭神]]から消えてしまっているようです
[SRC[>>933]]。
[[合祀]]でなく追い出してしまうのって、
ありなんでしょうか?

-*-*-

[797] 
[TIME[昭和30(1950)年][1955]]、
社号の[[変更登記]]があって[[鬼室神社]]となりました [SRC[>>76 p.569]]。
[TIME[昭和30(1955)年11月][1955-11]]、
[[祭神]]が[[鬼室集斯]]となりました
[SRC[>>2124]]。
これ以後[[鬼室神社]]の[[祭神]]は[[鬼室集斯]]のみとされているようです
[SRC[>>933]]。

[1196] 
これ以前も[[鬼室集斯]]が[[祭神]]と説明されていたようですが、
実際には[[不動明王]]が祀られているので、
不安定な位置だったようです。

- [1198] 
[[近世]]初期およびそれ以前の状況を示す確実な記録は残っていません。
- [365] 
[[江戸時代]]中期頃の[[西生懐忠]]らは、
[[祭神]]は[[鬼室集斯]]だとしていました [SRC[>>362]]。
-
[654] 
[[江戸時代]]後期の[[伴信友]]は、
当時[[不動]]と呼ばれていたものの実は[[鬼室集斯]]を祭っていたと村民の記録に残っていた、
として[[祭神]]は[[鬼室集斯]]だとしていました [SRC[>>41]]。
-
[1197] 
[[江戸時代]]後期の調査で、
[[祭神]]は[[鬼室集斯]]でその[[本地仏]]が[[不動明王]]とされていました (>>748, >>804)。
-
[1002] 
[[明治時代]]初期の[[神仏分離]]では、
なぜか[[鬼室集斯]]が[[祭神]]とされませんでした [SRC[>>2]]。
-
[990] 
[TIME[明治36(1903)年][1903]]、
[[鬼室集斯]]が[[祭神]]の1つとして[[合祀]]されたとされます [SRC[>>986]]。
--
[2116] 
[[明治時代]]にこの[[神社]]に[[鬼室集斯]]が合祀されたと説明されました
[SRC[>>2102, >>2114, >>52]]。
--
[991] 
[[大正時代]]時点で、
[[神仏分離]]より後に[[鬼室集斯]]を合祀したとされていました
[SRC[>>670]]。
--
[74] 
[[江戸時代]]に既に[[鬼室集斯]]が祭られていたことになっていたのに、
このときまた合祀されたというのは謎です [SRC[>>2]]。
-
[1199] 
[TIME[昭和30(1950)年][1955]]、
[[祭神]]が[[鬼室集斯]]に変更されました。


[825] 
[[平成時代]]時点で、学業の神とされているようです。 
[SRC[>>20]]

[1022] 
地元で「鬼室王」と呼ばれる [SRC[>>1017]]
とされますが、根拠は不明。歴史的に正しいかも不明。

[1195] 
地元の看板には「鬼室様」と書かれていました (>>970)。

-*-*-

[729] 
[[鬼室神社]]の祭礼は毎年11月8日です。

-
[653] 
[[江戸時代]]の[[西生懐忠]]らや[[伴信友]]によると、
[[旧暦]]11月8日でした [SRC[>>41, >>362]]。
-
[438] 
「古く」は毎年11月8日でした。
[SRC[>>57, >>437]]
-
[759] 
[[昭和時代]]後期、
農繁期という理由で毎年10月8日に行っていました。
[SRC[>>57]]
-
[807] 
[[平成時代]]初期、
毎年[TIME[11月8日][--11-08]]でした。
[SRC[>>2124]]
-
[760] 
[[平成時代]]初期のその後、
毎年11月第1日曜日に変更されていました。
[SRC[>>437, >>1017]]

[940] 
[[平成時代]]時点で、[DFN[鬼室祭]]と称していました
[SRC[>>933]]。
[[鬼室集斯]]の命日の祭と地元の人々に認識されていました [SRC[>>1017]]。

[49] 
[[伴信友]]の時代には毎年恒例行事となっていたようですが、
それがいつから続くものかは不明です。
また[[鬼室集斯]]の命日との認識がいつ生まれたものか、
途切れず継続したものかも不明です。

[953] 
[[平成時代]]中頃時点で、
[[大韓民国]]の[[姉妹都市]]からの使節団が参加するようになっていました。
[SRC[>>949]]

;; [439] 祭祀の詳細と担当者については[[室徒]]参照。

* 伝鬼室集斯墓

[2113] 
[[鬼室神社]]境内に、
[[鬼室集斯]]墓とされる八角石柱があります。
[SRC[>>2102, >>2114]]


[62] 
この石柱は偽作とされますが、
一部に真作説が[[江戸時代]]から現在まで続いているようです。
話をややこしくしているのは、
死亡直後の真作説と新しい時代の偽作説の中間の、
[[中世]]に子孫 (と主張する人々) が供養のために作った本物だとする折衷案的主張があるのに、
本物か偽物かの2分論で語られることが多いことのようです。
つまり「中世 (ないし近世) に作られた」という主張でも、
その背景の理解により真作説とも偽作説とも分類し得るのです。
また、
本物の墓なのかどうか、
本物の墓碑なのかどうか、
銘文がいつ作られたのか、
銘文がいつ彫られたのか、
本当の子孫なのかどうか、
祭祀が途切れず続いたのかどうか、
など論点が多い上に
(真の子孫ではないが本当だと信じて中世に作った、
という「真作」もあり得ます)、
[[日朝関係]]や観光利用のような[[政治的思惑][政治的理由]]が交錯しています。



** 石柱の位置

[711] 
[[江戸時代]]の[[司馬江漢]] (>>249) の図や古城図 [SEE[ [[淡海温故録]] ]] では、
手前側に川 (右が上流)、奥側に神社が描かれ、
墓碑は社殿の左前側に描かれていました。
この図が当時の配置をどの程度忠実に描いたものかは不明です。

[126] 
[[明治時代]]まで、墓碑は風雨に晒されていました。
[SRC[>>90 (>>95 写真), >>2124]]
[[明治時代]]に社殿裏手に石祠が整備されて収納されました (>>709)。
以後現在地にあります。
石祠が元の石柱の位置のままなのかは不明です。

[1026] 
石柱は研究のため石祠からたびたび取り出されていました。
[[江戸時代]]にも調査のため持ち出されたことがありました (>>92)。
当時から現在まで、移動は困難ではないようです。

[470] 
[[平成時代]]初期時点で、当地の発掘調査は行われていませんでした。
[SRC[>>360]]
墓碑に関する議論は多いですが、
墓碑が設置された土地の性格 (>>376) 
はほとんど言及されることがないようです。
墓碑それ自体が象徴的に信仰されたものなのか、
あるいは本来この位置に意味があったのかは、
明らかではありません。





** 石祠および周辺

[709] 
[TIME[明治36(1903)年][1903]]頃からの[[鬼室集斯]]顕彰熱の高まりで、
墓碑周辺が整備されました (>>129)。

- [686]
社殿の西側 (後方) に新たに石祠 (石室、石龕、神祠) が設置されました。 [SRC[>>113]]
-- [710] 
[[紀年銘]]はありませんでした。
[SRC[>>90]]
-- [398] 
[[石小山]]産の石材が使われました。
[SRC[>>90]]
- [1200] 
墓碑は石祠に収容されました。
- [1201] 
石祠を囲む長方形のエリアに石の玉垣が作られました。
[SRC[>>113, >>2104]]
-- [398] 
[[石小山]]産の石材が使われました。
[SRC[>>90]]
-- [397] 
「[V[明治四十一年八󠄂月]]」
[SRC[>>1080 p.39, >>90]],
「[V[小野  辻久次良]]」
[SRC[>>90]]
(「[L[辻󠄂久次良]]」 [SRC[>>1080 p.39]]),
「[V[西大路向町  辻吉之助]]」
[SRC[>>90]],
「[L[辻󠄂世之助]]」
[SRC[>>1080 p.39]]
とありました。
-- [708] 
玉垣エリアの北方に石祠があり、
南方に1株の杉の大木がありました。
[SRC[>>2104]]
- [1202] 
近くに石灯篭が設置されました。
--
[1149] 
「[V[明治四十一年七月]]」
とありました
[SRC[>>76 p.571]]。



- [396] [CITE[東桜谷志]]所収白黒写真 [SRC[>>1080 p.39]] 石祠、石灯篭など
- [1132] [CITE[東桜谷志]]所収白黒写真 [SRC[>>76 p.570]] 石祠正面
- [1023] [TIME[平成17(2005)年][2005]]頃の写真 [SRC[>>1017]]
- [826] 
石祠とその前の石灯篭の位置関係がわかる写真
([TIME[平成18(2006)年][2006]]) [SRC[>>20]]
- [935] [[平成時代]]中頃の写真 [SRC[>>933]]
- [975] [TIME[平成18(2006)年][2006]]頃の写真 [SRC[>>973]]
- [860] 社殿、石祠、石灯篭の位置関係がわかる[TIME[平成21(2009)年][2009]]時点の写真 [SRC[>>25]]
- [737] 
石祠と玉垣の位置関係がわかる写真 ([TIME[平成25(2013)年][2013]]) [SRC[>>735]]
- [895] [TIME[平成27(2015)年][2015]]頃入手パンフレット掲載の写真 [SRC[>>893]]
- [892] [TIME[平成27(2015)年][2015]]頃の写真 [SRC[>>23]]
- [875] [TIME[平成28(2016)年][2016]]時点の写真 [SRC[>>22]]:
社殿と石祠の位置関係がわかる
- [842] 
石祠の[TIME[平成31(2019)年][2019]]時点の写真 [SRC[>>841]]


-*-*-

[39] 
石祠は普段は閉じられています。

[713] 
[TIME[昭和13(1938)年][1938]]に研究者が訪れた際には、
石祠前方の石扉を開けようとしましたが、
案内人や車の運転手を動員しても開かず、
地元民が試しても開かず、
重い屋根石を持ち上げるとようやく扉も開きました。
[[明治時代]]に石祠を作ってから、
ずっと開いたことがなかったようです。
[SRC[>>2104]]
その後は[[平成時代]]までしばしば研究者らが開いて墓碑を見ているようですが、
苦労したと書いたものは見当たりません。
頻繁に開けてメンテナンスするようになったのでしょうか。

;; [714] なおこの地元民とは区長、氏子総代、宮守 (神主) らとされます。
[SRC[>>2104]] 明治36年頃に造立した、それから開いていない、
と書いているのが地元民らから直接聞いたことなのか、
他の資料や推測によるものなのか、文面から明瞭ではありません。

[730] 
なお[TIME[明治44(1911)年][1911]] (>>689)
や[[大正時代]]初期 (>>780)
に拓本を採った記録がありました。

;; [71] 
それにしても30年間、確認や手入れもせずまったく開帳の機会がなかったのでしょうか。
11月8日の例祭はこの時代も続いていたのでしょうか。
そのときに特に何か儀式はなかったのでしょうか。

;; [738] 
長年屋外で放置されていたのですから、そんなものなのかもしれませんが...
11月8日が命日の祭と知られていたなら、
墓標を見えない所に隠したまま放っておきはしなそうなものですが...

[73] 
鬼と呼ばれるのを憚って墓碑を見せるのも嫌がっていたという話もあったようです。
ただし[[井上通泰]]はその真否は不明とも書いており [SRC[>>2104]]、
こうした情報は村外の人から聞いたものかもしれません。
あるいは昔のことを推測した伝承なのかもしれません。
[SEE[ [[室徒株]] ]]
このとき村の代表が研究者に喜んで見せたというのですから、
昔はそうだった  (といわれていた) ということかもしれません。
しかし[[明治時代]]後期まで野ざらしで見放題だったのは、
どう説明するのでしょう。



-*-*-

[856] 社殿横、石祠に近い位置に、
[CITE[鬼室神社]]
と題した[[日本語]]と[[韓国語]]の併記の案内看板がありました。
説明文の他、
境内風景カラー写真と、
[CSECTION[本殿裏の石祠に祀られている鬼室集斯の墓碑]]
として開扉した石祠のカラー写真が掲載されていました。
[[平成時代]]設置と思われます。

;; [870] 石祠の正面から撮られた写真で、
墓碑は文字があると意識して見ると何かあるように見えなくもない程度でした。


[916] 
[[日本]]国内にも関わらず[[韓国語]]が上、
[[日本語]]が下に配置される珍しいレイアウトの看板です。
その意図を訝しがる人もいますが [SRC[>>915]]、
それだけ[[日本人]]よりも[[大韓民国]]からの観光客を重視していたということでしょうか。


- [21] [TIME[2006-01-09]]時点の写真 [SRC[>>20]]
- [976] [TIME[平成18(2006)年][2006]]頃の写真 [SRC[>>973]]
- [858] [TIME[平成21(2009)年][2009]]時点の写真 [SRC[>>25]]
- [936] [[平成時代]]中頃墓碑写真部分の写真 [SRC[>>933]]
- [857] [TIME[平成25(2013)年][2013]]時点の写真 [SRC[>>735]]
- [869] [TIME[2015-08-23]]時点の写真 [SRC[>>24]]: これが一番[[解像度]]が高いか。
- [1015] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>1012]]
- [1016] [TIME[2016-04-08]]時点の写真 [SRC[>>22]]
- [868] [TIME[2019-05-13]]時点の写真 [SRC[>>32]]: 社殿、石祠との位置関係がわかる写真もあり。




** 台座


[712] 
[[江戸時代]]の[[司馬江漢]] (>>249) の図によれば、
野ざらしだった当時は八角柱の下には台座のような直方体が置かれていました。

[721] 
[[昭和時代]]初期、
石祠内の墓碑の下に台石 (墓石, 板石 [SRC[>>2124]]) がありました。
墓碑は台石の上にただ乗せてあるだけでした。
[SRC[>>2104]]

[722] 
台座への言及はあまりなく、古いものがそのまま残っているのか、
其の下がどうなっているのか不明です。
銘文の有無も不明です。
[[昭和時代]]初期の調査で何も記録されていないので見つからなかったのでしょうが、
裏面まで調査したのか、風化した文字跡の有無まで調べたのかは不明です。


-*-*-

[72] 
墓石中央には、径3寸の孔がありました。
墓碑の基底はこれより大きいので、
[[墓碑]]をはめるためのものではありません。
また遺骨を器に入れて収めるにも小さすぎます。
[SRC[>>2104]]

[720] 
[[昭和時代]]初期の区長がその亡父から聞いた話では、
昔は孔に髪が入っていたのだといいます。
[SRC[>>2104]]
石祠ができる前の頃の話でしょうか?

[725] 
墓碑を移動させた[[西生懷忠]]がこれに言及していないのは不審です。
孔は土に埋もれてでもいたのでしょうか。
[SRC[>>2104]]

[1205] 
「墓石」とは呼ばれているものの、この石が元々意味のある石なのか、
ただの台座なのか、
石柱とどちらが古いのかなどは不明です。


** 八角形石柱

[234] 
墓碑の形状は、
[[平成時代]]の[[日野町教育委員会]]の調査 [SRC[>>2124, >>224 (>>2124)]] によると、

- [235] 
ほぼ八角柱状、
高さ 48.8cm。
頂部から 4.4cm 下方まで鋭く尖らせてある。
- [236] 
底部の幅 20.8cm、頂部の幅 18.8cm でわずかに細まっている。
- [237] 
底部はほぼ平坦 (枘穴など無し)。
- [238] 
頂部から下方 13.3cm の位置に、
4.4cm にわたるくびれがある。
最も大きいところでの幅は 18.0cm。
- [239] 
頂部から 29.0cm 下方の水平断面は、
1辺 8.0cm - 9.2cm のほぼ正八角形。

[189] 
重量は、大人1,2人で移動可能な程度です。 [SRC[>>90]]


[HISTORY[
[366] 
[[江戸時代]]の[[西生懐忠]]らの調査 [SRC[>>625, >>362]] によると、

- [367] 
高さ1尺6寸。
[SRC[>>625, >>362, >>113]]
- [368] 
8面、
面の上2寸7分、下3寸2分。
[SRC[>>625, >>362]]
- [369] 
頂正中隆起。
[SRC[>>625, >>362]]
- [370] 
上から下に5寸程のところに結縛の痕。
[SRC[>>625]]
-- [385] 2寸5分程 [SRC[>>362]]

[716] 
[[昭和時代]]初期の[[井上通泰]]の実測 [SRC[>>2104]] によると、

- [717] 重量は七八貫 (伝聞)
- [718] 長さ一尺六寸
- [719] 八面の一面の幅は中央で3寸、上がやや狹く下がやや広い

[1136] 
[TIME[昭和30(1955)年][1955]]頃の由緒 [SRC[>>1133]] によると,

- [1137] 八面葱頭型
- [1138] 高さは 1尺6寸、
面上2寸7分、
下3寸2分
- [1139] 頂隆起、頂上から下5寸許に総括、牲をつぐ形を表す

[130] 
[[昭和時代]]後期の[[胡口靖夫]]の研究 [SRC[>>90]] によると、

- [131] 
八角柱状で、上方より下方がやや深い形でした。
- [132] 
高さは 48.0cm、
一面の上部の幅は 8.0cm、
下部は 9.5cm 
でした。
- [133] 
頂上は三角形に刻まれて隆起し、
頂上から下方 12.5cm 程度の位置に、
幅 4.0cm、深さ 1.5-1.8cm 程度のくびれのような溝が刻まれていました。

[399] 
[[昭和時代]]後期の[CITE[東桜谷志]] [SRC[>>1080 p.38]] によると、

- [401] 八角柱
- [400] 高さ 48cm (1尺6寸)

]HISTORY]


[147] 
この奇妙な形状は[[日本]]にはあまり例が知られておらず、
注意を惹かせることになったようです (>>505)。



*** 石材





[134] 
[TIME[明治36(1903)年][1903]]、
[[遠藤宗義]] (>>450) は、
墓碑等に造詣が深いという[[京都]]の[[松井淳風]]に鑑定を依頼しました。
その結果は、
正しく[[朝鮮石]]で [SRC[>>90 (>>95), >>57]]、
形状は[[唐土]]の方式によるものであり、
従来未だ曽て見ない古物で珍重するべき、
とのことでした。
[SRC[>>90 (>>95)]]
鑑定の根拠は不明ですが、経験からの判断でしょうか。


[715] 
[[昭和時代]]初期、
当時の集落の代表者らは、
墓碑の石は地元のものではないとしていました。
[SRC[>>2104]]
根拠は不明ですが、
時代が近い[[遠藤宗義]]らの見解を踏襲したのでしょうか。


[137] 
[[昭和時代]]後期、
[[日本]]の[[国立科学博物館]]地学研究部 [SRC[>>90, >>224]] は、
墓碑の
「ごく小さな石材資料」 
を使ってルーペによる肉眼観察で鑑定し [SRC[>>224]]、
[[流紋岩質凝灰岩]]としました [SRC[>>90, >>224, >>2124, >>1080 p.38]]。 

[136] 
[TIME[平成6(1994)年][1994]]、
[[日野町]]に依頼された[[岩石学]]研究者の[[宇野光一]] 
[WEAK[([[日本国]][[滋賀県]]の[[大津市科学博物館]]元勤務)]] は
[SRC[>>2124, >>224, >>2124]]、
現地に赴き [SRC[>>2124]]
ルーペによる肉眼観察で鑑定し [SRC[>>224 (調査に立ち会った[[日野町]][[小野]]の[[植田慶一]])]]、
[[石小山]]産の[[黒雲母花崗岩]]としました
[SRC[>>90, >>2124, >>224 (>>2124, [CITE[[V[朝日新聞]]]] [V[滋賀版]] [V[一九九四年六月二十四日]])]]。

[243] 
[[平成時代]]初期、
[[日野町]]の鑑定結果を知った[[胡口靖夫]]に依頼された[[柴田徹]]
[WEAK[([[日本国]][[千葉県]]の[[松戸市立博物館]]勤務)]]
は、
「客観的な石材資料の偏光顕微鏡写真による比較」
で、
石質と産地に[[宇野光一]]と同じ鑑定結果を示しました。
[SRC[>>224]]

-*-*-

[1208] 
[[流紋岩質凝灰岩]]との鑑定結果は依頼者と思われる[[胡口靖夫]]が再鑑定結果を受けて撤回しています。
それ以後この結果を主張する者は確認できません。
鑑定者の見解は不明です。
誤鑑定の理由は不明です。
小片の観察のみということは現地調査ではなく石材を送付しての調査でしょうか。

[138] 
[[黒雲母花崗岩]]は[[日本列島]]、[[朝鮮半島]]に広く分布し珍しくないもので、
朝鮮石との鑑定結果の根拠は不明です。
[SRC[>>90]]


[819] 
輸送手段の未発達な時代に石材の流通範囲は限定されていたと推測され、
しかも[[花崗岩]]というありふれた石材で、
[[近江八幡市]]岩倉も[[花崗岩]]産地として有名なこともあり、
日野を中心とする地域に流通したと考えるのが妥当と思われます。
[SRC[>>2124]]


[245] [[石小山]]の採掘の歴史を遡れば墓碑の造立の上限も決定できると考えられます。
[SRC[>>2124, >>224 (>>2124)]]
ただし[[平成時代]]時点で[[石小山]]は各所に自然崩落が散見され、
墓碑程度の原石はそこかしこに見られたため、
上限の決定は難しいとも言われています。
[SRC[>>224]]

[1209] 
そのありふれた[[花崗岩]]が[[石小山]]産と (推測を超えて) 断定される理由は不明です。
比較により類似性が確認できたのでしょうが、
他のどの産地の[[花崗岩]]でもないとどう判断したのでしょうか。



-*-*-

[222] 
[[胡口靖夫]]は、
[[流紋岩質凝灰岩]]との鑑定を前提に石質から風化等による摩滅の程度による年代の推測も行っていました。
この推測は、再鑑定で成立しなくなったとして撤回されました。
[SRC[>>90]]

[223] 摩滅の具合は重要な着眼点と思われますから、
新しい鑑定結果に従い再検討が望まれますが、
削除されただけになっているのは残念です。

[431] 
[CITE[東桜谷志]]は、
やはり[[流紋岩質凝灰岩]]との鑑定を前提にしつつも、
次のような見解を述べていました。
[[日野町]]の石造美術品を掲載した[CITE[近江日野の石造美術品]] [SRC[>>430]]
には、当墓碑は掲載されませんでした。
掲載されている最古は[TIME[建長4(1252)年][1252]]銘で現在より700年前でしたが、
風化でほとんど読めない状態でした。
石質はやや異なりますが、
それより更に古く文化3年時点でも1200年前の当墓碑が、
類似した気象条件でそのまま残るとは考えにくいものです。
[SRC[>>1080 p.44]]

[432] 
[[胡口靖夫]]も[[平成時代]]初期にこの近辺の中世金石文を網羅的に調査したようですが、
著書によるとそのほとんどは判読困難になっていました。




** 視覚的記録


- [7] [TIME[天明8(1788)年][1788]]訪問[[司馬江漢]]写生図 (>>12, >>14, >>297)
- [600] [CITE[西州投化記]]所収拓本模写
-- [599] Web版: 拓本模写および注記 [SRC[>>107]]
-- [444] 白黒写真: 拓本模写および注記 [SRC[>>440 p.352 図128]]

[601] 
[CITE[西州投化記]]に掲載されたものは、
[[水戸藩]][[彰考館]]にあった拓本の模写とされます (>>108)。
原拓とその入手経路は不明です。

[603] 
本図は文字の形を写し取ったものでした。
すべての文字のほぼすべての字画の形が、
はっきりと描かれていました。

[446] 
この拓本は、
[[干支]]が「[ASIS[戍][右上無点]]子」と書かれていること
(>>440 は「戌」と翻刻)、
死亡の文字が「殞」とはっきり描かれていること、
が特徴として挙げられます。
[SRC[>>440]]

[610] 「八」の「ノ」の揺すった字形も気になります。

[445] 
[[胡口靖夫]]は、
自身の拓本 (>>158) と比較し、
かなり正確に描かれている模写で、
模写図故に墨痕鮮やかで細部の特徴がよく把握できる、
と評しました。
[SRC[>>440]]

[604] 
しかしながら、その比較に使われた拓本は、
不鮮明な箇所が多く、たとえそこから同じように文字の輪郭を描いても、
これだけ鮮明な模写が作れるとは思えません。
風化が進んでいるのですから当然です。
果たしてそれを根拠に正確な模写と判断して良いものでしょうか。
当時も既に不鮮明だった箇所を想像で補った可能性もあります。

[605] 
正確と評した[[胡口靖夫]]も、
死亡の文字が発見当初から判読不能だったと推測していました (>>164)。
ところが本図ではそれも明瞭に描かれ、
そのことが微塵も感じられません。

- [490] [[小野村]]長所蔵[[西生懐忠]]製作[[掛物]]の[[写本]] ([[伴信友]]旧蔵,
[[早稲田大学]]所蔵) [SRC[>>298]]

[1210] 
[[西生懐忠]]が[[小野村]]長に贈った[[掛物]]に、
拓本が掲載されたとされます。
[[伴信友]]がその写しを入手しました。
(>>661)

[662] 
その写しの字形と[CITE[西州投化記]]の字形は違いが多いです。
ただその写しは[[掛物]]の概要を示すために掲載されたと思われますから、
どれだけ原字形を忠実に写したかには疑問があります。
どちらも死亡の文字ははっきりと「殞」と書かれていました [SRC[>>107, >>41]]
が、その字形も微妙に異なります。
写しは「戊」と書いていました。

-*-*-

- [1024] [CITE[鬼室集斯墳墓考]]の写真
-- [1212] 
[[平成時代]]中期の [[Webサイト]]掲載の写真 [SRC[>>1017]]
- [127] 
[[平成時代]]初期の書籍 [SRC[>>90]] 所収:
明治時代に祠が作られる前の露天の写真 [SRC[>>95]]
-- [1213] 
[CITE[鬼室集斯墳墓考]]の写真と同じものか?


[689] 
[TIME[明治44(1911)年][1911]]、
[[木崎愛吉]]は現地訪問し拓本を作成しました [SRC[>>113]]。
[CITE[大日本金石史]]所収の銘文 (>>685)
はそれに基づくものでしょう。
現在の所在は不明です。

[780] 
[[大正時代]]頃、
[[喜田貞吉]]は現地訪問し拓本を作成しました (>>779)。
現在の所在は不明です。

- [1214] 
[[昭和時代]]後期の[[胡口靖夫]]拓本(3面)
-- 
[1215] 
[[胡口靖夫]]著書所収白黒写真: 石祠から取り出した墓碑の1面 [SRC[>>90 p.46]]
--- [1185] 何か書かれていることはわかるが読み取るのは困難。
--- [602] 
[TIME[平成10(1998)年][1998]]の書籍への転載
---- [1218] 
[[平成時代]]の [[Webサイト]]掲載のスキャン画像 [SRC[>>34]]




[158] 
[[昭和時代]]後期、
[[胡口靖夫]]は、
[[小野]]の[[辻久太郎]]の許可を得て墓碑を実見し、
拓本を作成しました。
後に著書に掲載されました。
[SRC[>>90]]

- [391] [[昭和時代]]後期の[CITE[東櫻谷志]]所収白黒写真 [SRC[>>1080 p.38]]
-- [394] 祠から取り出した状態、正面?
-- [395] 文字が刻まれているらしいことはわかるが、読み取るのは困難
- [1216] 
[TIME[平成6(1994)年8月][1994-08]][[胡口靖夫]]拓本
-- 
[1217] 
[[胡口靖夫]]著書所収「室」字部分白黒写真 [SRC[>>316 p.93 図14]]

[334] 
[TIME[平成6(1994)年5月][1994-05]]および[TIME[8月][1994-08]]、
[[胡口靖夫]]は、
各1回拓本を取りました。
[SRC[>>316]]
全体の拓本か一部のみの拓本か不明ですが、
8月の「室」字部分のみが著書に収録されました。


-[1220] 
[TIME[平成10(1998)年][1998]]の書籍掲載、
石祠の扉側に石柱(正面)をやや取り出した白黒写真
-- [35] 
[[平成時代]]の [[Webサイト]]掲載のスキャン画像 [SRC[>>34]]

[1219] 
文字をいくつも読み取れますが、
何が書かれているか知っていないと完全に把握するのは難しいです。


- [1221] [TIME[平成6(1994)年][1994]]調査写真
-- [1222] 報告論文掲載白黒写真 [SRC[>>2124]]
--- [813] 写真 (正面?)
--- [814] 実測図 (正面、底面)
--- [815] 拓本 (銘文のある3面)
--- [1285] >>224 p.75 図7は >>2124 図3 の転載



[812] 
[TIME[平成6(1994)年][1994]]、
[[日永伊久男]]は写真を撮影し拓本を作りました。
全ての面を撮影したのではないかと思われますが、
論文に掲載されたのはここに挙げたものだけでした。
[SRC[>>2124]]


-
[28] 
[TIME[2008-11-05]]時点の写真 [SRC[>>27]]。
正面斜め上から撮られた写真で、
小さくて表面に何かあるのかどうか判断できません。
-
[37] 
[TIME[2008-12-10]]付の新聞掲載の白黒写真と3面の拓本 [SRC[>>36]]。
正面から撮られた写真で、小さく暗くて表面に何かあるのかどうか判断できません。
-
[26] 
[TIME[2009-03]]時点の写真 [SRC[>>25]]。
正面から撮られた写真で、
暗くて表面に何かあるのかどうか判断できません。
- [957] [[平成時代]]のパンフレット掲載写真 [SRC[>>958]]
-
[31] 
[TIME[2017-12-09]]付[[ブログ記事]]のカラー写真 (撮影日不明) [SRC[>>30]]。
[[Web]] 上で見られる正面から撮られたカラー写真で一番大きいか。
文字らしきものが書かれていることがわかりますが、
何と書かれているかは知っていないと読むのが難しく、
知っていても完全にはわかりません。

[REFS[
- [34] [CITE[[[鬼室集斯]]墓碑 鬼室集斯墓碑拓本]], [TIME[2018-06-28 19:46:41 +09:00]] <http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinjitu2/koga0202.html>
]REFS]

** 銘文

[148] 
八角柱のうち正面と左右 (1面おき) の計3面に、
1行ずつ碑文が陰刻されていました。
[SRC[>>2124, >>90]]

[155] 
[[江戸時代]]に銘文を発見した[[西生懐忠]]は、
不鮮明だと書いていました。

[1223] 
それ以前の人々は文字を読み取ることすらできませんでした。



-*-*-

[HISTORY[
[156] 
[CITE[西州投化記]] 第一稿本 (>>108)
に銘文が掲載されたとするものがあります
[SRC[>>90]]
が、どこに書かれているのか不明。
]HISTORY]


[617] [[伴信友]] [SRC[>>41, >>1731]]

- [622] 右   「[V[庶󠄂孫美成造󠄄]]」
- [621] 正面 「[V[鬼室集斯墓]]」
- [623] 左   「[V[朱鳥三年[LINES[戊][子]]十一月八󠄂日殂]]」
-- [624] [CITE[年号の論]]では「[LINES[戊][子]]」でなく「[V[戊子]]」
- [620] [CITE[年号の論]]では左右逆

[668] 
[CITE[日本書紀通釈]] は[CITE[年号の論]]と一致 [SRC[>>149]]。

[154] 
[CITE[尚古年表]]の[[大正時代]]の刊本 [SRC[>>151]]

>
[VRL[
[ASIS[朱][亅]]鳥三年[SUP[戊]][SUB[子]]十一月八󠄂日殞

鬼室集斯墓

[[  ]]庶󠄂孫美成造󠄄
]VRL]

(「戊子」は8割位の文字サイズで左右に寄せられ、
縦方向の中央軸付近には空間なく配置。)



[673] [CITE[近江蒲生郡志]] [SRC[>>150]]

- [675] 右   「[V[庶󠄂孫美成造󠄄]]」
- [674] 正面 「[V[鬼室集斯墓]]」
- [676] 左   「[V[朱鳥三年[LINES[戊][子]]十一月八󠄂日歿]]」


[685] [CITE[大日本金石史]] [SRC[>>113 (傍点も >>113 のまま)]]

>
[VRL[
[[  ]]庶󠄂[RUBY[孫][◦]]美[RUBY[成][◦]]  [RUBY[造󠄄][◦]]

鬼室集[RUBY[斯][◦]]  [RUBY[墓][◦]]

[[  ]][ASIS[朱][亅]][RUBY[鳥][◦]]三[RUBY[年][◦]] [LINES[戊][子]] 十一月八󠄂[RUBY[日][◦]][RUBY[殂][◦]]
]VRL]

「戊子」は8割程度の大きさの文字。

[699] [CITE[上代歴史地理新考]] [SRC[>>2104]]

- [701] (右) 「庶孫美成造」
- [700] (正面)「鬼室集斯墓」
- [702] (左) 「朱鳥三年戊子十一月十八日△」
-- [1224] △は歹偏で旁は不明。

著者の[[井上通泰]]は現地で実見。

[1140] 
[CITE[東桜谷志]]所引[TIME[昭和30(1955)年][1955]]頃の由緒 [SRC[>>1133]] 

- [1141] 右 「[V[庶孫美成造]]」
- [1142] 正面 「[V[鬼室集斯墓]]」
- [1143] 左 「[V[朱鳥三年[SUP[戊]][SUB[子]]十一月八󠄂日歿」
-- [1144] [[干支]]は8割程度のサイズで行の左右に収めて配置


[157] 
[[胡口靖夫]]は、
[[昭和時代]]に実見し (>>158)、
[[遠藤宗義]]の [CITE[鬼室集斯墳墓考]] [SRC[>>95]]
の銘文が正しいとしました。 [SRC[>>90]]

>
[VRL[
(右) 朱鳥三年[LINES[戊][子]]十一月八日[ASIS[〓][殞の旁から貝と口の下線を除去]]

(正面) 鬼室集斯墓

(左) 庶孫美成造󠄃
]VRL]

[159] 
[[胡口靖夫]]は、
[[干支]]は、
[CITE[日本書紀通釈]] の「[V[戊子]]」、
[CITE[尚古年表]] の「[V[[SUP[戊]][SUB[子]]]]」
(8割位の文字サイズで行の中央軸から左右に、
縦方向に重ならないように配置。)
ではなく
「[V[[LINES[戊][子]]]]」
が正しいとしました。
[SRC[>>90]]

[402] 
[CITE[東桜谷志]] [SRC[>>1080 p.38]]

- [410] 右   「[V[庶孫美成造]]」
- [411] 中央 「[V[鬼室集斯之墓]]」
- [412] 左   「[V[[RUBY[朱鳥][すちよう]]三年]]
[V[[RUBY[戊子十][つちのえね]]一月八󠄂日歿]]」

[816] [[日永伊久男]] [SRC[>>2124]]

- [413] 左 「[V[朱鳥三年[LINES[戊][子]]十一月八日□」
- [414] 正面 「[V[鬼室集斯墓]]」
- [415] 右 「[V[庶孫美成造]]」

[961] パンフレット
(>>2130)

*** 書風

[690] 
近代に実見した[[木崎愛吉]]は、
刻文の字様に多少の不満足を感じた、
といいます。
[SRC[>>113]]

[561] 
[[昭和時代]]に[[石村喜英]]は、
[[字体]]から偽作と見られていると紹介しました (>>180)。


[318] 
[[平成時代]]に拓本 (>>158) を見た[[黒田正典]] (>>317) は、
書家の作意の書ではなく卒意の書、
すなわち作品としてではなく記録・目印を後世に残すだけの書き方と評しました。
[[江戸時代]]の爛熟した、あるいは俗流の字ではないとしました。
[SRC[>>316]]


*** 鬼

[81] 
「鬼」は[[康煕字典体]]で、「[ASIS[鬼][ノなし]]」
が[[隷書体]]や[[伝統的楷書体][Aの流れ]]として普通に書かれてきた[[字形]]でした。
[SRC[>>82]]

[84] 「鬼」が[[日本]]でどう書かれてきたのか、さらに詳しい調査が必要とも思われますが、
「ノ」が書かれているとすると[[近世]]に書かれた可能性が高まります。

[83] 
>>2123 の拓影では「ノ」が書かれているように見えますが、
>>34 の拓影では不鮮明で判断しかねます。



[634] 
[CITE[西州投化記]]本 [SRC[>>612]] 詩序考説 (>>625) 本文では、
[CSECTION[鬼室集斯墓考]]の2つ目以降の「鬼」の字形が、
「[ASIS[鬼][ノなし]]」となっていることも注意されます。
それ以前の「鬼」は現行の「鬼」の字形ですが、
それに混ざった「魂」や「碑」は「[ASIS[鬼][ノなし]]」でした。
そして同本所収の拓本複写 (>>600) では、
本文の字形とは違って、
「ノ」の左下に「丨」が接する2画が「田」の上に描かれていました。


[479] 
[[早稲田大学]]本の詩序考説 (>>625) 本文では、
単独の「鬼」は一貫して1画目を「ク」
と書いていました。書写者の書癖とも思われますが、
拓本模写の字形までそう書いていることが注意されます。
しかしこの拓本模写はあまり字形に注意を払わずに書かれたようにも見えます。



[REFS[
- [82] [CITE[[[解説字体辞典]]]] 普及版 p.420
]REFS]


[594] 
[CITE@ja[[[漢字字体規範史データセット]]単字検索]], [TIME[2022-07-25T04:09:35.000Z]] <https://search.hng-data.org/search/%E9%AC%BC>

[595] [[HNG]] の「鬼」は[[初唐標準]]も[[開成標準]]も[[日本]]の中世までも全部「ノ」なし。


*** 宀

[319] 
拓本 (>>158) を見た[[黒田正典]] (>>317) は、
[[江戸時代]]の書風ではないと推測しました。
その最も端的な特徴として「室」の「冖」左方の点の形状を指摘しました。
[SRC[>>316]]

[320] それによると、この点の形状は (>>316 に図示あり) [SRC[>>316]]、

- [321] 勢いよく筆を抜く[RUBY[撥][はね]]形
-- [322] [[漢土]]では[[六朝時代]]に頻出しました。
-- [329] [[漢土]]では[[唐]]時代にはごく稀に見るのみとなりました。
-- [330] [[漢土]]では[[唐]]より後には無いようでした。
-- [327] [[日本]]では[[那須国造碑]]の「宮」に明快な撥形が見られる他、
「壹」や「家」などに同様の形が見られました。
-- [331] [[日本]]では他にも[[奈良時代]]の石碑によく見られました。
-- [332] [[日本]]では[[江戸時代]]にはないはずです。
-- [328] [[鬼室集斯墓碑]]の「室」もこの形でした。
- [323] 筆を引いたままの形
-- [324] [[漢土]]では[[唐]]時代にこの形が大勢となりました。
- [325] 押さえてしまう形
-- [326] [[漢土]]では筆を引いたままの形に次いで現れました。

[333] といった状況から、[[鬼室集斯墓碑]]近隣で撥形が皆無なら、
「本物説」の有力な証拠になると指摘しました。 [SRC[>>316]]

-*-*-

[335] 
[[胡口靖夫]]は、
3回採拓し (>>158, >>334)、
「室」が撥形と判断しました。

>
[VRL[
撥形の最末端部は、風化により石が欠けていて確認できないが、拓影に見られるウ冠の第二
筆の外郭の二線の延長線上に字画の存在を示す小黒点がいくつか残存しており、筆跡の推定が可能である。それによ
ると「室」字のウ冠の第二筆は、筆を勢いよく抜き先端が尖っていることが了解できる。
]VRL]

... のだとしました。
[SRC[>>316]]

[336] 専門家の[[黒田正典]]の判定は尊重するべきなのでしょうが、
挿絵として出版された拓影を見ても、
この判断の妥当性は容易に追認できるものではありません。
字形が不鮮明だからです。
[[胡口靖夫]]がわざわざ3回も拓本を作成して慎重を期しているのも、
客観的に撥形と承認され難いと懸念してのことではないでしょうか。

[818] 
[[胡口靖夫]]が正確に描かれていると評した (>>445)
[[江戸時代]]の拓本の模写 (>>600)
の「室」字は、撥形より押形に見えます。

[817] [TIME[平成6(1994)年][1994]]の[[日永伊久男]]の拓本 (>>812) 
の「室」字は、押形に見えます。



-*-*-

[337] 
[[胡口靖夫]]は、
周辺地域の金石文の宀や冖の字形を調査し、

- [338] 撥形: 筆を勢いよく抜くものや、逆三角形の先端が尖るもの
- [339] 押形: 筆を押さえたものや、単に筆の動きが止まるもの
- [340] 中間形: どちらとも判定しにくいもの

... の3種に分類しました。そして、

- [341] [[江戸時代]]
-- [342] [[東桜谷村]] ([[小野]]を含む地域) - 35例中、撥形3例、押形28例、
中間形2例、判定保留2例。
--- [344] 撥形の「常」2例「安」1例はいずれも逆三角形の先端が尖る撥形で、墓碑とは異なる。
-- [343] [[西大路村]] ([[藩庁]]を含む地域) - 41例中、押形37例、判定保留4例。
- [349] 中世
-- [350] [[東桜谷村]], [[西大路村]]で対象は各1例しかなく、
しかもうち1基は盗難により所在不明
-- [351] [[日野町]] (両村を含む地域) - 8例中、
撥形1例、押形3例、中間形3例 (うち撥形寄り1例)、判定保留1例
(これ以外に判読不能3例)
--- [352] ほとんどが風化による摩滅で判読困難
- [348] 古代
-- [355] [CITE[飛鳥・白鳳の在銘金銅仏]] 銘文編、
[CITE[日本古代の墓誌]] 所収の[[金石文]]銘 - 撥形56例、押形34例、中間形5例

... との結果を得ました。 [SRC[>>316]]

[345] ここから、次のように結論づけました。 [SRC[>>316]]

- [353] 古代3:2、中世1:3で撥形と押形の割合が逆転する。
- [354] [[江戸時代]]に撥形はほぼ無い。
- [346] 墓碑の撥形「室」は[[江戸時代]]の筆跡ではない。
-- [347] [[西生懐忠]]ら[[仁正寺藩]]関係者の筆跡ではない。

[1225] 
なお[[黒田正典]]は撥形、押形の2分ではなく、もう少し細かく区分していました (>>320)。
[[胡口靖夫]]も字形の観察ではより細かな区分をしていました (>>337 および >>316 参照)。
しかし結論を導く段階で撥形、押形の対立軸に単純化していることには、
注意せねばなりません。

-*-*-

[656] 
[[HNG]] の
「室」
「宮」
「空」
のような[[宀]]のある字を眺めてみましたけど、
2,3種類に分類して似てる、似てないで[[編年]]というのは雑すぎなのではないのかなーと思いました。
規範文献の字体と金石文とではまた事情は違っているとは思いますけど。


*** 墓


[246] 
[[岡田精司]]は、
[[墓碑]]に死者の名前を刻むのは[[近世]]に入って一般化する風習だと指摘しました
[SRC[>>225]]。

[434] 
[CITE[東桜谷志]]は、
[[日野町]]に残る無数の中世の墓石に、
葬者の名前や建立の年月を掘ったものは1個も発見されておらず、
それが[[中世]]以前の墓制だったとしました。
[SRC[>>1080 p.45]]

[747] 
墓石に[[戒名]]などを彫るのは[[江戸時代]]初期以降、
「何々之墓」と彫る形式は[[江戸時代]]後期のもので、
[[日野町]]での最古は[TIME[承応2(1653)年][1653]]でした。
[SRC[>>1080 p.45]]

;; [767] ただし[CITE[東桜谷志]]は銘文を「鬼室集斯之墓」
と読んでいました (>>411)。これは誤読とされます。

[433] 
[[胡口靖夫]]は、
墓碑の形態に類似した石造物の類例は極めて少なく、
[[近世]]のものとは断言できないと反論しました
[SRC[>>224]]。

-*-*-

[1229] 
「鬼室集斯」のような[[俗名]]の[[姓氏]] (?) と[[名]]の組み合わせで、
[[百済]]の[[官位]]も[[日本]]の[[官位]]もないものが、
[[百済]]や古代日本での呼び方として、
または[[金石文]]に刻むべき書き方として、
当時あるいはその後の時代の様式として適切なのか、
という点も検討が必要かもしれません。

;; [1230] 例えば[[天武天皇]]時代に没した[[小野毛人]]の[[墓誌]] (≠ 墓石) には
「小野毛人朝臣之墓」とありました。銘文の用語から死去当時より時代が下るとされますが、
「朝臣」の[[姓]]が組み込まれた[[名前]]です。


*** 紀年

[2120] 
朱鳥3年[LINES[戊][子]]は[TIME[持統天皇2(688)年][kyuureki:688-11-08]]に当たります。
[[延長年号]]ですが、一応
[CITE[日本書紀]]
とは矛盾しません。

[166] 
[[江戸時代]]から[[現代]]に至るまで、
[CITE[日本書紀]]
が1年だけとしている[[朱鳥]]が実際にはより長く用いられたとする説が唱えられていました。
その中には[[鬼室集斯墓碑]]を根拠とする者もありました。
逆に、
実際は長く用いられたことを根拠に[[鬼室集斯墓碑]]銘文の正しさを示す者もありました。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]

[168] 
実のところ、
「朱鳥元年」も含め[[朱鳥]]時代当時に作られたことが確実な
「[[朱鳥]]」
の用例は現在に至るまで未発見です。
それ故に[[朱鳥]]は後代の制定とする[[追号]]説も有力説の1つとなっています。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]

[169] 
[[朱鳥]]が当時存在しなかった、または朱鳥3年とは書かなかったとすると、
この碑文が当時のものでなく、
朱鳥3年という表し方が成立した後に書かれたものということになります。

[170] 
逆に他の根拠からこの碑文が確実に当時のものと言えるなら、
朱鳥3年という表し方が当時から存在した証拠となります。
しかし現在までに判明している事項を総合すると、
そのような主張に説得力を持たせるのは難しそうです。

[HISTORY[
[167] 
[[胡口靖夫]]は、
[CITE[日本書紀]]
に[[朱鳥]]が1年しかないことが、
「[V[『以]]
[V[文会筆記抄』などのような単純明快な偽銘説が成立する根拠]]」
だったとしました。
[SRC[>>90]]

[1226] 
しかし
[CITE[以文会筆記抄]]に偽造説の根拠は見つけられません [SRC[>>102]]。
[[以文会]]の人々が偽造と判断した理由が[CITE[日本書紀]]なのかどうかは不明です。

[1227] 
[CITE[日本書紀]]を根拠に偽造といえないという指摘は正しいです。
]HISTORY]


[693] 
もっとも、
朱鳥3年と書かれているのは死亡の日であって建立の日ではありませんから、
それよりずっと後に建てられた可能性は残ります [SRC[>>113]]。
この日付のみをもって偽造 (事実と異なる記載の墓碑の建立)
と断ずることはできません。

-*-*-

[538] 
とにもかくにも、
この碑文は日本の古代の[[元号]]の研究史上重要なものとなりました。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]


[44] 
[[江戸時代]]の[[西生懐忠]]は、
朱鳥元年の[[天武天皇]]の[[崩御]]後に[[持統天皇]]が[[称制]]し、
翌年が称制元年、
4年が天皇元年となっていて、
それまで[[朱鳥]]を使っていたのが、
後に称制元年を持統天皇元年としたものと解しました。
[CITE[愚管抄]]、
[CITE[皇代略記]]
が天武天皇没後7年まで[[朱鳥]]を使っていたとすることも言及していました。
[SRC[>>41, >>40]]


[1820] 
[[伴信友]]は
[CITE[年号の論]] (>>614)
で銘文 (>>617) を紹介し、
朱鳥3年は持統天皇2年に当たるとして、
[[朱鳥]]が[[持統天皇]]時代に使われた根拠の1つとしました。
[SRC[>>1731]]


[696] 
[[大正時代]]の[[木崎愛吉]] (>>691) も,
[[朱鳥]]の紀年は[[西生懐忠]]の説を採用していました。


-*-*-

[504] 
[[江戸時代]]には、「[V[朱鳥元年]]」とする銘文の情報もありました [SRC[>>98]]。
不正確な伝聞に過ぎないと思われますが、
曖昧な元情報に[[朱鳥]]は1年しかなかったという知識が足し合わされて生じた可能性もあります。


-*-*-

[67] 
[[井上通泰]]は、
[[朱鳥]]に[CITE[日本書紀]]/[CITE[万葉集]]/[CITE[日本霊異記]]の数え方と
[CITE[万葉集]]所引[CITE[日本紀]]の2種類の数え方があることを指摘し、
[[西生懐忠]]が判読困難だったと書いていたことから、
「[V[二]]」か「[V[三]]」か判断したがいものを、
[[干支年]]から「[V[三]]」と決めた可能性を疑いました。
[SRC[>>2104]]
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]

[703] 
[[井上通泰]]は[[伴信友]]の説を引用し、
拓本を見たとは書いておりませんでした。
その時点で[[井上通泰]]はまだ墓碑を実見していませんでした。
これは釈文と説明文からの推測に過ぎなかったと思われます。
現存する拓本の「[V[三]]」の横線の位置は特別不自然にはみえません。
[[井上通泰]]自身が指摘する通り2種類の数え方が知られており、
「[V[三]]」だと問題があるということもありません。

-*-*-

[172] 
[[昭和時代]]の研究者[[石田茂作]]によれば、
[[日本]]の[[金石文]]の[[紀年銘]]において
「[V[[LINES[戊][子]]]]」
のように[[干支]]を細字で[[割書]]する形式は、
[[平安時代]]の10世紀頃から使われるようになり、
[[鎌倉時代]]に普通に使われるようになり、
その後も使われるが少なくなるのだといいます。
[SEE[ [[東洋の日時表示]] ]]

[173] 
これによれば、朱鳥3年は初出より何百年か遡ることになり、
当時リアルタイムで書かれたものとは考えにくいことになります。
[SRC[>>90]]

[HISTORY[
[174] 
なお[[平成時代]]の[[ブログ]]や [CITE[Wikipedia]] で、
[[胡口靖夫]]の著書から
「「朱鳥三年[LINES[戊][子]]」のような紀年銘の干支の位置の記載形式は、天慶9(946)年を最古の例とするが、平安時代にはまだこの形式のものはあまり多くはなく、鎌倉時代に入るとこの形式のものがもっとも多く普通であったようであり、室町時代になるとまた少なくなることである(p60)」
と引いて、この[[紀年銘]]が疑問視される根拠の1つに示すものがありました
[SRC[>>2, >>2118, >>2122]]。

[175] 
これだけ見ると[[胡口靖夫]]の研究成果のようですが、
実際には[[石田茂作]]の論文の記述を[[胡口靖夫]]がほぼそのまま繰り返したに過ぎません。
[[胡口靖夫]]の論文には出典が明記されているので [SRC[>>90]] 誤解はないのですが、
孫引きした [[Web]] 上の情報からはそのことがわからなくなってしまっています。
]HISTORY]

[963] 
現地の案内パンフレットは、
[[干支年]]を奇妙な[[干支合字]]で書いていました (>>2130)。
拓本とは明確に異なります。


-*-*-

[607] 
[[干支]]の「戊」は、多くの釈文は「戊」としましたが、
[[江戸時代]]の拓本の模写 (>>600) は「戌」としていました。

[608] 
現在見られる拓本では、この部分に点があるのか判断するのが困難です。
各時代の研究者らが「戊」と読んだのか、
「戌」と読んで校訂したのか不明です。

[609] 
「戊」と「戌」の混用はよくみられますが、 
このような金石銘にもあったものかどうかは検討が必要です。

-*-*-

[80] 
[[鬼室集斯]]の死去の時期は、
この碑以外の根拠が見当たりません。
[CITE[日本書紀]]
には[[天智天皇]]の時代に[[近江]]に移住した後の動向が残されませんでした。
従って朱鳥3年説の真偽は不明というほかありません。


[220] 
[[胡口靖夫]]は、
当碑の造立を[[平安時代]]後期から[[鎌倉時代]]後期と推定し、
当時辺遠の地だった[[小野]]で、
[CITE[愚管抄]]
など[[朱鳥]]の[[延長年号]]を使った書物を参照できた可能性はほとんどなかっただろうとしました。
それ故に、卒年月日を記述した家伝が[[鬼室集斯]]の子孫に伝わっていた可能性が高く、
よって信憑性が高いとしました。
[SRC[>>90]]

[221] 
この説は、「朱鳥3年」が死去当時ないしそれに近い時期に使われた表現であることと、
朱鳥時代の紀年の資料を参照できる人が墓碑造立に関与しなかったことが前提となります。
信憑性が高いと言う根拠にしては脆弱に思えます。

;; [1228] 
実際、少し時代が下りますが、[TIME[正長2(1429)年][1429]]には僧が訪れて[[不動堂]]を建立したと[[棟札]]に書かれたわけです
(>>887)。
同じ[[東桜谷]]地区の周辺の村には[[鎌倉時代]]後期銘のある石造物も残っていて、
仏教が広まっていた様子がうかがわれます。
有識者の寄り付かない辺境の村で知識のない者が作ったという仮定は捨てるべきでしょう。


[247] 
しかし信憑性の高い根拠がなかったとすると、
この[[日付]]がいかなる方法で導かれたものかにも検討が必要となります。
まったくの偽造なら、敢えて[[日付]]まで捏造する必要性は低いとも考えられます。

[660] 
11月8日は[[西宮]]の毎年の[[祭礼]]の日でした (>>729)。
[[伴信友]]は、
命日が祭礼日の由来としました [SRC[>>41]]。

[557] 
なお他に[[鬼室王女墓]]に「朱鳥三年」と書かれていたとされます。


*** 死亡の文字

[663] 
右面の最後の文字は摩耗しており、
「殂」「歿」「殞」
などと解されています
[SRC[>>2124, >>2102]]。
それより下に文字が入る余地はないとみられます [SRC[>>90]]。 


[160] 
右面の最後の文字は、
[[西生懐忠]] (掛物添書 [SRC[>>661]])、
[CITE[西州投化記]] 拓本模写 (>>600)、
[CITE[尚古年表]] が「殞」、
[[伴信友]] ([CITE[鬼室集斯墓碑考]] [SRC[>>41]], [CITE[年号の論]] [SRC[>>1731]])、
[CITE[日本書紀通釈]] [SRC[>>149]]、
[CITE[大日本金石史]] [SRC[>>113]] が「殂」、
[CITE[近江蒲生郡志]] が「歿」 [SRC[>>150]]、
としていました。
[SRC[>>90]]

[163] 
[[伴信友]]は、
字形が不鮮明なので推測したと書いていました。
[[西生懐忠]]が「殞」としたことについて、
字形がそうは見えないとしました。
[SRC[>>41, >>90]]


[161] 
[[遠藤宗義]]は、
「[ASIS[〓][殞の旁から貝と口の下線を除去]]」
は「殂」「殞」「歿」のいずれかだが判定できないとしていました。
[SRC[>>90]]

[162] 
[[胡口靖夫]]は、
偏ははっきりしているが旁は下半分が書けていて
「[ASIS[〓][殞の旁から貝と口の下線を除去]]」
としか判読できないとしました。
[SRC[>>90]]

[164] 
[[胡口靖夫]]は、
[[伴信友]]の検討を引いて、
発見当初から
「[ASIS[〓][殞の旁から貝と口の下線を除去]]」
としか読めなかったと推測しました。
[SRC[>>90]]

;;
[165] 
なお、
[[胡口靖夫]]の著書は
「[ASIS[〓][殞の旁から貝と口の下線を除去]]」
を[[作字]]していました [SRC[>>90]]。
初出の論文誌
[CITE[日本書紀研究]]
でも[[作字]]されていたのでしょうか。

[171] 
「殂」「殞」「歿」
のいずれも、古代日本の[[墓誌]]銘文で[[鬼室集斯]]と同程度の位階の者に使った例が見つかっておらず、
不審とされます。
[SRC[>>90]]


[962] 現地の案内パンフレットは、
「[ASIS[〓][⿰歹几 (几の下に空白)]]」
と少し違った字形で作字していました (>>2130)。



*** 庶孫

[176] 
碑文には[[庶孫]]の「美成」が作ったとあります。
この「美成」は[[人名]]とすることで各説一致していますが、
他の記録に見つからず、また[[鬼室]]氏の系譜も伝わらないため、
何者か確定されていません。

[177] 
[[伴信友]]は、
[[鬼室集斯]]の[[嫡子]]、[[庶子]]が既に死去していたので、
[[庶孫]] ([[庶子]]の[[子]]) の美成が家を継いで墓を立てたとしました。
[SRC[>>41, >>1731, >>90]]
[WEAK[([CITE[日本書紀通釈]]も同じ説を書いていました。 [SRC[>>149]])]]
[[鬼室集信]]または[[鬼室集斯]]が庶子で、その子に当たる可能性もあるとしました。
[[鬼室]]姓でないのは、重複するから省略したのだとしました。
[SRC[>>41]]

[178] 
[[胡口靖夫]]は、
[[奈良時代]]までに断片的な記録が残る数名の「鬼室」氏が子孫の可能性があり、
[[伴信友]]の説が成立しないかもしれないと指摘しました。
更に、[CITE[養老律令]] から推定して「庶孫」が継承権を持っていたと考えにくいこと、
古代の[[墓誌]]で「庶孫」と表現した例が見当たらないことを指摘しました。
[SRC[>>90]]

[215] 
これらの解釈は、「庶孫」を古代の本来的な意味で理解し、
「孫」とは[[子]]の[[子]]だとして検討したものでした。
一方で[[小野]]の[[辻家]]過去帳の「庶孫」
は[[子孫]]の意味とされます。
[SEE[ [[室徒株]] ]]
しかし記載の類似する両史料には何らかの関連があると考えるべきではないでしょうか。


[219] 
[[胡口靖夫]]は明言しませんでしたが、
[[鎌倉時代]]後期から[[平安時代]]後期に[[鬼室集斯]]後裔の辻氏らが墓碑を造立したとする[[胡口靖夫]]の説
(>>218) に従うなら、
「庶孫」の[[美成]]は辻氏かそれに近い一族の代表的な人物ということになります。
そう解するのでなければ、辻氏らが「庶孫美成造」と偽ったとしなければならないことになります。

[1231] 
[[江戸時代]]に
「美成」
を[[姓]]とする者がいたとする説があります。
[SEE[ [[小野村]] ]]
だとすると銘文の「美成」も[[名]]ではなく[[姓]]である可能性も検討が必要です。
[[姓]]だけ書いて「造」に続けるのは不自然感が否めませんが。
まさか「造」が[[名]]ということはないでしょう。

[1232] 
「美成」なる[[人名]]がどの時代の[[人名]]として適切なのか、
関係のありそうな「美成」を称する者がどの時代に確認できるのか、
といったこともこれまで検討されて来なかったようにみえます。


** 形状と用途の推測

[505] 
[[江戸時代]]の現地民は[[人魚塚]]と考えていましたが (>>584)、
知識人らは特徴的な形状 (>>147) から海外文化との関係に想像を巡らせていました。

-*-*-

[141] [[漢土]]との関係性を指摘する [SRC[>>113]] 根拠として、
次のようなものが挙げられました。

-
[139] 
[[江戸時代]]の[[村井古巌]] (>>382) と[[西生懐忠]]は、
くびれを指して、
結縛の痕跡があって、
繋牲の形を表したものではないかという、
と書いていました。
[SRC[>>625, >>362, >>90, >>113]]
- 
[1207] 
[[明治時代]]の[[松井淳風]]は、
形状は[[唐土]]の方式としました
(>>134)。
-
[140] 
[CITE[礼記]] の祭儀によると、
宗廟の門内には碑があって、
生贄を繋ぐもので、
紐を通す孔がありました。
(孔であってくびれではありません。)
[SRC[>>90]]
-
[146] 
[[漢土]]の[[唐]]・[[宋]]間には[[八角経幢]]と呼ばれる、
八角柱状で記念碑的機能を持ったものが多数作られました。
[SRC[>>90]]

[723] 
[[井上通泰]]は、
くびれに生贄を繋いだという説に対し、
装飾に過ぎなかろうとしました [SRC[>>2104]]。

-*-*-

[184] [[朝鮮半島]]との関係性を指摘する根拠として、
次のものが挙げられました。


- 
[200] 
[[西生懐忠]]は[[朝鮮半島]]の影響を示唆していました (>>135)。
ただしその根拠は明示していませんでした。
- [724] 
[[井上通泰]]は上古の[[百済]]式のものだろうとしましたが、
僻地でも[[鬼室集斯]]の集団には字を書ける者もいただろうというくらいで、
明確な根拠は示しませんでした。
[SRC[>>2104]]
- [757] 
[[金達寿]]は、
墓石の形式は日本古来の形式とは全く異なり、
石材もほんとうの朝鮮石だということだ、
としました。
[SRC[>>57]]
ただし[[金達寿]]は墓制の専門家ではありませんし、
石材の鑑定も伝聞で根拠は不明です。
-
[142] 
朝鮮開城郡松都面満月町双瀑洞の高麗温鞋陵の周囲にあった欄杆石が、
同じように八角柱で上面中央が高く、くびれが入っていました。
[SRC[>>90 (>>144)]]
- [839] 
[[平成時代]]の記事に
「頂部は宝珠形のコケシ型をしており、日本人には馴染みがないが朝鮮半島では儒教の象徴のような形」
とするものがありました [SRC[>>36]]。
根拠は不明で、専門誌でもなく信憑性に疑問があります。
諸学説を摘み食いした曖昧な俗説が独り歩きし初めているのではないでしょうか。

-*-*-

[185] これら大陸のものは、影響が確実視できるほど似ているとは言えませんし、
距離だけでなく時代も離れています。
大陸に目を向けずとも、[[日本]]国内の次のようなものとの類似性も指摘されています。

- [186] 
[[日本]]の[[中世]]頃には、[[角柱塔]]が作られるようになりました。
くびれがないこと、上下同一の太さであること、
収納空間があることなど違いはあれど、
基本形態は酷似しています。 [SRC[>>90]]
-- [187] 最古のものは[[日本国]][[京都府]][[京都市]][[左京区]][[峰定寺]]木製方錐角柱塔
([TIME[仁平4(1154)年2月23日][kyuureki:1154-02-23]]銘)。
[[鎌倉時代]]末期には、[[角柱塔]]を仏塔とすることが確立されていたと考えられています。
[SRC[>>90 ([CITE[日本仏塔]], [[石田茂作]])]]
- [188] 
[[日本]]の[[中世]]頃には、石造の八面体が作られるようになりました。
現存するものは平安時代後期から見られ、[[鎌倉時代]]後期には造形が確立していました。
[SRC[>>90]]
- [1206] 
[[石幢]]だろうともいわれました
(>>1097)。


[832] 
[[関西学院大学]]の[[朴鐘鳴]]は、
八角形の石碑の歴史から11世紀以降のものと推定しました。
[SRC[>>20, >>2102]]
(著書 (>>833) からか、他の出典からか不明。)



[REFS[
- [145] [CITE[高麗諸陵墓調査報告書]], [[今西龍]], [TIME[大正5(1916)年][1916]]度
-- [143] [CITE@ja[[[古蹟調査報告]]. 大正5年度 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[朝鮮総督府]], [TIME[大正8-14][year:1925]], [TIME[2021-03-27T09:26:51.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976583/194>
-- [144] [CITE@ja[[[古蹟調査報告]]. 大正5年度 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[朝鮮総督府]], [TIME[大正8-14][year:1925]], [TIME[2021-03-27T09:29:55.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976583/199>
]REFS]

*** 別墓説

[507] 
[[西生懐忠]]らの[CITE[[V[蒲生旧址考]]]] (>>304)
は、
墓碑の「別墓」説を提示しました。 [SRC[>>361]]

[371] 
本書では、
[[鬼室集斯]]や美成が住んでいたのは当地ではなく [SRC[>>764]]、
墓碑は「別墓」で、子孫らが自分の村にもと移設または分祀したものとされました
[SRC[>>361, >>764, >>1080 p.47]]。
それは全国によくある風習だとしていました
[SRC[>>1080 p.47]]。

[542] 
[[明治時代]]の[[村岡良弼]]も,
「義墓」
だと主張しました (>>393)。


[765] 
本墓は[[古保志塚村]]だ (または伝聞 [SRC[>>764]]) とする説と、
本廟は[[石塔寺]]大塔だろうと云うとの旨の2説が示されました。
[SRC[>>362, >>764]]

[766] 古保志塚については、
[[奥州]]から逃れた[[蝦夷]]が山賊として住み着き
「鬼」
と恐れられていたので地名にも「鬼」
が残っていたと当時伝承されていましたが、
そうではなく[[鬼室集斯]]の「鬼」だとしました。
[SRC[>>764]]

[491] しかしどちら「本墓」も、
[[平成時代]]に否定されました (>>377, >>380)。

[1099] 
[[昭和時代]]後期の[CITE[東桜谷志]]は、
そうした風習はもっと後世に生じたもので、
孫の美成が建てたとする銘文にも矛盾するとしました。
[SRC[>>1080 p.47]]


[508] 
[[西宮]]自体も[[朝鮮坊山]]から遷宮したとされます (>>1145)。
墓碑はそれと同時に移動されたものとする説もあります。
その真偽も現時点では不明です。




[REFS[

[FIG(quote)[ [361] [CITE[[V[蒲生旧址考]]]] [SRC[>>360]]

[362] [CSECTION[小野村西宮]]条

>
祭神小錦下学職頭鬼室集斯百済人近江町蒲生郡ニ置ル。日本紀ニ見エタリ。[SNIP[]]祭礼十一月八日。境内ニ集斯ノ
墓碑アリ。高サ一尺六寸。八面。面上二寸七分。下三寸二分。頂正中隆起。自上下二寸五分許存結縛之痕。蓋
表繋牲之形云。[SNIP[]]
>
考此鬼室集斯塚ト云ハ別墓ナリ。庶孫美成建トアレハ別墓成申知ヘシ。此近郷ニ美成ナルモノ棲テ鬼室ヲ尊宗
シ霊ヲ移シ拝セシ塚ナラン。世ニ塚ヲ別移シタル例儘アリ。本墓ハ古保志塚村ナルヘシ。[SNIP[]]
>
鬼室集斯墓は庶孫美成建ルトアリ。[SNIP[]]其子孫其門弟其主人等ヲ我里ニモ墓ヲ建テ祭ル例世ニ儘アリ。其本廟ノ
塚ハ石塔寺ノ大塔ナラント云。[SNIP[]]

[363] [CSECTION[西古保塚村壊塚]]条

>
鬼ヵ窪鬼ヵ堂ナト呼リ。[SNIP[]]再考蒲生野ノ中大古ノ陵ノ墓ハ鬼室集斯塚ニ可然事。

]FIG]

]REFS]



* 中世の神社創建

[194] 
神社の創設時期は不明です。

-*-*-

[1326] 
[[令和時代]]現在、
いくつかの有名サイトが[[鬼室神社]]を
「聖徳太子が建立した「48精舎」のうちの1つ」
で[[日野町]]最古の[[神社]]としていました。
[SRC[>>1323, >>1324, >>1325]]
いずれも同じ文面ですが、出典は不明です。

[1328] 
興味深いことにこれらのサイトは「公式サイト」として[[日野観光協会]]の
[[Webページ]]に[[リンク]]していました。
その[[日野観光協会]]の
[[Webサイト]]の[[金剛定寺]]のページに、
「日野町内で最も古く、聖徳太子が建立した48精舎の一つ」
とありました。
[SRC[>>1327]]

[1329] 
この「48精舎」 ([[欧州数字]]表記) は[[ウェブ検索]]で他の例がほとんど見つけられません。
これらのサイトは、
[[日野観光協会]]の資料提供を受け、
またはその解説文を参考にして説明を書いたと予想され、
[[日野観光協会]]が誤った資料を渡したか、
説明文執筆者が誤って写したと考えるのが妥当そうです。


[1330] 
それにしても[[日本気象協会]]や[[ヤフー]]のような有名企業の
[[Webサイト]]が他に確認できない出典不明の情報を堂々と掲載し続けているのは困りものです。
このままこれが新たな創建伝説として定着したら、
これらの企業はどう責任を取るつもりなのでしょうか。



[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1323] [CITE@ja[[[鬼室神社]] | 子供とお出かけ情報「いこーよ」]], [TIME[2021-05-31T06:07:08.000Z]] <https://iko-yo.net/facilities/32198>
]FIGCAPTION]

>韓国とのつながりが濃い、日野町最古の神社。
>
日野町内で最古の神社で、聖徳太子が建立した「48精舎」のうちの1つとされる神社です。現在の韓国で当時の百済国から渡来してきた中の鬼室集斯(きしつしゅうし)という高官の墓が祀られたことから、「鬼室神社(きしつじんじゃ)」の名前になりました。鬼室集斯の父、福信将軍が韓国の忠清南道扶餘郡恩山面(ちゅうせいなんどうぷよぐんうんざんめん)の恩山別神堂に祀られているところから、姉妹都市としての交流も盛んに行われているそうです。その為、「鬼室神社」の場所を記す標識にはハングル文字も併記されています。アクセスは近江鉄道桜川駅から原行バス約25分。小野下車すぐです。(※原行きバスは日・祝日運休)

>鬼室神社周辺の天気予報
>
[BOX(right)[
情報提供:tenki.jp
]BOX]

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1324] [CITE@ja[鬼室神社の今日・明日の天気 週末の天気・紫外線情報【お出かけスポット天気】 - [[日本気象協会]] tenki.jp]], [TIME[2021-05-31T06:08:21.000Z]] <https://tenki.jp/leisure/6/28/186/32198/>
]FIGCAPTION]

>日野町内で最古の神社で、聖徳太子が建立した「48精舎」のうちの1つとされる神社です。現在の韓国で当時の百済国から渡来してきた中の鬼室集斯(きしつしゅうし)という高官の墓が祀られたことから、「鬼室神社(きしつじんじゃ)」の名前になりました。鬼室集斯の父、福信将軍が韓国の忠清南道扶餘郡恩山面(ちゅうせいなんどうぷよぐんうんざんめん)の恩山別神堂に祀られているところから、姉妹都市としての交流も盛んに行われているそうです。その為、「鬼室神社」の場所を記す標識にはハングル文字も併記されています。アクセスは近江鉄道桜川駅から原行バス約25分。小野下車すぐです。(※原行きバスは日・祝日運休)

>鬼室神社の詳細情報
>[SNIP[]](情報提供元:いこーよ)


]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1325] [CITE@ja[[[鬼室神社]](滋賀県蒲生郡日野町大字小野) - Yahoo!ロコ]], [TIME[2021-05-31T06:10:20.000Z]] <https://loco.yahoo.co.jp/place/g-ZY23YEmo6Bw/>
]FIGCAPTION]

>日野町内で最古の神社で、聖徳太子が建立した「48精舎」のうちの1つとされる神社です。現在の韓国で当時の百済国から渡来してきた中の鬼室集斯(きしつしゅうし)という高官の墓が祀られたことから、「鬼室神社(きしつじんじゃ)」の名前になりました。鬼室集斯の父、福信将軍が韓国の忠清南道扶餘郡恩山面(ちゅうせいなんどうぷよぐんうんざんめん)の恩山別神堂に祀られているところから、姉妹都市としての交流も盛んに行われているそうです。その為、「鬼室神社」の場所を記す標識にはハングル文字も併記されています。アクセスは近江鉄道桜川駅から原行バス約25分。小野下車すぐです。(※原行きバスは日・祝日運休) 

>情報提供元
>いこーよ(アクトインディ株式会社)

]FIG]

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1327] [CITE@ja[金剛定寺 – [[日野観光協会]]]], [TIME[2021-05-31T06:12:29.000Z]] <https://www.hino-kanko.jp/sight/kongojyoji/>
]FIGCAPTION]

>日野町内で最も古く、聖徳太子が建立した48精舎の一つで、奈良時代にはすでに相当の勢力を持つお寺でした。

]FIG]

]REFS]

-*-*-

[1233] 
社殿の古い棟札とされるものが2つ伝わります。


[FIG(quote)[ [683] 正長2年棟札 [SRC[>>670 [V[二三四六]], >>76 (○→□), >>2124]]

(表)

>
[VRL[
小野村朝○○○○○○[ASIS[○][>>76, >>2124 ○○]]

正長二[SUP[巳]][SUB[酉]]八月十六日ヨリ日[ASIS[數者九][>>76 数者九(改行無), >>2124 数九日]]

[ASIS[日][>>2124 なし]]○○同[ASIS[二十][>>2124 廿]]四日里之西マ[ASIS[デ][>>2124 テ]]○[ASIS[通][>>2124 道]]
]VRL]

(裏)

>
[VRL[
右其時之村人道佛房道[ASIS[喜][>>2124 PDF 判読困難]][ASIS[○○][>>670 改行なし, >>76 □(改行無)]]

千太夫介四郎性信又四郎[ASIS[○○][>>670, >>76 改行なし]]

熊治郎又三郎孫四[ASIS[郎][>>670 改行]]介六[ASIS[郎][>>670, >>76 改行なし]]

又五郎[ASIS[  ][>>670, >>76 ツメ]]十三人[ASIS[參會][>>76 参会]]其移[ASIS[聖][>>76 聖(改行)]][ASIS[者][>>76 者]]尺一道人
]VRL]

(裏下) [SRC[>>2124]]

>
[VRL[
右者正長二年古キ札ニテ文字不分
文字跡不知ハ丸ヲ付相分ル計リ
書記置也

[BOX(right)[
辻清保
]BOX]
]VRL]

]FIG]

[NOTE[
- [195] 
[CITE[近江蒲生郡志]] 巻六[[西宮神社]]条 [SRC[>>670]] 所引の最古の[[棟札]]銘文
「[V[正長二[RUBY[[SUP[巳]][SUB[酉]]][(ママ)]]八󠄂月]]」
[SRC[>>90 (注記は >>90 にあるまま)]]
-- [677] 「(ママ)」は原書 [SRC[>>670]] にない本書 [SRC[>>90]] の注釈。
-- [196] 「巳酉」は80%くらいの文字サイズで行の左右にちょうど収まるように配置。
縦方向の中央軸付近には空間なく配置。
--- [197] この[[小書き干支文字][干支斜め書き]]の配置法は同書同論文の他の箇所 (>>159)
と違う。意図的に変えたものかどうか不明。
当例は[[ルビ]]に「(ママ)」とある点にも注意したい。
--- [SEE[ [[ルビ]] ]]
-- [198] [TIME[正長2(1429)年[LINES[己][酉]]][1429]]8月
]NOTE]


[FIG(quote)[ [802] 文政5年棟札 [SRC[>>2124]]

(表)

>
[VRL[
[PRE[
  于時文政五年 [SUP[壬]][SUB[午]] 年  時之神主             江州蒲生郡日野牧奥津保小野村
                          尾崎助右衛門                        百姓代治右衛門
奉再建御神殿            長人            甲津烟村              組頭市右衛門
                          山村市右衛門  大工  村井傳七郎由敏  庄屋久右衛門
  十一月吉祥日            尾崎久左衛門
                          辻久右衛門
]PRE]
]VRL]

(裏)

>
[VRL[
[PRE[
        當社大破壌雖余有志興造                    願主
        力不及固相談募建於奥村中                    辻久右衛門尉清保
        且遠近親戚舊友以遵宿願云                                  敬白
]PRE]
]VRL]

]FIG]

;; [803] >>2124 [[干支斜め書き]]は半分の文字サイズで1文字分のマスに斜めに配置。

[655] 
[[江戸時代]]後期 ([TIME[弘化3(1846)年][1846]]以前)、
[[伴信友]]が
「正長二年乙酉八月二十四日日尺一道人[LINES[名芿栄、菅原氏、][唐橋在豊叔父]]」
が云々と書いていました [SRC[>>41]]。
[[弘化]]年間の幕府調書にも同じようにありました
(>>804)。
この[[日付]]は[[棟札]]由来と思われます。


[681] 
[[大正時代]]時点で、
[TIME[正長2(1429)年][1429]]と[TIME[文政5(1822)年][1822]]の社殿造営の[[棟札]]があった
[SRC[>>670]]
とされます。現物を確認したかは不明です。

[1117] 
[[昭和時代]]後期の[CITE[東桜谷志]]は、
[[鬼室神社]]に伝えられている棟札として、
[CITE[蒲生郡志]]が引かれていました。
[SRC[>>76 p.148]]
「伝えられている」といいながら現物に言及がありません。
当時既に現存しなかったのでしょうか?

[800] 
[[平成時代]]初期時点で、
[TIME[正長2(1429)年][1429]]と[TIME[文政5(1822)年][1822]]の[[棟札]]が伝えられている、
として[[遠藤宗義]]の[CITE[鬼室集斯墳墓考]]が引かれていました。
[SRC[>>2124]]
「伝えられている」といいながら現物に言及がありません。
当時既に現存しなかったのでしょうか?

[1234] 
[TIME[文政5(1822)年][1822]]に建設されたのは、
現行の社殿なのでしょうか。
現物に関する言及がないのは、[[棟札]]が容易に確認できず、
現地調査がされたこともないのでしょうか。

[1235] 
[TIME[正長2(1429)年][1429]]の[[棟札]]は、
その先代の[[不動堂]]と呼ばれていた社殿のものと思われます。
改築時に取り外されたのでしょうか。
実物がいつまで実在していたのか不明です。
(あるいは現存の社殿に使われていたりするのでしょうか。)

[801] 
現在伝わる正長2年[[棟札]]は写しで、
「裏下」部は注釈として加筆されたものとされます
[SRC[>>2124]]。
どちらの[[棟札]]にも辻清保とあることから、
文政5年の改築時 (>>1247) に写したものと思われます
[SRC[>>2124]]。

-*-*-

[1236] 
[TIME[正長2(1429)年][1429]]の[[棟札]]は、
[[江戸時代]]時点で既に判読困難だったようで、
欠字が多く意味が取りづらいですが、

- [1237] [[小野村]]で
- [1238] [TIME[正長2(1429)年8月16日][kyuureki:1429-08-16]]から
[TIME[24日][kyuureki:1429-08-24]]まで
9日間
- [1239] [[小野村]]の西の方へと、
- [1240] 村人13人
- [1241] [[尺一道人]]
- [1242] 移動した

... といったようなことが書かれていました。

[1243] 
この[[棟札]]の信憑性の判断は困難ですが、
[TIME[文政5(1822)年][1822]]時点で欠字だらけの[[棟札]]の写本を捏造する動機は薄いと思われます。
内容はともかく[[江戸時代]]後期にそう書かれていた事実は信用して良いのではないでしょうか。

[1118] 
[[小野村]]の[[西明寺村]]からの独立は[TIME[天正4(1576)年][1576]]とされます。
[TIME[正長2(1429)年][1429]]の[[棟札]]に
「小野村」
とありますから、正式分離より前に事実上の分離が成っていたとされます [SRC[>>76 p.149]]。
しかし100年以上も引き上げてしまって良いものか躊躇されます。

[1119] 
[[棟札]]に名前が挙げられた13人は、
後の[[室徒]]に当たる村の有力者と考えられています
[SRC[>>76 p.149]]。

[1245] 
[[江戸時代]]後期の[[伴信友]]は、
「尺一道人」
とは[[菅原氏]]で[RUBYB[[[唐橋在豊]]][[TIME[1391]]-[TIME[1464]]]]の[[叔父]]で、
[[名]]は[[芿栄]]だとしました
(>>655)。
[SRC[>>41]]
その根拠は不明です。[[系図]]か何かでしょうか。
それ以後の研究者等も「尺一」という名の[[僧]]だとの解釈
[SRC[>>76 pp.148-149]]
で一致していますが、
この人物の素性にまで踏み込んだものは見当たりません。



-*-*-

[887] 
[TIME[正長2(1429)年][1429]]の[[棟札]]を根拠に、
尺一が[[不動堂]]を建てたとされます。 
[SRC[>>23, >>2114]]


[1244] 
[[江戸時代]]後期の[[伴信友]]は、
正長2年8月24日に尺一が[[不動明王]]を[[本地仏]]として[[祭祀]]するようにした、
と説明しました。
[SRC[>>41]]

[1145] 
[TIME[昭和30(1955)年][1955]]頃の由緒が引く創建の沿革は、
創建は不明ながら、
[[朝鮮坊山]]に鎮座していたものが正長2年に現在地に[[鬼室集斯墓]]と共に遷宮した、
と説明しました。
[SRC[>>1133]]

[1246] 
[[昭和時代]]後期の[CITE[東桜谷志]]は、
尺一の元で住民13人により[[不動明王]]像が他から当地に移された、
と推測しました。
[SRC[>>76 pp.148-149]]

[997] 
[[平成時代]]の書籍は、
弘化年間の調書の一節 (>>804) が根拠に挙げて
[WEAK[(それだけが出典かは不明)]]、
この時の経緯を次のように説明しました。
[SRC[>>2 (>>731)]]

- [998] [TIME[正長2(1429)年8月16日][kyuureki:1429-08-16]]、
13人がかりの大修理がありました。
- [999] その際に[[尺一道人]]により祭神が[[不動明王]]に置き換えられました。
- [1000] 現地の伝承によれば、
[[不動明王]]は後山である[[朝鮮坊山]]から移されました。
- [1001] これによって堂名が不動明王堂となりました。

[1256] 
これらの情報をまとめると、[[棟札]]の記述以外に、

- [1257] [[尺一道人]]以前の祭神は[[鬼室集斯]]だった。
-- [1258] 弘化年間の報告者の推測か?
- [1259] [[尺一道人]]以前に[[不動明王]]は[[朝鮮坊山]]にあった。
-- [1260] 弘化年間当時の[[小野村]]の伝承
- [1261] [[尺一道人]]以前に[[鬼室集斯墓碑]]は[[朝鮮坊山]]にあった。
-- [1262] 弘化年間の報告にあったか不明、
[[昭和時代]]までに成立した伝承

... という説があることがわかります。しかしいずれもその根拠はあやふやです。

[1263] [[朝鮮坊山]]の位置は、[[小野村]]近辺と思われますが、不明です。
[SEE[ [[朝鮮坊山]] ]] 
遷座前の遺構の有無も不明です。

[1268] 
遷座説の根拠は[[江戸時代]]後期の伝承の伝聞だけで、
どれだけ信頼できるものか不明です。
遷座が事実だとしても、それ以前の[[祭神]]が[[鬼室集斯]]なのか[[不動明王]]なのか謎です。

[1269] 
しかも墓碑が同時に移動されたとするのは重要な情報ですが、
これまで十分に検討されて来なかったようです。
現存の墓碑が (新造ではなく) [[朝鮮坊山]]から移動されてきたというのでしょうか。
その際埋葬されていたものを改葬したりはあったのでしょうか、
それとも墓碑だけが移動されたのでしょうか。
別墓説 (>>507) とも関係するのでしょうか。

[1270] 
遷座にはいかなる意義があったのでしょうか。
現在地はどのような理由で選ばれたのでしょうか。
[[小野村]]の中央集落から離れた地、
[[氏神]]とも反対方向の地が選ばれた理由はあったのでしょうか。

-*-*-

[995] 
[[西宮]]は氏神の[[天神社]]の[[摂社]]で、
それぞれ集落の東側と西側に祀られていたとする説もありました [SEE[ [[人魚塚]] ]]。
集落の2大神社として、
どちらも村の有力者グループ[[室徒]]の管理下に置かれていたことは、
神社創建以来の経緯を考える上で重要そうです。


-*-*-



[1097] 
[CITE[東桜谷志]]は墓碑偽造説を採っており、
墓碑は元は[[西明寺]]の関係 ([SEE[ [[小野村]] ]]) の[[石幢]]だったと推測しました。
[SRC[>>76 p.46]]

-*-*-

[588] 
[TIME[文亀元(1501)年][1501]]成立と称する絵図 (実は[[江戸時代]]の[[椿井文書]])
に墓碑が描かれていました (>>212)。

[835] 
[TIME[元禄4(1691)年[LINES[辛][未]]][1691]]5月、
[[室徒]]が社殿前の石灯篭2基を整備しました
(>>1126)。
これが「[[室徒]]」の確実な最古の記録のようです。 
この時同時に[[氏神]]の[[天神社]]にも石灯篭が整備されました。
[SEE[ [[室徒]] ]]

[587] 
[TIME[宝永3(1706)年][1706]]正月付の[[小野村]]の[[辻家]]の過去帳があり、
そこに[[辻家]]は[[鬼室集斯]]の子孫で[[室徒]]の代表であると書かれていました。
[SEE[ [[辻家]] ]]


* 江戸時代中期の司馬江漢の訪問

[249] 
[TIME[天明8(1788)年8月12日][kyuureki:1788-08-12]]、
[[江戸]]の[[画家]]で[[蘭学者]]の[RUBYB[[[司馬江漢]]][[TIME[1747]]-[TIME[1818]]]]は、
当地を訪問しました。
後日[CITE[西遊旅譚]]や[CITE[江漢西遊日記]]としてその様子が出版されました。
[SEE[ [[司馬江漢]] ]]

** [CITE[西遊旅譚]]

[506] 
[CITE[西遊旅譚]]は、
[TIME[寛政元(1789)年][1789]]に[[江戸]]に戻った翌年までに弟子によりまとめられ、
それから4年で出版されることになったようです。
初刊行年は序文の[TIME[寛政6(1794)年][1794]]またはその翌[TIME[7(1795)年][1795]]とされます。
[SEE[ [[西遊旅譚]] ]] 

- [529] [[早稲田大学]]所蔵刊本 [SRC[>>11]] [TIME[寛政6(1794)年[LINES[甲][寅]]][1794]]序×1
-- [530] 人魚塚の図 [SRC[>>527]]
-- [531] 不動堂の図 [SRC[>>528]]
- [534] [[早稲田大学]]所蔵刊本 [SRC[>>515]] [TIME[寛政6(1794)年[LINES[甲][寅]]][1794]]序×2
-- [535] 人魚塚の図 [SRC[>>532]]
-- [536] 不動堂の図 [SRC[>>533]]
- [272] [[国立国会図書館]]所蔵[TIME[享和3(1803)年][1803]]刊本 [SRC[>>509]]
-- [522] 人魚塚の図 [SRC[>>524]]
-- [526] 不動堂の図 [SRC[>>525]]
- [273] [[早稲田大学]]所蔵 [RUBYB[[[大田南畝]] ([[蜀山人]])][[TIME[1749]]-[TIME[2823]]]] 写本1冊 [SRC[>>520, >>224]]
-- [523] 不動堂の図 [SRC[>>521]]
- [274] [[弘前市立図書館]]所蔵 2巻2冊 [SRC[>>224]]
- [275] [[静岡県立中央図書館]]葵文庫 1冊 [SRC[>>224]]
-- [262] 人魚墳の図 [SRC[>>224 p.80 図12 ([[静岡県立中央図書館]]葵文庫本 >>275)]]
- [552] [CITE[司馬江漢全集]]本 [SRC[>>553]]
-- [260] 人魚墳の図 [SRC[>>224 p.80 図10 ([CITE[[V[司馬江漢全集]]]] [V[第一巻]])]]
-- [261] 不動堂の図 [SRC[>>224 p.80 図11 ([CITE[[V[司馬江漢全集]]]] [V[第一巻]])]]

[REFS[
- [11] [CITE[[[西遊旅譚]]. 巻之1-5 / '''['''司馬''']'''江漢 著]], [TIME[2020-06-16 20:38:39 +09:00]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_00028/index.html>
-- [10] [TIME[2007-01-09 22:02:24 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_00028/ru03_00028_0002/ru03_00028_0002.html>
--- [527] [CITE[ru03_00028_0002_p0003.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) — 表示倍率 (36%)]], [TIME[2007-01-09T13:02:39.000Z]], [TIME[2021-04-03T02:42:59.244Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_00028/ru03_00028_0002/ru03_00028_0002_p0003.jpg>
--- [528] [CITE[ru03_00028_0002_p0004.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) — 表示倍率 (36%)]], [TIME[2007-01-09T13:02:24.000Z]], [TIME[2021-04-03T02:43:13.717Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_00028/ru03_00028_0002/ru03_00028_0002_p0004.jpg>
- [515] [CITE[西遊旅譚. 巻之1-5 / '''['''司馬''']'''江漢 著]], [TIME[2021-04-03T02:26:58.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_00334/index.html>
-- [518] [TIME[2006-09-16T14:32:41.000Z]], [TIME[2021-04-03T02:29:15.061Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_00334/ru03_00334_0002/ru03_00334_0002.html>
--- [532] [CITE[ru03_00334_0002_p0004.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) — 表示倍率 (36%)]], [TIME[2006-09-16T14:32:45.000Z]], [TIME[2021-04-03T02:45:52.222Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_00334/ru03_00334_0002/ru03_00334_0002_p0004.jpg>
--- [533] [CITE[ru03_00334_0002_p0005.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) — 表示倍率 (36%)]], [TIME[2006-09-16T14:32:46.000Z]], [TIME[2021-04-03T02:46:08.591Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_00334/ru03_00334_0002/ru03_00334_0002_p0005.jpg>
- [540] [CITE[西遊旅譚]], [TIME[2021-04-03T02:53:21.000Z]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYU1-27005>
-- [543] [CITE[【西遊旅譚】]], [TIME[2021-04-03T02:55:01.000Z]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYU1-27005&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E8%A5%BF%E9%81%8A%E6%97%85%E8%AD%9A%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=36>
- [547] [CITE@ja[[[西遊旅譚]]: 5巻 - Google Books]], [TIME[2021-04-03T04:03:36.000Z]] <https://www.google.co.jp/books/edition/%E8%A5%BF%E9%81%8A%E6%97%85%E8%AD%9A/258VC0qvvtAC>
- [509] [CITE@ja[[[西遊旅譚]] 5巻. '''['''1''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-04-03T02:19:15.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558222?tocOpened=1>
-- [524] [CITE@ja[西遊旅譚 5巻. '''['''2''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-04-03T02:40:00.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558223/3>
-- [525] [CITE@ja[西遊旅譚 5巻. '''['''2''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-04-03T02:40:00.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558223/4>
- [546] [CITE[[[西遊旅譚]] - 司馬江漢 - Google ブックス]], [TIME[2021-04-03T04:01:42.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=MZJXAAAAcAAJ>
- [520] [CITE[[[西遊旅譚]] / '''['''司馬''']'''江漢 [著]]], [TIME[2021-04-03T02:30:34.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_01691/index.html>
-- [521] [CITE[ru03_01691_p0023.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) — 表示倍率 (36%)]], [TIME[2006-09-16T14:38:09.000Z]], [TIME[2021-04-03T02:32:27.680Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_01691/ru03_01691_p0023.jpg>
- [553] [CITE@ja-jp[[[司馬江漢]]全集〈1〉 | 江漢, 司馬 |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2021-04-03T08:28:10.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4896947169/wakaba1-22/>


]REFS]


-*-*-

[12] 
本書の[TIME[天明8(1788)年8月12日][kyuureki:1788-08-12]]条には、
次のようにありました。

- [254] 本文に、
(もう1つの[[人魚塚]]に対して)
「夫より西の方不動堂有堂のかたはらに八方の墳あり是人魚墳なり」
とありました。
[SRC[>>528, >>224]]
(前後に聖徳太子や[CITE[日本書紀]]の人魚伝説の説明がありました。 [SRC[>>528]])
- [257] 
石柱のみを描いた絵がありました。
[SRC[>>10, >>260]]
-- [258] 
石柱前面には上から下に「[V[一尺一寸余]]」、
台座前面には右から左に「[V[一尺三寸]]」とありました。
[SRC[>>10, >>260, >>262]]
--- [264] 葵文庫本では石柱の右側にも「[V[一尺一寸余]]」とありました。
[SRC[>>262]]
-- [263] 石柱右上に
「[V[人魚墳]]
[V[八方なり]]
[V[文字]]
[V[あれども]]
[V[見𛂹𛁑゙]]」
とありました。
[SRC[>>10, >>260]]
--- [277] 葵文庫本では石柱の下側に
「[V[文字あれ]]
[V[とも見へ]]
[V[す]]」
とだけありました。 [SRC[>>262]]
-- [550] その横にはもう1つの[[人魚塚]]の絵がありました。
- [255] 
不動堂とその前の石灯篭1基、八角石柱を描いた絵がありました。
[SRC[>>10, >>261]]
-- [551] 
右上に[[日野]]からの行き方の説明がありました。
その隣に
「[V[不動堂]]
[V[カ[ASIS[𠄟][片仮名]][SUP[ノ]]大樹]]」
とありました。
[SRC[>>527]]
-- [256] 石柱は内部に文字は書かれていませんでした。
石柱右横に
「[V[人𩵋墳]]
[V[是[CURSIVE[なり]]]]」、
石柱左横に
「[V[文字]]
[V[不[SUB[レ]]見]]」
とありました。
[SRC[>>10, >>261]]
- [259] 
どちらの図も、
石柱の下には直方体の台座の石板らしきものが描かれていました。
[SRC[>>10, >>260, >>261, >>262]]

[6] 
これが[[鬼室神社]]の様子を描いた、
時期の明確な最古の記録とされています。

** [CITE[江漢西遊日記]]

[253] 
[CITE[江漢西遊日記]]
は、
[CITE[西遊旅譚]]
を全編にわたって増補改訂したものでした。
全文と挿絵が書き直されていました。
人魚塚訪問から27年後に出版されました。
[SEE[ [[江漢西遊日記]] ]]


- [565] [CITE[日本古典全集]]本 [SRC[>>13]]
-- [568] 不動堂の図 [SRC[>>13]]
-- [567] 人魚塚の図 [SRC[>>566]]
- [564] [CITE[司馬江漢全集〈1〉]] [SRC[>>553]]
-- [267] 人魚塚の図 [SRC[>>224 p.79 図9 ([CITE[[L[司馬江漢全集]]]] [L[第一巻]])]]
- [424] [CITE[東桜谷志]] p.42 [CSECTION[司馬江漢のスケッチ]] [SRC[>>1080]]
-- [425] 不動堂の図
-- [426] 人魚塚の図
- [808] [CITE[鬼室集斯墓碑について]] [SRC[>>2124]] PDF 2ページ
-- [809] 不動堂の図
-- [810] 人魚塚の図



[REFS[
- [556] [CITE[[R[日本古典全󠄃集第二期]] [R[西遊󠄃日記]]]],
[V[昭和二年八󠄂月十五日印刷]],
[V[昭和二年八󠄂月二十日發行]]
-- [572] [CITE[西遊日記 - digidepo_1194191.pdf]], [TIME[2021-04-04T00:51:01.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/view/pdf/digidepo_1194191.pdf?pdfOutputRanges=39-43&pdfOutputRangeType=R&pdfPageSize=>
--- [13] [CITE@ja[[[西遊日記]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-16 20:59:52 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1194191/40>
--- [566] [CITE@ja[西遊日記 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-04-04T00:40:49.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1194191/41>
]REFS]


-*-*-

[14] 
[CITE[江漢西遊日記]]
には、次のようにありました。

- [265] 本文
-- [574] 
[TIME[天明8(1788)年8月9日][kyuureki:1788-08-09]]、
[[司馬江漢]]は、
日野 (岡本丁) の商人[RUBYB[[[中井源左衛門]]][[TIME[1716]]-[TIME[1805]]]]を訪ねました。
その子の[[中井可七]]と面識があったからでしたが、
[[仙台]]で事業をしていて不在でした。
[TIME[15日][kyuureki:1788-08-15]]まで滞在し、
中井家の人々や[[日野]]の人々と交流したり、
旧跡を見物したりしました。
[SRC[>>572]]
-- [575] 
[TIME[天明8(1788)年8月12日][kyuureki:1788-08-12]]、
[[井出助右衛門]]の案内で[[蒲生郡]]を回りました。
[[小野村]]に至り、[[井出助右衛門]]の知人のところへ寄りました。
[SRC[>>572]]
--[549] 
[VRL[
夫より田婦案内して人魚塚を見ンとて行ク事四五町、路の傍ラに四角なる塚ヲ指し示ス。
吾聞クに六角なりと云ニ、亦一人老婦の来りて、爰ヨリ西の方不動堂の前にありと教ル。行キ見ルに小サキ草ふきの堂アリ。ガマの大樹アリて、其傍ラ六角の塚アリ。
是人魚ツカなり。
]VRL]
[SRC[>>224, >>572]]
-- [573] 
「前に僅かの流あり。蒲生河是れなり。人魚塚は八角に
して文字見えず、高さ一尺一二寸、下の臺石横一尺三寸位、また四角の塚は救世菩薩の塚と云ふ。人魚は蒲
生川より上がる。推古帝二十七代四月四日、聖徳太子崩御の時と云ふ。日本記に有り。」
[SRC[>>572]]
- [266] 
絵は2種とも掲載されましたが、
描き直されたもののようです。
[SRC[>>13, >>566]]
- [569] 不動堂の図
-- [570] 
図中の文字の書き込みはありませんでした。
[SRC[>>13]]
-- [571] 
右上に説明書きがありました。
また「[V[不動堂]]
[V[ガマ[SUP[ノ]]木]]」
とありました。
[SRC[>>13]]
- [268] 人魚墳の図
-- [269] 石柱と台座の構成は、前著と同様でした。
「[V[一尺一寸余]]」「[V[一尺三寸]]」も同様でした。
[SRC[>>566, >>267]]
-- [270] 
石柱の上に、
(中央)「[V[人𩵋[RUBY[𛂜][ノ]]墳]]」
(左下)「[V[文字ナシ]]」
(右下)「[V[八⻆]]」
とありました。
[SRC[>>>566, >>267]]



** 村井古巌

[9] 
[[京都]]の商人で[[国学者]]の[RUBYB[[[村井古巌]]][[TIME[1741]]-[TIME[1786]]]]は、
[CITE[古図纂]], [CITE[古廟陵并埴物図]]などの名前で知られる図集を編纂しました。
その中に人魚塚の図が含まれていました。
本書は収録された図から、[[村井古巌]]の没後も編集が続いたことが知られます。
[[司馬江漢]]もその成立過程に関与しました。
[SEE[ [[古図纂]] ]]

[283] 
[CITE[古図類纂]]のように[[鬼室集斯墓碑]]を掲載しない [SRC[>>497 PDF 104ページ]]
系統のものを除くと、
次の写本の現存が知られています。

- [285] [[国立国会図書館]]本 [CITE[古廟陵并埴物図]] 写本
-- [287] 不動堂の写生図 [SRC[>>224 p.84 図13]]
- [286] [[宮内庁書陵部]]本[CITE[古廟陵并埴物之図]]
-- [480] [CITE[池底叢書]] [V[七十二]]所収[CITE[古廟陵并埴物之図]]写本 [SRC[>>477]]
--- [481] 人魚塚の写生図 [SRC[>>5]]
- [299] [[東京国立博物館]]本[CITE[古図纂]]写本
-- [493] 人魚塚の写生図 [SRC[>>302, >>303]]

[REFS[
- [301] [CITE[東京国立博物館デジタルライブラリー / 《[[古図纂]]》 : 一]], [TIME[2021-03-29T08:02:33.000Z]] <https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/3901>
-- [302] 画像番号 : DIGITAL - L0358498
-- [303] 画像番号 : DIGITAL - L0358499
- [473] [CITE[池底叢書]] 第72冊
-- [5] [CITE[新日本古典籍総合データベース]], [[国文学研究資料館 | National Institute of Japanese Literature]], [TIME[2020-04-03 14:26:18 +09:00]] <http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100020573/viewer/3842>
-- [477] 
[CITE[古廟陵並植物等之図]] 
<http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100020573/viewer/3841>
- [497] [CITE[[V[江戸時代における古美術コレクションの一様相―古鏡の収集と出土情報の伝達―]], 
[[[V[杉本欣久]]]],
[TIME[2019-04-28T01:25:55.000Z]], [TIME[2021-04-02T09:40:13.087Z]] <http://www.kurokawa-institute.or.jp/files/libs/652/201904281025549782.pdf>

]REFS]

-*-*-

[297] 
[CITE[古廟陵并埴物図]]
には不動堂の写生図が収録されていました。 [SRC[>>287]]

- [294] 右上に次のようにありました。 [SRC[>>287]]
[VRL[
江州[RUBY[蒲][カ]][RUBY[生][モウ]]郡
日野[SUP[ヨリ]]北東之間
壹里余
小野村[SUP[ニ]][ASIS[有][⿸𠂇日]]

人魚[ASIS[墓][䒑]]

日本紀及
太子傳[SUP[ニ]]出[SUP[ル]]
]VRL]
-- [486] 宮内庁書陵部本:
[VRL[
江州[ASIS[蒲][卝]]生郡
日野[SUP[ヨリ]]北東ノ间
壹里[ASIS[余][<https://glyphwiki.org/wiki/u4f59-var-001>]]
小野村[SUP[ニ]]在

人魚[ASIS[墓][䒑]]

日本紀󠄅
及太子
傳[SUP[ニ]]出[SUP[ル]]
]VRL]
[SRC[>>5]]
-- [495] 東京国立博物館本:
[VRL[
江刕[RUBY[蒲][[ASIS[カ][朱筆]]]][RUBY[生][[ASIS[モウ][朱筆]]]]郡日
野ヨリ北東之間
一里余小野村[SUP[ニ]]
有之

人魚[ASIS[墓][䒑]]

日本紀󠄅及
太子傳[SUP[ニ]]
出ル
]VRL]
[SRC[>>302]]
-- [487] 宮内庁書陵部本は、
その右隣に別筆の書き込みがありました。
[VRL[
日本紀推古天皇廿七年
七月摂津國有漁父沈𮊁
於堀江有物入𮊁其形如
兒非人不知所名
和州法隆寺繪堂[LINES[秦致[ASIS[真][貞]]][ノ画ト云]]
[ASIS[□][?]]堂ノ繪ノ内ニ従摂津
國[ASIS[㪽][ケ]]献人魚御覽トア
リテ圖シ出セリ

]VRL]
[SRC[>>5]]
-- [496] 東京国立博物館本は同筆
[VRL[
日本紀󠄅推古天皇
二十七年七月摂津
國有漁父沉𮊁於
堀江入𮊁其[ASIS[形][𛀬]][ASIS[如[ASIS[兒][𦥑]]][一部虫喰]]
非人不知所名
和刕法隆繪󠄂堂[LINES[𥘿][致]]
[RUBY[[ASIS[真][重ね「\」朱筆]]][[ASIS[貞][朱筆]]]][SUP[ノ]][ASIS[画][田]][ASIS[[LINES[トイ][フ]]][朱筆]]此繪󠄂[SUP[ノ]]内[SUO[ニ]]従
摂津國所献人魚
䘖[ASIS[覧][|臣ケ]][SUP[ト]]アリテ
圖󠄂[SUP[ヲ]]
出セリ
其[ASIS[啚][[V[口面]]]]別[SUP[ニ]]
記[SUP[ス]]
]VRL]
[SRC[>>303]]
- [288] 中心に不動堂が描かれ、「[V[不動堂]]」とありました。 [SRC[>>5, >>287, >>303]]
- [289] 右側に石灯籠1基が描かれました。 [SRC[>>5, >>287, >>302]]
- [290] 左側に八角石柱と台座が描かれました。 [SRC[>>5, >>287, >>303]]
-- [292] 上から左に囲むように、
「[V[八⻆]]
[V[高サ]]
[V[[ASIS[墓][䒑]]𪜈二尺二三寸]]」
とありました。
[SRC[>>287, >>303]]
--- [485] [[宮内庁書陵部]]になし。
-- [293] 右から下に囲むように、
「[V[人魚[ASIS[墓][䒑]]]]
[V[文字[ASIS[有][⿸𠂇日]]]]
[V[不見]]」
とありました。
[SRC[>>287, >>303]]
--- 
[295] 
宮内庁書陵部本:
「[V[人𩵋[ASIS[墓][䒑]]]]
[V[文字在]]
[V[不見]]」
[SRC[>>5]]
- [291] 右下に水面が描かれ、右から左に「[VT[蒲生川]]」
とありました。 [SRC[>>5, >>287]]
-- [494] 東京国立博物館本:
「[VT[[ASIS[蒲][卝]]生川]]」
[SRC[>>302]]







** 村井古巌と司馬江漢と人魚塚

[307] 
[CITE[西遊旅譚]] [WEAK[([[司馬江漢]])]],
[CITE[江漢西遊日記]] [WEAK[([[司馬江漢]])]],
[CITE[古廟陵并埴物之図]]  [WEAK[([[村井古巌]]編)]]
の図を見比べると、細かい違いはいくらでも挙げられるのですが、
全体の構図はよく似ています。
書き込まれた文字も同趣旨で、
文字が見えないと書いているのも同じです。
人魚墳には興味を示しながら、
不動堂や灯篭にはほとんど関心を払っていないのも同じです。

;; [583] 
各図には灯篭が1基描かれていましたが、
[[伴信友]]の時代には1基あって[TIME[元禄4(1691)年][1691]]の銘文があり (>>658)、
[[昭和時代]]には2基中1基に[TIME[元禄4(1691)年][1691]]の銘文がありました (>>211)。
するとその銘文付き灯篭が描かれた可能性が高いですが、
図には何も書かれていませんでした。


[503] 
同じ位置から同じように眺めたから同じような図になった、
事前に一方の図を見てから現地を訪問したから似てしまった、
など別々に描かれたと主張できる余地はあれども、
同じ原図から派生したと説明されても納得できる程度の違いでしかありません。
どちらかといえば同じ[[司馬江漢]]の
[CITE[江漢西遊日記]]
と
[CITE[西遊旅譚]]
の図の方が違いが大きいとも言えます。


[501] 
[[杉本欣久]]は、
人魚塚の図などいくつかの図が、
[[村井古巌]]の没後に[[江戸]]を出発した[[司馬江漢]]の[CITE[西遊旅譚]]の挿図と共通することから、
[[村井古巌]]の編とされる各書の全部分を[[村井古巌]]が編纂したものではないとしました。
[SRC[>>497 PDF 79ページ]]
その場合、各書が現在の形で成立したのは[[村井古巌]]没後となります。


[308] 
[[胡口靖夫]]は、
[[村井古巌]]と[[司馬江漢]]がそれぞれ別個に現地を訪問し描いたと考えました。
構図や内容の類似性を検討していないので、
図の流用を想定していなかったと思われます。
[CITE[古廟陵并埴物図]]写本奥書から成立は[[天明]]年間と推定していました
[SRC[>>224]]。
[RUBYB[[[天明]]年間][[TIME[1781]]-[TIME[1789]]]]といっても天明6年には[[村井古巌]]が没しますし、
天明5年には書写されているので、それ以前となります。
(上限も十分検討されていないようです。)


[311] 
[[村井古巌]]が人魚塚を訪問していたとすると、
その時期は各書成立を更に遡る時期となりますが、
具体的には不明です。
[[西生懐忠]]は、自身らの碑文発見より前に[[村井古巌]]が調査し、
文字を一部読み取っていたと書いていました (>>382)。
[[村井古巌]]は[[京都]]を拠点に全国各地を回っていたようですから、
人魚塚やその付近を訪れていても不思議はありません。
しかし[[村井古巌]]自身による記録は残されていません。



[577] 
[[村井古巌]]と親交のあった[[京都]]の[[国学者]][RUBYB[[[伴蒿蹊]]][[TIME[1733]]-[TIME[1806]]]]
[WEAK[([[近江八幡]]の居住経験あり)]] の 
[CITE[[V[閑田耕筆]]]] [V[巻之一]]に、
[[小野村]]に[[人魚塚]]があるとの言及がありました。
これが情報源との推測があります。 [SRC[>>224]]
しかし確証はありません。
[CITE[[V[閑田耕筆]]]]の「人魚塚」はもう1つの人魚塚を指すようですが、
[[伴蒿蹊]]は[[西宮]]の方は知らなかったのでしょうか。

[519] 
[[西生懐忠]]によると[[村井古巌]]は文字の一部を読み取っていました (>>382)。
それを信じるなら、文字があるが見えないと書かれた
[CITE[古廟陵并埴物之図]]
の絵は、やはり[[村井古巌]]とは無関係とせざるを得ません。


-*-*-

[309] 
[[司馬江漢]]は、西行の途中、[[日野]]の中井家に滞在し、
そこから人魚塚へと向かいました [SRC[>>265, >>224]]。
[[司馬江漢]]が人魚塚を知った経緯は不明です。

[502] 
[[村井古巌]]が人魚塚を訪問し図を描いていたとする説に従うと、
[[江戸]]で写本を入手していた[[司馬江漢]]は、
不動堂と人魚墳のことを予め知っていて現地を訪問したことになります [SRC[>>224]]。

[578] 
しかし[[司馬江漢]]が[[日野]]に滞在したのは知人の家があったからでした。 
人魚塚のことも「六角」と不正確に尋ねていましたし、
[[村井古巌]]の図を知っていたなら把握していたはずの、
不動堂の隣りにある、川沿いにある、
といった基本情報を村人に提示した形跡もありませんでした。
[SRC[>>265]]
事前に知識を得て計画的に訪問し、
[[村井古巌]]の図と同じ構図でスケッチしたと考えるのは、
難しいのではないでしょうか。
[[日野]]で知った、あるいは案内人に教えられたとするほうがむしろ自然です。

[537] 
図は見ていなくても、[[村井古巌]]から聞かされたという可能性はあるかもしれません。
しかし[[村井古巌]]は人魚塚でなく儒家の墓と考えていたとされます (>>382)。
[[司馬江漢]]はそれらしきことを一言も書いていませんでした。


-*-*-

[271] 
人魚塚の銘文について、各書の本文と図は、
「文字あれども見えず」 [SRC[>>263]], 「文字不見」 [SRC[>>256]],
「文字みえず」 [SRC[>>573]], 「文字ナシ」 [SRC[>>270]],
「文字有不見」 [SRC[>>293]]
と一致しません。銘文がわからなかったことは共通しますが、
銘文があると判断したのか、ないと判断したのか不明です。

[580] 
江戸時代偽作説は、この文字がないという記述を最大の根拠としていました。
ただし偽作説が主張された当時は、「文字ナシ」以前に出版された
「文字あれども見えず」が知られておらず、検討されていませんでした
[SRC[>>224]]。

[64] 
江戸時代偽作説を否定する説は、
実見から時代が近い
「文字あれども見えず」
を重視し、
文字の存在を確認したものとしました。
「文字ナシ」とは、
全体図ではスペースの都合で省略し、拡大図では詳細に書いたに過ぎず、
同義と考えられました。 [SRC[>>224]]

[579] 
「文字あれども」とわざわざ書いているのにその文字が何か、
字形の欠片にもまったく言及していないということは、
文字らしい形跡というだけで、その一部すら読み取れなかったと考えるべきでしょうか。

[581] 
文字があるという記述は、
[[司馬江漢]]以前に[[村井古巌]]も残しているとされたため、
ますます疑いのない事実であると考えられました [SRC[>>224]]。
ただその[[村井古巌]]の図とされるものと[[司馬江漢]]の図とされるものが、
まったく独立して現地調査して図に描かれたものとは言い難いので、
この点は差し引いて判断しなければなりません。


[278] 
はじめに文字があっても読めなかったと書いていたのが、
文字がなかったと改められたのは不審です。
本文も図も文字なしと書くのではなく、
混在しているということは、
そこに強い主張はない表現の揺れに過ぎないと見るべきでしょうか。
だとすると細かな表現に固執して解釈を探っても得られるものは少ないかもしれません。


[279] 
[CITE[西遊旅譚]]
と
[CITE[江漢西遊日記]]
の間に二十数年の時間の経過があり、
記憶が喪失してしまったとする説もあります [SRC[>>224]]。
しかし前著をまったく確認しないで新著を執筆したと考えるのは不自然です。
前著を見なかったとしても、前著の原資料となった当時の日記を参照していたはずです。
前著より新著はかなり説明が詳細になっているからです。
そうだとすれば、門下生に編集を委ねた前著より、
自筆の新著の方が信用できる可能性も否定できません。
もちろん記録にない部分を記憶で補った可能性もあります。
いずれにしても時間の経過だけを根拠に前著を過大に評価するのは危険です。

-*-*-

[18] [CITE[江漢西遊日記]]
は「鬼室集斯墓」報告 (>>4) 後に整理されたものでしたが、
それに言及していませんでした。

[281] 
[[司馬江漢]]は[[以文会]]に入会していたことが、
[TIME[文化10(1813)年6月12日][1813-06-12]]付[[山領主馬]]宛書簡で確認できます。
[[京都]]中心の[[以文会]]経由で[[西生懐忠]]の解読の情報を入手していた可能性はあります。
[SRC[>>224 ([CITE[[V[司馬江漢考]]]], [[[V[中野好夫]]]], p.[V[四〇]])]]
ただし現在
[CITE[以文会筆記抄]] 
で言及が確認できるのは、新著原稿が書かれた翌年の記事です (>>101)。
執筆時点で[[以文会]]でこの話題が取り上げられていたかは不明ですし、
その情報が[[司馬江漢]]に伝わっていたかも不明です。

[280] 
[[司馬江漢]]の晩年は不遇で自暴自棄な奇行が見られたことから、
[[西生懐忠]]の解読を否定する屈折した行動に出たのではないかとする説もあります
[SRC[>>224]]。
ただし[[司馬江漢]]と[[西生懐忠]]の関係性などは特に知られておらず、
軋轢のようなものが実在したかは不明です。

[310] 
[[司馬江漢]]は碑文の発見を知らなかったのかもしれませんし、
発見前の訪問のドキュメンタリーにそれを注釈する必要性を感じなかったのかもしれません。
あるいは[[以文会]]の参加者らがあれこれ議論するまでもなく偽造と判断したように、
[[司馬江漢]]も言及するまでもない取るに足らない妄言と判断したのかもしれません。



* 江戸時代後期の碑文の発見

** 西生懐忠らによる銘文解読

[4] 
[TIME[文化2(1805)年][year:1805]] [SRC[>>2124]]
または[TIME[文化3(1806)年][year:1806]] [SRC[>>2124, >>2127, >>1080]]、
[[仁正寺藩]]の藩医[RUBYB[[[西生[RUBY[懐忠][あつただ]]][西生懐忠]]][[TIME[1756]]-[TIME[1817]]]] [SRC[>>90]]
が件の石柱を調査し、
これが[[鬼室集斯]]の墓だと報告して有名になりました [SRC[>>2114]]。

;; [300] 
文化2年とするものと文化3年とするものがあります。
調査から発表までに年をまたいでいるため、
どの時点を取るか判断が分かれているようです。

-*-*-

[304] 
[[仁正寺藩]]主の[RUBYB[[[市橋長昭]]][[TIME[1773]]-[TIME[1814]]]]
[WEAK[(在位[TIME[1785]]-[TIME[1814]])]]
は、
[[西生懐忠]]と[[日野]]の[[郷土史家]]で[[画家]]の[RUBYB[[[谷田輔長]]][[TIME[1748]]-[TIME[1825]]]]に
[CITE[[V[蒲生旧址考]]]]
を編纂させました。
当時[[地誌]]の編纂や名所旧跡の調査と顕彰が流行しており、
[[仁正寺藩]]もその延長で所在する[[蒲生郡]]の[[地誌]]編纂を思い立ったのでしょう。

[HISTORY[
[305] 
[[西生懐忠]]が
[CITE[蒲生郡誌]]
を編纂したとするものもありますが [SRC[>>95]]、
そのような名前の書物は探しても見当たりません。
書名ではなく[[蒲生郡]]の[[地誌]]という意味でしょうか。
]HISTORY]

[763] 
[[西生懐忠]]と[[谷田輔長]]の時代に、
蒲生郡の古跡が多く発見され顕彰が進められました。
その後[[明治時代]]、[[大正時代]]に正確な史料が発見されると、
[[西生懐忠]]らの記録と一致しないことが多く、
疑わしいと考えられるようになりました。
本墓碑はその代表例に挙げられるものでした。
[SRC[>>629]]
ただその嫌疑の根拠の中には[[椿井文書]]らしきものも含まれていました
[SEE[ [[大安寺資財録抜書]] ]]。
[[西生懐忠]]らの業績は今日の研究の水準でゼロベースで再検証するべきとも思われます。

-*-*-

[406] 
銘文解読までには、次のような経緯があったとされます。

[50] 
石柱は境内の草が茂っている中に埋もれたような状態でした。
[SRC[>>41]]


[306] 
銘文は摩耗して読めず、
「異説紛々」
でした。
[SRC[>>625]]

[392] 
秋の夕暮れ時にかろうじて何字か読み取れました。
[SRC[>>625]]

[382] 
[[村井古巌]]は、
繋牲 (犠牲を繋ぐ) の形であるため、
[[儒士]]の[[碣]]だろうと考えました。
「[V[田冖]]」
と読めましたが、
それが誰であるかは不明でした。
[SRC[>>625]]

[383] 
余暇日に「[V[二三子]]」が、
あるいは菅祖白奥村菅麻呂らが石柱を掃いて
「[V[朱鳥]]」
と読めるようになりました。
[[国史]]を調べて、
「[V[田冖]]」
は[[鬼室]]の残画ではないかと考えました。
[SRC[>>625]]

;; [403] 
菅祖白, 奥村菅麻呂らというのが[[人名]]で2,3人が洗浄したということでしょうか。
[[小野村]]は不明ですが、近くの村には奥村家が数軒あって現代まで存続したようですが、
関係あるのでしょうか。


[384] 
[[市橋長昭]]は、
郡誌の編纂に際してこの石柱について[[西生懐忠]]に諮りました。
石柱を藩庁に持ち込んで何度も磨きました。
すると
「鬼室集斯墓」
の5文字がはっきりと見えるようになりました。
[SRC[>>625]]


[42] 
[TIME[文化3(1806)年][1806]]2月、
石柱は藩庁から[[西宮]]に戻され祭られました。
[[西生懐忠]]は経緯を
[CITE[[V[祭鬼室集斯墓詩幷序]]]] ([V[文化三年丙寅二月二十九日]])、
[CITE[[V[鬼室集斯墓考]]]] ([V[文化三年丙寅二月]])
としてまとめて (>>625) 顕彰しました。
[SRC[>>625, >>41, >>40, >>90]]

[407] 
以上の経緯は[[西生懐忠]]が当時書き記したものですが、
それ以後の文献で次のようなことも言われました。
(根拠はどうにもあやふやです。)

-
[91] 
[TIME[文化2(1805)年][1805]]、
[[西生懐忠]]が、
[CITE[蒲生郡誌]]
編纂に際して銘文を発見しました。
[SRC[>>95]]
-- [409] 
これは[[西生懐忠]]が
「[V[我君侯、将修郡誌、召余。]]」
と書いたこと [SRC[>>625, >>96]]
に基づくとされます [SRC[>>90]]。
-
[762] 
[TIME[文化2(1805)年][1805]]11月、
[[市橋長昭]]は[[西生懐忠]]を知り、
藩医として採用しました [SRC[>>629]]。
-
[94] 
[[昭和時代]]後期の文献によると、
一説に、
子供が碑をもて遊んでいたところ、
[[西生懐忠]]が通り合わせ、
文字が刻まれているが明らかではないので、
拓本のようなことをして読み取った、
とされました。
[SRC[>>97]]
-- [475] 
「もてあそぶ」とはあるいはもう1つの[[人魚塚]]との混同かもしれません。
-
[92] 
[[西生懐忠]]は、
里人林蔵の話を聞いて本碑を知りました
[SRC[>>95]]。
-- [429] 
そこで[[市橋長昭]]の閲覧に供するため藩庁に持ち出しました。
[SRC[>>95, >>113]]
--
[93] 
藩庁で[[市橋長昭]]以下一同は、苔を取り除き水洗いするなど散々手を尽くし、
銘文を発見しました。
[SRC[>>95]]

[471] 
諸説とも大筋では一致していますが、細部で違ったことを言っています。
[[西生懐忠]]と[[市橋長昭]]がいつどのように知り合い、
[[西生懐忠]]と[[市橋長昭]]がいつ誰から墓碑を知ったか一定しません。
[[西生懐忠]]自身の記述を信用したいところですが、
多少の文飾の可能性も否めません。
[[西生懐忠]]は自身らの解読の「前史」を書いていましたが、
後世にはそれがあまり語られなくなって、
すべて全文解読したプロジェクトリーダーの[[西生懐忠]]だけの功績と化していきました。
子供が遊んでいたら通りかかったというエピソードはその後の附会を思わせます。

[517] 
文化3年2月に返還された墓碑が、
持ち去られたのが文化2年の何月だったのか、
はっきりしません。
碑文解読は数ヶ月も要する大変な作業だったのでしょうか。
また[[西宮]]の11月8日の例祭はこの頃既に行われていたのでしょうか。
墓碑はその時現地にあったのでしょうか。
無かったとしたら、支障はなかったのでしょうか。

-*-*-

[472] 
解読前まで
「異説紛々」
だったとされますが (>>306)、
解読に繋がった経緯しか書かれていないので、
いつ誰がどのような説を提出し、
どのような場面で議論されたのか不明です。

[474] 
明記されたのは[[村井古巌]]の儒士説 (>>382) と、
一般の通説だった[[人魚塚]]説 (>>405) の2通りでした。
これだけなら
「異説紛々」
は大げさすぎるように思われます。
これは[[漢文]]の[[文飾]]だったのでしょうか。
それとも書かれていない説が他にもあったのでしょうか。


[313] 
[[村井古巌]]が
「儒士之碣」
と述べたとされますが、
これは現存する[[村井古巌]]のどの著作にも見つかっていません
[SRC[>>224]]。
現存しない何らかの著作に書かれていたのでしょうか。
それとも現地調査等で口頭で発言したものでしょうか。


[476] 
[[村井古巌]]が現地で銘文を読もうと試みたことが書かれていますが、
いつ訪れたのか不明です。
[[村井古巌]]は[TIME[天明6(1786)年][1786]]に没しているので、
それ以前と考えるとこの
「異説紛々」
は何十年も続いていたことがわかります。

;; [478] 
[[村井古巌]]とも交友があった[[司馬江漢]]はその間[TIME[天明8(1788)年][1788]]に訪問していましたが、
[[司馬江漢]]は
「異説紛々」
を知っていたのでしょうか。





-*-*-

[640] 
[[西生懐忠]]の記録は、
[CITE[祭鬼室集斯墓詩幷序]]
と
[CITE[鬼室集斯墓考]]
の2部に分かれていました。
[[江戸時代]]後期の[[伴信友]]は前者を「詩序」、後者を「考説」と呼び、
合わせて「詩序考説」としていました。
[SRC[>>41]]
[[昭和時代]]の[[胡口靖夫]]もこれに倣って「詩序考説」と呼んでいました。
[SRC[>>90]]
前者はともかく後者を「考説」と呼ぶ理由は不明です。



[FIG(quote)[ [625] [SRC[>>628, >>59 ([[異体字]]の違いは無視), >>612, >>630]]

>
[VRLBOX[

[BOX(indent)[
祭鬼室集斯墓詩[SUP[幷]]序
]BOX]

百済学士之投化于我而任用也、前有和迩吉師、
後有鬼室集斯、而吉師之於河内也、人蓋知焉、
唯集斯之在淡海絶無識者、人之遇否、物之顕晦
雖命也乎亦可慨歎而已、集斯墓碣見在[ASIS[于][>>612 ナシ]]奥津
保小野村、石[ASIS[泐][>>630 窪]]字湮、異説紛[ASIS[々][>>612 紜]]、村井古巌嘗観其
存繋牲之形以為儒士之碣焉、而碣面僅[ASIS[見][>>612 餘]]田[ASIS[冖][>>612 宀]]
之字画而不可識其為誰也、一日余与菅祖白
奥村菅麻呂等展掃[ASIS[方][>>630 ナシ]]読得朱鳥之字、因[ASIS[攷][>>612 攻]]之国
史、或疑田[ASIS[冖][>>612 宀]]其為鬼室之残画[ASIS[、][>>612 焉、]][ASIS[近我  君][>>612 近  我君, >>630 近我君]]侯将修
郡志、召余語及于此、乃迎碣于公館、摩揩数次始
見鬼室集斯墓五字歴々然、於是自信意量不謬、
今還[ASIS[碣][>>628,>>59,>>612 諸]]本処、奠以酒[ASIS[脯][>>612 晡]]、且賦一絶以代祭文、

帰化蕃人迹[ASIS[自][>>612 目]]明、碑苔劘去捧瓶罌、幽魂有識当
怡悦、翰苑更称千[ASIS[載][>>630 歳]]名、

[BOX(indent)[
文化三年丙寅二月二十九日  西生懐忠敬白再拝
]BOX]

[BOX(indent)[
[ASIS[鬼室集斯墓考][>>59,>>628 ナシ]]
]BOX]

小錦下学職頭百済鬼室集斯墓在近江国蒲生郡[ASIS[奥 津保][>>612,>>630 ナシ]]小野[ASIS[村][>>612,>>630 改行ナシ]]

日本書紀云天智天皇四年、授鬼室集斯小錦下、八
年以佐平餘自信、佐平鬼室集斯等男女七百餘人、
遷[ASIS[居][>>59, >>628 ナシ]]近江国蒲生郡、十年鬼室集斯註学職頭是也、碣
高[ASIS[一][>>630 壱]]尺六寸、八面、面上[ASIS[二][>>630 弐]]寸七分、下[ASIS[三][>>630 参]]寸[ASIS[二][>>630 弐]]分、
頂正中隆起、自上下五寸許存結縛之痕、蓋表繋
牲之形云、石泐文字不鮮、唯秋日曛映時視隠然
[ASIS[見][>>612 ナシ]]数字、余暇日与二三子[ASIS[展][>>612 ナシ]]掃摩揩数次始能得
読焉、而碣中有朱鳥三年字、朱鳥[ASIS[无][>>630 無]]三年、[ASIS[三年][>>628 ナシ]]即持統
天皇二年也、按史朱鳥元年[ASIS[天][>>612 文]]武天皇崩、皇后称制、
明年為称制元年、四年皇后即天皇位、是為持統
天皇元年也、然則其称制之間為朱鳥也必矣、[ASIS[想後当有以称制元年追為天皇元年、令蓋史之省畧也、][>>59,>>628 ナシ, >>612 想当後...元年□蓋史之省略也、 (「□」ママ)]]愚
管抄、皇代畧記亦云、天武天皇崩後七年猶存朱鳥
号、併記以備考、

[BOX(indent)[
[ASIS[集斯墓者在小野村西明王寺林、多認為人魚塚、 人魚塚者別在村東聖徳谷南、児輩擲石禳禍、 太子伝曰、人魚者是為国禍、蓋拠此][>>628 ナシ]]

[BOX(indent set)[
[BOX(left)[
文化三年丙寅[ASIS[春][>>612, >>630 ナシ]]二月
]BOX]

[BOX(right)[
西生懐忠
]BOX]
]BOX]
]BOX]


]VRLBOX]

]FIG]

[632] 
現在 [[Web]] 上で閲覧できる本書の写しが少なくても4種類ありますが、
それぞれ少しずつ異なる本文を持っていました。
いずれも少しずつ不自然な点があり、書写時の誤字脱字を思われます。

- [612] [CITE[西州投化記]]写本 [SRC[>>626]]
-- [631] 欄外注釈2件あり
- [482] [[小野村]]長所蔵[[西生懐忠]]製作[[掛物]]
-- [298] [[早稲田大学]]図書館所蔵[CITE[鬼室集斯墓詩并序]]写本 ([[伴信友]]旧蔵) 
[SRC[>>251]]
--- [59] 朱筆校訂
- [627] [CITE[鬼室集斯墓碑考]] [WEAK[([[伴信友]])]] 所収
-- [628] 刊本 [SRC[>>616]]
- [630] [CITE[近江蒲生郡志]]刊本所引[CITE[輔長考記]]所収 [SRC[>>629]]

[483] 
[CITE[西州投化記]]本は[[水戸藩彰考館]]伝来のもので、
その伝来経路は不明ですが (>>108)、4本中では最も古いと思われます。

[641] 
[[江戸時代]]後期の[[伴信友]]は、
詩序と考説2通の写しを入手しました。
[[伴信友]]によると、
[[西生懐忠]]は拓本の上に詩序、下に考説を書いた[[掛物]]を作成し、
小野村長 ([[辻久右衛門]] [SRC[>>58]]) に贈りました。
その掛物には、
[[西生懐忠]]が碑銘を「目安く」書いたものが添えられたとのことです。
[SRC[>>41]]

[661] 
その[[掛物]]は解読直後に作られた原本かそれに近いものでしょうが、
現存するかは不明です。

[484] 
[[伴信友]]が入手した写しというのが、
[[早稲田大学]]本と思われます。
[[早稲田大学]]写本には、
詩序考説の写しと[[掛物]]の略絵が書かれていました。
[[小野村]]長の辻家で写されたもののようですから、
書写が忠実に行われたものであるなら、
原本に近い写本ということになります。

;; 
[488] 「目安く」書いたものというのがよくわかりませんが、
絵の中央の拓本写しを指しているのでしょうか。

[489] 
また[[伴信友]]の論考に引用されたものは、
[[早稲田大学]]本由来と思われます。

[764] 
[CITE[近江蒲生郡志]]所引[CITE[輔長考記]] [SRC[>>629]]
は、
書名から[[谷田輔長]]の記録と思われます。現所在不明。
詩序考説が収録されていました。
[[西生懐忠]]から直接入手したのでしょう。



[633] 
[CITE[西州投化記]]本 [SRC[>>612]] 
のみ
「[V[田冖]]」が「[V[田宀]]」になっている点が注目されます。
どちらが原形だったのでしょうか。


-*-*-

[135] 
[[西生懐忠]]は[[漢詩]]
[CITE[[V[吊鬼室集斯墓]]]]
に、
「[V[残碑拠韓典、事跡判然知。]]」
と書きました。
[SRC[>>90 (>>95)]]


[364] 
[CITE[[V[蒲生旧址考]]]] (>>304)
に[[西宮]]および墓碑が掲載されました。 [SRC[>>361]]
諸元や犠牲を繋ぐ形であるといった事項の他に、
別墓説が語られていました (>>507)。

-*-*-

[43] 
当初銘文は
「[V[田冖]]」
と見えている程度だったものが、
持ち帰って綺麗にしたところ,
全文がはっきりわかるようになったといいます。
[SRC[>>41, >>40]]
そして銘文は現在の墓碑でも全文が読み取れる状態で残っています。

[510] 
これは言うまでもなく不審です。以後の章で紹介するように、
[[西生懐忠]]ら[[西大路藩]]による偽造説が唱えられる原因となりました。
[[西生懐忠]]らにとって都合の悪いことに、
[[西生懐忠]]が説明した銘文解読の経緯を証明する第三者の記録は、
現在まで見つかっていません。
同時代および前の時代に文字がなかったという証言が残っていますが、
文字があったという証言はありません (読み取れない状態だったのですから)。


[250] 
[[昭和時代]]の研究者らは、
[CITE[江漢西遊日記]]
が墓碑を実見し写生した最古の記録と考えていました。 
[[平成時代]]になって、
その基になった [CITE[西遊旅譚]] や、
更に前に訪問した[[村井古巌]]の記録が知られるようになりました。
[SRC[>>224]]
[[村井古巌]]や[[司馬江漢]]が文字があるが見えないと書いていたことが明らかとなり、
[[西生懐忠]]ら偽造説の大きな根拠が失われました。 [SRC[>>224]]

[77] 
同時代の[[坂本林平]] (>>768) の証言は、
文字があったとする証言とは矛盾しますが、
読み取りが困難で判別できないほどのものだったとすれば、
文字がないと認識していてもおかしくないでしょう。


[63] 
発見過程は極めて不審ですが、
捏造だとすると
「朱鳥三年」
という表記を敢えて使い、自ら解説を加えるという手間をかけているのが気になります。
また捏造なら死亡の文字を敢えて剥落させたりはしないように思えます。
完全な捏造よりは、強引に読み取ろうとして改変された可能性を想定するべきでしょうか。





-*-*-

[99] 
[[鬼室集斯墓]]は有名になり、
遠方からも参拝見学に訪れたといいます。
[SRC[>>95, >>670, >>58]]

[100] 
訪問客らが記念に書き残した詩歌は数巻にも達しました。
[SRC[>>95, >>58]]
[[昭和時代]]後期時点で、
[[小野]]の[[辻久太郎]]家には、
「その二巻」が残っていました。
[SRC[>>90]]

[650] 
[TIME[文化6(1809)年4月12日][kyuureki:1809-04-12]]、
[[宮津藩]]主[RUBYB[[[松平宗発]]][[TIME[1782]]-[TIME[1840]]]]
[WEAK[(在位[TIME[1808]]-[TIME[1840]])]]
は、
当地の奉行に参拝させました。
奉行は詩を作りました。
[SRC[>>251, >>41]]
[[江戸時代]]後期時点で、
詩を書いたものを小野村長が所蔵していました。
[SRC[>>41]]

[FIG(quote)[ [651]  [SRC[>>41]]

>
[VRLBOX[
湖辺一道桜渓源

探府初知小野邨

撮土為丘墳奇跡

塵苔封石字餘痕

何人好事徴前史

幾客長歌吊遺魂

唯恠千年雨露底

依然得見姓名存

]VRLBOX]

]FIG]


[984]
[[平成時代]]の郷土史家の[[瀬川欣一]]は、
「地元小野村の村役人たちはもちろん、日野町(江戸時代の)の知識人たちも、近郊の歴史愛好者たちも共々に驚き合い、喜び合いました。」
としました [SRC[>>965]]。
具体的にいつのどのような記録を根拠にこう断言したのかは不明です。



[98] 
[[平戸藩]]の藩主だった[RUBYB[[[松浦静山]]][[TIME[1760]]-[TIME[1841]]]]
[WEAK[(在位[TIME[1785]]-[TIME[1806]])]]
は、
[CITE[甲子夜話]] [WEAK[([TIME[1821]]-[TIME[1841]]執筆)]]
巻六十一に、
次のように書きました。
[SRC[>>90 (注釈は >>90 にあるまま)]]

>
[VRL[
曰人は諸国を巡歴せし者にて、その語に近江の蒲生西宮と云所にて見しは、原野
の叢中に[RUBY[六角][(ママ)]]なる石塔あり彫て曰、

[BOX(indent)[
朱鳥[RUBY[元][(ママ)]]年[LINES[此下に何とかあらん][語れるは此ごとし]]

鬼室集斯墓
]BOX]

朱鳥は天武帝の年号。今に至て千百四十年。鬼室とは何人ぞ。若くは異邦人の来帰せしにや
]VRL]

[498] 
この旅行者がいつ墓碑を見たのかは不明ですが、
「鬼室集斯墓」
と掘られていると言っているので、
全文解読後でしょう。

[499] 「朱鳥三年」を「朱鳥元年」と誤っており、
その後の部分も書かれておらず、
[[松浦静山]]は旅行者から正確に聞き取らなかったのか、
旅行者も不正確に覚えていたようです。

[492] 
原野の草の中にあったとされており、
草の中から発見したとする説 (>>50) はこうした噂から出てきたかもしれません。

[500] 
碑文解読の情報はこのような形で全国に広がって行ったのでしょう。
[TIME[文化9(1812)年][1812]]までには[[水戸藩]]の研究者も拓本等を入手していました
(>>598)。


** 坂本林平の証言

[768] 
[[中之郷村]]の[RUBYB[[[坂本林平]]][?-[TIME[1830]]]]は、
[CITE[楓亭雜話]]
を書き残しました。
[SEE[ [[楓亭雜話]] ]]

[511] 
碑文解読以前から近くの村に住んでいた[[坂本林平]]が、
碑文解読から時を置かずに記録したもので、
次のように書いていました。

-
[45] 
[[西宮]]の人魚塚は以前からよく知っていたが、
文字は決して無かった。
[SRC[>>770, >>1080]]
-
[771] 
それを[[鬼室集斯]]の墓だといって人々を惑わせる[[西生懐忠]]の罪は重い。
[SRC[>>770]]
--
[512] 
石灯篭に「[[室徒]]中」と掘られているのを見て着想したのだろうか。
[SRC[>>770]]
-
[773] 
[[弄泉居]]、[[方円舎]]も[[鬼室集斯]]墓説に与しなかった。
それも証拠が無いからだった。
[SRC[>>770]]
-
[772] 
[[小野]]は[CITE[日本書紀]]のいう700人を配置できる土地ではない。
[SRC[>>770]]
-
[513] 
[CITE[[[大安寺資財録抜書]]]]によれば篠原に墓があった。
[SRC[>>770]]
[SEE[ [[野洲郡大篠原鬼室集斯墓碑]] ]]
-- [514] ただし[[椿井文書]]
[SEE[ [[大安寺資財録抜書]] ]]



[NOTE[
[418] >>700
は
「[V[弄泉居、方圓舍]]」
と「、」を入れて2語に分けて読んでいました。
>>2
は
「弄泉居」と「方円舎」を[[人名]]かとしていました。

[419] 
一方
[CITE[東桜谷志]]
は、
「[V[泉居方園舎 (坂本氏]]
[V[のこと)]]」
としていました
[SRC[>>1080 p.39]]。

[420] 
いずれも根拠は不明です。
[CITE[楓亭雑話]]
の他の部分に出典があるのでしょうか。
なお「楓亭」も[[坂本林平]]の号でした。

[421] 
「方円舎」は[[江戸]]の画家の号にありますが、
時代と地域に接点が見つかりません。

[423] 
[[美濃国]]関連の写本に
「弄泉居主人」
と書き込んだ例があって時代が近いです [SRC[>>422]] が,
関係は不明です。



[REFS[
- [422] [CITE[[[日本古典籍総合目録データベース]]/館蔵和古書目録データベース:書誌詳細画面]], [TIME[2021-05-15T08:13:05.000Z]] <http://base1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/CsvSearch.cgi?GRP_ID=G0001401&DB_ID=G0001401KTG&META_KIND=NOFRAME&DEF_XSL=default&IS_STYLE=default&IS_TYPE=csv&IS_SCH=CSV&IS_DB=G0001401KTG003&IS_KIND=CsvDetailKTG_B&IS_DB_TMP=KTG_W&IS_START=1&IS_TAG_S99=InfoId&IS_CND_S99=ALL&IS_CHK_OR_S99=200018323>
]REFS]

]NOTE]




[776] 
当時、
[[宮津藩主]] ([[松平宗発]] >>650 か) は、
[[京都]]の[[国学者]]の[[久雄]]に、
墓碑の調査を委嘱しました。
[[久雄]]は、
[[坂本林平]]に詳細を尋ねてきたので、
ありのままを話しました。
その後調査は停止されました。
[SRC[>>770]]


[777] 
[CITE[近江日野町志]]は、
この調査が中止されたとの記述を、
「宮津藩主が委託」した[[正野玄三]]の調査の後何も無かった事 (>>687) に関係すると考えました。
[SRC[>>629]]
しかし[[正野玄三]]の調査は[[弘化]]年間に[[京都所司代]]からの委託で実施されたと言われており、
一致しません。
なお[[宮津藩]]主[[松平宗発]]の[[京都所司代]]在任は[TIME[文政11(1828)年][1828]]-[TIME[天保2(1831)年][1831]]でした。



[516] 
[[鬼室集斯]]の墓碑が「発見」されても、周囲の人々が必ずしもそれを好意的に受け止めたわけではないことがわかります。

[1125] 
ただし[[坂本林平]]が大々的に否定説を触れ回ったという記録はありません。
[CITE[楓亭雑話]]
は刊行されておらず、現存状況から見てせいぜい[[中之郷村]]内で流布した程度でしょう
(生前か死後か不明)。
[[坂本林平]]と[[西生懐忠]]に親交があったかは不明
[SEE[ [[坂本林平]] ]]
で、直接反対を表明する機会があったかもわかりません。
[[中之郷村]]は当時幕府領と見られますが、
だからといって近隣の[[西大路藩]]主による捏造を公然と非難できるような立場とも思えません。



** 2つの人魚塚

[584] 
[[小野]]には、
[[人魚伝説]]に関係する石塔が2箇所ありました。
1箇所は[[鬼室集斯墓碑]]で、
もう1箇所は少し離れた地点の四角柱でした。
[SEE[ [[人魚塚]] ]]

[190] 
[[鬼室集斯墓碑]]との認識が広まったためなのか、
銘文解読以後そちらを[[人魚塚]]と呼んだ記録は見当たりません。
[[人魚塚]]はもっぱらもう1つの方を指すようになりました。

[589] 
[[人魚塚]]の存在は、
[[江戸時代]]中期までに既に都市の知識人の知るところとなっていました
(>>577)。
そうだとすると、
これまで[[鬼室集斯墓碑]]研究の文脈で知られている以外にも、
[[小野]]を訪れた人がいた可能性があり、
当時刊行された書籍や近隣住民の記録文書等に、
何らかの記述が残っているかもしれません。

;; [590] 
混同されたもう1つの[[人魚塚]]が、
混同されたという説明以上に[[鬼室集斯墓碑]]研究の文脈でこれまで追求されてこなかったのは不思議です。
[[近世]]の[[小野村]]の祭祀構造の解明は、
[[鬼室集斯墓碑]]の性質の究明にも必須ではないでしょうか。


** 大内時頼墓

[8] 
[[鬼室神社]]に当たる部分に[[大内時頼]]なる人物の墓を描いた絵図が、 
2種類知られています。
[SEE[ [[大内時頼]] ]]

- [207] [CITE[[[興福寺領近江国蒲生郡長寸郷奥津野保左久良十七郷摠絵図]]]]
- [192] [CITE[[[四ツ谷古城図]]]]

[210] 
これらの絵図は[[椿井政隆]]が[[東桜谷]]地区に持ち込んだ記録があり、
[[令和時代]]現在、[[椿井政隆]]が偽造した[[椿井文書]]と考えられています。
[SEE[ [[大内時頼]] ]]
[[昭和時代]]から[[平成時代]]初期にはまだそのことが知られていませんでした。

-*-*-

[212] 興福寺領云々絵図には、
[TIME[文亀元(1501)年][1501]]の絵図の複写と書かれていました。

[85] 
[[昭和時代]]後期の[CITE[東桜谷志]]は、
この絵図が銘文発見以前のもので、
その時点で[[鬼室集斯墓碑]]伝承がなかったことを明らかに物語るとしました。
[SRC[>>1080 p.45]]

[213] 
[[平成時代]]初期の[[日永伊久男]]は、
[CITE[東桜谷志]]から引いてこの絵図に言及していました。
[SRC[>>2124]]
墓碑の性質の根幹に関わる重大事項にも関わらず、
[[大内時頼]]の墓と書かれていると触れるだけで、
不思議なことに何の検討もしていませんでした。

[214] 
[[平成時代]]のブログ記事 [SRC[>>23, >>2]] や[CITE[ウィキペディア]]
[SRC[>>2114, >>2102]] などは、
[[日永伊久男]]の報告を引いて
[WEAK[(>>23 のみ出典不明)]]
[[鬼室集斯]]の墓碑とすることに疑問を示していました。

-*-*-

[216] 
[CITE[[[四ツ谷古城図]]]]の成立時期は不明ですが、
[TIME[文化14(1817)年][1817]]に[[椿井政隆]]から入手した記録がありました。
[SEE[ [[四ツ谷古城図]] ]]

[217] 
本図は[CITE[東桜谷志]]にも収録されているのですが、
不思議なことに[CITE[東桜谷志]]は[[鬼室集斯墓碑]]の検討でこちらの図には触れていませんでした。
そのためなのか、以後の論文やウェブ記事でも本図は参照されていません。
([CITE[東桜谷志]]を隅々まで読んでいる人はあまりいないのでしょうか...)


-*-*-

[312]
[[鬼室神社]]付近に、
興福寺領云々絵図には[[大内時頼]]の墓とだけ書かれていました。
[CITE[[[四ツ谷古城図]]]]には[[大内時頼]]の墓と[[鬼室集斯]]の墓が併記されていました。
そして石塔らしきものと社殿らしきものが描かれていました。
[SEE[ [[大内時頼]] ]]

[373] 
[[鬼室神社]]の近くには、[[大内時頼]]の墓と伝えられる地蔵があります。
しかしその伝説にも疑問があります。
[SEE[ [[大内時頼]] ]]

[374] 
想像を逞しくすればいろいろな可能性を考えられますが、
いずれも妄想の域を出るものではありません。

- [458] 他に資料が見当たらない[[大内時頼]]は、
[[椿井政隆]]の完全な創作かもしれません。
[SEE[ [[大内時頼]] ]]
- [405] 墓碑が[[鬼室集斯]]のものとなったため、
行き場を失った[[大内時頼]]が近くの地蔵に比定されたのかもしれません。
- [460] [[坂本林平]]が墓碑に疑問を持っていることを知った[[椿井政隆]]は、
[[坂本林平]]に都合の良い絵図を捏造して持ち込んだのかもしれません。
([[椿井文書]]でありがちなパターンらしい。)

[586] 
一方の絵図にだけ[[鬼室集斯]]と書かれている点は、
作者の意図を推測する上で重要でしょう。

[585] 
両絵図に描かれた墓碑は[[江戸時代]]中期頃の様子を推測する貴重な材料になるかもしれませんが、
[[江戸時代]]に中世を偽って描かれたという性質上、
相当慎重に扱わなければ危険です。

[591] 
[[鬼室集斯墓碑]]が[[大内時頼]]墓とする資料があり、
[[小野]]に[[大内時頼]]伝説のある[[地蔵]]が現存する以上、
その関係性を明らかにすることが[[鬼室集斯墓碑]]研究には必須のはずです。
しかるに、
[CITE[東桜谷志]] [SRC[>>76]] 
およびそれ以後の研究は、
[WEAK[(この点を指摘したブログ記事等を除けば)]]
ほとんど言及すらしていないのが不思議です。


** 知識人らの否定説

[111] 
[[江戸時代]]の研究者の言及がいくつか残されていますが、
多くは当墓碑に否定的な見解を示していました。
ただ残念ながら、
それらは判断の根拠は書いていませんでした。
議論の余地もなく明らかに偽作と考えられたのでしょうか。

-*-*-

[108] 
[[水戸藩]][[彰考館]]の研究者[RUBYB[[[小宮山昌秀]]][[TIME[1764]]-[TIME[1840]]]]の
[CITE[西州投化記]] 第九巻に、
拓本の模写 (>>600)、
[CITE[[V[祭鬼室集斯墓詩并序]]]]、
[CITE[[V[鬼室集斯墓考]]]]
が収録されました。
[SRC[>>107]]

[109] 
拓本横には、
「[V[右摺本立原先生借示]]
[V[宣戦云信シカタキモノナリ]]」
とありました。
[SRC[>>107, >>90]]
[[水戸藩]][[彰考館]]の研究者[RUBYB[[[立原翠軒]]][[TIME[1744]]-[TIME[1823]]]]が偽銘と考えていたことがわかります。
[SRC[>>90]]


[110] なお本書第一稿本 ([[国立国会図書館]]所蔵) には摺本およびそれに関する記述がありましたが、
第二稿本および第三稿本 ([[国立国会図書館]]所蔵) では削られていました。 [SRC[>>90]]

[598] 
本書第1稿本の序文には日付がありませんでした [SRC[>>596]]。
[[国立国会図書館]]所蔵の[[拓本]]のない異本には、
同じ序文の末尾に[TIME[文化9(1812)年][1812]]5月の[[日付]]がありました
[SRC[>>597]]。
本書第1稿本の成立はそれ以前でしょうか。
文化2年の碑文発見からわずか数年で情報が広まったことがわかります。



[REFS[
- [596] [CITE@ja[[[西州投化記]] 11巻. '''['''1''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-04-04T04:51:58.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2560442/4>
- [626] [CITE[[[西州投化記]] 11巻 - digidepo_2560445.pdf]], [TIME[2021-04-04T08:34:08.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/view/pdf/digidepo_2560445.pdf?pdfOutputRanges=63-65&pdfOutputRangeType=R&pdfPageSize=>
-- [107] [CITE@ja[[[西州投化記]] 11巻. '''['''4''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-03-27T06:51:37.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2560445/63>
- [597] [CITE@ja[[[西州投化記]] 5巻. '''['''1''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-04-04T04:52:29.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2560447/11>
]REFS]

-*-*-

[101] 
[[京都]]を中心とする知識人らのサークル[[以文会]]の記録
[CITE[以文会筆記抄]]
[V[第十八册]] ([V[文化十三年四月⸺六月]] = [TIME[文化13(1816)年][1816]])
は、
「[V[江州日野近󠄁在の鬼室]]
[V[集斯の墓は後に立てたるもの也]]」
としていました。
[SRC[>>102, >>90]]
その根拠は示されていませんでしたが、
当時既に発見の報と、それが信用し難いものだとの見解が知識人の間で共有されたことがわかります。

[REFS[
- [102] [CITE@ja[[[以文会筆記抄]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[三宅米吉]], [TIME[昭和4][year:1929]], [TIME[2021-03-27T05:47:53.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187041/104>
]REFS]

-*-*-

[105] 
[[江戸]]の研究者[RUBYB[[[狩谷棭斎]]][[TIME[1775]]-[TIME[1835]]]]が[[金石文]]を集成した
[CITE[古京遺文]]
[WEAK[([TIME[文政元(1818)年][1818]]序)]]
の目録に、
「近世所出田道碑、鬼室福信碑、皆係後人為託今亦不存録」
とありました。
[SRC[>>90]]

[611] 
ただしこの箇所は[[大正時代]]に出版された本にはありましたが [SRC[>>104]]、
[[明治時代]]に出版された本では少し違い、鬼室に言及していませんでした [SRC[>>103]]。
本書は内容に違いの有る複数の本が伝わります。
この文の成立過程は検証が必要と思われます。

[106] ここで[[鬼室福信]]碑とありますが、
「近世」がちょうど[[鬼室集斯]]墓発見の時期を指すと見られること、
[[百済]]で殺された[[鬼室福信]]の墓碑が[[日本]]にあるのは不自然なことから、
[[鬼室集斯]]の誤りとされます。
[SRC[>>90]]

[REFS[
- [103] 
[CITE@ja[[[古京遺文]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[狩谷望之]], [TIME[明26.5][year:1893]], [TIME[2021-03-27T06:28:22.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780580/3>
- [104] 
[CITE@ja[[[古京遺文]] - Google Books]], [TIME[2021-03-27T06:28:14.000Z]] <https://www.google.co.jp/books/edition/%E5%8F%A4%E4%BA%AC%E9%81%BA%E6%96%87/UlvOltJhG74C?hl=ja&gbpv=1&pg=PP65&printsec=frontcover>

]REFS]

* 江戸時代後期の社殿改築

[1247] 
[[鬼室神社]]の[TIME[文政5(1822)年][1822]]の[[棟札]]が伝わります
(>>1233)。
この時社殿が改築されたようです。


[1248] 
[[棟札]]によると,
社殿は大破したため助力をかき集めて[TIME[文政5(1822)年[LINES[壬][午]]11月吉日][1822]]に再建されたものだといいます。
[[棟札]]には当時の[[小野村]]の有力者らの名前がありました。

[1249] 
旧社殿破損の理由は明記されていません。自然災害でしょうか。

* 江戸時代後期の伴信友の肯定説

[613] 
研究者の[RUBYB[[[伴信友]]][[TIME[1773]]-[TIME[1846]]]]は、
本墓碑と銘文について検討し、
[CITE[長等の山風]]所収[CITE[年号の論]]
[WEAK[([TIME[文化11(1814)年][1814]]-[TIME[文政2(1819)年][1819]]に草稿、以後晩年まで加筆)]]
と[CITE[比古婆衣]]所収[CITE[鬼室集斯墓碑考]]
[WEAK[([TIME[弘化3(1846)年][year:1846]]9月草稿)]]
に書き残しました。
[[伴信友]]は[[江戸]]に住んでいましたが、
[TIME[天保14(1843)年][1843]]に[[京都]]に移住しました。


[614] 
[CITE[年号の論]]の当時から見て「近頃」、
[[伴信友]]は[[鬼室集斯墓碑]]を知りました [SRC[>>1731, >>41]]。
[[近江]]近辺の人々に聞き取りし [SRC[>>41]]、
拓本 [SRC[>>1731, >>41]]、
詩序考説の写本等 (>>42) [SRC[>>41]] を入手して、
考察しました。

[615] 
[CITE[年号の論]]のこの部分は、
[CITE[鬼室集斯墓碑考]]とみられる別稿を参照していました
[SRC[>>1731]]。
[CITE[年号の論]]は加筆が続けられたといいますから、
[[鬼室集斯墓碑]]に関する記述がいつの時点で追加されたかは、
不明です。
[[朱鳥]]の[[延長年号]]の第1例に挙げられていますが、
最も有力な根拠としてその他の例の前に挿入したのだとすれば、
初めは無かったとも考えられます。

[48] 
[DFN[[CITE[鬼室集斯墓碑考]]]]は、
[[鬼室集斯墓碑]]に関する考察を、
銘文 (>>617)、
[CITE[[V[祭鬼室集斯墓詩[SUP[幷]]序]]]]、
[CITE[[V[鬼室集斯墓考]]]]
の全文と共に掲載したものでした。
末尾に
「[V[弘化三年丙午九月稿]]」
とありました
[SRC[>>41]]。
[TIME[弘化3(1846)年][year:1846]]9月は死去直前に当たります。

-*-*-

[618] 
[[伴信友]]は入手した拓本から銘文を検討しました。
字画は不鮮明でしたが、字体から推測して読みました (>>617)。 [SRC[>>41]]

[619] 
[[伴信友]]の拓本の入手経路は不明で、
その後の所在も不明です。

[441] 
[[国立歴史民俗博物館]]蔵
[CITE[穂井田忠友書簡(伴信友宛)]]
に、
「[V[[RUBY[朱鳥碑][近江ナル]]拓本、いまた手ニ入不申候。]]」
とありました。
[SRC[>>440 (p.349 に白黒写真と釈文あり、写真は小さく一部判読困難)]]
この文書には[[日付]]が「[V[十一月朔]]」とありましたが、
[[年]]は明記されていませんでした。

[442] 
[[大鹿久義]]は[TIME[天保15(1844)年][1844]]としましたが、根拠は不明です。
[[胡口靖夫]]は、
同文書に記載のある正倉院文書の調査が天保6年、7年の頃だったので、
それからさほど下らない時期としました。
[SRC[>>440]]

[443] 
送り主は考古学者の[RUBYB[[[穂井田忠友]]][[TIME[1791]]-[TIME[1847]]]]で、
[RUBYB[[[文政]]年間][[TIME[1818]]-[TIME[1829]]]]後半に[[京都]]に住んだ、
[[以文会]]の会員でした
[SRC[>>440 ([CITE[[V[国史大辞典]]]] [V[第十二巻]], [CSECTION[[V[穂井田忠友]]]], [[[V[皆川完一]]]], [TIME[[V[一九九一年]]][1991]])]]。
書状を送った後、
その人脈から拓本を入手し、
[[伴信友]]に送付した可能性があるとされます。
[SRC[>>440]]


[447] 
[[江戸時代]]後期の拓本として、
[CITE[西州投化記]]
所収のもの (>>108)
が伝わりますが、
[[伴信友]]の釈文とは[[干支]]の「戊」の字が異なり、
死亡の字も異なります。
[SRC[>>440]]

[448] 
[[胡口靖夫]]は、
このため[[伴信友]]の入手した拓本とは別種の可能性もある、
としました。
[SRC[>>440]]
「戊」は校訂の結果改めた可能性もありますが、
死亡の字がはっきり読めたのなら、
[[伴信友]]の議論は無意味です。
模写図が死亡の字を勝手に推測で描いたのでもなければ、
別の拓本と考えざるを得ません。





[251] 
[[早稲田大学]]図書館に[CITE[鬼室集斯墓詩并序]]なる[[文書]]が所蔵されており、
[[Web]] 公開されています。 
[SRC[>>86]]

[276] 
その[[書誌情報]]は
[CITE[鬼室集斯墓詩并序]], [[西生懐忠]]撰の[TIME[文化3(1806)年][1806]]成立、
[TIME[弘化3(1846)年][1846]][[伴信友]]写本としています。
また,
[[伴信友]]旧蔵、
[RUBYB[[[荻野三七彦]]][[TIME[1904]]-[TIME[1992]]]]
[WEAK[([[古文書]]学者、[[早稲田大学]]教授)]]
旧蔵としています。
[SRC[>>86]]

[252] 
実は[CITE[鬼室集斯墓詩并序]]の写しは本書の前半だけで、
後半は他の[[鬼室集斯]]関連の写し等です。

[282] 
本文は黒筆で書かれていました。
前半の[CITE[鬼室集斯墓詩并序]]の写しはあまり崩れていない書体、
後半は崩れた書体で書かれていました。

[284]
わずかに黒筆で文字を訂正した箇所が前半にあります。

[296] 
朱筆で読点や訂正を書き込んだ箇所が前半にかなり多く、
後半にわずかにあります。

[539] 
[CITE[[[比古婆衣]]]]所引の[[詩序考説]]は、
本書のものとほぼ一致します (>>484)。
しかも[CITE[[[比古婆衣]]]]の[[小野村]]から入手した情報の多く (すべてではない)
は、本書の後半から得られたことがわかります。
従って本書は[[伴信友]]が晩年に入手し[CITE[[[比古婆衣]]]]の執筆に使った資料と考えて間違いありません。

[REFS[
- [86] [CITE[[[鬼室集斯墓詩并序]] / [[西生懐忠]] [撰__&&]&&__]], [TIME[2021-03-11T03:52:35.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i04/i04_03153_c047/index.html>
- [1731] [CITE[[[年号の論]]]]
- [47] [CITE[[[比古婆衣]]]]
-- [41] [CITE@ja[[[伴信友全集]]. 第4 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-17 20:22:33 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991315/177>
--- [616] 
<https://dl.ndl.go.jp/view/pdf/digidepo_991315.pdf?pdfOutputRanges=177-180&pdfOutputRangeType=R&pdfPageSize=>
]REFS]

-*-*-


[152] 
[[江戸時代]]後期の[[金石文]]研究者[[山本隠倫]]の
[CITE[尚古年表]]
は、持統天皇2年 (= 朱鳥3年) の欄に[[鬼室集斯墓]]の銘文 (>>154)
を掲載していました。
[SRC[>>151]]

[153] 
[[大正時代]]の刊本によると、底本には朱書で
「三香筆記云」として所在地が書き込まれていました。 [SRC[>>151]]

[REFS[
- [151] [CITE@ja[[[尚古年表]]. 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[山本隠倫 著入田整三 補]], [TIME[大正12-14][year:1925]], [TIME[2021-03-27T10:06:29.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183047/47>
]REFS]

* 江戸時代末期の幕府調査

[687] 
[RUBYB[[[弘化]]年間][[TIME[1845]]-[TIME[1848]]]]、
[[京都所司代]][RUBYB[[[酒井忠義]]][[TIME[1813]]-[TIME[1873]]]]
[WEAK[(在任[TIME[1843]]-[TIME[1850]])]]
から取り調べの沙汰がありました [SRC[>>113]]。
[[信楽代官]]属吏[[加藤雄九郎]]を通し [SRC[>>58]]、
[[日野]]の[[正野玄三]]に調査させました [SRC[>>58]]。

;; [750] 6代[[正野玄三]]か[RUBYB[7代[[正野玄三]]][[TIME[1825]]-[TIME[1881]]]]?
[[正野正三]]とする [SRC[>>2 (>>731)]] は誤りか?


[748] 
[[正野玄三]]は古書類を調べ [SRC[>>113]]、
墓碑の拓本を添えて、
[TIME[正長2(1427)年][1427]]に[[尺一道人]]が[[不動明王]]を[[本地仏]]として祭ったが、
本来の祭神は[[鬼室集斯]]であるべきだと報告しました。
[SRC[>>58]]
回答書は[[昭和時代]]初期時点で正野家に現存していました
[SRC[>>629]]。

[804] 
[[弘化]]年間に[[京都所司代]]邸に提出された調書には、
「一西宮  祭神小錦下学頭職鬼室集斯 (百済人) 後に正長二
年八月二十四日尺一道人 (名仍栄俗称菅原唐橋
在豊郷叔父) 不動明王を本地仏としたる故今は
不動なり」
とありました。
[SRC[>>2124, >>23]]

[805] これを掲載した[[平成時代]]の報告は、
その出典を[[胡口靖夫]]の論文としていました。
その[[胡口靖夫]]の論文を収録した[[胡口靖夫]]著書 [SRC[>>90]] には、
それらしき部分がありません。
[[胡口靖夫]]の原論文にはあったのでしょうか?

[544] 
この記述は[[伴信友]]の晩年の著書のものとほぼ同じです (>>655)。
両文書の正確な成立時期は不明ですが近接しており、
一方が他方に参照されたとは言い切れません。
あるいは共通の原資料に依拠したものでしょうか。

[749] 
しかし[[京都所司代]]は報告を受けても特に対応を取りませんでした。
[SRC[>>58, >>629]]

* 近代初期の肯定説

[541] 
[[江戸時代]]末期の[[伴信友]]の説は、
[[明治時代]]の近代的な学問にも多く引き継がれました。
墓碑の解釈も近代の研究者によって踏襲されました。

[669] 
日本史研究者[RUBYB[[[飯田武郷]]][[TIME[1827]]-[TIME[1900]]]]の
[CITE[日本書紀通釈]]
[WEAK[([TIME[明治32(1899)年][1899]]成立、没後明治年間に刊行)]]
は、
[CITE[日本書紀]]の注釈書でした。
[[鬼室集斯]]に関する注釈として、
墓碑の銘文と、庶孫についての見解がありました
[SRC[>>149]]。
いずれも[[伴信友]]の説と同じでした。
本書には他にも[[伴信友]]説が取り込まれているとされます。

[393] 
法学者・日本史研究者の[RUBYB[[[村岡良弼]]][[TIME[1845]]-[TIME[1917]]]]の
[CITE[日本地理志料]]
[WEAK[([TIME[明治35(1902)年][1902]]-[TIME[明治36(1903)年][1903]]刊行)]]
は、
[[篠原]]の[[鬼室集斯]]墓の記録 (>>775) を重視し、
[[篠原]]から6,7里離れた当地の墓碑
[WEAK[(出典は[[伴信友]] ([[立入]]) の [CITE[比古婆衣]] [SRC[>>47]])]]
は「義墓」の可能性があると指摘しました。 
[SEE[ [[野洲郡大篠原鬼室集斯墓碑]] ]]

[REFS[
- [149] [CITE@ja[[[日本書紀通釈]] : 70巻. 第5 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[飯田武郷]], [TIME[明治36][year:1903]], [TIME[2021-03-27T09:55:17.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992404/185>
]REFS]


* 明治時代の遠藤宗義による顕彰


[450] 
[TIME[明治34(1901)年][1901]]、
[[公務員]] [WEAK[(後に[[郷土史家]])]] 
の[RUBYB[[[遠藤宗義]]][[TIME[1856]]-[TIME[1940]]]]は、
[[滋賀県]][[蒲生郡]]長に就任しました。
[TIME[明治41(1908)年][1908]]まで務めました。
[SRC[>>449]]
([[蒲生郡]]教育会長 [SRC[>>90]], 教育会代表 [SRC[>>57]])

[461] 
[TIME[明治34(1901)年][1901]]夏に[[遠藤宗義]]が郡長に就任した直後、
[[滋賀県]][[多賀神社]]宮司の[[岡部大人]]
([[岡部譲]] [SRC[>>113]])
が、
[[蒲生郡]]に[[鬼室集斯]]の古い墳墓が埋もれていると聞いているので、
探し出して顕彰するよう提案しました。
[SRC[>>459, >>23]]
[[遠藤宗義]]は強く興味を抱きましたが、
多忙ですぐには着手できませんでした。
[SRC[>>459]]

[462] 
[TIME[明治36(1903)年][1903]]、
墓があるという[[東桜谷村]]の「長人」等にたずねましたが、
長く住んでいるが聞いたことはないと答えました。
[SRC[>>459, >>2102 ([CITE[鬼室集斯墓碑考]], [[遠藤宗義]])]]

[463] 
その10日余の後、
[[東桜谷村]]の村役場を訪ねて墓の有無を確認しました。
するとそれが有るとわかり、
詳しく話を聞き古記録を見ました。
26,7町ほど歩いて小野の里に入り、
西宮の森のほとりの墓碑を拝みました。
以来数ヶ月間、
古い記録を調べたり、
古老に聞いたり、
実地調査したりしました。
[SRC[>>459]]

[451] 
[TIME[明治36(1903)年][1903]]
[SRC[>>459, >>449]]
12月 [SRC[>>76 p.571]],
[[遠藤宗義]]は[[鬼室集斯墓碑]]に関する情報を、
[DFN[[CITE[鬼室集斯墳墓考]]]]
としてまとめました。
[SRC[>>76 p.571, >>459, >>449]]

[208] 
[[昭和時代]]後期の時点で、
[[小野]]の[[浦田栄治郎]]家に明治36年12月20日発行の[CITE[鬼室集斯墳墓考]]が所蔵されていました。
[SRC[>>76 p.776]]

[459] 
本書は[[平成時代]]初期の時点で既に入手困難とされていました。
[[胡口靖夫]]の論文に、
[CSECTION[緒言]]
冒頭部分のみ引用されました。
[SRC[>>449]]

[989] 
[[平成時代]]の[[ブログ]]でこの出版時期を
「朝鮮半島への関心が高まるなか」
と説明するものがありました [SRC[>>986]]。
ブログ著者が時代背景の説明のため挿入したのか、
何か出典があっての説明なのか不明です。
[[瀬川欣一]]の説明 (>>985) と同系統でしょうか。


[452] 
[[平成時代]]初期の時点で、
歴史研究者の中には、
本書は歴史学に無縁の素人の役人によるもので信用できないとする者がいたそうです。
[SRC[>>449]]
その主張の詳細は不明ですが、評価は身分ではなく業績に基づき行われるべきでしょう。

[453] 
[CITE[鬼室集斯墳墓考]]
の功績として、次の点が指摘されています。 [SRC[>>449]]

- [454] 現在の拓本から見て、諸研究書中、最も正しく釈読したといえる。
- [455] 現在既に散逸した貴重な史料が収集、収録されている。
- [456] [CITE[近江蒲生郡志]]に墓碑が収録されるのにつながった。
墓碑や神社が今日の形で保存されるにつながった
[SRC[>>449 ([CITE[[V[鬼室神社探訪記]]]], [[[V[姜在彦]]]], [CITE[[V[日朝関係の虚像と実像]]]], [TIME[[V[一九八〇年]]][1980]])]]。
[[日野町]]と[[大韓民国]][[忠清南道]][[扶餘郡]][[恩山面]]との姉妹都市提携につながった。

[457] 一方で誤った理解が含まれることも指摘されています。
といっても本件の他の発言者と比してそれほどおかしな主張とも思えません。
[SEE[ [[室徒株]] ]]

-*-*-

[75] 
[[遠藤宗義]]の調査当時、
墓碑の知名度はそれほど高くなかったようです。
長く住んでいたのに知らなかった村民は、
[[小野]]以外の[[東桜谷村]]の[[大字]]出身だったのでしょうか。
それとも[[小野]]出身だったのでしょうか。
[[江戸時代]]中期に[[司馬江漢]]が訪れたときに[[小野村]]の住民すら知らなかった 
(>>549)
ことが思い起こされますが、碑文発見後の参拝ブーム (>>99) 
も遥か過去の出来事になっていた [SRC[>>2]] のでしょうか。

-*-*-

[129] 
[[遠藤宗義]]により[[鬼室集斯]]に注目が集まった結果、
[[鬼室集斯墓碑]]の石祠や玉垣 (>>709) が整備されました。

[1203] 
この石祠自体には紀年がありませんが、
その造立は、
「[V[明治三十六年]]」 [SRC[>>150 ([CITE[近江蒲生郡志]] 巻八 [WEAK[([TIME[大正11(1922)年][1922]])]] p.[V[三八三]])]]、
「近年に(明治三十六年か)」 [SRC[>>2104]]
等[TIME[明治36(1903)年][1903]]頃のことと記録されてきました。

[128] 
玉垣や石灯篭には明治41年の紀年があり、
それを重視し石祠も[TIME[明治41(1908)年][1908]]造立とする説もありました
[SRC[>>90]]。

[746] 
[[遠藤宗義]]の[CITE[鬼室集斯墳墓考]]が成立した明治36年から蒲生郡長を退いた明治41年までの出来事であるのはほぼ間違いありません。
石祠が他の石造物と同じく明治41年に作られたものなのか、
石祠だけ先立って明治36年に作られたとする記録が正しいのかは不明です。

[545] 
[TIME[明治36(1903)年][1903]]、
[[鬼室集斯]]が[[祭神]]の1つとして[[合祀]]されたといいます (>>990)。
それも一連の顕彰活動の一環と思われます。



-*-*-

[985] 
[[平成時代]]の[[日本国]][[滋賀県]][[蒲生郡]][[日野町]]の[[郷土史家]][[瀬川欣一]]は、
「明治四十年(一九〇六)。日本国は強引に朝鮮の国を日本の領土へ併合してしまいました。その時に、この鬼室集斯の墓の存在が意識的に大きくクローズアップされ、古代における日朝の関係から大いにPRされました。
だが墓石は風雨にさらされたままですし、神社も昔のままの姿です。日朝併合を記念して多くの参拝者も見えますので、このままではいけないと、翌明治四十一年に、小野の人々が中心となって神社の整備が進められ、野ざらしのままだった墓石を石祠の中へ納め…(中略)…現在に続く境内の整備がされました。」
と書いていました。
[SRC[>>965]]

[1204] 
[TIME[明治40年は西暦1907年で1年誤っています][1907]]し、
[[日韓併合]]は[TIME[明治43(1910)年][1910]]のことでした。
それを記念した参拝者がいたとする根拠は不明ですが、
仮にそれが事実でもそれをきっかけに明治41年に整備することは不可能です。
なお明治40年には[[韓国統監府]]が設置されましたが、
それで多くの参拝者が訪れるかは不明です。
明治40年に「大きくクローズアップ」されたというのが具体的に何を指すかも不明です。

[988] 
[TIME[明治40(1907)年][1907]]頃の記録というものを引いている[[ブログ]]があり
[SRC[>>20, >>23]]、それともなにか関係しているのでしょうか.


-*-*-

[684] 
[TIME[大正11(1922)年][1922]]に[[滋賀県]][[蒲生郡]]役所により刊行された
[CITE[近江蒲生郡志]]
は、
[[西宮神社]]と、
そこにある[[西生懐忠]]らが発見した[[鬼室集斯墓]]のことが記載されていました。

[785] 
本書は説明が主で、先行研究の引用や信憑性の議論はしていませんでした。

[REFS[
- [672] [CITE@ja[[[近江蒲生郡志]]. 巻1 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[滋賀県蒲生郡]], [TIME[大正11][year:1922]], [TIME[2021-04-05T09:00:57.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980727/72>
- [52] [CITE@ja[[[近江蒲生郡志]]. 巻6 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[滋賀県蒲生郡]], [TIME[大正11][year:1922]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965735/394>
-- [670] [CITE[[[近江蒲生郡志]] - digidepo_965735.pdf]], [TIME[2021-04-05T08:49:36.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/view/pdf/digidepo_965735.pdf?pdfOutputRanges=392-394&pdfOutputRangeType=R&pdfPageSize=>
- [150] [CITE@ja[[[近江蒲生郡志]]. 巻8 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[滋賀県蒲生郡]], [TIME[大正11][year:1922]], [TIME[2021-03-27T09:58:08.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965737/221>
- [671] [CITE@ja[[[近江蒲生郡志]]. 巻8 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-04-05T08:56:16.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965737/454>
]REFS]


* 近代後期の学術研究




[46] 
[TIME[大正4(1915)年][year:1915]]秋、
日本史研究者の[RUBYB[[[喜田貞吉]]][[TIME[1871]]-[TIME[1939]]]]は現地を調査し、
[[鬼室集斯]]墓ではないと発表しました。
[SRC[>>629]]

[778] 
その理由は、
身分に対して墓の規模が小さすぎることと、
判読できなかった碑文が藩庁に持ち出したら明瞭になったのは不審であることでした。
[SRC[>>629]]

[779] 
[[喜田貞吉]]が拓本を東洋史学者の[RUBYB[[[内藤湖南]]][[TIME[1866]]-[TIME[1934]]]]に見せたところ、
笑って賛同しました。
[SRC[>>629]]
書風などから一見して当時のものでないとわかるほどの違いを感じたのでしょうか。

[864] 
[[喜田貞吉]]は[[鎌倉時代]]の偽作と強く主張したとされます [SRC[>>29]]。


-*-*-

[691] 
[[木崎愛吉]]は、
[TIME[明治44(1911)年][1911]]に実見し拓本を作りました (>>689)。
[TIME[大正10(1921)年][1921]]に著書で紹介しました。
[[西生懐忠]] (>>91),
[[伴信友]] (>>613) [CITE[比古婆衣]],
[[遠藤宗義]] (>>450)
らの研究を紹介しつつ、
[CITE[以文会筆記抄]] (>>101)
の偽作説寄りの解説を書いていました。
[SRC[>>113]]

[695] 
ただし、
真偽を断じ難いものを無理に断定するのは研究者の姿勢として不適切だとして、
断言は避けていました。当碑は本編と別の [CSECTION[余録]]
に収録して区別してあり [SRC[>>113]]、一覧表には
「一説偽作」と書いていました [SRC[>>694]]。



[REFS[
- [694] [CITE@ja[[[大日本金石史]]. 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション]],
[[木崎愛吉]], [TIME[大正10][year:1921]], [TIME[2021-04-07T09:20:22.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960208/20>
- [113] [CITE@ja[[[大日本金石史]]. 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[木崎愛吉]], [TIME[大正10][year:1921]], [TIME[2021-03-27T07:34:44.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960208/149>
]REFS]

-*-*-

[761] 
[TIME[昭和5(1930)年][1930]]、
[[滋賀県]][[日野町教育会]]が
[CITE[近江日野町志]]
を出版しました。
[SRC[>>40]]

[781] 
当時は[[昭和の大合併]]による[TIME[昭和30(1955)年][1955]]の新[[日野町]]成立前で、
[[東桜谷村]][[小野]]も[[西大路村]]も含まない旧[[日野町]]の町史でしたが、
人物として[[西生懐忠]]が立項されており、
その業績が疑問視される例として[[鬼室集斯墓碑]] (>>763) が取り上げられました。
[SRC[>>629]]

[782] 
[[西生懐忠]]の著作の他に[[坂本林平]]の証言 (>>768) が掲載され、
[[喜田貞吉]]の否定説 (>>46) でまとめていました。
編者は[[坂本林平]]の記録の疑問点を指摘するなど客観視に努めてはいましたが、
偽造説を支持する立場で書かれたことは明白でした。
とはいえ編者の独自の見解が多くはなく、
材料を提供して後考を俟つ態度を取っていました。
[SRC[>>629]]

[HISTORY[

[783] 
[[胡口靖夫]]は、
本書が墓碑の「フレームアップ説」(捏造説)
を展開したと紹介し、
墓碑が藩庁に持ち出された際に偽造されたとするのが本書の主張だとしました。
[SRC[>>224]]

[232] 
しかも、
それ以後[[日野町]]では偽作説が優位を占めて大きな影響力を持ち、
そのためもあってか、
[[日野町教育委員会]]は[[平成時代]]に至るまで、
墓碑の基礎的資料の収集すら実施しないでいた、
と本書の悪影響を強調しました。
[SRC[>>224]]

[231] 
しかしながら、
本書中に編者独自の捏造説の記述は見つけられませんし、
本書出版後の[[昭和]]の顕彰運動や[[昭和の大合併]]を超えて、
本書記載の偽作説が新[[日野町]]で影響力を持ち続けたとする根拠は何も示されませんでした。
新[[日野町教育委員会]]が何らかの判断をしたのか、
その判断に本書が影響し得たのかには、
検証が必要と思われます。

[248] 
[[胡口靖夫]]によれば、
後の[[瀬川欣一]] (>>226)
の偽造説は
[CITE[近江日野町志]] 
の偽造説 (実際には[[坂本林平]]の説) を焼き直したに過ぎないのだといいます。
[SRC[>>224]]
確かに偽造のストーリーは共通するのですが、
[[瀬川欣一]]が挙げた
[CITE[江漢西遊日記]]
について
[CITE[近江日野町志]] 
はまったく言及していないなど、論拠に重大な差異がありますから、
それらを一緒くたにするのは乱暴に思えます。

[784] 
[[胡口靖夫]]は「真偽論争」で自説と対立する[[西生懐忠]]偽造説について、
過剰に批判的に扱っているように感じられます。


[793] [[日野町教育委員会]]で調査した[[日永伊久男]]が、
「『近江日野町志』に代表されるように研究者の間では贋作説が優位を占めていた」
と説明していました。
[SRC[>>2124]]
あるいはこれが根拠になって、
本書がきっかけで[[日野町教育委員会]]が調査をしない世論が醸成されたと書いたのかもしれません。


]HISTORY]

[REFS[
- [40] [CITE@ja[[[近江日野町志]]. 巻下 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[日野町教育会 '''['''編''']''']], [TIME[昭和5][year:1930]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1208306/419>
-- [629] <https://dl.ndl.go.jp/view/pdf/digidepo_1208306.pdf?pdfOutputRanges=417-424&pdfOutputRangeType=R&pdfPageSize=>
--- 
[770] 
[CITE[[[鬼室集斯墳墓の事]]]]


]REFS]

-*-*-


[1007] 
[TIME[昭和7(1932)年][1932]]、
[[東北地方]]の歴史研究者[RUBYB[[[藤原相之助]]][[TIME[1867]]-[TIME[1948]]]]は、
墓碑および王女碑を、
当地近辺の「鬼」地名や[[蝦夷]]関係の伝承と共に著書で紹介しました。
本書は[[伴信友]] [CITE[比古婆衣]] に全面的に依拠しており、
[[西生懷忠]]の業績を[[伴信友]]の功績と誤認するほどでした。
[SRC[>>16]]



[705] 
日本古代史研究者[RUBYB[[[井上通泰]]][[TIME[1866]]-[TIME[1941]]]]は、
著書[CITE[上代歴史地理新考]] [WEAK[([TIME[昭和18(1943)年][1943]]刊行)]]
で、
[[西生懷忠]]の詩序,
[[伴信友]] [CITE[比古婆衣]],
[[遠藤宗義]] [CITE[鬼室集斯墳墓考]]
を引きつつ、
当墓碑に言及しました。その条の最後には
「昭和十三年五月十五日草」 [WEAK[([TIME[1938-05-15]])]]
とありました。またその中で「附記」として
「昭和十三年五月七日」 [WEAK[([TIME[1938-05-07]])]]
のことが書かれていました。
[SRC[>>2104]]
7日以前に草稿を大筋で書き上げていたところに、
付記を足して完成させたといった感じでしょうか。


[70] 
[TIME[1938-05-07]]、
[[井上通泰]]は墓碑を現地調査しました。
予定のない突然の訪問だったようですが、
区長、氏子総代、宮守らは着の身着のまま駆けつけて喜んで協力しました。
[[井上通泰]]は地元の石ではないと教えられたため、
身分に比して小さいこともあり、
他で作られて移動された可能性が高いとしました。
[SRC[>>2104]]
しかし偽造とまでは考えなかったようです。


[REFS[
- [16] [CITE@ja[[[奥羽古史考証]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[藤原相之助]], [TIME[昭和7][year:1932]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174020/26>
-- <https://dl.ndl.go.jp/view/pdf/digidepo_1174020.pdf?pdfOutputRanges=26-28&pdfOutputRangeType=R&pdfPageSize=>
- [704] [CITE@ja-jp[[[上代歴史地理新考]]〈第1, 2〉―附・風土記逸文註釈 (1941年) | 井上 通泰 |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2021-04-08T08:44:58.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000JBGEI2/wakaba1-22/>
-- [2104] [CITE[上代歴史地理新考 東山道・附風土記逸文註釋、[[井上通泰]]]], 
[TIME[1943.6.30][1943-06-30]],
[TIME[2020-06-18 14:28:20 +09:00]] <https://kiebine2007.amearare.com/rekisitiri2.htm>
]REFS]

* 昭和時代中期の顕彰

[865] 
[TIME[昭和15(1940)年][1940]]頃の内鮮融和や顕彰を進める流れの中で、
当神社の整備も進んだとされます。
[SRC[>>29]]
具体的には不明です。

-*-*-

[992] 
[TIME[昭和30(1955)年][1955]]、
[DFN[鬼室集斯先生史蹟顕彰会]]が発足しました
[SRC[>>986]]。

[554] 
[TIME[昭和30(1955)年11月][1955-11]] [SRC[>>58]]、
当神社の社名と祭神が変更され [SRC[>>58]]、
[[鬼室集斯]]を[[祭神]]とする[[鬼室神社]] [SRC[>>2114]] となり、
[[宗教法人]]化されました [SRC[>>58]]。


[548] 
顕彰会の詳細は不明です。
[[日本国]][[滋賀県]]出身の[[天台宗]]僧侶で仏教研究者、
[[京都日朝協会]]会長の[RUBYB[[[山口光円]]][[TIME[1891]]-[TIME[1972]]]]らが尽力した
[SRC[>>58]]
といいますから、主要なメンバーだったと思われます。

[891] 
神社入口には「[V[鬼室神社]]」と書かれた石碑 (>>464)
が設置されました。
[[戦後][大東亜戦争の戦後]]に建立されたとされます
[SRC[>>89, >>20]] が、
具体的には社名変更とほぼ同時に設置されたと思われます。


[555] 
社号変更の折に鬼室神社奉賛会が御由緒記を製作したとされます
[SRC[>>76 pp.569-571]]。
[TIME[昭和31(1956)年][1956]]に顕彰会がパンフレット
[DFN[[CITE[鬼室集斯と鬼室神社]]]]
を製作したとされます
[SRC[>>58]]。
両者は同じものを指すのでしょうか。
後者の内容は[CITE[鬼室集斯墳墓考]]の要約でした
[SRC[>>58]]。

[209] 
[[昭和時代]]後期の時点で、
[[小野]]の[[浦田栄治郎]]家に
[CITE[鬼室集斯と鬼室神社]]
が所蔵されていました。
[SRC[>>76 p.776]]

[1133]
神社と[[小野]]地域にとってかなり大きな出来事だったと推測されるのですが、
不思議なことに[[昭和時代]]後期の[CITE[東桜谷志]] [SRC[>>76]] には、
このときの経緯はほとんど何も書かれていませんでした。
[CITE[鬼室集斯と鬼室神社]]から一部引用されている程度でした。

[944] 
[[平成時代]]時点で、
この頃の経緯は既に忘れられていたようです。
問い合わせを受けた[[日野町]]役場は、
[[昭和の大合併]]
[WEAK[([TIME[1955-03-16]])]]
の関係で改称したのではないかと回答しました
[SRC[>>2126]] が、特に根拠があっての回答ではなさそうです。
[[財団法人滋賀県文化財保護協会]]も不明としていました (>>932)。

[559] 
[[令和時代]]のブログ記事の[[年表]]で、
[TIME[昭和30(1955)年1月][1955]]に[[山口光円]]による[[鬼室集斯]]を顕彰する
「鬼室神社参詣運動」
があったとするものがありました [SRC[>>558]]。
根拠は不明ですが、
[[日朝協会]]関連の何らかの原資料に基づくものと思われます。

[560] 
[[日朝協会]]は、
[TIME[昭和30(1955)年11月][1955-11]]に設立された、
親[[朝鮮民主主義人民共和国]]の[[共産主義]]系の[[日本人]]の[[政治団体]]でした。
この時期から[[鬼室神社]]が[[朝鮮人]]や[[朝鮮]]文化と結び付けられて語られるようになりました。


[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[558] [CITE@ja[連載 NO.45 1955年から1980年・光州事件まで [[日朝協会]]の歴史も記載 - 大橋みつるの平和ト-ク・・世直しご一緒に!]], 
2020-01-20,
[TIME[2021-05-30T01:50:37.000Z]] <https://blog.goo.ne.jp/micchan_oohashi/e/aea8f25299b9cebfaaa4ab767def8cb9>
]FIGCAPTION]

>1955・1    曼珠院跡(京都市左京区一乗寺竹ノ内町)山口光円大僧正
>                                   [鬼室集斯]顕彰 鬼室神社参詣運動

]FIG]

]REFS]

-*-*-

[1264] 
[TIME[昭和37(1962)年][1962]]、
[[大日本帝国朝鮮]]生まれで[[大日本帝国]][[内地]]に進学、就職し、
[[大東亜戦争の終戦]]後は[[日本国]]内で政治活動や朝鮮史研究を行った[[在日韓国人]]の[RUBYB[[[金正柱]]][[TIME[1915]]-[TIME[1982]]]]は、
[[日本語]]の書籍
[CITE[韓来文化の後栄]]
を出版しました。
[[鬼室集斯]]と墓碑に言及していました
[SRC[>>1267]]。

[REFS[
- [1267] [CITE@ja[韓来文化の後栄 - [[Google Books]]]], 
[TIME[1962]],
[TIME[2021-05-26T06:19:59.000Z]] <https://www.google.co.jp/books/edition/%E9%9F%93%E6%9D%A5%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%BE%8C%E6%A0%84/qKZnAAAAIAAJ?gbpv=1&bsq=%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%9D%8A%E5%B1%B1>
-- [1266] [CITE@ja-jp[韓来文化の後栄〈上巻〉 (1962年) | 金 正柱 |本 | 通販 | [[Amazon]]]], [TIME[2021-05-26T06:17:18.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000JBH6UW/wakaba1-22/>
-- [1265] [CITE@ja-jp[韓来文化の後栄〈中巻〉 (1962年) | 金 正柱 |本 | 通販 | [[Amazon]]]], [TIME[2021-05-26T06:17:36.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000JBH6UM/wakaba1-22/>
]REFS]


* 昭和時代中期の学術研究


[698] 
[TIME[昭和33(1958)年][1958]]、
[[日本史]]研究者[RUBYB[[[今井啓一]]][[TIME[1905]]-[TIME[1975]]]]は、
論文で墓碑および[[鬼室王女碑]]に言及しました
[SRC[>>697]]。


[114] 
[TIME[昭和36(1961)年][1961]]、
[CITE[日本古代人名辞典]]は、
[CITE[大日本金石史]]
の墓碑銘文 (>>685)
を引いて紹介しました。
[SRC[>>90]]


[115] 
[TIME[昭和37(1962)年][1962]]、
[[昭和時代]]の[[日本国]][[滋賀県]]の美術研究者[RUBYB[[[影山春樹]]][[TIME[1916]]-[TIME[1985]]]]
[WEAK[(当時[[公務員]]、後に[[帝塚山大学]]教授, [[滋賀県文化財保護協会]]理事)]]
は、
[CITE[近江の金石文資料稿本]] [SRC[>>116]]
[WEAK[([[謄写版]])]]
で
「[V[西宮神社石造墓碑]]」
を挙げて、
「[V[朱鳥三年  六八[RUBY[九][(ママ)]]  日野町東桜谷小野  鬼室集斯の墓と伝へられる。銘は正面と左右]]
[V[に一行宛陰刻す。石は、八角型柱で頭部にクビレがある。日本金石史上有名なもの]]」
と説明しました。
[SRC[>>90 (注釈は >>90 にあるまま)]]

[REFS[
- [697] [CITE@ja[近江国と帰化人-中- : 1958-07|書誌詳細|[[国立国会図書館サーチ]]]], [TIME[2021-04-07T11:38:16.000Z]] <https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I579315-00>
-- [54] [CITE[[[史迹と美術]] - Google ブックス]], 
[TIME[1958][year:1958]],
[TIME[2020-06-18 11:04:36 +09:00]] <https://books.google.co.jp/books?id=gPc6AAAAMAAJ&q=%E6%9C%B1%E9%B3%A5>
- [116] [CITE@ja-jp[近江の金石文資料―稿本 (1962年) | 景山 春樹 |本 | 通販 | [[Amazon]]]], [TIME[2021-03-27T07:44:00.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000JAIJL8/wakaba1-22/>
]REFS]

-*-*-

[182] 
[TIME[昭和44(1969)年][1969]]、
[[日本国]][[滋賀県]]の仏教美術研究者[[宇野茂樹]]は、
様式からずっと後世に作られたもの [SRC[>>183]]、
石造美術研究の立場から[[近世]]のものとみられる [SRC[>>225]]
との見解を示しました。


[180] 
[TIME[昭和50(1975)年][1975]]、
[[仏教考古学]]研究者[RUBYB[[[石村喜英]]][[TIME[1914]]-]]は、
字体からも碑形からも偽作と見られているとし、
奈良時代末期頃に庶孫の美成が作ったものかと推測しました。
[SRC[>>179]]

[638] 
[TIME[昭和50(1975)年2月][1975-02]]、
[[日本国]][[滋賀県]]の[[郷土史家]]の[RUBYB[[[満田良順]]][[TIME[1946]]-]]は、
[CITE[鬼室集斯の墓の偽作について]]
との論文を発表しました
[SRC[[CITE[民俗文化]] 一三七号, [TIME[一九七五年二月][1975-02]]]]。


[228] 
[TIME[昭和58(1983)年][1983]]、
[[日本史]]研究者の[RUBYB[[[岡田精司]]][[TIME[1929]]-[TIME[2019]]]]は、
[[自治体史]]中で[[昭和時代]]後期の[[胡口靖夫]] (>>752) の説に言及しました。
[[平安時代]]後期を遡らないという上限には賛同しつつも、

- 石造美術の様式 (>>182)
- 死者の名前を刻んだ墓碑の時代性 (>>246)

... を根拠に、[[江戸時代]]中期以後、
[[国学]]の素養を持つ人物の偽作の可能性が高いとしました。
[SRC[>>225]]

* 現代の観光地化と朝鮮半島の影

** 司馬遼太郎による宣伝

[829] 
作家の[RUBYB[[[司馬遼太郎]]][[TIME[1923]]-[TIME[1996]]]]は、
[TIME[昭和46(1971)年][1971]]に[[大韓民国]]を訪問し、
[TIME[同年][1971]]から[TIME[翌年][1972]]にかけて雑誌連載し、
紀行[CITE[街道をゆく]]の第2巻[CITE[韓のくに紀行]]として出版しました。
[SRC[>>827]]

[830] 
本書の最後、
[TIME[1972-01-02]] [SRC[>>1255]] には、
当地を訪問しました。 [SRC[>>827, >>20, >>969 (一部引用), >>1017, >>1255]]

[956] 
[TIME[1997-10-12]]、
本作品を原作にした[[テレビ番組]]
[CITE[NHKスペシャル 街道をゆく 第1シリーズ 第1回 湖西のみち・韓のくに紀行]]
が
[[NHK]]
で放送されました [SRC[>>954]]。
[TIME[1998-01-01]]、映像商品として発売されました。
[[鬼室神社]]が大きく取り上げられて、
以後参拝者が増加したとされます
[SRC[>>949]]。

[563] 
有名作家の[[司馬遼太郎]]の作品で紹介され、
雑誌、単行本、 [[NHKテレビ]]、映像商品と[[多媒体]]で展開されたことで、
[[鬼室神社]]は一躍有名になりました。

-
[562] 
[[昭和時代]]・[[平成時代]]の[[胡口靖夫]]は原作で墓碑を知りました (>>465)。
-
[899] 
[[平成時代]]の[[ブログ]]記事によると、
現地の人に尋ねたところ、
「前は訪れる人もいなかったが、司馬遼太郎の『街道をゆく』で紹介されてから急に訪れる人が多くなった」
とのことでした。
[SRC[>>23]]
これが原作を指すのかテレビ版を指すのかは不明です。
-
[606] 
[[平成時代]]の複数の[[ウェブサイト]]で本作を枕に[[鬼室神社]]が紹介されました。
-
[576] 
本作以後[[韓国人]]や[[在日韓国人]]の間で頻繁に[[鬼室神社]]が紹介されるようになりました。

[657] その反響の大きさに、
[[日野町]]の人々が次第に[[鬼室神社]]を観光資源として扱い始めたのも、
自然な成り行きといえます。


[831] 
本書原作は
「この小野こそ蒲生野を拓いた百済人の最初の根拠地だったにちがいない」
[SRC[>>1250]]
と断定する他、
「江戸時代中期に江戸の儒者がここを訪れ、神殿を形どった石祠は儒礼による墳墓であると断定した」
旨の記載がある [SRC[>>20]]
ようです。 
いずれも根拠は不明で、また石祠は[[明治時代]]に初めて作られたものですから、
[[江戸時代]]の儒者は[[タイムワープ]]出来たのかもしれません。

[751] 
これらからわかるように本書は歴史研究者による考証を踏まえたものではなく、
[[司馬遼太郎]]の個人的な見解を書き連ねたものに過ぎなかったようです。
しかし[[司馬遼太郎]]が描いた古代の蒲生の歴史像は次第に既成事実化されていきました。

[REFS[
- [827] [CITE@ja[韓のくに紀行 - [[Wikipedia]]]], [TIME[2021-03-28T01:36:51.000Z]], [TIME[2021-04-11T01:40:38.211Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E3%81%AE%E3%81%8F%E3%81%AB%E7%B4%80%E8%A1%8C>
-- [828] [CITE@ja-jp[[[街道をゆく]] 2 韓のくに紀行 (朝日文庫) | 司馬 遼太郎 |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2021-04-11T01:38:05.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022644419/wakaba1-22/>
- [954] [CITE@ja-jp[[[街道をゆく]] 湖西のみち・韓のくに紀行 1'''['''ビデオ''']''' | 司馬遼太郎 |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2021-04-11T07:16:19.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4877380213/wakaba1-22/>
-- [955] [CITE@ja[[[NHK]]オンデマンド | NHKスペシャル 街道をゆく 第1シリーズ 第1回 湖西のみち・韓のくに紀行]], [[NHK]], [TIME[2021-04-11T07:18:47.000Z]] <https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2010020440SA000/?spg=P200800009000000>
- [1255] [CITE[[[司馬遼太郎]]をあれこれ語る 35巻目]], [TIME[2021-05-26T05:37:01.000Z]] <https://toro.5ch.net/test/read.cgi/books/1357012799/279-288>
- [1250] [CITE@ja[鬼室集斯(きしつしゅうし)と[[小野村]] | 古代史ウォーカー]], 
2015.03.13.Fri.10:04,
[TIME[2021-05-26T05:22:55.000Z]], [TIME[2021-05-26T05:24:22.815Z]] <http://artbi456.blog.fc2.com/blog-entry-68.html>
-- [1010] [CITE@ja[念願の[[鬼室神社]]へ① | 古代史ウォーカー]], 
2015.05.20.Wed.11:11,
[TIME[2021-04-11T09:59:07.000Z]], [TIME[2021-04-11T09:59:21.256Z]] <http://artbi456.blog.fc2.com/blog-entry-104.html>
-- [1012] [CITE@ja[念願の[[鬼室神社]]へ② | 古代史ウォーカー]], [TIME[2021-04-11T09:58:59.000Z]], [TIME[2021-04-11T09:59:39.003Z]] <http://artbi456.blog.fc2.com/blog-entry-105.html>

]REFS]

-*-*-

[753] 
[TIME[昭和55(1980)年][1980]]、
[[大日本帝国朝鮮]]生まれで[TIME[昭和25(1950)年][1950]]に来日した[[在日韓国人]]の朝鮮思想史研究者[RUBYB[[[姜在彦]]][[TIME[1926]]-[TIME[2017]]]]は、
著書で墓碑および神社を紹介しました。
[[明治政府]]に対して批判的な論調のなかで、
[[遠藤宗義]]の[CITE[鬼室集斯墳墓考]]をもとに、
[[江戸幕府]]と[[明治政府]]に放置された百済人の墓が、
地元の人々の長年の想いがようやく実って祭神と認められた、
とのストーリーを描いていました。
[SRC[>>58]]

[754] 
[[姜在彦]]自身も執筆以前に現地を訪問し[[辻久太郎]]家文書を閲覧したようです。
[SRC[>>58]]

[734] 
[TIME[平成5(1993)年][1993]]、
[[姜在彦]]の著書に
[CSECTION[鬼室神社探訪記-古代日本と朝鮮の一断面]]
が収録されました。同内容でしょうか。 [SRC[>>733]]




[REFS[




[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[58] [CITE[日朝関係の虛構と実像 - [[姜在彥]] - Google ブックス]], 
[TIME[1980][year:1980]],
[TIME[2020-06-18 11:18:14 +09:00]] <https://books.google.co.jp/books?id=jtglAAAAMAAJ&q=%E9%AC%BC%E5%AE%A4>
]FIGCAPTION]

>10 ページ
景ー辛基秀撮影〉室神社の全く鬼江戸幕府はそのきびしい鎖国下にあっても朝鮮
との交隣外交をつづけたが、明治期にはいって征韓論が擁頭し、両国の友好関係
にとりかえしのつかない褐根を残した。朝鮮通信使たちにとって朝鮮街道の旅は
...
鬼室神社は滋賀県蒲生郡日野町大字小野にあり、その祭神が鬼室集斯となって
いる。訪れる人もなく、ひっそり閑としたそのたたずまいのなかには、律令国家
形成期における日本と朝鮮との、並なみならぬかかわりあいが秘められている。
>13 ページ
>このような学校制度は日本においてはかつてなかったことで、鬼室集斯が初代の
学職頭になり、また経書に明るい許率母も、後に大博士になっている。つまり
かつて王仁(後孫は西文氏)が百済から千字文や論語を伝えたとするならば、鬼室集
斯 ...
>18 ページ
>... 與郎村須場場,益神典智蒂名後者一似度を一わり江戸時代の小野村,蒲生川と那智
川の合流点に「堂代西宮集斯碑アリ」と見えている(鬼室集斯墳墓考より)筆者の
手許に『鬼室集斯墳墓考』(非売品)という、四八ページばかりの珍しい本がある。発行は一九八三年(明治三十六年)で、蒲生
郡教育会長遠藤宗義という人の編述である。鬼室神社にかんして、やや詳しいと
思われる解說文は、すべてこれを種本にして祖述されているといってもよい。鬼室集斯の宗孫といわれる辻久太郎氏の好意で
若干の文書を見せてもらい、いろいろな話もうかがったが、それはほぼ、この本
の
内容を裏付けるものであっ
た。
>20 ページ
>姜在彥 神社がそうであったように、強権的に社号を西宮神社、祭神を軻遇突智命
と改めさせられたのでかぐつちのみこと」正野玄三は、正長二年(一四二七年)に尺
一道人がここに不動明王を本地仏として祭ったが、本来の祭神は学職頭鬼室集(百済人)であるべきだ
とし、墓の拓本を添えて報告したそうであるが、所司代はこの報告をうけても
何らの対策を施さず、荒廃にまかせられたということである。さらに明治維新に
なって、いわゆる神仏の別を正されたとき、朝鮮とゆかりの
深いすべての神宮、ようやく弘化年間(一八四四~四七年)になって京都所司代は、
信楽代官の属吏加藤雄九郎を介して日野の家商正野玄三に調査報告を委嘱した。 ... 
鬼室集斯墓の発見とその事績が世に伝わると、儒者、僧侶、墨客たちが千里の道
を遠しとせず、これを弔う者絶えることなく、中古の思いをあるいは漢詩に、
あるいは艶詞に托し、それは数巻をなすにおよんだ。西生は鬼室集斯墓を祭る
漢詩の序で、「百済学士の、我れに投化して任用したるは、前に和邇吉師あり、
後に鬼室集斯ある。而して吉師は河内で人がことごとく知るところであるが、
鬼室集斯だけは淡海において識る者が絶えていない。人や
物 ... わに根本流石をして清倒時差をもって
うやうやしく弔祭をおこない、里正であった辻久右衛門に、その祭文と墓考を
贈った。
>21 ページ
>ぎよくさん本来この小野村では、鬼室集斯の墓石が発見される以前、つまり不動
明王を本地仏としていたときでさえ、里人のなかに「室徒株」という家系の者が
輪番で祭事を掌り、その祭日は陰暦十一月八日で、墓石にみえる鬼室集斯の没年
月 
... 朝鮮的であった。それが明治維新後になって、霧島神社からニニギノミコトを
迎え入れて玉山神社となり、「高麗人」と白眼視されながら、日本社会に ... 集斯
は百済人にして、忠臣鬼室福信の一族を為これじん muu SHIKE す。......閣下は ...
>22 ページ
閣下はかつて、毛受勝助兄弟の墓を修めて其の忠節を表し、賤岳・金崎に碑を
立てて古戦場を弔う、その用意は厚しというべし。而して鬼室集斯と藤樹書院を
遺してこれを思わざるのみ。 ... 
それは鬼室集斯墓であり、中江藤樹の書院である。いうまでもなく鬼室集斯は
日本最初の学校創設にあたった学職頭であり、中江藤樹は江戸儒学の御用化、武
教化に反援した、江戸初期の著名な儒学者である。
さきにあげた『鬼室集斯墳墓考』の編述者遠藤宗義氏は、中村の卓見に全的な
賛意を ...
>23 ページ
>
されば我郡教育会は教のため道のため傍観座視するに忍びず、一には散逸せる記録の蒐集
を務め、断篇残冊をも探り求めて、其事実を確むると共に其保存の道を立て、二
には里人を勧め誘いて、相共に祠堂墳墓を修理し、学士の英霊を慰むると同時に、湖東の霊址を世上に詔介し、且別に一大碑を建てて
不朽に伝え、未だ淫没の庚なからんことを欲し、専ら事に斯に従えり」ついぞ政府や県庁によって鬼室神社の保存対策がとられたこと
はなかったが、『鬼室集斯墳墓考』が発表されて以来、その由来が明確でない軻
遇突智命を祭神とする西宮神社ではなく、れっきとした鬼室集斯を祭神とする鬼室神社として存続している。
...
そして一九五五年十一月に、京都日朝協会々長京都万寿院注職山口光円氏らの
奔走によって、宗教法人「鬼室神社祭神鬼室集斯」として登録を完了した。その
由緒をただすのに、しっに一〇〇余年間を費やしたことになる。
いまは日野でも、小野でも明治政府による神仏分離策のなかで、鬼室神社に加え
られた不当な扱いについて語る者はいない。対朝鮮観がその侵略政策と歩調を
合せて、ますますゆがめられていくなかで、小野の室徒中の人たちや、
この地方の識者たちによる集斯顕彰会の ...
>24 ページ
>筆者自身がこの鬼室神社を知ったのは、記憶はさだかでないが、もう二〇余年も
前になろうか。この顕彰会がだした小さなパンフレット『鬼室集斯と鬼室神社』(
一九五六)を見てからのことである。それはほぼさきの『鬼室集斯墳墓考』の要約
...


]FIG]

- [733] [CITE@ja-jp[玄界灘に架けた歴史―歴史的接点からの日本と朝鮮 ([[朝日文庫]]) | 姜 在彦, 在彦, 姜, Jae Eun, Kang |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2021-04-09T07:24:21.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022607491/wakaba1-22/>
]REFS]

-*-*-

[755] 
[TIME[昭和59(1984)年][1984]]、
[[大日本帝国朝鮮]]出身で幼少期に[[内地]]に渡りその後の大半を[[日本]]で過ごした[[在日朝鮮人]]の朝鮮文学作家[RUBYB[[[金達寿]]][[TIME[1920]]-[TIME[1997]]]]は、
著書で本墓碑と神社を紹介しました。
[SRC[>>57]]

[756] 
[[金達寿]]自身も執筆以前に現地を訪問し[[辻久太郎]]家文書を閲覧したようです。
[SRC[>>57]]



[REFS[

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[57] [CITE[日本の中の朝鮮文化 - [[金達寿]] - Google ブックス]], 
[TIME[1984][year:1984]],
[TIME[2020-06-18 11:14:02 +09:00]] <https://books.google.co.jp/books?id=hHUyAQAAIAAJ&q=%E6%9C%B1%E9%B3%A5>
]FIGCAPTION]

>110 ページ
>1m11 鬼室集斯のこと INT きしつしゅうし」おなじ蒲生郡内とはいっても、日野
町の小野にある鬼室神社は、竜王町の鏡百済からの亡命者」神社や苗村神社とは
ずっと性質のちがうもった。これまでにみた天集団の渡来は、だいたい弥生時代
...
>111 ページ
>西暦六六三年、白村江の戦で百済は滅亡したが、その前年、つまり六六二年鬼室
集斯は男女七百余人を率いて日本へ亡命してきたのだった。のちの ... 
を送った。
朱鳥三年(六八八年)に集斯が没した後、孫の美成が、小野に碑を建てたようだが、
碑文は風雨にさらされて今では明確に読みとれない。郷土の資料によると、右庶
孫美成造正面鬼至集斯墓 左朱鳥三年子十一月八日没とあるよう 111 鬼室集斯の
こと.
>112 ページ
>左朱鳥三年子十一月八日没とあるようだ。墓石の形式は、日本古来の形式とは
全く異なっているし、石材もほんとうの朝鮮石だということだ。その後、後世の
人は社を建て祭礼を怠らなかった。
また墳墓講や室徒株という制度も明治ごろまで続いて、鬼室神社は小野の生活に
大きな比重を占めた。歴史を急速に進展させて、昭和の現代のこの土地のようす
を、小野の区長さんにうかがってみた。
この神社の祭礼は、集斯が没した十一月八日とされているが、現在では農繁期の
ため、一ヵ月繰上げて毎年十月八日に行なっているそうだ。その時の食器も
そろっていて、ご飯をよそう椀は木製のうるし塗りで、直径十七~八センチもあり
、一 ...
>113 ページ
>このことについてはまたのちにみることになると思うので、ここではいまみた鬼
室集斯などその渡来関係のもののみ、天智段 ... てこられた鹿児島県苗代川の陶工
たちのそれをみおおやけ からもう少し奥に進み、室徒株の一人 113 鬼室集斯の
こと.
>114 ページ
>金達寿 一九〇三年の明治三十六年に、蒲生郡教育会代表の遠藤宗義氏によって書
かれた『鬼室集斯墳 tha1 と、通りがかりの人にきいてみた。「ああ、鬼室集斯
さんですか」と言って、中年の男のその人がまた実にていねいにそこを教えて
くれ ...
>115 ページ
>なお敬愛の対象とされる鬼室 朝鮮を思わせる奈良の築地塀近鉄奈良. 神社(墳墓)の
ことは八日市高校「取材班」のそれにくわ書かれているとおりで、私たちはそこ
が小野だった。田んぼのあいだにつうじている一本のなだらかな坂道をのぼって
...
>116 ページ
>からもう少し奥に進み、室徒株の一人である辻久太郎氏をたずねることにした。
辻さんは六十三歳、いまみた岐阜の辻堅治氏の兄にあたる人だった。いまは隠居
の身分で、遠くからたずねてくるものたちと祖先のことを語るのが、一つのたのしみでもあるようだった。辻さんはすすんで家にあるいろいろな古
文書や絵画などをみせてくれた。江戸時代からのものが主で、どれもそこを
おとずれた文人や僧侶などのかいた
ものだった。系図もみせてくれたが、それにこうある。鬼室集斯座孫ニシテ室徒
中筆頭株司ナリ代々庄屋ヲ勤メ郷士トシテ帯刀御免/家柄ナリ代々久右衛門ト称ス
「集斯さんは、朝鮮の百済にいたときはどういう位の人
だったのですかね」と、辻さんは千三百年以上も昔のことを、ついこないだの ...

]FIG]

]REFS]

-*-*-

[636] 
[TIME[昭和59(1984)年][1984]]、
[[昭和時代]]の文学研究者で大学教授の[RUBYB[[[斎藤正二]]][[TIME[1925]]-[TIME[2011]]]]は、
[[伴信友]]の説 (>>47) を引用して[[鬼室集斯墓碑]]を紹介しました
[SRC[>>635]]。

[REFS[
- [635] [CITE@ja["祭[[鬼室集斯]]" - Google 検索]], [TIME[2021-04-04T10:03:08.000Z]] <https://www.google.com/search?q=%22%E7%A5%AD%E9%AC%BC%E5%AE%A4%E9%9B%86%E6%96%AF%22&tbm=bks>
-- [637] [CITE@ja-jp[[[日本的自然観の研究]]〈4〉変容と終焉 ([[斎藤正二]]著作選集) | 斎藤 正二 |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2021-04-04T10:06:09.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4896947843/wakaba1-22/>
]REFS]


** 胡口靖夫の説

[752] 
[[昭和時代]]後期から[[平成時代]]の歴史研究者の[RUBYB[[[胡口靖夫]]][[TIME[1941]]-]]は、
墓碑をはじめ[[鬼室]]氏の歴史を研究しました。
本墓碑の研究史の中で最も広く深く検討したのが[[胡口靖夫]]でした。


[465] 
[TIME[1976-11-07]]、
[[胡口靖夫]]は、
[CITE[[V[街道を行く]]]] [V[二]] [WEAK[([TIME[1972]], >>830)]]
で知った[[鬼室神社]]に、
[[大坪国生]]と2人で初訪問しました。
[[辻久太郎]]の許可により石祠内の墓碑を実見しました。
更に[[辻家]]で「[V[過去帳や関係史料を貼り継いだ長い巻物]]」を閲覧しました。
[SRC[>>89]]
[SEE[ [[小野村]] ]]
その後墓碑を含む鬼室氏の研究を進めました (>>130, >>137)。


[466] 
[TIME[昭和54(1979)年][1979]]、
[[胡口靖夫]]は、
論文[DFN[[CITE[鬼室集斯墓碑をめぐって]]]] [SRC[>>90]]
を公表しました。

[796] 
[TIME[平成5(1993)年][1993]]、
[[胡口靖夫]]は、
[[日野町町民会館]]の記念行事で[[鬼室集斯墓碑]]について講演しました。
[SRC[>>795]]



[1186] 
[TIME[平成6(1994)年][1994]]、
[[胡口靖夫]]は、
その後の研究の進展を踏まえて墓碑の調査を再開しました
(>>1216, >>243, >>130, >>137)。
(それまで約15年間記録がなく、
[[胡口靖夫]]による墓碑の研究は進んでいなかったと推測されます。)

[1271] 
[TIME[平成7(1995)年][1995]]、
[[胡口靖夫]]は、
[[滋賀県]]の公共の団体
(本稿執筆時点で[[公益財団法人びわ湖芸術文化財団]]、
元[[公益財団法人滋賀県文化振興事業団]]。
当時の法人名不明。)
の機関誌で墓碑について寄稿しました。
[SRC[>>241]]


[61] 
[TIME[平成8(1996)年][year:1996]]、
[[胡口靖夫]]は、
発表済の論文に新稿を加えて書籍化しました [SRC[>>60]]。


[467] 
[CITE[鬼室集斯墓碑再考I]]
と
[CITE[鬼室集斯墓碑再考II]]
は「[V[新稿]]」とされ [SRC[>>89]]、
論文誌等で未発表の新論文と思われます。

このうち
[CITE[鬼室集斯墓碑再考I]]
には章末に
「[V[注]]」と「[V[補注]]」が収録されていました。
本書所収の他の論文では、
原文にあった注釈と本書収録時の追加の注釈と区別されているように見えます。
「[V[新稿]]」
になぜ2種類の注釈があるのでしょうか。

[468] 
「[V[注]]」に含まれる最新の日付は「[V[一九九五年]]」でした。
「[V[補注]]」には、「[V[一九九六年]]」
の[TIME[7月14日][1996-07-14]]から[TIME[8月10日][1996-08-10]]までの日付がありました。
本書あとがきには、
[TIME[1996-08-15]]の紀年がありました [SRC[>>89]]。
[TIME[平成7(1995)年][1995]]頃にいったん論文の形にまとめた原稿に、
書籍としての編集の最終段階で注釈を追加した時、
「[V[補注]]」としたものでしょうか。

[469] 
[CITE[鬼室集斯墓碑再考II]]
にはこのような推測ができる情報が含まれません。
文章が
[CITE[鬼室集斯墓碑再考I]]
を承けた形になっているので、
I、II の順に執筆されたのでしょうか。

[1272] 
[TIME[1999-03-24]]、
[[日本]]の[[総合研究大学院大学]]は、
本書と同内容とみられる[[博士論文]]により、
[[胡口靖夫]]に[[博士号]]を授与しました。
[SRC[>>66]]

[REFS[
- [241] 
[CITE[鬼室集斯墓碑覚え書き―蒲生野の渡来人たち―]],
[[胡口靖夫]],
平成7年
-- [240] [CITE[[[湖国と文化]]詳細画面]], [TIME[2021-03-28T08:02:46.000Z]] <http://www.kokoku-bunka-s.jp/infolib/meta_pub/G0000002kokokubunka_073-002>
(雑誌表紙のみ閲覧可能)
-- [242] >>60 には未収録。
- [60] [DFN[[CITE[近江朝と渡来人⸺百済鬼室氏を中心として⸺]]]],
[[胡口靖夫]],
1996年10月18日発行
-- [90] [CITE[鬼室集斯墓碑をめぐって]],
pp.44-72,
初出[TIME[[V[一九七九年]]][1979]]
--- [96] 引用:
[CITE[[V[祭鬼室集斯墓誌幷序]]]],
[[[V[西生懐忠]]]]
--- [95] 引用:
[CITE[[V[鬼室集斯墳墓考]]]],
[[[V[遠藤宗義]]]], [[[V[滋賀県蒲生郡教育会]]]],
[V[一九〇三年]]
--- [97] 引用:
[CITE[[V[百済より来た鬼室集斯[YOKO[(三)]]]]]],
[[[V[塚本義一]]]],
[CITE[[V[蒲生野]]]] [V[一〇]],
[V[一九七五年]]
--- [179] 引用: [CITE[[V[墓碑・墓誌]]]], [[[V[石村喜英]]]],
[CITE[[V[新版仏教考古学講座]]]] [V[第七巻墳墓]], [TIME[[V[一九七五年]]][1975]]
--- [183] 引用: [CITE[[V[近江の帰化氏族]]]], [[[V[宇野茂樹]]]],
[CITE[[V[日本のなかの朝鮮文化]]]] [V[一]], [TIME[[V[一九六九年]]][1969]]
-- [224] 
[CSECTION[[V[鬼室集斯墓碑再考[YOKO[I]]⸺近世文人の見た墓碑⸺]]]],
pp.73-90,
新稿
--- [225] 
引用:
[CSECTION[[V[大津京前後]]]], [[[V[岡田精司]]]],
[CITE[[V[八日市市史]]]] [V[第一巻]],
[TIME[[V[一九八三年]]][1983]]
--- [226] 
引用:
[CITE[[V[鬼室集斯をめぐる謎]]]], 
[[[V[瀬川欣一]]]],
[CITE[[V[東桜谷志]]]],
[TIME[[V[一九八四年]]][1984]]
--- [227] 
引用:
[CSECTION[[V[百済人の移住]]]],
[[[V[中井真孝]]]],
[CITE[[V[五個荘町史]]]] [V[第一巻]],
[TIME[[V[一九九二年]]][1992]]
-- [316] 
[CSECTION[[V[鬼室集斯墓碑再考[YOKO[Ⅱ]]⸺筆跡から見た墓碑⸺]]]],
pp.91-113,
新稿
-- [360] [CITE[古代における近江国蒲生郡の水田開発⸺鬼室集斯墓の所在地をめぐって⸺]],
pp.114-145,
初出[V[[TIME[昭和五十五年四月][1980-04]]号]]
-- [435] 
[CSECTION[[V[エピローグ]]]],
pp.329-332
-- [437] 
[CITE[[V[鬼室福信の祭祀⸺韓国恩山別神堂と恩山別神祭⸺]]]],
pp.335-354,
新稿
-- [440] 
[CITE[伴信友と鬼室集斯墓碑拓本]],
pp.348-354,
初出[TIME[[V[一九九四年]]][1994]]
-- [449] 
[CITE[遠藤宗義小伝⸺鬼室集斯墓碑の顕彰者⸺]],
pp.355-368,
初出[TIME[[V[一九九五年]]][1995]]
-- [89] [CSECTION[あとがき]], 
[[[V[胡口靖夫]]]],
[V[一九九六年八󠄂月十五日]],
pp.369-375
-- [88] [CITE@ja-jp[[[近江朝と渡来人―百済鬼室氏を中心として]] | 胡口 靖夫 |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2021-03-27T03:02:05.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4639014031/wakaba1-22/>
-- [66] [CITE@ja[近江朝と渡来人, -百済鬼室氏を中心として-]], 
[[胡口靖夫]],
学位授与年月日 1999-03-24,
[TIME[2020-06-18 12:30:12 +09:00]] <https://ir.soken.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=83&item_no=1&page_id=29&block_id=155>

]REFS]

-*-*-

[1098] 
[[胡口靖夫]]は[[昭和時代]]時点で、
[[朱鳥]]時代真作説が成り立たないとしながらも、
偽作であっても年代を決定し墓碑制作の背景を探ることの意義を訴え、
実物や現存資料を調査しました。

[2119] 
銘文について、

- 朱鳥3年 (>>2120)
- 死亡の文字 (>>171)
- 干支年の配置 (>>172)
- 庶孫 (>>178) 

... の4つの不審点を指摘しました。このうち朱鳥3年の表記はあり得なくもない、
死亡の文字と庶孫は他の解釈も考えられなくもないが、
干支年の表記法が決定的となり、他の疑問点も傍証となって、
死去当時のものとは言えないと結論づけました。
[SRC[>>90]]

[HISTORY[
[201] 
なお、
本書を引いた[[平成時代]]の[[ブログ]]記事や[CITE[ウィキペディア]]記事には、
このうち朱鳥3年の問題に言及していないこと、
死亡の文字と庶孫について[[鬼室集斯]]の身分を前提に検討した部分を省略していること、
[SRC[>>2, >>2118, >>2122]]
という問題があります。

[202] 
論旨が不明瞭になることを嫌って省略して引用したのでしょうが、
[[ウェブ]]で得られる情報だけでは、
論拠が不十分にみえてしまいます。
ここに記して注意を促す次第です。
]HISTORY]

[203] 
更に、墓碑造立の年代を主として

- [204] [[干支年]]の書式が[[平安時代]]後期に始まり[[鎌倉時代]]を中心とする様式であること
(>>172)。
- [205] [[角柱塔]]であり[[平安時代]]後期から[[鎌倉時代]]末期に確立された様式であること
(>>186)。
- [206] [[八面体]]であり[[平安時代]]後期から[[鎌倉時代]]後期に確立された様式であること
(>>188)。

... を根拠に挙げ、また傍証として

- [372] [[小野]]集落の形成が[[平安時代]]中期を遡らないと考えられる (>>191)。
-- [193] 墓碑は持ち運びできるかもしれないが、
石材は[[小野]]の[[石小山]]産である。
[SRC[>>90]]
- [199] 
[[鬼室神社]]の記録が残る最古の[[棟札]]銘文が[TIME[正長2(1429)年][1429]]
(>>195)。
[[鬼室神社]]草創が[[中世]]より古くないことを暗示すると思われる。
神社草創と墓碑造立は密接に関係すると思われる。

... ということを挙げて、'''[[平安時代]]後期から[[鎌倉時代]]後期'''の
「[V[可能性がかなり高いものとしてさほ]]
[V[ど誤りはないのではなかろうか]]」
と結論づけました。
[SRC[>>90]]
また石質の検討もあったようです (>>222)。


[218] そして、
[[小野]]の[[辻]]氏が[[鬼室集斯]]の後裔を称する [SEE[ [[室徒株]] ]] ことから、
[[辻]]氏らが祖先を顕彰するため墓碑を造立し、
家運の興隆をはかったものと推測しました。
[SRC[>>90]]

-*-*-



[317] 
[[平成時代]]初期、
[[胡口靖夫]]は、
[[筆跡心理学]]研究者の[RUBYB[[[黒田正典]]][[TIME[1916]]-[TIME[2009]]]]の助言の元で碑文の字形を検討しました。
[SRC[>>316]]

[356] 
[[江戸時代]]偽作説に対し、
その根拠となる文字なしとの記録が正確には文字があるが読めないの意であること (>>250)、
「冖」の字形が[[江戸時代]]の当地域に見られないこと (>>345)
を指摘し、
成立し得ないとしました。
[SRC[>>316]]

[357] 
加えて、
「冖」の字形の検討から、
この字形が「[V[古代まで遡及する可能性をあながち否定することはできないのでは]]
[V[ないか]]」 [SRC[>>316 p.111]]、
それを踏まえて造立年代を
「古代にまで遡らせる可能性があながち否定できない」 [SRC[>>316 p.112]]
としました。
[SRC[>>316, >>2]]


[358] 
[[胡口靖夫]]の[[昭和時代]]の論文での説は造立を[[平安時代]]後期から[[鎌倉時代]]後期とするものでした
(>>199) が、このうち下限には疑問が持たれていました (>>228, >>229)。
今次の検討で下限が[[江戸時代]]まで下がらないと主張しましたが、
「[V[下限の弱点が、克服さ]]
[V[れたわけではない]]」 [SRC[>>316 p.112]] 
とも認識していました。
また上限には賛同も受けていたにも関わらず、
字形の検討から古代に遡り得ると認め、
「[V[問題はさらに複雑になってきたとも言えそう]]」
[SRC[>>316 p.112]]
であるとしました。

[65] 
そして、

>
[VRL[
墓碑の造立年代についての前稿の諸説を墨守する意図は毛頭ない。まだ、調査が不充分であるので本書では省略し
たが、民間信仰や石造美術の面からの考察をも加味すると、墓碑は中世、なかんずく室町時代に造立されたと考えた
ほうがよいのではないか、という試案も著者にはある。[SNIP[]]
]VRL]

... と明確な根拠を示さないながらも、実質的に[[昭和時代]]の論文での説を撤回しました。
[SRC[>>316, >>2]]

[1187] 
[[胡口靖夫]]の[[平成時代]]の著書の新稿では、
[[江戸時代]]偽作説も新史料を発掘して否定しました。
(>>308, >>64, >>280, >>783, >>68)
[[江戸時代]]偽作説の否定を重視したのは、
当時地元の郷土史家らが[[江戸時代]]偽作説を採っていた (>>416) ためでした。



[359] 
結局この[[平成時代]]の著書を通して[[胡口靖夫]]が根拠を添えて明確に主張したのは、
[[江戸時代]]の偽作ではないということだけでした。
[[江戸時代]]より前のいつ作られたかの問題は振り出しに戻されました。
ここまで諸分野の知見を組み合わせて精力的に検討してきたにも関わらず、
最後に投げ槍なまとめで茶を濁すに至ったのは、何か事情があったのでしょうか。
[[昭和時代]]の検討と[[平成時代]]の検討から導かれる自然な結論は
「[[平安時代]]後期から[[江戸時代]]より前」
でしょう。不充分で省略したという考察を加味すると、
それは更に[[室町時代]]に絞られます。
問題は複雑にはなっていません。

[1211] 
そして本書の出版後、
[[胡口靖夫]]の[[鬼室集斯]]墓碑研究はストップしたようです。
[[胡口靖夫]]は[[ウズベキスタン]]に移住しました。
[SEE[ [[胡口靖夫]] ]]

-*-*-

[230] 
[TIME[平成4(1992)年][1992]]、
[[平成時代]]の仏教研究者[RUBYB[[[中井真孝]]][[TIME[1943]]-]]は、
[[自治体史]]中で[[胡口靖夫]]の[[昭和時代]]の説を引いて、
「[V[平安後期ないし鎌倉後期のものと推測されている]]」
としました
[SRC[>>227]]。
(「ないし」では意味が変わってしまいますが。)

[1283] 
また、現存の墓碑が当時のものではなく「再造」である可能性を指摘し、
[[鬼室集斯]]が戊子年に没したこと、
庶孫の美成が造立したことは事実と認めざるを得ないのではないかとしました
[SRC[>>227]]。

-*-*-

[1275] 
[TIME[平成12(2000)年11月][2000-11]]、
[[胡口靖夫]]は[[日本国]][[滋賀県]]で開催された[[人魚サミット]]で、
[[コーディネーター]]を務めて全国から集まった関係者と
「人魚伝説を生かしたまちおこし」
を語りました。
[SRC[>>1274]]
[[胡口靖夫]]に[[人魚伝説]]自体の研究は見当たりませんが、
[[鬼室集斯墓碑]]研究を通じて構築された人脈で依頼されたのでしょう。

[1278] 
[[胡口靖夫]]は、
[[平成時代]]後期時点で毎年[[日野町]]に[[ふるさと納税]]していました
[SRC[>>1279]]。
[TIME[平成26(2014)年][2014]]、
[TIME[平成27(2015)年][2015]]の[[日野町]]の広報誌に寄附者として掲載されていました
[SRC[>>1276, >>1277]]。

[1280] 
[TIME[2015-11-08]]、
[[日本国]][[滋賀県]][[蒲生郡]][[日野町]]寺尻[[野田道遺跡]]の案内板設置除幕式が開催されました。
[[胡口靖夫]]も参加しました。
案内板設置は[[蒲生野を守る会]]の[[植田慶一]]が主導し、
[[胡口靖夫]]が寄附して実現しました。
[[日野町]]別所在住の[[日野町]]議会議員[RUBYB[[[齋藤光弘]]][[TIME[1952]]-]]は、
[TIME[2015-12-11]]に議会で大陸文化の影響のある本遺跡や[[鬼室神社]]を
「日野の観光の名所」
として「あわせて発信」
することを求めました。
[SRC[>>1279]]






[REFS[
- [1274] [CITE[NEWS]], [TIME[2018-12-18T03:18:14.000Z]], [TIME[2021-05-30T06:54:57.547Z]] <http://www.shigahochi.co.jp/old/bno/2001/01-01/n010105.html#2>
- [1276] [CITE[[[広報ひの]]4月号.indd - 4-17.pdf]], [TIME[2015-04-17T07:54:51.000Z]], [TIME[2021-05-30T06:59:42.914Z]] <http://www.town.shiga-hino.lg.jp/cmsfiles/contents/0000003/3015/4-17.pdf>
- [1277] [CITE[[[広報ひの]]_201605_CS6.indd - 5-16.pdf]], [TIME[2016-05-06T02:30:23.000Z]], [TIME[2021-05-30T07:00:00.212Z]] <http://www.town.shiga-hino.lg.jp/cmsfiles/contents/0000003/3366/5-16.pdf>

[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1279] [CITE[2nitime271211.pdf]], [TIME[2016-04-22T02:02:02.000Z]], [TIME[2021-05-30T07:03:39.815Z]] <http://www.town.shiga-hino.lg.jp/cmsfiles/contents/0000003/3351/2nitime271211.pdf#page=69>
]FIGCAPTION]

>
[BOX(center)[
第5回日野町議会定例会会議録

平成27年12月11日(第2日)
]BOX]


>
[B[7番(齋藤光弘君)]]  7番、齋藤です。
>[SNIP[]]
>寺尻地先にあります野田道遺跡の竪穴住居は、補助整備事業(1993年)の際に、遺跡調査され発掘されました。私は、このような遺跡が寺尻の地にあることを知りませんでしたが、今回「蒲生野を守る会」の植田慶一氏のご功労による、野田道遺跡案内板設置の除幕式を、11月8日に行われたことから、知ることができました。
>この案内板の設置にあたっては、東京都在住の胡口靖夫教授の篤志により設置することができました。胡口靖夫教授はウズベキスタンの名誉教授で、日野町へのふるさと納税を毎年していただいている方と聞いています。11月8日の除幕式には、東京から教授に来訪していただき、教育委員会の協力をいただき、今宿教育長と地元寺尻区長をはじめ、住民の方々の参加のもとで挙行されました。
>野田道遺跡の特徴は、竪穴住居の中のかまどに併設された、オンドル状遺構が存在したことであります。オンドルは、朝鮮半島や中国東北部で古くから伝わるもので、この竪穴住居は渡来系の遺構であると考えられます。日本書紀に、[SNIP[]]小野にあります鬼审集斯が祭られています鬼审神社ともつながる、重要な遺跡と言えます。今回の案内板設置で、日の目を見たわけですが、日野の宝とも言える遺跡を埋没させておくことなく、日野の観光の名所として、小野の鬼审神社とあわせて発信できないものかと考えます。地元寺尻地区の方々は、この遺跡を生かして地域おこしができないものかと期待されています。

]FIG]

]REFS]


** 東櫻谷志の否定説




[1081] 
[TIME[昭和59(1984)年4月][1984-04]]、
[[小野]]を含む[[日野町]]旧[[東桜谷村]]地域の歴史をまとめた
[CITE[東櫻谷志]]
が地元有志らによって編纂されました。
[SRC[>>76]]

[416] 
本書には[[鬼室集斯]]や[[人魚塚]]等も収録されていました。
特に歴史編第1章第1節の中には
[CSECTION[鬼室集斯をめぐる謎]]
と題した一節がありました [SRC[>>1080]]。
本書収録の他の事項と比べてもかなり詳細に検討し、
[[鬼室集斯]]の墓であるのか疑わしいと説明していました
[SRC[>>1080]]。


[HISTORY[
[1083] 
[[胡口靖夫]] (>>752)
は[[平成時代]]の自著で、
[CITE[鬼室集斯をめぐる謎]]
という題名の[[瀬川欣一]] (>>1281) の論文が
[CITE[東櫻谷志]]
に収録されているかのような書き方で、
特に何の注記もしないで引いていました
[SRC[>>226]]。

[1084] 
[[平成時代]]の[[日永伊久男]]は、
報告書で
[CITE[東櫻谷志]]
とだけ書いて引いていました [SRC[>>2124]]。

[1085] 
前者の書き方だと論文集のような体裁の書籍に収録された独立した論文のように誤認してしまいますが、
実態は地域史を通史的に解説した一連の文章の[[章節]]の[[節]]よりも小さな[[見出し]]の付いた項1つに過ぎません。
しばしば小学校で使われる地域史の副教材が分厚くなったようなイメージでしょうか。

[1088] 
本来それだけで完結した独立の文章ではなく、
前後の項との関連が分かりにくくなります。
実際本書は別の項でも[[鬼室集斯]]墓碑に関係する話題を収録していました。

[1086] 
本書[CSECTION[あとがき]]には執筆の分担が一応記載されており、
当該部分を[[瀬川欣一]]が書いたことはほぼ間違いないと思われますが、
論文集や章ごとに分担執筆した書籍のように個々に著者が明記されたものではなく、
全体として編集委員会の編著という体裁が取られています。

[1087] 
このような体裁の文章の引用の仕方は、
[[日永伊久男]]のものが遥かに適切でしょう。

]HISTORY]



[229] 
[CITE[東桜谷志]]は、

- [427] 発見直後の[CITE[楓亭雑話]]が文字はなかったと断言していること
[SRC[>>1080]]
- [314] 発見前の[CITE[江漢西遊日記]]が文字はなかったと断言していること
[SRC[>>1080, >>224]]

... を踏まえ、現在まではっきり読み取れる碑文が、
当時読み取れなかったのは不審であると指摘しました。そして、
[[西生懐忠]]を中心とする[[仁正寺藩]]関係者ら藩庁に墓碑を移動させた際に工作があったと結論づけました
[SRC[>>1080. >>226, >>224]]。

[428] 
[CITE[東桜谷志]]はまた、
[CITE[近江日野町志]]も[[西生懐忠]]の仕事全般に疑問を呈し、
特に藩庁に移動して明瞭になった不審を指摘している点を引用し
[SRC[>>1080]]、
偽造説を補強しました。


[HISTORY[
[68] 
[[胡口靖夫]]は、
著書で自身の旧論文の後の動きとして、
[CITE[東櫻谷志]]から[[瀬川欣一]] (>>1281) の偽作説を引き、
[[岡田精司]]の偽作説 (>>228) を発展させたもの
(だが実は根幹では[CITE[近江日野町志]]と同じ)
と紹介しました [SRC[>>224]]。

[69] 
ところが[CITE[東櫻谷志]]の該当部分には[[岡田精司]]説にも、
[[胡口靖夫]]説にも言及がありません。

[1082] 
約10年かかったという[CITE[東桜谷志]]の編纂作業の最終過程、
出版の1年前の[[岡田精司]]説が[CITE[東桜谷志]]説の枝葉ではなく根幹に影響を与えられたものか、
疑問があります。
[[岡田精司]]説を発展させたというのは、
そう書かれているということではなく、
[[胡口靖夫]]がそう理解したということに過ぎないのでしょうか。

[1273] 
[CITE[近江日野町志]]と同じというのも乱暴なまとめに思えます (>>248)。

[1079] 
そうしたものを自説への反論と一緒くたにし、
自説への反論の1つと誤読を誘うような書かれ方なのも気になります。
異説を否定し自説の正当性を主張しようとする余りに、
先行研究を要約して紹介する丁寧さを欠いてしまっているように思われます。

]HISTORY]

[1078] 
[CITE[東桜谷志]]の巻頭には、当時の[[滋賀県知事]]の序文があって、
[[人魚塚]]や[[鬼室集斯]]で有名だ、とこの地域の歴史の長さを讃えていました
[SRC[>>76 p.1]]。
それに続く編集委員長の序文には、
人魚物語や古墳があって歴史が長い、
と紹介されていて [SRC[>>76 p.3]]、
[[鬼室集斯墓碑]]は触れられていませんでした。
ここに地域外の人々のイメージと当事者の認識との若干のずれが感じられます。


[1281] 
本書は[[東桜谷]]地域の代表者らが集まり、
[[日野町]] (の[[東桜谷]]地域外) の[[郷土史家]]の[[瀬川欣一]]の監修のもと編纂したものでした。
[[鬼室集斯墓碑]]を含む古代史部分は[[瀬川欣一]]が執筆を担当していました。
[SEE[ [[東桜谷志]] ]]

[1282] 
住民達にとって、
地域の神社に祀られている墓が偽造といわれては、
決して良い気はしなかったはずです。
にも関わらず本書はばっさり偽作と切り捨てていました。
[[瀬川欣一]]が監修者であり分担執筆であるとは言っても、
編集委員一同の納得のいかない、受け入れがたい内容だったなら、
編纂作業が瓦解することもあり得たのではないでしょうか。
それでも本書が刊行されたということは、
地元の住民達が学術研究に対して冷静で理性的な姿勢を持っていたことの現れといえます。
本書が信仰と歴史は分けて考えるべきと語っている (>>1092) 
のは、その妥協点だったのでしょう。




[REFS[
- [76] [CITE[[[東櫻谷志]]]]
-- [1080] [CSECTION[[V[鬼室集斯を]]
[V[めぐる謎]]]],
pp.37-47
--- [430] 
引用:
[CITE[近江日野の石造美術品]],
[[[RUBY[田][た]][RUBY[岡][おか]][RUBY[香][こう]][RUBY[逸][いつ]]][田岡香逸]],
[V[昭和五十一年十月]]
]REFS]

-*-*-

[979] 
[[瀬川欣一]]は小冊子
[DFN[[CITE[日韓友好親善のための鬼室集斯小伝]]]]
を出版しました。
[SRC[>>978, >>965]]

[980] 
時期は不明ですが、[[新日野新聞社]]の創刊40周年記念とされます
[SRC[>>965]]。
また[TIME[平成15(2003)年][2003]]時点で本書は入手可能でした
[SRC[>>978]]。
20世紀の末頃と見てよさそうです。

[981] 
本書は[[司馬江漢]]の図や[[坂本林平]]の証言を根拠に、
墓碑を偽造としていました。
[[昭和時代]]の[CITE[東桜谷志]]の主張 (>>229) と同趣旨と思われます。

[19] 
歴史と信仰を分ける考え方は[[昭和時代]] (>>1282) 
から変わっていませんでしたが、
[[平成時代]]に入って姉妹都市交流が始まった (>>787)
ことを承けて信仰と国際交流を結び付ける新たな理論へと発展していました (>>982)。

[1286] 
[[新日野新聞社]]は、
[[大韓民国]]との交流事業を主導した[[苧原鉄男]]の会社でした。



** 平成時代初期の大韓民国との姉妹都市提携

[787] 
[TIME[1990-05-16]] [SRC[>>949]]、
[[日本国]][[滋賀県]][[蒲生郡]][[日野町]]は、
[[大韓民国]][[忠清南道]][[扶餘郡]][[恩山面]]と[[姉妹都市]]提携しました。
この[[姉妹都市]]提携は、
[[鬼室集斯]]の父とされる[[鬼室福信]]を祀る社が[[恩山面]]に所在することによるものでした。
[SRC[>>2124]]

[788] 
[TIME[平成6(1994)年][1994]]時点で、
使節団が数次交換され、
[[鬼室集斯墓碑]]は国際交流に欠かすことができないものになったとされました。
[SRC[>>2124]]


[53] 
[[鬼室神社]]は、[[姉妹都市]]提携を契機に観光資源化されました
[SRC[>>2114, >>2124, >>2129]]。
その後 (時期不明)、
境内および周辺道路に多数の[[韓国語]][[ハングル]]の案内看板等が設置されました
(>>823, >>824, >>878)。


-*-*-

[233] 
[[平成時代]]初期、
[[日野町教育委員会]]は墓碑の基礎資料を収集し発表しました。
これは、
[[姉妹都市]]提携と、
[[胡口靖夫]]らにより墓碑に注目が集まったことが契機といわれます。
[SRC[>>224]]

[789] 
[TIME[1994-12-20]]、
[[日永伊久男]]は、
[[財団法人滋賀県文化財保護協会]]の機関誌で調査結果を
[DFN[[CITE[鬼室集斯墓碑について]]]]
として報告しました。
姉妹都市提携の発端となった墓碑の公的な基礎資料を[[日野町]]が有していないため、
今後の交流の支障となる可能性があり、実態を把握することにしたのだといいます。
[SRC[>>2124]]

;; [1284] 逆に言えば[[日野町]]は根拠とされる歴史的経緯を確認することなく
(過去の自治体史すら確認せず?)
見切り発車で[[姉妹都市]]という公的な関係を結んだということです。
大丈夫なのでしょうか...

[790] 
これが[[日野町教育委員会]]の調査と同じものと思われますが、
他に詳細な報告書があるのかどうかは不明です。
[[日永伊久男]]は[[日野町教育委員会]]や[[日野町]]文化財資料室に所属していた[[地方公務員]]の歴史研究者
(文化財行政担当者) と思われますが、
この当時の所属は不明です。
[[財団法人滋賀県文化財保護協会]]は発掘調査等を行う団体で、
[[滋賀県]] ([[行政]]) と密接に関わりを持つ組織と思われます。
本稿には謝辞として、
[[財団法人滋賀県文化財保護協会]]調査整理課長の[[兼康保明]]が全般的に指導と助言をしたと書かれていました
[SRC[>>2124]]。

[791] 
[TIME[平成6(1994)年][1994]]度の[[日永伊久男]]の調査では、
写真撮影、
拓本作成、
実測、
石材鑑定が行われました。
[[宇野光一]]と[[西国弘]]が現地に赴き協力しました。
当地の[[植田慶一]]夫妻と[[増田喜一郎]]も協力しました。
[SRC[>>2124]]

[821] 
[[日永伊久男]]は、報告で
「[L[筆者としてはあえてこの論争に加わるつもりはない]]」
と断りつつも、
墓碑現物の調査結果以外はほぼ全面的に[[胡口靖夫]]の論文に依拠して記述し、
真偽の断定は避けながらも、
信仰があっただけで姉妹都市交流には十分との見解を示しました (>>1091)。




-*-*-




[932] 
なおこの[[財団法人滋賀県文化財保護協会]]は、
[TIME[2010-09-28]]時点で、
[[鬼室神社]]の由来に関する問い合わせに対し、
不明であると即答したようです [SRC[>>930]]。
朝に出勤した直後にいち早く回答したらしき担当者の怠慢でなければ、
この種の照会に答えられるような研究者が既に在籍していなかったのでしょう。

[1298] 
ただ不思議なのは、
[TIME[2010-05-23]]付の新聞に
「[V[財団法人滋賀県文化財保]]
[V[護協会  堀  真人]]」
を名乗る人物が[[鬼室神社]]について寄稿していました。
当該記事は[[令和時代]]初期時点で[[公益財団法人滋賀県文化財保護協会]]の
[[Webサイト]]で公開されていました。
[SRC[>>1297]]
[[堀真人]]はその後も協会に属していたことが[[ウェブ検索]]で確認できます。
担当者はこの日の朝出勤した[[堀真人]]に確認し、
[[堀真人]]は不明だと即答したのでしょうか。
[[堀真人]]は神社の来歴も調べずに新聞記事を執筆していたのでしょうか。



[REFS[
- [2123] [CITE[滋賀文化財だより - 204.pdf]], 
[TIME[1994.12.20][1994-12-20]],
[TIME[2014-03-14 08:43:46 +09:00]] <http://shiga-bunkazai.jp/download/dayori/204.pdf>
--  [2124] [CITE[鬼室集斯墓碑について]], [[日永伊久男]]
--- [794] 引用:
[CITE[日野町小野の鬼室集斯の墓は史実でない]],
[[瀬川欣一]],
[CITE[滋賀県地方史研究紀要第11号]], [TIME[1985]]
--- [795] 引用:
[CITE[鬼室集斯墓碑をめぐって]],
[[胡口靖夫]],
日野町町民会館「わたむきホール虹」オープニング記念行事『日韓文化シンポジウム  古代近江と朝鮮文化』講演資料, [TIME[1993]]


]REFS]

-*-*-

[1089] 
[TIME[平成6(1994)年][1994]]、
[[大日本帝国朝鮮]]生まれの[[大韓民国]]人朝鮮文化研究者[RUBYB[[[任東権]]][[TIME[1926]]-[TIME[2012]]]]の[[鬼室神社]]についての[[韓国語]]の著書が、
[[大韓民国]]で出版されました。
[SRC[>>1027]]

[732] 
[TIME[平成13(2001)年]]、
同書が[[日本語]]に翻訳されて[[日本国]]で出版されました。
[SRC[>>731]]

[994] 
当時[[鬼室神社]]の例祭には、
[[大阪]]在住の[[在日朝鮮人]]が多数訪れるようになっていました。
[SRC[>>986 (>>731 p.222)]]

[1025] 
本書には[[苧原鉄男]],
[[森下太郎次]], 
[[植田慶一]], 
[[辻久一郎]], 
[[塚本義一]]らの名前が並んでいました。
[SEE[ [[苧原鉄男]] ]]

[REFS[
- [1027] [CITE[日本 안 의 百濟文化: 師走祭 와 [[鬼室神社]] 를 中心 으로]], [[任東權]],
[TIME[1994]]
]REFS]

-*-*-

[786] 
[TIME[平成7(1995)年][1995]]、
新聞記事等を編集した
[CITE[月刊文化財発掘出土情報]]
で現地の動きが紹介されました。
[SRC[>>56]]



[315] 
[TIME[1996-07-14]]、
[[日本]]の[[国立歴史民俗博物館]]の[RUBYB[[[阿部義平]]][[TIME[1942]]-[TIME[2011]]]]を団長とする総合的な研究調査団が、
墓碑の現地現物調査を実施しました。
[SRC[>>224]]
その成果は不明です。


[1188] 
[TIME[平成10(1998)年11月][1998-11]]、
[[滋賀県韓国商工会議所]]が記念碑を設置しました (>>844)。

[639] 
滋賀県の高校教員[[藤野宗典]]は、
[CITE[鬼室神社―鬼室集斯墓碑をめぐる謎]]
を発表しました
([CITE[歴史研究]], [TIME[2000-02]])。

[REFS[
- [56] [CITE[[[月刊文化財発掘出土情報]] - Google ブックス]], 
[TIME[1995][year:1995]],
[TIME[2020-06-18 11:11:16 +09:00]] <https://books.google.co.jp/books?id=KoAjAAAAMAAJ&q=%E9%AC%BC%E5%AE%A4>
]REFS]

-*-*-

[918] 
[TIME[平成12(2000)年][2000]]当時の[[日野町]]を紹介する
[[Webサイト]]では、
[[鬼室集斯]]と[[鬼室神社]]が紹介されました。
[SRC[>>917]]

[922] 
この[[Webサイト]]は、
[TIME[平成9(1997)年][1997]]度から[TIME[13(2001)年][2001]]度に[[日本政府]]の[[農林水産省]][[むらづくり対策室]]が実施した[[美しいむらづくり対策事業]]の[[美しいむらづくりモデル地区]]に選ばれた
[SRC[>>923]] [[日本国]][[滋賀県]][[日野町]]が、
同事業の補助で製作したものでした [SRC[>>921]]。

[924] 
本サイトの初公開時期は不明ですが、
[CITE[Internet Archive]]
に所蔵されるものは[TIME[平成12(2000)年][2000]]が最古です。
[[Webサイト]]の[[トップページ]]の題名は
[CITE[滋賀県日野町]]
で、題字が
「ようこそ近江日野商人と花のまち
滋賀県日野町の
ホームページへ」
とありました。
連絡先に
「日野町役場産業経済課または日野観光協会」
が併記されていました。
[SRC[>>923]]
当時のこのサイトは[[自治体]]の[[日野町]]と[[日野観光協会]]が共同運営していたと思われます
[WEAK[(サイト内の一部という形で[[日野観光協会]]のページもありました)]]。
[[農林水産省]]の[[Webサイト]]も、本サイトを
「日野町HomePage」と紹介していました
[SRC[>>925]]。

;;
[926] 
なお当時の[[日野観光協会]]の所在地は役場内になっており、
事実上一体の存在だったと思われます。

[919] 
紹介ページでは、
境内の写真の他に、
なぜか[[韓国語]]の説明文
(案内看板のものか?)
の画像が掲載されていました。
[SRC[>>917]]

[928] 
このサイトはその後[[日野観光協会]]の [[Webサイト]]になったようです。
[[鬼室神社]]のページは細かな表現が変更されつつ、
その後も存続しました [SRC[>>927]]。

[929] 
紹介文は更にその後も [[Webサイト]]でほとんど同じものが使われていますが、
[[韓国語]]の説明画像は削除され、
写真は新たに建設された東屋 (>>1095) のものに差し替えられたようです [SRC[>>846]]。

[REFS[
- [921] [CITE[滋賀県日野町]], [TIME[2021-04-11T06:11:15.000Z]], [TIME[2000-04-20T09:10:21.919Z]] <https://web.archive.org/web/20000420090440/http://www.biwa.ne.jp/~hino-to/index.html>
-- [917] [CITE[[[鬼室神社]]/鬼室集斯]], [TIME[2021-04-11T06:06:41.000Z]], [TIME[2000-03-06T15:57:33.963Z]] <https://web.archive.org/web/20000306155638/http://www.biwa.ne.jp/~hino-to/0023.html>
- [923] [TIME[2021-04-11T06:12:32.000Z]] <https://web.archive.org/web/20001204080300/http://www.maff.go.jp/soshiki/koukai/muratai/21j/index.html>
-- [925] [TIME[2021-04-11T06:18:15.000Z]] <https://web.archive.org/web/20001204080300/http://www.maff.go.jp/soshiki/koukai/muratai/21j/index.html>
- [927] [TIME[2021-04-11T06:21:10.000Z]], [TIME[2009-05-14T03:47:36.604Z]] <https://web.archive.org/web/20090514034719/http://www.biwa.ne.jp/~hino-to/0023.html>
- [846] [CITE@ja[[[鬼室神社]] – [[日野観光協会]]]], [TIME[2021-04-11T03:19:14.000Z]] <https://www.hino-kanko.jp/sight/kishitsujinjya/>

]REFS]


-*-*-


[971] 
[TIME[平成15(2003)年][2003]]時点で、
社殿には[[芳名帳]]があり、
[[大日本帝国]][[内地]]生まれの[[在日韓国人]]で朝鮮人関連映画作家[RUBYB[[[呉徳洙]]][[TIME[1941]]-[TIME[2015]]]]の名前がありました
[SRC[>>969]]。


[833] 
[TIME[平成15(2003)年][2003]]、
[[在日朝鮮人]]の朝鮮史研究者[RUBYB[[[朴鐘鳴]]][[TIME[1928]]-[TIME[2018]]]]の著書
[SRC[>>834]] で、
当神社と墓碑が紹介されました。

[972] 
この頃当神社は、
[[在日韓国人]]を売りにした[[掲示板]]利用者の連載記事で紹介される [SRC[>>969]]
など、
[[朝鮮人]]が訪れる地として知名度が上昇していたようです。


[REFS[
- [731] [CITE@ja-jp[[[日本の中の百済文化―師走祭りと鬼室神社を中心に]] (Academic Series NEW ASIA) | 任 東権, 東権, 任, 旦, 竹田 |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2021-04-09T07:16:06.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4804207244/wakaba1-22/>
- [968] [CITE[[[半月城通信]] No.97]], [TIME[2016-07-11T07:31:00.000Z]], [TIME[2021-04-11T08:08:19.487Z]] <http://www.han.org/a/half-moon/hm097.html#No.710>
-- [969] 
[CITE[琵琶湖東南の渡来人]],
[[半月城]],
2003.6.29
Yahoo!掲示板「日本人は百済から来たのか?」#7296
--- [978] 引用:
[CITE[鬼室集斯小伝]],
[[瀬川欣一]],
新日野新聞社40周年記念誌
- [834] [CITE@ja-jp[[[滋賀のなかの朝鮮]] (歩いて知る朝鮮と日本の歴史シリーズ) | 朴 鐘鳴 |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2021-04-11T02:00:46.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4750317543/wakaba1-22/>
]REFS]


** 平成時代後期の大韓民国化の進展



[837] 
[TIME[2008-11-05]]、
「日本人と在日コリアンがともに手をたずさえ」云々を目指すと謳う[[日本国]][[滋賀県]][[大津市]]の[[渡来人歴史館]]は、
「秋の探訪  秋の近江路と渡来人」
というイベントを開催し、
参加者は当地などを巡りました。
[SRC[>>27]]

[REFS[
- [27] [CITE[渡来人歴史館]], [TIME[2014-08-28 21:59:04 +09:00]] <http://t-rekisikan.com/20_event/081105/index.html>
-- 2008年「11月5日(水) 8:45~16:30」
]REFS]

-*-*-

[838] 
[TIME[2008-12-10]]、
[[日本国]][[東京都]]の弁当店の広報紙[CITE[昴]]は、
湖東の渡来文化を特集し、墓碑の写真や拓本を大きく掲載しました。
[SRC[>>36]]
本紙は弁当店で購入者に配布されていたようです。
このテーマを選んだ理由は不明ですが、
編集長を務めていた書家の[RUBYB[[[岡本光平]]][[TIME[1948]]-]]はかつて京都に在住し、
古美術等と共に考古学を学び金石文を研究した経歴があり、
その方面からのつながりかもしれません。

[840] [[漢詩]]も紹介されました。 [SRC[>>36]]

>
[VRLBOX[
鬼室集斯参拝頌

望郷百済

波濤千里

淡海渡来

鬼神感和 
]VRLBOX]

[REFS[
- [36] [CITE[[[昴]] 第7号 - subaru7.pdf]], 
[[(株)鳥久]],
[TIME[2008年12月10日][2008-12-10]],
[TIME[2010-01-21 00:31:49 +09:00]] <http://www.torikyu.co.jp/pdf/subaru7.pdf>
]REFS]

-*-*-

[1095] 
[TIME[平成21(2009)年][2009]] [SRC[>>841]]、
「日野町・恩山面姉妹都市交流20周年記念事業」により [SRC[>>1101, >>29, >>884]]、
神社横の広場「国際交流広場」
と[[東屋]]「集斯亭」
が整備されました (>>937)。


[739] 
集斯亭は、
「曲線で構成された屋根や扇状の垂木、色鮮やかな丹青(たんちょん)など韓国の古式建築様式を模して」
いるのだといいます。
[SRC[>>884 (現地案内看板), >>1101 にも同様の解説]]

;; [886] 「韓国の古式」が[[百済]]時代のものかは不明。

[1163] 
この事業は[[日野町国際親善協会]]が実施したようです [SRC[>>1101]]。
この団体は姉妹都市締結の直前の[TIME[1990-01-27]]に設立され [SRC[>>1164]]、
[[大韓民国]]との交流や[[韓国語]]講座などを[[日野町]]で開催しているようです。
事務局が[[日野町]]役場内に置かれ、
[[Webサイト]]が[[日野町]]公式サイト内に統合されている、
実質的に[[日野町]]の下部組織として機能している団体である模様です。


[1011] 
姉妹都市の締結から当時まで交流に寄与した[RUBY[苧原哲夫][おはらてつお]]が発案し高額の寄附をし、
またその他からも寄付を集めて整備が実施されたといいます。
[SRC[>>884]]
(正しくは[[苧原鉄男]]と思われます。)
[SEE[ [[苧原鉄男]] ]]

[1184] 
寄付は地元住民等から集めたとされます [SRC[>>1164]] が、
東屋に書かれた寄付者名を見ると[[関東]]の人が案外多い
[SRC[>>79]]
といわれています。


-
[1165] 
竣工の「数年前」から
「日野町での国際交流の拠点を作ろう」
との趣旨で構想が練られていました。
[SRC[>>1101]]
-
[1173] 
[[日野町国際親善協会]]が[[小野]]地区 ([[堀井太三]]区長)
から「土地の提供を受け」たとされます [SRC[>>1166]]。
[[神社]]横の[[大字]]所有地を取得したのでしょうか。
この書き方は無償譲渡で協会の所有地になったという意味でしょうか。
- [1175] 
[TIME[2009-06-08]]、造成。
[SRC[>>1101]]
- [1176] 
[TIME[2009-07-30]]、
役員立ち会いのもと[[棟上げ]]。
[SRC[>>1101]]
- [1177] 
[TIME[2009-09-02]]、
[[瓦葺き]]開始。
瓦材料の多くが特注品。
[SRC[>>1101]]
- [1178]
[TIME[2009-09-07]]、
床の石張り開始。
[SRC[>>1101]]
- [1179] 
[TIME[2009-09-15]]、
塗装開始。
[SRC[>>1101]]
- [1180] 
[TIME[2009-10-05]]、
外構工事。
[SRC[>>1101]]
- [1181] 
[TIME[2009-11-01]]、
[[日野町国際親善協会]]および地元民でツツジ苗木160本を植栽。
[SRC[>>1101]]
-
[1096] 
[TIME[2009-11-08]]、
[[竣工]]
-- [1182] 現地案内看板「2009年11月8日 竣工」 [SRC[>>884]]

[1183] [[竣工]]の日は記念行事が開催されました [SRC[>>1101]]。

- [1127] [[鬼室神社]]祭礼。
[SRC[>>1101]]
-- [1135] 例年の祭に加え、
[[高麗茶道]]による献茶や、
[[鳥居平]]楽人座の[[雅楽]]演奏などが実施されました。
-- [1167] >>1166 写真
-- [1168] >>1101 写真
- [1152] 国際交流広場竣工式および姉妹都市交流20周年記念式典。
[SRC[>>1101]]
-- [1153] 休憩所に掲げる銘盤の除幕。
-- [1154] 感謝状贈呈:
--- [1155] [[興和設計]] (設計者)
--- [1156] [[株式会社今井工業]] (施工者)
--- [1157] [[苧原鉄男]] (特別高額寄付者)
-- [1299] 参加:
--- [1300] [[藤澤直広]][[日野町]]長 [SRC[>>51]]
--- [1301] [[鄭東賢]][[恩山面]]長 [SRC[>>51]]
--- [1174] [[在日本大韓民国民団]]滋賀県地方支部 [SRC[>>1166]]
---- [1302] [[具滋源]]民団滋賀本部団長 [SRC[>>51]]
-- [1169] >>1166 写真
-- [1170] >>1101 写真
- [1158] [[大字小野]]によるおもてなしの交流会。
[SRC[>>1101]]
-- [1159] 
「餅つきをしたり、キムチなべを食べたりしながら、使節団を含む出席者の皆様、関係の皆様、地域の皆様の親睦」。
-- [1171] >>1101 写真
- [1160] 日野町国際親善協会主催恩山面使節団歓迎会。
[SRC[>>1101]]
-- [1161] [[日野町国際親善協会]]会員ほか「たくさんの方」。
-- [1172] >>1101 写真

[1162] 一連の行事には、
[[大韓民国]]から恩山面使節団が招待されました。
使節団は[TIME[2009-11-07]]から[TIME[2009-11-10]]まで[[日本]]に滞在し、
[[小野]]の他に、
[[石塔寺]]、
[[綿向神社]]、
[[日野町]]役場、
[[京都市]]内を訪問しました。
[SRC[>>1101]]


[REFS[
- [1166] [CITE@ja[滋賀報知新聞]], 
[CSECTION[日野町小野に「国際交流広場」]],
[[滋賀報知新聞社,The Shiga-hochi Shimbun Co.,Ltd.,Shiga Japan]], 
2009年11月12日(木),
[TIME[2021-05-19T10:16:39.000Z]] <http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0002960>
- [51] [CITE[[[百済]]ゆかりの地に韓国風東屋 蒲生郡日野町国際親善協が建設]], 
[[民団新聞]],
2009.11.18,
[TIME[2018-05-18T20:30:09.000Z]], [TIME[2021-05-13T09:57:15.255Z]] <https://www.mindan.org/old/front/newsDetailb08b.html>
- [1101] [CITE[「友好の輪」No.29]], 
発行:[[日野町国際親善協会]],
事務局:[[日野町]]役場企画振興課(秘書広報担当),
2009年12月,
[TIME[2018-04-03T09:16:21.000Z]], [TIME[2021-05-19T09:48:34.897Z]] <http://www.town.shiga-hino.lg.jp/cmsfiles/contents/0000002/2155/yukonowa2009.12.pdf>
- [1164] [CITE@ja[国際親善協会の概要・目的・規約 | [[日野町]]ホームページ]], 
2021年5月13日,
[TIME[2021-05-19T10:10:09.000Z]] <http://www.town.shiga-hino.lg.jp/contents_detail.php?co=cat&frmId=2149&frmCd=32-13-6-0-0>

]REFS]



[17] [CITE@ja[大韓民国 恩山面 | 日野町ホームページ]], [TIME[2021-05-13T09:53:57.000Z]] <http://www.town.shiga-hino.lg.jp/contents_detail.php?frmId=2103>

- [1297] びわこの考湖学 第2シリーズ,
第45回 	2010年5月23日 	鬼室神社と鬼室集斯
最先端情報体現の功績息づく, [TIME[2011-06-22T07:21:41.000Z]], [TIME[2021-05-30T12:08:17.969Z]] <http://shiga-bunkazai.jp/biwako/biwako2_45.pdf>
- [38] [CITE@ja[新近江名所圖会 第153回 集斯亭―日野町・恩山面姉妹都市交流20周年記念― | [[公益財団法人滋賀県文化財保護協会]]]], 
2013年7月11日,
[TIME[2021-05-13T09:54:40.000Z]] <http://shiga-bunkazai.jp/%E6%96%B0%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%90%8D%E6%89%80%E5%9C%96%E4%BC%9A%E3%80%80%E7%AC%AC153%E5%9B%9E/>

[1033] [CITE[日韓関係悪化も中学生が韓国訪問「続けたい」鬼室集斯の縁]], [TIME[2019-11-04T16:40:24.000Z]], [TIME[2021-04-12T02:59:20.385Z]] <http://hayabusa3.2ch.sc/test/read.cgi/news/1565774659/>



-*-*-

[958] 
この頃パンフレットが配布されていました。
[TIME[平成23(2011)年][2011]]時点のもの [SRC[>>949]] 
と[TIME[平成27(2015)年][2015]]時点のものが同じか不明ですが、
[[文字起こし]]されたテキストと片面写真 [SRC[>>909]]
がほぼ同文なので、全体的に同じだった可能性が高そうです。


- [949] [TIME[2011-08-29]]時点で入手できたもののテキスト、一部写真 [SRC[>>2129]]
-- [951] かつては全体写真も[[ウェブ]]公開されていた模様だが、
[[令和時代]]になった時点で既に入手不可。
- [893] [TIME[平成27(2015)年][2015]]頃入手できたパンフレットの一部写真 [SRC[>>23, >>900]]
-- [894] 
「日野町・日野町国際親善協会 日野観光協会」
発行
[SRC[>>23]]
- [909] [TIME[2015-10-20]]頃入手できたパンフレットの片面写真 [SRC[>>79]]
- [896] [TIME[2019-05-13]]時点で入手できたパンフレットの一部写真: 墓碑 [SRC[>>33]]

[959] 
掲載された墓碑は、
正面から撮られた写真でした。
文字らしきものが書かれていることがわかりますが、
何と書かれているかは知っていないと読むのが難しく、
知っていても完全にはわかりません。

[2130] 
銘文が全文掲載されていました。
紀年は、
「[L[[RUBY[朱][しゅ]][RUBY[鳥][ちょう]]三年[RUBY[[ASIS[〓][⿰子戊]]][ぼし]]十一月八󠄂日[ASIS[〓][⿰歹几 (几の下に空白)]]]]」
とありました。
[[干支]]と死亡の文字が作字されていました。
[[干支]]は2文字が1文字に合成されていました。 [SEE[ [[干支合字]] ]]
死亡の文字の字形も拓本と明らかに異なります。
[SRC[>>2129]]

[960] 
歴史学的な知識がわずかでもあれば、明らかに間違いだと気づく稚拙な内容です。
専門家の監修はおろか、
神社の歴史に関心を持つ人が制作に関わったかすら疑わしいと言わざるを得ません。

-*-*-

[866] 
[TIME[令和元(2019)年][2019]]から「5年以上前」、
[[NHK]] [[BS]] の歴史番組で墓碑が紹介されました。
[SRC[>>32]]



[741] 
[TIME[2016-04-30]]、
[[朝鮮]]関連[[ノンフィクション作家]]で[[東京]]生まれの[[在日韓国人]]2世の[[康熙奉]]は、
[[大韓民国]]関連記事を扱う[[日本語]]の
[[Webサイト]]
[CITE[ロコレ]]
で、
当神社の訪問記事を発表しました。
「鬼室集斯はその職務を全うし、晩年は近江の小野(この)に住んだ。[SNIP[]]688年に没し、彼を慕う人々によって近江の地に埋葬された。」
と書きましたが、その根拠は不明です。
現地の[[石祠]]を見ましたが [SRC[>>742]]、墓碑は実見しませんでした。
[SRC[>>740]]

* 平成時代の学術研究

[950] 
[[大韓民国]]との交流事業が活発化するのと反比例するかのように、
[[平成時代]]になって墓碑は学術研究の場にほとんど現れなくなりました。


[942] 
[TIME[平成9(1997)年][1997]]、
[CITE[近江・若狭・越前 寺院神社大事典]]
は当神社を紹介しました。
[[司馬江漢]]の
[CITE[江漢西遊日記]]
が銘文なしと書いたことを紹介して、
[[西生懐忠]]らの偽作とする
[CITE[日野町志]]
の説に従いました。
[SRC[>>2127]]


[948] 
[TIME[平成17(2005)年][2005]]の
[CITE[近江日野の歴史]] 第1巻は、
「西生懐忠が近江日野の小野に伝承地を定め、彼が偽作した碑文と推定」
しました。
[SRC[>>947]]

-*-*-

[1290] 
日本史研究者の[RUBYB[[[鈴木靖民]]][[TIME[1941]]-]]は[CITE[日本大百科全書(ニッポニカ)]]で、
[[鬼室神社]]に「鬼室集斯墓」「朱鳥三年(戊子)十一月(歿)」の銘文の墓があるが、
真偽には議論があるとしました。
生没年は不詳としました。
[SRC[>>1287]]


[1291] 
[[平凡社]]の[CITE[百科事典マイペディア]]は、
[[鬼室神社]]があるとしました。
[SRC[>>1287]]
それが墓であるとは書いていません。

[1292] 
[[平凡社]]の[CITE[世界大百科事典 第2版]]は、
「滋賀県蒲生郡日野町小野の西宮境内に鬼室集斯の墓なるものがあるが確かではない」
としました。
生没年は不詳としました。
[SRC[>>1287]]
この事典は[[鬼室神社]]という社名すら認めていないのでしょうかw


[745] 
[TIME[平成29(2017)年8月][2017-08]]、
[[大韓民国]]の古代史研究者で、
[[大韓民国]]で修士号取得後[[日本]]で博士号を取得した[[崔恩永]]は、
[[胡口靖夫]]の論文を引いて、
真偽には議論があるとしました
[SRC[>>743]]。

-*-*-

[1289] 
[CITE[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]は、
[[小野]]に墓があって神社になっていると書きました。
[SRC[>>1287]]

[1288] 
日本史研究者の[[清田善樹]]は[CITE[朝日日本歴史人物事典]]で、
[[胡口靖夫]]の[[昭和時代]]の論文を引きながらも、
[[鬼室神社]]に墓があると (だけ) 書きました。
生没年は不詳としました。
[SRC[>>1287]]
引用しているだけまだマシですが、
死後すぐに作られた墓としか読めない説明でした。

[REFS[
- [1287] [CITE@ja[[[鬼室集斯]]とは - コトバンク]], [[朝日日本歴史人物事典,ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,日本大百科全書(ニッポニカ),百科事典マイペディア,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,世界大百科事典 第2版]], [TIME[2021-05-30T09:52:50.000Z]] <https://kotobank.jp/word/%E9%AC%BC%E5%AE%A4%E9%9B%86%E6%96%AF-50376>


[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[743] [CITE[百済王氏の成立と動向に関する研究]], 
[[崔恩永]],
[TIME[2017年8月][2017-08]],
[TIME[2019-04-21T16:30:26.000Z]], [TIME[2021-04-09T12:33:43.854Z]] <http://usprepo.office.usp.ac.jp/dspace/bitstream/11355/308/8/24201k099_zenbun.pdf#page=31>
]FIGCAPTION]

>[SNIP[]]現在、滋賀県蒲生郡日野町には「鬼室神社」という神社がある。ここで「鬼室集斯」という墓碑が発見され、「鬼室神社」と称するようになったという。この碑によると、鬼室集斯は「朱鳥三年戊子十一月八日殞」、すなわち688年(持統2年)11月8 日に死亡し、庶孫の美成が碑を建てたとする。ただ、碑文の真偽について江戸時代から論争がある[SUP[36]]。[SNIP[]]

;; [744] [SUP[36]] は[[胡口靖夫]]の論文。

]FIG]

]REFS]

* 現代の一般人の反応

[1293] 
[[大韓民国]]との友好関係を強調した[[日野町]]の観光戦略は一定の成果を挙げたようで、
[[平成時代]]中期以後の [[Web]] や [[SNS]]
には、[[鬼室集斯]]が[[小野]]の地で過ごし、葬られたと信じる人達が散見されます。
既成事実化は着々と[DEL[信仰]][INS[進行]]しているようです.

[REFS[
- [1017] [CITE[ROOM 1 [[琵琶湖]]の風物詩]], 
[TIME[2005-11-01]],
[TIME[2005-10-31T08:49:02.000Z]], [TIME[2021-04-11T10:06:52.432Z]] <http://sakuranamiki.my.coocan.jp/room1kkkk.htm>
- [973] [CITE@ja[滋賀県日野町の史跡を巡る2:[[鬼室神社]] : 鷹狩山の会 箕面山・ロマンチック街道支部]], [[takagariyama]], 
2006年 01月 15日,
[TIME[2021-04-11T08:21:24.000Z]] <https://xsara.exblog.jp/4096504/>
- [20] [CITE[湖東の渡来人:[[鬼室集斯]]のこと: Yagiken Web Site]], 
[TIME[2006.01.15][2006-01-15]],
[TIME[2020-06-17 17:23:19 +09:00]] <http://yagiken.cocolog-nifty.com/yagiken_web_site/2006/01/post_267e.html>
- [933] [CITE[[[鬼室神社]] 東近江市日野町小野]], [TIME[2010-02-22T01:01:12.000Z]], [TIME[2021-04-11T06:37:55.147Z]] <http://kamnavi.jp/en/oumi/kisitu.htm>
-- [943] 出典: >>2127
- [78] [CITE@ja[【鬼室神社】口コミ情報・地図・近くの観光スポット - [[たびかん]] 観光スポット検索]], [TIME[2020-06-19 09:50:30 +09:00]] <https://tabikan.jp/spot.php?s=6507>
-- [79] [CSECTION[こまどりさんのクチコミ]],
2015年10月20日に投稿されました。
-- [901] [CSECTION[キリマンジャロさんの口コミ]],
2018年11月15日に投稿されました。
- [740] [CITE[日本のコリアをゆく(百済寺跡・鬼室神社編3) | [[ロコレ]] - Part 3]], 
文=康 熙奉(カン ヒボン),
2016/4/30,
[TIME[2021-04-09T12:23:34.000Z]] <http://syukakusha.com/2016/04/30/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e3%82%b3%e3%83%aa%e3%82%a2%e3%82%92%e3%82%86%e3%81%8f%ef%bc%88%e7%99%be%e6%b8%88%e5%af%ba%e8%b7%a1%e3%83%bb%e9%ac%bc%e5%ae%a4%e7%a5%9e%e7%a4%be%e7%b7%a8%ef%bc%93%ef%bc%89/3/>
-- [742] [CITE[DSCF3391-1.jpg (WEBP 画像, 1944x2592 px) — 表示倍率 (24%)]], [TIME[2021-04-09T07:40:00.000Z]], [TIME[2021-04-09T12:30:48.622Z]] <http://i0.wp.com/syukakusha.com/wp-content/uploads/2016/04/DSCF3391-1.jpg>
- [29] [CITE[ねこむすめのブログ:[[鬼室神社]]]], 
2017年12月09日,
[TIME[2020-06-17 17:37:44 +09:00]] <http://blog.livedoor.jp/kokusaiyuko/archives/9707937.html>
-- [30] <https://livedoor.blogimg.jp/kokusaiyuko/imgs/9/6/960b1361.jpg>
- [1029] [CITE@ja[イクトスさん (@PachelbelCanonD) / [[Twitter]]]], [TIME[2021-04-12T02:52:48.000Z]], [TIME[2021-04-12T02:54:21.997Z]] <https://twitter.com/PachelbelCanonD>
-- [1030] 「在日コリアン。個人の尊厳と人権。キム・ジウォン、TWICE、T-ARA、バッハ、ベトベン、フォーレ。聖金大建と韓国102位殉教聖人。李舜臣将軍。安重根義士。尹亨淑烈士。柳寛順烈士。朱基徹牧師。尹東柱。朴鍾哲烈士。尹祥源烈士。全泰壱烈士。文在寅。マザー・テレサ。キング牧師。マルコムX。本田哲郎神父。宇都宮健児。栗原貞子。」
-- [1028] [CITE@ja[イクトスさんは[[Twitter]]を使っています 「@donato8967 これは知りませんでした。ご教示ありがとうございます。 滋賀県日野町にある「鬼室神社」ですね。 この案内文によれば、百済(韓国)から渡来した多数の渡来人の中の優れた文化人であった鬼室集斯という高官の墓がこの神社にあるところからこの社名が付けられました。 https://t.co/HcEfZ69MiZ」 / Twitter]], 午前7:30 · 2020年11月12日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T02:52:48.000Z]] <https://twitter.com/PachelbelCanonD/status/1326653656943374336>
]REFS]

[861] 
[[平成時代]]のブログ
「これが本物かどうか長い間論争がありましたが、ほぼ間違いありません。。」
「論争の結果、鎌倉時代であろうと。鬼室の子孫たちが後に作りました。これは飛鳥時代から鎌倉時代まで、彼らが先祖の功績を伝えてきたことを意味します。」
[SRC[>>29]]



[1071] [CITE@en[File:Kwisil Shrine2.jpg - Wikimedia Commons]], [TIME[2021-03-29T03:38:39.000Z]], [TIME[2021-04-12T03:38:42.485Z]] <https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kwisil_Shrine2.jpg>

[1076] [CITE@ja[【しが】農村の魅力発信!:鬼室神社]], [TIME[2021-04-12T03:42:35.000Z]] <https://shigamiryoku.shiga-saku.net/e685191.html>

[1075] [CITE@ja[おはら野国‐大統領はハナさんはTwitterを使っています 「滋賀・日野にある鬼室神社に行って来た2012.8.14。神社の写真はググッてもらうとして、鳥居から小野(この)集落を望んだ。昔、半島からこの地に移り住んだ人たちが見た風景と変わらないだろう(違うのは田が圃場整備されたことと電柱か)里山 http://t.co/oJkJO7lH」 / Twitter]], 午後9:29 · 2012年8月17日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:39:37.000Z]] <https://twitter.com/owaranoT/status/236439524182462465>


[1073] [CITE@ja[JKDogmanさんはTwitterを使っています 「石塔寺の住職に伺った渡来人由来の場所、日野町にある鬼室神社 귀실신사を訪問。今度、扶余に行った時には福信将軍 귀실복신장군 をチェックしなくては。 http://t.co/EF1J6GN9Nq」 / Twitter]], 午後5:36 · 2013年8月18日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:39:04.000Z]] <https://twitter.com/jkdogman/status/369014931179327489>

[1072] [CITE@ja[ナリサワさんはTwitterを使っています 「鬼室神社のご神体が気になる。誰か行った人いるだろうか。八日市インターから15分くらい走った左手に看板出てくるあそこだ。 http://t.co/06UojkpWXW」 / Twitter]], 午後10:41 · 2013年12月22日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:37:28.000Z]] <https://twitter.com/narusawasan/status/414752530443141120>

[1070] [CITE@ja[あんのすけさんはTwitterを使っています 「地元の鬼室神社にて まさかこんなとこに鬼室が あるとは・・・ てか普通の人興味ない(¯▽¯) たぶん明日香時代だったような・・・ http://t.co/hwIiyqP2jh」 / Twitter]], 午後5:05 · 2014年10月26日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:35:55.000Z]] <https://twitter.com/annosuke1980/status/526283447166189568>

[1044] [CITE@ja[普通のNYAN 國場 結いまーる〈チーム沖縄〉さんはTwitterを使っています 「滋賀県 鬼室神社 7世紀の百済からの渡来人 鬼室集斯の墓碑があることから 韓国との繋がりがある… とは言え日本の神社で ここまでするのか http://t.co/AfRbh7zdTD」 / Twitter]], 午後4:30 · 2014年12月24日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:08:25.000Z]] <https://twitter.com/MARINA89583987/status/547655441044357120>

[1069] [CITE@ja[あんのすけさんはTwitterを使っています 「鎌掛小出て日野城寄って鬼室神社寄ってで風きつくて鎌掛小でしか撮れなかったorzどうせ人おらんし近くだし又娘と撮りにこよう(´ω`) http://t.co/jwiFpjdBaQ」 / Twitter]], 午後4:21 · 2015年5月10日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:31:00.000Z]] <https://twitter.com/annosuke1980/status/597300318737600512>

- [1067] [CITE@ja[エビログnews_headlineさんはTwitterを使っています 「【滋賀】鬼室神社で在日コリアンの舞踏家が踊り、キムチ鍋を食べて日韓交流 '''['''エビログ''']'''http://t.co/n706W0b8VT」 / Twitter]], 午前8:40 · 2015年7月29日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:29:20.000Z]] <https://twitter.com/ebilog_newsbot/status/626175314557730816>
-- [1068] [[5ch]] の[[過去ログ]]に該当スレ現存せず不明
[TIME[2021-04-12T03:35:49.500Z]]

[1066] [CITE@ja[うまはにわさんはTwitterを使っています 「今、鬼室神社に来ています。韓国式テラスがステキでした http://t.co/aVms5ygHt4」 / Twitter]], 午後2:29 · 2015年10月7日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:27:03.000Z]] <https://twitter.com/q8AaOUq1YB5Tc12/status/651630434875342848>


[1064] [CITE@ja[木梨よこみちさんはTwitterを使っています 「夜の鬼室神社。 明るいとき再度いく https://t.co/ecNmTzK2wO」 / Twitter]], 午後11:37 · 2017年1月4日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:25:28.000Z]] <https://twitter.com/takotokaze/status/816654773789147136>

- [1062] [CITE@ja[ピゾナさんはTwitterを使っています 「百済から渡って来た人が建てたとされる鬼室神社。古代朝鮮半島にも神道があった=倭国と文化を共有していたということの傍証。 https://t.co/goZOEUki8u」 / Twitter]], 午前2:30 · 2017年8月29日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:23:32.000Z]] <https://twitter.com/pizonat/status/902221748170514432>
-- [1063] [CITE@ja[ピゾナさんはTwitterを使っています 「鬼室神社については韓国の人は、韓国が日本に文化を伝えたのだという観点から見ているのかもしれないが、あくまでどっちが上とか先とかではなく、百済と倭国が文化を共有していたというフラットな観点に立ってほしいのだが、それはそれで難しいのだろう。」 / Twitter]], 午前2:46 · 2017年8月29日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:23:32.000Z]] <https://twitter.com/pizonat/status/902225778166734848>



[1041] [CITE@ja[風来無頼人さんはTwitterを使っています 「@akhila7 わが故郷。大津京の天智天皇御代7世紀に、初代学識頭(文科大臣)に半島から鬼室集斯(きしつしゅうし)氏を招く。茅屋から間近の湖東市日野町小野の彼を祀る鬼室神社は、今も学業の神さま。半島国家と大和の民は永らくの深遠な関係。成り上がり米国とは違い、大事にせにゃ。”万歳”とはおめでたい。」 / Twitter]], 午後5:32 · 2017年9月23日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:05:17.000Z]] <https://twitter.com/huraiburaijin/status/911508471345901568>


[1037] [CITE@ja[高橋御山人@邪神大神宮さんはTwitterを使っています 「近江朝時代に百済より渡来した鬼室集斯を祀る鬼室神社(滋賀県日野町) #神社 #渡来人 #百済 #滋賀 https://t.co/WA5ThQY7TS」 / Twitter]], 午後8:52 · 2018年11月23日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:02:34.000Z]] <https://twitter.com/jyashinnet/status/1065936007307026432>

[1036] [CITE@ja[みっつたぬきさんはTwitterを使っています 「鬼室神社 鬼室集斯は百済の帰化人で日本書記に書かれている人物で700人余りともに近江蒲生郡に移住したとされています。司馬遼太郎の街道を行くにも紹介されていたような気がします。昔の半島のシトは先進技術を伝え我が國に貢献していたのに今はあかんですね! https://t.co/rfeCWmVWVm」 / Twitter]], 午後5:58 · 2019年1月5日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:02:10.000Z]] <https://twitter.com/mittutanuki/status/1081475008076034048>


[1061] [CITE@ja[タリスカーさんはTwitterを使っています 「鬼室神社から竜王山を望む https://t.co/74labKd8rp」 / Twitter]], 午後0:44 · 2019年2月3日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:20:58.000Z]] <https://twitter.com/talisker12/status/1091905252964556800>

[1034] [CITE@ja[真庭ふしぎ@風来人さんはTwitterを使っています 「鬼室神社。百済復興の抵抗運動を行っていた百済王族、鬼室福信の子の鬼室集斯を祀る神社である。鬼室一族は百済滅亡後に日本に亡命した。 https://t.co/fpnUvXXwFp」 / Twitter]], 午後8:54 · 2019年2月16日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:01:17.000Z]] <https://twitter.com/fusigi_plants/status/1096739505338441728>

- [1296] [CITE@ja[mtgAdhbさんはTwitterを使っています 「京、近江にも百済系の名残の地名や寺が多いですね。 もともと同族だったから受け入れられたんでしょう。」 / Twitter]], 午前0:09 · 2019年5月22日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-05-30T11:29:06.000Z]] <https://twitter.com/sawa890/status/1130853162766589952>
--[1054] [CITE@ja[mtgAdhbさんはTwitterを使っています 「そうでなければ、寺はともかく、百済からの亡命者を日本古来の神道により鬼室神社として祀る訳がないとおもうがどうだろう。」 / Twitter]], 午前0:17 · 2019年5月22日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:18:43.000Z]] <https://twitter.com/sawa890/status/1130855229811912710>




[1053] [CITE@ja[矢島直樹さんはTwitterを使っています 「滋賀県日野町の鬼室神社。びっくりするくらい、小さかった。渡来してきた人がこんな田舎に縁があるとはね! https://t.co/suhOCJ7gfm」 / Twitter]], 午後8:07 · 2019年8月31日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:17:26.000Z]] <https://twitter.com/donato8967/status/1167755746253033472>

- [1032] [CITE@ja[寝好きさんはTwitterを使っています 「その次、鬼室神社 鬼室集斯という渡来人を祀っている神社 https://t.co/hy03QNpdok」 / Twitter]], 午後10:55 · 2019年11月26日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T02:55:59.000Z]] <https://twitter.com/riuha1000/status/1199325793261776897>

[1051] [CITE@ja[なぐさんはTwitterを使っています 「前から気になってた神社。案内板にハングル文字が書かれてるから「なんでやろ?」と思ってた。渡来人由来なんやね。 #鬼室神社 #きしつじんじゃ https://t.co/g3nRp0t9n2」 / Twitter]], 午後3:18 · 2020年8月12日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:15:14.000Z]] <https://twitter.com/nag1967nag/status/1293431604673572865>

[1050] [CITE@ja[滋賀県 鬼室神社 韓国の神社 - 寺社仏閣の歴史と観光 政治・経済・文学 ・ 健康]], [TIME[2021-04-12T03:16:02.000Z]] <http://tabikoramu.muragon.com/entry/590.html>

[1049] [CITE@ja[makikoさんはTwitterを使っています 「鬼室神社☺️ 標識が出てたので、行ってみた(笑) あれ・・・🤣 調べると歴史のある神社でした😊 境内に咲いてた木槿が綺麗でした💕超久しぶりに見たアマガエルに ひとり興奮してしまった😅 #鬼室神社 #アマガエル https://t.co/kEqbaVHECZ」 / Twitter]], 午前6:58 · 2020年9月12日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:14:46.000Z]] <https://twitter.com/makiko97497208/status/1304539866735104000>

[1048] [CITE@ja[プルプルけいこさんはTwitterを使っています 「鬼室神社〜!! https://t.co/c6m46kEtjD」 / Twitter]], 午後4:01 · 2020年10月25日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:14:19.000Z]] <https://twitter.com/pomo1971094/status/1320259235557429249>

[1047] [CITE@ja[きりんこさんはTwitterを使っています 「鬼室神社 https://t.co/Q5dpWnnGvX」 / Twitter]], 午後6:22 · 2020年10月25日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:12:07.000Z]] <https://twitter.com/loJC73gw63tGKeE/status/1320294731297873920>

- [1031] [CITE@ja[三好妙心さんはTwitterを使っています 「鬼室神社。百済国の貴族、鬼室集斯の墓碑が伝わる。 鬼室集斯は百済復興の運動家である鬼室福信の子で、白村江の戦いの後に日本に渡来、近江国蒲生郡に土地を与えられ百済人七百人と共に移り住んだ。 日本文化形成には渡来人の貢献が欠かせなかった。近江には渡来人に与えられた土地が多数ある。 https://t.co/uVyYgz9m3A」 / Twitter]], 午後0:07 · 2020年11月4日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T02:53:05.000Z]] <https://twitter.com/miyo_photo/status/1323824146480918529>



-*-*-

[1294] 
もちろん[[「公式」の説明][大本営発表]]を鵜呑みにする人ばかりではありません。
疑問を持って調査した結果を[[ブログ]]にまとめた人達もいました
[SRC[>>915, >>986, >>23]]。

[1295] 
[CITE[ウィキペディア]]にも墓碑の不審な点が記載されました
[SRC[>>2114, >>2102]]。
ただし[[鬼室集斯]]の没年を「?」付きながらも墓碑の日付を採用していました
[SRC[>>2102]]。

[859] 
その他、
墓碑は11世紀以降 [SRC[>>25]],
中世以降 [SRC[>>841]],
はるか後年 [SRC[>>22]]
に[[鬼室集斯]]の子孫が作ったもの [SRC[>>25, >>841]]
など、出典は不明ながら、墓碑の不審な点に触れつつ紹介した記事
[SRC[>>32]] もありました。


[REFS[

- [25] [CITE@ja[東近江 [[鬼室神社]] : ゲ ジ デ ジ 通 信]], [[dendoroubik]], 
2009年 03月 09日,
[TIME[2020-06-17 17:32:17 +09:00]] <https://gejideji.exblog.jp/11063884/>
-- 「撮影日 09年3月」
- [915] [CITE[なにがなにやら |【[[鬼室神社]]01】発端]], [[ざる]], [TIME[2021-04-11T05:53:42.000Z]], [TIME[2021-04-11T05:53:56.751Z]] <http://zaru3386.blog.fc2.com/blog-entry-62.html>
-- [930] [CITE[なにがなにやら |【[[鬼室神社]]02】問い合わせ]], [[ざる]], [TIME[2021-04-11T06:26:20.000Z]], [TIME[2021-04-11T06:26:23.116Z]] <http://zaru3386.blog.fc2.com/blog-entry-61.html>
-- [2126] [CITE[なにがなにやら |【[[鬼室神社]]03】『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』より]], [[ざる]], 
2011-08-28,
[TIME[2020-06-16 14:41:56 +09:00]] <http://zaru3386.blog.fc2.com/blog-entry-63.html>
--- [2127] 引用: [CITE[近江・若狭・越前 寺院神社大事典]]
---- [941] [CITE@ja-jp[近江・若狭・越前 寺院神社大事典 | [[平凡社]] |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2021-04-11T06:48:42.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582134033/wakaba1-22/>
-- [945] [CITE[なにがなにやら |【[[鬼室神社]]04】『近江朝と渡来人』より]], [[ざる]], [TIME[2021-04-11T06:56:19.000Z]], [TIME[2021-04-11T06:56:31.795Z]] <http://zaru3386.blog.fc2.com/blog-entry-64.html>
-- [946] [CITE[なにがなにやら |【[[鬼室神社]]05】『近江日野の歴史』第1巻より]], [[ざる]], [TIME[2021-04-11T06:58:13.000Z]], [TIME[2021-04-11T06:58:16.273Z]] <http://zaru3386.blog.fc2.com/blog-entry-65.html>
--- [947] 引用:
[CITE[近江日野の歴史]] 第1巻 自然・古代編,
[TIME[2005]]
-- [2129] [CITE[なにがなにやら |【[[鬼室神社]]06】神社リーフレット]], [[ざる]], 
2011-08-29,
[TIME[2020-06-16 14:43:12 +09:00]] <http://zaru3386.blog.fc2.com/blog-entry-66.html>
-- [964] [CITE[なにがなにやら |【[[鬼室神社]]07】鬼室集斯小伝_1]], [[ざる]], [TIME[2021-04-11T07:41:58.000Z]], [TIME[2021-04-11T07:42:03.853Z]] <http://zaru3386.blog.fc2.com/blog-entry-67.html>
--- [965] 
引用:
新日野新聞社創刊四〇[ASIS[執念][(周年)]]記念誌
日韓友好親善のための
鬼室集斯小伝,
[[瀬川欣一]]著, 
[[新日野新聞社]]
-- [966] [CITE[なにがなにやら |【[[鬼室神社]]08】鬼室集斯小伝_2]], [[ざる]], [TIME[2021-04-11T07:44:42.000Z]], [TIME[2021-04-11T07:44:45.631Z]] <http://zaru3386.blog.fc2.com/blog-entry-68.html>
-- [967] [CITE[なにがなにやら |【[[鬼室神社]]09】鬼室集斯小伝_3]], [[ざる]], [TIME[2021-04-11T07:47:04.000Z]], [TIME[2021-04-11T07:47:08.796Z]] <http://zaru3386.blog.fc2.com/blog-entry-69.html>
- [986] [CITE@ja[[[鬼室神社]]1|そもそも鬼室神社とは - ハムスターの日本史研究所]], [[hyperhamster]], 
2015/01/14 18:30,
[TIME[2021-04-11T08:59:08.000Z]], [TIME[2021-04-11T08:59:11.809Z]] <http://hyperhamster.blog.fc2.com/blog-entry-76.html>
-- [2] [CITE@ja[[[鬼室神社]]2|墓碑の真贋を、諸史料をもとに検証 - ハムスターの日本史研究所]], [[hyperhamster]], 
2015/01/14 18:47 ,
[TIME[2020-06-16 14:54:46 +09:00]] <http://hyperhamster.blog.fc2.com/blog-entry-77.html>
--- [87] 引用: >>60
-- [1003] [CITE@ja[[[鬼室神社]]3|現時点での見解 - ハムスターの日本史研究所]], [[hyperhamster]], [TIME[2021-04-11T08:58:48.000Z]], [TIME[2021-04-11T09:37:41.511Z]] <http://hyperhamster.blog.fc2.com/blog-entry-78.html>
-- [1005] [CITE@ja[[[鬼室神社]]4|[[財団法人滋賀文化財保護協会]]の見解 - ハムスターの日本史研究所]], [[hyperhamster]], [TIME[2021-04-11T09:38:48.000Z]], [TIME[2021-04-11T09:38:52.606Z]] <http://hyperhamster.blog.fc2.com/blog-entry-80.html>
- [2102] [CITE@ja[[[鬼室集斯]] - Wikipedia]], [TIME[2020-06-02 14:18:45 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%AE%A4%E9%9B%86%E6%96%AF>
-- [2118] 引用: >>60
- [2114] [CITE@ja[[[鬼室神社]] - Wikipedia]], [TIME[2020-06-01 11:20:43 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%AE%A4%E7%A5%9E%E7%A4%BE>
-- [2122] 引用: >>60
- [23] [CITE@ja[旅 527 [[鬼室神社]](1): ハッシー27のブログ]], 
2016年04月07日,
[TIME[2020-06-17 17:28:12 +09:00]] <https://09270927.at.webry.info/201604/article_4.html>
-- 「2015年 8月23日」
-- [24] <https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/021/409/58/N000/000/022/146000558903818475180.jpg>
-- [900] [CITE@ja[旅 528 [[鬼室神社]](2): ハッシー27のブログ]], [TIME[2021-04-11T05:32:52.000Z]] <https://09270927.at.webry.info/201604/article_5.html>
- [22] [CITE[「流浪の画家」の隆くん: 〇4/8(金)滋賀県蒲生郡日野町大字小野(この)「鬼室神社」 渡来朝鮮族(百済人)高官「[[鬼室集斯]](きしつしゅうし)」を祀る]], 
2016年4月21日木曜日,
[TIME[2020-06-16 17:13:13 +09:00]] <http://takashikun.blogspot.com/2016/04/blog-post_35.html>
- [841] [CITE@ja-JP[古代朝鮮半島とのつながりを示す!滋賀県日野町「鬼室神社」 | [[滋賀県]] | LINEトラベルjp 旅行ガイド]], [[乾口 達司]], 
2019/01/01 訪問,
更新日:2019/03/01 15:00,
[TIME[2021-04-11T02:59:43.000Z]] <https://www.travel.co.jp/guide/article/37060/>
- [32] [CITE@ja[滋賀県日野町 鬼室(きしつ)神社 見学記 百済からの渡来人・[[鬼室集斯]]の墓 | いちご畑よ永遠に(旧 yahoo blog)]], 
2019-07-10 19:05:36,
[TIME[2020-06-17 17:42:25 +09:00]] <https://ameblo.jp/yuutunarutouha/entry-12492504523.html>
-- 「2019年5月13日(月)」
-- [33] [CITE@ja[滋賀県日野町 鬼室(きしつ)神社 見学記 百済からの渡来人・[[鬼室集斯]]の墓の画像]], [TIME[2020-06-17 17:43:23 +09:00]] <https://ameblo.jp/yuutunarutouha/image-12492504523-14498063682.html>
--
[FIG(quote)[ [871] 

>鬼室集斯墓碑の真贋について、胡口靖夫が「近江朝と渡来人-百済鬼室氏を中心として」で考察し、墓碑は室町時代に造立されたとし、「偽銘の蓋然性が高い」としている。
>滋賀文化財保護協会は、「墓碑や記述が作為的に捏造されたものだとしても鬼室集斯と大字小野を結びつける何かがあったからだと考えるべきで、伝承であろうとも鬼室集斯を祭神とした鬼室神社が日野町大字小野にあるという事実だけで十分である。」としている。


]FIG]



]REFS]



[1042] [CITE@ja[とうすけさんはTwitterを使っています 「石洞には鬼室集斯の名が刻まれた石柱が祀られている。真贋のほどは不明だが、偽物の可能性が高いそうな。 https://t.co/OQL42bT4yM」 / Twitter]], 午後4:32 · 2016年8月28日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:06:11.000Z]] <https://twitter.com/ryosangata12/status/769799777626185729>


[1035] [CITE@ja[逆サイドアタックさんはTwitterを使っています 「こちらも司馬遼太郎の街道をゆくに出てくる鬼室神社。 百済からの亡命者・鬼室集斯の墓がある。伝説っぽいらしいけど。 https://t.co/92sbMeipVy」 / Twitter]], 午後11:25 · 2019年1月6日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:01:49.000Z]] <https://twitter.com/torpedlosm0306k/status/1081919761217253377>


- [1059] [CITE@ja[ryookabayashiさんはTwitterを使っています 「鬼室神社。八角柱の「人魚の墓(古代に佐久良川の人魚を殺した角柱墳は別に現存)」は司馬江漢来訪の十余年後百済の鬼室集斯墓と比定。維新後西宮神社となっていた名前も浸透に従い改められた。小さく摩耗し石祠に納められ非公開。刻銘は江漢は読めずと書いたが中世以降の形式。野洲にあった話もある。 https://t.co/Vw67zbukZ8」 / Twitter]], 午後7:28 · 2019年6月28日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:18:03.000Z]] <https://twitter.com/ryookabayashi/status/1144553211912585216>
-- [1060] [CITE@ja[ryookabayashiさんはTwitterを使っています 「角柱の人魚墓のほうはほぼこの形で現存している。日本書紀と結び付けられている。 https://t.co/BoKMYoHuOn」 / Twitter]], 午前0:18 · 2019年6月29日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:18:03.000Z]] <https://twitter.com/ryookabayashi/status/1144626058831921152>



-*-*-


[1074] [CITE@ja-jp[古社巡拝: ―私のこころの神々― | 上田 正昭 |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2021-04-12T03:40:44.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4311203489/wakaba1-22/>

[1038] [CITE@ja[虎子(昼顔)さんはTwitterを使っています 「@pic_naga @pomo1971094 蒲生の『八日市史』によると鬼室神社の近隣にある複数の山神社の祭で性行為の擬似神事が奉納されてたとか。山神自体は日本全土に分布してるんですが山神祭は近江しかも百済人が移住した土地に集中してて、祭日や祭場の様式が韓国のものと似てるらしい。集斯はいったい何を伝えたのか……」 / Twitter]], 午後8:46 · 2018年10月9日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:02:58.000Z]] <https://twitter.com/Calystegia660/status/1049627125379031040>


[1055] [CITE@ja[しがKM310さんはTwitterを使っています 「日野町防災行政無線 鬼室神社 局 https://t.co/GeWtclcEBT」 / Twitter]], 午前9:10 · 2019年2月24日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:19:28.000Z]] <https://twitter.com/uruma0726/status/1099461544692244480>


[1052] [CITE@ja[しがKM310さんはTwitterを使っています 「日野町鬼室神社の子局 修理完了したのだろうか #日野町防災行政無線 #防災資料KM310 https://t.co/zPThUkIsTF」 / Twitter]], 午後2:28 · 2019年12月4日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:16:19.000Z]] <https://twitter.com/uruma0726/status/1202097342733791233>

[1046] [CITE@ja-JP[鬼室神社(蒲生郡 日野町) - YouTube]], [TIME[2021-04-12T03:12:52.000Z]] <https://www.youtube.com/watch?v=pgSLIWJ6_6k>

[1045] [CITE@ja[kyon!!さんはTwitterを使っています 「鬼室神社に来た。風が強い。 https://t.co/5l49CRLnK5」 / Twitter]], 午前11:21 · 2021年3月27日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:10:05.000Z]] <https://twitter.com/kyon_season2/status/1375634030876520452>

[1077] 
令和元年以後写真付きで [CITE[Twitter]] に投稿する訪問者が増えているような?



* 墓碑研究の評価


** 暗黙の否定説

[1305] 
肯定説と違って否定説は明言されるとは限りません。
明白な偽作であるとか、
既に偽作と決着しているという認識の研究者は、
知っていてもわざわざ触れないことがあります。

[112] 
[CITE[寧楽遺文]]
[WEAK[([RUBYB[[[竹内理三]]][[TIME[1907]]-[TIME[1997]]]], [[昭和時代]])]]
や
[CITE[日本の古代金石文]]
[WEAK[([RUBYB[[[岡崎敬]]][[TIME[1923]]-[TIME[1990]]]], [TIME[昭和46(1971)年][1971]])]]
は、
本墓碑を収録していませんでした。
否定的な見解を暗に示したものと解されています。 [SRC[>>90]]

[1306] 
しかしそれは状況証拠からの推測でしかありません。
知っていて無視したのか、
知らなくて書けなかったのか、
第三者にはわかりません。

[1307] 
敢えて触れる価値すら無いと判断したのかもしれませんが、
現に墓碑が存在し、それを真作と信じている人が一定数存在しているにも関わらず、
それに言及しないのは悪手でした。
偽作説を知らない人は、
収録から漏れた新史料と誤解しかねません。

-*-*-

[1308] 
「朱鳥三年」と書かれた本墓碑は、
仮に真作だとすれば[[日本の元号]]史の研究にとっても第一級の史料です。
[[伴信友]]をはじめ近世から近代の研究者は本墓碑を引いて古代の元号を議論していました。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]

[1309] 
しかし現代の元号研究の論文や書籍では本墓碑に言及されることはほとんどありません。
偽作説に従い無視しているのか、
偽作説が通説化して紹介されなくなったため存在を把握していないのかは定かではありません。

[1310] 
そこにつけ込んで専門の研究者が隠蔽する真実の歴史が云々といった[[陰謀論]]が蔓延る一因にもなっています。

-*-*-

[1311] 
このような暗黙的な否定の構造とその弊害は[[偽書]]研究で指摘されるものと同様でしょう。
[SEE[ [[偽書]] ]]


** 「真偽論争」


[987] 
[[平成時代]]以後、
本墓碑について[[江戸時代]]に真贋論争があって、
以後長く論争が続いているとの認識が広まっているようです。
例えば[[平成時代]]の論文が
[WEAK[([[胡口靖夫]]の論文を引いて)]]
[[江戸時代]]から真偽論争があった [SRC[>>743]],
[[ブログ記事]]が銘文発見後真贋論争が起こった [SRC[>>986]],
長い間真贋論争があった [SRC[>>29]]
などと説明していました。
[CITE[ウィキペディア]]は
[WEAK[(詩序と[CITE[近江日野町志]]を引いて)]]
[[西生懐忠]]と[[坂本林平]]の真贋論争があった [SRC[>>2102]]
としていました。

[1006] 
[[昭和時代]]後期から[[平成時代]]初期にかけて諸説が提示され議論が積み重ねられた様は、
短い期間、狭い世界の出来事だったにせよ、
まさしく「真偽論争」「真贋論争」と表現するに相応しい現象だったと思われます。
果たしてそれは[[江戸時代]]にも起こり、近代、現代へと続いてきたものだったのでしょうか。

[1312] 
[[江戸時代]]の[[西生懐忠]]の記録によると、
銘文が解読されるまで
「異説紛々」
でした (>>306)。
その「異説」の詳細まではわかりませんが、
それは銘文が未だ不明な段階の議論ですから、
「真偽論争」
と言うべきものとは思えません。
「真偽論争」
があったというのは銘文解読後だそうですから、
この
「異説紛々」
とは別件です。

[792] 
[[平成時代]]初期の[[日永伊久男]]は、
[[胡口靖夫]]の論文と[[坂本林平]]の証言を引いて、
「発見当初から真偽論争が展開され」
たとしました。 
そして[[胡口靖夫]]の論文とそれに対する反応を引いて、
「思山面との国際交流の盛り上がりと前後して、近年になってこの論争が再燃し」
たものと表現しました。
[SRC[>>2124]]

[417] 
[[昭和時代]]後期の[CITE[東桜谷志]]は、
文化3年の銘文解読当時から真偽論争が
「激しくくり返され」
たとしました。
[SRC[>>1080 p.38]]
本書は[[坂本林平]]の証言を引いていましたが、
繰り返された激しい「論争」は説明も引用もされていないので、
他に何を踏まえてそう書いたのかは不明です。

[1313] 
「論争」の出典として引用されることが多い、
「論争」に言及した現在知られている最古の文献は、
[[胡口靖夫]]の[TIME[昭和54(1979)年][1979]]の論文 [SRC[>>90]]
でした。

-*-*-

[117] 
[[胡口靖夫]]は論文で、
[[江戸時代]]の銘文解読後、

- 否定: [[以文会]] (>>101), [CITE[古京遺文]] (>>105), [CITE[西州投化記]] (>>108)
- 肯定: [[伴信友]] (>>48, >>1820)

が提出されたことを紹介しました。 [SRC[>>90]]

[1314] 
また論文当時すなわち[[昭和時代]]に、

- 否定: [CITE[寧楽遺文]] と [CITE[日本の古代金石文]] (>>112)
- 非否定: [CITE[日本古代人名辞典]] (>>114), [CITE[近江の金石文資料稿本]] (>>115)

があることを紹介しました。
これらをもって、
[[江戸時代]]の「真偽論争」が[[昭和時代]]にまで持ち越され、
未だ歴史的評価が定まっていないとしました。
それが研究の背景となる課題であると論文の冒頭で説明されたのでした。
[SRC[>>90]]

[118] 
こう説明されると、
あたかも[[江戸時代]]に肯定派と否定派の間で論戦が起こり、
両派とも譲らず長年論争が続いてきた懸案かのように錯覚しそうです。
しかし墓碑の研究史を冷静に振り返ると、
それは少々大げさな表現のように感じられます。

[119] 
まず[[江戸時代]]について、
当時真作と肯定したのは発見者の[[西生懐忠]]を除けば、
[[伴信友]]のみしか論文には示されていません。
その[[伴信友]]の著作も刊行されたのは死後、
[[幕末]]か[[近代]]に入ってからでした。

[1315] 
逆に否定したと示された文献も、
偽作だ、疑わしいなどと書いて簡単に済ませているだけで、
その判断の根拠までは示されていません。
積極的に否定したのは[[胡口靖夫]]が当時引用していない[[坂本林平]]くらいですが、
[[坂本林平]]の著作も刊行されたものではなく、
肯定派に届いたかどうか不明です。

[1316] 
つまり現在知られている文献で見る限り、
肯定派に反対派が意見し、それに肯定派が反論する、
といった形の議論が交わされた形跡はありません。
論争というよりは、
世を賑わせたが慎重な学者が多かった、
と評する方が適切に思えます。

[120] [[胡口靖夫]]も当時の論文では「[V[「真偽論争」]]」
とわざわざ括弧付きで書いていました。
論争と書いたのは比喩的表現に過ぎなかったのかもしれません。

[122] [[昭和時代]]当時の状況の記述にも疑問があります。

- [123] 
否定的な例として示されたのは、
いずれも暗黙の否定説 (>>1305)
でした。
- [124] 
否定的でない例として示されたらしい
[CITE[日本古代人名辞典]]
は、
[CITE[大日本金石史]]
から引用していたようです [SRC[>>90]]。
-- [1317] 
[CITE[大日本金石史]] は本墓碑を朱鳥時代のものかは疑わしいと明記していました。
-- [1318] 
[CITE[日本古代人名辞典]]
はそれをどういう扱いで引いていたのかわかりませんが、
当論文 [SRC[>>90]] は何とも書いていないので、
積極的な主張はないと思われます。
- [125] 
否定的でない例として示されたらしい
[CITE[近江の金石文資料稿本]]
は、
引用文を見る限り、
銘文に従っただけで信憑性を検討したものではなさそうです。
-- [1319] 
注記なく掲載したなら、消極的な肯定ではあるのでしょうが。

[1320] これらから確実に言えることは、本墓碑は[[昭和時代]]当時でも一部では知られている、
という程度ではないでしょうか。
強いて言えば真偽の判断が不明瞭な状況が続いているのであって、
それは確かに[[江戸時代]]以来の傾向が継続しており、
改めて検討する価値があるという課題設定は首肯できますが、
「真偽論争」が続いているかのような書き方はいかがなものでしょうか。


[436] 
[[胡口靖夫]]はその後の[[平成時代]]の著書では、
「殊に戦後」は古代史家や地元の郷土史家が江戸時代中期以降の偽造を主張し、
優位説となっていた
[SRC[>>435]]
と説明していました。真偽が不明なままだったという背景理解はどこへいったのでしょうか。


[121] 
実は[[昭和時代]]の論文の後の部分では、
より明確に否定した[[昭和時代]]の文献を引いていました。
更に言えばこの論文は、
より明確に肯定した、または否定した[[明治時代]]や[[大正時代]]の文献も引いていました。
それらを整理して列挙するだけで、
[[江戸時代]]から[[昭和時代]]まで続く「真偽論争」
はより説得力を持って描けたのではないでしょうか。
[[昭和時代]]当時の論文では紙幅の制約もあったかもしれませんが、
[[平成時代]]の新稿を加えた著書に収録する際に、
研究史を俯瞰するような概説を書くべきではなかったでしょうか。

[181] 
研究史を丁寧に眺めれば、
「真偽論争」
の不思議な非対称性も明白になっていたはずです。
すなわち、
[[昭和時代]]までの肯定派は先行する肯定派の業績を称えるばかりで、
否定派の主張をほとんど検討 (どころか言及すら) してきませんでした。
一方の否定派は江戸時代偽造説の状況証拠を重視し、
現地や現物に基づく議論をあまり行ってきませんでした。
偽作だとだけでも書けば良い方で、
存在自体を黙殺した文献も少なくなかったと思われます。
[[江戸時代]]以来、
両派の間で議論が交わされることなく行き違い続けたのが
「真偽論争」
の真の姿だったようです。

[1321] 
それが
「真偽論争」
「真贋論争」
といった言葉で雑にまとめられてしまったために、
いつしか本当に激しい論戦が続けられたように誤解され始めたのでしょう。




** ゆかりある大韓民国

[388] 
[[平成時代]]の[[日野町]]の人々が書いた説明文には、
あたかも[[大韓民国]]が[[百済]]の継承国家であるかのように書かれていました。


[386] 
[[昭和時代]]後期の[CITE[東櫻谷志]]には、
「[V[今の韓国に当る[RUBY[百済国][くだらのくに]]]]」
という記述がありました 
[WEAK[([[朝鮮''半島'']]には他に[[新羅]]、[[高句麗]]もあったことも、すぐ後に書いていました)]]。
[SRC[>>1080 p.37]]
該当部分は[[瀬川欣一]]の執筆とされます。


[920] 
[TIME[平成12(2000)年][2000]]頃の [[Webサイト]] (>>918)
掲載の紹介文では、
「現在の韓国、時の百済(クダラ)国」
とありました。
[SRC[>>917, >>927]]

[387] 
この表現はそれに先立って設置された案内看板や、
その後製作されたパンフレット [SRC[>>949]] のものと同じでした。

[389] 
かくの如き表現は地理的に誤っているとまでは言えません。
しかし[[新羅]]により滅ぼされ[[百済]]の地を追われた[[鬼室集斯]]の記述であることに鑑みれば、
果たしてこれが読者に亡命事情を円滑に理解せしめる解説となり得るものか、
疑問を抱かずにはいられません。

[390] 
[[大韓民国]]との姉妹都市交流という政治的な背景があることを知ってから読み直すと、
どうもこれがそれに都合よくつなげるための説明に見えてしまいます。

;; [1134] 
[TIME[昭和30(1955)年][1955]]頃の由緒では
「[V[当時南朝鮮に国をなす百済]]」
という地名と国名を明確に区別した表現でした
[SRC[>>1133]]。

[1189] 
「国際交流広場」
には[[大韓民国]]様式の[[東屋]]が作られ、
[[大韓民国]]の[[国花]]の[[ムクゲ]]が記念植樹されました
(>>937)。

;; [1190] [[朝鮮人]]と[[ムクゲ]]の関係の始まりはよくわかっていないようですが、
[[新羅]]が[[唐]]に対して自国を
「槿花郷」 (むくげの国)
と称していたようです。

[1322] 
[[日野町]]の観光戦略は一定の成功を収めたようで、
[[平成時代]]に[[鬼室神社]]は[[朝鮮人]]の集まる観光地へと発展しました。


[55] 
[[新羅]]に故郷を追われて逃げてきた[[鬼室集斯]]を祀る神社に、
[[新羅]]の後裔に当たる[[李氏朝鮮]]式建築って、
安住の地を何度でも[[新羅]]で上書きしてやろうって気なん...
鬼畜やなあ

[1191] 
[[鬼室集斯]]と[[百済人]]への敬意はなくて観光の材料としか思ってないんかなあ。寂しいなあ。



** 歴史と信仰と観光と

[692] 
[[大正時代]]の[[木崎愛吉]]は、墓碑を偽作としつつ (>>691) も、
古くから村民の崇敬を受け祭神として祀られている以上、
ただただ神聖視するしかないとの見解を評しました。
[SRC[>>113]]



[1092] 
[[昭和時代]]後期に地元住民が編纂した[CITE[東桜谷志]]は、
墓碑を後世の創作と結論付けた上で、

>
[VRL[
[SNIP[]]しかしこれは、正しく歴史を理解するためのものであって伝承とか信仰など
を毀そうというのではない。

伝承は伝承として継承していかねばならないし、信仰は信仰として崇敬の念を子孫に伝えていかねばならな
いであろう。
]VRL]

... としました。
[SRC[>>1080 pp.46-47]]

[1331] 
日本各地の[[神社]]のほとんどがそこで祀られる[[神]]の墓では無いのと同じように、
[[鬼室神社]]が[[鬼室集斯]]の墓である必然性はありません。
たとえ一時[[鬼室集斯]]の墓と信じられたものが史実通りでないとしても、
[[鬼室集斯]]を祀ってきた人々の思いに嘘はなかったはずです。
偽造と確定したなら評判にはいくらか傷がつくかもしれませんが、
それは信仰の価値とは関係しないことです。

-*-*-

[1334] 
ところが[[平成時代]]、
「信仰」
は地元の人々の心の問題から、
[[日野町]]全体、
[[日本全国]]、
はたまた[[日韓関係]]に関わる大問題へと置き換えられていきました。



[982] 
[CITE[東桜谷志]]編纂を主導した[[瀬川欣一]]は[[平成時代]]に、
「本物であろうと、偽物であろうと、二百年も続いてきた鬼室神社信仰と、その信仰を中軸とした国際交流を進める活動には、何の関係も、何の影響もありません。」
としていました。
[SRC[>>965]]



[983] それは
「いま鬼室神社という社名を掲げております以上は、そこに祀られている神霊は、鬼室集斯その人の神霊であることは申すに及ばず、蒲生郡に住んだ七百余人の霊も、摂津や神崎郡や東国で死んでいった亡命百済人全部の霊が、今は鬼室神社の神霊となっているのです。それが日本人的な信仰の心なのです。」
との理由によるのだそうです。
[SRC[>>965]]


[1100] 
このような独特の信仰が日本全国的なものとは思えませんが、
[[日野町]]では一般的なのでしょうか。
[CITE[東桜谷志]]は、
渡来人が

>
[VRL[
[SNIP[]]産業技術も生活文化も当時の日本のそれとは較べものにならない
ほど高く、人々は進んで混血を希望し
]VRL]

... たので、古代の東桜谷は全国的に見て比較的高い生活文化水準の地域だった
[SRC[>>76 p.48]]
としていました。根拠は不明ですが、
その結果が[[瀬川欣一]]の説く信仰の形なのでしょう。




[1091] 
[[平成時代]]に行政側の立場で墓碑を調査した[[日永伊久男]]は、
報告書 (>>790) 中で次のように述べました。
[SRC[>>2124]]

>[SNIP[]]仮に百歩譲って、墓碑やこの記述が作為的に捏造されたものだとしても鬼室集斯と大字小野を結び付ける何かがあったからだと考えるべきである。それが単なる伝承であろうともよいわけで、鬼室集斯を祭神とした鬼室神社が日野町大字小野にあるという事実だけで十分である。この事実によって大韓民国恩山面と国際交流が成立したのであり、墓碑の真偽
にかかわらず今後も両国のさらなる親交を深めてゆくべきであると考える。

[822] 
どうやら、
墓碑はまさに[[鬼室集斯]]のもので、
辻家過去帳の記述通り[[小野]]に[[鬼室集斯]]の子孫が住む、
というのが[[日永伊久男]]の考えであるようです。
[SEE[ [[小野村]] ]]
一方で偽造説を否定するに十分な根拠も[[日永伊久男]]の調査の範囲では得られなかったため、
行政機関の研究担当者として斯くの如き苦し紛れの弁明を盛り込まざるを得なかったのでしょう。

[1304] 
[TIME[2010-05-23]]付新聞記事で[[財団法人滋賀県文化財保護協会]]の[[堀真人]]も同様の見解を発表しました
[SRC[>>1297]]。

- [1039] [CITE@ja[プチさんはTwitterを使っています 「今日は百済の旅です。鬼室集斯にとって、ここ日野町小野の小さな谷は故郷に似てたのかもしれません。西には琵琶湖を越えて比良山系が見え、東には竜王山とその向こうに御在所岳があります。 https://t.co/NYHT6RtcCs」 / Twitter]], 午後4:48 · 2017年10月26日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:05:13.000Z]] <https://twitter.com/tubamego/status/923456346019655681>
-- [1040] [CITE@ja[プチさんはTwitterを使っています 「鬼室神社と集斯の墓石については滋賀県文化財保護協会のコレに同意です→「仮に百歩譲って、墓碑やこの記述が作為的に捏造されたものだとしても鬼室集斯と大字小野を結びつける何かがあったからだと考えるべきである」。1400年を経て小野の皆さんが考える日韓交流こそ原点だと思います。 https://t.co/vLu3ZPyu1C」 / Twitter]], 午後5:03 · 2017年10月26日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:03:38.000Z]] <https://twitter.com/tubamego/status/923460005348511744>

-*-*-

[1332] 
こうして信仰の正当性を盾に史実を軽視し[[町おこし]]を推進する姿勢には、
疑問の声も少なくありません。

[897] 
[[平成時代]]の[[ブログ]]記事によると、

> 何れにしても現在ここに鬼室神社があり、鬼室王の伝承を伝え、鬼室集斯の墓を守ってきた人々がいることが大切なことで、真実を明らかにすることが求められている訳ではないようだ。
> そして、鬼室集斯の墓が発端になって大韓民国恩山面と国際交流が始まり姉妹都市提携に至っている。今更、鬼室集斯の墓は本物ではありませんでしたとは言えない。
> 一方、姉妹都市提携の大元になった鬼室集斯の墓の真偽がはっきりしないでいいのかという意見もある。偽りの墓で始まったのであれば、相手を騙したことになる。

... という状況であるようです [SRC[>>23]]。何らかの資料から関係者の見解を拾ったのか、
著者の感想なのかはっきりしませんが。

[939] 
[[平成時代]]の[[Webサイト]]は、

>この種のものは作ってしまった方が勝ちで、「火のない所に煙りは立たず」でいかにも信憑性を益してくるもの。

と辛辣な評価を下しました。
[SRC[>>933]]

[993] 
[[平成時代]]のブログ記事は、

>
観光地が欲しい、という政治的な理由である。
姉妹都市との交流という名目で、税金で海外旅行がしたい、という欲望である。
地元に有名人がほしい、という虚栄心である。
西宮神社が鬼室集斯を取り込んでいく過程を見ると、政治の介在を強く感じるのである。

... と指摘しました。 [SRC[>>986]]



[898] 
[[平成時代]]のブログ記事は、

>神社が誰を祭神にしようが勝手だが、八角石柱が歴史的遺物であるとされるのであれば、歴史は嘘を語ってはいけない。

... と指摘しました。 [SRC[>>23]]

[1333] 
観光案内や訪問者の感想等を見れば、
研究の蓄積を無視して墓碑が史実であると既成事実化が進行(信仰)しているのは明らかです。
その反面、学術的な研究は停滞しています。
もしそれが観光や国際交流に差し障る異論を認めない空気感に起因するのであれば、
問題ではないでしょうか。
[[昭和時代]]の初期に日本古代史の研究が[[政治的]]に困難になった[[過ち][黒歴史]]は繰り返されるべきではありません。

[1337] 
そもそも歴史を生かして[[町おこし]]するのなら、
まずは前提となる歴史的経緯を検証するのが筋ではないでしょうか。
驚くべきことに、
[[昭和時代]]の神社名改称と[[祭神]]変更の経緯すら、
行政側は把握していませんでした (>>944)。
まだ当時の関係者が生存していたはずなのに、
聞き取り調査しようとした形跡すら見られません。

[1338] 
[TIME[平成6(1994)年][1994]]時点では[[日永伊久男]]が調査していた (>>789)
はずですが、それも公開されたのは墓碑の測定結果だけでした。
社殿や周辺の遺構の調査、
旧家所蔵文書や関係する幕府・藩の文書の蒐集など、
神社と墓碑の性格を評価するため当然行われるべき基礎的な研究すら取り組まれた形跡がありません。
不都合な調査結果が出るのを恐れて調査を打ち切ったと[[陰謀論]]が捗ってもやむ無しでしょうか。


[1043] [CITE@ja[甘木水町さんはTwitterを使っています 「鬼室神社1|そもそも鬼室神社とは https://t.co/UtWzZpMkXV 滋賀県日野の鬼室神社は、百済から日本に帰化した鬼室集斯の墓碑があるそうだけど、江戸時代からの捏造らしい。日韓友好という正しさの為なら、歴史的な真贋はどうでもいい、というのは江戸しぐさと同じ。」 / Twitter]], 午後3:23 · 2016年3月26日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:07:28.000Z]] <https://twitter.com/mizumachi_shin1/status/713612238620196864>


[1335] 
[[偽史]]による[[町おこし]]については、
[[馬部隆弘]]が指摘した[[日本国]][[大阪府]][[枚方市]]の事例が有名になりました。
[[枚方市]]とは[[百済]]つながりで[[日野町]]とも交流があったようです。

[1336] 
そして[[枚方市]]の事例ほど有名ではないものの、
[[鬼室神社]]も[[偽史]]の代名詞的存在として知られるようになってきている様子が
[[SNS]] から窺えます。
無名より悪名、これでも[[町おこし]]は成功したといえるのでしょうかね?


[1065] [CITE@ja[ひらっち(クラシカルP)さんはTwitterを使っています 「「行政の都合で検証に耐えない伝承をでっち上げる」という点では滋賀の鬼室神社の構図に近いような。 https://t.co/urKHWVCBrw」 / Twitter]], 午前2:18 · 2016年7月21日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:26:35.000Z]] <https://twitter.com/hiratti_classic/status/755814099032825856>

- [1056] [CITE@ja[ススミハジメさんはTwitterを使っています 「しかし、偽書などを信じた地域と史実的な指摘でこじれたケース、お隣の国的な要素も混じって複雑化してるの、滋賀県の日野にある鬼室神社(鬼室集斯の墓)を思い出すなど。あれも偽銘である可能性が極めて高いけど、地域的には突っ張ってるからね。https://t.co/ZH9Xpp6Xjo」 / Twitter]], 午前4:07 · 2019年2月20日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:20:19.000Z]] <https://twitter.com/susumi_hajime/status/1097935770378072064>
-- [1057] [CITE@ja[ススミハジメさんはTwitterを使っています 「よく考えると鎌倉から室町にかけて、仏教などに仮託やら渡来物だといって多くの偽書呪術書が創作されたが、あれも様々に必要なケースに応じてだったろうし、漢籍など知識を得やすい僧籍関係の人物なら、ちょっとひねって偽銘を作ることなど容易ではないか、と自然に考えられる。」 / Twitter]], 午前4:17 · 2019年2月20日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:20:19.000Z]] <https://twitter.com/susumi_hajime/status/1097938257998839809>
-- [1058] [CITE@ja[ススミハジメさんはTwitterを使っています 「一方、往時の人魚塚と呼ばれていた頃の石碑の伝説や民話はとうに失われてしまっているわけで、そうした物語の喪失のほうが寂しさを感じるな。山間の、ぽつんとしたところに人魚塚――そちらのほうが、個人的にそそるものがある。」 / Twitter]], 午前4:23 · 2019年2月20日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-04-12T03:20:19.000Z]] <https://twitter.com/susumi_hajime/status/1097939856016138240>

** 神社と墓碑の起源解明に向けて

[1] 
本ページの各節でたびたび述べたように、当神社と墓碑については、
まだまだ分からないことが多すぎます。
基礎的な事実確認すら十分に行われていないと評さざるを得ません。

[592] 
墓碑の真偽論争のため特定の人物や文献ばかりに注目が集まり、
考古学的な調査も文献学的な調査もなおざりにされているように思われます (>>338)。
断片的に知られる神社の起源伝承にも注意が向けられていません。

[593] 
「墓」と主張されるものであるにも関わらず、[[墓制]]の研究がほとんど (>>246)
欠けているのも不思議なことです。珍しい形という印象ばかりが先走り (>>505)、
既知の石造物の歴史の中に位置付けることにも成功していません。
もし既存の類型に当てはめられるなら、その系統のものである可能性が高くなります。
もし既知のどれとも本当に似ても似つかないのだとしたら、
貴重な文化財なのですから、もっと手厚く保護して研究しなければなりません。


* 関連する遺構

** 人魚塚

[SEE[ >>584 ]] 

** 市辺古墳群

[377] 
[[日本国]][[滋賀県]][[東近江市]][[市辺古墳群]][[東市辺一号墳]] 
([[市辺コボシ塚]], [[壊塚]]) は、
[[江戸時代]]に[[鬼室集斯]]墳墓とする説がありました [SRC[>>361]]
(>>765)。

[666] 
[[江戸時代]]に墓碑が発見されました。 [SRC[>>41]]

[667] 
[[伴信友]]は[[鬼室集斯]]の一族の墓と推測しました。 [SRC[>>41]]

[378] 現在は[[磐坂市辺押磐皇子]]墓として[[宮内庁]]が管理している[[古墳]]です。

[379] 
[[古墳時代]]と見られること、
[[鬼室集斯]]の官位に対して規模が大きすぎることから、
[[鬼室集斯]]墓の可能性は否定されています。
[SRC[>>360]]

** 石塔寺

[380] 
[[日本国]][[滋賀県]][[東近江市]][[石塔寺]]大塔 (石造三重塔) は、
[[江戸時代]]に[[鬼室集斯]]廟とする説がありました [SRC[>>362]]
(>>765)。

[381] 
[[石塔寺]]の創設に[[百済人]]の関与があった可能性はありますが、
仏塔や墓制の発達史に照らしてこれが[[鬼室集斯]]の墓とは考えにくいとされます。
また石造三重塔は[[平安時代]]中期の創建とする説が議論されています。
[SRC[>>360]]

[408] 
逆に、発達史によれば、かかる伝承は中世に成立したものと推測されます。
[SRC[>>360]]


** 篠原

[775]
[[日本]][[近江国]][[野洲郡]][RUBY[篠原][しのはら]]に、
[[鬼室集斯]]墓碑があったとする説があります。
しかし根拠となる資料は[[偽書]]とみられています。
[SEE[ [[野洲郡大篠原鬼室集斯墓碑]] ]]



** 鬼室王女墓

[SEE[ [[鬼室王女墓]] ]]


* メモ

